犯罪者名鑑 麻原彰晃 19


 第四章~ 教団の隆盛 坂本事件と総選挙出馬



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 オウムへの批判と反撃

 
 教団内部の死亡事故、殺人事件を隠ぺいすることに成功したオウムは、さらなる膨張を続けていきます。全国に十二の支部を抱え、信徒数は三千人を突破、信徒四百名あまりを引き連れて盛大なインド旅行も行うなど、オウムは、麻原が渋谷のビルの一室で小さなヨーガ道場を開設したときから僅か五年程度で、阿含宗や立正佼成会、幸福の科学などとも肩を並べる、日本屈指の新興宗教団体となっていたのです。

 一方、この頃には、血のイニシエーションなどのデタラメなパフォーマンスによる布施集めや、一日十六時間の立位礼拝などの過激な修行内容が問題になり始め、サンデー毎日が「オウム真理教の狂気」などと題した連載記事で、オウムのネガティブキャンペーンを大々的に行い、また、オウムに出家した信者の家族による「オウム真理教被害者の会」が設立されるなど、教団に対する風当たりも強くなっていました。
 
 オウムはこれらの敵対勢力には、のらりくらりとかわすだけでなく、サンデー毎日に対しては麻原自らが幹部教徒を率いて編集部に乗り込んで直接抗議を行い、逆にオウムの本部に訪れた被害者の会には熱湯を浴びせたりするなど、徹底的に応戦しました。個人においては、サンデー毎日編集長の牧太郎、フリージャーナリストの江川紹子、社会派漫画家の小林よしのり、弁護士の滝本太郎などがオウムと激しく対立し、オウムは彼らに対して化学兵器による攻撃を計画、また実行していますが、その個人に対する攻撃行為が最初に行われ、かつ最も悲惨な形で成功してしまったのが、第四章で取り上げる坂本弁護士一家殺害事件でした。


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 坂本堤弁護士 

 

 坂本堤弁護士は、麻原より一年遅い1956年、横須賀に生を受けました。幼い頃は活発な子供で、よく近所の田んぼで泥だらけになって、ザリガニやカエルなどを獲って遊んでいたといいます。

 両親は教育熱心で、堤少年が小学校に上がる前から、バイオリンや絵画を習わせていました。特に絵画では、全国コンクールで優勝するなど素晴らしい才能を発揮し、弁護士になってからも、証人を生き生きした筆遣いでスケッチしたりなどして、弁護士仲間の評判になっていました。

 堤少年が弁護士を志すようになったのは、高校時代のとある出来事がキッカケでした。

 まだ高等教育を受けずに社会に出ていく人が多かった時代、堤少年の通っていた中学校では、全体の五分の一ほどが、高校に行かずに就職していました。中学時代、堤少年と一番仲が良かった友人も、家庭の事情から進学を断念し、就職せざるをえなかったのですが、定時制高校には通わせてもらえるよう、会社と約束をしていました。しかし、実際に就職してみると、会社は約束を破り、友人に毎日残業を言いつけて、学校が始まる時間になっても帰してはくれず、友人は結局、定時制高校を辞めてしまいました。

 世の中には理不尽な力関係があることを知り、モヤモヤした思いを抱えていた堤少年が出会ったのが、米国で弁護士のラルフ・ネーダーが、大企業のゼネラル・モータースを裁判で打ち負かしたという雑誌の記事でした。法律という力を使えば、たった一人でも弱い人たちを守ることができるのを知った堤少年は、これより弁護士を目指して勉学に励むこととなったのです。

 堤青年は、一浪して東大法学部に入りました。司法の道を目指す同級生には、ただ司法試験に合格することだけを考えて、一日中机に向かって過ごすような仲間も多い中、堤青年は、優秀な弁護士になるためには、ただ法律を学ぶだけではだめだと当時から考え、討論会に積極的に参加してディベートの手法を学び、障害者など弱い人たちの本音を知るために、ボランティア活動などにも力を注いでいました。

 堤青年には、当時から一度決めたら絶対に引かないところがありました。大学一年生の学園祭のとき、周りがライブや喫茶店などで人を集めようとする中、自分のクラスでは夜間中学校のドキュメンタリー映画を上映することを強固に主張し、当日は誰も来ない教室の中、数人のサクラだけで何時間も同じ映画を見るハメになるなどといったことがあり、司法修習生となったあとでも、講義の席ではよく教官に食ってかかっていたそうです。

 しかし真面目一辺倒だったわけではなく、冗談を飛ばすのが好きで、同期生や教官にぴったりのあだ名をつけては周囲を笑わせており、毎日のように友人と連れ立って酒を飲むなど交友関係にも恵まれていたそうです。

 大学三年生のとき、都子さんと出会った堤青年は、八十四年、二十七歳で結婚。翌年には司法試験に合格して、司法修習生となりました。八十六年に弁護修習を終えた後は、企業を相手取った労働争議を専門的に行う横浜法律事務所に入所。弁護士としてのキャリアを歩み始め、冤罪をかけられた知的障碍者や、経営者の勝手な都合のために不当に廃園させられそうになっている幼稚園の従業員など、社会の中で弱い立場の人のために、水を得た魚のように働き始めます。

 坂本弁護士は、どんな事案の際にもクライアントの話にじっくりと耳を傾け、相手の不当な要求には絶対に屈しませんでした。経営者が団体交渉の席にヤクザを連れて来るなどしても、毅然と対応していたといいます。理不尽な圧力に苦しむ弱い人の力になりたいという、坂本弁護士の純粋な思いは、彼と接した人すべてに伝わりました。始めは及び腰だったという宗教関係の弁護を引き受けるようになったのも、実際に困っている人に会ってみて放っておけなくなったという、熱い正義感が理由でした。

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 妻・坂本都子


 坂本弁護士の妻、都子さん(以下、敬称略)は、1960年、茨城県で生まれました。

 都子は、幼い頃から弟の面倒をよく見るしっかりした少女でした。後に夫となる堤と同様、自分の意志は絶対に曲げないところが当時からあり、ブラスバンド部の活動に夢中になる都子を両親が心配し、部活は程ほどにしてもっと勉強をしろと言われても、「私は部活のために学校に行ってるんだ」などと言い返して、絶対に練習量を減らさなかったといいます。

 中学三年生のときに開かれたパラリンピックに感動した都子は、障害者のボランティア活動に関心を持ち始めました。高校になると同時に活動を始め、大学生のころ、同じく障害者のボランティアに参加していた堤青年と知り合います。二人は交際を始め、堤二十七歳、都子二十四歳のときに結婚しました。堤はそのとき、まだ司法試験に合格していませんでしたが、都子は「弁護士になれなくても、堤さんはしっかりやっていける人だから」と信頼し、夫を受験勉強に集中させ、自分が働いて家計を支えたのです。

 やがて堤が横浜法律事務所に入所し、都子が長男の龍彦を身ごもると、仕事を辞め、家事と育児に専念するようになります。忙しい毎日でしたが、フルートの練習、ロシア語の勉強などの自己研鑽にも、暇を見つけては励んでいたようです。龍彦ちゃんが成長すると、山下公園などによく連れていって外の空気に触れさせ、その様子をお母さんに手紙に書いて送っていました。

 いつも明るい都子さんを、友人たちは「幸せさがしの名人」と語っていたそうです。


 

 
 

犯罪者名鑑 麻原彰晃 18

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 富士山本部道場の設立

 オウム真理教と教祖麻原の変質が誰の目にも明らかになったキッカケはいつか、という質問に、信徒のほとんどが答えるのは、1987年の富士山本部道場の設立です。外界との接触が断たれた環境に居住区を構えたことにより、完全に浮世離れした思考に陥ってしまったのでしょう。修行の内容も過激になる一方で、不眠不休での立位礼拝や、一日一食という厳しい食事制限など、肉体的な負担が強い修行が行われるようになりました。この修行の過激化に関しては、私は麻原個人の事情も大きく関係したと考えています。

 すでに触れた通り、オウムが真理教と名を改め、宗教色を強めていった当時から、麻原は修行をしなくなり、人の心を読む「超能力」が失われていました。加えて、一時は減った信徒の数もこの頃からは徐々に増え始め、麻原が信徒一人ひとりの修行の進み具合を把握することは困難になっていました。幹部がそれを代行できればよかったのでしょうが、オウム幹部の中でヨーガを極めたといえるのは、石井久子などごく初期に入信した一部の幹部だけで、86年以降に出家した村井秀夫や早川紀代秀などは、ヨーガの行法にろくに精通しておらず、信徒からの質問には、麻原から渡された「こう聞かれたら、こう答えろ」というマニュアルを読みながら対応するという体たらくでした。

 昔のように信徒の修行の進み具合を把握できなくなり、そもそも指導自体面倒くさがって、末端の信徒にはビデオの中でしか接しなくなった麻原は、修行の内容を、信徒が自分の頭を使って考えながら、各々が明確な目標を目指して取り組む中身のあるものではなく、目的意識もあやふやなまま、単に肉体的に追い込むだけの苦痛合戦のようなものに変えてしまったのではないでしょうか。

 個人差はありますが、基本的に、資本主義社会の中で生きてきた人は、「何かやってないと不安になる」性質を持っています。そして、意味のあるなしに関わらず、やったことがキツければキツイほど、不安は取り除かれるものです。高校の野球部で、炎天下に無駄な長距離走をさせたり、回数だけを目的にした素振りをさせるような、ただキツイだけの修行をさせることにより、信徒を「なんかやった気」にさせて誤魔化していたということです。

 思考停止の状態で臨む過酷な修行は、超能力の獲得や精神の向上にはなんら結びつきませんでしたが、激しい疲労を与え、また信徒が自分の頭で考える力を奪うことで、麻原への依存を強める副産物を生みました。これにより、井上嘉博などの盲目の狂信者が次々と生み出されていったわけですが、しかし一方で、修行に耐えきれずに壊れてしまう信徒も出てきます。こうした流れの中で、オウム最初の死亡事件「真島事件」が発生したのです。

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 真島事件の発生

 1988年9月22日、富士山総本部道場で行われていた「百日修行」の途中、二十五歳の男性信徒、真島照之が、突然道場を走り回り、檀上に登って大声をあげるなどの奇行を始めました。村井秀夫から報告を受けた麻原は、村井、早川紀代秀、岡崎一明、新実智光ら幹部に命じ、真島を取り押さえさせ、女性用の風呂場に連行させます。このとき現場を仕切っていたのは村井秀夫で、はじめ村井は麻原の指示通り、真島の頭にバケツで水をかけて冷やさせますが、それでも真島が暴れるのをやめないため、今度は男性用の風呂場に連れていき、ホースで水をかけ、最後には四人で力を合わせて逆さに抱えあげて、浴槽の水に頭をつけさせます。

 やがて真島がぐったりしてきたので焦った村井は、医師である平田雅之を呼び、容体を確かめさせると、瞳孔が開き、呼吸も止まっていることが確認されます。報告を受けて慌てた麻原は、はじめ再び水をかけ、ショックを与えて蘇生させるよう指示。それで息を吹き返すわけもなく、今度は人工呼吸や心臓マッサージを始めますが、努力は実らず、真島の死亡が確認されてしまいます。

 死んでしまったら、もうどうしようもありません。麻原と幹部は、遺体をどうするかを話し合います。まともな考えなら警察に届け出るところですが、当時、教団は、宗教法人の認可に向けて動いていた時期でした。刑法上は過失致死に当たる今回の事件が外部に漏れれば、認可が下りるのに不利に働くことは明白です。麻原や幹部たちは悩んだ挙句、真島の遺体を道場の護摩壇で燃やし、秘密裡の内に処分してしまいます。

 これで、麻原とオウムの運命は決まりました。オウムが日本史上最悪のカルト集団になったターニングポイントは幾つかありますが、その最後のものが、この「真島事件」でした。ここで真島の死亡を隠ぺいせず、修行中の事故として警察に届け出ていれば、麻原と幹部は罰せられたでしょうが教団は存続し、平和裏な宗教団体として細々と活動を続けられた可能性はあったはずです。しかし、麻原はその道を選びませんでした。

 「毒を食らわば皿まで」という言葉があります。後ろめたさという感情は恐ろしいもので、人間は往々にして、後ろめたさを払しょくするために正しい行いをしようとするのではなく、かえって積極的に悪行を働く傾向があります。真島事件以後、麻原とオウム幹部は、このときの愚行を正当化するために「ポア」の論理を作り上げ、殺人を肯定するヴァジラヤーナの教えを強化し、罪悪感を罪悪感で拭い去るように、次々と凶悪犯罪を重ねていくのです。

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 田口修二殺害事件

 真島照之殺害は、あくまで修行中の事故で押し通すこともできましたが、その直後に麻原たちは、今度は明確な殺意を持って、信徒の殺害を行ってしまいます。発端は、「チクリ屋」村井秀夫の密告でした。

「電気班の田口修二が、真島の事件を見ていたんです。尊師を殺して、オウムを脱会したいと言っています」

 事態を重く見た麻原は、第一サティアン四階の図書室に、石井久子、大内利裕、大内早苗、村井秀夫、新実智光、早川紀代秀、岡崎一明の七人の幹部を集め、会議を開きます。

「あのまま放っておくと、危ないんじゃないか。ポアした方がいいんじゃないか」

 「ポア」の論理を簡単に説明すれば、「死後において、人の魂をより高い世界に転生させる」ということです。ようするに、すでに死んだ人の魂を操作するということを言っているのですが、これがオウムの中では、なぜか「人をより高い世界に転生させるためには、人を殺しても構わない、殺すべきだ」と、今生きている人を殺害する意味で使われていくようになってしまいます。

 捻じ曲げた張本人はもちろん麻原です。麻原は、信徒たちから「なぜあの人をポアさせねばならないのか?」と質問されたときには、「魂が腐敗しきっており、救済するためには殺すしかない」「魂を転生させる時期に来ている」などといった論法で納得させ、徐々に論理を強化していきました。そして、地下鉄サリン事件の頃には、「ポアのためなら、虫を殺すように人を殺す」信徒を作り上げることに成功していました。

 その「ポア」を最初に使い始めたのが、この田口事件でした。それまで、セミナーなどにおいて「ポア」の概念の説明自体はなされていましたが、ここまで明確に、個人を対象にしてこの言葉が使われたのは、初めてのことでした。幹部の間には動揺が走りますが、ただ一人、「イエスマン」村井秀夫だけが、冷静に麻原の言葉を引き取り、

「田口は尊師を殺してしまうのではないでしょうか。オウムから出してやらねば、多分そうするのではないでしょうか」
 
 と発言します。これ以後の多くの事件で、これが一つのパターンになっていくのですが、麻原が何か、信徒たちに問いかけるような口調で意向を語ると、それを村井秀夫が引き取って、あたかも麻原の意向が、信徒全員の意向かのような形に持っていくのです。こうされると、反対意見を持つ人がいても、麻原一人が突拍子もない考えを持っているのではなく、みんなが同じ意見を持っているのに、私だけが違うことを考えている・・・間違っているのは私なのではないか・・・。という思考に陥ってしまうのが、人間というものです。実に巧みな誘導法で、一連のオウム事件において、村井秀夫という男が果たした役割がいかに重要であったかを示していると言えるでしょう。

 ただ、このとき村井が同意したのは、田口が麻原を殺そうとしているのではないか、というところまでで、田口を殺すことにまで同意したわけではありませんでしたが、結局麻原は幹部たちを強引に殺害に同意させ、具体的な殺害方法まで指示します。麻原の指示に従った幹部たちは、それまで数日間、コンテナに監禁し、衰弱していた田口修二に目隠しを施し、ロープで首を締め上げました。それでもなかなか死なないので、最後には新実智光が首を捻り上げ、首の骨を折って殺害します。

 遺体は護摩壇で、十五時間にも渡って念入りに焼却されました。麻原は幹部教徒七名とともに、とうとう「殺人者」となったのです。
 
 よくオウムの信者について、「麻原に洗脳された、哀れなる子羊」と同情的な意見を述べる人もいますが、殺人にまで同意した以上、その責任は免れないでしょう。たった一回に事件に関わったというだけならともかく、この事件から幹部教徒たちが逮捕されるまでには七年近いタイムラグがあり、その間に改心するチャンスはいくらでもあったにも関わらず、彼らは様々な犯罪行為を重ねたわけですから、その道義的責任は首謀者の麻原にけして劣るものではありません。彼らは、自ら望んで殺人者となったのです。

 オウム教団に宗教法人の認可が下りたのは、この半年後のことでした。

 第三章 完

犯罪者名鑑 麻原彰晃 17

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修行者から教祖へ

 

 オウムを宗教化してから、麻原は次第にいち修行者ではなく、教祖として振る舞うようになっていきます。そのことをもっともよく表しているのが彼の呼び方で、オウム神仙の会時代にはまだ、人に対する尊称である「先生」と呼ばれていたものが、仏に対する尊称である「大師」となり、さらに他の幹部たちと区別するため、「尊師」と呼ばれるようになります。「真理の御霊 最聖」などと付くこともあり、普通の人がここまで大仰な呼ばれ方をすれば顔がこそばゆくなるでしょうが、麻原にはそういう羞恥心は一切なかったようです。

 外見にも、草創期のころの面影がなくなっていきます。伝説の空中浮揚の写真ではキリッと引き締まっていた麻原の身体に、でっぷりと脂肪が乗ってきたのはこの頃からのことです。本人は「悪いカルマを引き受けたせいでホルモンのバランスが崩れてしまった」などと言い訳していたようですが、逮捕後にはスッキリと痩せたことからもわかるように、体質的なものではなく、ただの食い過ぎによる肥満であったのは明らかです。麻原が信徒の前で「水中・エアー・タイト・サマディ」なる修行を披露した際、麻原は一週間、この日のために滝に打たれ、断食を続けてきたと言っていましたが、妻の知子からは「尊師はこの一週間、東京の事務所でステーキをパクパク食べていましたよ」と暴露されています。

 「水中・エアー・タイト・サマディ」とは、空気を遮断した三メートル四方の箱に入り、五日間もの間飲まず、食わず、排泄せず、呼吸や代謝などすべての肉体機能を停止させ、仮死状態のまま瞑想を行うという修行です。もちろん、「最聖」でもなんでもない、ただの肥満親父の麻原にそんな過酷な修行ができるわけもなく、「毒ガスが出た(防水シートを貼ったボンドから漏れた微量のガスで頭痛を引き起こしただけ)」などといって中止にするのですが、麻原はこの修行のために何百万という布施を信徒から集めていました。

 どうもこの頃から、オウムの修行内容は地道なヨーガを極めるものから、一目でそれとわかる、パフォーマンス的なものに変容していったようです。オカルト信者たちにより強く訴えかける目的もあったでしょうが、最大の理由は、麻原自身があまり修行をしなくなったことでしょう。麻原が唯一「あれだけは本物だった」と評価されるシャクティパットも、丹沢集中セミナーのころは、「一人ひとりが効果を実感できるまで何時間でもやる」というものだったのが、オウムが真理教となったころには、「一人十分、効果が出なくてもやめ(効果がでないのはグルへの信が足りないせい)」というものに変わってしまいました。もうこの頃には、修行により蓄えられるという神秘的なエネルギーがなくなっていたのでしょう。それでいながら、シャクティパット一回にかかるお金は、丹沢集中セミナーのころよりも増えて、五万円になっていました。本物の「超能力」を失った麻原は、派手なパフォーマンスによる見た目のインパクトで誤魔化しかなくなったということです。

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 信徒に崇められる

 
 教祖として君臨し始めてから、麻原は性格面も変わっていきました。丹沢集中セミナーのころに見られた高潔さやリーダーシップは影をひそめ、独裁的な権力を持った者に特有の傲慢さと猜疑心が目立つようになっていったのです。麻原の子供たちが施設の中を走り回るのを注意した信徒を竹刀で打擲するなど、理不尽な振る舞いをこの頃から見せていました。

 修行をしなくなり、読心術も失った麻原ですが、唯一残されてしまったのが、人を疑う心、猜疑心でした。信仰心が疑われる(と思い込んだ)信徒を追い詰めるときの麻原の決まり文句が「お前は○○のスパイだろう」というものでした。これは逮捕されるまでずっと続くのですが、麻原は何かあると必ず「スパイ」と決めつけるのです。実際にそれで煮え湯を飲まされた経験があったのかもしれませんが、本当に教義に自信があるなら、スパイが出ようが堂々としていればいいだけの話であり、疚しさの裏返しに他なりません。

 外見も性格もすっかり変わってしまった麻原ですが、なぜか麻原を神格化する風潮だけは、むしろ強まっていきました。そのことについては、日本人の「ブランド信仰」が多大に影響しているように思えます。

 日本人というのは男も女も「ブランド大好き」な民族です。服にも食べ物にもサブカルチャーにもいえますが、日本人は自分自身の頭で価値判断をせず、「友達が良いと言ってるから」「雑誌で良いと言ってるから」と、なにかといえば物の価値の評価を他人に依存します。大衆迎合を至上と考える「和を持って尊しとなす」の民族らしい傾向といえますが、その点、オウムの信者も典型的日本人でした。

 修行者から教祖へ、いや客観的にみて、ただの我儘な肥満親父に変わっていくだけの麻原が、なぜか逆に神格化されていったのは、「幹部の誰々さんが尊敬しているから」「私よりステージが上の誰々さんが凄いと言ってたから」と、他人の評価を自分の評価のように考える「ブランド信仰」が働いていた結果としか、私には思えません。

 麻原自身が、そのように誘導していったということもあります。あの空中浮揚の写真撮影の際も、麻原はどう考えても足の力でジャンプしただけの「空中浮揚」をやってのけた後、その場に居合わせた会員たちに、「おかしいなあ。前のときは一秒近く浮かんでたんだけどなあ。今日も確かに身体が軽くなって、ふわっと浮かんだ気がしたんだけど。みなさんはどう思いますか?」などと問いかけ、「落ちたとき、あまり音がしなかった」「すごいですよ、先生」などといった言葉を引き出しています。また、信徒の前で「最終解脱した」と宣言し、そのとき、最終解脱とはいかなるものかと問われて言葉に詰まったときに、「なあケイマ、私は最終解脱したんだよな?」などと、やはり自分の評価を他人の口から言わせています。

 オウムを真理教と改め、教祖となってからも、麻原は幹部会議で何かを決定する際には、必ず何人かの幹部に「これでいいよな」などと同意を求め、またその決定を一般の信徒に伝える際には、それを自分の口からは行わず、村井秀夫など幹部の口を通じて伝えさせています。

 「あの人がああ言ってるから、尊師は凄い――」

 こういう風潮が一度できてしまえばしめたものです。以前のように過酷な修行をせずとも信徒が勝手に崇めてくれ、またポカをやらかしても、思考停止状態になった信徒は、麻原を疑いもしません。毎日が楽になりましたが、入ってくるカネはどんどん増えていきます。

 こうした過程を経て、かつては純粋な修行者としての一面を持っていたはずの麻原は、俗物丸出しの貪欲な「怪物」に変貌していったのです。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 16

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 グルのクローン ”マンジュシュリー・ミトラ”村井秀夫

 今回はオウム事件当時にニュースを理解できる年齢であった方ならば、一度は名前を聞いたことがあるであろう有名幹部を紹介します。

 村井秀夫。入信から一度の蹉跌も味わうことなく出世を遂げ、最高幹部の証である正大師、最末期にはあの石井久子をも追い抜いて、事実上の№2にまで上り詰めた、幹部中の幹部です。報道番組にもよく出演し、その美声を生かしてオウムソングを歌ったりもしていましたから、オウム事件はよく知らなくても村井のことは知っているという方もいるでしょう。

 大阪大学大学院を卒業し、神戸製鋼に入社したエリート組の一人である村井は、教団では科学技術省の長官を務め、テロにも使われた化学兵器の製造の指揮を執っていました。最終的には、彼の部下にあたる土屋正実が作り上げたサリンが日本に未曾有の衝撃をもたらしたわけですが、当初において、科学技術省の前身である科学班は大きな成果をあげられず、表の№2である村井に対し、裏の№2といわれた早川紀代秀の建設班などに比べれば遅れを取り、麻原からも強い叱責を浴びていました。しかし、村井は早川よりも早く出世の階段を上り、早川が正悟師に上り詰めたのと同時期に、一段上の正大師に登っています。

 村井が早川とは違ったのは、麻原の忠実な「イエスマン」であろうとしたことです。会議の席で麻原に直接反対意見を述べることもあった早川と違い、村井は麻原の意見に絶対服従で、どれほど実現困難だと思える命令にも忠実に従いました。麻原自身が「これは難しいだろうな」というほどのアイデアでも「いえ、やります」と答えるなど、その姿勢は麻原に挑戦するかのようでもあったようです。

 しかし、実際には、彼が麻原の命で発明したのは、ドラム缶にパイプとつなげた洗面器をくっつけて呼吸器とし、自分でペダルを漕いで操縦する「潜水艦」(それを幹部の端本悟に運転させて失敗、沈没して地元のダイバーに救助される)などの珍妙なものばかりでした。真面目すぎるタイプだったのでしょう。

 いくら忠誠心があるといっても、ある程度能力も伴わなくては、出世の階段を登ることはできません。発明では、最後の最後、サリンを作り上げるまでは成果をあげられなかった村井でしたが、その代わりに大きな貢献をしていました。監視屋、密告屋としての仕事です。

 村井は、教祖として自己を神格化し、下々の信徒の前にあまり顔を出さなくなった麻原に代わり、信徒の行動、発言に目を光らせ、信仰心が疑われる信徒を見つけ次第、麻原にチクっていたそうです。行いがよくない信徒がいれば、大師の地位にある自分が直接注意をすればいいものを、わざわざ麻原の耳にまで入れていたのは、自分が評価され、ステージを上がるためでしょう。野心的な一面が垣間見えますが、もしかしたら「チクり」を純粋に「修行」と信じていたのかもしれません。

 オウムがマスコミに注目されるようになると、村井はテレビにも頻繁に登場するようになります。端正なマスクと美声に惹かれて入信した女性信者もいたことでしょう。同じスポークスマンとしては上祐史浩がいますが、時に激すこともあった上祐と違い、村井の場合はキャスターの挑発を浴びても冷静で、終始穏やかな口調を保つところは、宗教者として強い自覚があったのでしょう。

 オウムが引き起こした数々の事件に深く関わり、最末期には石井久子に代わって№2の座に君臨していた村井ですが、彼は麻原が逮捕される直前、暴漢によって命を奪われます。村井秀夫刺殺事件で検索すれば、今でも刺殺の瞬間の映像を見ることができます。犯人は在日系の暴力団員でしたが、その動機については、麻原の指令、幹部の裏切り、暴力団による謀殺など諸説あり、いまだにはっきりとしたことはわかっていません。オウム事件には暴力団の陰がちらついており、暴力団にタカられて資金難に陥っていたことが麻原の妄想、現実逃避を肥大させ、事件に繋がったという説もあるのですが、真相を解き明かすカギは、村井刺殺事件の犯人が握っている可能性は大きいでしょう。

 村井はオウム出家の理由について両親から尋ねられた際、「カモメのジョナサンを読んでください。あの本に私のすべてが書いてあります」と答えたそうです。カモメのジョナサンとは、食べることばかり考えている他のカモメと違い、「空を飛ぶ」ことに生まれた意味を見出そうとするジョナサンが、皆から変わり者と見做されて迫害されてしまうお話です。オウムに若者が集まった理由について、とにかく食うことを考えて生きてきた親世代と、高度成長期を終え、物質的な豊かさが満たされた世の中で、「生まれてきた意味」を探そうとする若者世代の考えの相違ということがあげられますが、それを証明する発言といえるかもしれません。普通の若者は、「反抗期」によって親とぶつかり合うことで溝を乗り越えていくものですが、機械とばかり戯れ、大人しく手のかからない子供だったという村井は、「出家」という方法でしか、親世代の考え方に反抗することができなかったのでしょうか。

 麻原からは、「饅頭」と、ホーリーネームをさらに仇名にして呼ばれるなど、村井は、麻原とは師と弟子を超えた特別な絆で結ばれていました。麻原が逮捕され、裁判で醜態を晒すのを見ることなく、最期まで麻原を信じて死んでいった村井。彼はすべてのカルマから解き放たれた理想郷「マハー・ニルヴァーナ」へと旅立つことはできたのでしょうか。


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 尊大なミニ麻原”マイトレーヤ”上祐史浩

 村井秀夫とならび、オウムで麻原に次ぐ有名人なのがこの人でしょう。

 早稲田大学大学院在籍中にオウムに入信した上祐は、修行をしながら大学院を修了し、宇宙開発事業団に入りましたが、その後すぐに出家。以後はトントン拍子に出世し、村井秀夫より二年も早い1992年に正大師に上り詰めました。

 坂本弁護士事件など、オウムの主要な事件に関与していない上祐がこれほど早い速度で出世の階段を上ったのは、”ああいえば上祐”で知られる、弁舌の才によるものでした。上祐はディベ-トの達人で、語彙も豊富で構築もうまく、時に麻原を言い負かすこともあったといいます。

 麻原に反対意見を述べることがあったのは早川紀代秀も同様ですが、最後の最後でやっと正悟師にのぼった早川と違い、上祐がオウム中期の段階で早くも正大師の座を射止めたのは、ただ反対するにしても、意見の説得力が全然違ったのでしょう。その弁舌の才はマスコミに対しても発揮され、時に煙に巻き、時に捻じ伏せるなど世間を散々に翻弄しましたが、一方であまりにも相手を言い負かそうとするあまり、和解の交渉などでは逆に決裂させてしまうこともあり、一説にはそれが坂本弁護士一家殺害事件に繋がったとの見方もあります。

 しかし、いくら有能な人物だったとしても、反対意見で麻原を言い負かすような上祐のことは、麻原も内心小面憎いと感じていたようで、教団が総選挙で惨敗し、武装化の道を歩むようになった矢先、上祐はロシア支部へと飛ばされてしまいました。ただ、麻原も感情的な理由で、正大師にまでした人間を遠くに追いやるような器の小さい男ではありません。上祐は英語が得意で、ニューヨーク支部の支部長を務めていたこともありますが、ロシア支部長就任は単なる左遷ではなく、上祐を海外進出の尖兵として利用しようという前向きな方針でもあったでしょう。上祐自身は、極寒のロシアに飛ばされて気落ちしているかと思えば、足を組んで座りながら部下を顎で使うなど、「ミニ麻原」ともいえる尊大な態度で振る舞っていたようで、案外、好き勝手にできる環境を楽しんでいたのかもしれません。

 地下鉄サリン事件ののちに日本に呼び戻され、またテレビの前で得意の弁舌を振るうようになった上祐は、重大犯罪が立て続けに起こった最末期に海外にいたことが幸いしてか、男性幹部の中では異常なほど軽い刑に服しただけで出所しました。これは私の憶測ですが、彼は多くの事件を「目こぼし」してもらう代わりに、出所後に教団をコントロールする役割を、当局に与えられていたのではないでしょうか。上祐出所後、教団は麻原崇拝を続ける「アーレフ」と、上祐自身が代表者を務め、麻原からは脱却し修行だけを続ける「光の輪」の二つに分派し、弱体化が進み、現在まで世間を揺るがすような事件は起こっていません。社会に向かうエネルギーを内部抗争に注がせるよう仕向け、分断工作を図るのは、戦国時代に大名や庶民を散々悩ませた本願寺に対し、かの徳川家康が打った策でもあります。真相は本人のみが知るところで、おそらくそれが語られることはないでしょうが・・・。 
 
 教団のスポークスマンとして頻繁にテレビに出演していた上祐には、「上祐ギャル」などというおっかけが存在しました。私はあまりピンと来ないのですが、彼のルックスは当時の女性に受けていたようです。上祐の恋人、都沢和子も上祐とともに出家し、上祐は都沢と別れ、都沢は麻原の愛人の一人になったそうですが、「寿町男子」「代ゼミ中退」の麻原が、早稲田卒のモテ男の女を奪たい取った快感はいかなるものだったでしょうか・・・。
 

犯罪者名鑑 麻原彰晃 15

てんり



 ”真理教”の誕生

 1987年から、オウムはいよいよ団体の名称を「真理教」と改めます。

 この名称の構想自体は、まだオウムが一介のヨーガサークルに過ぎなかった1985年当時からあったようです。ある時、とある探偵事務所を訪れた麻原は、探偵に奈良県の天理市の調査を依頼しました。天理市とは、江戸時代末期に中山みきが起こした天理教の本拠地で、信者が寄り集まって生活している地域が戦後の市制でそのまま市として認められたものです。

 天理教の信者は見た目には一般の人と何ら変わりはなく、法を守り、税を納めてちゃんと仕事や学業をして生活しており、道にタバコの吸い殻などが落ちていれば率先して拾うような平和的な人たちです。天理教を信仰していない人を差別したり、国家に仇なすようなところはまったく見受けられません。しかし、病院や学校にも天理の名が冠せられ、市議会議員も天理教の信者から出ているようなところを見て、それを一種の「独立王国」のように錯覚したのか、麻原は天理市に深い関心を示し、調査に乗り出したのです。

 天理教は非常に平和な団体で、天理市の実態は、後に麻原が打ち出した「シャンバラ化計画」などとは大いに異なるものですが、ヒントにはなったのでしょう。調査を終えた探偵が提示した資料の内容に多いに満足した麻原は、その探偵に、「私も宗教団体を開こうと思っているのですが、何かいい名称はありますかね?」と問いかけました。探偵が一種の言葉遊びで、「あんり、いんり、うんり・・・」と、「てんり」の頭の文字を順番に入れ替えて言っていると、サ行の一文字のところで、麻原の目が光りました。

「しんりですか。いいですね」

 こうして、”真理教”の名前が決まったというのが、真相ということだそうです。麻原はこれを隠し、命名の由来について信徒には、「シヴァ神のお告げ」と言っていました。

 ちなみに麻原は探偵に払う調査料二十万を、前金の二万円だけを入れてバックれ、結局最後まで払わなかったそうです。

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 オウムの教義

 
 オウムの教義については、これから起こる事件の中で少しづつ触れていこうと思いますが、まず大前提となる部分だけざっと書いておきます。

 オウムの教義については、チベット密教やヒンドゥー教、大乗、小乗の仏教の都合のいいところばかりを集めたいい加減なものとして批判されますが、この批判にはおかしなところがあります。

 もともと、日本の国教は神道でしたが、聖徳太子の時代に仏教が伝来し、仏教を重んじようという崇仏派と、我が国独自の神道を重んじようという廃仏派の間で戦争が起こりました。結果、崇仏派が勝利し、仏教は神道を駆逐して日本に広まったわけですが、そのうちに「仏教と神道はそもそも同じものである」という考えが一般的になってきました。「神仏習合」という思想です。仏教の解釈に神道をミックスしたり、祭事において仏様と神様を同時に祀るということは、昔から行われていたのです。ヒンドゥー教の本場インドにおいては、仏教はヒンドゥー教の一派であるとの見方がなされています。

 このように、仏教は一神教のキリスト教やイスラム教と違い、他宗との合一を図りやすい性質を持っているのです。仏教をベースにしたオウムが、ヒンドゥー教や、仏教の一派であるチベット密教などを取り入れたところで、特別にデタラメなことをやっているわけではないのです。

 また、麻原はその発言の中で、オウムの教義が必ずしもオリジナリティを重視していないことを語っています。むしろ、既存の宗教を十分尊重したうえで、習うべきところを習い、より高みを目指していこうという姿勢であり、他宗の存在を一切認めんとする今のイスラムの過激派や、昔のキリストの十字軍などよりも柔軟であるともいえるでしょう。自分より優れていると認めた人物には素直に学べる、教祖の麻原の性格を反映しているともいえます。

 麻原は実に様々な宗教を学び、その宗教的知識に関しては専門家も認めるほどですが、ただ、教義の解釈に関しては、かなり強く捻じ曲げられているところがあるということです。特に、殺人を肯定するヴァジラヤーナの教えについては、麻原個人の意向が濃厚に反映されており、麻原がその目的のために都合よく論理を組み替えたとしか思えないところがあります。
 
 麻原は自らが高い宗教的知識を極めるとともに、信徒に対し、オウム以外の宗教を学ぶことを禁じていました。他宗の知識を自らが独占していることで、他宗の解釈を捻じ曲げていることに気づかせないようにしていたのです。論理の構築力以外に、情報の統制という面でも、麻原は巧みでした。


せいし



 ”イニシエーション”の始まり 

 宗教色を強めることによって信徒を振るいにかけた麻原は、オウムに残った信徒から、ありとあらゆる手段を使ってお金をむしり取っていきます。

 オウムは教義を過激化させるにつれ、信者に出家を迫る傾向が強くなっていきますが、初期のオウムについては、在家での修行を出家と同等に尊重する態度を取っていました。他ならぬ教祖の麻原自身が在家の修行者であった立場上、出家と在家の格差を安易に大きくするわけにもいかなかった事情があったのでしょう。しかし、出家を在家よりも至上のものとする風潮が強くなるのは止められず、また、意外に信徒は、在家の麻原が出家信者を従えている構図に疑問を持っていないことに気づいたのでしょう、麻原は次第に出家主義へと転換していくようになります。国家と対決姿勢を表し、テロ行為を繰り返すようになった教団には、一人でも多くの「戦闘員」が欲しかったということもあったかもしれません。

 しかし、先にも述べました通り、当初においては麻原は、在家の修行を出家と同等に重んじていました。それにはもしかすると、信徒を出家よりも在家に留めておいた方が、布施を集めるにおいて効率がよかったということもあるかもしれません。麻原は出家信者からは、お弁当屋さんやパソコンショップなどの販売活動をさせることにより教団の資金獲得に貢献させていましたが、在家の信徒には、俗世で労働などをして得たお金で、教団が販売するオカルトグッズを買わせることで教団に利益をもたらさせていました。「イニシエーション」が始まったのです。

 良く知られているのは、「血のイニシエーション」に始まる、麻原の肉体の一部を売りつけるものでしょう。血のイニシエーションでは一応、信者の前で自ら注射で採血してみせたようです。これがうまくいくと、今度は自分の風呂の残り湯を飲ませるようになり、入浴時に陰毛が抜けると「ご宝髪」などとして、ごはんに振り掛けて食べさせていました。果ては、人妻に精液まで飲ませていたとか。

 風俗嬢の聖水でさえ精々二千、三千円なのを考えれば、麻原のような汚らしいオッサンの陰毛や残り湯などを十万、二十万で売るなどはとんでもない話です。精子については精子バンクがありますが、精子バンクには細かい規定があり、ハーバードなどの名門大学に在籍しており、容姿端麗でスポーツ万能、二十代前半の若くイキのいい精子でないと値段がつかないのに、最終学歴が「代々木ゼミナール中退」で、見た目は「寿町男子」、スポーツはかつては柔道二段で、蓮華座のまま四十センチ近くジャンプできる筋力があるも、今はただの「メタボ親父」の麻原の精子が何十万もするなど、許されないことといえるでしょう。自分のスペックも鑑みず、そんなものを平然と売りつけられてしまう麻原の神経はやはり並ではありません。

 他にも麻原は、自分のマントラが録音されたテープや、瞑想法のノウハウが書かれた秘伝の書、インドの路上で販売されているような粗雑な作りの像などを、何十万もの値段で信徒に売りつけます。原資がほとんどかからないものを高額で売りつけることが、教団にどれだけの利益を齎していたかは、いちいち詳細なデータを出して計算するまでもないことでしょう。霊感商法の開始により、教団の資金力は一気に膨れ上がっていったのです。

プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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