犯罪者名鑑 加藤智大 1

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~前編~哲学する怪物、加藤智大の生い立ちについて

 ”虚”と”実”

 
 世間に伝わっている犯人像と、本人が語る犯人像に大きな乖離がある人物の一人です。

 事件当時の報道では、秋葉原事件は、不安定な派遣社員で、彼女ができないことに悩んでいた加藤智大が、社会への不満を晴らす目的から起こした事件のように語られていました。
 
 ところが、逮捕された加藤が獄中から手記で語った「真相」は、当初の報道とは大きく異なり、事件はすべて、「掲示板に現れる荒らしやなりすましに対抗するためだった」というものでした。

 ネット上ではこれについて、「加藤に裏切られた」とか「幻滅した」といった意見が書き込まれましたが、一番ショックだったのは遺族でしょう。自分の大切な家族が殺害された動機が、逆恨みですらなく、事件にまったく関係のない「掲示板のトラブル」だった、などと言われてはやり切れません。

 ましてや、加藤は今現在は、掲示板への執着は憑き物が取れたようになくなった、などと証言しているのですから、その憤懣たるや、怒りを通り越して、全身の力が抜けるほどでしょう。これならば、まだ「エリートへの復讐」を明言している宅間守の方が筋が通っているともいえます。

 加藤の言っていることは、本当に正しいのでしょうか?

 本人も言及している通り、事件及び犯人像とは、警察、検察、そしてマスコミによって作られるものである、という側面は確かにあります。事件を迅速に処理したい警察、検察と、面白おかしく書き立てるマスコミによって真実が歪められるという例は、他の事件でも多数あります。

 ですが、本人が語っていることだからといって、それがすべて真実であるとも言い切れません。本人が「こうありたい自分」を語っている可能性もあります。

 手記「解」の中で、加藤は自分のことを「自分がない人間」と語り、実際に、まるで第三者のように自己分析しています。書いている内容そのものは、ある程度筋が通っており、最後まで読めば、事件を起こした動機の説明に一応なっているのですが、しかし、内容があまりに客観的すぎるせいで、事件当時、加藤の内面にマグマのように燃え盛っていたはずの怒りがいまひとつ見えてきません。

 世間で言われているような、学歴コンプレックスもほとんどなかったように語っています。挫折感を味わったとされる高校時代は「小、中よりずっと楽しく、友人もできた」、四年生大学に進まず短大に進んだことについては、「母親が四大に進めば車を買ってやるという約束を反故にしようとしたことについての当てつけ」とのこと。

 容姿で悩んでいたとされることについても、「世の中の人を大ざっぱにイケメンとブサイクの二つに分けたら、まあブサイクの方に入るのでしょうが、ブサイクの中で特にひどいブサイクだとは思っていない」と、ちょっと面白い書き方をして、コンプレックスを否定しています。

 このように、加藤は「解」の中で、自分の弱みをあまり見せていません。ネタとして笑えるようなことはよく話しているのですが、読んでいるこちらの胸にも突き刺さってくるようなデリケートな話はほとんど語られていないといっていいです。

 燃え盛るような怒りも、どす黒いコンプレックスもなくても凶行に走る、だから異常者なのだ、と決めつけてしまうのは簡単ですが、当初報道されていた内容を全部切り捨ててしまうのも、私には真実から遠ざかっているような気がしてなりません。

 当たり前の話で、動機において、本人にとって不名誉になるような事実を、本人自らの口から言わなければいけない義務はありません。酷いコンプレックスや、トラウマの中でも人に同情されにくい類のものなど、特にデリケートな話題になるほど口を閉ざすのは、犯罪者でない人も同じでしょう。

 警察や検察が自分たちの都合がいいように事件のシナリオを書き換えるように、犯人も、自分が本当に触れられたくないことを隠すために、虚偽のシナリオを語るということもあるのではないか・・?

  特に秋葉原事件は、世間からの注目度が大きく、多くの人が事件の動機に関心を寄せていました。これ以上、自分の心の中を土足で踏み荒らされるのを嫌がった加藤が、防波堤としての「結論」を出してしまった、ということは考えられないでしょうか。

 当初の報道で語られていた犯人像、加藤が出した「解」、どちらも100%の真実ではなく、100%の嘘でもないという前提で、加藤の生い立ちを振り返りながら、事件の真相に迫っていきたいと思います。

かとうともだい2



 面白い男


 私が加藤智大という男を、殺人犯というフィルターを外して見たときに思うのは、非常に面倒くさい野郎ではあるが、それを補ってあまりあるほど面白い男であり、学校や職場で出会っていたら多分友達になっていただろうな、ということです。

「そういう性格だから彼女ができない、ていうけど、逆だよ。彼女ができないからこういう性格になるの」

「初めから努力しない人間なんていない。努力しても報われないから努力しなくなるんだよ」

 私が好きな加藤の名言で、人の精神の悪循環について語っています。

 挫折した過程を無視して、すべてを結果論で語り、落ち込んでいる人を「そんなんだからダメなんだ」と、したり顔でこき下ろすアホなヤツ・・・私も腐るほど見てきました。

 加藤が言っている「努力」について私の考えは、人は「大きな喜び」を手に入れたいなら努力しなくてはいけないが、「小さな喜び」がなくては、そもそも努力できないということです。

 貧乏は努力しないのが悪いなどといっても、憲法に示されている、「健康で文化的な最低限度の生活」も満たされていなければ、スキルアップや勉強に回す余剰活力など、とてもではないが湧きません。衣食住と、最低限の娯楽が満たされて、努力はそれからの話です。若い人だったら、性のパートナーも必要でしょう。

 彼女(私は男なので、とりあえず男の視点で考える)が欲しい?だったら頑張れ、という人もいます。一見正論のようですが、彼女というのがどの程度の女を求めているかにもよります。もしその男の子が、多数の女と付き合いたい、飛び抜けた美女と付き合いたいと言っているなら、私も「頑張れ」と言いますが、並み程度の女一人にも相手にされないというなら、そんな人生は「頑張れないよね」と言います。

 自分がモテないにも関わらず高望みをしていたなら同情もできませんが、「健康で文化的な最低限度の」彼女を一人得ることぐらいは、ブサイクだろうが怠け者だろうが望む権利はあると思いますし、その程度の女一人もできないんだったら、血の滲むような努力をしたところでタカがしれてるだろ・・・と、余計にやる気を失ってしまうのもわかります。

 それこそ彼女ができたら自信もつき、発奮して頑張れるかもしれないのに、加藤の書き込みに出てくる人のように、女に相手にされず腐っている姿だけを見て、「お前なんか振られて当然だ」と決めつけるのは、ちょっとフェアではない気はします。

 まあ、答えは人それぞれでいいとは思いますが、確実にいえるのは、加藤はこうした哲学的な考え方ができる、面白い男であるということです。そういう男は、ただの「単細胞」を、「早く答えに行きつく聡明さ」と錯覚し、物事を深く考えない単細胞であることを人にまで押し付けてこようとするアホな人種を非常に嫌います。加藤が掲示板で、荒らしのような蛆虫めいた人間の被害にあったときや、単細胞なアホからくだらない説教をされたりしたときは、相当腹が立ったはずです。

 そのことは、加藤が掲示板のトラブルを動機として、秋葉原で殺人事件を起こした理由にもなりますし、逮捕後(むしろ説教はこっちが多かったでしょう)に辟易して、本心とは違う捻くれたことを言い出す理由にもなります。とにかく一筋縄ではいかないのが、こういうタイプなのです。
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犯罪者名鑑 宅間守 1

 
前編~ 時代に咲いた”仇花”の生涯
 
  
たくまあ



 悪のカリスマ

 
 日本犯罪史上に名を遺す”カリスマ”といえばこの人物でしょう。残虐非道な事件を起こした極悪人でありながら、ネット上には今なお、宅間を賞賛するかのような声が少なくない数聞かれ、特に貧困層に生きる人々にとっては、宅間は一種の崇拝の対象といってもいい存在となっています。

 なぜ、宅間は人を惹きつけるのでしょう。

 見てくれの良さはあると思います。今、こうして宅間の顔写真を見ている私も、宅間のことを「カッコいい」と思っています。ジャニーズ系の女受けするタイプのイケメンではなく、精悍な男受けするタイプのイケメンです。身長は百八十四センチもあり、スタイルも良く、全身を見れば益々見栄えが良かったでしょう。

 また、宅間のやることなすことが、一々破天荒だったということもあると思います。


 ・小さい頃、三輪車で車道の真ん中を走り、車が列を作っているのを見て喜んでいた

 ・御巣鷹山の飛行機事故があった際、遺族に紛れて死体見物に行った

 ・刑務所に収監されていたころ、結婚式の引き出物を入れる袋を貼る作業に従事していたが、作った袋の底に、バレないように「うんこを塗った」



 などのエピソードは、常人が頭を捻っても中々思いつくものではない、天性のインスピレーションによる行動です。昔のとんねるずが人気を集めたように、人は自分にはやろうと思ってもできない大暴れができる人間に惹かれるものです。

 しかし、ルックスの良さや、大暴れをするだけでは「芸人」として優秀なだけであって、「カリスマ」になることはできません。宅間の最大の魅力は、彼の生涯における主張が、終始一貫してブレなかったところにあるでしょう。

 彼の主張、それは自分が上手くいかない理由をすべて社会や他人のせいにする、徹底した他罰的思考です。日本人はこれが大嫌いで、自分がうまくいかないのは全部自分の努力が足りないせいだ、というような発言が正しいとされる場面が多いのですが、本当にそれでいいのでしょうか?

 確かに、なんでもかんでも他人や社会のせいにしているばかりでは、職場でトラブルなども増えますし、個人が成長することに繋がらず、社会全体も良くなりません。しかし、他人や社会だって明らかに悪いにも関わらず、全部自分のせいだと思ってしまうのも考えものです。努力もしてるし、間違ってもいないのに、周りの理解が得られないとか、単純に枠が足りなくて相応の地位に就けない人だっています。

 そもそも社会情勢というものが常に変動している以上、同じ成功を掴むために必要な努力量は一定ではありませんし、チャンスに巡り合えるかどうかは運もあります。外的要素をまったく無視して、すべてを自己責任にするのは、生活レベルの格差を、すべて個人の責任と思わせておいた方が都合がいい側にいる人物の思惑に踊らされているだけです。

 自罰的思考が行き過ぎるのは、努力しても幸せになれない社会の側の問題を覆い隠すことになるうえに、必要以上に人の自信を奪い、本当はポテンシャルのある人が頑張ることを諦めてしまったり、最終的には自殺という悲劇的結末を迎えてしまうことにも繋がります。

 宅間守が事件を起こした2001年は、小泉政権が成立した年で、「聖域なき構造改革」の名のもとに、民営化によって公共サービスが削減され、新自由主義的な経済政策によって貧富の差が拡大し始めた時代でした。社会では「自己責任の風潮」がピークになり初め、貧しさの原因のすべては努力不足のせいであるとする人が大勢いました。

 そんな時代にあって、広く社会に向けて、「自分のせいだけじゃない」と言い放った宅間の言葉は、どれほど頑張っても苦しい立場から抜け出せない人々に、「よくぞ言ってくれた!」と讃えられました。彼の主張が中途半端でなく、混じりっ気がまったくない、一貫したものだったからこそ、他人にも影響を与えることができたのです。



たくま



 ”復讐”という勝ち筋


 まだオープニングですから、すぐに本筋に入らず、もう少し「ヒーローとしての宅間守」を語りたいと思います。以下の文章は、もう、この社会の中で、人を殺して人生にケジメをつけるしかないというところまで追い詰められた経験がある、という前提の上での話であり、人を殺すのが悪いことだとか、復讐は何も生み出さないという次元の話ではないことを了解して頂いたうえで、先に進んでください。

 私はこの社会の中で不遇な立場にある、一介の無業者、底辺労働者として、宅間守のやったことを「よくやった!」と思う部分は、はっきり言ってあります。


 コラッ ホームレス おまえら、何にしがみついているんや。
 おまえらは、動物や。
 ただ、死ぬのをびびって、生き長らえている動物や。
 人間のプライドが、少しでもあるのやったら、無差別なり、又、
 昔、不愉快な思いをさせた奴にケジメをつけて、懲役なり、死刑なりに、
 ならんかい。ウジウジウジウジ、生ゴミ喰うてるのか。
 何を喰うているのか、知らんが、おまえらは、動物や。

 

 宅間守の名言のひとつですが、私は既存の社会の中で、どうあがいても浮上の目がないとわかった人が社会に復讐心を抱くのは当然だと思います。勝ち組の側にいる人間にそれを非難されれば、普通以上の苦労をした経験がないヤツに何がわかるのだと思いますし、負け組の側にいる人間に非難されれば、お前が立ち上がる勇気がないからといって、奴隷根性を正当化するなと思います。弱者がいくら声をあげても、虫けらが叫んでいるだけと、社会が相手にしてくれないのなら、一定数がこうして弾けるのは仕方がないことです。

 ただ、私の中でも賛否両論あるのが、事件のターゲットとして、無辜の子供たちを選んだことです。

 わかりきった話で、人など殺せば、ほとんどは捕まります。宅間本人も後悔していることですが、自分が獄に繋がれる身となっているのに、本当に恨みに思っている人物がシャバでのうのうと生きていたら、悔やんでも悔やみきれません。一回こっきりのチャンスを使うのなら、自分が本当に殺したい人間を殺すべきでしょう。事情によっては、一定の同情を買える可能性もあります。

 ただ、この事件がこれほど注目を浴びたのは、やっぱり何の罪もない子供を殺したからだったのかな、という気もします。宅間守が殺害したのが、彼が本当に恨んでいる父親、あるいは三番目の妻であったなら、単なる私怨として片づけられ、社会全体への復讐という見方はされなかったかもしれず、それでは宅間の不満は晴れなかったというなら、私の考えも単なる価値観の押し付けにしかなりません。


>> 事件について寄せられたコメントの大半は「努力しなかったお前が悪い」という趣旨の自分に対する批判でした。それは予想通りでした。しかし、「先天性の身体障害以外は一切の不平等は存在しない。それ以外はすべて努力で埋まる。私は格差など認めない。格差はすべて当人の努力の差がそのまま反映したものでしかない」というコメントを見て衝撃を受けました。そのコメント主からすれば、都会に住む金持ちの子供と田舎に住む貧乏な子供はまったく対等であり、アファーマクティブアクションなど制度化された逆差別にしか見えないのでしょう。自分は拘置所の独居房の中で考えを巡らせました。そして「現在の日本の国教は”努力教”ではないのか?という結論に達しました」


>>自己責任、自己責任、というなら、お前らは当然、通行中、通り魔に襲われないように、常に周りを警戒しているんだろうな?
 
 前者は黒子のバスケ事件の渡邊博史の言葉、後者は2ちゃんねるの宅間守スレッドに書かれていた言葉ですが、極端な自己責任論には、弱者の側も極論で返すしかないのかな、という気もします。

  自分が一生負け組で、社会で浮上するチャンスが一つもないとわかったとき、それでも負けっぱなしでは終われないと思ったら、どうすればいいか?強大な社会に対して逆転勝利を掴むのは無理でも、せめてもの一矢を報いる――社会で成功している側の人間を一人でも二人でも道連れにする、それである程度スッキリするという人間は、勝ち組がどれだけ信じたくなかろうが、この世に一定数います。
 
 この社会で恵まれた立場にある人の大半は、必ずどこかで、誰かを蹴落として上がってきています。競争社会である以上、それは仕方がないことですが、人を蹴落とすとき、必要以上に人の恨みを買うことをしていませんか?余計な一言を言ってはいませんか?追い打ち、ダメ押しをかけてはいませんか?

 勝ち組が自己責任において負け組の人生を踏みにじるのなら、負け組が破滅覚悟で勝ち組に牙を剥くのも自己責任。追い詰められた負け組から身を守るのも、やはり自己責任です。

犯罪者名鑑 酒鬼薔薇聖斗 2

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 幼少時代


 酒鬼薔薇の幼稚園~小学校低学年時代までを簡潔に紹介していきます。

 小学校に上がる前の酒鬼薔薇は、砂場遊びで取られた玩具を取り返すこともできない、気が弱く内向的な子供だったといいます。また焼きもち焼きのところがあり、下の弟が生まれたとき、両親が弟ばかりに付きっ切りになるので、足が痛い、足が痛いと訴え、接骨院の先生に診てもらったこともありました。

 日常生活では繊細な面をみせる一方で、「大舞台」に立つとなぜか大胆になるところがあり、幼稚園の音楽発表会の際、直前に熱が出て満足に練習できなかったにも関わらず、堂々と舞台に上がってトライアングルを演奏してみせたそうです。このときお母さんが酒鬼薔薇に「緊張したら、観客を野菜と思ったらいいからね」とアドバイスし、それが、かの有名な犯行声明文の内容「汚い野菜どもには死の制裁を」の着想に繋がったと説明しているサイトなどもありますが、真相は不明です。

 小学校に上がった酒鬼薔薇は、忘れ物や落し物が目立ち、その度にお母さんから口を酸っぱく注意をされていました。典型的な注意欠陥障害のケースであり、注意されて治るものではありませんが、当時はまだ知られ始めたばかりであり、お母さんもまさか障害という可能性には思い至らなかったのでしょう。

 酒鬼薔薇は成長期にも関わらず食が細く、この頃にはすでにガリガリに痩せていたといいます。現在、30代となった酒鬼薔薇も、食べることにまったく興味がないということを語っていますが、世の中にはこういうマイノリティの人が一定数います。

 酒鬼薔薇は小学校低学年からすでに成績は悪く、通知表には2と3ばかりが並んでいました。知能指数がボーダーだったという話もありますが、あれだけの文章が書ける人間の知能が低いとは思えませんから、単に勉強に興味が持てなかったのでしょう。教材忘れや授業態度も影響していたのかもしれません。

 お父さんの学歴が中卒止まりだったこともあり、両親は勉強に関しては、酒鬼薔薇にあまり厳しいことは言いませんでした。酒鬼薔薇自身は、絵を描くことが好きで、周りからも褒められることがあったため、お母さんは「漫画家を目指してみたらどうか」などと勧めたりもしましたが、酒鬼薔薇はそこまでは自信が持てなかったようです。

 ご両親としては、勉強で偉くならなくてもいいから、何か一つでも得意なことを見つけて、自分に自信を持ってくれればいいと考えていらっしゃったようですが、確かに、酒鬼薔薇少年が、なにか全てを忘れて没頭できることを見つけられていたら、悲劇は起こらなかったのかもしれません。


 ケンカ


えさけおにばら



 酒鬼薔薇の家の男の子三人兄弟は小学校低学年のころから、よく兄弟げんかをしていました。ケンカといっても、兄弟では酒鬼薔薇が一番上で、下の弟とは歳も離れていましたから、実質酒鬼薔薇の弟イジメのようなものだったでしょう。事件の被害者である、土師淳くんにも、酒鬼薔薇は暴力を振るったことがありました。

 子どものケンカ自体は否定はしません。特に男の子であれば、ある程度はケンカをするべきだと思います。まだ力が弱い子どものうちに、力と力をぶつけ合えば人間は必ず傷つき、また自分の心も痛むのだということを学ぶのは、女性にはない腕力を神によって与えられ、それを弱い者をいたぶるのではなく、弱い者を守るために使うことを義務付けられた男性には、通過儀礼として必要なことではないかと思います。

 ケンカをまったく知らずに育った男は、人を傷つける酷い男になるか、大事な者を守れない情けない男になってしまうでしょう。しかし、やりすぎも当然、良くありません。

 分岐点となるのは、小学校高学年から中学生のころでしょう。男に第二次性徴が訪れ、それまでとは比べものにならない力を身に着ける時期に、自分の力の恐ろしさに気づくか気づかないかが、人の道に踏み止まるか、獣の領域に足を踏み入れてしまうかを決定づけると思います。

 酒鬼薔薇は踏み止まれず、14歳になっても、弟や友達に暴力を振るっていました。圧倒的な力で人を傷つけたときの心の痛みを、彼は感じることができなかったのです。
 
 私も子どものころはしょっちゅうケンカをやっていたクチで、今思えばほとんどイジメだったというような酷いものもありましたが、さすがに中学のころになると、「これ以上は、殺るか殺られるかの世界だ」と気づき、安易に暴力という手段に訴えることはなくなりました。

 しかし、私はそれが当然のことだったとは思っていません。当時、十代前半という未熟な年齢で、自分の心をうまく言葉にして表現できず、世の中の理屈もわからなかったときのことを思えば、あれはまさに、「気づくか気づかないか」という、薄いプラスチックで隔てられたような微妙な違いでしかありませんでした。私が暴力で人を傷つけたときの心の痛みに気づけず、酒鬼薔薇の側に行ってしまった可能性は大いにあったと思っています。

 今でも世界中で、人が暴力で人を傷つける事件は次々に起こっています。肉体的な暴力だけでなく、言葉の暴力で人を傷つける人もいます。自分は誰にも優しくしているという人も、気付かぬうちに、人を傷つけているかもしれません。誰の心の中にも「酒鬼薔薇聖斗」はいます。

  「自分は酒鬼薔薇とは違う」と安易に決めつける傲慢な心を持ってしまった瞬間、その人の中の「酒鬼薔薇聖斗」は目覚めるでしょう。


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 サスケ 



 お父さん、お母さん、男の子三人兄弟の家には、もう一匹、ペットの犬、サスケが一緒に住んでいました。酒鬼薔薇はサスケを大変可愛がっていましたが、サスケは酒鬼薔薇が小学三年生のころ、老衰で亡くなってしまいます。そのときに書いた作文の内容が、精神科医やワイドショーのコメンテーターに、お母さんの愛情不足を責めるために使われました。


  ぼくのうちのサスケ、は生まれてすぐぼくのうちにきてそだてられたから、お母さんのかおもしりません。くもりの日や雨の日にはこやの中で「クーン、クーン」といって、目になみだをためていました。ぼくがにわにでていって、「お母さんがこいしいか」ときいてみたら、「クーン、クーン」とまたいって、ぼくの足にしがみついてきました。ぼくが「ぜったい、お母さんに会えるで。」ってわかってもいないのに、つい口に出してしまった。だって、すごくかわいそうだったからだけど、そうゆうことをゆうと、サスケのなみだがおさまって、ぼくの手をなめてくれました。
 雨がすごくふって、ぼくのかおにあたってもぜんぜんきづきませんでした。サスケとの会わにしんけんになっていたのです。そのあと、ぼくはうちの中に、サスケはこやの中にはいっていった。
ぼくもお母さんがいなかったらな。いやだけど、やっぱりぼくのおかあさんみたいのがサスケのおかあさんだったらわからないけど。やっぱりかわいそうだな。 


 ※前回の記事にも、「まかいの大ま王」の作文を挿入しました。併せてご覧になってください。

 前回の記事にも書きましたが、なんでこれがお母さんを「鬼母」などと責める材料として使われてしまうのか、私には理解できません。酒鬼薔薇自身は、「これほんとのことなん?」と尋ねるお母さんに、「いいや。違うけど、こないして書いた方が面白いやろ」と答えていますが、それで十分ではないでしょうか。

 作文でお母さんをネタにしたのなら、読む人を楽しませるために、ちょっと大げさに書いて面白おかしくすることくらいは、小学生でもやるでしょう。子供の豊かな発想を否定することが、「深層心理を読み解く」ことなのでしょうか?

 無責任なマスコミが騒ぎ立てるだけならともかく、偉い学者先生が作文に酒鬼薔薇の深層心理が現れていたとするような意見に頷いたのが、私にはまったく理解できません。当たり前ですが、専門家のお墨付きがあれば、話しの信憑性はまったく違ってきます。責任ある立場にある人が、なぜこんなバカげた説を真実だと断定してしまうのでしょうか。

 私は学者という人たちを、あまり頭のいい人たちだと思っていません。あの人たちが一番ダメなのは、「難しいことを、難しいようにしか伝えられない」ところです。

 私は歴史や事件の本をよく読みますが、学者が書いた本というのは、90%以上つまらないです。ユーモアセンスがないということではなく、そもそも読者の興味を惹こうという努力がまったく感じられないのです。歴史なら、教科書にも載ってないような人物が、何の説明もなく、「知ってることが当たり前」みたいに次々に出てきたりなど、学者の書いた本は、とにかく「不親切」です。わかりにくいということは、つまらないということです。そして、読んだ人に誤解を与えやすいということです。

 確かに専門用語の知識などでは、素人は学者の足もとにも及ばないでしょう。しかし、一般向けの書籍やテレビ番組では、学者が中心になって作ったものよりも、素人が作ったものの方が、遥かに出来栄えがいいということが多々あります。なぜそんなことになってしまうのでしょう。学者は研究室に籠り切りで人間を知らず、読む人、観る人の「ツボ」がわからないのだという人もいますが、何にしろ学者は研究が専門であって、伝える能力には欠けた人が多いようです。

 若干話がずれてしまったかもしれませんが、これだけ言えるのは、その道の専門家だからといって、必ずしも正しいことを言っているとは限らず、素人の方が真実を突いた意見を言っていることもあるということです。情報が溢れすぎているこれからの世の中では、情報を発信する側だけでなく、受け取る側の知恵も問われてくるでしょう。

 余談ですが、「伝える」能力において私が日本に比類なき天才だと思うのは、ジャーナリストの池上彰氏です。「広く浅く」をあれほど深く極めた人はいないでしょう。

 私小説の続き15 近畿旅行

あづいち


 「1泊4日」近畿旅行初日、23:45に、私は横浜駅近くの天理ビル前から、夜行バスに乗り込みました。横浜から京都を目指した場合、新幹線だと一万五千円ほどしますが、夜行バスだと三千八百円程度にまで抑えられ、かなりリーズナブルです。

 お金をかけなければ、当然、それなりの代償というものはついてきます。まず、夜行バスでは「寝られません」。神経が図太い人や、軍隊経験者みたいにどこでも寝られる訓練を受けている人なら違うのでしょうが、私には、あの硬いシートに、毛布を一枚被っただけという環境では、途切れ途切れに、二時間程度眠るのが精いっぱいでした。トイレも、午前二時ごろに寄ったサービスエリアが最後のチャンスで、もしそれ以後に行きたくなった場合は、漏らすしかありません。

 夜行バスでの移動は安いですが、それなりの体力的な負担とリスクがありますので、低予算での国内旅行を計画されている方でも、神経質な方や体力に不安がある方は、宿や食費などで節約をし、安易に夜行バスは利用しない方が賢明でしょう。

 朝六時に京都に到着すると、そのまま在来線に乗って、滋賀県――近江の国に入りました。最初の目的地は、信長が築いた幻の城、安土城址です。

 安土城が築かれたのは、城の主流が室町初期以来の山城から平城に変わっていく過渡期でした。高い山の上に築かれた山城は、防衛上は有利ですが、城下町に降りるのが大変なため、領国経営上は非常に不便です。そのため戦国末期から江戸初期にかけては、経済の利便性を重視し、山城を捨て、平地に城を建てる大名が増えてきました。防衛上の弱点は、縦に盛れない分、掘りを掘って水を張り、二の丸、三の丸を作って、横に拡張していくことで補うという発想の転換です。信長の時代に急速に普及した火縄銃に対しては、縦に盛るよりも横に広げたほうが防衛力が高いと言われています。

 秀吉の大阪城も家康の江戸城も平城で、平城が日本で主流になったのは、信長が安土城を造ったのがキッカケだと言われています。安土城は完全な平城ではなく、小高い丘の上に建てられた「平山城」で、頂上にある天守跡にたどり着くまでには私の足で20分ほどかかりましたが、壮健な戦国武将にとっては、平地にあるのとほとんど変わりなかったでしょう。

 まさに近世城郭のプロトタイプと呼ぶべき革新的な城で、天守閣も、美的センスに優れた信長らしく非常に壮麗なデザインだったのですが、その天守閣は信長が本能寺の変で倒れた後、野盗に火を点けられて燃えてしまい、現在でも復元はなされていません。

 誤解している人も多いのですが、通常、天守閣は有事の際の司令塔として使われるのみで、城主は普段、城の中の屋敷で生活をしていました。ところが、信長は初心者の方がイメージする通り、安土城の天守閣で生活していたと言われています。

 これは、安土城が単なる軍事要塞としてだけでなく、信長が天皇や本願寺などの既成の権威を超える為に造られた「神殿」だからです。信長は七層の階下にそれぞれ仏や八百万の神々を描かせ、自分がその上で寝起きすることによって、自分が「神」であることを演出していたのです。

 自らを神格化しようとするほどスケールの大きい、日本史上最高の英雄である信長の安土城をみた後、私はそのすぐ近くにある、六角氏の居城、観音寺城址に足を運びました。

 こちらの城は、室町時代の名門守護の城らしく典型的な山城で、標高約四百メートルもの高地にあり、城にたどり着くには一時間弱かかり、道のりも険しいものでした。平山城の安土城と比べれば差は歴然で、この地にいけば、時代の移り変わりというものを足で体験することができます。

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 続いて私が向かったのは、秀吉が北近江領主時代に本拠地とした、長浜城です。

 この長浜城が一つの鍵を握った賤ヶ岳の合戦は、私が戦国の合戦で特に好きな合戦で、本能寺の変から僅か一年の間に、ライバルの柴田勝家を政略、謀略、軍略の限りを尽くして追い詰めていった秀吉の完璧なシナリオは震えるほどです。

 長浜城も平城で、すぐ傍には琵琶湖が広がっています。信長の指示もあったのでしょうが、それまで北近江の主城であった浅井氏の小谷城を捨て、水運の発達した琵琶湖のほとりに城を建てた秀吉の高い経済的センスが伺えます。

 ただ、私が見た琵琶湖は汚かったです。こういう場所を汚すのは、観光客よりもむしろ、近くにあるためありがたみのわからない地元民だと思われますが、湖岸にプカプカ浮かぶゴミをみたときは、なんとも悲しい気持ちになりました。

 すっかり夕方になり、そろそろ観光施設も閉鎖されるという時間になって、今度は姉川の古戦場に向かいました。

 姉川の合戦は、徳川の大本営発表では、2万もの軍勢を率いているにも関わらず、8千たらずの浅井に押されまくった織田軍を、5千足らずの徳川軍の奮戦で助けたというストーリーになっていますが、実際には物資に勝る織田軍がほぼ単独で圧勝したというのが近年の研究では有力です。

 このとき浅井、朝倉の連合軍を完膚無きまで打ち破った信長に対し、秀吉が、この際小谷城まで攻め込んで浅井を滅ぼすべきだと意見したのを、総大将の信長がなぜか却下してしまったというエピソードがあります。もしその進言に従っていれば、高い確率で浅井は滅び、信長包囲網の打倒はだいぶ楽になったことは間違いなく、信長の大きな戦略的ミスの一つにあげられますが、反面、浅井との同盟修復という自らの決めた外交政策に固執しすぎる、信長の執着癖が垣間見え、個人的には好きなエピソードの一つでもあります。

 姉川では、降り積もった雪の上を歩いていたところ、気づかずに川の中に足を突っ込んでしまい、靴がびしょぬれになってしまうというハプニングもありましたが、なんとか無事に、七時ごろまでには見物を終え、在来線で京都まで戻り、その夜はビジネスホテルに泊まりました。

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 翌朝は観光施設が開放される時間にチェックアウトし、レンタサイクルで京都市街地を観光しました。金閣寺、銀閣寺、清水寺・・・と、定番のコースを回りつつ、小さなお寺にも立ち寄っていきました。

 金閣寺は戦後に再建されたもので、室町将軍の中でも最大の傑物である、天皇になろうとした将軍、足利義満の旺盛な野心を窺い知ることができますが、城ならともかく寺に金を張り付けるという趣味は私はあまり好きではなく、政治家としては無能ながら、優れた美的センスを持ち、文化の保護者としては大きな貢献をした足利義政の建てた銀閣寺の方が好きです。
 
 余談ですが、京都の人がいう「戦後」とは、太平洋戦争のことではなく、室町時代の応仁の乱を指すそうです。京都はあまり空襲の被害を受けませんでしたから、応仁の乱の方がよほど、歴史的な建造物が失われたのでしょう。

 実は京都、滋賀は中学の修学旅行でも訪れており、その際、三年生全クラスで、信長に焼き打ちされた比叡山延暦寺で座禅修行をする機会があったのですが、静まり返ったお堂の中で座禅修行に耽っている最中、大きな音で放屁をしたバカがいました。

 当然、笑いの渦が起きたのですが、そのとき、坊主に背中を精進棒でたたかれたのは私だけでした。三年生全クラスの中で、私だけが叩かれたのは、私が修学旅行ということで気合をいれまくり、素肌にNBAのレプリカジャージを着て、ネックレスをつけるという、チャラチャラした格好をしていたからだとしか思えません。偉そうにしていますが、坊主も結局、人を見た目で判断するということです。比叡山自体は好きで、このときから三年後の一人旅でも行きました。

 二日目の旅を終えて、レンタサイクルも返し、あとは23時の夜行バス発信まで、時間を潰しているというだけでした。京都タワーに登ったり、コンビニで立ち読みをしているうちに時間が近づいてきたのですが、なんと、バス乗り場は私思っていた乗り場とは、駅を挟んで反対側にあったことが判明。バスに乗り遅れる失態を犯してしまいます・・・・。

 その晩はやむなくカラオケ店で一夜を過ごし、翌朝、新幹線で新横浜まで帰りました。
 
 京都市街地観光ではほぼ一日中自転車に乗っており、強行軍だったためグルメはあまり楽しまなかったのもあり、帰ってから体重計に乗ると、二日で1.5キロほど落ちていました。

 身長163㎝の私は、ベスト体重57㎏です。成長が止まった中学二年からずっと変わらず、これ以上増えれば身体のキレが鈍り、これ以下に減ればスタミナが落ちてしまうのですが、57㎏の時点で体脂肪率10%前半のため、実際には増えることはあっても、減るということは滅多にありません。この近畿旅行当時は一番太っていた時期で、65キロほどありました。

 私の身体が生きることを拒絶しようとし、食物を受け付けなくなり、中学二年以降初めて体重が57キロを下回ったどころか、40キロ台にまで落ち込み、生死の境を彷徨う寸前までいったのが、翌年に入った専門学校時代のことでした。
 
 私小説の続き 完

犯罪者名鑑 山地悠紀夫 7

やまじ


 ゴト師

 高木の家での山地は大人しく、家の手伝いをよくし、高木の幼い娘にも優しかったといいます。この時期の山地は傍目には何の問題もないように見え、山地も高木の家にずっといることを望んでいたようですが、高木の本業であるテキヤでは、山地を雇う余裕はありません。そこで高木は、パチンコ業界の知り合いのゴト師、田岡(仮)に、山地を預けることにしました。

 「ゴト」とは、パチンコ、パチスロ機を不正に操作することで利益を得る行為で、刑法上では窃盗罪にあたります(そもそもパチンコそのものが本来賭博罪であり、国益を損なう違法な商売ですが)。ようするに裏稼業の一種ですが、パチンコ業界では、お店で働いていた人間が、内部情報と業界の知識を学んだ上でゴト師側に回るのはよくあったことだそうで、また蛇の道は蛇ということで、ゴト師側の手口を知った人間が店側で活躍することもよくあり、ある意味、持ちつ持たれつの関係でもあったようです。

 当時50代の田岡はゴト師の世界では伝説的な人物として知られ、十人近い配下を連れて、大阪を拠点に、西日本各地のホールを回って荒稼ぎをしていました。ゴト師になる人には素性の知れない人が多く、また、稼げない部下には、「取れんと思うから取れんのじゃ!」と、容赦なく罵倒を飛ばす田岡の性格のせいもあって、ゴト師グループは人の入れ替わりが激しく、山地は早々に古株になり、組織の金庫番のような役目を担っていたようです。

 一方で、山地はゴトの腕はイマイチでした。ゴトの手口にも色々あるようですが、田岡が行っていたのは、「体感器」という機械を用いる体感器ゴトで、パチスロ機の内部に埋め込まれた、当たり外れを操作するルーレットの周期に合わせて体感器が振動し、使用者がそのリズムに合わせて打つことで、確実に大当たりを引くというものでした。(説明が非常に難しいので、興味がある方はYouTubeを参考にしてください)

 体感器は誰が使っても大当たりを引けるというものではなく、ある程度リズム感やセンスといったものが必要です。田岡はゴト行為をするだけでなく、体感器も自分で作っており、販売やリースも行っていましたが、その試験運用を行うのに山地を指名し、客の前で失態を演じた山地を思い切り怒鳴りつけたということが何度かあったようです。
 
 しかし、田岡が部下に厳しいのは山地に限ったわけではなく、むしろ金庫番を任せていたように、身寄りのない山地を引き取って面倒を見てやろうと思っていたようで、山地もけして田岡のことを嫌っていたのではなく、むしろ父親がわりとして信頼していたようです。

 そうでなければ、山地はゴトでまったく稼げなくなったにも関わらず、消費者金融から借金をしてまで組織にアガリを納めて、田岡の元に残ろうとしたりはしなかったでしょう。これについて、山地があまりにも不器用なせいで稼げなかったようなことを書いている本などもありますが、実際には、この頃からメーカーの体感器対策が厳しくなりはじめており、体感器ゴトというシノギそのものが限界に来ていたというのが真相のようです。

 体感器をセンサーで感知され、店側に不正行為が発覚し、警察に突き出されたり、店員から暴行を受けたりするといったトラブルが多発しはじめ、体感器のリピーターからもクレームが相次ぐなど、伝説のゴト師、田岡も、次第に追い詰められていきました。他の部下たちは次々と田岡の元を去っていきましたが、山地にはほかに頼れる人はおらず、居場所もありません。

 田岡も山地が簡単に出ていけないのをわかっており、「今は時期が悪いのではないでしょうか」と、正論を言う山地を、「お前の使い方が悪いんじゃ!」と、相変わらず厳しく叱りつけていました。

 しかし、借金が限度額に達すると、さすがの山地もこらえきれなくなり、些細な口論をキッカケにして、ついに田岡の元を去る決断をします。


すいか


 
 邪


 勢いで田岡の元を去った山地でしたが、身寄りがなく、友人の一人もいない彼には、他に行くあてがありません。アスペルガー症候群の人は、組織の枠に収まっている間はいいものの、「自由」を与えられるとどうしていいかわからず、奇妙な行動を取ってしまいがちです。ケンカ別れして家を飛び出したなら、できるだけ家から離れたところで寝泊まりしようとするのが普通だと思いますが、山地はこともあろうに、マンションの前の公園で野宿をし、夜を明かしました。

 ただ、その理由は、「どうしていいかわからない」以外に、もう一つありました。山地は田岡がアジトとしているマンションに住む姉妹に、密かに想いを寄せており、彼女たちをつけねらっていたのです。

 お姉さんの明日香さんは27歳。飲食店で勤務をしており、将来は飲食店の経営者と一緒に、ブライダル関係の会社を立ち上げるために勉強をしていました。ちょうど、山地の初体験の相手である真里と同世代に当たり、私の想像では、山地はこのお姉さんの方に、より強い執着を抱いていたものと思われます。妹の千妃路さんは19歳。当時学生で、明日香さんとは別の飲食店でアルバイトをしていました。二人は暖かい家庭に育ち、友人も多く、愛すべき朗らかな性格であったようです。

 ネット上にいい画像が見つからなかったので、気になる方は「暴露ナイト 大阪姉妹殺害事件」とかで動画を検索していただきたいのですが、率直にいって、かなりの美人姉妹です。お姉さんはやや特徴のあるキュートな顔立ちをしており、 妹さんは純粋にアイドルのように整った顔立ちをしています。可愛いなあと思うのは妹さんですが、私の好みはお姉さんの方です。

 被害者には申し訳ないですが、私自身ロクでもない人生を送ってきただけに、この二人に邪な感情を抱く山地には、もの凄く共感を覚えて仕方がありません。中卒で破滅的な人生を送って、今はゴト師のような如何わしい組織に所属しているという身で、自分とはまったく違った幸福な人生を歩んできた、若く美しい姉妹が同じマンションに住んでいたら・・・。

 淡い恋心というより、憎悪の入り混じった、歪んだ情欲が芽生えてしまうのは痛いほどわかります。山地も含めて登場人物がすべて美形というのもあり、これだけで短編小説が書けそうなテーマです。

 中卒という学歴。少年院出身という経歴。度重なる就業の失敗。わずか三万円という所持金。消費者金融からの借金。身寄りはいない。発達障害などない普通の人でも、人生詰んだと思うような状況に追い込まれた山地は、最後に自分のやりたいことを思い切りやって、警察に捕まろうと決心しました。

「人を殺して、女だったら強姦して、金も奪ってしまえ」

 山地のターゲットに選ばれたのが、上原明日香さん、千妃路さんの美人姉妹でした。

私小説の続き14 旅行の計画と郵便局バイト

安土



 とりあえずあと2話なので先に進めていきます。

 晴れて翌年の専門学校入学が決まった私は、施設警備員時代を含め、二年に及んだフリーター生活の締めくくりに、一泊二日の近畿旅行に行くことを計画しました。

 私は歴史が好きです。これは結構多いと思うのですが、歴史に興味を持ったきっかけはコーエーのシミュレーションゲームで、その後すぐ、作家の井沢元彦氏の著作に出会って一気に歴史に目覚め、 今でもこれを一生かけて極めていきたい学問と定め、書物の消化に勤しんでいます。

 最近は時代区分の境なくオールマイティに学んでいるのですが、この当時の関心は専ら、WW1,2や中国の後漢末期~三国時代、モンゴル世界帝国が築かれた13世紀の情勢、日本史では平安末期や戦国などの、戦乱の時代でした。

 人物でいえば、世界史では、豊富な読書と動物的カンともいえる天才的な経済感覚、演説の才で、美術学校に二度も落ちて人生に絶望していた一介の浮浪児から欧州の覇者となったヒトラー、部族長であった父を他部族に殺害され、家来全てに見捨てられるという苦難の少年時代から、バラバラだった草原の民を纏め上げ、ユーラシア大陸を席巻する世界帝国を築き上げたジンギスカン、辺境コルシカの貧乏貴族の家柄から、兵学校でリア充にバカにされながらも苦学して皇帝にまで上り詰めたナポレオンが特に好きで、私はこの三人を、才能、努力、運すべてに恵まれ、かつドラマチックな生涯を送った世界史の英傑として特に敬愛しているのですが、世界規模でみればやったことのスケールは小さくても、その才能、努力、運ならば彼らにも匹敵する世界史級の人物として、日本の織田信長と豊臣秀吉も挙げられると思います。

 信長は、まだ尾張一国も統一できていない段階から、明らかに「天下」を意識していた視野の広さとスケールの大きさ、既得権益を握っている仏教勢力と妥協せず徹底的に争い、並みの人間なら発狂してもおかしくない信長包囲網を打ち破った強靭な意志力、秀吉をはじめとする家臣の才能を見抜き、育て、それをフルに発揮させる巧みな人事。

 秀吉は、その時々の立場に応じた絶妙の立ち回りで半農半兵の家の子から天下人にまでのし上がった対人交渉スキル、戦争の前に外交と謀略で勝利を固めてしまう根回しのうまさ。

 同じ三英傑に連ねられている家康になると少し格が落ちて、同時代にも、条件が同じなら同じことができた人間は何人かいたと思いますが、信長と秀吉だけは、日本史を通じても別格の存在で、もっと条件にさえ恵まれれば、彼らは間違いなく世界に出ていたであろうと思われます。

 今でもこの二人のことは好きなのですが、当時は他の時代の知識が薄かった分、私のこの二人への興味がピークに達していた時期で、彼らが活躍した戦国時代の遺物が多く残る近畿地方には並々ならぬ関心を持ち、いつか一人旅をしてみたいと思っていました。

ゆうびん



 計画では、夜行バスで京都に向かい、初日は滋賀県を回って、京都のホテルで一泊。二日目は京都市街地を回って、夜行バスで関東に帰るという計画ですから、厳密には1泊4日という日程です。予算は約五万円。しかし、当時の私は無職の状態で、専門学校のガイダンスを聞きに行くにも親に交通費を貰っている有様でしたから、費用を都合するために、またアルバイトを始めることにしました。今度は冬休み期間の、郵便局の夜間年賀状仕分けバイトです。

 最初に言うと、この仕事はチョー楽でした。賃金は低く、夜勤にも関わらず時給1000円もいかないくらいなのですが、それもそのはず、八時間の拘束時間中、実際に働いているのは五時間程度で、三時間は控室で「待機」になるのです。郵便物は一、二時間ごとに、車で纏めて郵便局まで送られてくるのですが、一回便を片付けてしまえば、次の便が届くまでは何もすることがないので、たまたま少ない便に当たれば、正規の一時間休憩より余計に休憩が取れてしまうのです。夜勤であり、仕事は立ち仕事でしたが、これだけ休憩が多いため、身体はまったく苦になりませんでした。

 長期のアルバイトの人も含め、若い人も結構いて、女性もいたのですが、特に誰かと仲良くなるということはありませんでした。休憩時間が多かったのに寂しい限りですが、気は楽だったともいえます。「深夜の仕分けバイト」には、19歳のときに3時間でバックレた経験のある、悪名高い佐川の仕分けバイトの思い出があり、ちょっと不安だったのですが、郵便局の仕分けでは、仕事が楽なのに加えて、社員やバイトは皆まともな人たちで、楽に稼がせてもらった、いい思い出として記憶されています。

 実は次の次の年もこのアルバイトはやったのですが、そのとき、二年前に長期のアルバイトだった人の何人かが、正社員になっていました。郵便局が十万人規模でアルバイトを正社員にしたという話は聞いていましたが、実際に見たときは少し驚きました。一概に正社員になるのがいいことともいえませんが、世の中まったくチャンスがないというわけでもない、とは言えるでしょう。希望とするには、とても覚束ないものですが。

 学生が冬休みの期間中、十五回くらい出勤して、約十万円くらいのお金を稼ぐことができ、二月の頭、私は意気揚々と、念願の近畿への一人旅に出発しました。

犯罪者名鑑 小林薫 2

こばうああおる


メーガン法


 中学時代に初めて少女にイタズラを働いて以後、開き直ったように犯罪行為を繰り返す小林。このような累犯者から市民が身を守るために、1994年、米国でメーガン法という法律が制定されました。性犯罪者の個人情報を政府が登録し、市民に開示するという法律です。

 制定の根拠としては、他の犯罪に比べて性犯罪者の再犯率が高いこと、意義としては、性犯罪者の住所を公開することで、近隣住人が警戒できるようにし、また性犯罪者に社会的な制裁を与えることで、新たに性犯罪を起こそうとする者の抑止になる、ということが挙げられますが、成立から20年あまりが経った現在、この法律の効果は疑問視され、逆に数多くの弊害が明らかになっています。

 まず、公開された前科者が、就職などで差別を受けることで、社会復帰が妨げられているという問題。メーガン法で公開される犯罪には、露出や未成年との性交渉など、初犯なら不起訴に終わるような軽微な犯罪まで対象になっており、これらを強姦などの重犯罪と一緒くたに扱うのは不平等ではないかという問題。近隣住民が前科者を警戒するのではなく、逆に近隣住民が前科者を攻撃しているという、新たなる社会不安を生み出している問題。個人情報の公開によって、前科者のみならず、前科者の親族までが特定され、嫌がらせを受けてしまう問題。また、これは映画の話ですが、前科者の個人情報を公開することで、前科者同士のネットワークが形成されてしまい、犯罪集団が結成されてしまうことも危惧されています。

 そして、ここが肝心ですが、メ―ガン法の成立以後と以前とでは、結局、性犯罪の発生率はまったく変わっていないというデータが出ています。また、後になって、以前の統計方法には欠陥があったことがわかり、新しい統計では、性犯罪の再犯率は、他の犯罪に比べてむしろ低いことが明らかになっています。数字からは、メ―ガン法の成立は、被害者の感情を和らげる効果はあっても、犯罪の抑止には何ら役に立っていないことがわかります。

 小林が事件を起こした当時、日本でもメーガン法を導入すべきだという意見が多く聞かれ、現在でもそれを提唱している人はいますが、メーガン法の制定からは20年、小林の事件からも10年の月日が過ぎ、実際に数字として「効果なし」という結果が出ている以上、厳罰化の世論に迎合する目的だけでメーガン法を導入することには疑問を覚えます。犯罪の抑止という観点から考えるなら、前科者をいたずらに追い詰めることに国家の予算を費やすよりも、前科者の社会復帰をむしろ後押しし、非正規労働者などの底辺層を底上げしていくことの方が、よほど効果があるはずです。

 余所の国のことをとやかくは言えませんが、前科者を厳しく監視することが、犯罪の抑止に効果がないということがわかっただけでも有意義ではあったのだから、無駄で無意味な法律は速やかに廃止すべきであり、ましてや他国がそれを導入しようと考えるのはもっての他でしょう。

しょうじょ


 
 奈良小一女児誘拐殺人事件



 事件当時、小林は奈良市内の新聞専売所に勤めていました。勤務ぶりは真面目だったといいますが、お酒の量が増えるなど、精神状態は健全ではなかったようです。

 そして04年11月17日午後14時00分ごろ、帰宅途中だった奈良市内の小学校一年生、有村楓ちゃんが、小林によって連れ去られました。直後に、楓ちゃんの携帯から母親の携帯に複数のワンギリがありましたが、楓ちゃんは夕方になっても帰宅せず、家族は同18:45分に警察に通報します。

 このとき、小林の自室マンションに監禁されていた楓ちゃんは、しばらく、小林に宿題を手伝ってもらうなどして、平穏に過ごしていたようです。別の少女誘拐事件では、少女が犯人の部屋で寝転びながらアニメを見ていたという話もありますが、これを単に、少女の警戒を解き、合意の上での行為と主張するための策略と捉えていいものかどうか。もしかしたら、わいせつ目的で少女を誘拐する犯人は、必ずしも少女を性的に蹂躙することばかりを考えるのではなく、少女と心から仲良くなることを望む場合もあるのかもしれません。

 しかし、小林は結局、同16:00ころには楓ちゃんをわいせつ目的で浴室に連れ込み、湯船の中で溺死させてしまいます。このときのことについて、当初小林は、楓ちゃんに抵抗された腹いせに、殺意を持って湯船に沈めたということを語っていましたが、後になって、睡眠導入剤ハルシオンを飲まされ、湯船に浸からされた楓ちゃんが、小林が目を離している間に溺死したと証言を翻したのですが、これについては後で詳述します。

 同20:04、母親が近くの公園を捜索中、母親の携帯に、楓ちゃんの画像とともに、「娘はもらった」とのメールが届きました。このとき小林は、行きつけの居酒屋におり、楓ちゃんの遺体を傷つけてから遺棄した方が罪が重くなり、兼ねてから願望だった死刑になれると考え、自宅に引き返して、楓ちゃんの遺体を刃物で切り裂きました。
 
 そして、日付が変わって18日00:05頃、被害者宅から直線距離約7kmの場所にある側溝から、楓ちゃんの遺体が発見されました。

 捜査では、目撃された車の色が実際のものと違うなど、情報が錯そうし、小林がすぐに捜査線上に浮上することはありませんでした。小林はそれをあざ笑うかのように、事件の報道が一段落すると、再び楓ちゃんの携帯から、「今度は妹をもらう」などと、再び楓ちゃんの母親にメールを送りつけたり、行きつけのスナックのママに、「楓ちゃんの写真ネットで拾ったんや」などと言って、携帯カメラに収めた画像を見せびらかすなど、自らの犯行を誇示します。

 しかし、12月末には、小林が捜査線に浮上。女児の携帯から、小林の携帯にメールが添付されていたことが決め手となり、小林は年明けを自宅で迎えることなく、逮捕されました。


こばやしかおる

  
 
 美学と願望との狭間


 裁判の中で、小林は「反省の気持ちも更生する自信もない。早く死刑判決を受け、第二の宅間守か宮崎勤として名を残したい」と語るなど、当初から投げやりで、減刑についても関心がないかのようでした。「極刑以上の刑を与えてほしい」という峻烈な遺族感情もあり、06年、求刑通り、小林の死刑が確定します。

 ところが、逮捕から3年が経った09年、小林は突如、「事件は睡眠導入剤を飲んだ女児が一人で溺れたもので、死刑ではなく傷害致死だった」という前述の主張を展開し始め、再審請求を提出します。この小林の行動について、週刊誌が「小林に生きたい気持ちが芽生えたのだ」という記事を書いたところ、小林が記者を名誉棄損で訴えるという、摩訶不思議な出来事が起こります。

 一人でも死刑になる可能性のある殺人と、懲役七年程度の傷害致死では、まさに天と地ほどの差があり、再審請求を出した小林は生きたいのだろうと、誰もが思うでしょう。再審請求を出したにも関わらず、「いや、俺は死刑になりたいのだ」と主張し、小林は生きたいのだという記事を書いた記者を、「事実に反している」と訴えるのは支離滅裂であり、まったく矛盾しているように思います。

 おそらくは、彼なりの美学と、本当は生きたい気持ちの狭間で揺れ動いていたのでしょう。本音を表に出せず、周りに弱みを見せることを嫌う、不器用なタイプの男だったのかもしれません。再審請求自体は棄却されたものの、記者を訴えたのは認められ、地裁は出版社に30万円の罰金を命じました。

 2010年、刑は執行され、小林薫は44歳でこの世を去りました。

 

 総括:冒頭で述べた通り、小林薫は己のことを、宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者と分析していました。

 当時、すでに宅間守は死刑執行済みでしたが、宮崎勤は上告中で、先ほどの小林の言葉に対し、「精神鑑定も受けずに第二の宮崎勤は名乗らせません」と批判的に述べる一方、事件については、「子供にやさしい人が起こしたんだな」と、独特の持論を述べています。

 同じ少女を狙った犯罪者として、宮崎勤と小林の比較はよく行われましたが、実家住まいで、恵まれた環境にあった宮崎と違い、小林は新聞専売所の給料で一人暮らしをしており、実家を頼ることもできず、経済的には苦しい状態にありました。小林が犯行に使った車は知人から借りたもので、それなりの交友関係はあったようですが、いざというときに頼れるような本当の絆で結ばれた人はいなかったのでしょう。やはり小林は単なる性的欲求のみで犯罪を起こしたわけではなく、貧困や将来の不安、厭世感といったものが背景にあり、宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者という本人の分析は当たっていると思います。

 小林薫に名誉棄損で訴えられた記者は、生前の小林と何度も面会をしており、小林のことを、「娑婆で一緒に飲んでいてもおかしくない、話しも面白い普通の男」だったと語っています。成人女性との交際歴もあり、普通の家庭に憧れていた小林が真っ当に生きる道があったかなかったかといえば、私は「あった」と思います。

 この犯罪者名鑑を通じて何度も述べていることですが、犯罪者に厳罰を課したり、出所後も厳しく監視することではなく、不幸な生い立ちを背負ったり、一度レールから外れてしまった人がもう一度夢を見られるような社会を作ることこそ、犯罪を抑止する一番の方法といえるでしょう。

犯罪者名鑑 小林薫 完
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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