犯罪者名鑑  麻原彰晃 24

 
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  ドイツ旅行

 
 坂本弁護士を殺害することに成功した麻原は、幹部たちを連れ、西ドイツに旅立ちました。旅の目的は、警察の捜査を恐れ、海外に一時身を隠して様子を伺っていたのだと言われていますが、麻原はもともと海外旅行が大好きで、ただの観光目的だった可能性もあります。

 麻原はドイツの他に、中国、インドなどを歴訪しており、中国に滞在していたときには、自分は貧農の子から皇帝にまでのし上がった、明の朱元璋の生まれ変わりだということを語っていますが、同じく、ホームレスという最下層階級(孤児恩給により食う金には困らなかったそうですが)から欧州の覇者にまで上り詰めたヒトラーにも、何らかの憧れを抱いていたのかもしれません。

 ドイツのホテルで、坂本弁護士宅に指紋を残した村井と早川は、麻原から、指紋を焼いて消すように命じられました。早川は熱さに耐えかねて、焼いた鉄板から何度も指を離してしまったそうですが、「麻原愛」溢れる村井は「グルのために、真理のために!」と叫ぶと、ずっと鉄板に指を押し当て、指紋をキレイに一発で焼いてしまいました。

 陰険な性格で、信徒のほとんどから嫌われていた村井ですが、嫌われ者ゆえに、唯一自分を大事にしてくれる麻原への尊崇の念は、誰よりも強かったようです。

 しかし、熱さと痛さに耐えたのは何の意味もなく、日本に帰って、火傷が治ると、指紋はすべて浮かび上がってしまい、結局、村井と早川は、医師である中川智正の手で、指紋を消去する手術を受けることになりました。

 手術を終えた後の痛みは半端ではなかったようで、早川は術後しばらく、端本悟から身の回りの世話を受けていました。村井も何度も、中川に痛み止めを所望していましたが、中川はプルシャの件で村井にイヤミを言われたのを根に持っており、薬があるのに渡さなかったりと、「適当に意地悪」していたそうです。


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 総選挙出馬


 日本に帰ると、麻原は、坂本弁護士を殺害するそもそもの動機となった、総選挙出馬の決断をします。

 出馬の目的は、表向きには、「マハーヤーナ路線」ということになっています。マハーヤーナとは、大乗の教えに乗っ取った救済方法のことで、オウム流にわかりやすく言えば、できるだけ平和裏に、犠牲が出ない形で世界を救うということです。

 実際には、おそらく創価学会の例を見て、政治に関与することで、教団のますますの拡大を図ろうとするビジョンがあったのでしょう。それにしても、選挙に出馬するには多大なリスクがあるもので、おいそれと決断できることではないと思いますが、麻原は成功に驕り過ぎて誇大妄想に走ったのだとか、反対に、当時、教団は暴力団に付きまとわれて深刻な財政難に陥っており、麻原も追い詰められていて、一発逆転を図ったのだ、という見方もあります。

 消費税廃止などの公約を掲げ、「真理党」として選挙に打って出たオウムでしたが、マスコミからは、当選の見込みが少ない泡沫候補の扱いを受けており、報道の面では不利な状況にありました。事態を打開するため、オウムは、様々な努力を開始します。信者の住民票を選挙区に移す、深夜や早朝に外に出て、ほかの候補者のポスターをはがす(新聞配達のバイクが通りがかったときは、「ラジオ体操のフリをする」)。世界の救済を謳っているわりには、やっていることが地道すぎます。

 オウムが票を得るための努力の多くは、使い古されたありがちな手段であったり、救済者を名乗っているにしてはあまりにもセコイ手段でしたが、唯一、得票には結びつかないまでも、人々の心に深く突き刺さり、社会に大きな印象を残したものがありました。次項でそれを紹介します。

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 オウムソング



 選挙戦の中で、渋谷の街では、麻原が歌う「オウムソング」が、毎日のように、街宣車のスピーカーからかき鳴らされていました。駅前では、麻原のお面を被った信徒たちが、オウムソングに乗ってノリノリでダンスを踊るなどして、本当にこの国を変えてくれると期待されていたかはともかく、人々の視線は集めていました。

 オウムソングはユーチューブなどで、今なお多くの人に視聴されています。今回は代表的なオウムソングをいくつか取り上げてみたいと思います。

 まずは、

 「しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこーあーさーはーらーしょーこー」

 でおなじみの、「尊師マーチ」。おそらく、もっとも有名なオウムソングで、 私や私の少し上の世代なら、小学生のころ、音楽の時間に、リコーダーや鍵盤ハーモニカで演奏した経験がある人は沢山いると思います。

 この曲はオリジナルバージョンと選挙バージョンの二種類とがあり、選挙バージョンの方には、「若きエースだ」という歌詞も出てきますが、選挙のとき、実は麻原はまだ34歳でした。髭面、肥満体のふてぶてしい姿はどうみても50くらいにしか見えませんが、国会議員としては若手も若手、今の麻生太郎や小沢一郎などから見れば、「小童」といっても差し支えない年齢だったのです。

 34歳といえば、ちょうど「嵐」のメンバーと同じ世代です。麻原が「嵐」に混じって、ステージで歌を歌っていても、おかしくはないということです。あの髭面の豚親父が、「嵐」の連中のセンターに立って、武道館で「尊師マーチ」を歌い、ジャニーズファンの女どもに悲鳴を上げさせているところを、私は見てみたいです。

 続いて、「しょしょしょしょしょしょしょしょーこー」でおなじみの、魔を祓う尊師の歌。これもリコーダーや鍵盤ハーモニカで演奏しやすく、小学生に大人気の曲でした。子供はくだらないことを考えるものですが、隣のクラスで、しょうこちゃんという女の子をからかって泣かせていたり(私じゃないよ)、「インコ真理教」とか意味もなく言って喜んでいたりしていたのを、私はよく覚えています。

 「超越神力」は8分もある長い曲ですが、宗教の歌というよりも麻原の人生そのものを歌っているような深みが感じられ、私がオウムソングでもっとも好きな曲です。歌詞はオウムの特色である「自力救済」を歌ったもので、このように「自分も救世主になれる、世界を救える」と、善行がしたいという人の心を巧みに煽ったのが、オウムがあれほど信徒数を増やした理由の一つでした。

 「私はやってない、潔白だ」で知られる「エンマの数え歌」は、よく、一連の事件でオウムに疑いの目を向ける警察や世間に対する弁解のため作られた曲と勘違いしている人がいますが、実際には、事件よりも前に作られた曲で、地獄に堕ちた魂のストーリーを歌った内容です。麻原が歌っているのもいいですが、フリーゲームソフト「麻原の野望」で、ラスボスの森総理大臣との戦いで流れるアレンジが最高の神曲で震えます。ニコニコ動画で今も聞けると思います。

 オウムソングはどれもメロディが単調で、フレーズが耳に残りやすく、宣伝のための曲としては非常に有効で完成度の高い曲だと言われています。こうした優れた曲を作れる人材が揃っているというのは、オウムにはやはり、高学歴など能力のある人を引き付ける何かがあったのでしょう。

 選挙では惨敗しましたが、オウムソングは多くの人々の脳裏に、麻原やオウムという団体の記憶を刻み付けました。

 布教に音楽を利用したのはマンソン・ファミリーなどと同じ手法です。90年代に入り、教団は信者数の上でのピークを迎えますが、オウムソングを聞いたのをキッカケにオウムに興味を持ち、オウムに入ったという人も、少なくはなかったはずです。

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 惨敗

 
 選挙に出馬し、平和路線により世界を救済しようという決意も空しく、真理党は党首の麻原さえ、わずか2000にも満たない票しか得られず、最下位当選者の得票数にも60倍近い大差をつけられる惨敗を喫してしまいます。

「この世界はもはや、平和的な方法では救済できないところまで来ている。世界を救うためには、もはや手段は選んでいられない」

 選挙戦の惨敗を期に、麻原は、なるべく犠牲が出ない形で、世界を救済しようというマハーヤーナ路線とは対極的な「ヴァジラヤーナ路線」へと変更する方針を打ち出します。

 ヴァジラヤーナとは、金剛乗に基づいた救済方法で、オウム流の解釈でいえば、必要とあらば過激な手段をとることも辞さず、救済のためなら、少々の犠牲は仕方ないという考え方です。これ以後オウムは、まさに「ヘルタースケルター」に備えて過激な道に走り出したマンソン・ファミリーのように、「ハルマゲドン」に備えるとの名目で、サリンなどの危険な化学兵器の製造や、軍事訓練といったテロ行為の準備を、着々と進めていくようになるのです。

 振り子が右から左に振れるような極端な変化に至った背景には、選挙に惨敗したことで世間に逆恨みを抱いたとか、供託金の没収により資金難に陥った教団が、破滅に向かって動き出したのだとか色々言われていますが、ヴァジラヤーナの教え自体は選挙の前からあり、麻原がこのとき突然、悔し紛れに言い出したものではなかったようです。

 修行により神秘の力を獲得しよう、世の中の困っている人たちを救おうと決意してオウムに入ったはずの人が、どうして殺人という、もっとも残虐な行為に走ってしまったのか。そう考えたときに、

「人を救おうと思うのなら、まずお母さんから救ってあげたらどうだろう?」

 坂本堤弁護士の言葉が、胸に響きます。マザー・テレサも言っていますが、近くにいる困っている人を見捨てて、遠くの他人を助けたいと考えるのは、「偽善」ではないかと思います。

 千里の一も一歩より。いきなり大きなことを考えている時点で、彼らは、本当に人を救いたいのではなく、人を救う自分に酔いたかっただけではないか。ある意味、麻原のような悪人に付け込まれてもおかしくない、邪な考えの持ち主だったのではないか。

 厳しい見方をすれば、そういうことになります。

 第四章 完
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感謝の気持ち しばし別れのご挨拶

 読者さんが私との約束を守ってくださったお陰で、無事にコメント数のノルマを達成できましたので、最後にこの不定期更新期間の総括的な記事を書かせていただきたいと思います。

 サイトの更新を再開した際、最近このサイトを知ったという方が新しくコメントをくれたとき――。また、3か月も更新を停止し、コメント返信すら怠っていたにも関わらず、多くの常連さんがチェックを続けてくれていたのがわかったとき、私は本当にうれしい気持ちでした。当時、私の作品が某賞の一次選考を通過したのと相まって、すごく気持ちを前に持っていくことができました。私の中では、4月末に定期更新を中断したところで一区切りついており、最後まで残ってくれた方にはみんな感謝しているのですが、8月からの不定期更新期間にもコメントをくれた常連さんには特別に重ねて感謝をしています。
 
 不定期更新期間は、小説を書く前のウォーミングアップとして、気持ちを前に持っていく手段として、私の方としても大変効果的に利用できましたが、ひとつ心残りだったのは、最後に連載させていただいた「考え方の変化」シリーズにおいて、肝心の初期からの読者の中で、こちらのシリーズにコメントをくださった方が、たった一人しかいなかったことです。

 3年強もの月日が経てば、お客さんに入れ替わりがあるのも当然のことかもしれません。振り返れば、私の不徳の致すところもあって、これまで多くの読者さんを失ってきたものですが、それでも、「偽善の国のアリス」のころまでは、一年目からの読者さんが一定数残ってくれていたのも事実です。

 「偽善の国のアリス」の連載期間中に、私は、貴重なコメントをくれる読者さんを、二人も失ってしまいました。トラブルの発端となったのは、一人は私に「説教」をしてきたこと、もう一人は、15回の連載を終えた最後の最後のコメントが、自分の近況報告をしたのみだったということでした。

 ・ブログ主に「説教」をする。
 ・ブログ主が提示した話題を無視して、自分語りだけをする。

 こうした行為は、私のところだけでなく、どんなサイトにおいても推奨されない行為です。私の場合、マナー違反があっても、即出禁ということはせず、もっとちゃんとした感想コメントをくださるようならまた笑顔で受け入れますし、二人の方にも、実際にそのようにしてくださるよう、最初は穏やかな返信で促したのですが、結局、彼らは再度コメントをいただけることはなく、おそらく読むの自体やめてしまわれました。

 思うに、彼らは、私がもっと、通常のブログ形式で、自由に雑文を書き散らしていた初期のノリのままでコメントをされてしまったのでしょう。確かに、初期において、私は、今ほど「書く」ということに真剣ではありませんでした。こいつは真剣にやってないな、と思うから、書いている私をなめくさったようなコメントが届くこともある。

 実際、初期には「説教厨」や、私をホストか何かだと思って、ただ自分の話を聞いてほしいだけの人が多数訪れていたのは事実です。「説教」「自分語り」だけをしてくる人は、私にとっては荒らしと大差ない存在ですが、上にあげた二人の読者さんは、私の文章への感想コメントをくれることもたまにあり、私にとっては大切な「お客さん」でした。

 前者の方は、「津島は人間関係を大切にしていない!」と説教されながら、自分が人間関係を大切にせず、説教を最後にいなくなってしまった。偽善アリスの連載開始前、私は、人からどれだけ説教されようが、私の考えが変わることはないと釘を刺したにもかかわらず「説教」をしてきたからには、相当な覚悟があったのだろうと思いきや、あっさりドロンされてしまった。自分で言ったことも守れないような人に説教されたのかと思うと、私も悲しくなりますが、彼にとっても、3年間読み続けた最後がそんなんで終わってしまったのは、さぞ無念だったでしょう。

 後者の方は、もしかしたら、私と「友達」になって、自分を気にかけて欲しかったのかもしれません。ただ、それにしても、「君の話はど~でもい~から、僕の話をき~て」という方とは、「友達」にもちょっとなれないのかな、という気はします。私自身、自分に何の得にもならない、私の話を聞いてもくれない人のお悩み相談をしているほどの余裕がない立場なので仕方ない面もありますが、コミュニケーション力に難のある方が、勇気を持って書き込んでくれたのに、居場所を作ってあげられなかったのは残念に思います。

 いなくなった人のことを言うのは、ここまでにしようと思います。初期の読者がほとんどいなくなってしまったことについても、私の執筆活動を、ただ単に「底辺生活者が喚いている~」と、からかい半分で見ている人が消え、私が本気の本気で底辺からのし上がろうとしており、自分の「作品」を世に残そうとしている、と理解してくれる人だけが残った。そういう風に、前向きに捉えていこうと思います。

 「自分の気持ちを前に持っていく」――。私はそのために、この数か月間、このサイトを利用させてもらいました。前向きな言葉を文字にすることで、自分で自分に言い聞かせ、また、それを皆さんが承認してくれるという一連のやり取りによって、本当に気持ちが前に向いてくる。そういう効果を、確かに実感することができました。

 この不定期更新期間、私はずっと、「サイト運営にしがみ付き過ぎた」という言葉を連呼してきましたが、「何事も前向きに捉える」という観点からいくと、自分がサイト運営をずっとやってきたこも、そんなに卑下する必要はないとも思います。

 前回の読者さんへの返信で、私はサイト運営にしがみ付いていた自分と、アルバイトの警備員にずっとしがみ付いていた折茂が似ていると書きましたが、やっぱり折茂と私とは明確に違うと考え直しました。
 
 折茂はアルバイトの警備員という、続けても上がり目はないとわかりきっている非正規労働にしがみ付き、程々に手を抜いてやればいいものを、糞真面目にやろうとして、いちいち人を追い込むという意味のないことをしていましたが、私の場合は、サイトを大きくして出版社にアピールするという明確な目的があった。それが叶わなかったというのは結果であって、ビジョンはあった。

 折茂の場合は、ただ単に「必要とされる嬉しさ」にしがみ付き、切り上げ時を見失っていただけでしたが、私の場合は、このままじゃやめるにやめられないという絶望の状況でずっと粘り続け、最終的に、ある程度サイトが思うような形になったことで、文学賞への応募という道にシフトする決断ができた。「必要とされる嬉しさ」を理由に、切り上げる決断をした。

 やっぱり、折茂のやってきたことと私がやってきたことを同一に考えて卑下する必要などはまったくない。ただただ自分の貴重な時間をはした金に変えただけで、将来のことを思えばほとんど意味のなかった折茂の警備員時代と違い(あんまり人と比べるのもよくありませんが)、私の場合は、最終的に文章で金を稼ぐという目標への「道」にちゃんとなっていると、前向きに考えてもいいのではないかと思います。

 数日間という短いスパンの中でも、「考え方の変化」がある。そういうことをブログ形式でこれから書いていくのもいいのかもしれませんが、ちょっとやっぱり、十分な見返りがないという状態でこれ以上続けるのは無理なようです。
 
 二年目の後半あたりから、私はずっと、「コメント」を唯一のやりがいにして書き続けていました。コメントをしてもらうということは、読者さんに大切な時間を使ってもらうということであり、読者さんがそれだけ私の書いたものを読みたいと思ってくれている、と判断できる。

 今回、どうしても能力的な問題があって、コメントをする気持ちがあっても、なかなかうまく書けないという意見も頂きました。それを正直に言ってくださったことは、とても良かったことだと思います。

 ※「忙しくて」コメントができないという方もいらっしゃいますが、これは信じないようにしています。そんなに何か月も休みがないほど忙しいわけでもないでしょうし、じゃあ、毎回コメントをくださる読者さんは暇人なのかという話になってしまう。忙しいのが事実だとしても、それも結局、「時間(内に書く能力)がない」という風に解釈させていただいています(数か月に一回でもくれるだけ感謝しなければならないとは思いますが)。

 私もまだまだですが、「できる」人間から見ると、「できない」人の気持ちはわかりづらいものです。世の中には2,3行のコメントも、本当に書くことができない人もいるのかもしれない。そう考えてみてみると、確かに、毎回コメントをくれる読者さんに比べて、たまにコメントをくれる読者さんのコメントは、なんとなく「しんどそう」にも見えます。

 応援してくれる人に「しんどい」思いをさせてまで、続ける意味があるのだろうか・・・。結局のところ、コメントというものを頼りにして書き続ける、というスタイルに、限界が来ているのだと思います。

 また、ちょっと更新をお休みしようと思います。

 今回、更新を再開した理由は、偽善の国のアリスで補足したい部分があったこと、サイト運営上で、どうしても許せないと思った、一部の行儀が悪い読者への感情を吐き出したかったことでしたが、それをひとまず達成できて、私の気は済みました。

 また、どうしても書いておかなければならないこと、吐き出したいことが溜まってきたときに、ちょっと更新をしてみようかと思います。

 そのときはまた、コメントの方をよろしくお願いします。「したくてもできない」方もいるのはわかりましたが、それでもやはり今の私には、コメントしかないんです。プロから声がかからないこと、そのこと自体は本当に悔しく思う。だけど、一定の見返りがないと、私も書けません。

 願わくは、今度はプロとして皆さまの前に現れ、中断している作品を最後まで仕上げたいと思いますが、もし、アマチュアの立場のままで書き続けなくてはならなかったとするならば、そのときは、お金の代わりに、皆さまからの声援を寄せていただければ、と思います。
 
 麻原24は近日中に更新します。

サイト開設当初から 考え方の変化 5

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 最後に神山のことですが、ヤツのことに関して変化したのは、あの記憶を自分の中で、前向きに生かせるようになってきた――生かそうとしている、ということです。

 サイト開設当初に神山のことを思い出すときには、

「神山を捕らえ、まず飽きるまで自分で犯しまくった後、河川敷で拾ってきた汚いジジイにあの女を預け、神山にジジイの子を産ませ、その子供を、金澤に蹴殺させ、その光景を見せつけながら、アホの関口に「自分の恋した女性の幸せを願うのが、男として正しい姿じゃないですかぁ~」と叫ばせながらオナニーをさせ、子供の死体にかけさせながら、野村に「神山のおかげで彼女と出会えた。あーよかったな(その当時はまだその名言は生み出されていませんし、野村のセリフでもないですが)」と叫ばせながら、あの豚まんのような顔を殴りまくり、中尾と深沢には、子供を蹴殺した後で鬱になっている金澤をフェラさせ、腐ったザーメンを全部飲ませ、三人目の講師と加納に関してはただ単に殴りまくり、あとの連中がその光景を見ておいおい泣いているのを眺める」

 という妄想をするだけだったのが、最近というか、サイト運営中に徐々に変わってきて、私が一定の成功を収めたのち、なんかのキッカケであの連中に再会して、得意げに振舞ったりするといったようなシーンを想像するようになりました。

 その想像の内容は恥ずかしいので、ここでは書きませんが、そうしたことは自分のモチベーションを掻き立てるために大事なことで、下積み時代にそういうことを実践していた成功者は沢山いたそうです。具体的に成功を実現するための努力をしているなら、ただの「妄想」にはならないはずです。

 当時の連中――野村や関口らは、私と神山とのことを、「なかったこと」にして終わらせようとしました。

 冗談ではない。私にとって、あの経験は絶対に忘れてはならないことであり、これからの人生の糧にしていかなければならいことである。

 神山が私に対して言い放った言葉の中に、私に「反省しろ」というものがありました。当時の私は、それを「神山にしつこくしたことを反省しろ」という意味だと思い、鬱になっていましたが、慎重にヤツのやったことを振り返った結果、それは「お前のような乞食が、私のようなプリンセスに恋をしたことを反省しろ」という、極めて差別的な、身勝手な意味であったことが判明しました。

 その真相に気が付いた以上、「神山に執着したこと」を反省するのは、神山及び、あの「偽善の国」の連中の都合であり、私には何の得にもならないことです。

 神山が誠実に対応してくれたのに私がいつまでもしつこくしていたのなら、それは私の方がどうしようもないストーカー野郎だということになり、私が全部悪いということになりますが、神山の方が先にナメ腐ったことをしてきたのならおあいこであり、むしろ、鬱にまでなり、今現在の社会的地位が低い私の方が「被害者」ともいえると思います。

 では、あの当時のことで何も反省することがなかったかといえば、そうではありません。

 あの当時のことで、私が本当に反省しなくてはならないのは、「自分の気持ちを誰にも伝えなかったこと」「伝える能力を持たなかったこと」だと思っています。

 このサイトにも、コメントを積極的に下さる読者さんと、そうでない読者さんがいらっしゃいますが、「思い」というのは、相手に「伝え」なければ何の意味もないものです。

 以前、私がレビューの記事を消したときに恨み言を言ってきた読者のことを書きましたが、自分が今でも読んでいることを私にまったく伝えようとしなかったにも拘わらず、私が彼はいないもんだと思って記事を消したあとになってから突然出てきて、「俺は読んでいたのに何てことをするんだ!」などと、恨みごとを言われても、こっちはただムカつくだけです。また、「このサイトができたころから、ずっと読み続けてきた者です」などとでかい顔をされましても、HNをつけてコメントをされない以上、私から見れば初見とまったく変わりはなく、そんな相手から説教されても反発心しか湧きません。

 私があの専門学校を卒業した後、しばらくして、証書を受け取りに学校に顔を出した時、私は講師から、あのクラスの連中が、私のことを心配していたと聞きました。しかし、私が休暇に入ったとき、私に連絡をくれたのはごく僅かにすぎず、その連中も、私の本音については、まったく聞こうともしませんでした。相手に伝わらない「心配」などは、何にも思っていないのと同じことであり、こっちがどう歪もうが、奴らを恨もうが勝手ということになります。

 しかし、そういう私も、彼らに自分の本音を「伝えようと」していなかったのも事実ではないか。

「神山は私がしつこくしているから嫌っているように装っているが、実際に失礼な対応を取ってきたのは神山の方が先である。私にも問題があるにしても、神山が一方的に被害者ヅラをしているのはおかしい」

「私のことを当初バカにしており、その後も特に良くしてくれたわけでもない金澤に好きな女を持っていかれたらムカつくのは当たり前であり、それを祝福しろ(そこまでは言われてませんが、そんな雰囲気だった)なんてとんでもないことである」

 この辺は私が明確な「被害者」として主張できる部分であり、ここをうまく説明できれば、私に同情がいく向きもあった可能性は十分あったと思います。

 私が一番信頼していた関口に、「悩み事なんか相談してくんな」というふうに防衛線を張られてしまい、野村にしても、「神山のことは忘れろ」と自分の結論を押し付けられ、「なかったことにしよう」というふうにされてしまったことで、私も相談しにくくなった部分もありましたが、それでも、「伝えなかった」ことは、私が悪かった部分だと思います。もし、私がちゃんと「伝えようと」していたら、神山と金澤以外の連中には恨みは抱いていなかったかもしれない。

 とはいえ、伝えようにも、当時の私の能力で、ちゃんと伝えられたかという問題もあります。うまく整理できないまま伝えれば、やっぱり私の「逆恨み」「邪な嫉妬」で片付けられた可能性もあり、彼らに余計に恨みを募らせていただけかもしれません。


 「自分の思いを伝えなかったこと」「伝える能力を持たなかったこと」

 あの一件で私が反省しなくてはならないのは、この二点です。だから私は、自分の内に抱えたものをすべて吐き出し、それを人にうまく(面白おかしく)伝える道――「小説を書くこと」を始めた。

 アイツらのことは、もうしょうがないと思います。結果的に、恨みしか残らない形で終わってしまった以上、これからもずっと恨んでいくしかない。大事なのは、それを前向きな形で生かすことです。

 サイト開設当初には、あの連中に、物理的な方法で「復讐」することばかり考えていました。今も、完全にその選択肢を捨てたわけではありません。例えば40近くになってもまだ底辺に沈没したままで、もう絶対に逆転は不可能だと思ったときには、「やるしかない」とも思います。

 でも、その前に、限界までやってみなくてはいけないのではないか?限界までやってダメならともかく、中途半端のまま復讐などしても、自分の中で後悔が残るだけではないか?

 「そのとき」が来るまでには、あの時期のことを、できるだけ前向きな形で生かさねばならない。奴らのことを思い出すにしても、どうしようもない妄想ではなく、実のある「想像」をしなくてはならない。今はそのように考えて、当時の記憶に向き合い、また、活動に取り組んでいます。 

 また、神山と並んで、私小説の主役格を務めた折茂にも触れておきますが、彼に関しては、勝手に頑張ってくれとしか言いようがない。とにかくエネルギーはある男なのだから、ちゃんとやってれば、人並以上の人生は拓けると思います。ああいう意欲のある人間が30過ぎても底辺に沈没したままだとするのなら、それはもう社会の方が悪いということになる。

 私自身、世の中での成功を目指す立場として、あの男にはむしろ、それなりの成功を掴んでほしいと思います。というか、今生きていれば30半ばですから、すでにどこか、彼の能力を遺憾なく発揮でき、それに見合った報酬を得られるところで、それなりの立場に収まっていることを信じたいです。

 考え方の変化シリーズはここで終わります。あと、確実に更新できる予定は「麻原彰晃 24」となりますが、こちらの最終回もコメント数のノルマ達成できましたら(できるだけ早めに。一週間以内くらい)、最後におまけとして、一連の総括的な記事を書きたいと思います。よろしくお願いいたします。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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