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外道記 改 2

                                 
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 東山から勤務が終わったとの連絡を受けて、隣町のファミレスに入ったときには、時計の針は二十一時を回っていた。俺に散々せっつかれて、ようやく出られたのがこの時間だったというから、普段のペースでやっていたなら、それこそ日付が変わる頃まで、仕事は続いていたに違いない。日に三時間以上、月に二十時間以上の残業はしたことがない俺には考えられない労働量である。毎日これだけ酷使され、精神をすり減らされていたら、俺たち下の者にあたるのも無理はないのかもしれない。夢でも見ているかのような幸福感が、一生に一度の同情心を引き起こさせていた。

 東山より先に到着した俺は、もちろん東山に払わせるつもりで、三百グラムのサーロインステーキを注文した。まともに動物性たんぱく質を取るのは、半月ぶりほどにもなる。朝にカップ麺とラーメンライス、昼間に菓子パン、夜に納豆ごはんとインスタントの味噌汁のローテーション。二年前に出会ってからというもの、ほとんど毎日、五キロで千円の家畜の飼料米と猫用の缶詰しか食べていない俺の内縁の妻よりはマシだが、まあ、ひどい食生活を送ってきた。このままでは生活習慣病まっしぐらであったが、これから俺の栄養状態は、劇的に改善されるはずだった。

 十五分ほど待つと、東山が愛車のデミオでやってきた。白無地のTシャツに軍パンといういで立ち。プロレスラー並みの巨体を手に入れた東山には、ワイルドな恰好がよく似合う。頭の中はともかく、見栄えだけは良くなった。人間、見栄えだけでも、案外何とかなるものだ。何も知らない者からは、東山の現在地は、冴えない三十路男の俺などより、よっぽど恵まれているように見えるだろう。十八年前にバカなことさえしなければ、東山は俺のことを徹底的に見下し、正社員と派遣労働者という立場の違いを利用して、好き放題いたぶることができたというのに。結局、人殺しなどやれば、一生付いて回るということである。

「それで・・・話というのは・・・・」

 東山は、俺が東山のために注文してやった、メニューで一番安いドリアには手をつけず、糞でも詰まっているような強張った表情で切り出した。

「おいおい、いきなり本題かよ。十八年ぶりの再会だぜ。積もる話を聞かせてくれよ。年少では飯はうまかったのか、尻の穴は守れたのかとかよ」

 注文したサーロインステーキを頬張る俺は、ジューシーな肉汁を口の端から滴り落としながら、東山の緊張を解こうとおちょくってやる。

「お、大きな声で言うな。明日も仕事なんだ。手短に済ませたい」

「わかったよ。しょうがねえな。じゃ、まず、お前の部下にやられた傷の件だが、これは不問に付してやる。ただし、お前の態度しだいだ」

 雑魚は捨て置くべし。この際、中井などに構っている暇はない。恨みもない雑魚をいたぶって、たかだか十数万からの慰謝料や治療費をとるために、俺の貴重な時間は使えない。ライフワークバランス。搾取の対象は一本化すべきである。

「取りあえず、そうだな・・。こんくらいでどうだ?」

 俺が差し出す二本指を見ると、東山は眉間に寄った皺の数を増やして悩み始める。
 二百万円。一介のサラリーマンにも、けして無理な金額ではない。しかし、高々それだけの金を奪っただけで、解放してやるはずもない。これから生かさず殺さず、東山の収入が尽きぬ限り、じわじわと搾り取ってやるつもりである。

 中学時代のピュアだった東山ならともかく、少年院で散々悪ガキと渡り合い、出所してからは、まともな人間の何倍もの辛酸を舐めながらここまで這い上がってきた東山なら、俺の魂胆くらいは分かっているはずであろう。提示された二百万だけではなく、これから延々と毟り取られ続ける何百、何千万という金に、東山は怯えているのである。

「とても無理だ。生活が成り立たなくなる」

「無理ってことはねえだろう。俺みたいなロクデナシじゃなく、お前は社会的に信用ある立場なんだ。それぐらいの金集めるのはわけもないだろ」

「簡単に言うな・・。いずれにしろ、すぐには無理だ」

「じゃあ、二か月だな。全額もらうのはそれまで待ってやるから、当面の金を寄越せよ。お前の月給ひと月分くらいでいいからよ」

「・・・・・・」

「何も言わねえってことは、それでいいんだな」

「・・・・・俺は、確かに、人として許されざることをしたのかもしれん。だが、俺のやったことに対し、お前もなにか、思うところがあるはずだ」

「おいおい~。言うに事欠いて、責任転嫁かよ。あのぽっちゃり女を殺ったのが俺のせいっていうなら、お前は俺を殺ればよかっただけじゃねえか。それとこれとは、全然別の話だし、世間もそう思ってるぜ」

 山里愛子の命が失われた件について、俺の罪悪感を引き出そうとの魂胆であったようだが、見くびってもらっては困る。なぜ、俺がセックスをしたこともない女が殺されたからといって、後ろめたい気持ちにならなくてはならないのか?あの事件では、「生存競争」に参加していたわけでもないのに、山里愛子が死んだことで心身に異常をきたす児童が続出したが、ただの同級生が死んだだけで、わけのわからない罪悪感などに蝕まれてしまうヤツの気持ちなど、俺にはまったくわからない。友達でも恋人でもない、ただの同級生である。ただの同級生が死んで、なぜ心が痛む?俺には、行ったこともない遠隔地で、会ったこともない誰かが事故や災害で死ぬのと、大して変わらないように思えるのだが、俺が異常なのだろうか?他人と比べようがないため、俺にはわからない。

「・・・・・・・・お前って男は・・・どこまで・・・」

「さっさと結論を出せよ。俺が聞きてえのは、お前が金を払うか払わねえか、どっちかだけだ。払わねえ理由をいくら聞かされたって、気持ちが満たされることなんかねえんだよ」

「・・・・・・」

「さあ、どうすんだ」

 東山が泣きそうな顔になり、後頭部が存在しない絶壁頭を両の拳でカンカンと叩き出した。容量の少ない脳みそで、必死に逃げ道を探しているようである。気のすむまで探してもらって構わないが、残念ながら、逃げ道はない。東山も必死かもしれないが、必死なのは、俺の方だって同じである。転落一辺倒の、糞まみれの人生に訪れた最後のチャンスを、逃すつもりはないのだ。

「・・・週末には、取りあえず納得してもらえるだけの金は渡す。今日はそういうことでいいか?」

 俺がサーロインステーキをすっかり平らげるまで、十分ほども悩んで、東山がようやく結論を出した。とりあえず急場を凌いで、これからじっくり、何とかする方法を考える。結局はそれしかないだろう。俺が東山の立場でも、同じ答えだったと思う。まあ、何とかしようと思っているうちに、ジワジワと搾り取られていくわけであるが。

「商談成立だな。俺はもうちょっと飯食ってくから、それまで付き合ってくれよ。車で来てんだろ?寮まで送ってってくれよ。もうバスも出てねえしよ」

 商談を纏められたことに安堵した俺は、大きなゲップをし、ウェイターにビールのお替りと追加のグラタンを注文した。財布の中身を気にしないで料理を注文できるのは何とも気持ちよく、財布の中身を気にしないで食べられる飯は、なんでもうまい。

「なあ、お前の嫁さんの写真を見せてくれよ」

「なに?なぜそんな・・・」

「いいじゃねえかよ。見せてくれよ」

 東山から強引にスマートフォンを奪い取った俺は、データフォルダを開いた。ファイルは静止画、動画ともに、すべて家族と撮ったものであった。俺や東山より少し年上くらいの女房は、特別美人ではないが、色白で上品な顔立ちをしており、優しそうな笑顔を浮かべている。

 さらに、二人には娘がいるようであった。歳は三歳か四歳くらいだろうか。父親の胡坐の上に乗って、拙い箸の持ち方で、東山に、逆にあ~んをしてあげている。父親にはあまり似ていないが、よく懐いているようだ。

「綺麗な奥さんと可愛い子供じゃねえか。羨ましいぜ。守ってやらなきゃなあ、東山ぁ」

 スマートフォンを東山に返して、俺は両の眼を大きく見開き、またギッと口角を吊り上げてやった。
 底の底まで、愚かな男。脛に傷を持つ者は、安易に守るべき者を持つべきではない。多くの場合、それは足枷、重荷にしかならないのである。

 東山の過去が会社にばれ、世間にばれて、週刊誌などが食いついてきた場合、東山一人であれば、まだ、どこか遠くに逃げて、人生をやり直すこともできただろう。しかし、妻はともかく子供までいるのでは、簡単に身動きをとることもできない。全部放り出してしまえばいいという話ではあるが、好き勝手に威張り散らせる職場と、暖かい家庭という、東山が血の滲む努力でこの生き辛い世間の中に作り上げた「巣」を、簡単に捨てる気になれるはずもない。

 東山の過去がバレて、大騒ぎになってしまった時点で、東山の人生は終了である。自分の「巣」を守るためなら、東山は死ぬ気で金を掻き集めてくるだろうし、惜しげもなく金を吐き出すだろう。あとは、さじ加減の問題である。金を分捕りすぎたせいで、東山が大事な「巣」を維持できなくなったら、元も子もない。江戸時代の農民搾取のように、生かさず殺さず、真綿で首を絞めるように、じわじわと搾り取ってやるのである。

「ふう・・・食った食った。ごちそうさん。じゃ、帰ろうぜ」

 何週間ぶりかにまともな食事を胃袋に納めた俺は、満足して席を立った。レジに向かい、会計をする東山の姿を横から眺めるが、中学の頃そのままの生白いカマキリ顔が、プロレスラー顔負けの巨体に乗っかっている姿は、いまだに馴染まない。この違和感がなくなるくらいに長い付き合いになれば、二百数十万もある俺の借金はすべて失くなり、人生に洋々とした前途が開けるだろう。

 会計を終え、俺と東山は連れ立って駐車場へと出ていく。店の前の喫煙スペースにたむろしていた不良がこちらを向いてくるが、仁王のごとき東山が目に入ると、慌てて視線を逸らした。虎の威を借る狐の心境。これからあの職場内でも、この気分が味わえるのである。

 デミオの後部座席に乗ると、俺は靴を履いたまま、シートに寝そべった。東山は別に嫌そうな顔はせず、巨体を窮屈そうにドライバーズシートに納めた。夜のドライブの始まりである。

「ああ、楽しいなあ。すっげえ楽しい。夢でも見ているかのようだぜ」

 座席の前と後ろとの間に流れる空気には、北国の豪雪地帯と、南国のビーチほどの温度差がある。一つの再会は、二人の男を地獄と天国へと分けた。

「なあ東山、頼むから、お前の昔話を聞かせてくれよ。年少上がりから、運送会社の管理職にまでなったお前の、涙がちょちょぎれるような感動のサクセスストーリーをよ」

「・・・・・」

 俺のハイテンションについてこれない東山は、むっつりと黙りこくったままである。

「しょうがねえな。じゃあよ、俺の話をするからよ、それで満足してもらったら、今度はお前の話をしてくれよ。それならいいだろ」 

 東山が逮捕されてからの、俺の人生。思い出したくもない人生。ろくでもなかった転落人生。

 すべてを聞いたら、東山はきっと溜飲を下げてくれるだろう。哀れなヤツだと思ってくれたら、今後の強請も捗るかもしれない。そんな魂胆も確かにあったが、それだけではなかった。

 嬉しかった。もう二度と、陽の当たる世界では生きられない者。同じ世界の住人に、ようやく出会えた。この男になら、俺の過去を話せる。俺のクソみたいな人生も、この男に話せば笑い話になる。
 
 正直、抱え込むのは辛かった。ずっと誰かに話したかった。




 山里愛子殺害事件後、東山は関東の医療少年院へと送致された。俺たちが通っていた中学は世間から好奇の視線を浴び、連日見物客の絶えぬお祭り騒ぎで、常日頃なにか大きなことをしたいと思っていた俺としては、実に鼻が高かった。

 東山逮捕後も、学校生活は概ね快適であった。イジメの主犯格とされていた俺は、「底が知れないヤツ」と皆に畏怖され、腫れ物に触るような扱いを受けていたからである。

 もともと対等な立場の友達を望まず、周りから特別な目で見られていることに喜びを感じる俺には、それは実に心地がいいものであった。しかしここで舞い上がって、自分の思ったことは何でも通ると勘違いしてしまったのが、若さゆえの過ちである。

 中学三年の中ごろ、俺は請われて付き合っていたブスの女を捨て、新たに自分好みの容姿をした女をモノにしていたのだが、付き合って二か月ほど経ち、性行為を申し出たところ、これを断られてしまった。怒った俺は、無理やりにでも関係を結ぶべく、自宅に連れ込もうとしたのだが、女に大声を出され、敢え無く失敗。翌日、友人を連れたその女から、クラスメイトの前で別れを告げられてしまった。

 納得のいかない俺は、その日から、女にしつこく復縁を迫った。当時のことで携帯はガキにまで普及しておらず、手紙を送り付けたのだが、その量が尋常ではなく、一回に三十枚は軽く超え、それを毎日というペースであった。内容は次第に脅迫めいたものになっていき、東山と同じ目に遭わせるといったようなことも平気で書いていた。

 これで命運が尽きた。女の訴えにより、俺は強面の教師連中数名から、会議室に軟禁され、四時間に及ぶ説教を食らう仕打ちを受け、もう二度と女に接触しない旨の誓紙を書かされた。

 気が小さい俺は、それきりすっかり大人しくなってしまった。無論、これで改心したわけではなく、虎視眈々と巻き返しのチャンスは窺っていたのだが、東山の件もあり、教師も生徒も俺へのマークを徹底していたため、動こうにも動けなかった。「裏番長」としてめくるめく学園ライフを送るはずが、パシリの一人も持てず、並み程度の女にも手を出せない体たらくを演じたまま、中学校を卒業してしまったのである。  

 最後には不本意な結末を迎えてはしまったが、自分の生き方が間違っていると思ったわけではない。東山との「生存競争」を経て、俺は、世間一般で正しいとされる価値観に背いて生きていく――悪の集団に身を置くことこそ、俺の唯一生きる道と確信していた。それを実践すべく、俺は高校に入ると、安直ではあるが不良グループの仲間入りをし、本格的に逸脱者としての道を邁進しようとしていた。

 髪を茶色に染め、ピアスを空けて、学校にロクに行っていないか、もしくは完全に辞めてしまっているような奴らと一緒になって繁華街に繰り出し、明け方まで遊びほうけるなどして、初めは仲良くやっていたのだが、三か月も経たないうちに、俺と仲間との関係はギクシャクし始めた。

 中流の経済力を持った家庭に生まれ育ち、比較的まともな親に、比較的まともな躾を受けて育てられた俺は、いつの間にか、貧困家庭に育ち、挨拶一つできず、箸の使い方一つ知らない不良の仲間を見下していた。俺のそんな優越感は、コンプレックスの塊で、自分に向けられる悪意に人一倍敏感な不良どもにはすぐに伝わってしまったようで、彼らは俺の知らない間に、俺に対する不信感を鬱積させていたらしい。

 俺は悪ではあったが、けして非行が好きなわけではなかった。俺がやりたいのは、真っ当な学生生活を送る上で、俺に何らかの不快な思いをさせたヤツを痛めつけることであって、不良どもがやっているような、夜中に騒ぎまわるとか、地域をゴミで汚すとか、自販機を荒らすとか、夜中に原付バイクをパクって乗り回すとか、他校の大人しい生徒を恐喝するとかいうことではなかった。何の恨みもない人間に危害を加えたり、利益を損ねる趣味はないのである。 

 やりたくもない非行に渋々手を染めて、彼らの目的である、ただ単に寂しさを埋めるためだけの共同体意識を形作っていくことに貢献しても、彼らが俺の要求のために動いてくれるわけではない。不良などやっている奴らは、恨みを直接本人にぶつけることもできない臆病な連中であり、連中に何かを期待したことが間違いの大元であった。

 そもそも、変な話、当時の俺は、自分のことを、それほどの悪人だと思っていなかった。言われるなら、あまのじゃくとか、捻くれ者ではないか。俺は普通のことをやっているつもりなのに、なぜか周りからは、それは悪だと言われるせいで、ああ、俺は悪なのかと思うしかなかった・・というのが、実情に近い。

 年齢を重ねた今は、自分の何が悪いと思われているのか、何が人と違うのか、ある程度はわかるようになったが、子供の頃は本気で、自分がなぜ周りから非難されるのか、お前は悪だと言われるのかわからず、自分は理不尽に怒られているだけだと思うことが多かった。そんなことの繰り返しで、ますます捻くれていったともいえる。

 俺は根っからワルいのではなく、人の群れに馴染めないだけなのである。真っ当な世界が面白くなくなれば悪に走ろうとするが、悪い世界で何もオイシイ思いができなければ、また真っ当な世界を懐かしみ出し、真面目に勉強しようとか、社会規範を守って生きようとか考え出してしまう。真っ当な世界に戻って、やっぱり面白くなければ、また逸脱者の虫が疼き出す。善であろうと悪であろうと同じことで、俺は結局、自分が中心になれない、自分が注目されない世界が面白くないだけなのだ。

 結局、不良グループとは、些細な揉め事をキッカケに本格的なトラブルとなり、目玉を潰すとか、家を燃やすとか脅される騒ぎにまで発展した。その際、相変わらず教師の前ではいい顔をしていた俺は、学校に泣きついて助けを求め、後日、呼び出しを受けていた不良グループの集会に、高校の教師連中数名が乗り込んで話しをつけてくれるという形で、決着はついた。

 あのとき、教師たちの後ろに隠れている、裏切り者の俺に向けられた不良どもの眼差し――生まれながらに貧困のスパイラルに取り込まれ、キレイごとなど一切響かない世界で生きてきた不良どもが、同じ穴のムジナだと思っていた俺に、実はまだ、人は努力すれば幸せになれるという神話、人は生まれながらに平等であるというおとぎ話の中に居場所が残されていたと知ったときの眼差しは、味わい深い思い出として残っている。俺は男の世界では敗者となったが、社会の枠組みの中では、紛れもなく勝者であった。

 その後しばらくは繁華街などにも足を踏み入れず、大人しくしていたため、リンチを受けることもなく、金もとられることもなく、平穏無事に不良グループとの縁を切ることはできたのだが、かといって、真っ当なグループの中に居場所を見つけられたわけでもない。その後の高校生活で、俺は特に大きな問題を起こすことはなかったが、特別大きな喜びもない、ズルズルと地盤沈下していくような学生生活を送った。

 東山との「生存競争」を再現することも、ついにできなかった。俺が人生の中で唯一輝けたあの出来事は、東山という、もう一人の社会不適応者がいてこそ実現できたものであった。高校からは義務教育ではない。どうしても適応不可能な人間は、排除され淘汰される。その意味では、俺はまだ世間から「望みがある」と思われていたともいえるが、住みやすい環境を提供してもらえるわけでもない。ゴキブリを捕食していたアシダカグモが、ゴキブリがいなくなった途端、同じ不快害虫として駆除の対象となるように、俺は常に、学校社会の中で生きづらさを感じていた。

 高校では、仲の良い友人も恋人も一人もできず、卒業したら全員音信不通。「生存競争」以来、コツコツと努力することをバカにしていた俺は、勉強もほとんどしなかったため、名前が書ければ入学できる五流大学にしか進めなかった。

 大学に上がっても、俺は相変わらず日陰者の扱いで、友達も女もできず、時間を持て余していた。気付けば、独裁者になって国家を支配するとか、女を思うがままにするとかいった空想に耽るのが日課となり、インターネットの匿名掲示板に入り浸るようになっていた。

 匿名掲示板――そこにいたのは、俺とまったく同じ人種であった。何をやっても報われず、社会の中に充実感を得られる場所を見出すこともできず、ひたすら幸せな人間を妬んでいるが、悪に染まりきることもできず、口先ばかりで大胆なことは何一つできない。友達も女もおらず、時間は腐るほどあるのに、今より少しでもまともになろうと努力するわけでもなく、ただただ、身の丈以上の成功願望と、猛烈な自己顕示欲ばかりを持て余し、自分の殻に閉じこもり、燻ってる。

 「同類」は山ほどいる。自分が特別に情けない人間ではない、とわかって少し楽になったが、傷を舐めあっても、人生が好転するわけではない。結局、五流大学は二年で中退し、俺は実家暮らしのまま、フリーターとなった。

 積極的に、何か夢があるとかで、レールから外れたわけではない。ただ単に、同じ世代の歩みについていけなくなり、ドロップアウトしただけである。当然というべきだが、始まったのは学生時代に輪をかけてつまらん、最悪の毎日であった。

 自立など到底できない低賃金。スキルも身に付かない単純労働。しかしそこですら、俺は落ちこぼれの烙印を押されてしまった。

 俺の脳は、致命的に仕事に向いていないようだった。単純ミスを繰り返すくせに、手は遅い。労働における作業効率が、人よりもかなり悪かった。高校一年生で、人生初めてのアルバイトである牛丼屋に勤めたのを皮切りに、ファミレス、引っ越し屋、郵便局の仕分け、ガソリンスタンド、建築関係など、二十五歳になるまでの十年間に、三十以上のアルバイト先を渡り歩いたが、どこへ行っても、何をやっても、使えない、やる気がないと罵られた末、半年も経たないうちに退職という結末を迎えるだけであった。

 やる気がない―――間違いではない。だが、そもそも、たかがバイトにやる気がある奴など、どれだけいるというのだろう。長く続けても給料が上がるわけでもない、今後の人生で役に立つなにかが身に付くわけでもない、安価な労働力を確保したい企業に搾取されているだけの立場で、正社員並みのモチベーションでやっているヤツがいたとすれば、それこそただのバカでしかないだろう。
 
 やる気なんてみんな無い。みんな、やる気があるフリをしているだけである。言う方だって、一々説教している暇もないからそういう言い方をしているだけで、本当はわかっている。俺の問題は、やる気がなかったことではない。普通ならやる気がなくてもできるような仕事が、やる気を出さないとできないことだった。

 集中力、注意力、持続力などの基本性能が、そもそも劣っている。労働の現場だけではなく、学校生活でもうまくいかなかったことから考えても、正式な診断を受けたわけではないが、俺の脳は、何か発達障害のような、機能的な問題を抱えているのだろう。だとするならば、俺は生まれながらに、人よりも遅れた位置からのスタートを強いられていることになる。

 自分が人より劣っていると感じたとき、人と同じようにできるように、懸命に努力しようとするヤツもいる。世間では、そいつらは素晴らしいヤツのように言われるが、俺に言わせれば、そいつらの方が問題なのである。できる側に迎合しようとするいじましい奴らの方が当たり前だと思われるせいで、できない人間でも生きていけるように、世の中の方が変わるべきだと考える俺のようなヤツの声が掻き消され、踏みにじられていくのだ。

 皆が「ゴールに向かって走っている」中、なぜ俺だけが、「スタートラインに着くための努力」を強いられなくてはならないのか。それは理不尽ではないのか?人より余計に努力して、やっと人並み。それでどうして、やる気が出るというのか?そんな小さな志には、小さいなりのエネルギーしか出ない。やる気を出せと言われるほど、逆にだらけようとする俺は、どこで働いても嫌われた。

 それでも、プライベートが充実していたら、苦手な仕事も、もっと一生懸命頑張ろうと思えたかもしれない。日常生活でなにも楽しいことがなかったから、仕事のやる気もまったく湧いてこなかったのだ。

 とにかく、女にモテなかった。

 それなりに、動いてはいたと思う。中学を卒業した十五歳から、二十五歳になるまでの十年間で、学校やバイト先、インターネットの出会い系サイトなどを通じて知り合った、計七人あまりの女に、真剣な交際を申し込んだ。しかし、そのうち承諾を貰うことができたのは、わずかに一人。そのただ一人付き合ってくれた女とも、俺の方になにか不手際があったのか、単に女の気が移ったのか、二か月以上は関係が続かなかった。

 情は薄い方なのかもしれないが、人並みに、愛した女を大事にしたい気持ちはあった。束縛をする方でもないし、服装や髪形など本人の好みや、家事などの細かいことにケチをつけるような、ケツの穴の小さい男でもない。女が俺のところに居てくれるうちは、それほどうるさいことはいわないし、優しくもするつもりだった。

 それなのに、女ができない。俺にDVとか、何か落ち度があって逃げられるというならともかく、見向きすらされない。

 中肉中背。白くも黒くもない肌。眠そうな一重瞼、低い鼻、色素の薄い唇、骨ばった輪郭、癖っ毛。大学中退。特に気が利く方ではない。特別しゃべりがうまいわけでもない。

 自分に男としての魅力が乏しいのはわかっていたから、高望みはしなかった。社会的な成功を収めることには高い理想を掲げる一方、俺は女に関しては一転して実用主義で、並みかそれ以下クラスの女ばかりを狙って、声をかけていた。女にモテないといっても、俺の方が女を選り好みしていたのであれば同情も買えないだろうが、俺は早い段階から、当たりの大きさよりも率を重視し、十点満点中五点程度の女に狙いを定めていたのである。

 非力なジャッカルは、逞しいシマウマを狙おうとしても、蹴り殺されるだけなのをわかっている。ゆえに食指も動かされないし、シマウマの肉を食べられるライオンに嫉妬する気も起こらない。自分の力をよくわかっているジャッカルは、シマウマには目もくれず、深い草藪の中に潜む野ウサギを探し出す作業に専念する。

 目の保養などと言っている場合ではない。いくら十点満点の美女だとしても、眺めているだけでは、股間の疼きは解消されない。女は観賞より実用だ。美女どもにとって、俺は眼中にないのかもしれないが、俺の方こそ、やれもしない女などには、何の魅力も感じないのである。

 しかし、俺の方が謙虚に、自分の身の丈に合った女を求めているからといって、向こうもまた同じように、自分の顔面相応の男を受け入れるとは限らない。普段、美女に苦い思いばかりさせられている醜女こそ、今まで積み重ねてきた屈辱と惨敗の歴史を一挙にチャラにするために、有り得ないような高望みをしているということもある。そういう女は決まって、俺のようなモテない男に言い寄られると、ここぞとばかりに想いを踏みにじって、ズタボロに引き裂かれた己の自尊心の補修を図ろうとしてくるのである。

 誰もが認める美女に振られたのであれば、まだ納得できる。別に美女が醜女より偉いというのではなく、そういう競争率の高い女に挑んだ自分が悪い、無謀だった、と、冷静に考えることができるということだ。果敢な挑戦の深層心理には、実は負けたときの保険――逃げ、守りが含まれている、という見方もある。

 本当にダメージが大きいのは、美女に振られたときではなく、同じ穴のムジナに振られたときである。そうなったときは、言い訳の余地もなく、自分自身の、本当の価値と向き合わなくてはならなくなってしまう。

 どう考えても俺程度の男で妥協しているべき女に言い寄って振られたとき、俺は崩壊したプライドを修復しようと、相手の女に激しく執着し、メールを何十通も送りつけたり、待ち伏せをしたり、家の窓を破壊したりなどの、ストーカー行為を働いた。

 そうなってしまったときの俺には、もう、女への恋心や、自分と付き合ってほしいと思う気持ちは霧消している。あるのはただ、恐怖でもなんでもいいから、女に自分の存在を認識させようという気持ちと、俺を差し置いて、他の男と付き合ったらどうなるかわかっているか、という警告だけである。

 ストーカーは、相手が大好きだから粘着するのではない。相手に傷つけられたプライドを回復するために粘着するのである。プライドが傷つけられるのは、美女よりも醜女に振られたときの方である。未来永劫明らかになることはないだろうが、世界中のストーカー被害者を一人ずつ並べて見てみれば、実は美形よりも、こんなのストーカーしてまで手に入れたいか?と思うような容姿をした女の方が多いのではないだろうか。

 五流大学を辞めた直接の理由も、実はストーカー行為だった。中学時代と同じように、惚れた女に執着心を露わにした行動をとった結果、相手の親や、女の友人から散々に叩きのめされ、大学に居づらくなって、尻尾を巻いて逃げ出したのであった。

 東山との「生存競争」から十年あまりの月日が経ち、二十五歳になるころには、俺も自分の生き方が間違っていたことを認めざるを得ず、軌道修正のタイミングを伺い始めていた。すなわち、世間で正しいとされる価値観に従い、地道にコツコツ、堅実に生きていく道を模索し始めていたのである。

 意識を変えるためには、キッカケが必要だった。自分の十年間を完全に否定し、今までずっと疑い続けてきた生き方にシフトしようというのである。何かしらの根拠――そっち側が正解だという、わかりやすい根拠が必要だった。

 俺が世間に跪くための条件として求めたのが、女であった。女、女、女―――あの時期に女を得られていたら、俺の運命は変わっていたと思う。人生の伴侶を得ること。自分にも人並みの幸せは許されていると知ったならば、十分、「降伏勧告」を受け入れられたと思う。実入りは少なくとも堅実な仕事を探し、嫌なことがあっても歯を食いしばって耐え、野に咲く草木花の美しさに感動するとか、今日の晩御飯はハンバーグだとか、日常の小さな幸せに満ち足りながら生きていく、そんな人生も受け入れられたと思う。死ぬ気で頑張って、金持ちになるための努力もできたかもしれない。

「スタートラインに立つための努力」ではなく、「ゴールに向かうための努力」だったら、がむしゃらになることもできたはずだ。

 「和平」の道はあった。ただ一人、「健康で文化的な最低限度の」容姿の女を与えられる。それだけで、俺は世間と手を結ぶことができたのに、神は俺の求めた条件を突っぱねた。自分が人間社会に受け入れられないことを納得するかわりに、人生の伴侶を求めた怪物を見放したフランケンシュタイン博士のように、神は俺に、唯一の安らぎを与えてもくれなかったのである。

 「健康で文化的な最低限度の女」も与えられない人生などは、俺にとっては、平均を大きく下回る、生きる価値もない惨めな人生である。女を得るための努力を何もしていないというならともかく、高望みもせず、それなりに動いたうえで、まったく相手にされないというのなら、「社会」「世間」を恨む理由にもなる。自分に平均程度の人生も保証しない社会、世間に報いようとし、真面目に生きようとするヤツ――「無条件降伏勧告」を受け入れるのは、俺に言わせれば底なしのバカだ。

 二十五歳を過ぎたころ、俺は突如、うつ病にかかったと主張して、アルバイトも辞め、家に引きこもり始めた。このままやっても、自分には平均程度の人生もないと悟った俺は、社会に出ることそのものを放棄し、今まで舐め続けた辛酸を、勤労の義務を怠ることで取り返そうとしたのである。

 最初はタダ飯を食らうのと、病院代と称して毎月一万円の小遣いを貰うだけであったが、病院仲間との付き合いと称してもう一万円、人として最低限の娯楽のためにもう一万円・・・・と、額を吊り上げて、小遣いの額が五万円にまでなったところで、さすがに親も堪忍袋の緒が切れた。子どものころから、親との関係は良くはなかったが、これで決定的な罅が入る形となり、毎日のように諍いを繰り返した。

――いつまで穀潰しでいる気だ!もういい年なんだから、家を出ていって一人で生きるか、働いて家に金を入れろ!

――鬱などは甘え病だ!嫌なことがあっても、気にしなければいいんだ!乗り越えろ!我慢しろ!くよくよ落ち込んでいないで、前向きになれ!
 
――何事にも手を付ける前から冷めた目で見るな!ちょっとうまくいかなくなったからって、すぐに投げ出すな!すべてお前個人の問題だ!とにかく努力をしろ!

 


 親と子の世代間対立。程度の差こそあれ、どこの家庭でも繰り広げられる光景である。一億総中流時代の気分が抜けきらない両親には、少ないパイを多数の人間で奪い合う若い世代の惨状が、十分にはわかっていなかった。職でも女でも何でもそうだが、枠に限りがある以上は、努力しても報われない層は、一定数出てきてしまう。その枠が、自分たちの時代に比べて少なくなっている現実にもう少し理解を示してくれれば、俺の方もそこまで頑迷にはならなかった。とはいえ、やはり、俺の要求が傲慢過ぎたこともある。お互いがほんの少し、相手のことを思いやれれば、違った未来があったのかもしれないが、うちの家庭の場合は、止まれなかった。

――雨風を凌げる家があって、毎日ご飯を食べられるだけで、ありがたいと思え!日常の小さな幸せに、喜びを見出せ!ここまで育ててやった親に感謝をしろ!

 結果的には、この一言が、俺が両親を完全に敵と見做す、決定的な原因となった。

 両親は、発展途上国で、食うや食わずの生活を送っているような子供に比べて、俺がいかに恵まれ、また自分たちの育て方がいかに正しかったということを言いたかったのだろうが、そんなのは極論ですらない暴論だ。俺は経済大国であり、食料にはまず不足することのない平和な日本という国の中で、同じ世代の若者を並べて比較したときに、自分の幸せが百点中二十点か三十点くらいしかないことに悩んでいるのである。自国内での相対的貧困と、他国の絶対的貧困を比較して恵まれているなどと言われても、何の慰めにもならない。

 相対的貧困にしても、二十点や三十点の人間に、〇点や十点もいるのだから我慢しろと言うのはおかしい。自分より不幸な人間がいる限りは弱音を吐いてはいけないという論理を突き詰めれば、世界中で一番不幸せな人間以外は、みんなが自分は恵まれていると思わなくてはならないという話になってしまう。雨風を凌げて、飯を食わせてもらえるだけで感謝しろとは、お前らは犬を産んだとでもいうのか?

――貴様ら、頼みもせんのに俺を産み出しやがって。努力、努力というが、じゃあ貴様らは、努力すれば成功できるだけの才能を、俺に与えたのか。俺を平均以下に産んでおいて、あとは勝手に努力しろとは、なんとも勝手な言い分だな。貴様らが糞みたいな遺伝子を俺に与えやがったから、俺は社会でこんな苦しみを味合わなくてはならなくなったのではないのか。才能を与えなかったのだから、せめて金ぐらいは与えて、責任を取れ。

――儒教国でもあるまいし、なぜ産んでもらっただけで親に感謝しなければならないのだ。俺は生きていても楽しいことなど何もなかったのに、どうやって感謝をしろというのだ。お前らはむしろ、俺に謝らなくてはならないはずだ。誠意を金で示せ。


 生きることが苦しみでしかない人間が、その生を与えた人間に感謝できる道理など、あるはずもない。俺はこれまでの人生で味わった苦痛を、親の金を使って清算し始めた。毎月きっかり二十万をむしり取り、酒、ギャンブル、風俗、外食に浪費する生活。金の無心を断られれば激しい暴力を振るった。犬の首輪をつけて監禁したことさえある。

 自分には特別な才能は何一つないと思っていたが、「やり過ぎる」、という点においては、俺は突出したものを持っていたのかもしれない。

 普段の俺はけして大胆ではなく、無暗に人を攻撃するわけでもない。凶悪犯罪者にありがちな動物虐待の経験など一切ないし、血を見て興奮するような趣味もない。不良時代など、何の恨みもない人間に暴力を振るったときなどは、人並みに胸の痛みも感じたものだ。

 ただ、自分が一度恨みに思った人物に報復を始めると、歯止めが利かなくなった。東山との「生存競争」が、まさにその性質がフルに発揮された結果で、俺は真っ当な恨みだろうが逆恨みだろうが、俺に一定以上の不快感を味あわせた人間相手なら、一切の躊躇なく、すべての尊厳を踏みにじることができた。

 幼少のころから過ごした家は、阿鼻地獄と化した。俺に血、肉、骨を与えた父、母を殴り、蹴るのは、幼少のころからの思い出を破壊していく作業であった。二十五年の生涯には、楽しいことも、生まれてきてよかったと思えることもあったはずだが、そのすべては、このとき塗りつぶされた。人らしい心があったときの、楽しい思い出をすべて叩き壊し、自分自身を、生まれついての悪鬼とすることによって、罪悪感を麻痺させた。親の資産すべてを、俺が今を楽しむことに充てた。

 怠惰と豪遊、暴飲暴食に明け暮れる中で、俺の体重は三桁寸前にまで増加していった。この世の醜さをすべて集めたような容貌となった俺が、か弱いものを犯すというシチュエーションに性的な興奮を覚えて、公園で遊ぶ幼い女の子の目の前でマスターベーションに耽るようになったのは、この時期のことである。

 二十件ほど犯行を繰り返したところで逮捕され、起訴されて拘置所まで行った。執行猶予つきの有罪判決を受けるまでの約三か月の間、規則正しい生活を送って、ほとんど元通りの体に戻ったところでこの性癖もなくなったのだが、最後に俺がいたずらをしたときのこと――後頭部に俺の大量の精液を浴びながら、何が起こったか気づかず、鼻を垂れながら無邪気に砂遊びを続けていた幼女の間抜けな面と、宝物を汚された母親の引き攣った顔を思い出すと、今も催してしまう。

 拘置所から出て家に帰ってみると、両親が壊れていた。母親は言動が支離滅裂になり、髪の毛をすべて引き千切って、夜中に奇声を発し始めた。殴ったらますますおかしくなり、手に負えなくなったので精神病院に放り込んだ。身も心も弱り果てた親父は睡眠障害を患って働けなくなり、しばらくして、何もかも捨てて何処かに去っていった。

 両親の貯金はすべて食いつぶしており、俺に残されたのは持ち家だけとなった。親の庇がなくなった後も贅沢をやめられなかった俺は、家を売りに出して現ナマを作り、アパートで暮らしながらそれまでの生活を維持していたが、一年が限界だった。慌てた俺は知恵を絞り、障害者枠に入って、年金と生活保護だけで暮らす道を模索したが、審査は厳しく、手帳の取得は叶わず、働くしかなくなった。



「・・・てな感じ。もうすぐ家に着いちまうから、いったん終わりにしよう。続きはまた今度、な」
 隣町のファミレスから派遣会社の寮までは、車で三十分はかかる。丸菱運輸の倉庫の近くにも、飲食店は幾らでもあるが、会社の連中に俺と話しているところを見られたくないという東山に配慮して、わざわざ電車とバスを乗りついで、遠くまで足を運んでやったのだ。

「さあ、俺がここまで話したんだ。今度はお前の人生を聞かせてくれよ」

 ひとしきり喋り終えた俺は、再度、東山に水を向けた。

「・・・・・・・・少年院では誰よりも熱心に課題に取り組み、何度も表彰を受けた。外に出たら一緒に犯罪集団を組んで、また悪さをしよう、などと話し合うようなどうしようもない奴らを後目に、真面目一途に更生に取り組む俺は、先生たちから毎日のように褒められていた」

 俺の自分語りで何かを感じてくれたのか、ようやく東山が、少年院に入って以後の己の人生を語り始めた。俺は長広舌で渇いた喉を、東山に買わせた茶で潤し、話に聞き入った。

「模範的な態度が認められて、当初、成人するまでの五年の見込みだった特別教育の期間を三年にまで縮めて出所した俺は、保護司の紹介で運送屋に入った。一日十五時間労働、土曜も日曜もない過酷な毎日で、給料は手取り二十万。生活は楽ではなかったが、俺は被害者さんへの送金を欠かしたことはなかった。同僚の奴らは給料が低い、仕事がキツイと愚痴を零してはすぐ辞めていったが、俺はそんな根性なしどもとは違う。一生懸命に働き、会社に忠誠を尽くして、入社三年で経営幹部にまでなった。その会社は俺が二十五歳のときに潰れたが、すぐに今の会社に再就職して、給料は以前の倍になった」

「ふうん・・・すげえじゃん。奥さんとは、どうやって知り合ったの」

「今の会社に入社したころ、同じ会社で事務員をやっていた女房は、当時結婚していた男からのDVに悩んでいた。話を聞いた俺は家に乗り込み、そのクズ男を成敗して、女房と別れさせた。その後も親身に相談に乗るうち、俺の方が好きになっていた。男性恐怖症気味になっていた女房には交際を断られたが、俺は諦めなかったよ。一年も二年も、繰り返し交際を申し込み続けて、ついに承諾の返事を貰うことができた。そして結婚し、娘も産まれた」

「泣けるねえ。涙がちょちょぎれるような、感動のサクセスストーリーだねえ」

「男は社会に出たら、自分ひとりの器量の勝負なんだ。罪を犯した者でも、努力をすれば必ず成功できるんだ。俺はお前とは違う。犯した罪を反省もせず、だらだらと怠けながら生きているお前とは違う・・・」

 不協和音を耳にしたような、なんともいえぬ心地の悪さが胸に広がる。東山の口から語られる、殊勝な心掛けのようなものの裏に見え隠れするのは、傲慢さと歪んだ自己顕示欲。やはりこの男の歯車は狂っている。どうしようもないほどにだ。

 東山は根本的な勘違いをしているのか、わかっていて目を背けているのか知らないが、世間から見れば、山里愛子を殺害してしまった時点で、東山はもう、スタートラインから先には永遠に進むことができない人間になってしまっているのだ。本人がどれだけ努力しても、世間の連中は褒めてはくれず、償いとして当たり前のことだとしか見てくれない。承認欲求を満たそうとすれば、人としてのスタートラインにも立っていない、俺のようなダメ人間を見下して悦に耽るしかないが、それをしながら、「男らしさ」を売りにするという矛盾に、本人はまったく気が付いていない。山里愛子を殺害した償いは済んだと思っているようだが、それを人にアピールしている時点で、自己満足しているだけにすぎない。反省したかどうかというのは自分ではなく、他人が判断するものである。

 世間で正しいとされる価値観に染まれないが故に、悪の道に走った俺と、正しい道を「暴走」しようとした東山。あれから十八年の時を経て、二人のうちリードしていたのは、あるいは東山の方かもしれない。三十を過ぎて零細派遣会社で働き、借金まで抱えている俺に対し、東山は田舎の運送会社とはいえ管理職にまで出世し、結婚して子供までいる。人の価値を収入や社会的地位で測るならば、確かに俺は、東山に大幅に後れを取ってしまっているのかもしれない。

 しかし、歪んだ人格がすっかり凝り固まってしまった結果、世間で正しいとされる価値観からより離れてしまったのも、東山の方である。他人の気持ちを想像することができず、己の立場を客観視することもできない、自己中心的な性格。自分と違った考え方の人間とまったく折り合いをつけられず、気に食わなければ力ずくで取り除こうとする排他性。身体はでかくなったが、東山の根っこは、イジメられっこだった中学時代の東山円蔵くんのころから、何一つ成長していない。

 この性格では、他人から散々、余計な恨みも買っているに違いない。俺がバラさなくても、いつかはこの男の過去は、東山を追い落とそうとする誰かの手によって調べられ、白日の下に晒されてしまうだろう。

 殺人犯という自分の分を弁え、目立たず、騒がず、静かに、孤独に生きていれば、誰の恨みも妬みも買うこともなく、それなりに楽しく、穏やかな一生を送ることもできただろうに・・・。目の前でハンドルを握る男は、紛れもなく大馬鹿者、底の底まで愚かな男である。

 だが、俺は東山の生き様を、諸手を上げて支持する。

 過去にどんな罪があろうが関係ない。どんなクズのようなヤツでも関係ない。人生は楽しんだモン勝ちだ。自分は殺人犯だからと、ダメ人間だからと、クソみたいな人生を送ってきたからと、自分に勝手に蓋をして、くだらない社会なんぞに遠慮して、可能性の閉ざされた人生を送るよりは、思い通りに行かないこと、都合の悪いことは全部他人のせい、社会のせいにして、好き勝手に生きた方がマシだ。世間から袋叩きに合うリスクを承知で、家族を作り、努力して出世までした東山のことは、旧友として鼻が高いし、尊敬さえする。

 反省などクソくらえ。エゴが強すぎる自分を直そうとせず、自分のエゴを最後まで貫き通した東山こそが正解なのだ。

 だから俺も、自分の過去は一切反省せず、自己責任の範囲内で、東山から金をむしり取り、自分なりの幸せを手に入れる。他ならぬ東山が教えてくれたこと――くだらない世間の価値観など無視すれば、人間の可能性は無限だ。 

「俺はお前なんかとは違う。お前のようなクズとは違う・・・」

 俺が自らの散々な過去を打ち明けたことで、東山は中学時代のトラウマを払しょくし、苦手意識を克服できたようだ。他人を見下すことでしか己の存在価値を認識できない東山に自信を与える役割を果たしてあげられ、俺も慊焉たる気分である。これで溜飲を下げてもらって、気持ちよく金を吐き出してほしいものだ。

 俺を見下したいならば、いくらでも見下せばいい。俺のプライドは山よりも高いが、金に代わるプライドはない。相応の金にさえなるのなら、俺は裸で土下座もするし、靴の裏でもなめてやる。世の中に、貧しさほど惨めなものはない。プライドを売り払って金になるならば、これほどボロい商売はない。

「クズでもゴミでも構わねえけど、払うもんはきっちり払ってもらうぜ。今の職と家族を失いたくなきゃあ、俺の言われた通りにするんだ。お前の命運は俺が握ってるんだぜぇ、東山ぁ」

 デミオが、ゆっくりと停車する。身を起こして、サイドウィンドウから車の外を見ると、周囲には木々が鬱蒼と茂っていた。見慣れない風景。派遣会社の寮には、まだ到着していないようである。
「なんだよ、小便かい?」

「・・・・」

「おい、東山・・・」

 いつの間にか車内には、はっきりと感じ取れる、嫌な空気が立ち込めていた。人の道を外れた者にしか発することができない、濃い瘴気である。

 すっかりいい気分になっていて、つい油断した。非力だった中学時代の東山円蔵くんのイメージが抜けていなかった。口ではきれいごとを吐き、真っ当な人生を送っているかのように語るこの男だが、一皮剥けば、かつて同級生を滅多刺しにして殺害した、冷血な殺人鬼なのである。

 一歩も動けなかった。車から飛び出したとしても、酒に酔った今の俺では、体力に勝る東山から逃げきることはできない。まな板の上の鯉の如く、ただ何も起こらぬことを祈るしかないのである。

 祈りは叶わなかった。東山が修羅の形相で振り向き、恐ろしい速さで後部座席に移ってきた。

 東山の、グローブを嵌めているような巨大な手が、俺の頸動脈を締め上げる。同じ人間とは思えない怪力。声をあげることもできない。窒息するより先に、首の骨が折れてしまいそうだった。糸ミミズのような血管が幾つも浮かんで真っ赤になった双眸。あの山里愛子も、今わの際に、この恐ろしい眼を見たのだろうか。

 やがて意識が遠のいていく。視界がぼけて、歪んで見える東山の顔はアホのようだ。脳内の酸素が枯渇して苦痛は薄らぎ、逆に天に昇るような快感を感じる。

 いよいよ、俺の悪運も尽きようとしている。死ぬことに恐れはない。こんな、何の展望もない人生に縋りつく理由は何もない。ただ、できれば自分の人生には、自分の手でケジメをつけたかった。俺を泥の底まで落とし込んだ奴ら・・俺を排除したこの社会で楽しそうに暮らす奴らに、せめてもの傷痕を残してから死にたかった。俺に幸福になる芽がないのなら、せめて道連れを増やしたかった。

 まだ俺には、やり残しがある。

「かはぁっ!」

 酸欠でブラックアウトしていた視界に色が戻る。東山はドライバーズシートへゆっくりと引き上げていく。

「お前は、殺す価値もない悪魔だ」

 間一髪のところで思いとどまった東山は、今度こそ派遣会社の寮に向かうべく、車を走らせ始めた。恐ろしさで身がすくみ、言葉を返すこともできない。

 これから東山を強請り続けるとしたら、また自分の身に危険が及ぶこともあるかもしれない。しかし、やめるつもりはない。学も資格もなく寄る辺もなく、若くもない俺のこんな人生がマシになるとすれば、何であれリスクを回避することはできないのだ。

「長ぇ付き合いになりそうだな・・・。よろしく頼むぜ、東山ぁ」

 寮に辿り着く直前で、何とかそれだけ絞り出した。東山はなにも答えなかった。
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津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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