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犯罪者名鑑 市橋達也 5

福田和子


 福田和子

 後半に入る前に、市橋以外に世間で大きな話題となった逃亡犯の紹介していきます。

 福田和子は1948年に愛媛県松山市で出生。高校中退後、タイル工の男と同棲を始めますが、そこで悪の道に染まり、18歳のときに国税庁宅に強盗に入って逮捕されます。

 福田が収監された松山刑務所では、地元のヤクザが刑務官を買収して様々な不正行為を働いていました。所内を自由に出歩く、飲酒、喫煙、賭博、果ては女子受刑者へのレイプまで行われており、うら若き福田もその被害者でした。

 この松山刑務所事件は国会でも取り上げられ問題となりましたが、当局は福田ら被害者に圧力をかけて告訴を取り下げさせるなどして事件のもみ消しを図りました。責任者の自殺もあって有耶無耶となり、結局、公訴時効によって事件そのものがなかったことにされました。

 出所した福田はホステスとして働き、鉄工所経営者と結婚して4人の子供をもうけますが、見栄っ張りな性格が災いして金に困るようになり、同僚のホステスに借金を申し込みます。人気ホステスに対する嫉妬もあったのか、借金の申し込みを断った同僚を殺害した福田は、あろうことか家財道具一式を盗み出してから、夫とともに山で遺体を処理しました。

 しかし、目撃情報から福田の犯行はすぐに発覚。警察に捕まる直前、福田は60万ほどの資金を手に逃走しました。福田の夫は自首を勧めていましたが、松山刑務所でのことがトラウマとなっていた福田はそれを断固として拒否し、逃亡生活を送ることを選びました(夫は死体遺棄罪で逮捕)。

 逃亡先に石川県の金沢を選んだ福田はそこでもホステスとして働き、和菓子店経営者の客と懇意になると、内妻として店の厄介となることに成功します。

 逃亡中に美容整形を繰り返していた割には、それほど美人とはいえない福田でしたが、濃厚な「房中術」でも持っていたのか、店主と福田の間は仲睦まじかったようです。福田も店のために甲斐甲斐しく働き、商品にもアイデアを出すなどして老舗をの和菓子店を繁盛させます。

 二年ほどそんな暮らしが続き、気持ちにはゆとりが出てきましたが、募ってきたのは自分の実の子への思いでした。犯罪者とはいえ福田も人の親。特に、長男に対する溺愛ぶりは半端ではなかった福田は、大胆にも愛媛に帰って長男と会い、そのまま金沢に連れ帰り、甥だと偽って和菓子店の従業員にしてしまいます。

 福田は和菓子店に溶け込んでいるようでしたが、福田がいつまでも店主と籍を入れないこと、甥ということになっていた福田の息子の免許証に記されていた住所が松山市となっていたことから、徐々に疑いの目を向けられるようになり、通報される直前に逃亡しました。

 その後の福田は8年間、同じ場所に3か月以上とどまらないようにしながら全国を転々としました。20以上もの偽名を使い分け、ラブホテル清掃員、葬儀屋の手伝いなどをしながら収入を得ていたようですが、生活は困窮を極めていたようです。

 当時の殺人の時効である15年が近づくと、テレビで福田の報道が増えていきました。当時、福井県に潜伏していた福田は何を思ったのか、行きつけのおでん屋で「私、福田和子に似ているでしょ」と漏らし、まさかと思った店主が通報。ビール瓶に残されていた指紋が証拠となり逮捕、福田の逃亡生活は終わりを告げました。
 
 取り調べにおいて、福田は共犯者にでっち上げた死亡済みの男に罪を擦り付けようとしますが、警察は執念の捜査で共犯者のアリバイを証明し、福田の容疑は確定。裁判で無期懲役の判決を受けた福田は、刑務作業中にくも膜下出血により息を引き取りました。

 逮捕の直前、おでん屋で自分の素性を打ち明けるようなことを言ったのは、罪の意識からでしょうか、はたまた別人を装って逃げることに疲れ果て、本当の自分を知って欲しかったからでしょうか。

 いずれにしても、福田和子は犯罪者でありながら豊かな人間味も持ち合わせる人物で、その数奇な生涯がドラマ化もされ話題を呼びました。

 金沢の和菓子屋店に潜伏していた時期には、小学生だった石川県出身の大打者、松井秀喜とも交流があり、松井は「きれいで感じのいいおばさんだった」と当時の印象を語っています。


おいこいけ



 小池俊一、菊池直子、高橋克也


 「おい、小池!」のポスターで有名な小池俊一は、2001年に徳島県でパチンコ仲間の男性を殺害、4000万円の預金が入った通帳を奪って逃亡します。

 人まで殺したにも関わらず、預金を引き出すことはできなかった小池は各地を転々とした後、岡山県で一回りも年上(小池自身が逃亡時40代)の女性の家に転がり込み、ヒモ生活を送るようになります。

 2012年に居候先のアパートで病死。死亡時の小池は逃走生活のプレッシャーからか、五十代後半という年齢に比してかなり老け込んでおり、手配写真とはかけ離れていたようで、同居女性は小池が逃走犯であったことは知らなかったそうです。ポスターを見て寄せられた情報は4400件を越えましたが、何一つとして逮捕に結びつくことはありませんでした。

 1995年に地下鉄サリン事件に関わったとする容疑で指名手配された菊池直子は、97年まで高橋克也らほかのオウム幹部と同じアパートに潜伏していましたが、やがて一般人として社会に溶け込み、2007年からは介護ヘルパーをしながら、オウムとは無関係の一般の男性と一緒に生活していました。

 同居する男性は菊池に結婚を申し込み、対して菊池が「自分はオウムの菊池だ」と正直に打ち明けても警察には通報せず、同居も解消しませんでした。勤務先での評判も良く、女子会にも参加するなど、普通とまったく変わらない暮らしを送っていたようです。

 2012年に提供された情報を元に逮捕。裁判では無罪判決を受け、17年間の逃亡はまったくの無意味だったという結果になりました。ちなみに、菊池が無罪でも同居男性の犯人隠匿罪は変わらず、懲役1年6か月、執行猶予5年の判決を受け、事件でもっとも割を食った人物となってしまいました。

 高橋克也は櫻井信哉の偽名で住民票まで取得し、川崎市内の建築会社などで働いていました。

 ある時期までは菊池直子と二人きりで生活しており、性行為の強要もあったなど生々しい話も伝わっていますが、菊池同様、一般社会に溶け込んで普通に暮らしていたのは間違いないようです。

 先に逮捕された菊池の証言をもとに、蒲田のネットカフェにいるところを逮捕。裁判では無期懲役が確定しました。教団に元気があった頃から入信を後悔し始めていた菊池と違い、高橋は潜伏中も教団や麻原への強い信仰を抱き続け、取り調べ中にも麻原のことを「尊師」と呼んでいたそうです。

 それにしても、菊池にしても小池にしても、よく身元も確かでない人間と一緒に住みたいという人が見つかるものです。内に何かを秘める人物には魅力があるということなのでしょうか?

 小池、高橋、菊池ともに、長期間の逃走を可能とした理由に「手配写真がまったく似ていなかった」ということが言え、それを考えると、市橋が整形に拘ったのも一概に間違いとは言い切れないかもしれません。
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犯罪者名鑑 市橋達也 4 (2007年6月~9月ごろ)

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 働く



 那覇に帰ってきた市橋は、さっそくフリーペーパーの求人誌を捲って職を探し始めましたが、はじめのうちは青森で職探しをしていたとき同様、携帯電話を持っていないという理由で断られる連続でした。

 真っ当に生きていてもホームレスやネットカフェ難民に転落してしまうということもありますが、一度どん底まで堕ちた人が、普通の生活レベルまで自力で立て直すのは困難を極めます。まず生活保護を申請し、住居と携帯電話を手に入れなければ職にもありつけませんが、逃亡犯である市橋にそれは不可能な話でした。

 しかし、何度も電話をかけるうち、ようやく携帯電話を持っていなくても使ってくれるという建築の会社が見つかり、翌日に面接に行くことになりました。

 そこでも住居もなく、携帯電話も持っていないことを不審に思われましたが、何とか雇ってもらうことができ、市橋は支度金として渡されたお金でホテルに泊まり、逃亡してから三か月ぶりにお風呂に入り、人間らしい食事をとることができました。

 会社の金で仕事着だけでなく、部屋着も用意してもらった市橋は、数日後からさっそく建築現場で働き始めました。

 二十七歳にして就労の経験がなかった市橋は、酷暑の下での肉体労働で何度も倒れそうになりながらも、何とか仕事に食らいついていきました。日当は七千円。諸物価の安い沖縄なら、生活が不可能な額ではありませんでした。

 仕事にも慣れてきたころ、市橋は勤務中、同僚に突然「あなた高橋さん?」と訊かれました。このとき、手配写真を見て「市橋」を「高橋」と間違えたのだろうかと思った市橋は、翌日は出勤せず、バックパックに荷物を詰めて、宿泊していた民宿を後にしました。

 市橋の危惧が正しかったのかはわかりませんが、有り得ることではあり、用心するに越したことはなかったでしょう。給料は日払いでもらっており、懐には十分なお金がありました。給料以外にも、仕事着や部屋着を準備してもらったり、食事をご馳走になったこともあり、この会社での暮らしはけして悪いものではなかったようで、市橋も申し訳なく思っているようです。

沖縄


 
 島へ


 最初に勤めた会社をやめて逃げた市橋は、ホームセンターで生活に必要な物資を購入し、再びフェリーでオーハ島へと向かいました。

 スコップ、ござ、ゴミ袋、虫眼鏡、飯盒、鍋、裁縫道具、缶詰、野菜の種・・。前回の経験を踏まえて、市橋が購入した物資は大量で、島に向かう途中にバックパックが重みで破けてしまうほどでした。

 また、図書館では図鑑で植物のことを勉強し、食べられる野草と食べられない野草を見分けられるようになりました。知識は犯罪者にも平等なものであり、図書館という施設をうまく利用して、市橋は長期間の逃亡を可能にしていました。

 フェリーターミナルのある島からオーハ島に渡る直前、浜にいた黒い子猫が市橋の傍に寄ってきました。子猫はガリガリに痩せて汚れており、飼い主に捨てられたのだろうと思われました。

 海に入れば諦めるだろうと思いきや、子猫は岩と岩の間を飛び越えながら市橋の後をついてきました。しかし、やがて飛び移れる岩がなくなると、ポツンと取り残されてしまいました。

 この辺りは食べ物もないし、カラスも時々飛んでいる。子猫はとても生きていけないだろう。

 市橋はネコを肩に乗せて島に渡りました。

オーハ島小屋



 オーハ島2


 
 入念な勉強と準備をしてから渡った二度目のオーハ島では、市橋は飢餓に陥らないだけの食糧を確保できるようになっていました。飲料水はあずまやの水道で一週間分の水をペットボトルに詰めて持ち帰り、貝などをエサにして魚釣りをしました。岩場ではカニを獲り、潜水をしてウニ、エビ、ナマコを獲りました。

 毒蛇の首を切り落とし、毒のうのある首とサルモネラ菌のいる内臓を取り除いて食べたこともありました。砂浜や森に生えている植物も海水で煮て味付けをして食べました。ハチの巣を見つけたときには巣を壊してハチの子を食べました。たまに毒のあるものを口に入れてしまい、痺れや痛みに襲われることもありましたが、図鑑で得た知識を頼りに、食べられるものは何でも食べました。

 医者の道楽息子で、ついこの間まで恵まれた環境で働きもせずぬくぬくと暮らしていた市橋が、警察に追われ、誰も頼ることができない極限状態に置かれたことで、高度なサバイバル技術を身に着けていました。これを見て、ひきこもりは追い出した方がいいと思うのは早計ですが(言うまでもなく自殺を選んでしまうリスクの方が高い)、市橋の場合は追い詰められて覚醒するタイプの人間だったようです。

 そしてニュース映像でも頻繁に紹介された、あのコンクリートブロックづくりの小屋を見つけた市橋は、すぐにそこに住み始めました。危険はゼロではないものの、蟻やヤドカリの襲撃に悩まされることはなくなり、最低限生きていけるだけの住環境を手に入れて市橋の生活は安定していきました。

 食料はいくら獲っても満たされるということはありませんでした。那覇で買って持ってきた種はニンジン、キュウリ、ダイコン、トウモロコシ、ネギなどでしたが、当然ながら植えてすぐ食べられるものではありません。小屋の傍にはサトウキビの原種などが生えていましたが、トリカブトなど毒のある植物も多く危険でした。

 可能な限りは野外採取に努めましたが、どうしても獲れないときは隣の島に買い出しに出かけたり、畑の作物を盗ったりしました。街路樹になっているパパイヤやマンゴーも、うまくはなかったものの腹の足しにはなりました。

 結論を先に書きますが、整形手術など考えずに、働いて稼いだ金をすべて食料や生活用品を得ることに使っていたら、市橋の逃亡生活はまだ続いていたかもしれません。市橋自身も体験したように、ホームレスにとって最も辛いのは冬の寒さですから、冬でも二十度はある沖縄は、ホームレス生活をするには条件の良い土地といえます。実際に沖縄ホームレスは多く、一か月に一万円ほどの現金収入さえあれば仙人のように暮らすことができるようです。市橋自身、二度目のオーハ島では、猫に餌をやる余裕もありました。

 しかし、逃げ始めた頃に新聞で見た逃亡犯の女の記事がよほど印象に残ったのか、あるいは元々そういった願望があったのか、市橋は逃亡を続けるには整形しかないという考えを捨てられず、結果、2年7か月という期間で逃亡生活には終止符が打たれることになります。

 最初に沖縄で働いたのはわずかな期間でしかたら、このときは生活費も底を尽きかけており、市橋は再び働くために、大阪の西成に向かう決断をしました。

 西成を初めて訪れたときには苦い思いをしましたが、沖縄での就労経験と、半年あまりのサバイバル生活で、今度はやっていけると自信を深めていたのでしょう。市橋は隣の島に猫を置き、フェリーで本州に舞い戻りました。

 以後、市橋は西成と沖縄を往復する生活が続きました。

 
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