外道記 改 12



 愛娘を肩車する東山が、驚愕に目を見開いた。

「よう。東山じゃねえか。奇遇だな」

 丸菱運輸の倉庫から車で十分ほど走った場所にある、市民公園。平日は鬼の形相で働く企業戦士が、週にたった一日だけ仏の顔になる、日曜日の昼下がり。見つめる誰もが微笑ましい顔になる家族だんらんの図に、一家の主を殺人犯に追い込んだ男が、突然割って入ってきたのである。東山が驚き慌て、警戒するのも無理はなかった。

「いくらなんでも・・・・・!!お前、困るよ、なにをしてる、やめてくれ!」

 興奮すると、脳内の言語を司る機能が崩壊してしまうのは相変わらずだが、今回の東山の動揺は、特に並々ならぬようである。

 かつて人の道を踏み外した東山が、苦難の末に築いた家庭。世間の風潮に染まれず、自分の世界の中だけでしか生きられない東山が、命を賭しても守ろうとしているもの。東山が唯一、幸福を実感できる大事な空間への侵入を試み、そこに馴染んでみせるということは、取りも直さず、東山がますます俺に心を許すことに繋がる。今後の東山からの金銭搾取をさらに有利に進めるために、俺は偶然を装って、わざわざ休日に、職場の近くまで出かけていったのである。

「一体、何の用だ。話があるなら、電話でアポを取ってくれと、あれほど・・・」

「慌てんなって。そんなんじゃねえよ。本当に、偶然さんぽに出たら、たまたま会っただけだって。それより、お前、そのTシャツ似合ってんじゃん」

 東山が、愛娘との親子ルックで着ているご当地ゆるキャラ「くまっしー」のTシャツを茶化してやると、東山の生白い顔が、茹蛸のように赤くなった。

「おじちゃん、くまっしー好きー?」

「おお、もちろん大好きさ。美織ちゃんっていったっけ。くまっしーのストラップで良かったら、おじちゃんが持っているのをあげるぞ」

「うわ~、ありがとう~」

 俺のスマートフォンに付いていた「くまっしー」のストラップをやると、東山の愛娘、美織が、父親に似ても似つかない愛くるしい笑顔を浮かべた。美織は、俺がその昔、彼女と変わらぬ歳の少女に、遺伝情報の詰まった白濁の液をかけたことがあるなど、露も知らない。一方、俺の過去の犯罪を知る父親の東山は、幼子を持つ親が最も憎むべき罪を犯した俺が、教えていないはずの娘の名前をなぜか知っていたことを受け、肥溜めに足を突っ込んだかのように、不快そうに顔を歪めている。

 小さな子供は好きでもないが、嫌いでもない。子供相手にみっともない態度を見せない程度の、最低限の大人としての自覚は持っているつもりだが、特別に可愛らしいと思ったことはない。子煩悩に見える東山とて、他人の子供に対してはそんなものであろうが、俺の場合は、自分の遺伝子を受け継いだ子供にも対しても、余所の子供と特別に違った感情は抱かない。男性には元々、「無償の愛」というものがなく、子供がある程度育ってからでないと本当の愛情を抱くことはないそうだから、子供が生まれた瞬間赤ちゃんポストに放り込んだ俺が自分の子供に何の愛情もないのは、当たり前の話である。

 考えてみれば、近代以前の社会では、親は今よりも絶対的な存在であった。貧しい農村では「間引き」という名の人口調整も行われていた。基本的に、子供は死んでも、また作ればいいという考えであり、親が子供のためにすべてを犠牲にするという感覚はなかった。

 それがいつの間にか、子は何よりも尊いものであり、親たるものは子供を一人前にするために、金も時間も、持てるすべてを費やさなくてはいけないということになった。その責任を放棄する親はとんでもない親であり、人でなしだとされるようになった。

 昔の方が子供を大事にしていなかったにも関わらず、何となく昔の子供の方が親孝行だったイメージがあるのは、昔は最低限食わせてさえやっていれば、子供に感謝される安上がりな時代だったからだろう。今では、親は子供に栄養のある食事を与えるのは当然として、キレイな衣服を着せ、おもちゃやゲームを与え、年頃になったら個室を与え、大学、専門学校と、子供が望む限り勉学をさせるところまでしなければ、どんなに愛情をもって育てたとしても、親が恨まれる可能性もあるという時代である。

 子供は国の宝と言い、未来の希望そのものと言いながら、いざ子供を作ってみれば、家庭への援助は少なく、子供が問題を起こしたときはすべて親の責任とされ、苛烈な追及を受け、多大な損害賠償を背負わされる。子供を育てるのも自己責任と親を突き放すこの国で、俺のような無責任男が、子供をまともに育てられるはずがない。それでも俺は、母乳が飲みたいからと、自らの欲望のためだけに、愛してもいない女との間に子供を作った。 

 なんだかんだといっても、俺も子供に申し訳ないという気持ちはある。俺が将来、自分で作った子供に復讐されることがあるとすれば、それは仕方がないことなのだろう。その覚悟があるということが、育児を放棄する一応の免罪符となっている。

 そういえば、俺と子を作った女、ゆかりは、どこに行ったのであろうか。もし都会を彷徨っていたのであれば、まだ四十代の女ということもあり、そこそこリッチなホームレスの情婦にでもなって、最低限衣食住には不自由しない生活を送ることもできただろうが、地方にはホームレスのコミュニティもなく、頭の弱いゆかりが身を寄せるところはない。

 俺のところにはまだ連絡がないが、行政の手によって保護されているのであろうか。それとも、どこかで野たれ死んでいるのであろうか。あの豚が死のうが生きようがどうでもいいが、この先俺の邪魔にならないように、どこで何をしているのかだけは知っておきたいものだが・・・。

「お友達・・・?」

 東山の女房が、不信感と警戒心が色濃く混じった視線を俺に向けながら、夫に問うた。かつて、元夫からDVの被害にあっていた女は、外界の脅威から自らと娘を保護するため、東山という絶対的守護者にすべてを委ねているのだ。

「ご主人の会社に派遣されている、蔵田と申します。家族水入らずのところ、すみません、奥さん。今、ご主人が会社で大変な状況ですが、私が付いていますから、絶対に大丈夫ですよ」
「お、おい!女房に仕事のことを言うのはよせ!」

 下手したら職を失うというヤバい立場に追い込まれていることを、東山は女房にはまったく相談していないらしい。会社でのことは、家庭に持ち込まない主義のようである。もしくは、女房には一切弱みを見せないタイプか。

「なに、お前、奥さんに言ってなかったの?まあいいや。これからよ、俺、労働組合の活動に参加してくるからさ。なんかお前の会社の社長が、頑なに団体交渉には応じないって言ってるみたいでさ。会社のことを糾弾するために、駅前で街宣活動をやるんだって」

「街宣活動だと!それは、政治結社がやってるみたいな、あれか?」

「まあ、お前が唐津のガキを胸で突き飛ばしちゃった件で、奴ら、相当熱くなってたみたいだから、ヘイトスピーチみたいな感じになるかもな」

「そんな…・俺は、どうすれば」

「だからさ、俺がしっかりアイツらを抑えて、少なくともお前のことだけは守るからさ」

「・・・・・信じて、いいんだな?」

「ああ、もちろんだ。アイツらとは派遣先の会社でたまたま一緒になっただけで、義理はお前との方が上なんだからよ」

 白々しいにもほどがあるが、東山が今の状況で頼れるのは、俺しかいないのは事実なのである。東山から見れば「イジメ」によって、人を殺すような精神状態にまで追い込まれ、あろうことかそれをネタに金銭を強請り取られている相手に、自らの命運を託すという奇妙な状況が、現実に誕生してしまったのだ。

「じゃ、行くわ。邪魔して悪かったな」

 東山に別れを告げた俺は、ローカル線に乗り、丸菱の最寄り駅から三駅向こうにある、地域では最大の繁華街に行くと、すでに駅前では、唐津たちによる、丸菱運輸および東山を糾弾する街宣が行われていた。

「・・・丸菱運輸北関東営業所では、正社員による派遣労働者への暴力や暴言が常態化し、正社員に反抗する派遣労働者への不当な冷遇など、派遣労働者に対し、職務上の指導を逸脱した扱いが、日常的に行われています。経営者は我々の団体交渉の申し入れを拒否し、契約満了とともにクビを切って、すべてを闇に葬り去ろうとしています。我々はそれに対し、断固として・・・」

 唐津たちが街宣を行っている駅は、この地域最大の繁華街の最寄り駅である。労働組合の街宣活動は、内容が事実に即している限り、基本的には違法になることはないが、経営者や従業員の自宅周辺など、個人の生活の安寧を犯す範囲内で行ったり、企業の得意先など、営業に著しい不利益が生じる場所で行うと、違法となり損害賠償を求められる可能性が高い。かといって、あまりに宣伝効果が薄い場所でやるのは意味がない。場所選びは重要である。

 拡声器を使って演説する唐津の周りで、莉乃や松原、田辺らが、東山らに受けた肉体的、精神的被害の具体的内容が記されたビラを、通行人に配布している。東山の名前はイニシャルになっているが、小さな田舎町のことである。噂が広がり、個人情報が特定されないとも限らない。

 東山の個人情報がネットに流出したら、マスコミは放って置かないだろう。中学時代、同級生にイジメを受けたことをきっかけに、同級生の少女を滅多刺しにして殺害した男が、成長して暴力運送会社の親分になり、今度は自分がイジメた派遣労働者から訴えられていたなど、いかにも週刊誌が喜びそうなネタではないか。

 まだ、独身であれば身を晦ますことは難しくないが、今の東山には妻子がある。今度またマスコミに追いかけまわされるようなことになれば、東山は間違いなくおしまいである。

 重要な事は、東山が現在の立場に追い込まれたことに関しては、俺には一切責任がないことである。俺は東山が少年院に収監されて以降の人生には、まったくタッチしていないのだ。東山が家族を作ったのも、丸菱運輸の中で大暴れしたのも、全部、東山自身の責任によるものである。

 今、東山を人生最大の危機から救ってやれるのは、俺しかいない。ちんちくりんの少年東山にとって悪魔でしかなかったはずの俺は、偉丈夫に成長した青年東山にとっては、メシアである男となったのである。

「通行人のみなさん、コイツらの言うことを聞いてはいけません!コイツらは、自分たちが仕事ができないのを棚に上げて、会社を訴えようとする不届き者です!コイツらは、人生というものを舐めているだけなんです!」

 突然、労働組合の活動に、同じように拡声器を手に携えながら乱入して、街宣の妨害をしようとするのは、深山、桟原、牧田の三バカトリオである。昼休み、唐津たちが休憩室で、街宣の予定を話しているのを聞いて、邪魔しにやってきたのだ。彼らにとっても休日は大事だろうに、ご苦労なことである。

「な・・・何なんですか、あなたたち!僕たちは今、正当な組合の活動を行っているんですよ。これを妨害するのは、不当労働行為だ!」

 正確にいうなら、三バカトリオの行為は、不当労働行為ではなく、威力業務妨害に当たる。労働組合の正式な活動を妨害して不当労働行為になるのは、使用者による直接的な妨害、もしくは使用者の介入を受けての妨害があった場合である。今回の三バカトリオの場合は、労働組合の活動を妨害してはいるものの、おそらく動機は個人的な感情によるもので、海南アスピレーションや、丸菱運輸からの指示を受けたわけではないはずである。だからこそ、バカなのだが。

「不当・・・・なんとかはよくわからんが、不当はお前たちだろ!俺たちの大事な職場を訴えるようなことしやがって!自分の仕事を守るために、俺たちも戦うぞ!」

「道路使用許可はとってあるのか?僕たちはちゃんと届け出を出して、正式な活動をしているんだ!邪魔するんだったら、警察に訴えるぞ!」

「おお!訴えてみろ!俺らは豚箱にぶち込まれる覚悟で来てんだ!お前らみたいな、仕事ができねえ、根性なしに負けてたまるか!」

 こういうバカを見ていると、つくづく、「自己責任論」なる風潮と、その風潮を流した国家やメディアの罪深さを感じずにはいられない。

 貧困の原因を、すべて個人の努力不足に押し込めようとする国家と、政治の責任を追及しようとする国民の争いは今に始まったことではなく、自己責任論は日本独自の考え方でもないが、この国が異質なのは、資本主義の恩恵を十分に受けている勝ち組だけではなく、明らかに人生の負け組となった者の中にも、自己責任論を声高に唱えている者が大勢いることだ。

 社会の最下層にいる人間――国家から切り捨てられ、生活を脅かされ、人権を蹂躙される立場に落とされた奴隷どもが、なぜか競争をやめようとせず、自分になにも美味しい思いをさせてくれなかった資本主義の大原則に従って、奴隷同士で足を引っ張り合い、蹴落とし合おうとする。

 おそらく、戦後以来の日本人の特質である、強い自虐性と関係があるのだろう。自分の人生が報われないのは、全部自分の努力不足だと決めつける自虐が、「謙虚」と置き換えられ、ある種の美徳のように考えられてしまうのだ。

 やせ我慢の美学――男らしさという病。自己責任論に洗脳された者は、我慢することを格好いいことだと思い込み、誰かに助けてもらうこと、誰かの手を借りることを、恥だと思い込む。欲しいものも言わず、苦しいと声をあげることもできないまま、餓えて死ぬ。実利を追い求め無いという点で、自己責任論は、極めて宗教的な発想だ。日本は無神論の国などと言われるが、「自己責任教」という宗教が、ちゃんと根付いている。

 世の中に完璧な人間などはいないし、生まれてから死ぬまで、ずっと努力している人間もいない。世の中を牛耳るエリート達にだって欠点はあるし、怠けた経験もある。お前がダメなのは、全部怠けたせいだと言われて簡単に納得していたら、自分を受け入れない社会の側の問題など永遠に見えなくなってしまうはずだが、大人しく、自虐的な日本人は、いとも簡単に、「ああ、そうだったのか」と、自己責任を受け入れてしまう。

 既得権益を握った勝ち組は、大人しく負けを受け入れ、負けたのは全部、自分の努力不足だと認めて、勝ち組に刃向かう意志を見せない負け組には優しい。負け組が敢えて自己責任論を唱えるのは、「私は自己責任を認めているから、それ以上責めないで」という心理が根底に働いている。

 負け組が勝ち組に媚びていれば、勝ち組は優しくしてくれるのかもしれないが、分け前は絶対に与えてくれない。阿諛追従するヤツは、どこまでも舐められるだけだが、いい年をしてそんなこともわからないのが、三バカトリオのような連中である。

 強者と戦って、権利を勝ち取ろうとするのか、強者に媚びて、いいように利用されるのか、どっちが本当に彼らにとって得かは明らかなのに、彼らはわざわざ、損をする方に行こうとする。彼らはどう見てもバカだが、本人たちは自分がバカなどとは夢にも思っていない。なぜならそれは彼らにとって、「自己責任教」の教義を全うするという、崇高な行いなのだから。 

「あなたたち、嫌なことはやめてください!私たちをじゃましないでください!」

 今にも殴り合いを始めそうな唐津と深山の間に割って入った莉乃が、三バカトリオを睨み付け、敢然と立ち向かう姿勢を見せる。勇ましい莉乃の姿に、組合のメンバーは勇気づけられているようであるが、莉乃が三バカトリオと同類であることを知っている俺は、一人白けていた。

 障害者枠の中で、身の丈に合った幸せを掴むよりも、周りから都合よく利用されて、使い捨てられても、健常者の世界にしがみついて生きていきたい。学生時代、無理をして普通学級に留まることに拘り、特殊学級で適正な教育を受ける機会を自ら放棄した莉乃の選択はまさしく、今の三バカトリオと同じである。

 恋愛においても一緒。イケメンや美人という、カーストの上位にある連中にプライドを踏みにじられたとき、莉乃は理不尽な強者に抗うことでプライドを取り戻そうとするのではなく、徹底的に媚びて、強者の側に行くことで、プライドを取り戻す道を選ぶ。容姿に恵まれない中で、容姿に恵まれないなりの幸せを掴めればいいと考えるのではなく、蹴とばされても、屁をひりかけられても、必死で強者の世界に縋りつこうとする。

 努力して上の世界に行こうとする姿は尊いと思う向きもあるかもしれない。だが、自分が上の世界の住人であると確認するための手段として、他人を見下すのは?他人を見下してガス抜きをしながらでないとできない努力など、しない方がマシである。体の良いサンドバッグにされる人間が、いつまでも黙っていると思ったら大間違いだ。男を舐め腐ったような事ばかり繰り返していれば、いつかはジョーカーを引くのである。

「私は、絶対に負けません!悪い人たちは赦さないんです!絶対に、戦うんです!」

 この労働組合の活動が始まって以来、莉乃の鼻息が、日増しに荒くなっているような気がする。やはり、俺のジャンヌダルク発言が利いているのだろうか。彼女は今、その華奢な背中に、黒死病と農民一揆、百年に及ぶ戦争により疲弊した国土で苦しむ数百万の民を背負っているつもりなのかもしれない。

 組合と三バカトリオの争いに、積極的に油を注ぐつもりはなかった。どう考えても不当なのは三バカの方であり、このままエスカレートすれば、唐津の言う通り、三バカが警察に引っ張られて収まるだけだ。

 こんな三バカなんかよりもよっぽど、労働組合の活動に冷や水を浴びせかけられる人物が、もうすぐここにやってくる。俺はそれを知っている。

「・・・・親父!何やってんだよ、こんなとこでよ!」

 人が人らしく扱われること、働くみんなが幸せになること。誰もが得をする道に向かうことが、なぜ難しいか――正義を阻む人の世の現実を教えてくれる人物が、唐津たちの目の前にやってきた。
「・・・・・親父!」

 まだ十代の少年が詰め寄ったのは、書記長を務める田辺であった。

「電話も出ないで何やってるかと思ったら、こんなこと・・・・。せっかく見つかった仕事、また失くす気かよ!今度はちゃんと働くって言ったのは、嘘だったのかよ!」

 田辺の家庭では、高校生になる息子と、小学生の娘、息子を、男手ひとつで養っている。

 六年前、印刷会社をリストラにより追われた田辺は、再就職活動に失敗し、派遣会社に登録して働き始めた。しかし、低い賃金や、現場で若い正社員に軽く扱われるのに耐えられず、トラブルを起こすことを繰り返し、幾つもの派遣会社を渡り歩いて、八か月前に、海南アスピレーションへと流れ着いた。

 ブランクの期間で貯金を食いつぶし、現在は海南アスピレーションの仕事で得る、月々手取り十六、七万程度の給料と児童扶養手当で、田辺はギリギリの生活を送っている。長男のアルバイト代
をも当てにして、どうにか子供たちを学校に行かせている状態である。リストラは仕方ないにしても、派遣会社を転々としたことについては、長男は当然、快くは思っていない。

 田辺の家庭の事情は、仲間を信頼しきった田辺本人が、自ら口にしたことである。東山から田辺の家の固定電話の番号を聞き出した俺は、電話に出た長男に、偽名を使って、父親がまた会社で騒ぎを起こそうとしていることを告げたのだ。

「違うんだよ、悟。今度こそお父さん、仕事を長く続けようと思って、みんなと一緒にこういう活動を・・・」

「マジでいい加減にしろよ!会社を訴えるのに、仕事を長続きさせるもクソもあるかよ!俺のバイト代にもたかってるクセして、遊んでんじゃねえよ!」

 怨念さえ迸る長男の権幕に、場にいる人間は誰一人、言葉を発することができない。委員長の唐津、ジャンヌダルク莉乃でさえも、家庭の事情にまで口をはさむことはできず、力なく俯いている。
「オラ、帰るぞ」

 長男に手を引っ張られて、田辺は申し訳なさそうにこちらを振り返りながら、家に帰っていく。中途半端な動機で行動していたのを恥じたのか、三バカトリオもこれで帰ったのはよかったのだが、労働組合の方も、どうやらこれですっかり意気を挫かれてしまったようだった。

「・・・・田辺さんとは、僕が今後のことについて相談していきます。それぞれ、ご家庭の事情はあるでしょうが、僕たちがやっていること自体が間違っているわけではありません。さあ、みなさん、気を取り直して頑張りましょう!」

 中心人物の唐津と莉乃だけは気を取り直したようだが、他の連中は、落ち込み具合が目に見えるようで、通行人に受け取ってもらえるビラの枚数は明らかに少なくなってしまった。その後も熱を取り戻せないまま、とうとう、道路使用許可が降りている時間が終わってしまったのである。

「それじゃあ、今回はこれで解散にします。向こうの出方次第ですが、来週の日曜日にもまた、ご協力をお願いできれば、と思います!」

 戦いの火を消すまいと、唐津はいつも以上に強い力を込めて、言葉を発する。しかし、組合員たちは、肩を落とし、首を垂れて、あからさまに意気消沈した反応である。

「みんな、もう一度やりますよね?まだ、くじけたりはしないですよね?わたしは、戦いますよ。みんなもいっしょに、東山たちを、たおしましょう!もう一度、立ち上がりましょう!」

 組合の中で、唐津のほかにただ一人、元気を失っていない莉乃。天涯孤独の唐津と違い、中流以上の経済力を持つ実家に住む莉乃からしてみたら、組合の活動などは、生活にはまったく影響しないはずだが、彼女の組合の活動にかける意気込みは、正義の実現を目指す唐津と同等に激しい。恐ろしいことに彼女は、古の英雄ジャンヌダルクを気取るだけのモチベーションで、食うや食わずの、生活に切羽詰った派遣難民たちを鼓舞しているのである。

「唐津くん、落ち込まないでくださいね。私はずっと、あなたの味方です!これから、一緒にごはんを食べに行きましょう!」

 そしてもう一つ――。自分が選んだ男が、熱心に取り組む活動に協力すること。友達に自慢するための、大事な大事な「アクセサリー」である唐津の心を、この機会を利用して、再び自分へと向けること。こちらの方が、より大きなモチベーションかもしれない。

「うん。これからのこともあるし、みんなで一緒に行こう。松原さんたち・・・どうですか?」

 唐津が呼びかけると、皆は出席に同意した。莉乃の心の中では、サブマシンガンのように舌打ちが連発されていることであろう。

「いいね、いいね。あのさ、ご飯のあとはさ、みんなでカラオケに行こうよ。あ、ボーリングもいいなあ」

「・・・・・やっぱり、今日は疲れているんで、やめておきます。明日も仕事があるし、今日はもう帰って、ゆっくり休みましょう」

 一度は参加を承諾したはずの唐津が、食事のあと、みんなで遊ぶことに期待し、胸を弾ませるコブラさんの満面の笑顔を見た瞬間、突然、辞退を表明してしまった。

 第一回街宣の成果が消化不良に終わってしまい、憮然とした気持ちでいるところに、莉乃とコブラさんが、自分が実現しようとしている正義以外の感情で盛り上がっているところを見せ付けられて、つい怒りを覚えてしまったのだろう。本当ならこういうタイミングでこそ、組合の団結心を取り戻すため、パーッと盛り上がるべきところだろうが、ここが彼の若さである。

 肝心の唐津が参加しないということで、食事会を開く話はお流れになってしまった。唐津と莉乃の現在の関係について、より詳しく探ることができなくなったのは残念であるが、組合の活動を妨害し、東山を守ることも、俺の大事な目的である。今回は、これで良しとすべきであろう。

 組合の連中と別れた俺は、せっかく繁華街に出てきたタイミングを生かし、かねて実行を予定していた、にんにく大魔人の捜索を始めることにした。

 にんにく大魔人――女の愛に飢え、股間にぶら下げし二つの玉の中でおたまじゃくしを沢山生成しつつ街をさ迷い歩く寂しき怪物を、必ずや探し出さなければならない。莉乃に激しい恨みを抱いていているであろうあの魔人は、莉乃を懲らしめる計画に利用できる可能性が極めて高い。それ以上に、あの男が今、何を思ってこの地域を彷徨っているのか、個人的な興味が尽きない。「UMAハンター蔵田」としての血が騒いで仕方がないのである。

 まず俺が向かったのは、テレビでも紹介されたことのある、老舗の中華料理屋であった。ペニスに出来得る限り大量の血液を送り込むため、精のつくものを大量に摂取しなければならないにんにく大魔人ならば、ニラとニンニクたっぷりの餃子が看板メニューとなっているこの店を、必ず訪れていると踏んだのである。

「最近、この店に、でかいメガネをかけて、めちゃくちゃセンスがないファッションをした、体重百キロはありそうな巨漢男が来たことはない?」

 注文したビールとエビチリを運んできた若い店員に、俺は尋ねた。

「・・・ああ、そういうお客さんなら、四日に一度くらい見えてますよ。うちでは餃子を百個食べたら三割引きというキャンペーンをやっているんですが、あのお客さんは毎回達成して、しかもニラレバ炒めまで食べていかれるんです。毎回、感心するくらいの食べっぷりですね」

 毎回そんなに大量のにんにくエキス、及びニラを摂取しているとするなら、今ごろにんにく大魔人の睾丸はおたまじゃくしの作り過ぎで破裂しそうになり、ちょっとパンツに擦れただけでもペニスは斬鉄剣のようになってしまうくらい、勃起力は高まっていることだろう。歩く種豚ともいえる。

 食事を終えた俺が、さらににんにく大魔人の痕跡を探すべく立ち寄ったのは、ドラッグストアであった。ペニスに硬度を得るためならば一切の妥協をしないにんにく大魔人ならば、食生活に拘るだけではなく、サプリメントも厳選して摂取していると思ったのである。

「ねえねえ、私、この間、にんにく大魔人がこれ買ってるの見ちゃった!」

「えーマジー?チョーきもーい。てか、あんな顔のくせに、こんなもの買ってどうするのアイツ?意味なくね?」

 さっそく、耳よりな情報が入ってきた。サプリメントの売り場にいた部活帰りの女子高生が、「マカパワーX」「金剛鳳凰丸」「超竜爆発」「オットビンビンAAA」などの精力剤が陳列されているコーナーで、にんにく大魔人の話をしていたのである。「にんにく大魔人」の名は桑原の参加する右翼だけでなく、この地域全体に轟き、一種の都市伝説と化しているらしい。

 にんにく大魔人を愚弄する二人の女子高生は、一昔前のギャル風ではなく、黒髪に黒のニーソを履いた、ごく真面目そうな女の子たちである。こういう莉乃系統の、にんにく大魔人のような童貞が好感を持つ、処女っぽい清純そうな見た目の少女たちが、にんにく大魔人の夢と希望をぶち壊すような酷い会話を交わしている光景を見て、さっきニラ、にんにくを食べて強化された俺の股間は否応なく膨らんだ。

「お嬢ちゃんたち、にんにく大魔人を知っているのかい?」

「うん。学校でも有名ですよ。私の友達は、みんな一回は目撃してるんじゃないかな。アスカなんて、にんにく大魔人が落としたメモ帳ひろったんですよ。すっごい気持ち悪いこと書いてあって、私読んだ瞬間、鳥肌立っちゃいました」

 俺が話しかけると、女子高生たちは嬉しそうに、にんにく大魔人の情報を教えてくれた。口裂け女や人面犬など、若者はいつの時代も、怪物が大好きである。

「そのメモ帳、ちょっと俺にも見せてくれるかい」

 アスカなる少女が差し出すメモ帳を開いてみる。大半は仕事やボランティア活動、また買い物の予定など、何の変哲もないメモ書きであったが、ページを捲っていくと、真ん中の方に、女子高生たちが気持ち悪いと囃し立てている箇所が見つかった。おそらくは、にんにく大魔人が莉乃に求愛する際に使おうと思っていた言葉を、思いついた端からメモしたのであろうが、それは恐るべき文言であった。

――莉乃ちゃんは、どうして自分が可愛いか知っているかい?それは、か弱い莉乃ちゃんが、外敵から身を守ってくれる男を味方につけるために、神様が可愛さをプレゼントしたからなのさ。

――女の子は、純情な男が好きなんだろう?安心してくれ。俺は莉乃が、子供が欲しいと言うまでは、けして手を出さない。俺の知り合いには、女性のことをただ性の玩具としてしか見ていない、最低なヤツがいるが、俺はそいつとは違うからな。ちなみにそいつは、莉乃も知っている男だ。

――莉乃ちゃん、君の重い荷物を持ってあげよう。女の子の柔らかい身体に筋肉がついて、コチコチになってしまったら大変だからね。

「どうですか?チョーキモイですよね」

「うーむ・・・」

 あまり、不快な感じはしなかった。気持ち悪いというより、真面目にやっていないのではないか、ふざけているのではないか、と思ったのである。それほど、にんにく大魔人の口説き文句は、常識的な価値観からすれば理解不能なものだった。

 気になるのは、メモ帳に書かれてある莉乃という名前に重ねるようにして二本線が敷かれ、近くの余白に「いちご」という文字が書かれていることだった。

 これをにんにく大魔人の食生活と結び付けて考えるなら、にんにく大魔人が莉乃に失恋した後、「いちご」なる女に恋心を抱き、今、いちごとのセックスに備え、毎日にんにくを食べて勃起エネルギーを蓄えているということだろうが、しかし、いちごとは誰なのか。かつて、にんにく大魔人の部屋で発見したDVDのタイトルが、たしか「いちご100%!みるく一番搾り」であったが、それと何か関係があるのだろうか。

「お嬢ちゃんたち、いちごってのは誰だかわかるかい?」

 俺が尋ねると、二人の女子高生は首を傾げる。

「いちごはわからないですけど・・・。あ、そういえば、にんにく大魔人、精力剤と一緒に、あれを買ってました。つわりを和らげる薬・・・」

「え~、それって、にんにく大魔人に子供ができるってこと?うわ~、キモイキモイ~。あれに妊娠させられる女の人って、どんな顔してるんだろ~」

 顔をしかめ、身体を振るわせる女子高生たち。俺の興味もまさにそこにあるが、しかし、にんにく大魔人の正体と思われるあの男が寮を飛び出していったのは、今から約一か月半前のことである。もし今現在、あの男が妊娠した女と生活を営んでいるとするならば、あの男は、寮を飛び出した時点で、童貞ではなかったということになる。

 だが、純玲から聞いた、プレイ時のあの男の振舞いは、紛れもなく「赤い実はじけた」に憧れる、純真な童貞のものだ。緊張のあまり、モノが役に立たなかったことを考えても、あの時点で、彼が女を妊娠させるほど性交渉の経験を積んでいたとは考えにくい。

 調べれば調べるほど謎が深まる、にんにく大魔人の生態。にんにく大魔人が落としたメモ帳に記されていた「いちご」とは、いったい誰なのか。真相を究明すべく、俺は女子高生たちに別れを告げ、電車に乗り込み、女子高生から聞いた、にんにく大魔人の目撃情報が伝えられるもう一つの駅へと降り立った。この駅は、かつて俺が東山に殺されかけた山、地蔵山の最寄り駅である。

 改札口が無人の駅前には、古めかしい商店一つしか店がない。古くから近隣住民には親しまれているらしい商店には、食品や雑貨など、生活に必要なものは一通り揃っていたが、にんにく大魔人もこの店で買い物をしたのだろうか。

「お婆ちゃん、この店に、メガネをかけて、めちゃくちゃダサい恰好をした、見た目四十歳くらいの、お相撲さんみたいな男はこなかった?」

 週刊誌とアイスバーをレジに持って行った俺は、店番を務める老婆に尋ねた。

「・・・・ああ、そういう男なら、二日に一辺は来るねえ。今朝もやってきたよ。しかし、年齢が四十歳かはわからんねえ。頭がハゲておったから、五十代くらいに見えたけども、少年のようなニキビも沢山あったしねえ・・・」

 普通なら、皮脂が出ない五十代にニキビができることはあまりないが、老婆が目撃した五十代は、実は年齢二十九歳である。おそらくは、おろしにんにくをたっぷり入れた、脂質の高いとんこつラーメンを毎日食べていたせいであろうが、二十九歳の五十路の星は、年甲斐もなくニキビができるほど偏った食生活によって、ピチピチの二十代を上回る硬度、及び白濁液放出力を獲得した。本番前に勃起しないというトラウマにより、短期間で十円ハゲが沢山出来てしまうほどのストレスを味わった五十路の星は、もう孫ができてもおかしくない見た目をしているくせに、自分で赤ちゃんを作る努力に勤しんでいるのである。

「たぶん、そいつで間違いないと思うよ。そいつはいつも、この店で何を買っているんだい?」

「ほとんどは食い物かねえ。なんじゃったか、あのなんたらいう雑誌をみながら、メニューを考えているようだねえ。なんじゃったか・・・あの・・・孫・・・孫のクラブ活動がどうのこうの・・・・」

「たまごクラブ、かい?」

「おお、それじゃ。その孫のクラブの、妊婦に優しい食べ物特集ちゅうページを参考にして、食材を選んでいるようだねえ。たまごと山芋、納豆は毎回入っておるようじゃけどねえ」

 ニラ、にんにく、卵、納豆、山芋・・・。おたまじゃくし作りに欠かせぬ食物が、これですべてそろった。これに加え、朝鮮人参、マカ、赤マムシエキスなどの成分が配合された「オットビンビンAAA」まで飲んでいる五十路の星は、今頃、この店番を勤める老婆すらも二十歳のアイドルに見えるほど盛りが付き、「出し入れ」「動かす」「頑張る」「洗う」「洗わない」「汗ばむ」「白い」「くさい」「タンパク質」「アルカリ性」「酸性」「湿原」「1+1=3」「人口増加」「十万分の一」「ヒット」「疲れる」などといった、それだけではエロとはまったく関係ない単語を見ただけで、ふほふほ、と周りの人に聞こえてしまうくらい鼻息が荒くなってしまうほど、性欲が高まっていることであろう。

 さらに、五十路の星がこの商店で購入した食べ物は、自らの精力を高めるためのものだけではなかった。五十路の星は「たまごクラブ」を見ながら、妊婦に必要な栄養素に配慮した食べ物を購入していたのである。

 おそらくは、腹が膨らみ、出産間近で外出もままならない「いちご」なる女のために、五十路の星がエサを運んでいるのだろう。純玲の前で見せたにんにく大魔人の態度や、緊張で勃起できなかった件は引っかかるが、目撃情報がふたつも出ていれば、にんにく大魔人が女を妊娠させたのは、どうやら事実と認めねばならないようだ。

 知りたかった。あの醜悪な五十路と起居をともにする妊婦とは、どれほど化け物のような容姿をしているのかを。

 かつて旧日本軍が、遠く満州の地にて秘密裡に行っていたという、超優秀東洋種族製造計画・・・。選び抜かれた頭脳、容姿、身体能力、血統を持つ若者同士を日夜性行為に励ませ、人工的に「超人」を作り上げる狂気の計画の逆を行く、超劣等東洋種族製造計画。俺が宿願としたその計画が、なんと俺が手を下すまでもなく、俺の居住するこの地域にて進められている可能性が、極めて高いことが明らかとなった。

 目に納めなくてはならない。にんにく摂取により、睾丸の中で極限まで増幅された劣悪な遺伝情報が、同じく、卵巣の中で育まれた劣悪な遺伝情報と結合し、この地球上でもっとも不細工な人間が生み出される、その瞬間を見なければ、俺は死んでも死に切れぬ。逆にそれさえ見られたのならば、俺は唐津、莉乃を殺して獄に繫がれることになっても構わない。それさえ見られたのならば、二度と女を抱けなくとも、一生、おかずに困ることはない。

「あの男は、食べ物を買ったあと、いつも地蔵山のほうに入っていくようじゃが・・・。あの山には、今は人は住めるような家はないはずなのじゃがねえ・・・」

 地蔵山、とは、この駅近くに聳える山・・・俺が東山に殺されかけた山の通称である。海南アスピレーションを去ったにんにく大魔人は、いまは日雇いなどで何とか食いつないでいる状況なのであろうが、山の中をねぐらにしているのであろうか。そしてにんにく大魔人――五十路の星のねぐらには、五十路の大魔人の子を身ごもった、「いちご」なる女がいるのだろうか。 

「なあ婆ちゃん。さっき教えてもらった、ハゲデブオヤジは、大体いつも何時くらいに来るんだい?」

「そうだねえ。午前中が多いかねえ」

「わかった、ありがとう。また来るよ」

 すでに日が落ち、辺りはもう闇に包まれている。老婆の話では、にんにく大魔人――五十路の星――五十路の大魔人は今朝がた商店を訪れ、山に登っていったという。今も山中のどこかに潜んでいるのかもしれないが、今から一人で山に登るのは危険である。後日、桑原を連れてもう一度訪れることを誓い、その日は探索を打ち切り、帰路へとついた。

外道記 改 11

「なんだー、貴様らー!」

 朝礼の終了後、唐津から団体交渉の要求を突き付けられた東山が、カマキリ顔を真っ赤にして怒りを露わにする。唐津率いる労働組合と、丸菱運輸、海南アスピレーションの全面抗争が、いよいよ始まったのである。

「生意気なことやってんじゃねえっ。何なんだ、貴様らはあっ!」

「・・・・ですから、一か月後、我々はお宅の会社と、我々の派遣元である海南アスピレーションを相手取って、団体交渉を申し入れると言ってるんです」

 ゴリラ同然の東山に、調教師のような唐津が、淡々と返答をする。その様子をうっとりと見つめる莉乃――俺の心の中の、殺意の炎が迸る。

「東山先輩!頑張ってください!」

「東山職長!俺はコイツらの仲間ではありません!信じてください!」

 東山に憧れる桑原と、労働組合に入っていない深山は、東山の援護に回っている。桑原は一応労働組合の一員だが、東山個人と敵対する意志はないことは、唐津ら組合員たちも承知の上である。それでも、俺も含めて組合員に名前を連ねている以上は、東山から見れば敵ということになるのだが、そのことについて東山本人には、俺と桑原は労働組合の内情を把握し、あわよくば解散に追い込むために敢えて潜り込んだだけだということを、すでにメールで伝えていた。

 海南アスピレーションや丸菱運輸という会社にはともかく、東山個人に対しては、俺は個人的恨みがあるわけではなく、むしろ保護したいと思っているのは本当だ。莉乃、唐津への復讐を成し遂げた先にある俺の新しい人生を少しでも充実させるために、東山には、まだまだ金を吐き出してもらわなければならないのである。

「このガキ!お前は仕事をなめてるのか!」

「なめてなんかいませんよ。百歩譲って、僕たちが仕事をなめているのだとすれば、あなたは人間という生き物をなめている。だからこうして、徹底的に戦おうとしているんです」

 少年時代に、一度完膚無きまでに勝利している俺でさえ威圧される、百九十センチ、百十キロ級の東山と対峙して、一歩も引かない唐津。彼の胆力を支えているのは正義感だけではなく、承認欲求である。十八年もの間、親だと信じていた人間たちにある日突然捨てられた唐津は、人から必要とされたい欲求に飢えている。資格取得、就職活動などして自分自身がのし上がるのではなく、人を助けることで、自分の存在価値を必死に見出そうとしているのだ。

「お前らは、自分の立場をわかってるのかあっ!」

 傍に積まれた段ボール箱に鉄槌を落としながら怒鳴り散らす東山の貌は、坊主頭の隙間から見える頭皮まで真っ赤に染まり、目はつり上がって、半ば白目を剥いてしまっている。山里愛子が今わの際に見た東山の貌も、こんなに恐ろしい形相だったのだろうか。

「我々は派遣会社から派遣されたスタッフです!東山職長に意見をするなど、滅相もありません!」

「我々は東山先輩を尊敬しています!東山先輩は超かっこいいです!」

 東山の発言は必ず拾わなくてはいけないと思っている深山と桑原が、頭に血が上った東山の、意味のない言葉にまでいちいち生真面目に反応してしまう。東山は相手にしないよう自分に言い聞かせているようだが、二人の言動に苛立ちを募らせているようである。

「お前!ふざけんじゃねえ!」

「そうだ!お客さん相手に、ふざけたことやってんじゃねえ!仕事は遊びじゃねえんだ!」

「東山先輩!俺は少年院時代には人にカンチョーをしたり、ズルパンをしたりしていましたが、東山先輩に殴られたときからしていません!俺をふざけない人間にしてくださり、ありがとうございました」

「俺はっ、そういう、そういうことを言ってるんじゃねえっ!会社は、会社を、会社というものは!どういうものかわかってるのか!」

「会社というものは・・・・・・・・やりがいをもち、仕事に誇りを持って、働くところです」

「会社というものは・・・・・・・・みんなで、働くところです」

 餅をつく人とこねる人のような絶妙な間合いで、桑原と深山が東山を援護する。あわよくば、このままプッツンきた東山が、唐津と莉乃を殺してくれないものか――そんな期待が思わず湧いてくるほど、東山は平常心を失っているように見えた。

「うるせええええええっ!」

 激昂した東山が、唐津に歩み寄った勢いが余って、つい胸で、唐津を押し倒してしまった。うるさかったのは唐津ではなく、東山の味方である桑原、深山であったはずだが、興奮した東山は、敵味方の区別がつかなくなってしまうのである。

「唐津くん!」

 莉乃が、ここが絶好のアピールポイントだとばかりに、唐津に駆け寄って、背中に手をやり、起き上がるのを助けた。

「東山さん、自分の嫌なことを言われたからって、暴力をするのはいけないことです!唐津くんに、謝ってください!」

「そうだ!謝れ!」

「俺たちがいつまでもビビってると思うなよ!」

 か弱い莉乃が、凶暴な東山に敢然と立ち向かう姿に俄然勇気づけられた派遣スタッフたちが、東山に反抗の声をあげた。いにしえの英雄「ジャンヌ・ダルク」に自身を重ね合わせているのだろう。莉乃が興奮して身震いしたのがわかった。

「東山さん・・・。僕たちはね、あなたのことは刑事で訴えようと思ってるんですよ。今みたいなこと、僕たちに対してずっとやってきましたよね?丸菱運輸という会社の中ではそれで通用したのかもしれないですが、一歩外に出たとき、その行為が法律でどういう風に扱われるか、そろそろ身をもって勉強した方がいいですよ」

 歯噛みして悔しがる東山。おそらくは、今まで舐め腐っていた派遣労働者から、こんな風に面と向かって反抗されるなど、予想だにもしていなかったのだろう。

 人材が、まさに流れるように出入りしていく派遣労働は、必然的に、横のつながりが希薄になる。孤独は、人間をどこまでも不安にさせる。派遣先において、派遣先や派遣元に媚びを売る深山のようなヤツが幅を利かせていれば、会社に不満があっても、自分の方が間違っているのではないかという気になってしまう。組織と対決することを考えたとしても、誰も仲間もいないのでは、なかなか立ち上がれないものだ。

 そもそも、戦うメリットがない。派遣会社が紹介してくるような職場の条件に、戦ってまでしがみ付きたいという人間は稀有である。不当な賃金搾取に対しての訴えや、残業代の不払いなど、いくらかでも金が取れるというならまだしも、傷つけられた名誉を回復するためだけに無理をしてまで戦うよりは、泣き寝入りして次を探した方がいいと考える。派遣という働き方をする者は、いつしかそうした境遇を当たり前だと思い込み、そうすることに慣らされてしまう。

 しかし、ここで例外が現れた。唐津という求心力のあるリーダーが、バラバラだった派遣スタッフの意志を結束させた。それぞれが過去の人生の中で、力ある者に痛めつけられ、尊厳を踏みにじられても声をあげず、部品のように労働市場を右から左に流されることに慣らされていた派遣労働者が、失ったプライドを取り戻し、人として真っ当に扱われ、人間らしく働けることを要求し始めたのである。

「僕たちの望みはただ一つ。自分たちのため、後から入ってくる海南アスピレーションのスタッフのために、この職場の労働環境を改善したいだけです。僕たちの要求を、あなたがそうやって感情的に撥ね付けるのなら、それは自分たちが酷いことをやってきたのを認めているのと同じことだ。もしあなた方に後ろ暗いことがないのなら、堂々と団体交渉のテーブルにつけ。自分たちが間違っていないというのなら、それを話し合いの場で証明してください」

「こ・・・のっ」

 俺はこのタイミングで、額に青筋を浮かばせ、今にも唐津に殴りかかりそうな勢いの東山に向かって顎をしゃくって見せ、一旦作業場を退出した。トイレに向かうふりをして、ゆっくりと廊下を歩いていると、俺のサインを受け取った東山が、すぐ後を追ってきた。それから東山の案内で、作業場である倉庫から百メートル離れたコンテナへと向かい、中で二人きりで話し合いを始めた。

「なあ、なんであんなに激怒しちゃうんだよ。あれじゃ、アイツらだって余計に突っ張るだけだぜ。この先の交渉を優位に進めたいんだったら、取りあえず暴力については謝っちまった方がいいぞ」
「・・・・謝らん。俺は絶対に、謝ったりはしない!」

 俺のアドバイスに、東山は首を縦に振らず、頑迷にも意地を張り通すことを宣言する。この男の病的なまでの頑なさの理由が、俺にはわかる。

 君を守り隊――。東山はいま、中学時代、イジメ撲滅のための活動にすべてを賭けて取り組んでいた自分の姿に、唐津や莉乃の姿を重ね合わせているのだ。あのとき、弱い者を守るヒーローのような存在だった東山が、皮肉にも今、かつて己が悪の権化のように言っていたイジメっ子として、袋叩きに合っている。その事実を、東山の小さな脳は受け入れられないでいるのだ。

「俺は・・・俺だって昔は・・・この事業所に転勤になる前は、アイツらを・・・派遣で来てる奴らを、同じ仲間として扱ってきた。派遣も正社員も差別はせず、同じ作業員として見て、一緒に働いてきた。優秀なヤツには、正社員と同じ仕事を任せたり、リーダーをやらせたりと、高いレベルの仕事を与えてやった。ときには、俺たちの飲み会に参加させたりもした。なのに・・・アイツらは、ちっともやる気をみせない。残業にも協力しないし、勝手に休みを取る。挙句の果てには、他の派遣先に行くと言って、辞めてしまう。俺があんなに一生懸命に面倒を見ているのに、アイツらは・・・」

 あまりにも身勝手な理屈に、開いた口が塞がらなかった。本気で言っているなら、東山は会社でもそれなりに責任ある立場のくせに、基本的な雇用の形態について、まるで理解していないということになる。

「お前…マジで言ってる?俺らは派遣で来てるんだぜ?給料が少ない代わりに、会社に縛られず、ある程度の自由が保障されている。過度の責任も期待もされない。言われたことだけやってりゃいい、気楽な立場。派遣労働者ってのは、そういうもんだろ?そりゃお前らだったら、年数勤めりゃボーナスや退職金は上がっていくだろうし、頑張り次第で多少は給料も上がるだろうが、俺らはどんなに頑張ったって、どんなに長く勤めたって、もらえるカネは増えりゃしねえんだ。身も蓋もねえ言い方をすりゃ、頑張ったら頑張っただけ損をするのが、俺たちの立場だ。会社にボったくられてる分の給料を取り返すには、適度にサボって楽をするしかねえ。お前の言う優秀なヤツらってのは、そういうことを知ってっから、派遣に変なやる気や積極性を求めるお前の異常性に気づいて、すぐに辞めていくんだぜ」

「仕事というのは、ゼニカネだけではないだろう。その仕事をすることにより、どれだけ自分を高められるか・・・生きている実感・・・仕事のやりがいを感じるかどうか・・・俺は成長の喜びを与えてやろうと思って・・・それなのに、アイツらは幾ら言っても俺の気持ちをわからない。散々に煮え湯を飲まされ続けてきた。だからもう、仲間とは見做さなくなったんだ」

「あのなあ、世の中はみんながみんな、お前と同じ考えじゃねえんだよ。職能給と職務給の違いってわかるか?この国では同じ仕事をしても、雇用契約の内容によって給料に差ができちまう。もらえるカネが上がらないのに、負担だけ増やされたら、誰だって嫌な思いするだろうが」

「俺は、そうは考えない。俺には俺の信念がある。派遣だろうが、俺と同じ職場で働くなら、俺の考えに従ってやってもらう。俺もそこまで小さな男じゃない。アイツらが考えを改めれば、受け入れる準備はある」

 大きなため息が漏れる。いくら説得しても、暖簾を押すように、豆腐を潰すように、手ごたえが何も伝わってこない。

 一卵性双生児のような、俺と東山。自我が強すぎ、何物にも染まれないという点において、俺と東山はまさに瓜二つである。東山と俺はよく似ているが、しかし、排他性が強すぎ、自分と考えの違う人間すべてを攻撃せずにはいられないという特徴は、俺にはない東山独自のものだ。

 俺はけして、自分がすべて正しいと思ってはいない。「悪」にも色々あり、「悪」の基準を「性格の悪さ」とするなら、莉乃を筆頭に俺より悪いヤツはいくらでもいると思っているが、「悪」の基準を「社会不適応」に置くなら、俺は莉乃など足元にも及ばない極悪人である。

 俺は世の中には自分とは違う正義もあり、自分とは違う悪もあることをわかっている。全体をバランス良く見た上で、どうしても戦いが避けられない相手とは戦い、手を握れる相手とは手を握るということができるが、東山は、自分がすべて正しいと思い込んで、自分と少しでも考えの違う相手を、すべて敵視している。だから、相手の主張を理解しようともしないし、相手の言い分をある程度認めたうえで、妥協案を探っていくということもできない。良くも悪くも「宗教家」であり、政治的に物事を考えることはできない男である。

「お前の考えはわかったよ。でもよ、お前も今の立場がやべえってことくらいはわかるだろ。アイツらを仲間と見做さねえのは勝手だが、お前はやりすぎなんだよ。お前は良くっても、家族はどうすんだ?子供はもうすぐ小学校上がるんだろ?今の職を失って、やっていけるのかよ」

「・・・・・」

 でかい体を縮め、俯いて口ごもる東山。最低限の現実認識はあるなら、まだ話は通じる。

「この件に関しては、俺に任せろ。なんとか、お前にとって悪い結果にはならねえように努力してみる」

「・・・本当か?」

「ああ、もちろんだ。だってよ、俺の暮らしはお前がいねえと成り立たねえんだぜ。お前がもしアイツらのせいで職を失ったら、俺だって路頭に迷うしかねえ。お前と俺は一蓮托生なんだよ」

 この男にはずっと、俺の金づるでいてもらわなくてはならない。俺が未来への扉を切り開くために、東山にもしものことがあってはいけない。

 俺にとってはむしろ、これは大きなチャンスである。丸菱運輸という会社自体を訴えることについては唐津に全面的に協力したうえで、東山個人への処遇は緩和させるように善処する。その結果、東山の俺への信頼は盤石のものとなり、俺の口座に物も言わず金を振り込むロボットが誕生するのだ。

 コンテナでの話し合いを終えると、東山はデスクワークを済ませに、事務室へと向かっていった。俺は作業場へと戻り、いつものように、純玲と同じテーブルで作業を始めた。

「おい。純玲、どうした」

「うん・・・月のものが重くて・・立っているのがしんどいんだよ」

「顔色が悪いぞ。あんまり具合悪いようなら、早退しろよ。おい、中井くんよ。彼女、体調が良くねえんだ。今日は帰してやってくれよ」

 俺は東山の忠実なる下僕、中井を呼び寄せて、純玲を帰してやるように頼んだ。東山同様に首筋が冷たい立場にある中井は、東山と違って大いにビビッているようで、嫌味ひとつ言うことなく了承した。

「純玲ちゃん、女の子は具合が悪かったら、生理休暇っていうのも取れるんだからね。具合が悪かったら、遠慮なく休んでいいんだからね」

 副委員長の松原が、ここぞとばかりに、女の権利のことを純玲に教える。

「え・・。そういうのあるんですか?」

「そう。忌引きと同じで、それを行使するのを赦さなかったり、行使することで労働者が不利になるようなことを会社がするのは禁止されているの。有給じゃないからお金は出ないけれど、会社が福利厚生の一環としてお金を払う分には何も規制はない。まあ海南アスピレーションの場合は出ないから、お金をもらいたかったら、有給と併用するしかないけどね」

「そうだったんですか・・・知りませんでした」

「そんなこと、学校じゃ教えてくれないからね。仕方ないよね」

 学校の教科書に載っていなくとも、書店で入門者向けの本を読めばすぐわかることなのだが、それは本をよく読む者の言い分であり、活字に縁のない者が多い派遣の非正規労働者にとっては、たとえ己の権利、利益に関わることであっても、一冊の本を読むという行為は簡単にできることではない。

 派遣労働者の中には、非正規は有給休暇をもらう権利がないと思っている者すら大勢いる。派遣会社に三年四年勤めてから初めて知って、二年前にとった有給の分についてはすでに失効していた事実を突きつけられ、天を仰いだなどという信じられない話は枚挙に暇がない。

 派遣会社に契約を突然切られ、あと一週間で新しい住処を見つけないと寮を追い出すと言われても、通常の賃貸借契約の相場とほぼ同額の家賃を収めている場合、六か月以上前の予告がなければ追い出すのは違法だということを知らないために、むざむざと住所不定無職者となってしまう者もいる。そういう人間には社会保険の存在すら知らない者も多く、自力で生活保護の手続きも取れないから、そのままホームレスになるしかない。

 いまどき簡単な法律くらいは、わざわざ本を読まなくても、ネットで一発検索をかければすぐに調べられるが、それは情報ツールを使える側の言い分であり、世の中にはまだまだ、パソコンやスマホを使いこなせない者など大勢いる。情報ツールの発展は、人の知識を豊かにしたのではなく、ツールを使いこなせるものと使いこなせぬ者との間に格差を生んだだけであった。

 何事も、できる者の基準で考えてしまうと、見方は歪んでしまう。情報弱者を自己責任と嘲笑うのは簡単であるが、労働者の権利や、世の中の最低限のセーフティネットについては、やはり基本的な知識も教えようとしない学校の罪も重いだろう。中学なり高校で、一時間でも二時間でも時間を作って子供に教えていれば、そのときは理解はできなくとも、いざ困ったとき、あのとき先生が教えてくれたことをもう一度調べてみよう、となる。しかし、存在すら知らなかったら、調べてみようとすら思えない者が出てきても、無理はないのではないか。派遣切りされた若者がなぜ貯金をしていないのか、危機管理が足りないのではないか、などという自己責任論は、そのまま「政治無責任論」に結びついていくのである。

「すみません。では、お先に失礼します・・・」

 純玲が皆に挨拶をして、作業場を後にしていく。本当に具合が悪そうである。寝不足なのか、目の下のクマが大きくなっているのが特に気になる。生理ならば、逆に眠気が酷くなるはずなのだが・・・。

「姉さん、大丈夫ですかね・・・。ところでアニキ。未確認生物、にんにく大魔人の噂を知っていますか?」

「・・・・・にんにく大魔人だと?」

「ええ・・・。これは俺の所属する右翼団体の仲間から聞いた話なんですが、なんでも近頃、繁華街の駅前を、怪しい男がうろついているそうなんです。仲間によれば、その男は力士のような体格をしており、近づくと凄まじいにんにくの臭いがするそうです」

 にんにくの強烈な臭いを発しながら街中を闊歩する、力士のような男・・・。俺はひとり、その特徴に合致する男を知っている。てっきり、すでに自ら命を絶ったものだと思っていたが、もしあの男が生きながらえ、未だこの地に留まっているとすれば、その未確認生物、にんにく大魔人の正体は、まさしくあの男に違いない。

 しかし、にんにく大魔人があの男だったとして、ヤツの目的は一体、何なのだろうか。俺や純玲、あるいは莉乃に復讐する機会を伺っているのだろうか。だが、そうだとして、なぜにんにくの臭いを発散させているのか、その意味がわからない。吝嗇なあの男が、食品というより調味料であるにんにくを大量に摂取するのは、下半身を使用する目的があってのこととしか考えられない。それが、俺たちに危害を加えることとどう関係してくるのか。莉乃や純玲を強姦することを考えているのだろうか・・。

「これは近々、探索に乗り出す必要がありそうだな。協力してくれるか、桑原よ」

「ええ、もちろんです。この地の平和を乱す怪物は、退治しなければいけませんからね」

「おう、期待してるぜ」

「はい。そのかわり兄貴も、ちょっと俺に協力してください」

 桑原が俺に何やら耳打ちをし、数日前より計画していた、とある人物への意趣返しを行うため、俺に協力してほしい旨を申し出てきた。桑原を後々、暴力装置として利用することを考えている俺は、彼の頼みを快諾した。

「よう。人数が少なくなったからよ、こっちに混ぜてくれよ。楽しくやろうぜ」

 簡単な作戦会議を終えると、俺と桑原は連れ立って、以前、莉乃の家で行われた結成大会の日、チョコチップクッキーに鼻くそを詰めた件で桑原と喧嘩をした、桟原が作業をするテーブルに移っていった。桟原の隣りには、つい最近入ってきたばかりで労働組合には加入していない、三十五歳の牧田がおり、四人でひとつのテーブルを囲んで作業する形である。

「ああ~。ったりい・・・。おい、桑原よ。退屈だな」

「ええ、まったくです。東山先輩がいない作業場には、人が人として生きるうえで大切な、何かが欠けているとしかいえません」

 べらべらとおしゃべりをしながら、俺と桑原は、桟原が三個箱を作るペースでようやく箱を一個作るという、あからさまに手を抜いた作業をして見せた。桟原の前で、散々、おしゃべり、遅延作業を繰り返した後、桑原は突然、バック宙を始めた。

「いってぇっ。痛ぇよおゥっ」

 バック宙を決めようと飛びあがった桑原は、空中で回転中に、テーブルの角に頭をぶつけてしまった。

「アニキ!俺の頭皮が!テーブルの角に!ゾリって剥けて、ほら!皮が血と、毛と一緒に、テーブルの角に付いてる!」

 騒がしくする俺と桑原に、テーブルの向かいにいた桟原が歩み寄ってきて、片方ずつの手で、俺たちの胸倉をつかんできた。

「てめえら、うっせえんだよ。あっち行ってやれよ」

 イタズラはするが、仕事はちゃんとやる――本人が言うところの「メリハリ」を大事にしているという桟原にとって、俺と桑原の仕事中のおふざけは許せないものであったらしく、一触即発の事態となってしまった。勿論、これこそが、俺たちの狙い通りの展開である。桑原は、もともと火種が燻っていた桟原と決着をつける機会を窺っており、わざわざ同じテーブルについて、桟原をずっと挑発していたのだ。

「なんだァこの野郎!俺は痛ぇのに怒ってんじゃねええっ!」

 逆切れした桑原が、桟原の胸倉をつかみ返し、地面から三センチほど持ち上げて見せた。怒りに我を忘れたときの桑原は、東山と同じ三白眼になり、味方である俺でさえ足が竦むほど恐ろしい。まさしく、リトル東山といった風情であった。

「やめろぉっ、お前らっ!お客さんの前で、恥ずかしいことしてんじゃねえっ」

 さあ出番だ、とばかりに喜び勇んでやってきたのは、いまだに派遣スタッフのリーダーを気取る、深山である。派遣スタッフ同士の争いを憂いているようだが、内心は自分がアピールするチャンスができてうれしいのだろう。お客さん、と言い方は、海南アスピレーションの営業が使うならともかく、深山のような一兵卒が使うのはおかしな話だが、深山はそう言うことによって自分を、「あちら側」の人間だと思い込もうとしているのである。

「桟原さん。桑原さん。落ち着いてください。後で話を聞きますから、落ち着いてください」

 深山を押しのけるようにしてやってきた真のリーダー、唐津が、ケンカの仲裁に入った。

「うるせえっ、小僧っ!邪魔すんじゃねえ!莉乃のチーズ臭えマンコでもなめてやがれ!」

 桑原に、勝手におそその香りを決めつけられた莉乃が、顔を覆ってワッと泣いた。莉乃の股間の香りは知る由もないが、個人的には臭ければ臭いほどいいと妄想する俺の股間は、猛々しくそそり立った。

「あっ!兄貴、なに勃起してんすかぁ~?莉乃のチーズ臭いのを、舐めたいんすかぁ?」

「バッ、バカ、これは・・・」

 桑原が、桟原との喧嘩よりも、もっとずっと楽しいものを見つけたことで、この場はこれで収まったのだが、この喧嘩騒ぎは、労働組合の中に存在した火種を、しっかりと燃え上がらせる効果があったらしい。

「・・・・俺、やっぱり労働組合は抜けるよ」

 昼休憩の時間になって、桟原が委員長の唐津に、唇を固く結んだ険しい顔で、労働組合からの脱退を申し出たのである。

「・・・・牧田さんとも話し合ったんだけどさ、なんか君らのやってることの方が、やっぱり間違いなんじゃないかって気がしてきたんだ」

 直接的な「トリガー」となったであろう、さっきの俺と桑原の件については言及してくることなく、桟原はいきなり、唐津を含む労働組合全体に不満がある旨を主張し始めた。

「間違い、とは、どういうことでしょうか」

「権利を主張する前に、まず義務を果たせってことだよぉ!やるべき仕事もやらねえで、何が団体交渉だぁ!甘ったれんな!」

 唐津の問いを、桟原に代わって引き取ったのは、桟原と同じテーブルで作業をしていた、牧田である。

「あんたらと違って、俺はこの丸菱での仕事に、誇りを持って取り組んでる。化粧品をカタログと一緒に、段ボールに詰める作業。たかがそれだけのことかもしれねえが、俺は毎日、創意工夫をして、どうやったら早く詰められるかって、一生懸命考えてやってる。失敗をしたら怒られるのは当然だ。東山さんが厳しいといっても、厳しい人はどこに行ってもいる。ここで我慢ができないヤツは、どこでも我慢ができないヤツだ。俺がみたところ、あんたらの中で、文句を言う資格があるのは、コブラさんと、桑原くんくらいじゃねえのかァっ」

 意外なところでお褒めに預かったコブラさんが、取りあえず褒められたのだから喜んでおこうと、素直に笑顔を見せたことで、少し和んだような空気が漂った。桑原の名前が挙げられているのが意外なようだが、桑原は丸菱や海南アスピレーションのためにこんなくだらない仕事を頑張る気はないが、尊敬する東山のためなら頑張るという考えらしく、東山が作業場にいるときに限っては、すさまじい真剣さで作業を行うのである。人の悪いところには目をつむり、いいところを見る、というスタンスなのか知らないが、牧田は桑原を褒め、その桑原の仲間と見做されていたからか、俺のことを特にサボり魔として責めようとしている感じもなかった。

「牧田さんの言う通りだ。俺だって東山には何度も怒られてきたけどさ、あれもよくよく考えたらあんたらのせいじゃないの。あんたらが仕事が遅いからさ、東山も不機嫌になって、派遣なら誰彼かまわず雷を落としてくるんじゃないか。俺はあんたらの巻き添えになってたんだ。そんな気がしてきた」

「そうだ!いいこと言った。コイツらの仲間になるのはやめて、一緒に東山職長のために働こう」
 休憩室の端っこからやってきた深山が、今まで見たこともない嬉しそうな笑顔で、桟原の肩をポンと叩いた。これまで肩身の狭い思いをしてきただけに、同士ができた喜びはひとしおのようである。

「桟原さん。その考え方は間違ってますよ」

「なに!?」

 一回り以上も年下の唐津にハッキリと物を言われ、桟原が気色ばんだ。

「相手に押し付けられる自己責任を何も疑わずに受け入れていたら、それこそ一番仕事ができる人以外は、会社に改善を訴えることができなくなる。どこかで、明確なラインを設ける必要がありますが、いま、東山たちがやっていることは、明らかにそのラインを踏み越えています。ここで泣き寝入りしたら、僕たちは奴隷と一緒ですよ」

「・・・・・・」

「生活保護者と労働者、派遣と正社員、ニートとフリーター。世の中は、弱い者が弱い者同士で争い、弱い者同士で足を引っ張り合うような仕組みにできています。政治やメディアは、この社会の中で本当に力を持った人間、弱い者を弱い立場に追い込んでいる人間に恨みを向けさせないように、巧妙に世論を誘導しようとしています。こんな梱包の仕事ができるかできないかで争うのは、それこそ本当に悪いやつらの思う壺なんですよ。もっと強大な、諸悪の根源がいることを考えれば、東山たちだって、本当は同士ともいえますが、この丸菱を社会の縮図と捉えた場合には、奴らはやはり敵です。桟原さんは、僕たちが仕事ができないのが悪いといいますけど、本来、遅刻、無断欠勤や、規則を破ったというような、明確な落ち度があるならともかく、作業が遅いという、使用者のさじ加減によるところが大きい、不確定要素の強いことでは、簡単に労働者を責めてはいけないんですよ」

 委員長になるだけあって、唐津は労働問題について、しっかり勉強しているようだ。丸菱に来たころの、自分の運命に絶望して、どこか冷めたようだった唐津に、こんな知識があったとは考えられない。これは間違いなく、つい最近、唐津の頭にインプットされた知識のはずだ。

 唐津が変わったのは、莉乃と出会ったから?俺の女神であったはずの莉乃はまた、唐津にとっても女神だった?

 激しい嫉妬が胸を焼き焦がす。あの、地味な平安顔の三十路女の、どこが女神だ。貴様の女神は、もっと若くてキレイなねえちゃんだろう。若くてイケメンの貴様に、莉乃を女神と崇める資格はない。地味で年増の平安美人、いや平安ブスの莉乃を女神と崇めていいのは、冴えない三十路男の、俺だけだ。

 ブスとセックスできる資格があるのはブスだけ。美人とセックスできる資格があるのはイケメンだけ。生態系を正しく守ることが、世の中を平穏に保つ秘訣である。女神にさえなれば、地味な三十路女でも、イケメンとセックスできる?冗談じゃない。容姿や年齢の壁を越えられるのは、よほど金を持っている場合だけだ。「内面に惹かれた」などという理由で、俺の地味な三十路女を掻っ攫っていくことなど許さない。本当に内面が良ければいいが、莉乃の内面は、腐っているではないか。中身も外見も腐りきった三十路女を愛していいのは――中身も外見も腐りきった三十路女に愛されていいのは、中身も外見も冴えない、三十路男の俺だけなのである。

「なに?だったらなんだよ、俺が騙されてるって言いてえのかよ」

「騙されるのは、悪いことではないです。気づいた時点で、立ち上がろう、ということを、僕は言ってるんです」

「・・・ごちゃごちゃ能書き垂れてんなよ。全部、仕事を真面目にやらない言い訳だろうが!」

 相手の意見に論理的に反論する術を持たない桟原のような奴でも、プライドというものがある。どれだけ正義感があっても、どれだけ正論を唱えていても、それだけでは、人は耳を傾けない。唐津の言い方はあまりにもにべがない。どんな人間にも、一つくらいは褒めるところがある。相手のプライドをうまいことくすぐって、機嫌をとってやれば、聞く態度も違ってくる。人のプライドというものをうまく操れないようでは、人を説得することはできない。唐津は、あまりにも青い。

「なあ桟原さん、損得勘定で考えてみようや」

 見かねて、俺が助け船を出した。元はといえば、俺と桑原が桟原につっかけたのがキッカケで起きてしまった喧嘩なのだが、資本主義のミクロの構造しか見えない桟原のような視野狭窄なヤツを見ると、黙ってはいられない。世間を憎む気持ちが疼いてしまって、ムズかゆくなってどうしようもない。

「たとえば仕事のできる牧田さんや桟原さんが、一日二百個の箱を作ったとしてだ。仕事がまあまあできる唐津くんや莉乃ちゃんと、どれだけ差があるよ。俺みたいなボンクラならともかく、唐津くんや莉乃ちゃんなら、一日百八十個くらいの箱は作る。たった一日二十個。高々二十個程度の箱くずれのことで、出来るヤツ、出来ないヤツと二極化して、仲間同士で争い合う。バカバカしいと思わねえか?さらにいえば、その争いに勝ったところで、別に給料が上がるわけでも何でもねえんだぜ?ただただ余計な神経を削ってよ、イライラしながら働いて、最終的に、争いに勝って、俺たちを追い出せたとしてだ。負けた唐津くんや莉乃ちゃんが仕事をやめて、路頭に迷う。人を不幸にしてまで残ったあんたに、一体何が残るってんだ?あんたが争いに勝って手にいれるのは、人を不幸にしたという負い目、争いに勝っても、実利は何もなかったという徒労感、ただそれだけだ。しかも、争いはそれで終わらねえ。唐津くんや莉乃ちゃんの代わりに、次に新しく入ってきた奴らとの争いがまた始まる。争って争って、くたびれ果てたその先に、あんたに残るものはなんだ?時給は百円でも上がったか?退職金は何百万も出るのか?そんなものは一銭も出ねえ。俺ら派遣労働者ってのは、そういう立場なんだよ。だから無駄な争いなんかやめて、弱いものは弱いもの同士、助け合って、手を取り合って働ける職場にしよう。それが唐津くんのやろうとしていることだ」

「・・・・」

「元パチプロで、テレビの大会で優勝したんだろ?パチプロってのは、毎日データを取ったり、確率を計算したりとか、けっこう忙しいんだってな。そんな世界で天下を取ったあんたなら、俺が言っている程度の損得勘定くらいできるはずだぜ」

「・・・・うるせえよ。言ってることわけわかんねえ。仕事ができない言い訳するんじゃねえ。俺だってよ、色々余所で問題起こして、借金も抱えてて、もう後がねえんだ。いまの職場追い出されるわけにはいかねえんだ。だからお前らの活動には参加しねえ。勝手にやってろ」

 珍しくムキになって熱弁を振るってみたのだが、どうやら、桟原を翻意させることはできなかったようだった。

 結局、桟原は牧田、深山と固まって食事を始めてしまった。あろうことか、同じ労働者の中に、労働組合に対立する者たちの集団が出来上がってしまったのである。

 仕方がない。人の意地というのは、簡単に曲げられるものではない。お節介で出来るのはここまでだ。後は唐津の仕事である。

「あの・・・蔵田さん」

 勤務開始の五分前、トイレに出ていった俺を、唐津が追いかけ、声をかけてきた。

「なんだい?」

「あの・・・さっき、ありがとうございました。僕の説明不足のせいで、蔵田さんにあんなに協力してもらっちゃって・・・」

 もとはといえば、桟原を離反させるキッカケを作ったのは俺であるにも関わらず、唐津が深々と頭を下げてきた。

「礼には及ばねえよ。それより、今度駅前で街宣活動やるんだろ?俺も行くから、一緒に頑張ろうな」

「はい・・・・ありがとうございます!頼りにしてます、蔵田さん」

 まだ少年の純粋さを残す目を光り輝かせ、唐津は俺に感謝の気持ちを伝える。俺も笑顔で応えたが、心は白けていた。

 先ほどの唐津の言葉にあった、この社会の真の強者という言葉。どうやら彼は、自分を社会的な弱者と位置付けているようだが、では、唐津はそれこそ俺のような、何の力もない、とことん弱っちい人間なのか?答えは否である。唐津には容姿という、立派な強味がある。

 強者に強者らしい立ち居振る舞いを求めるというのなら、唐津は俺が莉乃に気があるのを知りながら、莉乃を自分の女とするべきではなかった。経済力や社会的立場においては弱者の待遇の改善を訴えながら、なぜ、女方面では、節操無しに弱者の米櫃に手を突っ込んでくるのか?そんな都合の良い、ダブルスタンダードが許されていいものか。

 それとも唐津は、自分のことを、けして容姿端麗ではないと思っているのだろうか。莉乃と十分、釣り合う容姿だなどと、余計な謙遜をしているのだろうか。

 謙虚というと美しいことのようだが、行き過ぎた謙虚は、見方を変えれば嫌味である。どんな分野にしても枠というものは限られているのであり、下がつっかえているのに、もっと上の枠におさまるべき人間がいつまでも居座っていたのでは、全体の流れが滞ることになる。循環を妨げる血栓は、誰かが取り除かなくてはいけないではないか。

 唐津は突然話すのをやめ、正面に見えてきたトイレの方向を見たまま黙ってしまった。その視線を追うと、順番待ちの列を、チャックからペニスを出しながら待っている桑原の姿が目に入る。誰でも凝視するはずだが、唐津が見ているのは、桑原ではない。その奥からこっちに向かってくる、海南アスピレーションの営業担当、吉沢であった。

「ちょっと、桑原さん、なにその恰好は」

「なんだーーーーーーーてめええええーーーーーーーーー」

 吉沢に己の恰好を指摘された桑原が、激しく吠えたけった。

「仕舞ってくださいよ」

「うるせええええーーーーーーー。東山先輩が、仕事は効率が何よりも大事だ、待機時間中にも、できることを探してやれと教えてくれたから、こうやって列に並んでいる間に、あらかじめちんこを出してるんだろうがああーーーーーーーーー」

 何が問題なのだ、とばかりに、吉沢にペニスの先を向けながら食って掛かる桑原。桑原にとって、東山は神である。神の命の下には、人前で性器を晒すことにも羞恥は覚えない。神への信仰は、個人の尊厳に優先する。その、あまりに威風堂々とした姿には吉沢も何か感じ入るところがあったのか、それきり注意するのはやめてしまった。

「唐津くん、労働組合作ったんだって?なんで先にうちの方に話してくれないの?順序がおかしいでしょ」

 吉沢が唐津に歩み寄って、いきなり本題をぶつけてきた。

「それで、海南のやり方のなにが不満なの?」

「わかっているでしょう?不当な賃金搾取の撤廃ですよ」

 唐津が具体的に指摘したのは、まず第一に、出勤の際にかける出発報告と、退勤の際にかける終了報告についてである。

「海南ではスポットもやっているようですし、遅刻の防止のために、出発の報告を義務付けているのはまだわかります。しかし、終了の報告がそんなに大事ですか?必要なのはスポットで働いているスタッフだけで、レギュラーの我々には関係ないでしょう。それに、罰金まで設けているのは明らかにやり過ぎです。大体なんで、より大事な出発報告の方が罰金百円で、どうでもいい終了報告の方が二百円なんですか?どうでもいい終了報告の方が忘れやすく、罰金がとりやすい。それで儲けてやろうって腹なんじゃないですか?」

「・・・・他には?」

「遅刻や装備品忘れなど、様々な名目でスタッフに始末書を書かせ、減給の対象にしていますけど、基準がキツすぎませんか?たとえば、遅刻三回でその月の時給五パーセントカット、五回で十パーセントカットなんてやりすぎですよ」

「・・・・あとは?」

「一人部屋で四万円の寮費なのに対して、二人部屋で三万、三人部屋で二万五千円という寮費の設定はどうなんですかね?首都圏だったらもっと凄い額になると思うんですが、相部屋だと、全員の寮費を合計したら家賃を超えてしまいますよね?本来福利厚生の一環である社員寮で会社に儲けを出すというのはおかしいんじゃないですか?相部屋の家賃はもっと抑えるべきです」

「ふむふむ」

「ほかの派遣先で起きた事例を聞きましたけど、作業が遅いという、派遣先の主観が入っているかもしれない理由で、よく調べもせずに派遣先の要請に応じ、労働者の三か月の契約を解除したり、機器点検の巡回業務で、現場から派遣先企業に車で帰ってくる時間が拘束時間に含まれず、残業代の支払いがなかったという例もあったそうですね。一体、あなた方は、どちらの味方なんですか?」

 海南アスピレーションのような中小零細の派遣会社は、黙って待っていても向こうから利用したいと連絡が来る大手と違って、派遣先の会社に頭を下げて契約を取ってこなければならない立場である。

 契約している派遣先企業が幾らでもある大手であれば、あまりにもスタッフの扱いが酷い派遣先に対しては、派遣会社の方から改善を要求してくれる。それで派遣先企業が改善の努力をしなければ、「うちのスタッフにそんな酷い扱いをするなら、もうお宅に人は寄越さない」と、トラブルが起きていないスタッフも含めて、スタッフの全員撤退という措置を取るような場合もある。

 人材に値段をつけてくれる派遣先企業がなければ商売にならないといっても、その派遣先企業が、他の派遣先ならいくらでも戦力になれる人材を潰すような企業であれば、派遣会社にとっては、取引するのはマイナスでしかない。長い目でみれば、自社に在籍するスタッフ一人ひとりを大事にする会社の方が利益をあげるという考え方が、余裕のある会社ならできる。残業代などにしても、派遣先から取れるカネは、スタッフに言われるまでもなく、派遣会社自らがガシガシとっていくというスタンスである。

 しかし、会社としての規模が小さく、派遣先企業を選べない海南アスピレーションのような中小零細の派遣会社では、ときにいちスタッフよりも、スタッフの受け皿となる派遣先企業との関係を大事にしなければいけない場面も出てくる。海南アスピレーション程度の派遣会社にとっては、このご時世で、食うや食わずの底辺労働者の頭数は幾らでも確保できるが、名の知れた大手ではなく、怪しげな新興の派遣会社を利用してみようと思う会社を探す方が大変なのである。

 「NOといえない」弱い派遣会社を利用するのは労働者の不幸だが、弱い派遣会社に入るしかない労働者の方もまた、それまでの経歴、過去のトラブルにより、「NOといえない」労働者になっているという事情がある。幾多の派遣会社をお払い箱になっているうちに年齢を重ね、アルバイトの採用も難しくなった「派遣難民」の巣窟が、この海南アスピレーションなのである。

「うーん」

 吉沢が、なにかを考え込んでいるように、腕を組み、首を傾げて見せた。

「で、ここにいる人たちは、みんな唐津くんの労働組合に入ってるの?福井さんも?」

 吉沢に名指しされたのは、書記長の田辺やコブラさんと同年代のスタッフ、福井。福井は一見、何の変哲もない、小太りの、気が弱そうな中年男だが、心の中に複雑な問題を抱えている。
「ほかの会社で、ロッカーを一人だけ別にして欲しいっていえる?それ聞いてOKしてくれる会社、そんなに沢山あると思う?」

 福井は性同一性障害。身体は男性だが、心は女性である。性同一性障害はアニメやドラマの世界では、中性的な美形が演じることが多いが、現実というものはもっとシビアで、福井のように頭髪が薄かったり、仕事が終わるころには熊五郎のようなヒゲになってしまう人だって、心は立派な女性ということもある。

 福井の見た目では、いくら男性用ロッカーを使用するのは心理的な抵抗が大きいといっても、女性用ロッカーで、女が裸になっている中で着替えをするというわけにもいかない。福井はジェンダーの問題で、これまで数々の会社とトラブルを重ね、海南アスピレーションに流れ着いたのだ。
「松原さんは?お節介焼きが高じて、会社に余計な備品を持って来たり、社員さんに弁当作ってきたりして、いっつもトラブル起こして、最後にうち来るしかなかったんじゃないの?」

 善意の押し付けとは、ある意味、悪意よりもタチが悪いものである。莉乃脱糞事件では宮城を責めた松原だが、過去には自らが同じように、善意の押し付けによってトラブルを起こしていたのだ。こういう人間は、余計なお節介を、やめたくてもやめられない。なぜなら、本人は良かれと思ってやっているからである。

「木戸さん、友達が欲しかったんだよね?ここではみんなと仲良くやれてるみたいだけど、もし海南が潰れちゃったら、みんなと離ればなれになっちゃうかもよ?いいの?」

 吉沢に言われて困惑した表情を浮かべるのは、コブラさんである。

 コブラさんは、相変わらず、毎週、週末になると必ず、どこかへ遊びに行こう、飲みに行こうと、人を誘っている。それだけ交流の場を持つことに熱心なら、少しくらい奢ってくれるかと思いきや、コブラさんから奢ったことは全くなく、むしろ遊んでばかりいてお金が足りなくなり、人に立て替えてもらうこともあるそうだ。それで相手が不快になるという発想がまったくない。ギブアンドテイクをまったく考えられず、遊んで楽しかったんだからいいじゃん、で終わっている。いつまでたっても、小学生や中学生のノリでしか人と付き合えない男なのである。

「桟原さん、いつも派遣先で喧嘩ばっかしてんだって?牧田さんも、仕事に対する拘りが強すぎて、よくケンカになっちゃうんだよね?」

 人はプライドで生きている。プライドを持つことが悪いことではない。プライドを捨てたら、もう人ではない。ただ、大事なプライドを、非正規の派遣労働の世界に持ち込んで、誇りを持って仕事に取り組もうとする人間が、派遣先で評価されるかといえば、必ずしもそうとは言えないのが、厄介なところである。

 仕事に入れ込む人間は、往々にして余計なこともする。派遣先の正社員が、君はよく気が付くと褒めてくれるかと思えば大間違いで、大抵の正社員は、派遣にチョロチョロと、計算外の動きをされるのを嫌うものだ。派遣に正社員なみのモチベーションを要求しようとする東山ですら、深山のように、命令以外のことをするヤツは嫌っている。派遣という立場でいくら頑張ろうと思っても、そのやる気は大抵、空回りに終わってしまうのである。 

「俺は、もう労働組合は抜けたよ」

「俺は最初から入ってねえ・・!」

 プライドが大事というのなら、そもそも桟原や牧田がやっている派遣労働そのものが、プライドを踏みにじられた働き方という話なのだが、世の中の大きな構造が見えない彼らはそれに気づかず、その踏みにじられた、小さな世界の中でのプライドを守ることだけに必死になっている。必死に努力して踏みにじられた世界を抜け出したり、どうせプライドを踏みにじられているなら、その引き換えに、せめて楽をしようという発想は浮かばない。

 昔なら、こうした不器用で愚直な男たちの自己実現の場も、もっと沢山あったはずだが、二次産業に流動性が求められるようになってしまった世の中で、彼ら職人気質の男たちが一所に腰を落ち着けられず、協調性のない頑固者、厄介者扱いされ、たらい回しにされてしまっているのだ。

「俺は・・・俺だってバカじゃないから、派遣は悲惨だってことくらいわかってる。だけど・・・。どんなつまんねえ仕事でも、自分が今やっていることにやり甲斐を見出すかで、これから先の人生の充実が変わってくる・・・どんなに無駄に見えることでも、今やってることだって、何かに繋がってる・・・・俺はそう信じてる。そう信じてでもいねえと、やってられねえんだよ・・・・」

 牧田の主張は、全く耳を傾けられない、理解不能なものではない。歴史上、改革と言われるものを妨害した人間にも、彼らなりの言い分というものはあった。どれほど視野の狭い価値観にも、それなりに宗教的、哲学的な根拠はあるものだ。だから改革は難しい。

「玉川さん、昨日お風呂入ったの?清潔にしてね、て行ったでしょ」

 吉沢にパワハラともとられかねないことを言われても、特に気にした様子を見せない玉川からは、実際、おっさんが一日履いた靴下を酢につけたような臭いが漂っている。

 底辺の派遣労働の世界にいると、識字率世界最高水準を誇るこの日本に生きている人間が、皆すべて義務教育、いや初等教育を受けたと思うのは、いかに浅はかな考えであるかということが、よくわかる。

 教育とは何も、主要五科目の学習だけを指すのではない。人としてのモラル――やっていいこと悪いこと、言っていいこと悪いことを教える――人として最低限のTPOを、集団教育によって学ばせる、ということの方が、教科書とノートを使ったお勉強よりも、ずっと大事なことである。学校で集団教育をちゃんと受けていれば、俺や東山のような枠に収まらない人間でも、ある程度角が取れていくものだが、例外もいる。

 玉川は丸菱の倉庫に来た当初、掃除ができなかった。「掃除」といわれ、道具を渡されても、何も動くことができなかったのである。「掃除」が何をすることなのか、本当にわからなかったのだ。

 また、莉乃が入ってくる少し前のこと、玉川はある日、おもむろに物陰に隠れたかと思うと、いきなり、たまたま持っていたビニール袋の中に大便をした。正確には、まさにその瞬間は誰にも見えていなかったのだが、臭いでみんなが気付き、大騒ぎになった。東山の前の職長の、「なぜこんなことをした!」という問いに、玉川は「怒られるのが怖かったから。取りあえず袋に入れて置いといて、あとでトイレに流そうと思った」と答えたという。

 ライン作業などがある派遣労働では、粗相に関するエピソードは案外多い。トイレに行きたい、という、たった一言が怖くて言い出せずに、大惨事にまで発展してしまう。みんな、そんなことには慣れっこだったから、莉乃脱糞事件もことさら大事にはならなかった、という事情もあった。

「玉川さんとか、ほかに行くとこあるの?ここ出てから、一人で働けるの?どう?」

 派遣など、非正規労働の悲惨さが世の中に伝わるにつれ、自己責任じゃない、という論調も、徐々に強まりを見せ始めている。が――実際問題、派遣の世界には、どう頑張っても弁護しきれない、最低限のこともできない人間もたくさんいるのは確かである。

 社会にどうしても馴染めないが、障害者の枠にも入れず、セーフティネットを利用することもできない。そういうグレーゾーンにいる人間たちの受け皿になってやっている。我々は必要悪である。さっきから、吉沢はそれを言いたいのだろう。

「そうやって自己責任という形に持って行って、自分の行いを正当化するつもりですか?そうはいきませんよ。すでに、他の派遣先のスタッフとも連絡を取り合っています。酷いと思われる待遇については、どんどん改めてもらいますからね」 

 唐津は一歩も引かず、吉沢との対決姿勢を露わにする。彼の正義は揺るぎない。

「蔵田さんも、同じ考えなの?」

 何を勘違いしたのか、俺が労働組合のナンバー2であるかのように、吉沢が俺の意見も訪ねてきた。

「まあな」

 表向き唐津に協力しているように見せるため、俺は力強く返答した。


「・・わかった。話し合いには応じますよ。だから、ストとかは考えないで、話し合いの日までは、真面目に働いてください。いいですね」

 吉沢は動揺を押し殺すようにして言い残し、東山との話し合いのため、事務室に向かっていった。


説教厨にありがちなこと


http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/lifesaloon/1328407875/

 何年か前に発見したスレですが改めて読むと、私のサイトにも昔よくいた「説教厨」の特徴をよく捉えていて笑います。
 特にお気に入りなのがこのレス

 

108 :ななしのいるせいかつ:2012/10/07(日) 17:08:12.66
説教厨の嫌いなタイプの人間
・自分より明らかに劣ってる
・しかし時々自分より秀でた部分があって驚かされる
・卑屈

・努力しない
・しかし想像するよりは努力しているっぽい
・しかし努力してる姿を見ると無償にムカつく



この三段構えの論説がホント秀逸

・気が弱い
・言い訳が多い
・しかしその言い訳は時々本当だったりもする(後出し感にムカっ!)

説教厨も全ての努力しない人間が説教の対象になるわけではない
努力してるのかしていないのか微妙な感じで自己評価が低く自己卑下する人間がツボる
本当に努力しない人間はスルー


 もう本当に、私のサイトに現れた説教厨の特徴とほぼ一致しているので、私が説教厨を嫌う理由が新規の方にもよくわかってもらえると思います。お暇なときにどうぞ。

 説教厨についてもこのサイトの中ではコンテンツ化していきたいと思っているのでもしお読みになってもらえたらコメントもらえると嬉しいです。
 

外道記 改 10


                           10
                      

「すまねえ、急用が入った。会議の結果は、後日連絡してくれ」

 委員長の唐津に言い残して、俺は急ぎ、純玲の家へと走った。途中、何本電話を入れても、何十通と連続してメールを送っても、純玲は応じようとしなかった。

 手放せるものか。純玲は、俺が世間と和解するために、絶対に必要な存在なのだ。純玲が俺の元を離れるというのなら、もう、世間に対し、小さな糞を擦りつけるどころでは、話が収まらなくなってしまう。今すぐ莉乃の家にとって帰して、あの場にいる連中を、皆殺しにしなければならなくなってしまう。

 俺が今こうして、酸欠と悲壮感で心臓が割れそうになりながら走っているということは、俺も結局、世間と和解する手立てを模索していたということ。いざとなったら大量虐殺、世の中にケジメをつけて死刑になるんだと嘯いてみたところで、俺も本心では、大きな罪を犯さず、幸せに生きていたいのだ。幸せな未来を手に入れるためには、純玲をけして手放してはならないのだ。

「おい、来たぞ。開けろ。開けろって」

 純玲の部屋に到着した。インターホンを何度も鳴らし、壊れるぐらい、ドアを連打した。警察を呼ばれるかもしれない――。知ったことじゃない。

「やめてよ。近所に迷惑だよ・・・」

「てめえのせいだろうが!いったいどういうことなのか、説明してみろ」

 やっと出てきた純玲に怒声を浴びせかけて、強引に部屋の中へと押し入った。茶を出そうとする純玲を制して、万年床の上に座らせ、先ほどのメールの内容についての釈明をさせた。

「丸菱の施設への入館証を失くしちゃったんだよ・・・。このことを会社に突っ込まれたら・・・。せっかくこれから会社と戦おうとしているのに、重治さんに迷惑かけちゃうよ・・・」

「んーなもん、再発行してもらえればいいだけだろうが。なんで別れるとかいう発想になるんだ。いい加減、極端に走る癖をやめろ」
 泣きじゃくる純玲の瞼は、試合を終えたボクサーのように腫れている。問題解決能力は小学生レベルの純玲は、俺が来るまでの間、どうすることもできず、ただずっと泣いていたのであろう。

「相変わらず、あの女と仲良くしてるしさ。ほんとはまだ、あの女のことが好きなんじゃないの?」

だから、ちげえっつってんだろ。俺がやりたいのは、あのクソアマを地獄に突き落とすことであって、クソアマを忘れたいわけじゃねえ。あの女に復讐するつもりなんだったら、クソアマを避けるんじゃなく、表向き仲良くしておいた方が、いろいろ得だろうが」

「・・・だから、どうしてあの女に復讐とかするの。もうやめようよ。あの女に復讐するのをやめて、二人でどこか、遠くに行って幸せに生きるんだったら、入館証を失くしたままでもいいんだ」

 俺がどうするつもりであろうが、入館証は見つけなくてはいけないはずだが、純玲はあたかも、自分は俺の復讐のせいで苦しんでいるかのように言う。いったいコイツは。どれだけの甘ったれ体質なのだろうか。俺が莉乃と唐津に復讐をしようとしているのは、すべてをキレイごとで覆いつくそうとするこの世間と戦わなくてはならないのは、何もかもすべて、この女と二人、平和に暮らしていくためであることが、まだわからないのか。

 ただでさえ、突然に別れるなどと告げられ、勝手な我儘のせいで会議の席から退出を余儀なくされたところに、俺の思いをまったく理解していないかのようなことを言われ、俺の苛立ちのボルテージが上がっていった。

「・・・お前がだらしなくて入館証を失くしたのに、俺のせいで苦しんでいるみたいに言うのはやめろ。それに・・・復讐をやめろというが、お前、あの女にやられっぱなしでいいのか?アイツの家を見て、お前、悔しそうにしていたじゃねえか。悔しいまま終わらせていいのかよ」

「復讐なんて、バカらしいことしたって、何も解決しないよ・・・。そんなことより、二人で楽しい思い出を作っていくことを考えようよ」
「バカらしいだと・・・・」

 血も凍てつくような怒りが、頭の中に充満していく。愛する者に、自分の気持ちを理解して欲しいという思いのこめられた、熱い怒りではない。相手と分かり合えないことがわかったときの、冷たい怒りである。

 部屋が散らかっていようが関係ない。風俗に勤めていようが構わない。俺が憎む世界で求められることがいくらできなかろうが、俺はまったく気にならない。だが、俺のやりたいこと――やらなければならないことを否定し、どこかで聞いたようなキレイごとで丸め込もうとすることだけは許さない。俺が今まで抱えてきた思いを踏みにじって、俺が憎んでやまぬ、くだらないキレイごとの世界に引きずり込もうとするヤツは、どこまでも酷い目に遭わせてやる。

「お前よぉ。俺と幸せになりたいとか言ってる割りには、俺と出会ってから何も進歩がねえよな。部屋は相変わらずきったねえままだしよ。デートの時は毎回遅刻してきやがるしよ。この前なんか何分遅れたよ。四十分だぞ。待ち合わせ時間を決めてる意味が全然ねえだろ。お前は、お前を信頼して待っていた俺を裏切ったんだぞ。お前がそんなんなら、お前にだけわざと早い時間を伝えるとか、嫌らしいことをやってもいいんだぞ?」

「悪かったよ、悪いと思ってるよ」

 布団に顔面を押し付けて泣きわめく純玲に、腹の底にたまった毒の塊をぶつける。一度スイッチが入ってしまったら、もう止まらない。かつて、俺を育てた両親の精神を崩壊させた猛毒を、俺のことを愛してくれた女に、すべて浴びせかけようとしていた。

「幸せになろうとか言ってるわりに、お前は俺が幸せを信じられるようなことを何もしていないじゃねえか。ハッピーハッピー言ってりゃ、それだけで幸せになれるとでも思ってんのか?都合の悪いことはみんな見て見ぬふりをして、キレイごとですべてを誤魔化そうとしやがってよ。それじゃまるで、お前の嫌いな莉乃と一緒じゃねえかよ。お前も今までずっと、ああいう奴らに傷つけられてきたんじゃねえのか?お前は、アイツの仲間だったのか?」

「そんなつもりじゃないよ、私はただ、重治さんと幸せになりたかった」

「何が幸せだ。何がハッピーだ。てめえといられるだけでハッピーか?思い上がるな。この世界に俺の居場所はねえ。お前と一緒だろうが、この世で最高の美女と一緒だろうが、それは同じだ。俺だって今まで、何もやってこなかったわけじゃねえ。この世でなんとか生き残るために、色々なことをやってきた。だが、だめだった。足掻いてもがいて、どうしようもならなくなったから、せめてこのクソな世界に糞を擦りつけてケジメをつけてから、それから次のステップに進もうとしてるんじゃねえか。それをバカらしいだと?俺がどんな思いで今まで生きてきたか、知りもしねえくせに、好き勝手なことを言いやがって」

「悪かったよ。私が悪かったよ、私が死ねばいいんだ、みんな私のせいなんだ。うっうおうっ、うっうおうっう」

 唸るような嗚咽とともに、純玲の腹の奥から、俺が抱えてきた想いと同等の感情が溢れ出てきたのを感じ、ハッと我に返った。
「うっうおうっ、うっうっうおうっうっ・・・・」

 この女に、悪気はなかったのだ。俺の世界を否定する気などはなかった。

 金にも愛情にも恵まれず育ち、身内から犯罪者まで出し、日常生活を維持するだけの能力も持たないにも関わらず、人を人とも思わぬ奴隷派遣で働くことを余儀なくされ―――しかし、無知なこの女は、それでもこの世間を疑うことができない。理不尽に満ちた社会の仕組みと、それを良しとして生きる連中が作った、欺瞞に満ちた風潮に気付いてしまったら、もう幸せにはなれないという俺の考えを理解できない。知れば知るほど生きるのがイヤになるこの世界で、無知はある意味、幸せでもある。俺はこの女のただ一つの幸せまでも奪い取ろうとしていた。

「・・・・」

 急に泣き止み、立ち上がった純玲は、幾層にも重なった衣類や食品類のゴミ、ビニール袋などを、夜叉のような形相でかき分け始めた。

「・・・おい、どうした」

「・・・・・ツッ」

 ゴミの山に埋もれていたフォークを踏んで足から血を流しても、純玲はゴミをかき分けるのをやめようとしない。

「・・・・おい。どうしたって聞いてんだよ」

「・・・・・入館証を探してるんだよ」

「・・・・おい、よせって」

 明らかに尋常ではない様子の純玲を、後ろから羽交い絞めにして止めた。部屋中が震えるような慟哭をあげ、純玲は頽れる。
「俺が悪かったよ・・・。だからやめてくれ。な」

 俺はしばし、純玲を無言のまま後ろから抱いた。お互いに言葉を発することもなく、やがて横になり、抱き合いながら眠りに落ちた。

 目が覚めたときには、窓の外に見える空は赤く染まっていた。季節の変わり目で、大分気温は下がってきたが、二人で一つの布団に入っていたことで、二人とも身体は汗ばんでいる。

「おい、風呂に入ろうぜ」

「・・・・うん」

 まだ寝たりなそうな純玲を起こし、風呂を沸かさせた。肩に手をやりながら脱衣所へと向かい、服を脱いでいる途中で、純玲がふとあることに気づいた。

「あっ。重治さん、シャツが綻んでる。お風呂から入った後、直してあげるね」

「ん?ああ・・・・」

 言葉通り、入浴後、純玲は押し入れからミシンを引っ張り出してきて、脇の下に穴が空いた俺の服を修繕し始めた。

「ほう、うまいもんだな」

「これでも子供のころは、ファッションデザイナーを夢見ていたんだ」

「へえ。そりゃ知らなかった。じゃ、絵とかも描いていたのかい?」

「うん。これ・・」

 純玲が照れた様子で、押し入れから、服飾のデッサンや、自作の漫画などを描いたノートを取り出してきた。

「下手っぴで恥ずかしいよ」

「そんなことねえよ。よく描けているじゃねえか」

 絵の良し悪しは俺にはよくわからないが、純玲に昔、夢を追いかけ、真剣に一つのことに取り組んでいた時期があったのはわかった。

「そう言ってもらえると嬉しいよ。中学を卒業したころから何もしなくなっちゃったんだけど、続けていたら、モノになってたのかな・・・二十代前半のころまでは、同僚と相部屋だったのもあるけど、部屋の片づけもできていたんだよ。二年前にこの部屋に越してきてから、自分に甘えちゃって・・。毎日働いて生きていくのがやっとで、気づいたら、こんなになっていたんだ」

 純玲はけして、最初から何もできない人間ではなかった。昔はできていたはずのことが、何故かどんどんできなくなっていく純玲。俺と出会ってからも、何一つ進歩のない純玲。純玲の部屋が散らかり、生活環境が崩壊しているのは、果たして、生まれ持った障害のせいだけだろうか。

「昔のお前は片づけができていたどころか、夢を追って活動することもできていた。つまり、お前はやればできる。何かキッカケがあって、奮起さえすればできるんだ。俺との出会いは、何のキッカケにもならなかった?」

 人間の能力には個人差がある。それは間違いない。生まれつきの天才には勝てないと言い訳する一方で、平均的な能力に達しないものには一方的に「努力不足」とするのは、あまりにも不公平な考え方だ。凡人を超越する優れた人間がいるなら、同じ数だけ、凡人に遥か及ばない人間だっているのである。純玲が発達障害――「ちゃんとできない脳」である可能性はかなり高いだろう。

 だが――どんなに人より遅れていたとしても、能力はゼロではない。IQが平均に及ばない知的障害ですら、訓練によって、ある程度の生活能力を身に着けることはできるのだ。いかに障害があろうと、それを克服しようとする人間の意志だって、案外バカにならないものである。

 俺は純玲に、百メートルを九秒で走ることを期待しているわけではない。一日二日で、いきなり部屋をキレイにしろと言っているわけでもない。

 どんな人間でもできること。少しずつでも部屋を片付けるのでもいいし、他の何かの面で向上が見られるのでもいい。些細な変化でもいいから、俺との出会いにより何かが上向きになったというところを見せてくれれば、それでよかったのである。千里の道を踏破するのではなく、一歩進むだけなら、それは純玲の能力でも充分、出来ること。あとは意志を捻りだせるかだけだ。

 俺との出会いが、その意志を捻りだす理由にならなかった。この女は、実は俺を愛していないのではないか?その猜疑心が、さっきの怒りに繋がった部分はあった。 

「私だって、重治さんのために頑張ろうとしたんだよ。でも、身体が動かないんだ。どうしてもできないんだよ。信じてよ」

「それは、なんか重大な病気とかじゃねえのか?」

「医者には、身体は何の異常もないって言われてる。もしかして、呪われているのかな・・・・」

「違うよ。そんなんじゃない」

 人が自分の生活を向上させようと活動することを、一口に努力という。努力というと精神論的な響きが強いようだが、俺の経験からいえば、努力は精神論ではなく、習慣の問題だと思う。

 運動なり勉強なり家事なり、何かの活動をする。最初は大変だが、それが一日のルーチンワークに組み込まれてしまえば、逆にやらない方が苦痛になる。活動量が増えれば、それは自信へと繋がり、より活動量が増えていく。それをまた、ルーチンワークに刻み込んでいく。その繰り返しで、人はできない人間から、できる人間へと変わっていく。

 それは、逆も然りである。怠惰が本当に怖いのは、なにもやらないことではない。それならプラスマイナスゼロだが、実際には、怠惰を長年積み重ねていくと、次第に何もやらないことが当たり前になり、活力や体力がどんどん失われていってしまう。一日のルーチンワークを一個削れば、一個削った分の活力が落ちていき、二個削れば、二個削った分の活力が落ちていく。怠惰が染みついて、できる人間から、できない人間に変わっていく。

 怠惰が骨の髄まで染み込んでしまったら、ちょっとやそっとでは落ちはしない。長い年数怠け続けて落ちた活力を取り戻すには、同じくらいの年数が必要である。長期の引きこもりの社会復帰が難しいのも、そういうところに原因があるのだろう。

 純玲は引きこもりではないが、長いこと食い扶持を稼ぐのに精いっぱいで、家のことまでは手が回らなかった。それが当たり前になってしまうと、いざ家のことをやろうとしても、その活力の出し方がわからなくなる。やる意志があっても、純玲のいうように、本当に頭と身体がついていかなくなってしまうのである。

「私は鬱病なんだ。発達障害を抱えている人は、二次障害として鬱病になりやすいって、テレビでやってた。私はうつ病なんだよ。だから、こういう薬だって飲んでるんだ」

 惰性を断ち切れないことを、「病気」のせいにしようとする純玲。向精神薬を水戸黄門の印籠のように翳す純玲の顔は、どこか得意げである。

 発達障害、精神障害など、他人に見えづらい問題を明らかにするために、ある程度分かりやすい名前をつけて型に当て嵌めようとすること自体は、必要なことだろう。だが、その治療を、薬物というインスタントな方法で行おうとするのはどうなのだろうか。

 俺も鬱になった経験があるからわかるが、薬は所詮気休めで、根本的な解決には結びつかないものである。辛い状況からの脱却は、少しずつでもいいから一歩一歩前に進んで、地道に自信を取り戻していくしかない。もちろん、本当に何もできず、薬に頼るしかない重度の人もいるのだろうが、食欲も性欲もあり、笑顔も出る純玲は、薬を絶対に必要とするレベルではないように思う。

 心の弱った人間を金の生る木としか見ていない精神科の医者は、回転効率だけしか考えていない三分診療で、カウンセリングもロクにせず、患者にいとも簡単に鬱病のレッテルを張り付け、ドバドバと薬を出してしまう。本来そこまで深刻でない患者を、薬物依存症という新しい病気にして、製薬会社とつるんで金儲けをしている。そんな医者に騙されていることにも気づかない、依存心が強く他力本願な性格だから、病んでしまったのだ――というのは酷に過ぎるとしても、薬を飲むだけで病気から立ち直れる、生活が上向きになるなどと考えるのは、やはり安直であり、甘すぎる考えというしかない。だが・・・。

「そうだな。お前は病気なんだ。無理をさせようとして、悪かったよ」

 今はまだ、それでいいと思う。

 純玲は今まで、限界ギリギリまで頑張ってきたのだ。怠惰に憑りつかれ、何もできなくなったのは、楽をしようとしたせいではなく、限界まで頑張った結果、壊れてしまったのである。そういうことにしてやってもいいではないか。

 貧困家庭で育ち、身内から犯罪者まで出し、日常生活を成り立たせる能力も持たないにも関わらず、奴隷派遣で働いて生きることを余儀なくされたこの女は、俺が想像もできない、激しい抑圧の中で生きてきたのだ。恵まれた家庭に生まれた人間なら見なくてよかったものも、純玲は見なくてはならなかった。真っ当な能力を持っていれば味合わなくてもよかった苦労も、純玲は味合わなくてはならなかった。莉乃のように、都合のいい、キレイな情報だけを取り入れながら生きていきたくても、この女が生きてきた環境は、それを許してくれなかったのだ。

 人が頑張って生きて、それでもうまくいかなかったとき、言い訳になる何かは必要だ。自分が怠けものなのではない、病気なのだ。純玲が自分を鬱病とし、薬を飲むことで救われるなら、それでもいいではないか。

 このさき同棲、結婚を考えるならば、いつまでもこのままではいられないだろう。部屋の片づけもしないままで、家事も全部俺任せ、純玲はただ、ボーッとテレビばかり見ているというのでは、千年の恋も醒めようというものである。下手したら、ゆかりの二の舞だ。

 だが、今はこれでいい。彼女は十分苦しんだ。今はうつ病のせいで何もできないのだということにして、無理にケツを叩いたり、深くは干渉しないようにしようと思う。

「はい。重治さん、修繕が済んだよ」

「ああ・・・ありがとう」

「ねえ、私もそっちに行っていいかな」

「ああ・・・」

 激しく怒られてもめげず、俺の胸の中に飛び込んできてくれる純玲は、俺が出会ってきたどの人間よりも優しい。ゆかりのような豚をどれだけ痛めつけようとも、俺にだけ優しければ、それでいい。

 優しい純玲が、優しいだけで生きていけないこの世の中に、俺は間もなくケジメをつける。それまでは束の間、この柔らかい肉の感触に触れていたい。

 夜のとばりが降り、純玲の部屋の中も暗くなる。部屋の有様を見たくないのか、純玲は電気をつけることを好まない。俺がいないときは、夜はテレビの明かりだけを頼りに、暗い部屋で過ごしているのだという。

「ごめんね、暗いよね。電気をつけようか」

「いや、このままでいいよ」

 無理に、純玲に合わせたわけではなかった。大体、今の世の中は明るすぎる。

 コンビニやファストフード店が深夜に煌々と光を放って二十四時間営業を行い、社会の超長時間労働化を助長している。原発安全神話が崩壊し、エネルギーの抜本的な改革が求められる今なお、国庫に金の入らない賭博屋のパチンコ店が、日夜町中に騒音をまき散らしている。

 愛、夢、絆、友情、幸福、希望――世間には、明るい言葉ばかりが溢れている。栄華栄達を極めた持てる者たちは、俺たち持たざる者の目を晦ませ、悪意の矛先を自分たちに向けさせないために、明るい言葉をばら撒いている。持たざる者は、頑張り続けていれば、いつか自分も持てる者になれることを信じ、偽りかもしれぬその明るい言葉に縋りつく。電燈の周りを飛び交う羽虫のように、持てる者に身体を酷使され、痛めつけられていく。

 持てる者は、持たざる者が明るい言葉を信じている間は、どこまでも夢を見せてくれる。夢を見せるだけならタダである。だが、持たざる者たちが、朝は永遠に来ないことに気付き、まやかしの光の周りを飛び交うことをやめた瞬間、持てる者どもは、持たざる者をどこまでも追い詰め始める。憎悪、怨恨、嫉妬、孤独、絶望――明るい言葉を信じなくなった者に、生まれたことを呪いたくなるような言葉を浴びせかけ、冷たい地面の上に打ち落とそうとする。

 経済の発展は、必ずしも人間の心を豊かにしなかった。今の世の中が押し売りをしてくる明るい光は、俺や純玲にとってあまりに眩しい。

 太陽のような強い光は、心に傷を負い、弱った者を焼き焦がす。俺や純玲には、淡くとも優しく包み込んでくれる、月の光が心地よい。願わくは、ずっとこの優しい闇の中にいたかった。


外道記 改 9

                         9


 丸菱運輸に派遣されている海南アスピレーションのスタッフ間で、ついに正式な労働組合が結成され、その結成大会が、市内にある莉乃の自宅で開かれた。莉乃、唐津打倒を目論む俺は、表向き協力しているかのような態度を見せるため、純玲、桑原を引き連れ、結成大会に参加していた。
「それでは、労働組合サン・エサージュの結成大会を開催します。まず、組合の正式な役職について決定したいと思います」

 唐津の宣言により、大会の幕が上がる。

 サン・エサージュ――フランス語で、「聖戦」を意味するとかいう言葉が、労働組合の名称となった。発案者は莉乃である。莉乃はおフランスの文化に関心が深いらしく、職場でもよくフランスの話をしている。俺のフランスについての知識は、フランス人にはセックスの際に事前にシャワーを使わず、お互いの体臭を楽しむ習慣があり、英雄ナポレオンも妻の股間がブルーチーズの臭いを発するまで洗わせない臭いフェチだったということくらいしかなかったが、もしかしたら、おフランスのことから莉乃攻略のヒントが見えてくるかもしれぬ期待を抱き、近ごろ勉強に明け暮れていた。

「まず、委員長は不肖ながら、私、唐津が務めさせて頂きたいと思います。副委員長は松原さん。書記長は田辺さんにお願いします。承認して頂ける方は、拍手の方をお願いします」

 沸き起こる拍手。満場一致での承認である。

「ありがとうございます。では、会社側への要求を纏めたいと思います。まずは、派遣先企業である、丸菱運輸への要求です。みなさん、職場の待遇への不満を挙手して述べてください」

 一斉に何人かの手が上がる。まず、唐津が指名したのは、書記長の田辺である。

「あの職場に勤めて八か月になるけど、いい思いをしたことなんて一度もなかったよ。社員の中井には、頭を殴られたり、使えねえな、はげおやじ、とか罵られたりしたし、現職長の東山や、前の職長からも暴力を振るわれたり、暴言を吐かれた」

 続いて、副委員長の松原が発言する。

「一度、遅刻をしたことがあったんだけど、そのとき東山がでっかい声で、ババアーーーーっ、遅刻すんじゃねーーーっ。ババアは化粧なんかしたってババアには変わりねえんだから、朝飯だけ食ったらすぐ来いいいっ、とか言いやがったのよ。完全にパワハラだし、セクハラだよね。むかついて、ぶっ殺したかったよ」

 中心人物二人の意見を皮切りに、組合員が次々に不満を述べ始める。

「休憩時間に資格の勉強をしていたら、いきなり現れた東山に、お前は四十歳すぎて、人生終わってるんだから、資格の勉強なんかしても意味ないからやめろ、と言われた」

「同じく、休憩時間に、モヤシに醤油だけをかけた弁当を食べていたら、いきなり現れた中井に、豚のエサか、と言われた」

 前者は酷い話だが、後者は中井の言いたくなる気持ちも、わからないでもなかった。病気のせいとかならともかく、ただ金を節約するためだけにそんな食生活を送っているのでは、いったい何を楽しみに生きているのか、と思ってしまう。以前勤めていた派遣会社には、雀の涙のような交通費を浮かすために、何駅も歩いて職場に通うようなヤツがいたが、そんなみみっちいところに注ぐ労力があるのなら、本当に上に行くためのスキルを磨く努力をしたらどうかと思う次第である。

「東山の野郎が、お前、この野郎!仕事ができない奴は死ねー、とか言いながら、段ボール箱をぶつけてきたんだ」

 ゴリラが興奮してうんこを投げるのと同じぐらいの思考能力しかないのであろう。よく今まで問題にならなかったものである。

「私は東山に、おしりを叩かれました!東山は、教育だ、と言っていましたが、私は東山にえっちな心があったと思います!」

「冤罪だろ、バカ野郎。死ねよ低能ドブス」

 セクハラの被害を得意げに話す莉乃に、純玲が眉をヒクつかせながら小さな声で毒づく。莉乃の家は、十数名からの人が一堂に会せる程度に大きな家であり、貧困家庭に育った純玲は、到着した瞬間から激しい嫉妬心を抱いていたらしい。

「なんですか、島内さん。聞こえるように言ってください」

「なんでもねえよ!」

 純玲には、くれぐれも莉乃とは喧嘩をしないように言っていたのだが、無理があったようである。純玲を連れてきたのは間違いだった。俺はわっと泣き出してしまった純玲の肩を抱いて落ち着かせてやり、早めに家へと帰らせた。

「しかし、東山のバカにはムカつくよな。仕事ができるかなんか知らないけど、威張りくさりやがって。あいつはたかがケチくさい運送会社を、世界のすべてのように思っているんだ。視野が狭すぎるんだよ」

「小学生のとき、浴槽の中でちんこをいじくっていたら、精子が出てきてしまいました!出てきた精子は、お湯の中を、クリオネみたいにふよふよ漂っていました!面白かったけど、俺の後に入った姉ちゃんが妊娠したんじゃないかって、しばらく怖くて怖くてしょうがなかったです!」

 桑原が、突如興奮して、会議とは何の関係もないことを口走ってしまった。尊敬する東山を批判されまくって怒り心頭に達していたが、復讐計画のために唐津や莉乃たちと波風を立てるわけにもいかず、混乱してわけがわからなくなってしまったのだろう。俺は桑原をいったん外に退出させ、頭を冷やさせた。

「下には厳しいくせに、上には諂うのも腹が立つよな。社長が現場に顔を出したときにはヘコへコしちゃってさ。いつも以上に張り切っちゃって、横暴さがさらにアップするよな」

「そうそう。前にいた藤吉君が社長の前でミスしたとき、お前は今、会社にどれだけの損害を与えたかわかってんのかアー!!とか叫んで、藤吉君の頭を掴んで、無理やり社長に頭を下げさせてさ。その後、責任を感じてるんだったら、明日坊主にして来いとか言いやがってさ。結局それで藤吉君、辞めちゃったんだよな」

 中学時代、父兄の授業参観があったときや、校長が扉の窓から教室を覗いていたときなど、十秒に一回の間隔で挙手をしていた目立ちたがり屋、東山の面目躍如といったところか。髪型といえば東山は中学時代にも、夏休み明け、生活指導の教師が、明るい色の髪をしたヤツを捕まえて強制的に散髪させるため巡回するのに、バリカンを携えてくっついて回っていたこともあった。懐かしさでついにやけてしまう。

「三か月前、昼休み中トイレに行ったとき、東山が廊下で、ビスコを食べていたんだ。俺に見られたことがわかった東山は、このことは言うなよ、絶対言うなよ、と必死で念押ししてきた。それまではどちらかというと、東山には可愛がられていた方だったんだけど、その日から急に厳しくなってさ。ビスコを食っていたことがみんなにバレないように、やめさせようとしてたんじゃないかなあ」

 ビスコはおいしいのだから、堂々と食べればいいものを、袋に子供の絵が描いてあるだけで、大人が食べるのは恥ずかしいお菓子だと思ってしまう。アホなプライドで不自由な人生を送っている男である。

「昼休みといえば、この前ワールドカップで日本が勝ったときさ、東山が、中井と、あともう一人応援で来ていた社員と、ドライバーさんを捕まえて、なんか肩を組んで揺れながら、俺たちの前でなぜか社歌を歌ってるのを見せつけてきたことがあったよな。なんかすげえ得意げな顔だったけど、はっきりいって薄気味が悪かったよ」

 ヤンキー上がりが経営する零細企業などに、プライベートで撮った集合写真が不自然に沢山飾ってあるように、カルトな思想で結びついた連中ほど、自分たちの絆の深さを周囲にアピールしなければ気が済まないようである。そういえば、中学時代の東山も、「君を守り隊」で撮った写真を、教室の掲示板に貼りまくっていた。

「僕は最初入ったばかりのころ、深山さんと仲良くしていたんですけど、あるとき深山さんが、会社の飲み会の話を聞きつけて、居酒屋に先回りし、偶然を装って飛び入り参加しようと言ってきたんです。深山さんは、帰れ帰れと言われても土下座をして同じテーブルを取らせてもらったんですが、実際に一緒に飲み始めると、なぜか僕の方が気に入られてしまって・・・。それで、話題が僕の体型のことになったんですけど、東山さんが、お前は太りすぎてヤバいからやせろ、とか言い始めて、なんかトレーニングメニューを渡されたんです。これを毎日やれ、と。それと食事も管理するとか言われて、毎日指定されたメニューを作って持っていかなくてはならなくなって・・。自分で作ってきた弁当は、東山さんに見せてから毎日捨てて、買ってきたものを食べてるんですよ。それで体重が減らないからといって、この前は思いっきり怒鳴られました」

 独善的で他人を管理したがり、己の持論を他人に押し付けなければ気が済まない性格は、まだ直っていなかったようである。他人にも実践させないと自信が持てない程度の持論などは捨ててしまえばいいと思うのだが、それができないところが東山のジレンマなのだろう。どうせやるなら、桑原のような本当に自分を慕っているヤツにやればいいものを、なぜか嫌がっているヤツに無理やりやらせようとするのは、逃げる者を追いたくなる狩猟本能なのか何なのか。

「食材を調達したときのレシートなど、証拠が残っているなら、東山からの賠償請求を有利に進められますね。今度、まとめて持ってきてくれますか?」

「ちょっと待て。団体交渉は丸菱の会社を相手に行うんであって、東山個人と争うのとは違うんじゃねえのかい?」

 話の雲行きが怪しくなってきたのを感じ、俺は慌てて口をはさんだ。

「いえ。東山、中井はあまりにも悪質ですから、奴らのやったこと、特に暴力行為に関しては、刑事事件として立件させようと考えています」

 委員長の唐津が、意志の固さを感じさせる瞳を俺に向けて答えた。

 丸菱運輸だけでなく、東山個人の財布も脅かそうというのであれば、東山から資金を提供されている俺も損害を被る。唐津がやろうとしている労働運動自体には協力体制を取ろうと思っていたが、海南アスピレーションはともかく、対丸菱運輸方面については、今後、何らかの妨害を画策する必要があるかもしれない。

「ションベンしているときに見えたんだけど、東山の奴、あんな図体してるくせに、ちんこは滅茶苦茶小せえの。笑いそうになっちまったよ」

 中学時代の東山のポークピッツが思い出される。体がでかいのはいいことだが、ペニスに回すべき大事な成長ホルモンまで投入してしまうくらいなら、普通でいいという話である。

「昼休みに俺らの休憩室にやってきたときさ、テレビのクイズで、関ヶ原の合戦で西軍の大将は誰か、て問題が出たとき、あいつ得意げに、石田三成に決まってるだろ、視聴者をなめてるのか、とか言ってたけどさ、その後の解答で、毛利輝元(石田三成は全体の調整役)ってテロップが出てきてさ。休憩室がシーンと静まり返って、あいつ顔真っ赤になってんの。バカだよな、マジ」

 間違うことは恥ではない。それで痛い目をみるのは、普段他人に偉そうにし、威張り散らしている輩だけなのである。

「東山に対して、みなさんが感じていることは大体わかりました。東山個人ではなく、職場の取り決めなどに不満はありませんか?」

 会議が東山の悪口大会のようになってきたところで、唐津が話しの流れを変えた。

「会社についての不満といえば、毎日必ず十五分前の朝礼に参加しないといけないことかなあ。給料は八時から十七時までの分しかもらってないんだから、朝礼にも出ろっていうなら、その分の割り増しが欲しいよ」

「だよな。大体、十五分間も必要ないのにな。十五分間もあっても、ほとんどただ突っ立って待っているだけで、東山が来て実際に話すのは、最後の五分くらいのもんだし」

 この不満をきっかけに、組合員が様々な職種で経験した、労働時間の違反についてのエピソードが噴出する。

「俺が前いた工場も、朝礼と体操で十分前集合だったけど、午前と午後にそれぞれ二十分前後の長い休憩時間があったから、そんなに気にならなかったかな」

「道路交通誘導の警備員をやってたときには、三十分前に上番報告をしなくちゃいけないって決まりがあったな。あれも時間外だから、五分前だろうが十分前だろうが、現場について報告さえすればカネには影響しないのに、三十分前にしないとすっげー怒鳴られたよ。まあ、スポットの仕事だから、それぐらい早く着くつもりで出ないといざというときヤバいのは事実だし、仕事は定時より一時間か二時間くらい早く終わるときが多かったから、そんなに不満はなかったけどね」

 実質的な時間外労働を課せられていたとしても、休憩時間が長いとか、早出があってもすぐ帰れるとか、もしくは仕事が滅茶苦茶楽だとかいったメリットがあれば、不満は相殺され、いちいち文句を言う者は出ないものである。だが、丸菱運輸の勤務では、休憩時間は法律で定められた一時間だけで、あとは八時間、みっちりとキツイ立ち仕事が続くにもかかわらず、十五分間の朝礼参加が義務付けられている現状なのである。これはどう考えても理不尽だった。

「管理職でない労働者は皆、時間で給料を貰っています。一週に四十時間、一日八時間以上の労働をすれば、時間外割増が出なくてはいけません。朝礼の件に関しては、問題にすべき事案ですね」

「あれ?ちょっと待って、一日八時間以上働いたら、時間外割増がつくの?俺は前に牛丼屋でバイトしてて、一日十五時間とか働いたことあったけど、給料は一緒だったよ」

 契約書もロクに読まない底辺労働者は、給与に直結する時間のことにも無知、無頓着な者が多い。話しても無駄だと思っているのか、採用する側も一々説明はしないものである。

「飲食店だと、変形労働時間制を採用しているところが多いからな。変形の場合だと、一週間の時間制限さえ守ってれば、一日の時間制限については融通が利くようになるんだよ」

 教えたのは、俺である。会議で積極的に発言することは、唐津の信頼を得ることに繋がる。この調子で懐に入り込み、弱点を探し出すのである。

「俺が中学出て働き始めたバブルのころなんかは、日雇いで建築の仕事行ったとき、実質七時間半で八時間分の給料貰えたもんだけどなあ。着替えとか、仕事の準備に十五分、帰る準備をするのに十五分で、三十分働いたって計算だよ。それで一日一万とかもらえたからね。最初はそれが当たり前だと思ってたのに、いつの間にか、着替えは勤務時間外に済ませておけって話になって、日給も八千円とかになっていったからなあ」

 景気の良し悪しは、労働条件にも直結する。売り手市場になれば、企業は我勝ちに人手を確保しようと、なりふり構わず待遇を上げる。仕事は楽になり、上司は優しくなり、給料は良くなる。みんなが幸せになる。

 自己責任論イコール政治無責任論。政治家が、失業率が改善しないのは労働者が仕事を選んでいるからだ、条件を選ばなければ仕事はあるなどと発言するのは、私は仕事をちゃんとやってませんと言っているようなものである。

「あとは、派遣には会社のゴミ箱を使わせてくれないってことかな」

「あんなのは差別でしかないよな」

「勤務中、私語は一切禁止ってのもどうなのかな。俺が前にいた倉庫では、あまりにも羽目を外しすぎていなければ、作業中の私語も認められてたぜ」

「仕事は真剣にやらなくてはいけないのはわかるけど・・・。だからって、怒鳴られるほどのことではないよなあ。食品加工工場みたいに衛生面の問題があるとかならわかるけど、あんな梱包の仕事くらい、少しくらい話しながらやった方が和気藹々として、人間らしい働き方でいいと思うけど・・」

「東山のバカが、頑張った奴には職長賞を授与するとかいってるけどさ、あれの基準が意味わかんないよな。前にいた高山君が、二時間くらいサービス残業をしたときにもらってたけど、金一封っていっても、千円しか出なかったんだろ?残業手当の分に全然達してないし、東山の自己満足でしかないよな」

「深山さんは三時間サービス残業しても、誰がお前に残業など頼んだ!とか言われて貰えなかったのは、ちょっとかわいそうだったな・・・」

「酷い話を思い出したよ。一年前、作業中に骨折してしまった人がいたんだけどさ、前の職長はいつまでたっても救急車を呼ばないで、結局、会社の車で運んでさ・・。なんか休憩時間中に遊んでて怪我したことにしろとか言われたらしいよ」

「労災にしたくないからってな・・・。ふざけた話だよな」

 丸菱の会社に対する不満が続々と噴出する中、莉乃が突然、生白い額に青筋を浮かべ、興奮した様子で立ち上がった。

「トイレに行けないような雰囲気を作るのは、どうかと思います!東山が私たちをあんなに怒ったりしなければ、私はあんなふうになりませんでした!」

 あのとき、倉庫に漂った香ばしい匂いを思い出し、股間のものがそそり立つ。莉乃の隣りに座る俺は、異変に気づかれないよう、そっとズボンに手をねじ入れ、テントが張らないよう、ポジションを調整した。

 しかし、本人にとっては忘れたい過去だったと思っていたのだが、まさか自分から堂々と言い放つとは・・・。女という生き物は、どうも「被害者」という立場を、まるで天皇か何かのように思っているようで、一度でも被害者側に立てば無敵になったと思い込むらしいが、莉乃が被害者となることによって得られる優越感は、人並みの羞恥心すら超越してしまうものらしい。

 被害者といえば、莉乃は俺をストーカー扱いし、しつこく付きまとわれているという体を装って、「みんなに守られているか弱い私」という己の立場に酔いしれていた。だが、俺に言わせれば、俺が莉乃にいつまでも執着していたのは、莉乃が俺のプライドを必要以上に踏みにじって、引くに引けない状況を作ったからである。俺が送ったメールを唐津や松原に転送してバカにしたことなどは、明らかに問題のある行為であろう。莉乃にも非はあったはずなのに、一方的に被害者ヅラをされた。それが結局、今現在の、俺の激しい恨みにつながっているわけである。

 激しい恨みを抱く人物がいても、そいつが周囲に嫌われ、悪人扱いされている人物であれば、一緒に悪口を言い合ったりできて、少しは溜飲が下がるものだ。だが、そいつがエエかっこしいで、本性とは裏腹に、周りから善人だと思われ、人望を集めたりしていたら、発散することのできない怒りが蓄積していってしまう。

 人間の恨みとは、単に相手から受けた被害の大きさだけでなく、被害の大きさ✖相手の経済力、社会的地位✖相手の好感度という乗算で求められるものだというのが、俺の持論である。実家を頼れるか頼れないかという違いはあるが、俺と莉乃の社会的地位はまったく同じ。今回問題となっているのは、好感度の部分である。

 莉乃は俺の名誉を貶めるなら、せめて自分自身も、周囲の連中に嫌われているべきだった。莉乃がみんなから嫌われる悪女で、あんな女に恋をした俺が不幸だったということでみんなの同情を買えていれば、俺は莉乃をここまで恨んではいなかった。


 人格に問題があるのはお互い様で、言動、行動に問題があったのもお互い様なのに、莉乃だけが一方的に被害者ヅラをし、俺だけがおかしいように言われるから、理不尽な憎しみが募ってしまう。あの件で失墜した俺の名誉と、上昇した莉乃の名誉の差分が、そのまま恨みの強さになってしまっているのである。

「コブラさん、何かありませんか?」

 会社に対する不満も粗方出そろい、少し間が空いたところで、ここまでただ一人、まだ一言も意見を言っていなかった「コブラさん」に、唐津が話しを振った。

 コブラさん――本名は知らない。俺が気づいたときには、彼はコブラさんと呼ばれていた。唐津によれば、それは本人が「俺のことはコブラさんと呼んで」と頼んだから、らしい。コブラというのは中学時代の彼のあだ名で、中学時代が一番楽しかったから、コブラさんと呼んで欲しいのだという。

 コブラさんの年齢は、唐津第一の腹心、書記長の田辺と同世代の、四十四歳である。四十四歳のコブラさんの髪の毛は、某国民的ヒーローアニメの主人公ばりの金髪である。四十四歳が、金髪である。それだけでちょっと、ウッ、と思ってしまうが、俺とて、何も外見だけで彼のことを軽蔑しているわけではない。髪の色だけなら、ミュージシャンとか、海の家の店主とか、職業上の理由かもしれない。四十四歳で金髪のコブラさんには、とてもその年齢に相応しいとは思えない言動が日頃からあまりにも目立つから、軽蔑しているのである。

 たとえばコブラさん、送迎バスの窓から外を見て、道を若い女が歩いていると、あの子は可愛い、あの子はブスだ、など、毎日査定をしている。こんなわけのわからん金髪オッサンに顔の査定をされる女たちこそ、大きなお世話といった話だろうが、そもそも、そんなことをして何になるのか?何か意味はあるのか?

 声をかけようというならまだわかる。コブラさんが路上で人に声をかけたところで、女どころか、職質の警官くらいにしか相手にされないだろうが、まだナンパをしようというならわかる。だが、そういうちゃんとした目的は一切なく、ただ、一般人の通りすがりの女の顔を、無意味に査定しているだけなのである。唐津とか、二十そこそこのガキと一緒になって、いつもそれをやっているのである。

 誰が誰と、どんな会話をしようが、人の勝手という話ではある。が、コブラさんの年齢は四十四である。四十四だったら四十四らしく、もう少し実りのある会話をしたらどうかと思う。雑談もいいし猥談もいいが、そればかりなのはどうであろう。コブラさんが他に話すのは、競馬のこととパチンコのこと、昔持っていたが、今は維持できなくて売りに出した、バイクのことだけである。

「俺は何もないよ」

 特に熟考するわけでもなく、コブラさんはあっさりと、実に爽やかな顔で、自分の意見は何もないと言い切った。いったいこのオッサンは、この場に何をしに来たのだろうか。唐津も、少し呆れたようにため息をついている。

「そうですか。それでは一旦、休憩しますか」

 丸菱運輸に続き、派遣会社、海南アスピレーションに対する要求を話し合う前に、二十分間の休憩が取られることになった。その、直後のことであった。

「ねえねえ、こんどみんなで、ディズニーランドに行くって話したじゃない。そのとき、どういう順番で乗り物に乗るか、考えてきたんだけどさあ」

 会議では一言も発言がなく、終始うつむき、居眠りを始めそうな気配すらあったコブラさんが、急に活気づき、ディズニーランドのパンフレットを取り出し、熱く「遠足」の計画を語り始めたのである。
 真面目な会議の席では沈黙するのに、遊びの話になると雄弁になる――。まだ十九や二十の小僧ならわかるが、コブラさんの年齢は、四十四歳である。資質が疑われる態度といえよう。

 いい年をしたオッサンになっても、子供のような会話や、子供のような感覚でしか、人間関係の構築ができない男。若い頃の友情を継続しているならともかく、新しく交友を求めようというのなら、ギブアンドテイク、自分からも人に何かを提供するという姿勢が重要のはずだ。だが、コブラさんは本当に中学生や高校生と同じ感覚で、友達が欲しい、みんなと遊びたいからこの集会に参加しているだけであり、労働環境の改善などには、これっぽっちも興味がないのだ。

 こういう人間は、基本的に同世代には相手にされない。だから、もっと下の世代、十代や二十代前半の若い奴らの仲間に入ろうとして、定時制の高校に入ったり、最近ならインターネットのSNSサイトで、若い奴らが集まる、アニメやゲームなどのコミュニティに居場所を見出そうとする。しかし、ガキどもだって、三十や四十にもなって、自分たちと同じ次元の会話しかできないオッサン、オバサンなどは扱いに困るから、往々にしてトラブルに発展してしまいがちである。

 知能そのものが低いのか、中、高時代に、交友関係での充実感が満たされなかったゆえなのか――。学校機関で救えなかった人間が、大人になってから、底辺世界で空しく漂流を続けているのだ。

「みなさん、コーヒーとお茶菓子をお持ちしましたので、召し上がってください」

 莉乃が祖母と一緒に、盆にコーヒーと、手作りと思われるクッキーを載せて運んできた。莉乃の祖母は八十すぎくらいだろうか。品のある田舎マダム風だが嫌味な感じではなく、コブラさんのような、品性が疑われる外見の人にも笑顔を振りまき、丁重に持て成している。

 ちょっと詰めれば十人が座れるテーブル、大型のテレビ、皮張りの三人掛けソファ、ムートン生地のカーペット。暖かい中流家庭の風景は、経済的に恵まれているとはいえない家庭で育った純玲には、さぞ妬ましく映っていたことだろう。王族のようなセレブなら諦めもつくが、坪単価の低い田舎で、ちょっといい家に住んで、ちょっといい暮らしをしている世帯年収一千万くらいの家なら、ちょっと違っていれば自分だって、と思うものである。 

 家庭環境に恵まれた莉乃がまともに就職できず、非正規の派遣労働者になってしまったのは、教育の誤りによるところが大きいのは間違いない。その責任の多くは、莉乃を育てた親や祖父母にあるはずだが、当の莉乃がそれに気付き、親に反感を抱いている様子は一切窺えない。それは単に、読み書きが満足にできないゆえに情報が制限され、「疑う」ところまで行きつかないだけなのだろうか?

「あ、桑原さんが戻ってきた。おばあちゃん、コーヒーとお菓子、もう一人分出して」

「あら、いらっしゃい。日本がお好きなんですね。どうぞ、上がってゆっくりしてください」

 坊主頭に剃り込み、旭日旗が刺繍されたつなぎ服を着ている桑原が家に上がってきても、ニコニコと笑顔を絶やさない祖母も、相当なタマである。この世代のばあさんは、戦争絶対反対、憲法改正絶体反対というのが多いイメージであったが・・。これは、孫の顔を立てるために、努めて平静を装っているだけなのだろうか?それとも・・・。

「ぐおるぁ、てめえ、何晒しとんじゃ、おおっ!」

 丸菱運輸に対しての意見交換が終わり、もう東山の悪口が出ることもなかろうと判断して桑原を呼び戻したのだが、桑原はさっそく、喧嘩をしてしまったようである。相手の桟原の胸倉をつかみ、かなり険悪な雰囲気だ。

「おい、やめねえか。一体どうしたんだ」

「この野郎が、俺のチョコチップクッキーのチョコを抜いて、その穴に鼻くそを詰めやがったんすよぉっ!」

 桑原が怒るのももっともだが、当の桟原はすました顔である。

「なに怒ってんだよ。ちょっとしたイタズラだろうがよ。莉乃ちゃんの作ってくれたクッキーはうまいから、俺の鼻くそくらいじゃ味は落ちねえよ。気にせず食えよ」

 桟原は三十八歳。明るくひょうきんな性格で、ユーモアのセンスもそこそこあり、ムードメーカー的な資質があるともいえるのだが、イタズラが好きという欠点がある。それも節度を守ってやれば周囲も和むところだが、桟原の場合は度を越しているのである。

 また、イタズラをしたり、冗談を言ってみるのはいいにしても、それでスベると、「周囲にウケるまで、何度でもしつこくやる」という欠点もある。俺も以前は桟原と仲良くしていたのだが、桟原が「俺、この前純玲ちゃんとエッチしちゃったんだ」などと、糞面白くもない冗談を何日もしつこく言ってくるので、この男とは距離を置くようになった。

 どうも桟原の辞書には、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が載っていないようなのである。人懐っこくて、話しも面白く、コミュニケーション能力自体は高いのに、最低限のTPOを弁えられず、ついつい羽目を外してしまうせいで、本当の意味では人に慕われず、友達はむしろ少ない。これも人間の一つの型だろう。突出した個性や魅力、能力よりもまず、「和を乱さない」ことが重んじられる日本社会においては、こういう人間は弾かれがちである。外国なら違った人生があったかもしれない桟原も、日本という国においては、堕ちるべくして堕ちるしかなかった。

「てめえクソ野郎っ、俺のチョコチップクッキー台無しにしやがって、てめえのをよこせ!」

「やめねえか。そんなことより、莉乃ちゃんが俺と唐津くんに部屋を公開してくれると言ってるから、お前も一緒にどうだ」

 桑原の興味の矛先をほかに向けるため、莉乃の同意を得ずに言ってみた提案だったが、雰囲気を察した莉乃は頷いてくれた。もちろん、真の目的は、莉乃の弱点探しである。ちょうどいい口実であった。

「散らかっていますけど、どうぞ」

 三十二歳の女の部屋には、少女趣味のぬいぐるみなどは置かれておらず、ベッドのカバーも至って地味で、シンプルなデザインである。学習机に整然と並べられた書籍は、おフランス関係のもの以外は、小学校低学年向けのものが多い。必要以上の物は極力置かないスタンスのようである。特別に気になることといえば、写真の多さくらいであろうか。

「この子は、小学校からずっと一緒だった、麻利絵ちゃんです。とってもかわいい子で、雑誌のモデルとかをやっていました。この子も小学校から一緒の、瑠衣ちゃんです。頭がすごくよくて、東大を卒業したんです。みんな、凄く仲良くしてくれました」

 俺が気にしているのを察した莉乃が、写真についての解説を始めた。

「みんなはいつも、私を守ってくれました。中学校のとき、副校長先生に七組さんに入れられそうになったときも、みんなが署名を集めてくれて、助かったんです。宮城に嫌なことをされていたときも、この子たちが私にアドバイスをくれました。みんなのおかげで、私は助かったんです」

 俺が莉乃に迫っていた当初も、莉乃は田辺や松原を使って俺を遠ざけようとしていたが、この女は、多数派工作を図り、争い事において数的優位に立つ才に関しては、非凡なものを持っているのかもしれない。

 莉乃に限らず、基本的に女という生き物には、一対一で相手と戦う、という美学が存在しない。女同士のイジメが男以上に陰湿だというのはそういうことで、単純に多くの相手から責められているというプレッシャーの効果を狙うため、いざというときの責任の回避のため、何かといえば、女は数の力を頼みにする。女同士の争いでさえそうなのだから、相手が女の自分より強大な「男」であれば、何の遠慮もなく、大勢で寄ってたかって叩き潰してもいいという理屈になる。

 インターネットのSNSや匿名掲示板に象徴されるように、現代は、弱者が強者を叩くという時代である。今この法治国家で、肉体的に強者であるということは、社会的には弱者であるということ。誰かと争いになって法廷に立ったとき、もっとも有利になるのは、子供、老人、障碍者といった連中で、その次が女だ。肉体的には最強である青年から壮年の男は、社会的には、もっとも周囲の同情を買いにくい、最弱の存在である。

 それを逆手にとって、「肉体的弱者」という武器を構えながら、丸腰の「肉体的強者」を攻撃しようとする女がいる。自分のストレス発散のため、コンプレックスを解消するため、「みんなから守られているか弱いお姫様」を演じるため―――あるいは、女グループ特有の、歪んだ共同体意識を満たすため。

 ルックスの良い莉乃の友人たちは、皆それぞれ、ストーカーの被害に遭った経験があった。自分だけが、三十二にしてまだストーカーの被害に遭っていないことに、莉乃は焦りを感じていた。このままでは、みんなから仲間外れにされてしまうかもしれない。そうだ、私に言い寄ってきた、あの「雑菌おじさん」たちをストーカーってことにしよう。

 あたかも、みんなが持っているブランドもののバッグを自分も手に入れて、集団のトレンドに取り残されまいとするような理由で、俺はストーカー扱いされて、必要以上にプライドを踏みにじられたのかもしれない。

「一番多いのは、お婆ちゃんと写ってる写真か。莉乃ちゃんはお婆ちゃん子なんだな」
「お婆ちゃんは、私の憧れの人です。大変な時代に生まれたおばあちゃんは、女性がつよく生きることの大切さを、私に教えてくれました。私はいつか、お婆ちゃんのような、とっても、とっても、と~ってもかっこいい、お婆ちゃんになるんです」

 莉乃が尊敬する祖母が、コブラさんや桑原のような異質な見た目の人を、何の抵抗もなく受け入れていた光景がよみがえる。人を見た目で判断してはいけません、と、莉乃に対してはきれいごとで誤魔化し、コブラさんや桑原が帰った後には、必死の形相で床を雑巾がけする祖母の姿が想像される。

 日本が驚異的な復興を遂げた高度成長時代に生きた祖母は、孫に前だけを向き、上だけを目指して生きることだけを教えてきた。後先を考えない環境の破壊とエネルギーの浪費によって泡沫の繁栄を享受し、散々好き勝手やった挙句に、老後を逃げ切るための制度をガッチリと固めた上で、雇用を崩壊させ、後生にツケを回して、知らん顔して生きながらえようとする姑息な老人は、学習障害を抱える莉乃に、都合の悪い部分はみんな隠して、自分のキレイなところだけを見せて育ててきたのだ。

 キレイなものだけを見せられて育った莉乃は、悪意を知らない。悪意を知らないのなら他人に心優しくできるかといえば、実際はその正反対である。

 悪意を知らないから、自分の言っていること、やっていることが、どれだけ人を傷つけるかわからない。悪意を知らないから、どれだけキレイごとで覆い隠しているつもりでも、現実に感じてしまう嫉妬や劣等感といった負の感情を冷静に受け止め、良い意味で自分の現実を知るための材料として処理することができない。

 自分の心には一点の曇りもないと信じている人間ほど、危険極まりない人間はいない。「純粋」と「善」は、姿かたちは似ているが、本質はまったく異なるものだ。悪を知らない純粋無垢な人間は、純粋なまま人を傷つける。本当の善行を行いたいのなら、むしろ「悪」から目を逸らしてはいけない。他人の心の境界線が見えず、踏み越えてはいけない立ち入り禁止区域に平気で入り込む、莉乃のような「純粋」な人間こそが、ちょっとうまくできないだけのタダの無能者をズタズタに傷つけて、犯罪者にまで追い込むのだ。

「お。これは、莉乃ちゃんの元カレの写真かい?」

「あ、この写真・・・外すの忘れてた・・・」

「元彼氏なんだろう?」

「あ、いえ、その・・・・その・・・・はい」

 照れて頬を赤らめる莉乃。写真の中の男は、かつて職場で本人が自慢していたように、なかなかの男前である。昔の交際相手の写真をいつまでも後生大事に抱えているのは未練がましいととられるのを恐れて、うっかり外し忘れたように装っているが、多分いざというとき他人に自慢するための過去の栄光、「トロフィー」として、大切に保管していたのだろう。男を道具としてしか見ていない莉乃は、例え今現在肉体関係がない男であろうとも、利用できるならとことんまで利用しつくすのである。

「へえ。イケメンですねえ。頭もよさそうだ。いい大学か、いい会社に勤めてたんじゃないですか?」

 唐津は呑気な口調で、莉乃の過去の男を褒めてみせる。二十歳の男が三十二歳の女に、処女であることは求めていないだろうが、過去の男の写真を見せられて、唐津の心にさざ波が起きた様子がみえないというのは、やはり二人には肉体関係はなく、唐津は莉乃を女としては見ていないのだろうか?それとも、莉乃は所詮肉体だけが目的で付き合っているのであるから、過去の男を紹介されても動揺する必要はないということか?はたまた、莉乃はもう、ずっと自分から離れることはないであろうという、余裕の表れか?ただ単に、細かいことを気にしない性格なだけか?

 莉乃の方は、どうなのであろうか。過去の男の写真を、今現在の思い人の前で見せる狙い・・・煮え切らない唐津に嫉妬の火を点けて、焦らせようとしているのか?恋愛に奔放なおフランス流を気取っているのか?こちらもただ単に、細かいことを気にしない性格なだけか?

 真相がわからないというのは、なんともいえずヤキモキするものである。知るのは怖いが、やはり聞いてみたい。今、このタイミングで、聞かなければいけない気がする。でも怖い。喉まで出かかっているのだが、出てこない。 

「うん。最後は別れたけど、この人とは、すごくフィーリングが合ったんだ」

 男を顔と学歴だけで選ぶのは、世間的にはあまり褒められたものではないとみられることを、莉乃はよくわかっている。己が良く思われることに全力を尽くす莉乃は、イケメン高学歴の写真を見せつけながら、そいつをあくまで内面で選んだのだというポーズを取ろうとする。

 言いようのない違和感と不快感を覚える。顔の悪い俺を振った莉乃が、顔の良い写真の男と付き合っていた理由を、「フィーリングが合ったから」などと主張することに、である。

 たとえば、ある俳優がハンティングをするテレビの企画があったとする。武器に、ライフルと黒曜石の槍を選べたとする。俳優はライフルを選んで、見事に獲物を仕留めた。インタビュアーが俳優に、「なぜ、武器にライフルを選んだのですか?」と質問をぶつけた。俳優はこう答えた。「ライフルの方が、私との相性が合ってるからさ」と。

 何かが違わないだろうか。相性もクソも、黒曜石の槍よりもライフルの方がはるかに殺傷能力が高いことは、子供でもわかることである。もし、俳優がライフルではなく黒曜石の槍を選んだうえで、「相性が合ってるから」というなら、どこから疑いの声が出ることもなく拍手が起こるところだろうが、逆では何の説得力もない。俳優がライフルを選んだ理由は、ただ単に「強いから」ということでしかないはずだ。

 恋愛もそれと同じこと。もし、莉乃がイケてる写真の男ではなく、イケてない俺の方を選んだうえで、「フィーリングが合ったから」というなら、みんな素直に感心するところだろうが、イケてない俺の気持ちを踏みにじって、イケてる男の方にマン汁を垂らしながら近づいておきながら、「フィーリングが合ったから」などと言っても、「いやいや・・・」という話であろう。

 「フィーリングが合ったから」なんてことは、本人だけが感じているかもしれないことで、相手の方は何とも思ってないかもしれないことである。そんなことより、写真の男はイケメンであり、それは,皆が認めていることなのだから、莉乃が惚れた理由として、明確で伝わりやすいのはそっちであって、実際、ただ単にイケメンだったから、莉乃はチーズ臭いマンコから、ドブ臭い汁をベタベタ垂らしながら近づいていっただけのはずだ。

 莉乃がウソをついたのは、他人から「ビッチ」「肉食女」「男を顔だけで判断する女」と思われたくなくなかったからであろう。それなら、写真の男と交際していたこと自体言わなければいいだけの話だが、自分の「過去の栄光」を自慢するのは、どうしてもやらなければならなかったのだ。そこで、何とか取り繕うために、「フィーリングが合ってたから」などと言い出したに違いない。

 莉乃は自分の評判を落とさないための姑息な計算が働く女だが、所詮頭が悪いため、わかる人間にはわかる「浅知恵」にしかならない。莉乃が自分の印象をよく見せようと言い繕うたび、俺の神経はますます逆なでされることになるのである。

「この人は、私を救ってくれた人です。中学を卒業して就職した工場で、毎日パチンコしてたりとか、お酒を飲んでいるような人に好きだと言われたとき、この人が助けてくれたんです。莉乃はそっちの世界に行く人じゃないよって、言ってくれたんです。今ではほうこうせいの違いで別れましたが、尊敬できる人です」

 美女に飽きたイケメン高学歴に、物珍しさでつまみ食いをされ、遊ばれ、そして飽きて捨てられただけのことを、よくもここまで美化できるものである。

 不可解なことがある。いかに健常者の世界にしがみ付こうとする障害者の声ばかりを重んじる世の中とはいえ、莉乃に真実を伝え、適切な教育機関に繋ごうとする人物が一人もいなかったというのは、おかしいのではないか?

 莉乃を適切な機関に繋ごうとした人物は、いた。本人の話によれば、中学の副校長は、莉乃を特殊学級に入れようとしていた。まだ日本では知られ始めたばかりのころだから、学習障害専門のカリキュラムとはいかなかったかもしれないが、特殊学級ならまだ、個別の指導も受けられたろう。意欲ある教員に恵まれるかどうかにもよるが、少なくとも、成人しても小学校低学年レベルの学力しかない、ということにはならかったのではないか。

 中学の副校長だけではない。三十二年間も生きていれば、莉乃を真に正しい道に導こうとする者は、何人かはいたのではないか。莉乃がそうした者たちの声に耳を傾けなかったのは、親や友人たちによる洗脳のせいなのか?正しい道に導こうとした者たちの説得力が足りなかったせいなのか?

 それだけではあるまい。莉乃本人の意志による決断というのも、大きな意味を持っていたはずだ。
 莉乃は明らかに、か弱く、純粋無垢の存在として庇護される立場に酔っていた。友人たちにちやほやされたり、物珍しさでイケメンに構ってもらうという勝利の経験によって、莉乃は自分の「純粋無垢」という魅力を生かす路線に、絶対の自信を持ってしまった。お世辞にも容姿に恵まれているとはいえず、生まれつき脳の構造に障害も抱えている自分が、美人や高学歴の女と並び立つためには、むしろ学は身に着けてはいけない、と確信してしまった。

 莉乃も確かに、それでいい思いをしたこともあったかもしれない。しかし、美人や高学歴たちの路線に比べ、莉乃の路線では、ひとたび若さを失えば、その市場価値は途端に暴落する。莉乃の魅力は、蓄積されるものでもなければ、年を重ねるごとに洗練されるものでもない。若い娘なら魅力になる「無垢」が、おばはんになると「ボケ」になり、評価がガラリと一辺する類のものである。莉乃は当然ながらゆかりのことは知らないが、莉乃にも下手をすれば、ああいう未来が待っているかもしれないのである。

 莉乃も薄々それに気づき、焦りを感じているのかもしれない。今さら後には引けない――歩む道を変えられない――しかし、タイムリミットは近い。その焦りによってたまったストレスを、自分の眼中にない、いまいちな見た目の男の想いをグチャグチャに踏みにじることで発散していたのかもしれない。

「おばあちゃんやお父さん、お母さんが、字が読めない私を一生懸命に育ててくれました。学校や働き先で出会ったみんなが、私を守ってくれました。みんなとの出会い、みんなとの絆は、私の一生の宝物です」

 キレイな世界、自分にとって都合のいい世界の情報だけを取り入れることで育まれた、悪意について鈍感な心と、女特有の計算高さ、プライドの高さ―――それが歪に結びついた姿というのが、莉乃という女の全体像であろう。

 大人たちや、学歴や容姿に恵まれた友人たちは、学習障害を抱える莉乃を、自分たちの都合のいいところばかりを見せて教育してきた。この社会で力を持っている者が、能力が劣る者、心に問題を抱える者、正義に疑問を持つ者など、社会に不要とされる人間をすべて排除して作り上げた、キレイごとだらけの、おとぎ話の主人公――それがこの女、莉乃である。この女は、俺が憎むあらゆる感情の集合体。俺が憎むあらゆる人間が創り上げた「作品」なのだ。

 改めて、決意を固めた。俺はなんとしても、この女を地獄に叩き落とさねばならない。恨みつらなる世間に、小さな糞を擦りつける対象として、この女以上に相応しい人間はいないと、今、確信した。莉乃の人生を潰すことは、世間を潰すのと同義。この女が主役として生きるおとぎ話を崩壊させるのは、俺自身がこの世で成功を掴むのと同じくらいに、価値のあることではないか。

「しかし、莉乃ちゃんはあれだな。本当にフランスが好きなんだな」

「はい。中学生のとき、家族で行ったときから、大好きです。この絵画や、凱旋門の模型は、みんな現地で、お婆ちゃんが買ってくれたものです」

 ミーハーな女は、部屋の中を所せましとグッズで覆い尽くしてしまいがちだが、本物の通は物を選ぶ。ガラクタは置かないものだ。シンプルな莉乃の部屋を見れば、莉乃のフランス好きは筋金入りであることがわかる。

「フランスっていうのはあれだろ、昔は空からうんこが降ってきたんだろ」

 莉乃に脱糞事件を思い出させる目的の桑原が、鼻を膨らませ、片方の口角を釣り上げ、マルキ・ド・サドさながらの、邪悪な愉悦に満ちた表情で言った。

「街の中はあんまり清潔じゃなかったみたいですね・・。ハイヒールも元々、道に落ちている汚いものを踏まないように作られたものですから」

 意外にも莉乃は、答えにくいはずである質問を、さらりと返してのけた。

「フランスってえと華やかなイメージだけど、革命から植民地支配の時代なんかは野蛮な国だったよな。ナポレオンとかも、攻め込んだ都市から略奪しまくったり」

 俺も負けじと、莉乃攻略のために、ここ数日で詰め込んだおフランス関連の知識を披露した。

「十八、十九世紀のフランスは、男らしさが価値を持っていた時代でしたから。フランスだけが特別だったわけではなく、あの時代のヨーロッパは、どこの国の事情も同じようなものだったって、お父さんが言ってました」

 「キレイな情報だけを取り入れて生きる」莉乃が、ことフランスのことに関しては、得意分野ではない下品なことでも、野蛮なことでも、ちゃんと学んでいるようである。いよいよもって、莉乃のフランス好きは筋金入りのようだ。

「丸菱運輸や海南アスピレーションの非道に敢然と立ち向かう莉乃ちゃんは、さながら戦乙女、ジャンヌ・ダルクのようだな」

「ジャンヌ・ダルク・・・」

 莉乃が唾をゴクリとのみ込み、表情を引き締めたのがわかった。世界史永遠のヒロインに自分を重ね合わせた莉乃は、虐げられし派遣スタッフを守るため、強大なブラック企業に立ち向かおうとしている自分に陶酔してしまっているようである。

 莉乃攻略の、大きなヒントが見えてきたような気がした。限られた手段でしか情報を取り入れることができぬ莉乃が、牛歩の速度でこつこつ、地道に造詣を深めてきた趣味―――莉乃が生涯のすべてをかけて極めようとしている学問、憧れ―――それを汚されるのは、自分の顔を傷つけられるぐらい、大きなダメージになるのではないだろうか。

 神がかりの状態を利用され、事が済んだ後は走狗として業火に焼かれた悲劇のヒロイン同様の最後を、この女に迎えさせることを想像すると、胸の奥が熱くなるのを感じる。史実のジャンヌダルクはお世辞にも容姿には優れておらず、乱暴するような兵士は誰もいなかったそうだが、労働組合のジャンヌダルクには、できれば俺のランスをぶち込みたいものである。

「さ・・・・それじゃ、会議に戻りますかね」

 
 腕時計に目を落とした唐津が、俺たちを引っ張るように、最初に部屋を出て階段を下りていった。
「おっ・・おい!その、君たちは、結局、付き合ってるんか?付き合ってないんか?」

 なにかが爆ぜるように、言葉が飛び出していた。先頭を切って歩く唐津の背中に、これまで喉まで出かかっていたが言えなかった質問を、とうとうぶつけてしまった。

 唐津と莉乃は、どこまで行ったのか。セックスはしたのか。今やそれこそが、俺の一番の関心事であった。

 俺だけの莉乃の身体。焦がれて焦がれて、抱きたくて抱きたくて仕方なかった、熟れた莉乃の身体が、唐津に征服されたのか、されていないのか。考え始めると、脳みそに火が付いたようになる。 
 オナニーの際、莉乃の身体をおかずにしたことは数知れない。最近では、純玲の身体を抱きながら、莉乃のことを想像していることさえある。純玲には申し訳ないが、俺は愛した女よりも、恨みが強いオンナの方が、性欲が増してしまうのである。生まれ持った性で、どうしようもないのだ。

 はっきりさせて、楽になりたかった。どれだけ怖くても、一縷の望みが消え去ってしまうのがわかっていても、聞かずにはおれなかった。

「いや・・・その・・・・まあ・・・・・まだ、そこまでは・・・・」

 唐津の返事は煮え切らない。もし交際の事実がないなら、はっきりと否定すればいいだけの話。横目でチラチラと莉乃の表情を窺っているのを見ても、やはり交際の事実がありながら、隠し立てをしているだけなのではないか。

 同じ職場に勤めている以上、実際に関係があるのなら、いくら隠そうとしても無理があると判断するのが普通だと思うが、やはり、まだ二十歳かそこらの少年にとっては、三十路を過ぎて、小学校低学年レベルの学力も持たない女と、周囲が認めたうえで真剣交際するという事実は重すぎるのだろうか?俺自身が、二十歳で女に飢えていたことを考えれば贅沢極まりない話で、それだけでも万死に値するともいえるが・・・。

「莉乃と圭一くんは、付き合ってるんです!もう三回もデートをしたんです!これからも、いっぱい、いっぱい、い~っぱい、二人で、いろんなところに行くんです!」

 莉乃がいっぱい、いっぱい、い~っぱいのところで、両手を大きく広げながら、唐津と交際の事実があることを力説した。下手するとリビングにいる連中にも聞こえそうなボリュームだが、わざと聞かせようとしたのかもしれない。

「へっへっへ。セックスはしたのかよ」

 俺がショックを受けているのが、内心おかしくて仕方ないのであろう桑原が、首を落としている俺を薄笑いしながら見て、さらに踏み込んだ質問をした。

「私たちは、もう愛し合いました!莉乃は、圭一くんの赤ちゃんを産むんです。元気いっぱいの赤ちゃんを、産むんです!」

 また、リビングにも聞こえるような大きな声で、莉乃が唐津と肉体関係があったことを、俺の目の前でアピールした。羞恥と喜びと、達成感とが入り混じって、莉乃の顔面は紅潮している。長い間の我慢が噴出したように、声音には熱が籠っている。今までみんなに発表したくて発表したくて仕方がなかった唐津との交際を、唐津と愛し合った事実を、とうとう明らかにできた。莉乃にとっては、今ここで人生が終わっても悔いはないといった心境であろう。

 一方、俺の心境はといえば、やはり唐津に莉乃の身体を征服されていたことがわかった口惜しさと、これで一切の迷いがなくなり、モヤモヤしていたのが晴れた爽快な気持ちとが混ざりあった、複雑なものであった。

「いや、あの、避妊はしてますから・・・」

 苦笑いしながら、莉乃の言葉を修正する唐津の顔面に拳をめり込ませたくなるのを、必死にこらえた。貴様が遊び程度の気持ちで抱いた莉乃に、俺がどれほど焦がれていたかわかっているのか。

 莉乃の洗っていないマンコの臭いを、嗅ぎたかった。莉乃の抜けるように白い肌を、隅々まで触り、舐めたかった。たった一度でも、莉乃の中で果てたかった。

 交際まで行かなくともいい。莉乃に一度でも俺を男として見てもらえれば、俺はそれでよかった。莉乃が俺を本気であしらいたかったのならば、むしろ、一度ヤラせるべきであった。

 男と女の根本的な違いとして、女は一度抱かれると、男への執着をより強めてしまうのに対し、男は昔の狩猟時代の名残からか、一度女を抱ければ、どれだけ焦がれた女にも、憑き物が落ちたように興味を失ってしまうということがある。執念深いこと無類の俺も、例外ではない。莉乃が俺にそんなに諦めてほしかったのなら、俺を傷つけるのではなく、むしろ一回ヤラせておけばよかったのだ。

 現代の基準ではお世辞にも美人とはいえない平安貴族じみた容姿で、しかも若くもない莉乃程度の女が、中古品であるところの汚く、臭いコーマンを、さも大層な物のように考え、宮城のような壊滅的不細工男ならともかく、俺ぐらいの男に何もさせないなど、お高くとまるにもほどがあるというものだ。恋愛に奔放なおフランス女を気取るならば、張り切って選り好みするのではなく、男をとっかえひっかえつまみ食いすればいいのであり、つまみ食いして貰えたなら、俺が莉乃を恨むことはなかった。

 俺が焦がれてやまない莉乃の身体を抱いたのが、宮城のような不細工男だったならば、何の問題もなかった。その男が経済力もない不細工だったなら、莉乃は単なる物好きだと見ることができるし、経済力がある不細工でも、努力ではどうにもならない顔の造形で負けたわけではないのだから、まだ納得できる。判官びいきの感情もあり、自分より弱い立場の相手に負けるのであれば、俺は潔く身を引く決意ができる。

 だが、相手が俺をルックスで上回る男に負けるのでは、簡単には納得できない。言い訳出来る余地がまったくない、ぐうの音もでない敗北では、俺に立つ瀬がまったくないではないか。

 度を越えた贅沢をする唐津が、許せなかった。他にもっといい女をいくらでも抱けるくせに、腐れかけの三十路女になど手を出してきおって。俺が死ぬほど焦がれた三十路女を持っていきおって。
 
 確かに今は俺にも女がいるが、だからこそむしろ、戦わなくてはならない。唐津のような男の贅沢を許していたなら、この先大切な純玲まで、唐津のような節操なしに奪われてしまうかもしれない。そうなってから騒いでも、もう遅い。災いの種は、災いになる前に、摘み取っておかなければならないのである。

 窮鼠猫を噛む――これは性的な鬱屈が臨界点に達した非モテ男の、生存権をかけた戦いである。世のモテない男を代表し、生態系の秩序を乱す極悪人に、この俺が天誅を下してくれる。直接的な動機は単なる嫉妬でも、唐津を懲らしめるのは、俺の中で十分な大義を見いだせることだった。

 階段を下りてリビングにつくと、ヒューッ、という大きな歓声と同時に、拍手が沸いた。莉乃、歓喜の瞬間である。こうして「王子様」と交際している事実を皆の前でアピールし、周囲から称賛の眼差しを浴びるために、莉乃は今までずっと、十二個も年下の男に色香を振りまいてきたのだ。

 莉乃が俺の想像を超えるバカでなければ、唐津への恋を人生最後の恋とし、この後、これ以上の男を得ることは望まないだろう。恐らく死にもの狂いで唐津を自分のもとに引き留めるように努力することだろうが、三十路女を重く感じている唐津の今現在の様子をみれば、可能性は五分五分以下といったところだ。 

 唐津に捨てられた後も、まだ莉乃が己の商品価値を客観的に見ることがなければ、四十になっても五十になっても「婚活」から解放されず、生涯独身で過ごすことになり、そうなれば俺の溜飲もいくらかは下がるだろう。が、あいにく、俺はそこまで自分に都合よく物事を考えることができない。莉乃が幸運に恵まれ、唐津と結ばれるか、唐津以上の男と結ばれる可能性だって、ないとはいえない。やはりこのタイミングで莉乃を潰さなければ、俺の気が晴れたことにはならない。

 これまで、おとぎ話のように自分に都合がいいだけの世界で生きてきた貴様に、初めて溝泥のような、汚い人間のリアルを見せつけてやる。今までうまく逃げてきたのだろうが、今度は俺が、逃がさない。キレイなものばかりを目におさめて生きてきた貴様に、世の中にはきれいごとではどうにもならないことがあるということを、思い知らせてやろうではないか。

 決意を新たに、後半の会議に席についたところで、一通のメールが入った。自宅に帰った、純玲からである。

――もう私、重治さんと別れる。

プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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