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犯罪者名鑑 麻原彰晃 20

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 相談
 


 坂本弁護士がオウムと関わりを持つようになったのは、友人であるフリージャーナリストの、江川紹子の紹介がきっかけでした。

 当時、記事の中でオウムの悪辣なやり口を批判していた江川のもとには、オウムの出家信者の家族から、教団から家族を奪回するにはどうしたらいいか、という相談が寄せられていました。重要なのは、オウムの出家信者本人が自分を被害者だと思っていない点で、こうなると、民事不介入の原則のある警察を動かすことはできません。そこで江川は、何とか法律的な手段により出家信者を取り戻せないかと、坂本弁護士のところに話を持って行ったのです。

 横浜法律事務所で事情を聞いた坂本は、当初、この問題に関わるのを躊躇っていました。オウム側は交渉に応じる姿勢を見せず、子供がどこの支部にいるのか、そもそも本当にオウムにいるのかもわからない。「人探しみたいなもので、弁護士の仕事じゃないよなァ」というのが正直な気持ちでしたが、本当に困っている家族をみると、放っておくわけにもいきませんでした。

 坂本は相談者のため、オウムと全面的に対決する決意を固めたのです。

さかもと




 
 被害者の会設立



 調べにより、相談を受けた人物が教団に在籍していることの確認がとれると、坂本は、出家信者の家族から相談を受けている旨を教団に連絡しました。すると、オウム側も法律の知識に長けた信者を交渉の席に出してきました。現役弁護士の青山吉伸です。

 法曹関係者なら、まともな話し合いができる・・・坂本は安心しましたが、その期待は後日設けられた、青山との初めての面談の日に、アッサリ裏切られました。

 まず青山は、坂本に対し、教団の機関誌の一ページを、参考資料として提示しました。

 大した内容ではありません。「私はオウムに入って、こんな幸せになりました、こんなに成長しました」・・・ようは、オカルト雑誌の宣伝ページに乗っているような、「驚きの体験談!」の類です。

それがどうした・・?と、唖然としている坂本に、青山はさらに、

「○○(信者の名前)の親たちは、○○の気持ち、考えを十分に理解できなかったこと、そして○○の本当の成長を妨害し、心を傷つけてきたことを反省すべきです」

 と、出家信者の家族の側に非があるという論理を突きつけます。

 一方的で不遜な言い分ではありますが、あながち間違いでもないところもあり、信者の親には耳の痛い話でもあったでしょう。

 親世代と子世代の対立。いつの時代もあることで、「ゆとり世代」と言われる私などは、「なぜ、これをやらなければいけないのか」納得してからでないと動けない特質が子どものころからありましたが、軍隊式に「あれやれ、これやれ」だけで動けた世代の親にはそれが理解できず、無為、無駄な軋轢を繰り返し、散々に迷走してきた過去がありました。

 この当時においては、戦後から高度経済成長期にかけて、人は働いて飯が食えていればそれでいいのだ、という価値観から、物質的な豊かさが満たされ、人の本当の幸せとは、経済的に裕福であることとは違うところにあるのではないか、という価値観への変容期にあり、時代の変化に乗り遅れた親と、時代の申し子のような子供との間で対立が起きていました。

 親たちが何も悪くなかった、ということはないでしょう。しかし、それをオウムに言われる筋合いもありません。坂本はこのまま青山と話していても埒が明かないと判断し、とにかく一度、信者と家族を会わせる方向で話を進めていきました。青山は渋ったものの、結局数か月後、オウムの本部がある富士宮市内で、信者と家族の顔合わせが実現しました。

「人を救いたいなら、まずお母さんから救ってあげたらどうだろう。お母さんはとても心配している。家に戻って、そこからオウムに通うこともできるんじゃないかな」

 坂本の説得に、出家信者も一瞬、顔色を変えましたが、その場にいた仲間の教徒ににらまれて、「私は自分の意志でここにいる」と突っぱね、教団に戻ってしまいました。

 坂本も、最初からすべて上手くいくとは思っていません。とにかく、信者と家族を会わせるところまで食い込めたのだから、本番はこれからだ、と、前向きに考えていました。

 坂本がオウム問題に本気になってくれることがわかると、他の出家信者の家族からも、次々に依頼が舞い込むようになり、坂本は次第にオウム問題に忙殺されるようになっていきました。仲間の弁護士が、「坂本さんもインコ真理教でも作って、オウムを乗っ取ればいいじゃない」などと軽口を叩くと、いつもならジョークで返すはずの坂本が、「人がこんなに真剣になっているのに・・・」と難しい顔をするなど、余裕がなくなっていったようです。
 
 坂本は相談者の訴えを効率的に取りまとめるため、「オウム真理教被害者の会」を設立しました。横浜市の開港記念会館で第一回の集会が開かれ、永岡弘行が委員長に就任。永岡は就任の挨拶の中で、坂本との出会いについて「地獄で仏に出会ったようだ」と語りました。


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 加熱するオウム批判の動き


 坂本はオウムから信者を奪還するため、法律的な面から、オウムを追及していく構えを取りました。血のイニシエーションにかかる異常に高額の料金などの消費者被害や、次の総選挙に真理党として立候補を予定している教団が、票集めのために、信者の住民票を一か所に移動させるなどの行動を問題として取り上げていったのです。 

 坂本と連携して、サンデー毎日では「オウム真理教の狂気」と銘打ち、オウムの違法行為を追及していく連載が始まりました。第一回の内容は、オウムの信者の家族七人が集まって、オウムのおかしな活動内容を紹介し合うという座談会形式でしたが、同誌が発売されると、麻原自らがさっそく信者を率いて、サンデー毎日編集部に乗り込んできました。

 はじめは穏やかに話し合いが行われましたが、編集長の牧太郎が、オウムが未成年の信者から三十万、四十万の布施を取っていることを追及すると、突如麻原が、「だったらいくらならいいんだ!」と声を荒げ、席を立ってしまい、これ以後、サンデー毎日とオウムは対立状態に入ります。

 この日以降、サンデー毎日編集部に、オウムから抗議や嫌がらせの電話が頻繁にかかってくるようになり、街頭で牧太郎を批判するビラが配られたり、街宣車での抗議活動も行われるようになりました。麻原は毎日新聞社の爆破も計画していたといいますが、当時のオウムではまだ爆弾を作る技術はなく、計画は未遂に終わりました。

 テレビも反オウムの動きに注目し、主にワイドショーで、オウムの特集番組が組まれるようになりました。オウム本部を訪れた被害者の会に、出家信者が熱湯を浴びせるシーンや、狂ったように瞑想をする修行風景などが放映され、世間に教団の異様さが認知されていったのです。

 特に、テレビ朝日の「こんにちは2時」では、麻原が自ら幹部教徒を率いて出演したのですが、その際、収録に連れてこないという約束だった十代の出家信者を女装させて出演させ、カメラの前で両親を罵倒させるというパフォーマンスを行い、その場に居合わせた被害者の会代表の永岡や、視聴者を唖然とさせました。

 加熱する報道合戦の中、TBSは、反オウム連合の盟主ともいうべき、坂本弁護士に出演を依頼。坂本のインタビューが行われることになったのですが、このテープの内容が、坂本弁護士が殺害される、決定的な理由となってしまったのです。
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私小説の続き9 間違った意識改革1

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 寿町での一件があってから、私はアルバイトを辞めて、翌年に専門学校に通うための準備を始めました。資格を身につけ、真っ当な会社に就職して、底辺世界から脱出し、一生、堅実に生きていこうと決意をかためたのです。

 ネットや書籍で情報収集をし、幾つかの学校に目星をつけて、見学に足を運ぶようになったのですが、それにも増して重点を置いていたのは、「意識改革」という部分でした。

 度重なる失敗により、当時二十二歳の時点で、私という存在が、おそらくは社会不適応者である、ということは、十分に自覚していました。軽度のADHDを持つ私の特徴は、能力的な面でいえば、整理整頓が苦手なこと、注意散漫で忘れ物や落し物が多いこと。性格的な面では、執着心と嫉妬心が強すぎるところです。

 私の執着心に関しては、このサイトを長らくご覧になってくださっている方なら、よくお分かりかと思います。そもそも、二年半という期間に渡って、これだけの文章量のサイトを続けるということ自体、執着心がなければできないことです。

 私の場合、もう一般就職という道を諦めており、文筆業以外に生きる道を見いだせないから、という事情もありますが、「後がない」というだけだったら、今のご時世、そういう人はゴマンといます。いくら後がないからといっても、誰しもが二年半にもわたって、成功する保証もない(ここが本当に重要です)活動を二年間、ほぼ毎日休まず続けることはできないでしょう。

 自分を凄いと言っているわけではありません。努力というと美しいみたいですが、それが最終的に報われなければ、すべては無駄となってしまいます。私の場合、活動に大金がかかっているわけではないですし、もう他にチャンスはないわけですから、失うものは何もないようですが、徒労という精神的ダメージは負ってしまいます。したがってリスクはゼロではありません。

 リスク覚悟で、報われるかわからない活動に時間を捧げる。はっきりいって、恐怖ですよ。見返りがなければやってられませんよ。私がせめてコメントを、と皆さんにお願いする気持ちが、少しはわかっていただけるでしょうか。

 これだけのサイトをやっている。それ自体が、執着心の賜物であるということはいえると思います。

 嫉妬心に関しては、今は該当する記事は消してしまいましたが、以前通っていた映画の専門学校で失恋をし、心を病んでしまったことを紹介しました。好きなあの人が、他の男と付き合っているのでは・・・という妄想で、食欲不振に陥り、体重が落ちてしまうほど精神的に参ってしまうのです。振られた女にいつまでも拘り続けるのは、執着心の強さの表れといえるでしょう。

 当時の私がいけなかったのは、執着心と嫉妬心という、この二つの性格的特徴を直さなかったこと・・・・ではなく、この二つを欠陥だと決めつけ、完全に否定するという意識改革を行ってしまったことでした。

 執着心も嫉妬心も、悪いことばかりではありません。執着心がいい方向に向かえば、どんな困難にぶつかろうとも、何が何でも物事を最後までやり遂げようとする精神力に繋がり、社会にとって有意義な業績を成し遂げることもあります。嫉妬心が強いことは、それが他人と切磋琢磨することで、自らの向上に繋げていく良い意味での競争心になることであったり、社会や集団の中で、あからさまに理不尽な格差を是正することに繋がるならいいと思います。

 歴史上の有名人では、織田信長やトーマス・エジソン、坂本竜馬も、私とおなじADHDの持ち主だったと言われています。

 しかし、もちろん悪い面がかなり深刻なのも事実で、信長でいえば、離反した盟友、浅井長政との友好回復という方針に執着し過ぎるあまり、姉川の合戦で打ち破った長政をみすみす本拠の小谷城に逃がすという大きな軍事的ミスを犯したことがあり、エジソンでいえば、同じ発明家のライバルへの競争心が強すぎ、自分の発明の特許を取るために、ライバルをかなり陰湿なやり方で追い落としたことがあります。

 現代社会においては、人に対する執着が強い人は、しばしばストーカーと化してしまうことは周知のことかと思います。嫉妬が強いことは、それを自分が向上することに生かさなければ、心を腐らせる結果にしかなりません。

 ようするに良い面もあれば悪い面もあり、良い面は大いに生かして、悪い面はうまく制御して生きていけばよかっただけの話なのですが、当時の私はその性格を全否定し、殺すことだけを考えてしまいました。

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 たとえば、当時の私は、「今後は一切、恋愛をするのを辞めよう」という、ひとつの決意をしていました。映画の専門学校での経験を経て、「自分が恋愛をしても、自分が不幸になるだけで、他人にも迷惑をかけるだけだ・・・」と思い込んでいたのです。

 今から思えば、バカな事を考えていたものです。殺人犯ですら、出所後に結婚して子供がいる人もいるのに、別に悪いことをしたわけでもない私が、「迷惑をかける」などと考え、恋愛を自重しようと思うなど、今からすれば、まったくバカげた思い込みとしか言いようがありません。

 これだけ価値観が多様化した世の中では、恋愛をまったくしない生き方というのも選択肢の一つでしょう。恋愛に興味がないという草食男子にまでそれを押し付けるのは、野暮でしかありません。しかし、恋愛に興味がある人間に恋愛をするなというのもまた野暮、というか、そんな無理な生き方をすれば、絶対に歪みが出てきます。

 今現在のことを言えば、私には丁度二年間、結婚を前提に交際している女性がおり、関係は至って良好です。彼女に苦労をかけたこともありましたが、沢山笑顔にさせてあげられたという自負もあります。

 執着が強いということは、裏を返せば、一人の女性をずっと大切にできるということです。当然といえば当然のことですが、私は交際中、浮気を考えたことは一回もありません。男の本能として、多数の女とセックスをしたい望みはありますが、他の女を好きになろうという気持ちはまったく起こりません。嫉妬の怖さを知っているだけに、その苦しみを彼女に味あわせたくないと考えます。

 作家の岩井志麻子か誰かの言葉で、「最近の人は語彙が貧困になり過ぎている。昔だったら、情熱的だとか、一途だと言われていたような人でも”ストーカー”という言葉で一括りにされてしまっている」というのがあったと思います。

 語彙が貧困というよりは、電車の中で、赤ちゃんを泣かせる母親を一々咎める器の小さい人がいたりするように、”他人に迷惑をかけない”という意識が最重要とされる風潮が行き過ぎた結果のような気がします。

 迷惑をかけないことは大事かもしれませんが、それを考えすぎたら、欲しい物は何も手に入らなくなってしまいます。特に異性にはそれがいえるでしょう。「絶対に欲しい!」というエゴを貫き通し、6年間アタックを続ければ、天下の大女優が奥さんになってくれることもあるのです。それは極端な例としても、やはり本気で恋愛をしようと思ったら、ある程度のエゴは必要ではないでしょうか。

 世の中誰しも、良いところも悪いところもあります。私の場合は、ちょっとその幅が人より大きかっただけ。恋愛を自重する必要などまったくなかったということですが、当時の私は、失敗経験を大げさに捉えすぎて、自分は恋愛をしてはいけない、恋愛をしようとしたら社会ではやっていけない、と思い込んでいました。勝手に思い込んだ私も悪いですが、「そう思わせる空気」が社会の中にあったということも事実です。

 「社会に適応するために、恋愛をしてはいけない」

 「自分は恋愛をしてはいけない人間である」

 こんな風に決めつけなければ、この後に入った専門学校で精神が壊れる経験をしなかったかと思うと、慙愧に堪えません。

犯罪者名鑑 山地悠紀夫 6

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 出所 

 少年院の山地は模範生というべき生活態度で、三年間と収容期間が長かったこともあって、溶接やパソコン関係の資格を数多く取得しました。特に難関というわけではありませんが、それなりに意欲がなければ取れない資格です。中学校からは不登校だったこともあって、入所時にはひらがなカタカナの読み書きが精いっぱいだったという学力も向上し、本をよく読むようにもなりました。山地は学校という環境に馴染めなかっただけで、本人のポテンシャルはかなりのものであったことの証明でしょう。

 小さな成功体験を積み重ねていくことで、気持ちも前向きになり、更生は順調に進んでいたようでしたが、前回の記事で述べたように、母親のことは相変わらず敵視し続け、事件についての心からの反省がないところは気がかりなところでした。母親を憎み続けるのは「信念」だったとしても、「また人殺しをすることがないとはいえない」というのは聞き捨てなりません。私個人的には、再犯を防ぐためには、反省よりも就職などのサポートを充実させることの方が重要だと考えますが、山地の場合はそのどちらもないままに、社会に放り出されることになってしまったのです。

 また、少し気になる事案もありました。岡山少年院では、少年たちに命の尊さを学ばせるために、生き物の世話をさせるということが行われていたのですが、このとき山地が面倒を見ていた子犬が死亡してしまったのです。

 人間でも犬でも、死ぬときはあっさり死ぬものであり、抵抗力の弱い子供ではなおさらです。子犬が死んだ原因が山地にあったかどうかはわかりません。ただ、このときの山地の様子を、当時の院生が「妙に冷静で、悲しんでいる様子は伺えなかった」と語っていたのは、事実として記しておきます。

 真相は藪の中ですが、この一件が、仮に山地の仕業だったとしても、山地がすべて悪いとはいえないでしょう。

 米国で犬の訓練を少年の教育に利用するプログラム、「プロジェクト・プーチ」では、プログラムを希望する少年の調査を入念に行い、過去に動物の虐待歴がないかなどといった審査を経たうえで、初めてプログラムへの参加が許可されます。山地には動物の虐待歴はありませんが、殺人という重篤な罪を犯しており、母親を殺したことに「快楽を覚えた」ということを語っています。そういう子供に安々と犬の世話を任せるというのは、審査などは一切行われていなかったということでしょう。

 当局が犬を人間のパートナーではなく、矯正のための道具としか考えていない証拠です。


こうせいほふぉ



 更生保護施設

 
 様々な問題を抱えながらではありましたが、二十歳を迎えた山地の、出所に向けた準備が進められていきました。

 両親のいない山地にとって、彼の身元を誰が引き受けるかということは、重大にして困難な問題でした。血の繋がった親族で、それなりの生活能力がある人物は、山地の母の兄である叔父だけでしたが、叔父にとって、山地はただ一人の甥であると同時に、妹を殺害した加害者でもあります。叔父にとっては、山地本人の更生だけでなく、自分が山地を受け入れる理由として、山地が「反省しているかどうか」は重要な問題でした。これは当然の感情でしょう。

 しかし山地は、叔父の「反省しているか」という手紙での問いをまるきり無視して、ただ事務手続きだけの用件を書いた手紙を送り返すなど、叔父の気持ちをまったく無視したような態度を取ります。

 これではどうしようもありません。叔父は山地の身柄を引き取ることを拒み、山地は更生保護施設へと入ることが決まりました。

 更生保護施設に入った山地は、毎日弁当を持ってハローワークに通う生活を始めましたが、殺人という重篤な罪を犯した山地には、なかなか自分に合った仕事が見つかりません。少年院に入った子供の就職先の大半は、土木や工業関係ということですが、線が細い山地には肉体労働は向かないとの判断から事務関係を目指していたのですが、そうなると今度は中卒という学歴がネックになってしまいます。

 山地も保護施設の職員も途方に暮れていましたが、そんなとき、保護施設に出入りして、入所者に仕事を斡旋していた人物、高木(仮)が、偶然、山地の父親がパチンコ店に勤めていたころの知り合いであったことがわかりました。父の話で高木と意気投合した山地は、彼からパチンコ店の仕事を紹介してもらうよう頼み込みます。

 高木は困惑しました。たしかにパチンコ業界には明るいですが、それだけに、パチンコ業界の暗い部分も熟知しています。そもそもパチンコというギャンブルは公営ではなく、実態としては違法な産業です。こういわれたときパチンコ好きがよく引き合いに出すのはソープなどの風俗ですが、性欲という、人間の根源的な欲求に根ざし、間違いなく性犯罪の歯止めになっている風俗と違い、パチンコはただ依存症を生み出すだけです。

 社会への貢献といえばトイレステーションとしての機能くらいしかない、必要悪でもないただの悪であるパチンコ業界に、更生して社会に出ていこうとする山地を送り込んでいいものかと、高木は随分悩みましたが、結局は、父と同じ仕事がしたいという山地に根負けして、知り合いのパチンコ屋を紹介します。話は叔父にも伝わり、随分と心配したそうですが、身元の引き受けを断った手前、あまり説教するわけにもいきません。せいぜい、「頑張れよ」と、励ますことしかできませんでした。

 こうして山地は、母を殺害した山口市と同じ山口県内の下関市で、パチンコ店の店員として社会復帰することとなりました。


ぱちんこ



 社会復帰

 山地の勤務態度は良好で、半年も経つころには仕事にもすっかり慣れ、お金も溜まってパソコンを買うなど、生活の基盤も整ってきました。

 ところが、平和は長くは続きませんでした。あるとき山地は、居酒屋で少年院時代に一緒だった院生と偶然再会し、以後、勤務中に因縁をつけられるなどのトラブルに見舞われてしまったのです。店長は寮生活者で管理しやすく、仕事の覚えも良かった山地を遺留しましたが、どうしても居づらくなって、パチンコ屋を退職せざるをえませんでした。

 次もパチンコ屋に勤めたのですが、ここではなんと、店長が山地と同じ保護施設の出身で、殺人という重罪を犯した山地を雇ってはいられないと、クビを言い渡されてしまいました。

 現実には、過去に重罪を犯した人でも、自分の過去を周りの人間に知られることなく、平和に生活ができている人もいます。山地が立て続けに過去バレしてしまったのは、不運としか言いようがありませんが、二度の失敗で、山地は自分が社会で生きていく大変さを身に染みて理解したことでしょう。あるいはこのときこそ、母親殺しの罪を「反省」ないし「後悔」したかもしれません。

 山地は過去バレのトラブルが起きた際、律儀に更生保護施設に相談しているのですが、「これからは犯罪をせず、堅実に暮らせ」と指導されただけで、まともに取り合ってはくれませんでした。ねぐらを提供しているだけで、「更生保護」とは名ばかりの施設だということでしょう。保護観察の期間も終わってしまい、このまま一人で生きていくことに無理を感じた山地は、パチンコ店の仕事を紹介してくれた、高木のアパートに転がり込むことにしました。

加藤智大 番外編 1

 
あらし



 はじめに

 
 そろそろ加藤智大を取り上げようと思います・・・が、初めに断っておくと、今回の記事は加藤智大の犯罪とは関係のない内容が多く含まれています。

 加藤智大を取り上げるために、まず、加藤という人物の犯罪に密接に関わったとされる「荒らし」というキーワードについて、今回もまた私の生きた経験、すなわち、このサイトに現れた荒らしに対して感じたことを書いていこうと思ったのですが、書いているうちに、加藤が書き込みを行っていた掲示板における荒らし行為と、私のような個人のサイトを荒らす行為は、根本的に別ではないかという考えが強くなってきました。

 個人が直接運営を行っているサイトは、運営者側にすべての権限が握られています。記事のUPや削除は自由にできますし、自分の考えを自由に述べることができます。その代わり、読者を呼び込むための活動も、自分の努力によって行わなくてはなりません。

 一方、加藤智大が書き込みを行っていた掲示板では、掲示板の運営者と、同じ掲示板の利用者が、ある程度読者を集めてきてくれる代わりに、利用者には運営上の権限が与えられていません。自分で建てたスレッドや、荒らしの書き込みを削除するなどといったことも簡単にはできませんし、時間が経てばスレッドは落ちてしまいます。

 この違いを例えていうなら、私のようにサイトを運営している人が、自分でお店を開いて商売をやっている経営者、加藤智大のような掲示板利用者が、キャバクラや一人親方のように、経営者に箱を提供してもらったうえで商売をやっている個人事業主、といった感じでしょうか。

 こういう特質の違いがある以上、同じネットの活動ではありますが、私が荒らしに対して感じたことと、加藤智大が掲示板の荒らしに感じたことが、必ずしも相通ずるとはいえません。かといって、六千文字近くも書いた文章をボツにするのも勿体ないですし、同じ荒らし行為についての解説である以上、加藤智大の本性を紐解くためにまったく役に立たないということもないと思いますので、犯罪者名鑑というカテゴリとも別個で、加藤智大本編とは区別した記事という形でUPすることにしました。

 また、大切な常連の読者さんとのトラブルを未然に防止するため、いつもはこの手の、運営上に関わる記事にはコメントを受け付けないようにしていますが、今回に限り、作品という形でいつまでも残しておこうと考えていますので、奮ってコメントをしていってくだされば、と思います。手前勝手ではありますが、よろしくお願いします。


 




 私が荒らしと判断するもの


 私がこのサイトの運営を始めてから、約二年半の月日が過ぎました。その間、様々な方々がコメントを寄せてくださり、その多くは暖かい励ましの言葉と、有難い評価の言葉でしたが、中にはそうでない意見もありました。私が「荒らし」と呼んでいるものです。

 私にとって不快な内容のコメントすべてを、荒らしと定義しているわけではありません。私の場合、細々とはいえ宣伝活動も行っているため、ある程度、冷やかしのコメントが来るのは仕方がないと思っています。2ちゃんねるなどでは、私が宣伝活動をすること自体を不快に思う方もいらっしゃるでしょうし、そのことについて抗議されるのは荒らしというより、正当なクレームというべきで、自分に非難する資格があるとは思っていません。

 単発での冷やかしやクレームなら仕方ないのですが、中には長期間、複数回にわたって誹謗、中傷の内容のコメントを書き込んでくる者もおり、(今もいるのかもしれないが、自分では確認していない)そういう悪質な人間のことは「荒らし」と定義しています。一回ではなく、長期間、複数回に渡って絡んでくるというのは、単なる冷やかしや、正当なクレームの域を超えて、何らかの理由で私という個人に並々ならぬ執着を燃やしている人物であり、その行動には強い悪意があるというふうに捉えても、間違いはないはずです。

あらしのかお
↑ あらしのかお


 
 アラシはシカト



 私がコメントを荒らしと判断するポイントは、シンプルに「名無しで書き込んでくる」「批判的な意見(誹謗、中傷、説教)から入ってくる」の二点ですが、二点に関しての詳しい説明は次章以降に回して、先に、今現在の私の、荒らしへの対応について語っていきたいと思います。

 対応といっても、私が自分自身の手で、特別に何かをしているわけではありません。私にはサイトの運営上のパートナーがおり、そのパートナーに、荒らしと思える書き込みを発見次第削除してもらう、つまり私の目に触れないうちに消してもらうということです。

 私が二年間サイトを運営して学んだこと、それは、荒らしに対しては「対応しないことが最善の対応」、つまり無視をするのが一番いいということです。

 当初、私は荒らしのコメントに対しても一々返事を書き、初めのキッカケはなんであれ、何とかこのサイトに定着してもらえるよう、いつかは普通の感想コメントも貰えるようにと、根気強く呼びかけてきました。実際、名無しから入った人でも後にHNをつけてコメントをしてくれた人、説教から入った人でも、後にちゃんとした感想コメントをくれるようになった人もいましたが、その割合は、恐ろしく少ないものでした。

 基本的に荒らしというのは、他人のことをこきおろして優越感に浸ることが主目的であり、私の文章をロクに読んでもいない人間が多いようです。それならまだいい方で、ただアラを探すためだけに、一回平均三千文字近くの文章を読むという、昏いエネルギーの持ち主もいるようです。

 私がこのサイトに書いている内容には、現在の境遇への絶望ということも多く含まれてはいるのは確かです・・が、それでも二年間も続けてきたのは、私もすべてに絶望しているわけではなく、前を向いて人生を歩み、活動しているからです。

 そういう私にとっては、人のアラを探すためだけに三千文字近くの文章を読むという、本人にとっても何の実にもならない、恐ろしい徒労に時間とエネルギーを使ってしまうような人間の思考回路は理解できませんし、そんな人間と相容れることができるとも思えません。どんなに努力して歩み寄っても平行線になることが分かっている人間には、真面目に対応するだけバカをみるだけであり、実際、真面目に対応しても、荒らしから本当の読者になってくれたという例は、ほんのわずかしかありませんでした。

 これからも荒らしに対しても全レスを心がけていれば、後々本当の読者になってくれるという例が出てくる可能性もないとはいえませんが、荒らしはそういう、一人でも多くのコメントが欲しいという私の弱みを利用して叩いてくるような、歪んだ人格の持ち主です。十人中一人のファンを得るために九人からストレスだけを浴びせられるのでは、とても割に合いません。

 私はけして、荒らしを端から毛嫌いしていたのではありません。信じて対応した荒らしに煮え湯を飲まされ続けるという経験があったうえで、現在の「無視」という対応に行きつきました。今後、私が文章の仕事でお金を稼げるようになるか、私のサイトがもっと多数のコメントであふれかえる状況になれば、私にもいくらかの心の余裕がうまれ、また荒らしに対しても返事をするようになるかもしれませんが、今のところは、荒らしに対しては無視という手段を取ることとしています。

 今回は荒らしについての記事ということで、今までなりをひそめていた荒らしもここぞとばかりに奮起するかもしれませんが、上記で触れたとおり、荒らしが一生懸命、何行も私を中傷するコメントを書いたところで、それは私の目に一切触れることなく削除されてしまいますので、あしからず。


 2に続きます。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 19


 第四章~ 教団の隆盛 坂本事件と総選挙出馬



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 オウムへの批判と反撃

 
 教団内部の死亡事故、殺人事件を隠ぺいすることに成功したオウムは、さらなる膨張を続けていきます。全国に十二の支部を抱え、信徒数は三千人を突破、信徒四百名あまりを引き連れて盛大なインド旅行も行うなど、オウムは、麻原が渋谷のビルの一室で小さなヨーガ道場を開設したときから僅か五年程度で、阿含宗や立正佼成会、幸福の科学などとも肩を並べる、日本屈指の新興宗教団体となっていたのです。

 一方、この頃には、血のイニシエーションなどのデタラメなパフォーマンスによる布施集めや、一日十六時間の立位礼拝などの過激な修行内容が問題になり始め、サンデー毎日が「オウム真理教の狂気」などと題した連載記事で、オウムのネガティブキャンペーンを大々的に行い、また、オウムに出家した信者の家族による「オウム真理教被害者の会」が設立されるなど、教団に対する風当たりも強くなっていました。
 
 オウムはこれらの敵対勢力には、のらりくらりとかわすだけでなく、サンデー毎日に対しては麻原自らが幹部教徒を率いて編集部に乗り込んで直接抗議を行い、逆にオウムの本部に訪れた被害者の会には熱湯を浴びせたりするなど、徹底的に応戦しました。個人においては、サンデー毎日編集長の牧太郎、フリージャーナリストの江川紹子、社会派漫画家の小林よしのり、弁護士の滝本太郎などがオウムと激しく対立し、オウムは彼らに対して化学兵器による攻撃を計画、また実行していますが、その個人に対する攻撃行為が最初に行われ、かつ最も悲惨な形で成功してしまったのが、第四章で取り上げる坂本弁護士一家殺害事件でした。


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 坂本堤弁護士 

 

 坂本堤弁護士は、麻原より一年遅い1956年、横須賀に生を受けました。幼い頃は活発な子供で、よく近所の田んぼで泥だらけになって、ザリガニやカエルなどを獲って遊んでいたといいます。

 両親は教育熱心で、堤少年が小学校に上がる前から、バイオリンや絵画を習わせていました。特に絵画では、全国コンクールで優勝するなど素晴らしい才能を発揮し、弁護士になってからも、証人を生き生きした筆遣いでスケッチしたりなどして、弁護士仲間の評判になっていました。

 堤少年が弁護士を志すようになったのは、高校時代のとある出来事がキッカケでした。

 まだ高等教育を受けずに社会に出ていく人が多かった時代、堤少年の通っていた中学校では、全体の五分の一ほどが、高校に行かずに就職していました。中学時代、堤少年と一番仲が良かった友人も、家庭の事情から進学を断念し、就職せざるをえなかったのですが、定時制高校には通わせてもらえるよう、会社と約束をしていました。しかし、実際に就職してみると、会社は約束を破り、友人に毎日残業を言いつけて、学校が始まる時間になっても帰してはくれず、友人は結局、定時制高校を辞めてしまいました。

 世の中には理不尽な力関係があることを知り、モヤモヤした思いを抱えていた堤少年が出会ったのが、米国で弁護士のラルフ・ネーダーが、大企業のゼネラル・モータースを裁判で打ち負かしたという雑誌の記事でした。法律という力を使えば、たった一人でも弱い人たちを守ることができるのを知った堤少年は、これより弁護士を目指して勉学に励むこととなったのです。

 堤青年は、一浪して東大法学部に入りました。司法の道を目指す同級生には、ただ司法試験に合格することだけを考えて、一日中机に向かって過ごすような仲間も多い中、堤青年は、優秀な弁護士になるためには、ただ法律を学ぶだけではだめだと当時から考え、討論会に積極的に参加してディベートの手法を学び、障害者など弱い人たちの本音を知るために、ボランティア活動などにも力を注いでいました。

 堤青年には、当時から一度決めたら絶対に引かないところがありました。大学一年生の学園祭のとき、周りがライブや喫茶店などで人を集めようとする中、自分のクラスでは夜間中学校のドキュメンタリー映画を上映することを強固に主張し、当日は誰も来ない教室の中、数人のサクラだけで何時間も同じ映画を見るハメになるなどといったことがあり、司法修習生となったあとでも、講義の席ではよく教官に食ってかかっていたそうです。

 しかし真面目一辺倒だったわけではなく、冗談を飛ばすのが好きで、同期生や教官にぴったりのあだ名をつけては周囲を笑わせており、毎日のように友人と連れ立って酒を飲むなど交友関係にも恵まれていたそうです。

 大学三年生のとき、都子さんと出会った堤青年は、八十四年、二十七歳で結婚。翌年には司法試験に合格して、司法修習生となりました。八十六年に弁護修習を終えた後は、企業を相手取った労働争議を専門的に行う横浜法律事務所に入所。弁護士としてのキャリアを歩み始め、冤罪をかけられた知的障碍者や、経営者の勝手な都合のために不当に廃園させられそうになっている幼稚園の従業員など、社会の中で弱い立場の人のために、水を得た魚のように働き始めます。

 坂本弁護士は、どんな事案の際にもクライアントの話にじっくりと耳を傾け、相手の不当な要求には絶対に屈しませんでした。経営者が団体交渉の席にヤクザを連れて来るなどしても、毅然と対応していたといいます。理不尽な圧力に苦しむ弱い人の力になりたいという、坂本弁護士の純粋な思いは、彼と接した人すべてに伝わりました。始めは及び腰だったという宗教関係の弁護を引き受けるようになったのも、実際に困っている人に会ってみて放っておけなくなったという、熱い正義感が理由でした。

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 妻・坂本都子


 坂本弁護士の妻、都子さん(以下、敬称略)は、1960年、茨城県で生まれました。

 都子は、幼い頃から弟の面倒をよく見るしっかりした少女でした。後に夫となる堤と同様、自分の意志は絶対に曲げないところが当時からあり、ブラスバンド部の活動に夢中になる都子を両親が心配し、部活は程ほどにしてもっと勉強をしろと言われても、「私は部活のために学校に行ってるんだ」などと言い返して、絶対に練習量を減らさなかったといいます。

 中学三年生のときに開かれたパラリンピックに感動した都子は、障害者のボランティア活動に関心を持ち始めました。高校になると同時に活動を始め、大学生のころ、同じく障害者のボランティアに参加していた堤青年と知り合います。二人は交際を始め、堤二十七歳、都子二十四歳のときに結婚しました。堤はそのとき、まだ司法試験に合格していませんでしたが、都子は「弁護士になれなくても、堤さんはしっかりやっていける人だから」と信頼し、夫を受験勉強に集中させ、自分が働いて家計を支えたのです。

 やがて堤が横浜法律事務所に入所し、都子が長男の龍彦を身ごもると、仕事を辞め、家事と育児に専念するようになります。忙しい毎日でしたが、フルートの練習、ロシア語の勉強などの自己研鑽にも、暇を見つけては励んでいたようです。龍彦ちゃんが成長すると、山下公園などによく連れていって外の空気に触れさせ、その様子をお母さんに手紙に書いて送っていました。

 いつも明るい都子さんを、友人たちは「幸せさがしの名人」と語っていたそうです。


 

 
 
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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