外道記 改 3



                   
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 玄関のドアを開けると、アンモニアと、肉が腐ったような臭いが混じった刺激臭が鼻をつく。六畳一間の中に、流しとテレビ、冷蔵庫が一つずつしかない殺風景な空間の中、長年汗を吸い続けて茶色くなり、カバーが破けて綿がはみ出したボロ布団にくるまって高いびきをかいているのは、四十四歳の内妻、ゆかりであった。

 シミ、つぎはぎだらけの寝間着からはみ出した鏡餅のような腹。腐りかけた大根のような足に生える、カビみたいな濃いすね毛。髪の毛は汗と脂でべたつき、鈍い光沢を放っている。雷のようなでかいいびきを発する口からは涎が糸を引き、豚のように上を向いた鼻の孔から飛び出た鼻毛の先には、スナック菓子のカスのような鼻くそがこびりついており、鼻息にそよいでいる。

 ペニスに血液が充満する。俺はゆかりのブス顔を叩いて、まどろみの中から引きずり出した。

「んっ・・・あっ・・・おかえりなさい」

 接着剤のようになっていた目やにが剥がれ、腫れぼったい瞼の奥から、濁った瞳がのぞく。声とともに牛乳が腐ったような口臭が吐き出されるが、この真夏に二週間は風呂に入っていない身体から立ち上る、汗と角質化した皮膚の臭いの中では、さほど気にならない。

「脱げよ・・・いや待て」

 ここ一か月は、もう一着しかない俺のお古の服を着まわさせていたが、「収入源」を得た今なら、服を無理やり引き裂くことを躊躇する必要はなかった。こうするとレイプをしているようで、興奮の度合いが倍増するのである。

 寝間着の破れ目からナンのような乳房が弾力無く零れ落ちたのを見て、俺のペニスは伝説の剛剣の硬度を獲得する。パンティも脱がすと、汗と垢の臭いに、血液と糞小便の臭いが加わった。
 俺も服を脱ぎ、不潔なゆかりの身体に、自らの裸体を重ね合わせた。出会ってから二年、疲れていようが熱が出ようが、一晩たりとて欠かさぬ情事の始まりである。


 
 忘れもしない、二年前のあの日。当時、俺は埼玉の工場に派遣されており、今と変わらぬギリギリの生活を送っていた。相変わらず女もおらず、風俗にも行けず、たぎる性欲を持て余し、そろそろひと思いに、適当な女を強姦して、刑務所でもどこでも行ってやろうかと悶々としていたとき、ゆかりが同じ工場へと派遣されてきた。

 ゆかりがまともでないことは一目でわかった。絶えずわけのわからない独り言をもごもごと呟き、勤務中だろうが勝手に飲食をする。風呂に何日も入っていないのか、近くに寄るたびに豚小屋のような臭いがする。昼休みになると、持ち込んだ油粘土で人形を作って、ままごとをやり始める謎の習性もあった。

 こんな女を雇い入れる派遣会社も派遣会社だが、社会に放り出す家族も家族である。知的か発達か精神か、ゆかりの頭に何らかの障害があるのは明らかだったが、ゆかりの親は、自分たちが死んだとき、ゆかりがどうにかして健常者の世界についていけるように、今からでも社会経験を積ませようと、派遣会社の寮に半ば無理やり押し込んだのだという。

 親のエゴのせいでゆかりも随分苦しい人生を歩んできたようだが、そんな事情は俺の知ったところではない。俺は俺で、切実な性欲のはけ口としてゆかりの肉体に価値を見出し、派遣先を三日でクビになり、行くあてのなくなったゆかりに、同棲を持ちかけた。

――なあ、お姉さん、行くところないんだろう?俺と一緒に住まないか。あんたは働かなくていい。俺が頑張って稼ぐ。俺があんたを幸せにするよ。

 これまでの人生で、親以外の他人から温かみを受けたことがまったくなかったゆかりは、この一言でもう参ってしまった。ゆかりは俺に言われるがまま、その日のうちに派遣会社そのものを退職し、俺の部屋に移住したのである。

 四十二にして処女だったゆかりは、初めて知った男の味に病みつきになった。一人でいる間は、昼も夜もなく股間をまさぐっているようで、俺が仕事から帰ってくると、む~んと生魚の臭いを漂わせながら摺り寄り、ペニスを求めてくるようになったのである。

 下半身で繋ぎ止めると同時に、俺はゆかりが完全に俺から逃げられなくなるよう手を打った。もともと厳しい躾のせいで両親との関係がよくなかったゆかりに、両親はお前を憎んでいる、実家に帰ったら殺されると吹き込んで、自ら両親に絶縁を申し出る電話をかけさせ、実家との関係を断たせたのである。

 こうしてしまえば、あとは俺の思うがままであった。俺はようやく手に入れた念願の女体を、性欲のはけ口としてだけではなく、虐待してストレス発散にも使うようになった。

 俺は女に対する愛情は人並みに持つことができたが、相手は四十女の外見に、十歳レベルの知的能力しかもたないという生物である。働きもせず、家事もしようとしない。自分の要求ばかりで、俺のことを敬うわけでもなく、俺という人間のペニスにしか興味がない。

 会話の通じない生物でも、犬や猫、あるいは子供ならば可愛がれるのは、もともと、そういう生物だからである。大人の女には大人の女に相応しい期待値というものがあり、それに大きく及ばないというのであれば、愛情など持てるはずもなく、道具並みに扱うしかない。

 それでも、メシをやって生活の面倒を見ているだけ、マシというものである。生みの親以外で、こんなグロテスクな生物を飼ってやろうなどと考えられるのは、俺くらいしかいないだろう。ゆかりは俺を恨むどころから、穴さえあればどんな女とでもヤレる俺の器の大きさに、深く感謝すべきなのである。

 
「あふぉ・・・うふぅ・・・ふぉうぅ・・・」

 俺が股間を舐めてやると、ゆかりが死にかけたセイウチのような、不気味な喘ぎ声を発した。化け物のくせに、生意気にも感じているのである。

 糞小便をして拭きもしないゆかりの陰部からは、排泄物と納豆と動物の死骸とヨーグルトを混ぜ合わせたような、凄まじい悪臭が漂っている。ゆかりは出会った頃から衛生観念が欠落しており、放っておくと何日でも風呂に入らず、経血で汚れた生理用品などもそこらへんに散らかしてしまうような女だった。最初は行為前に無理やり入浴させていたのだが、次第に俺の方が、この臭いに病みつきになっていった。今では、一週間程度で風呂に入れさせるのは勿体なく思ってしまうほどである。

 もともとはノーマルだった俺に、ゆかりに合わせる形でそんな性癖が発芽したのは、つまり俺の男としてのランクが、この汚物としか子孫を残せないところまで落ちぶれてしまったということなのか。女に関しては徹頭徹尾実用主義で、ヤレもしない美女よりはヤラせてくれるブス女の方に重い価値を置く俺も、さすがにもう一生涯、この不快な生物としかできないと思うと、頭をかきむしりたくなるほどの苦悩に襲われる。

「ふざけんな!テメエみてえなバケモンと一緒にすんじゃねえ!」

 ふいに怒りにかられた俺は、ゆかりの顔面に平手を打ち付け、次に流しからフォークを持ちより、額に突き刺した。傷口を押さえながら悶えるゆかり。もともと痛みには弱く、血を見るのは好きではない俺であったが、虫にも劣ると思える生物には、何の抵抗も感じることなく暴力を振るうことができた。

「やめて、やめて」

「うるせえ!そんな汚え顔して生きてんじゃねえ!てめえ俺を馬鹿にしてんのか!」

「してない、してないよ」

「クソブスのてめえが生きてるってことが、俺を馬鹿にしてるってことなんだよ!」

 ゆかりの顔面をサッカーボールのように蹴り飛ばすと、ぶよついた身体が、この部屋に置かれた数少ない家具であるテレビの方にまで転がっていった。すぐに追いかけていき、踏みつけを食らわせようとすると、ゆかりは突然、テレビ台の下から何か小さい物体を取り出し、それに向かって、ごめんね、ごめんね、といったような言葉をボソボソと呟きはじめた。

「なにを言ってやがんだ、化け物婆が!」

「やめて。健ちゃんとたっちゃんをいじめないで」

 その名前を聞いて、心臓が飛び出しそうになる。俺がゆかりとの間に作った赤子に、ゆかりが勝手につけた名前だったからである。

「なにを握ってやがる。みせろ」

「やめて、いやいや」

 嫌がるゆかりの手をこじ開けると、中からは、黒ずんだ粘着性の物質で作られた、二つの小さな人形が出てきた。

「なんだ、こりゃあ・・・」

 鼻を近づけてみると、その人形からは、鉄のような臭いがした。犬は一度嗅いだ臭いは十年経っても忘れないというが、俺の脳も、生まれてからこれまで嗅いだ何百、何千という臭いを、しっかりと記憶している。

 脳内のメモリの中から、東山と「生存競争」を繰り広げていた時期の、遠い記憶が呼び起された。黒ずんだ物質の正体がわかった。ゆかりの手のひらに乗っている物体の正体は紛れもなく、ゆかりが自らの垢で拵えた「力太郎」である。ゆかりは、俺が生まれたその日に県内の赤ちゃんポストに放り入れたガキに未練を残し、同じ自分の体から生み出した「力太郎」を、その代用品として愛でていたのである。

「重治さんが、粘土を買ってくれないんだもん。ゆかり言ったのに、しげはるさんが・・」

「気色わりい婆が、気色わりいことしてんじゃねえよっ!」

 胸部に、俺の渾身の回し蹴りを見舞われて、ゆかりは「力太郎」を取り落とした。

「よく見てろ、クソ婆」

 俺はゆかりの目の前で、二人の「息子」を踏み潰して見せた。

「うぉうをををっ、うぉうをををっ」

 絶望の慟哭が室内に響き渡る。俺はゆかりを押し倒し、息子同様にペシャンコに潰れた乳房にむしゃぶりついた。

「ガキなんて、いらねえもんを産みやがって。どうしようもねえクソ婆め」

 自分自身を厭悪している俺が、自分の分身に愛情など持てるはずがない。そんなものは重荷になるだけだ。俺がガキを作ったのは、妊婦を犯す興奮と、母乳を味わいたかったからだけだ。育児能力などあるはずもない俺とゆかりに育てられるより、施設にでも放り込んだ方が、ガキも幸せであろう。

「ふうふう。うめえな。うめえ」

 二人目のガキを産んでからまだ三か月しかたっていないゆかりの乳からは、絞れば濃厚な母乳が迸る。反吐が出そうな顔面をしているくせに、この女の母乳は妙に甘く、癖になる味わいだった。

 母乳好きというのは、二十九歳の時、出会い系サイトで知り合った、やはり出産直後の一歳年上のシングルマザーと数か月ほど交際していたときに芽生えた性癖である。

 二十代前半のときには、やはり出会い系サイトを通じて、二歳年下の女の子と知り合い、交際できたことがあったが、俺も女にまったく縁がないわけではなく、三十二年の生涯の中には、オイシイ思いができた経験も、少なからずはあった。

 シングルマザーとは、前の旦那とヨリが戻ったという事情から切れてしまったのだが、俺は自分に十分なチャンスを与えてくれた女のことは、たとえ振られたとしても、後から恨みに思ったりするようなことはないし、別の男に走ったとしても、しつこく追い回すようなことはない。自分の方にも失態があれば、素直に反省するなど、殊勝な心掛けになることもある。

 男が自分の女を大事に思う気持ちには、純粋に異性として愛する気持ちと、自分が女に選ばれたというプライドを満たしてくれたことへの感謝という二つがあるが、俺の場合は特に後者が強いようだった。どちらが良くて、どちらが悪いというわけではない。それで女を大事にできるなら同じであり、どちらも尊い感情である。

 両者の性質の違いが現れるのは、女に振られたときであろう。女に愛を求めるヤツは、自分を一時でも愛してくれた女にいつまでも執着し、女にプライドを満たしてくれることを求めるヤツは、自分を一時すら男として見てくれなかった女に、いつまでも執着するのである。

「むふぉ・・・・くせえ・・・相変わらずくせえな、てめえは」

 俺は一旦、ペニスをゆかりから引き抜き、ゆかりのひじきのようなわき毛が群生する脇、白癬菌と水虫がかゆみを引き起こすせいでぐちゅぐちゅになっている足の臭いをたっぷりと嗅ぎ、舌を這わせた。納豆とネギを混ぜ合わせたようなハーモニーが、鼻から口から侵入し、頭の中で、幸せがいっぱいに広がる。

 いい意味でも悪い意味でも、過去の女を忘れられない性格―――。思い返してみれば、俺に女の体臭に興奮する性癖が芽生えたのは、二十代前半のころ、僅か二か月ほど関係のあった、二歳年下の女の子のことを、いつまでも覚えていたからかもしれない。

 当時、風俗でしか女経験がなかった俺は、女の陰部も手入れを怠れば、男と同様か、肛門に近い分それ以上に不潔な環境になるという事情に不得手であった。体質もあったのだろうが、シャワーを浴びずに行為に及んだときの彼女の陰部の臭いは半端ではなく、可愛いあの子のアソコから、汚い僕のちんちんよりもお下劣な臭いが漂ってきたとき、当時ウブだった俺はいたく衝撃を受けたものだった。

 それから十年あまりの月日が経ってみて、当時の彼女のことは、俺にチャンスをくれた感謝と、そのチャンスを自らフイにした後悔とがない交ぜになった、甘酸っぱい記憶として残っている。青春の思い出は、歳を取るほどに美化されるというが、あの指についた臭いが洗ってもとれなかった衝撃も、俺の数少ない、煌めく青春の一コマとして美化され、今ではフェティシズムにまで昇華されたのかもしれない。

「ふふぉ・・・・くせえ。くさいはエロい・・・・。くさければくさいほど、硬くなる・・・・」

 俺は先端からカウパーを垂らすペニスを、ゆかりの中に、再度突き入れた。

 女だ。何一つ取り得もなく、夢中になれる趣味もない俺が生きる喜びを見出せるのは、女でしかない。俺が俺であるために、俺は理想の女を追い求め、また、女体の楽しみ方を求め続けるのである。

「あっ。おっ。ふぉっ。ふっ。おっ」

 俺の腹の下でまぐろ状態のゆかりが、法悦のうめきを漏らしている。ゆかりに挿入したまま乳を搾ると、母乳が真上に向かって噴射し、俺の乳首を白く染め、甘ったるい香りを部屋中にまき散らす。乳房、腹、二の腕、太もも、あらゆる部位にこびりついた肉がぶるぶると波打ち、悪臭の原因となる汗の飛沫を飛ばす様を俯瞰して、俺のペニスに快感が走る。身体は絶頂に向かって熱くなっているのに、心の中には冷たい風が吹いている。  

 どの角度からどう見ても、ゆかりは化け物のようなブス女である。こんなブスを手に入れても、何の達成感もないし、何の喜びもない。こんなブスとしかセックスできない俺の境遇は、心底惨めだと思う。

 かつて、俺は世間と和解することを真剣に考えた際、世間に対し、俺に女を与えるという条件を出した。二か月とか三か月とかいう短期間ではなく、末永く一緒にいられる、人生の伴侶となる女である。

 世間は、その望みは今、叶えられたではないか、というかもしれないが、冗談ではない。俺が世間に差し出すことを求めたのは、こんな化け物ではなく、並み程度の容姿を持った男が、当たり前に手にする権利のある、「健康で文化的な最低限度の」女である。

 ゆかりは明らかに、その水準には達していない。これでは、世間と折り合いをつけることなどできはしない。ゆかりのような化け物で我慢しなくてはならないのは、宮城のような、最低限度の容姿すら持っていない男だけである。

 青年期に異性の温もりに恵まれないことは、貧乏にも勝る苦しみだ。女に愛されない寂しさ、セックスの快楽から切り離される喪失感は計り知れない。人生でもっとも精力盛んな二十代に、女にまったく相手にされず、常に欲求不満を抱えている苦しみを味わっていなければ、俺がここまで歪むこともなかった。

 人生で最も精力盛んな二十代を、一人の女とも交わることなく棒に振り、今後も情交の機会を得られぬまま、性機能が衰えていくだけの宮城の絶望を思う。興奮する。たった数ミリ目が細い。たった数ミリ鼻が太い。たった数ミリ輪郭が歪んでいる。たった数ミリの物理的違いに人生を翻弄される世の不細工の絶望を思う。興奮する。宮城のような不細工な男が得るはずだった女を、この俺が奪い取っている事実。興奮する。人を見下すというスパイスを加えれば、ゆかりのようなブス女でも楽しめる。 

 ふいに、地上最醜の不細工を、自らの手で作り上げてみたい衝動にかられた。俺が生涯で出会った男の中でもっとも不細工な宮城と、生涯で出会った女の中でもっともブスなゆかりで子供を作ったら、地上最醜の不細工、ブスの日本代表、いや世界チャンピオンができるのではないか?その超グロテスクな生物を見てみたい。そいつの絶望を眺めながらするセックスの味を知りたい。

 その昔、遠く満州の地で、ナチス・ドイツのレーベンスボルン計画を真似た、頭脳、身体能力、容姿、血統すべてに恵まれた男女を日夜セックスに明け暮れさせ、次代の指導者となる「超高度東洋種族」を製造する計画が、秘密裡に行われていたという都市伝説がある。ならば、その逆の発想で、頭脳、身体能力、容姿、血統すべてに恵まれず、次代の下層階級に優越感を与えるための「超劣等東洋種族」を誕生させる計画があってもいいではないか。

 あの見苦しい宮城が、化け物ゆかりを孕ませようと、ぎこちない動作で必死に腰を振っているところが見たい。それはきっと、自分がセックスする以上に楽しいに違いない。
「・・・・・!!」
 快楽のうねり―――。俺は絶頂に達する寸前、ゆかりのヴァギナからペニスを引き抜き、ドーム球場の屋根のようなゆかりの腹の上に射精した。せっかく、「超劣等種♂」の種が着床する前の、貴重な「超劣等種♀」の卵に、けして劣等とはいえない俺ごときの種を付けてはいけない。

 枕元の携帯を取った。射精後の倦怠感の中で五指を操り、「超劣等種♂」の番号を呼び出す。舌打ち。今日、昼の時点でヤツが金を貸してくれなかったせいで料金が支払えず、携帯はまだ止まっていたのだった。

 「平成のマッドサイエンティスト・蔵田博士」となった俺は、服を着て自室を出て、階段を降り、同じアパートの一階に住む、宮城の部屋のベルを鳴らした。

「蔵田さんですか。夜更けにどうしました?」

 深夜一時の訪問にも、宮城はとくに嫌な顔は見せない。バスの中で、今晩は、所属しているボランティア団体の資料作りか何かで徹夜をするようなことを言っていたのを、俺は覚えていた。

 宮城は紫のジャージズボンに白無地のTシャツをタックインした、いまどき田舎の体育教師でもしないようなファッションスタイルをしている。深夜になって、口元を覆う硬そうなヒゲは伸びきり、大根がおろせそうだ。朝に見ても夜に見ても、不細工で、しかもダサい男である。やはりこの左門豊作は、素晴らしい実験体だった。

「なんか寝付けなくてよ。俺の部屋で、茶でもどうかと思ってさ」

「いいですね。では、カンボジアの孤児院訪問ツアーの資料作成を中断して、お邪魔させてもらいます」

 今の会話の中で明らかに不必要な、自分の活動内容の報告。ボランティアに取り組むのは無私の心からではなく、それを人にアピールするためであると、自分で言っているようなものである。顔だけでなく頭も悪いこの男の遺伝子からなら、きっと俺が満足できる「超劣等東洋種族」が作れることだろう。期待感を胸に、俺は宮城を連れて二階へと上り、自室のドアを開いた。

「きゃっ・・・・」

「な・・なんですか、この女性は」

 部屋に招じ入れた宮城が顔をしかめる。ゆかりの方は生意気にも恥ずかしがり、布団で前を隠した。超劣等種族の♂と♀の接近遭遇。一目ぼれとはいかなかったようだ。

「こいつは俺の女だ。宮城くん、最近たまってるだろ。こいつとヤッていかないか?」

「言っている意味がわかりません。それに・・・この臭いは、なんですか」

 宮城が顔をしかめた理由は、ゆかりの容姿ではなく、部屋中に漂う「無洗女体」の獣臭だったようである。俺自らが「無洗女体」の虜であるとはいえ、客人に不快な思いをさせてしまったのは失態であった。

「ん?この臭いを嗅いだことがないって、宮城くん、もしかして童貞だったのかい?」

 ダンゴムシが空を飛べないのと同じくらい、見ればわかることである。

「これは一種のフェロモンさ。女はな、発情するとみんなこういう臭いを出すんだよ。宮城くんが好きとか言ってた、あのなんたらいうアイドルもそうだぞ。最初はくせえと思うかもしれないが、これが段々病みつきになってくるんだ。さあ、宮城くん、遠慮しないで、あいつの身体にむしゃぶりついて来いよ」

 俺にからかわれた童貞の宮城が、一瞬、そういうこともあるのだろうかと考えたように首を傾げる。噴き出したいのを堪えるのが大変だった。

「・・・・そういうことは、愛する男女同士でするものです。この人は、蔵田さんの恋人なのでしょう?どうして大事にしてあげないのですか」

「他の男にヤラせるからって、大事にしてないとは限らねえだろ?セックスは愛のある者同士でやらなきゃいけないって、そんな決まりもねえぜ。ほら、せっかくの機会だ。遠慮せずにやってけって。この機会を逃すと、宮城くん、いつヤれるかわからねえぞ?」

「・・・お断りします。あまりにも、女性に対して失礼だ」

 女に失礼なのは、貴様のルックスとファッションセンスだろう。折角の据え膳を食わずに、キレイごとしか吐かない豚に怒りが募る。それとも、ゆかりとヤるくらいなら、童貞のままでいた方がマシということか?もしそうだとするなら、宮城のような豚でさえ敬遠するような化け物と今までヤっていた俺は何だという話になる。

「だから遠慮すんなって。ほら、ほら、母乳だって出るんだぞ。ほらなめてみ、ほら」

 なにがなんでも宮城とゆかりをヤらせないと、自身の沽券に関わると考えた俺は、ゆかりを引き起こし、宮城に向かって母乳をピューと噴射させた。驚いた宮城は、両手で顔面をガードして後じさる。

「や、やめてください。一体なんなんですか。用がこれだけだったら、僕はもう帰りますよ」

「・・・・ったよ。ったく、恥ずかしがりやなんだから。じゃあよ、気が変わったら、いつでも言って来いよ」

「変わらないですよ。僕は、この人となら幸せな家庭を築けると思った人とだけ、身体を交えるんです。童貞だなんだというのは、恥ずかしいことでもなんでもありません。セックスに対する考え方は人それぞれです。馬鹿にするようなことを言うのはやめてください」

 こちらはそんなことは一言もいっていないのに、わざわざ本当は誰よりも童貞をコンプレックスに思っていることを打ち明けてくれる宮城。まったく愉快な豚である。

「・・・・これ。昼間話した、節約レシピです。この方との結婚を考えているなら、参考にしてください。お子さんもいらっしゃるなら、なおさらお金は大事ですからね」

 宮城は部屋を出ていった。俺は宮城が置いていった節約レシピをすぐさまゴミ箱に放り込み、ゆかりとの二回戦を開始した。

 俺を侮辱するな、童貞の糞豚め。貧乏な不細工男が、幸せな家庭とは笑わせる。あんな奴が結婚できるとしたら、結局それはゆかりのようなクソブスでしかなく、そんな両親の遺伝子を継ぐ子供は学校でイジメられ、化け物一家として世の人々の嘲笑を受けながら生きるしかないことがわかっていないのか。

 俺がゆかりと結婚など、冗談じゃない。こんな化け物ブスは、もっと若く、美しい女体を確保でき次第、すぐに捨てるつもりだ。「健康で文化的な最低限度の」女を得られない限り、俺が世間と和解することはあり得ない。

 俺がゆかりと結婚しようと考えているというのは、俺とゆかりが釣り合うランクにあると、宮城は思っているということ。さらに宮城は、愛があるセックスがどうのと言って、結局ゆかりを抱かなかった。きっと今頃、己の部屋で、化け物ブスとしかセックスできない俺のことをあざ笑っているのだろう。俺を侮辱した宮城は許さない。いつか地獄に送ってくれる。

 俺は、俺を受け入れないこの世間を憎む。俺に「健康で文化的な最低限度の」女を与えず、無条件降伏を迫るだけの世間を憎む。この世間で素晴らしいとされる価値観をありがたがる奴らは、俺の力が及ぶ限り、地獄に送ってやる。

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 東山から勤務が終わったとの連絡を受けて、隣町のファミレスに入ったときには、時計の針は二十一時を回っていた。俺に散々せっつかれて、ようやく出られたのがこの時間だったというから、普段のペースでやっていたなら、それこそ日付が変わる頃まで、仕事は続いていたに違いない。日に三時間以上、月に二十時間以上の残業はしたことがない俺には考えられない労働量である。毎日これだけ酷使され、精神をすり減らされていたら、俺たち下の者にあたるのも無理はないのかもしれない。夢でも見ているかのような幸福感が、一生に一度の同情心を引き起こさせていた。

 東山より先に到着した俺は、もちろん東山に払わせるつもりで、三百グラムのサーロインステーキを注文した。まともに動物性たんぱく質を取るのは、半月ぶりほどにもなる。朝にカップ麺とラーメンライス、昼間に菓子パン、夜に納豆ごはんとインスタントの味噌汁のローテーション。二年前に出会ってからというもの、ほとんど毎日、五キロで千円の家畜の飼料米と猫用の缶詰しか食べていない俺の内縁の妻よりはマシだが、まあ、ひどい食生活を送ってきた。このままでは生活習慣病まっしぐらであったが、これから俺の栄養状態は、劇的に改善されるはずだった。

 十五分ほど待つと、東山が愛車のデミオでやってきた。白無地のTシャツに軍パンといういで立ち。プロレスラー並みの巨体を手に入れた東山には、ワイルドな恰好がよく似合う。頭の中はともかく、見栄えだけは良くなった。人間、見栄えだけでも、案外何とかなるものだ。何も知らない者からは、東山の現在地は、冴えない三十路男の俺などより、よっぽど恵まれているように見えるだろう。十八年前にバカなことさえしなければ、東山は俺のことを徹底的に見下し、正社員と派遣労働者という立場の違いを利用して、好き放題いたぶることができたというのに。結局、人殺しなどやれば、一生付いて回るということである。

「それで・・・話というのは・・・・」

 東山は、俺が東山のために注文してやった、メニューで一番安いドリアには手をつけず、糞でも詰まっているような強張った表情で切り出した。

「おいおい、いきなり本題かよ。十八年ぶりの再会だぜ。積もる話を聞かせてくれよ。年少では飯はうまかったのか、尻の穴は守れたのかとかよ」

 注文したサーロインステーキを頬張る俺は、ジューシーな肉汁を口の端から滴り落としながら、東山の緊張を解こうとおちょくってやる。

「お、大きな声で言うな。明日も仕事なんだ。手短に済ませたい」

「わかったよ。しょうがねえな。じゃ、まず、お前の部下にやられた傷の件だが、これは不問に付してやる。ただし、お前の態度しだいだ」

 雑魚は捨て置くべし。この際、中井などに構っている暇はない。恨みもない雑魚をいたぶって、たかだか十数万からの慰謝料や治療費をとるために、俺の貴重な時間は使えない。ライフワークバランス。搾取の対象は一本化すべきである。

「取りあえず、そうだな・・。こんくらいでどうだ?」

 俺が差し出す二本指を見ると、東山は眉間に寄った皺の数を増やして悩み始める。
 二百万円。一介のサラリーマンにも、けして無理な金額ではない。しかし、高々それだけの金を奪っただけで、解放してやるはずもない。これから生かさず殺さず、東山の収入が尽きぬ限り、じわじわと搾り取ってやるつもりである。

 中学時代のピュアだった東山ならともかく、少年院で散々悪ガキと渡り合い、出所してからは、まともな人間の何倍もの辛酸を舐めながらここまで這い上がってきた東山なら、俺の魂胆くらいは分かっているはずであろう。提示された二百万だけではなく、これから延々と毟り取られ続ける何百、何千万という金に、東山は怯えているのである。

「とても無理だ。生活が成り立たなくなる」

「無理ってことはねえだろう。俺みたいなロクデナシじゃなく、お前は社会的に信用ある立場なんだ。それぐらいの金集めるのはわけもないだろ」

「簡単に言うな・・。いずれにしろ、すぐには無理だ」

「じゃあ、二か月だな。全額もらうのはそれまで待ってやるから、当面の金を寄越せよ。お前の月給ひと月分くらいでいいからよ」

「・・・・・・」

「何も言わねえってことは、それでいいんだな」

「・・・・・俺は、確かに、人として許されざることをしたのかもしれん。だが、俺のやったことに対し、お前もなにか、思うところがあるはずだ」

「おいおい~。言うに事欠いて、責任転嫁かよ。あのぽっちゃり女を殺ったのが俺のせいっていうなら、お前は俺を殺ればよかっただけじゃねえか。それとこれとは、全然別の話だし、世間もそう思ってるぜ」

 山里愛子の命が失われた件について、俺の罪悪感を引き出そうとの魂胆であったようだが、見くびってもらっては困る。なぜ、俺がセックスをしたこともない女が殺されたからといって、後ろめたい気持ちにならなくてはならないのか?あの事件では、「生存競争」に参加していたわけでもないのに、山里愛子が死んだことで心身に異常をきたす児童が続出したが、ただの同級生が死んだだけで、わけのわからない罪悪感などに蝕まれてしまうヤツの気持ちなど、俺にはまったくわからない。友達でも恋人でもない、ただの同級生である。ただの同級生が死んで、なぜ心が痛む?俺には、行ったこともない遠隔地で、会ったこともない誰かが事故や災害で死ぬのと、大して変わらないように思えるのだが、俺が異常なのだろうか?他人と比べようがないため、俺にはわからない。

「・・・・・・・・お前って男は・・・どこまで・・・」

「さっさと結論を出せよ。俺が聞きてえのは、お前が金を払うか払わねえか、どっちかだけだ。払わねえ理由をいくら聞かされたって、気持ちが満たされることなんかねえんだよ」

「・・・・・・」

「さあ、どうすんだ」

 東山が泣きそうな顔になり、後頭部が存在しない絶壁頭を両の拳でカンカンと叩き出した。容量の少ない脳みそで、必死に逃げ道を探しているようである。気のすむまで探してもらって構わないが、残念ながら、逃げ道はない。東山も必死かもしれないが、必死なのは、俺の方だって同じである。転落一辺倒の、糞まみれの人生に訪れた最後のチャンスを、逃すつもりはないのだ。

「・・・週末には、取りあえず納得してもらえるだけの金は渡す。今日はそういうことでいいか?」

 俺がサーロインステーキをすっかり平らげるまで、十分ほども悩んで、東山がようやく結論を出した。とりあえず急場を凌いで、これからじっくり、何とかする方法を考える。結局はそれしかないだろう。俺が東山の立場でも、同じ答えだったと思う。まあ、何とかしようと思っているうちに、ジワジワと搾り取られていくわけであるが。

「商談成立だな。俺はもうちょっと飯食ってくから、それまで付き合ってくれよ。車で来てんだろ?寮まで送ってってくれよ。もうバスも出てねえしよ」

 商談を纏められたことに安堵した俺は、大きなゲップをし、ウェイターにビールのお替りと追加のグラタンを注文した。財布の中身を気にしないで料理を注文できるのは何とも気持ちよく、財布の中身を気にしないで食べられる飯は、なんでもうまい。

「なあ、お前の嫁さんの写真を見せてくれよ」

「なに?なぜそんな・・・」

「いいじゃねえかよ。見せてくれよ」

 東山から強引にスマートフォンを奪い取った俺は、データフォルダを開いた。ファイルは静止画、動画ともに、すべて家族と撮ったものであった。俺や東山より少し年上くらいの女房は、特別美人ではないが、色白で上品な顔立ちをしており、優しそうな笑顔を浮かべている。

 さらに、二人には娘がいるようであった。歳は三歳か四歳くらいだろうか。父親の胡坐の上に乗って、拙い箸の持ち方で、東山に、逆にあ~んをしてあげている。父親にはあまり似ていないが、よく懐いているようだ。

「綺麗な奥さんと可愛い子供じゃねえか。羨ましいぜ。守ってやらなきゃなあ、東山ぁ」

 スマートフォンを東山に返して、俺は両の眼を大きく見開き、またギッと口角を吊り上げてやった。
 底の底まで、愚かな男。脛に傷を持つ者は、安易に守るべき者を持つべきではない。多くの場合、それは足枷、重荷にしかならないのである。

 東山の過去が会社にばれ、世間にばれて、週刊誌などが食いついてきた場合、東山一人であれば、まだ、どこか遠くに逃げて、人生をやり直すこともできただろう。しかし、妻はともかく子供までいるのでは、簡単に身動きをとることもできない。全部放り出してしまえばいいという話ではあるが、好き勝手に威張り散らせる職場と、暖かい家庭という、東山が血の滲む努力でこの生き辛い世間の中に作り上げた「巣」を、簡単に捨てる気になれるはずもない。

 東山の過去がバレて、大騒ぎになってしまった時点で、東山の人生は終了である。自分の「巣」を守るためなら、東山は死ぬ気で金を掻き集めてくるだろうし、惜しげもなく金を吐き出すだろう。あとは、さじ加減の問題である。金を分捕りすぎたせいで、東山が大事な「巣」を維持できなくなったら、元も子もない。江戸時代の農民搾取のように、生かさず殺さず、真綿で首を絞めるように、じわじわと搾り取ってやるのである。

「ふう・・・食った食った。ごちそうさん。じゃ、帰ろうぜ」

 何週間ぶりかにまともな食事を胃袋に納めた俺は、満足して席を立った。レジに向かい、会計をする東山の姿を横から眺めるが、中学の頃そのままの生白いカマキリ顔が、プロレスラー顔負けの巨体に乗っかっている姿は、いまだに馴染まない。この違和感がなくなるくらいに長い付き合いになれば、二百数十万もある俺の借金はすべて失くなり、人生に洋々とした前途が開けるだろう。

 会計を終え、俺と東山は連れ立って駐車場へと出ていく。店の前の喫煙スペースにたむろしていた不良がこちらを向いてくるが、仁王のごとき東山が目に入ると、慌てて視線を逸らした。虎の威を借る狐の心境。これからあの職場内でも、この気分が味わえるのである。

 デミオの後部座席に乗ると、俺は靴を履いたまま、シートに寝そべった。東山は別に嫌そうな顔はせず、巨体を窮屈そうにドライバーズシートに納めた。夜のドライブの始まりである。

「ああ、楽しいなあ。すっげえ楽しい。夢でも見ているかのようだぜ」

 座席の前と後ろとの間に流れる空気には、北国の豪雪地帯と、南国のビーチほどの温度差がある。一つの再会は、二人の男を地獄と天国へと分けた。

「なあ東山、頼むから、お前の昔話を聞かせてくれよ。年少上がりから、運送会社の管理職にまでなったお前の、涙がちょちょぎれるような感動のサクセスストーリーをよ」

「・・・・・」

 俺のハイテンションについてこれない東山は、むっつりと黙りこくったままである。

「しょうがねえな。じゃあよ、俺の話をするからよ、それで満足してもらったら、今度はお前の話をしてくれよ。それならいいだろ」 

 東山が逮捕されてからの、俺の人生。思い出したくもない人生。ろくでもなかった転落人生。

 すべてを聞いたら、東山はきっと溜飲を下げてくれるだろう。哀れなヤツだと思ってくれたら、今後の強請も捗るかもしれない。そんな魂胆も確かにあったが、それだけではなかった。

 嬉しかった。もう二度と、陽の当たる世界では生きられない者。同じ世界の住人に、ようやく出会えた。この男になら、俺の過去を話せる。俺のクソみたいな人生も、この男に話せば笑い話になる。
 
 正直、抱え込むのは辛かった。ずっと誰かに話したかった。




 山里愛子殺害事件後、東山は関東の医療少年院へと送致された。俺たちが通っていた中学は世間から好奇の視線を浴び、連日見物客の絶えぬお祭り騒ぎで、常日頃なにか大きなことをしたいと思っていた俺としては、実に鼻が高かった。

 東山逮捕後も、学校生活は概ね快適であった。イジメの主犯格とされていた俺は、「底が知れないヤツ」と皆に畏怖され、腫れ物に触るような扱いを受けていたからである。

 もともと対等な立場の友達を望まず、周りから特別な目で見られていることに喜びを感じる俺には、それは実に心地がいいものであった。しかしここで舞い上がって、自分の思ったことは何でも通ると勘違いしてしまったのが、若さゆえの過ちである。

 中学三年の中ごろ、俺は請われて付き合っていたブスの女を捨て、新たに自分好みの容姿をした女をモノにしていたのだが、付き合って二か月ほど経ち、性行為を申し出たところ、これを断られてしまった。怒った俺は、無理やりにでも関係を結ぶべく、自宅に連れ込もうとしたのだが、女に大声を出され、敢え無く失敗。翌日、友人を連れたその女から、クラスメイトの前で別れを告げられてしまった。

 納得のいかない俺は、その日から、女にしつこく復縁を迫った。当時のことで携帯はガキにまで普及しておらず、手紙を送り付けたのだが、その量が尋常ではなく、一回に三十枚は軽く超え、それを毎日というペースであった。内容は次第に脅迫めいたものになっていき、東山と同じ目に遭わせるといったようなことも平気で書いていた。

 これで命運が尽きた。女の訴えにより、俺は強面の教師連中数名から、会議室に軟禁され、四時間に及ぶ説教を食らう仕打ちを受け、もう二度と女に接触しない旨の誓紙を書かされた。

 気が小さい俺は、それきりすっかり大人しくなってしまった。無論、これで改心したわけではなく、虎視眈々と巻き返しのチャンスは窺っていたのだが、東山の件もあり、教師も生徒も俺へのマークを徹底していたため、動こうにも動けなかった。「裏番長」としてめくるめく学園ライフを送るはずが、パシリの一人も持てず、並み程度の女にも手を出せない体たらくを演じたまま、中学校を卒業してしまったのである。  

 最後には不本意な結末を迎えてはしまったが、自分の生き方が間違っていると思ったわけではない。東山との「生存競争」を経て、俺は、世間一般で正しいとされる価値観に背いて生きていく――悪の集団に身を置くことこそ、俺の唯一生きる道と確信していた。それを実践すべく、俺は高校に入ると、安直ではあるが不良グループの仲間入りをし、本格的に逸脱者としての道を邁進しようとしていた。

 髪を茶色に染め、ピアスを空けて、学校にロクに行っていないか、もしくは完全に辞めてしまっているような奴らと一緒になって繁華街に繰り出し、明け方まで遊びほうけるなどして、初めは仲良くやっていたのだが、三か月も経たないうちに、俺と仲間との関係はギクシャクし始めた。

 中流の経済力を持った家庭に生まれ育ち、比較的まともな親に、比較的まともな躾を受けて育てられた俺は、いつの間にか、貧困家庭に育ち、挨拶一つできず、箸の使い方一つ知らない不良の仲間を見下していた。俺のそんな優越感は、コンプレックスの塊で、自分に向けられる悪意に人一倍敏感な不良どもにはすぐに伝わってしまったようで、彼らは俺の知らない間に、俺に対する不信感を鬱積させていたらしい。

 俺は悪ではあったが、けして非行が好きなわけではなかった。俺がやりたいのは、真っ当な学生生活を送る上で、俺に何らかの不快な思いをさせたヤツを痛めつけることであって、不良どもがやっているような、夜中に騒ぎまわるとか、地域をゴミで汚すとか、自販機を荒らすとか、夜中に原付バイクをパクって乗り回すとか、他校の大人しい生徒を恐喝するとかいうことではなかった。何の恨みもない人間に危害を加えたり、利益を損ねる趣味はないのである。 

 やりたくもない非行に渋々手を染めて、彼らの目的である、ただ単に寂しさを埋めるためだけの共同体意識を形作っていくことに貢献しても、彼らが俺の要求のために動いてくれるわけではない。不良などやっている奴らは、恨みを直接本人にぶつけることもできない臆病な連中であり、連中に何かを期待したことが間違いの大元であった。

 そもそも、変な話、当時の俺は、自分のことを、それほどの悪人だと思っていなかった。言われるなら、あまのじゃくとか、捻くれ者ではないか。俺は普通のことをやっているつもりなのに、なぜか周りからは、それは悪だと言われるせいで、ああ、俺は悪なのかと思うしかなかった・・というのが、実情に近い。

 年齢を重ねた今は、自分の何が悪いと思われているのか、何が人と違うのか、ある程度はわかるようになったが、子供の頃は本気で、自分がなぜ周りから非難されるのか、お前は悪だと言われるのかわからず、自分は理不尽に怒られているだけだと思うことが多かった。そんなことの繰り返しで、ますます捻くれていったともいえる。

 俺は根っからワルいのではなく、人の群れに馴染めないだけなのである。真っ当な世界が面白くなくなれば悪に走ろうとするが、悪い世界で何もオイシイ思いができなければ、また真っ当な世界を懐かしみ出し、真面目に勉強しようとか、社会規範を守って生きようとか考え出してしまう。真っ当な世界に戻って、やっぱり面白くなければ、また逸脱者の虫が疼き出す。善であろうと悪であろうと同じことで、俺は結局、自分が中心になれない、自分が注目されない世界が面白くないだけなのだ。

 結局、不良グループとは、些細な揉め事をキッカケに本格的なトラブルとなり、目玉を潰すとか、家を燃やすとか脅される騒ぎにまで発展した。その際、相変わらず教師の前ではいい顔をしていた俺は、学校に泣きついて助けを求め、後日、呼び出しを受けていた不良グループの集会に、高校の教師連中数名が乗り込んで話しをつけてくれるという形で、決着はついた。

 あのとき、教師たちの後ろに隠れている、裏切り者の俺に向けられた不良どもの眼差し――生まれながらに貧困のスパイラルに取り込まれ、キレイごとなど一切響かない世界で生きてきた不良どもが、同じ穴のムジナだと思っていた俺に、実はまだ、人は努力すれば幸せになれるという神話、人は生まれながらに平等であるというおとぎ話の中に居場所が残されていたと知ったときの眼差しは、味わい深い思い出として残っている。俺は男の世界では敗者となったが、社会の枠組みの中では、紛れもなく勝者であった。

 その後しばらくは繁華街などにも足を踏み入れず、大人しくしていたため、リンチを受けることもなく、金もとられることもなく、平穏無事に不良グループとの縁を切ることはできたのだが、かといって、真っ当なグループの中に居場所を見つけられたわけでもない。その後の高校生活で、俺は特に大きな問題を起こすことはなかったが、特別大きな喜びもない、ズルズルと地盤沈下していくような学生生活を送った。

 東山との「生存競争」を再現することも、ついにできなかった。俺が人生の中で唯一輝けたあの出来事は、東山という、もう一人の社会不適応者がいてこそ実現できたものであった。高校からは義務教育ではない。どうしても適応不可能な人間は、排除され淘汰される。その意味では、俺はまだ世間から「望みがある」と思われていたともいえるが、住みやすい環境を提供してもらえるわけでもない。ゴキブリを捕食していたアシダカグモが、ゴキブリがいなくなった途端、同じ不快害虫として駆除の対象となるように、俺は常に、学校社会の中で生きづらさを感じていた。

 高校では、仲の良い友人も恋人も一人もできず、卒業したら全員音信不通。「生存競争」以来、コツコツと努力することをバカにしていた俺は、勉強もほとんどしなかったため、名前が書ければ入学できる五流大学にしか進めなかった。

 大学に上がっても、俺は相変わらず日陰者の扱いで、友達も女もできず、時間を持て余していた。気付けば、独裁者になって国家を支配するとか、女を思うがままにするとかいった空想に耽るのが日課となり、インターネットの匿名掲示板に入り浸るようになっていた。

 匿名掲示板――そこにいたのは、俺とまったく同じ人種であった。何をやっても報われず、社会の中に充実感を得られる場所を見出すこともできず、ひたすら幸せな人間を妬んでいるが、悪に染まりきることもできず、口先ばかりで大胆なことは何一つできない。友達も女もおらず、時間は腐るほどあるのに、今より少しでもまともになろうと努力するわけでもなく、ただただ、身の丈以上の成功願望と、猛烈な自己顕示欲ばかりを持て余し、自分の殻に閉じこもり、燻ってる。

 「同類」は山ほどいる。自分が特別に情けない人間ではない、とわかって少し楽になったが、傷を舐めあっても、人生が好転するわけではない。結局、五流大学は二年で中退し、俺は実家暮らしのまま、フリーターとなった。

 積極的に、何か夢があるとかで、レールから外れたわけではない。ただ単に、同じ世代の歩みについていけなくなり、ドロップアウトしただけである。当然というべきだが、始まったのは学生時代に輪をかけてつまらん、最悪の毎日であった。

 自立など到底できない低賃金。スキルも身に付かない単純労働。しかしそこですら、俺は落ちこぼれの烙印を押されてしまった。

 俺の脳は、致命的に仕事に向いていないようだった。単純ミスを繰り返すくせに、手は遅い。労働における作業効率が、人よりもかなり悪かった。高校一年生で、人生初めてのアルバイトである牛丼屋に勤めたのを皮切りに、ファミレス、引っ越し屋、郵便局の仕分け、ガソリンスタンド、建築関係など、二十五歳になるまでの十年間に、三十以上のアルバイト先を渡り歩いたが、どこへ行っても、何をやっても、使えない、やる気がないと罵られた末、半年も経たないうちに退職という結末を迎えるだけであった。

 やる気がない―――間違いではない。だが、そもそも、たかがバイトにやる気がある奴など、どれだけいるというのだろう。長く続けても給料が上がるわけでもない、今後の人生で役に立つなにかが身に付くわけでもない、安価な労働力を確保したい企業に搾取されているだけの立場で、正社員並みのモチベーションでやっているヤツがいたとすれば、それこそただのバカでしかないだろう。
 
 やる気なんてみんな無い。みんな、やる気があるフリをしているだけである。言う方だって、一々説教している暇もないからそういう言い方をしているだけで、本当はわかっている。俺の問題は、やる気がなかったことではない。普通ならやる気がなくてもできるような仕事が、やる気を出さないとできないことだった。

 集中力、注意力、持続力などの基本性能が、そもそも劣っている。労働の現場だけではなく、学校生活でもうまくいかなかったことから考えても、正式な診断を受けたわけではないが、俺の脳は、何か発達障害のような、機能的な問題を抱えているのだろう。だとするならば、俺は生まれながらに、人よりも遅れた位置からのスタートを強いられていることになる。

 自分が人より劣っていると感じたとき、人と同じようにできるように、懸命に努力しようとするヤツもいる。世間では、そいつらは素晴らしいヤツのように言われるが、俺に言わせれば、そいつらの方が問題なのである。できる側に迎合しようとするいじましい奴らの方が当たり前だと思われるせいで、できない人間でも生きていけるように、世の中の方が変わるべきだと考える俺のようなヤツの声が掻き消され、踏みにじられていくのだ。

 皆が「ゴールに向かって走っている」中、なぜ俺だけが、「スタートラインに着くための努力」を強いられなくてはならないのか。それは理不尽ではないのか?人より余計に努力して、やっと人並み。それでどうして、やる気が出るというのか?そんな小さな志には、小さいなりのエネルギーしか出ない。やる気を出せと言われるほど、逆にだらけようとする俺は、どこで働いても嫌われた。

 それでも、プライベートが充実していたら、苦手な仕事も、もっと一生懸命頑張ろうと思えたかもしれない。日常生活でなにも楽しいことがなかったから、仕事のやる気もまったく湧いてこなかったのだ。

 とにかく、女にモテなかった。

 それなりに、動いてはいたと思う。中学を卒業した十五歳から、二十五歳になるまでの十年間で、学校やバイト先、インターネットの出会い系サイトなどを通じて知り合った、計七人あまりの女に、真剣な交際を申し込んだ。しかし、そのうち承諾を貰うことができたのは、わずかに一人。そのただ一人付き合ってくれた女とも、俺の方になにか不手際があったのか、単に女の気が移ったのか、二か月以上は関係が続かなかった。

 情は薄い方なのかもしれないが、人並みに、愛した女を大事にしたい気持ちはあった。束縛をする方でもないし、服装や髪形など本人の好みや、家事などの細かいことにケチをつけるような、ケツの穴の小さい男でもない。女が俺のところに居てくれるうちは、それほどうるさいことはいわないし、優しくもするつもりだった。

 それなのに、女ができない。俺にDVとか、何か落ち度があって逃げられるというならともかく、見向きすらされない。

 中肉中背。白くも黒くもない肌。眠そうな一重瞼、低い鼻、色素の薄い唇、骨ばった輪郭、癖っ毛。大学中退。特に気が利く方ではない。特別しゃべりがうまいわけでもない。

 自分に男としての魅力が乏しいのはわかっていたから、高望みはしなかった。社会的な成功を収めることには高い理想を掲げる一方、俺は女に関しては一転して実用主義で、並みかそれ以下クラスの女ばかりを狙って、声をかけていた。女にモテないといっても、俺の方が女を選り好みしていたのであれば同情も買えないだろうが、俺は早い段階から、当たりの大きさよりも率を重視し、十点満点中五点程度の女に狙いを定めていたのである。

 非力なジャッカルは、逞しいシマウマを狙おうとしても、蹴り殺されるだけなのをわかっている。ゆえに食指も動かされないし、シマウマの肉を食べられるライオンに嫉妬する気も起こらない。自分の力をよくわかっているジャッカルは、シマウマには目もくれず、深い草藪の中に潜む野ウサギを探し出す作業に専念する。

 目の保養などと言っている場合ではない。いくら十点満点の美女だとしても、眺めているだけでは、股間の疼きは解消されない。女は観賞より実用だ。美女どもにとって、俺は眼中にないのかもしれないが、俺の方こそ、やれもしない女などには、何の魅力も感じないのである。

 しかし、俺の方が謙虚に、自分の身の丈に合った女を求めているからといって、向こうもまた同じように、自分の顔面相応の男を受け入れるとは限らない。普段、美女に苦い思いばかりさせられている醜女こそ、今まで積み重ねてきた屈辱と惨敗の歴史を一挙にチャラにするために、有り得ないような高望みをしているということもある。そういう女は決まって、俺のようなモテない男に言い寄られると、ここぞとばかりに想いを踏みにじって、ズタボロに引き裂かれた己の自尊心の補修を図ろうとしてくるのである。

 誰もが認める美女に振られたのであれば、まだ納得できる。別に美女が醜女より偉いというのではなく、そういう競争率の高い女に挑んだ自分が悪い、無謀だった、と、冷静に考えることができるということだ。果敢な挑戦の深層心理には、実は負けたときの保険――逃げ、守りが含まれている、という見方もある。

 本当にダメージが大きいのは、美女に振られたときではなく、同じ穴のムジナに振られたときである。そうなったときは、言い訳の余地もなく、自分自身の、本当の価値と向き合わなくてはならなくなってしまう。

 どう考えても俺程度の男で妥協しているべき女に言い寄って振られたとき、俺は崩壊したプライドを修復しようと、相手の女に激しく執着し、メールを何十通も送りつけたり、待ち伏せをしたり、家の窓を破壊したりなどの、ストーカー行為を働いた。

 そうなってしまったときの俺には、もう、女への恋心や、自分と付き合ってほしいと思う気持ちは霧消している。あるのはただ、恐怖でもなんでもいいから、女に自分の存在を認識させようという気持ちと、俺を差し置いて、他の男と付き合ったらどうなるかわかっているか、という警告だけである。

 ストーカーは、相手が大好きだから粘着するのではない。相手に傷つけられたプライドを回復するために粘着するのである。プライドが傷つけられるのは、美女よりも醜女に振られたときの方である。未来永劫明らかになることはないだろうが、世界中のストーカー被害者を一人ずつ並べて見てみれば、実は美形よりも、こんなのストーカーしてまで手に入れたいか?と思うような容姿をした女の方が多いのではないだろうか。

 五流大学を辞めた直接の理由も、実はストーカー行為だった。中学時代と同じように、惚れた女に執着心を露わにした行動をとった結果、相手の親や、女の友人から散々に叩きのめされ、大学に居づらくなって、尻尾を巻いて逃げ出したのであった。

 東山との「生存競争」から十年あまりの月日が経ち、二十五歳になるころには、俺も自分の生き方が間違っていたことを認めざるを得ず、軌道修正のタイミングを伺い始めていた。すなわち、世間で正しいとされる価値観に従い、地道にコツコツ、堅実に生きていく道を模索し始めていたのである。

 意識を変えるためには、キッカケが必要だった。自分の十年間を完全に否定し、今までずっと疑い続けてきた生き方にシフトしようというのである。何かしらの根拠――そっち側が正解だという、わかりやすい根拠が必要だった。

 俺が世間に跪くための条件として求めたのが、女であった。女、女、女―――あの時期に女を得られていたら、俺の運命は変わっていたと思う。人生の伴侶を得ること。自分にも人並みの幸せは許されていると知ったならば、十分、「降伏勧告」を受け入れられたと思う。実入りは少なくとも堅実な仕事を探し、嫌なことがあっても歯を食いしばって耐え、野に咲く草木花の美しさに感動するとか、今日の晩御飯はハンバーグだとか、日常の小さな幸せに満ち足りながら生きていく、そんな人生も受け入れられたと思う。死ぬ気で頑張って、金持ちになるための努力もできたかもしれない。

「スタートラインに立つための努力」ではなく、「ゴールに向かうための努力」だったら、がむしゃらになることもできたはずだ。

 「和平」の道はあった。ただ一人、「健康で文化的な最低限度の」容姿の女を与えられる。それだけで、俺は世間と手を結ぶことができたのに、神は俺の求めた条件を突っぱねた。自分が人間社会に受け入れられないことを納得するかわりに、人生の伴侶を求めた怪物を見放したフランケンシュタイン博士のように、神は俺に、唯一の安らぎを与えてもくれなかったのである。

 「健康で文化的な最低限度の女」も与えられない人生などは、俺にとっては、平均を大きく下回る、生きる価値もない惨めな人生である。女を得るための努力を何もしていないというならともかく、高望みもせず、それなりに動いたうえで、まったく相手にされないというのなら、「社会」「世間」を恨む理由にもなる。自分に平均程度の人生も保証しない社会、世間に報いようとし、真面目に生きようとするヤツ――「無条件降伏勧告」を受け入れるのは、俺に言わせれば底なしのバカだ。

 二十五歳を過ぎたころ、俺は突如、うつ病にかかったと主張して、アルバイトも辞め、家に引きこもり始めた。このままやっても、自分には平均程度の人生もないと悟った俺は、社会に出ることそのものを放棄し、今まで舐め続けた辛酸を、勤労の義務を怠ることで取り返そうとしたのである。

 最初はタダ飯を食らうのと、病院代と称して毎月一万円の小遣いを貰うだけであったが、病院仲間との付き合いと称してもう一万円、人として最低限の娯楽のためにもう一万円・・・・と、額を吊り上げて、小遣いの額が五万円にまでなったところで、さすがに親も堪忍袋の緒が切れた。子どものころから、親との関係は良くはなかったが、これで決定的な罅が入る形となり、毎日のように諍いを繰り返した。

――いつまで穀潰しでいる気だ!もういい年なんだから、家を出ていって一人で生きるか、働いて家に金を入れろ!

――鬱などは甘え病だ!嫌なことがあっても、気にしなければいいんだ!乗り越えろ!我慢しろ!くよくよ落ち込んでいないで、前向きになれ!
 
――何事にも手を付ける前から冷めた目で見るな!ちょっとうまくいかなくなったからって、すぐに投げ出すな!すべてお前個人の問題だ!とにかく努力をしろ!

 


 親と子の世代間対立。程度の差こそあれ、どこの家庭でも繰り広げられる光景である。一億総中流時代の気分が抜けきらない両親には、少ないパイを多数の人間で奪い合う若い世代の惨状が、十分にはわかっていなかった。職でも女でも何でもそうだが、枠に限りがある以上は、努力しても報われない層は、一定数出てきてしまう。その枠が、自分たちの時代に比べて少なくなっている現実にもう少し理解を示してくれれば、俺の方もそこまで頑迷にはならなかった。とはいえ、やはり、俺の要求が傲慢過ぎたこともある。お互いがほんの少し、相手のことを思いやれれば、違った未来があったのかもしれないが、うちの家庭の場合は、止まれなかった。

――雨風を凌げる家があって、毎日ご飯を食べられるだけで、ありがたいと思え!日常の小さな幸せに、喜びを見出せ!ここまで育ててやった親に感謝をしろ!

 結果的には、この一言が、俺が両親を完全に敵と見做す、決定的な原因となった。

 両親は、発展途上国で、食うや食わずの生活を送っているような子供に比べて、俺がいかに恵まれ、また自分たちの育て方がいかに正しかったということを言いたかったのだろうが、そんなのは極論ですらない暴論だ。俺は経済大国であり、食料にはまず不足することのない平和な日本という国の中で、同じ世代の若者を並べて比較したときに、自分の幸せが百点中二十点か三十点くらいしかないことに悩んでいるのである。自国内での相対的貧困と、他国の絶対的貧困を比較して恵まれているなどと言われても、何の慰めにもならない。

 相対的貧困にしても、二十点や三十点の人間に、〇点や十点もいるのだから我慢しろと言うのはおかしい。自分より不幸な人間がいる限りは弱音を吐いてはいけないという論理を突き詰めれば、世界中で一番不幸せな人間以外は、みんなが自分は恵まれていると思わなくてはならないという話になってしまう。雨風を凌げて、飯を食わせてもらえるだけで感謝しろとは、お前らは犬を産んだとでもいうのか?

――貴様ら、頼みもせんのに俺を産み出しやがって。努力、努力というが、じゃあ貴様らは、努力すれば成功できるだけの才能を、俺に与えたのか。俺を平均以下に産んでおいて、あとは勝手に努力しろとは、なんとも勝手な言い分だな。貴様らが糞みたいな遺伝子を俺に与えやがったから、俺は社会でこんな苦しみを味合わなくてはならなくなったのではないのか。才能を与えなかったのだから、せめて金ぐらいは与えて、責任を取れ。

――儒教国でもあるまいし、なぜ産んでもらっただけで親に感謝しなければならないのだ。俺は生きていても楽しいことなど何もなかったのに、どうやって感謝をしろというのだ。お前らはむしろ、俺に謝らなくてはならないはずだ。誠意を金で示せ。


 生きることが苦しみでしかない人間が、その生を与えた人間に感謝できる道理など、あるはずもない。俺はこれまでの人生で味わった苦痛を、親の金を使って清算し始めた。毎月きっかり二十万をむしり取り、酒、ギャンブル、風俗、外食に浪費する生活。金の無心を断られれば激しい暴力を振るった。犬の首輪をつけて監禁したことさえある。

 自分には特別な才能は何一つないと思っていたが、「やり過ぎる」、という点においては、俺は突出したものを持っていたのかもしれない。

 普段の俺はけして大胆ではなく、無暗に人を攻撃するわけでもない。凶悪犯罪者にありがちな動物虐待の経験など一切ないし、血を見て興奮するような趣味もない。不良時代など、何の恨みもない人間に暴力を振るったときなどは、人並みに胸の痛みも感じたものだ。

 ただ、自分が一度恨みに思った人物に報復を始めると、歯止めが利かなくなった。東山との「生存競争」が、まさにその性質がフルに発揮された結果で、俺は真っ当な恨みだろうが逆恨みだろうが、俺に一定以上の不快感を味あわせた人間相手なら、一切の躊躇なく、すべての尊厳を踏みにじることができた。

 幼少のころから過ごした家は、阿鼻地獄と化した。俺に血、肉、骨を与えた父、母を殴り、蹴るのは、幼少のころからの思い出を破壊していく作業であった。二十五年の生涯には、楽しいことも、生まれてきてよかったと思えることもあったはずだが、そのすべては、このとき塗りつぶされた。人らしい心があったときの、楽しい思い出をすべて叩き壊し、自分自身を、生まれついての悪鬼とすることによって、罪悪感を麻痺させた。親の資産すべてを、俺が今を楽しむことに充てた。

 怠惰と豪遊、暴飲暴食に明け暮れる中で、俺の体重は三桁寸前にまで増加していった。この世の醜さをすべて集めたような容貌となった俺が、か弱いものを犯すというシチュエーションに性的な興奮を覚えて、公園で遊ぶ幼い女の子の目の前でマスターベーションに耽るようになったのは、この時期のことである。

 二十件ほど犯行を繰り返したところで逮捕され、起訴されて拘置所まで行った。執行猶予つきの有罪判決を受けるまでの約三か月の間、規則正しい生活を送って、ほとんど元通りの体に戻ったところでこの性癖もなくなったのだが、最後に俺がいたずらをしたときのこと――後頭部に俺の大量の精液を浴びながら、何が起こったか気づかず、鼻を垂れながら無邪気に砂遊びを続けていた幼女の間抜けな面と、宝物を汚された母親の引き攣った顔を思い出すと、今も催してしまう。

 拘置所から出て家に帰ってみると、両親が壊れていた。母親は言動が支離滅裂になり、髪の毛をすべて引き千切って、夜中に奇声を発し始めた。殴ったらますますおかしくなり、手に負えなくなったので精神病院に放り込んだ。身も心も弱り果てた親父は睡眠障害を患って働けなくなり、しばらくして、何もかも捨てて何処かに去っていった。

 両親の貯金はすべて食いつぶしており、俺に残されたのは持ち家だけとなった。親の庇がなくなった後も贅沢をやめられなかった俺は、家を売りに出して現ナマを作り、アパートで暮らしながらそれまでの生活を維持していたが、一年が限界だった。慌てた俺は知恵を絞り、障害者枠に入って、年金と生活保護だけで暮らす道を模索したが、審査は厳しく、手帳の取得は叶わず、働くしかなくなった。



「・・・てな感じ。もうすぐ家に着いちまうから、いったん終わりにしよう。続きはまた今度、な」
 隣町のファミレスから派遣会社の寮までは、車で三十分はかかる。丸菱運輸の倉庫の近くにも、飲食店は幾らでもあるが、会社の連中に俺と話しているところを見られたくないという東山に配慮して、わざわざ電車とバスを乗りついで、遠くまで足を運んでやったのだ。

「さあ、俺がここまで話したんだ。今度はお前の人生を聞かせてくれよ」

 ひとしきり喋り終えた俺は、再度、東山に水を向けた。

「・・・・・・・・少年院では誰よりも熱心に課題に取り組み、何度も表彰を受けた。外に出たら一緒に犯罪集団を組んで、また悪さをしよう、などと話し合うようなどうしようもない奴らを後目に、真面目一途に更生に取り組む俺は、先生たちから毎日のように褒められていた」

 俺の自分語りで何かを感じてくれたのか、ようやく東山が、少年院に入って以後の己の人生を語り始めた。俺は長広舌で渇いた喉を、東山に買わせた茶で潤し、話に聞き入った。

「模範的な態度が認められて、当初、成人するまでの五年の見込みだった特別教育の期間を三年にまで縮めて出所した俺は、保護司の紹介で運送屋に入った。一日十五時間労働、土曜も日曜もない過酷な毎日で、給料は手取り二十万。生活は楽ではなかったが、俺は被害者さんへの送金を欠かしたことはなかった。同僚の奴らは給料が低い、仕事がキツイと愚痴を零してはすぐ辞めていったが、俺はそんな根性なしどもとは違う。一生懸命に働き、会社に忠誠を尽くして、入社三年で経営幹部にまでなった。その会社は俺が二十五歳のときに潰れたが、すぐに今の会社に再就職して、給料は以前の倍になった」

「ふうん・・・すげえじゃん。奥さんとは、どうやって知り合ったの」

「今の会社に入社したころ、同じ会社で事務員をやっていた女房は、当時結婚していた男からのDVに悩んでいた。話を聞いた俺は家に乗り込み、そのクズ男を成敗して、女房と別れさせた。その後も親身に相談に乗るうち、俺の方が好きになっていた。男性恐怖症気味になっていた女房には交際を断られたが、俺は諦めなかったよ。一年も二年も、繰り返し交際を申し込み続けて、ついに承諾の返事を貰うことができた。そして結婚し、娘も産まれた」

「泣けるねえ。涙がちょちょぎれるような、感動のサクセスストーリーだねえ」

「男は社会に出たら、自分ひとりの器量の勝負なんだ。罪を犯した者でも、努力をすれば必ず成功できるんだ。俺はお前とは違う。犯した罪を反省もせず、だらだらと怠けながら生きているお前とは違う・・・」

 不協和音を耳にしたような、なんともいえぬ心地の悪さが胸に広がる。東山の口から語られる、殊勝な心掛けのようなものの裏に見え隠れするのは、傲慢さと歪んだ自己顕示欲。やはりこの男の歯車は狂っている。どうしようもないほどにだ。

 東山は根本的な勘違いをしているのか、わかっていて目を背けているのか知らないが、世間から見れば、山里愛子を殺害してしまった時点で、東山はもう、スタートラインから先には永遠に進むことができない人間になってしまっているのだ。本人がどれだけ努力しても、世間の連中は褒めてはくれず、償いとして当たり前のことだとしか見てくれない。承認欲求を満たそうとすれば、人としてのスタートラインにも立っていない、俺のようなダメ人間を見下して悦に耽るしかないが、それをしながら、「男らしさ」を売りにするという矛盾に、本人はまったく気が付いていない。山里愛子を殺害した償いは済んだと思っているようだが、それを人にアピールしている時点で、自己満足しているだけにすぎない。反省したかどうかというのは自分ではなく、他人が判断するものである。

 世間で正しいとされる価値観に染まれないが故に、悪の道に走った俺と、正しい道を「暴走」しようとした東山。あれから十八年の時を経て、二人のうちリードしていたのは、あるいは東山の方かもしれない。三十を過ぎて零細派遣会社で働き、借金まで抱えている俺に対し、東山は田舎の運送会社とはいえ管理職にまで出世し、結婚して子供までいる。人の価値を収入や社会的地位で測るならば、確かに俺は、東山に大幅に後れを取ってしまっているのかもしれない。

 しかし、歪んだ人格がすっかり凝り固まってしまった結果、世間で正しいとされる価値観からより離れてしまったのも、東山の方である。他人の気持ちを想像することができず、己の立場を客観視することもできない、自己中心的な性格。自分と違った考え方の人間とまったく折り合いをつけられず、気に食わなければ力ずくで取り除こうとする排他性。身体はでかくなったが、東山の根っこは、イジメられっこだった中学時代の東山円蔵くんのころから、何一つ成長していない。

 この性格では、他人から散々、余計な恨みも買っているに違いない。俺がバラさなくても、いつかはこの男の過去は、東山を追い落とそうとする誰かの手によって調べられ、白日の下に晒されてしまうだろう。

 殺人犯という自分の分を弁え、目立たず、騒がず、静かに、孤独に生きていれば、誰の恨みも妬みも買うこともなく、それなりに楽しく、穏やかな一生を送ることもできただろうに・・・。目の前でハンドルを握る男は、紛れもなく大馬鹿者、底の底まで愚かな男である。

 だが、俺は東山の生き様を、諸手を上げて支持する。

 過去にどんな罪があろうが関係ない。どんなクズのようなヤツでも関係ない。人生は楽しんだモン勝ちだ。自分は殺人犯だからと、ダメ人間だからと、クソみたいな人生を送ってきたからと、自分に勝手に蓋をして、くだらない社会なんぞに遠慮して、可能性の閉ざされた人生を送るよりは、思い通りに行かないこと、都合の悪いことは全部他人のせい、社会のせいにして、好き勝手に生きた方がマシだ。世間から袋叩きに合うリスクを承知で、家族を作り、努力して出世までした東山のことは、旧友として鼻が高いし、尊敬さえする。

 反省などクソくらえ。エゴが強すぎる自分を直そうとせず、自分のエゴを最後まで貫き通した東山こそが正解なのだ。

 だから俺も、自分の過去は一切反省せず、自己責任の範囲内で、東山から金をむしり取り、自分なりの幸せを手に入れる。他ならぬ東山が教えてくれたこと――くだらない世間の価値観など無視すれば、人間の可能性は無限だ。 

「俺はお前なんかとは違う。お前のようなクズとは違う・・・」

 俺が自らの散々な過去を打ち明けたことで、東山は中学時代のトラウマを払しょくし、苦手意識を克服できたようだ。他人を見下すことでしか己の存在価値を認識できない東山に自信を与える役割を果たしてあげられ、俺も慊焉たる気分である。これで溜飲を下げてもらって、気持ちよく金を吐き出してほしいものだ。

 俺を見下したいならば、いくらでも見下せばいい。俺のプライドは山よりも高いが、金に代わるプライドはない。相応の金にさえなるのなら、俺は裸で土下座もするし、靴の裏でもなめてやる。世の中に、貧しさほど惨めなものはない。プライドを売り払って金になるならば、これほどボロい商売はない。

「クズでもゴミでも構わねえけど、払うもんはきっちり払ってもらうぜ。今の職と家族を失いたくなきゃあ、俺の言われた通りにするんだ。お前の命運は俺が握ってるんだぜぇ、東山ぁ」

 デミオが、ゆっくりと停車する。身を起こして、サイドウィンドウから車の外を見ると、周囲には木々が鬱蒼と茂っていた。見慣れない風景。派遣会社の寮には、まだ到着していないようである。
「なんだよ、小便かい?」

「・・・・」

「おい、東山・・・」

 いつの間にか車内には、はっきりと感じ取れる、嫌な空気が立ち込めていた。人の道を外れた者にしか発することができない、濃い瘴気である。

 すっかりいい気分になっていて、つい油断した。非力だった中学時代の東山円蔵くんのイメージが抜けていなかった。口ではきれいごとを吐き、真っ当な人生を送っているかのように語るこの男だが、一皮剥けば、かつて同級生を滅多刺しにして殺害した、冷血な殺人鬼なのである。

 一歩も動けなかった。車から飛び出したとしても、酒に酔った今の俺では、体力に勝る東山から逃げきることはできない。まな板の上の鯉の如く、ただ何も起こらぬことを祈るしかないのである。

 祈りは叶わなかった。東山が修羅の形相で振り向き、恐ろしい速さで後部座席に移ってきた。

 東山の、グローブを嵌めているような巨大な手が、俺の頸動脈を締め上げる。同じ人間とは思えない怪力。声をあげることもできない。窒息するより先に、首の骨が折れてしまいそうだった。糸ミミズのような血管が幾つも浮かんで真っ赤になった双眸。あの山里愛子も、今わの際に、この恐ろしい眼を見たのだろうか。

 やがて意識が遠のいていく。視界がぼけて、歪んで見える東山の顔はアホのようだ。脳内の酸素が枯渇して苦痛は薄らぎ、逆に天に昇るような快感を感じる。

 いよいよ、俺の悪運も尽きようとしている。死ぬことに恐れはない。こんな、何の展望もない人生に縋りつく理由は何もない。ただ、できれば自分の人生には、自分の手でケジメをつけたかった。俺を泥の底まで落とし込んだ奴ら・・俺を排除したこの社会で楽しそうに暮らす奴らに、せめてもの傷痕を残してから死にたかった。俺に幸福になる芽がないのなら、せめて道連れを増やしたかった。

 まだ俺には、やり残しがある。

「かはぁっ!」

 酸欠でブラックアウトしていた視界に色が戻る。東山はドライバーズシートへゆっくりと引き上げていく。

「お前は、殺す価値もない悪魔だ」

 間一髪のところで思いとどまった東山は、今度こそ派遣会社の寮に向かうべく、車を走らせ始めた。恐ろしさで身がすくみ、言葉を返すこともできない。

 これから東山を強請り続けるとしたら、また自分の身に危険が及ぶこともあるかもしれない。しかし、やめるつもりはない。学も資格もなく寄る辺もなく、若くもない俺のこんな人生がマシになるとすれば、何であれリスクを回避することはできないのだ。

「長ぇ付き合いになりそうだな・・・。よろしく頼むぜ、東山ぁ」

 寮に辿り着く直前で、何とかそれだけ絞り出した。東山はなにも答えなかった。

外道記 改 1

 
                        
                        1                         
  

 薄暗い倉庫の中には、梅雨時特有の纏わりつく湿気が蔓延している。北関東ローカルの陸運会社、丸菱運輸。体育会系のカルトな思想に魅入られた社員の連中の怒号がそこここで飛び交う、戦場のような環境で、最下層民である派遣スタッフの俺は、梱包作業に勤しんでいた。

 それぞれ大きさの違うA、B,C,Dの箱に、対応するサイズと数量の化粧品とカタログを、ひたすら詰めていくだけの、サルでもできる単純労働。時間が流れるのがひたすら遅く、思考能力が退化していく感覚に襲われる。立ちっぱなしの足はパンパンに張り、土踏まずには絶えず痛みが走っている。柑橘類の果実を握りしめたように、全身の毛穴から噴き出る汗。鼻孔に侵入するツンとした臭いが、ストレスに拍車をかける。

「おい。てめえ、作業の手順間違ってんじゃねえかよっ」

 社員の中井が、ヤニで黄ばんだ歯をむき出しにして派遣スタッフを怒鳴りつける。中井は二十三歳。怒鳴られている派遣スタッフは、中井の親ほどの年齢である。

「いや・・こっちの方が効率がいいと思ったから、そうしてるんだよ」 

「口答えしてんじゃねえっ。てめえは下っ端。偉いのは俺。てめえは言われた通りにやってりゃいいんだよっ!」

 中井が派遣スタッフの頭を、クリップボードで打擲する。指導の名を借りた権力の誇示。暴行罪が成立する事案だが、仲間の派遣スタッフは、特に色めきだつわけでもない。ただでさえ辛酸をなめ続ける人生で奴隷根性を植え付けられている上、人の出入りが激しすぎる派遣スタッフ同士には、仲間意識や連帯感が欠如している。皆、自分の食い扶持を稼ぐことだけに必死で、他人に無関心なのである。

「今度反抗しやがったら、てめえぶっ殺すからな!」

 中井にとって「ぶっ殺す」とは、「おはようございます」と同じ感覚で放たれる言葉である。それを聞きなれた俺たちも、さして抵抗は感じなくなっている。怒鳴られ、脅され、殴られることが、すっかり日常に溶け込んでしまっている。いまどきは動物の躾でも、無暗に怒鳴り、叩くことは推奨されていないというのに、この仕打ち。サルなみの単純労働に従事している俺たちの扱いは、サル以下である。

 確かに怒鳴り、叩けば、その場では労働者は頑張るが、こんなやり方では、絶対に人は定着しない。しかし、いつでも首のすげ替えがきく、非正規の派遣労働者を使う側としては、実はこれで間違いではない。技術の習熟が必要ない単純労働者ならば長く居ついてもらう必要もなく、失業者で溢れ返ったこのご時世なら、頭数はいくらでも確保できる。労働者の給料が用度課で計算され、雑費として帳簿に記載される人材使い捨ての職場で、悪循環が日々繰り返されているのだ。

「おい、お前。お客さんに迷惑かけてんじゃねえよ!」

 わざわざ他のテーブルから、頭を叩かれた派遣スタッフのところまでやってきて追い打ちをかけるのは、古株の派遣スタッフ、深山。丸菱の正社員に媚びへつらうのを事とする、阿諛追従の徒。この男、自分が派遣先の丸菱か、派遣会社・海南アスピレーションの正社員に登用されようと必死になっているらしく、海南アスピレーションや丸菱の社員から頼まれたわけでもないのに、同じ派遣スタッフに威張り散らし、やたらと仕切りたがるのである。

「てめえ、勝手に持ち場を離れてんじゃねえ!」
 
 せっかく派遣スタッフに説教をし、正社員にいいところを見せようと思ったのに、当の正社員の中井には褒められるどころか雷を打ち落とされて、深山は肩を落として自分のテーブルに帰っていった。このように、丸菱の社員は深山がいくら頑張ってもけして認めず、単にチクリ屋として利用しているだけなのだが、本人はそのことに気づいておらず、いつの日か正社員として引き上げてもらえる日を夢見て、徒労を続けているのだ。あるいは、本人も本当に正社員に引き上げてもらえるとは思っていないが、気分だけでも、「お前らとは違う側の人間だ」と思いたいだけなのかもしれない。
 
 深山の気持ちもまったくわからないではないが、指揮命令者たる正社員ならともかく、同じ立場の派遣スタッフに偉そうにされれば当然いい気はしないから、今まで深山と他の派遣スタッフとの間に起こったトラブルは数知れない。深山は俺たち派遣スタッフにとって、中井のような猛獣の脅威ではないが、顔の周りを飛び回るハエのような厄介な存在だった。

「やってらんねえわ」

 飽きた。疲れた。しんどい。つまらない。口を開けば、ネガティブな言葉ばかりが溢れ出てくる。それが正解、それが当然だ。こんな仕事、こんな俺の境遇を、職業に貴賤はないとか、今の貴方の頑張りはきっと将来につながるとか、キレイごとで誤魔化そうとするヤツは、それを言った自分が気持ち良くなりたいだけの偽善野郎だ。辛いくせに声も上げず、黙々と働いているヤツは大馬鹿だ。文句を言わないから、黙ってるから、何も変わらないし、何も良くならないのだ。

 ふと、ペンスタンドの中に納められたカッターナイフを手にとってみる。ちょっと周りを見渡して、首筋を切りつけるのに相応しい相手を探してみる。中井、深山・・・。不快な奴は数多かれど、どいつもこいつも、取るに足らぬ奴。こんな雑魚に、一回こっきりのチャンスは使えない。俺の三十二年間の恨みを、すべて乗せられるようなヤツはいない。人生にケジメをつけるのに、相応しいと思える相手は、ここにはいない。糞面白くもない娑婆に惰性で留まり続ける日々が、こうして今日も続く。

「蔵田さん、どうしたんですか。浮かない顔をして」

 中井が作業現場からいったん離れ、デスクで伝票の集計作業に入ったのを見計らって、同じテーブルの向かいで作業をしていた、宮城利通が声をかけてきた。

 宮城は俺とほぼ同時期に丸菱の倉庫に配属された派遣スタッフ。同じ寮で生活をしていることもあり、横のつながりが希薄な派遣スタッフの中にあって、ただ一人気軽に会話を交わしあえる間柄である。年齢は、三十二歳の俺より三つ年下の二十九歳。だが、初見で彼の年齢を言い当てられた者はいない。大概は実年齢より老けてみられるわけだが、失礼な話、彼の場合は若いとか老けているとかいう問題ではなく、まず、ちゃんとした人間として認められるかどうかというところから、すでに怪しい容貌だった。 

 身長は日本人男性の平均程度だが、体重は九十キロをゆうに超えているであろう肥満体。大きくあるべき目は悲しいまでに小さいが、小さくあるべき鼻はバカでかく、また豚のように鼻孔が上を向いている。唇は腐った明太子のように太く、血色が悪い。肌はクレーターのようなニキビ跡と吹き出もの、イチゴの種のような毛穴汚れに覆われ、腐乱したジャガイモのようにくすんでいる。硬そうなヒゲの剃り残し。もともとの骨格が大きいのに、さらに脂肪がついたことで、常人の倍以上もの広さになってしまった輪郭。ワカメのような痛みきった頭髪。メガネは今風のカジュアルなデザインではなく、レンズが大きな時代遅れのデザイン。

 俺の容姿とて人を偉そうに見下せるほどのものでもないが、この宮城より醜いことはないと断言できる。昔から、自分より何かしらの部分で劣った人間としか交友関係を持てない俺が、一緒にいて心の底から安心できる相手。容姿のみで俺の優越感を満たしてくれる得難い存在。まだ三か月程度の付き合いだが、宮城は今や俺にとって、ベストフレンドといえるかもしれない男だった。

「いや・・・ちょっと、こっちの方がな」

 俺は右手でわっかを作り、現在、金に窮乏している自分の状況を宮城に伝えた。そう、何もかもは金。こんな劣悪な職場にしがみ付かなくてはならないのも、俺に金がないせいである。

 現在、消費者金融からの借金、六社合計で二百三十二万円。親父が死に、お袋が精神病院に入院して一人で暮らすことを余儀なくされた二十五のときから、積もり積もって、この金額である。

 借金苦に陥ったのにはそれなりの理由があるはずなのだが、なぜかそれが思い出せない。風俗には行った。ギャンブルはしなかった。タバコは嗜まない。酒は飲む。飯もたまにはいいものを食った。「同居人」のエサ代は、犬猫と同じ程度にはかかっている。

 自分では節度を保って生活をしているつもりなのに、どういうわけか金欠に陥ってしまう。今月も今月で、とくに贅沢をした記憶もないのに、気づいてみれば預金残高は四桁を割り、残りは手持ちに福沢諭吉が一枚、野口英世を三枚、あとは両替のできない小銭十数枚を残すのみとなってしまった。

 非正規の仕事を渡り歩いたここ五年の年収の平均、二百二十万という額が少なすぎるのか、俺の金銭感覚がおかしいのか。ともかく、今のままの生活がジリ貧なのは確かだった。

「給料日までは、あと十日間ありますね・・。今、どのくらい持ってるんですか」

「八千円くらいかな・・。この間、甥っ子が事故起こしたり、叔父さんがヤクザと揉めたり、色々身内にトラブルが重なって、援助しなくちゃいけなくなってさ。派遣会社からの前借も限度額いっぱいになっちゃったし・・・。このままじゃ、牛丼くらいしか食えねえよ」

 あわよくば、宮城がいくらか融通してはくれないだろうかと期待し、俺は手持ちの金を控えめに申告し、モラリストを気取る宮城の同情を誘いそうな文句を並べた。もちろん、身内のトラブルなどは、真っ赤な嘘である。自分が窮してでも身内を助けるような義理堅さがあれば、俺は齢三十二にして天涯孤独になどなっていない。

「なんだ。それだけあれば、十日間くらいなら余裕で過ごせるじゃないですか」

「え?」

 宮城から返ってきた予想外の言葉に、俺は我が耳を疑った。全財産八千円で十日間を過ごせるという金銭感覚があまりにもリアルでなく、職場でたった一人の友人が餓死の危機に瀕しているのを見捨ててしまう、ただの薄情としか思えない。

「ようするに、一日の食費を八百円に抑えれば凌げるわけでしょう?自炊をすれば楽勝ですよ。牛丼なんて贅沢です。僕なんか、付き合い以外の外食はここ三年記憶にありません。あとで、月一万五千円で栄養のバランスが取れた食生活が送れる、僕の節約レシピをお渡ししますよ」

 たった一万五千円で、どうやったらその巨体を維持できるのか?嫌味というか、素朴な疑問をぶつけたいが、今、宮城の機嫌を損ねてはいけない。生きるか死ぬかの瀬戸際である。

「い、いや、飯だけじゃなくて、携帯料金の支払いもあるし・・。もう、四日後には止まっちゃうんだよ」

 俺たちが在籍している海南アスピレーションでは、派遣スタッフ一人ひとりに、家を出た際の「家出報告」、勤務が終了した際の「終了報告」を、会社への電話連絡にて行うことが義務付けられている。連絡を怠った場合には、家出報告には罰金百円、終了報告には罰金二百円のペナルティが課せられており、四日後に携帯が止まってしまえば、二週間後までの合計勤務分の罰金千五百円あまりが、翌月の給与から差っ引かれてしまう計算だった。

「携帯が少しくらいの間止まったとしても、人間死ぬわけではありません。むしろこれは、蔵田さんが今までの生活を見直すチャンスです。千円、二千円くらいのお金は、自分への戒めと思って、払っておくべきですよ」

 宮城の言っている意味が理解できない。豚語を喋っているのではないかと思う。

「そんな連れないこというなよ・・。宮城くん、東南アジアの子供たちを救うボランティアに参加してるんだろ?目の前に困っている人がいるんだから、助けてやってもいいじゃないか」

 俺はついに、宮城に金を融通してほしい旨を、直截に申し出た。まさかこの豚が、ここまで話のわからない奴だとは思わなかった。宮城の慈愛の心に期待していたら、千年経っても埒が明かない。

「それとこれとは話が別です。僕がボランティア活動に力を注ぐのは、自分の力だけではどうにもならない子供たちを助けるためです。自分の力で自分を救済できる人は、自力で頑張るべきです。今の蔵田さんは、助けを必要とする段階ではないですよ」

「でもよ・・・!」

 頭にカッと血が上る。この手の偽善野郎は、俺がもっとも嫌う人種の一つである。

 そう、この豚は偽善者だ。何のかんのと理屈を垂れているが、ようするにこいつは、他人に自分の行いを褒めてほしいだけだ。だから、一目で弱者ということがわかるような、海外で飢えている子供などには慈愛の手を差し伸べ、見た目には分かりづらい、他人に同情されにくい俺のような、日本国内での相対的な経済的弱者は無視する。この豚は、たとえ友人であっても、己の利害に絡まなければ一切助けようとはしない、薄情な偽善者だ。

 クソ豚が。貴様は人を助けている場合か。貧困国のガキを救う募金を集める前に、その遺伝子の不幸としか言いようがない顔の整形手術代の募金を集める方が先だろうが。

 このまま引き下がるわけにはいかない。このままでは、俺はただ豚に説教をされただけで、何も得るものがないではないか。

 何が今までの生活を見直すチャンスだ。何が自分で自分を救済しろだ。努力だの、反省だの、そんなもんで何とかなるくらいなら、俺はこんな底辺のゴミ溜めには落ちていない。

 俺はどうしようもないのだ。生まれたときからどうしようもなかった。遺伝子の不幸などと、宮城をバカにしていられる立場ではない。

 度外れた自我の強さ。どんなに努力しても、他人が作った世界に交われない、この不自由な脳構造を持って生まれてしまった時点で、俺の凋落は決まっていたのだ。



 有名企業に務める会社員の親父、市役所勤務のお袋。中の中の経済力。そこそこに躾けられ、そこそこに愛情を注がれて育った。

 身体に障害があるわけでもなく、大きな病気もしたことはない。発育も良好。知能も至って正常。どこにでもいる普通のガキだった。

 ただ一つ違うところがあるとすれば、それはいわゆる駄々っ子だったことだろう。とにかく、ワガママでどうしようもなかった。食事のメニューが気に入らなかったり、おもちゃを買ってもらえなかったりすると、一晩中でも泣いて騒いで、両親や、保育園の先生を困らせた。

 それでも、年齢一桁台のころまでは、特に問題児のレッテルを張られることもなかった。友達も沢山いて、お泊り会だの誕生日会だのにもよくお呼ばれしていた。

 どの辺からまずくなったのか、ターニングポイントというものがあるのだとしたら、小学校高学年になったころだろう。反抗期が訪れ、自我というものが強烈に目覚める時期のことである。

 俺の場合、その自我が強くなりすぎた。幼少期に見られた、ワガママ、駄々っ子という部分が、精神的成長により収まるのではなく、より増幅されてしまったのである。協調性に欠けたり、周囲の足並みを乱したりということで教師から注意されることが多く、両親にも体罰を伴う叱責を受けた。

 自我が強すぎることは、他の大きな弊害ももたらした。世間で美徳とされている価値観に染まれないのである。友情、愛情、尊敬、謙遜、努力。そういうキーワードが、どうしようもなく受け付けなかった。みんながこぞって持てはやすもの、たとえば流行りのテレビ番組やゲームといったものもダメで、自分の感性に合えばいいのだが、自分にとって好もしい要素がない場合、強烈な拒絶反応を起こしてしまうのである。そのせいで友達がどんどん離れ、浮いた存在になっていった。

 奇行、異常行動も目立った。クラスメイトの間で流行っていた交換日記を校内放送で朗読する、学校にエロビデオを持ち込んで備え付けのテレビで上映する、通学路に立つ雪だるまに犬の糞を仕込み、雪だるまを壊して回るやんちゃ坊主を自爆させる、などといったことは可愛いもので、学校で飼育している動物の檻を破壊してチャボやウサギを逃がしたり、焼き芋をするなどと言って体育館裏でボヤ騒ぎを起こしたり、好意を持つ女子児童のリコーダーを盗み、中に精液を仕込んで戻すなど、結構シャレにならない悪事を働いていた。

 そんなことをしても金が貰えるわけでもなく、褒められるわけでもないのに、何をやっていたのかと思うが、今から思えばおそらくあれは、自己顕示欲を満たさんがゆえの行動であった。周囲の価値観に染まれない俺は、悪事によって注目を浴び、自分の世界に周囲を巻き込むことで、己の存在証明をし、居場所を作ろうとしていたのだろう。

 周りから見ればさぞかし厄介で迷惑なガキであったことだろうが、そんな俺でも、悪事の発覚後に親や教師に怒られたり、やりすぎによって学級の中で自分の立場がまずくなりすぎたときは、人並みに反省はした。後悔の気持ちもあった。といっても、その反省は、被害者に対して申し訳ないというものではない。犯罪的傾向のある者の多くがそうであるように、悪事を反省するといっても、「次はもうしないようにしよう」と考えるのではなく、「次はもっとうまく、バレないようにしよう」と考えるようになっていったのである。

 中学に入るころには集団と足並みを揃えることを学び、授業態度や問題行動といった部分は改善された。しかし、本当に溶け込めたわけではない。適応を見せたのは表面上のことで、周囲との間に感じる「ズレ」は、むしろ益々大きくなり、我欲肥大の傾向も歯止めが利かなくなっていた。

 貧乏な家に生まれていたり、治安の悪い地域に住んでいれば、この時点で不良グループに取り込まれていてもおかしくはなかっただろうが、幸いにも環境だけには恵まれていたお蔭で、表向き、グレるところまではいっていなかった。髪も染めないし、タバコも吸わない。遅刻せず学校に行き、大人しく授業を受ける俺は、教師からは手のかからないガキと見えていただろう。しかし、俺は裏で悪さを働いていた。

 俺の中学には特殊学級が設置されており、所属する生徒は、給食や特別活動の時間には普通学級に来て交流を持つ決まりがあったのだが、中学二年のとき、俺は自分のクラスに来る男の知的障害児を、こっぴどくいじめていたのだ。

 直接暴力をふるったり、暴言を浴びせていたわけではない。小学校のときに散々痛い目を見た俺は、表の顔と裏の顔を使い分け、陰に隠れてコソコソ悪事を働く術を学んでいた。

 教室が変わったなどと偽って、他クラスの女生徒が着替えている部屋の扉を開けさせる。便所に行きたいといえば、わざと遠回りをして失禁に追い込む。誰それが君のお母さんをさらっちゃったよ、などと吹き込み、暴力沙汰を起こさせる。障害児のお世話係を務めていた俺は、やりたい放題だった。当初から狙っていたわけではなく、たまたま、じゃんけんで決まった係だったのだが、障害児は不幸だったとしかいいようがない。

 直接的なきっかけは、奴が俺の給食によだれを垂らしやがったとき、障害者だからという理由で不問に付され、怒りを見せた俺の方がなぜか悪者扱いされた、という一件を根に持ったことではあるが、それは最初の一回で解決し、あとはただの憂さ晴らしだった。

 勉強もスポーツもできない、顔も別にふつう。面白いことができるわけでもない。誰からも注目を浴びることもなく、好きな女には見向きもされない。糞面白くもない毎日で感じる欲求不満を、自分よりすべてが劣る者をいたぶることで解消していた。

 黒幕が俺とは、なかなか気づかれなかった。俺は一割で障害児を苛めながらも、残りの九割で、障害児に優しくしていたからである。障害児に問題行動を起こさせれば、障害児はクラスで嫌われる。すると障害児は、ただ一人の味方である俺をますます頼りにするようになる。障害児は問題行動を起こすとき、俺に命令されていることは誰にも言わなかった。

 そんな毎日が半年続いたころ、俺の悪事は、一人の男によって暴かれた。東山円蔵。俺の運命を変えた男である。

 東山という男を一言でいえば、「いじましい奴」であろう。

 授業では教師を質問攻めにしてテンポを遅らせ、クラスの皆から顰蹙を買うほどなのに、成績はドンケツ。運動ではバスケットボール部に所属していながら、異常な非力からフリースローがゴールに届かず、かけっこでは女子のスキップにも負ける始末。

 おまけにルックスも良くなかった。病的に生白い肌。紫色の唇。カマキリみたいに尖がった顎。牛乳瓶の底みたいなメガネ。後頭部が存在しない絶壁頭。第二次成長前とはいえ身長は百五十センチにも満たず、手足は細いのに胴体は太い、昆虫類じみた体形。

 己に絶望し、引きこもりになってもおかしくないような男だったのだが、どういうわけか、東山にはコンプレックスというものが微塵もなかった。何のとりえもない癖に、奴は出しゃばりの目立ちたがり屋で、クラスでは学級委員、学年では生徒会長に立候補し、所属するバスケットボール部でも、応援団長を務めていた。

 ひたむきに頑張るのも自分の範囲内だけで終わっていれば、皆から応援もされ、愛されもしただろう。しかし奴には悪い癖があった。自分の努力、根性、お涙ちょうだい物語に、他人を巻き込むことである。

 学級委員では「ありがとう運動」などと称して、一日一回は誰かに「ありがとう」と言い、帰りの会の際に、どこで、誰に、どういう場面で「ありがとう」と言ったのかと、一人ひとりその件についての詳細を発表させることを強要する。応援団長では、声の出ていない生徒を腕立て伏せ百回の刑に処したりする。大人たちからは校内の活動や地域の活動に積極的に参加する、いまどき感心な優等生と見られていたのをいいことに、教師の威を借りて、周りに自分の自慰を見せつけるようなことばかりやっていたから、被害に遭った生徒は東山を憎み、直接かかわりのない生徒も、憐れみ半分、嘲笑半分といった目で東山を見ていた。

 その東山が、とうとう俺の悪事を暴いた。こともあろうに、学年集会の場で俺を糾弾するという大げさなやり方で、である。

――蔵田くん!君は人として大変な罪を犯したんだぞ!わかっているか!?さあ、檀上に上がってこい。ここで被害者に謝るんだ!

 檀上から俺を指さしながら、マイクを通した、変声期前のキンキン声で俺に謝罪を迫る東山。明らかに東山が注目を浴びたいがための演出過剰なのだが、当時は世間でイジメ問題がかまびすしかった時期だったのもあって、学年集会の場には、東山に感化されて、俺を非難する空気が蔓延した。やがてゴリラのような体育教師が俺のところにやってきて、無理やり檀上に引っ張り上げられ、イジメていた障害児と対峙させられた。
 
――さあ、ほら!被害者に頭を下げて謝るんだ!

 体育館に巻き起こる、謝れコールの嵐。人の言いなりになることを何より嫌う俺だが、とうとうプレッシャーに耐えきれず、状況がよくわからず呑気に鼻くそをほじっている障害児に頭を下げ、ごめんと謝ってしまった。

――蔵田くん、よく謝ったね。勇気ある行動だ。みんな、蔵田くんを許してくれるかな?

 体育館中に響き渡る、東山に扇動された愚かな大衆どもからの拍手の中、俺は屈辱に打ち震えていた。誰よりも自我が強く、他人に支配されることを嫌う俺が、東山が監督、主演、脚本を務める舞台の上で、一方的なやられ役を演じさせられたのである。腸が捩じ切れそうな怒りで、その日からしばらく、眠れぬ夜が続いたものだった。

 俺にとっての悪夢はそれで終わらなかった。東山は、全校集会から一週間後に、いじめ撲滅を目的とする「君を守り隊」なる委員会を設立。自らが委員長の座に収まり、積極的な活動を展開し始めたのである。事件は風化せず、俺はさらにまずい立場に追い込まれたわけだが、東山の暴挙はそれだけに留まらなかった。

 こともあろうに東山は、俺を「君を守り隊」の委員に勧誘してきたのである。

――蔵田君、僕たちと一緒に頑張ろう!いじめた側の君が、いじめをなくす側に回る。その意義は大きいんだ!

 己のくだらないヒーローごっこのために、東山はこの俺をやられ役のみならず、己の引き立て役として利用しようとしてきたのである。

 タチが悪いのは、東山には一切の悪気がないことだ。俺を「公開処刑」にしたことも、己が痛めつけた俺を自分の手下にしようとしているのも、すべて純粋に、よかれと思ってやっている。己の自己顕示欲を満たそうとするだけの行為を、本当の善意から出たものと思い込んでいる。

 東山は、やり過ぎであった。俺が悪であり、俺がやっていたのは悪いことである。そんなことは、百も承知である。いきなり公衆の面前で糾弾するのではなく、会議室に呼び出すとか、放課後の教室で、人目に触れないところで俺を咎めればよかったのだ。

 それで俺が改心し、悪行をやめたかどうかはわからない。東山のことなど舐め腐って、知的障碍児をイジメ続けていたかもしれないが、そうしたらそのとき始めて、全校集会の場でやり玉にあげればいい。それだったら、忠告に従わなかった自分が悪かったと納得できたかもしれない。少なくとも、俺が東山に反撃したとき、同情の余地もない逆恨みということになっただろう。

 それが、東山が目立ちたいあまりに、然るべき手順を踏まず、いきなり俺を「公開処刑」にしたせいで、俺はプライドもメンツも、何もかもメチャメチャに潰されて、引くに引けなくなってしまった。さらに、昏い怨念の炎がずっと燻っているところに油を注ぐがごとく、東山は、俺を君を守り隊に勧誘してきた。

 ここまでにコケにされたことで、俺は、東山への復讐を決意した。許すべからざるあの偽善野郎を、絶対に這い上がってこれない地獄に突き落とさなければ、気が済まなかった。

 東山に対する怒りと恨みは頂点に達していたが、俺は焦らなかった。東山の「我が世の春」がいつまでも続くはずはないと、確信していたからである。俺は東山の、君を守り隊への参加については曖昧な返事をしつつ、目立たないように、おとなしく、一見、反省しているかのような素振りを見せながら、情勢の変化をじっくりと待った。

 俺の読みは当たった。設立当初こそ歓喜の声を浴びていた「君を守り隊」であったが、設立からわずか二か月後には、全クラスから批判の声が相次ぎ、廃止論が叫ばれ始めたのである。

 例によって、東山はやりすぎた。肩を軽く小突きあったり、バカやアホとちょっと言っただけの、単なる友達同士の軽口を大げさに全校集会の場でやり玉にあげたり、違反を犯した生徒には一週間の町内清掃活動を命じるなど、「君を守り隊」の取り締まり方は常軌を逸していた。

 重要なことは、「君を守り隊」を取り仕切っていた委員長が、カリスマ性溢れる人気者や、誰からも恐れられる武闘派ではなく、もともとは嘲笑と蔑視の対象にあった、不細工でバカ、運動音痴の東山だったということである。己の身の丈を弁えぬ傍若無人を働いた阿呆の末路。学年中に、東山に対する怨嗟が満ちてきたのを見計らって、俺は動いた。

 東山の机に、俺の精液で汚した女生徒の体操着を入れておく。それで東山は終わった。冷静に考えれば、まだ声変わりもしていなかった東山に、体操着をガビガビにするほどの精液を出す能力などないことくらい、中学一年生の性知識でもわかりそうなものだが、東山憎しに凝り固まった生徒たちは、事件を精査することもなく、あっさりと「ギルティ」の判決を下した。

「てめえ、調子こきすぎなんだよ!勘違いしてんじゃねえ」

「よりによっていじめられっ子の代表みてえなテメエがイジメ撲滅とか、冗談は顔だけにしろよな。身の程を弁えろ、バカ」

 精液体操着事件で、これまで抱えてきた不満の爆発した同級生たちは、その日から東山に対し、罵詈雑言の雨あられを浴びせるようになった。

 イジメを取り締まる「君を守る委員会」の委員長が、女子生徒の体操着に精液をかけるようなスキャンダルを起こしたことで、同級生たちに「イジメ=悪」の認識はまったくなくなっていた。それはつまり、かつて東山によってイジメっ子の汚名を着せられ、公開処刑にされた俺が、人権を取り戻すことができたということでもある。俺はこの機に、さらに自分の立場を安定させるために、東山を徹底的に痛めつけた。

 悪口、落書き、略奪などは朝飯前で、上履きに犬のクソを入れるようなことも平気でやった。クラスの女子生徒のスナップ写真を用意し、かわるがわるに東山に見せ、誰で射精をするかを楽しむ「ロシアン・オナニー」をさせたこともあったし、一週間ばかり入浴を禁じ、浮いてきた垢から「力太郎」を作らせ、それをフィギュアショップに売りに行かせたこともあった。東山を虐げるネタを考えさせれば、俺の頭は打ち出の小づちのように次々とアイデアを生み出したのである。

 皆に嫌われる東山を痛めつけることは、「良いこと」「積極的にやるべきこと」であった。誰よりも熱心に東山を痛めつけた俺は、いつの間にか学年中から尊崇を集め、中心的な人物となっていった。何一つ取りえのない俺が、東山を痛めつけることで、人気者の地位を得たのである。

 自我の芽生えとともに、問題行動が顕著になった小学校高学年以降、俺は友人というものを望んだことがなかった。いくら性格的に屈折していたといっても、自分から働きかければ、学校が終わったら家まで一緒に帰る友人の一人や二人できたはずだが、俺はアクションを起こすこともなかった。

 小学校低学年のころまであった、純粋に友達に囲まれる幸せ、楽しさが、なぜ、成長とともに薄れていってしまったのか。当時も疑問に思わないではなかったが、それはつまり、俺は「友人」ではなく、「支持者」あるいは「奴隷」が欲しかった、ということであった。自分を中心とした、自分が百パーセント優位に立てる関係にしか、興味が持てない。俺をちやほやし、讃えてくれる、もしくは、相手を完全に見下せる関係でないと、他人と付き合うメリットを感じられなかった。対等の関係にはまったく興味がなかったし、ましてや誰かを尊敬し、憧れるなどといった感情は、想像もできなかった。

 東山への報復行動によって、俺は自らの理想とする人間関係を得た。皆が俺に、次は何をしてくれるのかと期待を寄せ、期待に応えた際には喝采を送ってくれた。東山のお蔭で、俺は「金八先生」のような、めくるめく青春時代を送ることができたのである。

 自分を中心とした、自分が百パーセント優位に立てる人間関係にしか価値を見いだせないというのは、生徒会長だのに立候補してみたり、「君を守り隊」などを立ち上げてみたりなど、異常に目立ちたがり、特別な地位に執着を見せていた東山の方も、一緒だったように思う。裏道を行こうとする俺と、あくまで正道を貫こうとする東山のスタンスの違いだけで、俺たちは根本的には似た人間だったのだ。

 だからこそ、激しくいがみ合った。俺のせいで「理想の人間関係」を失い、一転して地獄に突き落とされた東山は、日に日に憔悴していった。

 かつては、「食べ物を残すことは、食べ物を作ってくれた人や、食べたくても食べられないアフリカの難民のような人たちに失礼だ!」などと言って、学級委員長の権限で、完食するまで昼休みに入れないルールを作っていたような男が、給食を半分も食べられないようになり、ただでさえ悪かった成績は全教科一けた台というところにまで落ちぶれ、口数も少なく、表情も沈みがちになっていた。

 東山に鬱病の兆候が表れていたのは間違いなかったのだが、教師たちにそれは伝わらず、以前のように覇気がなくなっていた東山を「最近元気がないぞ!しっかりしろ!」「昔のお前はどこに行った!やる気を出せ!」などと叱咤して、余計に追い詰めていた。狡猾さを覚えていた当時の俺は、教師にバレないよう、うまく東山を痛めつけており、またプライドの高い東山も、イジメ撲滅を掲げ「君を守り隊」など立ち上げた、その張本人がイジメを受けているなどということは、教師には言えなかったらしい。「男らしさ」という病のせいで、身動きが取れなくなっていたのである。

 俺にとっての絶頂、東山にとっての悪夢は終わらない。三年生次のクラス替えで、俺と東山は一緒になってしまったのである。これで卒業まで、東山は俺から逃げられなくなった。常に目の届くところから、東山をいたぶることができるようになったのである。

 三年に進級し、東山イジメはさらに激しさを増した。あるときはスティック菓子をケツの穴に突っ込んで、女子の群れに突撃させる。あるときは跳び箱の中に閉じ込め、中にミミズを入れる。あるときは墓地の墓石を倒させ、小便をかけさせる。狂気のアイデアを次々と思い浮かんでは、東山に実行させた。

 そこまでやっても、しかし東山は折れなかった。気丈にも皆勤賞を守り、栄養不足で痩せ衰えた身体で、バスケットボール部の練習にも参加していた。そして、驚くべきことには、「君を守り隊」の活動をも継続していた。無論、精液体操着事件で名声を地に落とした東山の言うことを聞く者など誰一人おらず、委員会は有名無実化していたが、東山は月二回の定例会議には必ず顔を出し、どんなにゴミ箱に捨てられても、冊子を作って全学年に配って回るなど精力的に活動を続け、必死に委員会の存続を図っていた。

 東山が頑張れたのは、彼に心の支えがあったからである。隣りのクラスの、山里愛子という女子生徒。ぽっちゃりした体型で、目が大きく愛らしい顔立ちをしていた彼女は、東山が作った「君を守り隊」の副委員長を務めており、他の委員が次々辞めていくなか最後まで残って、東山の活動を支えていた。

 東山から山里愛子を引き離すのは簡単だったが、俺はあえてそうしなかった。人を追い詰めるときは、逃げ道の一本は必ず用意しておくものである。すべての希望を奪ってしまえば、東山は学校に来なくなってしまうかもしれない。せっかく手に入れたサンドバッグをダメにしてしまうのはもったいない。消耗品は大事に使わなくてはならないと考えたのである。

 刺激的な毎日が続き、三年に進級して半年が経った頃。我が母校は、毎年恒例のイベントである、合唱コンクールを控えていた。大会に先立ち、クラスでは指揮者とピアノの演奏者が決められたのだが、東山は指揮者に立候補していた。合唱ではみんなをリードする立場であり、練習の際にも、自ずと指揮者を中心に段取りが組まれていく。東山の目立ちたがり、仕切りたがり欲はいまだ衰えていなかったのである。

 その日から毎日、放課後に三十分の練習時間が組まれたのだが、忌み嫌われる東山に従う者などいるはずもなかった。練習時間中は男子も女子も雑談やおふざけに興じており、特に東山を中心になって甚振っていた俺たちのグループなどは、東山の恥ずかしいところを纏めて作った「東山かるた」なる遊びを、大きな声を出して朗読しながら楽しんでいた。言っても聞かない俺たちに、背中で模範を示そうと、ただ一人指揮棒を振り続ける東山の姿は、何か壮絶ですらあった。

――みんな、ちゃんとやろうよ!力を合わせて、優勝をつかみ取ろうよ!

 東山の熱い呼びかけに応え、渋々練習に付き合ってやったと見せかけ、東山の指揮に合わせて、当時世間を騒がせていた某新興宗教団体の歌を歌ってやったときの、天国から地獄に突き落とされた東山の顔は、今でも忘れられない。

 東山は、この合唱コンクールに賭けていた。今や人望は地に堕ち、クラスでも部活動でも肩身の狭い思いをしている。自ら立ち上げた「君を守り隊」も壊滅状態。東山の学校生活は、誰がどう見ても漆黒に彩られたものとなってしまった。そのすべてを、東山は、この合唱コンクールで挽回しようとしていた。合唱コンクールで、自分を中心に皆が一つになることで、すべてのわだかまりが解け、風向きが変わると信じていたのである。

 過酷な状況の中、藁にも縋りたい東山が微かな希望を抱くのは、おかしなことではない。なんだかんだ、当日にはそれなりに盛り上がるイベントではあるから、もしかしたら、いじめられっ子が別の誰かだったら、東山が望んでいた結果になったかもしれない。

 だが、イジメられていたのは東山である。東山はどこまでも東山であった。他人の気持ちを理解できない、自分のことしか考えられない東山は、本番を翌日に控えた最後の練習の日にとった行動によって、希望の芽を自ら摘み取ってしまうのである。

――君たちっ!いい加減にしろっ!そんな態度で、この素晴らしい歌を作ってくれた作曲家さんに申し訳ないとは思わないのかっ。もう僕は怒ったぞ。君たちが謝るまで、指揮棒は振らないからなっ!もし僕に戻ってほしいなら、理科準備室まで来い!

 東山は顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、教室を出て行ってしまったのである。

 わけもわからないまま、取りあえず東山が言い残した理科準備室にまで行くと、ドアの窓から、暗い部屋の中、何かを待ちわびているような表情で座り込む東山の姿が見えた。東山は一体、何を考えているのか。ヤツの狙いは、いったい何なのか。俺は先走ってドアを開けようとする仲間を制止し、いったん教室に帰って、作戦会議を開いた。

 そのうちに、仲間の一人が、一つの仮説を口にした。

 先日、教育テレビにて、ある学園ドラマが放送された。そのドラマでは、やはり同じように、合唱コンクールで真面目に練習をしようとしない生徒に怒った担任教師が、車の中に引きこもった。反省した生徒たちは、担任教師の車を輪になって取り囲み、合唱曲を歌いだした。教師は車を出てきた。その一件で一つにまとまったクラスは、見事合唱コンクール優勝の栄冠をつかみ取った。

 東山は、そのドラマの展開の再現を目論んでいるのではないかというのである。

 安っぽいドラマに感銘を受け、現実の世界でそっくりそのままのシチュエーションを再現しようとしてしまう・・。東山ならやりそうなことだった。

 当然、俺がそんな東山の陳腐な目論見を許すはずがない。俺は東山の望みを完膚無きまでに叩き壊し、最大のダメージを与える術を考えた。期末テストでも発揮したことのない集中力で結論を導き出し、そして思いついた手段を実行するため、クラスの皆を率いて、東山の待つ理科準備室へと向かった。

 俺たちがドアを開いた瞬間、東山が浮かべた歓喜の表情は、次の瞬間、苦痛に歪んだものとなる。

―――に。人間の失敗作。頭のてっぺんからつま先まで、すべてが世界で一番劣ってる。

―――い。いつも見下させてくれてありがとう。僕らに自信をくれてありがとう。どんなに辛いときでも、僕よりダメな人がいるってわかると元気が出るよ。

―――と。取りあえず臭いよ。

―――が。頑張った量と結果が噛み合わない選手権なんてものがあったとしたら、東山くんが優勝だろうね。

―――う。うんことしっことを受け止めるパンツが可愛そうだから、今すぐ脱いでください。

―――ま。間違っても東山くんの遺伝子を後生に残したら大変だから、今すぐホモになってください。

―――お。お父さんお母さんも、本当は東山くんを産んで後悔しているよ。


 俺たちは、東山が決めた合唱曲を替え歌にして、「東山かるた」の内容を歌って聞かせてやったのである。罵詈雑言を浴びせるのに加え、東山がリスペクトする名曲をも汚す、まさに一石二鳥の作戦。精神が崩壊した東山は、その場で失禁した。その小便を無理やりに飲ませてやったのは、言うまでもない。

 東山はこれでKOされた。学校に顔を見せなくなったのである。話には、さらに続きがあった。なんと、東山を欠いた俺たちのクラスは、合唱コンクールで優勝を飾ってしまったのである。東山の存在価値を完全に無にしたこの結果。もちろん、受け取った賞状は、しっかりコピーを取って東山に送ってやった。 

 その三日後であった。山里愛子が、公園で東山に殺された。全身数十か所を滅多刺しの、まさに惨殺であった。警察の発表によると、動機は告白を断られての逆恨みであったらしい。

 逆恨みというのは、山里愛子を全面的な被害者とみる警察による、乱暴な結論である。俺は、東山には東山なりの事情があったと見ている。

 そもそも山里愛子は、本当に東山のことを思って、「君を守り隊」の活動に協力していたのだろうか。山里愛子は、俺や東山と同じクラスにいた、武田というイケメン男子に想いを寄せていたことが、当時知られていた。山里愛子は、武田に対し、弱い者に優しくする自分をアピールするために、東山の活動に協力していたのではないか。

 東山が学校を休んでいた期間、武田と山里愛子は、よく肩を並べて下校していた。事件後、武田は口を噤んだが、交際の事実があった可能性は高い。山里愛子は、悲壮な覚悟で想いを伝える東山に対し、お前はもう用済みだという類のことを言ったのではないか。

 だとするならば、東山は山里愛子に、俺に対する以上の怒りを感じたはずだ。俺は最初から敵だったが、山里愛子は、長きに渡って味方と思わせておいて、いきなり裏切ったのである。俺も東山の立場なら、同じかそれ以上のことをしていただろう。

 事件はメディアでも大きく取り上げられた。イジメがあったことも報道されたが、人ひとりを殺した免罪符となるには弱いというのが当時の世論で、首謀者たる俺は、警察や学校から簡単な事情聴取を受けたのみで、ほとんど不問に付された。

 世間的には東山一人が全ての咎を背負った形になったのだが、事件が生徒たちに与えた傷は深く、イジメにはまったく関与していないのに不登校になるような女子も続出したが、俺は何とも思わなかった。罪悪感もまったく感じていない。反省も何もしていない。

 そもそも、一連の出来事を、「イジメ」などと言われることに、俺は釈然としない。加担していた他の連中は知らないが、俺は加害者であると同時に、東山の自己顕示欲の被害者でもあった。つまり立場はイーブンである。戦争と同じで、「やりすぎ」には反省しても、戦ったこと自体を反省する必要性など感じないし、「やりすぎ」を反省するなら、東山とて同じのはずだ。

 あの「公開処刑」のとき、俺は紛れもなく、「死の恐怖」を感じていた。数の暴力を使ったのは、アイツも一緒である。東山が「君を守り隊」に俺を勧誘してきたときだって、曖昧な返事でお茶を濁すのではなく、ムキになって断っていたら、ヤツは何をやってきたかわからなかった。一歩間違えれば、俺が東山の立場を演じていたかもしれないのである。

 それに・・・東山はどうか知らないが、俺はあいつにシンパシーを感じていた。「世間」とかいう、わけのわからないものに染まれない者、自分を殺して溶け込むことができない者同士という点で、俺と東山は、本質的に同じ人間なのである。俺たちが「世間」で生き残るには、「世間」の方を、自分の色で染めるしかなかった。互いが「世間」を自分の色で染めようと争った結果、俺が勝った。それだけのことだった。

 あれはいわば、圧倒的な力に虐げられる者同士の生存競争だったのである。ゴキブリが共食いをするのを、人間から残酷だと責められたところで、ゴキブリにとっては大きなお世話でしかないだろう。それと同じことである。社会の適応者様から、上から目線で非難されるいわれはないのだ。

 俺は東山との「生存競争」には勝った。しかし、俺にとって本当の敵は、東山ではない。たかが一つの中学校の一学年を染め上げただけの話。卒業すれば元の木阿弥。「世間」との戦いからは永遠に逃れられない。

 今から思えば、むしろ東山との戦いに勝ってしまったのが、いけなかった。

 「生存競争」に勝利したことによって、俺が勘違いしたことは多かった。まず、あの成功体験によって、「悪」、すなわち世間一般的に素晴らしいとされる価値観に反して生きることこそ、自分の唯一生きる道だと思い込んでしまったこと。次に、あの成功体験が地道な努力の結果ではなく、まったく予期せぬ僥倖によって齎されたものであったため、学業なりスポーツなり、何か一つのことにじっくり取り組むのを放棄してしまったこと。暗く冷たい地の底を進んでいたかのような俺の人生で唯一光り輝いていた、あの青春の思い出がいつまでも忘れられなかったせいで、「世間」と和解するタイミングを、完全に逃してしまった。

 もし、俺が人生の中の、どこかのタイミングで、自分の方から「世間」の方に歩み寄ろうとしていれば、今よりはマシになっていたのだとすれば、東山は俺に一矢報いたことになる。あれから俺は、とうとう、この世間の中に、自分の生き場所を見つけることはできなかった。人から冷笑を浴び、蔑まれ、負け続けるだけの人生を歩んでしまった。あの頃に比べて、「世間」と折り合いをつけるのはうまくなったが、「世間」との間に横たわる溝自体は、より大きく、深くなってしまった。

 もはや大きな犯罪を犯すのは時間の問題だが、塀の向こうにも、自分の生き場所などがあるとは思えない。この上は気に入らない奴をぶち殺すか、もしくは無差別に大量の命を奪うかして死刑となり、恨み連なる「世間」にどでかい糞をぶちまけてから、今生とおさらばする結末しか思い浮かばなかった。


「おい、お前ら。何をくっちゃべってやがる」

 俺たちが作業するテーブルにつかつかと歩み寄ってきて、注意という名の因縁をつけてくるのは、派遣スタッフのリーダー気取りの深山である。

「お前とお前!お前らいつも一緒にいるが、仕事とプライベートは分けて考えろ!お前は手が早いからまだいいが、お前!口が動いている間、手が止まってるぞ!お前はよくても、海南のスタッフみんながお前と一緒だとみられたら迷惑なんだ。しっかりやれ!」

 お前お前と、声しか聞こえない者には、どっちがどっちといったところである。深山は、海南アスピレーションや丸菱運輸の正社員ならば、普段顔を合わせる機会もない他部署の人間にまで深く精通しているのだが、同じ現場で働く派遣スタッフのことは、名前すら覚えようとしない。そうすることで、自分はお前らと違う、向こうの世界の人間だと、俺たちに印象付けようとしているらしい。もはや意地でしかないが、それは彼にとっては、もっとも崇高なことなのだ。

「うるせえな。他人ばっかり気にしてやがって、あんたこそ仕事に集中してねえんじゃねえか」

「なにぃ・・・」

 手が止まっていると言われた側の「お前」であるところの俺が反撃すると、図星を突かれた深山は、憤怒に顔面を紅潮させながら、伝票の集計作業をしていた、正社員の中井の元へと駆けていった。深山の告げ口を受け、中井は肩をいからせて、何事かを喚きながら、俺たちのテーブルへと歩み寄ってくる。

「てぇめぇっ!ふざけたことしやがって、この野郎!」

 中井が糸ミミズのような血管が走る目で睨み付けるのは、俺一人である。仕事をやっていなかったことではなく、自分に口答えしてきたことが気に入らなかった深山は、俺一人がサボっていたという体にして、中井にチクりを入れたらしい。

 共犯者である宮城は、中井に一人で怒られる俺を庇うでもなく、もともと話しかけたのは自分だということを申し出るでもなく、われ関せずとばかりに、黙々と作業を続けている。己のアピールにならない人助けは一切しない。これが男マザー・テレサを気取る豚の正体である。

「てめえっ、何サボってんだっ!金稼ぎに来てんだろ!ちゃんとやれ!給料泥棒が!」

 何とかほどよく吠えるという言葉が頭をよぎる。人生と引き換えにするには、あまりにもチンケな相手。今までだったら、雑魚に構っても仕方ないと自分を宥め、やり過ごす場面。しかし、今度ばかりはもう無理そうだった。このところロクなものを食っていないせいか、酷く疲れやすい。ちょっとしたことでもイライラとして、導火線が極めて短い状態になっていた。限界だった。

「少しの私語も許さないって、ここは刑務所の作業場かよ。給料泥棒って、こっちは盗みたくなるほどの給料なんか貰ってねえよ。金稼ぎに来てんだからちゃんとやれってのは、働いた分の給料払ってる人間だけが言っていい言葉だろうが。給料以上に人をこき使ってるてめえの会社に、それを言う権利はねえだろ。つうか、一分一秒も休ませねえ割りに、怒鳴る時間はあるのかよ」

「なんだとぉ、この野郎がぁっ!」

 怒りに我を忘れた中井は、手に持っていた段ボール箱を、俺に投げつけてきた。段ボール箱の角が命中した額からは鋭い痛みが走り、熱い液体が流れてきた。

「痛。おい、これ、傷害事件だからな。てめえのこと、訴えてやるよ」

「何ぃ?」

 頸動脈を掻っ切って殺してやるつもりだったが、中井が自爆してくれたおかげで、冷静さを取り戻すことができた。

 バカバカしい。頂くものを頂いて、さっさとこんなところは辞める。ようやく、決定的なチャンスが訪れた。法に訴えるための、物理的な証拠がずっとほしかった。重労働と罵詈雑言の艱難辛苦を耐え忍び、このときをずっと待っていたのだ。

「なんだてめえ。仕事のできねえ馬鹿のくせして、訴えるとはなんだ!」

「知性の欠片もない山猿みてえな顔したお前に、馬鹿なんて言われたくはねえな」

 もうオサラバすることが決まった職場で、社員に頭を下げなくてはならない理由などはない。こうなれば、煽るだけ煽って、さらに決定的な証拠を掴んだ方が得であろう。

「てめえこの野郎!馬鹿は死ななきゃ治らねえっつうから、殺してやろうか?」

「殺すとか言いやがったな。脅迫罪が追加だ。これでお前は無職決定だ。それが嫌なら・・・」

 中井に墓穴を掘らせようと言い争いを続けていると、突然、何者かに背後から襟を掴まれ、恐ろしい力で、床に引き倒された。抵抗する間もない。凄まじい衝撃が背中に加えられ、驚きと恐怖で、ただ悶絶することしかできなかった。

「なんだてめえはっ。なに文句つけてんだっ、おおっ?」

 鬼か閻魔か。中井とはけた違いの、腹の底まで響くような怒声。下から見上げるその身の丈は百九十センチを超え、筋骨隆々の肉体はプロレスラーのそれにもひけをとらない。大男の俺の力量差は、弱肉強食の関係がほとんど物理で決まっていた原始時代なら、絶対に覆せないほど圧倒的だった。しかし、しがらみの多い現代社会においては、そうでもない。

 カマキリを思わせる、鋭角な顎のライン。巨体に似合わない、生白い肌。遠い昔に見覚えのあるその顔を見た俺は、思わず舌なめずりをしてしまった。野に捨てられ、腐肉ばかりを食らって生きてきた犬が、遠い昔に人間の家で食べた、手ずからの馳走の味を思い出したように――。

「お前ら、一つの会社に身をうずめることもしないないろくでなしが、仕事で文句なんか垂れてんじゃない!毎日定時で帰りやがって、俺なんか、一日十五時間の労働を週に五日、土曜日も出勤しているんだ!意見を言いたかったら、俺よりも働いてみろ!」

 懐かしさがこみ上げてくる。身体と声は昔の面影もないほど変わり果てても、独りよがりな精神論をぶちまけ悦に耽っているとき、生白いカマキリ顔が興奮と照れで微かに朱に染まるのは、あの頃と少しも変わっていない。

 そういえば、月初めの今日、職長の交代があるという話があったのを思い出した。朝礼に遅刻した俺は、新しい職長の顔をまだ知らなかった。

 上場企業の管理職なら、俺と同い年でも、年収は六百万はあるだろう。左手薬指に光る結婚指輪は、男に守る者が出来たことを教えてくれている。人の弱みを見つけることにかけては警察犬なみの嗅覚を発揮する俺の鼻が疼き出す。

「よう、職長。今日仕事がはけたらよ、ちょっと飲みに行こうぜ。あんたの部下の不始末について、二人でゆっくり話し合おうや」

「なに?なんで俺が、お前なんかと飲みに行かなきゃいけないんだ。お前みたいな、どこの馬の骨ともわからん・・・」

 ゆっくりと起き上がった俺は、男に粘り気を帯びた視線を貼り付けながら、袋小路まで追い詰めた獲物を絶対に逃すまいとするハンターの足取りでにじり寄っていった。男は、自分の喉仏ほどの位置までしか身の丈がない俺に心底怯え、ゴリラのような巨体を後じらせていく。

 青春の思い出――「生存競争」から十八年。糞みたいな転落人生を送ってきた俺に、太陽のような幸運がめぐってきた。

 俺は「旧友」に向かって、口角をギッと釣り上げた。

「久しぶりだなあ、東山ぁ」

コメントのノルマ数引き上げのお知らせ


 次回にUPする「外道記」に関しまして、コメント数のノルマを「5」とお伝えしておりましたが、申し訳ありませんが、これを「6」と改めさせていただきたいと思います。

 理由としましては、先月、新規の読者さんからのコメント数が0に終わったこと、「ノルマ数ギリギリのコメントが、期限ギリギリでないと達成できない」状況が続いていることです。

 20日ぶりに自分のサイトを訪れたところ、コメント欄が悲しい状況になっており、激しく落胆しています。自分で作ったこちらのサイトを、自分の人生から切り離したい気持ちになっています。それが今現在の、私の正直な気持ちです。

 一両日中に「外道記」の前半部分をUPしようと思いますが、そちらの方に「6」コメント届かなければ、すべての更新を中止し、こちらのサイトを永久に封印する予定です。コメントの内容に制限はありませんが、「最低限、私の書いたものを読んでくれているとわかる」コメント以外は、集計の対象外とさせていただきます。
 
  コメントに関して、みなさんが協力的な態度になっていただかない限り、今後もこのように、ノルマを引き上げる処置をとらせていただこうと思います。逆に、私が何も言わなくてもみなさんが自発的に協力してくださる場合、ノルマ以上の解答を皆さんが出してくれた場合は、ノルマを引き下げていこうと思います。

本当であれば、私もこのように、読んでくださる方を脅すようなことはしたくありません。しかし、こうでもしないと読者のみなさんの存在が確認できないのであれば、このようなお伝えをするよりほかに仕方ありません。

 私はこちらのサイトを、少しでも書き続けるモチベーションになればと思って運営させていただいております。そのサイトが、自分のモチベーションに足かせになるのであればまさに本末転倒であり、私はこちらのサイトを切り捨てなければなりません。

 今後、こちらの運営が続くかどうかを決めるのは、私ではなく、読者の皆さんです。皆さんが「読んだけど何も返さない」という態度を貫かれる限り、コメントのノルマ数が増え、こちらの存続が厳しくなると思っていただければ幸いです。

 ひとます次回のノルマは「6」とさせていただきます。この数を一つでも上回る、新作「party people」あるいは「HAKEN--異・物・混・入」の方に新しいコメントがつく、新規の読者さん、長らくコメントされてなかった読者さんが沢山ご来訪くださる、といったことがあれば、このノルマは引き下げていきたいと思います。

 説教、荒らしの類は読まずに消します。

 以上、よろしくお願いします。

party people 2


                               6

「ハア、ハア、ハァ・・・・」

 友麻の中に、この晩、八発目となる豪弾を打ち込んだ俺は、友麻の身体から離れ、服を着て水分を補給した。

「あーあーあー。青木っちのセクハラザーメンが、どぷどぷ溢れ出しちゃって」

 俺に二度も犯された友麻は、生気の抜けたビー玉のような目を、星屑の浮かぶ夜空に向けながら、地面に横たわっている。口は半開きになって、涙と洟が垂れ流しになり、影沼の言う通り、秘裂からは、気泡をプクプクと弾けさせる白濁のものが溢れ出していた。

「こんなんじゃ、PTSDっちゃって、生かしてやっても、もう使いものにならないだろう。ひと思いに殺してやった方が、本人のためだ」

 俺をゴミのような目で見ていた友麻を殺すことを、影沼がゴミを処理するように言った。

「青木っち。せっかくナイフとか持ってきたんだし、青木っち、殺ってみる?」

「いや・・・俺は・・・」

「そっか。エッチして、疲れちゃったもんね。んじゃ、俺が代わりにやっとくわ」

 これからお遣いに行くような、あっさりとした口調で言って、影沼が、友麻から十メートルほど距離を取った。

「これから友麻ちゃんはぁっ、青木っちの遺伝子ミルクを持ったまま、あの世へと旅立ちまぁす!あの世で友麻ちゃんはぁ、おでこが広くて、眼鏡をかけて、ひげが濃い青木っちそっくりの赤ちゃんを、お腹痛い痛いして産んじゃいます!」

 影沼は、友麻にとって、もっとも耐え難いことを口走ると、大きく助走を取り、友麻の前で大きくジャンプして、蝋人形のように凝固した友麻の顔面を、靴の踵で思い切り踏みつけた。

「いって・・いててて・・・ぐのぉぉっ、怒ったぞぉっ」

 友麻の涙と洟に塗れた顔面を踏んで滑り、地面にしたたかに後頭部を打ち付けた影沼が、目にイトミミズのような血管を浮かべ、顔面を紅潮させながら、靴底に鉄板の入った安全靴で、友麻の顔面を何度も踏みつけた。

 友麻の眼窩の骨と鼻骨が砕け、枯れ木の折れるような音が、静かな夜の山林に響き渡る。しかし、影沼に暴力を受ける以前に、すでに心を殺されていた友麻は、悲鳴一つ上げようとしない。むしろ、これから先、俺に犯された女として生きなければならない地獄から解放されることを、喜んでいるようにすら見える。

 友麻にとっての絶望は、影沼の踏みつけ地獄よりもむしろ、俺の生殖器を大事なところに出し入れされ、俺の遺伝子を子宮に送りこまれたことだった。友麻を本当に殺したのは、俺だった。

 脳内に横溢するカタルシスの前に、これから死にゆく女への情けは、あっさり霧消した。俺はまたぞろ熱を持ち始めたものを扱きながら、影沼が、無機質な肉の袋と化した友麻の、最後の命の灯を消しに行く様に見入った。

「セクハラという言葉は、確かに、たった一言で男に致命傷を与えられる、拳銃のように便利で強力な武器だ。だからこそ、使用者側のモラルが求められる。武器というのは常に、まともに立ち向かっても到底かなわない強敵に、本当の危機に追い詰められたときにしか抜いてはいけないものなんだ。自分だけが便利な武器を持っているという万能感に酔いしれるな。すべての武器は諸刃の剣。むやみやたらとぶっ放していれば、その弾丸は、いつか自分に跳ね返ってくるんだ。お前は生涯の最後に知ったその教訓をよく心に刻み、あの世で産むことになる青木っちのセクハラベイベーに伝えてやれ」

 影沼が、悪代官と対峙する時代劇の主人公のように言ってから、また大きくジャンプし、全体重をかけた両足で、友麻の顔面を思い切り踏みつけた。

 ゲジャアッ、バキバキィッ、と音がして、断末魔を上げる力も残されていない友麻の、首の骨が砕けた。同時に、俺の下腹部に、心地よい電流が走った。

「はぁ、はぁ、ぜぇ、はぁ。ふぅ、友麻ちゃん頑張ったねぇ。もう、楽になったからねぇ。あの世で、青木っちのヒゲヒゲ赤ちゃんを、ぷりって産むときはもっと痛いかもしれないけど、でもそのときは、大好きな藤井ちゃんが一緒だから耐えられるかなぁ。そのあと、藤井ちゃんの赤ちゃんが生まれても、青木っちのハゲメガネ赤ちゃんを、イジメたりしたらダメだよぉ」

 影沼が、友麻のぷっくり膨らんだ下腹部を撫ぜながら、おちょくるように言うのに合わせ、俺も透明が僅かに白く濁った液体を、土の上に吐き出した。

「はぁ、はぁ、ぜぇ、はぁ。ちょい、休憩」

 影沼がカローラに戻ってきて、ドアを開けたまま運転席に腰を下ろし、タバコに火をつけ、貪るように紫煙を吸い込んだ。

「ははっ・・・とうとう・・とうとう、やっちまったんだな」

 俺は泥の付いたズボンを上げ、汚いものを触れたあとのイカ臭い手で乱れた頭髪を抱えながら、カラカラと笑った。

「そうだ青木っち。君はこれで晴れて、俺たちの住む底辺世界を蝕む敵、ココロキレイマンを打ち倒す、正義の戦士となれたんだ」

 二本目のタバコに火をつけながら、影沼が弾むような声音で言った。

「その・・さっきから言ってる、ココロキレイマンって何?」

 大分、呼吸の整ってきた影沼に、俺は先ほどからの疑問をぶつけた。

「さっき説明した通りさ。人を嫉まず、憎まず、すべて自分のせいだと受け止められる謙虚な心を持ち、愚痴をけしてこぼさない。世の中では、そんな人間が正しいとされている。だが、何が正しいかなんてことは、立場によって変わるものだ。底辺世界に生きる、貧乏、不細工、無能が、世の中で正しいとされている価値観なんて信じていても、何の意味も持たないどころか、幸せが邪魔されてしまうんだよ」

 影沼が否定しているのは、俺をこれまで、ずっと苦しめてきた価値観である。

 人を嫉まず、憎まず、常に謙虚で、愚痴をこぼさない。ずっとそうしなきゃだめだと、教わってきた。貧乏で不細工で無能な俺が、何かに挑戦して敗れたとき、頑張ってダメだったとき、人に馬鹿にされたとき、自分の本音を口にすると、いつも誰かに、それを言われてきた。実際に言われたわけじゃなくても、誰かにそれを言われている気がしていた。

 正論、キレイゴト――そいつがいつも、俺の傷口に塩を塗り込んできた。
 
「そもそも、それを最初に言い出した人間は誰だ。誰が何のために、それを言い出した!」

 影沼が、語尾に力を込めて言った。

「・・・そりゃ、人に嫉まれ、憎まれ、他人のせいだと思われて、愚痴をこぼされたら困る人間だろ。自分の才能や努力だけじゃなくて、後ろめたい何かを抱えながら幸せになった連中・・」

 不当な言いがかりやでっち上げで他人を追い落としたとか――。踏みつけていった相手を、余計に侮辱したとか。

 そいつらが、負け組の敵意を自分に向けさせないために、正論、キレイゴトを吐く。

「そう。だからそれを信じることは、自分を踏みにじった奴らの思う壺なんだ。それを知らずに、貧乏で不細工で無能な負け組のくせに、他人に正論、キレイゴトなんかを吐いて、自分が何者かになった気になっている馬鹿がいる。わざわざ自分を踏みつけ、不当に追い落としていった側の思惑に嵌まろうとするばかりか、同じ負け犬の頭を抑え付けて満足している馬鹿がいる」

 俺の言ったことに上乗せする形で、影沼が答えた。

「貧乏人から自由、気楽を奪ったら、何が残る。どうせ誰にも期待されていない負け組なのだから、好き勝手にやりたい放題、言いたい放題。自分の感情に素直になって生きるのは、俺たち負け組に許された唯一の特権なんだ。それを強引に剥奪し、正しさ、心のキレイさなどという、底辺生活においては邪魔にしかならないものを押し付けてくる愚か者を、改心させなくてはならない。それが、俺と青木っちがこれから取り組む活動だ」

 影沼が言っているのは、俺を藤井や友麻と同じか、ある意味それ以上に苦しめてきた連中のことである。

 世の中からゴミのように扱われている立場のくせに、世の中で正しいとされている価値観を信じ込み、あたかも、聖人君子のように生きることを金科玉条とするヤツ。自分がそんな生き方を実践するだけでなく、自分とは考え方も、歩んできた道のりも違う他人にまで、それを押し付けようとするヤツ。

 そいつがいつも、俺の傷口に塩を擦り込んできた。

「人を嫉むな、憎むな、すべて自分のせいだと受け止めて、けして愚痴をこぼすな。俺はそうしている。他人にそれを言う者は、果たして、相手に本当に良くなってもらいたいと思っているのだろうか。本当に、相手の成長、あるいは幸せを願っているのだろうか」

 影沼に言われ、俺はこれまで、俺の傷口に塩を塗り込んできた奴らの顔を思い浮かべた。

 奴らのすべてが、好き勝手なことを偉そうに言うだけで、具体的に何かをしてくれたわけではなかったのを思い出した。奴らのすべてが、好き勝手なことを偉そうに言いながら、缶コーヒーの一本も奢ってくれなかったのを思い出した。

「・・・いや。違うと思う。ヤツらは、自分が気持ちよくなりたいだけだ」

 他人事だと思って、勝手なことばかり言ってくる無責任な連中――そいつがいつも、俺の傷口に塩を塗り込んできた。

「彼らは、承認欲求の塊だ。いつも、誰かに褒められ、また、誰かに感謝されたいと思っている。しかし、悲しいかな、彼らは見た目がいいわけでも、才能に溢れているわけでもない。だからそのままでは、誰も褒めてはくれない。感謝されるために、人に何かを与えようにも、肝心の原資がない」

 言うことばかり一丁前で、行動が伴ってない連中のことを思い浮かべた――確かに、そいつらの顔は反吐が出るほど不細工で、周りから評価されるどころか、ウザがられ、軽んじられているヤツばっかりだった。

「そこで彼らは、見た目、才能の代わりに、ただ人格が優れているだけのことを誇りにしようとする。それがなってない者に、お金の代わりに、自分の素晴らしい考え方を押し付けることによって、他人に何かを与えた気になろうとする」 

 影沼の説明で、俺にもココロキレイマンなるものが、おぼろげながら理解できてきた。

 人を嫉まず、憎まず、謙虚であり愚痴をこぼさない。後ろめたいことのある金持ち、イケメン、才能の持ち主が、自分が踏みつけていった貧乏、不細工、無能に、自分の不幸を納得させるために作り出した「正論、キレイゴト」を、幸せになるための方法論だと錯覚している貧乏、不細工、無能。それがココロキレイマンだと、影沼は言っている。

 ココロキレイマンが特に数多く生息するのは、俺たちの住む底辺世界である。

 見た目のいいヤツ、才能を持っているヤツは上に行く。上にいる奴らには金がある。自分をひけらかさなくても周りが勝手に褒めてくれるし、人にすぐ与えられるだけのものが手元にある。

 何もないヤツだけが、自分の正義を誇る。まるで新興宗教の勧誘のように、自分自身が考え出したものではなく、自分以外の誰かが、てめえの都合のために考え出した正義を盲目的に信じ込み、他人にまで押し付けようとする。

 愚かなココロキレイマンが、隅っこに追いやられて誰にも相手にされていないのなら、その職場は健全だ。この底辺世界、哀れなココロキレイマンが主流となり、幅を利かせている職場など山ほどある。

 影沼の話を聞きながら、俺は今の工場で働き始める前、四年間も勤めていた、交通誘導警備の会社でのことを思い出していた。



 まったくもって、クソみたいな職場だった。

 自分の待遇を少しでもマシにしようとするより、他人のアラを探すことに血眼になる連中。棒の振り方がなってないとか、現場に着くのが自分より遅いとか、どうでもいいようなことで威張りくさり、無能がさらなる無能を叩いて、自分の存在意義を確認しようとする連中。みんながそうだとは言わないが、そんな人種の割合が、ほかの業種に比べて明らかに多かった。

 俺が思うに、あの仕事をやっている連中がおかしくなってしまう主な原因は二つある。仕事が暇すぎることと、周りに女がいないことだ。

 警備員が暇なのは、お客にとってはいいことなのだから、堂々と暇そうにしていればいいのに、生真面目な日本人はなかなかそうは考えられない。自分は本当は社会の役に立っていないんじゃないか、通行人に、立っているだけで金がもらえていいご身分だと思われているんじゃないかと、どうしても、余計な不安と後ろめたさに駆られてしまう。

 しかし、焦ったところで、手っ取り早く充実感を得られるような仕事が湧いて出てくるわけではない。そこで、若い女が笑顔でも振りまいていれば、喧嘩なんかするより楽しくやった方が得だと考えられるが、得られるものが何一つないとなると、自分が評価されるという方向では満たされない承認欲求が、仲間を貶める方向に向かってしまう。仕事が暇だから、人の悪口を言い合ったり、人に嫌がらせをする時間は山ほどある。

 俺自身がターゲットになったこともあったし、ほかの人間がターゲットになるのも嫌ほど見てきた。あの仕事にいい思い出はまったくなかったが、それが四年も続いたのは、やはり仕事が暇なことと、周りに女がいないからだった。

 なまじ、手を伸ばせば届くところに女がいるから、それを持っていない自分が酷く惨めな存在に思えてくる。見渡す限り、女にまったく相手にされない小汚いオッサンばかりの職場は、女を得ようとして得られない俺にとっては、実に気が楽だった。仕事が暇でも、暇を気にして動き回ろうとする連中から受けるストレスを考慮すれば割には合わないのだが、いちど覚えた暇の味から抜け出すのは難しかった。
 
 その警備員時代、俺の「師匠」を務めていたのが、森尾という、八歳年上の男だった。

 べつに、頼んだわけではないのだが、森尾はたまたま現場で一緒になった俺を見て、こいつはすべてにおいて自分より劣った存在であり、傍に置いておけば、自分が優越感を満たす材料に使えると思ったらしく、そのときから俺を「弟子」に認定し、会社に言って、自分が隊長を務める現場に引っ張ってくるようになった。

――俺はこの会社ではエースと言われていて、誰よりも誘導はうまくできるし、みんなに頼りにされる。管制の人たちや、業者さんからの信頼も厚い。俺の動きを追って損はない。お前が俺を師匠に選んだのは正解だぞ。

 森尾は確かに、仕事は出来る男だった。上の人間や、工事の業者から好かれているというのも本当だった。しかし、非正規の単純労働がうまくできるということに、さしたる意味はない。

 非正規の単純労働を極めようとする行為を何かに例えるならば、それはドラクエで最初の町の周りをいつまでもウロウロし、スライムを何千匹も狩る行為に等しい。たしかに成長はゼロではないかもしれないが、あまりにも効率が悪く、実りが少ない。そしてそれを続けていては、永久にクリアにはたどり着けないのだ。

 それだけ自信があるのなら、せっかくまだ若いのだから、正社員の仕事を探してみるとか、警備を続けるにしても管理の仕事に引き上げてもらうよう直談判すればいいのに、森尾は「俺がいないと現場が回らなくなる」とか言って、なかなか次のステップに進もうとはせず、俺が入ったときですでに在社年数は三年を超え、休みの日でも当欠の穴埋めに駆り出されたり、日勤夜勤の連勤を何日も入れられるなど、会社にはいいようにこき使われていた。

 本当は、森尾にもよくわかっていたのだろう。世の中で不足しているのは、安価ですげ替えの利きやすい労働力であり、それをやりたいという者は優しい顔で歓迎されるが、安定した身分で働きたいと願う者には、途端に厳しい目が向けられる。お前に本当にそれができるのかと鋭い言葉が浴びせられ、これから何をしたいか、ではなく、これまで何をやってきたか、というアピールが求められる。
 
 俺も就職活動の経験者として、森尾が管理者や客から褒められ、年上の隊員のほとんどが自分に言いなりになってくれる居心地の良い環境を捨てるのが惜しくなる気持ちも、わからないではない。だが、世間はそれを、井の中の蛙というのだ。

 それでも、自分に与えられた仕事を黙々と頑張っているだけなら、俺のようなカスにまで見下されることはないという話だが、森尾は警備の現場を舞台に、自分が主役の人生劇場を演じながら、共演者を何人も潰していたのだからどうしようもない。

 森尾は自分が管理者から可愛がられているのをいいことに、自分の現場に気に入らない隊員がいると、年上だろうが平気で怒鳴り散らし、ときに折檻を加え、退職にまで追い込むような、とんでもないヤツだった。

――社内には俺を嫌う者もいるようだが、そいつらはみんな、仕事のできる俺に嫉妬して、逆恨みしているだけのクズだ。できないヤツを会社に残しておいてもみんなが迷惑するだけだし、クズを追い出すことも、俺の役割だと思っている。だが、お前は違う。俺はここでお前と出会えたのは運命だと思っているし、お前を本当の弟のように思っている。俺が責任をもって、必ずお前を一人前の男にしてやるからな。

 言っていることは立派でも、人に誇れる価値のあるものなど何一つ持っておらず、これからそれを手に入れようとする意志もなく、ただアメリカザリガニの如く、劣悪な底辺に過剰適応することだけに邁進する男が人に教えられることといえば、それは「清貧たれ」ということしかない。

――仕事をちゃんと教えてくれて、仕事が終わった後には一緒に飯を食ってくれて、毎日メールもしてくれる。こんなにお前を思ってくれる人間なんて、ほかにはいないぞ。お前は本当に幸せ者だって、みんな言ってたぞ。俺に出会えただけで、お前はハッピーだろ。

 辛抱我慢。森尾はそれを、自分を向上させるための努力とはき違えていた。これからもっと上を望むのではなく、底辺に燻って、何の進歩もないながらも、「心の師匠」はいる今、現在の状況を幸せだと思い込むことを、俺に求めてきた。

――確かにお前は、不細工で、頭も悪くて、みんなに嫌われているのかもしれない。だが、お前には俺がいるからな。俺だけは絶対に、お前を見捨てたりしないからな。

 俺の成長を願っていると言いながら、森尾は俺を滅多に褒めず、むしろ、俺の自信を挫くようなことばかり言っていた。

 俺にとっては、自分が不細工で無能で、誰からも、特に女から相手にされないこと自体が問題なのであり、そんな俺を大事とか言ってくる男がいても、まったく有難みはないという話。結局、俺を傍において優越感に浸りたいだけの森尾にとっては、俺が不細工で無能で人望もない、何の取り柄もない男のままであった方が都合が良かったのだ。

――この前、みんなと飲み会に行ったとき、もしお前がこの先、通り魔殺人でも起こしそうになったら、誰が止めるんだ?って話になったんだ。そのとき、みんなは口を揃えてこう言ったよ。青木を止めるのは、森尾さんしかいないとな。

 自分が犯罪者予備軍との自覚があっても、それを人に言われていい気分になる人間など、一人もいない。森尾の目的はただ、無能で不細工な犯罪者予備軍である俺の面倒を見ている自分自身に酔いたかっただけだが、タチの悪いことに、本人にはその自覚がまったくなかった。

 すべて俺のために、良かれと思って言ってやっているつもりだから、俺が期待した通りのリアクションを見せないと、プライドを傷つけられ、不満を抱いてしまう。しかし、その不満こそが、自分が人のために何かしようとするタイプの人間ではなく、自分のために人に何かをしようとする人間だという証明である。

 激しいジレンマを解消するために、ますます俺に付き纏い、ますます強烈なジレンマに襲われていく。俺にとってはとんでもなくはた迷惑な悪循環に、森尾は陥っていた。

――お前、宮田さんと二人で飯を食いに行ったとき、昔、自分をバカにしたヤツが、今じゃ正社員で働いて、彼女もいて幸せそうでムカつくとか言ってたらしいな。お前は俺があれほど、他人を嫉んだり、憎んだりしてもいいことはないと言ったのに、まだわからないのか?昔、お前に酷いことを言ったヤツもいたかもしれないが、そいつのお陰でそこを辞められ、今の会社に流れ着き、俺に出会えた。あー良かったな。そうやって、人間万事塞翁が馬という風に考えれば、人生は幸せなんだと、何度言えばわかるんだ?

 他人を嫉むなと言いながら、森尾は俺がほかの仲間とプライベートを共にしたり、もっといい条件の仕事に移りたいとか、彼女を欲しているとか、今以上の幸せを望んでいるようなことを言うと、烈火のごとく怒り狂った。一度森尾の逆鱗に触れると、棒のふり幅が小さいとか、声が出ていないとか、些細なことで難癖をつけられ、二時間以上も説教されるのはザラで、反省文の提出を要求されたこともあった。

――今のお前にとって、本当に必要なのはなんだ?彼女を望むのもいいし、正社員になりたいと思うのもいい。だが、その前に、お前にはやるべきことがあるんじゃないのか?お前にそれを教えてくれるのは誰だ?お前を導いてくれるのは誰だ?お前が見つめるべき人は誰だ?

 弟子の指導を大義名分に、無茶苦茶に怒鳴り散らし、俺が委縮したところで、ふいに優しげな――冷静に聞けば、かなり独りよがりな――言葉をかけることにより、自分が俺にとって必要な存在だと思い込ませる。そんな形で、森尾は俺を一種の洗脳にかけようとしていた。

――さっきは怖かったかもしれないが、俺はお前のことを、誰より大切に考えているぞ。お前は俺を尊敬しているんだよな。お前は俺に憧れ、俺を目指しているんだよな。お前は俺と、一生一緒にいたいと思ってるんだよな。

 俺が自分を尊敬し、憧れ、目指しているという確信があるのなら、わざわざそれを尋ねて、確認を取ったりはしない。不安に苛まれて、俺が自分を慕っていることを確かめようとするが、無理やり言わせるだけでは不安は晴れない。

 はた迷惑な悪循環。まったく進歩の見えない無限ループが、俺が警備会社を辞めるまで続けられた。

 森尾は哀れであり、愚かであり、滑稽な男ではあったが、根っからの悪人というわけではなかった。森尾があそこまで俺に付きまとったのは、俺を騙して、利益を得ようとしていたからではない。

 ただ、誰かに愛され、必要とされたい。森尾はただそれだけのために、四年間もの間、俺に無益なストーカー紛いの行為を繰り返していたのだ。

 森尾が見ているのは、誰よりも可愛い自分自身のみ。ただ自己肯定の材料とするために、自分より何もかもが劣った俺を利用しようとしていただけに過ぎない。

 森尾の吐くキレイゴトのすべては、俺の成長や、幸せのためを思ってではなく、自分が気持ちよくなるため――それがなってない俺を見下し、優越感に浸るだけの目的で発せられたものだということはわかりきっている。

 しかし――。

――いいか。人を嫉んだり、人を憎んだりしても、いいことなんて何もないぞ。すべて自分のせいだと受け止められる謙虚な心を持ち、愚痴をこぼしたりしなければ、お前はきっと幸せになれるんだからな。

 俺が警備員を辞め、森尾から離れて以降の人生で、幸せになるどころか、坂道を転げ落ちるように、状況がどんどん悪化していくだけだったという事実が、俺の中に残る森尾の言葉に真実味を持たせた。

 見渡す限りオッサンばかりの楽園から、狂おしい生物に囲まれる地獄に放り込まれ、手を伸ばせば届くはずのそれに、どうしても触れられない煩悶に喘ぐ中で――俺がどんなにしても手に入れられない女を、当たり前のように持っている男への嫉妬の炎に焼かれる苦しみの中で、森尾の言葉が蘇り、不気味に色濃さを増していった。

 やはり、森尾に付いていくのが正解だったのではないか・・・。森尾の言っていたことの方が正しいのではないか・・・。そう思わせることに繋がった。

 たとえこっ酷くフラれたのであろうが、自分の恋した女の幸せを祈るのが、男として正しい姿だ。酷いことを言われたのも、やっぱりお前の方に原因があったんじゃないのか。お前が我慢すればいいだけだ。友麻にコケにされ、藤井と差別された俺に、森尾がそう言っている気がした。

「人を嫉まず、人を憎まず、謙虚であり、愚痴をこぼさない。大変結構なことではあるが、それを人を見下す材料にしたら、ただの偽善になってしまう。そもそも人格などというものは、財力、見た目、才能が、他人に認められた結果ついてくるものであり、何もない人間が、それを誇りにするためにあるものではない」

 影沼の言葉が、強い力を持って、俺の中に巣食う森尾に吹きつける。しかし、四年の月日をかけて植え付けられ、ずっと俺を苛み続けてきた重しは、そう簡単に吹き飛ぶものではない。

「だけどさぁ。そんな人間だから、人生うまくいかないんだろ、て言われたらどうすんの?人を嫉んで、憎んで、他人のせいにして、愚痴ばっか吐いているから、お前は底辺なんだって・・」

 俺が、ずっと言われてきたこと。別に直接言われたわけじゃなくても、常に誰かに、言われているように感じてきたこと。そいつを、影沼の力強い言葉で吹っ飛ばしてほしい。

「それは、鶏と卵が逆になっている。因果関係を逆転させて、不満の矛先を自分たちに向けさせないようにするための方便だ」

 そんなんだからダメなんだ、ではなく、ダメだからそうなったんだ。俺がずっと思ってて、言えなかったこと。俺がダメである理由、俺が報われない理由を列挙するばかりで、肝心のチャンスを一度も与えてくれなかった世の中に――女たちに、俺がずっと言いたかったこと。しかし、奴らの言うことにも一理ある。

「だけど、やっぱり、人を嫉んだり、憎んだりしても苦しいだけだし、誰かのせいにしたり、愚痴をこぼしたりしたら、周りの人は嫌な思いをするだろ。やっぱり、人を嫉まず、憎まず、すべて自分のせいだと思って、愚痴をこぼさずにいた方が、幸せになれるんじゃ・・」

「なれない!青木っちみたいな不細工で、何の取り柄もない無能は、人を嫉まず、憎まず、自分のせいだと思って、愚痴を吐かずにいても、けして幸せにはなれない!一生涯、貧乏から抜け出せない!」

 影沼が言っているのは俺の資質の否定だが、しかし、どういうわけか、ちっとも嫌な気はしなかった。それは、俺が幸せになるための方法論を、さっきから影沼が明示しているから。

 俺が幸せになるための、唯一の方法――。影沼と一緒に、ココロキレイマンを打ち倒す、正義の戦士となること――。

「その・・ココロキレイマンってのは、説教する奴らってこと?」

 自分の進むべき道が本当に正しいのか確かめるために、ココロキレイマンについて、もっと詳しくなっておかなければならない。俺はこれから倒すべき敵、ココロキレイマンの実態を解明すべく、影沼に教授を仰ぐことにした。

「ココロキレイマンとは、世の中で正しいとされる価値観そのもの。それは青木っちの中にもいるし、藤井ちゃんや友麻の中にもいる。文明社会の中に生きる者なら誰しもが持っている、概念的なものと捉えてくれればいい」

 誰しもが持っている概念的なもの――しかし、それを信じて幸せになれる人間と、なれない人間とがいる。ココロキレイマンを信じていてもけして幸せになれない人間。それをこれから救うのだと、影沼は言っている。

「実体のないものを相手に戦うってことか?なんか、大変そうだな」

「大変だが、その手段はシンプルだ。具体的に、ココロキレイマンを打ち倒すための方法は、”抵抗” ”説得” ”証明”この三つに分けられる。”抵抗”とは、負け組にココロキレイマンになることを強制してくる人間、すなわち、後ろめたいことのある勝ち組を、力ずくで駆除すること。”説得”とは、ココロキレイマンに毒されてしまった人を、文字通り口頭で説得し、彼らの中のココロキレイマンを追い払ってあげること。”証明”とは、ココロキレイマンにでない自分が、実際に幸せになっている姿を見せつけることにより、本当に正しいのはこちらであるのを、みんなにわからせること。それを繰り返すことにより、この底辺世界からココロキレイマンを駆逐するのが、俺たちの活動の最終的な目的だ」

「・・・藤井と友麻を殺したのは、”抵抗”?」

「そうだ。藤井ちゃんと友麻は、青木っちに、自分たちを嫉まず憎まない、ココロキレイマンとなることを強制しようとしてきた。あと一歩のところで、ココロキレイマンになってしまうところだった青木っちを救済して俺のパートナーにするのと、奴らが放つ本物の輝きを消し去り、あの職場に隠れているココロキレイマンをいぶり出すために、俺はあの二人を殺すことを決めた」

 影沼の言う通りだった。

 俺が今の工場に留まるには、自分をボロクソに侮辱してきた女がイケメンと付き合う幸せを笑顔で祝福できる、ココロキレイマンになるしかなかった。大切にできるものが何もない俺が、友麻にゴミのように扱われた理不尽を納得するには、人間の女という生き物を無条件に労われる、ココロキレイマンになるしかなかった。

 女を無条件に労われなど、ふざけるのもほどがある。大人の女とは、子供や動物のような、無償の愛を注げる対象ではない。異性への思いは、受け入れられて初めて愛になるものだ。理不尽に踏みにじられたりしたら、憎悪に変わってしまうこともある。

 男女平等を叫びながら、一方で女は保護されるべき対象だと主張し、女は男に何を言っても許されると思い込むなど、けして許されるものではない。そして同じく、もっといい女をいくらでも抱けるくせに、本来、俺のような貧乏、不細工、無能に希望を与えなければならないはずのブスを持っていった藤井の節操なしも、けして許されるものではない。

 しかし、世間はそれを、逆恨みという。そいつを打ち破いてくれる理屈を、俺は欲している。

「だけどさぁ。藤井と友麻だって派遣だろ。上のヤツから見たら同じ穴の貉じゃん。弱い者が弱い者同士でつぶし合うってのは、正義の味方がやることじゃないんじゃない?ココロキレイマンになることを強制してくる人間を倒すなら、それこそ、格差社会を作り出してる政治家とかをやっつけた方がいいんじゃ・・」

「俺たちが救済しなければならないのは、ココロキレイマンではけして幸せにはなれない、世の中の貧乏、不細工、無能たちだ。これに一点でも当てはまらない者は、たとえ雇用形態が非正規であっても、救済の対象からは除外される」

「俺と藤井、友麻が同じ穴の貉なんじゃなくて、政治家と藤井、友麻が、同じ敵ってこと?」

「胸に手を当てて考えてみろ。政治家と藤井ちゃんとの差と、イケメンで、彼女がいてセックスやり放題な藤井ちゃんと、女に馬鹿にされ、部屋でマス掻いてばかりの青木っちとの差。どっちが大きい?」

 どこからどう考えても、俺と藤井との差の方が大きいとしか思えず、苦笑が漏れた。藤井が自分より政治家を憎めというのは、泥棒が人殺しを指さして、あいつを先に捕まえろというのに等しい。

「もちろん、大局的な見方も大切だが、一足飛びに大きな敵を狙ったところで、敢え無く潰されるだけだ。そもそも、今まさに拳銃を突き付けてくる相手を取り除かなければ、それを操る大敵を倒すこともできない。青木っちは藤井と友麻のラブラブを見せつけられ、ココロキレイマンに支配される寸前だった。死よりも辛いその運命に、全力で抗ったまでのことだ」

 俺の投げかけた疑問を、影沼は淀みない口調で、あっさりと論破してみせる。影沼の言っていることは至極もっともであり、反論の余地もない。少なくとも俺にとっては、圧倒的に正しいと思えることである。

 非正規社員、年収二百万以下。そこから抜け出したくて抜け出せない人間の苦痛を、ココロがキレイでなくてはいけないという強迫観念が助長していると主張する男が、俺に光を示そうとしている。

 自分に好意を持った貧乏、不細工、無能をコケにしまくって、己の穴ぼこだらけの自尊心の補修を図ろうとする、しもぶくれでビーバーみたいな顔をした友麻。ほかにもっといい女をいくらでも抱けるくせに、わざわざしもぶくれでビーバーみたいな顔をした女に手を出して、貧乏、不細工、無能のささやかな希望を搔っ攫っていった、節操なしの藤井。

 藤井と友麻を殺さなかったら、俺と同じように心を傷つけられ、ココロキレイマンとなることを強制される貧乏、不細工、無能が、もっと大勢出ただろう。俺と影沼は、その身を犠牲にして、貧乏、不細工、無能を、ココロキレイマンの毒で染めようとする悪を、この底辺世界から追い出したのだ。

 法では罰せない奴らを成敗してやったのは、正義の行いだったのだと主張する男が、俺に今まで見たことのない景色を見せようとしている。

「本物の輝きの前では、紛いものは息を潜めているしかない。けして真似できない相手がいる前で自己主張などしても、惨めになるだけだからな。だが、本物は消え去った。みていろ。藤井ちゃんと友麻が消えたあの職場から、これからココロキレイマンが、雨後の筍のように湧き出てくるはずだ。そいつらを、これから一人ひとり、叩き潰していくんだ」

 影沼の力強い言葉が、もう、思い出せないほど昔――人生が地獄でしかなくなる前に、俺が思い描いていた夢想を呼び覚ましていく。まだ、ちんぽが精力を持っていない、純真だったころの俺を蘇らせていく。

 みんなの憧れの、正義のヒーローになりたい。底辺世界にいる貧乏、不細工、無能を苦しめるココロキレイマンを一人残らず取り除き、みんなを幸せにしてやりたい。男として生まれたからには、価値のある、でっかいことがしてみたい。

 でも――。

「世のため、人のためだけじゃ動けない。あんた、ココロキレイマンをやっつけるには、自分が幸せになってるところを見せつける方法もあるっていったよな。俺はこれから、幸せになれるのか?あんたについていけば、幸せになれるのか?」

「なれるとも。人を嫉み、憎み、謙虚でなく傲慢で、愚痴をこぼしながらでも、人はいくらでも幸せになれる。むしろそうでなくては、底辺世界の住人はけして幸せになれない」

「具体的に、どうすりゃいいんだ?」

「簡単なことさ。どうせ誰にも期待されていない負け組なんだから、本音で生きろ。自由に生きろ。ココロキレイマンの信じる方角とは、逆に向かって歩め。その先に道は拓ける。俺が青木っちを案内してやる」

 俺は拳を、力強く握りしめた。

 社会の常識を逸脱し、理解不能の妄言を並べる人間に出会ったとき、ほとんどの人間は、目を背け、耳を閉じて、自分の中で、なかったことにしようとする。

 だが、俺は敢えて、向き合ってみようと思った。

 これまで、右へ倣えでやってきたが、にっちもさっちもいかなかった。でも、影沼が藤井を殺し、俺が友麻を犯して、影沼が友麻を殺したとき、俺はスッキリした。

 普通にやってちゃ、どうしても幸せになれないヤツもいる。ありきたりなことばかり言っている奴らより、コイツの言うことを聞いていた方が、まだマシになれる気がした。

 ココロキレイマン――後ろめたい勝ち組が、負け組を納得させるために作り出したそいつを、これからぶっ倒す。貧乏で不細工で無能なくせに、ココロキレイマンを信じているせいで苦しんでいる奴らを解放し、底辺世界に平和をもたらしてやる。

 自分のやるべきことがわかると――それが正義の行いであることがわかると、腹の底から、熱いものが湧き上がってくる。

「青木っちは、何かやりたいこととか、夢はあるのか?」

「いや。小学校高学年から、夢なんてもんは、一度も持ったことはない」

「就職活動は?」

「まぁ、ぼちぼちにとは考えてるけど、今すぐに動くってことはないよ」

「だったら、暫くの間、俺と一緒に、ココロキレイマンを打ち倒す、正義の戦士としての活動をしてみよう。いいじゃないか、減るもんじゃない」

「だけど、俺なんかにできるかどうか・・・」

「できる!きっとできるさ。嫉妬と憎悪の塊で、自己中で我儘で甘ったれで、異常な性欲の強さと歪んだ性癖を持ち、まるでヘドロみたいな、いや、ほとんどヘドロそのもののような青木っちなら、きっと、底辺世界を汚染するココロキレイマンを打ち倒し、貧乏で不細工で無能な人間が、せめて気楽に生きられるよう、底辺世界を変えられるさ」

 俺の人格をメタメタに非難する影沼の言葉を聞いて、腹の底から湧き上がってきた力が、全身に漲っていくのを感じる。

 ずっと、誰かに愛され、必要とされたかった。しかし、その相手は、世の中で値打ちのある人間、値打ちのある組織でなければ意味がなかった。

 俺の現在の立場は、安価で、いくらでも代えの利く、非正規の派遣労働者。その敗残者の中でさえ争いに負け、ゴミ捨て場の中の掃き溜めに掃き寄せられた「非リア」「陰キャ」。

 だからこそ、できることがあるのだと、目の前の男は言っている。

「やってやる。俺が底辺世界から、ココロキレイマンをなくしてやる」

 俺がこれからすることは、履歴書に書けるようなことではない。世間一般から、すごいこと、立派なことだと評価されることはない。

 しかし、俺がこれからやることは、圧倒的に正しく、何より楽しいことだ。まだ、ガイドラインを聞いたに過ぎない段階だが、この影沼という男に付いていけば、これからの俺の生活が最高に充実したものになるであろうことに、揺るぎない確信が生まれていた。

「自分のやるべきことがわかったのなら、さっさと後片付けして、明日から始まるココロキレイマンとの戦いに備え、家に帰ってゆっくり休もう。我々にとって幸いなことに、この産廃置き場は、違法に投棄された薬品が化学反応を起こし、いつ火災が発生してもおかしくない状況にある。よく、地元のワルどもがヤバい物を捨てに来るのに使われているようだから、身元不明の焼死体が二つ転がっていても、警察はそいつらの同類と判断して、真剣に調べたりはしないはずだ。顔もわからないほどまっ黒焦げにすれば、けして捕まることはない・・」

 もし捕まったとして、それが何だというのだろう。もともと俺は影沼がいなくとも、藤井と友麻を殺して、人生にケリをつけるつもりだったのだ。

 衝撃的な男が、俺の背中を押し、やりたかったことをやらせてくれた。

 塀の中にいるのと何ら変わりなかった暮らしが激変していく。

 影沼と、一緒なら――。

「キャアァンプ、ファイヤー!!グッバイ、ココロキレイマン!グッバイ、クソだった人生!」

 紅蓮の炎に焼かれるカローラを背に、俺は影沼を後ろに乗せた自転車で、山道を駆け下りていった。 


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「あ~あ。友麻ちゃん辞めちゃったよぉ。ダメじゃないか青木っち~、LINEをブロックされてるのに、しつっこくメールを送ったり、電話かけたりして付き纏っちゃあ。しかも、友麻ちゃんの画像でオナニーして、出した精子を、友麻ちゃんのロッカーの取っ手に塗りたくったりしてたんだってぇ?そんなストーカーしてたら、そりゃ怖くて逃げだすさぁ」

 藤井と友麻を殺害した翌日、十分間の休憩時間に、影沼が事実無根の情報を、みんなに聞こえるような大きな声で並べ立てた。

 昼休憩になると、俺は遠慮がちに後をついてくる竹山を振り切って、影沼と二人で食堂に席を取り、目を見合わせてニヤリと笑った。
 
「これでよし。あれであのフロアの連中は、青木っちのことを、最低の、どうしようもない変態クソ野郎だと思っただろう。そんなヤツが、これからここで幸せを手に入れる。ココロキレイマンじゃない方が幸せになれると”証明”してみせるんだ。痛快じゃないか」

 影沼の言葉に頷いた。だが、正直まだ、影沼を信じ切れていない部分もあった。

 ココロキレイマンじゃない方が幸せであることを証明するために、まず、自分のココロが汚いことを、みんなに大々的にアピールする。理屈はわかるが、リスクはでかい。これで本当に幸せになれなければ、俺はただの変態ストーカー野郎として終わってしまう。

 しかし、やるしかない。まともなやり方じゃ何べんやってもうまくいかなかった俺が、唯一幸せになる道が、ココロキレイマンをぶっ倒すことなのだ。

「ココロが汚いとわかった青木っちの元には、これから、自分がココロがキレイな正しい人間であることを証明したいココロキレイマンたちが、群れをなして襲い掛かってくるだろう。青木っちに説教をしてくる彼らを、逆に”説得”するんだ。最初は、俺がお手本を見せるから、青木っちは黙って見ていてくれ」

 影沼の予言は、すぐさま的中した。俺と影沼の食事が終わったころ、昨日までの「ランチメイト」田辺が、眉間にしわを寄せながら、俺に苦言を呈しに来たのである。

「青木くんさぁ、十分休憩の時間、話聞いてたけどさ、職場恋愛はご法度でしょ。石田さんだって、そりゃ迷惑したと思うよ。君は何しにここに来てるんだよ。自分のやるべきことをよく考えろよ。そんな浮ついた気分で仕事してたんじゃ、いい製品なんか出せないだろ」

「おい青木っち。トイレに行こう」

 まだ言い足りなそうな田辺を置いて、俺は食器の載ったトレーを下げ、影沼の後についてトイレに入った。

「あれはココロキレイマンの一種、シゴトスウコウマンだ」

「シゴトスウコウマン?」

 放尿しながら、俺は耳慣れない単語に首をひねった。

「生きるために働くのではなく、自分は働くために生きているのだと主張する人々。職業に貴賎なしを建前に、時給なんぼの仕事を、あたかも、世間から仰ぎ見られるような仕事であるかのように語り、仕事へのモチベーションが低い人を見下して喜んでいる人種だ」

 シゴトスウコウマン。影沼が述べた田辺の人物評は、ピタリと当てはまっていた。

「シゴトスウコウマンのほとんどは口ばかりで、中身が伴っていない。たまに行動に移しても、それはほとんどの場合、自分を過度にアピールするために出た余計な動きで、むしろ上を困らせていることの方が多い」

 またしても、影沼の言う通りだった。

 今日、田辺が、俺と影沼が食事を終えたころにようやく食堂にやってきたのも、休み時間を潰して仕事をやっていたからである。それで田辺が社員に評価されているかといったらまったくの反対で、社員の目の届かない時間に勝手なことをされるので迷惑がられているだけなのだが、本人にはその自覚がまったくなく、あくまで自分の行いは、会社のためになっていると思い込んでいるようだった。

 仕事に誇りを持つのは尊いことである。しかし、非正規の単純労働の世界でそれをやっても、ほとんどの場合、自分が向上することには繋がらず、人を見下すことにしか使えない。

 シゴトスウコウマン。藤井や友麻のような奴らに傷つけられた俺に、塩を摺り込んできた連中。自分こそ、藤井や友麻のような奴らに馬鹿にされているくせに、敵意を勝ち組に向けるのではなく、同じ負け組の頭を抑え付けて満足しようとするくだらない奴ら。俺がずっと苛立ってきた連中。殺したいほどではないが、ボコボコにはしたかった連中。

「彼らには決まって、なにか切羽詰まった事情がある。あの人、趣味はなにか知ってる?」

「う~ん・・趣味っていえるのかわからないけど、パチンコの話はよくしてるね。勝ったときしか話さないから儲けてるみたいに聞こえるけど、それで旅行に行ったとか、キャバで豪遊したみたいな景気のいい話は聞かないから、結局は軍資金に消えて、トータルじゃ赤字になってるんだろうな」

「収入の少ない者ほど、なぜか遊興費の支出が多い。働いてもお金が貯まらず、まとまった休みも取れないから、正社員で働く意思はあるのに就職活動を行う余裕がない。仕方なく、いま自分のやっている仕事を、自分が本当に就きたい仕事と同等に崇高なものだと思い込み、周囲にもそう思わせようとしている。よくありがちなパターンだ。行くぞ」

 反撃の狼煙が上がった。トイレから出ると、俺は影沼と一緒に食堂へと戻り、田辺の隣の席に腰を下ろした。

「あ。青木くん。さっきの話の続きだけどさ。そもそも職場ってのは、戦場みたいなもんだろ。戦場に女は連れて行かないのと同じように、職場で女の尻を追いかけまわすのも、緊張感の緩むもとになるから、それは慎むべきだよ。だから・・」

 俺を見つけるや、田辺の舌がフルスロットルで回転し始めた。ココロキレイマンに支配された人間にとって、自分より劣った人間、何かやらかした人間は、一流ホテルのディナーにも勝る馳走なのである。

「四十三歳。職業、派遣社員。年収二百万円。趣味、パチンコ・スロット。結婚歴なし、彼女なし」

 影沼が述べた事実の羅列に、田辺が絶句した。

「なん、なん、なん・・・・」

 何も言い返せないでいる田辺を置いて、俺と影沼は席を立った。

 ぐうの音も出ない、事実の羅列。影沼の”説得”は、ただそれだけで終わった。

「今ので、いいのか?」

 正直、意外だった。影沼が、田辺の説教を一言一言論破し、こちらの自論をズバズバと展開していくのを想像していた俺には、影沼の対応は、物足りなさすら感じた。

 しかし、田辺に与えたダメージは、それこそ百万語を並べ立てるよりも甚大だった。そのことが、驚きだった。

「自分が彼らにやられてきたことを考えろ。人は自分が正しいと思っていることを頭ごなしに否定されると、かえって頑なになってしまう生き物だ。ムキになって言い返しても、水掛け論になるだけ。だから、ただ事実を伝えるだけでいい。人を嫉まず、憎まず、謙虚で愚痴をこぼさない。それが正しいと思い、人にもそれを押し付けようとしているようですが、それで何か得られましたか?バカでなければ考えるだろう。貧乏で不細工で無能な者が、己の人格なんかを誇りにし、他人に偉そうにしても、得るものは虚しさだけではないだろうか。”清貧”なんか目指すのはやめて、もっと本音を出して、自由に、気楽に生きた方がいいんじゃないか・・と、まぁ、こんな具合さ」

 影沼の言葉を聞いて、俺は自分を深く恥じ入った。

 ただ、うっとおしい説教オヤジをギタギタにしたかっただけの俺と違い、影沼は、本気でココロキレイマンを、底辺世界から追い出したいと思っている。ただの私怨ではなく、使命感によって動いている。

 ベストな手段とは、いつだってシンプルである。無駄を省き、洗練され研ぎ澄まされた言葉ほど、効果は絶大となる。きっと影沼は、これまで幾度もの挫折を経て、「事実の羅列」という結論に至ったのだろう。俺が無駄な人生を過ごしている間、影沼はずっと、正義のための活動に邁進してきたのだ。

 影沼の、殺人すら正当化できるほどの強い使命感は、一体どこから来るのだろうか。影沼は、なぜそれほどまでにココロキレイマンを憎むのか。今度、酒でも飲んだときに聞こうと思った。

「絶対に言ってはいけないのが、自分はそうしている。お前もそうしろ。それを言った時点で、こいつは他人を思っているのではなく、ただ自分が気持ちよくなりたいだけだ、と、相手に思われてしまう。”説得”と、ただの説教との間には、天地の差があると覚えておけ」

 影沼に言われたことを、俺はしっかりと胸に刻んだ。

 底辺世界にありがちな、師匠の押し売りというパターンではない。生まれて初めて、俺自身が必要を感じ、誰かに教えを乞いたいと思った。学生時代にも、こんなことはなかった。

 俺も影沼のような、私怨ではなく使命感に突き動かされる、正義の戦士になりたい。クソだった人生とオサラバするために、俺は影沼の弟子になろうと決めた。


                            8

 

「え~、藤井くん、辞めちゃったのぉ?」

「なんか、会社に連絡もなく、いなくなっちゃったんだって」

「ショック~。いるだけで目の保養になったのに・・・」

「あの、仲の良かった同じ派遣の女の子と、別のところに行ったのかしら・・・」

 藤井が工場から去って数日が経つと、社員のご婦人方が、藤井のことをひそひそと噂し合うようになった。それと同時に、俺と影沼のアンテナに引っ掛かる「ココロキレイマン」の数も増えていった。

 本物の輝きが消え、紛い物が雨後の筍のように姿を現す――影沼の予言が、見事に的中したのである。

「青木くん、君はとんでもないことをしてくれたな。藤井くんと石田さんは、この職場で出会った大切な仲間だろう?たとえ君が侮辱を受けたのだとしても、カップルが成立したのなら、その幸せを祈るのが、男として正しい道じゃないか。それなのに、君は邪な嫉妬を抱き、彼らに嫌がらせをして、彼らを追い出した。けして許されないことだぞ」

 ある日の勤務終了後、駐輪場で俺に絡んできたのは、藤井や友麻と親しくし、彼らとともに食事に出かけることもあった、三十八歳の男性派遣社員、矢島である。

 矢島は「リア充」グループの一人ではあったが、俺が彼を羨ましいと思ったことはなかった。それは矢島が貧乏で無能、そして、でかい鼻にでかい耳、糸のように細い目、ぽっこりと突き出たお腹の、俺と同じ不細工男だからである。

 仮に女を持っていたとしても、同じ不細工であれば嫉妬はしない。単純な話で、俺にもいつかは回ってくると思えるからだ。俺が許せないのは、あくまで、もっといい女をいくらでも抱けるイケメンであるくせに、俺の獲物であるブスとババアに手を出してくる節操なしである。

 貧乏、不細工、無能。これに一点でも該当しない者は、救済の対象とはならない。同じ非正規の派遣労働者でも、彼らは底辺ではない。彼らに、ココロキレイマンとなることを強制された場合は、全力で”抵抗”し、緊急性が高い場合には、殺害することも厭わない――。

「これは、ココロキレイマンの一種、キズナダイジマンだ。知り合ってから一年も経ってないような職場の人間関係を、あたかも、長年連れ添った戦友かのように持ち上げ、それをあまり重視していない人を見下してくる人種だ。青木っち、俺がこの前言ったように、彼に事実を伝えてみろ」

 矢島が舌鋒鋭く俺を糾弾する前で、影沼が俺に耳打ちした。
 
 キズナダイジマン。藤井や友麻のような奴らに傷つけられた俺に、塩を擦り込んできた連中。自分こそ、藤井や友麻のような奴らに馬鹿にされているくせに、敵意を勝ち組に向けるのではなく、同じ負け組の頭を抑え付けて満足しようとするくだらない奴ら。俺がずっと苛立ってきた連中。殺したいほどではないが、ボコボコにはしたかった連中。

「派遣社員。年収二百万。三十八歳。結婚歴なし、彼女なし」

「な?何?何・・なんだよっ。派遣が仲間との絆を大切にすることが、そんなにおかしいか?そ、そもそも、君は石田さんをデートに誘う前に、脈があると思ったのか?興味のない男からデートに誘われて、石田さんも怖かったんじゃないのか。そういうのは和を乱すもとになるんだから、もっと慎重にしろよ」

 絶句するだけだった田辺と違い、矢島は懸命に言い返してきたが、その声音は震えていた。

 キズナダイジマン。影沼の言っていることは、矢島の人物像とピッタリ一致しているが、付け加えるのを忘れてはならないのは、彼らはさも絆が大事かのように言っているが、彼らが本当に周囲の人間から慕われているかといったら、それは大間違いであるということだ。むしろ、説教くさく、何かと余計な世話を焼きたがる彼らは、自分が大事だと思っている連中から、反対にウザがられている場合が多い。

 どれだけ絆が大事と口にしていても、それは周りから慕われることではなく、絆を重視していない人間を見下す目的にしか使えない。おそらく矢島の動揺は、自分が藤井や友麻、あるいは満智子から、本当は厄介者扱いされていた自覚から来るものであろう。そして俺は、矢島が内心、後ろめたく思っていることがもう一つあるのを知っている。

「職場の人間関係、仲間同士の和が大切であることに異論はない。しかし、それをチャレンジしない言い訳にしてどうする。あんたも藤井が来る前まで、ずっと友麻のことを狙っていたんだろ。なんであんた、友麻に一度もアタックしなかったんだよ」

 痛いところを突かれた矢島が、狼狽し目線を泳がせた。

 矢島が友麻のことが好きだったのを、俺がなぜ知っているかといえば、それは本人が直接、俺に言ってきたからである。

 藤井と友麻が親密な仲となったのがわかってから、矢島は、それまで、特に交流の無かった俺をわざわざファミレスに呼び出し、「俺も君と同じように友麻ちゃんが好きだった、でもこうなったからには、好きになった女の幸せを素直に祝福し、二人の交際を暖かく見守ろうじゃないか」などといったことを、俺に熱い眼差しを向けながら語ってきた。

 矢島がまんこにむしゃぶりつきたい友麻。友麻がちんぽをしゃぶりたくてやまない藤井。その二人と、敢えて仲良くする。

 矢島はそれにより、二人に対し、嫉妬という邪な感情を抱かず、素直に仲間の幸せを祝福できるキレイなココロを持った己を俺に見せつけ、得意げになりたかったのだろう。そして、それができない俺をいつか、こうして糾弾するつもりだったのだ。

「そ、そりゃお前、俺じゃ友麻ちゃんを、幸せにはできねえと思ったからだろうが・・。好きでもない相手から告白されたり、二人きりで食事になんか誘われたら、むこうは迷惑に思うだけだろ。相手が自分に興味がないのを察したら、黙って引くのが、大人の男ってもんだろうよ・・・」

 正社員ならともかく、失うものが何もない非正規の派遣社員が、我慢だとか、引くとかいう判断を誇りにしている。まことに滑稽であり、無益な話である。

「人の幸せを祈ってる間に、あんたは何人の女とヤッたんだって話だよ。自分のエゴを押し込めたって、何にも守れてないじゃねえか。あんたが俺に勝っているのは、ただ人に迷惑をかけていない、それだけのことだ。さっきも言ってやったろうが。 派遣社員。年収二百万。三十八歳。結婚歴なし、彼女なし。それが現実なんだよ」

「なん、なん、なん・・・・」

「大体、その脈がないってのは、なんでわかったんだ?本人に直接聞いたのか?仲間の和とか、人間関係が大事とかいえば聞こえはいいが、結局あんたは、挑戦してコケた俺をあざ笑うことで、自分が臆病で、まったく動かないでいることに意味を持たせようとしているだけじゃないのか?」

 ただ、事実を伝えるだけでいい。わかってはいるつもりだったが、抑えられなかった。俺が、この職場で唯一価値があると思っていたもの――友麻が絡んでいると、ついムキになってしまう。

「青木っち。その辺にしておこう」

 影沼に肩をつかまれ、俺はまだ何か言いたげな矢島を置いて、自転車に乗った。

「悲しいことだ。彼らは、負け組であることそれ自体を、恥ずかしいことだと思っている。自分は負け組ではない、それを証明する材料をかき集めることだけに必死になっている。自分はけして負けていないと思い込んでいれば、底辺から這い上がろうとする気が起こらないのも当然だ」

 帰りに寄った公園で、コンビニで買った焼き鳥を頬張りながら、影沼が言った。影沼の言葉に、俺は二度、三度と頷いた。

 なぜ、無理をしてまで、自分を満ち足りた人間だと思い込もうとするのだろう。

 たしかに食うには困らない。しかし、ガマの油を搾るように、生きぬよう死なぬよう、真綿でじわじわと首を絞められる生き地獄を味わっているではないか。仕事は将来の蓄積にならない単純労働で、女とセックスすることもできていないではないか。

 辛い、苦しい。

 寂しい。

 タスケテ。

 ちょっとでいいから、僕に分けて。

 キレイゴトで誤魔化さないで。

 具体的なノウハウを教えて。

 なぜそれを、大声で叫ぼうとしないのか?自分がちっとも幸せじゃないのに、他人の幸せを祈っているなど、嘘を吐いて自分を慰めようとする?弱音を吐くのを恥だと思い込み、無駄な男らしさなどを見せて、痩せ我慢をしようとする?

 自分の中に巣食うココロキレイマンを一掃しなければ、底辺世界に生きる貧乏、不細工、無能は、底辺から抜け出す一歩を踏み出すことすらできない。そのことを、ココロキレイマンに支配された他人を客観的に眺めることで、初めて理解した。

「・・・少し前の俺も、同じだった。なにもかもが俺より劣った竹山を傍に置いて、ヤツに偉そうにすることで、自分の存在意義を確認していた」

「それでも、青木っちはまだ、友麻にアタックして、現状を打破しようとしたじゃないか。たまたま、偉大なチャレンジャーを侮辱し、チャレンジすること自体が悪、というような酷い対応をする女に当たったのが不運だっただけだ。そいつに対して、ケジメはつけた。次に向かって、気持ちを切り替えられただろう」

 そうだった。俺はあのままでは、気持ちの切り替えもできない状態だった。

 キッパリ断ることと、相手を不必要に傷つけることは、まったく違う。先に因果を含めてきたのは、あなたとお付き合いすることはできません、それだけのことを伝える以外の、余計なことをしてきたあの女だった。

 復讐――マイナスをゼロにする行為は済んだ。再びチャレンジする態勢は整った。

「負けるのが恥なんじゃない。負けたままでいるのが恥なんだ。いずれ勝つためには、まず、自分が負け組であることを自覚しなければどうしようもないんだ」

 自分の立場を、客観的に理解する。すると、自分がけして、何も抗う術を持たない社会的な弱者などではないことが見えてくる。

 底辺世界にいる負け組。失うものは何もない。だからこそ、何も恐れず前に進める。考えてみれば、これほどの強みはないではないか。

 派遣社員、年収二百万、彼女なし。それは情けないのではなく、この世で最強なのだと理解する。そこから、一歩が始まる。

「俺はっ、女が欲しいっ。何よりもまず、女が欲しい。女とヤレなければ、正社員になるどころじゃねぇっ。チャランポランなのに彼女がいるヤツはいくらでもいるのに、俺だけが、彼女を作るためにちゃんとしなきゃならねえなんて、納得できねえっ。俺にも彼女はいていい。俺も、女とヤレていいっ」

 迸るような、思いの発露だった。

 頑張る前に、まず、誰かに愛され、必要とされたい。誰かに言えば、彼女が欲しいのならちゃんとしろ、とか言われると思って飲み込んできた言葉が、影沼の前だとすんなり言えた。

「おう、その意気だ。んで、青木っちは、誰とヤリたいんだ?」

「満智子だっ。俺は、満智子とやりてぇっ。満智子のでっけえおっぱいを、モミまくりてぇっ。満智子のたるんだ腹を、正常位で突きまくって、揺らしまくりてぇっ。満智子のくせぇまんこを舐め回して、俺のかてぇもんをぶち込みてぇっ」

 渡会満智子。友麻が眼前から消失したことで、俺の好意は、友麻と親しくしていた一回り年上の女へと、一直線に向かっていた。

 満智子はおばさんである。童女のような天真爛漫な雰囲気はあるものの、肌にはシミ・ソバカス、小じわが浮かび、全身に肉の乗った、どこにでもいる普通のおばさんである。作業中には関節の痛みに悩み、苦しげに腰を抑えている姿を見せ、近づけば、甘酸っぱいフェロモンの香りではなく、ハッカのような加齢臭の漂うおばさんである。

 だからこそ、俺は満智子が好きになった。

 若く美しい女を追い求めるのなら、もっと魅力的な女は、満智子よりもすぐ近くにいる。


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「へぇ。美都ちゃんは、この会社のサッカー部出身だったんだぁ。どうりで、なんだか動きにキレがあると思ったよ」

「キレなんてないですよ。もう引退して三年も経つし、二十代も後半になっちゃったし」

 川辺美都――新しくラインリーダーになった女は、仕事だけでなく、プライベートの話にも積極的に応じてくれた。もっとも、話しかけるのはほとんど、影沼一人なのだが・・。

「二十六なんてまだ若いよ、ピチピチじゃん。なぁ、青木っち」

「あ?ああ・・・・」

 実力で大企業のクラブチームに入り、大学新卒と同期で社員になって、順調にキャリアを重ねている女。川辺美都の存在は俺にとってあまりに眩しく、直視すらかなわない。俺と同じ貧乏、不細工、無能であるにも関わらず、川辺美都に、まるで友達のような感覚で話しかけられる影沼は、いったいどういう神経をしているのかと思う。

「えーと。そうそう、これから、このラインの作業環境を色々改善していこうと思うんで、みんなも、積極的に案をあげて下さいねっ」

 美都が顔を横に向けながら笑顔を見せると、胸を撃ち抜かれたようになる。友麻に惚れたときとは比べものにならないほどピュアで、甘く切ないものが横溢し、全身の細胞が瑞々しくなっていく。

 俺が女に飢えているのを差し引いても、美都は可愛かった。だからこそ、俺は美都には手を出そうと思わない。

 みすぼらしいジャッカルは、逞しい四肢でサバンナをかけるシマウマには見向きもしない。後ろ足で蹴り殺されるだけなのがわかっているからだ。ジャッカルが狙いを定めるのは、非力な自分にも仕留められる、深い草藪に潜む野兎なのである。

「いいのか青木っち。美都ちゃんじゃなくて、渡会さんでいいのか?」

「ああ。高嶺の花に手を出したってしょうがない」

「わかった。じゃ、これから渡会さんに狙いを絞って、作戦を練っていこう」

 自分の商品価値を客観的に把握できる年齢になったら、「好き」と「付き合いたい」は、分けなければならない。高望みをしていたら、俺のちんぽは、ただ神が欲求不満のために俺に与えたもので終わってしまうのだ。

 俺がちんぽをぶち込むのは、ブスでババアの満智子。若く美しい川辺美都とは、ただ話せるだけで、幸せと思わなくてはならない。

「あ、あのさ・・・。昨日直してもらった部分なんだけど・・あそこは、変える意味ないんじゃないかな。ただ、やりにくくなっただけで・・・」

 影沼のように、プライベートの話をするところまでもいかない。ただ、ライン作業の改善の話ができるだけで、幸せと思わなければならない。

「ごめんなさい。いいかと思ったんですけど、やっぱり余計でしたよね・・・」

「う、うん。まぁ、全然できないってわけじゃないんだけど・・」

「すみません。明日までに直しておきますんで、今日だけ我慢してください。それでいいですか・・?」

「う、うん。いいよ」

 俺が、しょんぼりした様子の川辺美都とやり取りするのを、隣の工程の影沼は、終始渋い目で見ていた。

「なぁ、青木っち、さっきのはないだろ」

 昼休憩になると、さっそく影沼は、俺の先ほどの言動を咎めてきた。普通に、仕事の話をしていただけなのに、なぜ影沼が険しい顔をしているのかがわからず、俺は戸惑った。

「青木っち、お前、美都ちゃんのこと可愛いと思うか?」

「あ、ああ、そりゃ・・」

「美都ちゃんに気に入られたいと思うか?」

「まあ、そりゃ・・」

 男としてではない。頼りになる部下として、俺は美都に気に入られたいと思っている。

「だったら、その、否定から入っていく癖をどうにかしろよ」

「いや、でも。川辺さん、俺たちにも、改善の案を、積極的に出して欲しいって・・・」

「だから、アラを指摘するより先に、良くなったところを褒めてやれよ。美都ちゃんが改善してくれて、やりやすくなったところもあったろ。そういうのを、まず先に言えって」

「あ・・・」

 目から鱗が落ちる思いだった。

 自分自身が、褒められたことがなかった。好きに発言できるのは――俺の言うことに反応してくれるのは、便所の落書きのような罵詈雑言が飛び交う、ネットの匿名掲示板だけだった。

 相手を褒められるときには敢えて何も言わず、否定するときだけ口を開く。嫌われる人間の癖が、無意識のうちに身に付いていた。そんなことも、他人から指摘されなければわからなかった。指摘してくれる他人が――俺の成長を心から願ってくれる他人が、今までいなかった。

「そういうのは、デートのときにも出るからな。渡会さんと話すときも、気を付けるんだぞ」

「あ、ああ。気を付ける」

 俺の成長を心から願ってくれる他人が、初めて現れた。今、現在を幸せだと思い込ませようとするのではなく、俺を未来の幸せへと導いてくれる男が現れた。それで初めて、自分を変えようと思った。

「いいか青木っち。女なんてのはな、褒めてさえいりゃあ、まず間違いはないんだ」

「ああ」

 知らなかった。そんな簡単なこともわからなかったし、今までできていなかった。

「女は、たとえ一パーセントでもセックスの可能性があるのなら、全力で敬え。褒めて、おだてて、奉れ。が・・・・それでもヤラせてくれない女には、もう下手には出るな。てめえのくっせえマンコに大層な価値があるなどと思い込み、かつ、こちらから金を騙し取ったり、プライドを傷つけたり、名誉を貶めるようなふざけた真似をしてくる女がいたら、犯して殺せ」

「ああ」

「女の選ぶ権利を否定するのなら、こちらも女は選ぶな。ブスとババアにも勃起しろ。ブスとババアの好意を受け入れ、ブスとババアを美人と同じように口説き、ブスとババアを、美人と同じように大事にしろ」

「その点に関しちゃ、まったく問題ない。ブスとババアこそが、俺の欲情の対象だ」

 自分に言い聞かせるように、口にした。

「おう。四十三歳の満智子ちゃんの熟熟おまんこを、青木っちのちんぽの先についてる、ピンク色したモンスタータートルでかきまわしてやれ」

 影沼が、親指を人差し指と中指の間に挟んで言った。

 師匠の教えで、目が覚めた。

 影沼の指摘を受けて、俺が今まで、いかに女に不快な思いをさせる言動を取ってきたかを、思い知らされた。俺にも非があったことがわかって、顔や頭の回転など、持って生まれたどうしようもないものを必要以上に卑下する気持ちは薄れていった。

 これまで、フラれた女は一人ではなかった。その中には、友麻のように、初めから俺のいいところなど探す気もなかったような女だけではなく、少なくともアピールのチャンスをくれた女もいた。それを活かせなかった俺が悪かったと、素直に思えた。地球上三十五億人、すべての女を憎む気持ちは消えていった。

 満智子が好きになり、もう抑えきれなくなった。

 その日の勤務が終了し、ロッカーへと向かって廊下を歩いている途中、俺は偶然を装って満智子に近づき、満智子に話しかけた。

「お、お疲れ様です、渡会さん」

「あら。お疲れ様、青木くん」

 満智子とまともに会話をするのはこれが初めてといってよかったが、意外に話は弾み、ロッカーにたどり着くまでの五分間、会話が途切れることはなかった。

「ところであの、失礼かもしれませんが、渡会さんって、結婚してるんですか?」

「私、独身よ」

「え!!そうだったんだ。渡会さんみたいな素敵な人が独身だったなんて、驚きだぁ」

 すでに知りえていた情報。しかし、大げさに驚いてみせた。

「それじゃ、今度、飲みに行きましょうよ。二人で」

 影沼にアドバイスされた通り、満智子が独身だとわかったタイミングで、俺はすぐさま彼女を飲みへと誘った。

「え~。私みたいなおばさんと飲んだって、楽しくないよ」

「そんなことない。渡会さん素敵だし、十分可愛らしいですよ。渡会さんと飲めたら、俺、嬉しいですよ」

「そんなこと言って~。まさか、エッチなこと考えてる?青木くん、最近変な噂たってるよ」

 口調は俺を窘めるようだったが、満智子はけして嫌そうではなかった。すべての女が俺に敵意を向けているかのように思い込んでいたこれまでの俺ならここで怯んでいたかもしれないが、今の俺は、影沼のお陰で、極度の女性不信を脱している。

「お願いします!俺、渡会さんといつか、二人きりで話したいと思ってた。ずっと思ってた」

 女がすぐに承諾しないのは、必ずしも拒絶のサインではない。ここは、食い下がってもいい場面。ひたすらに押しまくれば、首を縦に振ることもある。

 そして――。

「そ、それじゃ、俺と満智子さんの幸せを願って、かんぱ~い」

「ふふ、何それ。でも、悪くないかも」

 週末、俺と満智子は、近所の居酒屋で杯を突き合わせていた。

 二十八年の人生、女とここまで持ち込めたことは、初めてではない。勝負はここから。

「ここだけの話・・・私、ずっと友麻ちゃんのこと、嫌いだった。何よ。ちょっと若いからって、私のこと下に見て・・。私にもいつか素敵な人が現れるとか、心にもないこと言っちゃって・・。結局、私のこと、自分を引き立てるための道具としか思ってなかったんだから」

 程よくアルコールが入ってくると、満智子は当たり障りのない話題から踏み込み、自分の抱えている気持ちを語り始めた。

 満智子が友麻のことを嫌っていたことは、初めて知った。それは大変結構なことだが、よく聞いてみれば、満智子が友麻を嫌っていることに、大した理由はないようである。

 これまでの俺であれば、「そりゃ被害妄想じゃないですか」などと、デリカシーの欠片もないことを言って、せっかくのチャンスを棒に振ってしまうところだが、影沼の教えを受けた今の俺は一味違う。

「それは酷い話だな。アイツがそんな女だったとは知らず好意を抱いた俺は、大馬鹿だった」

 自分のことを語る女が求めているのは、正論ではなく共感である。

 真実などはどうでもいい。大切なのは、満智子が俺に好意を持ってくれるかどうか。最終的に、俺が満智子を抱けるかどうか、ただそれだけである。

「あの。渡会さん、俺、前から渡会さんのこと、ずっと気になってて・・。渡会さん、てっきり既婚者だと思ってたから、先に石田の方にいったけど、本当は、渡会さんの方が好きだったんだ」

「え~。本当かしら」

「だからその・・渡会さんと、お付き合いできたらなって、思ってるんですけど・・」

「えぇ~。私なんか、おばさんよ。青木くんより一回りも上なのに、私でいいの?」

「いい。俺、渡会さんがいい。渡会さんは最高に可愛い。美しい。俺、渡会さんが、大好きなんです」

 遠くから眺めているときは、まるで童女のような雰囲気があると思った。しかし、一日の終わりで化粧が剥げかけ、酒に酔い、男に口説かれて照れているときの満智子の顔は、やはりアラフォーのおばさんである。

 だから俺は、満智子の肉体を求める。ブスとババアが、俺をビンビンにさせる。

「そんなに言ってくれるなら・・・最後の幸せのチャンス、信じてみようかな」

 初めてのデートでいきなり告白して、満智子からOKの返事を貰えた。二十八年、欲しくて欲しくてできなかった彼女が、呆気なく出来た。

 酒に酔い、トロンと瞳を潤ませている満智子の手を握りしめ、近所のラブホテルへと導いた。部屋へとたどり着くや、俺は服を床に脱ぎ去り、満智子をあっという間に全裸に剥いた。

 満智子の、重力に負けてたるんと落ちた乳房を摘まんだ俺の怒張はビクンと脈打ち、先端からお掃除液を垂れ流す。

「やっ青木くん。そんなとこ、汚いよ」

「はふっもぐっむぐっ。満智子さんに、汚いところなんかないよ」

 カッテージチーズのようなオリモノと、ティッシュのカスがビトビトこびりついた、納豆くさいまんこを舐めながら、心にもないことを口にした。汚い、くさぁい満智子のまんこ。でも、舐めまわす。

「渡会さんの身体、柔らかい・・ずっと、包まれていたい」

 ズプズプに柔らかい、たるんだ脂肪まみれの肉体がたまらない。

 満智子の中に、出したかった。美人ではないババアの中に、俺の不細工遺伝子を、ぶちまけたかった。

 高齢の母体に、過酷な出産を強いる。若い女相手ではけして味わえない背徳感。

 身体のいたるところにガタがきた高齢の満智子を妊娠させ、俺の子を産み落とさせるということに、俺は死んだ友麻や川辺美都のような、健康な若い女を妊娠させ、出産させる以上の興奮を覚える。

「あっ。ァアアあああっ」

 生のまま挿入し、四十三歳を吼えさせた。獣のように抽送し、緩んだ肉体を揺らしまくった。

「あっ。おぉん、いぃん、青木くぅん、青木くぅん」

「いっ、いくぅ、いくぞぉっ、満智子っ」

 電気の刺激が、ズクッと襲ってきた。

 白濁の喜びが、四十三歳の赤ちゃん部屋めがけて、ドヴァッと放たれた。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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