第三章 20××年 三月~十一月 信奉者

 いつも目を覚ますと同時に襲ってくる、ウッとした倦怠感。アラームに叩き起こされた及川雅也は、もそもそと芋虫のように、万年床から這い出した。

 今日は水曜日。勤めている食品加工工場、大丸食品の定休日だが、朝から先輩のライン作業者から呼び出しを受けており、急いで支度を済ませなければならない。ひりつく喉を水道水で潤し、昨晩のうちに買ってあったチキンかつ弁当を掻き込み、三日間履きっぱなしのパンツを履き替え、穴の開いたシャツの上から、糸のほつれたカーディガンを羽織ると、及川はアパートを出て、愛車のスバル・プレオに乗り込んだ。

 エイティーズを聞きながらステアリングを握り、半開きにしたウィンドウから流れ込む冷たい空気を浴びつつ、閑静な田舎の国道を走っていると、二十八年前、高校の掲示板に張り出されていた広告に応募して参加した、免許合宿を思い出す。

 目に映るすべてが、希望に満ち溢れていた。世間はバブル崩壊だと騒いでいても、自分にはまるで関係のない出来事のように思えた。何もかもが、光り輝いて見えていた。

 バイパス沿いに、忌々しいエテ公の看板が見えてくると、大切にしたい思い出から、見向きもしたくない現実に引き戻される。このまま通り過ぎたいのはやまやまだが、約束をすっぽかしたりしたら、明日の勤務日、ゴリラのようなあの男から、どんな仕打ちを受けるかわかったものではない。

 及川は、待ち人のセレナの隣に車を止め、パチンコ屋の中に入っていった。

 せせこましい都会では、建物は上に盛るという発想になるが、田舎の建物は土地を贅沢に使う。ボウリング場のようなだだっ広いホールを奥へ奥へと進んでいくと、スロットのコーナーに、咥えたばこでレバーを弾いている同僚の派遣社員、牛尾の姿を見つけることができた。

「おはようございます、牛尾師匠」

「おぅ及川ぁ。おせえじゃねえか。いい台取られちまったらどうすんだよ」

「すみません」

「お前もしかして、朝からオナニーしてたんじゃねえのか?朝から玉いじりに夢中になって、玉打ちに遅れたってか?いい年して嫁さんもいないオッサンが、寂しいことやってんじゃねえよ」

 こんな下品なギャンブルで輝いた気になり、寒気のするギャグを吐いて高笑いを決め込んでいるようでは、お前も同じ末路だ・・。及川は内心でせせら笑いながら、一回り年下の同僚の傍を離れ、トイレに立ち寄った。

 前から気になっていたのだが、パチンコ屋のトイレは、どうしてこんなにキレイなのだろう。国庫に金の入らぬ違法賭博屋が、たった一つ社会貢献できるところだから、掃除は真剣にやれという方針でもあるのだろうか。

 そういえば、ここ最近、トイレでは嫌な思いばかりしている。

 二年前に勤めていた家具製造工場で、及川はいつも、便器から三十センチ近くも離れたところから放尿するため、小便が便器から外れて、床はびちゃびちゃになってしまっていた。及川一人のために、トイレの床には、立ち位置を示す赤いビニールテープが貼られることになってしまったのだが、及川はそれでもまだ気づかず、トイレの床を汚し続けるため、とうとう派遣会社のスタッフを通じて直接注意されることになり、えらく恥ずかしい思いをした。

 また、家具製造工場のトイレにはエアーダスターがついておらず、及川はいつも、洗面所で洗った後の手を大きく振って水気を払っていたため、洗面所の周りを水滴だらけにしてしまっていた。その水滴を、備え付けの雑巾でふき取りもしないため、社員からのクレームが入り、またもや、派遣会社の担当者を通じて注意を受けることになってしまった。

 手を洗った後の濡れた手を、振ってはいけない――。言われたことを、よく頭に刻んだ及川は、それから、濡れた手を、備え付けの雑巾で拭くようになったのだが、どこの誰か知らないが、それも目ざとく見つけてチクリを入れる者がおり、担当者から三度目の注意を受ける羽目になった。

――及川さん。それは手を拭くためのタオルじゃなくて、洗面所をキレイにするためのタオルでしょ。そのタオルで拭くくらいだったら、自分の服で拭いた方がよくない?なんで自分を汚さずに、会社の方を汚していくの?そもそもさ、自分のハンカチをもってこようよ。小学生じゃないんだから、一から十まで言わせないでよ。
 
 もう、何もかも面倒くさくなった及川は、新しく入った大丸食品の工場では、とうとう、用を足した後の手を洗わずに出るようになったのだが、今度はそれが原因で、「赤ちゃん」などといったあだ名をつけられ、陰でコソコソ言われるようになる始末である。
 
 自分が、周りから侮蔑されていることくらいわかっている。生まれてこの方、誰かから必要とされたことなんてなかった。周りが当たり前にこなしている仕事を自分はできず、周りが当たり前に築いている人間関係を、自分は築けなかった。

 自分のような能無しでも、新人のうちは、ある程度多めに見てもらえる。派遣特有の、百パーセント減点方式のおかげで、数か月単位で職場を転々としていれば、必要以上に傷つかずに生きていられた。

 ひとつの職場に長くいることがないため、友達もできず、社会人としての教育をまともに受ける機会もない。四十六にしてトイレひとつ満足に使えない無能男が、そうして出来上がった。

 この先もずっとそうやって、何もできないまま、何一つ身につかないまま、無駄に馬齢を重ねていくものだと思っていた。

 それが、今の大丸食品の工場で、伊達巻のラインの作業者になってから、風向きが変わってきた。集団の中で、一定の存在価値を認められるということを、四十六にして初めて知った。

 能力を買われているのとは違う。見下されているという意味では、邪険にされていたころと変わらない。けして、本意な形ではない。ただ、自分はここにいていいんだと思える安心感は悪くない。

「よいしょっ・・と」

 用を足してブツを仕舞うと、管に残った尿がピュッと飛び出して、ブリーフを濡らした。

 若いころに比べて、小便のキレが悪くなっている。身体のあちこちにガタが来ている。休みの日はどこにも行かず、一日ゆっくりしていないと、仕事で持たない。こんな玉遊びなどは早く切り上げたいのだが、ほんの少しでも回した実績を残さないと、牛尾に何を言われるかわからない。

 トイレから出た及川は、職場での動きに輪をかけてスローな足取りで、一円パチンコのコーナーへと向かい、適当な台の前に腰を下ろした。

 二年前、格安の量販店で買った財布から千円札を抜き取って、野口英世の顔を、名残を惜しむように見つめる。千円あれば、カップ麺が八個も買えた。牛丼を二杯、みそ汁とサラダのセットつきで食べられた。エロサイトで旧作の動画を、三本も落とせた・・・。

 逃れられない運命。これもすべて、職場に留まるため、生きるために必要な出費なのだ。自分に言い聞かせ、未練を断ち切って千円札を挿入し、ハンドルを回して玉を打ち出した。

「ああ・・・」

 虎の子の千円は、ものの十五分で溶けていった。

 一円パチンコでも、終日回せば、万単位の負けになるのはザラである。取り返せる額が少ない分、等価よりも、ズルズルと泥沼に引きずり込まれていく感が強い。

「はぁ・・・・」

 妙なことになったが、たぶん、今の自分は充実している。少なくとも、派遣で働き始めたこの十数年の中では、一番マシだと思える程度には・・・。

                           ☆

 及川が、地元山口のハローワークで見つけた求人に応募し、はるばる中部地方の食品加工工場、大丸食品で働き始めたのは、今年の春先のことだった。

 入社してすぐに世話になった三十過ぎのラインリーダー、貞廣は仏のような男で、物覚えが悪く、作業も遅い及川に声を荒げたりすることもなく、よく面倒を見てくれた。

 上司に恵まれたと安心していたのは、しかし束の間。及川の入社から二か月ほどして、班長に昇格した貞廣の代わりに、貞廣の後輩の岡本涼子がラインリーダーに就任すると、状況が一変した。

「及川さん!ホースの水は飲んでもいいけど、飲むときは自分の口を下にしなきゃだめって、貞廣さんから言われませんでしたか!唾が入ったら、どうするんですか!」

 まだ、大学か専門を出たばかりくらいだろうか。自分とは親子ほども年の開きのあるこの娘に、及川は目の敵にされ、毎日耳元でキャンキャン怒鳴られていた。

 失敗をして叱られるのは仕方がない。しかし、涼子の及川へのあたり方は、明らかに、教育的指導の範疇を超えていた。

「伊崎さんみてて、あの人絶対あそこでミスするから。ミスするミスする・・・・。ほらミスした!も~ういい加減にしてくれないかな~」 

 ミスをしてから怒るのではなく、最初からミスをすると決めつけて、作業を監視してくる。本当にミスをしたとき、自分に直接注意をするならまだしも、同僚の正社員に向かって愚痴を吐く。もちろん、自分に聞こえているのを承知の上で、である。そんな状況で作業を強いられたのでは、誰だって集中力を乱し、手元が狂ってもおかしくはないではないか。

 涼子は仕事以前に、自分のことを人として嫌っており、一日でもはやくラインから追い出したがっている。そんなことくらいは、自分にだってわかっていた。

 自分が、女に好かれるようなご面相ではないことくらいわかっている。特に、どの勤め先にいっても、サイズの合う帽子を探すのに苦労する大きな頭蓋は、常に周囲の嘲笑の的となり、自分のどん臭さを際立たせてきた。

 若いころはまだ見れただろうが、いまは腹も突き出ているし、髪も薄くなった。涼子のような若い娘には、こんな醜い中年男の存在は、それこそ、ゴキブリやナメクジのようなものに見えているのだろう。

 それも仕方がない。四十六にもなると、色々と諦めの境地に入る。

 出世も結婚もできなかったが、どうにか今生きている。雨風凌げる家に住めて、三度のご飯が食べられているだけで十分じゃないか。

 今さら、何をどうしようと足掻く気もない。一切の努力を放棄するかわりに、言われるがままを受け入れる覚悟を決めた。

「別に、付き合うわけじゃないから、太ってるとかはいいんですけど・・・。毎日お風呂に入るとか、人として当たり前のことくらい、してきてほしいですよね。この前なんか、太い鼻毛が三本も飛び出してたんですよ。もうほんと、気持ち悪くて・・・」

 何を言われても気にしない。

 感性に紙やすりをかけるようにして、ナメクジのように、鈍く、鈍く生きていけば、人生は楽になる。
 
 自分のことだけを考える。どうせ人の気持ちなど、完璧にわかりはしないのだ。誰とも関わらない方が、楽でいい。

 一人でいい。このままずっと、これでいい・・。

                             ☆
 
「及川さん、お掃除”だけは”丁寧ですね~。いつもキレイにしてくれて、ありがとうございます!」

 ある日の清掃作業中、岡本涼子が、珍しく及川を褒めてくれたことがあった。

「いえ・・そんな・・あたりまえの仕事を、しているだけです」

 及川が照れ笑いを浮かべながら返事をすると、涼子はそれ以上は何も言わず、顔を引きつらせながら、リーダー机の方に帰っていった。

「ねえ、見てあの笑顔。あの人、子供みたいに喜んでる。岡本さんは嫌味でいってるのに、わからないのかね」

「二、三分で済ませればいい配管の清掃を、十分以上もかけて念入りにやって・・・。工場の機械をあんな丁寧に洗うなら、自分がお風呂に入ってこいって話だよね。あれじゃ、工場の機械は汚いけど、自分の身体はキレイだって言ってるようなもんじゃん」

 ようやく涼子に認められたのかと、無邪気に喜んでいた及川の後ろで、同じはんぺんラインの作業者、真崎志保と塚田哲太が、ひそひそと陰口を叩いているのが耳に入った。

 及川はリーダーの涼子だけでなく、はんぺんラインの作業者全員から嫌われていた。アラフォー女の真崎志保はまだマシだが、二十代半ばの塚田は陰険なヤツで、待機室で休憩するとき、及川が近くに腰を下ろすと、避けるようにスーッと立って、どこかへ行ってしまうということを平気でやる。

 こっちが気づいてないと思っているのか、気づいているのを承知の上で、わざとやっているのかはわからないが、いずれにしても、塚田には、年上の自分に対する敬意は欠片もなく、自分の心を傷つけることなど屁でもないのだろう。

 それも仕方がない。まったく、気にもならない。

 昭和前半生まれが好きな、辛い仕打ちを受けることで、心が鍛えられて強くなるというのは迷信だが、人生に一切の潤いが与えられないことで、心が枯れて、痛みも痒みも感じなくなるということはあると思う。

 これまで、学校や職場をやめても交流が続くような友人は、一人もできなかった。

 商売以外の女とは、付き合うのはおろか、手を繋いだことさえなかった。

 犬、猫にも、愛情を持つことはできなかった。

 四十六年もそんな生き方をしてきた生物.は、もう人間とは呼べないだろう。それこそ、ゴキブリやナメクジのようなもの。そういう生き方を自分で選んだのだと思えば、誰に何を言われようが気にもならない。

「あんな能力で、今までどうやって生きてきたんだろうね。ここに来る前は、ホームレスやってたりして」

 気にしない。何を言われても気にならない。

「及川さん!待機室で、コーヒーをすする音がうるさいって、私のところにクレームが来てます!ここは自分のうちじゃないんだから、もっと周りに配慮してください!」

「あぁ~」

 間の抜けた返事をするのは、相手の言うことを納得できたからではなく、ただ相手にそれ以上、何も言わせないため。

 右から左に聞き流す。たとえ相手の言うことが正しかったとしても、関係ない。

「及川さんは、もうこのラインの人じゃありません!伊達巻のラインの朝礼に参加してください!」

 娘のような年齢の上司に、散々嫌われて、罵られて、最後には追い出されるようにしてラインを移されても、まったく気にしない。傷ついたりはしない――。


                         ☆


「本当にそうか?及川さん、本当にそれでいいと思ってるのか?」

 自分は、一生負け組でいいですから――。じめじめとした梅雨のある日の勤務中、機械の動作不良で手が空いたとき、話の流れで及川が何となく口走った言葉に疑問を投げかけたのが、はんぺんのラインを移された先の、伊達巻ラインのリーダー、真崎信一であった。

「はぁ・・・。この年で、派遣の仕事なんかしてたら、誰だってそう思うんじゃないですかね」

 及川が投げやりに返すと、真崎は腕を組みながら、よく、死んだ魚のようだと陰口を叩かれる自分の目を、えらく熱のこもった眼差しで見つめてきた。

 派遣ながら、ラインリーダーを任されている真崎は、面倒見はよく、けして悪い人間ではないのだが、及川はこの男がどうも苦手だった。

「年齢や収入で、勝ち負けが決まるのか?そんなことより大事なことがあると、俺は思うぞ。自分が誰にも恥じない生き方をしているか。自分にとって、本当に大切な人が傍にいるか。それが一番、大事なんじゃないのか?」

 こういった具合に、やることなすこと、口から出る言葉、すべてが一々芝居がかっている。まるで己の生活すべてを劇場のように演出しているような感じが、ナルシストのようで気色悪いのだ。
 
「罪を犯すのが恥という意味なら、恥ずかしい人生は送っていないと思いますが、俺の存在自体が恥ずかしいようなもんですからね・・・。大切な人は、俺には一人もいませんしね」

「俺はどうなんだ?及川さんにとって、俺は大事じゃないのか?」

「え?いや・・・まぁ・・・・」

 まともな人なら赤面してしまうような言葉だが、真崎は至って真剣である。俺は大事じゃないのか?それを、一年二年と一緒に働いて、確かな信頼関係がある同僚に言うならわかるが、及川が真崎と一緒に働くようになってからは、まだ一週間しか経っていないのだ。

 それはまあ、世界の人を大事、大事じゃないの二種類にザックリ分ければ、大事な方に入れてもいいとは思うが、真崎が問いたいのは、おそらくそういうことではないのだろう。今、この時点で、真崎を長年に渡り指導を受けた恩師のように思っていなければ、ここで「はい」と返事をしてはいけないのだ。

「い、いやぁ、真崎さんとはまだ知り合ったばかりですし・・・大事というのは、ちょっと違うのかと・・・」

「そうか。わかった。俺は及川さんにとって、どうでもいい人なんだな」

 失礼な返答をしたとは思わなかった。だが、真崎は突然、嘘のように冷めた表情になり、翌日から、及川への当たりがキツくなっていった。

「あっあの・・・真崎さん。あそこの、私がやるあそこの仕事で使うあれは、あれをこう、こう動かしたほうがいいんでしょうか」

「・・・なに?何を言ってるのか、さっぱりわからないよ!人にものを伝えたいなら、もっとハッキリ喋れよ!」

「あっあの・・・あの、私、何かしてしまいしの・・あの・・・」

「だから、何言ってるかわかんないんだよ!仕事する前に、国語の勉強してこいよ。学校で何やってきたんだよ」

 真崎が変貌した理由はわかっていたが、真崎に嫌われなければいけない理由はわからなかった。

 たった一週間、一緒に働いただけの人間を、大事な恩師のように思えというのも理不尽だが、そもそも、それを聞いてきたのは真崎本人なのである。真崎は自爆の恥ずかしさを誤魔化すために、及川に八つ当たりをしているだけなのだ。

「なんだ及川ぁ。お前またなんかやらかしたのかぁ!お前いい加減にしろよなぁ!」

 及川が叱責を受けているのに気づいた同じ伊達巻のライン作業者、牛尾が飛んできて、追い打ちをかけるように、品のないガラガラ声で怒鳴り散らした。

 伊達巻のラインで前工程を担当している牛尾は、三十三歳の派遣社員。派遣で働く前は、鳶職や重量屋をやっていたとかで、上背は高くないが、いかにも肉体労働者といった、筋骨隆々の身体をしている。

 牛尾は体格がいいだけではなく、垂らした手が膝に付きそうなくらい腕が長いのが特徴で、それが掃除のとき、深い攪拌機の底に付いた汚れをこそぎ落とすときに重宝している。その見た目と、脳みそまで筋肉で出来ているような単細胞であることから、はんぺんのラインにいる塚田や、笹かまぼこの寺井などからは、陰で「ラリゴ」と呼ばれていた。

「及川ぁ!またバケツの汚れとれてねえじゃねえか!」

「は、はい。すみません」

「及川お前さぁ・・・・洗い物ってしたことある?」

「いや・・そりゃありますが・・家の洗い物と、工場の洗い物は、全然ちが、ちが」

「言い訳してんじゃねえ!とにかくお前は、常識がなってないんだよ!」

「はあ・・・すみません」

 工場で使う金属のバケツには、無数の小さな傷、へこみがあり、中に詰まってしまったカスを取り去るには、表面をブラシで撫でるだけではなく、腕の筋が浮くほど力を込めてこすらなくてはならない。言うまでもなく、一般家庭で使う食器を、そんなに力を入れて洗っていたら、あっという間に破損してしまう。

 ゴリラにとって、生まれ育ったジャングルが世界のすべてであるように、牛尾という男は、ド田舎の、ケチな食品工場の中での常識を、あたかも世間一般の常識であるかのように思い込んでいるのである。

 井の中の蛙――伊達巻のライン作業者、真崎と牛尾は、よく似たもの同士の二人。牛尾が及川に厳しく当たるようになったことにも、真崎と同じような経緯があった。

――及川さんが入社したのは、はんぺんの塚田と同じころだっけか。ここに来て三か月、及川さんも色々な人の仕事ぶりを見てきただろう。

――・・・はあ。

――その中で、及川さんは誰が、一番仕事ができると思った?

 真崎と同じ、質問をした時点で答えが出ている質問。言うまでもなく、牛尾は及川に、己の名を答えさせようとしているのである。

――まあ、自分より先に入った人は、みんな同じくらいじゃないですかねえ。

 歩合で給料をもらっているわけでもあるまいし、こんなライン作業で誰が一番できるかなど、知ったことではない。適当に答えたところで、激怒する人など誰もいないと思っていたのだが、違っていた。

「及川ぁ!この材料の置き方なんだよ!通り道ふさいじゃってるだろうがよ!おまえ仕事するとき、何にも考えてないんじゃないのか。だから、仕事ができるヤツとできないヤツの違いもわからないんだろ!もっと頭使って仕事しろよ!考える頭がねえのか、お前には!」

 なんとかの一つ覚えのように、「考えろ」を連呼する牛尾。この男、「精神論」を避けてさえいれば、普通のゴリラとは一味違うゴリラになった気になれるらしく、その無駄な威圧感だけでも、十分パワハラになることを知らないようである。

「こんな簡単な仕事、三日もやれば一人前のはずだぞ!なのにお前は、一週間経っても、全然できるようになってないじゃねえか!どういうことなんだ!」

 誰でもすぐマスターできる単純労働だと認めてしまうのなら、自分がその仕事に誇りを持っているというのもおかしな話になってしまうが、単細胞の牛尾は、とにかく相手を責め立てるという目的だけで論理を組み立てているので、矛盾に気付かないのである。

「信さん、もうこいつダメっすわ。使いモンにならん。班長にいって、もっとできる人とトレードしてもらいましょうよ」

「大丈夫。もう手は打ってある。明日から、こいつの代わりに、期待の新人が入ってくるから、みっちり鍛えて、年末に備えよう」

 はんぺんのラインから移されて二か月目のこと、及川は、新人と入れ替わる形で、伊達巻のラインも追い出されてしまった。

                           ☆

 
 伊達巻のラインからも追い出された及川が次に回されたのは、リーダー一人、作業者一人で回している、工場で一番短い、笹かまぼこのラインだった。

「あ、あの、よ、よろしくお願いいたします!じ、自分、二回も戦力外通知を受けましたが、心を入れ替え、頑張りますので、どうか、お願いします」

「ああ・・そんな緊張しないでください。ここはそういうのじゃないですから」

 すでに二つのラインを追い出され、後がなくなった及川は、初めの挨拶で、今度こそはという覚悟を示そうと思ったのだが、笹かまぼこのライン作業者、寺井は、涼しい顔をして及川の気合をやり過ごした。

「一緒に働くようになって一週間しか経ってない人に、俺のことは大事じゃないのかって、気持ち悪いジジイですね。ラリゴも相変わらずだ。こんなサルでもできる単純労働で、誰が一番もクソもないっつうのに。及川さんも災難でしたね。僕もあの二人のことは良く知ってるんで、及川さんの苦労はわかりますよ」

 元、伊達巻のラインで働いていたという寺井は、伊達巻のラインの二人から厳しく当たられた上、最後には追い出された及川に同情的だった。

「あいつらの言ってることは、ようは宗教なんですよ。報われない生活を無理やり納得して、自分の惨めな人生を、さも素晴らしいものかのように思い込もうとするための宗教。あいつらは自分の信仰を人にも押し付けて、信者を増やすことで、自分の考えは間違ってないって思いたいだけなんです」

 寺井は伊達巻ラインの二人、特に、リーダーの真崎がことのほか嫌いのようで、やることなすこと、考えることすべてに否定的だった。 

「うんこをうんこと認めずに、これは茶色いケーキなんだ、俺たちは恵まれているんだと痩せ我慢。バカなクソジジイですよね。そんなことやってたら、上の奴らから、あいつらはあれでいいんだと思われて、いいように利用されるだけなのに」

 物質的な豊かさよりも、心の清らかさや、人間同士の絆に絶対の価値を置こうとする真崎の生き方には、及川も疑問を覚える。真崎はそれを持ってさえいれば、貧乏人でも金持ちに負けていないかのように言うが、清らかさや人間の絆くらい、金持ちだって持っているではないか。むしろ、金持ちほど心が豊かになって周りに人が集まり、貧乏人ほど心が荒んで、孤独に生きているのが現実である。真崎の言っていることは、ただの負け惜しみにしか聞こえない。

「・・・でも、変に落ち込むよりは、いいんじゃないですかね。自分が前向きになるためだったら・・・」

 寺井の言っていること自体は、これまでの人生で、真崎や牛尾のような人種と一緒に働く中で、及川がぼんやり考えていたことと一致している。言語能力が著しく欠損している及川の考えを代弁してくれるのは助かるのだが、しかし、寺井の言葉はどこか冷めすぎている感じがして、つい反論したくなるのも事実だった。

 うんこと言われて否定されようが、及川にはもう、非正規の派遣を続けていく道しか残されていないのだ。

「だからって、あいつらの考え方じゃ、結局は自分の首を絞めることにしかなりませんよ。プロレスのタッグマッチってあるじゃないですか。シングルだとパッとしないけど、タッグになると抜群の相性を発揮して、凄いファイトを見せるっていうレスラーがたまにいるの、わかります?」

「あぁ・・・。なんとなく、わかります」

「一緒ですよ。貧困と社畜は、セットじゃなければそこまで大した問題じゃない。待遇が悪いのに、正社員並みに働こうとするから、割に合わないと感じるんです。だったら、変な責任感なんか捨てちゃえばいいのに、あいつらはわざわざ自分の足を鎖で繋ごうとするとするばかりか、それを人にも押し付けてこようとする。とんでもない奴らです。僕の予想が正しければ、あの伊達巻ラインに入ったカレ、一か月も持たずにやめると思いますよ」

「そうですかね」 

「ま、ここは仕事もキツクないし、残業もないし、こっちの希望もなるだけ聞いてくれるいいラインなんで。気楽に、のんびりやっていきましょう」

 寺井の言う通り、笹かまのラインでは、ミスをしても厳しく怒られたりせず、作業が遅くても、定時内に間に合う限りは、煽られるようなことはなかった。

 大丸食品に派遣されて初めて訪れた、安息の日々。できることなら、このラインにずっと腰を落ち着けていたかった。そこで及川は、自分のやる気をアピールするために、ある作業の工程で、独自の動きを取り入れる工夫を見せたのだが、そのとき、今までどんなミスをしても怒らなかった寺井が、初めて不快感を露にした。

「及川さん、なんですかその動きは。そんなの、リーダーにやれって言われましたか?」

「ああ、いえ。これは、俺のオリジナルです」

「教わってないことはやらなくていいんですよ。それで作業の効率が良くなるんだったらいいけど、遅くなってるだけじゃないですか。このペースじゃ、定時に間に合わないですよ」

「いや、でも、こうした方が安全だし、不良が出にくくなるかなと思って」

「僕らには何の得もないでしょ。僕らは大丸の人間じゃなくて、派遣なんですよ。極端な話、不良品が出回って、消費者が食中毒起こして死んだって痛くもかゆくもないし、僕らの責任でもないんだから」

「そんな・・・」

「いいですか及川さん。僕らは職人じゃなくて、作業員なんです。言われたことだけやって、時間内に個数を上げることだけ考えていればいいんです。創意工夫がしたいんだったら、家に帰って、自分の趣味でやってください」

「なん、なん、なん・・・」

 なんとにべもない言い方をする男だろう。確かに、真崎や牛尾のように、派遣の仕事を、あたかも人生の修行の場のように演出するのは行き過ぎだと及川も思うが、かといって寺井の言い分では、派遣の働く意欲が全否定されているようなものではないか。

 もちろん、寺井も同じ立場の派遣労働者だから、見下されている、というのとは違うとわかるのだが、なにか胸がモヤついて仕方がない。

 それに、及川がやる気をアピールしようとするのは、真崎や牛尾のように、ここの仕事に誇りをもっているから、というわけではないのだ。

「俺だって、残業はつらいですけど、給料がカツカツで、まったくなくなっても困るんですよ・・」

「なんでですか?この辺は家賃が安いんだから、残業なんてしなくたって余裕で生活できるでしょ」

 寺井の言う通り、及川が住んでいるのは人口十万規模の地方都市で、都会だと六、七万はする物件に、三万程度の家賃で住むことができる。物価に大差はないが、都会に比べて誘惑が少ない分、思わず羽目を外して散在するリスクは少ない。食事も特別贅沢をしているわけではなく、服装などは、もともと一番無頓着なところである。

 生活費のネックとなっているのは、車である。駅の駐車場代が月に三千円、自宅の駐車場代が五千円、ガソリン代が約五千円。月の手取りのうち、約十パーセントが、車のために消えている計算になる。

 辺鄙な田舎町。だが、車がなければ暮らしが成り立たないほど不便なわけではない。スーパーマーケット、コンビニ、ホームセンター、ファストフード店、書店、レンタルビデオ店。徒歩三十分圏内に、生活に必要な施設は一通り揃っている。通勤で車が必要になるのは、自宅から、送迎バスの来る駅前までの区間、約五キロ程度。車を手放して自転車に切り替えれば、コストも浮き、健康増進にもなって一石二鳥なのは、自分でもよくわかっている。だが・・・。

 昭和四十年代生まれ。自分の世代にとって、車は魂なのだ。武士の刀と同じ。いかに家計を圧迫しているのであれ、車から切り離される生活など考えられない。車に乗れなくなるくらいなら、餓死した方がはるかにマシである。

 出世も嫁も、友達も諦めた。だが、車だけは手放せない。ゴキブリやナメクジと変わらない、こんな自分が生きるただ一つの理由が、車なのだ。

「はっきり言って、僕は及川さんに付き合って残業なんて嫌なんで。もし、どうしてもっていうなら、ほかのラインに直談判して仕事もらってください」

「はあ・・・」

 それができれば、苦労はしない。

 すでに二回もラインを移されて、暗に辞めてくれと言われている立場で、自分から仕事をもらいたいなど、申し出られるはずもない。こんな誰でもできるライン作業ですら、必要ないと切り捨てられる能無しの気持ちは、寺井にはわからないのだ。


                           ☆

 
 寺井の予想通り、期待の新人と評判だった伊達巻ラインの新人は、わずか二週間足らずのうちに辞めてしまった。

「なんででしょうね。優秀そうな人で、真崎さんも、牛尾さんも、大事にしているみたいだったのに・・」

「だからでしょう。バカじゃないから、あのバカどもについていけなかったんですよ。それより聞きました?僕たち二人のうちどちらかが、伊達巻のラインに戻されるって」

 夏も過ぎ去り、おせちの出荷がピークとなる年末に向けて、生産のノルマは徐々にきつくなっている。本来なら、とっくにメンバーが固まっていなければいけない時期で、定着するかどうかもわからない新人を、これから教育している余裕はない。そこで、もともと伊達巻のラインにいて仕事のわかる、笹かまラインの作業者のうちどちらか一人が、伊達巻のラインに戻されることになったのだという。

「僕は絶対嫌ですね。あそこに戻されるんだったら、今すぐここを辞めさせてもらいます」

 朝礼で、笹かまのラインリーダーから会社の指示を聞かされるやいなや、寺井は表情を険しくし、伊達巻のラインに戻ることを徹底的に拒絶する構えを見せた。

「そう。じゃ、仕方ないね。それじゃ及川さん、お願いしてもいいかな」

「俺は・・・・まぁ・・・・戻っても、いいですけど・・・・」

 リーダーに頼まれて引き受ける体を装ったが、寺井が拒否した以上、及川には実質、選択肢はない。すでに二回もラインを移され、リーチがかかっている。おそらく、ここで配置転換を受け入れなければ、作業能力の著しい不足を理由に、契約自体を打ち切られてしまうのだ。

 それに、生活費のことがある。そもそも、及川が今の工場で働こうと思ったのは、求人広告の、月収例二十万~二十五万という文句に惹かれたからであるが、それは社会保険と年金を含む総支給で、残業代も込みの額である。

 同じ工場でも、生産量はラインによってまちまちで、今いる笹かまのラインはほとんど定時で終わってしまうから、月二十日働いたとしても、手取りは十五万にも満たない。いかに居心地がいいとはいえ、いつまでも笹かまのラインにいたのでは、そのうち消費者金融に走らなくてはならなくなりそうだった。

 決定はその日の午前中になされ、さっそく午後の作業から、及川は伊達巻のラインで働くことになった。

「おい。お前、笹かまのラインで、寺井と散々、俺たちの悪口言ってたらしいな。覚悟しとけよ」

 人が足りない状況で、少しは大事にしてくれるだろうという希望もあったのだが、甘かった。

 人の心を慰撫するはずの宗教が、しばしば争いの種になるのは世の常である。これまで、派遣に礼儀とか、滅私奉公といった日本社会的な精神性を一切持ち込ませまいとするドライな哲学を持った寺井と同じラインにいたことで、「異教徒」と見なされてしまったのか、伊達巻ラインに戻った及川に対する真崎と牛尾の苛烈さは、かつての数倍にも及ぶものであった。

「ああ~」

 あまりに精神的なショックが大きいと、自己防衛本能からか、一定期間、記憶が途切れたようになることがある。笹かまのラインから伊達巻のラインに戻された九月から十月の下旬までの一か月半、及川の記憶は定かではない。

 多分、生きる価値がないから死ねとか、親の顔が見てみたいとか、そんなことを何度も言われたのだと思う。もしかしたら、体罰もあったかもしれない。出るところに出れば、いくらか踏んだくれたのかもしれないが、どうでもよかった。

 どうでもいい。生きることも死ぬこともどうでもいいと思えれば、それも自分の成長だと思う。


                           ☆


 十一月の初旬、真崎と牛尾から、いつにも増して酷い罵倒を受けた日の夜。アパートの駐車場に車をとめてから、及川は突然過呼吸になって、まったく動けなくなった。二階までの階段を登っていくのがどうしようもなく億劫で、車から出る気がしなかった。

 過呼吸が収まると、後部座席に移って横になった。昼から何も食べていないが、腹は減っていなかった。

 おそらく、あの工場はもう限界だ。どこか別の働き口を探して、一から出直すしかない。今までもずっと、そうしてきた。だけど、それももう、限界に来ている気がする。

 辞めたところでどうなるものでもない。こんな自分がまともにこなせる仕事など、この世のどこを探してもありはしないのだ。

「俺だって・・・俺だって、頑張ってるんだ」

 努力が足りないと人は言う。だが、違うのだ。自分は頑張って頑張って、この結果なのである。それを周りが理解してくれない。まったく配慮してくれない。

「わからない。人の気持ちがわからない。考えられない」

 愛されない、ということは、能力のなさ以上に、生きづらさへと繋がる。気の利いたジョークも、世辞の一つもいえない。無意識のうちに、人の気持ちを逆なですることばかり言ってしまう。年を重ねるうち、見た目もすっかり醜怪に変貌してしまった。

「俺・・・もう無理だ」

 今思いついたわけじゃない。ずっと前から、考えていたこと。サラ金からできるだけ借金して、一時間六万円もする高級ソープに何度も行ってから、断崖絶壁のガードレールに突っ込んで死ぬ。

 コンビニで握り飯を万引きして、わざと捕まることも考えた。路上生活を始めることも考えた。だが、ムショに入ったところで、ホームレスになったところで、仕事からも、人からも逃げられないと知って諦めた。すべての抑圧から解放されるためには、もう死ぬしかないのだ。

 死。死、死死死死―――。

 やめておこう。仕事ができないくらいで死ぬなんて、やっぱり馬鹿げてる。自分の悩みは、死ぬほどじゃない。ハラキリ、殉死、特攻、大昔から自殺大好きのこの国では、大した悩みじゃなくても死ぬヤツは山ほどいるが、自分はそれほど、死を美徳と捉えていないのだ。

「俺、俺どうしたらいいんだろう・・」

 四十を過ぎたあたりで、考えるのをやめたはずだった。でも、それじゃダメだと気づいた。もう一度、ちゃんと考えてみないと、もう死ぬしかないところまで追いつめられていた。

「どこで道を間違えた?なにを仕事にしていれば、まともに生きることができた・・・?」

 自分が唯一、生きているのを実感できるのは、車を運転しているとき。好きで何十年も乗っている。運転だけは、人並み以上にこなせる自信がある。

 好きを仕事にしなかったのは、仕事で嫌な思いをしたら、好きな車も嫌いになってしまいそうだから。好きな車に乗るために、やりたくもない仕事をするしかなかった。

 どうせ手先の仕事をするなら、最初から大工か何かを目指していればよかった気もする。

 そういえば、山口の父親にもよく言われていた。

 見てくれも悪い。かけっこも遅い。頭もいいとこない。お前のようなヤツは、堅実に手に職をつけ、脇目も振らずに一つのことをやり続けるしかない。 

 若いころは、酷いことをいうオヤジだとばかり思っていた。自分の息子に、何も取り柄がないとわかっているのなら――そんな選択肢の少ない人生しかないと思うのなら、どうして自分を作った?

 父親に反発する形で、なんでもやってやろうと思って社会に出てみたが、結果的には、父親の言う通りになってしまった。

 職人の道――父親の言う通りにしていたら、違った道が開けていたのだろうか。こんな自分でも、脇目も振らず、何か一つのことをずっとやり続けていたら、誰かに必要とされ、一つのところにずっと納まれていただろうか。嫁さんももらって、人間らしい暮らしを送れていただろうか。

 父親の言い方が悪かった。もっと違った勧め方をしてくれたら、素直に職人になっていた。

 ずっと人のせいにし続けるのか?

 七十二歳。年金だけでは足りず、貯金を切り崩しながら生活していた父親は、この夏から警備員として働き始めた。これまでずっと、繋ぎのときには実家を頼っていたが、それも難しくなってきた。

 失業保険、生活保護。仕事が見つからなかったとき、食うための方法だけなら、いくらでもある。しかし、食っていくことと、生きることは違う。

 及川にとっての現実的な死は、車を失うことである。及川にとって、車は武士の刀。もう二万キロも走った中古のオンボロ車。しかし、無銘だろうが錆び付いていようが、刀は刀。車を失うのは、死ぬことと同じ。車を失わないために、できる限り、今の職場にしがみ付いていなければならない。

 無い頭で考えろ。できるだけシンプルに考えろ。

 自分が生きる唯一の理由は車。車に乗り続けるためには、手先の仕事をしなければならない。手先の仕事をするなら職人になれ。

――僕らは職人じゃなく、作業員なんですから。

――あいつらのやっていることは、宗教なんですよ。

 耳に残っている冷めた言葉を、全力で排除しろ。

 宗教の何が悪い。食い詰めて、生き場をなくした人間が最後にすがるものは宗教ではないか。

 お前のように、飄々と世渡りができれば苦労はしない。自分のような不器用な人間がまともに生きていくためには、それなりに不格好な真似をしなければならないのだ。

 寺井の言うことが正論だとしても、非正規のハケンにとっての正論は、非正規のハケンも務まらない自分には当てはまらない。

 ド田舎の、ケチな食品加工工場での人間関係に、あたかもキリストと使途のような崇高な結びつきを求めている男がいる。中学生でもできるライン作業で、本気で自己実現を目指そうとしている男がいる。自分が生きる唯一の道が、宗教であり職人ならば、このタイミングで、あの伊達巻のラインに戻されたことは、神の思し召しではないか。

 伊達巻ラインの連中に気に入られるために、最大限の努力をする。

 師匠。呼び方ひとつで、人の見る目が大きく変わることもある。

 師匠。もしかしたらそれが、自分の人生に、一番必要な存在だったのかもしれない。

「俺、ここで終わりたくない。車、手放したくない・・・」

 身の振り方を決めると、急に食欲が湧いてきた。車を出て部屋に入り、買い置きのカップラーメンを食べて腹が膨れると、すぐに眠気が襲ってきた。万年床に倒れ込み、泥のように眠った。


                            ☆


「真崎師匠!牛尾師匠!私・・・私には、わからないことが沢山あります。どうか、教えてください」

 翌朝、出勤してから、及川が開口一番放った言葉に、真崎と牛尾は呆気に取られていた。

「さあ、仕事を始めましょう!牛尾師匠!この、この作業をこうやるには、こう、これをこうした方がいいでしょうか?」

「なんだよ急に・・。なに言ってるか、わかんねえよ。お前はとにかく、言われた通りにやってくれればいいからさ・・・」

 及川の豹変に、真崎と牛尾は引き気味であったが、それが二、三日も続くと、次第にその熱意にほだされていったようだった。

「信さん。どうも、こいつの決意は本物みたいです。最初は期待してなかったんですが、どうやらモノになりそうですよ。いっちょ俺たちで、鍛えてやりましょうや」

 その日から、順調・・といえるのかはわからないが、少なくとも、及川の人生には今までなかった、暑苦しくもハリのある日々が始まった。
 
「なあ及川さん。こうやって理屈じゃなく、泥のようになって働くってのも、結構いいもんだろ」

「え、ええ・・・そうですね」

 真崎の言う通り、無心に汗を流すというのも、悪くはなかった。

 これまでの自分は、ない頭で余計なことを考えすぎていたような気がする。人ひとりが生きる上で必要な情報など、たかが知れている。ネットもテレビもなかった時代でも、人はちゃんと生きていたではないか。

 必要以上に情報を集めても、使いこなす頭がなければ、ただの娯楽にしかならない。井の中の蛙――視野を狭くし、目の前のことだけに夢中になる生き方は、自分にうまくハマっているかもしれなかった。

「俺は及川さんや牛尾くんと、このラインで一緒になれたことは、けして偶然なんかじゃないと思ってる。辛いことがあったら、何でも相談してくれ。ここが及川さんの居場所だから」

 師匠――真崎と牛尾のことを、全面的に好きになれたわけではない。いつまで経っても馴染めないのが、いちいち芝居がかった言動である。

「俺を師匠と呼ぶからには、及川さんも、ようやくわかったのかな。この職場で誰についていったらいいか、誰を目標にしたらいいかが」

「及川ぁ、お前最近仕事のとき、俺のことじーっと見てるよな。俺の動き、参考にしようと思ってるんだろ?」

 いかにも他人のことを思っているようだが、彼らが結局言いたいのは、「俺を見てくれ」なのである。承認欲求が悪いのではなく、それが透けて見えるのが嫌なのだ。

「及川さんも俺たちみたいに、この工場で仕事ができると認められれば、どんどん人の輪が広がっていくぞ。俺たちが仲良くしている社員さんたちは、みんなすごい人たちばかりだ。性格もあるから、みんなと話せとは言わないけど、俺たちとの関係は大事にした方がいいぞ」

 本当に交友関係が充実している人間は、それを誇示したりしない。いかにも対等のように言っているが、実際には社員にゴマをすっているだけで、寺井の言うように、いいように利用されているだけなのだろう。彼らも本当は、寂しい人間なのだ。そのように思えば、多少の不快感は我慢できた。

 似たもの同士の割に――似た者同士だからそうなるのかもしれないが、真崎と牛尾はプライベートでの交流はなく、職場の中でも、一定の距離感が存在するようだった。彼らが常に傍に置きたがるのは、もっぱら、確固とした自分を持っていない、自分の好きな色に染められる人間である。

「及川ぁ。お前、今度の水曜空いてるか?」

「え?ええ。まあ・・・」

「そうか。じゃあ、ちょっと俺に付き合えよ。お前に、職場にいるときとは、また一味違う俺を見せるからよ」

 プライベートの誘いを受けたのは思い出せないほど久々のことだったが、なぜか、嫌な予感しかしなかった。あとでそれが、牛尾とパチンコを一緒に打つ誘いだったときいて、嫌な予感は当たっていたことがわかった。

                             ☆


 その牛尾が、十一月の半ばに入ったころ、突然、風邪でダウンした。朝、及川が待機所に顔を出したとき、ロングソファに牛尾が横たわり、みんなに自分の苦し気な姿を見せつけるように、うんうん唸っていたのである。

「そんな状態じゃ、とても仕事は無理だろ。誰かに言って、家まで車で送っていかせるから」

「いえ、そんなことしていただくわけにはいきません。タクシーでも呼んで、一人で帰ります。会社に迷惑はかけませんから」

 総務の部長に心配され、声をかけられる牛尾は、どこか誇らしげである。

 立つこともままならないほど具合が悪いのなら、朝、家を出る前の段階で異変に気付いていただろうに、わざわざ衛生面が命の食品加工工場に、風邪の菌をばら撒きにやってくるとは。会社に無駄なやる気をアピールするためのパフォーマンスであることは、及川にもお見通しだった。

「ほんとにバカですね、あのラリゴは。バカのくせに風邪引いてんじゃねえよ」

 倒れた牛尾の代わりに、伊達巻のラインに応援に行かされた寺井は不満たらたらである。

 それでも、牛尾が帰ってくるまでという条件で、我慢して働いていた寺井がとうとう爆発したのが、朝のミーティングで、真崎がノルマの遅れを取り戻すため、昼休みを十五分削って「サービス昼残」をするのを決めたときのことだった。

「別に、あなたがやるのは勝手ですけど、僕は関係ないですからね。時間外手当が出るならまだしも、無給で働くなんて、どうかしてますよ」

「そういうわけにはいかん。前が止まれば、後ろに材料が回らなくなるんだから。いまは伊達巻の作業者なんだから、やってもらわないと困るよ。喋っている時間ももったいないから、とにかくやってくれ」

 寺井は真崎に食ってかかったが、真崎は強気の態度を崩さず、話し合いにも応じなかった。

 昼休みに入ると、寺井は持ち場である前工程を離れ、中工程の及川のところにやってきて、ともに真崎に反抗することを持ちかけてきた。

「あのクソ野郎、正社員の話が出てるからって、上にアピールしようと張り切りやがって。誰のおかげだと思ってやがる。及川さんは納得してるんですか?嫌だったら、一緒に派遣会社に報告しましょうよ。僕はラリゴが戻ってきたら抜けられるけど、及川さんはずっと真崎のオナニーに付き合わなきゃいけないんだから」

 真崎が、正社員に?ならば、真崎に気に入られれば、この工場での自分の立場は保障される。及川は、自分を味方だと思ってボヤく寺井の前に、ずいと歩み寄った。

「文句があるなら、やめてしまえ・・・お前の代わりなど、いくらでもいる・・」

 よもや、及川に上から目線でモノを言われるとは思っていなかった寺井が目を丸くした。

 虎の威を借る狐の快感。寺井は真崎を虎とは思っていないだろうが、少なくとも、いま、この伊達巻のラインの中では、正義は自分にあるのである。

「ああ。及川さん、そっち行っちゃったんですね」

「やる気がないなら、帰っていいぞ。理屈ばっかりで、使い物にならないヤツはいらないからな・・・」

「はいはい、わかりましたよ」

 及川の言葉が効いたのかわからないが、寺井は苦笑して前工程に戻り、ほかのラインの連中が続々と食堂に引き上げていく中、黙々と作業に取り組み始めた。

 それからは目立ったトラブルもなく、寺井も牛尾の穴をよく埋めてくれているようだったが、寺井が来てから四日目のこと、問題となった「サービス昼残」の真っ最中に、事件が起きた。

 産休で工場を休んでいた、真崎の妻、志保。非正規の派遣社員で、若くもないのに子供なんか作って、これからどうするんだろうと思っていた志保が、及川が担当する中工程の機械に歩み寄ると、突然、胸元をはだけ、パンパンにはった乳房――ちょっと垂れているけど、ミルクが詰まって、痛そうなくらいはった乳房を、ポロンと露出させたのである。

 女の乳。風俗以外で初めてみた、女の生乳。乳、乳、チチチチチチチチチ・・・。おっぱいだけでも刺激が強いのに、乳首の先から、真っ白な母乳がぴゅーっと噴き出して、伊達巻の上にかかっちゃって・・・。

 人はあまりに強いショックを受けると、一定期間、記憶が途切れたようになってしまうことがある。でも、これはショックの質が違う。今、目の前で起きてる光景は、何がなんでも目に焼き付けておかなくてはならない。尊敬する師匠の妻の乳。だが、関係ない。もっと間近で見てみたい。できれば、どさくさに紛れて、揉んじゃったりなんかしてみたい。

 優柔不断は、及川の重大な欠点である。及川が志保の乳に手を出せず、うじうじしているうちに、夫の真崎がやってきて、妻、志保のはだけた胸を隠すと、中工程の機械を止めて、志保を休憩室へ押しやってしまった。もう二度とみられないかもしれない、貴重な生おっぱいを、持っていかれてしまった・・。

 作業場に帰ってきた真崎は、志保のミルクがかかったとおぼしき材料を片っ端から取り除き、廃棄のゴミ箱に捨て始めた。すでに昼休みに入ってから三十分が経過しており、寺井はとっくに食堂に引き上げていた。

「あ。あ。真崎師匠。だ、大丈夫なんでしょうか」

「わからん。さすがに、昼から流した分、全部廃棄にするわけにはいかないからな。あとはもう、幸運を祈るしか・・・。及川さんにも迷惑をかけて申し訳ないが、この件は見なかったことにしてくれないか。俺だけじゃなく、工場で働くみんなのために、頼む、どうかそうしてほしい」

 工場で生産された製品は、出荷前にもう一度検査を受け、異物や菌が混入していないかが確認される。成分から、伊達巻に人の母乳がかけられていたかどうかまで分かるとは思えないが、もし、コトが公になれば、真崎の正社員の話がなくなることは明白だった。

 検査の段階で問題が発覚すればまだいい方で、もし、不良品が市場に出回ってからすべてが明らかとなった場合、事件は全国ニュースで大きく取り上げられ、工場は最悪、閉鎖となる。

 もはや、及川の関知できるレベルを超えている。真崎の言う通り、すべて忘れ、なかったことにして、今まで通り、普通に勤務を続けるしかないようだった。

「お、おい、寺井。もっとしっかりやれ・・。牛尾師匠は、そんなんじゃなかったぞ・・」

「はいはい、叱咤激励ありがとうございます、及川先生」

 志保の狂態について、寺井は何かを知っている様子だったが、敢えて詮索はしないことに決めた。生きる上で必要のない余計なことは、知らないに限るのである。

「及川さん、最近絶好調みたいですね~。はんぺんのラインのときとは大違い。よっぽど、真崎さんと牛尾さんが大好きなんですね。ラブラブなんですね~」

 及川が伊達巻のラインに受け入れられたことは、岡本涼子などから見ると、賞賛ではなく、むしろおかしなことのようだったが、嘲笑を受けたところで、痛くもかゆくもなかった。

「お、おお、涼子殿。あ、あの頃は、お主とは口を利くのもおこがましいと思っていたが、い、今は同じ仕事に誇りを持つ者として、対等の立場だ・・・。お、お主のラインには、負けませんぞ・・・」

 及川のその一言で、嫌味を言いに来たらしい涼子は、及川を、全裸で歩き回る変質者を見るような目で見て去っていった。

 バカな小娘。自分がやられっぱなしで何もできない無能者だと思ったら大間違いだ。お前がいくら見下そうが、こっちは、脱衣所から密かにくすねてきた、お前の使用済み衛生服を持ち帰って、夜ごとの慰みものにしているのだ。 


                            ☆


 志保の一件があってから、とくに不良が出たという報告もなく、何事もなかったかのように、時は過ぎていった。強いて変わったことを上げるとしたら、かつてはんぺんのラインで一緒だった、塚田の様子がおかしくなっていったことだろうか。

「おう、たけおか。うんうん。今?元気でやってるよ。お前の方こそどうなの?そうか。じゃ、今度、久々に会ってみるか」

 塚田はいつも待機所や食堂で、誰かに電話をしているようなのだが、それが傍目から見ても明らかに、通話状態になっていないスマホに話しかけているだけの、嘘の電話とわかるのである。

 及川も、近頃の塚田が、かつて仲良しだった、寺井や村上、あるいは真崎たちと、うまくいかなくなっているのは知っていた。真崎との関係に関しては、どうやら自分が一つの原因らしいのだが・・。

 嘘電話をする理由は、おそらく、自分が孤独ではない、自分を心配してくれる人は何人もいるんだと、周囲に、そして自分自身に証明することが目的だろう。塚田の電話が嘘であることは、及川でさえ気づくほどバレバレなのだが、みんな、敢えて気づかないフリをしてあげているようだった。

「あ。林常務。ええ、元気にやってますよ。え?こんど、正社員の枠がひとつ空くから、こっちに来ないかって?そ、そうですか。でも、今の工場も、これから繁忙期で大変になるもんで、自分がいないとラインがまずいことになるんですよ。はい。はい・・考えてみます」

 まだ若いし、派遣でいいなら仕事はいくらでもあるのだから、こんな、親が見たら泣いてしまうような恥ずかしいパフォーマンスをするくらいなら、さっさと辞めて次に行けばいいではないかと第三者は思ってしまうのだが、工場の友達関係をモチベーションにしていたらしい塚田には、引くに引けない事情があるのかもしれない。

 本人が聞いたら怒るだろうが、今の塚田の姿に、及川はどこか親近感を覚えていた。

 唯一の生きがい、車を守るために、尊敬してもいない男を師匠などと呼んで。言われたことだけやればいいライン作業で、職人の真似事をして。ただの同僚のご機嫌を取るために、行きたくもないパチンコに付き合う約束をして。

 こんな工場にしがみ付くために――生きるために自分を捨てて、本当の自分が何なのかわからなくなっている。今の塚田と自分は、よく似ている。

 いつまでこれが続くんだろう。俺たちはいったい、どこに行くんだろう。


                             ☆


「牛尾師匠・・・・あの、私、なにかしましたしたでしょうか・・」

 倒れた翌週から、勤務に無事復帰した牛尾は、かなりご機嫌斜めな様子だった。

「・・・・お前、待機所で俺が倒れてるとき、全然心配してなさそうだったよな。声もかけてこないし。お前あのとき、俺があのまま死ねばいいと思ってただろ?」

 牛尾の面倒くささは呆れるほどだったが、「弟子入り」から一か月あまりで、及川もこういう場面の切り抜け方を学習している。

「いえ、あの、その、普段はキャップを被って、衛生服を着ているので、あのときは、誰かわからなかったんですよ。あとで真崎さんから詳しいお話を聞いて、すごく心配しましたよ」

 男気を売りにする真崎と牛尾の下で培われたのは、言い訳のうまさだけであった。

「・・・まあいい。ところで、お前、今度の予定は覚えているか?」

 牛尾と一緒に、パチンコ屋に行くという予定のことである。

「あ、あの牛尾師匠・・。自分はパチンコは数えるほどしかやったことがありませんし、今月もカツカツなので、一円ぱちんこで勝負をしたいんですが・・・」

「なに?お前本気で言ってる?一ぱちなんて、暇なおばさんがやるヤツだろうが。まあいい。等価で勝負に出る前に、一ぱちで徐々に勝負勘を養っておくというのもありだろう。じゃあ、今週の水曜日な」

 本当は、適当な理由をつけて逃げたかったのだが、ゴリラを怒らせると後が怖い。この男の胴間声は、耳元でカンカン鐘が鳴らされたように響くのだ。

「及川さん、牛尾くんとパチスロに行くんだって?いいなあ、大事にされてるなあ」

 他人事だと思って、真崎が呑気に言う。そんなにいいと思うなら、代わりに行ってほしかった。それか、牛尾にもう一度、熱を出して倒れて欲しかった。

 熱出て倒れろ、熱出て倒れろ、熱出て倒れろ――。

 及川の祈りもむなしく、牛尾はピンピンしたまま、当日の朝はやってきてしまった。
                         
                          ☆

「あ~、激熱予告外して、お前も引き運が弱いねえ」

 パチンコを打ち始めてから数時間、食事から帰ってきた牛尾が、及川の傍を通りがかって言った。
 
 打つ台も離れ、昼も別々。これで一緒に行く意味があるとは思えないのだが、牛尾にとっては、とにかく同じ日に、同じ予定を消化したという事実が重要らしい。

「ところでさ・・・。お前、ヤニは吸わねえのか?」

「は?」

「前から気になってたんだけどよ。お前、タバコ吸わねえから、十分休憩のとき、喫煙所にいる俺と信さんと喋れねえだろ。今時タバコなんて、時代の流れに逆らうから、無理に勧めるわけじゃねえけど・・・。お前は、それでいいのか?」

 金もかかるし、時代の流れにも逆らう。おまけにみっともないし、周りに迷惑もかける。敢えてそれをすることで、連帯感を確かめ合おうとする人種がいる。牛尾の思考は、一昔前の暴走族と大差ない。

「か・・買ってきます」

 断れば、陰湿なイジメが待っている。牛尾は及川の自主性に任せる風に問いかけているが、事実上、選択肢はないのだ。

 牛尾からタスポを借りた及川は、自動販売機の前に立って愕然とした。いまは国産の安いタバコでも三百円近く、海外産となると四百円を超す。自分が二十歳のときに比べ、倍近くも増額している。手取り十五万の派遣労働者が、こんな価格で、依存性もある嗜好品に手を出すのは、狂気の沙汰としか思えなかった。

 タバコを吹かしたせいでべとついた口の中を流すのに、飲み物が必要になる。飲み物だけでは腹の中がガポガポになって、お菓子が食べたくなる。バカモノ同士が連帯感を確かめ合うために、金がどんどん消えていく。

 頃合いを見計らって切り上げなくては、破産してしまう。及川は、大当たりを二、三度引いて出した玉を使い果たしたところで、台からカードを抜き、パチスロのコーナーで渋い顔をしている牛尾のところに向かった。

「あ、あの牛尾師匠・・・。自分、予算を使い果たしてしまいましたので、今日はこれでお暇させていただいて構わないでしょうか。明日の勤務のため、少しでも休んでおきたいのもありますし・・」

「あ?まだ昼過ぎじゃねーか。まあいい。初めはこんなもんだろ。じゃあ、帰ってゆっくりしとけ」

 牛尾から解放されて、スバル・プレオに乗り込んだ及川は、恐る恐る、財布の中身を確かめてみた。千円札が二枚、百円硬貨が三枚。十円、五円、一円がたくさん・・・。持ち寄った予算の五千円から、どうにかこれだけの損害で収まった。

 しかし、牛尾の口ぶりでは、おそらくこれから何度も、パチンコ屋に連れていかれることになるのだろう。たまには勝つこともあるかもしれないが、長い目でみれば負けが込んでいくはずだ。

 毎週水曜日、パチンコ屋に行かなくてはならないとして、月単位でいったいどれだけ金が消えていく?大損をしてしまったら、それを取り返すために、どれだけ働かなくてはならない?

 真崎に言われた通り、無心になって働くのも、意外といいものだと思ったのは事実だった。しかし、それは会社に拘束されている時間だけの神話なのだ。帰りにコンビニに寄って、ATMの預金残高をみれば、たちまち現実に引き戻される。

 こんなことをして、本当に車を守り抜けるのだろうか。しばしの間、倹約で乗り切り、新しい仕事に移った方がいい気がしてきた。でも、どうせ次の職場でも、同じようなことの繰り返しになるのなら、せっかく受け入れられている今の環境を大事にした方がいい気もする。

 頭がごちゃごちゃする。考えなくちゃいけないのに、考えられない。考えたくない、考えられない、考えたくない・・・。

「ああ~」

 今日はもう、これから頭も体も使わず、ずっと、布団に包まっていよう。その方が、腹も空かなくて済む。

 これでいいのだ。たぶん、これでいいのだ。少なくとも、これまでよりはずっと、マシなのだから・・・。


 
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プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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