第一章 201×年九月 夏の終わり



 
 暗い部屋の隅っこで、ずっとひとりぼっちだった。

 

 勇気を持って外に出た。みんなが、受け入れてくれた。



「ありがとうございました!」

 後部座席まで届く大きな声で、送迎バスの運転手に礼を言った塚田哲太は、燦々と降り注ぐ朝陽の下、半年前から勤務している、大丸食品・食品加工工場へと向かって歩いていった。

「おはよ~てっくん。髪、また染めてきたね」

 モスグリーンのスポーツカーから降りてきた、塚田と同じはんぺんのライン作業者、真崎志保が、塚田に後ろから追いついて、声をかけてきた。

「おはよう、志保さん。信一さんは、一緒じゃないの?」

「あの人は早出だから、七時前には自転車漕いで出て行ったよ。伊達巻はキツイんだから、あんたが車使いなさいよって言ったんだけどね」

 志保の夫、真崎信一は伊達巻のラインリーダー。リーダーは通常、工場の正社員が担当しているが、信一の場合は特例で、派遣会社から時給に上乗せしてリーダー手当をもらいながら、リーダー職についている。

「志保さんに赤ちゃんができたから、身体を気遣ってくれてるんじゃないの?」

 四十五歳の信一、三十八歳の志保の夫婦が結ばれたのは、いまから十年前のこと。当時、塗装工をしていた信一が、志保の働いていたスナックに熱心に通いつめ、口説き落としたのだそうだ。

 慎ましくも幸せな結婚生活を送ってきた二人だったが、長らく、子宝には恵まれなかった。そのことが、かえって二人の絆を深めたのだろう。社内でもオシドリ夫婦と評判の二人に、待望の一子が宿ったことが明らかになったのが、ちょうど、半年前に入社した塚田が、夫婦と親しくなったころのことだった。

「そうだといいんだけどねぇ・・」

 妊娠八か月目の志保は、バスケットボールを抱えているように膨らんできたお腹を、愛おしいような、困ったような、複雑な表情で撫ぜた。 

 二十四歳の塚田は、信一と志保から自宅マンションに招かれて食事を振舞ってもらったり、日帰り旅行にも連れていってもらうなど、懇意な間柄である。夫婦から大事にされている実感はあったし、塚田も夫婦を、両親、あるいは年の離れた兄姉のように慕っていた。

「私らのラインもぼちぼち忙しくなるからね。エースのあんたが、しっかりしないとダメだからね」

 志保から、エース、と言われて、塚田は照れて頬をかいた。

 派遣が仕事を褒められても、給料が上がるわけでもない。変にやる気を出したところで、いいように使われるだけだ、と、冷めたことを言う人もいる。だが、これまでずっと一人だった塚田には、人から必要とされることが、素直に嬉しかった。 

「志保さんが産休に入るから、なおさらだよね。生産数落とさないように、頑張らなきゃ」

 練り物の製造、加工を行う大丸食品の工場では、おせちセットの予約が開始される、年末が繁忙期となる。夏の暑い時期が過ぎ去り、これから一工程あたりの所要時間が短縮され、残業も増えてくる。

 作業員の負担は閑散期に比べて何倍にも増加するのに、時給が上がるというわけではないから、毎年、夏が終わるころになると退職者が相次ぐそうだが、塚田はむしろ、会社が大変な時期だからこそ、自分が助けてやらなければならないと、使命感に燃えていた。


                            ☆          


 小学校を卒業し、中学に上がったころから、楽しかったはずの学校が、だんだん、怖くなっていった。

 たいへんよくできました、よくできました、もうすこしがんばりましょう。通知表から、激励の言葉がなくなり、数字だけで評価がつけられるようになった。

 一年生から三年生まで、揃いも揃って、お仕着せのユニフォーム。

 どうして、社会に出たらほとんど使わない勉強をしなければいけないの?

 どうして一年早く生まれただけの人に、敬語を使わなければいけないの?

 あらゆる疑問が一度に襲い掛かってきて、怖かった。目に見えない軍隊が、自分を攻撃しているようだった。あまりにしんどくて、耐えきれなかった。中学二年で、学校に行くのをやめた。



 以来、二十四歳になるまで十年間、塚田は社会との繋がりを断って暮らしてきた。完全な引きこもりというわけではなく、お使いを頼まれたり、コンビニで漫画を立ち読みするなどの目的で普通に外出はするし、家族と一緒に出掛けたりもするが、どこかで働いたり、学校で勉強するということはなく、友達はいなかった。

 ニートを長年続けていると、感性が鈍麻になってくる。社会と繋がっていないことへのプレッシャーはなかったし、友達を欲しいとも思わなかった。
 
 塚田を社会復帰させるため、親が何もしなかったわけではない。通信制の学校に通っていたこともあったし、NPOか何かの、ニートを社会復帰させるための支援施設に通って、筋トレをしたり、食事を作ったり、地域の掃除をしたりしていたこともあった。年に一回くらいは、親と真剣に、今後のことを話し合った。

 それらのことは、自分が働こうと思うことに、何の意味ももたらさなかった。
 
 ニートを外で働かせようとするのは、美辞麗句でもプレッシャーでも、もちろん説教でもなく、個人の欲望なのだ。

 好きな服をもっと買いたい。美味しいものをもっと食べたい。それには、親からもらう小遣いだけでは足りない。だから、働こうと思った。ただ、それだけだった。

 十年間、交わりを断っていた社会と繋がるには、それなりに勇気を振り絞らなければならなかった。特に、面接のとき、中学を記録上卒業してから、現在に至るまでの期間について、どうやって胡麻化すかということは、真剣に悩んだ。

 結果からいって、それはいらぬ心配だった。

 塚田の前に面接を受けたのは、頭はボサボサで無精ひげだらけ、ヨレヨレで糸のほつれたジャケットを着て、メガネは指紋だらけ、床に零した牛乳を拭いた後の雑巾のような体臭がするという、どうしようもないおじさんだった。

 派遣会社の面接官の、直近の二年は何をしていたかという質問に、そのおじさんが、「たまに日雇いをしながら、家もなくネットカフェや路上で生活していた」と正直に申告したところ、普通に採用され、案件の紹介を受けて、その日のうちに入る寮も決まっていた。

 それを見て、塚田は面接の日取りが決まってからずっと、自分がこれまで勤めてきたことにする他所の派遣会社の名前を暗記したり、2ちゃんねるの派遣労働スレッドを見ながら、今までやってきたことにする仕事の内容をシミュレーションするなどといった涙ぐましい努力が、まったくの無駄であったことを知った。

 正直が一番――。それでも、中学を出てから七年は普通に働いていたが、ここ三年間に限っては、体調を崩して働けなかった・・・と、ちょっと見栄を張って嘘の経歴を申告すると、面接官は、それ以上突っ込んだ質問をすることもなく、簡単なネジ締めの早さを測る適性検査へと移った。

 検査の結果、とくに作業能力に問題がないとわかると、正式にスタッフとして採用が決まった。提示されたいくつかの案件の中から、自宅から一番通いやすい今の工場を選んで、一週間後から働くことになった。

 たぶんこれなら、たとえ前科があっても、言わなければわかりゃしないだろう。派遣というと、人をモノのように、左から右に流して利益を得ているという悪評が常に付きまとうが、世の中には、自分のことを詳しく知られたくない、モノのように思ってもらった方が都合がいいという人はいくらでもいる。

 ブランクや、後ろ暗い過去がある人でも気楽に面接に訪れることができる、門戸の広さ。一度、レールから滑り落ちてしまった人への偏見が根強い日本社会にとって、アウトソーシングの存在は、一概に悪いことばかりではないのではないか。

 ニートの十年選手という重しが、あっさりと消えてしまったことにより、塚田はこれまで、派遣に対して抱いていた根拠のない悪いイメージが、すっかり払拭されてしまった。

 そして、配属されたここ、大丸食品・食品加工工場で、良い人たちに出会った。働き始めた目的はお金を稼ぐためだけだったが、望外の喜びに恵まれた。

 ニートでいる間、友達は必要ではなかったが、もともと、人付き合いが嫌いというわけではなかった。学校に通っているとき、仲の良い友達は大勢いたし、みんなと遊ぶのは楽しかった。

 ただ、それを上回るマイナス要素に耐えられなかった。扉をこじ開ける勇気が湧かず、十年も、無駄な時間を過ごしてしまった。

 ずっと止まっていた時計が、動き始めた気がする。派遣で働き始めたことにより、自分の、本当の人生が始まった――。


                              ☆          


 志保と別れ、男子ロッカー室に入った塚田は、一日ごとに洗濯に出す白い衛生服に着替えた。

 特殊繊維で出来たクリーンキャップ。はじめのうちは違和感があり、頭が何度もかゆくなったが、いまではすっかり慣れた。

 髪の毛が混入した商品を出荷してしまうと、ラインは最低でも一週間、稼働停止になる。食品の工場で働く作業員が、もっともやってはいけないミス。慣れてくると、おざなりに被る人もいるが、塚田は入社して三か月が経ってからも、しっかり鏡を見ながら、髪一本はみ出さないよう注意して被っていた。

 着替えを終え、流しで、うがい薬を使ってうがいも済ませると、塚田は始業までの時間を潰すため、共用の待機室に向かった。

 フローリング張りの床。二十畳弱のスペースに、六十四インチのテレビ、六脚のロングソファ、十二脚のリクライニングチェア、十人掛けのテーブルが配置された待機室。みんなとの絆を育んでくれた、憩いの空間。

 まだ、始業までは二十分あり、待機室にいたのは、早出の作業を終えた、志保の夫、信一だけだった。

「おはよう、信一さん」

 テーブルで、コンビニで買ってきたおにぎりを頬張っていた信一に挨拶すると、信一が軽く手をあげて応えてくれた。

「今日は六時から、夜勤の人と一緒に働いてたんだって?二十時まで残業があるのに、身体は大丈夫?」

 会社も、年末に向けて人員をかき集めているところだが、なかなか定着せず、九月の今の段階から、リーダークラスは連日のフル残業を余儀なくされている。

 もちろん、働けば働いただけ収入は増えるが、同年代の正社員のほとんどは管理職につき、信一の倍近く稼いでいることを考えれば、信一の働きは十分に報われているとはいえない。それでも信一は、文句一つ、愚痴一つ言わず、黙々と、伊達巻のラインに課せられた生産のノルマをこなしていた。

「・・・ああ。まったく問題らいさ。これからもっと忙しくなるんだから、根を上げてなんかいられない。俺のことより、お前の方はどうらんだ?この間変わったラインリーダーとは、うまくやれているのか?悩みはないか?」

 おにぎりをお茶で嚥下した信一が、逆に塚田を気遣う言葉をかけた。

 信一はまだ、昨晩の酒が抜け切れていないのか、呂律が回っていないようだ。塚田が入ったころに比べると、表情はやつれているが、体重は増えたようにみえる。本人は気丈に取り繕っているが、やはり激務によるストレスがあるのだろう。

「大丈夫だよ。リーダーには良く面倒を見てもらってるし、仲良くやってるよ。世間話とかもするしね」

 塚田は飛び切りの笑顔で答えたが、明るく振舞って見せたのは、なにも、信一を心配させまいと思ってのことではない。

 はんぺんのラインリーダー、岡本涼子は、塚田より一歳下の二十三歳。専門学校を経て入社してから二年目の正社員で、塚田が入ったころまでは、一般の作業員に混じって働いていたが、先月からラインリーダーに昇格した。

 高校時代はバレーボール部でリベロを務めていたという涼子は、小柄だが敏捷性に優れ、手も足も恐ろしく速い。塚田も作業では機械といわれるが、涼子の域には、まだまだ達しない。

 塚田はこの年下の上司に、密かな恋心を抱いていた。仕事で女性に使われることに抵抗を感じる男も多いそうだが、塚田は、女性の働く姿をカッコいいと思うし、若い女上司の指示で動くのは、ゲームやアニメの女主人公を支えているみたいな気分になれて、むしろ喜びを感じるのだ。 

「志保さん、だいぶお腹が大きくなってきたね。たしか、今日から産休だよね?」

「ん?ああ・・・・まあ、な」

 四十五歳、人生の折り返し地点を過ぎて初めて出来た子供。女性と一度も付き合ったことのない塚田には、想像もできないほどの喜びに包まれているだろうと思っていたのだが、志保はともかく、信一の方はそうでもないようで、話題が子供のことに及ぶと、表情を曇らせることが多かった。 

 おそらく、収入のことを気にしているのだろう。

 派遣法によれば、雇用から三年を経過した派遣社員から申し出があった場合、派遣先の会社は、有期契約の派遣社員を、無期契約の直接雇用へと切り替えなければならない義務が定められている。

 いわゆる「三年ルール」であるが、直接雇用への切り替えとは、必ずしも正社員として雇用されることを意味するのではない。いくら、突然雇い止めされる恐怖に怯えなくていいといっても、契約社員やアルバイトでは、足元を見られて買い叩かれることもある。

 派遣というと阿漕な中間搾取で、ワーキングプアの温床のようなイメージで語られがちだが、中抜きされるかどうかの違いがあるだけで、最終的に労働者の手元に渡る賃金は、契約社員やアルバイトと大差ない場合が多い。

 直接雇用にこだわって、契約社員やアルバイトとして働くよりも、派遣先から取れるものは取るというスタンスで、派遣先とトラブルになったときに間に入ってくれる派遣会社を通して働いていた方が、何かと得ということもある。そういうわけで、大丸食品に派遣されてから七年になる信一は、三年ルールの条件をとうに満たしていながら、本人の希望で、身分はいまだに、派遣社員のまま据え置かれている。

 リーダーとはいえ派遣の信一には、ボーナスも休業補償もない。志保と共働きでも、夫婦二人が暮らしていくのがやっとで、よほど切り詰めても、子供にまともな暮らしをさせられるかわからない。

 まだ、若ければ何とかなると思えたかもしれないが、四十五歳という年齢で、この先、生活ランクが上がる見込みがないとなれば、信一が育児に不安を抱くのも無理はなかった。

「信一さんと志保さんの子だったら、きっといい子に育つよ。いいな、幸せだな」

「・・・・・」

 心配してみても、塚田にどうにかできることではない。こういうことは、とにかく明るく話題にして、励ますしかないのだ。

 始業時間が近づいてくると、続々と、「良い人」たちが出勤してくる。

「リンリンおはよう。ムラさんも」

 向井凛。塚田と同じはんぺんのラインで、志保と一緒に袋詰めの後工程を担当している、二十八歳の女性スタッフ。野球観戦が趣味ということで、はんぺんのラインで中工程を担当している四十二歳の男性スタッフ、村上康弘との仲が良く、地元球団の応援のために、よく二人一緒に球場に足を運んでいる。

 村上と凛は塚田や真崎夫婦とも仲が良く、週末にはよく、みんなで外食やカラオケに出かけている。職場の人間関係というと、敬語でやり取りする堅苦しいものばかり想像していたが、特別に仲の良い者同士の付き合いに限っては、中学生のころのそれと何ら変わりないことを、彼らのおかげで知った。

「寺井さん、おはよう」
 
 始業時間ギリギリになってやってきたのは、笹かまぼこのライン作業者、三十一歳の寺井誠也。シナリオライターを目指しているという寺井は、執筆の時間を確保するため、毎朝、年寄りが目を覚ますような時間に起床しているそうだが、会社に出てくるのはいつも最後である。工場の仕事が終わったあとはクタクタになって頭も働かないから、朝、スッキリして体力万全のときに、自分の夢のための活動を行うのだそうだ。

 寺井はもともと、信一がリーダーを務める伊達巻のラインで働いていたが、信一と相性が悪く、やめたいと言っていたのを、笹かまぼこのラインに配置転換されたという経緯がある。

 派遣会社の担当者から、ラインを変わったのだから、もうこれ以上関わるな、と厳命されたのは、信一を鬱陶しがっていた寺井にとっては何の問題もなかったが、かつては寺井を、自分の弟のように思っていたという信一にとっては大きなショックだったらしい。

 さすがに「接近禁止命令」が下った以上、直接話しかけるわけにはいかないが、いまだに未練は残っているようで、信一はいつも、寺井が傍を通るたび、何ごとかをブツブツと言っていた。

 人に相性があるのは仕方ないが、寺井とも、信一とも仲の良い塚田にとって、二人の関係の悪さは、少し歯がゆいところであった。

 十年ぶりに出た外の環境で、普通以上に馴染めている自信はある。ほかの仕事をしたことがない塚田にとって、この職場での人間関係は最高と思えるほどだが、嫌なこともある。

 頭のどこかに欠陥を抱え、真面目に働こうとしているみんなに不快感を与えている奴ら――「基地外」たちの存在である。

「おぉい、及川さん!ウォータークーラーで、うがいなんてしてんじゃねえよ!」

 信一に注意をされた、「基地外一号」の及川は四十代。塚田と同時期に入社し、もとは塚田と同じはんぺんラインで作業をしていたが、異常に手が遅く、ミスも多いため、二か月前、はんぺんのラインリーダーが、前リーダーの貞廣から涼子に変わった途端、はんぺんラインを追い出された。以降、いくつかのラインをたらい回しにされ、いまは信一の伊達巻ラインで中工程を担当している。

「せ、ぼっぶぁっ」

 ちょうど、口に水を含んでいるときに、信一から怒鳴られた及川が、驚いて待機室の床に、盛大に毒水をぶちまけた。及川の醜態に、待機室で始業を持っていた人たちが、一様に顔をしかめる。

「あのさぁ、これはみんなが水を飲むものでしょ?そこでさ、ガラガラペッてやったら、みんな嫌な思いするよね?そういうのわからない?」

 派遣で唯一のラインリーダーという立場に、信一は誇りを持っているようで、身だしなみや衛生面に、正社員のラインリーダーに比べても、格段に厳しい。社員ならともかく、同じ派遣に偉そうにされればいい気はしないから、派遣の中には信一をうるさがる者もいるのだが、両親に甘やかされて育ったと感じている塚田には、面倒見のいい信一の存在は有難かった。

 しかし、今起きているこれは、信一が厳しいとか、そういう問題ではないだろう。及川という男は、自分の家と職場との区別がついていないのではないだろうか。今までどういう生き方をすれば、みんなが水を飲むウォータークーラーでうがいなどしようと思うのか、塚田はわからないし、わかりたくもなかった。

「あぁ~・・・」

 死んだ魚のような眼を斜め上に向け、口を半開きにしている及川は、自分と同年代の信一に厳しく注意されても、何も感じていないかのようである。

「この際だから、ついでに言っとくけどさ・・・あんた臭いんだよ。毎日、ちゃんと身体を洗わないといけないんだよって、親に教わらなかった?」

「あぁ・・・最近は、入ってなかった、です・・・」

「最近とかじゃなくて、一日入らないだけでもダメなの!毎日入ってくるのが普通なの!」

 衛生管理が命の食品加工工場で、不潔は致命的欠陥である。仕事ができないだけなら仕方ないにしても、人として最低限のエチケットも守れないのでは、みんなから嫌われるのは当然だ。いい年をして、ちゃんと風呂に入れなどと人前で注意されたら、もう死にたいと思うのが普通ではないかと思うのだが、当の及川は、信一が何を言いたいかもよくわかっていない様子である。

 頭の良くない人が、感性まで鈍いとは思いたくない。しかし、神経の一本二本死んでいるというのでなければ、及川のやることは理解できない。

 人生のどこかで、何か――心がとても傷つくような、何かがあったのかもしれないが、自分の知ったことではない。

 真崎夫婦、村上、凛、寺井ら、大切な「基地内」の人たちに迷惑をかける「基地外」には、関わりたくもないし、早く工場から消えてほしいと思うだけだった。 

                            ☆      

「な、なんだよ朝から。勘弁してくれよぉ」

 勤務開始五分前、待機室を出て、男子トイレに入ろうとすると、中から、塚田と同じはんぺんラインの村上が、衛生服のファスナーを全開にしたまま、顔を引きつらせて飛び出してきた。

「どうしたの、ムラさん」

「お、おぅ哲太くん。いや、今日も朝からやられちゃって、た、たす、助けて」 

 ひどく狼狽して、塚田の袖に縋ってくる村上を助けるため、塚田はトイレの中から、暗い炎の宿った目を村上に向けている人物を、キッと睨みつけた。「基地外二号」の端本である。 

「村上さんは凛さんに近づくのをやめてください。村上さんはおじさんだから援交をしようとしているんです。村上さんは凛さんの身体だけが狙いなんです。村上さんに恋心はないんです。なぜなら、村上さんはおじさんだからです」

 肌は生白く、青い血管が浮き上がっており、枯れ木のように痩せこけていて弱弱しいのに、目だけが異様にギラついている端本が、くぐもった声で、意味不明の理屈を並べ立てるのを見れば、村上でなくとも、背筋に冷たいものが走る。
 
 粉ものの倉庫で働いている二十九歳の端本は、塚田と同じはんぺんラインの作業者、向井凛に好意を抱いており、凛と村上が仲良くしているのを妬んでいるらしく、村上はもう二か月ほど前からずっと端本に付きまとわれていた。

 そもそも、村上が凛に恋愛感情を抱いているかどうかなど誰にもわからないという話だが、「おじさんだから」恋心はなく、女性に近づくのは嫌らしい目的しかないなど、一体どんな思考回路をしていたら、そんな酷い決めつけができるのか?

 端本がなぜそのように決めつけるかはまったくわからないし、わかりたくもない。こんな異常者は、村上に迷惑をかけるのは早くやめて、引きこもりにでもなってほしいと思う。

「端本さん、あんたいい加減にしろよ。上の人からも言われてるだろ」

「・・・・・」

 塚田が注意するのに、端本は何も答えない。

 塚田が言ったからというわけではない。端本の耳には、誰の声も届かない。誰が何を言っても響かない。すべてが自己主張ばかりで、端本から返ってくるものはなにもないのである。

 しばらくしてラジオ体操のBGMが鳴り始めると、端本は、へばりついて取れなくなるような目で村上を一瞥してから、トイレを出て、作業場へと向かって行った。

「ほんと、気持ち悪い野郎だな。はやくクビになればいいのに」

 村上と作業場に向かいながら、塚田は吐き捨てた。始業前のトイレは毎日のルーティーンだったが、尿意はすっかり収まっていた。

「色んな人が、前からずっと苦情を出してるのに、担当者は口頭で注意をするだけで、それ以上動いてくれないんだよ。もう我慢の限界だよ」

 村上の言うように、端本の問題行為は、いまに始まったことではない。

 端本は、塚田と同じ半年前に工場に派遣されてから、実に六人もの女性に告白をしてフラれていた。酷いときには、フラれてから三日後に、別の女性に告白をしたこともあった。

 端本が、軽薄なナンパ男だというわけではない。むしろその逆で、端本は、誰に恋をするときも、ド真剣の、一途な純情恋愛のつもりである。

 初めの頃、塚田は同時期に入社した縁もあり、端本との仲は悪くはなく、LINEでよく連絡を取り合っていた。

――塚田くん、聞いてください。僕は谷内さんのことが好きなんです。谷内さんは寂しい人だから、僕が守らないといけないんです。

――塚田くん、僕は万城目さんが好きです。僕は谷内さんよりも、万城目さんのことが好きだったんです。万城目さんはおっちょこちょいなところがあるから、僕が傍にいて支えてあげなくてはいけないんです。

 すぐに女に惚れては、塚田にわざわざそれを報告してくる端本のことを、初めのうちは、頑張れ、次はうまくいくよ、と応援していたのだが、端本が二人、三人とフラれていくうちに、愛想を尽かすようになった。

 一人に告白してフラれてから、すぐ別の誰かに告白したら、こいつは女だったら誰でもいいんだと思われてしまうだけである。一度フラれたら同じ職場で相手を探してはいけないとまで言う気はないが、せめてタイムラグを置くべきだろう。しかし、端本は、いつも自分の愛は本物であり、それは相手にも必ず伝わっていると信じて疑わない。

 端本は、自分が傷つくことには異常に敏感だが、他人の気持ちがまったくわからないのだ。

「年末に向けて、会社は猫の手も借りたいのはわかるけど・・・このままじゃ俺、殺されちゃうよ」

 いくら派遣でも、簡単にクビになどできないのはわかる。しかし、端本に告白された女性スタッフの中には、端本を恐れて辞めてしまった人もいるのだ。このままでは、村上の言うように、いつかニュースに出てくるような大事件が起きないとも限らない。

「ムラさん安心して。端本のことは、僕たちがきっと何とかするからね」

 会社が動いてくれないのなら、自分たちで何とかするしかない。塚田は近々、寺井、真崎夫婦に呼び掛け、凛と村上に迷惑をかける端本を、工場から追い出してやろうと考えていた。
 
 ラインに着くと、ちょうど時計の針が八時を差し、作業が開始された。ラジオ体操に間に合わなかった塚田は、軽いストレッチをすると、すぐ台車を押して、材料の置いてある冷凍庫に向かった。

 冷凍庫にはすでに、シナリオライター志望の寺井がいて、フォークリフトで積み上げられた材料の箱を、バンバン台車に乗せている。

 練り物のラインの前工程は、魚のすり身が入った箱や、調味料の入った一斗缶など、重量のある材料を持ち上げることが多く、どこのラインでも、二十五歳の塚田や、三十一歳の寺井のような、若い世代の男性が担当している。

 仕事はキツイのに、女性や高齢の男性でもできる後工程の作業員より時給が高いわけではないから、割に合わないと言って辞めていく人も多いのだが、塚田はお金をもらいながら身体も鍛えられると、前向きに考えていた。

「寺井さんのラインも、だいぶ慌ただしくなってきたね。来週辺りから、残業もあるんじゃないの?」

「ん・・?ああ・・・。どうでもいいよ」

 塚田の問いかけに、寺井は気のない表情で答えた。

 寺井の、仕事に対する意欲は低い。寺井が工場の仕事で興味があるのは、残業がなく定時で帰れるか、定時の中で、どれだけ楽ができるか、ということだけ。仕事の技能を向上させようとか、作業の効率を上げるために、どういう工夫をしようかといったことは、まったく頭にない。シナリオライターを夢見て、公募に挑戦し続けている寺井にとっては、工場で過ごしている時間は、無駄でしかないのだ。

 遊ぶ時間を削って、夢のために頑張っているのは尊敬できるし、応援したいとも思う。だけど・・・「どうでもいい」なんて言わなくてもいいと思う。こんな仕事でも、給料が安くても、やりがいを感じて、頑張っている人だっているのだ。それを、バカにしたような言い方をしなくたっていいじゃないか。塚田は拗ねたように、唇を尖らせた。

 塚田も寺井の後に、魚のすり身を解凍機にかけると、一旦ラインに戻って、調味料の準備を整えた。十五分のタイマーが鳴ると、解凍機にかけたすり身を取りにいって、柔らかくなったすり身を、調味料と一緒に、攪拌鍋に放り込む。機械を操作し、混ぜ合わせた材料を、村上の担当する中工程へと回す。

 一連の作業を、延々と、気の遠くなるまで繰り返す。仕事中はわき目も振らず、黙々と働く。

 同じ作業ばかりを繰り返していると、どうしても飽きが来る。時間が流れるのが遅くて、苦痛だと漏らす人もいる。それも、わからないではない――が、ニートだった十年間、無駄な一日ばかりを過ごしてきた塚田には、自分の時間を意味のあることに使えているのが、ただただ嬉しかった。


                            ☆


 時計の針が午前十時を指すと、作業員はいったん手を止め、十分間の小休止のため、待機室へと向かっていく。キツイ肉体労働の合間の、貴重なブレイクタイムである。

「村上さん、今朝トイレで、またオカマンにやられてなかった?あの人、凛ちゃんじゃなくて、本当は村上さんのことが好きなんじゃないの?」

 待機室に「基地内グループ」のみんなが集まると、寺井がさっそく話を始めた。この、第一声というのを自然に出せるのが、本当に羨ましいと思う。自分などは、この人には今話しかけて大丈夫かな?無視されないかな?何を話したら、興味を持ってくれるかな?とか、みんなの顔色が気になって、輪になってもなかなか声がかけられないのだ。

 塚田が工場の仕事に意欲のない寺井を「基地内」に含めるのは、寺井と気が合うからではなく、寺井が、いつも積極的に話を振ってくれるからであった。情けないことではあるが、自分のような受け身体質の人間にとって、これは非常に重要なことである。

「え~マジ~?だったらアタシ嬉しい!!お兄ちゃん、オカマンのこと引き取ってよ」

 オカマン、とは、六人告白の端本のあだ名である。

――塚田くん、僕は谷内さんを守らなくてはいけないのに、力が足りなくて辛いです。今日は手首を切りました。

――塚田くん。丸井さんは本当は僕のことが好きなのに、僕に迷惑をかけたくないからと、一歩を踏み出せないでいるんです。僕は丸井さんの優しさを思うと、胸が張り裂けそうで、こ~んなに薬を飲んでしまいました。

 今でも脳裏に焼き付いて離れない、端本からLINEで送られてきた画像――。

 端本は、女性を守らなくてはいけないと、勇壮な言葉を並べ立てる一方で、同じ男性に対しては、あたかも自分はか弱い女の子で、守ってほしい、構ってほしいというような態度を見せ、塚田だけではなく寺井にも、リストカットの跡や、服用している抗うつ剤を撮影した画像を、何度も送り付けていた。

 男らしくなりたいのか、女の子になりたいのかわからない。それで寺井が、端本に「オカマン」というあだ名をつけたのである。

「よかったね、お兄ちゃん。オカマンは男の子だけど、女の子の部分もあるから、付き合ったらきっと楽しいよ」

 端本に好意を寄せられている凛は、一番の仲良しの村上のことを、「お兄ちゃん」と呼んでいる。本当に、実の兄のように慕っているのだ。

「やだよ~、勘弁してよ。そんなこと言うんだったら、リンリンが、アイツに告白されたときOKしてやれよ。リンリンがアイツと付き合ってあげれば、俺だって解放されるんだから」

「勘弁!マジ勘弁!あんなキモイのと付き合うなんて、マジあり得ないから!大体、失礼しちゃうよね。同じ職場で七人に告白なんてさ。私は七番目です、て言われてるようなもんじゃん。なんでそれでOKしてもらえると思うのか、意味わかんない」

 七番目扱いされて憤慨している凛だが、凜はけして、男のお眼鏡に適わないほどのブスではなく、黙っていれば声をかける男はいくらでもいそうな、ごくごく平均的な容姿をしていると思う。ただ、凛は声が大きく、髪も染めていて、一重瞼の細い目が少しキツめな印象を与えてしまう。それで、端本のような陰気な男は、ずっとビビッて近づけなかったのだ。

 それがなぜか、二か月ほど前から、端本は突然、凛を好きになったと言い出した。

――寺井さん、塚田くん、あなたたちはずっと近くにいながら、全然、凜さんの本性に気が付いていないんですか?凜さんは強がっているだけで、本当はポキッと折れてしまいそうな心の持ち主なんですよ。だから、僕が支えてあげなきゃいけないんです。村上さんみたいな、身体目的だけのおじさんは、遠ざけないといけないんです。

 得意の根拠のない決めつけ、謎の上から目線、無駄な男気の揃ったメッセージを、寺井、塚田とのLINEに送った端本は、次の日、早速、凛にLINEのID交換を所望してきた。凜は当然のごとく、教えるのを断ったのだが、すると端本は、凛に直接付きまとうのではなく、凛と一番親しい、村上にちょっかいを出してくるようになった。
 
 いまはまだ、会社にいるときに、村上はおじさんだから凛に近づくなとか、わけのわからないことを言って突っかかってくるだけだが、そのうち、村上の家の前などに張り付いて、会社の外でも接触を試みてくる可能性もある。一刻も早く、有効な対策を練らなければならなかった。

「オカマンは嫌われ者同士、赤ちゃんと仲良くすればいいのにね。そうしてくれれば、みんなが幸せになるのに。それで、二人で一緒に、別の仕事探せばいいのに」

 凛が馬鹿にしたような目を向けるのは、待機室の一番端のリクライニングチェアに座って、一人寂しそうにしている及川である。

 赤ちゃんというあだ名の由来は、及川の、ヘルメットを被っているように大きな頭と、脳の容積は大きいようなのに、異様に言語能力が低いことのほかに、もう一つ。

 及川には、いつも、トイレに入るときには、作業で汚れた手を入念に洗うのに、トイレから出るときは、自分のちんちんを触って、おしっこもついているかもしれない手を洗わずに、そのまま出て行く習性があった。

 確かに、作業のときには主にゴム手袋をしているから、及川のおしっこが食品についてしまう可能性は低いわけだが、あれでは、工場の環境はすぐに手を洗わないといけないほど汚いが、自分のちんちん、あるいはおしっこは、赤ちゃんみたいにキレイだ、と言っているようなものである。それを見て、寺井が及川に、「赤ちゃん」というあだ名をつけたのだ。

 自分より何十倍も社会経験はあるはずなのに、どうして及川は、人として基本的なこともできないのか?塚田にはわからなかったし、わかりたくもない。基地外などは、みんなここからいなくなって、どっかで野垂れ死ねばいいのだ。

「まあ、確かにちょっと癖の強い人たちだけど、だからって、追い出そうとするのもどうかと思うよ。僕らは一番下っ端なんだから。底辺同士が争って、足を引っ張り合うなんて、そんな虚しいことなんてないじゃないか」
 
 寺井は基地外たちを思いやるようなことを言っているが、それは彼の優しさ、というわけではない。なぜなら、及川に「赤ちゃん」というあだ名をつけたのも、端本に「オカマン」というあだ名をつけたのも、寺井その人なのだから。

「こんな変わり映えのしない、退屈な毎日を過ごしてるんだ。ああいうバラエティに富んだ人たちがいた方が、面白くていいじゃないか。極端にできない人がいれば、僕らが実際以上に良くみられて、多少のアラは大目に見てもらえるしな。僕らにとっても、彼らは立派に存在価値があるんだよ」

「えー。それって、あれじゃない?なんだっけ、あの、言い訳じゃなくて、えっと・・・」

「詭弁、ね」

 言葉をひねり出せないでいる凛に、寺井が教えてやると、村上がニヤリと笑みを浮かべた。

「詭弁和歌山」

 村上のオヤジギャグに凍り付く空気の中、塚田は先ほどの寺井の言葉を妙に真剣に受け止め、脳内で反芻していた。

 存在価値、という意識――。塚田をかつて苦しめ、十年間のニート生活へと向かわせた元凶。


 塚田が学校に行かなくなってから数日後、自宅の固定電話に、担任の先生から電話がかかってきた。応対した母親から、先生が、「みんなは、塚田君のことをとても心配している。塚田くんを待っているよ」と言っていたことを聞かされた。

 初めはうれしかったが、日が経つにつれ、塚田は段々、先生が自分を騙していると疑うようになった。先生の言ったことが本当なら、塚田の携帯には、仲の良かった友人たちから、塚田の安否を確認するメールが送られてくるはず。なのに、塚田の携帯は、一週間待っても、二週間待っても、鳴らないままだったのだ。

 あのクラスの中で、自分の存在価値なんてものは、まったくなかったのか?

 とうとうシビレを切らした塚田は、自分から友達にメールを送ってしまった。当時、今に輪をかけて語彙が少なかった塚田は、自分の率直な気持ち「裏切られた」という感情を、ストレートに文章にして、友達に送ってしまった。

 友達からの返事は、来なかった。メールを送信した後、後悔に襲われた塚田は、自分からメールアドレスを変えてしまったのである。

 以来十年間、塚田は家族以外の人間と、業務的な用事以外の会話をしなくなった。もう二度と、あの「やらかした」後の、切ない気分は味わいたくなくて、塚田は人間関係を築くことを極度に恐れ、部屋のドアを閉ざした。



 あのときのことで、塚田も反省した。

 どうも、自分は人に求めすぎる。自分が大切に思っている相手は、同じくらい、自分を大切に思わないといけない、と期待してしまう悪癖がある。

「そういえば凛ちゃん、昨日、ブレイザースがまた勝ったじゃん」

「そぉ~。これで首位とは三ゲーム差。まだまだ、ペナントはわからないよ。お兄ちゃん、週末はまた一緒に応援に行こうね」

 村上のオヤジギャグをキッカケに、基地内グループの話題は高校野球、そしてプロ野球へと移っていた。 

 九月に入り、プロ野球は優勝争いが佳境に入ってきたとかで、最近、十分休憩を一緒に過ごす寺井、村上、凛は、野球の話で盛り上がっていることが多い。それはつまり、野球に興味のない塚田が最近よく、蚊帳の外に置かれてしまっている、ということである。

 人と触れ合う心地のよさと、常に隣り合わせのようにあるのが、人との絆が断ち切られる恐怖である。充実感が大きければ大きいほど、喪失感も大きくなるということを、塚田は十年前の経験から知っている。

 だが、心配することはない。

 十年前、子供だった自分は何もできなかったが、今の自分には、あのころにはなかった知恵と金がある。二度と同じ轍を踏まないため、できることがある。

「あの、みんな。繁華街に出たときに見つけたこのクッキーがおいしかったから、みんなの分も買ってきたんだ。食べて食べて」

 十分休憩が終わる直前、塚田は、自分のロッカーから、クッキーの箱を取り出して、みんなに配った。

 みんなの心を掴むため、塚田は週に一度は、みんなに「たべもの」を持ってくることを欠かさない。寺井のように、話でみんなを盛り上げることができない塚田は、「たべもの」を配ることで、自分の存在をアピールしている。

 食べることは素晴らしい。そもそも、ニートの十年選手である自分が働き始めたのは、おいしいものを、お腹いっぱい食べたいから、であった。派遣会社からいくつか提示された案件の中から、食品加工工場を選んだのも、「食」に携わる仕事なら、きっと遣り甲斐をもって働けるだろうと思ったからである。

 誰しも、人がお金を出して買ってきた「たべもの」を貰えば、少なからず、感謝の念を抱くはずである。そして、その見返りは、何も求めない。自分がやっていることは、みんなもやらなければならない。そのように考えたら最後、行き着く先は孤立しかないことを、塚田はよく知っている。

 みんなに「たべもの」を食べさせていれば、きっと自分は、中学時代のように、空気のように扱われることはないはずだった。


                            ☆       


 十分間の休憩が終わり、作業が再開される。八時から十時まで、二時間くらい働いただけでも、筋肉には乳酸が溜まり、上腕に張りを覚える。

 筋肉痛――心地よい痛み。自分の肉体が変わっていることの喜び。十年間、ナマっていく一方だった身体が、使ってもらえる嬉しさを爆発させている。

 ニ十キロ以上ある魚のすり身の箱を、何度も何度も持ち上げ続けたおかげで、塚田の腕回りは、半年間で三センチも太くなった。

 筋トレをしながら、お金がもらえる。充実感に包まれていれば、時間が経つのも早い。無心で身体を動かしているうちに、お昼のチャイムが鳴った。

 塚田は作業が終わるやいなや、はんぺんラインで後工程を担当する志保の元に小走りで駆け、伊達巻のラインからやってきた信一とも合流して、三人で食堂へと向かった。

 塚田は十分間の休憩では、寺井を中心とした輪の中にいることが多いが、一時間の昼休憩は、真崎夫婦と三人で過ごしている。

 誰と一緒に、お昼ごはんを食べるか――。長い昼休憩の間の居場所確保は、仕事と同じかそれ以上に、頭を悩ませねばならない、重大な問題である。

 人はみんな、誰かに必要とされていたい。また、自分が誰かに必要とされている人間であることを、みんなに証明したい。

 塚田はニートでいるとき、そういうことを考えているのは子供だけだと思っていたが、社会に出て、案外、大人も同じであることを知った。

 それほど気が合うわけでもないのに、無理に一緒に居ようとしている人。会話をしているように見えて、お互いスマホを手にしながら、SNSやLINEで、別の誰かと話している人。見せかけだけでもお互いを必要としているならまだいい方で、中には、傍から見てもわかるほど拒絶されているのに、必死になって誰かに食らいつこうとしている人もいる。

 もちろん、ほかの人が輪に入れようとするのを断って、自分から一人でいたがる人もいるのだが、そうではなく、職場で誰も話し相手がいない、また、そういう孤独な人間だと周りに思われるのがプレッシャーで、「ランチメイト」を探すことに躍起になっている人が、本当にたくさんいる。

 そういう人たちをみると、塚田は悪いとわかっていても、得意げな気持ちになってしまう。

 自分の周りには、自分の話を聞いてくれる人がいるし、自分を見てくれる人がいる。

 褒められたことではないのかもしれないが、塚田はこの昼休憩の時間、充実したランチタイムを過ごせていない人をみると、あたかも、救命ボートの上から、溺れそうになって手をばたばたさせている人を見ているような気分になって、独特の優越感を、胸いっぱいに抱いてしまうのだ。

「てっくん、あんたラインリーダーが岡本さんに変わってから、随分張り切ってるじゃない。岡本さんのこと、チラチラ見たりしてるし。てっくんもしかして、岡本さんのこと、好きなんじゃないの?」

 昼休憩の時間、主に話題を提供するのは、志保の役目である。

「ち、違うよ。リーダーは、仕事ができるから、尊敬しているんだ。もっとリーダーの動きを見て、盗みたいと思ってるんだよ」

 志保に、ラインリーダー、岡本涼子への好意を見抜かれたのは恥ずかしかったが、塚田は内心嬉しかった。

 涼子と付き合うことができれば、もちろんそれが一番の幸せである。しかし、涼子への好意を第三者に承認してもらう、それだけでも、塚田は満足できた。自分のことを、それだけよく見てくれる人がいると、嬉しくなれた。

「てっくん、最近作業が早くなったもんねえ。もう、うちのラインはてっくんがいなきゃ回らないって、前リーダーの貞廣さんも言ってたわよ」

「ほ、ほんと?そんなふうに、貞廣さんが・・・」

 こういうふうに、志保の言葉で浮かれていると、必ず水を差す人がいる――塚田は半年間の付き合いで、それをよく知っている。

「哲太・・・。お前もここに来てから半年が経って、だいぶお金も溜まってきたんじゃないのか?そろそろ、家にお金を入れたらどうだ?」

 またそれか――。信一と仲良くなってから、もう三回ぐらい同じことを言われ続けている塚田は、ウンザリした表情を志保に向けて、助けを求めた。

「あんた、またそれ言ってる。うちに生活費を入れるかどうかなんて、てっくんの自由でしょ。いい加減にしないと、嫌われるわよ」

 塚田の家は、十年間もニートの息子を養っていただけあって、普通以上に裕福で、いまさら息子の収入に頼るような経済状態ではない。ヤクザの上納金ではないのだから、家で一番稼ぎの少ない者が、わざわざ生活費を入れることなどないと、寺井などは言ってくれている。

 なにか、ちゃんとした根拠でもあるならともかく、信一が家に金を入れろというのは、親への感謝の気持ちを表せとか、もう二十四歳なんだから、という感情論でしかない。もっといえば、「俺もそうしてきたから」と、自分の経験を押し付けているにすぎないのだ。

 信一は面倒見の良い人なのだが、物の言い方がいちいち説教臭いというのが、玉に瑕だった。

 かつて同じ伊達巻ラインで、信一の説教を、耳にタコができるほど聞かされた寺井などは、信一を蛇蝎の如く忌み嫌って、共通の友人である村上や凛と遊ぶときも、その中に信一がいるときには絶対に参加しないほどなのだが、塚田はそこまで極端ではない。

「嫌ったりなんかしないよ。信一さんの言うことももっともだと思うから、月に一度は、両親に食事をご馳走してるよ。もう少しお金が溜まったら、プレゼントも買おうと思ってる」

 説教をするということは、信一がそれだけ、自分のことを気にかけてくれているということ。

 誰しも、いいところもあれば悪いところもある。説教されて嫌な思いをする以上に、信一は、塚田をバーベキューに連れていってくれたりなど、良い思い出を作ってくれた人なのだ。

 説教臭いという欠点は、信一の一部でしかない。あまり口うるさいと思ったときは、右から左に流せばいいだけだ。

「哲太。これから年末に向けて、仕事はどんどん過酷になっていくが、身体に気を付けて、どうにか正月まで乗り越えろ。一年の仕事を終えたとき、これまでの人生とは、まったく違った景色が見えるはずだ。新年会で飲む酒の味は格別だぞ」

 大丸食品の工場では、毎年、工場が休みとなる一月二日に、派遣社員だけが参加する新年会が開かれるのが恒例となっている。

 工場での生産は、世間がクリスマスに浮かれる十二月の後半にピークを迎え、正社員などは家にもロクに帰れなくなるほどで、派遣社員たちの負担も増大し、毎日フル残業は当たり前、休日出勤も始まる。

 だからこそ、すべてが終わった後に飲む酒の味は最高なのだと、信一は言う。塚田はそれはきっと、苦労を分かち合った仲間と一緒に飲むからだろう、と思った。

 仕事で身体を痛めつけたから酒がうまくなるというんじゃ、ただのマゾである。一緒に何かをやり遂げた仲間と飲む酒だから、一人で飲むよりずっとおいしく感じられるのだ。

「私も十二月の終わりには、いったんこの子を実家の両親に預けて、短期で応援に行くから。それまであんたが、はんぺんラインを支えていくのよ」

「頑張れよ、エース」
  
 塚田には、「新年会」の予定が、楽しみで仕方なかった。

               
                             ☆


「違った景色ってなんだよ。ヤクでもやってんのか、あのオッサン」

 工場から、バスで駅へと向かう経路にある河川敷。コンビニで買ってきたワンカップを飲み干した寺井が、焼き鳥を頬張りながら、塚田が報告した、昼間の信一の発言を嘲った。

 賞味期限のシビアな食品を取り扱う工場では、通常、生産が二日以上続けて停止になることはない。大丸食品の場合、一週間の休日は、水曜と日曜に定められている。

 土曜日の仕事終わり、塚田はいつも、駅と工場を往復する送迎バスを途中下車し、河川敷で寺井と二人、酒を飲むのが恒例になっていた。

「塚田くんさあ、そういうの聞いて感動しちゃうの?僕とかマジうざったくて、耳が腐っちゃうんだけど」

 信一の話をするときの寺井は、いつもゴキブリを見たときのような顔をしている。精神に異常を抱えている端本や、無能で不潔な及川――塚田が「基地外」を嫌うのと同じかそれ以上に、寺井は信一を嫌っているのである。

「違った景色が見えるかはわからないけど・・・新年会は、楽しみだよ。寺井さんは、新年会には行かないの?」

 もとは信一と同じ伊達巻のラインにいた寺井が、笹かまぼこのラインに移ったのは、今年の一月の、仕事始めのことだった。信一の説教を、それまではぐっと堪えていた寺井が、どうしても我慢できないことが、今年の「新年会」であったのだという。

――今年の新年会で、寺井くんがね。同棲している彼女と籍を入れるようなことを言ったんだけど、そのときうちの人がね、結婚するのだったら、なれるかもわからないシナリオライターなんか目指すのはやめて、堅実に、就職活動をしろ、なんて、余計なアドバイスをしたのよ。多分それで、堪忍袋の緒が切れちゃったのね。

 新年会をキッカケに、寺井が信一を拒絶するようになった決定打を、信一の妻、志保はそう分析していた。

 所帯を持つつもりなら、安定した仕事を探せ。

 至極、真っ当な意見ではある。

 正しいからこそ、受け入れられないこともある。

 寺井がどれほどの思いで、ずっと夢に向かい続けてきたのかも知らず、あっさり「シナリオライターを目指すのなんかやめろ」なんて、塚田からみても、確かにちょっと酷いと思う。相手の気持ちを考えなければ、正論も暴論になるのだ。こういうところは、信一を反面教師にして、自分も気を付けなくてはいけない。

「どうかな・・。昨年とはまた、状況が違うんでな。今年は割と、面白いことになりそうな気がしている」

 寺井が、左の口角をギッと吊り上げた。寺井が時々見せる酷薄な笑みは、不気味ではあるが、妙に魅入られる。

「そんな先のことより、これから忙しくなるから、身体にだけは気を付けろよ。限界だと思ったら休んじゃえばいいし、辞めちゃったっていいんだから。周りのことなんか気にしなくていい。とくに、真崎のオッサンと、同じ伊達巻ラインの牛尾。あの辺のバカどもがほざいてる精神論は、話半分に聞いとけよ」

 同じ繁忙期のことを語るにも、信一と寺井では、意見がまるで正反対である。

 仕事が忙しくなることも肯定的に捉えようとする信一と、キツイものはキツイ、ダメなものはダメとキッパリ言い切る寺井。まさに水と油で、こんな二人が同じラインにいれば、いつかは喧嘩になってしまっていただろう。

「真崎のバカはさ、金も権力もなくて、自分のやりたいことが出来ない鬱憤を、心のキレイさとかいう、わけのわからんもので胡麻化してるだけなんだよ。辛抱我慢を美徳と捉えてるみたいだが、結局我慢しきれてねえから、若いもんに自分の生き方を押し付けようとしてるじゃねえか。貧乏人が聖人君子気取ったって、サマになんねえっつーの。だったら女房とも別れて、坊主にでもなれってんだよな。そこまで捨てきる根性もねえ奴が、人に偉そうにしてんじゃねえっつうんだよ」

 清貧を地で行くような生き様を実践する信一を嘲笑い、忌み嫌う寺井の言葉は、身も蓋もなく、ときに露悪的である。それが逆に、塚田には心地よく感じられる。

 石鹸を口に入れれば誰だって吐き出すように、人は清々しすぎる言葉を、逆に受け付けない。寺井の刺々しい言葉は、正しく生きられない人間を受け入れてくれる優しさに満ち溢れている。

 だから塚田は、職場でただ一人、寺井にだけは、自分がニートの十年選手であることを打ち明けていた。寺井は、塚田の過去を聞いても、特に驚きもせず、同じ「基地内グループ」である村上や凛と、何ら分け隔てなく接してくれた。

 人に何かをしてあげなきゃ、何とか変えてあげなきゃ、という思いが過剰すぎる信一と違って、寺井は塚田のあるがままを受け入れてくれるのだ。

「あ、あの。寺井さん。前から言いたかったことがあるんだけど・・・」

 好きな寺井だから、直して欲しいこともある。今日、塚田は寺井に、それをお願いしようと思っている。

「直して欲しいこと?なに?まさか塚田くんまでこの僕に、飯食うとき、噛まずに飲む癖をなくせって?塚田くんまでそういうこと言うの?及川さんみたいに、くちゃくちゃ音を立てて食うよりマシだと思うんだけどなぁ」

「い、いや・・・そうじゃなくて」

 寺井は塚田が大事にする「基地内グループ」の中でも、際立って異質の存在である。ひとつひとつを上げればキリがないが、つまるところ、それは彼が、塚田がやりがいを感じている工場の仕事にまったく意欲がなく、非協力的だというところに集約される。 

 それはそれで改めて欲しいところだが、人には人の考えというものがあり、みだりに自分の価値観を押し付けたりしてはいけない。寺井のように、自分をしっかり持っている人にそれをすれば、信一のように嫌われてしまうだろう。

--世間じゃ派遣は悲惨だって言われるけどさ、それは真崎のクソジジイみたいに、頑張っても報われないヤツのことを言うんだ。どうせ報われないんだったら、最初から何も求めなきゃいいし、何も目指さなきゃいいんだよ。僕らは給料が安いかわりに、大して期待もされない気楽な派遣労働者。適度に手を抜きながら、時間をやり過ごすことだけ考えればいい。そう割り切れば、世間で言われてるほど惨めなもんでもないんだから。頑張るんだったら・・・・。

 いつかの河川敷飲みで、寺井が言っていたことだが、こういった考えを金科玉条としている人に、「仕事に意欲を」などといったら、反発して余計に頑なになってしまう。人の考えを変えたいのだったら、相手が正しいと思っていることを、頭ごなしに否定してはいけないのだ。

「あ、あの、大したことじゃないんだけど・・・・」 

 塚田が今日、これを機に寺井に改めて欲しいと思っていることは、価値観や信念というほど大げさなものではない。しかし、塚田にとってはある意味で、寺井が工場の仕事に意欲がないこと以上に、我慢できないことであった。

「なんだよ。もったいぶらずに、早くいえよ」

 深呼吸を一つ置いた。塚田は意を決した。

「寺井さんの名前、てらいさん、だと、言いにくいからさ・・下の名前で・・・誠也君を縮めて、せいくん・・って呼んでいいかな。それで、僕のこともさ。てっくん・・って呼んで欲しいんだけど」

 人の名前の呼び方。ほかの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないが、塚田にとっては、何より大事なことだった。

 保育園に通っていたころ、塚田は親しい友達と、互いを下の名前、もしくは、ニックネームで呼び合っていた。それが小学校に入ったころから苗字呼びが増え出し、中学校でそれが当たり前になった。

 自分が、学校を嫌いになった原因の一つ――変なこだわりなのかもしれないが、親しい者同士、苗字にさん付け、くん付けなどという、他人行儀な呼び方をするのは、塚田にとって、どうしようもなく耐えられないことなのだ。

 信一さん。志保さん。ムラさん。リンリン。塚田は「基地内」の人を、みんな、下の名前か、ニックネームで呼んでいる。みんなもまた、信一からは哲太、志保からはてっくん、凛からはてっちゃん、村上からは哲太くんと、塚田のことを、下の名前、あるいはニックネームで呼んでくれている。

 「基地内」の中で、ただ一人、寺井とだけは、下の名前、あるいはニックネームで呼び合えていない。それが塚田には、喉に突っかかった小骨のように、ずっと気になっていた。

 自分に対する呼び名の中で、塚田は、志保から呼ばれる「てっくん」を一番気に入っている。できれば寺井からも、そう呼んでほしかった。
 
「・・・・?」

 塚田の提案に、寺井はわけがわからないといった感じに眉をひそめ、首を傾げた。

「呼び方なんて、なんでもいいよ」

 ゲアッ、と、大きなゲップを放ちながら、寺井が言った。

「・・そ、そっか。そうだよね」

「もう日も暮れてきたし・・この辺でお開きにしようか。塚田くん」

 そのときはそれほどでもなかったが、家に帰ってから、ずーんと重たいものが圧し掛かってきた。

 お互いの呼び名を、親し気のあるものに改めようという塚田の提案を、「どうでもいい」と流される――。

 寺井の言い方は、けして悪意のあるものではなかったが、塚田の心を確実に抉った。

 キッパリと、却下されたのならまだよかった。寺井には寺井の意志があって、親し気な呼び方は嫌だというのなら、これまで通り、他人行儀な呼び方をすることに、まったく異存はなかった。

 人には人の考えがある。相手の意志を尊重したうえで、自分はこうしたい、というのであれば、塚田は素直に従うつもりだった。

 しかし、「どうでもいい」というのは・・・。それは、親しい者同士は、下の名前かニックネームで呼び合いたいという塚田の意志を、まるっきり否定されたことにならないだろうか。愚にもつかないことに拘っているつまらないガキと、バカにされているかのようにも感じる。

 最後、寺井は塚田の提案をまるで無視したように、塚田を「塚田くん」と呼んだ。おそらく、苗字呼びは、これからも継続されるのだろう。塚田はそのたびに、変なことにこだわって、恥ずかしい提案をし、あっさりと流された自分の「黒歴史」を思い出さなければならない。

 呼び方なんて、どうでもいいよ。どうでもいいなら、こっちの提案を呑んでくれてもいいじゃないか!どうでもいいと流された上に、こちらの意向はまるで反映されていない。この結果では、塚田にまったく立つ瀬がない。

 このままでは、寺井に対して、複雑な感情が蟠ったままになってしまう。だが、終わった話を蒸し返したりしたら、しつこい、粘着質な野郎だとか思われてしまう懸念もある。

 お母さんが作ってくれた夕食も喉を通らない。テレビを観ても、ちっとも頭に入ってこない。

 塚田はスマホを取り出し、寺井とのLINEを起動した。

 まずい、とはわかっていた。人は面と向かうのではなく、文字情報でのやり取りになると、つい気が大きくなって、言葉が強くなってしまう。中学時代、塚田はそれを痛いほどよく思い知っている。しかし、頭がモヤモヤして、ムシャクシャして、どうしようもない。

 本当に、送信するわけじゃない。ただ、自分を静めるために、自分の今の率直な気持ちを、文章にするだけだ。そう言い聞かせながら、塚田はタッチパネルを操作した。

 いくら仲の良い人でも、半年間も付き合っていれば、不満の一つや二つは出てくる。これまで頭の中にチラついていたことを、文字に起こしているうちに、段々、テンションが上がってきた。

 書きあがった文章を眺めると、なんだか、自分がとても正しいことを言っているように思えた。自分が正しいと思うと、これを相手にぶつけたい、ぶつけないと気が済まない、と思うようになった。

 火照った指で、送信ボタンを押した。スポン、と小気味のいい音がして、塚田の会心のメッセージが、画面に表示された。


 お疲れ様。早起きの寺井さんは、もう休んでいる時間かな。

 今日の酒飲みでは有意義な話ができたと思うけど、本当は、寺井さんに言いたいことは、もっと沢山あったんだ。

 まず、寺井さんは、最近の十分休憩で、プロ野球の話ばっかりしているよね。そのとき、僕が全然、みんなの話についていけていないのを、寺井さんは気づいているかな?あのとき、僕がどういう思いをしているか、寺井さんにはわからないかな?

 僕も自分が何もせず、ただ拗ねているわけではないよ。

 前に、みんなで一緒に、カラオケに行っていたとき、僕は好きなアニソンを歌いたいのを我慢して、みんなが知っているような、有名な曲を歌っていたのを覚えているかな。

 一人カラオケではないのだから、歌いたい歌を歌えばいいというもんじゃない。自分の好みを人に押し付けるのは間違いで、大勢の人とカラオケをするときは、みんなが盛り上がれるように配慮をしなければいけないと思ったから、そうしたんだ。僕だけじゃなく、志保さんやムラさんも、そうしていたよね。

 だから寺井さん・・いや、あえて、せいくん、と呼ばせてもらうけど、僕と同じようにせいくんだって、休憩中に輪になるときは、みんなが参加できるような話題を振らなければいけないと思う。いくら、自分がプロ野球が好きであろうと、輪の中に、プロ野球に興味がない人が一人でもいるとわかっているのなら、その話題は避けるべきではないのかな。 

 自分から積極的に話題を提供するタイプではないムラさんやリンリンには、期待しても仕方がない。輪の中心となれるせいくんが、それこそ、バラエティ番組の司会者のように、僕にも均等に話を振ってくれたり、僕がついていけるような話題を提供してくれれば、僕が十分休憩の時間、蚊帳の外に置かれることはなくなるんだよ。

 こっちがやっていることをやってくれない。できることをやろうとしない。だから、僕はせいくんに、不満を抱いているんだよ。

 せいくんに対する不満は、プロ野球のことだけじゃない。

 せいくんは、僕が、食堂で昼食を終えてお盆を返すとき、厨房で調理や食器洗いをしているおばちゃんにいつも、「ごちそうさま」を言っているのを知っているかな。それは知らなくても、同じように、送迎バスを降りるときに、バスの運転手さんに、大きな声で「ありがとうございます」を言っているのは、何度も聞いていると思う。僕だけでなく、ムラさんも、リンリンも、志保さんも、僕らがいつも遊ぶ人はみんな、おばちゃん、または運転手さんに、挨拶をしているんだけど、せいくんは意識したこともないかな?

 せいくんだけだよね。仲良しグループの中で、ただ一人だけ、食事を終えてもおばちゃんに「ごちそうさま」を言わないし、送迎バスを降りるときにも、運転手さんに「ありがとう」を言わないのは。

 たしかに、食堂のおばちゃんにしても、送迎バスの運転手さんにしても、仕事でやっているのだから、わざわざ礼を言う必要はない、というのも一理ある。

 だけど、僕はぶっきらぼうな運転手さんが、「ありがとうございました」に手を上げて返礼してくれたときは、一日頑張ろうな、今日はいい仕事したな、と、清々しい気持ちになるし、「ごちそうさまでした」を言ったあと、おばちゃんが笑顔で「いつも食べに来てくれてありがとうね」と返してくれたときは、さっき食べた昼食の味が、二倍、三倍にも美味しくなったような感じがするよ。

 そういう、職場での小さな、人と人とのコミュニケーション・・。お互いが、必要とされているんだという確認。それって、大事なことなんじゃないかな?自分一人ではやる気が起きなくても、仲の良いグループのみんながやっているのを見たら、自分もやってみよう、という気にはならないのかな?

 仕事のことだってそうだよ。せいくんが自分の夢を追っているのはわかるけどさ。もう少し、目の前のことに、真剣になってみてもいいんじゃないかな。仕事を頑張るのに、無駄なことなんてないと思う。今の仕事は、せいくんの夢にも、きっと繋がっていると思うんだけど、どうかな?

 ぶっちゃけ言うけどさ、せいくんは、もっとみんなに合わせることを、考えるべきなんじゃないのかな?だからあえて、僕は寺井さんを、せいくんと呼ばせてもらった。この意味は、頭のいい寺井さんならわかるよね。

 僕はせいくんのことを友達だと思っているし、ここで出会ったみんなとは、一生の付き合いにしていきたいと思っている。だから、どうしても我慢できないと思ったことは、直接相手に言うことにしたんだ。溜め込むのが、一番いけないからね。

 せいくんも、僕に対する不満があったら、溜め込まずに言ってね。直せるところだったら、直すからね。そうすることが、お互いのためにいいことだからね。それじゃあ、お休みね。

                                                 てっくんより


 会心のはずだったメッセージは、二時間ばかり経って、頭が冷えてくると、痛恨のメッセージにしか見えなくなった。

 やらかしてしまった――――。まずい兆候が表れているとわかりきっていたのに、やってしまった。

 本当にこれを自分が書いたのか、信じられなかった。なんだ?この独りよがりな、勘違い野郎丸出しのメッセージは。顔から火が出る・・いや、顔ごと体からもぎ取って、土に埋めてしまいたかった。

 不幸中の幸いは、二十三時三十二分、いま、早起きの寺井が寝静まっている時間帯であることだ。さきほどのメッセージが既読になる前に、適切な事後措置を取る猶予がある。



 ごめんね。さっきは熱くなりすぎた。さっき送ったメッセージは、全然気にしなくていいからね。ほんとにくだらないことだから、読まなくてもいいからね。ごめんね。



 翌朝、震える手でLINEを起動すると、昨晩のメッセージは既読になっていたが、返信は届いていなかった。

 寺井は塚田の頼みをきいて、「やらかし」メッセージを読まずにスルーしてくれただろうか。読んでしまったとして、気にしないでいてくれただろうか。怖くて、本人にはとても聞けなかった。

 寺井から返信がないのは、彼が怒っているからか?「やらかし」メッセージを、村上や凛に回されたらどうする?

 無限に増殖する不安――。せっかくの日曜日、塚田は一分一秒たりとも、休んだ気になれなかった。

 これを恐れていたのだ。これまで、危ない綱渡りを何度も乗り越えて、「基地内」のみんなと良好な関係を築けていたが、ここで落とし穴にハマってしまった。

 暗い部屋の隅っこには、もう戻りたくない。どうすればいい――?
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No title

小説読ませて頂きました。
とても面白かったです。
登場人物が皆それぞれ個性があっていいですね。
派遣社員が働く食品工場が舞台になっているのも興味が持てて読むのが楽しかったです。
基地内グループにいたとしても皆が皆同じ価値観や考えではないですよね。
主人公の塚田は寺井と上手くやっていけそうでしたが最後にやらかしてしまいましたね。
塚田は周りの人達に対する観察眼が優れているがゆえに自分にとっての職場環境をもっと快適にしたいという気持ちが強くなってしまったのでしょうね。
寺井が塚田にどのような対応を取るのか気になります。
寺井は好感が持てるキャラクターですね。
今後の展開を楽しみにしています。

No title

seaskyさん

 食品加工工場の異物混入事件をテーマに扱った作品を書いてみることにしました。

 これから五名の人物の視点を中心に物語を展開していこうと思いますが、塚田の場合、職場での人間関係や「居場所」に主眼を置いた話を取り扱っていきたいと思います。序盤から怒涛のようにアクの強い人物を出していったので、混乱されてしまうかもしれないと思っていたのですが、とりあえず読める内容になっているようで安心しました。

 また、月末あたりに二章をUPする予定です。

食品工場の製造現場が舞台になっていて派遣社員の人間関係がとても興味深いですね。
登場人物も皆んなかなり個性的でこれからの展開が楽しみです。
個人的には寺井に一番共感しますね。基地外の赤ちゃん、オカマンはまぁ〜どうでもいいとして真崎は一番関わりあいたくない人間ですね。
真崎夫婦は年齢も年齢ですしお互いに派遣で子供などつくってしまい子供の将来が心配ですね。おそらく貧富の連鎖にハマるのでしょう?
普通に考えたらいくら年の差があるとは言え休日に二人で野球の応援に行く仲なので何もないとも思えないので村上と凛の男女関係も気になります。

塚田は引き篭もり歴10年ながら、なかなか周りの人間を見る観察力ありますが、寺井に送ったメールは確かにやらかしてしまいましたね。
寺井のその後の対応次第で塚田の今後が大きく変わり大変気になります。

No title

まっちゃんさん

 読み手が混乱しない最低限度の人数をつぎ込みました。全員主人公の群像劇みたいな感じにしていきたいですね。

 無能は本人が無能を自覚しているのであれば大した害はないですからね。使う側でもないのに、ただの無能を攻撃していい気になっている奴は、人を自分の下位において安心したいだけの、ソイツ自身も大して周りから必要とされていないヤツですね。

 無能なんかより、本当にタチが悪いのは、独りよがりな正論を振りかざして、他人に押し付けるヤツです。リアルでもネットでもそういうヤツに散々悩まされてきた経験を作品の中で生かしたいですね。

 私も中学のころからメールを使っていましたが、やらかしに関しては痛い思い出がいくつかあります。思えば自己顕示欲という感情をうまくコントロールできず、失敗を繰り返してきた人生でした。こういうブログを運営するようになってからは屁とも思わなくなりましたけどね。自己顕示欲は個人ではなく全体に向けてなんぼです。詳しくは今後作品の中で書いていきます。

 今のうちに書いておきますが、昔からの読者であるまっちゃんさんには、もしかしたら一度読んだことのあるような話が出てきてしまうかもしれません。そこは深く突っ込まずに読んでいただけると幸いです。書き手としてどうかとは思いますが、まあ、世に出ていなければ重複もクソもないですからね。そもそも、前にサイトの方で書いた二作品もかなり直しましたし・・。

お久しぶりです

新作小説嬉しいです。寺井にかなりスカッとしました。言ってることが説得力あるし痛快ですね。赤ちゃんとオカマン、これも絶妙です。津島さんは普通は綺麗事で済まされること、漫画や小説ではまず出てこない障害者の描写がすごくリアルで面白いです。
最後のやらかしはかなりの人が心当たりあるのでは。
続き楽しみにしてます。

小説面白かったです。第一話は主人公の視点で話が進められていたのでどうしても自分と重ね合わせて読んでしまいました。「わかる」って部分や「わからなくもない」って部分もありましたが最後のラインの文章をよりによって寺井に送ったところで「何やってんだ」って声に出して言ってしまいました。とにかく続きが気になります。

No title

ばかがいこつさん

 個人主義全盛の時代で、誰しもある承認欲求や自己顕示欲、他人を自分の色で染めたいという願望のコントロールが難しくなっていると思います。

 私自身も何度も失敗してきましたが、塚田のやらかしみたいに、個人に向かう場合は非常に危険ですよね。かといって、労働に向けて発散するのがいいかっていうと必ずしもそうでもない。

 誰にも迷惑をかけないなんていうのは誰にも無理ですけど、なるべく迷惑にならないように生きていかなければならない。塚田やその他の人物を通じて、正しい答えを探っていきたいと思います。

 

No title

かなえさん

 世の中のキレイごと、説教へのアンチテーゼというのは私の長年のテーマですね。このサイトを始める前からそうだった気もしますし、このサイトを始めてからそうなったような気もします。

 ある人物への言動には、リアル、ネット双方で出会った「説教厨」の言動も反映させていこうと思いますが、

「お前のためを思って言ってるんだ!をつければ相手になんでもいっていいと思ってる(本当は自分が気持ちよくなりたいだけ)」「他人事だから冷静に見られてるだけなのに、相手も同じように考えられると平気で思っちゃう」「言ってることのほとんどがブーメランになって自分に突き刺さってる」「自分ができもしないことを相手に押し付ける」「すべて、お前が我慢すればいいだけだ!を前提として論理を組み立てているので、よく見ると穴だらけ」「何事も積み重ねの先にあることを知らず(これを底辺脳という)、自分の言葉を受け入れてもらうために、相手との信頼関係を築くというプロセスを無視する」「神様のように、たった一言で人を変えられると信じ込み、いきなり結果を求めようとする」「他人に偉そうにしていいというハードルが低く、大したことをしていない(何もしていない)のに、相手の親にでもなったような気になれる」「正義なんてものは立場によって変わることを知らない」「守るものがある側の正論を押し付けてこようとするが、実はそいつも底辺か底辺に毛が生えた程度だったりする(単に志が低いから底辺で我慢できてるだけ)」

 こういう人に出会って死ぬほど不快な思いをした経験のある方には楽しんでいただけるのではないかと思っています(すみません、キャラクター造形のメモ代わりに使わせてもらいました)。

 障碍者に関しては、二十四時間テレビに出てくるようなおとぎ話ではなく、現実の世の中で地獄を味わっているリアルな話を届けていきたいと思います。それこそ、きれいごとで済ませるような話じゃないですからね。説教厨の連中がそういう人に仕事で出会ったらどうしてるかっていうと、たぶん何も考えもせず「やる気がない」と決めつけて、イジメてストレス発散してると思います。あいつらはそういうやつらです。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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