第二章 201×年 九月~十一月 基地外シンドローム




 見えない軍隊が、また押し寄せてきた。


 十年前とは比べ物にならないほど、強大に膨れ上がった軍隊が――。



 LINEでのやらかしはまったく酷かったが、塚田が送った、あの独りよがりなメッセージを、寺井は大人の対応で流してくれた。その後、寺井はあの件を蒸し返したりもしなかったし、周りの人に言いふらしたりもしなかった。

 周りの環境も、中学のころとは違っている。自分より年上で、ずっと社会経験のある人は、十年間、無菌室のような部屋に閉じこもって暮らしてきた塚田と違い、変に潔癖ではない。塚田のような若造が、ちょっとくらい痛いメッセージを送ったところで、過剰な反応にはならないものだ。

 だから塚田も気にすることなく、自然体で今まで通りに過ごしていれば良かったのだが、一度狂い始めた自分の歯車を修正する作業は、容易ではなかった。あのやらかし以来、どうも「基地内」のみんなと話すとき、肩の力が入りすぎて空回りに終わってしまったり、逆に、おっかなびっくりになり過ぎて、うまく自分をアピールできない、といったことが増えていった。

 あのLINEでのやらかし以来、寺井だけでなく、「基地内」みんなとの関係が、塚田にとって、面白くない状況になり始めていったのである。

「信一さん。志保さん、とうとう赤ちゃん生まれたんだってね!今週末、会いにいっていいかな。僕にも、抱かせてくれるよね?」

 十月の半ば、産休中の志保が、予定日より早く、元気な男の子を産んだという連絡が入った。

 新たな生命の誕生。喜ばしいことのはずなのだが、信一はどこか浮かない顔で、自分からはけして、赤ん坊の話をしようとしない。

 信一が志保の出産を、手放しで喜んではいないのは明らかだったが、赤ん坊が生まれたという大ニュースを話題にしないわけにもいかない。塚田としては、何の悪気もない、純粋な祝福のつもりだった。

「ねえ信一さん。こんどの休み、病院にいってもいいかな」

「・・・・・・・」

 このあたりで、信一の気持ちを察してやればよかったと思う。塚田も、まったく空気が読めなかったわけではないのだが、それ以上に塚田は、志保と、産まれた赤ん坊に会いに行きたかった。好きな信一も一緒に、幸せの輪に包まれたかった。

 己の我を通してしまったせいで、大事な信一との間に、罅が入ってしまった。

「赤ちゃんの名前、信一さんから一字とって、信也くんっていうんだよね。いい名前だね」

「うるさいんだよ!赤ん坊のことは、言うんじゃない!」

 これまで、見たことのない信一の剣幕に、塚田はたじろいだ。いくら空気を読まなかったといっても、目出度いことを話題にしたはずなのに、なぜこれほど怒られねばならないのか理解できず、戸惑った。

「ご、ごめんなさい。赤ちゃんのことを言われるのが、そんなに嫌だとは知らなかったんだ・・」

「いや・・。こっちの方こそ、すまなかった。ちょっと、疲れてたんだ。本当に、悪かった。気にしないでくれ・・」

 信一はハッとして謝ってくれたが、これ以来、塚田はどうにも、信一に自分からは話しかけづらくなってしまった。信一の方も、連日の激務の影響もあってか口が重くなり、難しい顔をしてため息をついてばかりということが増え、志保がいなくなって、信一と二人きりで過ごすようになったランチタイムで、二人の会話は続かなくなっていった。

「すいません、俺も一緒にいいっすかね?これまで昼一緒だった武田さんが、最近、夜勤に移っちゃったもんで・・・」

 塚田と信一が盛り上がっていないのを見てか、信一と同じ伊達巻ラインの牛尾が、食事の席に割り込んでくるようになったことが、塚田と信一の気まずさに追い打ちをかけた。

「信さ~ん、昨日バイパス沿いのホールでモンスターハンギング4打ったら、五万勝っちゃいましたよ」

「へえ。モンスターハンギング、4まで出てたんだぁ。いいなあ、俺も打ちたいなあ」

 信一も独身時代にはスロットにハマっていたクチのようで、牛尾と話すときは、塚田と話しているよりも楽しそうである。

 胸の奥にジワリと湧き上がってくる、酸味の強い感情――嫉妬。

 これまで自分に構ってくれた信一を、牛尾に取られてしまったのが悔しかった。それ以上に、蚊帳の外に置かれた塚田を、信一がまるで気遣ってくれないのが辛かった。

――哲太。俺はお前を、実の息子か、年の離れた弟のように思っている。だからお前も、俺になんでも相談してこい。俺がそう言ってたって、寺井にも教えてやれ。

 塚田が何度目かに信一と行った食事会で、信一がかけてくれた言葉。

 少し前まで、自分の家族以外に、自分を必要としてくれる人はいないと思っていた塚田は、信一の言葉がうれしかった。あのときの言葉を、塚田はずっと信じていたのに、いまの信一は、塚田にまるで無関心かのようである。

 嫉妬――いきなり現れ、塚田を悩ませるようになった厄介な感情と、塚田はまともに向き合うのを避けた。

 塚田は、信一と仲良くできなくなって寂しいから、信一にこれまで以上に積極的に話しかけたり、自分から遊びに誘ったりするのではなく、自分は一人じゃないんだ、信一が構ってくれなくても平気なんだと自分に言い聞かせ、周囲にもそうアピールしようとした。幸か不幸か、現代社会には、塚田の目的にピッタリなツールがあった。

 信一と牛尾が楽しそうに話している横で、塚田はスマホの画面をずっとのぞき込む。スマホを見ていれば、自分は誰かと繋がっていると、周囲に思わせられる。誰かに思わせることができれば、自分にも言い聞かせられる。

 むろん、亀の子のように守っているだけで、自分から攻めていかないのでは、状況は好転するはずがない。

 十一月に入ると、信一とランチを一緒に取るのは、完全に絶望的となった。塚田から信一を奪った牛尾に加えて、同じ伊達巻ラインの及川までもが、信一と同じテーブルで食事を取るようなったからである。
 
「及川さん、最近気合入ってるじゃないか。作業はまだまだだけど、気合さえあれば、社員さんにも、この人は必要な人だと見てもらえる。年末までその調子でいけば、来年もここにいられるぞ」

「真崎師匠!師匠・・・ありがとう、ございます」

 信じられないことに、「基地外」及川は、いつの間にか伊達巻のラインに馴染んでいた。及川は同年代の信一や、年下の牛尾を師匠などと呼び、仕事だけでなく、生活のことや、人生全般における心構えについても、指導のようなものを仰いでいるようである。

「牛尾師匠!私はラインでの動きをよくするために、今日から食う米の量を減らそうと思います。炭水化物は、太る原因ですから」

「その心がけは立派だが、飯はちゃんと食っておけ。身体を絞れば動きのキレは良くなるが、無理な減量はスタミナを奪う。心配しなくても、これから年末に向けてますます仕事はキツくなっていくから、体重は勝手に落ちていくさ」

 背伸びした高校生のような、変な会話。塚田も工場の仕事には誇りを持っているが、いくらなんでも、食品製造のライン作業者が、プロのアスリートみたいな話をしているのはおかしいことくらいはわかる。

 いくら話し相手が欲しくても、「基地外」とランチタイムを過ごすなどはあり得ない。とうとう塚田は、信一と離れたテーブルで食事を取るようになってしまった。                             

 食堂という大海原で、ゴムボートから投げ出されてしまった塚田に、救助の手を差し伸べてくれる人はいなかった。

 信一と気まずくなったのと時を同じくして、凛が突然、誰にも、何の連絡もなく派遣会社を辞めてしまった。派遣スタッフが「バックレ」てしまうこと自体はよくあることで、寂しくはあるものの、ことさら驚きはしなかった。

 塚田が気になっているのは、凛がいなくなったころから、凛と一番仲良しだった村上までもが、どこかおかしくなってしまったことである。

 村上はもともと、百七十五センチある塚田より頭半分小さいが、体重は八十キロを超す肥満体型であった。それが、凛がいなくなった十月の半ばころからみるみる痩せて、十一月が終わりに差し掛かったころには、待機室の体重計で測って、六十四キロにまで落ちてしまったのである。

「ムラさん大丈夫?どこか、具合が悪いんじゃないの?」

「大丈夫だよ。ダイエットが、予想以上にうまくいったんだ。だから、心配しないで」

 ただ痩せたというだけなら、そこまで心配はしない。

 不気味なことに、村上は身体が萎んでいきながら、表情は逆に、生き生きとしていくのである。目は爛々と光って、肌はギトギトと脂ぎっていく。時々、意味もなくにやけているときもある。どこか、これまで村上に付きまとっていた「基地外」端本に似ていくようで、塚田はかつて、凛と村上を守るために、端本を追い出す算段を立てていたことなど、すっかり忘れていた。

 凛はそもそもいなくなってしまい、村上は工場ではまったく食べないため、食事の席には誘えない。

 寺井は寺井で、「基地外」端本と同じ粉ものの倉庫で働いている、七年間同棲中の彼女、希美と食事をとっている。真崎夫婦のようにむこうから誘ってくれたわけでもないのに、事実上の夫婦の水入らずの時間に割って入る図々しさは、塚田にはなかった。

                                ☆

 寺井、村上とは、午前十時と午後三時に挟まれる十分休憩の時間も、うまくいかなくなっていた。
               
「日本シリーズ第四戦での、マカッチェンの三打席目でのポップフライはまずかったよな。あそこでせめて右に打って、ランナーを三塁まで進めていれば、一点入ってたかもしれないのに。あのプレーがシリーズのターニングポイントだったよね」

「いや、やっぱり第五戦の梅宮のスリーランでしょ。梅宮はほんとパワーついたよね。地道にウェイトに取り組んできた成果が出始めてる。やっぱりこれからの野球は筋肉だよ」

 野山は紅く染まり、肌寒さも覚える季節になったというのに、寺井と村上は、相変わらず、プロ野球の話ばかりで盛り上がっていた。

 そもそも野球に興味のない塚田は、これまでプロ野球にはシーズンなんてものがあることも知らず、プロ野球の試合は一年中やっているものだと思っていたのだが、そうではなく、十一月から二月までは、プロ野球は休みになるのだという。

 なのに寺井と村上は、十一月に入ってからも、塚田の存在など、まるで眼中にないかのように、何が面白いのかわからない、マッチョなおじさんが、ボールを投げて棒っきれを振り回すスポーツの話ばかりしているのである。

「村上さん、川村がFAでタイタンズに移籍したらしいね。これでクリンナップを固定できるようになったし、来年は優勝争いに加わるんじゃないの?」

「そこまで甘くないよ。投手陣の整備ができてないし、川村は三部門こそ見栄えはいいけど、四球が少なく三振が多いフリースインガーだから、指標的にはそれほど良い選手じゃないからね。あれに億の金払うくらいだったら、先発ローテの三、四番手クラスを取ってきてくれた方が・・・」
 
 何を言っているのか、まったくわけがわからない。まるで、外国語の会話を聞いているようである。

 凛には申し訳ないのだが、塚田には、凛がいなくなることで、十分休憩の時間、寺井と村上がプロ野球の話をやめてくれるのではないか、という期待があった。一人メンツが減れば、必然、グループの中での自分の相対的価値が上がり、自分に話が振られる機会も増えるだろうと思っていた。

 塚田のあては、見事に外れた。プロ野球のシーズンが終わろうが、凛がいなくなろうが、「プロ野球ブーム」は、まったく終息の兆しを見せなかったのである。

 塚田には、寺井や村上、いなくなった凛らがなぜ、自分の身の回り以外のことで、こんなにも盛り上がれるのかが、理解できなかった。みんなで集まって、ボーリングやビリヤードをするのが楽しいのはわかるが、自分の生活になんの関わりもないプロ野球チームの試合を観ただけで、なぜそこまで一喜一憂できる?

 別に、自分が野球のことを知らず、話に参加できないから言うわけではない。有名選手の名前を覚えたり、基本的なルールを勉強したりと、みんなについていくための努力をしない怠慢を正当化しているわけでもない。本当に、塚田には、食品工場の作業員である寺井、村上、凛が、彼らにとって他人事に過ぎないプロ野球の話でなぜそんなに盛り上がれるのか、まったくわからないのだ。

 一度も話したことのないマッチョなおじさんがホームランを打ったことを話してなんになる?マッチョなおじさんのホームラン数を語り合うより、今日のラインの生産数を話し合った方が、よっぽど有意義じゃないか。そう思うことの、何が間違っている?

「小学校のころにやったゲームがさ・・・」

「新しく入ったブラジルの子、おっぱいおっきくない?」

 寺井と村上も、四六時中、野球の話ばかりしているわけではない。ときには、自分でも参加できそうな話題もある。しかし、蚊帳の外に置かれた期間が長くなりすぎると、いざチャンスが訪れても、うまく話しに入れなくなってしまう。タイミングがまったく掴めなくなってしまうのだ。

「今日からムラさん、新しい仕事を覚えるんだってね。大変そうだね」

「・・・・」

「赤ちゃんとオカマンは、気持ち悪いね。はやく死ねばいいのにね」

「・・・・・」

 といった具合に、塚田が久々に二人の会話に加わろうとすると、空気が変になってしまう。それを気にして、ますます下手なことを口に出来なくなるという悪循環。

 こういうときは、寺井がそれこそバラエティ番組の司会者のように、自分に話を振ってくれなければどうしようもないのだが、次、それを要求したら、塚田の職場生活は終わってしまう。

 会話と同じくらいに、塚田を悩ませていることがある。寺井と村上が、志保が産休に入った日――塚田が一生の恥となる「やらかし」をしてしまった日、塚田が持ってきたクッキーに、十一月になっても、まったく手を付けていないことである。

 それまで塚田は、「基地内」グループのみんなに「たべもの」を持ってくるとき、いつもバラ売りのものを買って配っていたのだが、あのときはたまたま、箱詰めのものを提供していた。

 クッキーは全部で十二個あり、一回の休憩では食べ終わらないのは仕方がない。そのうち誰かがつまんでいくだろうと、塚田は、いつも寺井たちと取り囲むテーブルの上に、余ったクッキーを置いておいたのだが、これを寺井と村上が、ずっと無視し続けているのである。

 クッキーの数が一向に減らないのを見て、塚田は疑心暗鬼に襲われるようになった。

 もしかして、これまで自分が、みんなに「たべもの」を配っていたのは、実はただの、有難迷惑だったのではないか?みんなは、「たべもの」で存在感を示そうとしている自分に配慮して、食べたくもないお菓子を、嫌々食べてくれていただけだったのではないか?

 塚田にも意地というものがあり、自分が正しいと信じてやってきたことを、簡単に間違いだったとは認めたくない。寺井と村上がひとつでも手を付けるまで、塚田は自分でクッキーを消化したり、クッキーの箱を持ちかえることもできなくなってしまった。

 バタークッキー一ダース入りの長方形の紙箱が、段々、巨大な岩の塊のような存在感を放っているように見えてきた。自分で持ってきたクッキーの箱に、プレッシャーをかけられている。よかれと思ってやったことまで裏目に出て、塚田は待機所に自分の居場所がなくなっていくのを感じていた。

 ランチタイムと同様、十分休憩の時間も、塚田はスマホとにらめっこするだけで終わることが増えていた。

 スマホを眺めていれば、自分が孤独でないことを証明できる。LINEやメールで、誰かと繋がっていると、思わせることができる。誰かに思わせることができれば、自分でも信じることができるようになる。  

 職場でそのザマでは、当然、「基地内」のみんなと、プライベートで交流を持つ機会などあるはずもない。

 忙しさがピークを迎える年末が近づき、はんぺんのラインでは、毎日二時間~三時間の残業が始まり、定時で上がることの多い寺井と、河川敷で酒飲みをする習慣はなくなってしまった。

 村上は拒食症になってしまったかのように食べる姿をみせず、日に日に痩せこけていく。とてもではないが、外食や遊びに誘える状態ではない。

 凛は工場を突然バックレて以来、一番仲良しだった村上とも連絡がつかなくなっている。今はもう、この辺りに住んでいるのかどうかもわからない。

 すでに退院して自宅で育児に追われている志保からは、いつでも赤ん坊を抱きに来ていいと言われているのだが、いまの塚田は、赤ん坊の父親である、信一と気まずくなってしまっている。そんなつもりはさらさらないが、信一のいないところで、人妻である志保と会うのは躊躇われた。

 あれほど仲が良く、一体感があったはずのみんなのことが、段々よくわからなくなっていく。

 スマホのデータフォルダに保存されている画像――信一を除く五人でボーリングに行ったときに撮影した集合写真と、寺井を除く五人で、高原にドライブに出かけたときの集合写真。楽しかった思い出。塚田の宝。一生の宝になるはずだと、思っていた。

 築き上げ、大切にしてきたものが、少しずつ崩れ去っていっているのを知りながら、塚田はただ、スマホの画面を眺めていることしかできなかった。

                         
                            ☆
         

「よう塚田くん。今日も残業?」

 十一月のある日、定時のチャイムが鳴り、これから残業に備えて、二十分間の休憩を取るため、棒のようになった足を引きずって食堂に向かおうとした塚田を、寺井が珍しく呼び止めてきた。

「う、うん。寺井さんは、定時で上がるの?」

 寺井から話しかけられたのは、思い出せないほど久々のこと。待ち望んでいた瞬間だったはずなのに、どういうわけか、塚田には嫌な予感しかしなかった。

「ああ。今週は二日間も協力したんだから、もう十分だろ」

 毎日、塚田が帰ったあとも、日付が変わる直前まで残業をしている社員たちが、うつろな目をして通路を横切っていく中、寺井が実に晴れやかな表情、爽やかな声音で言ってのけた。

「今週あと三日間、定時で帰っちゃって、大丈夫なの?ラインの生産数、目標に届いてないんじゃないの・・?」

 塚田が、少し咎める口調で言うと、寺井が侮蔑したような笑みを浮かべた。

「なんでそんなこと、派遣が気にするの?社員がその分残業するんだから、帰りたかったら帰っちゃえばいいじゃん」

「でも、それで納期を割っちゃったらどうするの?」

「知らんよ。知らん知らん。派遣が一人、定時で上がったくらいで納期割るんなら、スケジュールの組み方が悪いだけなんだから。それで工場が潰れたって、僕の責任じゃないよ。あほくさ」

「あほくさって・・みんなが」

 みんなが頑張っているのに、なんとも思わないのか――塚田は口にしかけた言葉を呑んだ。

 自分の考えの勝手な押し付け。「やらかし」の再現だけは、絶対にしてはならない。

 そもそも、寺井の勤務態度が、工場の中でとくに問題視されているというわけでもないのである。

 派遣の中には、寺井のように、毎日残業などしたくない、定時で上がってたっぷり休みたい、という人はいくらでもいる。寺井のように交渉する勇気がなく、帰りたくても言い出せない大人しい人や、押しの強い社員に、したくもない残業を半ば強制されている人は、残業しないどころか、工場を辞めてしまっている。
 
 いくら派遣でも、一日や二日で補充できるものではないし、単純労働といっても、割り当てられた作業を一人でこなせるスキルを身に着けさせるまでは、どんなに短くても一週間はかかる。

 何も言わずに辞めてしまうスタッフに比べれば、当欠や遅刻、早退もなく、週に何日かでも残業に協力してくれる寺井は、工場が日に日に忙しさを増していく今、必要な人材なのだ。

 管理職でもない塚田が、寺井に残業をさせようというのは、ただ、友達が自分と違う考え方をしているのが許せない――寺井を「自分色」に染めたいだけのエゴにしか過ぎないのである。

 塚田の以前のやらかしを、寺井は何も言わずスルーしてくれた。それは寺井が理解のある大人だからだが、その寺井でも、二度目はないと思った方がいいだろう。次、塚田がやらかせば、寺井はもう自分と口をきいてくれなくなるかもしれない。村上や志保にも、自分のイタイところを言いふらされ、みんなから見放されてしまうかもしれないのだ。

「んじゃ、バスの時間来ちゃうから。お疲れ」

 別れ際、寺井が左の口角を吊り上げたのが目に入った。塚田にはそれが、何となく、自分のことをバカにしたように見えた。

 被害妄想――また一つ、新たに厄介な感情が立ち現われ、塚田を悩ませる「見えない軍隊」に加わった。

 ストレスの集合体――近頃勢力を増し、包囲網を徐々に、徐々に狭めている「見えない軍隊」が現れたすべてのキッカケは、寺井へのやらかしだった。せっかく動き出した塚田の止まった時計は、あの日を境に歯車が狂いだし、あらぬ暴走を始めようとしていた。

 寺井、寺井、寺井――寺井の存在が、塚田の頭の中で、悪性の腫瘍のように膨れ上がり、神経を圧迫し始めていた。

 自分が大事に思う人はまた、自分のことも、同じように大事に思わなければならない、と期待してしまう。塚田の宿痾だが、寺井に対してのそれは群を抜いていた。

――やぁ。君、この辺りの人だよね。僕、まだ越してきたばかりでさ。どこか、いい遊び場あったら、教えてくれない?

 工場で、塚田に仕事以外のことで最初に話しかけてくれたのが、寺井だった。寺井と仲良くなったのをキッカケに、寺井と仲の良かった村上、凛、志保とも仲良くなれたし、志保を通じて、信一とも仲良くなれた。

 極端な話、寺井さえいなければ、自分は工場の誰とも親しくせず、ずっと一人で、ある意味気楽な毎日を送っていたかもしれない。人と絆で結ばれる充実はなかったかもしれないが、それを失う不安に苛まれることもなかった。

 河川敷での酒飲みだって、はじめに誘ってきたのは寺井だったのだ。

 ある日、たまたま待機室で寺井と二人になったとき、塚田が、自分はニートの十年選手であったことを、自虐ネタのように話題にすると、寺井はそれにやけに興味を持って、それまで一人でやっていたという、河川敷での酒飲みに誘ってくれた。その日は夜の二十一時まで話し込み、以来、毎週末、二人で河川敷飲みをするのが習慣になった。

 元々はそっちが、僕を必要としていたんじゃないのか?そっちが、十年間閉ざされていた、僕の心のドアを開けておきながら、突然、蔑ろにするなんて、そんなの許されるのか?

 寺井、寺井、寺井――どこにいても、何をしていても、常に寺井の影が付きまとってくる。「基地外」たちのように、最初から嫌いだったわけではなく、もともとは好きで、向こうもこっちを好いてくれると信じていた――「裏切られた」という思いがあるから、タチが悪かった。

「希美さん。あっちのテーブルが空いています。あっちで、一緒に夕食を取りましょう」

 「基地外」端本は、凜が工場をバックレて以降、凜や村上に対するストーキング行為を、パッタリとやめていた。目の前からいなくなったことで、憑き物が落ちたようになったのか、凛のことは口に出すこともなくなり、村上にもちょっかいを出さなくなった。

 代わりに付きまとい始めたのが、寺井の同棲相手、希美であった。昼は寺井と食事を取っているため、近寄ってくることはないが、残業前の夕食の時間になると、端本は、傍目にも明らかに嫌がっている希美にくっつき、強引に一緒のテーブルに座るようになったのである。

「希美さん。あなたは、恋愛について、どう考えていますか?僕は、恋愛というのは、心と心でするものだと考えています。つまり、結婚する前から性的な関係を持ったり、性的なことを話題にするのは、よくないということです。もちろん、援交など、愛してもいない女性と体を重ね合わせるのも、よくないことです」

 希美は、向かいの席が空いているのにわざわざ隣に腰掛け、顔を異常に近づけて、視線を一ミリもそらさずに話す端本への応対に困っているようで、苦笑いを浮かべながら、SOSサインを送るかのように、周囲に視線を飛ばしている。しかし、食堂にいる十人前後のスタッフの中に、希美を助けようとする人は誰もいない。

 派遣は人の入れ替わりが激しく、横のつながりが希薄で、お互いに関心を払わない。「基地内」グループのように、いつも仲が良く、プライベートで一緒に遊んだりする方が稀有なのだ。社員の方も、派遣はすぐいなくなる交換要員という認識だから、派遣同士のトラブルに介入し、わざわざ火の粉を浴びようという物好きはいない。

 この場で希美と多少なりとも義理があるのは、塚田しかいない。希美を助けられるのは、自分しかいない――。わかっていながら、あえて、見なかったフリをした。

 寺井が残っていれば――自分と同じようにしていれば、希美を「基地外」から守ることができたのに、バカなヤツ。

 我に返ったのは、休憩が終わって、端本を先に行かせてから、半分以上残ったサンドイッチをゴミ箱に捨てている希美を見たときのこと。

 猛烈に、後悔した。関係のない希美を見殺しにすることで、寺井へのささやかな復讐を果たしたつもりになっている自分が、たまらなく嫌になった。

 ちょっと前までの自分は、他人を陥れることなど考えなかった。常日頃、世のため、人のためになることがしたいと思っていた。電車で遠くに行くときは、お年寄りに席を譲ることが自然にできていたし、道がわからなくて困っている外国人がいれば、時間を割いても交番まで案内してあげていた。

 だけどその自分は――塚田自身がキレイだと思っている自分は、家庭以外に収まるところがどこにもない、家族以外の誰からも必要とされていなかった自分なのだ。その事実こそが、何より恐ろしかった。

 社会の荒波にもまれて、辛酸をなめれば、社会の欺瞞に気づき、社会を疑うようになる。お年寄りを、若者から生活の余裕を奪う老害と見做すようになり、よその国から頑張って働きに来た外国人を、治安を悪化させ、労働条件をダンピングさせる(詳しいことはわからないのだが、テレビで言っていた)移民だと、白い目で見るようになってしまう。 

 外に出て働き始めて、八か月あまりの月日が過ぎた。規則正しい生活のリズムもできてきて、朝起きるのも苦ではなくなってきた。体力もついた。

 社会人としては成長する一方で、人としては、どこか歪な自分が出来上がっているのではないか。自分が自分でなくなっていく気がして、怖かった。
 
「ごちそうさまでした!!!」

 せめて挨拶だけは、誰よりも大きな声で。

        
                             ☆      

 
 リフレッシュのためにあるはずの休憩で、フラストレーションを抱えたまま仕事に戻る。これ以上ないほどの逆転現象だが、嬉しいこともあった。「休憩のストレスを仕事にぶつける」ことで、以前より速度も正確さも増した塚田の作業を、ラインリーダーの岡本涼子が褒めてくれることである。

「塚田さんが頑張ってくれるお陰で、うちのラインは今月も無事ノルマを達成できそうです。塚田さんが一番の頼りですよ。年末まで、その調子でお願いしますね」

「はい。これからも頑張ります、リーダー」

 人の呼び方にこだわる塚田は、密かに恋心を抱いている岡本のことを、敢えて「リーダー」と呼んでいた。名前ではなく、役職名で呼ぶと、好きな涼子と、職場という戦場で共に戦っている戦士なんだという気持ちになれて、奮い立つことができるのだ。

 仕事にやる気を出して、何が悪い。仕事を頑張ることが、間違いであるはずがないのだ。

 有名なお笑い芸人の人も言っていた。たかが野球の試合なんかに一喜一憂するのは、普段、自分の仕事や勉強を頑張っていない人だ。自分の応援した選手が頑張っているのをみて、自分が頑張ったような気になり、好きなチームが勝つのをみて、自分が勝ったような気になっている。他人に自分の人生を仮託することでしか喜びを味わえない、自分の人生と戦っていない人たちなんだ。

 派遣だろうが、正社員だろうが、関係ない。自分の生活に何の関わり合いもないプロ野球の試合の結果などを気にしているより、自分の目の前の仕事、目の前の人間関係を大切にすることの方が、ずっと大事なのだ。信一の仕切っている、伊達巻ラインのみんなみたいに――。

「及川さん。安全のことだけは、口うるさく言うぞ。あんたがもし死んでしまったら、あんたの親はどう思う?親より先に死ぬのは、最大の親不孝だぞ」

「及川ぁ!少しでも疑問に思ったら、手を付ける前に聞け!取返しのつかないミスをしてからじゃ遅いんだぞ!」

 仕事のことだけでなく、人生訓まで説こうとする信一と、とにかくラインの作業に命を懸ける牛尾。二人の「師匠」に見守られながら、日に日に成長していく及川。平均年齢は高いが、伊達巻のラインは、まるで中学の運動部のようである。

「よそのラインと競争だ!どこよりも早く終わらせるぞ。もちろん、不良は流出させないようにな!」

 いい年したおじさんが、あんな単純作業に夢中になっているなんて、暑苦しいだけだと、冷ややかな目を向ける人もいる――寺井のことだが、それは、心が冷めているからそう思うのである。

 いくつになっても青春ができているなんて素敵じゃないか。初めは塚田も引いていたが、寺井への反発心から、塚田は近頃では、伊達巻のラインを羨ましく思うようになっていた。

「今日も熱血してるねぇ。おじさんたちのライン」

 機械の保全を担当する正社員、伊崎がはんぺんのリーダー机にやってきて、寺井に似た、嘲るような目で伊達巻のラインを見ながら、涼子に馴れ馴れしく話しかけた。

 伊崎渡。塚田は、寺井と同世代の、この正社員のことが苦手だった。

 意地悪というわけではない。威圧感が強く、少しのミスで怒鳴り散らすというのでもない。ただ、この男は、派遣を軽く見ているのである。

 まず伊崎は、派遣の名前を覚えようとしない。名前で呼ぶのはせいぜい、長く勤めている真崎夫妻や寺井のことくらいで、入社から一年も経っていない塚田のことは、ずっと「ハケン君」呼ばわりである。

 名前で呼ばれないと、人として扱われていないような気がする。工場の機械と同じ、取り換えの効くモノ扱いされているようで、いい気がしない。

 派遣に何も期待していないから、派遣が思い通りに動かなくても、いちいち感情的になったりしない。そういういい面も、あるのかもしれない。でも・・・。

 怒鳴られようが引っぱたかれようが、塚田は自分も工場の仲間の一員だと、認めてほしいのだ。いい仕事をしたときは、上司に褒めてほしいのだ。

 派遣会社の面接のときは、経歴に深く突っ込まれなかったことを感謝したが、働く期間が長くなるにつれ、塚田はみんなに、自分のことを、もっと知ってもらいたいと思うようになっていった。

 もっと、自分に注目してほしかった。髪の毛を茶色に染めたことだって、志保だけじゃなく、もっとみんなに気づいてほしかった。

 自己顕示欲、承認欲求。それが、「やらかし」の件のように、個人に向かう場合は危険なのかもしれないが、社会のためになる仕事で発散しようと思う分には、大いに結構なんじゃないか。誰にも文句を言わせる筋合いはないんじゃないか。

「あれだけやっても、いつまで会社にいられるかもわからないし、ボーナスももらえないのにねぇ。涼子、ああいうの見てどう思う?」

 塚田の思いをぶち壊そうとするのが、伊達巻のラインに向けられる、伊崎の嘲った目なのだ。寺井と同じあの目――同じ立場の寺井が向ける分には、価値観の違いで済むが、正社員の伊崎にあの目をされると、お前と俺は違う人間なんだと見下されているようで、本当に嫌な気分になる。

 涼子は、伊崎と違う考えであってほしい。ほかのすべての正社員に見下されてもかまわないが、好きな涼子にだけは、自分を――派遣を、同じ工場の仲間として認めてほしかった。

「う~ん・・・ちょっと、怖い・・・です」

 伊達巻ラインのテンションに気圧された様子で、伊崎と顔を見合わせながら苦笑いする涼子を見て、塚田の頭の中で、なにかが崩れていった。




                             ☆

 
「ありがとうございました!」

 送迎バスを降りた塚田は、土砂降りの雨の中を、傘も差さずに歩いていく。

――う~ん・・・ちょっと、怖い・・・です。

 寺井に、親し気に呼び合うことを「どうでもいい」と流されたときと同じ、たった一言。本人は悪意なく放った一言でも、それを好きな人に言われれば、心の中に大雨が降ってしまうこともある。

 涼子は、はんぺんエースと呼ばれて浮かれている自分のことも、本当は同じように思っていたのだろうか。ただ、自分のラインのノルマを達成するために、適当におだてて、うまいこと利用しようとしていただけだったのだろうか。

 疑念が、どす黒い雲のように膨らんでいく。

 ハケン・ヒセイキ・タンジュンロウドウ。

 自分の身分を表す言葉が、冷たい雨と一緒に、全身に降り注いでいた。

 もし、信一たちが、涼子と同じ正社員であり、仕事も高度な、管理的な業務をしていたのなら、たとえ涼子の共感を得られなくたって、痛くもかゆくもなかっただろう。小娘に男の世界はわかるまい。そんな言葉も、けして負け惜しみには聞こえない。

 コワイ――塚田がどれだけ伊達巻のラインに憧れたところで、正社員である涼子にとっては、自分の父親のような年齢のおじさんが、中学生でもできるライン作業に熱中している光景は、異様なものでしかないのだ。

 --世間じゃ派遣は悲惨だって言われるけどさ、それは真崎のクソジジイみたいに、頑張っても報われないヤツのことを言うんだ。どうせ報われないんだったら、最初から何も求めなきゃいいし、何も目指さなきゃいいんだよ。僕らは給料が安いかわりに、大して期待もされない気楽な立場。適度に手を抜きながら、時間をやり過ごすことだけ考えればいい。そう割り切れば、世間で言われてるほど惨めなもんでもないんだから。頑張るんだったら・・・・。

 いつか、河川敷で寺井に言われた言葉が、脳裏に蘇る。 

 おそらくその後には、「自分の本当にやりたいことを、家で頑張れ」と続くのだろう。寺井は派遣という雇用形態のままでは、仕事で自己顕示欲、承認欲求を満たすことなどできはしないと諦めている。そもそも、初めから期待してすらいない。派遣で働くのは生活のためと割り切り、家で本当に、自分のやりたい仕事をもらうための努力をしている。

 自分にだって、家でやらなくてはいけないことはある。寺井のように夢があるわけではないが、高卒認定の資格取得や、運転免許の取得などは、とりあえずでやっても無駄にはならないことであり、世間一般からみれば、何のスキルも見につかない単純労働をしているより評価されることだ。

 しかし、このところ残業続きで、家に帰ればぐったりしてしまい、とてもではないが、勉強に時間を割く余裕はない。

 そもそも努力など、人に見せるものではない。余力を残して定時で上がっている寺井が、家でどれだけ頑張っているかも知らず、あんな工場の、誰でもできる仕事を遅くまでやって、寺井が会社に非協力的だなどと憤慨している自分は、ただ、人から褒められたいだけの子供みたいなものなのではないか。

 村上や凛は、すべてを忘れて没頭できる趣味を見つけている。

 世の中の多くの人は、つまらない仕事をして、つまらない日常を送っている。だから少しでも夢を見るために、日常の憂さを晴らすために、世の中の面白いことを探している。世の中の面白い仕事をしている人たちに自分の人生を託して、自分の日常にはない達成感を味わおうとしている。

 世の中の面白いことを共通の話題にして、人間関係が豊かになることもある。寺井や村上が自分の生活に何の関わりもないプロ野球の話で盛り上がることは、つまらない日常を少しでも充実させるために、立派に役に立っている。

 仕事など、人生の一部でしかないのだ。つまらない仕事だから悪いのではなく、つまらない仕事をさも面白い仕事かのように言って、六の力でこなせる仕事に十の力を注ぎこみ、仕事以外の人生を削るのが間違っている。

 正社員でもないのに毎日残業して、一兵卒のくせにラインの生産数なんかを気にして、仕事に打ち込んでいるように見せている自分は、僕は人生を充実させる趣味も見つけられない、自分の世界を持たない、面白みも何にもない男です、と、周囲にアピールしているようなものではないだろうか。 

「や、やあ、はんぺんのエース。雨の中、傘も差さずに歩いてどうした?」

 同じバスに乗っていた及川――近頃、伊達巻ラインの中で認められて、調子に乗っている及川が、後ろから追いついてきて、ずぶ濡れの塚田の顔をのぞき込むようにしながら話しかけてきた。歩速をはやめ、不快な吃音を振り払った。

 ハケン・ヒセイキ・タンジュンロウドウ――。自分の境遇の現実がわかると、これまで、偉そうに、人を「基地内」「基地外」などと寄り分けて、できない人を見下していい気になっていた自分が、とてつもなく惨めに思えてきた。

 及川や端本も、時給は自分と同じ、一一〇〇円。たかだか従業員四十名程度の工場でどう見られようが、世の中全体からみれば、同じ「ハケン」ではないか。

 ハケンという存在そのものが「基地外」なのか?いや、そうじゃない。

 ハケンはハケンらしく、正しく生きていれば、決して、世の中の負け組にもならないし、底辺でもない。伊崎や涼子のような正社員に、笑いものにされることもない。

 ハケンらしい生き方とは、自分の本当の生きがいを他所で見つけてくること。仕事は金を稼ぐためだけと割り切り、残業は程々にして、空いた時間で、スキルアップのための努力をしたり、夢中になれる趣味を楽しむこと。

 その生きがいが、自分にはないのだ。まるきり、影も形も存在しないし、どうやって探していいかもわからないのだ。

 はんぺんラインのエースと、みんなから褒められる自分――大丸食品工場の八か月間で得たものを失ったら、自分には何も残らない。同世代が高校、大学専門学校、社会人、とキャリアを積んできた十年という期間、自分の身になることを何もしていなかった自分には、あの工場の仕事以外、なにもないのだ。

 自分の生き方が間違っていたとして、じゃあどうすればいいのだ。誰が教えてくれるというのだ。

                 
                           ☆


 その日の夜は、悪夢にうなされた。

 河川敷かどこかのグラウンドで、寺井、村上、凛、涼子が、なぜか野球のユニフォームを着ている伊崎を取り囲んで、サインをねだっている。特に熱心なのは涼子で、ファンというよりも、発情した雌犬のような目で、実寸より二回りくらい大きくなった伊崎の筋骨隆々の体を眺めている。

「私、エースといわれている男の人が好きなんです。特に、一番好きなのは、ブレイザースのエース、伊崎さんなんです」

 誰に向けるともなく放たれた涼子の一言。機械の保全係である伊崎が、プロ野球球団であるブレイサースのエースであるはずがないが、夢の中の塚田はなぜか、そういうもんだと受け入れていた。

 好きな涼子の心を欲しいままにする伊崎に、激しい嫉妬と憎悪を抱いた塚田は、グラウンドに転がっているバットを拾って、伊崎に殴りかかろうとしたが、体がフワフワして、うまく前に進むことができない。

「こっちにだって、エースはいるぞ」

 塚田の後ろから叫んだのは、信一、牛尾、及川・・・伊達巻ラインの連中だった。その声を聞いた涼子が、伊崎の傍から離れ、塚田の方に、パタパタと駆けてきた。

「あなたは、エースなんですか?なんのエースなんですか?」

 大きな目をクリクリさせて、興味津々に問いかけてくる涼子。彼女の期待する答えができないとわかっているのに――嘘でもいいから、タイタンズのエースとか言っておけばいいのに、よせばいいのに塚田は、本当のことを言いたくなってしまった。涼子には、本当の自分を知ってほしかった。

「は・・・・はんぺんのエース」
 
 塚田が答えた瞬間、伊崎の取り巻き、寺井、村上、凛が、口に含んでいたバタークッキーを吹き出した。涼子は、昆虫採集に雑木林を訪れた子供が、クワガタムシとマイマイカブリを間違えてしまったときのような顔を浮かべると、くるりと踵を返し、また伊崎の元へ戻っていた。

 はんぺんエース・・・はんぺんエースで何が悪い!そりゃ、年収は、プロ野球のエースの百分の一にも満たないかもしれないけど、同じエースじゃないか!憤然とした塚田は、涼子を追いかけようとしたが、やはり足がフワフワして、全然前に進めない。

「はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース」

 伊達巻ラインの信一、牛尾、及川が、やいやいと囃したてながら、なぜか腰布一枚の姿で、自分の周りを回っている。むさくるしい裸の男たちに囲まれる塚田の目の前にいる伊崎は、なぜか高価そうなガウンを着て、恥ずかしそうに小ぶりの乳房と股間を腕で隠した全裸の涼子を抱いている。

「はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース」

 信一、牛尾、及川たちは、同心円を描くように回りながら、段々と自分に近づいてくる。やめろ、寄るなーっ。叫びは、声にならない。

 裸の男たちに、生臭い息を吐きかけられながら揉みくちゃにされて、涼子の姿がすっかり見えなくなったところで、目が覚めた。次の瞬間、アラームのけたたましい音が鳴り響いた。

 今まで生きてきた中で、一番嫌な夢だった。

 その日の勤務、無心で手を動かす自分を頼もし気に見つめる涼子の視線が、たまらなく突き刺さった。

                         ☆


 志保、志保、志保――。

 大事にしてきたはずの人間関係が逆にプレッシャーとなり、誇りを持っていたはずの仕事にも逃げられなくなって、見えない軍隊に追い込まれた塚田が望みを託すのは、いまや、産休中の志保しかいなかった。

 すべての歯車が狂い始めたのは、志保がいなくなったあの日――ならば、志保さえ帰ってくれば、すべては元に戻るはずだ。確かな根拠はないが、塚田にはもうそれしか、桎梏の状況を抜け出す突破口が見いだせなかった。

 志保、志保、志保――予定では、希望の志保が戻ってくるのは、年末の一番忙しい時期まで待たなくてはならないはずだったが、神が救いの手を差し伸べた。十一月の終わりに、伊達巻のラインの牛尾がインフルエンザで倒れた影響で配置転換が行われ、緊急措置的に、志保が一週間の短期契約で、応援に来てくれることになったのだ。

「志保さん久しぶり!もう体調はいいの?」

「おはよう、てっくん。今急いでるから、あとでね」

 久々に会えたというのに、志保は表情が固く、どこか余所余所しい態度である。

 三か月近くも休んでいたとはいえ、慣れ親しんだ職場で、緊張しているというのでもあるまい。いったい、志保はどうしたというのだろうか。訝りながら作業に入った後も、塚田は志保の動きを注視していたが、その後は特に、変わった様子はなかった。

 異変が起きたのは、昼休憩の時間であった。

 以前のように、志保と一緒にランチを取ろうと、志保のいる後工程の作業場に向かったのだが、そこにいるはずの志保の姿が見えない。もしや、入れ違いになったのかと、さっきまで自分が作業をしていた前工程の作業場を振り返ると、みんなが食堂に行き、閑散とした作業場の中、志保が伊達巻のラインの方に向かって、夢遊病者のような足取りで歩いていくのが見えた。

 年末が近づき、忙しさを増していく中でも、法律で定められた一時間の昼休憩だけはしっかり取られていたが、牛尾が倒れた影響で生産数がノルマを割っている伊達巻のラインだけは、ここ数日、十分から十五分間、昼休憩を返上して働いていた。その間、給料は一円も出ない。

 牛尾の代わりに前工程に入っているのは、かつて伊達巻ラインの所属だった寺井である。寺井は信一が独断で始めた「サービス昼残」に酷く憤っており、応援に入ったときから信一と何度もやり合っていたのだが、とうとう諦めたのか、今日に限っては、他のラインのみんなが昼休憩に向かった後も、文句も言わず作業をこなしているように見えた。

 前工程、中工程の作業場と、後工程の作業場は間地切りされており、特別な用でもない限り、両工程の作業員が、お互いの作業場を行き来することはない。

 はんぺんラインの後工程を担当する志保が、伊達巻ラインに用事があるとすれば、それは夫である信一に用があってのことだと誰もが思うところだが、志保は信一をスルーして、どういうわけか、及川の担当する中工程の機械へと向かって歩いていった。

 引き結ばれた唇、真っ直ぐに射貫くような眼光。決闘場に赴く女騎士のような顔を見せた志保が、おもむろに衛生服の上をはだけた。ブラジャーもはぎ取って、パンパンに張った乳房が顕わになった。

 塚田は眼を疑った。信一、及川も、志保の突然の行動に、金縛りにあったようになって動けない。ただ一人、寺井だけが、勝ち誇ったように左の口角を吊り上げながら、作業場に持ち込み禁止であるはずのスマホを、志保に向けて翳している。

 伊達巻ラインの中工程では、回転寿司のようなレーンの上を、前工程で攪拌された液体を熱して固め、カステラのようにして、四角形の鍋に詰めた材料が流れている。すでに伊達巻の味になっており、あとはこれをカットして、パッケージに詰めてラベルを貼れば出荷できる状態になる。

 志保がその材料に向かって、レーズンのような、黒ずんだ乳首を向けた。両手の指で、午前の労働でじっとりと汗ばんだ乳房の根本を掴むと、生クリームの入ったチューブを絞るように、五百円玉サイズの乳輪に向かって、一気に指を押し上げた。

 白く、芳醇なミルクが、乳首に空いた微細な穴から勢いよく飛び出し、レーンを流れる伊達巻の鍋に降り注ぐ。母乳は四方八方に向かって細く飛び出し、伊達巻の鍋のみならず、機械や床など、周辺の至るところを白く汚した。

 目の前で起きているこれはなんだ?塚田は卒倒して後ろに倒れそうになるのを、足を踏ん張って懸命に堪えた。

「やめろぉぉっ。ひゃぁめろぉぉぉっ!!」

 妻である志保を、羽交い絞めにする信一。機械から引きはがされようとしても、志保はまったく表情を動かさず、ライン作業を行うように、淡々と乳房を絞り続けている。

「あの子のためだから。あの子のためだから」

 志保の世界には、信一という男など、まるで存在していないかのようである。

 偶然か否か、節くれだった信一の手が志保の乳房に触れると、特濃の母乳が、勢いよくビュッと飛び出した。二人がバランスを崩し、床に倒れた拍子に、古い台車が転倒した。台車の底板に張り付いていた蜘蛛が驚いて駆け出し、機械の下に滑り込んでいくのが見えた。

「なんだこれ・・なんで・・・・」

 作業場に響く、信一の阿鼻叫喚、寺井の高笑い――。

 見えない軍隊は、いまやハッキリと姿を現し、塚田に向かって無数の銃口を突き付けていた。
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非公開コメント

塚田のやらかしメールをスルーしてくれたのはさすが寺井ですね。
信一は派遣のくせに子供をつくってしまい子供の将来に不安を感じているのでしょう?
塚田は人との繋がりを大切に考え過ぎですね。
まだ若いのですから自分のやりたい事を探し人付き合いも仕事もほどほどにしないと身がもちませんね。
及川の変わりようはなんなんですかね。
マジなのか信一たちをからかっているのか分かりかねますね。
凛がバックレるのは良くある事ですね。
しょせん派遣の付き合いなんてそんなもんでしょう?
伊崎も正社員だとしてもこの程度の工場の社員で派遣の事をバカにしてるようではたいした人間ではなさそうですね。
まぁ〜ほとんどの人がそうでしょうが…
涼子のちょっと、 怖いです。 もっともの意見ですね。
寺井の昼休みの無償の労働は何か起こる事を予想していたのでしょうか?
禁止されているスマホまで持ち込み写真を撮るなんて出来過ぎですね。
志保は大変な事をやらかしてしまいましたね。
かなり精神的に病んでいそうなので信一とのこと、子供の事が心配ですね。
台車の下に蜘蛛がいた事にも驚きました。
この先の展開、大変な騒ぎになりそうで楽しみです。

No title

急展開ですね。
塚田が信一との一件で段々と孤立していく様子は厳しいものがありますね。
関係が良かった状態があるからこそ余計きついものがありますね。
基地外グループだった及川が徐々に周りから受け入れられているというのも塚田にとっては面白くないでしょうね。
はんぺんエースの場面特に面白かったです。
志保が暴走してしまったのは寺井の策略ですね。
サービス昼残を提案した信一への復讐でしょうか。
この行動で工場は大混乱になってしまいますね。

No title

まっちゃんさん

 ラインでのトラブルは今の若い子の間で大変な問題になっているみたいですね。ここのコメント欄でのやり取りも似たようなもんだと思いますが、説教はともかく、ちょっと気持ちが入りすぎているかな、くらいのコメントなら、受け取る方は意外に気にしないもんです。塚田のように、送った方が気にしすぎて自滅しているパターンの方が多いでしょうね。

 ランチメイト症候群なんて言葉もあって、職場で自分の居場所や人間関係を作るのに必要以上に肩肘張ってしまう人は多いみたいです。辛いなら辞めりゃあいいだけの話ですが、塚田みたいに若いと、そこだけが世界のすべてだと思い込んでしまう部分もありますからね。嫌われたり、疑心暗鬼に陥ったりして、それでも繋がりたがるのは、人の性ではありますが・・。

 今回は五人の人物の視点を用意して、後からわからなかったことが補完されていくというスタイルで書いていきたいと思います。序盤はどこまで謎を残すか、説明しておくかの加減が肝なんで後々大幅に修正するのはこの章ではないかという気がしています。

 台車の下の蜘蛛は私の実体験です。私が働いていたのは春でしたが、たぶん、夏場にはゴキもいっぱい出たでしょうね。

No title

seaskyさん

 塚田が夢の中で現実に気が付くシーンですね。

 褒め殺して飼い殺すというのは社会の中でよくあることで、そこらへんのことはもうちょっとこれから書いていきたいですね。

 特に若いと勘違いしやすいです。私小説で紹介した折茂なんか可哀そうなもんですよ。自分が師匠と尊敬する先輩に褒めてほしくて、日勤夜勤の連勤をこなすほど頑張ってるのに、待遇は入社して四年たっても一般の隊員のまま。管制官なんか有能な人なら入社して一年でなるケースもあるんですけどね。

 自分を慕ってる若者がいるなら、何とかして上に引き上げてやるか、それができないなら、こんな業界にいても先はないから、別の道を探せと言ってやるのが人情じゃないかと思います。

 ちょっと7月に入ってからコメントの数が急落してしまいました。お二方のご厚意に応えるべくなんとか続けていきたいのですが、もう少し待ってもコメントが増えてこず、やはり気持ちの面で毒になると判断したときは中断するかもしれません。本当に申し訳ないのですが、コメントの数が評価だと思うしかないので・・。
 
 

初めまして

山地悠紀夫のことを調べていてこのサイトにたどり着きました。
犯罪者名鑑は山地以外の人物のページも全部読ませていただき、それから小説のほうも少しずつ読ませていただいています。
文章力がなく稚拙な感想しか書けないのが申し訳ないのですが、パートタイムで食品工場を転々としてきた身として工場内の人間関係の描写は特にリアルに感じました。

第二話もやっぱり自分と置き換えてしまいました。特に話しかけにくい所やクッキーの件は「わかるわかる」って感じで読んでいました。でもどれもこれも塚田がやらかしをしなければなかった事の様なきがします。続き早く読みたいです。

No title

ばかがいこつさん

 失言して居づらくなるほとんどは自滅でしょうね。政治家でもあるまいし、誰もつついてくる人なんていやしないのに。他人を平気で傷つける人間に限って、自分が傷つくことには異常に敏感だったりもします。

 いわゆる面倒くさいタイプの人間である塚田の精神的変化というのを今後の軸にしていこうと思っています。

No title

ゆうさん

 小説に関しては色々迷走もしてきた中で、「自分の良く知っていることを書くに限る」という結論を導き出しました。

 私の場合、アンダーグラウンドや医療業界のような刺激的な世界で生きてきたわけではないので、しょうもないこととか、底辺特有のイタイ人間をいかに面白おかしく書けるかという部分に特化して力を伸ばすことがデビューへの一番の早道だと思っています。


 犯罪者名鑑の方にも感想をいただけると嬉しいです。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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