犯罪者名鑑 麻原彰晃 1

 第一章  狂気の萌芽~松本智津夫、その生い立ちについて


熊本県


 
 貧困家庭に生まれる 
 
 1955年3月2日。後に日本犯罪史上最大の事件、世界でも類を見ない宗教テロを引き起こす宗教団体の教祖となる男、麻原彰晃は、熊本県八代市に生を受けました。当時の名を松本智津夫といいます。

 畳作りを生業としていた松本家では、智津夫のほかに8人の兄弟を抱えていました。兄弟には視力に障害を抱えた人が多く、智津夫本人も先天性緑内障の影響から左目がほぼ全盲、右目も成長につれて見えなくなるということが早くから言われていました。そこで両親は、智津夫が小学一年生のとき、寄宿制の熊本県立盲学校に転校させることを決断します。

 このとき、幼い智津夫は随分と愚図ったようです。それも無理はありません。すでに盲学校に入っていた12歳年長の長兄は幼いころから全盲でしたが、智津夫は右目に関しては視力に問題はなかったのですから。早熟な智津夫は、兄や姉たちから読み書き計算を教わるとたちまち覚え、一年生の学習過程については入学前すでに粗方習得しているといった優秀な子供でしたから、自分が障害者の学校に行く理由など考えもよらなかったはずです。智津夫の家には、お金がないという割りに当時まだ珍しかったテレビが置いてあり、「8マン」などを熱心に観ていたといいますから、貧しいなりにも智津夫はそれなりに満足して生活していたようで、突然親兄弟から離され、見も知らない環境に行くには不安しかなかったでしょう。

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 両親への憎悪 


 智津夫本人には普通学校で学びたい希望がありましたが、洋風建築の増加から畳が売れず、生活が困窮していた松本家では、口減らしという事情からも、智津夫を手放さなければなりませんでした。このことについて智津夫は、のちに成長して麻原彰晃を名乗ってから、

「私は両親に金と引き換えに捨てられたんです」

 と、恨みの念を語っています。

 両親については、麻原彰晃は他にもこんな話しをしています。

「子供のころ私は、男の子と遊ぶといつも喧嘩になってしまうから、女の子とよく遊んでいたんです。お医者さんごっこをやって、女の子の性器に砂を詰めたりして評判を落としましてね。あるとき蛍を沢山捕まえてきて、ウンコに頭のところを突き刺しておいて、おーい、蛍がいっぱいいるぞと、女の子を呼んできたことがありました。その子はお尻のところがきれいに光っている沢山の蛍をみて、わっと掴みよった。手は糞まみれになりましたよ。その子が泣いて帰って、親を連れてきたんです。親父はその子とその子の親のいる前で、私をぶん殴りましたよ。人前で殴られたことが、悔しくてたまりませんでした。おふくろは恥ずかしくてもう表を歩けん、と叫びまわるし、親父は親父で、こいつ捨ててしまおうか、いや捨てるわけにはいかないからどっかに預けようか、と怒鳴っていました」

 ちょっと笑ってしまうようなエピソードですが、とうの本人はいたって真剣な面持ちで、涙まで流していたそうです。幼い子供のころとはいえ、自分のやったことは完全に棚に上げ、ただ両親から受けた制裁があまりに辛かったことを嘆くだけという自己中心性の強さと、年齢にしては発達した悪知恵がうかがえます。女の子に性的なイタズラをしたとのことですが、後に百人を超える女性信徒との関係が疑われた麻原彰晃の性欲は、六歳にしてすでに激しく滾っていたのでしょうか。

 智津夫の両親は、智津夫の盲学校での十三年間の在学中、一度も智津夫を訪ねず、衣服や食料を送ってくることもなかったばかりか、国から補助される就学奨励金の着服も目論んでいたフシもあり、両親については智津夫の一方的な逆恨みともいえないところがあります。いずれにしろ、この両親に対しての屈折した感情が、幼い智津夫少年の人格形成に暗い陰を落としたことは想像に難くありません。

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 熊本県立盲学校に入学



 本人の予想通り、盲学校での生活は智津夫にとって不本意なものでした。視覚による情報を得られない児童を教えることを前提とした盲学校のカリキュラムは、授業にしろ日常生活にしろ、当時まだ右目の視力は健常であった智津夫にとってはあまりにペースが遅く感じられました。次第に真面目に取り組むこともバカバカしくなり、智津夫の授業態度、生活態度は不真面目になっていきます。

 盲学校の生徒は、必ずしも視覚に障害を負った子供たちだけではありませんでした。当時、智津夫が所属していた学級では、智津夫たちよりもずっと年上の、14,5歳の少年が一緒に授業を受けていました。彼は兄と妹がタブーを犯したことからできた子供で、施設に捨てられてずっと放置されていたのを、盲学校の校長が引き取って、一から教育を施していたそうです。彼は14,5歳の年齢でありながら、「梨の木」「盗人犬」の二つの単語だけしか喋れず、「食事の際にわずかに上半身を揺らす」ことしかコミュニケーションを取る術を知らなかったそうです。これは例外と考えても、盲学校の環境が、それまで普通学校で学んでいた智津夫にとって、いかに「異次元」のようなものであったかはよくわかります。

 盲学校の環境は、健常者の世界の中でも優秀と自負していた智津夫少年にとっては、とても自分に相応しいと思えるものではありませんでした。自分は本当はここにいるべきではない、自分はもっと高度な教育を受けるべき人間である――。心の奥で鬱屈した感情を燻らせる智津夫少年は、引き裂かれた自尊心を満たすため、やがて極端な自己肥大を図るようになっていきます。

 光ある世界に戻れぬのならば、闇の帝王となるしかない――。

 周りを見渡せば、自分以外皆目が見えないという環境下で、ただ一人目が見える智津夫は、そのアドバンテージを、人を助け、守り、導くことではなく、人を見下し、捻じ伏せ、従える目的に使うようになっていくのです。
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メロンは必ずお出しするように

あけましておめでとうございます。

さて約20年前のこの事件
当時よく話題になっていたが
バイトと就活で忙しく当時の報道はほとんど見ていなかった
ただタイトルに書いた言葉はなぜか知っていたし印象に残った
というのは自分がメロンが食べられないからだ
アレルギーでなくただ嫌いな味だから
自分以外の家族はメロンが好きで
メロンを食べている横でこれを言った
もちろん家の外では言わなかった
メロンが嫌いな人間は少数派なことをこの時にはわかっていた

No title

>>MSKSさん

 あけましておめでとうございます。

 私はオウム事件当時は小学校低学年でした。小難しい話は一切わかりませんでしたが、教祖のあの風貌と、オウムソングのメロディは強烈に印象に残っていますね。当時は鍵盤ハーモニカやリコーダーで尊師マーチなど演奏するのが流行ったものです。
 史上有名な政治家を振り返ってみてますと、単にイケメンとかよりも、とにかくインパクトの強い、一度見たら忘れられないような風貌をしているのが特徴のように思います。プロパガンダの方法や組織作りの面も含めて、オウムの大衆に訴える手法は理に適ってるんですよね。オウムが政治集団としてはともかく営利集団としてはそれなりに機能していたのはそれなりの理由があります。
 俗物しての尊師を理解するのにメロンは欠かせない果物ですね・・。

感想を書くべく再読なう(死語)

>メロンは必ず~
これで検索すると出てくる尊師接待マニュアルを再現したものを読む限りどんだけリンゴ好きなんだと思わずにはいられなかったw好物というより宗教的な理由だろうけど
あ、私もメロンはそれほど好きじゃないです

No title

>>OKBさん

オウムの出家修行者は本当は粗食しか許されていなかったはずなんだけど、ステージが高い信徒は贅沢をしてもいい(それぐらいじゃ修行は遅れないから)というルールがありました。100%自分に都合のいいルールを作り上げ、下々にもそれを納得させてしまう麻原の剛腕は凄いの一言です。

ここまで詳しい生い立ちを知ることができるのはこのblogだけです。
私もオウム事件を知りたくてネットや本を探してはいますが、なかなかよい資料に出会えません。
松本知子についても詳しく知りたいのですがご存じですか?

No title

まんじゅうさん

 近々一度更新して見ます。更新速度はコメントの数で決めます。コメント数が少ないと、今回みたいに長期放置ということになってしまいますね・・。あと他の犯罪者名鑑の方にもある程度コメント入らないと、犯罪者名鑑全体のやる気が落ちてきます。ヤソーダラーさんに関しては、これから麻原との痴話げんかなど書いていきます。

 あと、HNはできれば統一してください。コメントは数ではなく人数でカウントしていますので・・・。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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