第二章 201×年 九月~十一月 基地外シンドローム




 見えない軍隊が、また押し寄せてきた。


 十年前とは比べ物にならないほど、強大に膨れ上がった軍隊が――。



 LINEでのやらかしはまったく酷かったが、塚田が送った、あの独りよがりなメッセージを、寺井は大人の対応で流してくれた。その後、寺井はあの件を蒸し返したりもしなかったし、周りの人に言いふらしたりもしなかった。

 周りの環境も、中学のころとは違っている。自分より年上で、ずっと社会経験のある人は、十年間、無菌室のような部屋に閉じこもって暮らしてきた塚田と違い、変に潔癖ではない。塚田のような若造が、ちょっとくらい痛いメッセージを送ったところで、過剰な反応にはならないものだ。

 だから塚田も気にすることなく、自然体で今まで通りに過ごしていれば良かったのだが、一度狂い始めた自分の歯車を修正する作業は、容易ではなかった。あのやらかし以来、どうも「基地内」のみんなと話すとき、肩の力が入りすぎて空回りに終わってしまったり、逆に、おっかなびっくりになり過ぎて、うまく自分をアピールできない、といったことが増えていった。

 あのLINEでのやらかし以来、寺井だけでなく、「基地内」みんなとの関係が、塚田にとって、面白くない状況になり始めていったのである。

「信一さん。志保さん、とうとう赤ちゃん生まれたんだってね!今週末、会いにいっていいかな。僕にも、抱かせてくれるよね?」

 十月の半ば、産休中の志保が、予定日より早く、元気な男の子を産んだという連絡が入った。

 新たな生命の誕生。喜ばしいことのはずなのだが、信一はどこか浮かない顔で、自分からはけして、赤ん坊の話をしようとしない。

 信一が志保の出産を、手放しで喜んではいないのは明らかだったが、赤ん坊が生まれたという大ニュースを話題にしないわけにもいかない。塚田としては、何の悪気もない、純粋な祝福のつもりだった。

「ねえ信一さん。こんどの休み、病院にいってもいいかな」

「・・・・・・・」

 このあたりで、信一の気持ちを察してやればよかったと思う。塚田も、まったく空気が読めなかったわけではないのだが、それ以上に塚田は、志保と、産まれた赤ん坊に会いに行きたかった。好きな信一も一緒に、幸せの輪に包まれたかった。

 己の我を通してしまったせいで、大事な信一との間に、罅が入ってしまった。

「赤ちゃんの名前、信一さんから一字とって、信也くんっていうんだよね。いい名前だね」

「うるさいんだよ!赤ん坊のことは、言うんじゃない!」

 これまで、見たことのない信一の剣幕に、塚田はたじろいだ。いくら空気を読まなかったといっても、目出度いことを話題にしたはずなのに、なぜこれほど怒られねばならないのか理解できず、戸惑った。

「ご、ごめんなさい。赤ちゃんのことを言われるのが、そんなに嫌だとは知らなかったんだ・・」

「いや・・。こっちの方こそ、すまなかった。ちょっと、疲れてたんだ。本当に、悪かった。気にしないでくれ・・」

 信一はハッとして謝ってくれたが、これ以来、塚田はどうにも、信一に自分からは話しかけづらくなってしまった。信一の方も、連日の激務の影響もあってか口が重くなり、難しい顔をしてため息をついてばかりということが増え、志保がいなくなって、信一と二人きりで過ごすようになったランチタイムで、二人の会話は続かなくなっていった。

「すいません、俺も一緒にいいっすかね?これまで昼一緒だった武田さんが、最近、夜勤に移っちゃったもんで・・・」

 塚田と信一が盛り上がっていないのを見てか、信一と同じ伊達巻ラインの牛尾が、食事の席に割り込んでくるようになったことが、塚田と信一の気まずさに追い打ちをかけた。

「信さ~ん、昨日バイパス沿いのホールでモンスターハンギング4打ったら、五万勝っちゃいましたよ」

「へえ。モンスターハンギング、4まで出てたんだぁ。いいなあ、俺も打ちたいなあ」

 信一も独身時代にはスロットにハマっていたクチのようで、牛尾と話すときは、塚田と話しているよりも楽しそうである。

 胸の奥にジワリと湧き上がってくる、酸味の強い感情――嫉妬。

 これまで自分に構ってくれた信一を、牛尾に取られてしまったのが悔しかった。それ以上に、蚊帳の外に置かれた塚田を、信一がまるで気遣ってくれないのが辛かった。

――哲太。俺はお前を、実の息子か、年の離れた弟のように思っている。だからお前も、俺になんでも相談してこい。俺がそう言ってたって、寺井にも教えてやれ。

 塚田が何度目かに信一と行った食事会で、信一がかけてくれた言葉。

 少し前まで、自分の家族以外に、自分を必要としてくれる人はいないと思っていた塚田は、信一の言葉がうれしかった。あのときの言葉を、塚田はずっと信じていたのに、いまの信一は、塚田にまるで無関心かのようである。

 嫉妬――いきなり現れ、塚田を悩ませるようになった厄介な感情と、塚田はまともに向き合うのを避けた。

 塚田は、信一と仲良くできなくなって寂しいから、信一にこれまで以上に積極的に話しかけたり、自分から遊びに誘ったりするのではなく、自分は一人じゃないんだ、信一が構ってくれなくても平気なんだと自分に言い聞かせ、周囲にもそうアピールしようとした。幸か不幸か、現代社会には、塚田の目的にピッタリなツールがあった。

 信一と牛尾が楽しそうに話している横で、塚田はスマホの画面をずっとのぞき込む。スマホを見ていれば、自分は誰かと繋がっていると、周囲に思わせられる。誰かに思わせることができれば、自分にも言い聞かせられる。

 むろん、亀の子のように守っているだけで、自分から攻めていかないのでは、状況は好転するはずがない。

 十一月に入ると、信一とランチを一緒に取るのは、完全に絶望的となった。塚田から信一を奪った牛尾に加えて、同じ伊達巻ラインの及川までもが、信一と同じテーブルで食事を取るようなったからである。
 
「及川さん、最近気合入ってるじゃないか。作業はまだまだだけど、気合さえあれば、社員さんにも、この人は必要な人だと見てもらえる。年末までその調子でいけば、来年もここにいられるぞ」

「真崎師匠!師匠・・・ありがとう、ございます」

 信じられないことに、「基地外」及川は、いつの間にか伊達巻のラインに馴染んでいた。及川は同年代の信一や、年下の牛尾を師匠などと呼び、仕事だけでなく、生活のことや、人生全般における心構えについても、指導のようなものを仰いでいるようである。

「牛尾師匠!私はラインでの動きをよくするために、今日から食う米の量を減らそうと思います。炭水化物は、太る原因ですから」

「その心がけは立派だが、飯はちゃんと食っておけ。身体を絞れば動きのキレは良くなるが、無理な減量はスタミナを奪う。心配しなくても、これから年末に向けてますます仕事はキツくなっていくから、体重は勝手に落ちていくさ」

 背伸びした高校生のような、変な会話。塚田も工場の仕事には誇りを持っているが、いくらなんでも、食品製造のライン作業者が、プロのアスリートみたいな話をしているのはおかしいことくらいはわかる。

 いくら話し相手が欲しくても、「基地外」とランチタイムを過ごすなどはあり得ない。とうとう塚田は、信一と離れたテーブルで食事を取るようになってしまった。                             

 食堂という大海原で、ゴムボートから投げ出されてしまった塚田に、救助の手を差し伸べてくれる人はいなかった。

 信一と気まずくなったのと時を同じくして、凛が突然、誰にも、何の連絡もなく派遣会社を辞めてしまった。派遣スタッフが「バックレ」てしまうこと自体はよくあることで、寂しくはあるものの、ことさら驚きはしなかった。

 塚田が気になっているのは、凛がいなくなったころから、凛と一番仲良しだった村上までもが、どこかおかしくなってしまったことである。

 村上はもともと、百七十五センチある塚田より頭半分小さいが、体重は八十キロを超す肥満体型であった。それが、凛がいなくなった十月の半ばころからみるみる痩せて、十一月が終わりに差し掛かったころには、待機室の体重計で測って、六十四キロにまで落ちてしまったのである。

「ムラさん大丈夫?どこか、具合が悪いんじゃないの?」

「大丈夫だよ。ダイエットが、予想以上にうまくいったんだ。だから、心配しないで」

 ただ痩せたというだけなら、そこまで心配はしない。

 不気味なことに、村上は身体が萎んでいきながら、表情は逆に、生き生きとしていくのである。目は爛々と光って、肌はギトギトと脂ぎっていく。時々、意味もなくにやけているときもある。どこか、これまで村上に付きまとっていた「基地外」端本に似ていくようで、塚田はかつて、凛と村上を守るために、端本を追い出す算段を立てていたことなど、すっかり忘れていた。

 凛はそもそもいなくなってしまい、村上は工場ではまったく食べないため、食事の席には誘えない。

 寺井は寺井で、「基地外」端本と同じ粉ものの倉庫で働いている、七年間同棲中の彼女、希美と食事をとっている。真崎夫婦のようにむこうから誘ってくれたわけでもないのに、事実上の夫婦の水入らずの時間に割って入る図々しさは、塚田にはなかった。

                                ☆

 寺井、村上とは、午前十時と午後三時に挟まれる十分休憩の時間も、うまくいかなくなっていた。
               
「日本シリーズ第四戦での、マカッチェンの三打席目でのポップフライはまずかったよな。あそこでせめて右に打って、ランナーを三塁まで進めていれば、一点入ってたかもしれないのに。あのプレーがシリーズのターニングポイントだったよね」

「いや、やっぱり第五戦の梅宮のスリーランでしょ。梅宮はほんとパワーついたよね。地道にウェイトに取り組んできた成果が出始めてる。やっぱりこれからの野球は筋肉だよ」

 野山は紅く染まり、肌寒さも覚える季節になったというのに、寺井と村上は、相変わらず、プロ野球の話ばかりで盛り上がっていた。

 そもそも野球に興味のない塚田は、これまでプロ野球にはシーズンなんてものがあることも知らず、プロ野球の試合は一年中やっているものだと思っていたのだが、そうではなく、十一月から二月までは、プロ野球は休みになるのだという。

 なのに寺井と村上は、十一月に入ってからも、塚田の存在など、まるで眼中にないかのように、何が面白いのかわからない、マッチョなおじさんが、ボールを投げて棒っきれを振り回すスポーツの話ばかりしているのである。

「村上さん、川村がFAでタイタンズに移籍したらしいね。これでクリンナップを固定できるようになったし、来年は優勝争いに加わるんじゃないの?」

「そこまで甘くないよ。投手陣の整備ができてないし、川村は三部門こそ見栄えはいいけど、四球が少なく三振が多いフリースインガーだから、指標的にはそれほど良い選手じゃないからね。あれに億の金払うくらいだったら、先発ローテの三、四番手クラスを取ってきてくれた方が・・・」
 
 何を言っているのか、まったくわけがわからない。まるで、外国語の会話を聞いているようである。

 凛には申し訳ないのだが、塚田には、凛がいなくなることで、十分休憩の時間、寺井と村上がプロ野球の話をやめてくれるのではないか、という期待があった。一人メンツが減れば、必然、グループの中での自分の相対的価値が上がり、自分に話が振られる機会も増えるだろうと思っていた。

 塚田のあては、見事に外れた。プロ野球のシーズンが終わろうが、凛がいなくなろうが、「プロ野球ブーム」は、まったく終息の兆しを見せなかったのである。

 塚田には、寺井や村上、いなくなった凛らがなぜ、自分の身の回り以外のことで、こんなにも盛り上がれるのかが、理解できなかった。みんなで集まって、ボーリングやビリヤードをするのが楽しいのはわかるが、自分の生活になんの関わりもないプロ野球チームの試合を観ただけで、なぜそこまで一喜一憂できる?

 別に、自分が野球のことを知らず、話に参加できないから言うわけではない。有名選手の名前を覚えたり、基本的なルールを勉強したりと、みんなについていくための努力をしない怠慢を正当化しているわけでもない。本当に、塚田には、食品工場の作業員である寺井、村上、凛が、彼らにとって他人事に過ぎないプロ野球の話でなぜそんなに盛り上がれるのか、まったくわからないのだ。

 一度も話したことのないマッチョなおじさんがホームランを打ったことを話してなんになる?マッチョなおじさんのホームラン数を語り合うより、今日のラインの生産数を話し合った方が、よっぽど有意義じゃないか。そう思うことの、何が間違っている?

「小学校のころにやったゲームがさ・・・」

「新しく入ったブラジルの子、おっぱいおっきくない?」

 寺井と村上も、四六時中、野球の話ばかりしているわけではない。ときには、自分でも参加できそうな話題もある。しかし、蚊帳の外に置かれた期間が長くなりすぎると、いざチャンスが訪れても、うまく話しに入れなくなってしまう。タイミングがまったく掴めなくなってしまうのだ。

「今日からムラさん、新しい仕事を覚えるんだってね。大変そうだね」

「・・・・」

「赤ちゃんとオカマンは、気持ち悪いね。はやく死ねばいいのにね」

「・・・・・」

 といった具合に、塚田が久々に二人の会話に加わろうとすると、空気が変になってしまう。それを気にして、ますます下手なことを口に出来なくなるという悪循環。

 こういうときは、寺井がそれこそバラエティ番組の司会者のように、自分に話を振ってくれなければどうしようもないのだが、次、それを要求したら、塚田の職場生活は終わってしまう。

 会話と同じくらいに、塚田を悩ませていることがある。寺井と村上が、志保が産休に入った日――塚田が一生の恥となる「やらかし」をしてしまった日、塚田が持ってきたクッキーに、十一月になっても、まったく手を付けていないことである。

 それまで塚田は、「基地内」グループのみんなに「たべもの」を持ってくるとき、いつもバラ売りのものを買って配っていたのだが、あのときはたまたま、箱詰めのものを提供していた。

 クッキーは全部で十二個あり、一回の休憩では食べ終わらないのは仕方がない。そのうち誰かがつまんでいくだろうと、塚田は、いつも寺井たちと取り囲むテーブルの上に、余ったクッキーを置いておいたのだが、これを寺井と村上が、ずっと無視し続けているのである。

 クッキーの数が一向に減らないのを見て、塚田は疑心暗鬼に襲われるようになった。

 もしかして、これまで自分が、みんなに「たべもの」を配っていたのは、実はただの、有難迷惑だったのではないか?みんなは、「たべもの」で存在感を示そうとしている自分に配慮して、食べたくもないお菓子を、嫌々食べてくれていただけだったのではないか?

 塚田にも意地というものがあり、自分が正しいと信じてやってきたことを、簡単に間違いだったとは認めたくない。寺井と村上がひとつでも手を付けるまで、塚田は自分でクッキーを消化したり、クッキーの箱を持ちかえることもできなくなってしまった。

 バタークッキー一ダース入りの長方形の紙箱が、段々、巨大な岩の塊のような存在感を放っているように見えてきた。自分で持ってきたクッキーの箱に、プレッシャーをかけられている。よかれと思ってやったことまで裏目に出て、塚田は待機所に自分の居場所がなくなっていくのを感じていた。

 ランチタイムと同様、十分休憩の時間も、塚田はスマホとにらめっこするだけで終わることが増えていた。

 スマホを眺めていれば、自分が孤独でないことを証明できる。LINEやメールで、誰かと繋がっていると、思わせることができる。誰かに思わせることができれば、自分でも信じることができるようになる。  

 職場でそのザマでは、当然、「基地内」のみんなと、プライベートで交流を持つ機会などあるはずもない。

 忙しさがピークを迎える年末が近づき、はんぺんのラインでは、毎日二時間~三時間の残業が始まり、定時で上がることの多い寺井と、河川敷で酒飲みをする習慣はなくなってしまった。

 村上は拒食症になってしまったかのように食べる姿をみせず、日に日に痩せこけていく。とてもではないが、外食や遊びに誘える状態ではない。

 凛は工場を突然バックレて以来、一番仲良しだった村上とも連絡がつかなくなっている。今はもう、この辺りに住んでいるのかどうかもわからない。

 すでに退院して自宅で育児に追われている志保からは、いつでも赤ん坊を抱きに来ていいと言われているのだが、いまの塚田は、赤ん坊の父親である、信一と気まずくなってしまっている。そんなつもりはさらさらないが、信一のいないところで、人妻である志保と会うのは躊躇われた。

 あれほど仲が良く、一体感があったはずのみんなのことが、段々よくわからなくなっていく。

 スマホのデータフォルダに保存されている画像――信一を除く五人でボーリングに行ったときに撮影した集合写真と、寺井を除く五人で、高原にドライブに出かけたときの集合写真。楽しかった思い出。塚田の宝。一生の宝になるはずだと、思っていた。

 築き上げ、大切にしてきたものが、少しずつ崩れ去っていっているのを知りながら、塚田はただ、スマホの画面を眺めていることしかできなかった。

                         
                            ☆
         

「よう塚田くん。今日も残業?」

 十一月のある日、定時のチャイムが鳴り、これから残業に備えて、二十分間の休憩を取るため、棒のようになった足を引きずって食堂に向かおうとした塚田を、寺井が珍しく呼び止めてきた。

「う、うん。寺井さんは、定時で上がるの?」

 寺井から話しかけられたのは、思い出せないほど久々のこと。待ち望んでいた瞬間だったはずなのに、どういうわけか、塚田には嫌な予感しかしなかった。

「ああ。今週は二日間も協力したんだから、もう十分だろ」

 毎日、塚田が帰ったあとも、日付が変わる直前まで残業をしている社員たちが、うつろな目をして通路を横切っていく中、寺井が実に晴れやかな表情、爽やかな声音で言ってのけた。

「今週あと三日間、定時で帰っちゃって、大丈夫なの?ラインの生産数、目標に届いてないんじゃないの・・?」

 塚田が、少し咎める口調で言うと、寺井が侮蔑したような笑みを浮かべた。

「なんでそんなこと、派遣が気にするの?社員がその分残業するんだから、帰りたかったら帰っちゃえばいいじゃん」

「でも、それで納期を割っちゃったらどうするの?」

「知らんよ。知らん知らん。派遣が一人、定時で上がったくらいで納期割るんなら、スケジュールの組み方が悪いだけなんだから。それで工場が潰れたって、僕の責任じゃないよ。あほくさ」

「あほくさって・・みんなが」

 みんなが頑張っているのに、なんとも思わないのか――塚田は口にしかけた言葉を呑んだ。

 自分の考えの勝手な押し付け。「やらかし」の再現だけは、絶対にしてはならない。

 そもそも、寺井の勤務態度が、工場の中でとくに問題視されているというわけでもないのである。

 派遣の中には、寺井のように、毎日残業などしたくない、定時で上がってたっぷり休みたい、という人はいくらでもいる。寺井のように交渉する勇気がなく、帰りたくても言い出せない大人しい人や、押しの強い社員に、したくもない残業を半ば強制されている人は、残業しないどころか、工場を辞めてしまっている。
 
 いくら派遣でも、一日や二日で補充できるものではないし、単純労働といっても、割り当てられた作業を一人でこなせるスキルを身に着けさせるまでは、どんなに短くても一週間はかかる。

 何も言わずに辞めてしまうスタッフに比べれば、当欠や遅刻、早退もなく、週に何日かでも残業に協力してくれる寺井は、工場が日に日に忙しさを増していく今、必要な人材なのだ。

 管理職でもない塚田が、寺井に残業をさせようというのは、ただ、友達が自分と違う考え方をしているのが許せない――寺井を「自分色」に染めたいだけのエゴにしか過ぎないのである。

 塚田の以前のやらかしを、寺井は何も言わずスルーしてくれた。それは寺井が理解のある大人だからだが、その寺井でも、二度目はないと思った方がいいだろう。次、塚田がやらかせば、寺井はもう自分と口をきいてくれなくなるかもしれない。村上や志保にも、自分のイタイところを言いふらされ、みんなから見放されてしまうかもしれないのだ。

「んじゃ、バスの時間来ちゃうから。お疲れ」

 別れ際、寺井が左の口角を吊り上げたのが目に入った。塚田にはそれが、何となく、自分のことをバカにしたように見えた。

 被害妄想――また一つ、新たに厄介な感情が立ち現われ、塚田を悩ませる「見えない軍隊」に加わった。

 ストレスの集合体――近頃勢力を増し、包囲網を徐々に、徐々に狭めている「見えない軍隊」が現れたすべてのキッカケは、寺井へのやらかしだった。せっかく動き出した塚田の止まった時計は、あの日を境に歯車が狂いだし、あらぬ暴走を始めようとしていた。

 寺井、寺井、寺井――寺井の存在が、塚田の頭の中で、悪性の腫瘍のように膨れ上がり、神経を圧迫し始めていた。

 自分が大事に思う人はまた、自分のことも、同じように大事に思わなければならない、と期待してしまう。塚田の宿痾だが、寺井に対してのそれは群を抜いていた。

――やぁ。君、この辺りの人だよね。僕、まだ越してきたばかりでさ。どこか、いい遊び場あったら、教えてくれない?

 工場で、塚田に仕事以外のことで最初に話しかけてくれたのが、寺井だった。寺井と仲良くなったのをキッカケに、寺井と仲の良かった村上、凛、志保とも仲良くなれたし、志保を通じて、信一とも仲良くなれた。

 極端な話、寺井さえいなければ、自分は工場の誰とも親しくせず、ずっと一人で、ある意味気楽な毎日を送っていたかもしれない。人と絆で結ばれる充実はなかったかもしれないが、それを失う不安に苛まれることもなかった。

 河川敷での酒飲みだって、はじめに誘ってきたのは寺井だったのだ。

 ある日、たまたま待機室で寺井と二人になったとき、塚田が、自分はニートの十年選手であったことを、自虐ネタのように話題にすると、寺井はそれにやけに興味を持って、それまで一人でやっていたという、河川敷での酒飲みに誘ってくれた。その日は夜の二十一時まで話し込み、以来、毎週末、二人で河川敷飲みをするのが習慣になった。

 元々はそっちが、僕を必要としていたんじゃないのか?そっちが、十年間閉ざされていた、僕の心のドアを開けておきながら、突然、蔑ろにするなんて、そんなの許されるのか?

 寺井、寺井、寺井――どこにいても、何をしていても、常に寺井の影が付きまとってくる。「基地外」たちのように、最初から嫌いだったわけではなく、もともとは好きで、向こうもこっちを好いてくれると信じていた――「裏切られた」という思いがあるから、タチが悪かった。

「希美さん。あっちのテーブルが空いています。あっちで、一緒に夕食を取りましょう」

 「基地外」端本は、凜が工場をバックレて以降、凜や村上に対するストーキング行為を、パッタリとやめていた。目の前からいなくなったことで、憑き物が落ちたようになったのか、凛のことは口に出すこともなくなり、村上にもちょっかいを出さなくなった。

 代わりに付きまとい始めたのが、寺井の同棲相手、希美であった。昼は寺井と食事を取っているため、近寄ってくることはないが、残業前の夕食の時間になると、端本は、傍目にも明らかに嫌がっている希美にくっつき、強引に一緒のテーブルに座るようになったのである。

「希美さん。あなたは、恋愛について、どう考えていますか?僕は、恋愛というのは、心と心でするものだと考えています。つまり、結婚する前から性的な関係を持ったり、性的なことを話題にするのは、よくないということです。もちろん、援交など、愛してもいない女性と体を重ね合わせるのも、よくないことです」

 希美は、向かいの席が空いているのにわざわざ隣に腰掛け、顔を異常に近づけて、視線を一ミリもそらさずに話す端本への応対に困っているようで、苦笑いを浮かべながら、SOSサインを送るかのように、周囲に視線を飛ばしている。しかし、食堂にいる十人前後のスタッフの中に、希美を助けようとする人は誰もいない。

 派遣は人の入れ替わりが激しく、横のつながりが希薄で、お互いに関心を払わない。「基地内」グループのように、いつも仲が良く、プライベートで一緒に遊んだりする方が稀有なのだ。社員の方も、派遣はすぐいなくなる交換要員という認識だから、派遣同士のトラブルに介入し、わざわざ火の粉を浴びようという物好きはいない。

 この場で希美と多少なりとも義理があるのは、塚田しかいない。希美を助けられるのは、自分しかいない――。わかっていながら、あえて、見なかったフリをした。

 寺井が残っていれば――自分と同じようにしていれば、希美を「基地外」から守ることができたのに、バカなヤツ。

 我に返ったのは、休憩が終わって、端本を先に行かせてから、半分以上残ったサンドイッチをゴミ箱に捨てている希美を見たときのこと。

 猛烈に、後悔した。関係のない希美を見殺しにすることで、寺井へのささやかな復讐を果たしたつもりになっている自分が、たまらなく嫌になった。

 ちょっと前までの自分は、他人を陥れることなど考えなかった。常日頃、世のため、人のためになることがしたいと思っていた。電車で遠くに行くときは、お年寄りに席を譲ることが自然にできていたし、道がわからなくて困っている外国人がいれば、時間を割いても交番まで案内してあげていた。

 だけどその自分は――塚田自身がキレイだと思っている自分は、家庭以外に収まるところがどこにもない、家族以外の誰からも必要とされていなかった自分なのだ。その事実こそが、何より恐ろしかった。

 社会の荒波にもまれて、辛酸をなめれば、社会の欺瞞に気づき、社会を疑うようになる。お年寄りを、若者から生活の余裕を奪う老害と見做すようになり、よその国から頑張って働きに来た外国人を、治安を悪化させ、労働条件をダンピングさせる(詳しいことはわからないのだが、テレビで言っていた)移民だと、白い目で見るようになってしまう。 

 外に出て働き始めて、八か月あまりの月日が過ぎた。規則正しい生活のリズムもできてきて、朝起きるのも苦ではなくなってきた。体力もついた。

 社会人としては成長する一方で、人としては、どこか歪な自分が出来上がっているのではないか。自分が自分でなくなっていく気がして、怖かった。
 
「ごちそうさまでした!!!」

 せめて挨拶だけは、誰よりも大きな声で。

        
                             ☆      

 
 リフレッシュのためにあるはずの休憩で、フラストレーションを抱えたまま仕事に戻る。これ以上ないほどの逆転現象だが、嬉しいこともあった。「休憩のストレスを仕事にぶつける」ことで、以前より速度も正確さも増した塚田の作業を、ラインリーダーの岡本涼子が褒めてくれることである。

「塚田さんが頑張ってくれるお陰で、うちのラインは今月も無事ノルマを達成できそうです。塚田さんが一番の頼りですよ。年末まで、その調子でお願いしますね」

「はい。これからも頑張ります、リーダー」

 人の呼び方にこだわる塚田は、密かに恋心を抱いている岡本のことを、敢えて「リーダー」と呼んでいた。名前ではなく、役職名で呼ぶと、好きな涼子と、職場という戦場で共に戦っている戦士なんだという気持ちになれて、奮い立つことができるのだ。

 仕事にやる気を出して、何が悪い。仕事を頑張ることが、間違いであるはずがないのだ。

 有名なお笑い芸人の人も言っていた。たかが野球の試合なんかに一喜一憂するのは、普段、自分の仕事や勉強を頑張っていない人だ。自分の応援した選手が頑張っているのをみて、自分が頑張ったような気になり、好きなチームが勝つのをみて、自分が勝ったような気になっている。他人に自分の人生を仮託することでしか喜びを味わえない、自分の人生と戦っていない人たちなんだ。

 派遣だろうが、正社員だろうが、関係ない。自分の生活に何の関わり合いもないプロ野球の試合の結果などを気にしているより、自分の目の前の仕事、目の前の人間関係を大切にすることの方が、ずっと大事なのだ。信一の仕切っている、伊達巻ラインのみんなみたいに――。

「及川さん。安全のことだけは、口うるさく言うぞ。あんたがもし死んでしまったら、あんたの親はどう思う?親より先に死ぬのは、最大の親不孝だぞ」

「及川ぁ!少しでも疑問に思ったら、手を付ける前に聞け!取返しのつかないミスをしてからじゃ遅いんだぞ!」

 仕事のことだけでなく、人生訓まで説こうとする信一と、とにかくラインの作業に命を懸ける牛尾。二人の「師匠」に見守られながら、日に日に成長していく及川。平均年齢は高いが、伊達巻のラインは、まるで中学の運動部のようである。

「よそのラインと競争だ!どこよりも早く終わらせるぞ。もちろん、不良は流出させないようにな!」

 いい年したおじさんが、あんな単純作業に夢中になっているなんて、暑苦しいだけだと、冷ややかな目を向ける人もいる――寺井のことだが、それは、心が冷めているからそう思うのである。

 いくつになっても青春ができているなんて素敵じゃないか。初めは塚田も引いていたが、寺井への反発心から、塚田は近頃では、伊達巻のラインを羨ましく思うようになっていた。

「今日も熱血してるねぇ。おじさんたちのライン」

 機械の保全を担当する正社員、伊崎がはんぺんのリーダー机にやってきて、寺井に似た、嘲るような目で伊達巻のラインを見ながら、涼子に馴れ馴れしく話しかけた。

 伊崎渡。塚田は、寺井と同世代の、この正社員のことが苦手だった。

 意地悪というわけではない。威圧感が強く、少しのミスで怒鳴り散らすというのでもない。ただ、この男は、派遣を軽く見ているのである。

 まず伊崎は、派遣の名前を覚えようとしない。名前で呼ぶのはせいぜい、長く勤めている真崎夫妻や寺井のことくらいで、入社から一年も経っていない塚田のことは、ずっと「ハケン君」呼ばわりである。

 名前で呼ばれないと、人として扱われていないような気がする。工場の機械と同じ、取り換えの効くモノ扱いされているようで、いい気がしない。

 派遣に何も期待していないから、派遣が思い通りに動かなくても、いちいち感情的になったりしない。そういういい面も、あるのかもしれない。でも・・・。

 怒鳴られようが引っぱたかれようが、塚田は自分も工場の仲間の一員だと、認めてほしいのだ。いい仕事をしたときは、上司に褒めてほしいのだ。

 派遣会社の面接のときは、経歴に深く突っ込まれなかったことを感謝したが、働く期間が長くなるにつれ、塚田はみんなに、自分のことを、もっと知ってもらいたいと思うようになっていった。

 もっと、自分に注目してほしかった。髪の毛を茶色に染めたことだって、志保だけじゃなく、もっとみんなに気づいてほしかった。

 自己顕示欲、承認欲求。それが、「やらかし」の件のように、個人に向かう場合は危険なのかもしれないが、社会のためになる仕事で発散しようと思う分には、大いに結構なんじゃないか。誰にも文句を言わせる筋合いはないんじゃないか。

「あれだけやっても、いつまで会社にいられるかもわからないし、ボーナスももらえないのにねぇ。涼子、ああいうの見てどう思う?」

 塚田の思いをぶち壊そうとするのが、伊達巻のラインに向けられる、伊崎の嘲った目なのだ。寺井と同じあの目――同じ立場の寺井が向ける分には、価値観の違いで済むが、正社員の伊崎にあの目をされると、お前と俺は違う人間なんだと見下されているようで、本当に嫌な気分になる。

 涼子は、伊崎と違う考えであってほしい。ほかのすべての正社員に見下されてもかまわないが、好きな涼子にだけは、自分を――派遣を、同じ工場の仲間として認めてほしかった。

「う~ん・・・ちょっと、怖い・・・です」

 伊達巻ラインのテンションに気圧された様子で、伊崎と顔を見合わせながら苦笑いする涼子を見て、塚田の頭の中で、なにかが崩れていった。




                             ☆

 
「ありがとうございました!」

 送迎バスを降りた塚田は、土砂降りの雨の中を、傘も差さずに歩いていく。

――う~ん・・・ちょっと、怖い・・・です。

 寺井に、親し気に呼び合うことを「どうでもいい」と流されたときと同じ、たった一言。本人は悪意なく放った一言でも、それを好きな人に言われれば、心の中に大雨が降ってしまうこともある。

 涼子は、はんぺんエースと呼ばれて浮かれている自分のことも、本当は同じように思っていたのだろうか。ただ、自分のラインのノルマを達成するために、適当におだてて、うまいこと利用しようとしていただけだったのだろうか。

 疑念が、どす黒い雲のように膨らんでいく。

 ハケン・ヒセイキ・タンジュンロウドウ。

 自分の身分を表す言葉が、冷たい雨と一緒に、全身に降り注いでいた。

 もし、信一たちが、涼子と同じ正社員であり、仕事も高度な、管理的な業務をしていたのなら、たとえ涼子の共感を得られなくたって、痛くもかゆくもなかっただろう。小娘に男の世界はわかるまい。そんな言葉も、けして負け惜しみには聞こえない。

 コワイ――塚田がどれだけ伊達巻のラインに憧れたところで、正社員である涼子にとっては、自分の父親のような年齢のおじさんが、中学生でもできるライン作業に熱中している光景は、異様なものでしかないのだ。

 --世間じゃ派遣は悲惨だって言われるけどさ、それは真崎のクソジジイみたいに、頑張っても報われないヤツのことを言うんだ。どうせ報われないんだったら、最初から何も求めなきゃいいし、何も目指さなきゃいいんだよ。僕らは給料が安いかわりに、大して期待もされない気楽な立場。適度に手を抜きながら、時間をやり過ごすことだけ考えればいい。そう割り切れば、世間で言われてるほど惨めなもんでもないんだから。頑張るんだったら・・・・。

 いつか、河川敷で寺井に言われた言葉が、脳裏に蘇る。 

 おそらくその後には、「自分の本当にやりたいことを、家で頑張れ」と続くのだろう。寺井は派遣という雇用形態のままでは、仕事で自己顕示欲、承認欲求を満たすことなどできはしないと諦めている。そもそも、初めから期待してすらいない。派遣で働くのは生活のためと割り切り、家で本当に、自分のやりたい仕事をもらうための努力をしている。

 自分にだって、家でやらなくてはいけないことはある。寺井のように夢があるわけではないが、高卒認定の資格取得や、運転免許の取得などは、とりあえずでやっても無駄にはならないことであり、世間一般からみれば、何のスキルも見につかない単純労働をしているより評価されることだ。

 しかし、このところ残業続きで、家に帰ればぐったりしてしまい、とてもではないが、勉強に時間を割く余裕はない。

 そもそも努力など、人に見せるものではない。余力を残して定時で上がっている寺井が、家でどれだけ頑張っているかも知らず、あんな工場の、誰でもできる仕事を遅くまでやって、寺井が会社に非協力的だなどと憤慨している自分は、ただ、人から褒められたいだけの子供みたいなものなのではないか。

 村上や凛は、すべてを忘れて没頭できる趣味を見つけている。

 世の中の多くの人は、つまらない仕事をして、つまらない日常を送っている。だから少しでも夢を見るために、日常の憂さを晴らすために、世の中の面白いことを探している。世の中の面白い仕事をしている人たちに自分の人生を託して、自分の日常にはない達成感を味わおうとしている。

 世の中の面白いことを共通の話題にして、人間関係が豊かになることもある。寺井や村上が自分の生活に何の関わりもないプロ野球の話で盛り上がることは、つまらない日常を少しでも充実させるために、立派に役に立っている。

 仕事など、人生の一部でしかないのだ。つまらない仕事だから悪いのではなく、つまらない仕事をさも面白い仕事かのように言って、六の力でこなせる仕事に十の力を注ぎこみ、仕事以外の人生を削るのが間違っている。

 正社員でもないのに毎日残業して、一兵卒のくせにラインの生産数なんかを気にして、仕事に打ち込んでいるように見せている自分は、僕は人生を充実させる趣味も見つけられない、自分の世界を持たない、面白みも何にもない男です、と、周囲にアピールしているようなものではないだろうか。 

「や、やあ、はんぺんのエース。雨の中、傘も差さずに歩いてどうした?」

 同じバスに乗っていた及川――近頃、伊達巻ラインの中で認められて、調子に乗っている及川が、後ろから追いついてきて、ずぶ濡れの塚田の顔をのぞき込むようにしながら話しかけてきた。歩速をはやめ、不快な吃音を振り払った。

 ハケン・ヒセイキ・タンジュンロウドウ――。自分の境遇の現実がわかると、これまで、偉そうに、人を「基地内」「基地外」などと寄り分けて、できない人を見下していい気になっていた自分が、とてつもなく惨めに思えてきた。

 及川や端本も、時給は自分と同じ、一一〇〇円。たかだか従業員四十名程度の工場でどう見られようが、世の中全体からみれば、同じ「ハケン」ではないか。

 ハケンという存在そのものが「基地外」なのか?いや、そうじゃない。

 ハケンはハケンらしく、正しく生きていれば、決して、世の中の負け組にもならないし、底辺でもない。伊崎や涼子のような正社員に、笑いものにされることもない。

 ハケンらしい生き方とは、自分の本当の生きがいを他所で見つけてくること。仕事は金を稼ぐためだけと割り切り、残業は程々にして、空いた時間で、スキルアップのための努力をしたり、夢中になれる趣味を楽しむこと。

 その生きがいが、自分にはないのだ。まるきり、影も形も存在しないし、どうやって探していいかもわからないのだ。

 はんぺんラインのエースと、みんなから褒められる自分――大丸食品工場の八か月間で得たものを失ったら、自分には何も残らない。同世代が高校、大学専門学校、社会人、とキャリアを積んできた十年という期間、自分の身になることを何もしていなかった自分には、あの工場の仕事以外、なにもないのだ。

 自分の生き方が間違っていたとして、じゃあどうすればいいのだ。誰が教えてくれるというのだ。

                 
                           ☆


 その日の夜は、悪夢にうなされた。

 河川敷かどこかのグラウンドで、寺井、村上、凛、涼子が、なぜか野球のユニフォームを着ている伊崎を取り囲んで、サインをねだっている。特に熱心なのは涼子で、ファンというよりも、発情した雌犬のような目で、実寸より二回りくらい大きくなった伊崎の筋骨隆々の体を眺めている。

「私、エースといわれている男の人が好きなんです。特に、一番好きなのは、ブレイザースのエース、伊崎さんなんです」

 誰に向けるともなく放たれた涼子の一言。機械の保全係である伊崎が、プロ野球球団であるブレイサースのエースであるはずがないが、夢の中の塚田はなぜか、そういうもんだと受け入れていた。

 好きな涼子の心を欲しいままにする伊崎に、激しい嫉妬と憎悪を抱いた塚田は、グラウンドに転がっているバットを拾って、伊崎に殴りかかろうとしたが、体がフワフワして、うまく前に進むことができない。

「こっちにだって、エースはいるぞ」

 塚田の後ろから叫んだのは、信一、牛尾、及川・・・伊達巻ラインの連中だった。その声を聞いた涼子が、伊崎の傍から離れ、塚田の方に、パタパタと駆けてきた。

「あなたは、エースなんですか?なんのエースなんですか?」

 大きな目をクリクリさせて、興味津々に問いかけてくる涼子。彼女の期待する答えができないとわかっているのに――嘘でもいいから、タイタンズのエースとか言っておけばいいのに、よせばいいのに塚田は、本当のことを言いたくなってしまった。涼子には、本当の自分を知ってほしかった。

「は・・・・はんぺんのエース」
 
 塚田が答えた瞬間、伊崎の取り巻き、寺井、村上、凛が、口に含んでいたバタークッキーを吹き出した。涼子は、昆虫採集に雑木林を訪れた子供が、クワガタムシとマイマイカブリを間違えてしまったときのような顔を浮かべると、くるりと踵を返し、また伊崎の元へ戻っていた。

 はんぺんエース・・・はんぺんエースで何が悪い!そりゃ、年収は、プロ野球のエースの百分の一にも満たないかもしれないけど、同じエースじゃないか!憤然とした塚田は、涼子を追いかけようとしたが、やはり足がフワフワして、全然前に進めない。

「はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース」

 伊達巻ラインの信一、牛尾、及川が、やいやいと囃したてながら、なぜか腰布一枚の姿で、自分の周りを回っている。むさくるしい裸の男たちに囲まれる塚田の目の前にいる伊崎は、なぜか高価そうなガウンを着て、恥ずかしそうに小ぶりの乳房と股間を腕で隠した全裸の涼子を抱いている。

「はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース」

 信一、牛尾、及川たちは、同心円を描くように回りながら、段々と自分に近づいてくる。やめろ、寄るなーっ。叫びは、声にならない。

 裸の男たちに、生臭い息を吐きかけられながら揉みくちゃにされて、涼子の姿がすっかり見えなくなったところで、目が覚めた。次の瞬間、アラームのけたたましい音が鳴り響いた。

 今まで生きてきた中で、一番嫌な夢だった。

 その日の勤務、無心で手を動かす自分を頼もし気に見つめる涼子の視線が、たまらなく突き刺さった。

                         ☆


 志保、志保、志保――。

 大事にしてきたはずの人間関係が逆にプレッシャーとなり、誇りを持っていたはずの仕事にも逃げられなくなって、見えない軍隊に追い込まれた塚田が望みを託すのは、いまや、産休中の志保しかいなかった。

 すべての歯車が狂い始めたのは、志保がいなくなったあの日――ならば、志保さえ帰ってくれば、すべては元に戻るはずだ。確かな根拠はないが、塚田にはもうそれしか、桎梏の状況を抜け出す突破口が見いだせなかった。

 志保、志保、志保――予定では、希望の志保が戻ってくるのは、年末の一番忙しい時期まで待たなくてはならないはずだったが、神が救いの手を差し伸べた。十一月の終わりに、伊達巻のラインの牛尾がインフルエンザで倒れた影響で配置転換が行われ、緊急措置的に、志保が一週間の短期契約で、応援に来てくれることになったのだ。

「志保さん久しぶり!もう体調はいいの?」

「おはよう、てっくん。今急いでるから、あとでね」

 久々に会えたというのに、志保は表情が固く、どこか余所余所しい態度である。

 三か月近くも休んでいたとはいえ、慣れ親しんだ職場で、緊張しているというのでもあるまい。いったい、志保はどうしたというのだろうか。訝りながら作業に入った後も、塚田は志保の動きを注視していたが、その後は特に、変わった様子はなかった。

 異変が起きたのは、昼休憩の時間であった。

 以前のように、志保と一緒にランチを取ろうと、志保のいる後工程の作業場に向かったのだが、そこにいるはずの志保の姿が見えない。もしや、入れ違いになったのかと、さっきまで自分が作業をしていた前工程の作業場を振り返ると、みんなが食堂に行き、閑散とした作業場の中、志保が伊達巻のラインの方に向かって、夢遊病者のような足取りで歩いていくのが見えた。

 年末が近づき、忙しさを増していく中でも、法律で定められた一時間の昼休憩だけはしっかり取られていたが、牛尾が倒れた影響で生産数がノルマを割っている伊達巻のラインだけは、ここ数日、十分から十五分間、昼休憩を返上して働いていた。その間、給料は一円も出ない。

 牛尾の代わりに前工程に入っているのは、かつて伊達巻ラインの所属だった寺井である。寺井は信一が独断で始めた「サービス昼残」に酷く憤っており、応援に入ったときから信一と何度もやり合っていたのだが、とうとう諦めたのか、今日に限っては、他のラインのみんなが昼休憩に向かった後も、文句も言わず作業をこなしているように見えた。

 前工程、中工程の作業場と、後工程の作業場は間地切りされており、特別な用でもない限り、両工程の作業員が、お互いの作業場を行き来することはない。

 はんぺんラインの後工程を担当する志保が、伊達巻ラインに用事があるとすれば、それは夫である信一に用があってのことだと誰もが思うところだが、志保は信一をスルーして、どういうわけか、及川の担当する中工程の機械へと向かって歩いていった。

 引き結ばれた唇、真っ直ぐに射貫くような眼光。決闘場に赴く女騎士のような顔を見せた志保が、おもむろに衛生服の上をはだけた。ブラジャーもはぎ取って、パンパンに張った乳房が顕わになった。

 塚田は眼を疑った。信一、及川も、志保の突然の行動に、金縛りにあったようになって動けない。ただ一人、寺井だけが、勝ち誇ったように左の口角を吊り上げながら、作業場に持ち込み禁止であるはずのスマホを、志保に向けて翳している。

 伊達巻ラインの中工程では、回転寿司のようなレーンの上を、前工程で攪拌された液体を熱して固め、カステラのようにして、四角形の鍋に詰めた材料が流れている。すでに伊達巻の味になっており、あとはこれをカットして、パッケージに詰めてラベルを貼れば出荷できる状態になる。

 志保がその材料に向かって、レーズンのような、黒ずんだ乳首を向けた。両手の指で、午前の労働でじっとりと汗ばんだ乳房の根本を掴むと、生クリームの入ったチューブを絞るように、五百円玉サイズの乳輪に向かって、一気に指を押し上げた。

 白く、芳醇なミルクが、乳首に空いた微細な穴から勢いよく飛び出し、レーンを流れる伊達巻の鍋に降り注ぐ。母乳は四方八方に向かって細く飛び出し、伊達巻の鍋のみならず、機械や床など、周辺の至るところを白く汚した。

 目の前で起きているこれはなんだ?塚田は卒倒して後ろに倒れそうになるのを、足を踏ん張って懸命に堪えた。

「やめろぉぉっ。ひゃぁめろぉぉぉっ!!」

 妻である志保を、羽交い絞めにする信一。機械から引きはがされようとしても、志保はまったく表情を動かさず、ライン作業を行うように、淡々と乳房を絞り続けている。

「あの子のためだから。あの子のためだから」

 志保の世界には、信一という男など、まるで存在していないかのようである。

 偶然か否か、節くれだった信一の手が志保の乳房に触れると、特濃の母乳が、勢いよくビュッと飛び出した。二人がバランスを崩し、床に倒れた拍子に、古い台車が転倒した。台車の底板に張り付いていた蜘蛛が驚いて駆け出し、機械の下に滑り込んでいくのが見えた。

「なんだこれ・・なんで・・・・」

 作業場に響く、信一の阿鼻叫喚、寺井の高笑い――。

 見えない軍隊は、いまやハッキリと姿を現し、塚田に向かって無数の銃口を突き付けていた。
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第一章 201×年九月 夏の終わり



 
 暗い部屋の隅っこで、ずっとひとりぼっちだった。

 

 勇気を持って外に出た。みんなが、受け入れてくれた。



「ありがとうございました!」

 後部座席まで届く大きな声で、送迎バスの運転手に礼を言った塚田哲太は、燦々と降り注ぐ朝陽の下、半年前から勤務している、大丸食品・食品加工工場へと向かって歩いていった。

「おはよ~てっくん。髪、また染めてきたね」

 モスグリーンのスポーツカーから降りてきた、塚田と同じはんぺんのライン作業者、真崎志保が、塚田に後ろから追いついて、声をかけてきた。

「おはよう、志保さん。信一さんは、一緒じゃないの?」

「あの人は早出だから、七時前には自転車漕いで出て行ったよ。伊達巻はキツイんだから、あんたが車使いなさいよって言ったんだけどね」

 志保の夫、真崎信一は伊達巻のラインリーダー。リーダーは通常、工場の正社員が担当しているが、信一の場合は特例で、派遣会社から時給に上乗せしてリーダー手当をもらいながら、リーダー職についている。

「志保さんに赤ちゃんができたから、身体を気遣ってくれてるんじゃないの?」

 四十五歳の信一、三十八歳の志保の夫婦が結ばれたのは、いまから十年前のこと。当時、塗装工をしていた信一が、志保の働いていたスナックに熱心に通いつめ、口説き落としたのだそうだ。

 慎ましくも幸せな結婚生活を送ってきた二人だったが、長らく、子宝には恵まれなかった。そのことが、かえって二人の絆を深めたのだろう。社内でもオシドリ夫婦と評判の二人に、待望の一子が宿ったことが明らかになったのが、ちょうど、半年前に入社した塚田が、夫婦と親しくなったころのことだった。

「そうだといいんだけどねぇ・・」

 妊娠八か月目の志保は、バスケットボールを抱えているように膨らんできたお腹を、愛おしいような、困ったような、複雑な表情で撫ぜた。 

 二十四歳の塚田は、信一と志保から自宅マンションに招かれて食事を振舞ってもらったり、日帰り旅行にも連れていってもらうなど、懇意な間柄である。夫婦から大事にされている実感はあったし、塚田も夫婦を、両親、あるいは年の離れた兄姉のように慕っていた。

「私らのラインもぼちぼち忙しくなるからね。エースのあんたが、しっかりしないとダメだからね」

 志保から、エース、と言われて、塚田は照れて頬をかいた。

 派遣が仕事を褒められても、給料が上がるわけでもない。変にやる気を出したところで、いいように使われるだけだ、と、冷めたことを言う人もいる。だが、これまでずっと一人だった塚田には、人から必要とされることが、素直に嬉しかった。 

「志保さんが産休に入るから、なおさらだよね。生産数落とさないように、頑張らなきゃ」

 練り物の製造、加工を行う大丸食品の工場では、おせちセットの予約が開始される、年末が繁忙期となる。夏の暑い時期が過ぎ去り、これから一工程あたりの所要時間が短縮され、残業も増えてくる。

 作業員の負担は閑散期に比べて何倍にも増加するのに、時給が上がるというわけではないから、毎年、夏が終わるころになると退職者が相次ぐそうだが、塚田はむしろ、会社が大変な時期だからこそ、自分が助けてやらなければならないと、使命感に燃えていた。


                            ☆          


 小学校を卒業し、中学に上がったころから、楽しかったはずの学校が、だんだん、怖くなっていった。

 たいへんよくできました、よくできました、もうすこしがんばりましょう。通知表から、激励の言葉がなくなり、数字だけで評価がつけられるようになった。

 一年生から三年生まで、揃いも揃って、お仕着せのユニフォーム。

 どうして、社会に出たらほとんど使わない勉強をしなければいけないの?

 どうして一年早く生まれただけの人に、敬語を使わなければいけないの?

 あらゆる疑問が一度に襲い掛かってきて、怖かった。目に見えない軍隊が、自分を攻撃しているようだった。あまりにしんどくて、耐えきれなかった。中学二年で、学校に行くのをやめた。



 以来、二十四歳になるまで十年間、塚田は社会との繋がりを断って暮らしてきた。完全な引きこもりというわけではなく、お使いを頼まれたり、コンビニで漫画を立ち読みするなどの目的で普通に外出はするし、家族と一緒に出掛けたりもするが、どこかで働いたり、学校で勉強するということはなく、友達はいなかった。

 ニートを長年続けていると、感性が鈍麻になってくる。社会と繋がっていないことへのプレッシャーはなかったし、友達を欲しいとも思わなかった。
 
 塚田を社会復帰させるため、親が何もしなかったわけではない。通信制の学校に通っていたこともあったし、NPOか何かの、ニートを社会復帰させるための支援施設に通って、筋トレをしたり、食事を作ったり、地域の掃除をしたりしていたこともあった。年に一回くらいは、親と真剣に、今後のことを話し合った。

 それらのことは、自分が働こうと思うことに、何の意味ももたらさなかった。
 
 ニートを外で働かせようとするのは、美辞麗句でもプレッシャーでも、もちろん説教でもなく、個人の欲望なのだ。

 好きな服をもっと買いたい。美味しいものをもっと食べたい。それには、親からもらう小遣いだけでは足りない。だから、働こうと思った。ただ、それだけだった。

 十年間、交わりを断っていた社会と繋がるには、それなりに勇気を振り絞らなければならなかった。特に、面接のとき、中学を記録上卒業してから、現在に至るまでの期間について、どうやって胡麻化すかということは、真剣に悩んだ。

 結果からいって、それはいらぬ心配だった。

 塚田の前に面接を受けたのは、頭はボサボサで無精ひげだらけ、ヨレヨレで糸のほつれたジャケットを着て、メガネは指紋だらけ、床に零した牛乳を拭いた後の雑巾のような体臭がするという、どうしようもないおじさんだった。

 派遣会社の面接官の、直近の二年は何をしていたかという質問に、そのおじさんが、「たまに日雇いをしながら、家もなくネットカフェや路上で生活していた」と正直に申告したところ、普通に採用され、案件の紹介を受けて、その日のうちに入る寮も決まっていた。

 それを見て、塚田は面接の日取りが決まってからずっと、自分がこれまで勤めてきたことにする他所の派遣会社の名前を暗記したり、2ちゃんねるの派遣労働スレッドを見ながら、今までやってきたことにする仕事の内容をシミュレーションするなどといった涙ぐましい努力が、まったくの無駄であったことを知った。

 正直が一番――。それでも、中学を出てから七年は普通に働いていたが、ここ三年間に限っては、体調を崩して働けなかった・・・と、ちょっと見栄を張って嘘の経歴を申告すると、面接官は、それ以上突っ込んだ質問をすることもなく、簡単なネジ締めの早さを測る適性検査へと移った。

 検査の結果、とくに作業能力に問題がないとわかると、正式にスタッフとして採用が決まった。提示されたいくつかの案件の中から、自宅から一番通いやすい今の工場を選んで、一週間後から働くことになった。

 たぶんこれなら、たとえ前科があっても、言わなければわかりゃしないだろう。派遣というと、人をモノのように、左から右に流して利益を得ているという悪評が常に付きまとうが、世の中には、自分のことを詳しく知られたくない、モノのように思ってもらった方が都合がいいという人はいくらでもいる。

 ブランクや、後ろ暗い過去がある人でも気楽に面接に訪れることができる、門戸の広さ。一度、レールから滑り落ちてしまった人への偏見が根強い日本社会にとって、アウトソーシングの存在は、一概に悪いことばかりではないのではないか。

 ニートの十年選手という重しが、あっさりと消えてしまったことにより、塚田はこれまで、派遣に対して抱いていた根拠のない悪いイメージが、すっかり払拭されてしまった。

 そして、配属されたここ、大丸食品・食品加工工場で、良い人たちに出会った。働き始めた目的はお金を稼ぐためだけだったが、望外の喜びに恵まれた。

 ニートでいる間、友達は必要ではなかったが、もともと、人付き合いが嫌いというわけではなかった。学校に通っているとき、仲の良い友達は大勢いたし、みんなと遊ぶのは楽しかった。

 ただ、それを上回るマイナス要素に耐えられなかった。扉をこじ開ける勇気が湧かず、十年も、無駄な時間を過ごしてしまった。

 ずっと止まっていた時計が、動き始めた気がする。派遣で働き始めたことにより、自分の、本当の人生が始まった――。


                              ☆          


 志保と別れ、男子ロッカー室に入った塚田は、一日ごとに洗濯に出す白い衛生服に着替えた。

 特殊繊維で出来たクリーンキャップ。はじめのうちは違和感があり、頭が何度もかゆくなったが、いまではすっかり慣れた。

 髪の毛が混入した商品を出荷してしまうと、ラインは最低でも一週間、稼働停止になる。食品の工場で働く作業員が、もっともやってはいけないミス。慣れてくると、おざなりに被る人もいるが、塚田は入社して三か月が経ってからも、しっかり鏡を見ながら、髪一本はみ出さないよう注意して被っていた。

 着替えを終え、流しで、うがい薬を使ってうがいも済ませると、塚田は始業までの時間を潰すため、共用の待機室に向かった。

 フローリング張りの床。二十畳弱のスペースに、六十四インチのテレビ、六脚のロングソファ、十二脚のリクライニングチェア、十人掛けのテーブルが配置された待機室。みんなとの絆を育んでくれた、憩いの空間。

 まだ、始業までは二十分あり、待機室にいたのは、早出の作業を終えた、志保の夫、信一だけだった。

「おはよう、信一さん」

 テーブルで、コンビニで買ってきたおにぎりを頬張っていた信一に挨拶すると、信一が軽く手をあげて応えてくれた。

「今日は六時から、夜勤の人と一緒に働いてたんだって?二十時まで残業があるのに、身体は大丈夫?」

 会社も、年末に向けて人員をかき集めているところだが、なかなか定着せず、九月の今の段階から、リーダークラスは連日のフル残業を余儀なくされている。

 もちろん、働けば働いただけ収入は増えるが、同年代の正社員のほとんどは管理職につき、信一の倍近く稼いでいることを考えれば、信一の働きは十分に報われているとはいえない。それでも信一は、文句一つ、愚痴一つ言わず、黙々と、伊達巻のラインに課せられた生産のノルマをこなしていた。

「・・・ああ。まったく問題らいさ。これからもっと忙しくなるんだから、根を上げてなんかいられない。俺のことより、お前の方はどうらんだ?この間変わったラインリーダーとは、うまくやれているのか?悩みはないか?」

 おにぎりをお茶で嚥下した信一が、逆に塚田を気遣う言葉をかけた。

 信一はまだ、昨晩の酒が抜け切れていないのか、呂律が回っていないようだ。塚田が入ったころに比べると、表情はやつれているが、体重は増えたようにみえる。本人は気丈に取り繕っているが、やはり激務によるストレスがあるのだろう。

「大丈夫だよ。リーダーには良く面倒を見てもらってるし、仲良くやってるよ。世間話とかもするしね」

 塚田は飛び切りの笑顔で答えたが、明るく振舞って見せたのは、なにも、信一を心配させまいと思ってのことではない。

 はんぺんのラインリーダー、岡本涼子は、塚田より一歳下の二十三歳。専門学校を経て入社してから二年目の正社員で、塚田が入ったころまでは、一般の作業員に混じって働いていたが、先月からラインリーダーに昇格した。

 高校時代はバレーボール部でリベロを務めていたという涼子は、小柄だが敏捷性に優れ、手も足も恐ろしく速い。塚田も作業では機械といわれるが、涼子の域には、まだまだ達しない。

 塚田はこの年下の上司に、密かな恋心を抱いていた。仕事で女性に使われることに抵抗を感じる男も多いそうだが、塚田は、女性の働く姿をカッコいいと思うし、若い女上司の指示で動くのは、ゲームやアニメの女主人公を支えているみたいな気分になれて、むしろ喜びを感じるのだ。 

「志保さん、だいぶお腹が大きくなってきたね。たしか、今日から産休だよね?」

「ん?ああ・・・・まあ、な」

 四十五歳、人生の折り返し地点を過ぎて初めて出来た子供。女性と一度も付き合ったことのない塚田には、想像もできないほどの喜びに包まれているだろうと思っていたのだが、志保はともかく、信一の方はそうでもないようで、話題が子供のことに及ぶと、表情を曇らせることが多かった。 

 おそらく、収入のことを気にしているのだろう。

 派遣法によれば、雇用から三年を経過した派遣社員から申し出があった場合、派遣先の会社は、有期契約の派遣社員を、無期契約の直接雇用へと切り替えなければならない義務が定められている。

 いわゆる「三年ルール」であるが、直接雇用への切り替えとは、必ずしも正社員として雇用されることを意味するのではない。いくら、突然雇い止めされる恐怖に怯えなくていいといっても、契約社員やアルバイトでは、足元を見られて買い叩かれることもある。

 派遣というと阿漕な中間搾取で、ワーキングプアの温床のようなイメージで語られがちだが、中抜きされるかどうかの違いがあるだけで、最終的に労働者の手元に渡る賃金は、契約社員やアルバイトと大差ない場合が多い。

 直接雇用にこだわって、契約社員やアルバイトとして働くよりも、派遣先から取れるものは取るというスタンスで、派遣先とトラブルになったときに間に入ってくれる派遣会社を通して働いていた方が、何かと得ということもある。そういうわけで、大丸食品に派遣されてから七年になる信一は、三年ルールの条件をとうに満たしていながら、本人の希望で、身分はいまだに、派遣社員のまま据え置かれている。

 リーダーとはいえ派遣の信一には、ボーナスも休業補償もない。志保と共働きでも、夫婦二人が暮らしていくのがやっとで、よほど切り詰めても、子供にまともな暮らしをさせられるかわからない。

 まだ、若ければ何とかなると思えたかもしれないが、四十五歳という年齢で、この先、生活ランクが上がる見込みがないとなれば、信一が育児に不安を抱くのも無理はなかった。

「信一さんと志保さんの子だったら、きっといい子に育つよ。いいな、幸せだな」

「・・・・・」

 心配してみても、塚田にどうにかできることではない。こういうことは、とにかく明るく話題にして、励ますしかないのだ。

 始業時間が近づいてくると、続々と、「良い人」たちが出勤してくる。

「リンリンおはよう。ムラさんも」

 向井凛。塚田と同じはんぺんのラインで、志保と一緒に袋詰めの後工程を担当している、二十八歳の女性スタッフ。野球観戦が趣味ということで、はんぺんのラインで中工程を担当している四十二歳の男性スタッフ、村上康弘との仲が良く、地元球団の応援のために、よく二人一緒に球場に足を運んでいる。

 村上と凛は塚田や真崎夫婦とも仲が良く、週末にはよく、みんなで外食やカラオケに出かけている。職場の人間関係というと、敬語でやり取りする堅苦しいものばかり想像していたが、特別に仲の良い者同士の付き合いに限っては、中学生のころのそれと何ら変わりないことを、彼らのおかげで知った。

「寺井さん、おはよう」
 
 始業時間ギリギリになってやってきたのは、笹かまぼこのライン作業者、三十一歳の寺井誠也。シナリオライターを目指しているという寺井は、執筆の時間を確保するため、毎朝、年寄りが目を覚ますような時間に起床しているそうだが、会社に出てくるのはいつも最後である。工場の仕事が終わったあとはクタクタになって頭も働かないから、朝、スッキリして体力万全のときに、自分の夢のための活動を行うのだそうだ。

 寺井はもともと、信一がリーダーを務める伊達巻のラインで働いていたが、信一と相性が悪く、やめたいと言っていたのを、笹かまぼこのラインに配置転換されたという経緯がある。

 派遣会社の担当者から、ラインを変わったのだから、もうこれ以上関わるな、と厳命されたのは、信一を鬱陶しがっていた寺井にとっては何の問題もなかったが、かつては寺井を、自分の弟のように思っていたという信一にとっては大きなショックだったらしい。

 さすがに「接近禁止命令」が下った以上、直接話しかけるわけにはいかないが、いまだに未練は残っているようで、信一はいつも、寺井が傍を通るたび、何ごとかをブツブツと言っていた。

 人に相性があるのは仕方ないが、寺井とも、信一とも仲の良い塚田にとって、二人の関係の悪さは、少し歯がゆいところであった。

 十年ぶりに出た外の環境で、普通以上に馴染めている自信はある。ほかの仕事をしたことがない塚田にとって、この職場での人間関係は最高と思えるほどだが、嫌なこともある。

 頭のどこかに欠陥を抱え、真面目に働こうとしているみんなに不快感を与えている奴ら――「基地外」たちの存在である。

「おぉい、及川さん!ウォータークーラーで、うがいなんてしてんじゃねえよ!」

 信一に注意をされた、「基地外一号」の及川は四十代。塚田と同時期に入社し、もとは塚田と同じはんぺんラインで作業をしていたが、異常に手が遅く、ミスも多いため、二か月前、はんぺんのラインリーダーが、前リーダーの貞廣から涼子に変わった途端、はんぺんラインを追い出された。以降、いくつかのラインをたらい回しにされ、いまは信一の伊達巻ラインで中工程を担当している。

「せ、ぼっぶぁっ」

 ちょうど、口に水を含んでいるときに、信一から怒鳴られた及川が、驚いて待機室の床に、盛大に毒水をぶちまけた。及川の醜態に、待機室で始業を持っていた人たちが、一様に顔をしかめる。

「あのさぁ、これはみんなが水を飲むものでしょ?そこでさ、ガラガラペッてやったら、みんな嫌な思いするよね?そういうのわからない?」

 派遣で唯一のラインリーダーという立場に、信一は誇りを持っているようで、身だしなみや衛生面に、正社員のラインリーダーに比べても、格段に厳しい。社員ならともかく、同じ派遣に偉そうにされればいい気はしないから、派遣の中には信一をうるさがる者もいるのだが、両親に甘やかされて育ったと感じている塚田には、面倒見のいい信一の存在は有難かった。

 しかし、今起きているこれは、信一が厳しいとか、そういう問題ではないだろう。及川という男は、自分の家と職場との区別がついていないのではないだろうか。今までどういう生き方をすれば、みんなが水を飲むウォータークーラーでうがいなどしようと思うのか、塚田はわからないし、わかりたくもなかった。

「あぁ~・・・」

 死んだ魚のような眼を斜め上に向け、口を半開きにしている及川は、自分と同年代の信一に厳しく注意されても、何も感じていないかのようである。

「この際だから、ついでに言っとくけどさ・・・あんた臭いんだよ。毎日、ちゃんと身体を洗わないといけないんだよって、親に教わらなかった?」

「あぁ・・・最近は、入ってなかった、です・・・」

「最近とかじゃなくて、一日入らないだけでもダメなの!毎日入ってくるのが普通なの!」

 衛生管理が命の食品加工工場で、不潔は致命的欠陥である。仕事ができないだけなら仕方ないにしても、人として最低限のエチケットも守れないのでは、みんなから嫌われるのは当然だ。いい年をして、ちゃんと風呂に入れなどと人前で注意されたら、もう死にたいと思うのが普通ではないかと思うのだが、当の及川は、信一が何を言いたいかもよくわかっていない様子である。

 頭の良くない人が、感性まで鈍いとは思いたくない。しかし、神経の一本二本死んでいるというのでなければ、及川のやることは理解できない。

 人生のどこかで、何か――心がとても傷つくような、何かがあったのかもしれないが、自分の知ったことではない。

 真崎夫婦、村上、凛、寺井ら、大切な「基地内」の人たちに迷惑をかける「基地外」には、関わりたくもないし、早く工場から消えてほしいと思うだけだった。 

                            ☆      

「な、なんだよ朝から。勘弁してくれよぉ」

 勤務開始五分前、待機室を出て、男子トイレに入ろうとすると、中から、塚田と同じはんぺんラインの村上が、衛生服のファスナーを全開にしたまま、顔を引きつらせて飛び出してきた。

「どうしたの、ムラさん」

「お、おぅ哲太くん。いや、今日も朝からやられちゃって、た、たす、助けて」 

 ひどく狼狽して、塚田の袖に縋ってくる村上を助けるため、塚田はトイレの中から、暗い炎の宿った目を村上に向けている人物を、キッと睨みつけた。「基地外二号」の端本である。 

「村上さんは凛さんに近づくのをやめてください。村上さんはおじさんだから援交をしようとしているんです。村上さんは凛さんの身体だけが狙いなんです。村上さんに恋心はないんです。なぜなら、村上さんはおじさんだからです」

 肌は生白く、青い血管が浮き上がっており、枯れ木のように痩せこけていて弱弱しいのに、目だけが異様にギラついている端本が、くぐもった声で、意味不明の理屈を並べ立てるのを見れば、村上でなくとも、背筋に冷たいものが走る。
 
 粉ものの倉庫で働いている二十九歳の端本は、塚田と同じはんぺんラインの作業者、向井凛に好意を抱いており、凛と村上が仲良くしているのを妬んでいるらしく、村上はもう二か月ほど前からずっと端本に付きまとわれていた。

 そもそも、村上が凛に恋愛感情を抱いているかどうかなど誰にもわからないという話だが、「おじさんだから」恋心はなく、女性に近づくのは嫌らしい目的しかないなど、一体どんな思考回路をしていたら、そんな酷い決めつけができるのか?

 端本がなぜそのように決めつけるかはまったくわからないし、わかりたくもない。こんな異常者は、村上に迷惑をかけるのは早くやめて、引きこもりにでもなってほしいと思う。

「端本さん、あんたいい加減にしろよ。上の人からも言われてるだろ」

「・・・・・」

 塚田が注意するのに、端本は何も答えない。

 塚田が言ったからというわけではない。端本の耳には、誰の声も届かない。誰が何を言っても響かない。すべてが自己主張ばかりで、端本から返ってくるものはなにもないのである。

 しばらくしてラジオ体操のBGMが鳴り始めると、端本は、へばりついて取れなくなるような目で村上を一瞥してから、トイレを出て、作業場へと向かって行った。

「ほんと、気持ち悪い野郎だな。はやくクビになればいいのに」

 村上と作業場に向かいながら、塚田は吐き捨てた。始業前のトイレは毎日のルーティーンだったが、尿意はすっかり収まっていた。

「色んな人が、前からずっと苦情を出してるのに、担当者は口頭で注意をするだけで、それ以上動いてくれないんだよ。もう我慢の限界だよ」

 村上の言うように、端本の問題行為は、いまに始まったことではない。

 端本は、塚田と同じ半年前に工場に派遣されてから、実に六人もの女性に告白をしてフラれていた。酷いときには、フラれてから三日後に、別の女性に告白をしたこともあった。

 端本が、軽薄なナンパ男だというわけではない。むしろその逆で、端本は、誰に恋をするときも、ド真剣の、一途な純情恋愛のつもりである。

 初めの頃、塚田は同時期に入社した縁もあり、端本との仲は悪くはなく、LINEでよく連絡を取り合っていた。

――塚田くん、聞いてください。僕は谷内さんのことが好きなんです。谷内さんは寂しい人だから、僕が守らないといけないんです。

――塚田くん、僕は万城目さんが好きです。僕は谷内さんよりも、万城目さんのことが好きだったんです。万城目さんはおっちょこちょいなところがあるから、僕が傍にいて支えてあげなくてはいけないんです。

 すぐに女に惚れては、塚田にわざわざそれを報告してくる端本のことを、初めのうちは、頑張れ、次はうまくいくよ、と応援していたのだが、端本が二人、三人とフラれていくうちに、愛想を尽かすようになった。

 一人に告白してフラれてから、すぐ別の誰かに告白したら、こいつは女だったら誰でもいいんだと思われてしまうだけである。一度フラれたら同じ職場で相手を探してはいけないとまで言う気はないが、せめてタイムラグを置くべきだろう。しかし、端本は、いつも自分の愛は本物であり、それは相手にも必ず伝わっていると信じて疑わない。

 端本は、自分が傷つくことには異常に敏感だが、他人の気持ちがまったくわからないのだ。

「年末に向けて、会社は猫の手も借りたいのはわかるけど・・・このままじゃ俺、殺されちゃうよ」

 いくら派遣でも、簡単にクビになどできないのはわかる。しかし、端本に告白された女性スタッフの中には、端本を恐れて辞めてしまった人もいるのだ。このままでは、村上の言うように、いつかニュースに出てくるような大事件が起きないとも限らない。

「ムラさん安心して。端本のことは、僕たちがきっと何とかするからね」

 会社が動いてくれないのなら、自分たちで何とかするしかない。塚田は近々、寺井、真崎夫婦に呼び掛け、凛と村上に迷惑をかける端本を、工場から追い出してやろうと考えていた。
 
 ラインに着くと、ちょうど時計の針が八時を差し、作業が開始された。ラジオ体操に間に合わなかった塚田は、軽いストレッチをすると、すぐ台車を押して、材料の置いてある冷凍庫に向かった。

 冷凍庫にはすでに、シナリオライター志望の寺井がいて、フォークリフトで積み上げられた材料の箱を、バンバン台車に乗せている。

 練り物のラインの前工程は、魚のすり身が入った箱や、調味料の入った一斗缶など、重量のある材料を持ち上げることが多く、どこのラインでも、二十五歳の塚田や、三十一歳の寺井のような、若い世代の男性が担当している。

 仕事はキツイのに、女性や高齢の男性でもできる後工程の作業員より時給が高いわけではないから、割に合わないと言って辞めていく人も多いのだが、塚田はお金をもらいながら身体も鍛えられると、前向きに考えていた。

「寺井さんのラインも、だいぶ慌ただしくなってきたね。来週辺りから、残業もあるんじゃないの?」

「ん・・?ああ・・・。どうでもいいよ」

 塚田の問いかけに、寺井は気のない表情で答えた。

 寺井の、仕事に対する意欲は低い。寺井が工場の仕事で興味があるのは、残業がなく定時で帰れるか、定時の中で、どれだけ楽ができるか、ということだけ。仕事の技能を向上させようとか、作業の効率を上げるために、どういう工夫をしようかといったことは、まったく頭にない。シナリオライターを夢見て、公募に挑戦し続けている寺井にとっては、工場で過ごしている時間は、無駄でしかないのだ。

 遊ぶ時間を削って、夢のために頑張っているのは尊敬できるし、応援したいとも思う。だけど・・・「どうでもいい」なんて言わなくてもいいと思う。こんな仕事でも、給料が安くても、やりがいを感じて、頑張っている人だっているのだ。それを、バカにしたような言い方をしなくたっていいじゃないか。塚田は拗ねたように、唇を尖らせた。

 塚田も寺井の後に、魚のすり身を解凍機にかけると、一旦ラインに戻って、調味料の準備を整えた。十五分のタイマーが鳴ると、解凍機にかけたすり身を取りにいって、柔らかくなったすり身を、調味料と一緒に、攪拌鍋に放り込む。機械を操作し、混ぜ合わせた材料を、村上の担当する中工程へと回す。

 一連の作業を、延々と、気の遠くなるまで繰り返す。仕事中はわき目も振らず、黙々と働く。

 同じ作業ばかりを繰り返していると、どうしても飽きが来る。時間が流れるのが遅くて、苦痛だと漏らす人もいる。それも、わからないではない――が、ニートだった十年間、無駄な一日ばかりを過ごしてきた塚田には、自分の時間を意味のあることに使えているのが、ただただ嬉しかった。


                            ☆


 時計の針が午前十時を指すと、作業員はいったん手を止め、十分間の小休止のため、待機室へと向かっていく。キツイ肉体労働の合間の、貴重なブレイクタイムである。

「村上さん、今朝トイレで、またオカマンにやられてなかった?あの人、凛ちゃんじゃなくて、本当は村上さんのことが好きなんじゃないの?」

 待機室に「基地内グループ」のみんなが集まると、寺井がさっそく話を始めた。この、第一声というのを自然に出せるのが、本当に羨ましいと思う。自分などは、この人には今話しかけて大丈夫かな?無視されないかな?何を話したら、興味を持ってくれるかな?とか、みんなの顔色が気になって、輪になってもなかなか声がかけられないのだ。

 塚田が工場の仕事に意欲のない寺井を「基地内」に含めるのは、寺井と気が合うからではなく、寺井が、いつも積極的に話を振ってくれるからであった。情けないことではあるが、自分のような受け身体質の人間にとって、これは非常に重要なことである。

「え~マジ~?だったらアタシ嬉しい!!お兄ちゃん、オカマンのこと引き取ってよ」

 オカマン、とは、六人告白の端本のあだ名である。

――塚田くん、僕は谷内さんを守らなくてはいけないのに、力が足りなくて辛いです。今日は手首を切りました。

――塚田くん。丸井さんは本当は僕のことが好きなのに、僕に迷惑をかけたくないからと、一歩を踏み出せないでいるんです。僕は丸井さんの優しさを思うと、胸が張り裂けそうで、こ~んなに薬を飲んでしまいました。

 今でも脳裏に焼き付いて離れない、端本からLINEで送られてきた画像――。

 端本は、女性を守らなくてはいけないと、勇壮な言葉を並べ立てる一方で、同じ男性に対しては、あたかも自分はか弱い女の子で、守ってほしい、構ってほしいというような態度を見せ、塚田だけではなく寺井にも、リストカットの跡や、服用している抗うつ剤を撮影した画像を、何度も送り付けていた。

 男らしくなりたいのか、女の子になりたいのかわからない。それで寺井が、端本に「オカマン」というあだ名をつけたのである。

「よかったね、お兄ちゃん。オカマンは男の子だけど、女の子の部分もあるから、付き合ったらきっと楽しいよ」

 端本に好意を寄せられている凛は、一番の仲良しの村上のことを、「お兄ちゃん」と呼んでいる。本当に、実の兄のように慕っているのだ。

「やだよ~、勘弁してよ。そんなこと言うんだったら、リンリンが、アイツに告白されたときOKしてやれよ。リンリンがアイツと付き合ってあげれば、俺だって解放されるんだから」

「勘弁!マジ勘弁!あんなキモイのと付き合うなんて、マジあり得ないから!大体、失礼しちゃうよね。同じ職場で七人に告白なんてさ。私は七番目です、て言われてるようなもんじゃん。なんでそれでOKしてもらえると思うのか、意味わかんない」

 七番目扱いされて憤慨している凛だが、凜はけして、男のお眼鏡に適わないほどのブスではなく、黙っていれば声をかける男はいくらでもいそうな、ごくごく平均的な容姿をしていると思う。ただ、凛は声が大きく、髪も染めていて、一重瞼の細い目が少しキツめな印象を与えてしまう。それで、端本のような陰気な男は、ずっとビビッて近づけなかったのだ。

 それがなぜか、二か月ほど前から、端本は突然、凛を好きになったと言い出した。

――寺井さん、塚田くん、あなたたちはずっと近くにいながら、全然、凜さんの本性に気が付いていないんですか?凜さんは強がっているだけで、本当はポキッと折れてしまいそうな心の持ち主なんですよ。だから、僕が支えてあげなきゃいけないんです。村上さんみたいな、身体目的だけのおじさんは、遠ざけないといけないんです。

 得意の根拠のない決めつけ、謎の上から目線、無駄な男気の揃ったメッセージを、寺井、塚田とのLINEに送った端本は、次の日、早速、凛にLINEのID交換を所望してきた。凜は当然のごとく、教えるのを断ったのだが、すると端本は、凛に直接付きまとうのではなく、凛と一番親しい、村上にちょっかいを出してくるようになった。
 
 いまはまだ、会社にいるときに、村上はおじさんだから凛に近づくなとか、わけのわからないことを言って突っかかってくるだけだが、そのうち、村上の家の前などに張り付いて、会社の外でも接触を試みてくる可能性もある。一刻も早く、有効な対策を練らなければならなかった。

「オカマンは嫌われ者同士、赤ちゃんと仲良くすればいいのにね。そうしてくれれば、みんなが幸せになるのに。それで、二人で一緒に、別の仕事探せばいいのに」

 凛が馬鹿にしたような目を向けるのは、待機室の一番端のリクライニングチェアに座って、一人寂しそうにしている及川である。

 赤ちゃんというあだ名の由来は、及川の、ヘルメットを被っているように大きな頭と、脳の容積は大きいようなのに、異様に言語能力が低いことのほかに、もう一つ。

 及川には、いつも、トイレに入るときには、作業で汚れた手を入念に洗うのに、トイレから出るときは、自分のちんちんを触って、おしっこもついているかもしれない手を洗わずに、そのまま出て行く習性があった。

 確かに、作業のときには主にゴム手袋をしているから、及川のおしっこが食品についてしまう可能性は低いわけだが、あれでは、工場の環境はすぐに手を洗わないといけないほど汚いが、自分のちんちん、あるいはおしっこは、赤ちゃんみたいにキレイだ、と言っているようなものである。それを見て、寺井が及川に、「赤ちゃん」というあだ名をつけたのだ。

 自分より何十倍も社会経験はあるはずなのに、どうして及川は、人として基本的なこともできないのか?塚田にはわからなかったし、わかりたくもない。基地外などは、みんなここからいなくなって、どっかで野垂れ死ねばいいのだ。

「まあ、確かにちょっと癖の強い人たちだけど、だからって、追い出そうとするのもどうかと思うよ。僕らは一番下っ端なんだから。底辺同士が争って、足を引っ張り合うなんて、そんな虚しいことなんてないじゃないか」
 
 寺井は基地外たちを思いやるようなことを言っているが、それは彼の優しさ、というわけではない。なぜなら、及川に「赤ちゃん」というあだ名をつけたのも、端本に「オカマン」というあだ名をつけたのも、寺井その人なのだから。

「こんな変わり映えのしない、退屈な毎日を過ごしてるんだ。ああいうバラエティに富んだ人たちがいた方が、面白くていいじゃないか。極端にできない人がいれば、僕らが実際以上に良くみられて、多少のアラは大目に見てもらえるしな。僕らにとっても、彼らは立派に存在価値があるんだよ」

「えー。それって、あれじゃない?なんだっけ、あの、言い訳じゃなくて、えっと・・・」

「詭弁、ね」

 言葉をひねり出せないでいる凛に、寺井が教えてやると、村上がニヤリと笑みを浮かべた。

「詭弁和歌山」

 村上のオヤジギャグに凍り付く空気の中、塚田は先ほどの寺井の言葉を妙に真剣に受け止め、脳内で反芻していた。

 存在価値、という意識――。塚田をかつて苦しめ、十年間のニート生活へと向かわせた元凶。


 塚田が学校に行かなくなってから数日後、自宅の固定電話に、担任の先生から電話がかかってきた。応対した母親から、先生が、「みんなは、塚田君のことをとても心配している。塚田くんを待っているよ」と言っていたことを聞かされた。

 初めはうれしかったが、日が経つにつれ、塚田は段々、先生が自分を騙していると疑うようになった。先生の言ったことが本当なら、塚田の携帯には、仲の良かった友人たちから、塚田の安否を確認するメールが送られてくるはず。なのに、塚田の携帯は、一週間待っても、二週間待っても、鳴らないままだったのだ。

 あのクラスの中で、自分の存在価値なんてものは、まったくなかったのか?

 とうとうシビレを切らした塚田は、自分から友達にメールを送ってしまった。当時、今に輪をかけて語彙が少なかった塚田は、自分の率直な気持ち「裏切られた」という感情を、ストレートに文章にして、友達に送ってしまった。

 友達からの返事は、来なかった。メールを送信した後、後悔に襲われた塚田は、自分からメールアドレスを変えてしまったのである。

 以来十年間、塚田は家族以外の人間と、業務的な用事以外の会話をしなくなった。もう二度と、あの「やらかした」後の、切ない気分は味わいたくなくて、塚田は人間関係を築くことを極度に恐れ、部屋のドアを閉ざした。



 あのときのことで、塚田も反省した。

 どうも、自分は人に求めすぎる。自分が大切に思っている相手は、同じくらい、自分を大切に思わないといけない、と期待してしまう悪癖がある。

「そういえば凛ちゃん、昨日、ブレイザースがまた勝ったじゃん」

「そぉ~。これで首位とは三ゲーム差。まだまだ、ペナントはわからないよ。お兄ちゃん、週末はまた一緒に応援に行こうね」

 村上のオヤジギャグをキッカケに、基地内グループの話題は高校野球、そしてプロ野球へと移っていた。 

 九月に入り、プロ野球は優勝争いが佳境に入ってきたとかで、最近、十分休憩を一緒に過ごす寺井、村上、凛は、野球の話で盛り上がっていることが多い。それはつまり、野球に興味のない塚田が最近よく、蚊帳の外に置かれてしまっている、ということである。

 人と触れ合う心地のよさと、常に隣り合わせのようにあるのが、人との絆が断ち切られる恐怖である。充実感が大きければ大きいほど、喪失感も大きくなるということを、塚田は十年前の経験から知っている。

 だが、心配することはない。

 十年前、子供だった自分は何もできなかったが、今の自分には、あのころにはなかった知恵と金がある。二度と同じ轍を踏まないため、できることがある。

「あの、みんな。繁華街に出たときに見つけたこのクッキーがおいしかったから、みんなの分も買ってきたんだ。食べて食べて」

 十分休憩が終わる直前、塚田は、自分のロッカーから、クッキーの箱を取り出して、みんなに配った。

 みんなの心を掴むため、塚田は週に一度は、みんなに「たべもの」を持ってくることを欠かさない。寺井のように、話でみんなを盛り上げることができない塚田は、「たべもの」を配ることで、自分の存在をアピールしている。

 食べることは素晴らしい。そもそも、ニートの十年選手である自分が働き始めたのは、おいしいものを、お腹いっぱい食べたいから、であった。派遣会社からいくつか提示された案件の中から、食品加工工場を選んだのも、「食」に携わる仕事なら、きっと遣り甲斐をもって働けるだろうと思ったからである。

 誰しも、人がお金を出して買ってきた「たべもの」を貰えば、少なからず、感謝の念を抱くはずである。そして、その見返りは、何も求めない。自分がやっていることは、みんなもやらなければならない。そのように考えたら最後、行き着く先は孤立しかないことを、塚田はよく知っている。

 みんなに「たべもの」を食べさせていれば、きっと自分は、中学時代のように、空気のように扱われることはないはずだった。


                            ☆       


 十分間の休憩が終わり、作業が再開される。八時から十時まで、二時間くらい働いただけでも、筋肉には乳酸が溜まり、上腕に張りを覚える。

 筋肉痛――心地よい痛み。自分の肉体が変わっていることの喜び。十年間、ナマっていく一方だった身体が、使ってもらえる嬉しさを爆発させている。

 ニ十キロ以上ある魚のすり身の箱を、何度も何度も持ち上げ続けたおかげで、塚田の腕回りは、半年間で三センチも太くなった。

 筋トレをしながら、お金がもらえる。充実感に包まれていれば、時間が経つのも早い。無心で身体を動かしているうちに、お昼のチャイムが鳴った。

 塚田は作業が終わるやいなや、はんぺんラインで後工程を担当する志保の元に小走りで駆け、伊達巻のラインからやってきた信一とも合流して、三人で食堂へと向かった。

 塚田は十分間の休憩では、寺井を中心とした輪の中にいることが多いが、一時間の昼休憩は、真崎夫婦と三人で過ごしている。

 誰と一緒に、お昼ごはんを食べるか――。長い昼休憩の間の居場所確保は、仕事と同じかそれ以上に、頭を悩ませねばならない、重大な問題である。

 人はみんな、誰かに必要とされていたい。また、自分が誰かに必要とされている人間であることを、みんなに証明したい。

 塚田はニートでいるとき、そういうことを考えているのは子供だけだと思っていたが、社会に出て、案外、大人も同じであることを知った。

 それほど気が合うわけでもないのに、無理に一緒に居ようとしている人。会話をしているように見えて、お互いスマホを手にしながら、SNSやLINEで、別の誰かと話している人。見せかけだけでもお互いを必要としているならまだいい方で、中には、傍から見てもわかるほど拒絶されているのに、必死になって誰かに食らいつこうとしている人もいる。

 もちろん、ほかの人が輪に入れようとするのを断って、自分から一人でいたがる人もいるのだが、そうではなく、職場で誰も話し相手がいない、また、そういう孤独な人間だと周りに思われるのがプレッシャーで、「ランチメイト」を探すことに躍起になっている人が、本当にたくさんいる。

 そういう人たちをみると、塚田は悪いとわかっていても、得意げな気持ちになってしまう。

 自分の周りには、自分の話を聞いてくれる人がいるし、自分を見てくれる人がいる。

 褒められたことではないのかもしれないが、塚田はこの昼休憩の時間、充実したランチタイムを過ごせていない人をみると、あたかも、救命ボートの上から、溺れそうになって手をばたばたさせている人を見ているような気分になって、独特の優越感を、胸いっぱいに抱いてしまうのだ。

「てっくん、あんたラインリーダーが岡本さんに変わってから、随分張り切ってるじゃない。岡本さんのこと、チラチラ見たりしてるし。てっくんもしかして、岡本さんのこと、好きなんじゃないの?」

 昼休憩の時間、主に話題を提供するのは、志保の役目である。

「ち、違うよ。リーダーは、仕事ができるから、尊敬しているんだ。もっとリーダーの動きを見て、盗みたいと思ってるんだよ」

 志保に、ラインリーダー、岡本涼子への好意を見抜かれたのは恥ずかしかったが、塚田は内心嬉しかった。

 涼子と付き合うことができれば、もちろんそれが一番の幸せである。しかし、涼子への好意を第三者に承認してもらう、それだけでも、塚田は満足できた。自分のことを、それだけよく見てくれる人がいると、嬉しくなれた。

「てっくん、最近作業が早くなったもんねえ。もう、うちのラインはてっくんがいなきゃ回らないって、前リーダーの貞廣さんも言ってたわよ」

「ほ、ほんと?そんなふうに、貞廣さんが・・・」

 こういうふうに、志保の言葉で浮かれていると、必ず水を差す人がいる――塚田は半年間の付き合いで、それをよく知っている。

「哲太・・・。お前もここに来てから半年が経って、だいぶお金も溜まってきたんじゃないのか?そろそろ、家にお金を入れたらどうだ?」

 またそれか――。信一と仲良くなってから、もう三回ぐらい同じことを言われ続けている塚田は、ウンザリした表情を志保に向けて、助けを求めた。

「あんた、またそれ言ってる。うちに生活費を入れるかどうかなんて、てっくんの自由でしょ。いい加減にしないと、嫌われるわよ」

 塚田の家は、十年間もニートの息子を養っていただけあって、普通以上に裕福で、いまさら息子の収入に頼るような経済状態ではない。ヤクザの上納金ではないのだから、家で一番稼ぎの少ない者が、わざわざ生活費を入れることなどないと、寺井などは言ってくれている。

 なにか、ちゃんとした根拠でもあるならともかく、信一が家に金を入れろというのは、親への感謝の気持ちを表せとか、もう二十四歳なんだから、という感情論でしかない。もっといえば、「俺もそうしてきたから」と、自分の経験を押し付けているにすぎないのだ。

 信一は面倒見の良い人なのだが、物の言い方がいちいち説教臭いというのが、玉に瑕だった。

 かつて同じ伊達巻ラインで、信一の説教を、耳にタコができるほど聞かされた寺井などは、信一を蛇蝎の如く忌み嫌って、共通の友人である村上や凛と遊ぶときも、その中に信一がいるときには絶対に参加しないほどなのだが、塚田はそこまで極端ではない。

「嫌ったりなんかしないよ。信一さんの言うことももっともだと思うから、月に一度は、両親に食事をご馳走してるよ。もう少しお金が溜まったら、プレゼントも買おうと思ってる」

 説教をするということは、信一がそれだけ、自分のことを気にかけてくれているということ。

 誰しも、いいところもあれば悪いところもある。説教されて嫌な思いをする以上に、信一は、塚田をバーベキューに連れていってくれたりなど、良い思い出を作ってくれた人なのだ。

 説教臭いという欠点は、信一の一部でしかない。あまり口うるさいと思ったときは、右から左に流せばいいだけだ。

「哲太。これから年末に向けて、仕事はどんどん過酷になっていくが、身体に気を付けて、どうにか正月まで乗り越えろ。一年の仕事を終えたとき、これまでの人生とは、まったく違った景色が見えるはずだ。新年会で飲む酒の味は格別だぞ」

 大丸食品の工場では、毎年、工場が休みとなる一月二日に、派遣社員だけが参加する新年会が開かれるのが恒例となっている。

 工場での生産は、世間がクリスマスに浮かれる十二月の後半にピークを迎え、正社員などは家にもロクに帰れなくなるほどで、派遣社員たちの負担も増大し、毎日フル残業は当たり前、休日出勤も始まる。

 だからこそ、すべてが終わった後に飲む酒の味は最高なのだと、信一は言う。塚田はそれはきっと、苦労を分かち合った仲間と一緒に飲むからだろう、と思った。

 仕事で身体を痛めつけたから酒がうまくなるというんじゃ、ただのマゾである。一緒に何かをやり遂げた仲間と飲む酒だから、一人で飲むよりずっとおいしく感じられるのだ。

「私も十二月の終わりには、いったんこの子を実家の両親に預けて、短期で応援に行くから。それまであんたが、はんぺんラインを支えていくのよ」

「頑張れよ、エース」
  
 塚田には、「新年会」の予定が、楽しみで仕方なかった。

               
                             ☆


「違った景色ってなんだよ。ヤクでもやってんのか、あのオッサン」

 工場から、バスで駅へと向かう経路にある河川敷。コンビニで買ってきたワンカップを飲み干した寺井が、焼き鳥を頬張りながら、塚田が報告した、昼間の信一の発言を嘲った。

 賞味期限のシビアな食品を取り扱う工場では、通常、生産が二日以上続けて停止になることはない。大丸食品の場合、一週間の休日は、水曜と日曜に定められている。

 土曜日の仕事終わり、塚田はいつも、駅と工場を往復する送迎バスを途中下車し、河川敷で寺井と二人、酒を飲むのが恒例になっていた。

「塚田くんさあ、そういうの聞いて感動しちゃうの?僕とかマジうざったくて、耳が腐っちゃうんだけど」

 信一の話をするときの寺井は、いつもゴキブリを見たときのような顔をしている。精神に異常を抱えている端本や、無能で不潔な及川――塚田が「基地外」を嫌うのと同じかそれ以上に、寺井は信一を嫌っているのである。

「違った景色が見えるかはわからないけど・・・新年会は、楽しみだよ。寺井さんは、新年会には行かないの?」

 もとは信一と同じ伊達巻のラインにいた寺井が、笹かまぼこのラインに移ったのは、今年の一月の、仕事始めのことだった。信一の説教を、それまではぐっと堪えていた寺井が、どうしても我慢できないことが、今年の「新年会」であったのだという。

――今年の新年会で、寺井くんがね。同棲している彼女と籍を入れるようなことを言ったんだけど、そのときうちの人がね、結婚するのだったら、なれるかもわからないシナリオライターなんか目指すのはやめて、堅実に、就職活動をしろ、なんて、余計なアドバイスをしたのよ。多分それで、堪忍袋の緒が切れちゃったのね。

 新年会をキッカケに、寺井が信一を拒絶するようになった決定打を、信一の妻、志保はそう分析していた。

 所帯を持つつもりなら、安定した仕事を探せ。

 至極、真っ当な意見ではある。

 正しいからこそ、受け入れられないこともある。

 寺井がどれほどの思いで、ずっと夢に向かい続けてきたのかも知らず、あっさり「シナリオライターを目指すのなんかやめろ」なんて、塚田からみても、確かにちょっと酷いと思う。相手の気持ちを考えなければ、正論も暴論になるのだ。こういうところは、信一を反面教師にして、自分も気を付けなくてはいけない。

「どうかな・・。昨年とはまた、状況が違うんでな。今年は割と、面白いことになりそうな気がしている」

 寺井が、左の口角をギッと吊り上げた。寺井が時々見せる酷薄な笑みは、不気味ではあるが、妙に魅入られる。

「そんな先のことより、これから忙しくなるから、身体にだけは気を付けろよ。限界だと思ったら休んじゃえばいいし、辞めちゃったっていいんだから。周りのことなんか気にしなくていい。とくに、真崎のオッサンと、同じ伊達巻ラインの牛尾。あの辺のバカどもがほざいてる精神論は、話半分に聞いとけよ」

 同じ繁忙期のことを語るにも、信一と寺井では、意見がまるで正反対である。

 仕事が忙しくなることも肯定的に捉えようとする信一と、キツイものはキツイ、ダメなものはダメとキッパリ言い切る寺井。まさに水と油で、こんな二人が同じラインにいれば、いつかは喧嘩になってしまっていただろう。

「真崎のバカはさ、金も権力もなくて、自分のやりたいことが出来ない鬱憤を、心のキレイさとかいう、わけのわからんもので胡麻化してるだけなんだよ。辛抱我慢を美徳と捉えてるみたいだが、結局我慢しきれてねえから、若いもんに自分の生き方を押し付けようとしてるじゃねえか。貧乏人が聖人君子気取ったって、サマになんねえっつーの。だったら女房とも別れて、坊主にでもなれってんだよな。そこまで捨てきる根性もねえ奴が、人に偉そうにしてんじゃねえっつうんだよ」

 清貧を地で行くような生き様を実践する信一を嘲笑い、忌み嫌う寺井の言葉は、身も蓋もなく、ときに露悪的である。それが逆に、塚田には心地よく感じられる。

 石鹸を口に入れれば誰だって吐き出すように、人は清々しすぎる言葉を、逆に受け付けない。寺井の刺々しい言葉は、正しく生きられない人間を受け入れてくれる優しさに満ち溢れている。

 だから塚田は、職場でただ一人、寺井にだけは、自分がニートの十年選手であることを打ち明けていた。寺井は、塚田の過去を聞いても、特に驚きもせず、同じ「基地内グループ」である村上や凛と、何ら分け隔てなく接してくれた。

 人に何かをしてあげなきゃ、何とか変えてあげなきゃ、という思いが過剰すぎる信一と違って、寺井は塚田のあるがままを受け入れてくれるのだ。

「あ、あの。寺井さん。前から言いたかったことがあるんだけど・・・」

 好きな寺井だから、直して欲しいこともある。今日、塚田は寺井に、それをお願いしようと思っている。

「直して欲しいこと?なに?まさか塚田くんまでこの僕に、飯食うとき、噛まずに飲む癖をなくせって?塚田くんまでそういうこと言うの?及川さんみたいに、くちゃくちゃ音を立てて食うよりマシだと思うんだけどなぁ」

「い、いや・・・そうじゃなくて」

 寺井は塚田が大事にする「基地内グループ」の中でも、際立って異質の存在である。ひとつひとつを上げればキリがないが、つまるところ、それは彼が、塚田がやりがいを感じている工場の仕事にまったく意欲がなく、非協力的だというところに集約される。 

 それはそれで改めて欲しいところだが、人には人の考えというものがあり、みだりに自分の価値観を押し付けたりしてはいけない。寺井のように、自分をしっかり持っている人にそれをすれば、信一のように嫌われてしまうだろう。

--世間じゃ派遣は悲惨だって言われるけどさ、それは真崎のクソジジイみたいに、頑張っても報われないヤツのことを言うんだ。どうせ報われないんだったら、最初から何も求めなきゃいいし、何も目指さなきゃいいんだよ。僕らは給料が安いかわりに、大して期待もされない気楽な派遣労働者。適度に手を抜きながら、時間をやり過ごすことだけ考えればいい。そう割り切れば、世間で言われてるほど惨めなもんでもないんだから。頑張るんだったら・・・・。

 いつかの河川敷飲みで、寺井が言っていたことだが、こういった考えを金科玉条としている人に、「仕事に意欲を」などといったら、反発して余計に頑なになってしまう。人の考えを変えたいのだったら、相手が正しいと思っていることを、頭ごなしに否定してはいけないのだ。

「あ、あの、大したことじゃないんだけど・・・・」 

 塚田が今日、これを機に寺井に改めて欲しいと思っていることは、価値観や信念というほど大げさなものではない。しかし、塚田にとってはある意味で、寺井が工場の仕事に意欲がないこと以上に、我慢できないことであった。

「なんだよ。もったいぶらずに、早くいえよ」

 深呼吸を一つ置いた。塚田は意を決した。

「寺井さんの名前、てらいさん、だと、言いにくいからさ・・下の名前で・・・誠也君を縮めて、せいくん・・って呼んでいいかな。それで、僕のこともさ。てっくん・・って呼んで欲しいんだけど」

 人の名前の呼び方。ほかの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないが、塚田にとっては、何より大事なことだった。

 保育園に通っていたころ、塚田は親しい友達と、互いを下の名前、もしくは、ニックネームで呼び合っていた。それが小学校に入ったころから苗字呼びが増え出し、中学校でそれが当たり前になった。

 自分が、学校を嫌いになった原因の一つ――変なこだわりなのかもしれないが、親しい者同士、苗字にさん付け、くん付けなどという、他人行儀な呼び方をするのは、塚田にとって、どうしようもなく耐えられないことなのだ。

 信一さん。志保さん。ムラさん。リンリン。塚田は「基地内」の人を、みんな、下の名前か、ニックネームで呼んでいる。みんなもまた、信一からは哲太、志保からはてっくん、凛からはてっちゃん、村上からは哲太くんと、塚田のことを、下の名前、あるいはニックネームで呼んでくれている。

 「基地内」の中で、ただ一人、寺井とだけは、下の名前、あるいはニックネームで呼び合えていない。それが塚田には、喉に突っかかった小骨のように、ずっと気になっていた。

 自分に対する呼び名の中で、塚田は、志保から呼ばれる「てっくん」を一番気に入っている。できれば寺井からも、そう呼んでほしかった。
 
「・・・・?」

 塚田の提案に、寺井はわけがわからないといった感じに眉をひそめ、首を傾げた。

「呼び方なんて、なんでもいいよ」

 ゲアッ、と、大きなゲップを放ちながら、寺井が言った。

「・・そ、そっか。そうだよね」

「もう日も暮れてきたし・・この辺でお開きにしようか。塚田くん」

 そのときはそれほどでもなかったが、家に帰ってから、ずーんと重たいものが圧し掛かってきた。

 お互いの呼び名を、親し気のあるものに改めようという塚田の提案を、「どうでもいい」と流される――。

 寺井の言い方は、けして悪意のあるものではなかったが、塚田の心を確実に抉った。

 キッパリと、却下されたのならまだよかった。寺井には寺井の意志があって、親し気な呼び方は嫌だというのなら、これまで通り、他人行儀な呼び方をすることに、まったく異存はなかった。

 人には人の考えがある。相手の意志を尊重したうえで、自分はこうしたい、というのであれば、塚田は素直に従うつもりだった。

 しかし、「どうでもいい」というのは・・・。それは、親しい者同士は、下の名前かニックネームで呼び合いたいという塚田の意志を、まるっきり否定されたことにならないだろうか。愚にもつかないことに拘っているつまらないガキと、バカにされているかのようにも感じる。

 最後、寺井は塚田の提案をまるで無視したように、塚田を「塚田くん」と呼んだ。おそらく、苗字呼びは、これからも継続されるのだろう。塚田はそのたびに、変なことにこだわって、恥ずかしい提案をし、あっさりと流された自分の「黒歴史」を思い出さなければならない。

 呼び方なんて、どうでもいいよ。どうでもいいなら、こっちの提案を呑んでくれてもいいじゃないか!どうでもいいと流された上に、こちらの意向はまるで反映されていない。この結果では、塚田にまったく立つ瀬がない。

 このままでは、寺井に対して、複雑な感情が蟠ったままになってしまう。だが、終わった話を蒸し返したりしたら、しつこい、粘着質な野郎だとか思われてしまう懸念もある。

 お母さんが作ってくれた夕食も喉を通らない。テレビを観ても、ちっとも頭に入ってこない。

 塚田はスマホを取り出し、寺井とのLINEを起動した。

 まずい、とはわかっていた。人は面と向かうのではなく、文字情報でのやり取りになると、つい気が大きくなって、言葉が強くなってしまう。中学時代、塚田はそれを痛いほどよく思い知っている。しかし、頭がモヤモヤして、ムシャクシャして、どうしようもない。

 本当に、送信するわけじゃない。ただ、自分を静めるために、自分の今の率直な気持ちを、文章にするだけだ。そう言い聞かせながら、塚田はタッチパネルを操作した。

 いくら仲の良い人でも、半年間も付き合っていれば、不満の一つや二つは出てくる。これまで頭の中にチラついていたことを、文字に起こしているうちに、段々、テンションが上がってきた。

 書きあがった文章を眺めると、なんだか、自分がとても正しいことを言っているように思えた。自分が正しいと思うと、これを相手にぶつけたい、ぶつけないと気が済まない、と思うようになった。

 火照った指で、送信ボタンを押した。スポン、と小気味のいい音がして、塚田の会心のメッセージが、画面に表示された。


 お疲れ様。早起きの寺井さんは、もう休んでいる時間かな。

 今日の酒飲みでは有意義な話ができたと思うけど、本当は、寺井さんに言いたいことは、もっと沢山あったんだ。

 まず、寺井さんは、最近の十分休憩で、プロ野球の話ばっかりしているよね。そのとき、僕が全然、みんなの話についていけていないのを、寺井さんは気づいているかな?あのとき、僕がどういう思いをしているか、寺井さんにはわからないかな?

 僕も自分が何もせず、ただ拗ねているわけではないよ。

 前に、みんなで一緒に、カラオケに行っていたとき、僕は好きなアニソンを歌いたいのを我慢して、みんなが知っているような、有名な曲を歌っていたのを覚えているかな。

 一人カラオケではないのだから、歌いたい歌を歌えばいいというもんじゃない。自分の好みを人に押し付けるのは間違いで、大勢の人とカラオケをするときは、みんなが盛り上がれるように配慮をしなければいけないと思ったから、そうしたんだ。僕だけじゃなく、志保さんやムラさんも、そうしていたよね。

 だから寺井さん・・いや、あえて、せいくん、と呼ばせてもらうけど、僕と同じようにせいくんだって、休憩中に輪になるときは、みんなが参加できるような話題を振らなければいけないと思う。いくら、自分がプロ野球が好きであろうと、輪の中に、プロ野球に興味がない人が一人でもいるとわかっているのなら、その話題は避けるべきではないのかな。 

 自分から積極的に話題を提供するタイプではないムラさんやリンリンには、期待しても仕方がない。輪の中心となれるせいくんが、それこそ、バラエティ番組の司会者のように、僕にも均等に話を振ってくれたり、僕がついていけるような話題を提供してくれれば、僕が十分休憩の時間、蚊帳の外に置かれることはなくなるんだよ。

 こっちがやっていることをやってくれない。できることをやろうとしない。だから、僕はせいくんに、不満を抱いているんだよ。

 せいくんに対する不満は、プロ野球のことだけじゃない。

 せいくんは、僕が、食堂で昼食を終えてお盆を返すとき、厨房で調理や食器洗いをしているおばちゃんにいつも、「ごちそうさま」を言っているのを知っているかな。それは知らなくても、同じように、送迎バスを降りるときに、バスの運転手さんに、大きな声で「ありがとうございます」を言っているのは、何度も聞いていると思う。僕だけでなく、ムラさんも、リンリンも、志保さんも、僕らがいつも遊ぶ人はみんな、おばちゃん、または運転手さんに、挨拶をしているんだけど、せいくんは意識したこともないかな?

 せいくんだけだよね。仲良しグループの中で、ただ一人だけ、食事を終えてもおばちゃんに「ごちそうさま」を言わないし、送迎バスを降りるときにも、運転手さんに「ありがとう」を言わないのは。

 たしかに、食堂のおばちゃんにしても、送迎バスの運転手さんにしても、仕事でやっているのだから、わざわざ礼を言う必要はない、というのも一理ある。

 だけど、僕はぶっきらぼうな運転手さんが、「ありがとうございました」に手を上げて返礼してくれたときは、一日頑張ろうな、今日はいい仕事したな、と、清々しい気持ちになるし、「ごちそうさまでした」を言ったあと、おばちゃんが笑顔で「いつも食べに来てくれてありがとうね」と返してくれたときは、さっき食べた昼食の味が、二倍、三倍にも美味しくなったような感じがするよ。

 そういう、職場での小さな、人と人とのコミュニケーション・・。お互いが、必要とされているんだという確認。それって、大事なことなんじゃないかな?自分一人ではやる気が起きなくても、仲の良いグループのみんながやっているのを見たら、自分もやってみよう、という気にはならないのかな?

 仕事のことだってそうだよ。せいくんが自分の夢を追っているのはわかるけどさ。もう少し、目の前のことに、真剣になってみてもいいんじゃないかな。仕事を頑張るのに、無駄なことなんてないと思う。今の仕事は、せいくんの夢にも、きっと繋がっていると思うんだけど、どうかな?

 ぶっちゃけ言うけどさ、せいくんは、もっとみんなに合わせることを、考えるべきなんじゃないのかな?だからあえて、僕は寺井さんを、せいくんと呼ばせてもらった。この意味は、頭のいい寺井さんならわかるよね。

 僕はせいくんのことを友達だと思っているし、ここで出会ったみんなとは、一生の付き合いにしていきたいと思っている。だから、どうしても我慢できないと思ったことは、直接相手に言うことにしたんだ。溜め込むのが、一番いけないからね。

 せいくんも、僕に対する不満があったら、溜め込まずに言ってね。直せるところだったら、直すからね。そうすることが、お互いのためにいいことだからね。それじゃあ、お休みね。

                                                 てっくんより


 会心のはずだったメッセージは、二時間ばかり経って、頭が冷えてくると、痛恨のメッセージにしか見えなくなった。

 やらかしてしまった――――。まずい兆候が表れているとわかりきっていたのに、やってしまった。

 本当にこれを自分が書いたのか、信じられなかった。なんだ?この独りよがりな、勘違い野郎丸出しのメッセージは。顔から火が出る・・いや、顔ごと体からもぎ取って、土に埋めてしまいたかった。

 不幸中の幸いは、二十三時三十二分、いま、早起きの寺井が寝静まっている時間帯であることだ。さきほどのメッセージが既読になる前に、適切な事後措置を取る猶予がある。



 ごめんね。さっきは熱くなりすぎた。さっき送ったメッセージは、全然気にしなくていいからね。ほんとにくだらないことだから、読まなくてもいいからね。ごめんね。



 翌朝、震える手でLINEを起動すると、昨晩のメッセージは既読になっていたが、返信は届いていなかった。

 寺井は塚田の頼みをきいて、「やらかし」メッセージを読まずにスルーしてくれただろうか。読んでしまったとして、気にしないでいてくれただろうか。怖くて、本人にはとても聞けなかった。

 寺井から返信がないのは、彼が怒っているからか?「やらかし」メッセージを、村上や凛に回されたらどうする?

 無限に増殖する不安――。せっかくの日曜日、塚田は一分一秒たりとも、休んだ気になれなかった。

 これを恐れていたのだ。これまで、危ない綱渡りを何度も乗り越えて、「基地内」のみんなと良好な関係を築けていたが、ここで落とし穴にハマってしまった。

 暗い部屋の隅っこには、もう戻りたくない。どうすればいい――?

犯罪者名鑑 畠山鈴香 4


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 メディアスクラム


 警察の大捜査の結果、豪憲君の遺体は、事件の翌日、近所の藪の中から発見されました。

 警察は豪憲くんの首に、抵抗した際にできる策条痕が見つかったことから、死因を何者かによる絞殺と判断。すでに事故として処理した、彩香ちゃん事件も含めて捜査を開始します。

 当初、鈴香は米山さんの家に、「子供を失くした親同士、助け合っていきましょう」などと、励ましの手紙を送るなど、被害者を装う行動を取っていました。しかし、この時点では、豪憲くんの父、勝弘さんを含め、近隣住民の誰もが、鈴香に疑いの目を向けるようになっていました。

 小さな田舎町で二人の子供が相次いで命を落とすという事件を嗅ぎつけたマスコミは、大規模な「メディア・スクラム」を組んで、能代市を訪れます。今でも当時の動画がみられますが、黒服の男たちが寄ってたかって鈴香や鈴香の家を取り囲み、取材攻勢をかける姿に、近隣住民は「ヤクザの抗争みたいだ」と感想を漏らし、子供たちはずっと怯えていたといいます。

 現場には、大量の弁当の殻やタバコの吸い殻が捨てられているなど、報道関係者のマナーの悪さは目に余るものがありました。

 このように、まだ容疑が確定していない事件を面白おかしく騒ぎ立てるマスコミの悪質な報道は、和歌山毒入りカレー事件などでも見られました。無実の父を犯人だと決めつけるような報道がされた香川・坂出三人殺害事件などは、メディア・リンチともいうべき、卑劣な犯罪行為といえるでしょう(みのもんたの苦虫を嚙み潰したような顔が、今でも印象に残っている人は多いはずです)。

 鈴香は自分を犯人と決めつけるようなマスコミに怒りを顕わにしていたようでしたが、あるいは、注目されることに喜びを感じていたのでしょうか。

 豪憲くん殺害からおよそ半月後となる、六月四日。鈴香はとうとう逮捕され、大勢の警察とマスコミに取り囲まれながら、能代署に連行されていきました。

 警察の取り調べで、鈴香はすぐに豪憲くん殺害を自供。また、当初事故として処理されていた、彩香ちゃんの殺害についても認める供述を始めました。


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 真相



 鈴香の供述により明らかとなった、彩香ちゃん殺害事件の真相は、以下のようなものです。

 2006年4月6日夕方、突然、「サカナがみたい」と言い出した彩香ちゃんを、鈴香は車で、藤琴川にかかる大沢橋の上に連れて行きました。

 大沢橋はサクラマスの絶好の釣り場だということを、かつて、釣り具店に勤めていた鈴香は知っていました。しかし、もう辺りは薄暗くなっており、橋から見下ろしても、川を泳いでいる魚がみえるはずもありません。鈴香は「また連れてきてやるから、もう帰ろう」といいますが、彩香ちゃんはいつまでもダダをこね、橋の欄干から川下を見つめたまま、いつまでも離れようとしません。

 苛立った鈴香は、彩香ちゃんに、「川がみえにくいなら、欄干にあがれば」と提案しました。そのようなことを言った目的について、鈴香は、「欄干に上がるのは怖いから、家に帰ることに同意するはずだと思った」と語っていますが、鈴香の意に反し、彩香ちゃんは鈴香の言葉を真に受け、本当に橋の欄干にあがり、腰かけてしまいました。

 ここからの、「殺意の有無」というのが、事件の焦点となっていきます。鈴香の当初の主張は、鈴香は「彩香ちゃんが誤って川に落ちた」というものでしたが、警察の取り調べを受ける中で「欄干に上った彩香ちゃんの背中を押した」と、殺害を行っていた事実を認めます。しかし、裁判となると一転、「彩香ちゃんが誤って落ちた」と、再び殺意を否認するようになります。

 警察がしばしば強引な取り調べを行うことはよく知られており、意志薄弱な鈴香が、誘導にハマって調書にサインをしてしまったということは十分考えられます。鈴香の言う通り、彩香ちゃんは事故死であった可能性も考えられますが、裁判所が出した結論は、「殺害はあったが、殺意は衝動的なもので、計画性はない」というもので、殺害の事実は認められることになりました。

 しかし、そうだとすると、もう一つの疑問が残ります。

 大沢橋は地上から8メートル上にかかっており、数年前、この大沢橋から、自殺目的で飛び降りた男性は、川底に打ち付けられて即死であったということでした。しかし、同じ高さから落下した彩香ちゃんの遺体からは、目立った外傷が発見されなかったのです。さらに、大沢橋から彩香ちゃんが発見された現場までは数十メートルの距離があり、そこまで川を下ったのだとするのなら、擦り傷や切り傷があるのが自然です。

 彩香ちゃんは本当に、大沢橋から落ちて死んだのでしょうか?

 不自然な点も残りましたが、「大沢橋の欄干に自らの意志で上った彩香ちゃんの背中を鈴香が押し、落下した彩香ちゃんは溺死し、発見現場まで流された」というのが、事件の最終的な結論となりました。


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 騙し討ち


 鈴香の裁判が開始されましたが、当初から、鈴香の供述は二転三転し、裁判官は苦労を強いられます。

 すでに述べたように、争点となったのは、「殺意の有無」。彩香ちゃん殺害は、本当に鈴香の仕業であったのか。裁判では、模型なども用いられ、犯行時の様子をできるだけ詳しく再現しようとする試みが行われましたが、鈴香本人の記憶も曖昧になっている部分もあり、この件は結局、冤罪説も拭えない消化不良の結末を迎えてしまいました。

 一方、豪憲君殺害事件の方は、鈴香の犯行で間違いないということが、第三者にも納得のいく形で立証されました。

 被害者遺族である米山さんは、裁判での鈴香の態度に、非常に腹を立てていました。私の記憶にも、豪憲くんの名前を「ごうげんくん」と、濁った発音で言う鈴香の姿が残っています。悪気なく人を傷つけるタイプであったのかもしれません。

 鈴香は拘置所の中において、精神鑑定の一環として、自分の率直な心境を綴った日記を書いていました。その内容が、どういうわけかマスコミに流出し、裁判での鈴香の心証を著しく悪いものにしてしまいます。

―豪憲くんに対して後悔とか反省はしているけれども悪いことをした罪悪感というものが彩香に比べてほとんどないのです。ご両親にしてもなんでそんなに怒っているのかわからない。まだ二人も子供がいるじゃない。今まで何もなく幸せで生きてきてうらやましい。私とは正反対だ。よかれと思って何かしていても裏目に出てしまった。正反対の人生を歩いて羨ましい。そう思って悪いことなんだろうか?

 検事はこの日記の内容をもちだし、鬼の首を取ったように鈴香を責め立て、豪憲くんの遺族も深い憤りをあらわにするのですが、そもそも、なぜこのような日記が簡単に流出してしまったのでしょうか。精神科医がマスコミや、あるいは検事から何らかの騙し討ちにあったのかもしれませんが、それにしても、あまりにもお粗末な話です。

 精神科医は、この日記が表に出ることで、どのような影響があるか想像できなかったのでしょうか?もし、精神科医が自らの意志でマスコミに日記を公開していたとしたら大問題で、守秘義務違反にも当たるはずです。

 あの光市母子殺害事件でも、同じようなことが起こりました。

 犯人、福田孝之は、拘置所で親しくなった友人と手紙のやり取りをしていました。最初のうちは、とりとめのない日常会話で、自分の起こした事件への反省の弁も書き連ねられていたのですが、互いに気の置けない関係になると、持ち前の浅はかな性格が現れ、内容が過激なものになっていきます。


『誰が許し、誰が私を裁くのか・・・。そんな人物はこの世にはいないのだ。神に成り代わりし、法廷の守護者達・・・裁判官、サツ、弁護士、検事達・・・。私を裁ける物は、この世にはおらず・・・。二人は帰ってこないのだから・・・。法廷に出てきてほしいものだ・・・何が神だろう・・・サタン!ミカエル!ベリアル!ガブリエル!ただの馬鹿の集まりよ!』

『知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君』

『犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは罪でしょうか』

『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』

『選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある』←『罪と罰』の引用らしいですがね

(死刑判決を免れて)『勝ったと言うべきか負けたと言うべきか?何か心に残るこのモヤ付き・・・。イヤね、つい相手のことを考えてしまってね・・・昔から傷をつけては逃げ勝っている・・・。まあ兎に角だ。二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ。長かったな・・・友と別れ、また出会い、またわかれ・・・(中略)心はブルー、外見はハッピー、しかも今はロン毛もハゲチャビン!マジよ!』

(被害者の夫、本村氏について週刊誌の実名報道を踏まえて)『ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし』

 
 この手紙が交わされた当時、友人はすでに出所していたのですが、執行猶予期間中でした。長引く裁判を有利に進めたい検察の命令があったのでしょう。このとき、別件で訪れた警察が、会話の中で、さりげなく友人に、「福田孝之の手紙を一枚、提出ほしい」と頼みます。

 強制的なものではありませんが、断ればどんな難癖をつけられて、執行猶予を取り消されるかわかりません。また、友人はもともと精神が不安定で、このときはたまたま、余裕のない状態にあり、「どうせ、それほど大事にはならないだろう」と安易な考えで、福田孝之の手紙を警察に渡してしまいました。

 結果――裁判において、手紙は「福田孝之がまったく反省していない」ことを証明する材料として使われ、裁判官の心証を著しく損ねる結果となりました。

 確かに、福田孝之の手紙の内容は被害者遺族にとって許しがたいものではあります。しかし、だからといって、こういう騙し討ちや、裏取引のような形で巻き上げた私的な手紙を、公式な裁判の場で持ち出すようなやり方は、やはりよくないと思います。罪を犯した者には、誰かと本音で語り合う権利もないというのでしょうか?

 日本やアメリカという国では、「悪いことしたヤツには何をやってもいい」という考え方がまかり通っていますが、公正を重んじる司法の場が「なんでもあり」になってしまうのは、問題ではないでしょうか。

 福田孝之と手紙のやり取りをしていた友人は、この件で激しく精神を病み、通院を余儀なくされるようになってしまいました。

 こんな手紙を公開することが、果たして被害者遺族のためになったのでしょうか。頑強に抵抗を続ける死刑反対論の弁護士を批判する意見もありますが、私はそもそも、反省どうこうを過剰に判決に反映させようとする日本の裁判に問題があると思います。基本的に、罪人に反省などは期待できないものとし、事実関係のみでドライに判決を下すという方向には持っていけないものなのでしょうか。

 彩香ちゃん事件がうやむやの形で終わってしまったこともあり、判決は、子供を二人殺害した罪としては軽いといえる無期懲役が下され、鈴香は女子刑務所へと送られました。

 女子刑務所のヒエラルキーは、子殺しが最下位です。刑務所の中の鈴香は、いったいどのような扱いを受けているのでしょうか。


 総括:畠山鈴香は、幼い子どもを殺す許されざる事件を起こしました。しかし、私は畠山鈴香という女が根っからの悪人であったかというと、そうではないと思います。

 本人の生育環境を抜きにして考えれば、悲しい事件が起きた一番の原因は、子供を育てる力のない女が、子供を持ってしまったことにあると、私は考えます。

 育てられないのなら、手放すのも愛情。鈴香にこれを言ってあげる人はいなかったのでしょうか。もしいたとして、鈴香はなぜ手放せなかったのか。

 事件に対し、少なくない数のシングルマザーが、「鈴香の気持ちもわかる」と、共感を示していました。そこで踏みとどまるか、踏み越えるかは大きな差ですが、「一瞬、我が子がいなければ」と思った経験は、多くの親があるということです。

 日本は欧州に比べ、子を持つ貧困家庭への援助があまりにも遅れています。子供を育てるのも自己責任と突き放す国に、果たして未来はあるのでしょうか。

 畠山鈴香 完
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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