犯罪者名鑑 麻原彰晃 12

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 宗教法人認可へ動く

 
 オウムの会設立から二年経った1986年、麻原は会の名称を「オウム神仙の会」と改め、いよいよ宗教色を前面に押し出していきます。同時に麻原は、宗教法人認可のための努力を始めました。

 「坊主丸儲け」という言葉が表すように、宗教法人はあらゆる課税を免れる特権です。オウムでいえば弁当屋さんやパソコンショップなど、営利目的の行為については通常と同じ所得税などが課せられるのですが、お布施など宗教的行為によって得た利益には贈与税などかかりませんし、サティアンなど巨大な施設を作っても固定資産税の対象にはなりません。宗教団体にとってはまさに「百利あって一害なし」の特権であり、オウムが解散するまで、教団が宗教法人の認可により節税できた総額は数億円を上回ったでしょう。

 宗教法人認可のため麻原が行ったのは、教祖としての自分に箔をつけることでした。具体的には、海外の有名な僧侶に、自分の修行者としてのレベルを認めてもらうということです。

 麻原は団体の名称を変更してから、仏教生誕の地インド、そしてチベット密教発祥の地ヒマラヤを立て続けに訪問しました。当時日本のテレビでも紹介された有名な修行者であるパイロット・ババやカントゥルー・リンポチェ、さらには法王ダライ・ラマに謁見し、その様子を写真や映像に収め、宣伝に用いるためです。

 ここからが麻原のペテンの見せ所でした。麻原はパイロット・ババに会ったときのことを、「今までにないクンダリニーの覚醒を実感し、最終解脱寸前にまで行った」「あなたは釈迦牟尼タイプの修行者だと言われた」などと大げさに語っているのですが、実際に居合わせた会員によると「手相を見てもらい、強運を持っていると言われただけ」とのことで、まったくの大嘘であったようです。またダライ・ラマに謁見した際には、誰にでもかけるような世辞を大げさに喧伝し、あたかも自分が修行者として認められたかのように装います。

 オウム神仙の会の会員は麻原のペテンを真に受けてしまったようですが、実際にはチベットの高僧たちは、麻原の修行者としての在り方を危ぶんでいました。仏教とは本来、驕りをなくし、謙虚であることを美徳とする宗教なのですが、麻原の場合は、修行を始めてたかだか10年にも満たないにもかかわらず、「私は釈迦牟尼の次の段階にいる」と公言して憚らないなど、聖者にあるまじき発言が目立ちました。高僧たちは、麻原が道を誤らないよう、ダライ・ラマと二人きりで瞑想するなど勧めたのですが、麻原はその高僧たちの想いを知ってか知らずか、「私はダライ・ラマと同レベルと認められたのだ」と、事実に反することを信徒たちに言っていたようです。

 そしてダライ・ラマやカール・リンポチェに推薦状を書いてもらおうとするのですが、ここでも麻原は、純粋な心を持つ僧侶たちに、彼らの読めない日本語の書類をみせ、うまいことを言ってサインをもらいます。ダライ・ラマが書いた言葉は、「麻原彰晃は日本の修行者で、仏教の布教に尽力しています」といった程度のあたりさわりのない内容で、とても修行者として高いレベルにあると認められるようなものではありませんでしたが、それでも推薦状として書かれた以上は、それなりの効力を持ちます。オウムの宗教法人としての認可が降りるのは、坂本弁護士一家が殺害された1989年まで待たなくてはならなかったのですが、それまでに麻原は、このとき手にいれた推薦状や聖者たちと映った写真を存分に活用していきました。


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 最終解脱を果たす


 宗教法人認可の運動と並行して、麻原は自己神格化を進めていきます。

 1986年当時では、まだ教団としての形は整っていなかったオウムですが、時期を経て信徒の数が増えるにつれ、ヒンドゥーのカースト制度のような格差が出来あがっていきます。もっとも決定的なのは、出家修行者と在家修行者の違いでした。出家修行者とは、教団に財産をすべて捧げ、仕事や家族など俗世間との交わりを一切断って、教団の施設の中で生活をする信徒のことで、在家は仕事や家族とのつながりを維持しながら修行する信徒のことです。オウムの中では出家修行者の方が上とされ、幹部の証である師のステージに上るためには、出家が大前提でした。

 ここまで読んで、妙な点に気づかれる方もいらっしゃると思います。俗世間との交わりをすべて断つのが出家であるなら、どうして麻原には妻子がいるのか?と。そう、麻原は出家>在家という構図を作っておきながら、教祖として君臨する自らは在家の修行者を通していたのです。

 麻原はなぜ出家しなかったのか。これに関しては、麻原がともに苦労した妻、知子と、その間に生まれた子供のことを大事にしていたということで、麻原の心に「善」「愛」があったことのエピソードともいえますが、とはいえ、教団のトップとして君臨するからには、この「捻じれ」の構造は何とかしなければなりません。麻原が在家の立場を維持したまま、出家修行者を従える方法として考え出したのが「最終解脱」でした。当時はまだ、オウムは組織としての構造が固まってはいませんでしたが、麻原にはいずれ来る「捻じれ」が予見できており、最終解脱は間違いなくそのための対策であったと、私は考えます。

 最終解脱とはどういうことか?とは、説明できる人はこの世に誰もいません。何しろ、それを果たしたという麻原すら、満足に人に説明できかったのですから。麻原はヒマラヤの山中で最終解脱を果たしたと宣言したとき、信徒にその状態はいかなるものかと尋ねられた際、口ごもってしまい、苦し紛れに、傍らに侍る石井久子に「私は最終解脱したんだよな?」などと同意を求めてしまいます。さらに滑稽なことには、最終解脱を果たしたというその数週間後に、なぜか「解脱できない。どうしたらいいんだ」などと悩みだしたかと思えば、教団施設の階段を上った直後に、「今私は最終解脱しました」などと臆面もなく口走るなど、支離滅裂な言動をとるようになっていきます。

 このあたり、麻原の心には焦りがあり、自分でもわけがわからなくなっていたのでしょうか。弁舌の達人で、適当な言葉を並べて人をだまくらかすことにかけては右に出る者はいない麻原にしてはあるまじき失敗で、綿密さに欠けていました。それとも、麻原が自分が人からどう見えているかということに頓着しない「純粋なる修行者」としての一面を発揮していたということなのでしょうか。

 ただ一つ言えるのは、麻原は強運だったということです。「破壊神シヴァに選ばれた」といってもいいかもしれません。普通なら、皆に幻滅されてもおかしくない態度を見せていながら、このとき脱会した信徒はごく僅かにとどまりました。そして、「最終解脱」の言葉はやがて独り歩きを始め、麻原の存在を神聖なものとして高めていったのです。

 第二章 完
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No title

オウムの出家信者の生活は相当なものだったでしょうね。
全ての財産を教団に寄付してしまうわけですからもう施設にいることしかできないような状態ですよね。
しかも過酷な修行をしながらですから気がおかしくなると思います。
食事は1日1回で16時間の修行をし睡眠も3時間程度だったといいます。
これで脱走しようとすればリンチもあるわけですからね。
出家したら逃げられない恐ろしい場所ですね。

あの体型で最終解脱者はないよな、と私は常々思っていました。

尊師の言動には本当にツッコミどころが多いですね。


最近、テレビで尊師の肉声が流れていました。


説法の大事なところで噛んだり、おかしな日本語を平気で使っていました。

No title

>>seaskyさん

 出家後はむしろワークずくめで修行できる時間はほとんどなかったと語る信徒もいますけどね。私も麻原の立場なら、せっかく手に入れた労働力を生産性のない修行などに従事させるのはもったいないと考えます。最高幹部らは麻原同様に贅沢をしていましたが、末端のサマナは粗衣粗食を実践しており、お風呂にもろくに入らなかったようです。水道代の節約とか麻原の趣味というよりは、修行によって得たエネルギーが洗い流されるのを恐れてのことでしょうが。

 脱走も許されないほど殺伐としてきたのは最末期のころですね。90年ごろまではまだ去る者追わずの空気で、幹部クラスにも普通に脱会者はいました。あと、土屋正実のように家族の手によって奪還されるケースもありました。ただマインドコントロールを解くのは容易な作業ではなかったようです。

>>L,wさん

 プロ野球のONに対する評価で、「王は絶対に崩れない打撃フォームを追求し、長嶋は崩れても打てる打撃フォームを追求した」というものがありますが、真っ当な宗教を王のフォームにたとえ、オウムを長嶋のフォームに例えると、オウムはすべてがデタラメだらけで構築されているからこそ、麻原がどれだけボロを出してもそれが致命傷にならず、信徒が離れなかったということかもしれません。ボロボロでガバガバなデタラメをそれなりに筋が通っているように見せる麻原の論理構築力と説得力が優れているということでしょう。

プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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