第五章  201×年 1月~12月 新年会


 午前四時――。同棲する高校時代の後輩、希美の寝息が聞こえる傍らで、寺井誠也はPCの映像制作用ソフトを用い、今年一年に撮りためた映像の編集作業に勤しんでいた。

 工場の同僚にはシナリオライターを目指していると言っているが、昔、クリエイター志望の仲間と自主制作映画を撮っていたときは、監督や助監督も務めていたし、美術を担当したり、カメラを回すこともあった。

 かつて、毎年一本は一緒に映画を撮影していたクリエイター仲間たちとは、体調面や仕事の都合でスケジュールが合わないことが多くなり、たまに集まることがあっても、酒の席で近況を報告し合う程度と、活動実態のないただの慣れ合い集団のようになっていた。

 ここ三年ほどは、公募に出すための脚本の執筆に専念していた寺井が久々に撮った映像作品が、この一年、派遣労働の現場で働く自分自身を取材対象とした、ドキュメンタリー映画である。

 監督、脚本、主演の三役に加え、撮影も編集も、すべて自分だけの手で行う。助手も役者も一切使わず、デジカメとスマホだけを用いて、自分のモノローグを合わせながら、淡々と、身の回りで起きることを映像に残した。

「僕はこの映画によって、自分が世の中に評価されることは夢見ていない。まだ正式なタイトルも決まっていないこの映画は、僕が自分を終わりにするために撮り始めた映画である」

 寺井は希美を起こさないよう押し殺した声で、映像制作ソフトにナレーションを吹き込んだ。

 工場の連中に、自分が今、この場所を舞台に、映画を撮っていることを知っている者は誰もいない。撮影はすべて盗撮であり、工場内部の映像を撮るときも、工場側の許可は一切取っていない。

 お陰で、ネット界隈で話題になりそうな、刺激的な映像を沢山、カメラに収めることができた。今、寺井が編集しているのは、寺井がかつていた伊達巻のラインで、ゴリラの牛尾が、「弟子」の及川の頭を、攪拌用のヘラで引っぱたいているシーンである。

「非正規の派遣労働者の多くは、複雑な思考が苦手なタイプと、思考回路が複雑すぎるタイプに大別できる。前者の行動パターンを予測するのは簡単だが、彼らを思った方向に導くのは難しい。よく悩むこともなく結論を導き出し、前しか見ずに突き進んでしまう人間には、つけ入る隙が無いからである」

 解答を出すのが早すぎる人間は、行き詰まるのも早い。たかだか時給千百円のライン作業で、人生の頂点に達した気になってしまっているような井の中の蛙たちの世界観に自ら取り込まれに行くなど、寺井には正気の沙汰とは思えなかった。が――。

 井の中の蛙でいれば、余計なことに目を向けなくて済む。それがずっと続けば、それが一番幸せなのだろう。四十六歳という年齢で、先のことをすべて諦めた男が行き着く道としては、間違ってはいないのかもしれない。そこまでして生きたいと思う気持ちはわからないが・・・。

「後者・・複雑すぎる思考回路を持つ人間を操るのは、一見難しそうだが、実際は、単細胞を操るよりも遥かに容易である。周囲よりも一段高度な次元にいると信じる自分を理解してくれる者がおらず、慢性的な孤独感を抱える彼らは、ひとたび”同士”に出会うと、盲目的に信頼し、心のドアを全開にして何でも話してくれる」

 PCの画面に移る映像を切り替える。プロ野球球団、明和タイタンズの帽子を被った工場の同僚、村上が、東都ブレイサースの帽子を被った元同僚、向井凜の、段になった腹を揉みしだくシーン。

 数か月前、村上が参加していなかった食事会の席において、休日に連れだって野球観戦に行く一回り年上の男との関係を、情愛を超越した崇高な男女の友情であるなどと主張する凜の価値観は、寺井から見ても倒錯しているとしか思えなかった。

 後日、村上に、凜が村上と正式に交際する意志はないと言っていたことを告げると、女と付き合いたくて付き合えない独身の中年男は、自分は都合よく利用されているだけだったと激昂し、凜を誘拐して監禁してしまった。

 村上のやらかした行為自体に、驚きは感じなかった。四十二歳という年齢で、これから一生、非正規の派遣労働者として孤独に働き続けなくてはならない生活と、懲役のリスクを背負っても、一人の女を好きにできる生活。良心などという心もとない箍が外されれば、もう選択の余地もない。

 通報して凜を助け出すのは簡単だが、寺井にはなんのメリットもない。ただ単に、凜の「ありがとう」の言葉を聞くか、欲求不満をこじらせた中年男を意のままに動かすゲームを楽しむか。良心という心もとない箍を外してしまえば、これも選択の余地もない。

 とはいえ、凜とて知らない仲ではないし、むざむざと村上の毒牙にかかってしまうのも不憫であるから、寺井はゲームのプレイヤーである村上に、「クエスト」を用意してやった。

 ゲームのクエストの難度は、クリアできそうでクリアできない、クリアできなそうでクリアできるギリギリのラインが一番面白い。ぽっちゃりした体型が好みだという村上に、凜を犯すまでに、凜との体重を逆転させてみてはどうかという提案をすると、「同士」の言葉なら何でも受け入れる村上は、あっさりと承諾した。

 村上に用意したクエストは、ゲームのもう一人のプレイヤーである凜にとっては、大きな「救済措置」になったはずだった。凜がいかなる手段を用いて村上の魔の手から脱出するかというのも、このゲームの大きな見物の一つであったが、凜は本気で抵抗しようとすることもなく、目の前に出される食料を欲望の趣くままに食らい続け、自らの意志で、村上好みの体型に近づいていった。

 一方の村上は、わずか一か月という短期間で驚異的な減量を成し遂げ、凜との体重を逆転してみせた。断食のほかに、自慰をも我慢するという「縛り」もつけて、ストイックに身体を作り上げた。

 犯罪行為とはいえ、ここまでやれば天晴れ。村上の餌食になりたくないという凜の思いより、凜とどうしても性交を行いたいという村上の思いが勝ったのだ。その精神力を、別の道で使っていればというツッコミはさておき、村上が欲求を極限まで抑え込む修行僧のような姿には、男として尊敬の念さえ覚えたし、寺井の言ったことを忠実に守り抜いた村上の意気には応えてやらなくてはいけないと思った。

 寺井は村上に、あたかも、クエストを達成したご褒美を渡すように、プレイに使う「アイテム」を提供してやった。志保の乳から摂れたミルクである。

 もう、村上の欲望を阻むものは何もない。村上はこれから、自分好みにカスタマイズした二十七歳の女体を、好きなだけ嬲れるのである。 寺井が現在制作中の映画をネットに公開し、すべてを白日の下に晒す、その日まで。

 志保――音声をミュートにした上で、自分の腹の下で恍惚の表情を浮かべている中年女の映像を流すと、三十一歳、近年の感覚でいえば、まだ若いと言われる男のものがそそり立ってくる。

 抜け出したくて抜け出せなかったゴミ溜めを、せめてぐちゃぐちゃに引っ掻き回してからオサラバするための映画の企画は、ゴミのような遺伝子をまき散らすこれから始まった。

「祝福すべき新しい命の誕生が、僕にとっては、すべてを終わらせるキッカケになった。終わりの始まりは、雪の降る寒い日。二〇一×、新年会――」


                             ☆


 派遣社員だけが集まって開かれる、毎年恒例の新年会。寺井世代の多くがそう考えるように、その手の集まりに参加するのは苦痛で、なるべくなら避けたい―――わけでもない。酒は好きな方だし、人の本音が飛び交う場にいることは、創作に大切なこと、人間観察を行う上で有益になることもある。

 新年会の幹事は、大丸食品の工場で六年も働く、古株の真崎信一。寺井が最初に入れられた伊達巻のラインで、リーダーを務めている男。

 真崎は寺井が入社したときから、やたらと寺井にマウントを取りたがり、仕事の指導だけをしていればいいものを、「そもそも仕事とは・・」「男の人生とは・・」と、ことあるごとに余計な講釈を垂れてきた。
 
「寺井。俺はこの工場でお前と出会えたことは運命だと思っているし、弟のような存在であるお前を、できる限りいい方向に導いていきたいと思っている。だから、お前もどんどん俺を頼ってこい。なんでも相談してこい」

 四十四歳、派遣社員。自分こそ、人の心配をできるような立場ではないにも関わらず、他人の価値観を変え、人生をどうにかしてやろうと、上から目線でモノを言ってくる。

 とんでもない人間のようだが、この手の説教オヤジは、底辺にはそう珍しくはない。むしろ、自分が恵まれない境遇だからこそ、必要とされたい欲求を満たすため、他人に干渉してくるということもある。

「寺井。お前が昨日、昔の知り合いの悪口を言っていたことを志保から聞いたが、俺は悲しくなったぞ。人を嫉み、恨んでもいいことはない。寺井も傷つけられたかもしれないけど、その人にそこを追い出されたお陰で、希美ちゃんや俺のように、お前のことを気にかけてくれる人に出会えた。あーよかったな。そう考えることはできないのか?俺も履歴書でいったらボロボロの人生だが、人間万事塞翁が馬で考えているからさ」

 履歴書でいったらボロボロの人生だが・・・。それがわかっているのなら、普通はそこで口を噤む。本来引け目に感じるべきところが、説教オヤジにとっては、逆に人に偉そうにしていい理由になってしまうのである。

「寺井。お前は岡本さんや伊崎さんが、派遣の子たちをバカにしているように見えるかもしれないが、当たり前のこともできないヤツらは、言われて当然なんだからな。お前もああいう風に言われたくなかったら、ちゃんとしないとな」

 自分は完璧に正しい人間であり、人に偉そうに言う資格があると思い込んでいる癖に、相手はちゃっかり選んでいる。人として未熟な部分があったとしても、自分より社会的立場が上の人間には、けして噛みつかない。 

 微妙に言い回しは変えても、言っている内容はいつも同じ。人のせいにするな。お前の頑張りが足りないだけだ。お前が我慢すればいいだけだ。

 みんな、そんなことはわかった上で、それでも割り切れないから苦しんでいる。説教する人間とは、相手を思っているのではなく、他人に正論をぶつけて、自分が気持ちよくなりたいだけだということに、自分で気づけない人間である。

 特に珍しい人種でもないし、言っている内容も珍しいものではない。ようするに、面白みも何もない人間であり、観察の対象としての魅力は皆無。付き合う上でのメリットがなにもなく、得られるのはただ、ストレスだけしかないというのが、寺井にとっての真崎という男だった。

 新年会の席でも、真崎はここぞとばかりに寺井に絡んできた。

「寺井。この前、昔の友達と飲んだ時に、お前の話をしてみたんだ。俺が会社で面倒をみているヤツで、いつか通り魔殺人を起こしそうな、精神的に危ういヤツがいる、とな。友達は言ったよ。そんなヤツに構っていたら、お前がダメになる。そんなヤツは、見捨ててしまえ、とな。俺はすぐに言い返したよ。俺はお前らが何と言おうと、俺のことを慕ってる後輩を、けして見捨てたりしない。俺が責任を持って、アイツを一人前にしてやるんだ、とな」

 真崎はこれで寺井が自分に心酔すると思い込み、渾身の「どや顔」を向けてくるのだが、人のネガキャンを張った上で、そいつの面倒を見る自分がいかに懐の深い人物かを周囲にアピールしただけの話を聞いて、どうやって感動すればいいのか、まったくわからなかった。

「寺井。お前が志保に貸した映画を俺も見たが、あの内容はなんだ。あんなドロドロしたサイコサスペンスなんか撮って。ああいうことを考えているから、これまでの現場で人付き合いがうまくいかなかったんじゃないのか?ああいうところを、直さないといけないんじゃないのか」

 作品を作品として評価するのではなく、作風から作者の人格を決めつけて、それを非難し、あまつさえ矯正しようとしてくる。まるで、プロレスをショーとして楽しめず、ヒールのレスラーにマジギレする客のようだが、ここまで目線がズレていると、もうまともに会話をするのも難しい。

「こんな映画なんか作るより、お前はまだ若いんだから、ちゃんとした会社に、就職することを目指せよ」

 最終的には、寺井に創作活動を辞めさせ、自分が挫折した、正社員の就職を目指させる結末をもって、寺井との関係に決着をつけようとする。寺井の人生をいい方向に導きたいのではく、ただ自分が他人の人生に影響をもたらしたという、満足感を得たいがために。

 入社以来、真崎の言うことは全部、適当に聞き流すことで対処していたのだが、自分が無視されていると思った真崎は意地になった。この半年余り、何かと世話を焼いてやっているのに、なかなか自分に懐かない寺井を心服させようと、真崎は新年会に、一つの望みを託していたようだった。

 縁もたけなわになると、真崎は寺井から一旦離れ、寺井の長年の同棲相手、希美を、己の傍に呼び寄せた。

 真崎の一方的な意見に、無理やり首を縦に振らされている様子の希美。真崎が希美を、寺井を説得する材料に利用しようとしているのは、火を見るよりも明らかだった。

 案の定、話が終わると、真崎は希美を伴い、いつにもまして得意げな顔で、寺井の前にやってきた。

「寺井。希美ちゃんも、本当は、寺井に変な夢を諦めて、安定した会社に就職して欲しいと思っているそうだぞ。そろそろ遊びはやめて、自分の人生に真剣に向き合うときが来たんじゃないのか。お前も男なら、ここらで決断しろ。希美ちゃんを幸せにしてやれよ」

 腹の底で煮えたぎるものを抑えられず、寺井は席を立った。

 貴様に、自分と希美の何がわかるというのか?一対一なら何を言われても耐えられたが、希美と自分を結び付けたわけでもない男が、希美を使って自分の考えを変えさせ、それをあたかも己の功績のように誇ろうとしているのは許せなかった。

 希美も希美である。押しの弱い女だから、真崎に詰め寄られて、つい首を縦に振ってしまったのかもしれない。靴底にこびり付いたチューインガムよりもしつこい男をやり過ごすために、適当に頷いてみせたのかもしれない。

 だが――それでも、よりにもよってあんな井の中の蛙と同じ側に立ち、自分を責めてくるのは許せなかった。自分の女が、あんな小物要素のすべてを詰め込んだような男の言うことを聞くのは、浮気をされる万倍の屈辱だった。

 血の雨を降らせてしまう、一歩寸前まで追い込まれていた。今すぐその場を立ち去らなければ、希美と同じ高校を卒業して以来ずっと、「強大なもの」を避けて歩きたくて戦い続けてきた人生を、あのつまらない男の命を奪うことで終わりにしてしまいそうだった。

「寺井くん、待って」

 逃げるようにして会場の居酒屋を出た寺井を呼び止めたのは、真崎の妻の志保だった。

「さっきは本当にごめん。いくら謝っても許してもらえないと思うけど、ごめん、本当にごめん。もうあの人とは関わらない方がいいよね。私からも、担当者にラインを移してもらうようにお願いするから」

 シンシンと降る雪を頭に被りながら、志保は何度も頭を下げて、夫の無礼を詫びてきた。

 志保――寺井が真崎に付き纏われながら、半年間も大丸食品の工場に留まり続けた理由――鬱陶しい真崎に絡まれることがわかっていながら、敢えて新年会に参加した理由は、この志保がいたからだった。

 長らく同棲してきた女――希美との距離は、ここ数年、開いていく一方だった。

 仲が悪いというわけではない。休みには連れだって外食に行くこともあるし、映画製作に没頭する寺井に代わって家事を負ってくれるなど、献身的にサポートもしてくれる。

 違ってきたのは、希美が寺井の作品の内容や活動自体に、あまり関心を示さなくなったことだった。

 寺井自身、一銭の金にもならないシナリオを書いたり、自主制作映画を撮り続けることは、楽しさよりも苦痛の方が大きかったし、その傾向は年々強くなっていた。

 そんな自分の気持ちを察して、敢えて創作活動については口にしなくなったのだろう。それで納得しようとしたこともあった。しかし、同棲を始めてすぐの頃の希美が、寺井の作品ができるとすぐに観たい、読みたいとせがみ、鑑賞を終えると、いつも熱い感想をくれたことを思い出すと、一抹の寂しさは拭えなかった。

 寺井は派遣の現場で働いているときの自分を、本当の自分だとは思っていない。今は世を忍ぶ仮の姿。ここは自分が輝く場ではないと思っているから、派遣先で無能の烙印を押されたとしても気にもならないし、たとえ派遣先で嫌われたとしても、屁とも思わない。どうしても居づらくなったら、辞めればいいのである。

 たとえ、評価が良いものであったとしても同じこと。頑張ったところで給料も上がらず、会社が将来の面倒をみてくれるわけでもないのである。褒め殺しは飼い殺し。今の工場でいえば塚田のように、必要とされる嬉しさのあまり、何の蓄積にもならない派遣の仕事に入れ込みすぎて、貴重な若い時期を無駄にしているヤツを、何人も見てきた。

 寺井が生きていることを実感できるのは、己の道と決めた創作活動に取り組んでいるときだけだった。

 まだ、世間に評価されたわけではない。でも、この道がきっと未来に繋がっていると信じるから、生きていると思える。

 希美が自分の作品に興味を持たなくなり、長年、一緒に映画を撮っていたグループは事実上解散している。生きた自分を見てくれる人が、誰もいなくなった。

 寺井の心に長らく空いていた隙間を埋めてくれたのだが、志保だった。

 志保は寺井が将来、クリエイターとして生計を立てようと地道に活動に取り組んでいることを知るや、寺井の書いた原稿や、仲間と撮った自主制作映画を貸してほしいとせがみ、鑑賞を終えると、かつての希美のように、熱い感想を述べてくれた。

――面白い。寺井くん、才能ある。きっと将来、モノになるよ。うちの人の言うことなんか、気にしなくていいからね。

 志保の言葉に救われた。自分が生きていることを認められた気がした。

 この女と一緒だったら・・・。いつしか、そんな気持ちが芽生え始めていた。

 新年会では真崎のクソみたいなパフォーマンスに付き合わされ、このままでは、大切な一年の始まりが、不快な思い出で終わってしまう。二人だけで飲み直そうと、酒を飲んでいなかった志保の運転する車で、隣町のファミレスに向かった。

 せっかくの機会だから、出来る限り濃密な時間にしたかった。代行に運転させればいいじゃん、と、志保にも酒を勧めると、志保は中ジョッキをあっという間に飲み干した。アルコールが入ると、志保は堰を切ったように、夫への不満を吐き出し始めた。

「あいつの説教は、病気なのよ。言ってることはご立派だけど、長年あいつを見てきた私に言わせれば、言っていることのほとんどが、ブーメランになって自分に突き刺さってるから。ほんとバカよね。自分が出来もしないことを、人に押し付けようとしてるんだもん」

 我が意を得たり。寺井も嬉しくなり、その後の流れは、真崎の悪口大会の様相を呈し始めた。

「正論なんてのは、所詮、無責任な人間の放言でしかないからね。そいつがどう転ぼうが、自分は痛くも痒くもないから、好き放題にキレイごとがいえるだけ。おまけに、正論ぶるヤツってのは、正論は立場によって変わるってことを理解しない。世の中すべての人の悩みが模範解答で解決すると思っている」 

「そうそう。ほんっとその通り。それにあいつ、細かすぎるのよ。冷房の温度は二十六度までにしろ。トイレットペーパーは三回転までにしろ。あいつと生活してると、息が詰まる。みみっちいことばっかりうるさいくせに、自分はパンツ一丁で家の中を歩き回るし、私が食事してるときに、ゲップもおならも平気でする。許せない。ほんっと殺したい」

 大切にしていると思っていた相手に、実は嫌われていた。割りとよくあることなのだろうが、年月の分、志保の真崎への憎悪は、寺井の比ではなかった。

「そんなに不満なのに、なんで別れないの」

「いい加減頭に来て、私が実家に帰るって言い出すと、あいつはいつも、真っ青になって私に頭を下げてくるの。俺はお前がいればそれでいいから。お前と一緒になれただけで、俺は満足だからって、馬鹿の一つ覚えみたいに」

「いいじゃん。愛されてるじゃん」

「違うのよ。全然違う。だってそうでしょ。俺はお前がいればそれでいいって、ようするに、俺の人生、結婚でゴールだって言ってるようなもんでしょ。女ならともかく、男がそれ言う?」

「愛の深さだと思ってたものが、実は男としての志が低いだけだって気づいたわけだ」

「そう。そうなのよ。それに気づくのに、十年もかかった。アイツだけじゃなく、私も大馬鹿よ。呆れちゃうよね」

 古今東西、共通の敵の存在ほど、お互いの距離を縮めるものはない。真崎の悪口を言い合っているうち、寺井はテーブルの向かいに座る志保の目が蕩けていくのを見て取っていた。

「その点、寺井君は違う。今より上に目を向けて、努力もしてる」

「でも、僕の努力なんて、何にも報われてないよ」

「結果じゃないのよ。向上心。自分の夢を叶えようって、今より少しでもマシになろうって、足掻いてる姿を見せてくれる。それだけで、明日を信じようって思える。この人を支えて行こうって思える・・」

 腹が満たされて、酒も程よく回ると、寺井と志保は、どちらが誘うでもなく、ファミレスから目と鼻の先にあるホテルに入った。

 先にシャワーを使い、ベッドの上で志保を待つ間、胸の鼓動は高鳴った。

 社会人になってから、いいことなんて何もなかった。真崎のバカは、パートナーに出会ったことで人生のすべてを納得しているようだが、そんなのは、人として当たり前のことではないか。そこで満足するのが、パートナーを幸せにすることだと思ったら大間違いである。

 自分を支えてくれる希美を今より上のステージに導いてやろうと、何年も足掻いてきた。苦労を重ねてきた分、ちょっとくらいのご褒美があってもいいじゃないか。もっと条件の良い女に乗り換えるというなら酷い話かもしれないが、希美よりも年上で、希美より寂しい思いをしている女と、たった一晩慰め合うだけなら、許されていいじゃないか。正当化のための脳内作業に、時間はかからなかった。

「お待たせ。ごめんね、時間かかっちゃって」

 くすんで、シミの目立つ肌。レーズンのように黒ずんだ乳首と、しぼんだ風船のような乳房。こんもりと膨らんだ下腹には、パンティに締め付けられた跡が消えずに残っている。二の腕、太もも、あらゆる部分の肉が重力に負けて垂れ下がり、濃厚な繁茂の奥に覗く秘肉は、酸化して土留め色になっている。バスタオルをはぎ取って露になった中年女の裸体には、下流生活のリアルが滲み出ていた。

 自分の立場はよくわかっている。抱かせてくれるのならば、容姿も年齢も問わない。
 
 舌が肥えすぎてもいいことはない。弱い立場に置かれる女と心を通わせられるようになったことが、底辺に堕ちてよかったことだと言われるのなら、首を縦に振ってやってもいいだろう。

 寺井は志保をベッドに導き、唾が糸を引くディープキスを交わした。

「志保さん、あの人とヤッてるの?」

「全然。あいつ、四十を越したころからまったくできなくなって、それからはずっとご無沙汰。本人に意地があるのか、月に一度、裸で一緒の布団に入ったりはしてるけど」

「薬使えばいいのに」

「薬の力は借りたくないんだって。変なところでプライド高いのよ。バカだから・・あぁんっ」  

 愛撫を受けてえびぞる志保。希美では想像もつかない激しい反応。

 肉体を重ね合ってみて、志保が自分に惹かれた裏にある感情に、はっきりと気付いた。

 息の詰まるような日常からの解放。劣悪な底辺世界に過剰適応したアメリカザリガニの如き男の世界観から、自分を救い出してくれる男を求めている。

 小物なりに自分の哲学を持った真崎に対抗するには、同じくらい強烈に自分を持った人間の手を借りなければいけなかった。自分に代わって、真崎を論破してくれる人間であれば、誰でも良かった。

 寺井を思ったフリをしているが、この女が見ているのは、自分自身だけ。だが、どうでもよかった。志保に期待を裏切られた寺井の中で、別の感情が生まれていた。

 ゴムをつけずに差し込んだ。飲みの席で、母になる願望を口にしていた女は、何も言わずに生の肉棒を受け入れた。

 そろそろこの辺で、何もかも終わりにするのもいいかもしれない。自分が不快に思うものの集合体のような男を道連れにして――。

「志保さんどう?あのオオマダラハゲキレイゴトクソムシより、僕の方がいい?」

「あッあぁっ。全然違うっ。寺井くんの、アイツのと全然違うぅっ!」

 すべてが不快だった。ヤツの自信に満ち溢れた顔が。ヤツの自分に対する優越感が。

 底辺にいるからといって、卑屈にしろと言うのではない。だが、這い上がることを諦めたのなら、そいつは人生に制約を付けなければならない。
 
 自分が這い上がる努力もせず、這い上がろうとしている者を素直に応援することもできないのなら、せめて邪魔にならないよう、隅っこで大人しくしていろ。

 辛抱我慢と努力をはき違え、こともあろうに、「聖人君子」などという何の価値もないものを目指している己を、這い上がろうとしている者より正しいと信じ込み、堂々と道の真ん中に立ち塞がる権利があるなどと思い込んでいる不快な生物を地獄に叩き込んでも、心はまったく痛まない。

 自分の物語を世に出すことを諦めたならば、他人の物語をぶち壊せ。あの不快害虫の人格をメタメタにして、自殺にでも追い込むことができれば、それも勝ちといえるかもしれない。

 終わりを始めるべく、寺井は無心で抽送を繰り返した。

「あぁっ、あンあン、いいっ。いぃいっ」

 このまま、この寂しい女の中で昇りつめたら、取返しのつかないモノが出来てしまうかもしれない。もしそれが出来たならば、希美との関係は崩壊してしまうだろう。

 崩壊――してもいい気がした。たとえ厳しく詰め寄られたからであろうと、あの不快害虫の言葉に頷いて見せるなど、けして許されないことである。内心、不快害虫の言う通りのことを望んでいたとするのなら、それは紛れもない裏切りに値する。ならば自分の行為を咎める資格はない。一片の迷いもなくなった寺井は、フィニッシュに向かって、萎んだ女を対面座位で思い切り突き上げた。

 もうどうなってもいい。失うものなんか何もない。自分が築き上げたものなんか何もない。何もないものが消えさって、困ることなど何もない――。


                             ☆


 検査の結果、陽性――。

 たった一夜の逢瀬。相手は十年、前の男も含めれば十数年、子宝に恵まれたくて恵まれなかったアラフォー女。出来るときはそんなものなのかもしれないが、そうあることではない。
 
 悪魔に、背中を押されている気がした。心の中で思い描いて、踏ん切りがつかなかったことを実行するときが来た。

 新年会の席で、真崎は寺井を、通り魔殺人を起こしそうなヤツ、と言い放ったが、その人物評は当たっている。

 年に何回か起きる、派遣社員の暴発。自分の周辺、できる限り滅茶滅茶にして、無様な人生にケジメをつけてやる計画は、ここ数年、常に頭の中にチラついていた。
 
 もう、疲れ果てていた。ゴミ溜めから抜け出すための戦いを行う気力は残されていなかった。誰かを道連れに、人生を終わらせるときが来たのだ。

 初めにやったのは、戸籍上、子供の父親となる男に、事の仔細を告げること。

 劣化の如く怒り狂い、寺井を殺すと息まく夫に、我慢に我慢を重ねてきた妻が、蜂の一刺し。

「あんた二年前、彼女を他の男に取られて落ち込んでる男の子に言ってたじゃない。自分の恋した女の幸せを祝ってやるのが、男として正しい姿だろって。だったら、私の幸せだって祝ってよ」

 平成の無責任男が、自分の吐いたキレイごとに縛り付けられた瞬間。このとき、不貞を働いた妻に何も反論できず、離婚も言い渡すこともできなかったことで、真崎の運命は決まった。

 政治家でもあるまいし、過去の発言自体に、それほど大きな意味はない。このとき、真崎が妻を引っぱたいて、刃物で寺井の首を突いて殺したとしても、酌量の余地は十分にあったはずだが、真崎はこの期に及んでも、己が金科玉条とする、聖人君子という生き様を変えられなかった。

 寺井には、真崎が何故、嫉妬という感情を抱くことを極端に恐れるのか理解できない。

 嫉妬を全否定していたら、世の中は強い者のやりたい放題になる。弱者がこぞって足を引っ張ろうとするから、人の上に立つ者は、己の身を守るために、地位相応の人格を身に着けようとする。上の者が腰を低くしていれば、下の者はある程度納得できる。成功者の足を引っ張ろうとする風潮は、けして改めてはいけないものなのだ。
 
 自分はあの人に比べて可哀想なのだから、文句を垂れる権利があるし、自由にやってもいい――。嫉妬が肯定されることにより、好き勝手にやりたい放題、言いたい放題に生きる特権は、逆に貧乏人の方に移る。その特権を放棄するばかりか、奴隷が己の足を繋ぐ鎖の光沢を自慢するように、同じ貧乏人に、「嫉まず、嫉まず」生きる己を誇ろうとするなど持ってのほかである。

 真崎は愛する妻よりも、己の生き様を貫き通すことを選んだ。ならば、妻をどうしようとこちらの勝手。

 寺井は志保の妊娠がわかってからも、真崎の家を何度も訪れて、腹の大きくなった志保を抱いた。

 いつ、殺されるかわからないスリルを味わいながらのセックス。血の雨が降ることは十分に考えられたが、真崎はどんなに帰りが遅くなっても、寺井がいる間はけして家に入らず、ネットカフェかどこかで時間を潰していたようだった。

 平和主義者という価値観に逃げ込んで、間男に抗議ひとつできない体たらくを誤魔化している腰抜けは、疲労の影響から体型が崩れ、酒量も増えて、己の輝く場であったはずの工場でも口数が少なくなり、寺井の代わりに自分の「オナペット」にしたはずの青年、塚田にも声を荒げたりするなど、精神的に不安定になっていった。

 限界ギリギリまで追い詰められた真崎だったが、奇跡は起こった。志保の妊娠をキッカケに、大丸食品から、長年の功労に報いて、真崎を正社員にしようという話が持ち上がったのである。

 王手寸前の状況で、たった一つ、逃げ道を与えられた真崎の気力の回復ぶりは凄まじく、相変わらず家では何も言えなかったものの、己のフィールドである職場では、寺井や志保に対し、以前のように威張ってみせる程の余裕も生まれていた。

 伊達巻のラインに応援に行かされ、真崎にサービス昼残などを命じられたときには反発して見せたが、その日、家に帰ってから、寺井は笑った。腹を抱えて笑った。

 滑稽ではないか。女房を寝取られた男が、間男の仕込んだ子供のお陰で得た地位を、まるで己の努力で得たものであるかのように胸を張っているのである。

「志保。俺はお前から産まれてくる子供を、自分の子供だと思って育てるからな。こんな男が、他にいるか?お前は安心して、元気な子供を産んでくれ」

 確かに、他にはいないかもしれない。恋女房に托卵されたことを、自分に酔う材料に捻じ曲げられる男は――。

「あいつ・・・おかしいよね。何がどうおかしいかって、うまくいえないけど・・・。絶対におかしい。やだ、私、あいつといたくない・・」

 志保は、無茶苦茶な理屈を展開して己を繋ぎ留めようとする真崎に恐怖を覚えていたが、寺井は早々に親子三人での同棲を望む志保に、曖昧な態度を取り続けた。この時点で、観察の対象として何の魅力もなかった男から、見ていて面白すぎる男に変わった真崎で、寺井はもう少し遊んでみたくなった。

 子供は予定日より早く、元気に生まれた。
 
 愛情は、まったく感じなかった。猿のような顔をして、耳障りな声で泣き叫ぶ非力な生物を見たとき、嬉しい、喜ばしい、愛おしいといった感情は、まるで溢れてこなかった。

 自分を人でなしというのならば、是非に問いたい。自分自身に愛情を持てぬ者が、自分の分身に愛情を持てるだろうか、と。

 大嫌いだった。ずっと避けて歩こうと足掻いていた「強大なもの」も憎かったが、「強大なもの」に馴染むことができない自分のことは、もっと憎かった。

 十年以上に及ぶ創作活動は、この世に生まれた恨みのブチマケ作業。それを終わりにしろとほざくのなら、俺の恨みをすべて引き受けろ。

 命名、信也――。寺井の恨みの結晶に、真崎と自分の名を合わせた名を付けてやったことを知らされたとき、真崎が発狂して泣き叫んだと聞いて、母親である志保の説得に骨を折ったかいがあったと思った。

「寺井くん。私とこの子を助けて。あいつの元から救い出して。私はあなたとしか生きていけないの」
 
 志保は、救世主と信じる寺井の言うことを何でも聞いた。

 いまや自分一人の身だけでなく、大事な一粒種の将来がかかっている。寺井が理想の父親であるはずもないが、十年近く苦しめられた井の中の蛙、小言幸兵衛よりはマシだと思った。真崎への敵意が、寺井への強い依存を生み、志保の目を極限まで曇らせていた。

「志保さん。あのオオマダラハゲキレイゴトクソムシから離れて僕と一緒になりたいなら、僕の言うことに全部従ってね」

 すっかり洗脳にかかった志保をけしかけて、寺井は世紀の映像を収めるための、最後の大勝負に打って出た。

              
                            ☆


 母乳事件――。

 志保が、夫である真崎が作業している真っ最中に動いたのは誤算だったが、製品に異物を混入させる作戦は、まんまと成功した。

 その日のうちに工場は稼働停止となり、事情聴取を受けた志保の口から自分の関与が発覚、警察から任意での同行を求められる直前に、決定的瞬間を収めた動画をネットにUP、世間は大騒ぎ――というプランも用意していたが、あれから十日ほどが経った現在、工場に大きな動きはない。

 事件の目撃者は誰もが口を噤んでいるようで、出荷前の検査の結果、製品から異物が検出されたということもなかったらしい。

 お笑い種だった。何年もツキに恵まれなかった男が、自分を終わりにすると決めたときに限って、何もかもがうまくいく。母乳事件がすぐに発覚しなかったお陰で、ただ動画を細切れにUPするのではなく、この一年で撮りためた映像を編集し、「作品」にしてから発表する時間的余裕が生まれた。
 
 何人かの人間が、自分の巻き添えを食って、痛手を被ることになる。人生の逃げ切りコースに入った連中、何人かを纏めて脅してやれば、いくらかの金を引っ張ることもできたかもしれないが、たかだか二年、三年、働かずに露命を繋げる金を得るだけのために、クリエイターにとって我が子と同然の「作品」は使えない。

 そんなことより、自分が十年以上、ずっと追い続けてきた希望を打ち消すことの方が、ずっと大きな価値がある。

 自分の花を咲かせようとして足掻き続けてきた十数年間――富と名誉を得るという形では、まったく報われなかった十数年を仇花として昇華させ、前科者の汚名を被る。ずっと目の前にあって、自分を無駄な前進へと駆り立てる蜃気楼を消滅させる。

 押しのけられ、救いあげられることなく、消耗していくだけの不毛な繰り返しを終わらせるために、寺井は渾身の「作品」を作り上げた。

「ゴミ溜めを抜け出すための戦いは、これで終わり。犯した罪は償う。だけど、取返しのつかないものは、永遠に残り続ける。それに対し、僕が真剣に向き合うことはないだろう。人ですらなくなったもの。この世でもっとも解き放たれた無敵の存在。それになるために、僕はこの映画を撮影したのだ」

 最後のナレーションを吹き込み、寺井はPCをシャットダウンした。

 午前七時三十分。今日は午後から出社する予定の希美は、まだ起きてこない。寺井はカップ麺を啜り、身支度を整え、家を出た。

 自転車を駐輪場に止め、絶妙のタイミングで送迎バスの最終便に乗り込む。スマホを開き、LINEを起動する。

 昨晩、志保に、ハイハイができるようになった信也の顔を写メに撮って送って欲しいというメッセージを送っていたのだが、既読スルーになっていた。悪用するつもりなのがバレたわけではなかろうに、冷たいことである。
 
 母乳事件は、志保にとっても一つの契機になったらしい。

 あれだけやっても、寺井は自分を、真崎のところから救い出してくれなかった――。

 寺井に責任を取る気が一切ないことがわかった志保は、その後、寺井のどんな要求にも応じない構えを見せた。

「あなたがあの映像をどうするつもりなのかはわからない。あなたとのことは私にも非があるし、あなたに何かを要求するつもりはない。ただ、これだけは約束して。私は年末を最後に、大丸食品の工場をやめる。その後は一切、私と信也には近寄らないで。私はもうあなたのことは忘れるし、この世にいないものだと思って生きるから、あなたもそうして」

 魔法は解けた。志保の依存の対象は寺井から、一子、信也に移ったのだ。

 戸籍上、信也の父親となる真崎は、忙しさが本番となる年末に向かって、ますます意気軒高の様子を見せていた。志保は相変わらず夫婦としては冷めきっているものの、次回の契約更新時から、大丸食品の正社員となることが正式に決まった真崎に、金を運んでくる機械としては期待を寄せているようで、真崎に愛妻弁当を持たせるなど、見かけ上の夫婦円満に努めているようである。

 真崎「一家」の束の間の平穏も、寺井が「作品」を、ネット上に公開すると同時に終わる。その後は逃れられない闇だけが、彼らを包み込む。

 バスを降りる。早足で更衣室に向かい、手早く作業着に着替える。始業ギリギリに作業場に到着する。いつもと同じように、淡々と仕事をこなす。

 笹かまのラインリーダーは、出世に興味のない四十代の独身男。定年前にセミリタイヤし、残りの人生を悠々自適に暮らすことだけを考える万年平社員は、余計な波風を極度に恐れるため、色々と融通がききやすい。教育も面倒くさがるから、工場のことをよくわかっている古株の派遣を大事にしてくれる。そういう人間の下にうまいこと入り込み、自分の働きやすい環境を作る術も覚えた。

 小才を働かせて適度に手を抜き、何の積み重ねにもならない繰り返しを送る日々が、娑婆からムショに移るだけ。自分の身の回り、半径数メートル以内では、何も変わることはない。

 最後、あと何か、ぶち壊せるとしたら――十分休憩の時間、道連れにするターゲットを物色する寺井の視界に飛び込んできたのが、電話中の塚田だった。

「おう、たけおか。いま?大丈夫だよ。うん。うん。そうか」

 自分が依存の対象としてきた工場内の人間関係に亀裂が入り、それがどうやら修復不可能であることを悟った塚田は、休憩時間中に、「偽電話」を始めるようになっていた。初期画面のスマホに向かって話しかけ、あたかも通話中であるように装う、という行為である。

 なんのためにそんなことを?自分がどれだけ人から必要とされているかを、周囲にアピールするため。

 自己顕示欲、あるいは承認欲を満たしたい。人の上を取りたい、人を自分の色で染めたい。

 携帯通信端末やネットの普及により、人が誰しも持っている願望のコントロールが難しくなっている昨今である。

 十年のニート生活を送っていたという経歴には興味を惹かれた。中流家庭の四人兄弟で、上の子はみな立派な社会人となり、結婚もしている。なるほど、親が末っ子の将来に無関心になっても、不思議はないのかもしれない。

 塚田が悲しいのは、ニートの十年選手という自分の経歴がどれだけ面白いかを自覚していないこと。また、自分の面白さが、完全にそこまでであるのを自覚していないことだった。

 ニートの十年選手から、ゴマンといる派遣の底辺労働者へと自己認識が変わってしまった時点で、寺井の塚田に対する興味は失せた。

 あんなのは何の面白みもない仕事なのだから、仲良くやればいいだけなのに、誰それの仕事が遅い、誰それはミスが多いなどといって、周りを蹴落とそうとする。資本主義社会の中で何のうまみも得ていない低所得者が、お互いに手を取り合おうとするのではなく、ゴミ溜めの中でまだ争っている滑稽な図に疑問を抱けない悲しさ。

 そして、バカにしていた及川が、ある意味周りに受け入れられだすと、自分から提供できる話題が何もなくなり、塚田はみんなの輪についていけなくなった。職場から消えて欲しいと嘯きながら、実際は、見下している彼らこそが、塚田の生命線だったのだ。

 他人を見下すことで得られる精神安定効果などタカが知れている。そんなものを支えにして生きていける精神構造が羨ましい。実に羨ましい。

 塚田が端本や及川をあだ名で呼んで笑いものにするのと、寺井がそれをする意味はまったく違う。

 自分の人生より悲惨なものがあるとは思えない。誰よりも自分が一番、最底辺の人生を送っていると思うから、平気で人を笑いものにできる。

 トイレから出るとき手を洗わない。同じ職場で短期間に六人も告白してしまう。こんな誰でもできる仕事もまともにこなせない。他人の気持ちがまったくわからない。

 だからどうした?

 十年以上も、一文の金にもならない創作を続けているヤツの方が、よっぽど病んでいるではないか。こんなに頑張っているのに、世間からまるで相手にされないヤツの方が、よっぽど可哀想ではないか。

 いつかの河川敷で、塚田に言ったこと――。

--世間じゃ派遣は悲惨だって言われるけどさ、それは真崎のクソジジイみたいに、頑張っても報われないヤツのことを言うんだ。どうせ報われないんだったら、最初から何も求めなきゃいいし、何も目指さなきゃいいんだよ。僕らは給料が安いかわりに、大して期待もされない気楽な派遣労働者。適度に手を抜きながら、時間をやり過ごすことだけ考えればいい。そう割り切れば、世間で言われてるほど惨めなもんでもないんだから。頑張るんだったら・・・・。


 あのとき言葉を飲み込んだのは、次に続く言葉がなんの自慢にもなっていないと、途中で気づいたからだ。真崎を馬鹿にする自分の言葉が、全部、ブーメランになって自分に突き刺さっていると気づいたからだ。

 自分は、端本や及川を見下してなどいない。むしろ、こんな底辺の派遣生活の中でも、生きている実感を得られる彼らを羨んでいる。

 嫉妬――こんなライン作業の世界で、人生の頂点を極めた気分を味わえるあの真崎にも、自分は嫉妬している。

 羨ましいと思うから、ゲーム感覚で人をいたぶれる。

 彼らが自分より上だと思うから、人格をボロボロにしても罪悪感に苛まれない。

 自己顕示欲、あるいは承認欲を満たしたい。人の上を取りたい、人を自分の色で染めたい――人が誰しも持っている願望をむき出しにしたあのLINEのメッセージを送ったとき、塚田はやらかしてしまったと思ったのだろうが、どっこい、自分は塚田を羨んでいたのだ。こんなライン作業の世界に、大切にできる何かがあると信じてしまえる、塚田の無垢さが羨ましかった。

 己の世界に入ることを拒んだ寺井への当てつけのためだけに塚田を構っている真崎を、本当に、親のように慕ってしまえる塚田の素直さが羨ましかった。

 だから、サヨナラ。

「うん。うん。そうだね。それで合ってると思うよ。ところで、今度の休み、どうする?僕の方は、問題ないよ。そうか。わかった、じゃあ、一時にね。はい。は~い」

 十二時二十三分。あえて、中途半端な時刻にアラームが鳴るように設定しているのはなかなか細かい芸だが、そうそう毎日、休憩時間に電話がかかってくるというのは不自然である。

 塚田のパフォーマンスを見守っているみんなは、塚田の電話相手が透明人間であることを知っているようだが、みな、気付いていないフリをしてあげている。

 メンヘラ牧場のような派遣の世界じゃ、この程度、頭の逝ったヤツは珍しくない。人に危害を加える性質のものでないのなら、関わり合いにならないのが一番。放っておけば、そのうち辞めていくのだから。
 
「ああ、河合さん。ええ。元気にしてますよ。え?こんど、飲み会に?わかりました。ぜひ、行かせてもらいます。もちろん、おごりですよね?え?僕におごれって?冗談キツイなー、あっはっは。え?高畑常務に代わるって?ちょ、待ってくださいよ。心の準備ってもんが・・。はい。はい、塚田です。ご無沙汰しております。はい。ありがとうございます!」

 好きなラインリーダー、岡本涼子が前を通るときは、声のトーンがいつもより数オクターブ高くなり、演技に熱が入るのが微笑ましい。涼子は塚田に目もくれず、自分のスマホを見ながら事務所の方へと歩いていくが、塚田が優秀で、他所の会社からも必要とされている存在である、ということは、ちゃんと伝わったのだろうか。

 嘘で塗り固めすぎて、本当の自分がどこにいるのか、もうわからなくなっている。それでも塚田は、「偽電話」をやめられない。スマホを耳に当てて喋っているときだけ、彼はこの工場で、何かになれるから。

「え?週末、飲み会をやるから来いって?わり~、週末は予定あるんだわ~。ほかの日?う~んどうかな~。ちょっと、年内にお前と飲めるかはわからないな。何しろおれ、ともだちは百人なんてもんじゃないからさ~」

 偽電話を繰り返すごとに、段々、言うことが大きくなっていく。いつも話題についていけず、悔しい思いをさせられたプロ野球選手よりも大きく膨らませた自分を、みんなの前で披露するのは快感で、癖になる。

「一年生、今日は誰と話してるのかな」

 塚田がフルスロットルに入ったところを見計らって、寺井は対面のソファに腰掛ける「同士」――ロートルの代打屋のようなずんぐりむっくりの体型から、高卒で入団仕立てのルーキーのような締まった体型になった村上に、ボソリと呟いた。

「そういえば最近、一年生からの餌付けがないね」

「うん。僕ダイエット中だから、正直迷惑だった。なくなってよかったよ」

 餌付け――良かれと思ってやっていたことが、みんなから迷惑行為のように思われていた。

 一年生――自分にともだちは百人いる、という大嘘を揶揄した綽名をいつの間にかつけられて、バカにしていた及川や端本と同じ立場に堕ちた。

「あぁ・・・えぇ・・・うん、そうだね。うん・・・だと、思うよ・・・・うん」

 寺井と村上の会話が聞こえただけで、震え声になってしまった塚田にトドメ――寺井は電話帳から塚田のアドレスを開き、通話ボタンを押した。

 着信音――通話中に、けして鳴るはずのない非情のメロディ が鳴らされ、塚田の虚飾が剥がされた。

 声にならない声を上げ、塚田は休憩室の外へ駆け出していった。


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No title

塚田は痛々しいですね。
人は承認欲求が高くなりすぎてしまうとこのような行動を見境なく取ってしまうものなのかもしれませんね。
ニート生活と今の環境が違いすぎて自分を忘れてしまっているのでしょうね。
真崎は大丸食品の正社員になることしか考えられないという人物ですね。
寺井に説教するだけしておいて自分は敬まわれていると思っていそうですね。
最初は塚田が主人公かと思っていましたが寺井視点の物語の方が読んでいて面白いですね。
寺井の内面に様々な感情が湧きあがっていく様子が良いですね。
周りの同僚達を下に見ている反面羨ましいとも思っている感情というのは深いですね。
寺井の暴走がこれからどこまで行ってしまうのか楽しみです。

寺井の内面描写、ほんとお見事の一言です。真相が次々明らかになり目が離せませんね。誰が最後に笑うのでしょう。塚田はかわいそうですが一番感情移入できますね。真崎がもっと痛い目にあうのを期待しています。

志保の母乳事件にやはり寺井が、からんでいたのですね。
子供が寺井の子であるのは予想してましたが信一がその事を知っていたとは予想外でした。
さすがに志保と離婚もせず寺井の子を育てるなんて信一の頭の構造が分かりませんね。
寺井の暴走がどこまでいくのか見ものですね。
塚田は可哀想な気もしますが、及川や端本をバカにしていたので当然の報いですね。
寺井の周りの人間が巻き添えを食って皆んな不幸になりそうですね。
派遣だけでなく社員の奴も不幸になると更にいいですね。
まぁ〜母乳事件が発覚すれば会社自体が大変だから社員も被害を被ると思いますが、更に不幸になって欲しいです。

No title

seasky さん

 偽電話のエピソードは実話に基づいていますが、こじらせるとまったく周りがみえなくなりますからね。私も妻に出会う前くらいまでは塚田を笑えない行動を取っていましたので気持ちはよくわかります。

 真崎は与えられた逃げ道に盲目的に縋っている状態ですね。また自分の話で恐縮ですが私も神山事件のときにはさして意味のない資格の勉強に逃げ込んでいたりしたものです。

 前半塚田、後半寺井を主軸にする展開になりましたね。来月終了を予告していましたが、もしかすると再来月にずれ込んでしまうかもしれません。申し訳ありません。残りあと二回です。

No title

かなえ さん

 尺の都合もあり怒涛の如く進めていく回にしてしまいましたが意外にはまったかもしれません。大体の状況説明が今までの回で出来たからでしょうね。

 真崎に関してはこれまで私が不快に思った人間の集合体みたいにさせてみました。きれいごとなんて一々言わなくても良好な人間関係なんていくらでも作れるのに、何をそんなに恰好つける必要があるのかと、本当に疑問に思いますね。

 次回物語のラストピースをはめてその次でまとめようと思っています。

 11月終了をアナウンスしていましたが、もしかすると12月にずれ込むかもしれません。こちらの方だけに専念すれば終わらせられるのですが、今、同時並行的に色々な作業を進めている都合上、ちょっと難しいかもしれないという状況です。ご了承していただけますよう、お願いいたします。

No title

まっちゃん さん

 世の中には、自分が失うもののない立場だということを頑なに認めたがらない人間っていうのがいるんですよね。自分が持っている僅かなものを神様のように崇め奉ることによって、自分を大切なものを沢山持ってる人間と同列に置こうとすることに必死な惨めなヤツ。人間関係を依存の対象にするとか私から見れば狂気の沙汰です。もしそいつがそこまで自分のこと大切に思ってなかったらどうすんの?裏切られたら自殺すんの?と。 

 失うものがないというのは、言いたい放題、やりたい放題にできる強みでもあります。私が実名、顔写真をネット上に公開しているのもそういう発想なのですが、そういうことをしてるヤツの存在がどうしても我慢できない人もいるみたいですね。何かに挑戦することもなく、ただ人のマウントを取ることにだけ必死になって生きるというヤツです。

 明日は我が身という発想がないのはまったくのアホですね。自分の下にいるヤツがみんないなくなれば、いつか自分が一番下になるということにどうして気づけないのか。

 あと二話で終了し、4コメント達成できましたら次の作品もこちらで連載していく予定です。いまのとこ全部ギリギリなので不安はありますが・・・。

5章まで読んでみて登場人物の中で誰に一番共感するか考えてみたら及川だったことに気付き寂しい気分になってしまいました。しかし仕事のために仕事をするのではなく車のために仕事をする及川はよく考えてみたら寺井とあまり変わらないんじゃないかと思いました。それと寺井は新年会に行かなければ後の事件は起きなかったのかなと思いました。(もちろん真一が余計なことをしなければよかった話なのですが)最後に塚田は寺井にどうされるのか。一方的に利用されるのか、それとも?とても気になりました。

No title

ばかがいこつ さん

 及川のパートは文量も少なめですし500枚狙いならもう少し加筆できるかもしれません。発達障害とかの考察も入れたかったんですけどバランス考えると難しかったですね。普通の職場だと及川の方が弾かれますが、私には真崎みたいなヤツよりは及川の方がマシですね。私の話をさせてもられば神山事件があったときに奴らに憎しみを抱く選択をしていなければ及川コースに入っていたと思いますね・・。


 新年会は決定打になりましたが、十年近く報われない創作活動を続けていてぶっ千切れるものがあったのが一番でしょうね。次回、その辺のところをさらに紐解いていく予定です。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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