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外道記 改 11

「なんだー、貴様らー!」

 朝礼の終了後、唐津から団体交渉の要求を突き付けられた東山が、カマキリ顔を真っ赤にして怒りを露わにする。唐津率いる労働組合と、丸菱運輸、海南アスピレーションの全面抗争が、いよいよ始まったのである。

「生意気なことやってんじゃねえっ。何なんだ、貴様らはあっ!」

「・・・・ですから、一か月後、我々はお宅の会社と、我々の派遣元である海南アスピレーションを相手取って、団体交渉を申し入れると言ってるんです」

 ゴリラ同然の東山に、調教師のような唐津が、淡々と返答をする。その様子をうっとりと見つめる莉乃――俺の心の中の、殺意の炎が迸る。

「東山先輩!頑張ってください!」

「東山職長!俺はコイツらの仲間ではありません!信じてください!」

 東山に憧れる桑原と、労働組合に入っていない深山は、東山の援護に回っている。桑原は一応労働組合の一員だが、東山個人と敵対する意志はないことは、唐津ら組合員たちも承知の上である。それでも、俺も含めて組合員に名前を連ねている以上は、東山から見れば敵ということになるのだが、そのことについて東山本人には、俺と桑原は労働組合の内情を把握し、あわよくば解散に追い込むために敢えて潜り込んだだけだということを、すでにメールで伝えていた。

 海南アスピレーションや丸菱運輸という会社にはともかく、東山個人に対しては、俺は個人的恨みがあるわけではなく、むしろ保護したいと思っているのは本当だ。莉乃、唐津への復讐を成し遂げた先にある俺の新しい人生を少しでも充実させるために、東山には、まだまだ金を吐き出してもらわなければならないのである。

「このガキ!お前は仕事をなめてるのか!」

「なめてなんかいませんよ。百歩譲って、僕たちが仕事をなめているのだとすれば、あなたは人間という生き物をなめている。だからこうして、徹底的に戦おうとしているんです」

 少年時代に、一度完膚無きまでに勝利している俺でさえ威圧される、百九十センチ、百十キロ級の東山と対峙して、一歩も引かない唐津。彼の胆力を支えているのは正義感だけではなく、承認欲求である。十八年もの間、親だと信じていた人間たちにある日突然捨てられた唐津は、人から必要とされたい欲求に飢えている。資格取得、就職活動などして自分自身がのし上がるのではなく、人を助けることで、自分の存在価値を必死に見出そうとしているのだ。

「お前らは、自分の立場をわかってるのかあっ!」

 傍に積まれた段ボール箱に鉄槌を落としながら怒鳴り散らす東山の貌は、坊主頭の隙間から見える頭皮まで真っ赤に染まり、目はつり上がって、半ば白目を剥いてしまっている。山里愛子が今わの際に見た東山の貌も、こんなに恐ろしい形相だったのだろうか。

「我々は派遣会社から派遣されたスタッフです!東山職長に意見をするなど、滅相もありません!」

「我々は東山先輩を尊敬しています!東山先輩は超かっこいいです!」

 東山の発言は必ず拾わなくてはいけないと思っている深山と桑原が、頭に血が上った東山の、意味のない言葉にまでいちいち生真面目に反応してしまう。東山は相手にしないよう自分に言い聞かせているようだが、二人の言動に苛立ちを募らせているようである。

「お前!ふざけんじゃねえ!」

「そうだ!お客さん相手に、ふざけたことやってんじゃねえ!仕事は遊びじゃねえんだ!」

「東山先輩!俺は少年院時代には人にカンチョーをしたり、ズルパンをしたりしていましたが、東山先輩に殴られたときからしていません!俺をふざけない人間にしてくださり、ありがとうございました」

「俺はっ、そういう、そういうことを言ってるんじゃねえっ!会社は、会社を、会社というものは!どういうものかわかってるのか!」

「会社というものは・・・・・・・・やりがいをもち、仕事に誇りを持って、働くところです」

「会社というものは・・・・・・・・みんなで、働くところです」

 餅をつく人とこねる人のような絶妙な間合いで、桑原と深山が東山を援護する。あわよくば、このままプッツンきた東山が、唐津と莉乃を殺してくれないものか――そんな期待が思わず湧いてくるほど、東山は平常心を失っているように見えた。

「うるせええええええっ!」

 激昂した東山が、唐津に歩み寄った勢いが余って、つい胸で、唐津を押し倒してしまった。うるさかったのは唐津ではなく、東山の味方である桑原、深山であったはずだが、興奮した東山は、敵味方の区別がつかなくなってしまうのである。

「唐津くん!」

 莉乃が、ここが絶好のアピールポイントだとばかりに、唐津に駆け寄って、背中に手をやり、起き上がるのを助けた。

「東山さん、自分の嫌なことを言われたからって、暴力をするのはいけないことです!唐津くんに、謝ってください!」

「そうだ!謝れ!」

「俺たちがいつまでもビビってると思うなよ!」

 か弱い莉乃が、凶暴な東山に敢然と立ち向かう姿に俄然勇気づけられた派遣スタッフたちが、東山に反抗の声をあげた。いにしえの英雄「ジャンヌ・ダルク」に自身を重ね合わせているのだろう。莉乃が興奮して身震いしたのがわかった。

「東山さん・・・。僕たちはね、あなたのことは刑事で訴えようと思ってるんですよ。今みたいなこと、僕たちに対してずっとやってきましたよね?丸菱運輸という会社の中ではそれで通用したのかもしれないですが、一歩外に出たとき、その行為が法律でどういう風に扱われるか、そろそろ身をもって勉強した方がいいですよ」

 歯噛みして悔しがる東山。おそらくは、今まで舐め腐っていた派遣労働者から、こんな風に面と向かって反抗されるなど、予想だにもしていなかったのだろう。

 人材が、まさに流れるように出入りしていく派遣労働は、必然的に、横のつながりが希薄になる。孤独は、人間をどこまでも不安にさせる。派遣先において、派遣先や派遣元に媚びを売る深山のようなヤツが幅を利かせていれば、会社に不満があっても、自分の方が間違っているのではないかという気になってしまう。組織と対決することを考えたとしても、誰も仲間もいないのでは、なかなか立ち上がれないものだ。

 そもそも、戦うメリットがない。派遣会社が紹介してくるような職場の条件に、戦ってまでしがみ付きたいという人間は稀有である。不当な賃金搾取に対しての訴えや、残業代の不払いなど、いくらかでも金が取れるというならまだしも、傷つけられた名誉を回復するためだけに無理をしてまで戦うよりは、泣き寝入りして次を探した方がいいと考える。派遣という働き方をする者は、いつしかそうした境遇を当たり前だと思い込み、そうすることに慣らされてしまう。

 しかし、ここで例外が現れた。唐津という求心力のあるリーダーが、バラバラだった派遣スタッフの意志を結束させた。それぞれが過去の人生の中で、力ある者に痛めつけられ、尊厳を踏みにじられても声をあげず、部品のように労働市場を右から左に流されることに慣らされていた派遣労働者が、失ったプライドを取り戻し、人として真っ当に扱われ、人間らしく働けることを要求し始めたのである。

「僕たちの望みはただ一つ。自分たちのため、後から入ってくる海南アスピレーションのスタッフのために、この職場の労働環境を改善したいだけです。僕たちの要求を、あなたがそうやって感情的に撥ね付けるのなら、それは自分たちが酷いことをやってきたのを認めているのと同じことだ。もしあなた方に後ろ暗いことがないのなら、堂々と団体交渉のテーブルにつけ。自分たちが間違っていないというのなら、それを話し合いの場で証明してください」

「こ・・・のっ」

 俺はこのタイミングで、額に青筋を浮かばせ、今にも唐津に殴りかかりそうな勢いの東山に向かって顎をしゃくって見せ、一旦作業場を退出した。トイレに向かうふりをして、ゆっくりと廊下を歩いていると、俺のサインを受け取った東山が、すぐ後を追ってきた。それから東山の案内で、作業場である倉庫から百メートル離れたコンテナへと向かい、中で二人きりで話し合いを始めた。

「なあ、なんであんなに激怒しちゃうんだよ。あれじゃ、アイツらだって余計に突っ張るだけだぜ。この先の交渉を優位に進めたいんだったら、取りあえず暴力については謝っちまった方がいいぞ」
「・・・・謝らん。俺は絶対に、謝ったりはしない!」

 俺のアドバイスに、東山は首を縦に振らず、頑迷にも意地を張り通すことを宣言する。この男の病的なまでの頑なさの理由が、俺にはわかる。

 君を守り隊――。東山はいま、中学時代、イジメ撲滅のための活動にすべてを賭けて取り組んでいた自分の姿に、唐津や莉乃の姿を重ね合わせているのだ。あのとき、弱い者を守るヒーローのような存在だった東山が、皮肉にも今、かつて己が悪の権化のように言っていたイジメっ子として、袋叩きに合っている。その事実を、東山の小さな脳は受け入れられないでいるのだ。

「俺は・・・俺だって昔は・・・この事業所に転勤になる前は、アイツらを・・・派遣で来てる奴らを、同じ仲間として扱ってきた。派遣も正社員も差別はせず、同じ作業員として見て、一緒に働いてきた。優秀なヤツには、正社員と同じ仕事を任せたり、リーダーをやらせたりと、高いレベルの仕事を与えてやった。ときには、俺たちの飲み会に参加させたりもした。なのに・・・アイツらは、ちっともやる気をみせない。残業にも協力しないし、勝手に休みを取る。挙句の果てには、他の派遣先に行くと言って、辞めてしまう。俺があんなに一生懸命に面倒を見ているのに、アイツらは・・・」

 あまりにも身勝手な理屈に、開いた口が塞がらなかった。本気で言っているなら、東山は会社でもそれなりに責任ある立場のくせに、基本的な雇用の形態について、まるで理解していないということになる。

「お前…マジで言ってる?俺らは派遣で来てるんだぜ?給料が少ない代わりに、会社に縛られず、ある程度の自由が保障されている。過度の責任も期待もされない。言われたことだけやってりゃいい、気楽な立場。派遣労働者ってのは、そういうもんだろ?そりゃお前らだったら、年数勤めりゃボーナスや退職金は上がっていくだろうし、頑張り次第で多少は給料も上がるだろうが、俺らはどんなに頑張ったって、どんなに長く勤めたって、もらえるカネは増えりゃしねえんだ。身も蓋もねえ言い方をすりゃ、頑張ったら頑張っただけ損をするのが、俺たちの立場だ。会社にボったくられてる分の給料を取り返すには、適度にサボって楽をするしかねえ。お前の言う優秀なヤツらってのは、そういうことを知ってっから、派遣に変なやる気や積極性を求めるお前の異常性に気づいて、すぐに辞めていくんだぜ」

「仕事というのは、ゼニカネだけではないだろう。その仕事をすることにより、どれだけ自分を高められるか・・・生きている実感・・・仕事のやりがいを感じるかどうか・・・俺は成長の喜びを与えてやろうと思って・・・それなのに、アイツらは幾ら言っても俺の気持ちをわからない。散々に煮え湯を飲まされ続けてきた。だからもう、仲間とは見做さなくなったんだ」

「あのなあ、世の中はみんながみんな、お前と同じ考えじゃねえんだよ。職能給と職務給の違いってわかるか?この国では同じ仕事をしても、雇用契約の内容によって給料に差ができちまう。もらえるカネが上がらないのに、負担だけ増やされたら、誰だって嫌な思いするだろうが」

「俺は、そうは考えない。俺には俺の信念がある。派遣だろうが、俺と同じ職場で働くなら、俺の考えに従ってやってもらう。俺もそこまで小さな男じゃない。アイツらが考えを改めれば、受け入れる準備はある」

 大きなため息が漏れる。いくら説得しても、暖簾を押すように、豆腐を潰すように、手ごたえが何も伝わってこない。

 一卵性双生児のような、俺と東山。自我が強すぎ、何物にも染まれないという点において、俺と東山はまさに瓜二つである。東山と俺はよく似ているが、しかし、排他性が強すぎ、自分と考えの違う人間すべてを攻撃せずにはいられないという特徴は、俺にはない東山独自のものだ。

 俺はけして、自分がすべて正しいと思ってはいない。「悪」にも色々あり、「悪」の基準を「性格の悪さ」とするなら、莉乃を筆頭に俺より悪いヤツはいくらでもいると思っているが、「悪」の基準を「社会不適応」に置くなら、俺は莉乃など足元にも及ばない極悪人である。

 俺は世の中には自分とは違う正義もあり、自分とは違う悪もあることをわかっている。全体をバランス良く見た上で、どうしても戦いが避けられない相手とは戦い、手を握れる相手とは手を握るということができるが、東山は、自分がすべて正しいと思い込んで、自分と少しでも考えの違う相手を、すべて敵視している。だから、相手の主張を理解しようともしないし、相手の言い分をある程度認めたうえで、妥協案を探っていくということもできない。良くも悪くも「宗教家」であり、政治的に物事を考えることはできない男である。

「お前の考えはわかったよ。でもよ、お前も今の立場がやべえってことくらいはわかるだろ。アイツらを仲間と見做さねえのは勝手だが、お前はやりすぎなんだよ。お前は良くっても、家族はどうすんだ?子供はもうすぐ小学校上がるんだろ?今の職を失って、やっていけるのかよ」

「・・・・・」

 でかい体を縮め、俯いて口ごもる東山。最低限の現実認識はあるなら、まだ話は通じる。

「この件に関しては、俺に任せろ。なんとか、お前にとって悪い結果にはならねえように努力してみる」

「・・・本当か?」

「ああ、もちろんだ。だってよ、俺の暮らしはお前がいねえと成り立たねえんだぜ。お前がもしアイツらのせいで職を失ったら、俺だって路頭に迷うしかねえ。お前と俺は一蓮托生なんだよ」

 この男にはずっと、俺の金づるでいてもらわなくてはならない。俺が未来への扉を切り開くために、東山にもしものことがあってはいけない。

 俺にとってはむしろ、これは大きなチャンスである。丸菱運輸という会社自体を訴えることについては唐津に全面的に協力したうえで、東山個人への処遇は緩和させるように善処する。その結果、東山の俺への信頼は盤石のものとなり、俺の口座に物も言わず金を振り込むロボットが誕生するのだ。

 コンテナでの話し合いを終えると、東山はデスクワークを済ませに、事務室へと向かっていった。俺は作業場へと戻り、いつものように、純玲と同じテーブルで作業を始めた。

「おい。純玲、どうした」

「うん・・・月のものが重くて・・立っているのがしんどいんだよ」

「顔色が悪いぞ。あんまり具合悪いようなら、早退しろよ。おい、中井くんよ。彼女、体調が良くねえんだ。今日は帰してやってくれよ」

 俺は東山の忠実なる下僕、中井を呼び寄せて、純玲を帰してやるように頼んだ。東山同様に首筋が冷たい立場にある中井は、東山と違って大いにビビッているようで、嫌味ひとつ言うことなく了承した。

「純玲ちゃん、女の子は具合が悪かったら、生理休暇っていうのも取れるんだからね。具合が悪かったら、遠慮なく休んでいいんだからね」

 副委員長の松原が、ここぞとばかりに、女の権利のことを純玲に教える。

「え・・。そういうのあるんですか?」

「そう。忌引きと同じで、それを行使するのを赦さなかったり、行使することで労働者が不利になるようなことを会社がするのは禁止されているの。有給じゃないからお金は出ないけれど、会社が福利厚生の一環としてお金を払う分には何も規制はない。まあ海南アスピレーションの場合は出ないから、お金をもらいたかったら、有給と併用するしかないけどね」

「そうだったんですか・・・知りませんでした」

「そんなこと、学校じゃ教えてくれないからね。仕方ないよね」

 学校の教科書に載っていなくとも、書店で入門者向けの本を読めばすぐわかることなのだが、それは本をよく読む者の言い分であり、活字に縁のない者が多い派遣の非正規労働者にとっては、たとえ己の権利、利益に関わることであっても、一冊の本を読むという行為は簡単にできることではない。

 派遣労働者の中には、非正規は有給休暇をもらう権利がないと思っている者すら大勢いる。派遣会社に三年四年勤めてから初めて知って、二年前にとった有給の分についてはすでに失効していた事実を突きつけられ、天を仰いだなどという信じられない話は枚挙に暇がない。

 派遣会社に契約を突然切られ、あと一週間で新しい住処を見つけないと寮を追い出すと言われても、通常の賃貸借契約の相場とほぼ同額の家賃を収めている場合、六か月以上前の予告がなければ追い出すのは違法だということを知らないために、むざむざと住所不定無職者となってしまう者もいる。そういう人間には社会保険の存在すら知らない者も多く、自力で生活保護の手続きも取れないから、そのままホームレスになるしかない。

 いまどき簡単な法律くらいは、わざわざ本を読まなくても、ネットで一発検索をかければすぐに調べられるが、それは情報ツールを使える側の言い分であり、世の中にはまだまだ、パソコンやスマホを使いこなせない者など大勢いる。情報ツールの発展は、人の知識を豊かにしたのではなく、ツールを使いこなせるものと使いこなせぬ者との間に格差を生んだだけであった。

 何事も、できる者の基準で考えてしまうと、見方は歪んでしまう。情報弱者を自己責任と嘲笑うのは簡単であるが、労働者の権利や、世の中の最低限のセーフティネットについては、やはり基本的な知識も教えようとしない学校の罪も重いだろう。中学なり高校で、一時間でも二時間でも時間を作って子供に教えていれば、そのときは理解はできなくとも、いざ困ったとき、あのとき先生が教えてくれたことをもう一度調べてみよう、となる。しかし、存在すら知らなかったら、調べてみようとすら思えない者が出てきても、無理はないのではないか。派遣切りされた若者がなぜ貯金をしていないのか、危機管理が足りないのではないか、などという自己責任論は、そのまま「政治無責任論」に結びついていくのである。

「すみません。では、お先に失礼します・・・」

 純玲が皆に挨拶をして、作業場を後にしていく。本当に具合が悪そうである。寝不足なのか、目の下のクマが大きくなっているのが特に気になる。生理ならば、逆に眠気が酷くなるはずなのだが・・・。

「姉さん、大丈夫ですかね・・・。ところでアニキ。未確認生物、にんにく大魔人の噂を知っていますか?」

「・・・・・にんにく大魔人だと?」

「ええ・・・。これは俺の所属する右翼団体の仲間から聞いた話なんですが、なんでも近頃、繁華街の駅前を、怪しい男がうろついているそうなんです。仲間によれば、その男は力士のような体格をしており、近づくと凄まじいにんにくの臭いがするそうです」

 にんにくの強烈な臭いを発しながら街中を闊歩する、力士のような男・・・。俺はひとり、その特徴に合致する男を知っている。てっきり、すでに自ら命を絶ったものだと思っていたが、もしあの男が生きながらえ、未だこの地に留まっているとすれば、その未確認生物、にんにく大魔人の正体は、まさしくあの男に違いない。

 しかし、にんにく大魔人があの男だったとして、ヤツの目的は一体、何なのだろうか。俺や純玲、あるいは莉乃に復讐する機会を伺っているのだろうか。だが、そうだとして、なぜにんにくの臭いを発散させているのか、その意味がわからない。吝嗇なあの男が、食品というより調味料であるにんにくを大量に摂取するのは、下半身を使用する目的があってのこととしか考えられない。それが、俺たちに危害を加えることとどう関係してくるのか。莉乃や純玲を強姦することを考えているのだろうか・・。

「これは近々、探索に乗り出す必要がありそうだな。協力してくれるか、桑原よ」

「ええ、もちろんです。この地の平和を乱す怪物は、退治しなければいけませんからね」

「おう、期待してるぜ」

「はい。そのかわり兄貴も、ちょっと俺に協力してください」

 桑原が俺に何やら耳打ちをし、数日前より計画していた、とある人物への意趣返しを行うため、俺に協力してほしい旨を申し出てきた。桑原を後々、暴力装置として利用することを考えている俺は、彼の頼みを快諾した。

「よう。人数が少なくなったからよ、こっちに混ぜてくれよ。楽しくやろうぜ」

 簡単な作戦会議を終えると、俺と桑原は連れ立って、以前、莉乃の家で行われた結成大会の日、チョコチップクッキーに鼻くそを詰めた件で桑原と喧嘩をした、桟原が作業をするテーブルに移っていった。桟原の隣りには、つい最近入ってきたばかりで労働組合には加入していない、三十五歳の牧田がおり、四人でひとつのテーブルを囲んで作業する形である。

「ああ~。ったりい・・・。おい、桑原よ。退屈だな」

「ええ、まったくです。東山先輩がいない作業場には、人が人として生きるうえで大切な、何かが欠けているとしかいえません」

 べらべらとおしゃべりをしながら、俺と桑原は、桟原が三個箱を作るペースでようやく箱を一個作るという、あからさまに手を抜いた作業をして見せた。桟原の前で、散々、おしゃべり、遅延作業を繰り返した後、桑原は突然、バック宙を始めた。

「いってぇっ。痛ぇよおゥっ」

 バック宙を決めようと飛びあがった桑原は、空中で回転中に、テーブルの角に頭をぶつけてしまった。

「アニキ!俺の頭皮が!テーブルの角に!ゾリって剥けて、ほら!皮が血と、毛と一緒に、テーブルの角に付いてる!」

 騒がしくする俺と桑原に、テーブルの向かいにいた桟原が歩み寄ってきて、片方ずつの手で、俺たちの胸倉をつかんできた。

「てめえら、うっせえんだよ。あっち行ってやれよ」

 イタズラはするが、仕事はちゃんとやる――本人が言うところの「メリハリ」を大事にしているという桟原にとって、俺と桑原の仕事中のおふざけは許せないものであったらしく、一触即発の事態となってしまった。勿論、これこそが、俺たちの狙い通りの展開である。桑原は、もともと火種が燻っていた桟原と決着をつける機会を窺っており、わざわざ同じテーブルについて、桟原をずっと挑発していたのだ。

「なんだァこの野郎!俺は痛ぇのに怒ってんじゃねええっ!」

 逆切れした桑原が、桟原の胸倉をつかみ返し、地面から三センチほど持ち上げて見せた。怒りに我を忘れたときの桑原は、東山と同じ三白眼になり、味方である俺でさえ足が竦むほど恐ろしい。まさしく、リトル東山といった風情であった。

「やめろぉっ、お前らっ!お客さんの前で、恥ずかしいことしてんじゃねえっ」

 さあ出番だ、とばかりに喜び勇んでやってきたのは、いまだに派遣スタッフのリーダーを気取る、深山である。派遣スタッフ同士の争いを憂いているようだが、内心は自分がアピールするチャンスができてうれしいのだろう。お客さん、と言い方は、海南アスピレーションの営業が使うならともかく、深山のような一兵卒が使うのはおかしな話だが、深山はそう言うことによって自分を、「あちら側」の人間だと思い込もうとしているのである。

「桟原さん。桑原さん。落ち着いてください。後で話を聞きますから、落ち着いてください」

 深山を押しのけるようにしてやってきた真のリーダー、唐津が、ケンカの仲裁に入った。

「うるせえっ、小僧っ!邪魔すんじゃねえ!莉乃のチーズ臭えマンコでもなめてやがれ!」

 桑原に、勝手におそその香りを決めつけられた莉乃が、顔を覆ってワッと泣いた。莉乃の股間の香りは知る由もないが、個人的には臭ければ臭いほどいいと妄想する俺の股間は、猛々しくそそり立った。

「あっ!兄貴、なに勃起してんすかぁ~?莉乃のチーズ臭いのを、舐めたいんすかぁ?」

「バッ、バカ、これは・・・」

 桑原が、桟原との喧嘩よりも、もっとずっと楽しいものを見つけたことで、この場はこれで収まったのだが、この喧嘩騒ぎは、労働組合の中に存在した火種を、しっかりと燃え上がらせる効果があったらしい。

「・・・・俺、やっぱり労働組合は抜けるよ」

 昼休憩の時間になって、桟原が委員長の唐津に、唇を固く結んだ険しい顔で、労働組合からの脱退を申し出たのである。

「・・・・牧田さんとも話し合ったんだけどさ、なんか君らのやってることの方が、やっぱり間違いなんじゃないかって気がしてきたんだ」

 直接的な「トリガー」となったであろう、さっきの俺と桑原の件については言及してくることなく、桟原はいきなり、唐津を含む労働組合全体に不満がある旨を主張し始めた。

「間違い、とは、どういうことでしょうか」

「権利を主張する前に、まず義務を果たせってことだよぉ!やるべき仕事もやらねえで、何が団体交渉だぁ!甘ったれんな!」

 唐津の問いを、桟原に代わって引き取ったのは、桟原と同じテーブルで作業をしていた、牧田である。

「あんたらと違って、俺はこの丸菱での仕事に、誇りを持って取り組んでる。化粧品をカタログと一緒に、段ボールに詰める作業。たかがそれだけのことかもしれねえが、俺は毎日、創意工夫をして、どうやったら早く詰められるかって、一生懸命考えてやってる。失敗をしたら怒られるのは当然だ。東山さんが厳しいといっても、厳しい人はどこに行ってもいる。ここで我慢ができないヤツは、どこでも我慢ができないヤツだ。俺がみたところ、あんたらの中で、文句を言う資格があるのは、コブラさんと、桑原くんくらいじゃねえのかァっ」

 意外なところでお褒めに預かったコブラさんが、取りあえず褒められたのだから喜んでおこうと、素直に笑顔を見せたことで、少し和んだような空気が漂った。桑原の名前が挙げられているのが意外なようだが、桑原は丸菱や海南アスピレーションのためにこんなくだらない仕事を頑張る気はないが、尊敬する東山のためなら頑張るという考えらしく、東山が作業場にいるときに限っては、すさまじい真剣さで作業を行うのである。人の悪いところには目をつむり、いいところを見る、というスタンスなのか知らないが、牧田は桑原を褒め、その桑原の仲間と見做されていたからか、俺のことを特にサボり魔として責めようとしている感じもなかった。

「牧田さんの言う通りだ。俺だって東山には何度も怒られてきたけどさ、あれもよくよく考えたらあんたらのせいじゃないの。あんたらが仕事が遅いからさ、東山も不機嫌になって、派遣なら誰彼かまわず雷を落としてくるんじゃないか。俺はあんたらの巻き添えになってたんだ。そんな気がしてきた」

「そうだ!いいこと言った。コイツらの仲間になるのはやめて、一緒に東山職長のために働こう」
 休憩室の端っこからやってきた深山が、今まで見たこともない嬉しそうな笑顔で、桟原の肩をポンと叩いた。これまで肩身の狭い思いをしてきただけに、同士ができた喜びはひとしおのようである。

「桟原さん。その考え方は間違ってますよ」

「なに!?」

 一回り以上も年下の唐津にハッキリと物を言われ、桟原が気色ばんだ。

「相手に押し付けられる自己責任を何も疑わずに受け入れていたら、それこそ一番仕事ができる人以外は、会社に改善を訴えることができなくなる。どこかで、明確なラインを設ける必要がありますが、いま、東山たちがやっていることは、明らかにそのラインを踏み越えています。ここで泣き寝入りしたら、僕たちは奴隷と一緒ですよ」

「・・・・・・」

「生活保護者と労働者、派遣と正社員、ニートとフリーター。世の中は、弱い者が弱い者同士で争い、弱い者同士で足を引っ張り合うような仕組みにできています。政治やメディアは、この社会の中で本当に力を持った人間、弱い者を弱い立場に追い込んでいる人間に恨みを向けさせないように、巧妙に世論を誘導しようとしています。こんな梱包の仕事ができるかできないかで争うのは、それこそ本当に悪いやつらの思う壺なんですよ。もっと強大な、諸悪の根源がいることを考えれば、東山たちだって、本当は同士ともいえますが、この丸菱を社会の縮図と捉えた場合には、奴らはやはり敵です。桟原さんは、僕たちが仕事ができないのが悪いといいますけど、本来、遅刻、無断欠勤や、規則を破ったというような、明確な落ち度があるならともかく、作業が遅いという、使用者のさじ加減によるところが大きい、不確定要素の強いことでは、簡単に労働者を責めてはいけないんですよ」

 委員長になるだけあって、唐津は労働問題について、しっかり勉強しているようだ。丸菱に来たころの、自分の運命に絶望して、どこか冷めたようだった唐津に、こんな知識があったとは考えられない。これは間違いなく、つい最近、唐津の頭にインプットされた知識のはずだ。

 唐津が変わったのは、莉乃と出会ったから?俺の女神であったはずの莉乃はまた、唐津にとっても女神だった?

 激しい嫉妬が胸を焼き焦がす。あの、地味な平安顔の三十路女の、どこが女神だ。貴様の女神は、もっと若くてキレイなねえちゃんだろう。若くてイケメンの貴様に、莉乃を女神と崇める資格はない。地味で年増の平安美人、いや平安ブスの莉乃を女神と崇めていいのは、冴えない三十路男の、俺だけだ。

 ブスとセックスできる資格があるのはブスだけ。美人とセックスできる資格があるのはイケメンだけ。生態系を正しく守ることが、世の中を平穏に保つ秘訣である。女神にさえなれば、地味な三十路女でも、イケメンとセックスできる?冗談じゃない。容姿や年齢の壁を越えられるのは、よほど金を持っている場合だけだ。「内面に惹かれた」などという理由で、俺の地味な三十路女を掻っ攫っていくことなど許さない。本当に内面が良ければいいが、莉乃の内面は、腐っているではないか。中身も外見も腐りきった三十路女を愛していいのは――中身も外見も腐りきった三十路女に愛されていいのは、中身も外見も冴えない、三十路男の俺だけなのである。

「なに?だったらなんだよ、俺が騙されてるって言いてえのかよ」

「騙されるのは、悪いことではないです。気づいた時点で、立ち上がろう、ということを、僕は言ってるんです」

「・・・ごちゃごちゃ能書き垂れてんなよ。全部、仕事を真面目にやらない言い訳だろうが!」

 相手の意見に論理的に反論する術を持たない桟原のような奴でも、プライドというものがある。どれだけ正義感があっても、どれだけ正論を唱えていても、それだけでは、人は耳を傾けない。唐津の言い方はあまりにもにべがない。どんな人間にも、一つくらいは褒めるところがある。相手のプライドをうまいことくすぐって、機嫌をとってやれば、聞く態度も違ってくる。人のプライドというものをうまく操れないようでは、人を説得することはできない。唐津は、あまりにも青い。

「なあ桟原さん、損得勘定で考えてみようや」

 見かねて、俺が助け船を出した。元はといえば、俺と桑原が桟原につっかけたのがキッカケで起きてしまった喧嘩なのだが、資本主義のミクロの構造しか見えない桟原のような視野狭窄なヤツを見ると、黙ってはいられない。世間を憎む気持ちが疼いてしまって、ムズかゆくなってどうしようもない。

「たとえば仕事のできる牧田さんや桟原さんが、一日二百個の箱を作ったとしてだ。仕事がまあまあできる唐津くんや莉乃ちゃんと、どれだけ差があるよ。俺みたいなボンクラならともかく、唐津くんや莉乃ちゃんなら、一日百八十個くらいの箱は作る。たった一日二十個。高々二十個程度の箱くずれのことで、出来るヤツ、出来ないヤツと二極化して、仲間同士で争い合う。バカバカしいと思わねえか?さらにいえば、その争いに勝ったところで、別に給料が上がるわけでも何でもねえんだぜ?ただただ余計な神経を削ってよ、イライラしながら働いて、最終的に、争いに勝って、俺たちを追い出せたとしてだ。負けた唐津くんや莉乃ちゃんが仕事をやめて、路頭に迷う。人を不幸にしてまで残ったあんたに、一体何が残るってんだ?あんたが争いに勝って手にいれるのは、人を不幸にしたという負い目、争いに勝っても、実利は何もなかったという徒労感、ただそれだけだ。しかも、争いはそれで終わらねえ。唐津くんや莉乃ちゃんの代わりに、次に新しく入ってきた奴らとの争いがまた始まる。争って争って、くたびれ果てたその先に、あんたに残るものはなんだ?時給は百円でも上がったか?退職金は何百万も出るのか?そんなものは一銭も出ねえ。俺ら派遣労働者ってのは、そういう立場なんだよ。だから無駄な争いなんかやめて、弱いものは弱いもの同士、助け合って、手を取り合って働ける職場にしよう。それが唐津くんのやろうとしていることだ」

「・・・・」

「元パチプロで、テレビの大会で優勝したんだろ?パチプロってのは、毎日データを取ったり、確率を計算したりとか、けっこう忙しいんだってな。そんな世界で天下を取ったあんたなら、俺が言っている程度の損得勘定くらいできるはずだぜ」

「・・・・うるせえよ。言ってることわけわかんねえ。仕事ができない言い訳するんじゃねえ。俺だってよ、色々余所で問題起こして、借金も抱えてて、もう後がねえんだ。いまの職場追い出されるわけにはいかねえんだ。だからお前らの活動には参加しねえ。勝手にやってろ」

 珍しくムキになって熱弁を振るってみたのだが、どうやら、桟原を翻意させることはできなかったようだった。

 結局、桟原は牧田、深山と固まって食事を始めてしまった。あろうことか、同じ労働者の中に、労働組合に対立する者たちの集団が出来上がってしまったのである。

 仕方がない。人の意地というのは、簡単に曲げられるものではない。お節介で出来るのはここまでだ。後は唐津の仕事である。

「あの・・・蔵田さん」

 勤務開始の五分前、トイレに出ていった俺を、唐津が追いかけ、声をかけてきた。

「なんだい?」

「あの・・・さっき、ありがとうございました。僕の説明不足のせいで、蔵田さんにあんなに協力してもらっちゃって・・・」

 もとはといえば、桟原を離反させるキッカケを作ったのは俺であるにも関わらず、唐津が深々と頭を下げてきた。

「礼には及ばねえよ。それより、今度駅前で街宣活動やるんだろ?俺も行くから、一緒に頑張ろうな」

「はい・・・・ありがとうございます!頼りにしてます、蔵田さん」

 まだ少年の純粋さを残す目を光り輝かせ、唐津は俺に感謝の気持ちを伝える。俺も笑顔で応えたが、心は白けていた。

 先ほどの唐津の言葉にあった、この社会の真の強者という言葉。どうやら彼は、自分を社会的な弱者と位置付けているようだが、では、唐津はそれこそ俺のような、何の力もない、とことん弱っちい人間なのか?答えは否である。唐津には容姿という、立派な強味がある。

 強者に強者らしい立ち居振る舞いを求めるというのなら、唐津は俺が莉乃に気があるのを知りながら、莉乃を自分の女とするべきではなかった。経済力や社会的立場においては弱者の待遇の改善を訴えながら、なぜ、女方面では、節操無しに弱者の米櫃に手を突っ込んでくるのか?そんな都合の良い、ダブルスタンダードが許されていいものか。

 それとも唐津は、自分のことを、けして容姿端麗ではないと思っているのだろうか。莉乃と十分、釣り合う容姿だなどと、余計な謙遜をしているのだろうか。

 謙虚というと美しいことのようだが、行き過ぎた謙虚は、見方を変えれば嫌味である。どんな分野にしても枠というものは限られているのであり、下がつっかえているのに、もっと上の枠におさまるべき人間がいつまでも居座っていたのでは、全体の流れが滞ることになる。循環を妨げる血栓は、誰かが取り除かなくてはいけないではないか。

 唐津は突然話すのをやめ、正面に見えてきたトイレの方向を見たまま黙ってしまった。その視線を追うと、順番待ちの列を、チャックからペニスを出しながら待っている桑原の姿が目に入る。誰でも凝視するはずだが、唐津が見ているのは、桑原ではない。その奥からこっちに向かってくる、海南アスピレーションの営業担当、吉沢であった。

「ちょっと、桑原さん、なにその恰好は」

「なんだーーーーーーーてめええええーーーーーーーーー」

 吉沢に己の恰好を指摘された桑原が、激しく吠えたけった。

「仕舞ってくださいよ」

「うるせええええーーーーーーー。東山先輩が、仕事は効率が何よりも大事だ、待機時間中にも、できることを探してやれと教えてくれたから、こうやって列に並んでいる間に、あらかじめちんこを出してるんだろうがああーーーーーーーーー」

 何が問題なのだ、とばかりに、吉沢にペニスの先を向けながら食って掛かる桑原。桑原にとって、東山は神である。神の命の下には、人前で性器を晒すことにも羞恥は覚えない。神への信仰は、個人の尊厳に優先する。その、あまりに威風堂々とした姿には吉沢も何か感じ入るところがあったのか、それきり注意するのはやめてしまった。

「唐津くん、労働組合作ったんだって?なんで先にうちの方に話してくれないの?順序がおかしいでしょ」

 吉沢が唐津に歩み寄って、いきなり本題をぶつけてきた。

「それで、海南のやり方のなにが不満なの?」

「わかっているでしょう?不当な賃金搾取の撤廃ですよ」

 唐津が具体的に指摘したのは、まず第一に、出勤の際にかける出発報告と、退勤の際にかける終了報告についてである。

「海南ではスポットもやっているようですし、遅刻の防止のために、出発の報告を義務付けているのはまだわかります。しかし、終了の報告がそんなに大事ですか?必要なのはスポットで働いているスタッフだけで、レギュラーの我々には関係ないでしょう。それに、罰金まで設けているのは明らかにやり過ぎです。大体なんで、より大事な出発報告の方が罰金百円で、どうでもいい終了報告の方が二百円なんですか?どうでもいい終了報告の方が忘れやすく、罰金がとりやすい。それで儲けてやろうって腹なんじゃないですか?」

「・・・・他には?」

「遅刻や装備品忘れなど、様々な名目でスタッフに始末書を書かせ、減給の対象にしていますけど、基準がキツすぎませんか?たとえば、遅刻三回でその月の時給五パーセントカット、五回で十パーセントカットなんてやりすぎですよ」

「・・・・あとは?」

「一人部屋で四万円の寮費なのに対して、二人部屋で三万、三人部屋で二万五千円という寮費の設定はどうなんですかね?首都圏だったらもっと凄い額になると思うんですが、相部屋だと、全員の寮費を合計したら家賃を超えてしまいますよね?本来福利厚生の一環である社員寮で会社に儲けを出すというのはおかしいんじゃないですか?相部屋の家賃はもっと抑えるべきです」

「ふむふむ」

「ほかの派遣先で起きた事例を聞きましたけど、作業が遅いという、派遣先の主観が入っているかもしれない理由で、よく調べもせずに派遣先の要請に応じ、労働者の三か月の契約を解除したり、機器点検の巡回業務で、現場から派遣先企業に車で帰ってくる時間が拘束時間に含まれず、残業代の支払いがなかったという例もあったそうですね。一体、あなた方は、どちらの味方なんですか?」

 海南アスピレーションのような中小零細の派遣会社は、黙って待っていても向こうから利用したいと連絡が来る大手と違って、派遣先の会社に頭を下げて契約を取ってこなければならない立場である。

 契約している派遣先企業が幾らでもある大手であれば、あまりにもスタッフの扱いが酷い派遣先に対しては、派遣会社の方から改善を要求してくれる。それで派遣先企業が改善の努力をしなければ、「うちのスタッフにそんな酷い扱いをするなら、もうお宅に人は寄越さない」と、トラブルが起きていないスタッフも含めて、スタッフの全員撤退という措置を取るような場合もある。

 人材に値段をつけてくれる派遣先企業がなければ商売にならないといっても、その派遣先企業が、他の派遣先ならいくらでも戦力になれる人材を潰すような企業であれば、派遣会社にとっては、取引するのはマイナスでしかない。長い目でみれば、自社に在籍するスタッフ一人ひとりを大事にする会社の方が利益をあげるという考え方が、余裕のある会社ならできる。残業代などにしても、派遣先から取れるカネは、スタッフに言われるまでもなく、派遣会社自らがガシガシとっていくというスタンスである。

 しかし、会社としての規模が小さく、派遣先企業を選べない海南アスピレーションのような中小零細の派遣会社では、ときにいちスタッフよりも、スタッフの受け皿となる派遣先企業との関係を大事にしなければいけない場面も出てくる。海南アスピレーション程度の派遣会社にとっては、このご時世で、食うや食わずの底辺労働者の頭数は幾らでも確保できるが、名の知れた大手ではなく、怪しげな新興の派遣会社を利用してみようと思う会社を探す方が大変なのである。

 「NOといえない」弱い派遣会社を利用するのは労働者の不幸だが、弱い派遣会社に入るしかない労働者の方もまた、それまでの経歴、過去のトラブルにより、「NOといえない」労働者になっているという事情がある。幾多の派遣会社をお払い箱になっているうちに年齢を重ね、アルバイトの採用も難しくなった「派遣難民」の巣窟が、この海南アスピレーションなのである。

「うーん」

 吉沢が、なにかを考え込んでいるように、腕を組み、首を傾げて見せた。

「で、ここにいる人たちは、みんな唐津くんの労働組合に入ってるの?福井さんも?」

 吉沢に名指しされたのは、書記長の田辺やコブラさんと同年代のスタッフ、福井。福井は一見、何の変哲もない、小太りの、気が弱そうな中年男だが、心の中に複雑な問題を抱えている。
「ほかの会社で、ロッカーを一人だけ別にして欲しいっていえる?それ聞いてOKしてくれる会社、そんなに沢山あると思う?」

 福井は性同一性障害。身体は男性だが、心は女性である。性同一性障害はアニメやドラマの世界では、中性的な美形が演じることが多いが、現実というものはもっとシビアで、福井のように頭髪が薄かったり、仕事が終わるころには熊五郎のようなヒゲになってしまう人だって、心は立派な女性ということもある。

 福井の見た目では、いくら男性用ロッカーを使用するのは心理的な抵抗が大きいといっても、女性用ロッカーで、女が裸になっている中で着替えをするというわけにもいかない。福井はジェンダーの問題で、これまで数々の会社とトラブルを重ね、海南アスピレーションに流れ着いたのだ。
「松原さんは?お節介焼きが高じて、会社に余計な備品を持って来たり、社員さんに弁当作ってきたりして、いっつもトラブル起こして、最後にうち来るしかなかったんじゃないの?」

 善意の押し付けとは、ある意味、悪意よりもタチが悪いものである。莉乃脱糞事件では宮城を責めた松原だが、過去には自らが同じように、善意の押し付けによってトラブルを起こしていたのだ。こういう人間は、余計なお節介を、やめたくてもやめられない。なぜなら、本人は良かれと思ってやっているからである。

「木戸さん、友達が欲しかったんだよね?ここではみんなと仲良くやれてるみたいだけど、もし海南が潰れちゃったら、みんなと離ればなれになっちゃうかもよ?いいの?」

 吉沢に言われて困惑した表情を浮かべるのは、コブラさんである。

 コブラさんは、相変わらず、毎週、週末になると必ず、どこかへ遊びに行こう、飲みに行こうと、人を誘っている。それだけ交流の場を持つことに熱心なら、少しくらい奢ってくれるかと思いきや、コブラさんから奢ったことは全くなく、むしろ遊んでばかりいてお金が足りなくなり、人に立て替えてもらうこともあるそうだ。それで相手が不快になるという発想がまったくない。ギブアンドテイクをまったく考えられず、遊んで楽しかったんだからいいじゃん、で終わっている。いつまでたっても、小学生や中学生のノリでしか人と付き合えない男なのである。

「桟原さん、いつも派遣先で喧嘩ばっかしてんだって?牧田さんも、仕事に対する拘りが強すぎて、よくケンカになっちゃうんだよね?」

 人はプライドで生きている。プライドを持つことが悪いことではない。プライドを捨てたら、もう人ではない。ただ、大事なプライドを、非正規の派遣労働の世界に持ち込んで、誇りを持って仕事に取り組もうとする人間が、派遣先で評価されるかといえば、必ずしもそうとは言えないのが、厄介なところである。

 仕事に入れ込む人間は、往々にして余計なこともする。派遣先の正社員が、君はよく気が付くと褒めてくれるかと思えば大間違いで、大抵の正社員は、派遣にチョロチョロと、計算外の動きをされるのを嫌うものだ。派遣に正社員なみのモチベーションを要求しようとする東山ですら、深山のように、命令以外のことをするヤツは嫌っている。派遣という立場でいくら頑張ろうと思っても、そのやる気は大抵、空回りに終わってしまうのである。 

「俺は、もう労働組合は抜けたよ」

「俺は最初から入ってねえ・・!」

 プライドが大事というのなら、そもそも桟原や牧田がやっている派遣労働そのものが、プライドを踏みにじられた働き方という話なのだが、世の中の大きな構造が見えない彼らはそれに気づかず、その踏みにじられた、小さな世界の中でのプライドを守ることだけに必死になっている。必死に努力して踏みにじられた世界を抜け出したり、どうせプライドを踏みにじられているなら、その引き換えに、せめて楽をしようという発想は浮かばない。

 昔なら、こうした不器用で愚直な男たちの自己実現の場も、もっと沢山あったはずだが、二次産業に流動性が求められるようになってしまった世の中で、彼ら職人気質の男たちが一所に腰を落ち着けられず、協調性のない頑固者、厄介者扱いされ、たらい回しにされてしまっているのだ。

「俺は・・・俺だってバカじゃないから、派遣は悲惨だってことくらいわかってる。だけど・・・。どんなつまんねえ仕事でも、自分が今やっていることにやり甲斐を見出すかで、これから先の人生の充実が変わってくる・・・どんなに無駄に見えることでも、今やってることだって、何かに繋がってる・・・・俺はそう信じてる。そう信じてでもいねえと、やってられねえんだよ・・・・」

 牧田の主張は、全く耳を傾けられない、理解不能なものではない。歴史上、改革と言われるものを妨害した人間にも、彼らなりの言い分というものはあった。どれほど視野の狭い価値観にも、それなりに宗教的、哲学的な根拠はあるものだ。だから改革は難しい。

「玉川さん、昨日お風呂入ったの?清潔にしてね、て行ったでしょ」

 吉沢にパワハラともとられかねないことを言われても、特に気にした様子を見せない玉川からは、実際、おっさんが一日履いた靴下を酢につけたような臭いが漂っている。

 底辺の派遣労働の世界にいると、識字率世界最高水準を誇るこの日本に生きている人間が、皆すべて義務教育、いや初等教育を受けたと思うのは、いかに浅はかな考えであるかということが、よくわかる。

 教育とは何も、主要五科目の学習だけを指すのではない。人としてのモラル――やっていいこと悪いこと、言っていいこと悪いことを教える――人として最低限のTPOを、集団教育によって学ばせる、ということの方が、教科書とノートを使ったお勉強よりも、ずっと大事なことである。学校で集団教育をちゃんと受けていれば、俺や東山のような枠に収まらない人間でも、ある程度角が取れていくものだが、例外もいる。

 玉川は丸菱の倉庫に来た当初、掃除ができなかった。「掃除」といわれ、道具を渡されても、何も動くことができなかったのである。「掃除」が何をすることなのか、本当にわからなかったのだ。

 また、莉乃が入ってくる少し前のこと、玉川はある日、おもむろに物陰に隠れたかと思うと、いきなり、たまたま持っていたビニール袋の中に大便をした。正確には、まさにその瞬間は誰にも見えていなかったのだが、臭いでみんなが気付き、大騒ぎになった。東山の前の職長の、「なぜこんなことをした!」という問いに、玉川は「怒られるのが怖かったから。取りあえず袋に入れて置いといて、あとでトイレに流そうと思った」と答えたという。

 ライン作業などがある派遣労働では、粗相に関するエピソードは案外多い。トイレに行きたい、という、たった一言が怖くて言い出せずに、大惨事にまで発展してしまう。みんな、そんなことには慣れっこだったから、莉乃脱糞事件もことさら大事にはならなかった、という事情もあった。

「玉川さんとか、ほかに行くとこあるの?ここ出てから、一人で働けるの?どう?」

 派遣など、非正規労働の悲惨さが世の中に伝わるにつれ、自己責任じゃない、という論調も、徐々に強まりを見せ始めている。が――実際問題、派遣の世界には、どう頑張っても弁護しきれない、最低限のこともできない人間もたくさんいるのは確かである。

 社会にどうしても馴染めないが、障害者の枠にも入れず、セーフティネットを利用することもできない。そういうグレーゾーンにいる人間たちの受け皿になってやっている。我々は必要悪である。さっきから、吉沢はそれを言いたいのだろう。

「そうやって自己責任という形に持って行って、自分の行いを正当化するつもりですか?そうはいきませんよ。すでに、他の派遣先のスタッフとも連絡を取り合っています。酷いと思われる待遇については、どんどん改めてもらいますからね」 

 唐津は一歩も引かず、吉沢との対決姿勢を露わにする。彼の正義は揺るぎない。

「蔵田さんも、同じ考えなの?」

 何を勘違いしたのか、俺が労働組合のナンバー2であるかのように、吉沢が俺の意見も訪ねてきた。

「まあな」

 表向き唐津に協力しているように見せるため、俺は力強く返答した。


「・・わかった。話し合いには応じますよ。だから、ストとかは考えないで、話し合いの日までは、真面目に働いてください。いいですね」

 吉沢は動揺を押し殺すようにして言い残し、東山との話し合いのため、事務室に向かっていった。


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No title

蔵田と東山は似ているようですがアクの強さは東山がありますね。
悪の基準をどう捉えるかにより自分の立ち位置が大きく変わってくるのですね。
個人の価値観によって悪の基準というものが成り立っているのでしょうね。
個性的な人達が多数登場しますがタイプが被らないというのが面白いですね。
工場のような持ち場を離れられない職場だとトイレは我慢してしまう場面は多いでしょうね。
玉川が作業中にトイレに行きたいことを言ったら職長から怒られると思ったのは分からなくもないですね。
真面目で不器用な男にとって自分のことを理解してくれる上司の下で働ける環境でなければ色々と問題が起きそうですね。

No title

seasky さん

 東山みたいなバカ野郎は某佐川急便にいっぱいいましたね。いまもああいう体質なのかわかりませんが早く潰れて欲しいですね。同じガテン系でも土方とか溶接工の人なんかは割と気さくなのですが運送と引っ越しはブラック率高かったですね。

 ある人間にとっての正義はある人間にとっての悪ということを知らずに人に自分の考え方を押し付けるヤツが世のなか多すぎて困ります。トイレに行きたいと言い出せないケースは底辺世界にけっこうありがちですね。

相変わらず東山は単細胞のバカですね。
派遣労働者に社員と同じように働かせるのはいくら何でも無理でしょう?
待遇面で派遣と社員ではまったく違うのですから…
なかには責任のある仕事をさせられ喜んでいるバカの派遣もいますがごく少数でしょう?
しかし、みんなそれなりに醜い過去を持っているのですね。
吉沢は痛い過去を持ち出し派遣労働者の団結を崩そうとしてますね。

No title

まっちゃん さん

 派遣労働者が現場で感じる理不尽に関しては取材をしたり周りの人の意見を参考にしていきたいと思っています。何しろ私の方がここ数年はその手の理不尽な目に遭っていないので・・。ぬるま湯のような現場だと居心地がよくなって抜け出せなくなってしまうのも非正規の派遣の一つの側面ですね・・。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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