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犯罪者名鑑 畠山鈴香 1

すずか



 児童虐待


 2010年代に入っても、毎年のように子供の虐待、育児放棄の問題が報道されています。子どもを虐待する親は、「鬼」と言われて厳しい批判を受け、事件のすべては親が悪いというような論調で語られています。

 親が子を思う気持ちを、現代人の多くは当たり前のことだと思っています。もちろん、それが尊いものであることは間違いありません。それがない人間は子供を持つ資格がないというのもわかります。しかし、子どもを持つ親のすべてが、二十四時間三百六十五日、無条件に子供を愛する気持ちを持てるものでしょうか。

 江戸時代以前の農村では、畑仕事ができなくなった親を山に捨てたり、跡取り以外の子供を間引くということが、普通に行われていました。この日本でも、つい二百年程前までは、人が無条件に、親や子供を愛することは、「当たり前」ではなかったのです。

 児童虐待や育児放棄の問題を、親を責めただけで解決できるのか。経済状態など、子どもを育てる環境が十分に整っていない事情までもが、「愛」の問題にされてはいないか。「親の愛」というあやふやなものに、社会のシステムが依存しすぎてはいないか。虐待を生んでいる構造の問題を含めて検証したいと思います。

よせがき


 
 源流

 畠山鈴香は1973年、秋田県能代市にて、運送会社を経営する父親と、元ホステスの母親との間に誕生しました。母親は元バレーボールの選手で、鈴香の大柄な身体はこの母親譲りだったようです。
 
 父親は暴君体質で、鈴香が幼いころから、酒を飲んでは家族に暴力を振るっていました。鈴香が中学生のころ、糖尿病で男性機能が衰えると、暴力はますます激しくなり、家族はいつも怯えながら暮らしていたといいます。

 鈴香は小学生のころから、学校で激しいイジメを受けていました。最初は小学校一年生のころ。担任にいきなり「水子の霊が憑いている」と言われたのがキッカケという、俄かには信じがたい理由でした。どうも、自分が信仰している宗教団体の御守りを買わせるのが目的だったようで、この担任は校長の判断で替えさせられたそうですが、同級生たちに与えた影響は大きく、鈴香は「心霊写真」などと仇名をつけられ、からかいを受けるようになります。

 高学年になると、給食を食べるのが遅いからと、担任から両手に給食を受けさせられ、無理やり食べさせられるなどの仕打ちを受け、これが原因で「バイキン」などと呼ばれてまたイジメを受けるようになります。担任がイジメがあったときに守ってくれなかったという話はよく聞きますが、鈴香の場合は、担任が原因となってイジメが起きてしまったのです。子どもの数が少ない田舎のことで、小学校の人間関係はそのまま中、高に持ち越され、鈴香の青春は暗いものになってしまいました。

 家庭にも学校にも安息がないという中で、鈴香には盗癖が芽生えてしまいました。小学生のころから小物や文房具などを盗んでおり、高校時代にはバドミントン部の部費六万円を盗み、停学処分を受けています。子どもの盗癖は愛情不足から出るものと言われ、物が欲しいというよりも、周囲の関心を自分に向けるために盗みを働く場合が多いといいますが、鈴香の場合は、店からの万引きだけではなく、同級生の持ち物にまで手を出してしまったのがいけませんでした。罪悪感や共感性が薄かったのかもしれませんが、これにより、イジメはますます激しくなってしまいました。

 高校を卒業するときに書かれた卒業文集は、ワイドショーなどで大きく取り上げられて有名になりました。文集のメッセージ欄に、鈴香本人は、

「一年間、長い人は三年間どうもでした。すぐには仕事をやめてこないけど二ツ井に帰ってきたときは遊んでやってください。帰ってきたらまっすぐビューホテルのあかねのとこに行くのでよろしく!!」

 と、健気に書いていたのですが、それに対する同級生たちのメッセージは、


「いままでイジメられた分つよくなったべ、俺たちに感謝しなさい」

「秋田から永久追放」

「二度と帰ってくるな」

 (有名になりそうな人のコーナー)「自殺、詐欺、強盗、全国指名手配、変人大賞、女優、殺人、野生化」

 

 などという、心無いものでした。

 こういうことを書いてしまう子供もそうですが、こんな文章を残してしまう学校側も、私には信じられません。放任主義だったのかもしれませんが、この内容は一線を越えているでしょう。これでは、まともな教育が行われていたのかと疑われても仕方ありません。

 ただ、当の同級生は、鈴香の高校時代のイジメについて、「報道されているほど大したことはなかった」と語っています。確かに、文集の中には鈴香以外にも、「強姦」「殺人犯」などとメッセージを送られた同級生が何人かいたようです。もしかしたら、子供の稚拙な悪ふざけが大げさに捉えられただけなのかもしれません。

 真相はわかりません。確かなことは、鈴香本人は、この文集を捨ててしまったということです。


すずか32

 

 長女誕生


 高校を卒業した鈴香は、栃木県鬼怒川の旅館に就職しました。父親は県外に出ることを猛反対していましたが、週に一回、近くに住んでいる叔父のところに顔を出すという条件で折れたそうです。

 父親から離れて生活するのは、鈴香の長年の念願でした。まさに解き放たれたようで、友達もでき、このときばかりは人生をエンジョイしていたようです。

 が、わずか一年ほどで、その生活も終わりを告げてしまいます。父親が糖尿病で目が見えなくなり、帰って来いと言われたのです。それは一人娘を手元に置きたい父親がついた嘘だったのですが、鈴香は言われた通りに実家に帰り、父親に束縛された生活に戻ってしまいます。

 二十歳前後の鈴香の人生は糸をつたうようで、父親に無断で、鬼怒川の隣りの川治温泉のコンパニオンや、クラブのホステスを勤めようとするのですが、すぐに父親に発覚して連れ戻させることを繰り返します。本人なりに抵抗し、逃げようともするのですが、なかなか父親の束縛からは逃れられません。この頃は、鈴香の四歳下の弟が父親を凌ぐ体格に成長しており、家庭内暴力は収まっていたといいますが、恐怖で縛り付けられていたのは相変わらずでした。

 そんな時期に知り合ったのが、一歳年下の男性、川島(仮)でした。髪を茶色に染め、いまどきの若者風の恰好ではありましたが、どこか風采が上がらず、頼りなげな感じの青年だったといい、鈴香にとっては、弟と重なり合うところがあったのかもしれません。川島とは、一度連れ戻された川治温泉にもう一度逃げ出し、またコンパニオンをしていたころに同棲をしていたのですが、川島はガソリンスタンドのアルバイト店員、鈴香もコンパニオンというのでは、先の展望がありません。このままではどうしようもないと思っていたところに、父親から、川島を自分の運送会社の社員にしてやるという誘いがあり、二人はそれに乗ることに決めました。

 自分の絶対的な支配から抜け出した娘と同棲を始めた川島を、父親は意外にも好意的に受け入れました。父親は会社の金で川島に二種免許を取らせ、将来、自分の事業を継ぐ存在として大切に育てていたようです。川島も、「厳しい面もあったが、自分と鈴香のことを想ってくれているようだった」と、好意的に語っています。

 まもなく二人は婚姻届けを提出し、実家を出て借家で生活を始めました。しばらくして、日当たりのいい町営団地に移り住み、そこで長女、彩香ちゃんが誕生しました。
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栃木リンチ殺害事件 2

 しょうねんB


 写真 : 少年B

 事件にならねば動けない


「警察は事件にならないと動けないんだ!あんたらの息子が金を仲間に分け与えて、不良の仲間と楽しく遊んでるんだろう」

 これが、須藤さんの両親が相談に訪れた、石橋署の生活安全課の刑事の対応でした。一回はまだしも、二回目からは椅子にふんぞり返って、ボールペンを手で回し、口調もぞんざいになるなど酷いものだったといいます。挙句の果てには、「あんたらの息子は麻薬をやっているんじゃないのか」などと決めつけたというから呆れてしまいます。

「じゃあ、麻薬の線でもいいから捜査をしてください」

 両親はそれでも根気強く、捜査の必要性を訴えましたが、事実無根の決めつけで被害者を侮辱した石橋署の五十代の警官は、「事件にならないと動けないんだよ」の一点張りで、あからさまに迷惑そうに、両親を追い返そうとします。

 そうこうしているうちにも、息子が酷い目に遭わされているかもしれない。両親は独力で須藤さんを奪還しようと動き始めます。須藤さん失踪から一週間あまり経った頃には消費者金融のカードも限度額一杯になっており、犯人グループは、須藤さんの友人に借金を申し込ませていたのですが、犯人グループがあるひとりの友人宅を訪れた際に、お父さんは遠く離れた場所から、須藤さんたちの様子を伺っていました。その場に出ていくことができなかったのは、友人が犯人たちからの仕返しを怖れたためです。

 お父さんはさぞ歯がゆい思いだったでしょうが、なんとか車のナンバーを抑えることはできました。これと目撃証言を掛け合わせて、犯人グループにBとCが関わっていることが明らかになりました。Bは須藤さんが勤める日産の社員です。両親は日産に調査協力を依頼し、実際にBを会社の事務所に呼ぶところまでは成功したようなのですが、なんと日産は、事件には関係ないというBの言い分を全面的に信じて、Bをさっさと帰してしまったのです。

 後に詳述しますが、この事件が悲惨な結末を迎えてしまったことには、日産の対応のまずさも深く関係していました。当時の報道では、栃木県警の対応については、石橋署の警官ばかりが悪いように言われていたのですが、後の調査により、警察の非協力的な態度の裏に、日産の思惑が絡んでいた疑いが濃厚であることがわかってきたのです。

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 見殺しの五十代刑事

 友人に借金を申し込んだ場面では、須藤さんの右腕には包帯がまかれており、顔面が腫れ上がっていたという目撃証言があったにも拘わらず、警察はまだ動こうとしません。この頃、すでに須藤さんは重度の火傷に皮膚を蝕まれており、膿んで悪臭を発し始めていたため、A自らが付き添って、病院に治療に訪れていたのですが、須藤さんはすでに逃げる気力を失っており、病院からの通報もありませんでした。

 非道な犯人グループは、重体の須藤さんをなおも脅しつけ、両親を諦めさせるため、電話口で「おやじ、金を出さないとぶっ殺すぞ」などと罵倒させることさえ始めていました。お母さんは食事ものどを通らず、短い期間で一気に痩せこけてしまったといいます。

 すでに須藤さんが犯人グループに拉致されてから、数週間の月日が過ぎていました。ここに至り、両親は犯行に関わっていることがわかっているBとCの親に、強い口調で須藤さん奪還への協力を迫りました。BとCの親は最初は素直に従い、須藤さんの両親と一緒に、石橋署へと向かいました。

「何なんだ須藤さん、この騒ぎは。日産からも人を寄越したりして、何を騒いでいるんだよ。今日は何しに来たんだ」

 例の五十代の刑事は相変わらずの態度です。もう慣れっこになっている両親は、BとCの親と一緒に、須藤さん捜索を要請しますが、須藤さんが重度の火傷を負っているという情報を出しても、刑事はまだ、事件にならないと動けないの一点張りです。と、そこに、須藤さん本人から電話がかかってきました。いつもの金の無心だったのですが、ここで機転を利かせたお父さんは、電話を五十代の刑事に代わってもらうことにしました。
 
 刑事は曲がりなりにも、捜査のプロです。須藤さんからの電話を受け取れば、刑事にも事の重大さがわかり、捜査に踏み切ってくれるという判断だったのですが・・・・。

「石橋だ。石橋署の警察のモノだ・・・・あれ?切れちゃったよ」

 なんと、お父さんが「友達に代わるから」とわざわざ断ってから電話を交代したにも関わらず、無能な五十代の刑事は、バカ正直に警察だと名乗ってしまったのです。これでは、犯人グループを警戒させるだけなのは素人にもわかります。

 さすがにまずいと思ったのでしょう。刑事は両親に「Cの車を手配する」と約束しましたが、時すでに遅し。このときの電話がきっかけとなり、須藤さんへの連日の暴行が警察に発覚するのを恐れた三人は、とうとう須藤さんを殺害することを決意してしまったのです。


とうしょうぐう


 
 最悪の事態はどうすれば防げたのか

 
 事件で一番非難を受けるべきは犯人グループの少年三名、次に、一向に動こうとしない警察と、警察に「動くな」の指示を出した可能性がある日産であるのは間違いありません。しかし、国際水準でみれば、もともと警察はあまり頼りにならないもので、治安が民間人の自衛の意識に委ねられている部分が大きいのは確かです。

 須藤さん殺害の顛末を書く前に、被害者を責める意図ではなく、客観的に、警察が頼りにならないものであるという前提で、被害者側がどうすればよかったのかを考えてみたいと思います。

 この事件を知った誰もが疑問に思うことは、被害者の須藤さんは、なぜ犯人グループから全力で逃げようとしなかったのか、ということでしょう。事件中、須藤さんは完全な監禁状態に置かれていたわけではなく、飲食店、飛行機、火傷の治療に訪れた病院、金を借りにいった友人の前など、頻繁に外部と接触していました。にも拘わらず、どうして彼は、なりふり構わず逃げ、助けを求められなかったのか。

 一度、逃げようとしたことはありました。しかし、それで酷い暴力を受けた結果、須藤さんはおそらく、「学習性無気力状態」という心理に陥ってしまったのでしょう。DVなどでも同じですが、抵抗して酷い目に遭わされたとき、人間は反抗の気力をなくし、加害者に対して盲従的になってしまうものです。

 酷な意見かもしれませんが、須藤さんがあまりにも優しすぎた、というのも原因かもしれません。逃げたら家族を殺してやるというAの脅しを信じてしまったというのはまだしも、なんと須藤さんは、自分が逃げたら、今度はBとCが、主犯であるAに酷い目に遭わされることを心配していたというのです。

 これが本当なら、被害者が加害者に共感し協力的になる、いわゆる「ストックホルム症候群」に近い状態になっていたともいえるでしょうが、それにしても異常なケースです。確かにBとCに被害者的側面がなかったとはいえませんが、二人は須藤さんのイジメに積極的に加わっており、悍ましい笑顔さえみせていたのです。そんな二人を庇おうとするとは・・・・。

 「優しさ」は「弱さ」なのでしょうか?そうではないと思いたいです。

 須藤さんを奪還しようと動いていたご両親の方はどうでしょうか。
 
 須藤さんの身内からは、いっそのこと地元のヤクザに相談してみればいいのではないか、という話も持ち上がっていました。

 ひとつの手だったかもしれません。栃木県は、全国でもヤクザの勢力が強い地域です。ヤクザは必ずしも犯罪組織と同義ではなく、世間体というものを非常に重んじます。まったくの義理人情だけでは動かないでしょうが、犯行グループのリーダー格のAは住吉会系のヤクザがバックに付いていると嘯いており、後にそれは事実無根であったことが確認されています。ヤクザに話を持ち込んでいれば、ヤクザは己のメンツにかけて、犯行グループを全力で探してくれた可能性はないとはいえません。

 ヤクザでまずいというのなら、民間の調査会社に動いて貰うという手段もあったでしょう。もちろん費用の問題もあり、第三者が偉そうにいえたことではありませんが、理髪店の仕事もしながら、ご両親が独力で須藤さんを奪還するというのは、やや無理があったようにも思います。

 事件の教訓を生かすとすれば、速やかに第三者機関に相談するということになるのでしょう。しかし、この件でご両親を責めるというのはあまりに酷な見方であり、私にその意図がないことは重ねて記しておきます。

 両親が、日産の寮に残された須藤さんの家具を、トラックで運び出したときのことです。たまたま寄った店で居合わせたダンプの運転手が、両親のトラックを追いかけて、信号に捕まったときにわざわざダンプを降りてきて、お父さんに、「横倒しにした冷蔵庫を起こしたとき、すぐに電源を入れると壊れるから、時間を置いてから電源を入れなよ」と、忠告してくれました。

「世の中にはこんなに親切な人もいるのに、市民を犯罪の魔の手から守るはずの警察は、私たちをまったく助けてくれなかったんですよ」

 栃木県警は、両親の言葉をどう受け止めたのでしょうか。

私小説の続き11 自己責任論との戦い2

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 自己責任論の続きですが、私がいま、日本という国の中で苦しい立場にある人たちに一番求められているのは、「助けてくれって叫べる」力だと思っています。

 「我慢」しちゃダメです。「我慢」は何も生み出しません。

 兵法に籠城戦というものがあります。城に籠って、自軍から敵を攻めずに、ひたすら攻撃を耐え忍ぶのですから、籠城は「我慢」の最たる戦法といえます。

 一般的に籠城は、ある一定の期間持ちこたえれば味方の援軍が現れる、あるいは、敵が兵を引かざるを得ない状況になる、という場合においては、有効な戦法とされています。しかし、援軍などの見通しが立たない状況においては愚策中の愚策、それよりは、破れかぶれでも城を打って出た方がマシとされています。

 現代社会においても同じことがいえるでしょう。ある一定期間、つらい状況でも耐えていれば活路が開ける見通しがあるのなら、「我慢」も有効な作戦だと思います。しかし、ただ単に何の当てもなく「我慢」しても、状況はかえって悪化することに繋がるだけです。

 特に貧困層にいる人で、我慢することが格好いいと思っている人、あるいは、苦しいときに助けてくれと声をあげるのをみっともないことだと思ってしまう人は、心に深刻な病気を抱えています。「男らしさ」という病です。病気と書きましたが、どちらかというと、こっちの人の方が多いのではないでしょうか。

 貧困を個人の責任に押し込める自己責任論のせいで、日本人は「男らしさの病」にかかってしまいました。今は女も一人で生きていくことを強いられている時代ですから、女のひとも「男らしさの病」にかかっています。

 男らしさの定義も人それぞれでしょうが、最大公約数を出せば、たぶん「安易に助けを求めない」「痩せ我慢」「弱音を吐かない」「武士は喰わねど高楊枝」「弱いものを守る」的な考えに落ち着くのではないかと思います。このうち貧困者が守らなくてはならないのは「弱いものを守る」くらいで、あとは全部邪魔なものです。人によってはそれを美徳と捉えるのでしょうが、この男らしさの病こそが、貧困者がなぜか自己責任論に同調する原因であり、貧困者が余計に追い詰められている原因になっています。

 ホームレスやネットカフェ難民、あるいは屋根付きの家に住んでいる人でも苦しくてたまらない人に、私は声を大にして、「助けてくれって叫ぼうよ」と言いたいです。

 みんなが「男らしさの病」にかかっている世の中ですから、助けを求めて叫べば、「苦しいのはお前だけじゃない!」とか、「みっともないからやめろ」とかいって、叩いてくる人もいます。その人たちは、自分が周りに叩かれたくないから、男らしさを言い訳にして弱音を吐けないだけの、ただの臆病者です。男らしさ、逞しさを売りにしている人ほど臆病者なのだと思って、声を張り上げて叫んでほしいです。

 諦めずに叫び続けていれば、助けてくれる人は必ずいます。寄り添ってくれる人もいます。私でいえば、コメントをして私の活動を応援してくださる皆さんです。誰に何と言われようと、皆さんがリアクションしてくれないと僕は頑張れないと叫び続けていたおかげで、少しずつ理想の執筆環境を手に入れました。時々生意気な態度をとることもあるかもしれませんが、私は皆さんには本当に感謝しています。私が唯一このサイトを通じて誇れることがあるとすれば、常に「助けてくれって言える」人間であれたことです。それは生きる上で大切なことだからです。

 私を見習えというわけではないです。私はちょっと極端な例かもしれないからです。でも、苦しい人は私の半分くらいでいいから、叫んでほしいです。みんなで叫び続けていれば、いつかきっと、世の中も変わってくると思います。いま苦しい立場にいる人に必要なのは、「男らしい臆病さ」ではなく、「助けを求める勇気」です。

 ・・・・と、現在でこそ、「男らしさの病」克服できた私ですが、この当時はまだまだ、「男らしさの病」に囚われ、無駄に自分をイジメていました。成功とは、徹頭徹尾自分を殺した先にあるもので、「我慢」ができなければ、人間に生きる価値はないと考えていました。

 下流に生きる人にとっては、「我慢」は百害あって一利ありませんが、一定の生活水準が保障され、定年まで勤めあげれば重厚な厚生年金が保障されている(ハズ)―――すなわち、我慢した先の活路が開けている中流以上の人にとっては、あながち間違った考え方ではありません。

 二十二歳当時、その中流以上を目指した私が入学を申し込んだのが、IT系の専門学校でした。とくにITに興味があったわけではありません。ただ、学校説明会で、ITなら年齢がある程度いって、大学も出ていない人でも比較的容易に就職ができるという話をきいた、ただそれだけが理由です。特に好きなわけでもなく、ただ仕事として、この業界を選びました。11月か12月くらいにAO入試というものを受け、あっさりと来年度での入学が決まりました。

 中流以上なら我慢も悪くないと書きましたが、実際には、我慢の必要もなく、努力がほとんど報われ、ハッピーな一生を送れる人間もいます。それをリア充といいます。

 ・能力がある
 ・イケメンである
 ・コミュ力がある
 ・精神病質が少ない
 ・ひたすら運がいい

 この辺りが条件になるでしょうか。これらを全部備えているような完璧超人はなかなかいないでしょうが、一つなり二つなり備えている人であれば、比較的我慢の量が少なくても、楽しい社会人生活が送れます。これらを何一つ備えてない人間が、コイツらに縋りついていこうと思ったときに初めて必要になるのが、「我慢」です。プライドを全部へし折る覚悟、土を舐めさせられても笑ってられる覚悟、お零れが何もなくても文句言わない覚悟―――などと言い換えてもいいかもしれません。

 専門学校時代は、私に「リア充五大要素」が何一つないばかりか、最後の砦である「我慢」すらできなかったことを、一人の女とその周りの連中に思い知らされたという話です。

犯罪者名鑑 酒鬼薔薇聖斗 1

前編~ 透明な存在の誕生 酒鬼薔薇聖斗を産み出した時代

さけおにばら


 
酒鬼薔薇世代

 1982年7月7日、神戸市の病院で、酒鬼薔薇聖斗は産声を上げました。

 この1982年という年に誕生した有名犯罪者には、秋葉原連続殺傷事件の加藤智大、西鉄バスジャック事件の「ネオ麦茶」、豊川主婦殺害事件の少年、PC遠隔操作事件の片山祐輔、一つ上には親族連続殺人事件の松村恭造、一つ下には姉妹殺害事件の山地悠紀夫、土浦通り魔事件の金川真大らがおり、プロ野球の「松坂世代」「イチロー世代」「マー君世代」に匹敵する、凶悪犯罪者大豊作の世代です。

 長くても40歳前後でキャリアを終えるプロ野球選手に対して、一生キャリアが続く犯罪の世界において、まだ30代前半という世代にこれだけ固まるのは奇跡といってもいい出来事です。いったいこの世代には、何があるというのでしょうか。

 「キレる十七歳世代」とも呼ばれたこの世代の特徴として、事件を起こした年齢が、比較的若年であるということがあげられるでしょう。そもそもまだ30代前半ですから当然としても、成人になってからでも、加藤智大のように25歳くらいまでに事件を起こすケースが多く、以降は明らかにペースダウンしています。10代から20代前半にかけての若者を狂気に駆り立てるなにかが、この世代にあったのでしょうか?酒鬼薔薇編では、世代的考察も含めて検証していきたいと思います。


だからみんなしんで


 
 1990年代

 
 酒鬼薔薇世代の学齢期は、ちょうど従来型の詰め込み教育からゆとり教育への転換期に当たり、詰め込み教育の弊害とされるイジメ問題がひとつのピークを迎えていた時期に当たります。単純な発生件数だけなら、80年代の校内暴力が盛んだった時期の方が上かもしれませんが、この時期のイジメは「一人の人間を集中的に」「バレないように巧妙に」質的変化を遂げてきており、それまで校内暴力のついでのように考えられていたイジメが、それ単体で注目されるようになった時期でした。

 雇用に目を向けてみれば、酒鬼薔薇が事件を起こした前年の1996年には、大卒の求人倍率が1.00を切る寸前にまで落ち込んでおり、社会が本格的に、若者に対して「ウェルカム」でなくなってきた、という時代だったといえます。

 どちらかといえば、加藤智大など二十代で事件を起こした「セカンド・インパクト組」の問題であり、十代で事件を起こした酒鬼薔薇らには、就職はまだそれほどにリアルな問題ではないかもしれませんが、そういう時代的な「雰囲気」の中に、すでにいたことは確かとはいえます。

 サブカルチャーでは、終末思想を描いたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が歴史上に誕生しました。放映期間が1996年、酒鬼薔薇世代が主人公の碇シンジと同じ14歳を迎える年齢でしたから、まさに直撃世代といっていいでしょう。「米沢エヴァンゲリオン殺人事件」の犯人も、ちょうど酒鬼薔薇世代に当たります。

 彼らが「エヴァンゲリオン」を観ていたかどうかが重要なわけではありません。「エヴァンゲリオン」に人を殺人に駆り立てるような何かがあると言いたいわけでもありません。ただ、あの作品から漂う空気というのは、紛れもなく「世界への絶望と破壊」であるとはいえます。そして、そうした作品が生み出され、流行るだけの精神的な土壌があったことも、確かであろうといえます。

 テレビ版の中盤や新劇場版「破」などで、一旦、世間一般に好もしいとされる価値観に迎合してみせた後に(それが一定以上の評価を受けていたにも関わらず)、それを終盤で「リア充ざまあww」とばかりに一気にぶち壊して見せる庵野監督の姿勢を私は全力で評価したいのですが、ああしてぶち壊され、突き落とされた後に残る、「絶望」「荒廃」「索漠」といった余韻に深く共感する層が、酒鬼薔薇世代の前後5歳くらいの間に大勢いたことは確かです。

 政治情勢ではソビエトの崩壊、日本経済におけるバブル崩壊、事件では史上最悪のテロ「地下鉄サリン事件」災害では「阪神・淡路大震災」などがあり、終末を予感させるような出来事が、酒鬼薔薇が事件を起こす直前に起こっていました。

 既存の体制がマイナーチェンジでは対応できないほど歪みはじめ、すべてぶっ壊さなければ未来はない、と感じる若者が増えてきた。それが90年代という時代であり、90年代に青春を過ごした人たちの思想だったのではないでしょうか。


しょうねんA


 
 両親

 酒鬼薔薇の後に男児が二人立て続けに産まれ、父親の社宅では手狭になった一家は、神戸市北区から須磨区へと引っ越しました。

 両親はともに沖縄県の出身で、父親はいわゆる「金の卵」の時代に中卒で集団就職し、中小企業で電気技師として技術を磨いた後、一部上場企業に再就職しました。

 今でこそ「イクメン」などという言葉もありますが、まだまだ酒鬼薔薇が産まれたくらいの頃は、育児は母親の仕事と決めつけられており、父親は外で金を稼いでいればいいという時代でした。しかし、酒鬼薔薇のお父さんは育児に積極的に参加し、休みの日も子供と一緒に遊ぶなどして、お母さんをよく助けていたようです。

 そしてお母さんの方ですが、この人はよく、酒鬼薔薇事件の諸悪の根源のように言われています。そのもっとも大きな根拠と言われているのが、酒鬼薔薇が小学校三年生のときに書いたとされる作文「まかいの大ま王」でしょう。すでに何度もメディアに取り上げられていますが、一応全文を紹介します。


 お母さんは、やさしいときはあまりないけど、しゅくだいをわすれたり、ゆうことをきかなかったりすると、あたまから二本のつのがはえてきて、ふとんたたきをもって、目をひからせて、空がくらくなって、かみなりがびびーっとおちる。そして、ひっさつわざの「百たたき」がでます。お母さんはえんま大王でも手が出せない、まかいの大ま王です。


  これに対する分析で、専門家は口々に、当時の酒鬼薔薇が母親にいかに恐怖を感じ、母親がいかに鬼母だったかを述べていますが、それは正しいのでしょうか?

 私も小学生のころ、母親に怒られ、恐怖を感じていたようなことを学校の作文に書いたことがありました。また小学六年生のころ、脳みそにカッターナイフを突き立てたオブジェを作った酒鬼薔薇と同様、戦争で人が死にまくるような絵画を描いたこともあります。その結果、当時の担任教師がそれを大げさにとらえ、「母親の愛情が足りないのではないか」と決めつけて、個人面談でうちの母親を責めたということがありました。

 実際どうだったかといえば、私の母親は昔から友人も多数おり、親兄弟との関係もよく、家事はほぼ完璧にこなし、職場では誰からも頼りにされる常識的な人物です。あまりにも常識的すぎて、非常識人である私との関係がうまくいかないということはありましたが、それは私のせいでもあります。そういう常識的な母親に育てられたお蔭でしょう。私は社会において数々の不適応を露呈しながらも、28歳の現在まで、大きな犯罪を起こさずに生きています。

 何が言いたいかといえば、「作文ぐらいで母親を責められたんじゃたまったもんじゃねえ」ということです。作文のネタとして母親を選んだのなら、読んでいる人に面白おかしく感じてもらうために、ちょっと大げさに書くくらいのことは、小学生でもやるでしょう。絵画にしたところで、幼少期から「ウルトラマン」「ゴジラ」「戦隊ヒーロー」「ドラゴンボール」に親しんできた子供が、戦いの絵を描くことには何の不思議もなく、それを戦争賛美と結びつけられたのではたまったものではありません。「サイン」のひとつと取ってもらう分には構いませんが、それならもっと他に注目すべき点はいくらでもあったはずです。

 これから詳しく紹介する、母親が酒鬼薔薇に行ったとされる「厳しい躾」とやらも、正直「人格が歪むほどか??」と思うレベルのものですし、逮捕された酒鬼薔薇が、面会に訪れた母親に対して反抗的な態度を取ったとされるエピソードについても、アクリル板を隔てているという状況が特殊なだけで、反抗期の息子と母親にはよくある光景でしょう。

 酒鬼薔薇に限らず、犯罪者の親に関するエピソードをみたときによく感じることですが、あまりにも「フェアではない」見方が多すぎます。わかりにくいものをわかりやすくするため、特に少年事件が起きたとき、親に多くの責任を求めすぎているように思います。しかしそれでいいのか?子供が社会で関わる大人は、親だけではありません。大人だけが、子供に影響を与えるのでもありません。生まれ持ったどうしようもない資質の違いもあります。

 世間の論調に惑わされず、事実を客観的にみていきたいと思います。

 

犯罪者名鑑 小林薫 1

こばやし

 


 宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者
 
 
 本人曰く、「宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者」です。確かに、人生に倦み、自ら死刑を望んだという経緯は宅間に似ており、罪状は宮崎勤に似ているということで、本人の自己分析は間違ってはいないでしょう。

 成人の代替として幼女を狙った、あるいは性愛ではなく人を解剖すること、あるいは「儀式」を行うことが目的だったといわれる宮崎勤と違い、小林は生粋のペドフェリアという精神鑑定を受けています。性的な傾向は人それぞれであり、何の前触れもなく突然目覚めることもないとはいえませんが、大抵の場合、アブノーマルな性癖が現れるには、それなりのキッカケがあるものです。

 小林がどのタイミングで小児性愛に目覚めたのか、またそれが膨らんでいったのか。今回は犯罪の要因となる特殊な性癖について、掘り下げて研究していきたいと思います。


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 暗い少年時代


 
 小林薫は1968年、大阪で燃料店を経営する両親の長男として誕生しました。父親は気性が荒く、薫少年に度々暴力を振るっていたようですが、いつも庇ってくれたのが母親で、薫少年は母親に大変よく懐いていたそうです。

 ところが、薫少年が10歳のとき、母親が難産のため息を引き取ってしまいます。このときのことについて、薫は小学校の作文に、「僕は5時間以上泣いた」と書いており、母親を幼いころ失くせば誰でもそうでしょうが、彼の心に大きな影を落とす出来事でした。

 薫は幼稚園の頃からイジメられっ子体質で、一時は学年全体から無視をされるようなこともありました。母親が亡くなって以降は家庭も安息の場ではなくなり、父親からは相変わらずゴルフクラブなどで折檻を受け、新聞配達のアルバイトをしても半分以上は巻き上げられていたそうです。

 とくに酷かったのは、中学三年のころ、視力の低下が急激に進んだ薫が、父親にそのことを訴えた際、「勉強したくないだけやろ」とまともに取り合えってもらえず、あとになって網膜剥離がわかったときのことです。この一件で、薫少年は、父親への信頼を完全に失いました。

 後に小林が逮捕され、刑務所での服役を終えて帰ってきたときも、父親は小林に石を投げつけ、塩を撒いて追い返したそうです。父親との関係の悪さという点では、小林が言う宮崎勤や宅間守などとも共通していますが、特に折檻を加えたというわけではない宮崎の父や、なんだかんだで息子に金をくれてやったり、何度逮捕されても関係を切らずにしていた宅間の父と比べてもこの父親の冷たさは際立っており、一番の元凶はこの男ではないかとすら思います。

 親の愛情に恵まれないまま中学に上がった薫少年が収まったのは、学校の不良グループでした。そこでも使い走りのような扱いだったようですが、何とか居場所を見つけて、それなりに可愛がられてもいたようで、中学二年のとき、彼は先輩に連れられて、大阪の飛田新地に行き、そこで初体験を済ませます。さらに、小さい女の子に性的なイタズラを加えたのも、中学二年生のころが初めてでした。

 中学二年といえばほとんどの健康な男子が性に目覚めているころで、すでに知識もありますが、まだ幼く、両親に甘えたい年頃でもあり、実際に異性と行為に及ぶとなると、なんとなく両親に申し訳ないような、大人の階段を登りたくないような気持ちが勝って、心理的に歯止めがかかるパターンがほとんどだと思います。それをあっさり乗り越えてしまえるというのは、やはり親子関係に問題があるのでしょう。また、小さい子とはいえ女性を強引に襲うというのは、女性に対する恨み、あるいは絶望、失望がなければできないことだと思いますが、小林はまだアニメの世界で繰り広げられるような淡い恋心に憧れるはずの中学生で、すでに女性に対して屈折した感情を抱いてしまっています。

 同じ性犯罪者の山地悠紀夫は、小林と同じくらいの年齢で失った父親のことを半ば神格化し、父親の思い出を語るときだけはいつも楽しそうであったといいますが、小林の場合は、母親のことはいなくなって寂しかった、辛かったと、否定的な言葉ばかりで語っていました。おそらく小林にとって、母は自分を守ってくれた唯一の存在であると同時に、寂しいときに一緒にいてくれなかった―――裏切られた、といったような、複雑な思いがあったのではないでしょうか。それが女性への恨み、絶望、失望といった否定的な感情にまで繋がったのかどうかはわかりませんが、母親の思い出が、性犯罪を起こすことへの歯止めにはまったくならなかったのは確かです。

ろりこん

 
 
 小児性愛の本格的目覚め
 


 あまり偉そうに語ることではありませんが、アブノーマルな性癖というのは、いきなりMAXにまで行くのではなく、段階的に花を咲かせるものです。中学生で幼女にイタズラをした小林の性癖が本格的に目覚めたのは、高校生のころでした。先輩から譲り受けた「くりぃむれもん」なるアニメ(小学生の妹が高校生の兄とセックスをする内容)を見た小林は、「大人にはまねできない純粋な感じ。こんなコでも感じるんだ。小さい子供も大人と同じように、こういう風にできるんだ、と思って、子供がいいと思うようになった」と、このときをきっかけに、完全にペドフェリアの道を歩み始めます。

 その直後、写真部の合宿で鳥取砂丘に出かけた際、小林は生涯二度目の、女児へのわいせつ行為に及びました。スカートをはいた小学校三年生ぐらいの女児に声をかけ、マンションの階段をあがっている女児のスカートに手を入れ、下着の上から秘部を触ったというのです。野獣は、もはや本能を抑えられないようになっていました。

 小学生の女児を襲っていた一方で、小林は友人とともに女子高生もナンパして、ホテルでセックスに及んでいました。わざわざ説明するまでもないことだと思いますが、特殊性癖の持ち主だからといって、その性癖だけでしか快楽を得られないわけではありません。レイプ魔には普通に奥さんがいる人もいますし、どこの誰とは言いませんが、女の体臭に興奮する性癖があっても、入浴直後の女ではまったくダメというわけではありません。もちろん、なかにはそれでしかできないというような「超偏食」もいるでしょうが、大半の人は、こだわりはこだわりとして、ノーマルなセックスも楽しめるようにできています。

 小林は女子高生とは、二十人余りと関係したといいます。逮捕直後はともかく、この当時の小林の容貌は平均を大きく下回るレベルでもないですし、後に面会した記者によれば、小林は「シャバで一緒に飲んでいてもおかしくない、普通に面白い男」だったといいます。数に誇張はあるにせよ、まったくの嘘とは決めつけられないでしょう。成人後も、小林には大人の女性と交際歴があります。小林はけしてペドフェリア一筋ではなかったことは、念のために記しておきます。



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 逮捕



 小林が初めて逮捕されたのは、高校二年生のとき、友人とともに同級生を恐喝した事件でした。保護観察処分で済み、一度は懲りたようでしたが、二十歳で新聞専売所に勤め始めたころから、下着泥棒に手を染めるようになります。大人のものも子供のものも見境なく盗んでいたようです。

 そして1989年、小林21歳のとき、幼い子供の口に、己の性器を含ませるという罪で、執行猶予付きの有罪判決を下されます。その執行猶予期間中であった1991年、またしても小学生の女児にわいせつ行為を働こうとして逮捕され、今度は懲役三年の実刑判決を受け、合計で五年間刑務所に服役しました。

 はじめの執行猶予期間中、小林は勤めていた運送会社で知り合った成人女性と交際していました。そのとき、小林は出会ってからわずか三日で、結婚を申し込んだといいます。当時を振り返り、「家庭を持って落ち着きたかった。家に帰って電気のついた明るい部屋に戻りたかった」と語る小林は、おそらく普通の、暖かい家庭に憧れを持っていたのでしょう。

 そんな人間らしいささやかな幸せが、もう二度と叶わないと思ったためでしょうか。五年の服役期間を経て出所後も、小林は少女へのわいせつ行為、新聞販売店からの購読料持ち逃げなどの罪を繰り返しました。
 。

私小説の続き10 自己責任論との戦いの始まり 

くりやま

 

 一回間が空きましたが、今回は自己責任について語っていきます。私の人生というよりか一般論的な話です。

 長らく私のサイトを読んでくださっている方にはお分かりかと思いますが、私は「自己責任論」という言葉を憎悪しています。この言葉がいかに社会を悪くしているか、人の幸せを奪っているかを知っているからです。
 
 自己責任論の問題は主に二点です。「人の成長に役に立たないどころか、かえって阻害する」「議論がそれ以上進まない」ということです。

 「あんたの生活が苦しいのは、全部努力しなかった自己責任だ」・・・・これを言っていいのは、「努力すれば生活が楽なる、上に上がれる」前提がある場合だけです。では、実際の世の中がどうなっているかといえば、新卒というブランドを失い、実務経験もなく長年非正規の労働を繰り返してきた人には、実質まともな会社で正社員になるチャンスなどありません。機会の平等が与えられていない、実際にはどれだけ頑張っても向上の見込みがないのに、「努力不足」「自己責任」を言うのが理不尽でおかしな話というのは、人並みの理解力があればわかるかと思います。

 その理不尽がわかっていないのか、わかっていて開き直っているのか、いまだに「あなたが貧乏なのは仕方ないのだから、裕福な人を妬むな、文句を言うな」と平気で口にする人は世の中に大勢いますが、この人たちには、実際に生じている餓死などの問題を解決しようという発想はありません。ただ単に、自分の今の立場を守るため、弱者からの搾取を正当化するために、「努力してこなかった人間が貧乏なのは仕方ない、我慢しろ」と喚いているだけなのですが、それではただの感情論です。

 百歩譲って、貧乏になったのは自己責任だとしましょう。では、貧乏な人がますます貧乏になり、不満を溜め込んでいく状態を放置していていいのか?貧乏な人の中に、意外とそれで納得している人は多いです。しかし、そこまで追い詰められて、「おまえらには何の希望もないし、これからもっと苦しくなるけど、ただ我慢しろ」と言われ続けて、みんながみんな納得すると思ったら大間違いです。

 自己責任論というのは、「裕福なのはすべて努力の結果であり、貧乏なのは努力が足りないからだ」という結論で完結した思想です。そういった思想で政治を行ってしまうと、社会をより良く、もっとみんなが豊かになれるように、という方向に議論が進んでいかないのです。百歩譲って民間人ならまだしも、政治家が自己責任論を言うのは、国民みんなが豊かに、安心して生活できる社会を作る責任を放棄しているのと同じです。

 貧困問題の第一人者である湯浅誠氏は、「自己責任論=政治無責任論」ということを述べていますが、まったくその通りです。

 「自己責任論」は欠陥の大きな思想であって、それが社会を良くする要素は皆無なのですが、日本人の病理が深いのは、さっき述べた「意外とそれで納得してしまっている人が多い」というところです。いま裕福な人間が「自己責任だ、我慢しろ」というのは、許されることではありませんが、わからないことではありません。しかし、いま貧しい立場にある人がそれに大人しく頷いてしまう――それだけならまだしも、なぜか納得せず声をあげている人間を叩き、足を引っ張ろうとする。何とも奇妙な話です。
 
 こういう人たちの根底にあるのは、「私は自己責任を認めてるんだから、それ以上責めないで」という感情です。

 プロ野球の監督が、「負けたのは全部俺のせい」と言っているのを聞いたことがあると思います。一見、潔い言葉みたいですが、この言葉には大きな落とし穴があります。
 
 野球というのは、戦術の介入する要素が少ないスポーツと言われており、大半は選手の個人能力がチームの強さを決し、監督の采配で勝てるような試合は、年間140試合のうち5試合あるかないかくらいだと言われています。「名選手と名監督は別」と言われながら、プロ野球の監督がライセンス制にならず、選手としての過去の実績で決まるのは、本当は「誰がやっても大して変わらん」からです。

 じゃあプロ野球の監督って何のためにいるの?といえば、「責任を取るため」です。下手すれば選手の一生を左右する「起用」という決断をする。試合に負けたとき、ファンのヘイトを監督に集め、選手にダメージがいかないようにする。それが監督の一番の仕事です。

 本当はみんな、選手のエラーや失投、あるいは単純な戦力不足で負けたことがわかっている。でもそれで選手を責め過ぎた結果、イップスになって選手が潰れてしまったという過去が何度もあった。3割バッターやローテーションピッチャーの代わりはそういませんが、監督の代わりはいくらでもいます。だから敢えて、強引に、「ミスをした選手を起用した監督のせい」というところに持っていこうとしているのです。

 試合に負けたとき、ファンもマスコミも、最終的には、監督に責任を求めようとします。そういうときに、監督が先手を打って「俺のせい」といえばどうでしょうか?マスコミもファンも、振り上げたこぶしをおろさざるを得なくなります。追及する言葉を失ってしまいます。

 マスコミやファンに好きなだけ言わせた後に「俺のせい」というのはいいでしょうが、開口一番に「俺のせい」と言う監督は、本当に責任を感じているのではなく、ただ単にそれ以上責められないようにするためにそう言っているだけと考えて間違いありません。

 「貧乏なのに自己責任論を認めている」人の心理は、このプロ野球の監督と似ています。このとき、監督が、試合に負けた本当の原因がわかっていればいいですが、ただ単に自己完結しただけで、チームとしての本当の問題点がうやむやになっているようだといけません。それではチームが向上することに繋がりません。

 貧乏な人も同じで、親や兄弟などから努力不足を責められないために、取りあえず「はい、自己責任です」と言っておくだけならともかく、そこで自己完結して、貧困を生み出している社会の構造の問題を知ろうとせず、それを踏まえたうえでの貧乏から脱出する手立てを探す努力をやめてしまったとしたら問題です。問題と書きましたが、実際にはそうなってしまっている人が多いのではないでしょうか。だとしたら、「自己責任」という言葉は、まさに人が成長するうえでなんの役にも立たない、かえって阻害するということになっていきます。
 
 私がこういう人たちに対して言いたいのは、「努力しろ」ということではありません。「助けてくれって叫ぼうよ」ということです。

 続きます。
 

犯罪者名鑑 麻原彰晃 22

さかもと

 
 坂本弁護士一家殺害事件 

 1989年11月3日、坂本弁護士殺害実行犯たちは動き始めました。メンバーに選ばれたのは、岡崎一明(29)、村井秀夫(30)、早川紀代秀(40)、新実智光(25)、中川智正(27)、端本悟(22)の六人です。

 中心となったのは、最古参の幹部である岡崎一明、麻原にもっとも忠実だった村井秀夫、最年長の早川紀代秀の三人でした。新実は岡崎に次ぐ古参ではあるものの、年が若いため三人の指示に従い、医師免許を持ち、薬物で坂本を殺害する役目を与えられた中川、空手の腕を買われて選ばれた端本は、出家して日が浅いため、この頃はまだホーリーネームも与えられておらず、やはり年長であり先輩幹部の三人の指示に従う形でした。

 六人はまず、二台の車に分乗して、杉並区の選挙対策事務所へと向かいました。ここで六人は、浮世離れしたサマナ服から一般的な服装に着替え、二台の車の連絡に使う無線機を入手しました。新実などは、アフロヘアーのかつらにサングラスなどをかけてはしゃいでいたそうで、この時点では、なにかピクニックにでも行くような享楽的な雰囲気も窺えます。選対事務所で一通りの準備を終えた六人は新宿に向かい、デパートで着替えの服などの物資を買い込んだ後、坂本弁護士の家がある、横浜市磯子区洋光台へと向かいました。

 はじめ六人は、麻原の指示で、駅から自宅への経路に当たる場所で待機し、帰宅途中の坂本弁護士を拉致するという計画を立てていました。もしその計画通りに進んでいれば、奥さんの都子さん、幼い龍彦ちゃんの命は助かっていたでしょうが、坂本弁護士は、いつまでたっても、六人の前には現れませんでした。それもそのはず、11月3日は文化の日で、坂本弁護士は仕事を休んでいたからです。出家教徒は俗世から離れていたため、曜日の感覚がなくなっていたのでした。

 このまま待っていても、坂本弁護士は姿を現さないのではないか。六人は午後十時前後になった時点で、最悪の場合は坂本弁護士のアパートに押し入り、坂本弁護士を家族ごと拉致、殺害することを検討し始めていました。そのためまず、岡崎一明がアパートに接近し、ドアノブに手をかけてみたのですが、部屋の中からは物音がして、誰か人がいるらしいことがわかり、そしてなんと、玄関の鍵がかかっていなかったのです。岡崎は一旦車に帰り、早川や村井と相談し、改めて麻原の指示を仰ぐことにしました。そして、麻原から下った指示は・・・・・。

「坂本弁護士が電車で帰るのではなく、すでに家にいるのだったら、家族ともどもやれ」

 暴君的体質を発揮していたこの頃の麻原には、「自分で決めたことはすぐに実行されなければ気が済まない」という性格的特徴があったようです。この坂本弁護士殺害の実行日にも、朝の四時に信徒たちを叩き起こして説法をしていました。一人殺すのと三人殺すのでは心理的な負担が段違いであり、処理も面倒になるのは誰でもわかります。普通なら冷静に、日を改めようと考えるはずですが、ほとんど駄々っ子のようになっていた麻原は、頑なに11月3日にこだわりました。

 信徒にとって、麻原の命令は絶対です。一人なら言い繕うこともできたでしょうが、同僚の目が光る前では、もう逃げることはできません。六人は近所の住民が寝静まる深夜を待って、坂本弁護士の自宅に押し入ることを決めました。


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 決行

 6人が押し入る時間は、午前3時と決められました。午前2時ではまだ起きている人もおり、午前4時になってしまうと新聞配達が始まってしまう、との判断です。決行直前、岡崎がもう一度ドアノブを回してみて、改めて部屋の鍵が開いていることが確認できると、六人は一斉に部屋の中へと押し入りました。

 このとき、村井と早川は、手袋をつけるのを忘れていました。早川は直前まで仮眠を取っており、うっかり手袋を車の中に置いてきてしまったようですが、皆の士気にかかわると思ったため言い出せず、指紋を残さないよう、握りこぶしを作りながら部屋の中に入っていきました。

 一方、村井の方は、逮捕される前に死亡したためはっきりとしたことはわかりませんが、どうやら指紋のことは完全に無頓着だったようです。村井は他にも、ゲソ痕(靴の跡)が残ってしまうにも関わらず土足で部屋に侵入するというミスも犯していましたが、やはりこの人はお利口バカというか、研究熱心ではあるのですが、実務の能力は低かったようです。

 部屋に入った六人は、しばしキッチンで暗闇に目を鳴らした後、寝室へと入っていました。当初の計画は、まず空手家の端本が坂本弁護士を一撃で倒し、一家を取り押さえている間に、医師の中川が塩化カリウムを注射して殺害に及ぶというものでしたが、予想に反し、一家の制圧は容易ではなく、必死で抵抗する坂本と都子さんを取り押さえることはできませんでした。

 塩化カリウムで人を死に至らしめるには、静脈注射をすることが必要で、筋肉注射するだけでは効果を発揮しません。そして、正確に血管を狙わなくてはならない静脈注射を成功させるためには、相手を大人しくさせなくてはいけません。中川は、このままでは一家を薬殺することは不可能であると判断しましたが、メンバーを説得できる状況でもありません。無駄なのを承知で、坂本と都子さんに筋肉注射をしましたが、当然、坂本と都子が暴れるのは止められませんでした。そこでメンバーは、その場で一家を絞殺する作戦へと転換します。六人は、坂本や都子さんを取り押さえる役と首を絞める役に別れ、首を絞める役は体力が続かなくなったら交代するという形で、一家全員を惨殺したのです。

 遺体は布団に包まれた状態で、外に停めてあった車へと運ばれていきました。


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 暴力団とのかかわり



 一つの異聞があります。坂本弁護士一家殺害事件に、オウムとは別の組織の人間が関わっていた、という説です。

 坂本弁護士一家殺害事件には、いくつか不審な点が存在します。

 まず、坂本弁護士のアパートの鍵が開いていた、ということです。確かに今よりは大らかな時代でしたが、子どものいる家が夜通し鍵をかけないまま過ごすというのはあまりに不用心に過ぎる話です。家を守る都子さんは、周囲には几帳面な性格で通っていました。毎日鍵を開けっぱなしにしておく習慣がある人ならともかく、普段きっちり戸締りをしている人が、たまたまオウムに襲われる日に鍵を閉め忘れるというのは、あまりに出来過ぎているのではないか・・・とは、誰もが思うことでしょう。

 もう一つ、現場に人が争った形跡がほとんど見られない点があげられます。実行犯たちの供述によれば、坂本弁護士はかなり激しい抵抗をしたようですが、その割には、家具の破損などはほとんど見られず、また午前3時にたまたま起きていたというアパートの住人によれば、物音はまったくしなかったというのです。そして、遺体は布団にくるまれた状態で車に運ばれましたが、都子さんや龍彦ちゃんはまだしも、体重八十キロ近い坂本弁護士を布団に包んだ状態で運ぶのは、男三人がかりでもかなり大変で、実験では壁やドアなどに何度もぶつけてしまった、とのこと。もしかすると、坂本弁護士一家は別の場所で殺されていたのではないか―――?

 また、この後でも述べますが、現場では、オウムが信徒に配っているバッジ、「プルシャ」が落ちているのが発見されました。このプルシャは、実行犯の中川智正が落としたものとされていましたが、プルシャ自体は数は沢山あるもので、教団の外にも多数出回っていました。だからこそ、現場に落ちていても決定的な証拠にはならなかったのですが、オウムはヒヤリとしたことでしょう。このプルシャは、実行グループに同行した暴力団関係者が、オウムの失態につけ込み、脅すネタにするために、わざと落としたのではないか、ということを、「別働隊存在説」の識者は唱えています。

 ヤクザというのは、情報収集能力に優れた組織です。情報を収集し、それを共有することに関しては、管轄ごとに縄張り意識のある警察より上とも言われ、特に、血と金の臭いを嗅ぎつける嗅覚は異常といってもいいものです。アコギな手段で金を集めていたオウムに、暴力団が早い時期から目をつけ、オウムの弱み、たとえば先に起きた真島事件、田口事件のネタなどをすでに掴んでいたとしても、不思議ではありません。

 この坂本事件から三年後の1992年、暴力団対策法の施行により、指定暴力団に対する当局の締め付けが強化されました。しかし、それでヤクザが壊滅したわけではないのは周知のとおりで、ヤクザはマフィア化して地下に潜り、表にフロント企業を立てて金儲けをするように変質しました。

 ヤクザはオウムの弱みにつけ込んで金を強請り取るとともに、オウムをフロント企業化しようとしていたのかもしれません。実際、90年代に入ってからですが、オウムは末期における「表の№2」村井秀夫を担当者として薬物や化学兵器の製造を行い、「裏の№2」早川を担当者として、海外から武器の密輸入を行っていました。それはすべて、オウムのテロ行為に使われる計画だったことになっていますが、実際にはかなりの数が、裏社会に流れていた可能性はあります。麻原がこの後の選挙戦での敗退によりマハーヤーナ路線を捨て、過激なヴァジラヤーナ路線に傾倒するようになった背景には、暴力団に「骨の髄まで」しゃぶりつくされ、教団が資金難に陥っていたことでの精神的不安があったのかもしれません。

 坂本弁護士が、暴力団とオウムの結びつきに気が付く前に、暴力団がオウムを共犯にして、先手を打った―――。それが坂本事件の真相だったのかもしれません。

 

 
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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