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外道記 改 14

 
 勤務終了後、俺は桑原と一緒に、正社員やドライバー用のロッカーに隣接された、シャワールームに入っていった。脱衣場で服を脱ぎ、浴室に入ると、八つあるブースのうち、一つのカーテンが閉まっており、下から三十センチ以上ありそうな巨大な足が見える。俺は桑原に、口元に人差し指をあててみせながら、「先客」の個室に忍び寄った。

「ぬおっ・・・・」

 突然、カーテンを開けられた先客が、驚いて声をあげる。

 屋久杉の樹皮のように隆起した背筋、パッドが入っているかのような肩回り、引き締まった小尻、常人のウエストサイズをゆうに上回る太もも・・・同性でも惚れ惚れするような後ろ姿の男は、百九十センチ、百十キロのヘビー級戦士、東山である。鍛えれば格闘技の世界チャンピオンになることだって夢ではない肉体の持ち主は、過去の過ちのせいで、チンケな田舎の運送会社社員に甘んじているのだ。

「よう東山、男同士の挨拶を・・・」

 昔から、裸の付き合いという言葉がある。男の大事なところを見せ合って会話を交わした者同士には、特別な絆が生まれるものだ。東山とさらに距離を縮める目的に加え、可愛いと噂の東山の息子を拝んでみたいという個人的興味から、俺は東山がシャワーを浴びるブースに侵入したのである。

「やめろおぉぉぉっ!」

 頭を洗っていて目を開けられない東山が、身体をくの字に折り曲げて、背後から股間に手を伸ばそうとした俺を、ヒップアタックで突き飛ばした。東山のケツを腹でまともに受けた俺は、後方のブースにまで吹き飛び、タイルの壁に後頭部をしたたかに打ち付けた。

「なんのつもりだ、貴様!シャワーを使う許可は出したが、そんな悪ふざけをするなどは・・・」

「ってて・・・・・じょ、冗談だって。マジで怒んなよ・・・・」

 視界が揺れて、東山が五人くらいに見える。足が痙攣して、立ち上がれない。尻の力だけで、大の男を吹き飛ばすパワー。東山の怪物性には、ただ慄然とするばかりである。

「あれ、東山先輩!ちんこのところに、ドングリがくっついてますよ!これは、どうやってつけてるんですか?あれ、でも、そしたら、東山先輩のちんこはどれだ?東山先輩ほど凄い男になれば、身体の中にちんこを埋め込めるのですか?」

「うるせええええ!」

 東山の粗チンを指摘した桑原の頭を、東山が片手でつかんで持ち上げた。桑原とて百八十センチ、八十キロはある堂々たる体躯の持ち主である。それを、東山は、特撮の超人がアスファルトに埋まった電柱をぶっこぬくように、頭上まで持ち上げてみせたのである。

「ぐあっ・・・・す、すげえっ、やっぱり、東山先輩は最強だ!」

 常人離れした東山の怪力を目の当たりにして、ふと、桑原ではなく、桑原がカリスマと崇める、この東山こそを、唐津と莉乃を懲らしめるにあたっての「暴力装置」として利用できないかという考えが、頭に浮かんだ。

 突拍子もないようだが、考えてみれば、東山と唐津、莉乃は、目下の敵同士なのである。東山には守るべき家族と仕事があるから、あまり大胆な行動は取れないだけで、東山が奴らに危害を加える動機は十分あるのだ。逆に、なぜこの手を今まで思いつかなかったのか。

 無論、東山を破滅させてしまったら、ヤツから金銭をむしり取ることはできなくなってしまう。それは、これから純玲と二人で、人生をやり直そうとしている俺には痛恨の極みである。理想をいえば、莉乃と唐津にケジメをつけるのは何とか自力で達成し、東山と、寄生虫と宿主の関係は、末永く維持していきたい。

 自分から何か手を打って、東山を利用することは考えられない。だが、もし今後、何らかの情勢の変化が生じてきて、東山を金主として利用できなくなったら・・・あるいは、東山を利用しなければ、莉乃と唐津を痛めつけられないことがわかったとしたら、そのときは、桑原を遥かにしのぐ戦闘力を持つ東山を、こちらの「暴力装置」として利用する手もあることは、一応頭に入れておいて損はないだろう。

 シャワーを終えた俺は、同じく、自宅に帰ってシャワーを浴びてきた唐津との待ち合わせ場所に向かい、二人で連れ立って、谷口たちが暮らす寮――街はずれのアパートへと向かった。

 人材の入れ替わりが激しい派遣会社の寮の場合、寮といってもアパートの一棟をまるまる派遣会社で借り切っているのではなく、まったく関係のない普通の住人も混ざっていることがほとんどだが、谷口たちが暮らすアパートでも、二部屋に二人ずつが生活を営み、別の部屋は、海南アスピレーションには縁もゆかりもない住人が暮らしているという形である。

「唐津さん、蔵田さん、お疲れのところ、よく来てくださいました。さっそくお食事の用意をしますので、どうぞお寛ぎください」

 夕食どきに訪れた俺たちは、谷口たちから、寄せなべを馳走されるというもてなしを受けた。食卓が置かれたのは谷口、大島の部屋であるが、篠崎、増田も、調理の段階から参加している。四人は居住スペースこそ別々だが、普段から、お互いの部屋を自分の部屋のように、頻繁に行き来しているようである。近所のスーパーで買いこんできた野菜を谷口が切り、指が欠損した篠崎が食器を用意し、見た目には何の障害もなさそうな増田が鍋に湯を入れ、同じく見た目普通の大島が白米を焚く。四人の調理は見事に役割分担がなされて、スムーズな連携で動いていた。

「谷口さんたちは、ずっと一緒に暮らしてたの?」

 食事ができるのを待つ間、俺は、谷口たちの見事なチームワークを見て湧いた素朴な疑問をぶつけてみた。

「私と篠崎くんが海南アスピレーション創立当初の三年前からのメンバーで、増田くんと大島くんは、一年前からの入社です。増田くんと大島くんが入ってからは、ずっとこのメンバーで相部屋をとっていました」

 それだけ長い間同じ釜の飯を食っていれば、その絆の強さはもはや、兄弟同然になっていてもおかしくはない。コブラさんが、彼らを見て羨ましがるのも当然だった。

「前は、どこに派遣されてたんですか?」

「ここに来る前は、千葉の空調設備の工場で働いていました。その前は、食品加工工場です」
「ずっと、四人で一緒だったんですか?」

「派遣先は違うこともありましたが、寮生活はずっと一緒でした。地域を移動することになるときは、みんな一緒です」

 特別扱いといってもいい待遇。なぜに彼らは、そこまでして、四人で固まることに拘るのか。なにか触れてはいけない結びつきがあるのではないかと、つい勘ぐってしまう。無意識に、ケツを引き締めていた。

「そっそそ、それじゃ、乾杯!」

 増田の音頭により、鍋パーティが始まった。丸菱の倉庫ではあまり喋らないのでわからなかったが、彼は吃音の持ち主のようである。

「一五六〇年、桶狭間の合戦で勝利を収めた織田信長は、肥沃な東海地方には敢えて進まず、美濃への北上を敢行。足かけ七年をかけて美濃の国主斎藤氏を滅ぼし、二か国の主に。一五六八年、将軍足利義昭を要して上洛を果たし・・・・」

 乾杯の音頭を取ったことで、テンションが上がってしまったらしい増田は、俺が何の気なしに、地元の城址について触れたのをきっかけに、戦国時代の織田信長の覇業を、桶狭間から本能寺の変で倒れるまで延々と語り始めた。

 彼は一見、歴史に含蓄が深いようだが、おそらく年表を丸暗記しているだけで、歴史を感覚で掴んでいるわけではないだろう。たとえば、織田信長が天下を取るのになぜ、有名無実と化していた足利将軍家の権威を利用せざるをえなかったのか、というような、高度に政治的な質問には、まったく答えられないはずだ。

 増田の言動を見る限り、彼は軽い知的障碍か、かなり重度の発達障害を抱えていることは明らかであった。発達障害者や知的障害者には、映像記憶能力に優れたサヴァン症候群など、脳の欠損を補うため、別のある一部分が異常発達するという例があるが、彼の場合は文章あるいは音声を記憶する能力が特化されているのだ。

「なあ谷口さん、預けてある金を、ほんの少しでいいからくれよ。今度は本当に、資格の本を買うからさ。なあ頼むよ」

「ダメです。木村さんは、この前レシートを持って帰れなかったのだから、約束通り、ペナルティとして十日間、お小遣いは禁止です」

 大島はどうやら、ギャンブル依存症であったらしい。給料が入った傍からパチンコ屋の養分として吸い取られてしまう彼は、通常の金銭感覚を身に着けるまで、谷口に資金を管理してもらっているようだ。

「谷口さん、詳しく教えてください。あなたたち四人の集まりは、いったい何なのか。海南アスピレーションに恩義を感じる理由は、何なのか。今日、ここに僕と蔵田さんを呼んだ目的は、何なのか」

 宴もたけなわとなってきたところで、唐津が目下の敵である谷口に、本題を切り出した。 

「お二人にもお分かりになったと思いますが、私たちは皆、持って生まれた障害により、社会で生き辛さを抱えた人間です。うまく生きようとしても生きられない、誰にも理解されない・・・そういう人間が寄り集まって、障碍者が障碍者同士、支え合いながら生きていく。まだ正式な制度としては動き出してはいませんが、我々障碍者にとって理想とも思える環境を、海南アスピレーションは、私たちに提供してくれたのです」

 谷口のような、外観の問題で社会からいわれなき差別を受ける者たちにとっては、心安らぐ居場所を。知的障害や発達障害など、脳の機能の問題で一人の力で生きていけない者には、自分に変わって生活を管理してくれる者がいる環境を。

 障害者が障害者を支援する――様々な障害を抱えた者が、お互いの欠点を補い合いながら生活する、自助組織のようなコミュニティが、海南アスピレーション内には存在したらしい。

「谷口さんのおっしゃっていることはわかります。でも、穿った意見かもしれませんが・・・・それは、海南アスピレーションという会社の中での、居心地の良さってことですよね。一歩外に出てみれば、もっと良い環境があるかもしれない。障害者枠での雇用ということも考えられるし、生活保護を受けるということだってできるんじゃないかと思うんですが・・・」

 谷口らとは違い、海南アスピレーションには何の愛着も感謝もない唐津が、疑問をぶつけた。
「仰る通りですが、世の中には、障害者雇用という制度や、生活保護を受給できる条件などについて、まったく知識がない方というのは大勢いるのです。国や企業から支援を受けられる可能性があるにもかかわらず、教育機関の不備などもあってそれを知らず、非正規労働者として社会の底辺を漂流している、そういう方々を適切な支援に繋ぐための、情報交換の場としても、我々の集まりは機能しています」

「でも実際には、こうして多くの方々が海南アスピレーションに留まっている」

 唐津は、海南アスピレーションが、本当なら障害者の枠で働くべき人間たちを無理やり健常者として働かせ、不当な利益を得ていることにしたいようである。

「障碍者雇用には、出勤日数や勤務時間について融通が利くというメリットはありますが、賃金の低さという大きな問題があります。障碍者の就労継続支援には、a型とb型の二種類が存在しますが、まずa型とは、通常の雇用契約に基づく制度です。しかし、ほとんどの場合、給与は最低賃金がベースとなっており、また、こちらが望んでも、フルタイムでの勤務や時間外労働などをやらせてもらえない場合がほとんどで、労働単独で生活を維持することはできず、障碍者年金や生活保護を併用しなければなりません。一方、b型とは、昔の作業所と同じで、通常の雇用契約からは外れた制度になります。賃金はa型に輪をかけて低く、多くの場合、最低賃金の半額にも達しません。また、就労支援という名はついていますが、こちらの利用者には労働能力が皆無に近い人が多く、言葉は悪いですが、大きな子供を預ける託児所のように使われているのが実態です。それならまだいい方で、実際には健常者枠やa型で働ける能力がありながら、言葉巧みにだましてb型ということにし、圧力をかけ、健常者並みに働かせているような酷いところもあります。海南アスピレーションで一緒に働いた方々にも、そうした事業所の被害に遭った方が実際におられます」

 障碍者がどんな働き方を望んでいるかも、人それぞれである。現行の障碍者雇用制度は、身体や心に障害があるから、出勤日数や時間に考慮してほしい、成果が十分でなくとも多めに見て欲しい、といった、「消極的な」障害者にとってはニーズにかなっているが、障害があっても目いっぱい働きたい、一人で自立して生きていきたい、という「積極的な」障害者のニーズには、十分に応えられていないということだろう。

 海南アスピレーションで、健常者枠として働いていれば、地方でも千円以上の時給でフルタイム働ける上、残業もし放題。おまけに、仕事先ではともかく、家に帰れば、自分の障害に理解を示してくれる仲間がおり、希望すれば、その仲間と同じ派遣先で働くこともできる。

 いいところだけ聞いていると、まるで海南アスピレーションは、「働く意欲はあるが、社会がそれを認めてくれない」という障害者にとっての、楽園のようにも思える。冷めた見方をすれば、ただ単に誰彼構わず採用しているというだけの話だろうが、意欲のある者に限っては、ある程度のフォローもしているのは確かなのである。

 人を物のようにしか扱っていないと、誰もが思っていた海南アスピレーションの意外な一面を垣間見て、正直、少し驚いていた。

「それじゃあ、皆さんは、会社に対して不満はまったくないんですか?」

 俺と同じ驚きを感じているだろう唐津が、食事が終わった後も谷口たちを解放せず、質問攻めにした。

「そうだなぁ、不満というか、良くないな、と思うのは、やっぱりペナルティ関係が厳しいことですかね。あと、こっちから言わない限り、スタッフを社会保険に入らせないところも問題ですよね。無知なスタッフの中には、そういう制度があるってこと自体、本当に知らない人もいますから・・・。まぁ、手取りが増えるからって、自分から入りたがらない人とかもいますけど。あとは、大手の派遣会社みたいに、企業への派遣料とスタッフの賃金の差額を開示するべきかと・・・まあ、それぐらいですかね」

「あと、やっぱり労働組合さんの言われているように、派遣先は劣悪なところが多い印象ですね・・・。まあ、海南みたいな中小零細は、えてして弾込めよりも、受け皿を探す方に苦労するから仕方ないんですけど。さすがに丸菱さんのレベルは珍しいですけどね」

「不満は確かに色々ありますけど、それでも、会社と戦おうとは思いませんね。小さい規模の会社だからこそ、頑張っている人へのケアが行き届くってところもあると思うし。そういうところは、あんまり大きな声では言えないですけど、闇金さんなんかと近いところありますよね」

「おいおい、大島くん、もう闇金は二度と利用しないんだろ」

 谷口のツッコミで場が和んだところで、やがて話の流れは、海南アスピレーションと、他所のもっと酷い貧困ビジネスとを比較する方向へと進んでいく。

「ちょっと前に話題になった、レストボックス。一泊千五○○円の簡易宿泊所と、日雇い派遣の斡旋業が一緒になった、ダム工事の飯場システムをそのまま都会に持ってきた会社。宿泊料は千五〇〇円でも、三分で百円のコインシャワーや、二百円のコインロッカーは別料金だし、あそこが紹介してくる仕事なんて、日給七千五百円程度で、交通費もでない。仕事がない日もしっかり宿泊料は取られるから、金なんてまず溜まらない。溜まらないから、抜け出したくても抜け出せないようにできてる。じわじわじわじわ、生かさぬよう殺さぬように搾り取る。本当の貧困ビジネスっていうのはああいうのを言うんであって、海南アスピレーションがやってるのはそれとはまったく違うよ」

「貧困ビジネスといえば、あれも酷いよな。敷金礼金ゼロを謳った、ゼロゼロ物件。部屋の賃貸借契約じゃなくて、鍵の一時使用契約とかいって、家賃取り立てのために、賃貸借契約では認められない悪辣なことを平気でやってくるんだよな。俺はたまたま仕事が見つからなかったとき、一か月家賃を滞納しただけで追い出されたよ。ああいうとこは必ず、ヤクザまがいの追い出し屋とグルになってて、支払が遅れると、夜討ち朝駆けで怖いのがやってくるんだ。外出中に鍵を付け替えられたり、私物を全部外に出されたりとかも、平気でやるしな」

「派遣会社でも、海南より酷いところはいくらでもあるしね。色々わけのわからない名目で差っ引かれて、総支給二十万のうち、手取りは半分もいかないなんてこともあったな。あんなんじゃ生活なんてできないよ。まあ、会社も悪いけど、根本的には、国が派遣のマージン率に規制をかけないのがいけないんだけどな」

「障害者枠で就職ってのもなァ。俺は薬の営業の会社で正社員の経験もあるけど、あの会社ほんと酷かった。営業成績が低い事業所は、根性を鍛えるために早朝登山とかさ。ノルマを達成できなかったら自腹で商品買わされるし。人の身体を治す薬を売りながら、自分の身体壊したからね。一つのところで腰を据えて働くってのも怖いよ。ブラックだったら一貫の終わりなんだから」

 労働組合の活動に反対するということで俺も勘違いしていたが、彼らとて、海南アスピレーションの待遇に、百パーセント満足しているわけではなかった。ただ、障碍者雇用の制度が自分たちのニーズに合うものではなかったり、労働条件全体が地盤沈下している社会情勢で、辞めて別の会社で働いたところで、今より良くなるとは限らないといった理由で、簡単に決断することはできないというのが、実情だったのだ。

「それでは、明日も仕事がありますから、この辺でお開きにしますか。キレイな布団がちょうど二つあるので、それを使ってください」

 食事の後片付けがされ、各自風呂に入って、彼らのルールに従って、二十三時には布団に入った。消灯時間となった。住人たちはあっという間にまどろみに落ちたようだが、慣れない環境で、俺と唐津はなかなか寝付けず、お互い連絡を取り合い、静かに外に出て、ビールを飲みながら話をすることにした。

「今日見聞きしたこと、みんなに伝えなくちゃいけないですかね・・?」

 海南アスピレーションの意外な一面を知ることが、労働組合の士気に関わってくることを危惧した唐津が、不安な胸中を打ち明けた。

「まあ、報告せんわけにはいかんだろう。変に隠し立てしたり、嘘をついたりするようでは、逆に信頼を損ねる」

 もっとも、今晩のことを尋ねてくる組合員が、今どれだけいるのか、という問題ではある。谷口たちが来てからわずか一週間あまりで、すでに組合員の大半はやる気を失いかけている。自然消滅まっしぐらの労働組合に起爆剤をもたらすようなネタをつかみに行った先で見たのは、海南アスピレーションと、海南アスピレーションを必要としている者たちとの間に結ばれた、確かな信頼関係。正義の実現を目指す唐津の前途には、逆に暗雲が立ち込めてしまったのである。

「僕はこの戦いを通じて、もう二度と、世の中の理不尽に負けない勇気が欲しかった。一緒に戦ってくれる仲間が欲しかった。労働組合を作って、みんなと一緒に立ち上がれたとき、僕は初めて、生きているって実感が湧いた。僕の忌まわしい過去も、すべて報われたと思った。でもあの人たちは、ちょっとしたことで、すぐに心が挫けてしまった」

 酒で顔を赤らめながら、唐津が仲間への不満をぶちまける。唐津が来てから、純玲と出会うまで、俺は毎日、唐津と莉乃への嫉妬を、酒で紛らわせてきた。唐津と莉乃が夜のまぐわいをしているかもしれない妄想をアルコールで消し去る作業を、毎晩繰り返していた。女がいれば、わざわざ勃起力を低下させる酒など飲む必要はなかった。莉乃に硬いものを突っ込めるのなら、俺はアルコールなどには溺れていなかった。俺が莉乃を抱けない苦しみから逃れるために必要としていた酒を、莉乃を抱きながら飲むなど、許せるはずがなかった。

「仕方ねえよ。負け犬根性は、そう簡単には直らねえ」

 怒りに燃える五臓六腑を酒で宥めながら、努めて冷静に答えた。今の俺は、唐津最大の理解者ということになっているのである。情報収集をする上で大事な今の立場を、失うわけにはいかなかった。

「きっとあの人たちは、ただ不安だっただけなんだ。コブラさんほどじゃないにしても、何の保証もない底辺労働の世界で一人で生きているのが不安で、なんとなく寄り集まりたかっただけ・・・それが達成できれば、戦うことなんてどうでもよかった。僕たちが戦う本当の意味なんてわかってなかったんだ。それがわかってるのは、蔵田さんだけだった」

 唐津はもう、俺のことを、長年互いの背中を守ってきた戦友のように思い始めているようである。

 どれだけ俺のことを大事に思ってくれても同じだが、経済的に弱者だというだけで、恋愛面では強者のくせに、節操なくモテない男の米櫃に手を出してくるヤツは、俺は嫌いである。そんなふざけたヤツに、東山を糾弾する資格などない。貴様が経済的弱者を慈しむ気持ちの半分でも、恋愛弱者に向けていたら、俺は貴様と本当の友になれたかもしれないのだ。自分の都合の良いときだけ弱者を装うご都合主義野郎とは、俺は絶対に相容れることはできない。

「あ。莉乃さんからメールだ」

 敵地に乗り込んだ愛する男を心配する、莉乃のメール。冷やしたはずの五臓六腑が、再び火が付いたように熱くなる。俺がもう、三か月はメールをしていない莉乃と、毎日メールしている唐津。かつて、莉乃に激しい思いを寄せていた俺の前で、平然と莉乃とメールをする無神経な唐津の頭を、いますぐさっきの鍋で叩き割ってやりたかった。

「しかし、莉乃さんも不思議な人ですよね・・そもそも、実は僕は、最初、莉乃さんのことを小バカにしていたんです。桟原さんたちと一緒になって、座敷わらしみたいな髪型してるとか、あんなのがマドンナだなんて、しけた職場だとか・・・。バスの中で言ってたりもしたから、たぶん、あの人にも一回くらいは聞こえたんじゃないかと思うんですけど・・・でもあの人は、積極的に、僕に話しかけてきた。それでデートを重ねているうちに、気づいたらこんな仲になって・・・なんだろう、不思議ですね。年上女の魅惑ってやつですかね」

 ちょっと女とヤリたいと思い始めたら、最初は小馬鹿にしていた女でも、実は悪くなかったとかいって、平然と付き合いだす。莉乃も莉乃だが、唐津も唐津である。

 なぜ、都合の悪い事実を、いとも簡単に忘れ去ることができる?なぜ、矛盾の上の成り立った幸せを、平然と受け入れることができる?

 執念深さという性質を持って生まれた俺には、奴らのご都合主義が許せなかった。奴らのおとぎ話を、ぶち壊したくて仕方なかった。

「言いにくいんですけど・・・実は、あの人は昔、蔵田さんのことを滅茶苦茶に言っていたんですよ。ストーカーだとか、目が殺人者っぽくて怖いとか、不審人物だとか・・・。だから僕もそれを信じて、最初は蔵田さんのことを敬遠していました。でも、話してみると、蔵田さんはとてもいい人だ。そして純玲さんが入ったころから、蔵田さんが段々みんなに受け入れられ出すと、莉乃さんは突然、蔵田さんへの評価を変えて、いい人だとか、面白い人だとか言うようになったんです。一貫性がないというか・・・・。わかりませんね、あの人は・・・」

 根拠のない悪口で散々に人をこき下ろしていたかと思いきや、職場内でそいつの立場が変わると、手のひらを返したように接し方を改める。天性の節操無し、筋金入りの二股膏薬。過去の都合の悪い事実をいとも簡単に忘れることにかけて右に出る者がいないのは、他ならぬおとぎ話の主人公、莉乃であった。

「まあ、そういう不思議なところも含めて、唐津くんは莉乃ちゃんのことが好きなんだろ。いい子だと思うし、大事にしてやれよ」
 心にもない言葉を――にんにく大魔人の言葉を借りれば、「自分が愛した女性の幸せを願う」ような言葉を吐いて見せた。

「ええ。なんだかんだ放っておけないところあるし、やっぱりあの、年上のお姉さんなのに、ピュアっていうギャップがたまらないし・・・。最後までいくかどうかわからないけど、大事にしますよ」

 なにが、最後までいくかわからないだ。俺はあの三十路女と、最後までずっと、人生というレールの上を走っていきたかったのだ。それを、途中下車前提の老朽化車両のように言いやがって。

 モテない男の米櫃に手を出し、生態系を乱す節操無しの貴様は、絶対に許さない。敵を深く恨めば恨むほど、復讐の炎は熱く燃え上がり、膨大なエネルギーを放出する。唐津をより深く恨むために、俺は口も腐る思いで、莉乃を大事にしてやれなどと言ってやったのである。

「もう遅い。そろそろ休もう」

 時計の針が二時を回ったところで、もう一度布団に入り、俺もようやく眠りについた。翌朝は、耳をつんざくような目覚ましの音で目を覚ました。五個、六個・・・・・十個。大量の目覚まし時計は、すべてギャンブル中毒の大島の枕元に置かれているようである。

「おーい、大島くーん。朝だよー」

「大島くん、おっはよ~!」

 隣の部屋の篠崎、増田が、唐津と一緒にやってきて、耳元で叫んで、大島を起こそうとする。あれだけ大量の目覚ましをかけても目を覚まさないとは、だらしないとかいう問題ではなく、なにかの病気なのではないのか?谷口たちは、三人で耳元で叫んでも、まだ起きようとしない大島を無理やり引きずり起こして、幼稚園の子供をそうするように、服を着替えさせた。

「すいませんね、うるさかったでしょう。大島くんは低血圧の影響で、朝が苦手なんですよ」

 笑って、苦手などといえるレベルではないだろう。それこそ、保護の対象ではないかと思うのだが、そんなにしても、健常者の世界で働きたいというのか。

「おう、みんなおはよう。蔵田さんと、唐津くんも。今日は俺が送っていくから、いつもよりゆっくり支度していいよ」

 谷口たちが作った、白米、ウィンナー、スクランブルエッグ、インスタントの味噌汁の朝食をとっていると、海南アスピレーション営業担当の吉沢が、合鍵を使って部屋に入ってきた。俺がやられたら不法侵入だと怒るところだが、谷口たちとはよほど深い信頼で結ばれているのか、普通に受け入れているようである。

「あ~あ~、大島くん、しょうゆかけすぎ。かけながら寝ちゃだめでしょ。大島くんは仕事はできるけど、ギャンブル狂と朝に弱いのだけはどうにもならないね」

 笑顔を浮かべる吉沢は、俺と唐津の後ろに腰を下ろす。

「実は僕も、大島くんと増田くんが入ってくる一年前まで、谷口さんたちと一緒に生活していたんですよ」

 吉沢の告白に、唐津が驚いて目を見開いた。

「僕も多動症でね。子供のころなんて、落ち着いて座ってられなくて、先生に怒られてばっかりだったんですよ。社会に出てからもやっぱり苦労したんですけど、海南アスピレーションは僕の適正をしっかり見極めてくれて、地道な手作業ではなく、アクティブに動ける運送業などの仕事を紹介してくれました。そこでの頑張りが認められて、今は営業をやらしてもらってるんですよ」

 昔を思い出した谷口と篠崎が、仲間の出世を心から喜んでいるように、口元を綻ばせて頷いた。
「世の中には自己管理ができないだけで、管理してあげれば一生懸命働く人もいる。世間はそれを知ろうともしない。知っていても、何の救いにもならないキレイごとを並べるだけで、食い扶持をくれることはない。彼らを本当に社会に繋ぐ努力をしているのは、うちの会社だけなんですよ」

 俺からすれば、そこまでして働いてどうするんだ、社会から認められる立派な障害があるならむしろラッキーだと思って、素直に保護を受ける道を模索すればいいではないかと思うが、なかなかそう考えられない、楽な道を選べないという、不自由な脳みその人間もいるのだろう。

 男らしさの病。世間から弱く見られたくないという気持ち。行政や他人の助けを借りることを恥と思う気持ち。侍の時代でもあるまいし、やせ我慢していたって、誰かが褒めてくれるわけでもないのに、受けられる支援も受けずに、自分だけの力で何とかしようとする。路上に放り出されて大変な思いをし、人から蔑視を浴びてもまだ、施しを受けるよりはマシなのだとのたまう。

 他人から見たら、バカバカしいプライドに縛られているようでも、意識を改めるのは大変だ。それは「信仰」なのだから。

 国家は自己責任論を垂れ流し、生活困窮者をバッシングして、「男らしさの病」を流行らせ、人が露頭に迷いやすい構造を作り出しておきながら、何の手立ても打とうとしない。

 人から助けられることを恥と思う「男らしさの病」を、お互いがお互いを助け合うという形で緩和してやり、社会へと繋いでやる。社会の誰も救おうとしなかった者たちの受け皿となり、少しでも人らしく生きられるようにしてやっている。

 「必要悪」である。ブラックな会社が己を正当化する言い訳の定番だが、果たして組合委員長である唐津は、どう受け止めるのだろうか。

「唐津くん、蔵田さん。どうでしょう。うちで正社員として、やってみませんか」

 俺たちの肩を後ろから叩いたのは、ユニークフェイスの男、谷口であった。

「・・・・・?」

 谷口は、突然の問いにうまく答えられない俺たちを座らせ、膝がぶつかるような距離で向かいあった。

「隠していて申し訳ありません。改めて名乗らせて頂きますが、海南アスピレーションを経営させて頂いている、谷口文雄と申します」

 それほど、驚きはなかった。丸菱の倉庫で、たった一日でほとんどの人間を味方につけてしまったことといい、見た目にも明らかなコンプレックスを意にも止めてないかのような器の大きさといい、谷口がひとかどの人物であることは感じていた。。海南アスピレーションのような零細企業なら、トップも足が軽く、問題が起きた現場に直接乗り込んで手を打つということができてもまったく不思議ではない。

 派遣労働者の身分で、社長の名前を一々覚えているような人間など、全体の一割もいない。労働組合委員長の唐津や、「あちら側」であることに命を賭ける深山などは、名前くらいは知っていただろうが、さすがに顔までは知らず、気にしたこともなかったようだ。

 谷口が社長だと聞いても驚かないが、その前の誘い・・・俺が寝ぼけていたのかもしれないが、正社員とかなんとか・・・。

「一体どうして、僕たちに声をかけるんですか?丸菱運輸の中でも、もっと仕事ができる人は沢山いますよ?」

「同じ派遣会社で働くのでも、いちスタッフとして働くのと、スタッフを管理するのとでは、求められる能力がまったく違います。いくら作業を一生懸命やるといっても、コブラさんや桑原くん、あるいは桟原さん、牧田さんといった方々に、広い視野が求められる管理の業務を任せても、円滑な遂行は難しいでしょう。その点、お二人はよくお勉強をされていますし、現実というものをよくわかっていらっしゃる。派遣という働き方の、これからの課題もよく理解しているあなたたちなら、あらゆる物事に、冷静に対処することができる」

 派遣の仕事に本腰を入れて頑張っている人間が、必ずしも有能であるとは限らない。一見、だらだらとサボりながややっているヤツは、好きでやっているわけでもない仕事はほどほどに手を抜きながらやって、余力を残して定時で上がり、家で自分が本当にやりたい仕事の勉強をして、スキルを磨いている人間かもしれない。

 派遣スタッフのやる気を十分に評価してくれる派遣先ならともかく、そうでない場合は、愚直なヤツや、派遣先に媚びるヤツは、いいように利用されるだけである。派遣の仕事では、長く働いたところで給料なんて上がらない。会社に搾取されたカネは、サボって取り返すしかない。建前上言わないだけで、派遣スタッフを管理、統括する立場の社員は、そんなことは当然わかっている。だから派遣で長年働いているくせに、派遣という働き方の本質も知らず、派遣先企業の見極めもできない深山は、こんな時にも名前すら上がらなかったわけだ。

「だけど、僕たちは、あなたに敵対している人間なんですよ?組合員を優遇して組合潰しを図るのならともかく、組合の主催者を引き抜こうとするなんて、聞いたこともないですよ・・・」

「私は、あなた方の熱意を買ったんですよ。力を持った者に臆さず、立ち向かう勇気。形成が不利になっても、すぐにはへこたれない覇気。それこそ、私が社員に求める、精神の強さです」

「もう、勤務に出る時間ですから・・・・」

 予想外にして魅力的な提案に動揺した様子の唐津が、俺を横目でチラチラみながら、誘惑から「逃げ」ようとする。

「今日は出勤扱いということにし、給料も出るようにします。どうですか、唐津くん、蔵田さん。海南アスピレーションは、まだまだ伸びていく会社です。我々と一緒に、頑張ってみませんか。こういうものも、すでに用意しています」

 谷口はアタッシュケースの中から、正式な正社員としての契約書を取り出し、俺たちの前に差し出した。組合潰しのための策略ではなく、本気で俺たちを、自分たちの「仲間」に誘おうとしているようである。

 結局、この日の午前中は、谷口から、今後、俺たちが海南アスピレーションに正社員として入社した場合の、キャリアプランについての説明を聞いて終わった。労働組合の主催者である唐津は、我が身に降りかかった青天の霹靂を素直には受け止めきれず、終始、困惑と後ろめたさが綯い交ぜになったような表情をしていたが、労働組合に何の思い入れもない俺は、谷口の説明を、純粋なビジネスの話として、冷静に聞くことができた。

 正社員という身分を、あたかも貴族のような特権階級のように思っているわけではない。確かに収入という面を考えれば魅力的だが、待遇が良くなる分、派遣に比べて大きな責任が生じ、労働時間も延びて、心身の負担が増大するという側面もある。

 俺は純玲と結婚する気でいるが、子供を作るつもりはない。生活するだけだったら、派遣の給料でもやっていける。正社員は安定した身分と言われるが、過労で心身を壊されるのなら、結果的には、派遣を長く続けた方が安定すると考えることもできる。

 正社員には派遣と違い、職業能力の開発と、履歴書上に記入できる実務経験を獲得できるというメリットもある。それを賃金の格差以上に重視する向きもある。

 日本の正社員は、欧米に比べて守られすぎ、固定されすぎという批判もある。終身雇用制は建前としてもすでに崩壊しているが、それでもまだ、日本の正社員の解雇に関する規制は強く、正社員の雇用を守ろうという慣習も根強い。

 それが必ずしも、正社員にとって幸せかといえば、そうともいえない。正社員の雇用を保護しようとするあまり、雇用の流動性を非正規社員に押し付けすぎているせいで、非正規社員の職業能力がまったく向上せず、業務を非正規社員にシェアできないことから、正社員の労務が過重化され、労務時間が異常に延びるといった問題も発生している。

 今後、時代の変化に対応し、正社員の解雇の規制が緩み、正社員も派遣同様の流動的な立場になる可能性もあるだろう。逆にいえば、派遣は待遇が改善されるかわりに、職務上の責任が増大し、「ぬるま湯」から上がらなくてはいけなくなる可能性もあるということだ。今後正社員としてやっていくにしても、派遣でやっていくにしても、ここで俺も一念発起して、社会で生きていく上で必要となる、汎用的なスキルを身に着ける必要性は、どうしてもあるのではないだろうか。

 やってみて嫌だったら、また一兵卒に戻ればいいだけ。海南アスピレーション正社員の話は、夢のように思うわけでも、冗談じゃないと撥ね付けようと思うわけでもない、普通に、前向きに検討してもいいかと思うだけの話だった。俺が気になるのは、自分のことよりも、谷口の誘いを受けて、唐津がどう感じたかである。

「で、唐津くんは、どうするんだい?」

 谷口と別れた後、ラーメン屋で唐津と一緒に食事をとりながら、俺は唐津に尋ねた。

「蔵田さんだから言いますが・・・。正直、社長の誘いを受けて、心が動いている自分がいます。まずいですかね?」

 唐津はあっさりと、本音を口にした。俺のことを、余程信頼しているということである。唐津に殺意を抱き、密かに復讐を誓っている、この俺をである。

 ふと、自分はそれほど、人間的魅力のある男だったろうかと考えてみる。この数か月間、復讐という目的のために動き始めてからというもの、俺は確かに、人から慕われていたようだった。純玲とは、短期間に結婚を約束する仲にまでなった。桑原も俺のことは、単なるビジネスパートナー以上の存在に見てくれているようだし、「金主」である東山も、なんだかんだ、俺のことを頼りにしてくれている。唐津同様、俺が密かに復讐を誓っている莉乃さえもが、今では俺のことを信頼して、部屋にまで上げてくれるようになった。魅力とまで言ってはおこがましいかもしれないが、俺が周囲から、毒気のない好人物と思われているのは間違いないようだ。

 俺は結構「イケる」などと自信をつけて、世間の風潮の中で頑張ってみようと思うことには、残念ながら繋がらない。今の俺が、周囲の人間から好意的な印象を抱かれているのだとすれば、皮肉な話だが、それは俺が、世間に対して復讐をするために動いていることが理由に違いないからだ。

 自分らしく生きている、という充実感。まったく皮肉な話だが、「復讐」という後ろ向きな発想が、逆に俺の人生にハリを与え、周囲から好意的に受け入れられる結果を招いている。中学時代、東山との「生存競争」――周囲からは、単なるイジメとしか捉えられていなかったマイナスの行為に夢中になった結果、俺が人望を獲得していたのと、まったく同じ現象といえるかもしれない。

 俺が「魅力的」でいられるのは、今だけのこと。莉乃と唐津への復讐計画が済めば、俺は純玲以外の誰からも好かれない、ずっといないものとして扱われるだけの、日陰者の暮らしに逆戻りである。一時的なものである以上、今、俺の身に起こっていることは、世間と手を結ぶ材料とはならない。

 誰の人生にも絶頂期というものがあるが、俺のそれは間違いなく、今、このときだとわかる。三十二歳、間もなく人生の折り返し地点を迎えようかという年齢で、生まれて以来、ずっと自分を虐げてきた世間にケジメをつけて、まったく新しい人生の扉を開く。目標に向かって突き進んでいる男は輝いてみえる。今まで、そんな熱血青春マンガのようなことを言うヤツのことをバカにしていたが、どうやら間違っていたのは、俺の方だったようだ。

「若い君には無限の可能性がある。今より上に行けるチャンスがあるなら、心が動くのも当然だろ」
「でも、僕は、みんなを・・・・」

「そりゃ、今まで君が、分捕られる側の立場にいたからさ。今まで君は、分捕られる側の立場として、ベストを尽くしてきた。それはそれで、誇りにしていいことだ。立場が変われば、主張も変わる。今度は分捕る側の立場として、ベストを尽くせばいいじゃないか」

「・・・・今まで正社員になるなんて、雲を掴むみたいな話だった。この先六十年もある僕の人生は、永遠に閉ざされたままだと思っていた。だけど、今回こういうチャンスが舞い込んできた。また考え方が違ってきても、仕方ないですよね。みんながもっと、僕に協力的だったらまだしも、もうあんまり、やる気もないみたいだし・・・・」

 俺のフォローを真に受けた唐津が、自分の希望を正当化するような言葉を口走り始めた。まだ本決まりではないものの、八割方、谷口の誘いを受ける方向に気持ちが傾いているようである。

 それでいい。過去の都合の悪い事実を平気で忘れて、目の前の快楽に邁進できるご都合主義。俺がもっとも気に入らない貴様のその性質を、これからもずっと貫いていればいい。

 唐津が最終的にどのような決断をしようが、復讐という俺の路線が変わるわけではないが、どれほどのモチベーションでそれに邁進できるかは変わってくる。唐津が自分の欲望に正直になればなるほど、俺は唐津への怨念を、より熱く燃え上がらせることができる。唐津が俺の気に入らない唐津であればあるほど、より冷徹に、唐津を仕留められるようになれる。

 谷口たちと一晩を共にして見聞きした出来事は、その日のうちに、唐津のメールによって、組合員に伝えられたが、唐津と俺が正社員に誘われたことについては、ひとまず伏せられた。唐津は内心はどうあれ、表向きは、いまだ労働組合の委員長として、会社と戦っている形をとったのである。

 優柔不断と、唐津を笑うことはできまい。他の会社の正社員になるから労働組合を抜けるというならともかく、今現在、直接戦っている企業に正社員として就職しようというのである。無論、谷口も就職後、唐津を即刻別のエリアに移してくれるなどの便宜は図ってくれるのだろうが、いつかどこかで、かつて丸菱で一緒に働いていた連中と顔を合わせないとも限らない。一度決断を下してしまえば、案外あっさり開き直れるだろうが、今日明日でスタンスを明確にするというのは、なかなか難しい話であろう。

 結局、翌土曜日には、予定通り街宣活動が行われることになったのだが、ここで驚くべき事態が発生した。当初、唐津、莉乃、俺、松原の四人のみで行われるはずだった街宣活動に、組合員のほぼ全員が参加したのである。

「私が昨晩、みんなを説得したんです。もう一度、立ち上がりましょう。東山を、倒しましょうと言ったんです」

 どうやら、ジャンヌダルク莉乃の懸命の呼びかけによって、組合員たちは、なくなりかけていた闘志を少し取り戻したようであった。

「本当は、今日の街宣は中止にするつもりだったんですが・・・困っちゃいましたね。蔵田さん、どうか昨日の件は、ご内密にお願いします」

 谷口からの正社員の誘いに心が動きかけている唐津が、苦笑いしながら言う。唐津の肉体を繋ぎとめるだけの目的で労働運動に参加している莉乃には、真実を打ち明けてもよかったはずだが、唐津は自分の女を信じ切れなかったようである。

「みなさん!私たちの働く職場には、Hという酷い男がいます!Hは、私に、えっちなことをしました!Hは、私のおしりを触ってきたのです!Hは、嫌な男です!Hを倒そうとする我々に、力を貸してください!」

 第二回街宣は、肝心の唐津に覇気が見えないものの、いまだ愛する唐津が労働組合の活動に熱心だと思い込んでいるジャンヌダルク莉乃の奮起によってまずまずの盛り上がりを見せ、終了後には、集会の名目で飲み会も開かれた。

「今日もこうして街宣活動を行いましたが、依然、丸菱運輸側は、団体交渉に応じる構えを見せません。もしかしたら、丸菱の職場環境を改善させるのは、難しいのかもしれません。一方、海南アスピレーションからは、来週の団体交渉を前に、次のような妥協案が提示されました」

 唐津が携帯のメールを見ながら読み上げたのは、今後海南アスピレーションは、スポット以外の長期派遣に関しては、家出報告と終了報告を撤廃すること、申告があった場合、これまで払った罰金や未払いとなっている残業代を返還すること、派遣スタッフに派遣先企業とのトラブルがあった場合、親身になって相談に乗るのを約束することの三点であった。

「みなさんに特に依存がなければ、来週の団体交渉の席で、海南アスピレーションとは手打ちということにしようと思うのですが、いかがでしょうか」

 松原以下、労働組合に加入している連中は、唐津の提案に納得した様子で頷いた。

「わかりました。続いて、丸菱運輸の方なのですが、海南アスピレーションの方から、行き過ぎた指導に関しては、今後、十分な改善を依頼するので、なるべく寛大な処置を願いたいという要望が出ています。海南アスピレーションと手打ちし、みなさんが今後も海南アスピレーションで働いていくのなら、ある程度、会社の要望も聞かなければならないでしょう。ただ、あれだけのことをされて、このまま矛を収めるというのも、みなさん納得いかないと思います。こうなったら、東山にだけでも、なんとか社会的な制裁を与えましょう。東山さえ倒せば、僕たちの勝ちといってもいいはずです」

 当初に比べ、やけに志の小さくなった唐津の魂胆は、非を見るよりも明らかである。すでに海南アスピレーション正社員の地位を得ることに気持ちが傾いている唐津は、東山の首を獲ったという形で、自分が起こした労働争議に収拾をつけようとしているのだ。本当は東山のことさえもどうでもいいと思っているのだろうが、唐津にも罪悪感と羞恥心というものがあり、最低限、自分が起こした騒ぎにケリをつけるため、誰かに腹は切らせなければならないと思っているのである。

 おそらくは、谷口とも、すでにそれで話がついているのだろう。唐津が自分の人生を切り開くため、海南アスピレーションと丸菱運輸の契約を守るため、一人東山がスケープゴートになろうとしているのである。

「そうだよな。考えてみれば、俺らに直接嫌な思いをさせていたのはほとんど東山だし、東山さえ倒せればいいかもな」

「ここで東山をクビに出来れば、後任のヤツも大人しくなるだろうし・・・無理して大きな敵を倒さなくても、確実に勝てるヤツに勝っておけば、それでいいのかも」

 もともと熱が冷めかけていたこともあり、労働組合の連中は、唐津の唱える妥協案を、あっさり飲んでしまった。これなら、東山を許してやっても問題はなかった気もするが、唐津もこれで、吐いた唾は飲めなくなった。

 彼らも彼らで、活動を辞めたいのはやまやまだが、一度参加を表明した手前、なかなか正直には言い出せなくなっているという状態である。唐津と労働組合の連中が、お互いに本音を言う勇気があれば、東山も助かったかもしれなかった。それぞれの思惑を抱えた連中が、中途半端に「落としどころ」を探しあった末、東山一人を破滅に追い込むという結論に達してしまったのである。

 それでも、俺が仲介してやれば、今すぐにでも不毛な労働組合の活動を終わらせ、東山を救うことも可能だろう。しかし、何か腑に落ちないものがある。

 俺にとって本当に重要なこと・・・俺の未来に、本当に必要なこと・・・。

「・・・・・すみません。どうか、このビラを、もらっていただけませんか!」

 酒宴が三十分ほど進んだところで、莉乃がなにを思ったか、通夜のような雰囲気だったテーブルをいきなり離れ、隣のテーブルで酒を飲んでいた中年男の一団に、労働組合のビラを配り始めた。
「私たちの職場に、東山というひどい男がいます!こいつが、みんなを毎日、いじめているんです!どうか、こいつの悪事を知ってください!こいつを許すわけには、いかないんです!」

 おかっぱ頭を振り乱し、声を震わせながら、酒で顔の赤らんだ莉乃が、見ず知らずの中年グループに熱弁を振るう。

 丸菱、海南という「敵国」を倒すことは諦め、「前線司令官」である東山に腹を切らせることに目標を絞った唐津に対するのアピール。二十歳の新鮮な男根を繋ぎ止めるためとはいえ、ここまでやるか。嫉妬を通り越し、呆れるしかなかった。

「すみません、この子、酔っぱらってるんです。すみませんね」

 松原が、とうに「子」とは呼べない年齢の莉乃の肩をつかみ、自分たちのテーブルに引きずっていった。

「圭一くん・・・莉乃は、どんなことがあっても、圭一くんの味方だからね。どんなことがあっても、圭一くんのために、莉乃、頑張るから。圭一くんのために、莉乃、東山をぜったいぜったい、ぜ~ったい、倒してやるんだから」

 酔ってまどろみかけた莉乃が、隣の席の唐津にもたれ掛かりながら、恥ずかしくなるような甘えた声で愛を語ると、唐津が健気な莉乃の肩を、黙って抱き寄せた。恍惚の笑みを浮かべる莉乃。微笑ましく眺める、松原ら労働組合の連中。若く美しい唐津との愛を周囲に見せつける、莉乃恍惚の瞬間。

 憎らしかった。ぶち壊しにしてやりたかった。今すぐ、唐津を足腰立たなくなるまで殴りつけ、柱に縛りつけたうえで、莉乃の服を脱がせ、昨晩から洗っていないヴァギナにむしゃぶりつき、尻に付着した糞をなめとってお掃除をしたうえで、いきり立ったものをぶち込み、俺の子種を莉乃に植えつけたかった。莉乃に俺の子供を産ませたうえで、その子供を莉乃自身の手で絞殺させたかった。莉乃の乳房から噴出する芳醇な母乳を飲みたかった。

 俺のプライドを、ぐちゃぐちゃに潰した女――愛する女よりも、憎い女を犯すときを想像するときの方が、遥かに興奮した。唐津を殺し、莉乃を強姦したいのは山々であったが、俺の愛する女に免じて、荒事に及ぶのはやめてやるとする。

 俺にも、純玲との生活がある。俺にも、純玲との未来がある。獄に繋がれるわけにはいかない。だが、貴様らを見逃してやるわけにもいかない。

 俺の敵は世間。俺はずっと、俺を虐げてきた世間をぶち壊してやりたかった。この世間の風潮をありがたがる奴らを、皆殺しにしてやりたかった。

 純玲を手に入れたことで――こんな俺にも、人並みの幸せは許されていることがわかったことで、
自分の人生を犠牲にしてまで、世間と戦う必要はないことがわかった。大犯罪はしなくてもいい――世間との「大戦」は避けられた。

 でも、何もしないわけにはいかない。「和解」はあまりにも遅すぎたのだ。ここまで傷が深くなってから「和解」を持ち掛けられても、はいそうですかと納得はできない。すべてを水に流すことはできない。世間にどでかい糞をまき散らす必要はなくても、指先についた糞を擦りつけるくらいのことはやらなくては、俺は先に進めない。それくらいはしないと、俺が三十二年も味わってきた屈辱の日々を納得することはできないし、これから上がり目のない貧乏暮らしをずっと受け入れて生きていくこともできない。

 俺に糞を擦りつけられるのが、莉乃と唐津だ。唐津は東山をスケープゴートにしたつもりかもしれ
ないが、本人が気づかない間に、唐津自身が、世間のスケープゴートになっていたのである。

 莉乃と唐津は、俺が憎む世間そのもの。何もかもをキレイごとで片付けようとする、ご都合主義のこいつらの目に映っている世界は、俺が憎む世界そのものだ。

 こいつらに何らかの不快な思いをさせられれば、間違いなくそれは、強大なる世間に一矢を報いた証明になる。純玲という、俺が未来を共に歩む伴侶を得たのとまったく同時に、俺が世間にケジメをつけるための相手までもが目の前に現れてくれたという運命に、深く感謝したい。

「莉乃は、圭一が大好きなんです。莉乃は、圭一を守るんです。圭一も、莉乃を守ってくれますか?」

「うん、守るよ。莉乃さん、今日はもう、帰ろうか・・・」

 今のうち、せいぜい楽しんでいるがいい。俺が貴様らに、この世では、キレイごとでは絶対に解決できないことがあることを教えてやる。忘れたくても忘れられない、都合が悪い真実というものを突き付けてやる。

 俺の敵は世間。こいつらは世間。

 飲み会がお開きになり、家に帰った俺は、こんなこともあろうかと前もって調べておいた、他人名義の携帯電話を販売する闇の業者にコンタクトをとった。


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海南アスピレーションは障害者に優しく思ったよりいい会社のようですね。
谷口はやはりただ者ではなかったですね。
唐津はどうやら正社員になることで意志が固まったようですね。
蔵田の方はどうなんでしょう?
しかし莉乃は32才のオバサンでこの子などと言われかなり痛い女ですね。
まぁ~知的障害の莉乃はなんとも思っていないでしようが…

No title

まっちゃん さん

 労働関係についての記述については私自身、頭でっかちになっている部分もあったと思います。話の都合上のこともありますがもし直す機会があるならもう少し現実的に書いてみたいですね。

 30代前半は女にとっては曲がり角ですね。努力してる人は実年齢以上に若く見えますが努力してない人は実年齢以上に老けて見えます。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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