完成版私小説 愛獣 3


             

 その異様な雰囲気は、着替えのため待機室に入った、その瞬間からわかった。

「おはようございます」

「・・・・」

 射抜くような目でこちらを睨みつけただけで、折茂は僕の挨拶を無視したのである。勿論こんなことは、僕が入ってから初めてのことだ。

 聞こえなかったのだろうか?いや、だとしても、向こうから挨拶をしてくるはず。大体、この異様に張り詰めた空気、いや殺気はなんだ?

「・・・お前、今日からはもう甘やかさないからな」

 まったくわけがわからず、ただ緊張して黙っていると、着替えを終えた折茂が、僕を鋭い目で睨み付け、低い声でそう言った。甘やかさないといわれても、さっぱりわけがわからない。

「ちょっと来い」

 言われるがまま付いていくと、折茂はデスクの中から、警備日誌の束を取り出し、僕に見せてきた


「ここ、ここ、ここ!記入漏れが三点!お前、こんなもん、よく提出できたな!」

 通路にまで響き渡る大声で、折茂が僕を怒鳴りつけてきた。

「あとこれ!ハンコの押し忘れ!それと、この間の手荷物確認のとき、元保安の村田さんが、手荷物確認をちゃんとやってないって、お前のこと名指しでクレームつけてきたぞ!」

「は・・え・・・は・・」

 今まで見たこともないような折茂の剣幕に、僕はたじろぐことしかできなかった。保安室で勤務中の日勤隊の戸叶隊長、港らも、ドン引きするほどの勢いである。こんな折茂は見たことがなかったし、僕の人生の中でもこれほど激しく怒鳴られるのは、十九歳のときにやった、悪名高い佐川急便の仕分けバイト以来のことだった。

「・・・もうこんな時間か。説教は後でたっぷりしてやる。とりあえず、タバコを吸いに行くぞ」

 毎日の習慣である、業務開始前のタバコに二人で向かったのだが、手が震えて、うまくタバコに火をつけることもできない。ようやく火がついても、味はまったくわからなかった。

 そして業務が開始されたのだが、折茂の怒りのマグマは冷却されることを知らず、僕は細かいミスをしては怒鳴られ、もたもたしては怒鳴られた。狭い保安室の中は戦場さながらで、まったく生きた心地がしなかったものである。

 巡回に受付・・いつまた怒鳴られるかと、針の筵に座った気持ちになりながら、なんとか夜間の業務をこなして、仮眠休憩の時間となった。しかし、折茂には、すぐに僕を寝かせるつもりはなかった。業務開始前の宣言通り、お説教タイムが始まったのである。

「三名体制最後の日に、部長が巡察にきたとき言ってたぞ!津島は本当に大丈夫なのか?とな!」

 立場が上の人の名前を持ち出して、僕がいかにみんなから頼りなげに見えているかということを強調しようとする。昨晩、塩村に褒められて上がっていたテンションは、もう完全にゼロになっていた。

 やはり僕は、みんなから無能視されていたのか?味方は塩村だけだったのか?頭の中で不安を増殖させる僕に、折茂は、イジメによって職場を去った前任の隊員、阿川の話を出してきた。

「お前の前に勤めていた、阿川もだらしない奴でな。何度言っても直らないから、毎日のように怒鳴ってたよ。このクリップボード、へこんでいるのが気になったことはないか?これはな、俺が阿川の頭をぶん殴ったときに出来たもんだ。」

 折茂は阿川に対する暴力行為を、恥じることもなく堂々と言ってのけたのである。お前にも、同じようにやってやろうか。状況からして、そう言われているのも同然であろう。

 自分が正しいと思ったことなら、それが犯罪行為であっても平然とやってのける――そんな自分に酔っている。まさにヤクザである。

「その件があってからしばらくして、現任研修で一緒になったとき、阿川は俺にこう言ってきたんだ。心を入れ替え、やり直します、とな。俺はそれを聞いて、阿川を許したよ。これからのお前に期待すると言ってやったよ。だが、その翌日、アイツはバックレた。何があったと思う?」

「さあ・・・わかりません」

「お前と同じ、日誌の記入ミスをした阿川を、ちょうど今と同じ時間帯に、戸叶のバカがネチネチと追い詰めてな。仮眠休憩も取らせずに日誌の書き直しを命じ、朝になると、阿川には一切仕事をやらせず、通用口前で、まったく無意味な立哨警備をずっとやらせていたそうだ。阿川がやる巡回は、全部鳥居さんにやらせてな。その件があった日に、阿川はいきなりバックレたんだよ」

 自分の意志でサボるのはいい。しかし、やろうと思っている仕事をやらせてもらえないのは、精神的にダメージが大きい行為である。戸叶のやったことは、けして許されることではない。

が・・問題は、折茂にそれを責める資格があるのか?ということである。折茂は戸叶をスケープゴートに仕立てて、自分の罪は棚に上げているだけではないのか。偉そうなことを言っているが、彼のやっていることは、ただの保身ではないのか。

 結局、折茂の説教は一時間にも及んだ。シフト表に明記してある仮眠時間を、タダで奪われたのである。それが終わってようやく仮眠休憩に入ることができたのだが、身も心もヘトヘトであった。すぐにぐっすりと眠りについた。

 そして朝を迎えたのだが、驚くべきことに折茂のこの厳しい態度は、なんと、朝九時に下番するまで、十四時間延々と続けられた。

 二十歳の、まだ社会経験も未熟な若者が、畳でいえば六畳程度の狭い部屋の中、副隊長という立場の上司から、十四時間にもわたって怒鳴られ続け、プレッシャーに晒され続けたストレスは、生半可ではなかった。折茂は僕が小さなミスをしたり、モタモタするたびに、まるで大犯罪でも起こしたかのように怒鳴ってきたのだが、そんな風に頭ごなしに、恐怖で押さえつけるようなことをされれば、脳も身体も委縮して、余計に仕事ができなくなってしまうというものだ。

 今でも学校の運動部などでよく見かける光景だが、「怒る」という行為は、「悪いことをした」人には必要でも、「できない」人にするのは、まったくの逆効果ではないか。百歩譲って練習のときは緊張感を保つためにいいとしても、試合のときまで選手を怒鳴り散らすのは、委縮して思い切ったプレーができなくなるだけで、いいことは何もないだろう。仕事でも同じである。正当な理由もないのに怒鳴りまくるのは、上の者のストレス発散にしかならない行為でしかないはずだ。

 地獄のような一日が終わったが、しかし、僕はまったく解放された気がしなかった。翌日の勤務も、僕は折茂と一緒だったのである。

     ☆      ☆        ☆            

  翌日の勤務でも、折茂の怒りは続いた。この男、二日連続に渡って、このスタイルを続ける気のようである。

「何モタモタしてんだ!外商の木塚さんが来たらこの鍵を渡すって、ちゃんと教えただろ!」

「お前、なんで退館者からバッジを回収し忘れてるんだ!作り直すのが手間になるだろ!」

 かつて、教育係の先輩隊員、塩村は、警備員はサービス業であり、愛想と丁寧な応対こそが一番である、と、僕に教えてくれた。しかし、塩村より上の立場に君臨する副隊長の折茂がやっているのは、下の隊員を怒鳴り散らし、精神的肉体的に委縮させることである。

 上の立場の者から常に高圧的な態度でプレッシャーをかけられ、ストレスまみれにされて、それで「明るい笑顔の応対」など、できるものだろうか。これで折茂が、「お客さんには笑顔で接しろ!!!」などと怒鳴ってきたらギャグになったのだが、さすがにそれはなかった。

 A番が本館巡回に出ている時間帯――束の間の、安らぎの時間。折茂の豹変具合に納得がいかない僕は、なぜ自分がこれほどまでの理不尽なプレッシャーに晒されなければならなくなったのか、その理由を考えてみた。

 折茂本人が言うのは、僕に「やる気がみられない」ということである。別に間違いではないし、凡ミスが多かったのは事実だから、確かにそう思われても仕方がなかったかもしれない。だが、もし部下の気を引き締めるだけが目的ならば、仕事の前にでも、一発ビシッと言うだけでよかったはずである。二日間にも渡って怒鳴り散らし、挙句、暴力をチラつかせて脅すなどというのは明らかなやり過ぎだ。


 折茂が僕を育てるために、あえて厳しくしているという言い分は信じられない。大体、いくらヒステリーな人でも、ただ指導のためという理由だけで、二日間も人を怒鳴り続けるなどというエネルギーは中々わかないものである。折茂が僕に厳しくするのは、僕という人間が嫌いだからではないか、としか思えない。「敵」を追い詰めるためなら、人間は無限のエネルギーが湧くものだ。 

 だが、折茂が僕を嫌う理由となると、これがまた見当がつかない。確かに僕と折茂の性格は水と油ほども違うが、仕事上のコミュニケーションに限れば、何の問題もなかったはずだ。何か失礼なことを言ってしまった、という記憶もない。実際、今まではうまくいっていたのである。

 なかなか結論が出ないまま頭を悩ませていると、突然、廊下から激しい物音が聞こえた。何かと思って見に行こうとすると、受付の前を全力疾走する人影が――。

 折茂であった。修羅の形相をした折茂が、保安室の前を猛ダッシュで横切り、その勢いのまま通用口の鉄扉を開けると、外に飛び出していったのである。

 呆然としたまま保安室で待機していると、二分ほど経って、折茂が息を切らせながら戻ってきた。

「本館の屋上を巡回中、事務館の駐車場に、二人の男が侵入するのが見えた。急いで現場に行ってみたが、逃げられた後だったみたいだ」

 どうやらそれが、深夜のスーパーダッシュの理由だったらしい。報告を終えると、折茂は中断していた巡回へと戻っていった。

 一度は納得した僕であったが、トイレのために廊下に出たとき、先ほどの折茂の行動に疑問を感じるようになった。

 折茂が廊下をダッシュする際に生じた大きな音の正体は、トイレの入り口にある、バケツを蹴飛ばしたものであることがわかった。位置が大きく変わり、横向きに転がっていたからである。

 しかし、だとするとどうも変なのである。トイレは、本館巡回の際に使われる職員用エレベーターの向かい側にあるのだが、エレベーターとトイレの距離は、ざっと四メートルほどはある。エレベーターから見て右側奥にある通用口の鉄扉に最短距離で行こうと思ったなら、トイレの入り口にあるバケツをわざわざ蹴飛ばすというのは、かなり不自然な行動なのである。

 一つの仮説が浮かぶ。折茂は、自分の行為を、僕に強く印象付けるために、わざと大きな音を鳴らしたのではなかったか。 

 それは、こういうことである。折茂は、不審者を注意するために、全力疾走していち早く現場に向かおうとしている自分を恰好いいと思った。僕の価値観では、その感覚はよくわからないのだが、とにかく折茂はそう思った。そして、そんな恰好いい自分を見て欲しくて、大きな音を鳴らしてこちらに注意を向けたのではないか。

 実際に本人からそう聞いたわけではなく、あくまで、折茂のナルシストという性格を考慮しての、僕の推理である。だからまったく見当外れかもしれないが、確実にいえるのは、事務館の駐車場には、とくに高額な商品が置いてあるわけでもなく、持ち運び困難な食材類が、厳重な施錠でもって冷蔵庫に入れられているのみ――つまり、不審な人物の侵入があったとしても、そんなに大騒ぎする必要はなく、ゆっくりと落ち着いて対処すればそれでよかった、ということだけだ。

 この、折茂の「ナルシスト」という性格、そしてそういう人の思考パターンを当てはめていけば、この二日間、折茂が異常に僕に厳しかった理由も説明できる。

 ポイントとなるのは、困難が予想された二名体制での勤務は、実際には思ったより楽だった、ということである。細かいミスを繰り返しておいて言うのもなんだが、二名体制によって業務が変わったといっても、実際には、それほど大変になったという感じはなかった。

 警備という仕事はサラリーマンとは違って、物騒な事件が起きたときに備えるための仕事だから、あまり効率重視で人数を絞るというのも問題なのだが、それはさておき、何もトラブルがなければ――通常業務をこなす分には、三名が二名になったからといって、大きな支障があったということは絶対にない。断言できる。新人の僕が余裕を感じているくらいだから、自分で、自分は仕事ができるなどと豪語するほどの折茂にとっては、それこそ何でもなかったはずだ。

 大変だと予想された仕事が、思ったより楽だったとき、普通の人はそれを喜ぶだろう。だが、折茂にとっては都合が悪い。折茂は以前、四十日間連続勤務を達成したことや、国道の現場で、社内の語り草となる仕事をやってのけたことを自慢していたことがある。彼は、「困難な仕事をこなすことをカッコいいと思う」価値観の持ち主なのである。そんな男にとっては、仕事が楽では、アピールするチャンスが失われてしまうということで、逆に困りものなのである。

 そこで折茂は、その「思ったより楽だった」二名体制を、「やっぱり大変だった」ことにしようとした。本当は楽勝の仕事を、いかにも大変なことをやっているように見せかけるために、二日間も続けて僕に怒鳴り散らしてきたり、過去の暴力行為を暴露するなどといったこともして、ピリピリした態度で、保安室の雰囲気を無駄に緊張させていたのだ。

 かつてプロ野球のミスター長嶋さんは、お客に魅せるために、何でもないゴロを難しいゴロに見せる工夫をしていたというが、折茂のやっていることは、それと似ている。問題は、プロ野球ならともかく、警備が他人から大変に見られたところで何の意味もなく、一緒に働いている者にとっては大迷惑である、ということだ。

 折茂との勤務は、僕にとっては地獄でしかなかった。だが、明けない夜はない。朝を迎え、残りの勤務を歯を食いしばって堪えて、九時〇〇分、ようやく下番のときを迎えることができた。

 二名体制として初めての勤務、ただでさえ慣れない中、異常なパートナーと、異常な雰囲気の中で働き続け、身も心も疲労困憊していた。よく耐えたものだと自分を褒めたかった。 

「お疲れさん。初めての二名体制はどうだった?」

 待機室で着替えながら、折茂との会話である。勤務開始前、挨拶をしたときは返事をしてくれなかった折茂だが、一応、終わったときは労ってくれるようである。

「ええ、まあ・・・。やってやれないことはなさそうですが・・」

「そうか。この二日間、厳しくされて、お前も嫌になっただろうが、安心しろ。明日からはお前の希望通り、塩村さんとのペアを中心にシフトを組んでおいたからな」

「・・?希望、って・・?」

 僕には、折茂が何を言っているのかわからなかった。折茂に、塩村と組ませてくれ、などと頼んだ覚えは一回もない。

「お前、言ってただろ。塩村さんを目標に頑張ります、と」

 思い出した。先月までの三名体制時代、最後に折茂と一緒に仕事に入った日、彼に西館の受付業務の指導を受けたとき、彼が突然言ってきた言葉である。

――お前がこれから仕事をうまくなるためには、誰か一人、目標にする人物を決めた方がいい。その人の仕事ぶり、仕事のスタイルを徹底的に観察して真似をする。それが、上達の一番の早道だ。

――お前は誰を目標にする?お前はこの現場で、誰が一番仕事ができると思う?

 彼の問いに対し、僕は教育係の塩村の名を答えた。僕に一から仕事を教えてくれたのは彼であり、ポジションも同じ。折茂を差し置いて彼の名前を出しても、角は立たないだろうと思っていた。

 それが、違っていたのではないか。折茂はいつまでも根に持っていたのではないか。「津島くんの憧れの人物」に、己を指名してもらえなかったことを、水あめと納豆をぐじぐじとこねくり回したような執念と嫉妬心でもって根に持ち続け、僕をイジメようとしていたのではないか。

 嫉妬深さという性質に関しては、僕もそれを強く持っていると自覚している。自覚しているからこそ安全なのだ。人に迷惑をかけないように、出来得る限り嫉妬を感じる場面に直面しないよう、気を付けることができる。自分の心の闇と向かい合えていれば、少なくとも自分に対しては、自分を偽装しなくて済む。

 しかし、折茂が嫉妬深さを自覚している様子はなかった。彼が常々売りにしているのは、自分が休まず、下の者に休憩を取らせるような「漢の中の漢」ということである。本人は嫉妬とは正反対の、器の大きい、また竹を割ったようにさっぱりとした性格のつもりでいるのだ。

 自分の中の闇と向かい合うことができない人間は、自分自身に対しても、自分を偽装して生きていかなければならない。それでは余計にストレスがたまる。たまったストレスは、どこかで爆発させなければならない。たとえば、自分が嫉妬深さを感じるハメになった、その原因の人間をイジメるという行為によって・・・。

「そ、それじゃあ・・失礼します」

 思い込みであってほしかった。自分自身が嫉妬深い僕だが、自分を手に入れられないことで嫉妬する人物がいるなどは、想像したくもない。若い女性なら大歓迎だが、男では不気味でしかない


「・・・そうか。塩村さんとは一緒に帰るが、こんな怖い俺とは一緒に帰りたくないか」

 先に着替えを終え、帰ろうとした僕に、折茂が口だけで笑って言う。駅までの距離は、たかだか歩いて五分程度である。それを一緒に帰らないだけで、不満をあらわにするとは・・・女子中学生か?

「いいよ。お疲れさん」

「お疲れ様です・・」

 とにもかくにも、地獄のような二日間は終わったのである。これ以上、深くは考えないことにした。
 青い空、暖かな陽射し――。張り詰めていた心が、一気に弛緩する。二日間、家に帰ってもその気になれずに溜まっていたものを抜きに、僕は川崎へと向かった。


 ☆          ☆       ☆

 折茂は僕のシフトを、塩村とのペアを中心に組むと言ったが、さしあたって次の勤務は、僕のC番のインターンだった。土曜日と日曜日、競馬の開催日限定のポジションである。

 C番の上番時刻は二十一時半で、A、Bより三時間遅い。巡回の負担もA,Bに比べると遙かに少なく、それでいて仮眠時間はA,Bと同じ三時間あり、実働は八時間。しかも、そのうち半分以上は暇な時間で、本当に仕事をしているのは四時間程度と、まさにご褒美のようなポジションと言える。

 これで日給一万一千円が手に入るのだから、本来ならウキウキで仕事に臨むところなのだが、僕のテンションはさっぱり上がらなかった。この日のA番は、折茂だったからである。

「お・・はようございます」

「おーっす」

 手を上げて挨拶を返してくれた塩村に対し、折茂はムスッとした表情で、軽く頷いただけ。挨拶もロクに返してくれなかったのである。そして・・。

「お前、またミスしたな!前の勤務で、鍵授受簿にハンコ押し忘れただろ!何やってんだ!」

 取るに足らないミスを、さも警備隊の存続にかかわるかのような重大事件のように激しく怒るのである。

 折茂と僕の関係が悪化したことについては、塩村もすでに聞き及んでいるところらしく、0時を回って、折茂が本館巡回に出たとき、僕に心配の声をかけてくれた。

「まあ、あんまりマジに受け取るなよ。アイツなりに、お前を鍛えようとしているだけだからよ」

 果たしてそうだろうか。あの怒り方は尋常じゃないと思う。僕にはどうしても、個人的な嫌悪の現れとしか思えない。

「・・・やっぱり、怖いか?」

「・・・はい」

 塩村の問いかけに、僕は正直な気持ちを答えた。まだ、パワハラやブラック企業という言葉の認知度がそれほど高くなかった時代であるが、折茂の態度が異常であることは、どう見ても明らかだ。はっきり言って、一緒には働きたくなかった。

 この辺りではっきり書くが、僕が作品の冒頭から述べていた「魔物」とは、折茂のことである。僕は「魔物」のせいで、伊勢佐木屋警備隊の現場には既存の隊員が来ないと書いていたが、折茂や同僚たちが言っていたのは、「戸叶のせいで人が来ない」ということであった。しかし僕は、実際には、折茂がいるせいで伊勢佐木屋警備隊に行くのをためらった人も相当数いたのではないかと思っている。

 折茂が嫌いであると、はっきりと口に出していた人は誰もいなかったのだが、だからこそタチが悪いのだ。戸叶のように、みんなと悪口を言い合える人であれば少しは発散できるが、折茂の場合、なまじ周囲の評判がいいだけに、自分の中だけで抱え込まなくてはならない。余計にストレスが溜まってしまうのだ。

 怖い人がいて、嫌な思いをして――。しかし僕には、伊勢佐木屋警備隊を辞めるという考えは、この時点ではまだなかった。

 楽な仕事でいい給料を貰えたからである。長く勤めたところで給料も上がらず、将来ステップアップするためのスキルも獲得できない非正規の仕事で大事なのは、給料に対してどれだけ楽ができるか、ただそれだけだ。その点、伊勢佐木屋警備の仕事は合格であった。時給にすると千円を割ってしまうほど賃金は安いのだが、業務内容からすればお釣りが来ると感じるレベルなのである。楽して稼ぐ味を知ってしまったら、飲食や清掃など、3Kの仕事などもうできない。

 また、人間関係だって、けして崩壊しているわけではなかった。嫌なのは折茂だけで、他の同僚との関係は概ね良好なのである。前任の阿川のように、極限まで追い詰められている、というわけではない。少なくとも、塩村のように、気にしてくれている人はいる。

 それに、当時まだ世間を知らない、若干二十歳のウブな青年であった僕は、「ここで辞めたら根性なしだ。どこに行っても通用しない。頑張らなきゃ」などと、無邪気に思ってしまうような、可愛らしいところもあった。それは、苦痛の根源である折茂本人から言われていたことなのだが、「世間はこんなものだ。どこに行っても厳しい人はいるのだ。耐えて、根性をつけないとダメだ」などと、折茂の、ただの自己正当化をまともに受け止めて、見事に洗脳されてしまっていたのである。

 折茂の厳しい態度に泣き言を言うのは情けないことである」と思っていた。下の者に暴力を振るうような性格破綻者のパワハラを、決定的におかしいことであるとは感じていなかったのである。

 この時点でも十分追い詰められていたが、客観的冷静に状況をみれば、ここで辞めるのは勿体ない、まだ様子を見るべきだ、と判断できる段階ではあった。今より下はないだろう。ここからは上がっていくだけだ。などと、ポジティブに考えてしまったせいで、更なる深みへと、ズブズブと嵌ってしまったのである。

 C番のインターンについては、メインである西館の点検巡回以外は覚えることも多くはなく、朝の五時から始まる西館受付業務では折茂とも会わずに済み、気楽な時間を過ごした。ただ、唯一閉口したのは、西館隊の田丸が、業務終了後も、僕と、教官役の鳥居を捕まえ、長話に及んだことである。

「今度、そっちの日勤で入った新人の二人、俺のところに挨拶もこないじゃないか。隊長の戸叶はどういう教育をしているんだ、まったく・・」

 夜勤隊ならともかく、日勤帯は業務上西館隊との関わりもないのだが、自分のところに顔を見せないのが不満で仕方ないという。

「大体、部長の大島も・・・」

 話は次々に飛び、ほとんどすべてが、会社の人間に対する不満だったのだが、そのどれもが、死活問題でも何でもない下らないことで、今となってはまったく覚えていない。この田丸の長話、どうやら昔からよくあることらしく、慣れっこの鳥居は平然と対応していたのだが、僕にはたまったものではなかった。

「あ。津島君は、明日も勤務があるから、もう帰りな」

 鳥居が機転を利かせてくれたお蔭で、僕は十五分ほど捕まっていただけで帰れたのだが、鳥居はこの後、四十分近く解放されなかったらしい。まさしく不当な拘束である。

 日勤隊の戸叶に終了報告をし、待機室に入ってみると、折茂が着替えをしていた。保安室よりもさらに狭隘な空間で、空気が張り詰める。

「お。お疲れ様です・・・」

「塩村さんから聞いたよ。お前、俺のこと怖いんだってな」

 折茂の第一声が、僕の背筋を凍らせた。

「いや・・・」

「いいよ。別に、責めているわけじゃない。お前が怖いというなら、仕方がない。だが、俺は自分の方針を変えるつもりはない。俺を手本にしろとも言わない。だからお前は、これから俺と勤務に入るときは、テストだと思え。俺との勤務のとき、塩村さんや鳥居さんとのペアで学んだことを、発揮してみせろ。いいな」

 そう思うことで、「憧れの人」に指名されなかった自分を納得させたのだろう。僕より先に着替えを終えた折茂は、それだけを言い残して出ていった。

 ☆         ☆        ☆            

 折茂から離れ、塩村とのペアを中心にシフトに入るようになると、段々と僕も落ち着いてきた。理不尽なプレッシャーに押しつぶされることはなくなり、楽な気持ちで仕事ができるようになったのである。

「おう。二名体制には、もう慣れたか?」

「ええ。巡回も全部覚えたし、特別なことがなければ、バッチリですね」

「そうか。そりゃよかった。じゃあよ、ここらで、前から話してたように、二人で遊びに行こうぜ」

 四月後半のある日、塩村は僕を遊びに誘ってくれた。ちょうど、二人同時に三連休に入るのを利用し、泊りがけでどこかに行こうという計画である。

 当時はメガネをかけて、大人しそうな見た目をしていたことから、皆からはオタク気質と見られていた僕だが、元々は活発で、人と遊ぶのは大好きである。喜んで塩村の誘いを受けた。

「どこか、行きたい場所はあるか?」

「いや、特にここってのはないですね」
「じゃあ、特に予定は決めずにとりあえず東京に出て、適当にぶらつくか」

「ええ、それで行きましょう」

 そして、迎えた当日。僕と塩村は、はじめ秋葉原で落ち合った。それから二か月弱後、未曾有の惨劇の舞台となる地である。

 秋葉原ではフィギュアショップを適当に冷やかし、おにぎりやケバブなどを食べ歩いて、その後、アメ横を歩いて上野まで出て、いわゆるハッテン場として有名な、ホモ映画館へと入った。僕はもちろん、塩村にも特にそういう趣味があるわけではないが、塩村には人の行為をネタとして楽しむところがあり、警備隊の皆への土産話を作るために、わざわざ二人分の料金を払ってまで、僕をそんなところに連れて行ったのである。

 二百席ほどのシアターは閑散としており、観客は乳くりあうのに夢中で、映画を見ている人は誰もいなかった。同性愛の人には、女性と見紛うような美しい容姿をしている人もいるが、ここにいるのは皆小汚いオッサンばかりで、小汚いオッサン同士で乳くりあっていた。

 そして、シアターに入って五分ほどで、僕は恐怖の体験をする。突然、隣に座ってきたオッサンに、太ももを触られたのである。オッサンの息は荒く、このままでは太ももだけでは済みそうもない気配が濃厚にあった。塩村はどうしていたかといえば、後ろの方の座席から、その光景をニヤニヤ笑いながら見ていた。もとより、この展開を狙っていたのである。物好きな人なのだ。

 人に笑いネタを提供するのは嫌いではないが、そんなことで大事な貞操は失えない。僕は慌てて、映画館から逃げ出した。

「おいおい、もうギブかよ」

「当たり前ですよ。酷いじゃないですか。本当に危ない時は助けてくれるっていったでしょ」

「まだ大丈夫だって。ったく、あれじゃネタにならねえよ」

 一体どこまでが、塩村にとっての大丈夫だったのやら。まあ、この程度であればいい人生勉強であり、この件について塩村には特に恨みはない。

 夜になると、僕らは新宿方面へと向かい、洋食屋で食事をとった後、サウナで汗を流した。プールについているものではなく、サウナ自体がメインの施設に行ったのは初めてのことだったが、中々乙なものだった。

 寝る前に食堂でビールを飲みながら、僕たちは語り合う。話題はもっぱら、職場の愉快な仲間たちのことで、その中でも最も多く話題に上ったのが、折茂のことであった。

「折茂さんって、なんていうか、自己評価めちゃくちゃ高いですよね」

「お前もわかってきたか。アイツは本当に、自分大好き人間でよ、俺も時々、話合わせるのが大変なときあるんだよ」

 塩村のような「リア充」寄りの人から見ても、折茂のナルシストぶりは、やはり際立って見えるものらしい。折茂を異様だと思っているのが僕だけではないことがわかり、少し安心した。

 その晩はカプセルホテルに泊まり、翌日もまた、特に目的は決めずに東京の街を歩き回って、夕方になる前には横浜に帰ったのだが、電車の中で、塩村が携帯を見ながら、気になることを口走った。

「・・・なんか、職場でまた問題が起きたみたいだな」

「え?」

「前回、お前が西館巡回に行ったとき、最初に機械警備を解除するのを忘れてたらしくてよ。折茂がカンカンになってるんだよ」

 競馬の開催日限定の西館点検巡回では、巡回を開始する前に、まずは施設の機械警備を解除しなければならない決まりとなっている。そうしないと、警備員の巡回中に機械警備が発報してしまうからだ。本館での巡回についても同じである。ただし、本館の場合は、機械警備が発報すると、ただちに大手警備会社の機動隊が駆けつける手はずとなっているのに対し、西館では、翌朝来た施設の職員が、発報の有無をチェックするのみとなっている。

 今回、僕は巡回前に機械警備を解除し忘れただけでなく、巡回後、機械警備を再セットするのも忘れていたようであった。もし、巡回前に機械警備を解除し忘れたとしても、巡回後に再セットに訪れていれば、機械警備を誤発砲させてしまったことに自分で気づいて、ただちに機械警備を止め、人的ミスがあった旨をメモか何かで置いておくなどの対処ができ、大きな問題とはならなかったのだが、僕は両方を忘れて、機械警備の存在を完全にスルーしてしまっていた。そのため、機械警備は翌朝まで鳴りっぱなしになっていたのだ。まさにADHDの本領発揮である。

 とにかく、折茂がそのことについて激怒しているというので、僕は帰り次第、翌日の勤務で折茂に提出する反省文をしたためることになった。楽しかった遊びの日は一転し、次回の勤務に不安を感じながら、夜を迎える形となってしまったのである。

  ☆         ☆          ☆          

 かつてない憂鬱な気分を引きずりながら、僕は職場である伊勢佐木屋へと向かっていた。折茂に怒られることは、すでに確定しているのである。

 この日は、僕はC番での勤務であり、A番の折茂とB番の塩村より三時間遅れて勤務に入った。時刻は二十二時ちょうど。伊勢佐木屋社員やテナント従業員の退館は概ね完了し、大声で怒鳴るのにはうってつけの時間帯である。

「おはよう、ございます・・・」

 塩村は巡回に出ていて、保安室にはいないようである。折茂はといえば、伊勢佐木屋のテナント従業員と会話をしていた。その顔には、これから人を精神的に追い詰めようとしているとは思えない、実に朗らかな笑みが浮かんでいる。外面はいい男なのである。

 待機室に入って着替えをしていると、保安室から聞こえてくる声が消えた。折茂と話していたテナント従業員が退館したようである。カーテンを開けて保安室に行けば、いよいよ折茂の大激怒が始まるのだ。

 一歩が重い。足に鉛がついたようだった。それでも、ここを乗り越えなくては、今後、勤務を続けることはできない。どうにかこうにか僕は、デスクに座り、イライラして貧乏揺すりを繰り返す折茂の前までたどり着いた。

「反省文を出せ!!!」

 受付のガラス戸が閉められ、外に声が漏れないようになった保安室の中に、天まで轟くような大音声が響き渡る。狼に吠えられたウサギのように、僕は震えた。

 ガタガタと震えている。反省文を持つ、折茂の手も震えている。これは、僕をより怖がらせるための演出なのか?それとも、本心から湧き上がる怒り――いや、僕に対する強烈な嗜虐心を抑えきれず、手が震えているのか。

「機械警備を切るのを忘れていただと?なんで教わったことを、ちゃんとできないんだ!」

 なんでと言われても、忘れていたから忘れたのだとしか言いようがない。そんなに知りたいなら、僕の脳を分解して調べてみてくれとしかいえない。

「メモはとったのか!」

「取りました・・・」

「メモはとったのに、お前はどうしてそんなに失敗を繰り返すんだ!やる気があるのか!!」

 そして、説教好きの常で、話がすぐ、方法論から精神論にすり替わっていく。

 折茂の説教は、信じられないことに、なんと二時間近くにも及んだ。だが、正直、内容はよく覚えていない。恐ろしい、もう嫌だ、早く終わってくれ、ということだけで頭が埋め尽くされていた。

 しかし、二時間である。どんなにヒステリーな人でも、二時間もの間、怒りのエネルギーを持続するというのは簡単なことではないだろう。たかが仕事のミスだけでここまで怒れるとは考えられない。それほど、僕という人間を憎悪していたのである。だが、なぜ僕が折茂に、そこまで憎悪されないといけないのか?

「お前を教えてくれた、塩村さんに対する感謝の気持ちはないのか!!塩村さんに申し訳ないと思わないのか!」

 印象に残っているのは、この言葉である。これは果たして、折茂の本心だろうか。

 前回、二名体制変更後初勤務のときにおきた折茂大激怒事件と、今回の折茂大激怒事件には、一つの共通点がある。いずれも、僕が塩村とプライベートで遊んだ次の日に起きたということである。
 
 折茂はおそらく確実に、僕と塩村の仲がいいのを、嫉妬の眼で見ていた。しかしそれは、「自分の闇と向き合えない」折茂には、受け入れ難い事実である。折茂は自分が嫉妬という感情を抱いていないことを、自分自身に対して証明するために、僕がミスをしたのは塩村への感謝の気持ちが足りないせいだなどと、わけのわからない理屈を持ちだしてきたのではないか。

「おい!!!人の話し聞いてるのか!!!!なんとかいえ!!!!!」

 床を踏みつけながら、折茂が怒鳴り散らす。何とか言ったところで、今度はその言葉を理由にしてまた怒られるに決まっているのだから、黙っているのだが・・。

「すみません、すみません・・・」

 僕の口からかろうじて出てくるのは、謝罪の言葉だけである。

 二時間にも渡って狭い室内に軟禁され、鬼のような形相で怒声を浴びせられ続け・・・追い詰めて追い詰めて追い詰められて、あまりの恐怖とストレスに、僕の精神は、ついに限界に達してしまった。

 涙腺が決壊し、二十歳の男が人前で泣いてしまったのである。まさに、「決壊」という言葉が相応しい現象で、小学校高学年ごろから二十歳になるまで、どんなに辛いことがあっても人前で泣いたことなどない僕が、二十歳を過ぎてから、人前でよく泣くようになってしまったのだ。そうなってしまったキッカケが、この「大激怒、大説教事件」だった。

 折茂はまさに、僕の心に深々と爪痕を残したのである。

 ようやくに「拷問」が終わったとき、僕の精神は崩壊していた。折茂が巡回に出ると、僕は完全に放心状態となってしまった。

 折茂の「大激怒、大説教」中、塩村が何をしていたかといえば、彼は折茂のあまりの剣幕にたじろぎ、僕を庇うこともできず、ただ黙って事態を静観していた。一応、彼も折茂に反省文を提出していたのだが、それには、己の指導力不足を反省する旨に加えて、罰として一週間前後の謹慎を申し出る旨が書かれてあった。

 これは、単に塩村が休んでパチンコに行きたかっただけと考える。そもそも今回のミス自体、謹慎云々の騒ぎにするほど大げさなものではないし、そんなことで一週間も休まれたら、残された隊員の方が困ってしまう。今回の騒動に乗じて休みをゲットしようという魂胆に違いなく、僕は塩村のそういうチャッカリさは嫌いではない。もともと、僕のミスに関して、彼には何一つ責任などないのだから。

「今日は掃除も布団敷きも、俺がやっとくからな。お前は休んでいればいいから」

 塩村の言葉に甘えて、僕はデスクに座って休むことにした。タバコを吸う気力も起きず、ただ下を向いてぼーっとしていると、突然、巡回に出ていたはずの折茂がずかずか歩いてやってきて、僕の顔を覗き込んできた。身体がビクリと反応する。

「俺はお前を諦めないからな」

 一言だけ言い残し、折茂はまた巡回へと出ていった。折茂の持つ異常な自己愛と、僕への執着については散々書いたが、これはまあ変な意味ではなしに、僕が仕事が出来るようになるまで諦めない、という意味にとっていいだろう。

 この後は、塩村が日常の会話を振ってくれたりなどして、仮眠休憩に入る頃には、だいぶ僕の心は持ち直してきた。こういうとき、第三者の人には、変に励ましの言葉などかけられるよりも、普段通りに接してくれる方がありがたい。

 かといって、何事もなかったことになって、事件が風化してしまっても、それはそれで困る。折茂の先ほどの態度は明らかに異常であり、僕としては、ここで塩村には何とか力になってほしいところだった。

 塩村はその期待に応え、この後、僕と折茂との仲を取り持とうと色々尽力してくれるようにはなった。方法も別に、そんなに間違いではないというか、いかにも塩村らしいやり方だったのだが・・・結果はおかしな方向へと進み、新たな苦痛が始まるきっかけとなってしまう。まだ、先の話だが。

 仮眠休憩が明けると、僕は西館へと出発し、受付業務を開始した。折茂から離れ、一人で仕事が出来る喜び。何も忙しいこともなく、のんびりと過ごす中で、心は平常同様にまで落ち着き、勤務明けに向かう風俗のHPを検索し、心と身体を慰めてもらう嬢に誰を指名するかを吟味する余裕まで生まれていた。

 そこに突然、塩村がやってきた。競馬の開催日には、B番は西館の巡回がなく、朝の巡回は、八時から八時二十分までの事務館開放巡回のみとなるため、かなり余裕が生じる。その暇な時間を利用して、折茂が塩村を西館に寄越したのだろう。折茂なりに、さっきは言い過ぎたと反省して、フォローが必要だと考えたのだ。人として最低限の良心はあるといえる。

「おう、気分は落ち着いたか」

「ええ、まあ・・・」

 いつも通りの調子で声をかけると、塩村はしばし躊躇った後、何か意を決したように突然顔を引き締め、僕の方を向いた。

「津島。俺たちはお前を大事な仕事の仲間だと思っている。お前が友達が欲しいというなら、友達にもなってやる。お前の居場所はここだからな」

 いつも自然体の塩村が、珍しく、塩村が芝居がかったような言葉をかけてきたのである。

 後になってわかったのだが、これは折茂が塩村の口を通じて僕に伝えた思いである。ポイントは、「友達が欲しいなら友達になってやる」というくだりだ。

 以前にも書いたが、塩村のスタンスは、「僕と友達になりたい」である。僕と同じ目線に立ってくれて、自分の方から歩み寄ってくれる形であり、だから僕はすんなり受け入れられたのである。

 翻って、先ほどの言葉。こんな上から目線の、恩着せがましい態度は、いかにも折茂特有のものだ。こんな言われ方をされれば、プライドだけは超一流の僕は、逆に臍を曲げてしまうのである。


 自分自身はプライドの塊なのに、他人にもプライドがあるということは理解できない――。それが折茂という人だった。

 ちなみに、後になってわかったというのは、折茂本人が暴露したのである。このときは、単なる気紛れか、怖がられている自分よりも、僕がよく懐いている塩村の口から言わせた方がいいと思ったようだが、後になって、やはり「手柄」を塩村にとられるのが惜しくなったのだ。

 折茂は器が小さな人間である。器が小さいことは、男として何も恥ずべきことではない。ましてや折茂の場合、まだ二十代半ばといった若さなのだから、変に完成されている方がおかしい。ようは、自分の器が小さいことを理解し、虚勢や見栄をはらずに生きていけばいいのである。

 折茂はそれが出来なかった。自分の小さな器を、必死で大きく見せようとしていた。

 折茂は僕に、自分を常に賞賛していること、「信者」となることを求めてきた。本当に自分に自信がある人なら、いちいち他人からの評価を気にしたりしない。実は自分に自信がないから、ハッキリとした言葉で、己の凄さを証明してくれる人を欲していたのである。

 あまりにバカバカしい話だが、当時の僕はまだ初々しい青年であり、なんとこの「脚本折茂、役者塩村」の言葉に対し、感動の涙を流してしまうような純粋さを持っていた。本当に嬉しかったのである。それは先ほど精神崩壊まで追い詰められたことからの、反動にすぎないものであったことに、当時の僕は気づいていなかった。

 アメとムチの使い分け。折茂が、僕を自分の信者にする計画が、着々と進行していくのである。

  ☆        ☆       ☆        

 伝説の「大激怒・大説教特大二時間SP」事件以後も、折茂の厳しい態度は変わらず続いた。「大激怒、大説教特大二時間SP」事件の直後は、気休めのフォローを入れた折茂だったが、それが過ぎると、また理不尽なプレッシャーを僕に与え始めたのである。

 雨降って地固まる、とはならなかった。嵐のあとには暖かな陽気が降り注ぐと信じていた僕の期待は、まさに一夜にして裏切られた形となった。

 同時に目立つようになってきたのが、折茂と、日勤隊、港との急接近であった。

 夜勤隊と日勤隊は、十九時~二十時の立哨、受付、手荷物検査の時間帯は協力して勤務にあたっており、また両隊員とも、現場に到着する上番時刻は勤務開始の三十分前と決まっているため、意外に絡む時間は多いといえる。

 その時間に、折茂と港が話している光景をよく見かけるようになったのだ。

「港さ~ん、何ですかその恰好~。これからキャバ巡りですか~?」

「ははは、まあ、週末ですからね」
「とかいいつつ、今週の頭にも遊んでたみたいじゃないですか。これから俺、港さんのこと夜の帝王って呼んじゃいますからね」

 折茂は僕といるときには見せたことのない笑顔で、港と楽しそうに話すのである。ただ仲良くしているだけというのなら僕には関係ない話であって、どうでもいい。誰にでも愛想がよく(それが行き過ぎて、八方美人と思えるところもあるが)、爽やかなお兄さんキャラの港には、僕も好感を抱いている。僕が気になったのは、折茂が港に、夜勤隊の業務と決まっていた、駐車場対応を教えていたことである。

 駐車場の入出庫対応――。伊勢佐木屋の営業時間は、朝の十時から十九時と決まっているが、客用駐車場は、二十四時間稼働している。ゲートの開閉、料金の精算は磁気読み取り式の入場券によって行われているのだが、機械が古いせいか、これがよく反応しないことがあった。その場合は手動によりゲートを操作することで対応するのだが、日中に駐車場対応に当たっている嘱託の社員はいつも定時で退勤してしまうため、夜間は伊勢佐木屋警備隊がこの業務を引き継ぐことになる。

 完全に警備とはかけ離れた、いわゆる付帯業務なのだが、南洋警備保障の前任の警備会社が伊勢佐木屋の警備に当たっていた頃からの風習のため、我が伊勢佐木屋警備隊も、これをやらざるをえなくなっていた。

 僕も二名体制になったころから、先輩隊員がやるのを見て覚えながら、この業務をやるようになったのだが、どうも上手くできない。巡回や鍵の受け渡しなど、ある程度やる時間が決まっており、十分に心の準備ができる仕事ならどうにかなるのだが、こうした、日によってあったりなかったりの仕事になると、突発的な事態への対応力に乏しい僕の脳は極度に慌ててしまい、覚えたはずのこともできなくなってしまうのである。

「何度も教えてるだろ!たるんでるんじゃないのか!」

 失敗して折茂に怒鳴られるわけだが、そもそもこれは警備業務とは関係ない仕事であり、出来なかったからといって厳しく叱責されるのは納得できない。しかし、何度も繰り返し雷を落とされれば、若かった僕は段々と負い目を感じ、自分を責め始めてしまう。そんなときに、折茂が港にこの駐車場対応を教えている場面を見てしまったのである。どうにもたまらなくなり、ある日ついに、塩村に相談するに至った。

「折茂さんは、ひょっとして僕を夜勤隊から追い出そうとしているんでしょうか・・・」

 そして、港を新しく夜勤隊に入れようと考えているのではないか、と思ったのである。折茂に人事の権限はないから、正確にいえば、会社ぐるみで僕を追い出す準備を進めているのではないか、と勘繰ったわけである。

 そんな回りくどいことをするくらいなら、直接言って来いよと思う。無能の烙印を押されることは悔しいが、こっちだって、プライドを傷つけられて、それでも頭を下げてまで働くつもりはない。それでなくても、これ以上折茂と一緒にいるのは限界とは思っていたから、辞めろと言われれば辞める準備はできていたのである。このままネチネチと嫌がらせを続けられるくらいなら、こっちから辞めるといってやるか。しょうがないかな、と、諦めかけていた。そんなときだった。

「お前とは、腹を割って話をしなければいけないと思っている」

 塩村に相談をしてから、しばらくが経ったある日の勤務――。仮眠休憩から明けたとき、デスクで難しい顔をしていた折茂が、真剣な面持ちでそう言ってきた。

「塩村さんから聞いたぞ。俺が駐車場対応のやり方を港さんに教えていたのを気にしてるんだろ?」

 僕が席に着くと、折茂が穏やかな調子で話を切り出した。

「お前に言ってなかった俺が悪かったが・・。駐車場対応は、夜勤と日勤、両方できるようにするって決まりに変わったんだよ。だから、俺が港さんに教えていたのは、お前が心配するような意味じゃないんだ」

 真実を知った僕は安堵する。これでひとまず、警備隊を追われる不安はなくなったわけである


「それよりも・・・そういう光景を見たとき、お前が俺に追い出されるのかと心配してしまうというのが、俺はショックだった。俺がそれほどお前に信頼されていなかったというのを、初めて知った」

「あ、いえ・・・」

「いいよ、お前を責めてるんじゃない。悪いのは俺だ」

 皮肉で言っている感じはしなかった。純粋に、今までの行き過ぎた指導を反省しているふうである。

「俺はお前を貴重な戦力だと思ってるし、大事な仲間だと思っている。前の阿川が抜けてみんな休みも取れなくなったとき、お前が来てくれて随分助かったしな・・。だから、俺からお前を追い出すなんてことはしない。逆に、もし俺がいることでお前がやりにくいなら、そのときは俺が辞める」

 まっすぐ僕の目を見据えて、折茂がそう言い切った。「一度吐いた言葉は飲まない」と日頃公言する折茂が、ここまで言い切ったのである。

 すべての不安が取り除かれたわけではない。だが、これで僕の心にも、折茂に対する信頼の気持ちが生まれた。色々と厄介な相手であるには違いないが、僕のことを悪意をもって見ているというわけではないと思えるようにはなった。

 翌日の勤務のことである。ペアを組んでいた塩村が、唐突に、来月・・五月度のシフトの話を切り出してきた。

「津島。お前の、来月のシフトのことだが・・・。来月は自分から、折茂とメインでペアを組ませてくださいとお願いしたらいいんじゃないか」

「え?」

「せっかく、折茂とのわだかまりが解けたんだろ?このタイミングで自分から歩み寄っていけば、今後ずっとうまくやっていけると思うぜ」

「そ、そうですね・・そうします」

 そして実際に、次回折茂と組んだときの勤務で、折茂に件の旨を申し出てみると・・。

「そうか。お前が本当は誰に憧れていたのか、ようやく素直に言う気になったんだな」

「え?え?」

 断じて、そんなつもりで言ったわけではない。なぜにそんな話にすり替わるのか、まったくわけがわからなかった。

「お前は、実は最初から俺に憧れていた。ずっと俺だけを見ていた。でも、本当のことを言うのは恥ずかしかった。だから塩村さんに憧れているといって誤魔化していた。だけど、この前の俺の言葉を聞いて、ようやく素直に自分の気持ちを打ち明けようと思ったんだろ?」 

 すべては、折茂の策略通りであった。「腹を割って話をする」などと切り出してきたときから、折茂の作戦は始まっていた。今までイジメていた僕に、突然優しい言葉をかけてきた狙いは、折茂が塩村から、「津島くんの憧れの人」の座を奪い取ることにあったのである。

 運動部の体罰教師がよく使う手法だが、普段異常なまでに厳しくされ、理不尽なプレッシャーをかけられ続けていると、ちょっと優しくされただけで、その人を神様のように思い、感謝してしまうことがある。反対に、いつも穏やかな人が急に怒り出すと、いつも怒っている人よりも怖く感じることもあるが、ようするにギャップの効果である。

 ギャップなどと言ってしまうと大したことではないようだが、折茂(体罰教師)のやっていることは悪質だ。人の幸福のハードルを理不尽に下げたうえで、ちょっと優しくして感謝させる・・などというやり方は、人を心服させたとは言わない。それは洗脳というのである。手間もいらない、コストもいらない。何一つ魅力もない人間が、もっとも手っ取り早く「カリスマ」になれる手法がこれである。

 自己愛に枯渇する折茂は、身も心も己に心酔し、己を崇めてくれる「信者」を求めていた。あの二名体制への変更時、折茂が、「職場の中で憧れの人はだれか?」などと僕に尋ねてきた時点から、折茂はずっと、僕を「信者」にしようと狙っていたのである。この時点では、まだ僕も自分の考えを突拍子もないものだと思っていたが、これ以後の折茂の言動、行動を考えると、彼の目的はそれであったとしか考えられない。

 怒鳴り散らし、プレッシャーをかけ続けて・・・限界一歩手前まで来たところで、ちょっと優しくする。この揺さぶりの繰り返しで、僕を「洗脳」しようとする折茂。まだ若く無垢であった二十歳当時の僕は、段々に、折茂の術中に嵌っていってしまう。 
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折茂の急変ぶりはさすがに焦りますね。
何処の職場に行っても私の経験上やな奴は必ずいますね。
最初からやな奴もいますが、最初はいい人だと思っていた奴が凄くやな奴と言うパターンもありますね。それと自分のミスにあまくひとのミスを細かくチェックして少しでもミスしたらやたらうるさい奴もむかつきますね。
阿川への暴力行為は完全に傷害罪ですね。阿川が訴えれば折茂は会社を解雇はもちろん刑事責任を問われる可能性もありますね。
お前は誰を目標にすると聞かれた時私ならたとえ折茂さんですと答えて欲しいのがミエミエだとしても折茂さんですと答えると思います。
私もプライドは高いですが、仕事の時は割り切ってバカになってます。底辺労働者になんて思われようといいし別に親しくなりたいとも思わないから…
折茂はアメとムチを使い分けて洗脳しようとしているのでしょうか?
そこまで頭がいいとは思えませんが…
塩村が良い人そうなのがせめての救いですね。

No title

まっちゃんさん

 私小説ということで書いていますが、当時の「僕」と今の「私」はまったくの別人であると思いますね。折茂のようなヤツに好き放題されたのは自分がいけないとは思いませんが、「僕」がなめられやすい人間であったのは事実です。

>>底辺労働者になんて思われようといいし別に親しくなりたいとも思わないから…

 この割り切りが大事ですよね。底辺の仕事なんて出来るようになりたいとも思わないし、頑張ったところでいいことがあるわけでもないんだから、頑張りたい奴に頑張らしとけばいいという話です。頑張ろうが頑張るまいが給料変わんないんだから、サボったもん勝ちですよ。

 読んでもらえればわかる通り折茂はただのバカでなんで、100%計算づくで洗脳しようとしていたわけではないでしょうね。頭のどこかにそういう考えがあった可能性はありますが。

とうとう魔物が動き出しましたね(>_<)

深夜のスーパーダッシュは、ゴミ箱が倒れていて察しがついた辺りで吹き出して笑っちゃいそうですが、ピリピリした空気では笑っていられませんよね💦
架空の侵入者を追うとか、小学生みたいで呆れます(笑)

塩村さんに促されて“折茂さんとペア”を申し出たシーンの「お前は最初から俺に憧れてた~」の辺り、勘違い野郎の愛の告白を聞いてるみたいで、うわぁぁぁ(((^^;)ってなります。うえぇぇぇ、かも(笑)
津島さんに憧れて欲しくてたまらないって感じが、イヤと言うほど文章から伝わってきます(((^^;)
また、津島さんのだんだんと壊れていく様子が、恐ろしくて切ないー(>_<)



No title

ひなさん

 深夜のスーパーダッシュは今思いだすと笑えます。こういう下手くそな芝居を羞恥心なくやってのけられるのは詐欺師の才能があるともいえますが、所詮性格が直情型ですから、「クロサギ」になることは無理だったでしょうね。

 折茂はまさに勘違い野郎です。ヤツの何がムカつくかって終始上から目線で、寂しくて孤独で何もない私がスーパーマンで人格者の折茂様に憧れてるって形にしようとしてるところなんですよね。寂しくて孤独で何もないのは折茂の方であり、そんな悲しい俺と一緒にいてくれ、というスタンスだったら、私のリアクションも違っただろうし、あとになって悪く言うこともなかったと思います。

No title

折茂についての悩みを他の人達に相談しても結局は折茂の耳に入ってしまうのは厄介ですね。
これでは誰にも打ち明けることなどできないですね。
折茂は周りの人から誰がこう言っていたとかを聞いておかないと気が済まないのでしょうね。
初めて働く職場で折茂のような人物がいたら完全に洗脳されるでしょうね。
折茂が皆から好印象を持たれているというのも罠ですよね。
疑うことなく折茂信者になってしまうかもしれません。
折茂が二十代半ばというのが驚きです。
イメージとしては中年オヤジの印象が強いですね。
オウムのように完全な信者になってしまうと折茂から離れられなくなりそうで怖いですね。

No title

seaskyさん

>初めて働く職場で折茂のような人物がいたら完全に洗脳されるでしょうね

 これは非常に重要なテーマで、初めて働いた職場がブラックだったため、自分のいる環境がおかしいのだと気づけずにいつまでも働き続けてしまうという若者は大勢います。探せばまともな企業もあるかもしれないのに、社会に出るのが恐ろしくなってしまって、ニート・ひきこもりになるケースもあります。

 だからブラック企業、あるいはブラック人材というのは本当に罪深い存在で、総力をあげて潰さないといけないと思いますね・・。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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