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外道記 改 7


                          
                           7


 東山との運命的な再会から、三か月あまりの歳月が過ぎた。残暑も和らぎ、一年でもっとも過ごしやすい季節が訪れ、俺の人生も新たな局面を迎えようとしていた。

 今、何を差し置いてもやらなくてはならないのは、俺に不快感を味合わせた、莉乃と唐津への復讐である。せっかく純玲と出会い、人生に希望の光が見え始めたときに、復讐など考えるのは愚かなようだが、逆に希望の光が見えた今だからこそ、このタイミングで、「世間」というものに、何らかのケジメをつけなくてはならないのである。

 確かに、世間は俺に純玲という女を差し出した。「和解」の条件は整ったともいえる。しかし、それはやや遅きに失した。

 これが二十代の半ばくらいであったら、ここから真面目に努力して、並み以上の人生を手に入れる気にもなったかもしれない。しかし、三十二歳という年齢で、これまで培ったスキルなどもまったくない状態からでは、何かを本気で始めるということは考えられない。

 世の中には四十を過ぎてから花を咲かせる遅咲き、大器晩成の人もいるが、それは二十代のころから努力し、試行錯誤してきた結果の遅咲きである。何かを始めるのに遅すぎることはないという言葉もあるが、それも若いころからコツコツと努力して、年を取ってから新しい何かを始めても成功できるだけの土台となるものを積み重ねてきた人間だけに言える話だ。

 俺はきっと、もう間に合わない。頭の柔軟さも失われ始め、どんな分野でも通用する、独自の勉強法のようなノウハウも無い三十二歳という年齢から、まったく新しく何かを始めて、人並み以上になれるはずがない。

 努力というと素晴らしいことのようだが、努力は結果が伴わなければ、徒労となって圧し掛かってくる。膨大な時間を無駄にし、精神を削られ、結局は、自分を認めなかった社会や他人を呪うことに繋がる。それで荒れてしまったら、せっかく手に入れた純玲も失いかねない。俺は一生、上がり目のない人生を受け入れなくてはならないのだ。

 和平交渉に最も重要なのは、タイミングである。タイミングさえ良ければ、小さな条件で、大きな譲歩を勝ち取ることもできる。世間は、そのタイミングを逃した。まだ人生に展望のある二十代のときに女を差し出しておけばよかったものを、三十二歳の今になって貰っても、これですべてを水に流すというわけにはいかない。純玲は有難くもらっておくが、やはり何らかの形で、落とし前はつけておかなくてはならない。死刑になるような大事件を起こすまではしなくとも、強大な社会、世間にせめてもの一矢を報いなくては、俺の気が済まない。一生上がり目のない貧乏暮らしを、受け入れることができない。ここから先に進むことはできない。

 俺が直接一矢を報いようとしている相手が、莉乃と唐津だ。何もかもをご都合主義で片づけ、キレイごとで丸め込もうとする、欺瞞に満ちた世間を代表するようなあの二人のおとぎ話をグチャグチャに潰してやることこそが、俺がこの先、この生きづらい世間の中で純玲と二人、波風を立てず、穏やかに暮らしていくための、唯一の方法なのである。

 その、莉乃と唐津への復讐計画を、本格的に始める準備はできた。純玲という心の安らぎ、桑原という暴力装置を得て、あとは具体的な手段さえ思いつけば、すぐにも奴らと戦うことができる態勢は整った。

「莉乃と唐津を酷い目に遭わす?もちろん協力しますよ!俺もアイツらのことは、いけ好かなかったんです!」

「うん。私も莉乃をやっつけるためだったら、できる限りのことはするよ」

 俺が自分の野望を打ち明けると、他人を虐げることを三度の飯より楽しみとする桑原と、莉乃を個人的に嫌う純玲は、快く承諾の返事をしてくれた。

 ターゲットの莉乃と唐津はといえば、相変わらず仲良くしていたようではあったが、不思議なことに、周囲が二人が仲を深めていくことを微笑ましく見守り、恋人同士としてくっつけようとするような例の雰囲気は、影を潜めていた。

 これをどう解釈したらいいものか、俺は大いに悩んだ。現在、二人はすでに正式に交際しており、周りがその恋を後押しする必要もなくなった、ということなのか。だが、それにしては、二人は一緒に歩いていても、その間にはまだ一定のパーソナルスペースが横たわっているようで、手を繋いだり、指を絡めあったりなどしているわけでもない。

 結局、カップルは成立しなかったのだとしたら、ますます不可解である。俺の見る限り、唐津も莉乃も、お互いに相当、熱が高まっていたはずだ。どっちがどっちを振ったにしても、また、俺ほど執念深くはないにしても、振られた相手と、かくも平然と「友達付き合い」などができ、和気あいあいと話していられるとは思えない。

 直接問うてみるのが一番手っ取り早いのはわかっていたが、俺は奴らからは嫌われているし、もし奴らと親しかったとしても、やはり直接は難しいだろう。それができるくらいなら、俺は奴らを激しく恨んだりはしていない。

 変な話のようだが、俺はたとえどんな状況であろうと、純玲という新しい女ができたのであろうと、復讐する決意をしているのであろうと、一縷の望みに賭けたかった。まだ、莉乃と唐津が、最後まではいっていないと信じたかった。

 この期に及んで、莉乃が手に入る望みがまだあるなどという妄想に縋りついているわけではない。奴らが暖かいベッドの中で愛し合いながら、俺をバカにしている光景を想像したくなかったのである。
 
 俺のことだけだったらまだいいが、純玲のことまでバカにしているというのであれば、許すことはできない。それがわかってしまったら、俺はすぐさま、奴らの命を奪わなくてはいけなくなる。皮肉な話だが、俺は純玲を手に入れたことによって、余計に莉乃と唐津の交際を認めてはならない状況になってしまったのだ。

 くっついているのかくっついていないのかわからない、くっつきそうでくっつかない関係を維持されるというのも、髪の毛を先っちょから根元まで、じりじりとライターの火で燃やされていくような、なんともいえずヤキモキするものではあるが、これでよかった。

 莉乃が冴えない俺をサンドバッグのようにボコボコにして、己のストレス発散に利用し、若い唐津にはご執心だった。唐津もそれを満更でもなさそうに受け取り、二人きりでデートまでした。奴らを取り巻く周囲の連中は、二人がくっつくのを後押しする一方で、俺のことを心配するという「矛盾」を見せつけてきた。

 俺の中では、もう、これだけで、復讐の動機には十分であった。この上、二人が正式に交際を始めた事実など、知らなくても良い。たまたま、偶然、仕方なしに耳に入ってくるのならともかく、自分から真実を知ることはしたくなかった。

 いまは万が一、莉乃と唐津が正式に交際し、セックスもしていたという事実を耳にしてしまう心の準備をしながら、じっくりと復讐の計画を練るだけであったが、しばらくして職場の状況は、俺が思ってもみなかった方向へ動き出していった。これまで俺を露骨に避けていた莉乃が、なぜか俺に歩み寄る姿勢を見せてきたのである。

「俺は小学生のころからひねくれものでよ。給食に揚げパンってのがあったろ。あれが人気メニューでさ。でもひねくれものだから、みんなと同じなのが嫌で、俺はわざわざ、あれを嫌いっていう設定にして、揚げパンが出るとクラスメイトにやってたんだ。揚げパンの日にゃあ、俺の残したヤツの争奪戦が繰り広げられるのが恒例になってた。でもクラスが変わると、俺の揚げパン嫌いの情報がみんなに行きわたってないから、争奪戦が起こることはなくなった。んで、試しに揚げパンを食ってみたら、これがうまいのなんの。一発で大好物になっちまったんだが、次、揚げパンが出たときには、すでに揚げパン嫌いの情報がみんなに行きわたっちまっててよ。蔵田、お前揚げパン嫌いなんだろ、くれよ、って言われて、俺も意地だから、じゃあやるよ、つって差し出してさ。卒業まで揚げパン一度も食えなかったんだが、心の中で泣いてたよ」

 俺が職場でこんなバカ話をしていると、笑いの輪の中に、いつの間にか莉乃が、ちょこんと混じっているのである。

 自分が所属している集団で少しでも人気がある奴を見ると、そいつに取り入ろうとして腰を摺り寄せる浅ましい性質ゆえか、俺に純玲という女が出来たことで、もう自分にはちょっかいを出してこないと安心したのか、はたまた、「いざとなったら、唐津くんが狼さんから守ってくれる」という余裕ができたのか。

 いずれにしろ莉乃の態度は、俺には素直に受け入れがたいものであった。俺は莉乃を女として見ていたのであり、セックスがしたかったのだ。莉乃と「友達として」仲良くすることになどは、何の魅力も感じなかった。むしろ、己にマンコしか価値がないことを知らぬ増上慢に腹が立つ。

 結局莉乃は、自分をロイヤルプリンセスか何かと勘違いし、俺のことを、見世物小屋の珍獣のように思い込んでいるのではないのか。見世物小屋の珍獣が、檻の中から愛嬌を振りまいているうちは優しくもし、仲良くもしてくれるが、珍獣が分を弁えずに恋心などを抱けば、猛烈な勢いで攻撃してくる。莉乃にそのように見下されているかと思うと、莉乃が仲良くしてくれたことさえもが、強烈な憎しみに変わってしまうのである。

 莉乃への憎しみが募っていくにつれ、オナニー時において、莉乃を思い浮かべる頻度も増えていった。レイプ魔の素質を持つ俺は、女を恨めば恨むほど、その女とセックスをしたい欲求が昂進していく。莉乃に復讐するときには、同時に性欲方面を満たすことも一応考えておきたい。

「蔵田さん、面白いですね。もっとほかの話はないですか?」

「ほかの話?中学でバスケット部に入ってたときよ、一年生ではまだ試合に出られないから、ベンチから先輩を応援してるわけだ。そのとき、俺が真面目に声を出してねえっつって怒られたから、次の試合では誰よりも声を張り上げて応援したんだ。でも、ちょっと気合が入りすぎちまって、間違えて先輩が自殺点をしたときにも、ナイッシューーーッ、とか大声で言っちまってさ。そしたら俺が怒られてんの。納得いかねえよな。一番悪いのはどう考えても自殺点入れたバカだろっつの。それでバスケ部やめてやったよ」

 俺に近づく莉乃を邪険にするのではなく、ちゃんと相手にはしてやった。もう金輪際、関わりたくないというなら、遠ざけ、避けるべきだろうが、俺は最終的に、莉乃を痛い目にあわせようとしているのである。ならば来るべきそのときまでは、牙は隠しておかなければいけない。莉乃が警戒心を解けば、いろいろな情報がペラペラと吐き出されてくる。それを元に、復讐の計画を立てる。そして、莉乃が完全に隙を見せたところで、バクっといくのである。

「蔵田さん。実は僕たち、派遣会社と丸菱運輸の悪事を訴えて、待遇の改善を求める労働運動を始めようかと思っているんです。海南アスピレーションのスタッフは、七割の方が賛同してくれています。蔵田さんも、協力してくれませんか」

 莉乃と同様に、唐津も俺に心を許し始めたようで、ごく親しい者にしか打ち明けていないであろう秘密の計画を、俺にも話してきた。

 派遣会社と、丸菱運輸を相手どっての、労働運動。やろうとしていること自体は、俺にも賛同できるものである。海南アスピレーションのような底辺派遣会社の理不尽な罰金設定や、ピンハネの酷さには前から腹に据えかねていたし、丸菱運輸は、上司である東山の弱みを握っている今でこそ快適な職場だが、昔から同じような会社に散々こき使われてきた者として、激しい怒りには共感できる。

 唐津くらいの年齢だったら、会社と争うより自己研鑽に励んで、派遣労働などからはさっさと足を洗って正社員で就職することを考えた方がいいのではないかとも思うが、彼は自分が社会の枠組みの中で上がるチャンスを棒に振ってでも、弱者を守る戦いに身を投じるエクスタシーを選択するという人種なのだろう。チェ・ゲバラに例えるのは褒めすぎだろうが、世の中にはこういうタイプがいるのはわかる。

 唐津のやろうとしていること自体は大変立派なものであることは認めるが、だったらなぜ、唐津は「モテ格差」という分野においては、自分が「強者」であるという自覚がないのか?なぜ、恋愛弱者の俺が必死になって追いかけている莉乃を掻っ攫っていくような、節操のないマネをするのか?結局唐津は、「弱者」という立場を自分の都合の良いように解釈して、ひたすら私利私欲のために行動しているだけではないか。そのように考えると、唐津の若々しい正義感すらもが、強烈な憎しみに変わってしまうのである。

「ああ、いいぜ。是非、参加させてくれよ」

 表向きは、唐津と莉乃に協力してやる。だが、俺の金主である東山を本気で追い詰めたりはしないし、もちろん、唐津と莉乃を本気で応援することもない。いくらやろうとしていること自体には賛同できても、やる人間を好もしいと思えなければどうしようもない。俺が唐津と莉乃に協力するのは、奴らの弱みを探るためである。奴らに近づき、行動を共にすることで、奴らを痛い目に合わせるための突破口を見つけ出すのだ。

 唐津と莉乃を痛い目に遭わせるだけなら、それこそ夜道で襲うのが手っ取り早い。だが、それで逮捕されて、東山から金をむしり取る生活も、せっかく手に入れた純玲も失ったのでは、復讐にはならない。唐津と莉乃が一方的に痛い思いをし、俺が一方的に幸せになるのでなければ意味がないのである。時間の許す限り熟慮し、なるべくこちらがリスクを背負わない手段で、奴らに最大限のダメージを与える手段を模索する。

 これから始まるという労働運動を、莉乃の頭の中に広がっているようなおとぎ話に例えるなら、東山は強大な軍事力を背景にして民衆を苦しめる暴虐の魔王、唐津と莉乃は、民の救済のために魔王に敢然と立ち向かおうとするヒーローとヒロイン、俺はさながら、ヒーローとヒロインに嫉妬をして、チマチマとした妨害を画策する、チンケで小心な悪徳商人といったところであろう。おとぎ話ならば、ロクに見せ場も与えられず、蟻のように踏み潰されるだけの悪徳商人が、みんなに慕われるヒーロー、ヒロインと、みんなに怖れられる魔王を、まとめてぶちのめすのである。痛快ではないか。

 莉乃と唐津が労働運動を始めるということは、すぐに職場を辞めてしまう心配はないということである。非正規の派遣労働に従事している上での、最大の不安が解消されたのだ。こうして確保された時間を利用して、莉乃と唐津を懲らしめる術をじっくりと考えていくつもりだったのだが、しばらくして、思わぬ方向から、また別の風が吹いてきた。

「下川さん、見てください。これは昨年、バングラデシュの村に行ったときの写真です。この、十四歳の女の子が抱いている赤ちゃんを見てください。この赤ちゃんは、女の子の妹ではありません。娘です。発展途上国では、教育の機会も得られず、低年齢で無理やり結婚させられる女の子がまだまだ大勢います。医療設備も整っていない環境で、身体もできていないのに妊娠、出産し、最悪命を落とすケースも沢山あります。こうした女の子たちが教育を受けられ、経済的に自立できるようになることが、僕の夢です」

 脂肪に圧迫されて細くなった眼を煌々と輝かせ、莉乃に熱弁を振るう豚男――。莉乃と唐津が、どうやらまだ正式に交際していないようであるのを見て取った宮城が、莉乃に求愛をし始めたのである。

 今まで眼中にもなかったので、特に注意はしていなかったが、そういえばこの偽善豚男は、俺が莉乃を狙っていた時期から、隙を狙っては莉乃によく話しかけていたようであった。あの莉乃脱糞事件の日、宮城が莉乃の糞を片付けたのは、善意からではなく、好意からであった。あの行動によって莉乃の気持ちが己に傾くと思い込んでいたからこそ、宮城は悪臭の中に敢然と突入していったのである。口では大層なことを言いながら、何のことはない下心がすべてという、下劣な豚である。

「莉乃ちゃん、今日のお洋服、似合っているわね。アウトレットで買ったの?」

 宮城が莉乃に恋心を抱いているのは誰の目にも明らかで、宮城が莉乃に話しかけると、莉乃の取り巻き連中がすぐに割って入り、莉乃を宮城から引き剥がそうとするのがいつもの光景になっていた。昔からそうだったのであろうが、かつて俺が同じ目に遭っていたときは周りを見る余裕がなく、今頃になってようやく気付いたのである。

「松原さん。今、下川さんは僕とお話をしているんです。勝手に割り込まないでいただけますか」

 いつもは黙って莉乃を譲る宮城だったが、度重なる無礼な仕打ちに、今日は憤りを露わにしてみせた。このところすっかり、莉乃の「女中頭」が板についてきた松原と宮城との、莉乃脱糞事件以来の因縁の対決である。

「は?あんた何言ってんのよ。あんたが一方的に面白くもない話をベラベラ喋ってるだけで、莉乃ちゃんは嫌がっているじゃないのよ。そんな写真なんか持ってきちゃって、バッカじゃないの」

「なっ・・・なっ・・・」

 正論を吐かれ、宮城の顔面がみるみる紅潮していく。この時点で、桑原などは大爆笑である。

「なあ、宮城くん。君の行いは立派だと思うけど、それを自慢しちゃったら、偽善になっちゃうんじゃないかなあ」

 俺に莉乃を諦めろなどと言ってきたオッサン、田辺までもが、宮城に本当のことを言ってしまう。田辺が指摘する通り、宮城がボランティアだのなんだのをやっている理由は、それを人にアピールして褒められるため、ただそれだけである。本当は自分のことしか考えていないから、周りがまったく見えなくなってしまうのだ。

「あっ、あなたにそんなことを言われる筋合いはない!僕は今度、IT企業の最終面接を受けるんです!か、会社を訴えるとかいって、自分が這い上がる努力をしないあなたたちなんかとは違うんです!」

 脳が沸騰してわけがわからなくなっているのであろう。憤然とする宮城は、突然、話をまったく違う方向にすり替え始めた。これには、俺、純玲、桑原を除く全員――海南アスピレーションと丸菱運輸に、労働組合を結成して対抗しようと毎日熱心に話し合っている派遣スタッフたち全員が、怒りを露わにする。

「なんなんだあんた、おかしいんじゃないのか。海外の子供を助けるとか言う前に、目の前の人を助けろよ。東山や中井に、田辺さんたちが殴られているとき、あんたは何をしていた?黙って見ていただけじゃないか。そんな人が海外ボランティアなんて、ちゃんちゃらおかしいよ」

 宮城が莉乃を巡ってライバル視しているであろう唐津の、痛烈な言葉が突き刺さる。不細工な宮城は、イケメンに生理的な苦手意識を覚えているらしく、これに口ごもって言い返せない。若干二十歳の唐津は、二十九にしてキスの一度もしたことがなく、女に嫌われ続ける人生を歩んできた宮城に、一片の哀れみをくれてやる気もないらしい。

 宮城が莉乃にアタックしてしまうのは、唐津がいつまでも莉乃との関係をはっきりさせず、くっついているのかいないのか、微妙なラインで踏みとどまり続けているせいでもあると思うのだが、実のところ、唐津は莉乃のことをどう思っているのだろうか。

 今まで俺が見る限りでは、唐津も莉乃に好意を抱かれ、まんざらでもなさそうにしているようだった。だが、今の唐津は、莉乃と一定の距離を置き、あくまで友達の一人として、莉乃に接しているように見える。果たして唐津は、据え膳を食ったのか食っていないのか。食ったとしてそれをおおっぴらにしないのは、三十路のメルヘン女と、一晩限りの遊びならともかく、本気で交際し、周囲にもそれを承認されてしまうのには抵抗があるということなのだろうか?

 やはり、「わからない」というのは、どうしようもなくモヤモヤする。せっかく莉乃と唐津との関係が表向き改善されたのだから、交際の事実について、直接聞いてみるべきなのかもしれない。確かに怖いのは怖いが、自分の気持ちにケリをつけて、退路を断つためにも、通らなくてはいけない道ではないだろうか。

「おかしいのはお前だ!田辺が殴られたのは、ちゃんと仕事をやっていないからだろ!東山職長と戦うなど、絶対に許さんからな!」

 意外なところから口を挟んできたのは、宮城同様、労働組合の結成に誘われなかった深山である。しかし、蠅的存在の深山の言葉に耳を傾ける者は誰もおらず、雑音のようにしか扱われなかった。

「なぁにがボランティアだよ。バングラデシュの女の子の結婚を心配する暇があったら、自分が結婚しろって話だよ。その顔でできるもんならな」

 松原に、宮城がもっとも気にしているところを指摘されてトドメをさされ、宮城はとうとう引き下がり、黙って席についた。

 その後しばらく、宮城はすっかり大人しくなり、莉乃どころか、職場で他人に話しかけること自体がなくなった。今までただ一人、宮城と友人のように接していた俺は、今では純玲や桑原とばかり仲良くしており、莉乃や唐津たちとも、表向きには良好な関係を築いている。宮城はすっかり孤立した形になってしまったのである。

 その状況が一週間ばかり続き、皆がバングラデシュ事件を忘れかけたときのことだった。

「おい、君。ボランティアなんてやめて、一緒に、あの東山職長に立てつこうとしている奴らをぶっ潰さないか。IT企業もいいが、運送や派遣会社に就職するっていうのも、一つの道だぞ」

「蔵田さん、ちょっとお話いいですか」

 宮城は、ただ一人話しかけてくれた深山を無視し、「元友人」の俺を、トイレに呼び出した。不細工な顔に、なにか悲壮な決意が込められているようである。

「話ってなんだい?」

「蔵田さん。下川さんは、唐津さんとはまだ付き合ってはいないんですよね」

「まあ、二人だけでデートしたことはあるみたいだが、正式に付き合ってるとか、セックスしたとかってのは聞いてねえよ」

「わかりました。明日、僕は下川さんに自分の想いを打ち明けます。振られるのかもしれない。でも、自分の気持ちにケリをつけたいんです。そうしなければ、IT企業の最終面接にも臨めない。どうか、段取りをしてくれませんか」

 宮城の頼みを、俺はもちろん快く引き受けた。何か利用価値があるかもしれないと思って、宮城が松原たちにやり込められているときに、余計な追い打ちをかけたりして、信頼関係を損ねないで本当によかった。

 この百パーセント結果がわかりきっている告白を後押しし、屈辱を受けた宮城を唆して、莉乃に危害を加えるように取り計らう絵図が、すでに頭の中に描けていた。自らの手を汚さずに、まずは莉乃を片付ける。あの世間知らずの腐れマンコに、男を舐め腐った報いを受けさせるのである。

「え・・・。嫌です。怖いです」

 さっそく莉乃に宮城の意思を伝えると、莉乃は表情をひきつらせ、心底からの嫌悪感を露わにして見せた。

「だってあの人、私のお父さんくらいの年じゃないですか。私のお父さんくらいのおじさんは、嫌なんです。どうしてお父さんくらいのおじさんなのに、私を好きになるんですか。ウイルスみたいです。ばい菌みたいです。怖いです」

 滅茶苦茶な言いようであるが、この女は自分の顔を鏡で見た上で、それを言っているのであろうか。確かに宮城は五十代にも見えるような風貌だが、莉乃の方だって、笑えば目じりに皺がより、ほうれい線もくっきり浮かぶ、年相応のくたびれ具合ではないか。頭の中は二十代かそれ以下で止まっているのだろうが、外見はどこからどうみても、立派な三十路女だ。宮城の方こそ、莉乃を少し年上のお姉さんと思って惚れたのに、影でおじさん呼ばわりされているとはやりきれない。

 莉乃が自分に思いを寄せる宮城を悪く言えば言うほど、それは取りも直さず、影で俺にも同じことを言っていたのだろうな、と邪推することに繋がる。宮城のような「超劣等東洋種族」と、この俺を同じに扱った莉乃を、絶対に許すわけにはいかないと、決意を固めることに繫がる。

「まあそう言わず、話だけでも聞いてやれよ。あの手の頑固なヤツは、直接本人の口から断られないと諦められねえんだよ。莉乃ちゃんがそんなケンもホロロな態度でいたんじゃあ、あいつも余計頑なになるだけだぞ」

 結果は誰の目にも、百パーセント明らかである。宮城だって、自分の想いが叶わないことはわかっているだろう。宮城は本人の言う通り、自分の気持ちにケジメをつけたいだけなのだ。それなのに、死に場所さえ与えられないのでは、ヤツにも立つ瀬がないではないか。別に宮城に同情したわけではないが、同じモテない男の立場として、宮城を男と見ようとすらしない、思い上がった莉乃の態度に、怒りを覚えざるを得なかった。

「嫌です。蔵田さんが、代わりに断ってください。私は嫌です」

「だから、そう言うなって。ああいうヤツの相手をしてやるのも、可愛い女の子の務めだと思って、話しだけでも聞いてやれって」

「嫌です。怖いです。あのひとはウイルスです。怖いおじさん妖怪です。嫌です。怖いです」

 可愛い女の子・・・こちらは反吐が出そうになるのを堪えるのに必死だったが、莉乃は喜ぶでも、バカにされたと不快に思うのでもなく、そういわれるのが当たり前とばかりの、平然とした顔で答えた。

 ウイルス、おじさん妖怪・・・。俺のこともまた、同じように思っていたのだろうか?吹き上がる凶暴な衝動を抑えながら粘り強く説得し、どうにか、帰りがけに、丸菱の倉庫近くの児童公園で、宮城の告白を聞いてやるのを承諾させることはできた。もしものときのために、俺が立ち会うという条件である。

「下川さん。来月正社員になる僕と、付き合ってください。僕は必ず下川さんを幸せに・・・」

「ごめんなさい。すいません。ごめんなさい」

 宮城の告白は、二人が対峙してから、ものの数秒で終わった。二十九歳、ひと夏の恋は、あっけなく散ったのである。

 莉乃は立会人の俺に一礼し、足早に去って行った。よほど嫌だったのか、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 ミラクルはなかった。起こるはずもなかった。誰しもわかりきった、切ない結末。何も驚くことはなく、俺は童貞卒業の夢破れ、憂いを帯びた視線で夕焼け空を見上げる宮城の肩に手を置いた。

「・・・・・飲もうか。俺がおごるよ」

「結構です」

 俺は、耳を疑った。表面上とはいえ、善意で声をかけてやった俺の誘いを、宮城はあっさりと無碍にしたのである。

「やせ我慢するなって。こういうときは、飲んで騒いで、思いっきり発散させちまった方がいいぜ」
「蔵田さんが飲みたいだけでしょう。僕はお酒は、仕事の人間関係上、どうしても必要なとき以外は口にしません。これから帰って、夕飯の支度があります。では、失礼します」

 どこまでも、他人の気持ちが理解できない豚である。まさか、俺が宮城を唆して莉乃を襲わせる計画を見透かしているわけもなく、本当にこの豚は、表面上とはいえ、俺が見せてやった善意を踏みにじっているのである。

 他人の善意が理解できない男が慈善活動とは、まったく笑わせる。この男のすべては、自己主張ばかり。なにもかもが一方通行。これでは女どころか、誰と関わっても摩擦ばかりになるはずだ。

 宮城もある意味、不幸だったのかもしれない。親なり教師なり、彼の人生の中で、まだいくらでも修正がきく時期に出会った大人が、彼を正しく導いてやれば、もしかしたら、もっとまともに人と交わることができるようになったのかもしれない。

 宮城が対人関係で支障をきたすのが、彼の「障害」によるものだったとしたら、宮城にすべての責任はない。宮城もまた、子供に明らかな障害があっても適切な手を打たず、平等、博愛とかいった言葉を唱えてさえいれば何とでもなると思っている、無責任な大人たちの犠牲者であったのかもしれない。

 どんなに人と仲良くしようと思ってもできない宮城が、鬱などの二次的な精神障害を負わずに今まで生き抜き、なおかつ、いまだに女を得ることを諦めずに、積極的に自ら動いているのは、ある意味では立派なことである。

 世の中には物好きな女もいる。もしかしたら、宮城にもこれから良き出会いがあったかもしれない。あるいは、一生女に巡り合えなくても、持って生まれた善性によって、どうにか社会との折り合いをつけ、大きな害はない単なる偏屈者のまま、平和に一生を終えることもできたかもしれない。

 だが、宮城は残念なことに、人生の伴侶より先に、俺と出会ってしまった。同じモテない男同士、同じ偏屈者同士。しかし、俺は宮城のように真っ直ぐではない。捻くれ曲がり、ついには、真っ当に生きることを諦めてしまった者である。

 宮城が俺と同じ、人の世への復讐者となるならば、いつでも歓迎する。俺と宮城が、手を携える道はないではない。だが、宮城がそれを受け入れないであろうことはわかっている。ならばせいぜい、自分の目的のために利用してやるしかない。

 宮城が己の幸せを掴むために、あくまで世間の奴らと同じ路線で行こうというのなら、莉乃を潰す尖兵として使うことに、いささかの躊躇もない。その結果、宮城が壊れようと、罪悪感のかけらも感じない。

「ん・・・・莉乃ちゃんからメールだ。なになに。宮城くんにこれを見せて欲しいって・・・」

「どうしたんですか」

 宮城がバカでかい顔を近づけ、バカでかい鼻の穴から、荒い鼻息を吹きかけてくる。

「いや・・・しかし・・・これを見せてもいいものかどうか・・・」

「見せてください。お願いします。蔵田さん、お願いします」

「まあ、宮城くんがそう言うなら・・・」

 常人ならば、今の俺の語調と、険しい表情で、莉乃からのメールが自分に好意的な内容ではないことを察するものだろうが、他人の気持ちを理解できず、都合の悪い情報は一切頭に入れようとしない宮城は、完全に勘違いをしてしまっているらしい。莉乃からのメールというのは嘘で、本当は俺が、さも莉乃が書いたように装って書いた作文なのだが、期待に胸ふくらませてその作文を読んだ宮城に降りかかるのは、愛ではなく絶望、心の崩壊である。

――宮城さん、気持ち悪いから、これから私の半径五メートル以内に近寄らないでください。宮城さん、アレを切り取ってください。私はセックスは好きですけど、宮城さんみたいなきたない人とするのは死んでもいやです。私はカッコいい人が好きなんです。しょうらい、万が一宮城さんが女の人と結婚して子供がうまれたら、その子供は宮城さんみたいなきたない顔になって絶対にいじめられてかわいそうなので、子供をつくらないためにもアレを切り取ってください。うまれてしまったら子供がかわいそうです。まあそんな心配をしなくても宮城さんはずっと童貞でしょうし、それならアレがあっても辛いだけで、ようするにどっちにしても宮城さんのアレは誰も幸せにはしないのではやく切り取ってください。それか男の人としててください。宮城さんは気持ち悪いです。次私に話しかけてきたら警察にうったえます。死んでください。

 酷い言葉を書き並べるだけでなく、莉乃を清純な処女と思い込んでいるであろう宮城の理想を打ち壊し、宮城が大事にしている世界観すべてを崩壊させることを狙いとした、悪魔の文章。実際には、学習障害を持つ莉乃にはこの程度の文章すら書くことはできないであろうが、普段からこれに近いことを平気で口走っている莉乃なら、もしや、と思わせることはできる。文章に目を通した宮城は、特に表情を歪めるわけでもなく、俺に黙ってスマートフォンを返し、無表情、無言のままに歩き始めた。

「ごめん、やっぱ見せるべきじゃなかったな。ごめんな、宮城くん」

「いえ。これできれいさっぱり、諦めがつきました。下川さんには、ご迷惑をかけてすみませんと伝えてください」

 気丈に振る舞ってはいるが、語尾は震えている。他人の気持ちは理解できないが、己が傷つくことには敏感な宮城が、あの文章を読んで平気でいられるはずはない。

「迷惑?それは本気で言ってるのかい?こんな酷いことを言う女に、そこまで卑屈になることはねえだろ。今回ばかりは俺もさすがに頭にきたよ。宮城くんにこんな酷いことを言っておきながら、アイツは今頃他の男、たとえば唐津とかの腹の下でヒイヒイ言ってるかもしれねえんだぜ。赦せないだろ」

「別に・・・・・。自分が恋した女性の幸せを願うのが、男として正しい姿ですから」

 痩せ我慢もここまで行けば大したものであるが、そうやって心の中を無理やり清潔に保とうとすればするほど、いざ許容量を超えたショックを受けたとき、汚れはより、どす黒く広がるのである。

 残念な話ではあるが、この世の中は、善い人、心がキレイな人が幸せになれるようにはできていない。キレイごとばかりですべてを解決しようとする生き方は、無菌室の中に引きこもって生きるようなもので、けして健全とはいえない。

 免疫も抵抗力もないのに、許容量を超えるダメージを度重なって受け続けた宮城の心は、もうすでに、腐りかけた柱のようになってしまっていることだろう。あとは根元を蹴りさえすれば、一瞬にして崩壊するのだ。

「こんな女は、酷い目にあわせてもいいと思うぜ。世間も同情してくれて、刑期も短くなるんじゃねえか。もし俺が宮城くんの立場なら、このまま屈辱を抱えて、この先訪れるかどうかもわからない幸せを信じて真っ当に生きるよりか、ここで怒りをブチまけて、シャバにお別れを告げる方を選ぶな。男として正しい道ってのは、屈辱を味合わされたら、相手にきっちりケジメをつけるってことじゃねえかな」

 宮城が本当にやりたいと思っているであろうことを代弁してやると、とうとう痩せ我慢も限界に達したのか、宮城は堰を切ったように泣き始めた。女に愛されず、呻吟に喘いだ彼の二十九年の人生が全部流れ出したような、滝のような涙である。

「ぼっぼくはっ。下川さんを幸せにしてあげたいだけだったっ!幸福な家庭を築いて、学習障害なんか関係ないんだよ、と教えてあげたいだけだったっ!」

 あなたが好きだ。あなたがいなくては生きていけない。だから付き合ってほしいと言えばいいものを、なぜ、そんな上から目線で相手を見てしまうのだろう。それではまるで、あなたは可愛そうだから付き合ってあげます、と言ってるようなものではないか。自分で自分の境遇を嘆き、助けてくれというのならともかく、頼んでもいないのに救ってあげるなどと言われたら、誰だって大きなお世話と感じるだろう。

 自分自身はプライドの塊である癖に、他人にもまた、同じようにプライドがあることを理解できない。たとえ宮城の容姿がまともであったとしても、こんな態度では、女は振り向かないだろう。

 宮城はモテない上に貧困という二重の苦しみを抱えた男であるが、「モテない」だけで見ても、二重も三重も問題を抱えてしまっている。こんな状態からまともな人生を掴もうと思ったら、寿命が何年たっても足りないだろう。宮城の人生の前に立ちふさがるハードルの高さには、俺ですら同情を覚えるほどだった。

「宮城くん。今の世の中は、女を優遇しすぎだと思わねえか?戦前の女とかはよ、一歩引いて、常に男を立てていたじゃねえか。それを、わけのわからないババアどもが女の権利拡大を訴えたせいで、女どもが調子に乗りやがった。今じゃ男は、女に職も力も奪われて、肩身の狭い思いをしている。平等だかなんだか知らねえが、国家のあり方として、女を優遇しすぎる社会が本当に正しいのか?自力で権利を勝ち取った昔の女ならまだいい。だが、莉乃みてえな女がそれを当たり前だと思って、座ったまま餅を食うように当然の顔して、男をいたぶってるのはどうなんだ?何かがおかしいと思わねえか?宮城くんが、イカれたこの世を正し、図に乗りすぎた女に天罰を下すヒーローになってもいいんじゃねえか?」

 俺は宮城と肩を並べ、寮へと向かって歩きながら、宮城を焚きつけるような言葉をかけ続けた。これで宮城が莉乃を殺した場合、俺が殺人教唆に問われてしまう可能性もあるが、この程度のリスクは、何をするにも避けられないであろう。宮城に見せたメールは、実はただ下書きを見せただけだから、消してしまえば証拠は残らないはずだ。万一復元されたとしても、悪ふざけだったとかなんとか、のらりくらりと言い訳する余地はあるはずである。

 やるだけのことはやって、その日はそれで、宮城と別れた。次の日以降、事の推移をワクワクしながら見守っていたが、期待するようなことは起きなかった。どこまでも腰抜けの宮城は、莉乃にケジメをつけることもなく、何処かへと姿を消してしまったのである。

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外道記 改 6



                        6
  

 身に降りかかった災厄に、いかにしてケリをつけるか。日々思案を続けていたが、有効な手立ては何も思い浮かばない。俺は悶々と不快感を抱えながら、朝礼の際、仲良く並ぶ莉乃と唐津の背中に、邪悪な瞳を向けていた。

「莉乃さん、フランスの文化に関心があるんだって?松原さんから聞いたよ」

「うん。私は、フランスが大好きなの。こんど、圭一くんに、美術館に連れていってほしいな」

 このところ、連夜の大酒とゆかりへの暴力、睡眠不足で、思考能力が低下している。腰につけたシザーケースの中には、仕事で使うカッターナイフやハサミだけでなく、殺傷力の高いダガーナイフも入っている。いつ、スイッチが入って、莉乃と唐津を刺殺してもおかしくない、危険な状態にあった。

 東山から振り込まれる金のおかげで借金は減り、人生を立て直す道筋も見え始めた。ここですべてを台無しにしてしまうのは、あまりに勿体ない話ではある。まだ四、五十年ある人生を穏やかに暮らすことに比べたら、莉乃と唐津への嫉妬などは、実につまらない、些細な問題かもしれない。しかし、どうせつまらないことに拘るあまり、数少ないチャンスも棒に振り続けてきた人生である。最後まで自分を貫いて、人生そのものを棒に振るというのも一興ではないか。

 四、五十年生きたところで、俺に何がある?俺が持っている唯一の財産といえばゆかりだが、ゆかりは間もなく閉経を迎え、母乳は飲めなくなる。新陳代謝が悪くなってくれば、股間の臭いも少なくなるだろう。母乳も飲めない、まんこも臭くない、まともにコミュニケーションも取れない老いた女など、豚以下のシロモノだ。そんな汚物を抱えながら生きる四、五十年の人生よりも、ここで潔く社会、世間にケジメをつけて、拘置所で菓子とオナニーを日々の楽しみに、吊るされるまでの四、五年の人生を、ゆっくり、のんびりと暮らす人生の方がよくはないか。

 もう、楽になりかった。腹いっぱいまで、飯が食いたかった。俺が向日葵のような笑顔を向け合う莉乃と唐津の背後に忍び寄り、シザーケースの中身に手を伸ばした、そのときであった。

「先輩!先輩じゃないっすか~~!!」

 突然、俺の隣に立っていた新人の桑原が、育ちの悪さが滲み出た濁声を倉庫中に響き渡らせるのを聞いて、俺は寸でのところで凶行を思いとどまった。

「先輩!久しぶりっす~!」

 桑原が先輩と呼ぶのは、朝礼で本日の作業を指示するために派遣スタッフたちの前に立った、東山のようであった。東山の目の前まで歩み寄ってきた桑原に対し、彼に慕われている様子の東山は、ひきつったような表情を見せている。俺と再会したその日、俺に向けた顔と同じ顔である。明らかに、桑原を歓迎しているようではなかった。

「おい、お前!今は朝礼中だぞ!それになんだ、東山職長に対して、その馴れ馴れしい態度は!立場をわきまえろ!」

 桑原に注意をしたのは、派遣スタッフのリーダーを気取る深山である。桑原は百八十センチはある長身に、ガッチリとした体格をしており、髪型は五分刈り、背中に旭日旗と愛国烈士の刺繍が施された繋ぎ服を纏い、その上から派遣スタッフ用の作業エプロンを着ているという、世にも恐ろしい出で立ちをしているのだが、そんな相手に対しても、同じ派遣スタッフでさえあれば、しょぼくれたオッサンや根暗なオタクと分け隔てなく、偉そうに注意をする深山の一貫性は、ある意味尊敬に値した。

「東山先輩。先輩に会えて感激っす」

 桑原は、深山の注意には一切耳を傾けようとしない。雑魚には構ってられない、といった塩梅である。

「お、おう・・・。俺も嬉しい。俺も嬉しいから、作業の指示を聞いてくれ。な」

「はい!わかりました!」

 目を泳がせ、動揺している東山が頼むと、桑原は居酒屋の店員のような、とってもいい返事をして、大人しくもといた場所に下がっていった。過去に東山と何らかの関わりがあったらしい桑原は、中井のように、上司と部下の関係で渋々従っているわけではなく、本当に心から、東山を尊敬しているようである。

 桑原と東山との関係は、東山を金主とする俺には、当然気になるところである。俺はこの日、桑原と一緒のテーブルを取り、タイミングを見計らって話しかけてみた。

「なあ。お兄さん、職長の東山とは知り合いなのかい?」

「あ?なんだてめえ、文句あんのかてめえ?」

 こちらは文句など一言も言っていないのに、いきなりの喧嘩腰である。コイツとは意思の疎通が取れるのだろうか。深山と違い、人を見た目で判断する俺は、異様な風貌をし、死んだ魚のような目で俺を睨めつける桑原に恐れおののいた。

 桑原から話を聞くことは無理と判断した俺は、今度は廊下で東山を捕まえ、二人の関係について問いただした。

「アイツは、俺が以前働いていた運送会社の後輩だ。そのときから、奴は妙に俺に懐いていてな。前の運送会社が潰れるちょっと前、ヤツは暴行事件を起こしてムショに入り、そのとき以来になっていたんだが、当時とは人相が違っていたし、姓も変わっていたから、適当に履歴書を見て、若いってだけでついうっかり採用しちまったんだ・・・。どうしたもんか」

 労働者派遣法では、派遣会社から紹介された派遣社員に採用試験を課したり、面接を行うことを原則として禁じている。ただ、それではあんまりだというので、どこの会社でも見学や顔合わせの機会を設けているが、面接というほどではなく、あくまで時給や業務内容などの面でのマッチングの確認がメインで、よほどのことがなければ、顔合わせが原因で派遣先に断られるということはない。桑原も顔合わせのときは右翼のつなぎ服など着てこなかったのだろうし、二人は今日の朝礼のときにひさしぶりの再会を果たしたようだったから、おそらく忙しい東山が、顔合わせを中井に任せてしまったのだろう。

 しかし、体育会系のカルトな思想に魅入られた東山なら、自分を心の底から慕ってくれる後輩がいたら、逆に目に入れても痛くないほどに可愛がりそうなものだが、実際には、東山は桑原を苦手にしており、扱いに困っている様子である。 

「後輩ってのは、職場の後輩ってだけの意味じゃねえよな?」

 何かがある、と踏んだ俺は、東山にカマをかけてみた。

「ああ、知っての通りだ。アイツは俺と同じ医療少年院の出身だ。前の会社が、少年院や刑務所を出た若いのを積極的に受け入れる方針だったんでな。言っておくが、俺は二人分の金などは払えん。お前がアイツと一緒になって、二人して俺を強請るというのなら、俺はもうこの会社を辞め、家族も捨てて何処かへと去る」

 自分が威張り散らせる職場と、自分が腕一本、男根一本で作り上げた家族。俺と同じ、世間を自分の色で染め上げなくては生きていられない東山が、血の滲むような努力をして手に入れた生活環境、この生きづらい世間の中に作りあげた自分の「巣」を、簡単に捨てるとは考えられない。これは、そこまでやれば俺を殺害する、という警告である。

「心配すんなって。そんな自分の分け前が少なくなるだけのことをして、俺になんのメリットがある?見てるとお前のことを慕ってるみたいだし、桑原にもそんなつもりはねえだろ。ただよ、その代わりといっちゃなんだが、ちょっと協力してもらいたいことがあるんだ」

 桑原は、別の目的――忌々しい莉乃と唐津に復讐するための駒として、使えるかもしれないと見込んだ俺は、桑原を自らの配下に引き入れるため、東山に協力を仰ぐことにした。協力といっても、大したことではない。桑原の目の前で、俺と東山との親密さをアピールしてもらうだけのことである。

 しかし、それが効果覿面だった。バカに対しては、論より証拠である。桑原は、派遣の身分でありながら、己が尊敬する東山に偉そうにタメ口をきく俺をタダモノではないと思ったらしく、その日から俺に一目置くようになった。

「アニキ・・・お近づきの印に、これを・・・」

 桑原が入って二日目、彼からおもむろに手渡されたのは、中学二年の社会科の教科書であった。さっそく開いてみると、二ページめの日本地図の、上の方の余白に、マジックで大きく「天下統一をどうするか」などと書かれているのが目に入った。

「これは俺が中学時代に考えた、パクス・ジャポニカ、つまり、日本を中心とした世界秩序を作るための軍略です。一介の右翼にとっては机上の空論ですが、アニキのような、真に実行力のある方ならば、必ずや役立てて頂けると確信しています」

 日本地図には、余白の部分に、「二○一九年、天皇をよう立する」「二○二一年、そうりをたおす」「二○二四年、大陸侵攻を開始する」などの走り書きがなされ、その年度における版図拡大の様子が、歴史関係の書籍におけるイラスト風に、地図上に各色のマーカーペンで塗り表されている。ポジティブなことばかりを書くのではなく、「二○二六年、ばくりょう長が裏切る」など、勢力にとってマイナスな自体も想定されているのは、芸が細かいのか何なのか。

 大事な教科書を汚さず、せめてジャポニカ学習帳にでも書き込んでいろといった話だが、昨日、作業中の会話で、自分が歴史好きであることを語った俺に、桑原は好意のつもりでこれをくれたらしい。

 いくら天才軍略家の書といっても、一介の外道、一介の変態に過ぎない俺にこれを活かす道があるとは到底思えないが、これから大きな力になってもらう配下からの献上物を粗略に扱うわけにもいかない。

「お、おう。ありがとう。参考にさせてもらうぜ」

 常識離れした発想で、俺の度胆を抜いた桑原。しかし、桑原の規格外の言動は、これだけではなかった。

「東山先輩は、マジちょーかっけーっすよ。俺もレイプに盗みに恐喝に、数えきれないくらいの悪事を働いたけど、殺しだけはできねーもんなー。せいぜい、少刑で反目してた相手を、自殺未遂に追い込んだくらいですよ。同級生の女の子を滅多刺しにするなんて、ぜってーできねーもんなー」

 悪事が勲章になる世界で育った桑原にとっては、東山の殺人は英雄的行為に映っているらしい。その英雄を人殺しまで追い込んだのは俺であるが、英雄のさらに上をいったと俺を評価してくれるのか、彼のヒーローを追い詰めた俺を憎むのか、どちらともいえず、俺と東山の過去の関係を暴露するのは躊躇われた。

 また、ある日、二人並んで小便をしたときのこと。

「アニキ・・・。宇宙船の部品とかが地球の周りをものすごい速さで回ってるやつを、宇宙ゴミっていうじゃないですか。それを英語で言うと、スペース・デブリじゃないですか」

 桑原は顔に似合わない横文字を口にし、世界征服だけでは飽き足らず、宇宙にまで話しのスケールを広げていく。

「あ、ああ・・。それがどうした」

「じゃあ、俺のこの、ちんこのゴミは、ペニス・デブリっていうんですかね」

 それを言うならせめて、ペニス・ダストではないかという話であるが、たぶん、真顔で恥垢まみれのペニスを俺に向ける桑原の脳内には、常人には理解しえない、大宇宙が広がっているのだろう。

 バカと天才は紙一重などというが、世の中にはどうしても、日常生活を営む上でなんら必要のないことばかりに思考を費やしてしまう人がいる。その発想が社会にとって有益なものに結びつけば、その人物は天才と呼ばれ、役に立たぬものなら、その人物はバカと呼ばれる。傲慢な社会の側が、勝手にそれを決めるのだ。

 歴史の授業中に自分が世界征服することを、天体や生物の授業中に宇宙ゴミと恥垢を結びつけて考えてしまう桑原が社会からドロップアウトし、犯罪行為に走ってしまうは、仕方のないことである。それは彼の脳の構造の問題なのであって、自己責任などではない。桑原も俺と同様、社会への復讐者としての定めを背負った男だったのだ。

 空前絶後のバカか、希代の天才か。どれだけ働いてくれるかまったく計算できず、下手したら大損害を与えられるリスクもあるが、ときに計算以上の大仕事をやってくれるのも、こういうタイプである。

 莉乃、唐津、その周辺の者ども――。俺に不快な思いをさせたあの者どもは、絶対に許さない。
かならず目にもの見せてくれる。平和ボケの脳内お花畑野郎どもが発散する気だるい空気を、必ずや霧消させてやる。歓喜のエンディングが約束されためくるめくおとぎ話をぶち壊せるのは、桑原のような、既成概念の外にいる人間なのだ。

 新しく入った桑原とバカのようなやり取りをすることで、とりあえず三食、飯が食えるくらいまでには回復してきたものの、莉乃と唐津が日を追うごとに親密度を深めていく、忌々しい状況が変わったわけではない。また、その状況を打破する具体的な策が描けたわけもない。このままいけば、せっかく獲得した駒である桑原を使う前に、俺が単独で「暴発」してしまいかねなかった。

 復讐を決意した人間にとって、恨みの強さはそのまま原動力となるが、そればかりに囚われていてもいけない。想いというものは内に秘めておくべきものであり、冷静に事を運ぶには、ある程度、余裕というものがなければいけない。

 やはりどうあっても、女を作らなければならないようだった。俺が莉乃と唐津への恨みを無くすのだけでなく、莉乃と唐津に復讐するためにも、俺の身体は若い女体を必要としていた。

 この時点の俺は、莉乃と唐津への強烈な敵意から、まるで桑原を除く派遣スタッフの全員が、莉乃と唐津に味方しているように思い込んでいた。

 だが、実際にはそうではなかった。丸菱で働く海南アスピレーションのスタッフは二十名近い。その二十名すべてがおとぎ話の住人であったはずもなく、奴らの世界にまつろわぬ者は、ちゃんといたのである。

 ある日のこと、作業中に莉乃と、ある女の派遣スタッフとの間で、揉め事が起きた。

「島内さん。ここはさっき、圭一くんにいわれたところです。同じ失敗を、二度するのはいけないことだと思います」

 莉乃にそう注意をされ、女の派遣スタッフ、島内純玲が、わっと泣き出してしまったのである。かなり取り乱した感じで、とても仕事は続けられそうもない様子であったため、純玲は東山から早退を命じられ、定時間を待たずして帰っていった。

 その直後に、莉乃とその取り巻きから聞こえてきたのが、次のような会話である。

「なんなの、あれ。ちょっと注意されたくらいで泣きわめいちゃって」

「失敗ばっかしてるし、それをすぐ報告も、相談もしない。あれじゃ言われるのは当たり前なのにね」

「性格もちょっとおかしいとこあるしな。変にバカ丁寧かと思いきや、いきなり怒ったり、泣きだしたり、不安定だよな」

「和を乱す人には、辞めてほしいよ」

 イジメは絶対になくならない。それは人が団結して生きるために、必要不可欠な行為だからである。

 国家でも軍隊でも学校のクラスでもいいが、人間同士が、思想や生い立ちの垣根を越えて強固な団結心を得るためには、必ず「アイドル」「ヒーロー」と、「巨悪」が必要だ。丸菱運輸の派遣スタッフでいえば、莉乃や唐津のような、愛すべき王子様、お姫様をみんなで盛り立てていくことと、東山のような「暴君」に対抗するために心を一つにすることがそれに当てはまるが、もう一つ、特定の人間を見下して「賤民」とし、みんなで一緒になって差別するというやり方もある。自分たちより大きな存在を崇める、あるいは立ち向かうだけでなく、弱く、小さな者を叩くことでも、集団の団結力は高められるのである。

 その場合必ず、自分たちの後ろめたさを解消するために、あいつは劣っているから、うまくできないから、ではなく、あいつは「悪いヤツ」だから、差別されても当然なのだという大義名分が掲げられる。やっていることはただのイジメだとしても、その行為をけして悪とは認めず、逆に自分たちのほうが、正義の名のもとに、秩序を乱す悪を叩いているのだ、と主張する。俺と東山の「生存競争」は、最初は巨悪に立ち向かう構図だったのが、いつの間にか立場が逆転し、「賤民」への差別となってしまった例であろう。

 正義などは、人が欲望を正当化するためにでっちあげた、ただの欺瞞である。所詮はその場、その時々の強者の都合によって変わるものでしかない。

「まあ、辞めてほしいは言いすぎですけど、一回みんなで、ガツンと言ったほうがいいかもしれませんね」

 上から目線で、偉そうにそう語るのは、近頃、古株の深山を差し置いて、派遣スタッフの若きリーダーの風格を漂わせつつある唐津である。

 おとぎ話の住人どもから悪のレッテルを張られ、「魔女裁判」を受けさせられそうになっている島内純玲に同情した俺は、その晩、勤務を終えると、もちろん下心もあるが、半分は本当に彼女を慰めるつもりで、東山から住所を聞いて、純玲のアパートに足を運んでみた。純玲とは数回、あいさつ程度の言葉を交わしただけであったが、彼女は俺の訪問を快く受け入れ、外食の誘いに応じてくれた。

「ほんとありがとう。誘ってもらって嬉しい・・」

 居酒屋の席につくと、島内純玲はすでに涙ぐみながら、俺に感謝の念を伝える。昼間の件は、やはり相当に、彼女の心にダメージを与えていたらしい。

「いや、昼間あんなことがあったからよ、本当に心配になったんだ。まあブスだったら心配なんかしねえけどさ、姉ちゃんは可愛いからよ」

 濃い目の化粧、明るく染めたソバージュの髪。東山から聞いた年齢は、二十七歳。冗談が通じ無さそうな印象だった莉乃とは違い、経験した男の人数が多そうで、それなりに酸いも甘いも噛分けてきたような印象の純玲には、最初からくだけたナンパ口調で会話をすることができた。

「見苦しいところを見せてごめんなさい。他の人から注意されるのはどうもないんですけど、あの人だけはちょっと・・・。理屈じゃなく、頭に血が昇っちゃって、冷静になれなくなって・・」

「あの人ってのは、下川莉乃のことかい?アイツが嫌いか?」

「・・・・・はい」

 男女問わず、派遣スタッフのほとんどから愛されている莉乃に、なぜか敵意を示す純玲。彼女の心の中で何が起こっているのか探るため、俺は純玲にアルコールを勧めつつ、これまで彼女が送ってきた人生について聞き出してみることとした。

「子供のころからちょっとしたことで泣いたり怒ったり、感情の揺れ動きが激しくて、人間関係がうまくいかなかったんです。友達になってくれた子がいても、私から縁を切っちゃって・・・」

「自分から縁を切ったってのは、どういうことだい?」

「すごく仲が良かった友達だったんだけど、その子はみんなから好かれる子だったんです。私以外の子と仲良くしてるのを見るのが耐えられなくて、ある日、電話で、私と縁を切ってくれって頼んじゃって・・・」

 悩み患うくらいなら、悩みの種ごと消し去ってしまうという発想。思いつめると極端な思考に走るタイプの女だろうか。いずれにしても、女友達に対してそこまで強い執着と嫉妬心を見せてしまうほどなら、好きな男などができたら、とんでもないことになってしまうのではないか。

「恥ずかしいけど、その通りです。電話の向こうから、全然関係ない通行人のハイヒールの音が聞こえてきただけで不安になったりするくらい、異常に嫉妬深くて。そのくせに、向こうが私のこと大事にしてくれてるのに、私が勝手に怒って別れを切り出して、音信不通になっちゃったこともありました。一人の人と、長く続いたためしがないんです」

 ファストフード、ファストファッション――気軽に物が手に入り、気軽に捨てられる時代である。人間関係にも、同じことが言えるのかもしれない。

 他人を深く思えることよりも、他人に執着しすぎず、一定の距離感を保てることが重要視され、多くの異性の間を渡り切ったことが一種のステータスとされる。昔なら情が深いと言われていた人間が、重い、面倒くさいなどと言われて敬遠され、昔なら情熱的とか言われていた人間が、ストーカーの烙印を押されて気味悪がられる。良くも悪くもドライな世の中で、人間味豊かで、思いが強い人間が、生きづらさを感じてしまっている。

 優しく、思いやりに満ち溢れた純玲は、薄味の人間関係が尊ばれる時代に生まれてしまったせいで、ずっと苦労を重ねてきた。今の世を憎む者として、俺は純玲にシンパシーを覚える。この女は紛れもなく、俺と似た女である。

 だが、この女の方が、俺に共鳴してくれるかどうかはわからない。俺が社会的弱者に同情的なのはあくまで一般論であって、個人の立場としては、俺は俺の思想信条をよく理解し、何らかの形で支援してくれる者だけの味方である。若い女であれば、セックスの相手をしてくれるかどうかも大事なことだ。いくら同じ社会的弱者といっても、莉乃や唐津のように、俺の価値観に相対し、俺に何らの利益も齎してくれないヤツだったならば、そいつは俺の敵でしかない。

「両親はどっちもすぐ怒る人で、殴られたりもしました。私がだらしなくて、言いつけを全然守らなかったり、すぐ物を失くしたり、部屋を散らかしちゃったりしたのもあるけど・・・。一度、怒り狂った母親に、部屋に閉じ込められたことがあって、どうしてもトイレに行きたくて、二階の窓から飛び降りたら、背中を怪我しちゃって・・・。親は虐待を疑われるのを恐れて、病院には連れて行ってもらえなくて・・。学校に言うのも止められてたから、体育の授業を休んだとき、先生に仮病だと疑われて怒られたのは辛かったなあ・・・。今でも気温が下がると、古傷が疼くんです」

 感情の起伏の激しさは、血筋なのかもしれない。良い親か酷い親かで言ったら酷い方だとは思うが、どんな親でも、子供にとってはこの世に二人しかいない親である。俺もかつて両親と骨肉の争いを繰り広げ、廃人にまで追いやった過去を持つが、だからといって、何も知らない他人から親を悪く言われれば、いい気はしない。この場面は、頷くのみに留めた。

「もう一つ酷かったのは、これは完全に私が悪いんですけど、お兄ちゃんが友達とファミコンで遊んでいるとき、私に構ってほしくて、偶然を装ってファミコンを蹴飛ばしちゃったこと。セーブデータが飛んじゃって、お兄ちゃんすごく怒って、私に熱湯を浴びせかけてきて。そのときの火傷が、ほら、今も残ってるんです。自業自得ですけどね。あのときはお兄ちゃんに、本当に申し訳ないことしちゃったなあ」

 お人好しで、寂しがりやで、自罰的な傾向が強い女。騙して金を奪うことは、俺にも容易にできるかもしれない。しかし、この女を陥れてやろうなどという考えは、どこからも湧いてこなかった。この女を、俺がどうにかして守っていけたらと思う。この女に、俺を支えてほしいと思う。同じ社会の中で生きづらさを感じている者として、この女には強いシンパシーを感じる。そのうえ見た目がいい。

 飛び切りの美人というわけではない。細面の輪郭はいいが、鼻がぺちゃんこに潰れ、目は大きいが、その下には苦労からか濃いクマができ、まだ二十代だというのに、深いほうれい線が目立ってしまっている。ランク分けすれば十点中五点、どこにでもいる普通の女である。だからこそ強く惹かれた。

 俺が美人を追い求めないのは、単に競争率が激しく、手に入れられる望みが少ないからというだけではない。何もかもに恵まれ、踏みつけられる人間の気持ちなどまったく知ることもなく生きてきた美人とは、どれだけ会話や趣味が合ったとしても、最後の最後のところで、絶対に分かり合えないに決まっているからである。

 コンプレックス――俺の宝。俺はコンプレックスを否定しないし、捨てようとも思わない。コンプレックスのないヤツとは、友人にも、恋人にもなれない。コンプレックスも持たず、踏みつけられる人間の気持ちがわからないヤツなどは、野蛮人と一緒だ。野蛮で下等な美人などよりも、俺はコンプレックス塗れの、並み程度の女に強く惹かれる。太陽のように眩い光には耐えられない、傷つき弱った俺を、コンプレックスに塗れているがゆえに人の痛みがわかる優しい女に、月のように照らして欲しい。

 俺が当初、莉乃に期待していたのも、それであった。お世辞にも美人とは言えない地味な容貌で、若くもなく、学習障害まで抱えた莉乃は、コンプレックスの塊であり、自分に自信がない女だと思っていた――が、莉乃は俺が期待するような女ではなかった。

 コンプレックスがなかったわけではない。むしろ莉乃は、俺と同等か、それ以上のコンプレックスの持ち主である。

 莉乃が俺と違ったのは、コンプレックスを全否定していたところだった。莉乃はコンプレックスはすべて悪いものだと決めつけ、コンプレックスを抱えている自分を、心底恥ずかしいと思い込んでいる。莉乃にとっては、自分と同じ、コンプレックスの塊である俺のような男と付き合うことは、「傷のなめ合い」にしか見えず、到底受け入れられるものではない。コンプレックスの塊のような俺に、「同じ穴の貉」と見られていることに異常な嫌悪感を示す莉乃は、俺をメタクソに踏みにじることで、自分を必死に、生まれつきコンプレックスとは無縁の、イケメンや美人の側に置こうとしていた。

 コンプレックス塗れの、並み程度の女を、「同族」だと考える。だから、気持ちを踏みにじられたとき、より強い憎しみを感じてしまう。

 ある国で、「並顔族」という民族が「美刑族」に支配され、苛烈な収奪を受けていた。並顔族の男Kは、並顔族にとって不倶戴天の敵である「「美形族」には強い反感を感じているが、あんな野蛮な連中には何を言っても通じまい、という諦めの気持ちもあり、反乱を起こそうとまでは思わない。それよりも、並顔族は並顔族どうして、お互いをいたわり、仲良くやっていければいいのではないか、と考えていた。

 しかし、ここに「並顔族」でありながら、自分を「美形族」の一員だと信じ込み、美形族に徹底的に媚びを売り、美形族と一緒になって、並顔族を虐げ、収奪を行う女Rが現れた。

 大事なのは、このとき、並顔族の男Kの憎しみは、もともと並顔族を虐げていた美形族ではなく、「同族」を裏切ったRの方に、強く向かうということである。言葉も通じない野蛮な美形族には何を言っても無駄かもしれないが、Rは同じ並顔族なのに、どうして奪われ、虐げられ、踏みつけられる人間の痛みがわからないのか、と思ってしまう。長い間自分を支配していた美形族に腰寄せるなど、なぜそんなプライドのない、恥知らずな行為ができるのかと思ってしまう。

 願わくは、純玲は自分のコンプレックスを全否定しない女であってほしい。干上がった泉のような、カラカラに渇いた心を持った者にも構わず照りつける太陽のような女ではなく、強すぎる熱と光に傷つけられた心にも優しい、月のような優しい女であってほしい。

 俺は純玲と結ばれるべく、純玲が語ったのと同様、彼女に自分のことを話し始めた。東山との「生存競争」など過激なエピソードは取りあえず伏せておいて、自分がいかに社会に適応できなかったか、社会の中で生きづらさを感じてきたかを伝え、俺が純玲と同じ苦しみを抱えた人間だということをアピールした。

 互いを分かり合えたとき、男女の仲は急速に深まる。夜更けに、俺は純玲と結ばれた。ゆかりのような化け物ではなく、ちゃんと女の形をした女と性交するのは久々の機会であり、年甲斐もなく二回戦、三回戦を所望し、繰り返し絶頂に達した。

 今まで、世間の連中とは考えが違うことを散々思い知らされてきた俺だが、女を愛する気持ちだけは、世間一般的な男と大差はないと思っている。純玲との出会いにおいて、俺は、三十二年の屈辱と恨みから、束の間解放されたのである。

 かくして、俺と純玲の交際はスタートした。

「お前はずっと俺の女だからな。お前が他の男に走ったら、そのふざけたヤローは絶対殺す」

 俺は純玲の心を掴むため、早い段階から過激な言葉を用いていた。男を道具のようにしか考えていない、莉乃のようなドライな女になら、引かれて逆効果になるのだろうが、人を想う気持ちの強い純玲ならば、女のことをそれほどまでに想っている愛の証と受け取ってくれると確信したのである。

「私は重治さんから離れないよ。ずっと大事にしてね」

 純玲の答えはまさに俺の思い通りで、交際は出足から順調であった。

 だが、付き合い始めて一週間ほどが経ったころ、一つの問題が浮上してきた。純玲のアパートは丸菱の倉庫から歩いて三十分ほどのところにあるそうなのだが、彼女はどういうわけか、俺を家に上げてくれないのである。

 男と女が身体を重ね合わせるには、身を横たえられる場所が必要である。俺の家には化け物ゆかりがおり、純玲を上げてやることはできない。ラブホテルに行くしかないのだが、せっかくタダでヤレる環境が近くにあるのに、毎回わざわざ金を払ってホテルに行き、時間制限の中で、限られた回数しかできないというのは、やはり口惜しいものがある。

「なあ、いい加減そろそろ、お前のうちでしようぜ。一人暮らしなんだろう?何も問題はないじゃねえか。それとも、俺に住所を知られるのが嫌なのか?」

「そうじゃないよ。私の家は散らかってて、人を上げられる状態じゃないんだよ・・」

「なんだよ、それ。片づけりゃあいいじゃねえか」

「簡単に片づけられるような次元の汚さじゃないんだよ・・・」

 仕事で失敗の多い純玲を見ていて、俺は彼女には、ADHD――注意欠陥、多動性障害があるのではないかと、前々から疑っていた。学校や会社で、落ち着いて自分の席に座っていられなかったり、町へ出たとき、フラフラと親の目を離れてよく迷子になったり、後先のことがまったく考えられず、高いところから飛び降りたりなどの無茶をよくする「多動性」と、忘れ物や落とし物が多く、時間の感覚が希薄で期日を守れなかったり、遅刻をしがちで、仕事や日常生活で細かいミスの多い「注意欠陥」の二つを併せ持つ発達障害である。

 整理整頓が苦手で、部屋の片づけができないのも、ADHDの典型的な特徴だ。十何年か前に、そういう女が多いというタイトルの本がベストセラーとなったが、昔からの性役割のイメージで、女は男よりも家事がちゃんとできなければいけないと思いこんでしまうせいで、男よりも余計に気に病んでしまう傾向があるという。

 欧米では古くから認知されている障害で、特効薬も市販され、学業や仕事でも一定の配慮を受けることができるが、例によって発達障害の理解が遅れている日本では、いまだに「怠け病」などとも言われ、本人の努力不足だけで済ませられがちである。学齢期はまだいいが、社会に出てからは、失敗を繰り返すせいで自信を失ってしまい、失職や、うつなどの精神障害にも繋がりやすい。
 ADHDは俺自身にもその特徴が疑われるため、莉乃の学習障害よりも、知識は豊富であった。純玲が今まで味わってきた苦労も、容易に想像できた。

「だけど、このままラブホで金を払い続けるのはバカらしいだろう」

「それはそうだけど・・・」

「じゃあ、こうしよう。あと一週間待つから、何とか部屋を掃除してくれ。それができなきゃ、汚いままでいいよ。ゴミためみてえな部屋だろうが、俺はお前と一緒にいられるなら、まったく気にはしねえよ」

 反対に、俺の方がゆかりを追い出せばそれでも解決にはなるのだが、ここ一か月ほどの絶え間ない暴力により、ゆかりの顔面には無数の傷が出来ており、今放り出せば警察沙汰になってしまう恐れがあった。なんとしても、純玲に片づけを頑張ってもらわなくてはならなかった。

 が――。純玲は頑張れなかった。一週間経っても、部屋を片付けられなかったのである。

 純玲が発達障害、ADHDなのだとしたら、これは頑張る、頑張らないの問題ではない。ADHDに整理整頓をきっちりやれというのは、半身不随者にフルマラソンを走れと言っているようなものだ。努力が足りないのではなく、脳の構造が人と異なっているのである。

「やっぱり、ホテルに行こう。私がこれからずっとお金を払い続けるから」

「バカなこと言ってんじゃねえよ。ゴミためだろうが気にしないって言ってるだろ。俺が信用できねえのか」

「・・・・わかったよ」

 渋る純玲を説得し、ようやくのことで、俺は純玲の部屋に入ることができた。

「・・・・ごめんね」

 申し訳なさそうに謝る純玲。確かに、部屋は足の踏み場もないほどに散らかっている。生活用品や書物だけでなく、食べ物の袋や紙くずなどのゴミも溢れかえり、衣服も脱ぎっぱなし。布団を見れば、シーツに生理の経血がシミになってしまっている。

「ごめんね、汚いよね」

 純玲は部屋の状態について俺に謝りながら、ガムテープで布団についた髪の毛を拾い集めている。それより先にやるべきことがあるだろう、とは、誰もが突っ込みたくなるところだろうが、ADHDの脳は、物事の優先順位をつけるのが極端に苦手なのである。やらねばいけないことがいつも後回しになり、どうでもいいこと、後でやればいいだけのことから先に手をつけてしまうのだ。

 誰にでもできることが、本当にできない。この障害の持ち主は、本来、活発で明るいという性格的特徴を持ち、子供のころは友達が多かったりするのだが、成長するにつれ、社会生活の中で周囲の理解を得られないために、自信を極端に失ってしまい、大人になってからは、殻に閉じこもりがちな人生を送ってしまう場合が多い。

 純玲が二十七年の人生で味わってきた苦労と苦悩は、純玲がずっと閉じこもってきた、この部屋の状態を見れば、容易に想像できた。

「気にしねえって言ったろう。お前のようなイイ女が俺の女でいてくれる。それだけで十分だ」

 常識的な感覚として、純玲が俺に後ろめたさを感じるのはわかるが、俺にはまったく気にならなかった。別に、自分で宣言したことを無理に守ろうとしているわけではなく、本当に気にならないのである。逆に、ここまで汚れていれば簡単に引っ越したりなどはできず、俺から逃げないと安心できる。大体、こんな程度で汚れているなら、一人の少女を間接的に死に追いやり、自分の親を廃人にまでした俺は、どうなるというのか?俺の心象風景を映しているかのような純玲の部屋の状態は、むしろ心地が良かった。

「部屋はこれから少しずつ、片付けていけばいいよ。何だったら、俺も手伝うしさ。ゆっくり、お前のペースでやればいいんだ。全部終わってきれいになったら、二人で一緒に住もう」

 パートナーに発達障害があることがわかって、それでも一緒にいたいと思うなら、何よりもまず、寛容さが必要だ。

 まったく何もさせないのではない。できることを、本人のペースでやってもらう。半身不随者がフルマラソンを健常者と競争することはできないかもしれないが、何日かけてもいいから、自分のペースで完走することだったらできる。他人とくらべてどうこうではなく、パートナーのペースに合わせて、一緒に走る喜びを大事にできるかどうかである。

「ありがとう。私も重治さんのような人が私の男でいてくれるだけで十分よ」

 俺が部屋の中で十分に寛いでいる様子を見て安心した純玲は、俺にますます気を許し、人に話しづらい己の過去について語ってくれた。

「家にはお金がなかったから、私たち兄妹は、中学を出たら働いて暮らさないといけなかったの。先にお兄ちゃんが入った酪農家に私も入れてもらって、二人で中国の留学生たちと一緒に働いてた。でも、どんなに一生懸命に働いても、月給は食費と寮費を抜かれたら五万もいかなくて・・。お兄ちゃんは段々真面目に働かなくなって、とうとう仕事をやめて、中国の人たちと一緒に悪いことをするようになっちゃったの。それで二十一歳のとき、敵対する日本の不良グループのメンバーを殺して、死刑判決を受けて・・・・」

「話してくれてありがとうな。兄さんは可愛そうな人だったと思う。俺としては、お前がイイ女であり、俺の女である。何度でもいうが、それだけで俺は十分だ」

 それ以外に、何も求めるものはない。純玲の過去は、交際になんら不都合とはならない。それどころか、俺を信頼して話しづらいことを話してくれたと嬉しくなる。純玲が他の男に走らず、ずっと俺の元にいてくれる確信が持てて嬉しくなる。

 俺は純玲に総選挙で一位を取ってほしいわけでもなければ、誰もが憧れる純玲を手に入れた自分を誇りたいわけでもない。ただ、島内純玲という女と一緒に居られればいいだけだ。

 俺からすれば、世間からの純玲の評価などはどうでもいい。いや、悪ければ悪いほどいい。純玲の持つ劣等感が深ければ深いほど、純玲の背負った不幸が大きければ大きいほど、純玲は俺のところにいてくれると、安心できるのである。

 何事も裏表である。世間の者どもから情緒不安定と見られる純玲は、俺から見れば感情豊かで天真爛漫な女。世間の者どもから執念深いストーカー気質と見られる俺は、純玲から見れば、一人の女にとことん愛情を注げる一途な男。世間の価値観に染まれないということは、固定観念に囚われた人間が、正当な理由もなく敬遠しているものを、何らの抵抗もなく受け入れることができるということ。

 愛情に恵まれぬ家庭環境があった、発達障害があった、犯罪加害者の血縁だった。だから、この女を大事にしなければならない・・・不幸の三重苦を背負った人だから、幸せにしなくてはならない・・・。そんな上から目線で、純玲を見るつもりはまったくない。ただ、この女とずっと一緒にいたい。それだけだった。

 純玲を手に入れた俺は、東山に命じ、職場に掻き集めたアホ女たちとの契約を一斉に切らせた。もともと、働きぶりに問題があった連中である。どこからも文句が出る筋合いはなかった。

「もう、これからはあんな無茶を言うのは勘弁してくれよ。こっちは大変なんだ」

「わかってるって。詫びと言っちゃなんだが、来月の支払いは半分でいいからよ」

「え?いいのか?・・・・すまない」

「迷惑かけたんだからな、当然だ。お前の方も、俺に協力できることがあったら何でも言って来いよ。ガキの幼稚園の送り迎えから盗みに殺しまで、何でもやってやるぜ」

 寄生虫としての生活も安定してきた。宿主を生かさず殺さず、じわじわと養分を搾り取ることを長らく続けていると、宿主はいつしか、それが普通の状態なのだと錯覚するようになる。時々情けをかけてやったり、頼みをきいてやれば、なぜか感謝され、次から気持ちよく養分を吐き出してくれるようになる、というおかしな現象が起きる。

「お前にとっちゃ災厄だろうが、俺はこの丸菱に派遣されてきて本当によかったよ。今までの派遣先じゃ、散々な目に遭ってきたからな。お前や中井なんて仏に見えるような奴らに散々扱かれて、ケガも負ってきたし、精神を病んで、鬱になったこともあったからな」

 自分の人生を卑下し、とことん情けない男を演じる。これも寄生虫には重要な仕事である。人というものは、どれだけ自分に酷いことをした憎い相手であろうと、そいつが自分よりも社会的に低い地位におり、恵まれない労働環境、生活環境の中で苦労していると思えば、溜飲も下がり、ある程度納得できるものだ。少なくとも、そんなヤツに復讐してもしょうがないと思うだろう。

 プライドの高い東山に、これは強請りなどではなく、俺のようなどうしようもないゴミに、東山のような聖人が施しをやっているのだ、というふうに思わせられれば、こちらのものだ。身体はでかいが脳みそは小さい東山は、徐々に徐々に、俺の術中に嵌っていっているようだった。

「純玲。この間行った、まんこつラーメン屋にまた行こう」

「うん。重治さんが前に付き合っていた、ゆかりさんって人のあそこの臭いがする、とんこつラーメン屋さんね。私もまんこつラーメン大好きよ」

 考え方から趣味嗜好、造語の使用まで俺に合わせようと努力してくれる純玲。世間の常識から隔絶された、俺の独自の世界を理解してくれ、好きだと言ってくれる存在はどこまでも愛しい。純玲との交際によって、莉乃や唐津に蝕まれた俺の精神は日増しに回復してきた。

 純玲との交際に自信を深めた俺は、自分に同居人がいることを、純玲に打ち明けた。純玲の部屋の状況と同様に、いつまでも隠し通せることではない。いつかは話さなければならないことである。

 純玲は初めびっくりしていたが、ゆかりに愛情はまったくないこと、DVが発覚する可能性があり、放り出すわけにもいかないことを伝えると、納得してくれた。そして、ゆかりに見せつけながらセックスをし、俺を他の女に奪われたゆかりの嫉妬心を利用して、新鮮な刺激が得たいという俺の頼みを聞いてくれたのである。

 純玲は初めびっくりしていたが、ゆかりに愛情はまったくないこと、DVが発覚する可能性があり、放り出すわけにもいかないことを伝えると、納得してくれた。そして、ゆかりに見せつけながらセックスをしたいという俺の頼みを聞いてくれたのである。

「凄い・・いいっ、いいよぉっ。重治さん好き、大好きよ」

 最初は戸惑いを見せていた純玲も、いざ、醜い婆であるゆかりに見せつけながらするセックスを始めてみれば、すぐにノリノリになった。嫉妬深い純玲は、それであるがゆえに、他の女から男を奪うことに興奮を覚えるタチでもあったらしい。

 危惧していたのは、ゆかりへのDVが発覚してしまうことで、純玲が俺に恐れを抱いてしまうことだったが、その不安は見事に払しょくされた。純玲はむしろ、他の女に酷いことをする男が、自分にだけは優しくしてくれるという事実に、喜びを感じてくれたのである。

 良い人よりもちょっと悪いくらいがモテるというのは、ようするにそういうことなのだろう。自分勝手といえば自分勝手な話だが、女は一度好きになった男には、とことん盲目的なのだ。

「ゥうううう・・ケンちゃん、一たす一は二、一たす二は三だからね・・・・・ゥううううっ・・・・」

 ゆかりは俺と純玲が重なり合うのを直視しようとはせず、ひたすらに気味の悪い呻き声と、わけのわからぬ言葉を発し続けていた。これまで散々に酷い目にあわせており、俺への感謝と愛情はとうに失せているはずだが、いざ俺を他の女に奪われるとなると、現実を受け止められぬようである。

 顔が腫れあがるほど殴られ、毎日五キロで千円の家畜の飼料米だけを餌とする食生活に耐え、最愛の我が子まで捨てられて、それでも俺の元から逃げ出さず、毎晩セックスの相手を勤めてきた自分の苦労は、いったい何だったのか・・・。ゆかりは今、深い絶望と、ひどい理不尽を突き付けられたと感じているのであろう。ゆかりのその絶望こそが、俺のペニスに、鋼鉄を断ち切る硬度を与え、純玲に天に昇るような快楽をもたらす媚薬となるのだ。

「気持ちいい。気持ちいいなあ、純玲。どっかの不潔な豚と違って、純玲の身体は石鹸のいい香りがするぜ」

 真夏に何日も風呂に入らせず、排泄の後ウォシュレットは絶対に使わせず、部屋の中にいるときも通気性の悪いブーツを履かせるなど、今まで俺は、ゆかりの身体を臭くすることに、徹底的なこだわりを持っていたはずだったが、純玲とセックスをするときに限っては、どういうわけか、俺の不潔嗜好的な性癖は陰をひそめていた。女の肉体を貪るだけなら臭いほうが興奮しても、外を連れ歩くときなどは、風呂に入っていなければ何かと不都合がある。ゆかりと違って純玲に対しては、俺は肉欲以外の幸せを求めているという証拠である。

 つい最近まで、醜く汚いゆかりとしかできなかった俺が、今はそこそこの容姿で清潔な純玲とできている。何であれ自分の生活が向上するというのは、嬉しいものである。同時に、自分が乗り捨てた女を苦しめることで、いま愛している女にも、勝利の快感と、男に愛される幸福を与えてあげられるこのひと時は、俺に何ものにも代えがたい喜びを感じさせてくれた。

「ううががあああっ!!ががががああっ」

 乗り捨てられた女は、大人しく負け犬のままではいなかった。豚が鬼の形相になり、ゆかりは己から男を奪った純玲に殴りかかっていったのである。気の小さい俺は突然のことに竦みあがり、情けない話だがペニスを萎えさせながら、ただ純玲が背中を打たれているのを眺めているしかできなかった。

「いっ・・・・・てええんだよ、クソババアがっ!」

 体重は重いが、家の中で寝転がっているだけで筋肉が衰えていたゆかりの攻撃は大してダメージを与えられていなかったらしく、純玲はすぐに反撃に転じた。

「てめえばブスで臭すぎて、生きる価値がねえんだから、死ねよっ!」

 純玲は平手ではなくグーパンチで、ゆかりの腹、顔面を滅多打ちにする。鈍い音が室内にこだまし、ゆかりは鼻血を吹き出しながら畳の上にダウンした。Tシャツの裾がめくれ、露わになった腹肉が、皿に落とされたプリンのようにぶるんと揺れる。

「私の重治さんに暴力を振るったら、てめえタダじゃおかねえからな。てめえは自分の立場を弁えて、汚え顔してそこで見てろよ、クソ豚が」

 純玲はドスの利いた声で凄み、ゆかりの顔を踏みつけ、血にまみれ、ぐちゃぐちゃになったゆかりの顔に唾を吐きかけた。長きにわたり劣等感に苛まれ続ける中で、純玲の中には屈折した嗜虐性と暴力性が育まれていたようである。

 これまでの人生において、唐津のような「美形族」に散々踏みつけられて生きてきた、俺と純玲。人の痛みがよく理解できるはずの俺や純玲がゆかりを虐げるのは、矛盾しているように見えるが、矛盾していない。

 「美形族」に奪われ、傷つけられた痛みを解消する方法は、「美形族」に反乱を起こすことだけではない。自分がやられた痛みを、他の民族に味あわせるという方法もある。ある民族に虐げられている民族が、別のある民族を虐げ、収奪を行っているなどという例は、歴史上珍しくもない。
「並顔族」が思いやれるのは、同じ「並顔族」だけ。自分と別のDNAや文化を持った「醜形族」を、自分が「美形族」にやられてきたのと同じように痛めつけ、奪っても、何らの罪悪感も感じない。 
暴力は連鎖するのである。

 これまで虫も殺せないような優しく、か弱い姿しか見せてこなかった純玲の思わぬ一面を見たことで、俺の彼女への愛はますます深まった。この女は、俺のすべてを肯定してくれる女である。こんな女には、もう二度と遭うことはできないだろう。もし、今後、俺の目の前に新たな女が現れたとしても、けして目移りすることはないと断言できる。この先何があろうとも、この女は手放せない。いまこのとき、俺は出会ってからまだ一か月も経っていない純玲を、生涯の伴侶と定めたのである。

「わっ。なんすかこの、トドの腐乱死体みたいな化け物は!俺も殴っていいんすか?アニキ!」
「いく。いくぜっ」

 純玲の中でオルガスムスに到達した俺は、愛欲の落とし子を、床に仰向けの状態で倒れ、呆然と天井を見上げているゆかりの顔面に放出した。血まみれの顔面に、白濁の液が降り注ぐ。

「ケチャップとマヨネーズをかけて、さあオムライスを召し上がれってところか?」

「きゃはは。こんなくっさい、きったないオムライスなんか、食べられないって」

 莉乃と唐津、その周辺にいる者どもが今の俺たちの姿を見れば、鬼畜の所業と非難するのであろう。しかし、俺たちがやっていることは、奴らが俺や純玲を愚弄し、あざ笑っているのと、まったく変わらない。所詮人は、自分以下の弱者を見下すことでしか、己の存在価値を見出せない生き物だ。欲望を欺瞞で覆い隠さず、正直に生きている分、俺たちの方がマシではないか。

 世間の者どもが、己の嗜虐心と暴力衝動をキレイごとで覆い隠し、悪意なく人をいたぶる様は、俺たちにも増して醜い。奴らに俺たちを非難する資格はないのである。


外道記 改 5

               
                            5


 「王子様」唐津圭一が工場に派遣されてきたのは、莉乃が入ってから、ちょうど三週間後のことだった。

 年齢は二十歳。俺や莉乃より、十二歳も下の青年である。

 原色のTシャツにだぼだぼのジーンズ。茶髪、シルバーのネックレス。軽薄そうなヒップホップ系のファッションをした唐津は、当初、いつもムスッとしていて不愛想で、時々俺の方を見て、なにか小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべるなど、可愛げというものがまったくなかった。

 唐津は莉乃のことも、バカにしているようであった。送迎バスの中で、タバコ仲間と一緒に、いい歳をしてお姫様気取りだの、うんこ漏らして職場に残る気が知れないだの、おかっぱに色白という見た目が、とある特撮の怪獣に似ているだのと、ひそひそと、周りに聞こえるか聞こえないか、ギリギリの声でよく話していた。

 おかしなようだが、莉乃を馬鹿にしていることに関しては、俺が憤りを感じるということはなかった。むしろ、若く見てくれのいい唐津が、莉乃を眼中にないと思ってくれるのは、俺にとって喜ばしいことであった。

 俺は下川莉乃という女を手に入れたいと思っているのであり、総選挙でセンターを取って欲しいわけではない。ライバルが少なくなることを考えれば、むしろ、莉乃の周りからの評価は、低ければ低いほどいいのである。

 好きな女に、万人に好かれてほしいなどと思うヤツは、本当にその女を愛してはいない。周りに愛されている女を所有している自分を愛しているだけだ。俺は周りが莉乃をどう思っていようが関係ない。俺一人だけが、莉乃を魅力的だと思っていればいいのだ。

 だから莉乃が、男を自分の目で見極めるのではなく、他人の価値観、世間一般の価値観をアテにして選んでいるようなことを言い出したときは、頭に濃い靄がかかったような気分になった。

 大体、世間一般の価値観でいえば、三十を過ぎて、非正規の派遣労働しかできない俺などは、底辺も底辺、最底辺の男である。底辺の派遣労働者なのは唐津も同じだが、彼には若さがあり、これから浮上のチャンスがいくらでもある。小づくりな輪郭に、くっきりとした二重瞼、少し赤らんだ鼻、引き締まった唇が中央寄りに集まった顔立ちは、年齢より少し幼く見えるものの、まずまずイケメンの部類である。唐津と俺の男性的魅力を比べるのは、それこそ、老いさらばえたジャッカルと、鬣も凛々しい若いライオンを比べているようなものである。端から勝負にもならない。

 莉乃はといえば、自分が唐津にバカにされているのを知っているのかいないのか、最初は唐津のことは意にも留めていないといった様子だった。二十名からの派遣スタッフたちの間に、莉乃を中心とする空気ができ始めててからも、唐津とは挨拶を交わす程度で、二人で話しているようなところは一度もみたことがなかった。

 俺の知っている限り、約十名の男性派遣スタッフ中、唐津以外の若い男で現在交際相手がいないのは、豚男の宮城一人。つまり、ライバルは皆無といっていい。唐津さえ手を出してこなければ、莉乃への交渉権は俺の独占状態でなのである。

 ずっと、その状態が続いてくれていればよかった。しかし、昔から、起こってほしいことは必ず起きず、起こってほしくないことはかならず起きることの連続が、俺という男の人生である。お天道様に背を向けるどころか、糞をひりつけるような生き方をしてきた俺の人生に、明るい陽が射すことを願うなど、虫の良すぎる話だったのだ。

 ある日のこと、バスの中で俺とよく話していた四十代の男性派遣スタッフ、田辺が、その禿げ上がった頭を中井に打擲された際、唐津が割って入って、中井に食ってかかった。

「あんた、人を簡単に殴ったりなんかすんじゃねえよ!この人の親が見てたらどう思うかとか、考えねえのかよ!」

 ちょうど、東山が別の仕事で作業場に顔を見せていないときに起きた出来事で、殴り合いに発展しかねない一触即発の事態に陥ったのだが、粋がっているだけで実際には気の弱い中井があっさり引いたことで、そのときは収まった。

 俺にとって意外な展開を見せたのは、その後のことである。

 今までなら、東山や中井のような正社員に逆らった派遣スタッフは、正社員や、正社員の差し金である深山らから、徹底的な嫌がらせを受けるところであった。

 入れ替わりが激しい非正規労働者の間には、横の繋がりが生まれにくい。団結して対抗するということができないから、しばしば会社や正社員がやりたい放題になる。周りに誰一人、味方もいない状況で追い詰められた派遣スタッフは、もう辞める決断をするしかなかった。

 今回は違っていた。伏線となったのは、莉乃の存在である。例の、みんなで莉乃を支えるという雰囲気の中で友好を深めていた派遣スタッフたちは、勇気ある行動で理不尽な暴力から仲間を助けた心優しき唐津を、皆で庇う姿勢を見せたのである。

「唐津君、東山や中井に何をされても、気にしなくていいからな。俺たちはみんな、君の味方だ」

 莉乃同様に、英雄唐津の周囲にも、段々と人が集まり始めた。休憩時間には話に花が咲き、ある日は唐津の身の上話で盛り上がった。

「子供のころから、うちは何だか冷たい家庭だなという感じはしていました。そんなに貧乏でもないのに、なぜか服も全然買ってもらえないし、誕生日やクリスマスにプレゼントもない。でも、まあ、当時はあまり深く考えず、ケチな親くらいにしか思ってなかったんだけど、十八歳のときに突然言われたんです。お前は私たちの本当の子供ではない。十八歳になったらもう里親手当は出ないから、お前を育てることはできない。これからは家を出て、一人で生きてくれって」

 身寄りのない児童を里子として引き取った家庭には、国から一定額の養育費が支払われる。里親が福祉の指導に従わず、その手当を里子の養育以外の目的に使い込んでいるケースも中にはあるというが、唐津の家庭もそんな家庭の一つだったようだ。

「別にショックはなかったです。尊敬も感謝もしてない親だったから。ああ、そうなんだ、って。学校でも暴れまわったり、優等生だった弟・・・だと思ってきたあの家の子供をイジメたりもしてたし。むしろ、今まで迷惑かけてすいませんでした、って」

 ある日突然、両親が本当の親ではないと告げられたうえ、ボロ雑巾を捨てるように、家から追い出された少年。そのとき唐津は、世界のすべてが崩壊するに等しい衝撃を受けたことであろう。他人に理解されない苦しみを抱えて生きてきた俺とは違い、実にわかりやすい不幸話である。

 同情はする。俺の邪魔さえしなかったなら、いい友人にもなれるだろう。だが、俺にとって大事なのは、唐津がどれだけ可哀そうかどうかではなく、莉乃に手を出そうとしているかどうかである。それが全てであり、それ以外の判断基準はない。

 俺が唯一莉乃を譲れるとすれば、宮城のような、俺より顔も悪く金もない、俺以下の恋愛弱者だけだ。俺より何もかも劣るヤツが幸せになる分には、何も問題はない。底辺が底上げされていくなら、俺は後々、もっと幸せな思いができる可能性がある。

 だが、地盤沈下は許すことはできない。容姿に点を付ければ、少なく見積もっても十点満点中七点はある若い唐津に、十点満点中五点程度の、若くもない莉乃を落とされたら、それこそ世の中では、限られた一部の男しか恋愛ができないのだということになってしまう。唐津のように、もっと若くていい女をいくらでも抱ける男が、莉乃のような、腐れかけの三十路女と交際するなど、あってはならないことである。そんなことになったら、俺はもう一生、まともな容姿の女との恋愛は望めない。一生涯を、お下劣なゆかりと一緒に暮らさなくてはいけないことになってしまうのである。

「実家を出てからは、しばらく友達の家に居候してたんですけど、そこの親からも、段々疎んじられるようになってきて、三か月くらいで出ていきました。それからはネットカフェを転々ですよ。最初は気楽でいいなとも思いましたけど、毎日カップラーメンばっか食って、硬いリクライニングで寝ているうちに、病んじゃいました。もう一生こんな生活なのかなって、自棄になってきて。心が荒んで、何度も自殺を試みました。日雇い派遣で何とか食いつないで、一年くらいかなあ。貧困者支援のNPO団体の存在を知って、そこの援助でどうにか、一人暮らしができるところまで生活を立て直すことができたんです。安心もしましたけど、後悔もしましたね。一年もネカフェ難民やってないで、そういう立場の人を助けてくれる団体があることをもっと早く知っていれば、手首にこんなミミズみたいな傷痕を幾つも作らずに済んだのになって」

 いまやパソコンやケータイがひとつ手元にあれば、暮らしに必要な情報は容易に手に入る時代になった。しかし、それは情報機器を使いこなせればの話である。コンピュータは所詮一と〇の羅列でしかなく、持っているだけで知識が湧き出てくるものではない。使う側に頭がなければ、子どもがおもちゃを持っているのと変わらない。情報機器がいかに発達しようと、生活の格差が一向になくならないのは、使う側の脳の格差が埋まっていないからである。

「今はまだ、夢も持てない状況だけど、とにかく頑張りますよ。産んでくれた親。育ててくれた親。NPOの人たち。今、一緒に働いている仲間。みんなに感謝を忘れないようにしたいです」

 自分を捨てた親への恩讐を乗り越えて、明るく前向きに生きる、今どき珍しい、殊勝な心掛けの好青年。唐津が職場で身の上話をして以来、この立派な若者をみんなで助けてやろうという空気が、派遣スタッフたちの間に醸成され始めた。それは日を追うごとに濃くなり、やがて元あった、莉乃を支えようという空気と融合を始めていく。

「唐津君。ちょっとこの作業のやり方を教えて欲しいんだけど・・・」

 莉乃はやがて、元「教育係」の俺を差し置いて、仕事の指導を、後輩である唐津から受けるようになっていった。唐津も喜んで応じ、そのうち休憩時間中にも、二人で話す光景がみられるようになった。

「莉乃さんって、最初は箱入り娘っていうか、男に慣れてなさそうな感じだと思ってましたけど、全然そんなことないんですね。すごく普通に話すんで、ビックリしましたよ」

「私は、男の子の友達も一杯いたんだよ。二年前も、中学のお友達みんなと、箱根にピクニックに行ったんだ。こんど、そのとき撮った写真を持ってきてあげる」

 周囲の派遣スタッフたちは、二人のやり取りを暖かく見守り、二人をくっつけようとするような雰囲気までも出し始めた。かつて、俺と莉乃にそうしたように――。

「唐津くんと莉乃ちゃん、最近仲良いね。少し年の離れた、カップルみたいだよ。あ、年の離れたは余計か」

「いいんです。私、唐津くんのお姉ちゃんみたいになれればって思います。そのかわり唐津くんは、私の先生です。私の知らないこと、いっぱい、い~っぱい、唐津くんに教えてもらうんです」

田島が二人を冷やかせば、莉乃はいっぱい、い~っぱいのところで、手を大きく広げるジェスチャーをしながら、嬉しそうに細い目を見開き、口元をほころばせる。そして、最初、莉乃を馬鹿にしていたはずの唐津も、それに満更でもなさそうにはにかむのである。

 唐津の登場は、俺と莉乃との関係性をも変えてしまった。もちろん、よくない方向にである。

「なあ、莉乃さん。ここから五駅ほど行ったところに、フラワーパークがあるの知ってるよね?もしよかったら、一緒にそこに・・・」

「莉乃ちゃん莉乃ちゃん。昨日のラブミー・エブリバディ見た?もう祥吾くん、すっごくカッコよくて、私興奮しちゃった~」

 松原のババアを筆頭とする唐津と莉乃の取り巻き連中は、唐津と莉乃が仲良くなるのを暖かく見守る一方で、はじめに莉乃を狙っていた俺が莉乃に近づこうとすると、突然会話に割って入ってきたり、莉乃がついた作業テーブルに俺が寄ってこないように、人海戦術であっという間に占拠したりなど、あからさまに妨害してくるようになったのである。

 周りがそんな不穏な動きを見せ始めたのは、莉乃本人が、俺を避け始めたからである。先だって、莉乃とは携帯のアドレスを交換済みであったが、唐津が現れてからというもの、莉乃は俺のメールにまったく返信を寄こさなくなった。出勤の時間なども意図的にずらすようになったのか、朝、バスで一緒になることも滅多になくなった。

 それどころか、莉乃は俺から送られてきたメールを、唐津や松原らに転送し、「こんなこと言ってて、おかしいですよね、あの人」などと、俺の口説き下手を愚弄するようなことさえしていたようである。

 莉乃がバカにしていた俺のメールは、「お姫様の莉乃ちゃんを、不思議の国に連れて行ってあげたいなぁ」といったもので、確かにちょっと恥ずかしかったかもしれないが、だからといって、なぜ、他人に転送されて笑いものにされるような仕打ちを受けねばならない?あるいは、唐津に対して自分のモテぶりをアピールし、「はやく私をゲットしないとまずいよ?」と、唐津にプレッシャーをかける目的もあったかもしれないが、いずれにしても、俺がコケにされた事実は変わらない。

 客観的に考えても、莉乃のやっていることはかなり酷いと思うのだが、なぜか莉乃を咎める人間が出てこないのは、語彙の少ない莉乃が発散する「無邪気」「純粋」といった雰囲気のせいだろう。それが百パーセント「擬態」だとは思わないが、莉乃が持つもう一つの素顔――婚期を逃して焦りに焦った三十路女が、俺のようなモテない男に言い寄られると、ここぞとばかりにコケにして、ズタボロになった自尊心の修復を図ろうとする歪んだ一面を覆い隠す効果を出していたのは確かであったといえる。周りの連中は、完全に誑かされているのである。

 普通の男なら、莉乃の異常さに気づいた時点で、愛情は冷め、これ以上踏み込むのをやめるのだろう。しかし、俺の場合は違っていた。ここまでコケにされたからには、何としてでも俺と付き合って、二回なり三回なりセックスをしてチャラにしてもらわなくてはならないと、莉乃への執着を逆に強めてしまったのである。

 俺に財産でもあったら、もっと自分の人生を大事にしよう、あんな女にこれ以上執着するのはやめようと思えたのだろうが、いま俺が持っているものといえば、汚臭を放つ四十四歳の女ぐらいである。東山との出会いによって金回りは良くなったが、贅沢ができるというほどでもない。法律を犯すことの罪悪感も希薄で、世間体もまったく気にしない。想定される最悪の事態が、俺にとっては何の足止めにもならないのである。

 このまま莉乃を諦めたら、俺には莉乃に愚弄され、ストレス発散のために利用された嫌な思い出が残るだけだ。引くも地獄、進むも地獄なら、コンマ幾つの可能性にかけてでも進む。それが、自分を大切にできず、ストーカー気質の強い俺という男の考え方であった。

 意地でも莉乃を落とそうと考えた俺は、ある日、莉乃が一人で倉庫の廊下を歩いているところに、速攻で間を詰めて会話に持ち込もうとしたのだが、その際莉乃は、強姦されそうになったように大きな声をあげ、面と向かって、俺に拒絶の意を伝えてきた。

「蔵田さんは、怖いです!私を誘拐しようとしているみたいです。蔵田さんは、狼さんです」

 そのときはあまりのショックで何も言い返すことができず、駆け付けた松原にガードされながら、逃げるように早足で去っていく莉乃の後ろ姿を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。家に帰ってからも、歯槽膿漏特有のうんこめいた口臭をまき散らしてえへえへ笑いながら教育テレビを観ているゆかりを殴る気力もおきず、ヒーリング音楽をイヤホンで聞きながら、一人酒を飲み、涙にくれるしかなかった。

 莉乃が俺を怖いと言ったのは、「マジ」ではなかろう。本当に怖がり、警戒しているのならば、唐津とイチャついているところを俺に見せつけたりしないし、唐津や松原たちと一緒に、独り言が多い俺の癖を「妖精さんと話してるんですかね~?友達いなくて、寂しいんですかね~?」などと、陰で笑ったりはしない。莉乃は、唐津や皆から、俺という「狼さん」から守られている「か弱い子羊さん」である自分を演出し、己の立場に酔っているのである。

 莉乃が俺に、面と向かって「怖い」などといえるのは、俺が本当は気が弱く、心の優しい男であり、何を言っても自分に危害はくわえられないと、タカをくくっているからである。俺の惚れた弱みを利用して、手も足も口も出せないのをいいことに、恋心をぐちゃぐちゃに踏みにじり、馬鹿にすることによって、己のコンプレックスで歪みに歪んだプライドを愛撫しているのだ。

「唐津くん。ここから一こ、二こ、三こ、四こ、えーっと、五個の駅をこえたところに、フラワーパークがあるのは知ってる?私が子供のころから、よくおばあちゃんに連れられて行っていたところなの。お花がいっぱい、いーっぱいあって、とっても楽しいの。よかったら今度、二人で行ってみない?」

「フラワーパークかぁ。面白そうですね。ぜひ、行ってみたいです」

 腹の底で燻っていた昏い炎が、轟々と音を立てて燃え盛り始めていた。

 俺が感じているのは、ただの嫉妬ではない。人の世の不条理を味合わされたときの、噛みしめた唇が破れるような悔しさである。

 地味な容姿をしており、三十二にして処女ではないかと期待もした莉乃は、飛んだ食わせものだった。純粋無垢のように見えても、一皮むけば、所詮莉乃も、婚期を逃して焦りに焦る、浅ましい三十路女の一人にしかすぎなかった。

 それはそれで仕方ないにしても、だったらだったで、最初からその中身通りに、浅ましい三十路女らしくしてろと言いたい。見極める目のなかった俺が悪いのだといっても、莉乃は確かに、その純粋無垢さを武器に唐津を釣ったのだから、俺の方が、まさに一杯食わされたというべきではないか。

 婚期を逃した三十路女が、まだ相手を選ばずに必死になっているなら、少しは応援してやる気持ちにもなるが、己より十二も下の男に色目を使う余裕があるというなら、共感できるところはまったくなかった。頭が弱いせいでガキとしか話が合わないだけなのを、若い男を引き付ける魅力と勘違いしている莉乃のおめでたい脳みそを、かち割ってやりたかった。

 わかっている。年相応の地位も名誉もあるオッサンだったらともかく、三十ニにして派遣労働者の俺が、唐津をガキなどと言ってみても、負け惜しみにしかならない。男は若ければいいというものではないが、何もない三十路男と、何もない二十歳の若者だったら、それは二十歳の方がいいに決まっている。

 野ウサギに逃げられたジャッカル―――ジャッカルの手をすり抜けたウサギが、まだジャッカルのテリトリーである、深い草藪の中を逃げ回っている内はいい。自分が空腹を満たせなくても、まだ同族の胃袋に入るのであれば、次のチャンスを信じる気にもなれる。

 だが、シマウマを追いかけるのに疲れ、手頃なウサギで小腹を満たそうと考えるライオンが、草藪の中まで突っ込んできて野ウサギを取っていってしまうのはいけない。ライオンが野ウサギは俺の獲物だといって、これからもずっと野ウサギを食べるというのなら、ジャッカルは餌のランクを一段落として虫を食べるか、餓死するしかないのである。

 横暴なライオン――ほかにもっと若くていい女をいくらでも抱けるくせに、わざわざ三十を過ぎた、メルヘン趣味の痛い女などに手を出そうとしている唐津は、いったいなんだ?

 俺もすべてのイケメンに嫉妬を抱き、毛嫌いをしているわけではない。イケメンはイケメンらしく、美女の尻だけを追いかけている分には、まったく恨む理由はない。俺の利害にはまったく関係ないからだ。

 ホストや結婚詐欺師、DV男、禁治産者などのロクデナシなども、女が不幸になるだけだから結構である。男を顔や収入でしか判断しないクソ女が酷い目に遭うのなら、俺はそのイケメンを全力で応援する。

 そうではなく、ルックスも良く、それなりの収入もあり、大きな欠陥もないくせに、モテない男たちの米櫃に手を突っ込み、並みかそれ以下の女を掻っ攫っていく節操なし、こいつらが問題なのである。

 女どもにとっては、「外見よりも内面で女の子を見てくれる、心のキレイな人」かもしれないが、俺のような冴えない男からすれば、こいつらこそが一番とんでもない外道である。こいつらが並みかそれ以下の女に構うせいで、女が妙な勘違いを起こし、モテない男に見向きしなくなる。食物連鎖が乱れ、生態系のバランスが崩壊してしまうのである。

 他にもっと、若くてイイ女をいくらでも抱けるくせに、モテない俺が必死になって追いかけている、三十路で地味な弥生顔の莉乃を掻っ攫っていく唐津は、とんでもない節操無しだ。まさしく、新鮮なシマウマをいくらでも食えるくせに、餓えたジャッカルが必死に追いかけている野ウサギを分どっていく、強ツクで横暴なライオン。生態系の秩序を乱す極悪人だ。 

 そもそも貴様は、もともと莉乃のことを小馬鹿にしていたのではないのか。なぜ、莉乃を小馬鹿にしていた唐津が、いつの間にか莉乃の心を恣にしている?莉乃が好きで、莉乃を幸せにしたいと思っていた俺をグチャグチャに踏みにじって、自分を小馬鹿にしていた唐津に、自分からうりうりと腰をすり寄らせていく莉乃は、いったいなんだ?これでは、女などいくら好きになったって無駄ではないか。

 そして、なぜそのことが、当たり前のように、周りに祝福されている?なぜ、最初から莉乃が好きだった俺が、莉乃から怖いなどと言われ、取り巻きどもに、莉乃から引きはがされるような目に遭わなくてはならない?

 莉乃は、莉乃を最初から好きだった俺よりも、最初は莉乃を小馬鹿にしていた唐津を選んだ。それこそ、莉乃が男を、自分を飾るアクセサリーのようにしか見れない証拠であった。莉乃にとっては、職場の同僚や親兄弟、友人に、その男を連れている自分がどう見えるかということだけが重要で、相手が自分を本当に大事にしてくれるかどうかなどは、二の次三の次なのだ。

 では、アクセサリーとしては莉乃のお眼鏡に叶わなかった俺は、彼女にとってまったく利用価値がないと見做されたのかといえば、そうでもない。俺はいわば、サンドバッグに使われたのである。莉乃は俺の惚れた弱みに付け込んで、絶対に言い返してこない、手出しもできない俺を散々に侮辱することで、さして美しくもない売れ残りの三十路女の、コンプレックスに塗れた心の奥底に、ゆかりのへそのゴマのようにびっちり詰まったストレスを解消させていたのだ。俺に美味しい思いは、何一つさせないで、である。

 すべての情報を整理したうえで冷静に考えれば、何かがズレていることに気づくと思うのだが、周りに受け入れられたのは、何もしなくてもいい、ありのままの莉乃を魅力的に思った俺が莉乃と結ばれる物語ではなく、莉乃を小馬鹿にする唐津に認められるため、涙ぐましい努力を重ねる莉乃の奮闘物語の方だった。莉乃と唐津という、品行方正で非の打ちどころのない男女が愛し合うのを妬む俺は、心の醜く、器の小さい男であり、一方的な悪者なのだとされた。その周りの反応こそが、唐津に莉乃を取られたこと以上に致命的な傷だったかもしれない。

 俺を嫉妬地獄に落とし込んだ莉乃と唐津を、酷い目に遭わせてやりたい。だが、東山という金主を手に入れ、ようやく人生に光が差してきたところで、自ら幸運をドブに捨ててしまうようなリスクの高い行為を働くのも躊躇われ、俺は奴らに手を出せないでいた。度胸もない無能な俺が、身動きも取れない状況でできたのは、「俺が失恋して落ち込んでいるところを見せつけて、唐津が莉乃に手を出しにくくする」という、苦し紛れのデモンストレーションしかなかった。

 デモとはいえども、俺が落ち込んでいるのは紛れもない事実だったから、特に芝居を打つ必要はなかった。激しい嫉妬心に蝕まれ、精神を病んでいた俺は、自然に食欲がなくなって、僅か一か月間の間に、体重が五キロ以上も落ちていたのである。

 頬もこけ、眼球も落ちくぼんだ俺の衰弱は、誰の目にも明らかであったろう。俺が一種のハンガーストライキを行っていたことは、職場にいた派遣スタッフ全員に伝わっていたはずだが、奴らは俺の命を張ったデモンストレーションを、意にも介さなかった。

「莉乃ちゃん莉乃ちゃん、フラワーパーク、どうだったの?」

「はい。とっても、と~っても、楽しかったです。圭一くんが喜んでくれて、すっごく、すっご~く、嬉しかったです」

 とうとう唐津のことを、下の名前で呼び始める莉乃。痩せさらばえた俺など目にも入っていないというふうに、莉乃と唐津は、ますます距離を縮めていったのである。

「おう、唐津くん、莉乃ちゃんとフラワーパーク行ったんだって?どうよ。最後までいったの?」

「えへへ・・・いやあ・・・・」

 俺が今なお、莉乃に想いを寄せているのを知っているはずの周りの連中は、そんなのは最初からなかったことだとでもいうように、平然と俺の目の前で、莉乃と唐津が仲を深めていくのを祝福していた。

 信じられなかった。俺は最大限、わかりやすいサインを発しているつもりである。莉乃と唐津が恋仲になるのを、俺が食も受け付けないほど不愉快に思っているのがわかったはずである。奴らには、俺が抱いていた嫉妬や絶望、怨念といった負の感情は、一切目に入っていないというのだろうか?

 裏切られた、と言いたいわけではない。自分に配慮してほしかったわけではない。俺は警戒してほしかった。自分を恐れてほしかった。これ以上、莉乃と唐津の仲が深まっていくのを容認すれば、血の雨が降ることなると察してほしかった。

 振られた俺が莉乃を逆恨みし、唐津に嫉妬しているのを、奴らが忌々しく思い、俺を排除しようとするなら、それでもよかったかもしれない。俺も心置きなく暴れて、それでスッキリできたかもしれない。それで人生も終わってしまっていたかもしれないが、ジワジワと真綿で首を絞められるように、長い時間かけて生命力を奪い取られるよりは、爆発するキッカケを与えてくれた方がよかった。

 俺が我慢ならないのは、受け入れられないことではない。無視されることだ。どんな形であれ、奴らが俺の存在を認識し、何らかの反応を見せてくれるのなら、まだ俺の立つ瀬もあったのだが、完全にいない者として扱われるのでは、プライドも何もかもメタメタである。存在を抹消され、殺されているのと同じことだ。

 せっかく東山と出会ったことで食生活が豊かになったというのに、唐津と莉乃のイチャイチャを見せつけられたことで、俺の胃袋は、一日にカップヌードル一食しか受け付けないほど弱ってしまった。唐津が丸菱の倉庫にやってきてから一か月。憎悪の炎が燃え盛るのと反対に、命の炎は消えかけていた。生きるだけならともかく、とても労働に耐えうる状態ではない。座したまま死を待つか、苦しみの原因である唐津と莉乃をこの世から取り除くか、二者択一を迫られつつあった。

 唐津と莉乃が距離を縮めていくことを後押しし、俺の命をかけたデモンストレーションを完全に無視する周囲の空気は、俺にとって到底容認できるものではなかった。俺の中では、これだけでも、莉乃と唐津を殺害する十分な動機になったのだが、驚くべきことに、奴らは程なくして、さらに、これ以上に、俺を不快にさせる「空気」を、倉庫の中に醸成させ始めた。

「蔵田さん、最近痩せましたね。ちゃんと食べた方がいいですよ」

「蔵田さん、元気がないですね。みんな、心配していますよ」

 奴らは、莉乃と唐津の関係が深まっていくのを祝福し、囃し立てる一方で、嫉妬に苦しみ、痩せさらばえる俺のことを「心配」しだしたのである。あるいはそのフリをしていただけかもしれないが、とにかく奴らは、莉乃と唐津が仲良くしていることが、俺が衰弱していた原因であることを知りながら、俺の体調を気に掛け始めたのである。

 何も知らないヤツは、ありがたいことではないかと思うかもしれないが、俺にとってこれは、信じられない、到底受け入れられないことであった。

 「莉乃と唐津が仲良くなっていくのを祝福し、後押しする」と、「俺を心配する」――俺の中で、この二つの感情は、絶対に同居できるものではなかった。こんな矛盾した行為を並行して行える奴らのことが、まったく信じられなかった。

 奴らのおめでたい頭の中身は、俺には信じられないが、理解はできる。

 友人の男女が仲を深めていくのを祝福するのは、楽しいこと、前向きなこと、善いことである。

 落ち込んでいる知り合いを心配し励ますのは、優しいこと、暖かいこと、善いことである。

 奴らの頭は、楽しいこと、前向きなこと、優しいこと、暖かいこと、善いこと―――キレイごとだけで出来ている。臭い物には蓋をして、見なかったことにし、すべてをご都合主義で塗り固めて生きている。だから、矛盾した行為を、平気で行うことができる。

 動物愛護を訴える人間が皮革もののベルトやバッグを平気で身に着け、環境保護を訴える人間が、毎夜煌々と明かりをつけ、大量のごみを出す。曲がったことが大嫌いで、男が女子供を襲ったりする犯罪や、権力者が不正を働き私腹を肥やすような悪事を嫌う人間が、なぜか学校や職場にいる、身近な弱い立場の人間をイジメている。

 世の中は矛盾でできている。社会に適応するということは、矛盾に適応するということだ。だから俺は、まともに生きられない。表で良い顔をし、裏で人を虐げる自己の矛盾に耐え切れないから、いっそ百パーセントの悪に染まろうとする。純粋・・・というより、根が生真面目なのかもしれない。

 矛盾を矛盾のまま放置するのを良しとせず、根本的な解決を図ろうとする者が、一人もいなかったわけではなかった。俺とよく話していた四十代の派遣スタッフ、田辺である。

 彼は派遣スタッフの中でも、俺の莉乃への恋をもっとも後押ししていた一人であり、俺の気持ちを変に盛り上げてしまったという罪悪感もあったらしい。それについては、彼が勝手に悪いと思っているだけであり、俺の方ではなにも恨みはなかった。だって、田辺のおかげでうまくいった可能性だってあったのだから。

 そのまま黙っていれば良かったものを、田辺は余計な一言によって、俺の嫉妬の炎に油を注いでしまい、三十路男の横恋慕を、生きるか死ぬか、あの東山との戦いと同じ「生存競争」にまで発展させてしまった。

「蔵田くん。きみがまだ莉乃ちゃんに気があるのはわかるけど、ここは諦めようよ。きみは男だし、唐津くんから見たら年長者でもある。大人になろうぜ」

 時代錯誤の、大馬鹿野郎の言葉である。

 確かに、一億総中流などと言われた昔の、国家、企業、家庭ががっちりとスクラムを組んで、一家の主である父親を支援するシステムが機能していた時代なら、オッサンは社会的な強者であるといえたかもしれない。若い者と恋の争奪戦になったときには一歩身を引いて譲り、女は無条件で労わるべきだといえたかもしれない。

 今は米国式の新自由主義経済の導入によって、年功賃金、終身雇用に支えられた中間層は崩壊し、巷は金も地位もないオッサンで溢れかえった。逆に、若くても女でも、才能と運さえあれば、オッサンの頭を踏み越えて、高い収入に有り付くことも可能である。

 そんな時代に、「年長者だから」「男だから」「譲るべきである」、などと言ってしまう田辺のようなヤツは、旧来の価値観に逃げ込んで、いまの世の中で、金も地位もない中年の男がどれだけ惨めで、社会的な弱者であるかを認めたくないだけのアホだ。田辺のようなアホがいるから、莉乃のような男をなめ腐った女が跋扈し、唐津のような、強い者がすべてを独占していいのだ式に、惨めな中年オヤジのささやかな希望も奪い去ろうとする節操なしが現れるのではないのか? 

 いま三十二歳の俺は、非正規の派遣労働者であり、正社員としての実務経験はなく、この先、今より上の生活条件を手に入れられる見込みは皆無である。過去にいい思いをしたことも一度もない。対して唐津は、いまは俺と同じ非正規の派遣労働者かもしれないが、若さという無限の可能性を持ち、これからいくらでも浮上のチャンスがある。

 自分より有利な立場にある人間に何かを差し出すことを、「譲る」と言えるのか?一方的に奪われることが、「譲る」になるのか?むしろ、この先の人生どうとでもなる唐津の方が、この先の展望のない俺に、女ぐらいは譲れという話ではないか。

「あいつらまとめて地獄に落としてくれる。どうせ失うものはねえ。俺の人生と引き換えにしてでも、奴らを痛めつけてやる」

 田辺に独りよがりな説教をされたことで、俺は逆に莉乃への執着を強め、唐津への嫉妬をより深めてしまった。

「ふざけんな。こんな理不尽があってたまるか。こんな不条理があってたまるか」

 自由恋愛の社会の中で、格差が生まれるのは仕方がない。格差が問題ではない。貧困が問題なのである。俺はけして、分不相応な贅沢を望んでいたわけではない。「健康で文化的な最低限度の女」が一人得られれば、不平不満を述べたりはしないのである。そしてそれこそが、俺が「世間」と和解するための、最低限度の条件であった。

 唐津が若く美人で女をいくら抱こうが、俺には関係ない。草原を我が物顔で闊歩するライオンと、深い草藪の中に潜むジャッカルと同じで、どれだけ「食料事情」が違っても、そもそも別路線を歩んでいるという意識なのだから、嫉妬する気持ちなどは起きない。だが、強ツクで節操無しのライオンが、これからは野ウサギは俺の獲物だから、お前は虫を食って生きろというのなら・・・モテる男がすべての女を独占し、モテない男に、健康で文化的な最低限度の女一人すら回さないというのなら・・・。

 窮鼠猫を噛む――それしかないではないか。

 今の苦しみを解決するための、もっとも簡単な方法はわかっている。莉乃と唐津を、東山に命じて、職場から追い出してやることだ。だが、問題なのは、たとえ莉乃と唐津を放逐できたとしても、
俺が勝利したことには、まったくならないということだ。

 優良企業の正社員ならともかく、こんな非正規の派遣労働の職など失ったところで、痛くも痒くもない。俺がゴリラや豚、サルのような連中と愉快な毎日を送っている間、唐津は三十路女の熟れた身体を抱きながら、莉乃は性欲の塊のような若くみずみずしい男の身体に抱かれながら、惨めな三十二歳のフラれオヤジが、あんな奴隷工場にしがみついていると、俺をあざ笑うに決まっているのである。

 このままでは、この丸菱の倉庫という場所は、莉乃と唐津にとってはハッピーな出会いの場であり、俺にとっては、奴らの幸せを見せつけられただけの、不快な場所という思い出が残ってしまう。なんとしてでも、この丸菱の倉庫での思い出を、莉乃と唐津にとっても、俺という男と出会った不幸な思い出として残してから去ってもらわないと、納得できなかった。

 しかし、度胸もない無能の俺では、奴らに思い知らせる有効な手立てはなにも思い浮かばず、むなしく時だけが過ぎていく。莉乃と唐津は、それからも着実に距離を縮めていき、周囲の者どもが二人を後押しする空気も濃くなっていく。

 復讐がうまくいかないならば、莉乃以外の女を手に入れるしかない。世界に女は星の数ほどいる。俺にも「健康で文化的な最低限度の女」があてがわれるなら、莉乃と唐津にバカなことをしたいという気持ちもなくなるかもしれない。人生というものを前向きに考えるならば、それがもっとも良い解決法なのはわかっている。

 だが、なんとしたことか、東山に命じて職場に掻き集めさせた女どもまでもが、俺ではなく、莉乃や唐津の方へと流れてしまった。俺は女どもに相手にもされず、女どもは莉乃や唐津と仲良くなり、奴らが距離を縮めていくのを後押しする側に回ってしまったのである。持ち駒を全部敵に取られて、逆に王手をかけられてしまったのだ。

 やることなすことが裏目に出て、どんどん不利な状況に追い詰められていく俺がストレスをぶつけられるのは、何も事情を知らないゆかりだけであった。

「おい。てめえの息子にこの前会ったらよ、パパは大好きだけど、お前のことは豚みたいに太ってて臭えから大嫌いだと言ってたぞ。はやく死んで欲しいってよ」

「やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて」

「ほら、けんじとたつやから、手紙が来てるぞ。ほら読んでみろよ」

 ゆかりの眼前にかざした手紙には、俺がわざと汚く書いた字で、「おかあさん、しんで」と書かれていた。

「やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて」

「やめてやめてうっせえんだよ!」

 俺に毎晩のように殴られて、ゆかりの顔面は、豚からイボイノシシに変わったようになっていた。また、面罵され続けたことで負ったストレスからか、放屁の回数が異常に多くなり、部屋の中は常に、香しいおならの臭いで満たされるようになってもいた。

 

外道記 改 4


                           4


 弱みを握っている東山から金銭を搾取することで、俺の生活は豊かになった。消費者金融からの借金の支払いに余裕ができ、食生活も改善され、体調もよくなった。くたくたになっていた服も買い換えられた。

 働かずに生活することも可能であったが、とりあえず仕事は辞めなかった。東山が俺の言う通りに金を払ってくれるか、まだ様子を見る必要があった。

 丸菱運輸の倉庫で仕事を続けると決めたのならば、責任者の立場である東山を使い、労働環境をより良いものにしようと考えるのは当然である。たとえば、小うるさいハエを追っ払うということも、東山を使えば簡単にできる。

「おい。お前、さっきから手が動いてないぞ。ちゃんとやれ」

 東山に特別扱いされているのをいいことに、サボりたい放題の俺に、東山腹心の部下である中井が注意をする。自分の職場で誰が一番力を持っているのかわからない、愚か者である。

「中井。てめえ、俺に借りがあること、忘れたわけじゃねえだろうな?」

「俺は何も間違ったことはしていない。仕事をしない奴を殴って、何が悪い」

 世間とは隔絶された奴隷工場だけのルールが、誰にでも通用すると思ってしまっている猿には、躾をしなければならない。俺は東山のケータイを鳴らし、作業場に呼びつけた。

「どうした?」

「いや、この野郎が・・・」

 中井が、俺が東山の番号を知っていたことに驚きながらも、俺のことを指さし、東山に一緒に叱ってもらおうとする。

「わかった。俺から言っておくから、お前は自分の仕事に戻れ」

「しかし・・・」

 俺のこととなるといつも遠慮しがちな上司に疑念を抱いたらしい中井が、今日こそは東山に俺を叱責してもらおうと粘る。が・・・。

「いいから、とっとと消えろっ!」

 上司の命令は絶対、先輩の言いつけは絶対の軍国教育で洗脳された丸菱運輸の社員がそう一喝されたら、もう引き下がるしかない。中井はにやつく俺を後目に、他の作業員の指導、監督へと戻っていった。

 その中井が最近とくに熱心に指導しているのは、近ごろ急激に増えた、女の派遣労働者が固まって作業をしているテーブルである。

 丸菱運輸の倉庫内作業は簡単な梱包作業で、特別力がいる仕事ではないため、女でも十分できる。派遣労働者の数は男女比率に大差はないが、工場での作業は、物理的体力的に男しかできないというものが多いため、必然的に、女でもできる仕事には、女が固まりやすいという傾向はある。それにしても、ここ一か月の間で、二十代~三十代前半の女が五人も入り、男や三十代後半以上の女は、カムフラージュ程度に、たったの一人しか入ってきていないというのは、異常な偏り具合である。

 背景にはもちろん、俺の圧力があった。一か月前から、人事の権限を持つ東山に、海南アスピレーションからスタッフの紹介があったときは、若い女を積極的に採用するように命じていたのである。醜く汚く、間もなく閉経を迎えて母乳が出せなくなるゆかりを捨て、新しい、若い女体を手に入れる計画を、本格的に始動させたのだ。

 派遣労働の職場で男女が出会い、交際に発展するケースは意外に多い。正社員で勤めている会社なら、職場内恋愛は成立しなかった場合のリスクも大きく、気に入った相手がいても声すらかけられないこともあるだろうが、最初から契約期間が決まっており、嫌になったらすぐ辞めてしまえばいい派遣労働なら、躊躇うことなどは何もなく、積極的に異性にアタックをすることができる。

 女はネットで漁るという手段もあったが、如何せん手間と時間がかかる。しかも、地方在住の俺の場合、出会い系などに登録しても、近所に在住している女がそもそも少ないという問題もあった。

 それに・・傾向として、現在登録している派遣会社、海南アスピレーションの女は、特に落としやすいという見立てがあった。

 そもそも、丸菱運輸の倉庫のような、飛ばれるリスクの極めて高い劣悪な労働環境の会社に、貴重な弾である派遣スタッフを派遣しなくてはならないというのは、海南アスピレーションが、丸菱運輸と同じようにろくでもない派遣会社だからである。

 派遣会社もピンキリで、十分な体力がある大手ならば、派遣先の企業もある程度選ぶことができる。スタッフを人間扱いし、親身に接していた方が、人材が定着し、口コミやネットの書き込みで評判も広がり、長い目でみれば会社の利益になる。

 だが、短いスパンでの利益を考えていかなければ会社がもたない海南アスピレーションのような零細の派遣会社では、派遣先がどんなブラックだろうが、他に仕事がない以上、スタッフを押し込んでいかなければならない。機関銃で武装した相手が待つ戦場に、竹やりしか持っていない兵士を送り込むようなものだから、当然、人材は定着しない。だから利益を上げるための方法も、闇金の発想と同じように、少ないスタッフから、いかに搾り取っていくかという考え方になっていく。

 海南アスピレーションのように、出勤時の家出報告、退勤時の終了報告に罰金が科せられるなどというのは、大手の派遣会社ではありえない、とんでもない話だ。百歩譲って、家出報告は遅刻防止のため大事なのはわかるにしても、仕事が終わった報告などは、日々派遣先が異なるスポットならともかく、派遣先が固定されている丸菱のスタッフにはまったく必要ないはずである。仕事が終わった後は気が抜けているから、うっかり忘れてしまう可能性も高い。その終了報告の方に、より大きな罰金額が設定されている。それで儲けてやろうという会社の魂胆が明らかで、端から、末永く勤めてもらおうとは思っていないのだ。

 そんなアコギなことをする派遣会社にしか勤められないのは、数々の不行状により、大手の派遣会社を軒並みアウトになった、俺のような「派遣難民」か、会社のどんな劣悪な労働条件にも何の疑問も抱かない、極度の情報弱者だけである。

 ここがダメならホームレスになるしかない、最後の受け皿ともいえる海南アスピレーションのような派遣会社に登録するしかない女は、まとな社会常識がない。社会常識がない女がオツムのねじが外れているとは限らない。オツムのねじが外れた女が股も緩いとは限らない。しかしその可能性は高いといえる。

 勝算は十分にあると見込んだ俺は、東山に、若い女を積極的に採用し、また、その女たちが定着するよう、俺と同様に、細かいことには目を瞑って接するように言い渡していたのである。

「おい、お前、仕事中に何やってんだ!」

「は?何って、汗で化粧が崩れてたから、治してたんだけど?」

 俺でさえ信じられないような理由で中井に注意をされたのは、いまどき天然記念物ものの山姥メイクを施した女である。山姥メイクといっても、その女が当時ブームの中心にいた女子高生であったのは推定で十年以上も前であり、そろそろ本当の山姥に近づいているような感じである。同じテーブルには、何か変なキャラクターの大きなぬいぐるみを、おんぶ紐でおぶりながら働いているような女や、仕事中にイヤホンで音楽を聴きながら働いている女もいる。

 そんな常識外れの女どもに怒鳴ることもできず、我慢して使わなくてはならない東山のストレスは半端ではないようで、それが他の、男や三十代後半以上の女の派遣スタッフに余計に厳しく当たり散らし、辞めさせてしまう原因となり、空いた枠にまた常識外れの女が入ってくるという、東山にとっては耐えがたい悪循環を生んでいた。

 東山が、若い女の派遣スタッフと契約破棄するのは、女が俺の求愛を断ったときだけだ。アホのくせに俺からの誘いを断るような腐れマンコは、この最後の受け皿からも放り出してやる。その結果、昼の世界に居場所を失い、身体を売るしかなくなろうとも、知ったことではない。ここに丸菱運輸の倉庫は、俺のハレムと化したのである。

「おい・・・。その、なんだ・・。女ばっかり採れとか、優遇しろっていうのは、そろそろ終わりにできないか?あちこちで不満の声が出てる。俺たちの関係が怪しまれるかもしれんし、そうなったらお前もまずいだろ・・?」

「っせーなー、わかってるよ。しょうがねえだろ、ちっと難航してんだよ」

 東山からも無理を指摘されており、それは俺自身も重々わかっていたのだが、方針を改めるわけにもいかなかった。俺がなぜに、こんなアホ女どもを集めなければいけなかったかといえば、それ
には海より深い事情があった。

 西側に五個、東側に五個、全部で十個並んでいる作業テーブルのうち、俺がついている東南側から一番遠い、西北側のテーブルで、ひとりの三十路女が、俺が遠くから、嫉妬と憎悪に満ちた昏い視線を向けているのにも気づかず、仲間と和気あいあいやりながら、楽しそうに作業をしている。

 細い奥二重の目に、色素の薄い唇、太目の眉。彫りの浅くのっぺりとした、平安時代の公家のような顔だち。髪型は戦中戦後の小学生みたいなおかっぱ頭にしてしまっており、取りえといえば色が白いことくらいで、その肌すらも、まだ夏場だというのに、長袖の裾の長いワンピースで隠してしまっている。

 けして美人ではなく、性的魅力もなく、若くもない女だが、その女は、俺が一か月半前から、激しく愛している女だった。

 下川莉乃。あの女が現れたことで、東山のお蔭で上向いてきたはずの俺の人生に、早くも陰りが見え始めてしまった。


 下川莉乃が丸菱の倉庫にやってきたのは、東山に若い女を掻き集める命令を出してから、十日後のこと。朝方、控室の扉を潜ったまま止まってしまい、不安げな面持ちで室内を見回している彼女にはじめに声をかけたのは、派遣スタッフのリーダー役を気取る深山であった。

「おい、なんだ君は。なに突っ立ってるんだ。名簿に名前は書いたのか?名前も書かずに何やってるんだ。名前も書かないのにこんなところにいるのは、君、住居不法侵入だぞ?」

 海南アスピレーションの派遣スタッフは、会社に出たらまず、丸菱運輸の社員が点呼をとるための名簿に氏名を記入しなければいけない決まりになっているのだが、勤務初日だというのに海南アスピレーションの営業の付き添いもなく、一人で勤務に入らされた新規のスタッフが、それを知るはずもない。不安だらけの後輩に、こういう最低な応対しかできないのが、深山という男である。

「新しい人ですね。海南のスタッフは、出勤したらこの名簿に名前を書くって決まりになってるんですよ。名前を書いたら、女子のロッカーでエプロンを着て。作業場に出るまでは、ここでゆっくりしていていいですから」

 俺は新人いびりに鼻息を荒くする深山を押しのけて、初日からクソのような奴に出会って泣きそうになっている下川莉乃に、朝の準備について説明をしてやった。

 下川莉乃を初めて見た瞬間、俺の胸は激しく高鳴った。下川莉乃の容姿は凡庸だが、もともと俺の好みの対象は、十点満点中五点程度の、並みの女である。ストライクゾーンが広いということではなく、内角高めや外角低めしか打てないということだ。ゆかりのような目を背けたくなる醜女――完全なボール球では論外だが、ちゃんと女の形をしているのであれば、タレントのような美女よりも、もっと俺の身の丈にあった女の方がそそるのである。

 若干驚いたのは、彼女の年齢であった。オドオドした印象から、最初は俺よりもだいぶ下ではないかと思っていたのだが、後で本人の口から聞いて明らかになった年齢は、俺と同じ三十二歳だという。しかし、それでも十分許容範囲。今までの間、それより十二歳も上のゆかりをずっと抱いてきたことを考えれば、「ピチピチ」ともいえる。総合点をつければ、下川莉乃は合格どころか、お願いしてでも付き合いたいほど、魅力的な女だった。

「じゃあ、作業場に向かいましょうか。最初は、僕が要領を教えますから」

 一緒に作業場まで出て、同じテーブルで仕事をしてみると、莉乃は動作はテキパキとしており、物覚えもよく、すぐに仕事には馴染んだ。昼食も隣同士の席でとったのだが、大人しそうな印象だが暗くはなく、コミュニケーションは普通に取れ、冗談を言えばちゃんと笑ってくれるなど、ユーモアの心得もあるようだった。日常会話すらままならないゆかりとは大違いで、知能面はまったく正常であるかと思われたのだが、午後の作業で莉乃は、育ちの良さそうな見た目であるにも関わらず、こんな掃き溜めのような底辺派遣会社に来ることになった理由である、大きな欠陥を露呈することになる。

「莉乃さん、二本松化粧品って書かれてる段ボールを、取ってきてくれないか」

 俺は莉乃に段ボールの補充を頼んだのだが、段ボール置き場に行った莉乃が、いつまでたっても帰ってこない。迷子にでもなったのかと思って見に行くと、莉乃は段ボール置き場の前で、右に行ったり左に行ったりと、うろうろと彷徨っている。心配になって近づくと、後ろから深山がやってきて、先に声をかけた。

「おい、君、何サボってるんだ?ん?」

「いえ、あの・・二本松化粧品っていてある段ボールが見つからなくて・・・」

「二本松化粧品?ここにあるじゃないか。君は目が見えないのか?ん?」

 深山が指さすケースには、複数の段ボールが、畳まれた状態で積まれている。出荷先に合わせて、それぞれ、書いてある文字やデザイン、サイズが異なるのだが、莉乃はその中からなぜか、二本松化粧品の段ボールを抽出することができないでいる。

「どうした?君は文字が読めないのか?ん?ん?」

 深山にいじめられて、莉乃はまたおろおろして泣きそうになってしまう。この場面は俺が代わりに取ってやることで解決したが、勤務終了後、派遣会社の出勤表に出退勤、休憩の時間を記入するところで、問題はまた発生した。俺の簡単な説明にはきちんと頷き、納得した様子でいたはずの莉乃は、いざ書く段階になると、出勤表のどの項目にどの時間を書き込めばいいのか、わからない様子で困ってしまっているのである。 

 莉乃は、もしかして本当に文字が読めないのではないだろうか。それから二、三日と一緒に勤務をして会話を重ね、ある程度親しくなったところで、俺は真相を確かめてみた。

「莉乃さん。君はひょっとして、ディスレクシアの人なんじゃないか?」

 ディスレクシア――日本語で難読症や失読症、識字障害などと言われる障害の、英語圏での名称である。この障害の持ち主は、脳の神経伝達回路の異常で、たとえばbとdなど、反転文字の識別が困難であったり、文字の間隔が詰まってみえたりするなど、文字の認証に支障をきたす。そのため、授業の形式を文字によるインプットに依存している一般の教育法では十分な成果を上げられず、学齢期に劣等生の烙印を押されやすい。

 発達障害や学習障害に理解のある米国ならば、専用の教材を用いた学習により、健常者と同程度の学力を身に着け、将来、社会的地位の高い職業に就くといった例もあるが、先進国中でも発達障害の理解が遅れており、重度の知的障害以外はすべて「努力」で克服できると思っている人間も今だに多い日本では、本来の潜在能力を開花できず、社会的地位の低い仕事をやるしかなくなったり、引きこもりになってしまう例が多数派を占める。

 莉乃の特徴を見れば、何らかの学習障害を抱えていることは明らかだった。俺もディスレクシアについての知識が豊富なわけではないが、日本であまり馴染みがない横文字を口にするだけでも、それに対して理解があるようには思わせられる。莉乃が俺に心を許してくれるキッカケになると思ったのだが、俺の問いに対する莉乃の答えは、意外なものであった。

「ディ・・・なんですか、それは」

 小首を傾げる莉乃は、ディスレクシアという名称を知らないようなのである。

「いや、その・・・あれだろ?莉乃さんは、読み書きがうまくできない障害の持ち主なんじゃないのか?」

 止む無く、「障害」という直截な表現を用いて問うてみたのだが、莉乃はこれに、少しムッとしたような表情を見せる。

「確かに、私は字がうまく読めないですけど・・・。五組さんとか、七組さんとかにいたことは一度もありません。だから、障害者じゃないですよ」

 五組とか七組というのは、小学校や中学校での特殊学級のことだろう。どうやら莉乃は、ゆかりと同じく、障害者でありながら、健常者の世界に無理やり適応できるよう育てられたクチのようだった。
 
 それから莉乃は、俺に自らの生い立ちを語り始めた。

「小学校二年生のころから、私の勉強はみんなから遅れていました。ひらがなも読み間違えるし、うまく書けない。算数も、かけざん九九なんて、いえるだけで計算はできません。足し算引き算も、指を使わなければできません」

 そんな学力では、確かに丸菱運輸の倉庫作業のような単純労働ですら、大いに支障をきたすだろう。コミュニケーション面では正常と思っていたが、もしかしたらそれも、「雰囲気」を察知することで、かなりの部分を補っていたのかもしれない。

 たとえば、俺のギャグに笑ったように見せても、それは言い回しのおかしさにウケたのではなく、ただ単に、この人は何か面白いことを言ったつもりなのだろうと察することで、ウケたように見せたということである。学習障害系の持ち主は、語彙の拙さを補うため、相手の表情や声のトーンから心を読み取る能力が発達するケースがあるという。莉乃もそうした一種の異能を身に着けることで、普通学級において、健常者の世界に適応してきたのではないか。

「でも、お父さんやお母さん、先生、クラスのみんなは、そんな私を一生懸命励ましてくれました。テストの点が悪い代わりに、授業の準備の手伝いをしたり、ノートをきれいに作ることで、三とか四をつけてくれました。学校が終わったら、みんなで私の家に集まって、お菓子づくりとかをして遊びました。中学二年生のとき、新しい副校長先生に七組さんに入れられそうになったとき、みんなで署名を集めて止めてくれました。みんな私を、障害なんてないよって言ってくれたんです」

 その結果、莉乃は本来持っていた潜在能力を十分に開花できず、奴隷工場でしか働けない底辺派遣労働者になってしまった。莉乃は、友人や教師らが自分を差別しなかったと感謝しているようだが、人の個性や能力の差を無視して、何でもかんでも横並びに走らせようとすれば、それこそ埋めようのない差が生まれてしまう。人は歩む速度も違えば、ゴールまでの距離も人それぞれなのだ。差別がなんでも悪いと思った大間違いで、良い意味での差別が必要なときもある。

 我が国で障害者を扱った書物やテレビ番組が持てはやされるのはいつも、「健常者の世界で、健常者と同じように頑張る障害者」のおとぎ話だけだ。健常者の世界に必死に食らいつき、仲間に入れてくださいという話だけしか認められず、障害者が社会の中でいかに苦労をし、劣等感を抱き、それを埋めるためにどんな保障を望んでいるかといった現実の話はタブーとして扱われ、隅に追いやられていく。

 健常者の世界で頑張ろうとする障害者のおとぎ話に涙する健常者のほとんどは、本当にその障害者の幸せを思っているわけではなく、頑張る障害者を見て涙している、自分自身に酔いしれているだけである。その根底には、受け入れ、迎え入れる立場としての傲慢さと優越感がある。無意識だろうが、心のどこかで、障害者を見下しているのである。

 学生時代、莉乃の周りにいた連中も、莉乃のことを想っていたわけではなく、莉乃を差別せず平等に扱おうとする、己に酔っていただけであった。その証拠に、莉乃を散々自分たちのおもちゃにしておいて、卒業した後は知らん顔を決め込んで、掃きだめのような職場に平気で送り出しているではないか。本当に莉乃のことを想うのなら、中学校の副校長のように、莉乃を特殊学級に入れ、然るべき教育をすることを望むはずだ。もし、莉乃の友人とやらの中に、莉乃の話を就職面接か何かでアピールをし、自分は優良企業に内定をもらったとかいう者がいたとすれば、その者の罪は万死に値する。

「中学校を卒業してからは、おしぼり工場に就職しました。でもそこでは、私をからかう嫌な人がいて辞めました。でも私は、それからも、色んな仕事を探して、一生懸命頑張りました。お母さんは言ってくれました。俳優のトム・クルーズさんも、文字がうまく読めなかったんだって。それでも、一生懸命努力して、スターになったんだって。だから私も、一生懸命頑張れば、きっと幸せになれるんです」

 子供に無償の愛を注ぎ、正しい道へと教え導くはずの親からすらも、ただ己に酔うためだけのおもちゃにされる莉乃を見て、俺は何か、無性に不憫な気持ちとなってしまった。

 強烈過ぎる自我を持て余し、異常な嫉妬心や執着心に散々苦しめられてきた俺も、社会の中で生き辛さを抱えているという点では、莉乃と同様である。だが、莉乃と俺とでは、双眸から見えている世界が違う。俺は自分をどうにもしてくれなかった親や社会に対して強い恨みを抱き、ずっと抜け出せない桎梏の中でもがき続けているという自覚があるが、あくまでも純粋な莉乃は、自分が親や友人におもちゃにされてきたという自覚はなく、今もおとぎ話の主人公として、幸せに生きているのだと思い込んでいる。

 哀れなこの女に、真実をわからせてあげたい。莉乃をおとぎ話の中から救い出し、ともに世間に恨みをたぎらせ、復讐者としての生涯を歩んでいきたい。このときから俺は、莉乃を単に、ゆかりよりも十二歳も若く、母乳を出せる年齢が長い女体を手に入れる目的だけでなく、真のパートナーを求める目的で手に入れたい、と考えるようになった。

 莉乃に対する思い入れは強まったが、この時点では、口説きは慎重に進めようと考えていた。カルト宗教の洗脳を解く場合においても、頭ごなしに相手の信仰を全否定することは、余計に依怙地にさせてしまうだけで逆効果になる。俺はまず、莉乃に自分が味方だということを認識させ、信頼を深める作業を、地道に進めていくことにした。

「莉乃さん、おはよう。昨日の残業の疲れはとれたかい?」

「弁当、自分で作ったんだ。うまそうだね。いい奥さんになれそうだ」

「最近、作業の手が早くなってきたね。器用な人に入ってもらってよかったよ」

 仕事中も休憩中も、常に莉乃の傍に自らのポジションを確保し、積極的に声をかけていくことで、莉乃との距離を縮めていこうとする俺の様子は、誰が見ても明らかに、莉乃に気がある風であったろう。莉乃の方も満更ではない様子で、向こうからも積極的に話しかけてきたし、仕事で困ったときは、まっ先に俺のところに相談に来るようになっていた。

「おっ。仲の良い二人が来たぞ!」

「なんか君たち、カップルみたいだなあ」

 会社の送迎バスの中で俺とよく話す、四十代の派遣スタッフ、田辺などは、いつも一緒にいる俺と莉乃を茶化して、二人がくっつきやすくなる「雰囲気」を作ってくれた。莉乃に恋心を抱いたことで「ウキウキ」としてきた俺は、周りから好意的に受け入れられるようになり、莉乃や田辺以外にも、色々な連中と会話を交わすようになった。

「蔵田くんって、ずっと暗いヤツだと思ってたけど、話してみると結構面白いヤツだったんだな」

「蔵田くん、この前してくれた、高校時代のマラソン大会の話、続きを聞かせてくれよ」

 昼休みは毎日のように、同僚の連中に囲まれて雑談にふけるようになり、その分、莉乃と会話をする機会は少なくなってしまったのだが、莉乃に社交性をアピールする上ではいいことだった。昼休みの会話には莉乃もよく加わっており、俺の話にはウケているようであった。

 脈あり――。自信を深めていたところで、大きな事件が起きた。

 その日、俺はいつものように仕事をサボり、午後の作業が始まるやいなや休憩室に引っこみ、ゲームに興じていた。三十分ほどが経過してからまた作業場に戻ったのだが、入口から莉乃が作業をしているテーブルの方に視線をやったとき、妙な様子に気が付いた。莉乃が何かそわそわとして、落ち着かない感じなのである。

 俺はすぐにピンときた。莉乃は排泄を我慢している。頼りになる俺は傍におらず、東山や中井らコワモテ社員が目を光らせている状況で、トイレに行くことを言い出せないでいるのだ。東山たちだって漏らされる方が困るだろうし、トイレくらい行けばいいのにと思うが、以前の職場で、休憩時間外にトイレに行くと言ったら、嫌な顔をされたといったような思い出があるのかもしれない。

 ここですぐに莉乃のところに戻り、さりげなくトイレに行くことを促して助けてやれば、俺の株はますます上がっただろう。しかし、そのときの俺は、莉乃が失禁する光景をこの目に収めたい欲求が勝ってしまった。この世に三十路女は星の数ほどいるが、三十路女が失禁する光景を見られる機会など、一生に一度あるかないかである。頑張っても手に入るかわからない大きな喜びより、黙っていれば手に入る小さな喜びを、確実に取りに行きたかった。俺は作業場の入口で、扉の陰に隠れ、両足をピンと張ったり、くねくねさせている莉乃の様子を固唾を飲んで見守った。

 十数分後、俺の願い通りに、大洪水が起こった。莉乃の足もとには瞬く間に水たまりが広がり、それはすぐに湖となった。土砂崩れまでもが同時に起こってしまったようで、湖は茶色に染まり、倉庫内には耐えがたい悪臭が広がった。莉乃の半径五メートル以内からは人が去り、作業が止まった倉庫内に、魂を震わせるような莉乃の慟哭が響き渡った。

 股間を膨らませて事態の推移を見守る俺の目に、とんでもないものが飛び込んできた。なんと、豚男の宮城が、バケツと雑巾を持って、号泣する莉乃に近寄り、床にぶちまけられた莉乃の排泄物を掃除し始めたのである。

 有難迷惑という言葉を、ここまで完璧に実践できる人間がこの世にいるなど、信じられなかった。ここまで他人の気持ちをまったくわからない人間を見たのは、東山以来だった。

 すごいのは、これが人に対して偉そうに、女に失礼云々を言っていた男の行動というところである。「ここに我あり」と叫んでいるかのような威風堂々たるその姿に、俺はしばし瞠目し、その場を一歩も動くことができなかった。

「あんた、もういいから。私が代わりにやるから」

 見かねて、三十代後半の女の派遣スタッフ、松原が、宮城から雑巾を奪い、掃除を代わった。どんな馬鹿でも、いい加減このあたりで察せそうなものだが、己の行為があくまで相手のためになっていると信じて疑わない宮城は、今度は「さあ、待機室へと行きましょう」などとわけのわからないことを言い出して、生き恥を晒し、精神崩壊寸前の莉乃の背中に手をやったのである。

「ふざけんな、変態ヤロー!あっちいってろ!」

 この場面で、男はそれをやってはいけない。他に女がいない状況でもない限り、それは男のやる仕事ではない。当たり前すぎること――敢えて口に出して言う必要もない、誰もが感覚として身に着けているべき当たり前のエチケットであったゆえに、松原も、咄嗟に言語化することができず、とりあえず怒鳴るしかなかったのだろう。女から変態とまで言われ、ようやく宮城も引き下がったが、その表情には憮然とした色が浮かんでいる。いかにも不完全燃焼の様子であった。

 その後、莉乃は松原に付き添われて待機室へと連れていかれ、松原が近所のスーパーで買ってきた服に着替えて、家へと帰った。倉庫では、莉乃が汚した床の掃除、除菌が完了した後、何事もなかったように作業が再開された。

 貴重な人生経験ができたことは満足であったが、こうなっては、莉乃を落とすことは諦めなければならなかった。結局、手を繋ぐことさえできなかったが、すべては自業自得、俺が助けに入らなかったせいである。どうせ、職場には若い女が毎月のように供給されることになっている。俺の気持ちは案外サバサバしていた。

 ところが、ここで奇跡が起きる。なんと、翌日莉乃は、何事もなかったかのように、職場に復帰したのである。いつもと同様、夏だというのに、素肌を見せることを拒んでいるかのような長袖のワンピースを着こんだ莉乃が「なにか問題でも?」とばかりに、すまし顔で控室に入ってきた瞬間は、誰もが我が目を疑い、凍り付いていた。中井や深山も唖然とし、東山でさえも、「次は、トイレに行きたかったら遠慮しないでいえよ・・」などと、カマキリ顔をひきつらせて言うのが精一杯であった。

 俺も驚きはしたが、すぐに心は躍った。実家暮らしで、生活に困っているわけではない莉乃が、生き恥以外の何物でもない醜態を晒した職場に復帰するのは、それなりの重大な理由があってのことに違いない。そしてそれは、職場において、莉乃の話し相手を独占している俺との縁を切りたくないから以外に考えられなかった。

 このときの俺は本当に幸せに包まれており、皮肉な話だが、いつも五キロで千円の家畜の飼料米しか食べさせていないゆかりに、栄養豊富なコンビニ弁当を与えてやったり、油粘土を買ってきて、大好きな粘土遊びをさせてやったりなど、優しくしてやったりもした。いずれお払い箱になって捨てられる運命であるとも知らずに、ゆかりも無邪気な笑顔を浮かべていた。

 自信を深めた俺は、当初、長期戦で臨む予定だった莉乃攻略のピッチを早め、莉乃を食事に誘ってみた。確実に約束は取り付けられると思われたが、莉乃は意外にも、俺の誘いを断ってきた。

「私はみんなとしか遊ばないんです。蔵田さんと二人で会うとかはできないです」

 残念ではあったが、信じられないほどのショックではない。見た目からしても、莉乃は男に免疫がないのではないか。もしかしたら、三十二にしてまだ処女なのかもしれないと、むしろ期待感も湧いた。

 この頃になると、田辺以外の連中も、俺が莉乃に抱いている思いには気づいており、勤務中、莉乃と俺が同じ作業テーブルを取れるように気を使ってくれるなど、周りが俺の恋を後押しする気配も見え始めた。

 遅れてきた青春――こうして他人から慕われ、友人に囲まれるのは、東山と繰り広げた「生存競争」以来のことだった。周りから特別な目で見られ、誰もが「蔵田マジック」を期待し、すべてが俺を中心に動いていたあの時期に比べればまだ物足りないが、今も今で、まあまあ充実していた。素直に、楽しかった。

 ただ、これはあくまでオマケ。莉乃を手に入れられなければ、俺は「リア充」でも何でもない。男と話しているだけでは、股間の疼きは癒えはしない。

 名誉も大切であるが、実利はもっと大切である。愚にもつかない人気だけあって、適当に煽てられるだけで、金も女も手に入らないよりは、すべての男に嫌われてでも、一人の女が欲しかった。莉乃が手に入らなければ、こんな吹き溜まりのような集団での人気などは何の意味もない。出会ってからまだ一か月。しかし、派遣には契約期間というものがあり、いつまでも丸菱に莉乃がいてくれるという保証はない。けして焦っているわけではないが、少しずつでもいいから、進展が欲しかった。

 流れが変わったのは、莉乃が言葉通りに、俺以外のみんなもいる職場の飲み会に参加した席でのこと。このとき、アルコールの入った莉乃が放った一言により、人を疑うことと、物事を悪い方に考えることにかけては右に出る者がいない俺は、この先けして抜けられることのない、深い靄の中に足を踏み入れてしまう。

「莉乃さん、前に、彼氏とかいたの?」

 しっかり莉乃の隣を確保していた俺は、酒の勢いを借りて、今、一番気になっていることを尋ねてみた。考えてみれば、三十二歳の女には失礼な質問で、口走ってしまったときは若干後悔したが、莉乃は特に嫌な顔はせず、コクリと首を縦に振った。

 処女である可能性はなくなってしまったが、莉乃の年齢を考えれば、もともと期待する方がおかしな話である。まだこの時点では、なにも問題はなかった。いまにして思えば、ここで質問を打ち切っておけばよかったのだ。

「へえ。どんな人だったの?」

「すごくモテる人でした。その人とはほうこうせいの違いで別れましたけど、今でも尊敬はしています。次もそういうモテる人と付き合いたいです」

 これが俺を悶々とさせた。ただのイケメン好きということならまだしも、「モテる人」と、他人の目線を重要視したような言葉を使っているのが曲者である。

 これを生真面目に解釈しようとすれば、莉乃が男を選ぶ基準は、自分が好きかどうかよりも、他人から見て、その男がどう評価されているかが重要、ということになる。もしかして、地味な見た目と、語彙が拙いことから醸し出されるピュアな雰囲気はとんだフェイクであって、莉乃は男をルックスや社会的地位でしか判断せず、男を己を引き立てるアクセサリーのようにしか見れない、とんでもないミーハー女だったのではないのか。

 他人に細やかな気配りができないくせに、他人の細かいところが気になって仕方がない。おとぎ話の中に幽閉された莉乃を哀れだと思う反面、気づかぬうちに、哀れな莉乃を理想化し、囚われの姫を救い出そうとしているヒロイズムに酔いしれていた俺は、莉乃も一皮むけば所詮は売れ残りの三十路女であり、売れ残るには売れ残るなりの理由があった・・・・のかもしれないという、ある意味当たり前の真実を突き付けられ、アイドルの恋愛が発覚したオタクのような悲憤に苛まれていた。
 
 莉乃を疑いたくないと願う俺をあざ笑うかのように、この辺りから徐々に、職場の人間関係は、俺にとって好ましからぬ状況へとなっていく。

「莉乃ちゃん、読めない字があったらいつでも言ってね。すぐに教えてあげるから」

「できないことは全部、代わりにやってやるよ。莉乃ちゃんは自分ができることを頑張って」

 莉乃の抱えた障害のことは、やがて仲間の派遣スタッフ全体が共有する情報となっていき、それは皆にとって、好意的なものとして受け入れられた。これまでバラバラだった海南アスピレーションの派遣スタッフたちが、みんなで莉乃を支えるという、一つの思いで団結するようになったのである。それは莉乃を独占したい俺にとっては、非常に好ましからざる空気であった。

 純粋無垢に見える莉乃は、確かに現代社会で人が失ってしまったもの、本来人が大切にしなくてはいけないものを持っているように見える。いつも健気に仕事を頑張り、人に笑顔を振りまくことを忘れない莉乃の周りに人が集まってくるのはわかる。

――私はみんなとしか遊ばないんです。蔵田さんと二人で会うとかはできないです。

 語彙の乏しい莉乃の発言の中に、意味のない言葉はない。私はみんなとしか遊ばないんです、とは、「私はみんなの莉乃なんです」。莉乃は、自分が小さい頃から、健常者の連中にただのおもちゃにされてきたのだとは知らず、自分は常にみんなのアイドルで、ちやほやされてきたのだと思い込んでいる。そして、その自分をヒロインとしたおとぎ話のような世界が、この丸菱運輸の倉庫にも再現されることを予感していた。だから、勤務中に脱糞するという醜態を晒しながらも、莉乃は丸菱に残った。俺のことなどは、自分を引き立ててくれる大勢の脇役の一人としか思ってなかったのだ。

 莉乃が予感した通り、あの事件で莉乃の排泄物を処理した松原が中心となり、莉乃をみんなで支えていこうという雰囲気が、派遣スタッフ全体に行き渡っていった。莉乃は、皆の前でうんこを漏らすという生き恥を利用し、己をお姫様とちやほやしてくれる「王国」を築き上げることに成功した。

 かつて、東山との「生存競争」を繰り広げていた時期の俺は、紛れもなく、俺を王とする「王国」の中心にいた。権力の座に人一倍執着の強い俺にとって、それは大変な心地よさを感じるものであった。

 権力の座に人一倍の執着を見せていたのは、俺のライバルである、東山も一緒であった。一見、イジメのようであったあの出来事は、世間というものに溶け込めない人間――自分の世界を作り出し、他人から特別扱いされなければ生きていけない俺と東山が、お互いの王国の領民を奪い合って繰り広げた、まさに「生存競争」だった。

 他人から特別扱いされなければ、生きていけない――莉乃もあるいは、俺や東山と同じ人種だったのであろうか。だとするならば、俺と莉乃は最悪の相性である。磁石の同じ極同士は、永遠にくっつくことはない。長いこと同じ空間にいれば、いずれ争うことになってしまうかもしれない。

 職場で莉乃との交流の機会を重ねるうちに、徐々に莉乃の受け入れがたい性質が明らかとなっていき、俺のショックは大きかった―――が、落ち着いて考えてみれば、まだ、すべては俺の思い込みに過ぎないと、楽観視できる段階ではあった。

 莉乃が処女ではないからといって、歪んだ男性観の持ち主とは限らない。莉乃が皆と仲良くなったからといって、俺や東山と同じ人種であったとは限らない。俺の憶測がすべて外れており、莉乃が俺の求愛を受け入れ、彼女をおとぎ話の世界から救いだし、現実の世界へ導き出してあげられる未来だって、まだ夢みていてもよかった。

 最悪、莉乃が俺を受け入れてくれなくてもいい。惚れた女を抱けないだけなら、まだ耐えられる。

「蔵田さんと二人で会うとかはできないです」、が、「俺と二人で会うことができない」ではなく、「男と二人で会うことができない」だったならば、俺が狂うことはない。

 北関東ローカルの運送会社、丸菱運輸・物流倉庫――泥底の城のお姫様を気取る莉乃に、「王子様」が現れなければ、俺はまだ平気でいられる。惚れた女を他の男が抱くのでなければ、俺は莉乃のおとぎ話の中でも生存することはできる。

 東山に、現在計画が難航しているといったのは、俺の恐れる展開が実現してしまったということである。

外道記 改 3



                   
                            3                             


 玄関のドアを開けると、アンモニアと、肉が腐ったような臭いが混じった刺激臭が鼻をつく。六畳一間の中に、流しとテレビ、冷蔵庫が一つずつしかない殺風景な空間の中、長年汗を吸い続けて茶色くなり、カバーが破けて綿がはみ出したボロ布団にくるまって高いびきをかいているのは、四十四歳の内妻、ゆかりであった。

 シミ、つぎはぎだらけの寝間着からはみ出した鏡餅のような腹。腐りかけた大根のような足に生える、カビみたいな濃いすね毛。髪の毛は汗と脂でべたつき、鈍い光沢を放っている。雷のようなでかいいびきを発する口からは涎が糸を引き、豚のように上を向いた鼻の孔から飛び出た鼻毛の先には、スナック菓子のカスのような鼻くそがこびりついており、鼻息にそよいでいる。

 ペニスに血液が充満する。俺はゆかりのブス顔を叩いて、まどろみの中から引きずり出した。

「んっ・・・あっ・・・おかえりなさい」

 接着剤のようになっていた目やにが剥がれ、腫れぼったい瞼の奥から、濁った瞳がのぞく。声とともに牛乳が腐ったような口臭が吐き出されるが、この真夏に二週間は風呂に入っていない身体から立ち上る、汗と角質化した皮膚の臭いの中では、さほど気にならない。

「脱げよ・・・いや待て」

 ここ一か月は、もう一着しかない俺のお古の服を着まわさせていたが、「収入源」を得た今なら、服を無理やり引き裂くことを躊躇する必要はなかった。こうするとレイプをしているようで、興奮の度合いが倍増するのである。

 寝間着の破れ目からナンのような乳房が弾力無く零れ落ちたのを見て、俺のペニスは伝説の剛剣の硬度を獲得する。パンティも脱がすと、汗と垢の臭いに、血液と糞小便の臭いが加わった。
 俺も服を脱ぎ、不潔なゆかりの身体に、自らの裸体を重ね合わせた。出会ってから二年、疲れていようが熱が出ようが、一晩たりとて欠かさぬ情事の始まりである。


 
 忘れもしない、二年前のあの日。当時、俺は埼玉の工場に派遣されており、今と変わらぬギリギリの生活を送っていた。相変わらず女もおらず、風俗にも行けず、たぎる性欲を持て余し、そろそろひと思いに、適当な女を強姦して、刑務所でもどこでも行ってやろうかと悶々としていたとき、ゆかりが同じ工場へと派遣されてきた。

 ゆかりがまともでないことは一目でわかった。絶えずわけのわからない独り言をもごもごと呟き、勤務中だろうが勝手に飲食をする。風呂に何日も入っていないのか、近くに寄るたびに豚小屋のような臭いがする。昼休みになると、持ち込んだ油粘土で人形を作って、ままごとをやり始める謎の習性もあった。

 こんな女を雇い入れる派遣会社も派遣会社だが、社会に放り出す家族も家族である。知的か発達か精神か、ゆかりの頭に何らかの障害があるのは明らかだったが、ゆかりの親は、自分たちが死んだとき、ゆかりがどうにかして健常者の世界についていけるように、今からでも社会経験を積ませようと、派遣会社の寮に半ば無理やり押し込んだのだという。

 親のエゴのせいでゆかりも随分苦しい人生を歩んできたようだが、そんな事情は俺の知ったところではない。俺は俺で、切実な性欲のはけ口としてゆかりの肉体に価値を見出し、派遣先を三日でクビになり、行くあてのなくなったゆかりに、同棲を持ちかけた。

――なあ、お姉さん、行くところないんだろう?俺と一緒に住まないか。あんたは働かなくていい。俺が頑張って稼ぐ。俺があんたを幸せにするよ。

 これまでの人生で、親以外の他人から温かみを受けたことがまったくなかったゆかりは、この一言でもう参ってしまった。ゆかりは俺に言われるがまま、その日のうちに派遣会社そのものを退職し、俺の部屋に移住したのである。

 四十二にして処女だったゆかりは、初めて知った男の味に病みつきになった。一人でいる間は、昼も夜もなく股間をまさぐっているようで、俺が仕事から帰ってくると、む~んと生魚の臭いを漂わせながら摺り寄り、ペニスを求めてくるようになったのである。

 下半身で繋ぎ止めると同時に、俺はゆかりが完全に俺から逃げられなくなるよう手を打った。もともと厳しい躾のせいで両親との関係がよくなかったゆかりに、両親はお前を憎んでいる、実家に帰ったら殺されると吹き込んで、自ら両親に絶縁を申し出る電話をかけさせ、実家との関係を断たせたのである。

 こうしてしまえば、あとは俺の思うがままであった。俺はようやく手に入れた念願の女体を、性欲のはけ口としてだけではなく、虐待してストレス発散にも使うようになった。

 俺は女に対する愛情は人並みに持つことができたが、相手は四十女の外見に、十歳レベルの知的能力しかもたないという生物である。働きもせず、家事もしようとしない。自分の要求ばかりで、俺のことを敬うわけでもなく、俺という人間のペニスにしか興味がない。

 会話の通じない生物でも、犬や猫、あるいは子供ならば可愛がれるのは、もともと、そういう生物だからである。大人の女には大人の女に相応しい期待値というものがあり、それに大きく及ばないというのであれば、愛情など持てるはずもなく、道具並みに扱うしかない。

 それでも、メシをやって生活の面倒を見ているだけ、マシというものである。生みの親以外で、こんなグロテスクな生物を飼ってやろうなどと考えられるのは、俺くらいしかいないだろう。ゆかりは俺を恨むどころから、穴さえあればどんな女とでもヤレる俺の器の大きさに、深く感謝すべきなのである。

 
「あふぉ・・・うふぅ・・・ふぉうぅ・・・」

 俺が股間を舐めてやると、ゆかりが死にかけたセイウチのような、不気味な喘ぎ声を発した。化け物のくせに、生意気にも感じているのである。

 糞小便をして拭きもしないゆかりの陰部からは、排泄物と納豆と動物の死骸とヨーグルトを混ぜ合わせたような、凄まじい悪臭が漂っている。ゆかりは出会った頃から衛生観念が欠落しており、放っておくと何日でも風呂に入らず、経血で汚れた生理用品などもそこらへんに散らかしてしまうような女だった。最初は行為前に無理やり入浴させていたのだが、次第に俺の方が、この臭いに病みつきになっていった。今では、一週間程度で風呂に入れさせるのは勿体なく思ってしまうほどである。

 もともとはノーマルだった俺に、ゆかりに合わせる形でそんな性癖が発芽したのは、つまり俺の男としてのランクが、この汚物としか子孫を残せないところまで落ちぶれてしまったということなのか。女に関しては徹頭徹尾実用主義で、ヤレもしない美女よりはヤラせてくれるブス女の方に重い価値を置く俺も、さすがにもう一生涯、この不快な生物としかできないと思うと、頭をかきむしりたくなるほどの苦悩に襲われる。

「ふざけんな!テメエみてえなバケモンと一緒にすんじゃねえ!」

 ふいに怒りにかられた俺は、ゆかりの顔面に平手を打ち付け、次に流しからフォークを持ちより、額に突き刺した。傷口を押さえながら悶えるゆかり。もともと痛みには弱く、血を見るのは好きではない俺であったが、虫にも劣ると思える生物には、何の抵抗も感じることなく暴力を振るうことができた。

「やめて、やめて」

「うるせえ!そんな汚え顔して生きてんじゃねえ!てめえ俺を馬鹿にしてんのか!」

「してない、してないよ」

「クソブスのてめえが生きてるってことが、俺を馬鹿にしてるってことなんだよ!」

 ゆかりの顔面をサッカーボールのように蹴り飛ばすと、ぶよついた身体が、この部屋に置かれた数少ない家具であるテレビの方にまで転がっていった。すぐに追いかけていき、踏みつけを食らわせようとすると、ゆかりは突然、テレビ台の下から何か小さい物体を取り出し、それに向かって、ごめんね、ごめんね、といったような言葉をボソボソと呟きはじめた。

「なにを言ってやがんだ、化け物婆が!」

「やめて。健ちゃんとたっちゃんをいじめないで」

 その名前を聞いて、心臓が飛び出しそうになる。俺がゆかりとの間に作った赤子に、ゆかりが勝手につけた名前だったからである。

「なにを握ってやがる。みせろ」

「やめて、いやいや」

 嫌がるゆかりの手をこじ開けると、中からは、黒ずんだ粘着性の物質で作られた、二つの小さな人形が出てきた。

「なんだ、こりゃあ・・・」

 鼻を近づけてみると、その人形からは、鉄のような臭いがした。犬は一度嗅いだ臭いは十年経っても忘れないというが、俺の脳も、生まれてからこれまで嗅いだ何百、何千という臭いを、しっかりと記憶している。

 脳内のメモリの中から、東山と「生存競争」を繰り広げていた時期の、遠い記憶が呼び起された。黒ずんだ物質の正体がわかった。ゆかりの手のひらに乗っている物体の正体は紛れもなく、ゆかりが自らの垢で拵えた「力太郎」である。ゆかりは、俺が生まれたその日に県内の赤ちゃんポストに放り入れたガキに未練を残し、同じ自分の体から生み出した「力太郎」を、その代用品として愛でていたのである。

「重治さんが、粘土を買ってくれないんだもん。ゆかり言ったのに、しげはるさんが・・」

「気色わりい婆が、気色わりいことしてんじゃねえよっ!」

 胸部に、俺の渾身の回し蹴りを見舞われて、ゆかりは「力太郎」を取り落とした。

「よく見てろ、クソ婆」

 俺はゆかりの目の前で、二人の「息子」を踏み潰して見せた。

「うぉうをををっ、うぉうをををっ」

 絶望の慟哭が室内に響き渡る。俺はゆかりを押し倒し、息子同様にペシャンコに潰れた乳房にむしゃぶりついた。

「ガキなんて、いらねえもんを産みやがって。どうしようもねえクソ婆め」

 自分自身を厭悪している俺が、自分の分身に愛情など持てるはずがない。そんなものは重荷になるだけだ。俺がガキを作ったのは、妊婦を犯す興奮と、母乳を味わいたかったからだけだ。育児能力などあるはずもない俺とゆかりに育てられるより、施設にでも放り込んだ方が、ガキも幸せであろう。

「ふうふう。うめえな。うめえ」

 二人目のガキを産んでからまだ三か月しかたっていないゆかりの乳からは、絞れば濃厚な母乳が迸る。反吐が出そうな顔面をしているくせに、この女の母乳は妙に甘く、癖になる味わいだった。

 母乳好きというのは、二十九歳の時、出会い系サイトで知り合った、やはり出産直後の一歳年上のシングルマザーと数か月ほど交際していたときに芽生えた性癖である。

 二十代前半のときには、やはり出会い系サイトを通じて、二歳年下の女の子と知り合い、交際できたことがあったが、俺も女にまったく縁がないわけではなく、三十二年の生涯の中には、オイシイ思いができた経験も、少なからずはあった。

 シングルマザーとは、前の旦那とヨリが戻ったという事情から切れてしまったのだが、俺は自分に十分なチャンスを与えてくれた女のことは、たとえ振られたとしても、後から恨みに思ったりするようなことはないし、別の男に走ったとしても、しつこく追い回すようなことはない。自分の方にも失態があれば、素直に反省するなど、殊勝な心掛けになることもある。

 男が自分の女を大事に思う気持ちには、純粋に異性として愛する気持ちと、自分が女に選ばれたというプライドを満たしてくれたことへの感謝という二つがあるが、俺の場合は特に後者が強いようだった。どちらが良くて、どちらが悪いというわけではない。それで女を大事にできるなら同じであり、どちらも尊い感情である。

 両者の性質の違いが現れるのは、女に振られたときであろう。女に愛を求めるヤツは、自分を一時でも愛してくれた女にいつまでも執着し、女にプライドを満たしてくれることを求めるヤツは、自分を一時すら男として見てくれなかった女に、いつまでも執着するのである。

「むふぉ・・・・くせえ・・・相変わらずくせえな、てめえは」

 俺は一旦、ペニスをゆかりから引き抜き、ゆかりのひじきのようなわき毛が群生する脇、白癬菌と水虫がかゆみを引き起こすせいでぐちゅぐちゅになっている足の臭いをたっぷりと嗅ぎ、舌を這わせた。納豆とネギを混ぜ合わせたようなハーモニーが、鼻から口から侵入し、頭の中で、幸せがいっぱいに広がる。

 いい意味でも悪い意味でも、過去の女を忘れられない性格―――。思い返してみれば、俺に女の体臭に興奮する性癖が芽生えたのは、二十代前半のころ、僅か二か月ほど関係のあった、二歳年下の女の子のことを、いつまでも覚えていたからかもしれない。

 当時、風俗でしか女経験がなかった俺は、女の陰部も手入れを怠れば、男と同様か、肛門に近い分それ以上に不潔な環境になるという事情に不得手であった。体質もあったのだろうが、シャワーを浴びずに行為に及んだときの彼女の陰部の臭いは半端ではなく、可愛いあの子のアソコから、汚い僕のちんちんよりもお下劣な臭いが漂ってきたとき、当時ウブだった俺はいたく衝撃を受けたものだった。

 それから十年あまりの月日が経ってみて、当時の彼女のことは、俺にチャンスをくれた感謝と、そのチャンスを自らフイにした後悔とがない交ぜになった、甘酸っぱい記憶として残っている。青春の思い出は、歳を取るほどに美化されるというが、あの指についた臭いが洗ってもとれなかった衝撃も、俺の数少ない、煌めく青春の一コマとして美化され、今ではフェティシズムにまで昇華されたのかもしれない。

「ふふぉ・・・・くせえ。くさいはエロい・・・・。くさければくさいほど、硬くなる・・・・」

 俺は先端からカウパーを垂らすペニスを、ゆかりの中に、再度突き入れた。

 女だ。何一つ取り得もなく、夢中になれる趣味もない俺が生きる喜びを見出せるのは、女でしかない。俺が俺であるために、俺は理想の女を追い求め、また、女体の楽しみ方を求め続けるのである。

「あっ。おっ。ふぉっ。ふっ。おっ」

 俺の腹の下でまぐろ状態のゆかりが、法悦のうめきを漏らしている。ゆかりに挿入したまま乳を搾ると、母乳が真上に向かって噴射し、俺の乳首を白く染め、甘ったるい香りを部屋中にまき散らす。乳房、腹、二の腕、太もも、あらゆる部位にこびりついた肉がぶるぶると波打ち、悪臭の原因となる汗の飛沫を飛ばす様を俯瞰して、俺のペニスに快感が走る。身体は絶頂に向かって熱くなっているのに、心の中には冷たい風が吹いている。  

 どの角度からどう見ても、ゆかりは化け物のようなブス女である。こんなブスを手に入れても、何の達成感もないし、何の喜びもない。こんなブスとしかセックスできない俺の境遇は、心底惨めだと思う。

 かつて、俺は世間と和解することを真剣に考えた際、世間に対し、俺に女を与えるという条件を出した。二か月とか三か月とかいう短期間ではなく、末永く一緒にいられる、人生の伴侶となる女である。

 世間は、その望みは今、叶えられたではないか、というかもしれないが、冗談ではない。俺が世間に差し出すことを求めたのは、こんな化け物ではなく、並み程度の容姿を持った男が、当たり前に手にする権利のある、「健康で文化的な最低限度の」女である。

 ゆかりは明らかに、その水準には達していない。これでは、世間と折り合いをつけることなどできはしない。ゆかりのような化け物で我慢しなくてはならないのは、宮城のような、最低限度の容姿すら持っていない男だけである。

 青年期に異性の温もりに恵まれないことは、貧乏にも勝る苦しみだ。女に愛されない寂しさ、セックスの快楽から切り離される喪失感は計り知れない。人生でもっとも精力盛んな二十代に、女にまったく相手にされず、常に欲求不満を抱えている苦しみを味わっていなければ、俺がここまで歪むこともなかった。

 人生で最も精力盛んな二十代を、一人の女とも交わることなく棒に振り、今後も情交の機会を得られぬまま、性機能が衰えていくだけの宮城の絶望を思う。興奮する。たった数ミリ目が細い。たった数ミリ鼻が太い。たった数ミリ輪郭が歪んでいる。たった数ミリの物理的違いに人生を翻弄される世の不細工の絶望を思う。興奮する。宮城のような不細工な男が得るはずだった女を、この俺が奪い取っている事実。興奮する。人を見下すというスパイスを加えれば、ゆかりのようなブス女でも楽しめる。 

 ふいに、地上最醜の不細工を、自らの手で作り上げてみたい衝動にかられた。俺が生涯で出会った男の中でもっとも不細工な宮城と、生涯で出会った女の中でもっともブスなゆかりで子供を作ったら、地上最醜の不細工、ブスの日本代表、いや世界チャンピオンができるのではないか?その超グロテスクな生物を見てみたい。そいつの絶望を眺めながらするセックスの味を知りたい。

 その昔、遠く満州の地で、ナチス・ドイツのレーベンスボルン計画を真似た、頭脳、身体能力、容姿、血統すべてに恵まれた男女を日夜セックスに明け暮れさせ、次代の指導者となる「超高度東洋種族」を製造する計画が、秘密裡に行われていたという都市伝説がある。ならば、その逆の発想で、頭脳、身体能力、容姿、血統すべてに恵まれず、次代の下層階級に優越感を与えるための「超劣等東洋種族」を誕生させる計画があってもいいではないか。

 あの見苦しい宮城が、化け物ゆかりを孕ませようと、ぎこちない動作で必死に腰を振っているところが見たい。それはきっと、自分がセックスする以上に楽しいに違いない。
「・・・・・!!」
 快楽のうねり―――。俺は絶頂に達する寸前、ゆかりのヴァギナからペニスを引き抜き、ドーム球場の屋根のようなゆかりの腹の上に射精した。せっかく、「超劣等種♂」の種が着床する前の、貴重な「超劣等種♀」の卵に、けして劣等とはいえない俺ごときの種を付けてはいけない。

 枕元の携帯を取った。射精後の倦怠感の中で五指を操り、「超劣等種♂」の番号を呼び出す。舌打ち。今日、昼の時点でヤツが金を貸してくれなかったせいで料金が支払えず、携帯はまだ止まっていたのだった。

 「平成のマッドサイエンティスト・蔵田博士」となった俺は、服を着て自室を出て、階段を降り、同じアパートの一階に住む、宮城の部屋のベルを鳴らした。

「蔵田さんですか。夜更けにどうしました?」

 深夜一時の訪問にも、宮城はとくに嫌な顔は見せない。バスの中で、今晩は、所属しているボランティア団体の資料作りか何かで徹夜をするようなことを言っていたのを、俺は覚えていた。

 宮城は紫のジャージズボンに白無地のTシャツをタックインした、いまどき田舎の体育教師でもしないようなファッションスタイルをしている。深夜になって、口元を覆う硬そうなヒゲは伸びきり、大根がおろせそうだ。朝に見ても夜に見ても、不細工で、しかもダサい男である。やはりこの左門豊作は、素晴らしい実験体だった。

「なんか寝付けなくてよ。俺の部屋で、茶でもどうかと思ってさ」

「いいですね。では、カンボジアの孤児院訪問ツアーの資料作成を中断して、お邪魔させてもらいます」

 今の会話の中で明らかに不必要な、自分の活動内容の報告。ボランティアに取り組むのは無私の心からではなく、それを人にアピールするためであると、自分で言っているようなものである。顔だけでなく頭も悪いこの男の遺伝子からなら、きっと俺が満足できる「超劣等東洋種族」が作れることだろう。期待感を胸に、俺は宮城を連れて二階へと上り、自室のドアを開いた。

「きゃっ・・・・」

「な・・なんですか、この女性は」

 部屋に招じ入れた宮城が顔をしかめる。ゆかりの方は生意気にも恥ずかしがり、布団で前を隠した。超劣等種族の♂と♀の接近遭遇。一目ぼれとはいかなかったようだ。

「こいつは俺の女だ。宮城くん、最近たまってるだろ。こいつとヤッていかないか?」

「言っている意味がわかりません。それに・・・この臭いは、なんですか」

 宮城が顔をしかめた理由は、ゆかりの容姿ではなく、部屋中に漂う「無洗女体」の獣臭だったようである。俺自らが「無洗女体」の虜であるとはいえ、客人に不快な思いをさせてしまったのは失態であった。

「ん?この臭いを嗅いだことがないって、宮城くん、もしかして童貞だったのかい?」

 ダンゴムシが空を飛べないのと同じくらい、見ればわかることである。

「これは一種のフェロモンさ。女はな、発情するとみんなこういう臭いを出すんだよ。宮城くんが好きとか言ってた、あのなんたらいうアイドルもそうだぞ。最初はくせえと思うかもしれないが、これが段々病みつきになってくるんだ。さあ、宮城くん、遠慮しないで、あいつの身体にむしゃぶりついて来いよ」

 俺にからかわれた童貞の宮城が、一瞬、そういうこともあるのだろうかと考えたように首を傾げる。噴き出したいのを堪えるのが大変だった。

「・・・・そういうことは、愛する男女同士でするものです。この人は、蔵田さんの恋人なのでしょう?どうして大事にしてあげないのですか」

「他の男にヤラせるからって、大事にしてないとは限らねえだろ?セックスは愛のある者同士でやらなきゃいけないって、そんな決まりもねえぜ。ほら、せっかくの機会だ。遠慮せずにやってけって。この機会を逃すと、宮城くん、いつヤれるかわからねえぞ?」

「・・・お断りします。あまりにも、女性に対して失礼だ」

 女に失礼なのは、貴様のルックスとファッションセンスだろう。折角の据え膳を食わずに、キレイごとしか吐かない豚に怒りが募る。それとも、ゆかりとヤるくらいなら、童貞のままでいた方がマシということか?もしそうだとするなら、宮城のような豚でさえ敬遠するような化け物と今までヤっていた俺は何だという話になる。

「だから遠慮すんなって。ほら、ほら、母乳だって出るんだぞ。ほらなめてみ、ほら」

 なにがなんでも宮城とゆかりをヤらせないと、自身の沽券に関わると考えた俺は、ゆかりを引き起こし、宮城に向かって母乳をピューと噴射させた。驚いた宮城は、両手で顔面をガードして後じさる。

「や、やめてください。一体なんなんですか。用がこれだけだったら、僕はもう帰りますよ」

「・・・・ったよ。ったく、恥ずかしがりやなんだから。じゃあよ、気が変わったら、いつでも言って来いよ」

「変わらないですよ。僕は、この人となら幸せな家庭を築けると思った人とだけ、身体を交えるんです。童貞だなんだというのは、恥ずかしいことでもなんでもありません。セックスに対する考え方は人それぞれです。馬鹿にするようなことを言うのはやめてください」

 こちらはそんなことは一言もいっていないのに、わざわざ本当は誰よりも童貞をコンプレックスに思っていることを打ち明けてくれる宮城。まったく愉快な豚である。

「・・・・これ。昼間話した、節約レシピです。この方との結婚を考えているなら、参考にしてください。お子さんもいらっしゃるなら、なおさらお金は大事ですからね」

 宮城は部屋を出ていった。俺は宮城が置いていった節約レシピをすぐさまゴミ箱に放り込み、ゆかりとの二回戦を開始した。

 俺を侮辱するな、童貞の糞豚め。貧乏な不細工男が、幸せな家庭とは笑わせる。あんな奴が結婚できるとしたら、結局それはゆかりのようなクソブスでしかなく、そんな両親の遺伝子を継ぐ子供は学校でイジメられ、化け物一家として世の人々の嘲笑を受けながら生きるしかないことがわかっていないのか。

 俺がゆかりと結婚など、冗談じゃない。こんな化け物ブスは、もっと若く、美しい女体を確保でき次第、すぐに捨てるつもりだ。「健康で文化的な最低限度の」女を得られない限り、俺が世間と和解することはあり得ない。

 俺がゆかりと結婚しようと考えているというのは、俺とゆかりが釣り合うランクにあると、宮城は思っているということ。さらに宮城は、愛があるセックスがどうのと言って、結局ゆかりを抱かなかった。きっと今頃、己の部屋で、化け物ブスとしかセックスできない俺のことをあざ笑っているのだろう。俺を侮辱した宮城は許さない。いつか地獄に送ってくれる。

 俺は、俺を受け入れないこの世間を憎む。俺に「健康で文化的な最低限度の」女を与えず、無条件降伏を迫るだけの世間を憎む。この世間で素晴らしいとされる価値観をありがたがる奴らは、俺の力が及ぶ限り、地獄に送ってやる。

外道記 改 2

                                 
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 東山から勤務が終わったとの連絡を受けて、隣町のファミレスに入ったときには、時計の針は二十一時を回っていた。俺に散々せっつかれて、ようやく出られたのがこの時間だったというから、普段のペースでやっていたなら、それこそ日付が変わる頃まで、仕事は続いていたに違いない。日に三時間以上、月に二十時間以上の残業はしたことがない俺には考えられない労働量である。毎日これだけ酷使され、精神をすり減らされていたら、俺たち下の者にあたるのも無理はないのかもしれない。夢でも見ているかのような幸福感が、一生に一度の同情心を引き起こさせていた。

 東山より先に到着した俺は、もちろん東山に払わせるつもりで、三百グラムのサーロインステーキを注文した。まともに動物性たんぱく質を取るのは、半月ぶりほどにもなる。朝にカップ麺とラーメンライス、昼間に菓子パン、夜に納豆ごはんとインスタントの味噌汁のローテーション。二年前に出会ってからというもの、ほとんど毎日、五キロで千円の家畜の飼料米と猫用の缶詰しか食べていない俺の内縁の妻よりはマシだが、まあ、ひどい食生活を送ってきた。このままでは生活習慣病まっしぐらであったが、これから俺の栄養状態は、劇的に改善されるはずだった。

 十五分ほど待つと、東山が愛車のデミオでやってきた。白無地のTシャツに軍パンといういで立ち。プロレスラー並みの巨体を手に入れた東山には、ワイルドな恰好がよく似合う。頭の中はともかく、見栄えだけは良くなった。人間、見栄えだけでも、案外何とかなるものだ。何も知らない者からは、東山の現在地は、冴えない三十路男の俺などより、よっぽど恵まれているように見えるだろう。十八年前にバカなことさえしなければ、東山は俺のことを徹底的に見下し、正社員と派遣労働者という立場の違いを利用して、好き放題いたぶることができたというのに。結局、人殺しなどやれば、一生付いて回るということである。

「それで・・・話というのは・・・・」

 東山は、俺が東山のために注文してやった、メニューで一番安いドリアには手をつけず、糞でも詰まっているような強張った表情で切り出した。

「おいおい、いきなり本題かよ。十八年ぶりの再会だぜ。積もる話を聞かせてくれよ。年少では飯はうまかったのか、尻の穴は守れたのかとかよ」

 注文したサーロインステーキを頬張る俺は、ジューシーな肉汁を口の端から滴り落としながら、東山の緊張を解こうとおちょくってやる。

「お、大きな声で言うな。明日も仕事なんだ。手短に済ませたい」

「わかったよ。しょうがねえな。じゃ、まず、お前の部下にやられた傷の件だが、これは不問に付してやる。ただし、お前の態度しだいだ」

 雑魚は捨て置くべし。この際、中井などに構っている暇はない。恨みもない雑魚をいたぶって、たかだか十数万からの慰謝料や治療費をとるために、俺の貴重な時間は使えない。ライフワークバランス。搾取の対象は一本化すべきである。

「取りあえず、そうだな・・。こんくらいでどうだ?」

 俺が差し出す二本指を見ると、東山は眉間に寄った皺の数を増やして悩み始める。
 二百万円。一介のサラリーマンにも、けして無理な金額ではない。しかし、高々それだけの金を奪っただけで、解放してやるはずもない。これから生かさず殺さず、東山の収入が尽きぬ限り、じわじわと搾り取ってやるつもりである。

 中学時代のピュアだった東山ならともかく、少年院で散々悪ガキと渡り合い、出所してからは、まともな人間の何倍もの辛酸を舐めながらここまで這い上がってきた東山なら、俺の魂胆くらいは分かっているはずであろう。提示された二百万だけではなく、これから延々と毟り取られ続ける何百、何千万という金に、東山は怯えているのである。

「とても無理だ。生活が成り立たなくなる」

「無理ってことはねえだろう。俺みたいなロクデナシじゃなく、お前は社会的に信用ある立場なんだ。それぐらいの金集めるのはわけもないだろ」

「簡単に言うな・・。いずれにしろ、すぐには無理だ」

「じゃあ、二か月だな。全額もらうのはそれまで待ってやるから、当面の金を寄越せよ。お前の月給ひと月分くらいでいいからよ」

「・・・・・・」

「何も言わねえってことは、それでいいんだな」

「・・・・・俺は、確かに、人として許されざることをしたのかもしれん。だが、俺のやったことに対し、お前もなにか、思うところがあるはずだ」

「おいおい~。言うに事欠いて、責任転嫁かよ。あのぽっちゃり女を殺ったのが俺のせいっていうなら、お前は俺を殺ればよかっただけじゃねえか。それとこれとは、全然別の話だし、世間もそう思ってるぜ」

 山里愛子の命が失われた件について、俺の罪悪感を引き出そうとの魂胆であったようだが、見くびってもらっては困る。なぜ、俺がセックスをしたこともない女が殺されたからといって、後ろめたい気持ちにならなくてはならないのか?あの事件では、「生存競争」に参加していたわけでもないのに、山里愛子が死んだことで心身に異常をきたす児童が続出したが、ただの同級生が死んだだけで、わけのわからない罪悪感などに蝕まれてしまうヤツの気持ちなど、俺にはまったくわからない。友達でも恋人でもない、ただの同級生である。ただの同級生が死んで、なぜ心が痛む?俺には、行ったこともない遠隔地で、会ったこともない誰かが事故や災害で死ぬのと、大して変わらないように思えるのだが、俺が異常なのだろうか?他人と比べようがないため、俺にはわからない。

「・・・・・・・・お前って男は・・・どこまで・・・」

「さっさと結論を出せよ。俺が聞きてえのは、お前が金を払うか払わねえか、どっちかだけだ。払わねえ理由をいくら聞かされたって、気持ちが満たされることなんかねえんだよ」

「・・・・・・」

「さあ、どうすんだ」

 東山が泣きそうな顔になり、後頭部が存在しない絶壁頭を両の拳でカンカンと叩き出した。容量の少ない脳みそで、必死に逃げ道を探しているようである。気のすむまで探してもらって構わないが、残念ながら、逃げ道はない。東山も必死かもしれないが、必死なのは、俺の方だって同じである。転落一辺倒の、糞まみれの人生に訪れた最後のチャンスを、逃すつもりはないのだ。

「・・・週末には、取りあえず納得してもらえるだけの金は渡す。今日はそういうことでいいか?」

 俺がサーロインステーキをすっかり平らげるまで、十分ほども悩んで、東山がようやく結論を出した。とりあえず急場を凌いで、これからじっくり、何とかする方法を考える。結局はそれしかないだろう。俺が東山の立場でも、同じ答えだったと思う。まあ、何とかしようと思っているうちに、ジワジワと搾り取られていくわけであるが。

「商談成立だな。俺はもうちょっと飯食ってくから、それまで付き合ってくれよ。車で来てんだろ?寮まで送ってってくれよ。もうバスも出てねえしよ」

 商談を纏められたことに安堵した俺は、大きなゲップをし、ウェイターにビールのお替りと追加のグラタンを注文した。財布の中身を気にしないで料理を注文できるのは何とも気持ちよく、財布の中身を気にしないで食べられる飯は、なんでもうまい。

「なあ、お前の嫁さんの写真を見せてくれよ」

「なに?なぜそんな・・・」

「いいじゃねえかよ。見せてくれよ」

 東山から強引にスマートフォンを奪い取った俺は、データフォルダを開いた。ファイルは静止画、動画ともに、すべて家族と撮ったものであった。俺や東山より少し年上くらいの女房は、特別美人ではないが、色白で上品な顔立ちをしており、優しそうな笑顔を浮かべている。

 さらに、二人には娘がいるようであった。歳は三歳か四歳くらいだろうか。父親の胡坐の上に乗って、拙い箸の持ち方で、東山に、逆にあ~んをしてあげている。父親にはあまり似ていないが、よく懐いているようだ。

「綺麗な奥さんと可愛い子供じゃねえか。羨ましいぜ。守ってやらなきゃなあ、東山ぁ」

 スマートフォンを東山に返して、俺は両の眼を大きく見開き、またギッと口角を吊り上げてやった。
 底の底まで、愚かな男。脛に傷を持つ者は、安易に守るべき者を持つべきではない。多くの場合、それは足枷、重荷にしかならないのである。

 東山の過去が会社にばれ、世間にばれて、週刊誌などが食いついてきた場合、東山一人であれば、まだ、どこか遠くに逃げて、人生をやり直すこともできただろう。しかし、妻はともかく子供までいるのでは、簡単に身動きをとることもできない。全部放り出してしまえばいいという話ではあるが、好き勝手に威張り散らせる職場と、暖かい家庭という、東山が血の滲む努力でこの生き辛い世間の中に作り上げた「巣」を、簡単に捨てる気になれるはずもない。

 東山の過去がバレて、大騒ぎになってしまった時点で、東山の人生は終了である。自分の「巣」を守るためなら、東山は死ぬ気で金を掻き集めてくるだろうし、惜しげもなく金を吐き出すだろう。あとは、さじ加減の問題である。金を分捕りすぎたせいで、東山が大事な「巣」を維持できなくなったら、元も子もない。江戸時代の農民搾取のように、生かさず殺さず、真綿で首を絞めるように、じわじわと搾り取ってやるのである。

「ふう・・・食った食った。ごちそうさん。じゃ、帰ろうぜ」

 何週間ぶりかにまともな食事を胃袋に納めた俺は、満足して席を立った。レジに向かい、会計をする東山の姿を横から眺めるが、中学の頃そのままの生白いカマキリ顔が、プロレスラー顔負けの巨体に乗っかっている姿は、いまだに馴染まない。この違和感がなくなるくらいに長い付き合いになれば、二百数十万もある俺の借金はすべて失くなり、人生に洋々とした前途が開けるだろう。

 会計を終え、俺と東山は連れ立って駐車場へと出ていく。店の前の喫煙スペースにたむろしていた不良がこちらを向いてくるが、仁王のごとき東山が目に入ると、慌てて視線を逸らした。虎の威を借る狐の心境。これからあの職場内でも、この気分が味わえるのである。

 デミオの後部座席に乗ると、俺は靴を履いたまま、シートに寝そべった。東山は別に嫌そうな顔はせず、巨体を窮屈そうにドライバーズシートに納めた。夜のドライブの始まりである。

「ああ、楽しいなあ。すっげえ楽しい。夢でも見ているかのようだぜ」

 座席の前と後ろとの間に流れる空気には、北国の豪雪地帯と、南国のビーチほどの温度差がある。一つの再会は、二人の男を地獄と天国へと分けた。

「なあ東山、頼むから、お前の昔話を聞かせてくれよ。年少上がりから、運送会社の管理職にまでなったお前の、涙がちょちょぎれるような感動のサクセスストーリーをよ」

「・・・・・」

 俺のハイテンションについてこれない東山は、むっつりと黙りこくったままである。

「しょうがねえな。じゃあよ、俺の話をするからよ、それで満足してもらったら、今度はお前の話をしてくれよ。それならいいだろ」 

 東山が逮捕されてからの、俺の人生。思い出したくもない人生。ろくでもなかった転落人生。

 すべてを聞いたら、東山はきっと溜飲を下げてくれるだろう。哀れなヤツだと思ってくれたら、今後の強請も捗るかもしれない。そんな魂胆も確かにあったが、それだけではなかった。

 嬉しかった。もう二度と、陽の当たる世界では生きられない者。同じ世界の住人に、ようやく出会えた。この男になら、俺の過去を話せる。俺のクソみたいな人生も、この男に話せば笑い話になる。
 
 正直、抱え込むのは辛かった。ずっと誰かに話したかった。




 山里愛子殺害事件後、東山は関東の医療少年院へと送致された。俺たちが通っていた中学は世間から好奇の視線を浴び、連日見物客の絶えぬお祭り騒ぎで、常日頃なにか大きなことをしたいと思っていた俺としては、実に鼻が高かった。

 東山逮捕後も、学校生活は概ね快適であった。イジメの主犯格とされていた俺は、「底が知れないヤツ」と皆に畏怖され、腫れ物に触るような扱いを受けていたからである。

 もともと対等な立場の友達を望まず、周りから特別な目で見られていることに喜びを感じる俺には、それは実に心地がいいものであった。しかしここで舞い上がって、自分の思ったことは何でも通ると勘違いしてしまったのが、若さゆえの過ちである。

 中学三年の中ごろ、俺は請われて付き合っていたブスの女を捨て、新たに自分好みの容姿をした女をモノにしていたのだが、付き合って二か月ほど経ち、性行為を申し出たところ、これを断られてしまった。怒った俺は、無理やりにでも関係を結ぶべく、自宅に連れ込もうとしたのだが、女に大声を出され、敢え無く失敗。翌日、友人を連れたその女から、クラスメイトの前で別れを告げられてしまった。

 納得のいかない俺は、その日から、女にしつこく復縁を迫った。当時のことで携帯はガキにまで普及しておらず、手紙を送り付けたのだが、その量が尋常ではなく、一回に三十枚は軽く超え、それを毎日というペースであった。内容は次第に脅迫めいたものになっていき、東山と同じ目に遭わせるといったようなことも平気で書いていた。

 これで命運が尽きた。女の訴えにより、俺は強面の教師連中数名から、会議室に軟禁され、四時間に及ぶ説教を食らう仕打ちを受け、もう二度と女に接触しない旨の誓紙を書かされた。

 気が小さい俺は、それきりすっかり大人しくなってしまった。無論、これで改心したわけではなく、虎視眈々と巻き返しのチャンスは窺っていたのだが、東山の件もあり、教師も生徒も俺へのマークを徹底していたため、動こうにも動けなかった。「裏番長」としてめくるめく学園ライフを送るはずが、パシリの一人も持てず、並み程度の女にも手を出せない体たらくを演じたまま、中学校を卒業してしまったのである。  

 最後には不本意な結末を迎えてはしまったが、自分の生き方が間違っていると思ったわけではない。東山との「生存競争」を経て、俺は、世間一般で正しいとされる価値観に背いて生きていく――悪の集団に身を置くことこそ、俺の唯一生きる道と確信していた。それを実践すべく、俺は高校に入ると、安直ではあるが不良グループの仲間入りをし、本格的に逸脱者としての道を邁進しようとしていた。

 髪を茶色に染め、ピアスを空けて、学校にロクに行っていないか、もしくは完全に辞めてしまっているような奴らと一緒になって繁華街に繰り出し、明け方まで遊びほうけるなどして、初めは仲良くやっていたのだが、三か月も経たないうちに、俺と仲間との関係はギクシャクし始めた。

 中流の経済力を持った家庭に生まれ育ち、比較的まともな親に、比較的まともな躾を受けて育てられた俺は、いつの間にか、貧困家庭に育ち、挨拶一つできず、箸の使い方一つ知らない不良の仲間を見下していた。俺のそんな優越感は、コンプレックスの塊で、自分に向けられる悪意に人一倍敏感な不良どもにはすぐに伝わってしまったようで、彼らは俺の知らない間に、俺に対する不信感を鬱積させていたらしい。

 俺は悪ではあったが、けして非行が好きなわけではなかった。俺がやりたいのは、真っ当な学生生活を送る上で、俺に何らかの不快な思いをさせたヤツを痛めつけることであって、不良どもがやっているような、夜中に騒ぎまわるとか、地域をゴミで汚すとか、自販機を荒らすとか、夜中に原付バイクをパクって乗り回すとか、他校の大人しい生徒を恐喝するとかいうことではなかった。何の恨みもない人間に危害を加えたり、利益を損ねる趣味はないのである。 

 やりたくもない非行に渋々手を染めて、彼らの目的である、ただ単に寂しさを埋めるためだけの共同体意識を形作っていくことに貢献しても、彼らが俺の要求のために動いてくれるわけではない。不良などやっている奴らは、恨みを直接本人にぶつけることもできない臆病な連中であり、連中に何かを期待したことが間違いの大元であった。

 そもそも、変な話、当時の俺は、自分のことを、それほどの悪人だと思っていなかった。言われるなら、あまのじゃくとか、捻くれ者ではないか。俺は普通のことをやっているつもりなのに、なぜか周りからは、それは悪だと言われるせいで、ああ、俺は悪なのかと思うしかなかった・・というのが、実情に近い。

 年齢を重ねた今は、自分の何が悪いと思われているのか、何が人と違うのか、ある程度はわかるようになったが、子供の頃は本気で、自分がなぜ周りから非難されるのか、お前は悪だと言われるのかわからず、自分は理不尽に怒られているだけだと思うことが多かった。そんなことの繰り返しで、ますます捻くれていったともいえる。

 俺は根っからワルいのではなく、人の群れに馴染めないだけなのである。真っ当な世界が面白くなくなれば悪に走ろうとするが、悪い世界で何もオイシイ思いができなければ、また真っ当な世界を懐かしみ出し、真面目に勉強しようとか、社会規範を守って生きようとか考え出してしまう。真っ当な世界に戻って、やっぱり面白くなければ、また逸脱者の虫が疼き出す。善であろうと悪であろうと同じことで、俺は結局、自分が中心になれない、自分が注目されない世界が面白くないだけなのだ。

 結局、不良グループとは、些細な揉め事をキッカケに本格的なトラブルとなり、目玉を潰すとか、家を燃やすとか脅される騒ぎにまで発展した。その際、相変わらず教師の前ではいい顔をしていた俺は、学校に泣きついて助けを求め、後日、呼び出しを受けていた不良グループの集会に、高校の教師連中数名が乗り込んで話しをつけてくれるという形で、決着はついた。

 あのとき、教師たちの後ろに隠れている、裏切り者の俺に向けられた不良どもの眼差し――生まれながらに貧困のスパイラルに取り込まれ、キレイごとなど一切響かない世界で生きてきた不良どもが、同じ穴のムジナだと思っていた俺に、実はまだ、人は努力すれば幸せになれるという神話、人は生まれながらに平等であるというおとぎ話の中に居場所が残されていたと知ったときの眼差しは、味わい深い思い出として残っている。俺は男の世界では敗者となったが、社会の枠組みの中では、紛れもなく勝者であった。

 その後しばらくは繁華街などにも足を踏み入れず、大人しくしていたため、リンチを受けることもなく、金もとられることもなく、平穏無事に不良グループとの縁を切ることはできたのだが、かといって、真っ当なグループの中に居場所を見つけられたわけでもない。その後の高校生活で、俺は特に大きな問題を起こすことはなかったが、特別大きな喜びもない、ズルズルと地盤沈下していくような学生生活を送った。

 東山との「生存競争」を再現することも、ついにできなかった。俺が人生の中で唯一輝けたあの出来事は、東山という、もう一人の社会不適応者がいてこそ実現できたものであった。高校からは義務教育ではない。どうしても適応不可能な人間は、排除され淘汰される。その意味では、俺はまだ世間から「望みがある」と思われていたともいえるが、住みやすい環境を提供してもらえるわけでもない。ゴキブリを捕食していたアシダカグモが、ゴキブリがいなくなった途端、同じ不快害虫として駆除の対象となるように、俺は常に、学校社会の中で生きづらさを感じていた。

 高校では、仲の良い友人も恋人も一人もできず、卒業したら全員音信不通。「生存競争」以来、コツコツと努力することをバカにしていた俺は、勉強もほとんどしなかったため、名前が書ければ入学できる五流大学にしか進めなかった。

 大学に上がっても、俺は相変わらず日陰者の扱いで、友達も女もできず、時間を持て余していた。気付けば、独裁者になって国家を支配するとか、女を思うがままにするとかいった空想に耽るのが日課となり、インターネットの匿名掲示板に入り浸るようになっていた。

 匿名掲示板――そこにいたのは、俺とまったく同じ人種であった。何をやっても報われず、社会の中に充実感を得られる場所を見出すこともできず、ひたすら幸せな人間を妬んでいるが、悪に染まりきることもできず、口先ばかりで大胆なことは何一つできない。友達も女もおらず、時間は腐るほどあるのに、今より少しでもまともになろうと努力するわけでもなく、ただただ、身の丈以上の成功願望と、猛烈な自己顕示欲ばかりを持て余し、自分の殻に閉じこもり、燻ってる。

 「同類」は山ほどいる。自分が特別に情けない人間ではない、とわかって少し楽になったが、傷を舐めあっても、人生が好転するわけではない。結局、五流大学は二年で中退し、俺は実家暮らしのまま、フリーターとなった。

 積極的に、何か夢があるとかで、レールから外れたわけではない。ただ単に、同じ世代の歩みについていけなくなり、ドロップアウトしただけである。当然というべきだが、始まったのは学生時代に輪をかけてつまらん、最悪の毎日であった。

 自立など到底できない低賃金。スキルも身に付かない単純労働。しかしそこですら、俺は落ちこぼれの烙印を押されてしまった。

 俺の脳は、致命的に仕事に向いていないようだった。単純ミスを繰り返すくせに、手は遅い。労働における作業効率が、人よりもかなり悪かった。高校一年生で、人生初めてのアルバイトである牛丼屋に勤めたのを皮切りに、ファミレス、引っ越し屋、郵便局の仕分け、ガソリンスタンド、建築関係など、二十五歳になるまでの十年間に、三十以上のアルバイト先を渡り歩いたが、どこへ行っても、何をやっても、使えない、やる気がないと罵られた末、半年も経たないうちに退職という結末を迎えるだけであった。

 やる気がない―――間違いではない。だが、そもそも、たかがバイトにやる気がある奴など、どれだけいるというのだろう。長く続けても給料が上がるわけでもない、今後の人生で役に立つなにかが身に付くわけでもない、安価な労働力を確保したい企業に搾取されているだけの立場で、正社員並みのモチベーションでやっているヤツがいたとすれば、それこそただのバカでしかないだろう。
 
 やる気なんてみんな無い。みんな、やる気があるフリをしているだけである。言う方だって、一々説教している暇もないからそういう言い方をしているだけで、本当はわかっている。俺の問題は、やる気がなかったことではない。普通ならやる気がなくてもできるような仕事が、やる気を出さないとできないことだった。

 集中力、注意力、持続力などの基本性能が、そもそも劣っている。労働の現場だけではなく、学校生活でもうまくいかなかったことから考えても、正式な診断を受けたわけではないが、俺の脳は、何か発達障害のような、機能的な問題を抱えているのだろう。だとするならば、俺は生まれながらに、人よりも遅れた位置からのスタートを強いられていることになる。

 自分が人より劣っていると感じたとき、人と同じようにできるように、懸命に努力しようとするヤツもいる。世間では、そいつらは素晴らしいヤツのように言われるが、俺に言わせれば、そいつらの方が問題なのである。できる側に迎合しようとするいじましい奴らの方が当たり前だと思われるせいで、できない人間でも生きていけるように、世の中の方が変わるべきだと考える俺のようなヤツの声が掻き消され、踏みにじられていくのだ。

 皆が「ゴールに向かって走っている」中、なぜ俺だけが、「スタートラインに着くための努力」を強いられなくてはならないのか。それは理不尽ではないのか?人より余計に努力して、やっと人並み。それでどうして、やる気が出るというのか?そんな小さな志には、小さいなりのエネルギーしか出ない。やる気を出せと言われるほど、逆にだらけようとする俺は、どこで働いても嫌われた。

 それでも、プライベートが充実していたら、苦手な仕事も、もっと一生懸命頑張ろうと思えたかもしれない。日常生活でなにも楽しいことがなかったから、仕事のやる気もまったく湧いてこなかったのだ。

 とにかく、女にモテなかった。

 それなりに、動いてはいたと思う。中学を卒業した十五歳から、二十五歳になるまでの十年間で、学校やバイト先、インターネットの出会い系サイトなどを通じて知り合った、計七人あまりの女に、真剣な交際を申し込んだ。しかし、そのうち承諾を貰うことができたのは、わずかに一人。そのただ一人付き合ってくれた女とも、俺の方になにか不手際があったのか、単に女の気が移ったのか、二か月以上は関係が続かなかった。

 情は薄い方なのかもしれないが、人並みに、愛した女を大事にしたい気持ちはあった。束縛をする方でもないし、服装や髪形など本人の好みや、家事などの細かいことにケチをつけるような、ケツの穴の小さい男でもない。女が俺のところに居てくれるうちは、それほどうるさいことはいわないし、優しくもするつもりだった。

 それなのに、女ができない。俺にDVとか、何か落ち度があって逃げられるというならともかく、見向きすらされない。

 中肉中背。白くも黒くもない肌。眠そうな一重瞼、低い鼻、色素の薄い唇、骨ばった輪郭、癖っ毛。大学中退。特に気が利く方ではない。特別しゃべりがうまいわけでもない。

 自分に男としての魅力が乏しいのはわかっていたから、高望みはしなかった。社会的な成功を収めることには高い理想を掲げる一方、俺は女に関しては一転して実用主義で、並みかそれ以下クラスの女ばかりを狙って、声をかけていた。女にモテないといっても、俺の方が女を選り好みしていたのであれば同情も買えないだろうが、俺は早い段階から、当たりの大きさよりも率を重視し、十点満点中五点程度の女に狙いを定めていたのである。

 非力なジャッカルは、逞しいシマウマを狙おうとしても、蹴り殺されるだけなのをわかっている。ゆえに食指も動かされないし、シマウマの肉を食べられるライオンに嫉妬する気も起こらない。自分の力をよくわかっているジャッカルは、シマウマには目もくれず、深い草藪の中に潜む野ウサギを探し出す作業に専念する。

 目の保養などと言っている場合ではない。いくら十点満点の美女だとしても、眺めているだけでは、股間の疼きは解消されない。女は観賞より実用だ。美女どもにとって、俺は眼中にないのかもしれないが、俺の方こそ、やれもしない女などには、何の魅力も感じないのである。

 しかし、俺の方が謙虚に、自分の身の丈に合った女を求めているからといって、向こうもまた同じように、自分の顔面相応の男を受け入れるとは限らない。普段、美女に苦い思いばかりさせられている醜女こそ、今まで積み重ねてきた屈辱と惨敗の歴史を一挙にチャラにするために、有り得ないような高望みをしているということもある。そういう女は決まって、俺のようなモテない男に言い寄られると、ここぞとばかりに想いを踏みにじって、ズタボロに引き裂かれた己の自尊心の補修を図ろうとしてくるのである。

 誰もが認める美女に振られたのであれば、まだ納得できる。別に美女が醜女より偉いというのではなく、そういう競争率の高い女に挑んだ自分が悪い、無謀だった、と、冷静に考えることができるということだ。果敢な挑戦の深層心理には、実は負けたときの保険――逃げ、守りが含まれている、という見方もある。

 本当にダメージが大きいのは、美女に振られたときではなく、同じ穴のムジナに振られたときである。そうなったときは、言い訳の余地もなく、自分自身の、本当の価値と向き合わなくてはならなくなってしまう。

 どう考えても俺程度の男で妥協しているべき女に言い寄って振られたとき、俺は崩壊したプライドを修復しようと、相手の女に激しく執着し、メールを何十通も送りつけたり、待ち伏せをしたり、家の窓を破壊したりなどの、ストーカー行為を働いた。

 そうなってしまったときの俺には、もう、女への恋心や、自分と付き合ってほしいと思う気持ちは霧消している。あるのはただ、恐怖でもなんでもいいから、女に自分の存在を認識させようという気持ちと、俺を差し置いて、他の男と付き合ったらどうなるかわかっているか、という警告だけである。

 ストーカーは、相手が大好きだから粘着するのではない。相手に傷つけられたプライドを回復するために粘着するのである。プライドが傷つけられるのは、美女よりも醜女に振られたときの方である。未来永劫明らかになることはないだろうが、世界中のストーカー被害者を一人ずつ並べて見てみれば、実は美形よりも、こんなのストーカーしてまで手に入れたいか?と思うような容姿をした女の方が多いのではないだろうか。

 五流大学を辞めた直接の理由も、実はストーカー行為だった。中学時代と同じように、惚れた女に執着心を露わにした行動をとった結果、相手の親や、女の友人から散々に叩きのめされ、大学に居づらくなって、尻尾を巻いて逃げ出したのであった。

 東山との「生存競争」から十年あまりの月日が経ち、二十五歳になるころには、俺も自分の生き方が間違っていたことを認めざるを得ず、軌道修正のタイミングを伺い始めていた。すなわち、世間で正しいとされる価値観に従い、地道にコツコツ、堅実に生きていく道を模索し始めていたのである。

 意識を変えるためには、キッカケが必要だった。自分の十年間を完全に否定し、今までずっと疑い続けてきた生き方にシフトしようというのである。何かしらの根拠――そっち側が正解だという、わかりやすい根拠が必要だった。

 俺が世間に跪くための条件として求めたのが、女であった。女、女、女―――あの時期に女を得られていたら、俺の運命は変わっていたと思う。人生の伴侶を得ること。自分にも人並みの幸せは許されていると知ったならば、十分、「降伏勧告」を受け入れられたと思う。実入りは少なくとも堅実な仕事を探し、嫌なことがあっても歯を食いしばって耐え、野に咲く草木花の美しさに感動するとか、今日の晩御飯はハンバーグだとか、日常の小さな幸せに満ち足りながら生きていく、そんな人生も受け入れられたと思う。死ぬ気で頑張って、金持ちになるための努力もできたかもしれない。

「スタートラインに立つための努力」ではなく、「ゴールに向かうための努力」だったら、がむしゃらになることもできたはずだ。

 「和平」の道はあった。ただ一人、「健康で文化的な最低限度の」容姿の女を与えられる。それだけで、俺は世間と手を結ぶことができたのに、神は俺の求めた条件を突っぱねた。自分が人間社会に受け入れられないことを納得するかわりに、人生の伴侶を求めた怪物を見放したフランケンシュタイン博士のように、神は俺に、唯一の安らぎを与えてもくれなかったのである。

 「健康で文化的な最低限度の女」も与えられない人生などは、俺にとっては、平均を大きく下回る、生きる価値もない惨めな人生である。女を得るための努力を何もしていないというならともかく、高望みもせず、それなりに動いたうえで、まったく相手にされないというのなら、「社会」「世間」を恨む理由にもなる。自分に平均程度の人生も保証しない社会、世間に報いようとし、真面目に生きようとするヤツ――「無条件降伏勧告」を受け入れるのは、俺に言わせれば底なしのバカだ。

 二十五歳を過ぎたころ、俺は突如、うつ病にかかったと主張して、アルバイトも辞め、家に引きこもり始めた。このままやっても、自分には平均程度の人生もないと悟った俺は、社会に出ることそのものを放棄し、今まで舐め続けた辛酸を、勤労の義務を怠ることで取り返そうとしたのである。

 最初はタダ飯を食らうのと、病院代と称して毎月一万円の小遣いを貰うだけであったが、病院仲間との付き合いと称してもう一万円、人として最低限の娯楽のためにもう一万円・・・・と、額を吊り上げて、小遣いの額が五万円にまでなったところで、さすがに親も堪忍袋の緒が切れた。子どものころから、親との関係は良くはなかったが、これで決定的な罅が入る形となり、毎日のように諍いを繰り返した。

――いつまで穀潰しでいる気だ!もういい年なんだから、家を出ていって一人で生きるか、働いて家に金を入れろ!

――鬱などは甘え病だ!嫌なことがあっても、気にしなければいいんだ!乗り越えろ!我慢しろ!くよくよ落ち込んでいないで、前向きになれ!
 
――何事にも手を付ける前から冷めた目で見るな!ちょっとうまくいかなくなったからって、すぐに投げ出すな!すべてお前個人の問題だ!とにかく努力をしろ!

 


 親と子の世代間対立。程度の差こそあれ、どこの家庭でも繰り広げられる光景である。一億総中流時代の気分が抜けきらない両親には、少ないパイを多数の人間で奪い合う若い世代の惨状が、十分にはわかっていなかった。職でも女でも何でもそうだが、枠に限りがある以上は、努力しても報われない層は、一定数出てきてしまう。その枠が、自分たちの時代に比べて少なくなっている現実にもう少し理解を示してくれれば、俺の方もそこまで頑迷にはならなかった。とはいえ、やはり、俺の要求が傲慢過ぎたこともある。お互いがほんの少し、相手のことを思いやれれば、違った未来があったのかもしれないが、うちの家庭の場合は、止まれなかった。

――雨風を凌げる家があって、毎日ご飯を食べられるだけで、ありがたいと思え!日常の小さな幸せに、喜びを見出せ!ここまで育ててやった親に感謝をしろ!

 結果的には、この一言が、俺が両親を完全に敵と見做す、決定的な原因となった。

 両親は、発展途上国で、食うや食わずの生活を送っているような子供に比べて、俺がいかに恵まれ、また自分たちの育て方がいかに正しかったということを言いたかったのだろうが、そんなのは極論ですらない暴論だ。俺は経済大国であり、食料にはまず不足することのない平和な日本という国の中で、同じ世代の若者を並べて比較したときに、自分の幸せが百点中二十点か三十点くらいしかないことに悩んでいるのである。自国内での相対的貧困と、他国の絶対的貧困を比較して恵まれているなどと言われても、何の慰めにもならない。

 相対的貧困にしても、二十点や三十点の人間に、〇点や十点もいるのだから我慢しろと言うのはおかしい。自分より不幸な人間がいる限りは弱音を吐いてはいけないという論理を突き詰めれば、世界中で一番不幸せな人間以外は、みんなが自分は恵まれていると思わなくてはならないという話になってしまう。雨風を凌げて、飯を食わせてもらえるだけで感謝しろとは、お前らは犬を産んだとでもいうのか?

――貴様ら、頼みもせんのに俺を産み出しやがって。努力、努力というが、じゃあ貴様らは、努力すれば成功できるだけの才能を、俺に与えたのか。俺を平均以下に産んでおいて、あとは勝手に努力しろとは、なんとも勝手な言い分だな。貴様らが糞みたいな遺伝子を俺に与えやがったから、俺は社会でこんな苦しみを味合わなくてはならなくなったのではないのか。才能を与えなかったのだから、せめて金ぐらいは与えて、責任を取れ。

――儒教国でもあるまいし、なぜ産んでもらっただけで親に感謝しなければならないのだ。俺は生きていても楽しいことなど何もなかったのに、どうやって感謝をしろというのだ。お前らはむしろ、俺に謝らなくてはならないはずだ。誠意を金で示せ。


 生きることが苦しみでしかない人間が、その生を与えた人間に感謝できる道理など、あるはずもない。俺はこれまでの人生で味わった苦痛を、親の金を使って清算し始めた。毎月きっかり二十万をむしり取り、酒、ギャンブル、風俗、外食に浪費する生活。金の無心を断られれば激しい暴力を振るった。犬の首輪をつけて監禁したことさえある。

 自分には特別な才能は何一つないと思っていたが、「やり過ぎる」、という点においては、俺は突出したものを持っていたのかもしれない。

 普段の俺はけして大胆ではなく、無暗に人を攻撃するわけでもない。凶悪犯罪者にありがちな動物虐待の経験など一切ないし、血を見て興奮するような趣味もない。不良時代など、何の恨みもない人間に暴力を振るったときなどは、人並みに胸の痛みも感じたものだ。

 ただ、自分が一度恨みに思った人物に報復を始めると、歯止めが利かなくなった。東山との「生存競争」が、まさにその性質がフルに発揮された結果で、俺は真っ当な恨みだろうが逆恨みだろうが、俺に一定以上の不快感を味あわせた人間相手なら、一切の躊躇なく、すべての尊厳を踏みにじることができた。

 幼少のころから過ごした家は、阿鼻地獄と化した。俺に血、肉、骨を与えた父、母を殴り、蹴るのは、幼少のころからの思い出を破壊していく作業であった。二十五年の生涯には、楽しいことも、生まれてきてよかったと思えることもあったはずだが、そのすべては、このとき塗りつぶされた。人らしい心があったときの、楽しい思い出をすべて叩き壊し、自分自身を、生まれついての悪鬼とすることによって、罪悪感を麻痺させた。親の資産すべてを、俺が今を楽しむことに充てた。

 怠惰と豪遊、暴飲暴食に明け暮れる中で、俺の体重は三桁寸前にまで増加していった。この世の醜さをすべて集めたような容貌となった俺が、か弱いものを犯すというシチュエーションに性的な興奮を覚えて、公園で遊ぶ幼い女の子の目の前でマスターベーションに耽るようになったのは、この時期のことである。

 二十件ほど犯行を繰り返したところで逮捕され、起訴されて拘置所まで行った。執行猶予つきの有罪判決を受けるまでの約三か月の間、規則正しい生活を送って、ほとんど元通りの体に戻ったところでこの性癖もなくなったのだが、最後に俺がいたずらをしたときのこと――後頭部に俺の大量の精液を浴びながら、何が起こったか気づかず、鼻を垂れながら無邪気に砂遊びを続けていた幼女の間抜けな面と、宝物を汚された母親の引き攣った顔を思い出すと、今も催してしまう。

 拘置所から出て家に帰ってみると、両親が壊れていた。母親は言動が支離滅裂になり、髪の毛をすべて引き千切って、夜中に奇声を発し始めた。殴ったらますますおかしくなり、手に負えなくなったので精神病院に放り込んだ。身も心も弱り果てた親父は睡眠障害を患って働けなくなり、しばらくして、何もかも捨てて何処かに去っていった。

 両親の貯金はすべて食いつぶしており、俺に残されたのは持ち家だけとなった。親の庇がなくなった後も贅沢をやめられなかった俺は、家を売りに出して現ナマを作り、アパートで暮らしながらそれまでの生活を維持していたが、一年が限界だった。慌てた俺は知恵を絞り、障害者枠に入って、年金と生活保護だけで暮らす道を模索したが、審査は厳しく、手帳の取得は叶わず、働くしかなくなった。



「・・・てな感じ。もうすぐ家に着いちまうから、いったん終わりにしよう。続きはまた今度、な」
 隣町のファミレスから派遣会社の寮までは、車で三十分はかかる。丸菱運輸の倉庫の近くにも、飲食店は幾らでもあるが、会社の連中に俺と話しているところを見られたくないという東山に配慮して、わざわざ電車とバスを乗りついで、遠くまで足を運んでやったのだ。

「さあ、俺がここまで話したんだ。今度はお前の人生を聞かせてくれよ」

 ひとしきり喋り終えた俺は、再度、東山に水を向けた。

「・・・・・・・・少年院では誰よりも熱心に課題に取り組み、何度も表彰を受けた。外に出たら一緒に犯罪集団を組んで、また悪さをしよう、などと話し合うようなどうしようもない奴らを後目に、真面目一途に更生に取り組む俺は、先生たちから毎日のように褒められていた」

 俺の自分語りで何かを感じてくれたのか、ようやく東山が、少年院に入って以後の己の人生を語り始めた。俺は長広舌で渇いた喉を、東山に買わせた茶で潤し、話に聞き入った。

「模範的な態度が認められて、当初、成人するまでの五年の見込みだった特別教育の期間を三年にまで縮めて出所した俺は、保護司の紹介で運送屋に入った。一日十五時間労働、土曜も日曜もない過酷な毎日で、給料は手取り二十万。生活は楽ではなかったが、俺は被害者さんへの送金を欠かしたことはなかった。同僚の奴らは給料が低い、仕事がキツイと愚痴を零してはすぐ辞めていったが、俺はそんな根性なしどもとは違う。一生懸命に働き、会社に忠誠を尽くして、入社三年で経営幹部にまでなった。その会社は俺が二十五歳のときに潰れたが、すぐに今の会社に再就職して、給料は以前の倍になった」

「ふうん・・・すげえじゃん。奥さんとは、どうやって知り合ったの」

「今の会社に入社したころ、同じ会社で事務員をやっていた女房は、当時結婚していた男からのDVに悩んでいた。話を聞いた俺は家に乗り込み、そのクズ男を成敗して、女房と別れさせた。その後も親身に相談に乗るうち、俺の方が好きになっていた。男性恐怖症気味になっていた女房には交際を断られたが、俺は諦めなかったよ。一年も二年も、繰り返し交際を申し込み続けて、ついに承諾の返事を貰うことができた。そして結婚し、娘も産まれた」

「泣けるねえ。涙がちょちょぎれるような、感動のサクセスストーリーだねえ」

「男は社会に出たら、自分ひとりの器量の勝負なんだ。罪を犯した者でも、努力をすれば必ず成功できるんだ。俺はお前とは違う。犯した罪を反省もせず、だらだらと怠けながら生きているお前とは違う・・・」

 不協和音を耳にしたような、なんともいえぬ心地の悪さが胸に広がる。東山の口から語られる、殊勝な心掛けのようなものの裏に見え隠れするのは、傲慢さと歪んだ自己顕示欲。やはりこの男の歯車は狂っている。どうしようもないほどにだ。

 東山は根本的な勘違いをしているのか、わかっていて目を背けているのか知らないが、世間から見れば、山里愛子を殺害してしまった時点で、東山はもう、スタートラインから先には永遠に進むことができない人間になってしまっているのだ。本人がどれだけ努力しても、世間の連中は褒めてはくれず、償いとして当たり前のことだとしか見てくれない。承認欲求を満たそうとすれば、人としてのスタートラインにも立っていない、俺のようなダメ人間を見下して悦に耽るしかないが、それをしながら、「男らしさ」を売りにするという矛盾に、本人はまったく気が付いていない。山里愛子を殺害した償いは済んだと思っているようだが、それを人にアピールしている時点で、自己満足しているだけにすぎない。反省したかどうかというのは自分ではなく、他人が判断するものである。

 世間で正しいとされる価値観に染まれないが故に、悪の道に走った俺と、正しい道を「暴走」しようとした東山。あれから十八年の時を経て、二人のうちリードしていたのは、あるいは東山の方かもしれない。三十を過ぎて零細派遣会社で働き、借金まで抱えている俺に対し、東山は田舎の運送会社とはいえ管理職にまで出世し、結婚して子供までいる。人の価値を収入や社会的地位で測るならば、確かに俺は、東山に大幅に後れを取ってしまっているのかもしれない。

 しかし、歪んだ人格がすっかり凝り固まってしまった結果、世間で正しいとされる価値観からより離れてしまったのも、東山の方である。他人の気持ちを想像することができず、己の立場を客観視することもできない、自己中心的な性格。自分と違った考え方の人間とまったく折り合いをつけられず、気に食わなければ力ずくで取り除こうとする排他性。身体はでかくなったが、東山の根っこは、イジメられっこだった中学時代の東山円蔵くんのころから、何一つ成長していない。

 この性格では、他人から散々、余計な恨みも買っているに違いない。俺がバラさなくても、いつかはこの男の過去は、東山を追い落とそうとする誰かの手によって調べられ、白日の下に晒されてしまうだろう。

 殺人犯という自分の分を弁え、目立たず、騒がず、静かに、孤独に生きていれば、誰の恨みも妬みも買うこともなく、それなりに楽しく、穏やかな一生を送ることもできただろうに・・・。目の前でハンドルを握る男は、紛れもなく大馬鹿者、底の底まで愚かな男である。

 だが、俺は東山の生き様を、諸手を上げて支持する。

 過去にどんな罪があろうが関係ない。どんなクズのようなヤツでも関係ない。人生は楽しんだモン勝ちだ。自分は殺人犯だからと、ダメ人間だからと、クソみたいな人生を送ってきたからと、自分に勝手に蓋をして、くだらない社会なんぞに遠慮して、可能性の閉ざされた人生を送るよりは、思い通りに行かないこと、都合の悪いことは全部他人のせい、社会のせいにして、好き勝手に生きた方がマシだ。世間から袋叩きに合うリスクを承知で、家族を作り、努力して出世までした東山のことは、旧友として鼻が高いし、尊敬さえする。

 反省などクソくらえ。エゴが強すぎる自分を直そうとせず、自分のエゴを最後まで貫き通した東山こそが正解なのだ。

 だから俺も、自分の過去は一切反省せず、自己責任の範囲内で、東山から金をむしり取り、自分なりの幸せを手に入れる。他ならぬ東山が教えてくれたこと――くだらない世間の価値観など無視すれば、人間の可能性は無限だ。 

「俺はお前なんかとは違う。お前のようなクズとは違う・・・」

 俺が自らの散々な過去を打ち明けたことで、東山は中学時代のトラウマを払しょくし、苦手意識を克服できたようだ。他人を見下すことでしか己の存在価値を認識できない東山に自信を与える役割を果たしてあげられ、俺も慊焉たる気分である。これで溜飲を下げてもらって、気持ちよく金を吐き出してほしいものだ。

 俺を見下したいならば、いくらでも見下せばいい。俺のプライドは山よりも高いが、金に代わるプライドはない。相応の金にさえなるのなら、俺は裸で土下座もするし、靴の裏でもなめてやる。世の中に、貧しさほど惨めなものはない。プライドを売り払って金になるならば、これほどボロい商売はない。

「クズでもゴミでも構わねえけど、払うもんはきっちり払ってもらうぜ。今の職と家族を失いたくなきゃあ、俺の言われた通りにするんだ。お前の命運は俺が握ってるんだぜぇ、東山ぁ」

 デミオが、ゆっくりと停車する。身を起こして、サイドウィンドウから車の外を見ると、周囲には木々が鬱蒼と茂っていた。見慣れない風景。派遣会社の寮には、まだ到着していないようである。
「なんだよ、小便かい?」

「・・・・」

「おい、東山・・・」

 いつの間にか車内には、はっきりと感じ取れる、嫌な空気が立ち込めていた。人の道を外れた者にしか発することができない、濃い瘴気である。

 すっかりいい気分になっていて、つい油断した。非力だった中学時代の東山円蔵くんのイメージが抜けていなかった。口ではきれいごとを吐き、真っ当な人生を送っているかのように語るこの男だが、一皮剥けば、かつて同級生を滅多刺しにして殺害した、冷血な殺人鬼なのである。

 一歩も動けなかった。車から飛び出したとしても、酒に酔った今の俺では、体力に勝る東山から逃げきることはできない。まな板の上の鯉の如く、ただ何も起こらぬことを祈るしかないのである。

 祈りは叶わなかった。東山が修羅の形相で振り向き、恐ろしい速さで後部座席に移ってきた。

 東山の、グローブを嵌めているような巨大な手が、俺の頸動脈を締め上げる。同じ人間とは思えない怪力。声をあげることもできない。窒息するより先に、首の骨が折れてしまいそうだった。糸ミミズのような血管が幾つも浮かんで真っ赤になった双眸。あの山里愛子も、今わの際に、この恐ろしい眼を見たのだろうか。

 やがて意識が遠のいていく。視界がぼけて、歪んで見える東山の顔はアホのようだ。脳内の酸素が枯渇して苦痛は薄らぎ、逆に天に昇るような快感を感じる。

 いよいよ、俺の悪運も尽きようとしている。死ぬことに恐れはない。こんな、何の展望もない人生に縋りつく理由は何もない。ただ、できれば自分の人生には、自分の手でケジメをつけたかった。俺を泥の底まで落とし込んだ奴ら・・俺を排除したこの社会で楽しそうに暮らす奴らに、せめてもの傷痕を残してから死にたかった。俺に幸福になる芽がないのなら、せめて道連れを増やしたかった。

 まだ俺には、やり残しがある。

「かはぁっ!」

 酸欠でブラックアウトしていた視界に色が戻る。東山はドライバーズシートへゆっくりと引き上げていく。

「お前は、殺す価値もない悪魔だ」

 間一髪のところで思いとどまった東山は、今度こそ派遣会社の寮に向かうべく、車を走らせ始めた。恐ろしさで身がすくみ、言葉を返すこともできない。

 これから東山を強請り続けるとしたら、また自分の身に危険が及ぶこともあるかもしれない。しかし、やめるつもりはない。学も資格もなく寄る辺もなく、若くもない俺のこんな人生がマシになるとすれば、何であれリスクを回避することはできないのだ。

「長ぇ付き合いになりそうだな・・・。よろしく頼むぜ、東山ぁ」

 寮に辿り着く直前で、何とかそれだけ絞り出した。東山はなにも答えなかった。

外道記 改 1

 
                        
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 薄暗い倉庫の中には、梅雨時特有の纏わりつく湿気が蔓延している。北関東ローカルの陸運会社、丸菱運輸。体育会系のカルトな思想に魅入られた社員の連中の怒号がそこここで飛び交う、戦場のような環境で、最下層民である派遣スタッフの俺は、梱包作業に勤しんでいた。

 それぞれ大きさの違うA、B,C,Dの箱に、対応するサイズと数量の化粧品とカタログを、ひたすら詰めていくだけの、サルでもできる単純労働。時間が流れるのがひたすら遅く、思考能力が退化していく感覚に襲われる。立ちっぱなしの足はパンパンに張り、土踏まずには絶えず痛みが走っている。柑橘類の果実を握りしめたように、全身の毛穴から噴き出る汗。鼻孔に侵入するツンとした臭いが、ストレスに拍車をかける。

「おい。てめえ、作業の手順間違ってんじゃねえかよっ」

 社員の中井が、ヤニで黄ばんだ歯をむき出しにして派遣スタッフを怒鳴りつける。中井は二十三歳。怒鳴られている派遣スタッフは、中井の親ほどの年齢である。

「いや・・こっちの方が効率がいいと思ったから、そうしてるんだよ」 

「口答えしてんじゃねえっ。てめえは下っ端。偉いのは俺。てめえは言われた通りにやってりゃいいんだよっ!」

 中井が派遣スタッフの頭を、クリップボードで打擲する。指導の名を借りた権力の誇示。暴行罪が成立する事案だが、仲間の派遣スタッフは、特に色めきだつわけでもない。ただでさえ辛酸をなめ続ける人生で奴隷根性を植え付けられている上、人の出入りが激しすぎる派遣スタッフ同士には、仲間意識や連帯感が欠如している。皆、自分の食い扶持を稼ぐことだけに必死で、他人に無関心なのである。

「今度反抗しやがったら、てめえぶっ殺すからな!」

 中井にとって「ぶっ殺す」とは、「おはようございます」と同じ感覚で放たれる言葉である。それを聞きなれた俺たちも、さして抵抗は感じなくなっている。怒鳴られ、脅され、殴られることが、すっかり日常に溶け込んでしまっている。いまどきは動物の躾でも、無暗に怒鳴り、叩くことは推奨されていないというのに、この仕打ち。サルなみの単純労働に従事している俺たちの扱いは、サル以下である。

 確かに怒鳴り、叩けば、その場では労働者は頑張るが、こんなやり方では、絶対に人は定着しない。しかし、いつでも首のすげ替えがきく、非正規の派遣労働者を使う側としては、実はこれで間違いではない。技術の習熟が必要ない単純労働者ならば長く居ついてもらう必要もなく、失業者で溢れ返ったこのご時世なら、頭数はいくらでも確保できる。労働者の給料が用度課で計算され、雑費として帳簿に記載される人材使い捨ての職場で、悪循環が日々繰り返されているのだ。

「おい、お前。お客さんに迷惑かけてんじゃねえよ!」

 わざわざ他のテーブルから、頭を叩かれた派遣スタッフのところまでやってきて追い打ちをかけるのは、古株の派遣スタッフ、深山。丸菱の正社員に媚びへつらうのを事とする、阿諛追従の徒。この男、自分が派遣先の丸菱か、派遣会社・海南アスピレーションの正社員に登用されようと必死になっているらしく、海南アスピレーションや丸菱の社員から頼まれたわけでもないのに、同じ派遣スタッフに威張り散らし、やたらと仕切りたがるのである。

「てめえ、勝手に持ち場を離れてんじゃねえ!」
 
 せっかく派遣スタッフに説教をし、正社員にいいところを見せようと思ったのに、当の正社員の中井には褒められるどころか雷を打ち落とされて、深山は肩を落として自分のテーブルに帰っていった。このように、丸菱の社員は深山がいくら頑張ってもけして認めず、単にチクリ屋として利用しているだけなのだが、本人はそのことに気づいておらず、いつの日か正社員として引き上げてもらえる日を夢見て、徒労を続けているのだ。あるいは、本人も本当に正社員に引き上げてもらえるとは思っていないが、気分だけでも、「お前らとは違う側の人間だ」と思いたいだけなのかもしれない。
 
 深山の気持ちもまったくわからないではないが、指揮命令者たる正社員ならともかく、同じ立場の派遣スタッフに偉そうにされれば当然いい気はしないから、今まで深山と他の派遣スタッフとの間に起こったトラブルは数知れない。深山は俺たち派遣スタッフにとって、中井のような猛獣の脅威ではないが、顔の周りを飛び回るハエのような厄介な存在だった。

「やってらんねえわ」

 飽きた。疲れた。しんどい。つまらない。口を開けば、ネガティブな言葉ばかりが溢れ出てくる。それが正解、それが当然だ。こんな仕事、こんな俺の境遇を、職業に貴賤はないとか、今の貴方の頑張りはきっと将来につながるとか、キレイごとで誤魔化そうとするヤツは、それを言った自分が気持ち良くなりたいだけの偽善野郎だ。辛いくせに声も上げず、黙々と働いているヤツは大馬鹿だ。文句を言わないから、黙ってるから、何も変わらないし、何も良くならないのだ。

 ふと、ペンスタンドの中に納められたカッターナイフを手にとってみる。ちょっと周りを見渡して、首筋を切りつけるのに相応しい相手を探してみる。中井、深山・・・。不快な奴は数多かれど、どいつもこいつも、取るに足らぬ奴。こんな雑魚に、一回こっきりのチャンスは使えない。俺の三十二年間の恨みを、すべて乗せられるようなヤツはいない。人生にケジメをつけるのに、相応しいと思える相手は、ここにはいない。糞面白くもない娑婆に惰性で留まり続ける日々が、こうして今日も続く。

「蔵田さん、どうしたんですか。浮かない顔をして」

 中井が作業現場からいったん離れ、デスクで伝票の集計作業に入ったのを見計らって、同じテーブルの向かいで作業をしていた、宮城利通が声をかけてきた。

 宮城は俺とほぼ同時期に丸菱の倉庫に配属された派遣スタッフ。同じ寮で生活をしていることもあり、横のつながりが希薄な派遣スタッフの中にあって、ただ一人気軽に会話を交わしあえる間柄である。年齢は、三十二歳の俺より三つ年下の二十九歳。だが、初見で彼の年齢を言い当てられた者はいない。大概は実年齢より老けてみられるわけだが、失礼な話、彼の場合は若いとか老けているとかいう問題ではなく、まず、ちゃんとした人間として認められるかどうかというところから、すでに怪しい容貌だった。 

 身長は日本人男性の平均程度だが、体重は九十キロをゆうに超えているであろう肥満体。大きくあるべき目は悲しいまでに小さいが、小さくあるべき鼻はバカでかく、また豚のように鼻孔が上を向いている。唇は腐った明太子のように太く、血色が悪い。肌はクレーターのようなニキビ跡と吹き出もの、イチゴの種のような毛穴汚れに覆われ、腐乱したジャガイモのようにくすんでいる。硬そうなヒゲの剃り残し。もともとの骨格が大きいのに、さらに脂肪がついたことで、常人の倍以上もの広さになってしまった輪郭。ワカメのような痛みきった頭髪。メガネは今風のカジュアルなデザインではなく、レンズが大きな時代遅れのデザイン。

 俺の容姿とて人を偉そうに見下せるほどのものでもないが、この宮城より醜いことはないと断言できる。昔から、自分より何かしらの部分で劣った人間としか交友関係を持てない俺が、一緒にいて心の底から安心できる相手。容姿のみで俺の優越感を満たしてくれる得難い存在。まだ三か月程度の付き合いだが、宮城は今や俺にとって、ベストフレンドといえるかもしれない男だった。

「いや・・・ちょっと、こっちの方がな」

 俺は右手でわっかを作り、現在、金に窮乏している自分の状況を宮城に伝えた。そう、何もかもは金。こんな劣悪な職場にしがみ付かなくてはならないのも、俺に金がないせいである。

 現在、消費者金融からの借金、六社合計で二百三十二万円。親父が死に、お袋が精神病院に入院して一人で暮らすことを余儀なくされた二十五のときから、積もり積もって、この金額である。

 借金苦に陥ったのにはそれなりの理由があるはずなのだが、なぜかそれが思い出せない。風俗には行った。ギャンブルはしなかった。タバコは嗜まない。酒は飲む。飯もたまにはいいものを食った。「同居人」のエサ代は、犬猫と同じ程度にはかかっている。

 自分では節度を保って生活をしているつもりなのに、どういうわけか金欠に陥ってしまう。今月も今月で、とくに贅沢をした記憶もないのに、気づいてみれば預金残高は四桁を割り、残りは手持ちに福沢諭吉が一枚、野口英世を三枚、あとは両替のできない小銭十数枚を残すのみとなってしまった。

 非正規の仕事を渡り歩いたここ五年の年収の平均、二百二十万という額が少なすぎるのか、俺の金銭感覚がおかしいのか。ともかく、今のままの生活がジリ貧なのは確かだった。

「給料日までは、あと十日間ありますね・・。今、どのくらい持ってるんですか」

「八千円くらいかな・・。この間、甥っ子が事故起こしたり、叔父さんがヤクザと揉めたり、色々身内にトラブルが重なって、援助しなくちゃいけなくなってさ。派遣会社からの前借も限度額いっぱいになっちゃったし・・・。このままじゃ、牛丼くらいしか食えねえよ」

 あわよくば、宮城がいくらか融通してはくれないだろうかと期待し、俺は手持ちの金を控えめに申告し、モラリストを気取る宮城の同情を誘いそうな文句を並べた。もちろん、身内のトラブルなどは、真っ赤な嘘である。自分が窮してでも身内を助けるような義理堅さがあれば、俺は齢三十二にして天涯孤独になどなっていない。

「なんだ。それだけあれば、十日間くらいなら余裕で過ごせるじゃないですか」

「え?」

 宮城から返ってきた予想外の言葉に、俺は我が耳を疑った。全財産八千円で十日間を過ごせるという金銭感覚があまりにもリアルでなく、職場でたった一人の友人が餓死の危機に瀕しているのを見捨ててしまう、ただの薄情としか思えない。

「ようするに、一日の食費を八百円に抑えれば凌げるわけでしょう?自炊をすれば楽勝ですよ。牛丼なんて贅沢です。僕なんか、付き合い以外の外食はここ三年記憶にありません。あとで、月一万五千円で栄養のバランスが取れた食生活が送れる、僕の節約レシピをお渡ししますよ」

 たった一万五千円で、どうやったらその巨体を維持できるのか?嫌味というか、素朴な疑問をぶつけたいが、今、宮城の機嫌を損ねてはいけない。生きるか死ぬかの瀬戸際である。

「い、いや、飯だけじゃなくて、携帯料金の支払いもあるし・・。もう、四日後には止まっちゃうんだよ」

 俺たちが在籍している海南アスピレーションでは、派遣スタッフ一人ひとりに、家を出た際の「家出報告」、勤務が終了した際の「終了報告」を、会社への電話連絡にて行うことが義務付けられている。連絡を怠った場合には、家出報告には罰金百円、終了報告には罰金二百円のペナルティが課せられており、四日後に携帯が止まってしまえば、二週間後までの合計勤務分の罰金千五百円あまりが、翌月の給与から差っ引かれてしまう計算だった。

「携帯が少しくらいの間止まったとしても、人間死ぬわけではありません。むしろこれは、蔵田さんが今までの生活を見直すチャンスです。千円、二千円くらいのお金は、自分への戒めと思って、払っておくべきですよ」

 宮城の言っている意味が理解できない。豚語を喋っているのではないかと思う。

「そんな連れないこというなよ・・。宮城くん、東南アジアの子供たちを救うボランティアに参加してるんだろ?目の前に困っている人がいるんだから、助けてやってもいいじゃないか」

 俺はついに、宮城に金を融通してほしい旨を、直截に申し出た。まさかこの豚が、ここまで話のわからない奴だとは思わなかった。宮城の慈愛の心に期待していたら、千年経っても埒が明かない。

「それとこれとは話が別です。僕がボランティア活動に力を注ぐのは、自分の力だけではどうにもならない子供たちを助けるためです。自分の力で自分を救済できる人は、自力で頑張るべきです。今の蔵田さんは、助けを必要とする段階ではないですよ」

「でもよ・・・!」

 頭にカッと血が上る。この手の偽善野郎は、俺がもっとも嫌う人種の一つである。

 そう、この豚は偽善者だ。何のかんのと理屈を垂れているが、ようするにこいつは、他人に自分の行いを褒めてほしいだけだ。だから、一目で弱者ということがわかるような、海外で飢えている子供などには慈愛の手を差し伸べ、見た目には分かりづらい、他人に同情されにくい俺のような、日本国内での相対的な経済的弱者は無視する。この豚は、たとえ友人であっても、己の利害に絡まなければ一切助けようとはしない、薄情な偽善者だ。

 クソ豚が。貴様は人を助けている場合か。貧困国のガキを救う募金を集める前に、その遺伝子の不幸としか言いようがない顔の整形手術代の募金を集める方が先だろうが。

 このまま引き下がるわけにはいかない。このままでは、俺はただ豚に説教をされただけで、何も得るものがないではないか。

 何が今までの生活を見直すチャンスだ。何が自分で自分を救済しろだ。努力だの、反省だの、そんなもんで何とかなるくらいなら、俺はこんな底辺のゴミ溜めには落ちていない。

 俺はどうしようもないのだ。生まれたときからどうしようもなかった。遺伝子の不幸などと、宮城をバカにしていられる立場ではない。

 度外れた自我の強さ。どんなに努力しても、他人が作った世界に交われない、この不自由な脳構造を持って生まれてしまった時点で、俺の凋落は決まっていたのだ。



 有名企業に務める会社員の親父、市役所勤務のお袋。中の中の経済力。そこそこに躾けられ、そこそこに愛情を注がれて育った。

 身体に障害があるわけでもなく、大きな病気もしたことはない。発育も良好。知能も至って正常。どこにでもいる普通のガキだった。

 ただ一つ違うところがあるとすれば、それはいわゆる駄々っ子だったことだろう。とにかく、ワガママでどうしようもなかった。食事のメニューが気に入らなかったり、おもちゃを買ってもらえなかったりすると、一晩中でも泣いて騒いで、両親や、保育園の先生を困らせた。

 それでも、年齢一桁台のころまでは、特に問題児のレッテルを張られることもなかった。友達も沢山いて、お泊り会だの誕生日会だのにもよくお呼ばれしていた。

 どの辺からまずくなったのか、ターニングポイントというものがあるのだとしたら、小学校高学年になったころだろう。反抗期が訪れ、自我というものが強烈に目覚める時期のことである。

 俺の場合、その自我が強くなりすぎた。幼少期に見られた、ワガママ、駄々っ子という部分が、精神的成長により収まるのではなく、より増幅されてしまったのである。協調性に欠けたり、周囲の足並みを乱したりということで教師から注意されることが多く、両親にも体罰を伴う叱責を受けた。

 自我が強すぎることは、他の大きな弊害ももたらした。世間で美徳とされている価値観に染まれないのである。友情、愛情、尊敬、謙遜、努力。そういうキーワードが、どうしようもなく受け付けなかった。みんながこぞって持てはやすもの、たとえば流行りのテレビ番組やゲームといったものもダメで、自分の感性に合えばいいのだが、自分にとって好もしい要素がない場合、強烈な拒絶反応を起こしてしまうのである。そのせいで友達がどんどん離れ、浮いた存在になっていった。

 奇行、異常行動も目立った。クラスメイトの間で流行っていた交換日記を校内放送で朗読する、学校にエロビデオを持ち込んで備え付けのテレビで上映する、通学路に立つ雪だるまに犬の糞を仕込み、雪だるまを壊して回るやんちゃ坊主を自爆させる、などといったことは可愛いもので、学校で飼育している動物の檻を破壊してチャボやウサギを逃がしたり、焼き芋をするなどと言って体育館裏でボヤ騒ぎを起こしたり、好意を持つ女子児童のリコーダーを盗み、中に精液を仕込んで戻すなど、結構シャレにならない悪事を働いていた。

 そんなことをしても金が貰えるわけでもなく、褒められるわけでもないのに、何をやっていたのかと思うが、今から思えばおそらくあれは、自己顕示欲を満たさんがゆえの行動であった。周囲の価値観に染まれない俺は、悪事によって注目を浴び、自分の世界に周囲を巻き込むことで、己の存在証明をし、居場所を作ろうとしていたのだろう。

 周りから見ればさぞかし厄介で迷惑なガキであったことだろうが、そんな俺でも、悪事の発覚後に親や教師に怒られたり、やりすぎによって学級の中で自分の立場がまずくなりすぎたときは、人並みに反省はした。後悔の気持ちもあった。といっても、その反省は、被害者に対して申し訳ないというものではない。犯罪的傾向のある者の多くがそうであるように、悪事を反省するといっても、「次はもうしないようにしよう」と考えるのではなく、「次はもっとうまく、バレないようにしよう」と考えるようになっていったのである。

 中学に入るころには集団と足並みを揃えることを学び、授業態度や問題行動といった部分は改善された。しかし、本当に溶け込めたわけではない。適応を見せたのは表面上のことで、周囲との間に感じる「ズレ」は、むしろ益々大きくなり、我欲肥大の傾向も歯止めが利かなくなっていた。

 貧乏な家に生まれていたり、治安の悪い地域に住んでいれば、この時点で不良グループに取り込まれていてもおかしくはなかっただろうが、幸いにも環境だけには恵まれていたお蔭で、表向き、グレるところまではいっていなかった。髪も染めないし、タバコも吸わない。遅刻せず学校に行き、大人しく授業を受ける俺は、教師からは手のかからないガキと見えていただろう。しかし、俺は裏で悪さを働いていた。

 俺の中学には特殊学級が設置されており、所属する生徒は、給食や特別活動の時間には普通学級に来て交流を持つ決まりがあったのだが、中学二年のとき、俺は自分のクラスに来る男の知的障害児を、こっぴどくいじめていたのだ。

 直接暴力をふるったり、暴言を浴びせていたわけではない。小学校のときに散々痛い目を見た俺は、表の顔と裏の顔を使い分け、陰に隠れてコソコソ悪事を働く術を学んでいた。

 教室が変わったなどと偽って、他クラスの女生徒が着替えている部屋の扉を開けさせる。便所に行きたいといえば、わざと遠回りをして失禁に追い込む。誰それが君のお母さんをさらっちゃったよ、などと吹き込み、暴力沙汰を起こさせる。障害児のお世話係を務めていた俺は、やりたい放題だった。当初から狙っていたわけではなく、たまたま、じゃんけんで決まった係だったのだが、障害児は不幸だったとしかいいようがない。

 直接的なきっかけは、奴が俺の給食によだれを垂らしやがったとき、障害者だからという理由で不問に付され、怒りを見せた俺の方がなぜか悪者扱いされた、という一件を根に持ったことではあるが、それは最初の一回で解決し、あとはただの憂さ晴らしだった。

 勉強もスポーツもできない、顔も別にふつう。面白いことができるわけでもない。誰からも注目を浴びることもなく、好きな女には見向きもされない。糞面白くもない毎日で感じる欲求不満を、自分よりすべてが劣る者をいたぶることで解消していた。

 黒幕が俺とは、なかなか気づかれなかった。俺は一割で障害児を苛めながらも、残りの九割で、障害児に優しくしていたからである。障害児に問題行動を起こさせれば、障害児はクラスで嫌われる。すると障害児は、ただ一人の味方である俺をますます頼りにするようになる。障害児は問題行動を起こすとき、俺に命令されていることは誰にも言わなかった。

 そんな毎日が半年続いたころ、俺の悪事は、一人の男によって暴かれた。東山円蔵。俺の運命を変えた男である。

 東山という男を一言でいえば、「いじましい奴」であろう。

 授業では教師を質問攻めにしてテンポを遅らせ、クラスの皆から顰蹙を買うほどなのに、成績はドンケツ。運動ではバスケットボール部に所属していながら、異常な非力からフリースローがゴールに届かず、かけっこでは女子のスキップにも負ける始末。

 おまけにルックスも良くなかった。病的に生白い肌。紫色の唇。カマキリみたいに尖がった顎。牛乳瓶の底みたいなメガネ。後頭部が存在しない絶壁頭。第二次成長前とはいえ身長は百五十センチにも満たず、手足は細いのに胴体は太い、昆虫類じみた体形。

 己に絶望し、引きこもりになってもおかしくないような男だったのだが、どういうわけか、東山にはコンプレックスというものが微塵もなかった。何のとりえもない癖に、奴は出しゃばりの目立ちたがり屋で、クラスでは学級委員、学年では生徒会長に立候補し、所属するバスケットボール部でも、応援団長を務めていた。

 ひたむきに頑張るのも自分の範囲内だけで終わっていれば、皆から応援もされ、愛されもしただろう。しかし奴には悪い癖があった。自分の努力、根性、お涙ちょうだい物語に、他人を巻き込むことである。

 学級委員では「ありがとう運動」などと称して、一日一回は誰かに「ありがとう」と言い、帰りの会の際に、どこで、誰に、どういう場面で「ありがとう」と言ったのかと、一人ひとりその件についての詳細を発表させることを強要する。応援団長では、声の出ていない生徒を腕立て伏せ百回の刑に処したりする。大人たちからは校内の活動や地域の活動に積極的に参加する、いまどき感心な優等生と見られていたのをいいことに、教師の威を借りて、周りに自分の自慰を見せつけるようなことばかりやっていたから、被害に遭った生徒は東山を憎み、直接かかわりのない生徒も、憐れみ半分、嘲笑半分といった目で東山を見ていた。

 その東山が、とうとう俺の悪事を暴いた。こともあろうに、学年集会の場で俺を糾弾するという大げさなやり方で、である。

――蔵田くん!君は人として大変な罪を犯したんだぞ!わかっているか!?さあ、檀上に上がってこい。ここで被害者に謝るんだ!

 檀上から俺を指さしながら、マイクを通した、変声期前のキンキン声で俺に謝罪を迫る東山。明らかに東山が注目を浴びたいがための演出過剰なのだが、当時は世間でイジメ問題がかまびすしかった時期だったのもあって、学年集会の場には、東山に感化されて、俺を非難する空気が蔓延した。やがてゴリラのような体育教師が俺のところにやってきて、無理やり檀上に引っ張り上げられ、イジメていた障害児と対峙させられた。
 
――さあ、ほら!被害者に頭を下げて謝るんだ!

 体育館に巻き起こる、謝れコールの嵐。人の言いなりになることを何より嫌う俺だが、とうとうプレッシャーに耐えきれず、状況がよくわからず呑気に鼻くそをほじっている障害児に頭を下げ、ごめんと謝ってしまった。

――蔵田くん、よく謝ったね。勇気ある行動だ。みんな、蔵田くんを許してくれるかな?

 体育館中に響き渡る、東山に扇動された愚かな大衆どもからの拍手の中、俺は屈辱に打ち震えていた。誰よりも自我が強く、他人に支配されることを嫌う俺が、東山が監督、主演、脚本を務める舞台の上で、一方的なやられ役を演じさせられたのである。腸が捩じ切れそうな怒りで、その日からしばらく、眠れぬ夜が続いたものだった。

 俺にとっての悪夢はそれで終わらなかった。東山は、全校集会から一週間後に、いじめ撲滅を目的とする「君を守り隊」なる委員会を設立。自らが委員長の座に収まり、積極的な活動を展開し始めたのである。事件は風化せず、俺はさらにまずい立場に追い込まれたわけだが、東山の暴挙はそれだけに留まらなかった。

 こともあろうに東山は、俺を「君を守り隊」の委員に勧誘してきたのである。

――蔵田君、僕たちと一緒に頑張ろう!いじめた側の君が、いじめをなくす側に回る。その意義は大きいんだ!

 己のくだらないヒーローごっこのために、東山はこの俺をやられ役のみならず、己の引き立て役として利用しようとしてきたのである。

 タチが悪いのは、東山には一切の悪気がないことだ。俺を「公開処刑」にしたことも、己が痛めつけた俺を自分の手下にしようとしているのも、すべて純粋に、よかれと思ってやっている。己の自己顕示欲を満たそうとするだけの行為を、本当の善意から出たものと思い込んでいる。

 東山は、やり過ぎであった。俺が悪であり、俺がやっていたのは悪いことである。そんなことは、百も承知である。いきなり公衆の面前で糾弾するのではなく、会議室に呼び出すとか、放課後の教室で、人目に触れないところで俺を咎めればよかったのだ。

 それで俺が改心し、悪行をやめたかどうかはわからない。東山のことなど舐め腐って、知的障碍児をイジメ続けていたかもしれないが、そうしたらそのとき始めて、全校集会の場でやり玉にあげればいい。それだったら、忠告に従わなかった自分が悪かったと納得できたかもしれない。少なくとも、俺が東山に反撃したとき、同情の余地もない逆恨みということになっただろう。

 それが、東山が目立ちたいあまりに、然るべき手順を踏まず、いきなり俺を「公開処刑」にしたせいで、俺はプライドもメンツも、何もかもメチャメチャに潰されて、引くに引けなくなってしまった。さらに、昏い怨念の炎がずっと燻っているところに油を注ぐがごとく、東山は、俺を君を守り隊に勧誘してきた。

 ここまでにコケにされたことで、俺は、東山への復讐を決意した。許すべからざるあの偽善野郎を、絶対に這い上がってこれない地獄に突き落とさなければ、気が済まなかった。

 東山に対する怒りと恨みは頂点に達していたが、俺は焦らなかった。東山の「我が世の春」がいつまでも続くはずはないと、確信していたからである。俺は東山の、君を守り隊への参加については曖昧な返事をしつつ、目立たないように、おとなしく、一見、反省しているかのような素振りを見せながら、情勢の変化をじっくりと待った。

 俺の読みは当たった。設立当初こそ歓喜の声を浴びていた「君を守り隊」であったが、設立からわずか二か月後には、全クラスから批判の声が相次ぎ、廃止論が叫ばれ始めたのである。

 例によって、東山はやりすぎた。肩を軽く小突きあったり、バカやアホとちょっと言っただけの、単なる友達同士の軽口を大げさに全校集会の場でやり玉にあげたり、違反を犯した生徒には一週間の町内清掃活動を命じるなど、「君を守り隊」の取り締まり方は常軌を逸していた。

 重要なことは、「君を守り隊」を取り仕切っていた委員長が、カリスマ性溢れる人気者や、誰からも恐れられる武闘派ではなく、もともとは嘲笑と蔑視の対象にあった、不細工でバカ、運動音痴の東山だったということである。己の身の丈を弁えぬ傍若無人を働いた阿呆の末路。学年中に、東山に対する怨嗟が満ちてきたのを見計らって、俺は動いた。

 東山の机に、俺の精液で汚した女生徒の体操着を入れておく。それで東山は終わった。冷静に考えれば、まだ声変わりもしていなかった東山に、体操着をガビガビにするほどの精液を出す能力などないことくらい、中学一年生の性知識でもわかりそうなものだが、東山憎しに凝り固まった生徒たちは、事件を精査することもなく、あっさりと「ギルティ」の判決を下した。

「てめえ、調子こきすぎなんだよ!勘違いしてんじゃねえ」

「よりによっていじめられっ子の代表みてえなテメエがイジメ撲滅とか、冗談は顔だけにしろよな。身の程を弁えろ、バカ」

 精液体操着事件で、これまで抱えてきた不満の爆発した同級生たちは、その日から東山に対し、罵詈雑言の雨あられを浴びせるようになった。

 イジメを取り締まる「君を守る委員会」の委員長が、女子生徒の体操着に精液をかけるようなスキャンダルを起こしたことで、同級生たちに「イジメ=悪」の認識はまったくなくなっていた。それはつまり、かつて東山によってイジメっ子の汚名を着せられ、公開処刑にされた俺が、人権を取り戻すことができたということでもある。俺はこの機に、さらに自分の立場を安定させるために、東山を徹底的に痛めつけた。

 悪口、落書き、略奪などは朝飯前で、上履きに犬のクソを入れるようなことも平気でやった。クラスの女子生徒のスナップ写真を用意し、かわるがわるに東山に見せ、誰で射精をするかを楽しむ「ロシアン・オナニー」をさせたこともあったし、一週間ばかり入浴を禁じ、浮いてきた垢から「力太郎」を作らせ、それをフィギュアショップに売りに行かせたこともあった。東山を虐げるネタを考えさせれば、俺の頭は打ち出の小づちのように次々とアイデアを生み出したのである。

 皆に嫌われる東山を痛めつけることは、「良いこと」「積極的にやるべきこと」であった。誰よりも熱心に東山を痛めつけた俺は、いつの間にか学年中から尊崇を集め、中心的な人物となっていった。何一つ取りえのない俺が、東山を痛めつけることで、人気者の地位を得たのである。

 自我の芽生えとともに、問題行動が顕著になった小学校高学年以降、俺は友人というものを望んだことがなかった。いくら性格的に屈折していたといっても、自分から働きかければ、学校が終わったら家まで一緒に帰る友人の一人や二人できたはずだが、俺はアクションを起こすこともなかった。

 小学校低学年のころまであった、純粋に友達に囲まれる幸せ、楽しさが、なぜ、成長とともに薄れていってしまったのか。当時も疑問に思わないではなかったが、それはつまり、俺は「友人」ではなく、「支持者」あるいは「奴隷」が欲しかった、ということであった。自分を中心とした、自分が百パーセント優位に立てる関係にしか、興味が持てない。俺をちやほやし、讃えてくれる、もしくは、相手を完全に見下せる関係でないと、他人と付き合うメリットを感じられなかった。対等の関係にはまったく興味がなかったし、ましてや誰かを尊敬し、憧れるなどといった感情は、想像もできなかった。

 東山への報復行動によって、俺は自らの理想とする人間関係を得た。皆が俺に、次は何をしてくれるのかと期待を寄せ、期待に応えた際には喝采を送ってくれた。東山のお蔭で、俺は「金八先生」のような、めくるめく青春時代を送ることができたのである。

 自分を中心とした、自分が百パーセント優位に立てる人間関係にしか価値を見いだせないというのは、生徒会長だのに立候補してみたり、「君を守り隊」などを立ち上げてみたりなど、異常に目立ちたがり、特別な地位に執着を見せていた東山の方も、一緒だったように思う。裏道を行こうとする俺と、あくまで正道を貫こうとする東山のスタンスの違いだけで、俺たちは根本的には似た人間だったのだ。

 だからこそ、激しくいがみ合った。俺のせいで「理想の人間関係」を失い、一転して地獄に突き落とされた東山は、日に日に憔悴していった。

 かつては、「食べ物を残すことは、食べ物を作ってくれた人や、食べたくても食べられないアフリカの難民のような人たちに失礼だ!」などと言って、学級委員長の権限で、完食するまで昼休みに入れないルールを作っていたような男が、給食を半分も食べられないようになり、ただでさえ悪かった成績は全教科一けた台というところにまで落ちぶれ、口数も少なく、表情も沈みがちになっていた。

 東山に鬱病の兆候が表れていたのは間違いなかったのだが、教師たちにそれは伝わらず、以前のように覇気がなくなっていた東山を「最近元気がないぞ!しっかりしろ!」「昔のお前はどこに行った!やる気を出せ!」などと叱咤して、余計に追い詰めていた。狡猾さを覚えていた当時の俺は、教師にバレないよう、うまく東山を痛めつけており、またプライドの高い東山も、イジメ撲滅を掲げ「君を守り隊」など立ち上げた、その張本人がイジメを受けているなどということは、教師には言えなかったらしい。「男らしさ」という病のせいで、身動きが取れなくなっていたのである。

 俺にとっての絶頂、東山にとっての悪夢は終わらない。三年生次のクラス替えで、俺と東山は一緒になってしまったのである。これで卒業まで、東山は俺から逃げられなくなった。常に目の届くところから、東山をいたぶることができるようになったのである。

 三年に進級し、東山イジメはさらに激しさを増した。あるときはスティック菓子をケツの穴に突っ込んで、女子の群れに突撃させる。あるときは跳び箱の中に閉じ込め、中にミミズを入れる。あるときは墓地の墓石を倒させ、小便をかけさせる。狂気のアイデアを次々と思い浮かんでは、東山に実行させた。

 そこまでやっても、しかし東山は折れなかった。気丈にも皆勤賞を守り、栄養不足で痩せ衰えた身体で、バスケットボール部の練習にも参加していた。そして、驚くべきことには、「君を守り隊」の活動をも継続していた。無論、精液体操着事件で名声を地に落とした東山の言うことを聞く者など誰一人おらず、委員会は有名無実化していたが、東山は月二回の定例会議には必ず顔を出し、どんなにゴミ箱に捨てられても、冊子を作って全学年に配って回るなど精力的に活動を続け、必死に委員会の存続を図っていた。

 東山が頑張れたのは、彼に心の支えがあったからである。隣りのクラスの、山里愛子という女子生徒。ぽっちゃりした体型で、目が大きく愛らしい顔立ちをしていた彼女は、東山が作った「君を守り隊」の副委員長を務めており、他の委員が次々辞めていくなか最後まで残って、東山の活動を支えていた。

 東山から山里愛子を引き離すのは簡単だったが、俺はあえてそうしなかった。人を追い詰めるときは、逃げ道の一本は必ず用意しておくものである。すべての希望を奪ってしまえば、東山は学校に来なくなってしまうかもしれない。せっかく手に入れたサンドバッグをダメにしてしまうのはもったいない。消耗品は大事に使わなくてはならないと考えたのである。

 刺激的な毎日が続き、三年に進級して半年が経った頃。我が母校は、毎年恒例のイベントである、合唱コンクールを控えていた。大会に先立ち、クラスでは指揮者とピアノの演奏者が決められたのだが、東山は指揮者に立候補していた。合唱ではみんなをリードする立場であり、練習の際にも、自ずと指揮者を中心に段取りが組まれていく。東山の目立ちたがり、仕切りたがり欲はいまだ衰えていなかったのである。

 その日から毎日、放課後に三十分の練習時間が組まれたのだが、忌み嫌われる東山に従う者などいるはずもなかった。練習時間中は男子も女子も雑談やおふざけに興じており、特に東山を中心になって甚振っていた俺たちのグループなどは、東山の恥ずかしいところを纏めて作った「東山かるた」なる遊びを、大きな声を出して朗読しながら楽しんでいた。言っても聞かない俺たちに、背中で模範を示そうと、ただ一人指揮棒を振り続ける東山の姿は、何か壮絶ですらあった。

――みんな、ちゃんとやろうよ!力を合わせて、優勝をつかみ取ろうよ!

 東山の熱い呼びかけに応え、渋々練習に付き合ってやったと見せかけ、東山の指揮に合わせて、当時世間を騒がせていた某新興宗教団体の歌を歌ってやったときの、天国から地獄に突き落とされた東山の顔は、今でも忘れられない。

 東山は、この合唱コンクールに賭けていた。今や人望は地に堕ち、クラスでも部活動でも肩身の狭い思いをしている。自ら立ち上げた「君を守り隊」も壊滅状態。東山の学校生活は、誰がどう見ても漆黒に彩られたものとなってしまった。そのすべてを、東山は、この合唱コンクールで挽回しようとしていた。合唱コンクールで、自分を中心に皆が一つになることで、すべてのわだかまりが解け、風向きが変わると信じていたのである。

 過酷な状況の中、藁にも縋りたい東山が微かな希望を抱くのは、おかしなことではない。なんだかんだ、当日にはそれなりに盛り上がるイベントではあるから、もしかしたら、いじめられっ子が別の誰かだったら、東山が望んでいた結果になったかもしれない。

 だが、イジメられていたのは東山である。東山はどこまでも東山であった。他人の気持ちを理解できない、自分のことしか考えられない東山は、本番を翌日に控えた最後の練習の日にとった行動によって、希望の芽を自ら摘み取ってしまうのである。

――君たちっ!いい加減にしろっ!そんな態度で、この素晴らしい歌を作ってくれた作曲家さんに申し訳ないとは思わないのかっ。もう僕は怒ったぞ。君たちが謝るまで、指揮棒は振らないからなっ!もし僕に戻ってほしいなら、理科準備室まで来い!

 東山は顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、教室を出て行ってしまったのである。

 わけもわからないまま、取りあえず東山が言い残した理科準備室にまで行くと、ドアの窓から、暗い部屋の中、何かを待ちわびているような表情で座り込む東山の姿が見えた。東山は一体、何を考えているのか。ヤツの狙いは、いったい何なのか。俺は先走ってドアを開けようとする仲間を制止し、いったん教室に帰って、作戦会議を開いた。

 そのうちに、仲間の一人が、一つの仮説を口にした。

 先日、教育テレビにて、ある学園ドラマが放送された。そのドラマでは、やはり同じように、合唱コンクールで真面目に練習をしようとしない生徒に怒った担任教師が、車の中に引きこもった。反省した生徒たちは、担任教師の車を輪になって取り囲み、合唱曲を歌いだした。教師は車を出てきた。その一件で一つにまとまったクラスは、見事合唱コンクール優勝の栄冠をつかみ取った。

 東山は、そのドラマの展開の再現を目論んでいるのではないかというのである。

 安っぽいドラマに感銘を受け、現実の世界でそっくりそのままのシチュエーションを再現しようとしてしまう・・。東山ならやりそうなことだった。

 当然、俺がそんな東山の陳腐な目論見を許すはずがない。俺は東山の望みを完膚無きまでに叩き壊し、最大のダメージを与える術を考えた。期末テストでも発揮したことのない集中力で結論を導き出し、そして思いついた手段を実行するため、クラスの皆を率いて、東山の待つ理科準備室へと向かった。

 俺たちがドアを開いた瞬間、東山が浮かべた歓喜の表情は、次の瞬間、苦痛に歪んだものとなる。

―――に。人間の失敗作。頭のてっぺんからつま先まで、すべてが世界で一番劣ってる。

―――い。いつも見下させてくれてありがとう。僕らに自信をくれてありがとう。どんなに辛いときでも、僕よりダメな人がいるってわかると元気が出るよ。

―――と。取りあえず臭いよ。

―――が。頑張った量と結果が噛み合わない選手権なんてものがあったとしたら、東山くんが優勝だろうね。

―――う。うんことしっことを受け止めるパンツが可愛そうだから、今すぐ脱いでください。

―――ま。間違っても東山くんの遺伝子を後生に残したら大変だから、今すぐホモになってください。

―――お。お父さんお母さんも、本当は東山くんを産んで後悔しているよ。


 俺たちは、東山が決めた合唱曲を替え歌にして、「東山かるた」の内容を歌って聞かせてやったのである。罵詈雑言を浴びせるのに加え、東山がリスペクトする名曲をも汚す、まさに一石二鳥の作戦。精神が崩壊した東山は、その場で失禁した。その小便を無理やりに飲ませてやったのは、言うまでもない。

 東山はこれでKOされた。学校に顔を見せなくなったのである。話には、さらに続きがあった。なんと、東山を欠いた俺たちのクラスは、合唱コンクールで優勝を飾ってしまったのである。東山の存在価値を完全に無にしたこの結果。もちろん、受け取った賞状は、しっかりコピーを取って東山に送ってやった。 

 その三日後であった。山里愛子が、公園で東山に殺された。全身数十か所を滅多刺しの、まさに惨殺であった。警察の発表によると、動機は告白を断られての逆恨みであったらしい。

 逆恨みというのは、山里愛子を全面的な被害者とみる警察による、乱暴な結論である。俺は、東山には東山なりの事情があったと見ている。

 そもそも山里愛子は、本当に東山のことを思って、「君を守り隊」の活動に協力していたのだろうか。山里愛子は、俺や東山と同じクラスにいた、武田というイケメン男子に想いを寄せていたことが、当時知られていた。山里愛子は、武田に対し、弱い者に優しくする自分をアピールするために、東山の活動に協力していたのではないか。

 東山が学校を休んでいた期間、武田と山里愛子は、よく肩を並べて下校していた。事件後、武田は口を噤んだが、交際の事実があった可能性は高い。山里愛子は、悲壮な覚悟で想いを伝える東山に対し、お前はもう用済みだという類のことを言ったのではないか。

 だとするならば、東山は山里愛子に、俺に対する以上の怒りを感じたはずだ。俺は最初から敵だったが、山里愛子は、長きに渡って味方と思わせておいて、いきなり裏切ったのである。俺も東山の立場なら、同じかそれ以上のことをしていただろう。

 事件はメディアでも大きく取り上げられた。イジメがあったことも報道されたが、人ひとりを殺した免罪符となるには弱いというのが当時の世論で、首謀者たる俺は、警察や学校から簡単な事情聴取を受けたのみで、ほとんど不問に付された。

 世間的には東山一人が全ての咎を背負った形になったのだが、事件が生徒たちに与えた傷は深く、イジメにはまったく関与していないのに不登校になるような女子も続出したが、俺は何とも思わなかった。罪悪感もまったく感じていない。反省も何もしていない。

 そもそも、一連の出来事を、「イジメ」などと言われることに、俺は釈然としない。加担していた他の連中は知らないが、俺は加害者であると同時に、東山の自己顕示欲の被害者でもあった。つまり立場はイーブンである。戦争と同じで、「やりすぎ」には反省しても、戦ったこと自体を反省する必要性など感じないし、「やりすぎ」を反省するなら、東山とて同じのはずだ。

 あの「公開処刑」のとき、俺は紛れもなく、「死の恐怖」を感じていた。数の暴力を使ったのは、アイツも一緒である。東山が「君を守り隊」に俺を勧誘してきたときだって、曖昧な返事でお茶を濁すのではなく、ムキになって断っていたら、ヤツは何をやってきたかわからなかった。一歩間違えれば、俺が東山の立場を演じていたかもしれないのである。

 それに・・・東山はどうか知らないが、俺はあいつにシンパシーを感じていた。「世間」とかいう、わけのわからないものに染まれない者、自分を殺して溶け込むことができない者同士という点で、俺と東山は、本質的に同じ人間なのである。俺たちが「世間」で生き残るには、「世間」の方を、自分の色で染めるしかなかった。互いが「世間」を自分の色で染めようと争った結果、俺が勝った。それだけのことだった。

 あれはいわば、圧倒的な力に虐げられる者同士の生存競争だったのである。ゴキブリが共食いをするのを、人間から残酷だと責められたところで、ゴキブリにとっては大きなお世話でしかないだろう。それと同じことである。社会の適応者様から、上から目線で非難されるいわれはないのだ。

 俺は東山との「生存競争」には勝った。しかし、俺にとって本当の敵は、東山ではない。たかが一つの中学校の一学年を染め上げただけの話。卒業すれば元の木阿弥。「世間」との戦いからは永遠に逃れられない。

 今から思えば、むしろ東山との戦いに勝ってしまったのが、いけなかった。

 「生存競争」に勝利したことによって、俺が勘違いしたことは多かった。まず、あの成功体験によって、「悪」、すなわち世間一般的に素晴らしいとされる価値観に反して生きることこそ、自分の唯一生きる道だと思い込んでしまったこと。次に、あの成功体験が地道な努力の結果ではなく、まったく予期せぬ僥倖によって齎されたものであったため、学業なりスポーツなり、何か一つのことにじっくり取り組むのを放棄してしまったこと。暗く冷たい地の底を進んでいたかのような俺の人生で唯一光り輝いていた、あの青春の思い出がいつまでも忘れられなかったせいで、「世間」と和解するタイミングを、完全に逃してしまった。

 もし、俺が人生の中の、どこかのタイミングで、自分の方から「世間」の方に歩み寄ろうとしていれば、今よりはマシになっていたのだとすれば、東山は俺に一矢報いたことになる。あれから俺は、とうとう、この世間の中に、自分の生き場所を見つけることはできなかった。人から冷笑を浴び、蔑まれ、負け続けるだけの人生を歩んでしまった。あの頃に比べて、「世間」と折り合いをつけるのはうまくなったが、「世間」との間に横たわる溝自体は、より大きく、深くなってしまった。

 もはや大きな犯罪を犯すのは時間の問題だが、塀の向こうにも、自分の生き場所などがあるとは思えない。この上は気に入らない奴をぶち殺すか、もしくは無差別に大量の命を奪うかして死刑となり、恨み連なる「世間」にどでかい糞をぶちまけてから、今生とおさらばする結末しか思い浮かばなかった。


「おい、お前ら。何をくっちゃべってやがる」

 俺たちが作業するテーブルにつかつかと歩み寄ってきて、注意という名の因縁をつけてくるのは、派遣スタッフのリーダー気取りの深山である。

「お前とお前!お前らいつも一緒にいるが、仕事とプライベートは分けて考えろ!お前は手が早いからまだいいが、お前!口が動いている間、手が止まってるぞ!お前はよくても、海南のスタッフみんながお前と一緒だとみられたら迷惑なんだ。しっかりやれ!」

 お前お前と、声しか聞こえない者には、どっちがどっちといったところである。深山は、海南アスピレーションや丸菱運輸の正社員ならば、普段顔を合わせる機会もない他部署の人間にまで深く精通しているのだが、同じ現場で働く派遣スタッフのことは、名前すら覚えようとしない。そうすることで、自分はお前らと違う、向こうの世界の人間だと、俺たちに印象付けようとしているらしい。もはや意地でしかないが、それは彼にとっては、もっとも崇高なことなのだ。

「うるせえな。他人ばっかり気にしてやがって、あんたこそ仕事に集中してねえんじゃねえか」

「なにぃ・・・」

 手が止まっていると言われた側の「お前」であるところの俺が反撃すると、図星を突かれた深山は、憤怒に顔面を紅潮させながら、伝票の集計作業をしていた、正社員の中井の元へと駆けていった。深山の告げ口を受け、中井は肩をいからせて、何事かを喚きながら、俺たちのテーブルへと歩み寄ってくる。

「てぇめぇっ!ふざけたことしやがって、この野郎!」

 中井が糸ミミズのような血管が走る目で睨み付けるのは、俺一人である。仕事をやっていなかったことではなく、自分に口答えしてきたことが気に入らなかった深山は、俺一人がサボっていたという体にして、中井にチクりを入れたらしい。

 共犯者である宮城は、中井に一人で怒られる俺を庇うでもなく、もともと話しかけたのは自分だということを申し出るでもなく、われ関せずとばかりに、黙々と作業を続けている。己のアピールにならない人助けは一切しない。これが男マザー・テレサを気取る豚の正体である。

「てめえっ、何サボってんだっ!金稼ぎに来てんだろ!ちゃんとやれ!給料泥棒が!」

 何とかほどよく吠えるという言葉が頭をよぎる。人生と引き換えにするには、あまりにもチンケな相手。今までだったら、雑魚に構っても仕方ないと自分を宥め、やり過ごす場面。しかし、今度ばかりはもう無理そうだった。このところロクなものを食っていないせいか、酷く疲れやすい。ちょっとしたことでもイライラとして、導火線が極めて短い状態になっていた。限界だった。

「少しの私語も許さないって、ここは刑務所の作業場かよ。給料泥棒って、こっちは盗みたくなるほどの給料なんか貰ってねえよ。金稼ぎに来てんだからちゃんとやれってのは、働いた分の給料払ってる人間だけが言っていい言葉だろうが。給料以上に人をこき使ってるてめえの会社に、それを言う権利はねえだろ。つうか、一分一秒も休ませねえ割りに、怒鳴る時間はあるのかよ」

「なんだとぉ、この野郎がぁっ!」

 怒りに我を忘れた中井は、手に持っていた段ボール箱を、俺に投げつけてきた。段ボール箱の角が命中した額からは鋭い痛みが走り、熱い液体が流れてきた。

「痛。おい、これ、傷害事件だからな。てめえのこと、訴えてやるよ」

「何ぃ?」

 頸動脈を掻っ切って殺してやるつもりだったが、中井が自爆してくれたおかげで、冷静さを取り戻すことができた。

 バカバカしい。頂くものを頂いて、さっさとこんなところは辞める。ようやく、決定的なチャンスが訪れた。法に訴えるための、物理的な証拠がずっとほしかった。重労働と罵詈雑言の艱難辛苦を耐え忍び、このときをずっと待っていたのだ。

「なんだてめえ。仕事のできねえ馬鹿のくせして、訴えるとはなんだ!」

「知性の欠片もない山猿みてえな顔したお前に、馬鹿なんて言われたくはねえな」

 もうオサラバすることが決まった職場で、社員に頭を下げなくてはならない理由などはない。こうなれば、煽るだけ煽って、さらに決定的な証拠を掴んだ方が得であろう。

「てめえこの野郎!馬鹿は死ななきゃ治らねえっつうから、殺してやろうか?」

「殺すとか言いやがったな。脅迫罪が追加だ。これでお前は無職決定だ。それが嫌なら・・・」

 中井に墓穴を掘らせようと言い争いを続けていると、突然、何者かに背後から襟を掴まれ、恐ろしい力で、床に引き倒された。抵抗する間もない。凄まじい衝撃が背中に加えられ、驚きと恐怖で、ただ悶絶することしかできなかった。

「なんだてめえはっ。なに文句つけてんだっ、おおっ?」

 鬼か閻魔か。中井とはけた違いの、腹の底まで響くような怒声。下から見上げるその身の丈は百九十センチを超え、筋骨隆々の肉体はプロレスラーのそれにもひけをとらない。大男の俺の力量差は、弱肉強食の関係がほとんど物理で決まっていた原始時代なら、絶対に覆せないほど圧倒的だった。しかし、しがらみの多い現代社会においては、そうでもない。

 カマキリを思わせる、鋭角な顎のライン。巨体に似合わない、生白い肌。遠い昔に見覚えのあるその顔を見た俺は、思わず舌なめずりをしてしまった。野に捨てられ、腐肉ばかりを食らって生きてきた犬が、遠い昔に人間の家で食べた、手ずからの馳走の味を思い出したように――。

「お前ら、一つの会社に身をうずめることもしないないろくでなしが、仕事で文句なんか垂れてんじゃない!毎日定時で帰りやがって、俺なんか、一日十五時間の労働を週に五日、土曜日も出勤しているんだ!意見を言いたかったら、俺よりも働いてみろ!」

 懐かしさがこみ上げてくる。身体と声は昔の面影もないほど変わり果てても、独りよがりな精神論をぶちまけ悦に耽っているとき、生白いカマキリ顔が興奮と照れで微かに朱に染まるのは、あの頃と少しも変わっていない。

 そういえば、月初めの今日、職長の交代があるという話があったのを思い出した。朝礼に遅刻した俺は、新しい職長の顔をまだ知らなかった。

 上場企業の管理職なら、俺と同い年でも、年収は六百万はあるだろう。左手薬指に光る結婚指輪は、男に守る者が出来たことを教えてくれている。人の弱みを見つけることにかけては警察犬なみの嗅覚を発揮する俺の鼻が疼き出す。

「よう、職長。今日仕事がはけたらよ、ちょっと飲みに行こうぜ。あんたの部下の不始末について、二人でゆっくり話し合おうや」

「なに?なんで俺が、お前なんかと飲みに行かなきゃいけないんだ。お前みたいな、どこの馬の骨ともわからん・・・」

 ゆっくりと起き上がった俺は、男に粘り気を帯びた視線を貼り付けながら、袋小路まで追い詰めた獲物を絶対に逃すまいとするハンターの足取りでにじり寄っていった。男は、自分の喉仏ほどの位置までしか身の丈がない俺に心底怯え、ゴリラのような巨体を後じらせていく。

 青春の思い出――「生存競争」から十八年。糞みたいな転落人生を送ってきた俺に、太陽のような幸運がめぐってきた。

 俺は「旧友」に向かって、口角をギッと釣り上げた。

「久しぶりだなあ、東山ぁ」
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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