犯罪者名鑑 山地悠紀夫 5

 やまじ



 後編~壊れたマリオネット




 
 「楽しい」管理生活


 入所した岡山少年院では、山地は分刻みでの細かいスケジュールで行動することを強制されました。

 一般人なら息苦しさを感じるような生活ですが、山地にとっては、管理される生活はむしろ楽で、幸せなものでした。

 アスペルガーの人は時間管理や、物事の優先順位をつけることが苦手です。例えば、何時までに終わらせなければいけないと決まった仕事があったとしても、なぜか日報の記入など、後回しにしてもいい仕事を先にやってしまうなどして、指定された時間内に仕事を終わらせられない、ということがよくあります。アルバイトで雇った人が、作業がとても早いので、正社員にしてアルバイトを管理する仕事を任せてみたら、アルバイトとトラブル続きで上手くいかなかった、などというケースもあります。アスペルガーの人にとって、時間や行動に裁量を与えられることは、むしろ苦痛なのです。

 一方、アスペルガーの人は順法精神が高く、規律を守ることを好みます。山地は相変わらず、同じ寮生に対しては「見下したような」尊大な態度が目立ち、ほとんど嫌われていたといいますが、教官に対しては従順で、手のかからない少年だったといいます。後年、山地は、この少年院での生活が一番楽しかったかもしれない、と振り返っています。

 山地は素行の面には問題がなく、模範生ともいえる態度でしたが、反面、事件に対する贖罪意識が薄いところが、教官たちの懸念でした。山地は少年院に入ったあとも、母親を殺したことについて「あんな母親は、殺されて当然だった」「今でも後悔していない」と、開き直った態度を貫いていたのです。面会に訪れ、山地に経本を差し入れた叔父(母の兄)にも、「自分の妹を殺した奴にわざわざ会いにくる気が知れない」と冷めた態度です。

 山地の母親への感情、また、なぜこれほどまで頑なに母親を恨むのかについては、第一回からずっと触れてきたところなので割愛し、今回は、日本の司法が犯罪者の刑罰や更生に異常なまでに重視する、「反省」ということについて、私なりの意見を述べたいと思います。


さいばん


 
 メディアの言う「反省」への疑問

 
 
 贖罪意識の見えない山地に、教官たちは何とか反省の念を引き出そうとアプローチをかけます。山地に人に対する共感性が薄いのではと判断した教官は、試しに「池田小学校事件の被害者、あるいは阪神大震災の被災者をどう思うか」などと言った質問をしました。これに対し、山地は「被害者、被災者が悲しいだろうことはわかる」と答える一方で、「彼らのことを考えても、心を揺り動かされない」と答えています。

 この池田小や大震災の質問への答えを見て、お偉い学者先生は、山地の共感性が薄いと断定したらしいのですが、みなさんはどう思われるでしょうか?私はぶっちゃけ「そんなもんだろ・・」と思いました。

 秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大は、自分が起こした事件について、「自分がまったく関係のない第三者だったら」という想定をしたうえで、「自分や自分の友人が巻き込まれていたら、怒りを覚える」と語る一方で、「自分や自分の友人が巻き込まれているのでなければ、何とも思わない」と語っています。

 これを皆さんはどう思われるでしょうか?「薄情な奴だな」「頭おかしいな」と思ったでしょうか?加藤智大は特殊な人間だと思われた方は、あの事件の際、多数の野次馬が、現場に携帯カメラを向けていたあの光景は何だったのかを説明してみてください。

 加藤智大の意見にも、私は「そんなもんだろ・・・」と思うのです。自分の周りで起きたことと、「他人事」は、どう取り繕ったところで天と地の差があります。上記の質問の答えは、山地や加藤を「正直者」とする証明にはなっても、共感性が薄いとする証明にはならないでしょう。自分と無関係な人が事件や事故に巻き込まれたときにも、自分や自分の知り合いが事件や事故に巻き込まれたのと同じくらい共感できたとしたら、それは特別に情深いのではなく「エスパー」ではないでしょうか。

 山地は出所間際には、母親殺害について、「あのときは思いつかなかったが、逃げるなり他の人に相談するなり、別の選択肢はあったと思う」と、「反省」の態度は見せないものの、「後悔」はするようになりました。

 加藤智大は、「人の死」について、「自分に共感できるところがなければ、親兄弟や知り合いでも哀しみはないが、自分に共感できるところがあれば、ゲームやアニメのキャラでも涙を流す」と語っています。

 山地の答えは、それほど異常なものでしょうか?加藤はゲームオタクの、気持ち悪い奴でしょうか?私は、どうしても許せない、恨みのある人間を殺したことに対する山地の答えは自然だと思いますし、ゲームやアニメに感情移入したことがある人間の答えとして、加藤の感情は何もおかしくはないと感じました。

 偉~い学者さんたちや、文章で収入を得ている方々は、どうも上記の事柄を、山地や加藤が異常だったことにする材料にしたいようなのですが、私には山地や加藤の発言が、何を異常とする根拠になっているのかわかりませんでした。

 もちろん、偉~い学者さんやジャーナリストさんには公人としての立場があり、メディアの前で発言する際には、多くの人の死を悼むという、人間の気持ちとして理想とされる発言をしなくてはなりません。私でもそうします。ですが、それを一人の私人を異常とする根拠として使うのはおかしいのではないでしょうか?

 加藤の発言は手記に記されていたことであるからともかく、山地の発言は、個人的に交流する弁護士に対してされたものです。山地はこの発言が、世間一般に広く公開されることを想像していたでしょうか?公人としての論理を私人に当て嵌めて人格を攻撃するなら、では学者やジャーナリストは、家にいるときでも一言一句、聖人君子的な発言ばかりをしているというのでしょうか?そんなに偉そうに言うなら、大震災で亡くなった人を悼んでいるという学者やジャーナリストは、震災被害者のために、どれだけのお金を寄付したというのか?口で言うだけなら、学者であろうが乞食であろうが、誰でもできることです。

 もしも、山地、あるいは加藤を「反省させる」ための試みとやらが、こんな的外れな質問を繰り返しぶつける程度のことだとしたら、それは矯正にも何にもならないでしょう。日光の猿軍団ではないのだから、ただ口で「反省しろ!」を言われるだけで、反省などできるはずがありません。

 では、人を「反省」させるためには、どうすればいいのでしょうか?それを次の項で考えてみます。

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 「反省絶対主義」が、本当に加害者を反省させるのか?

 

 日本という国は、犯罪者の矯正に世界でも類を見ないほど「反省」を重視する国です。裁判の結果にも「反省の態度」が重視され、裁判官の、「反省しているかどうか」という主観的な印象だけで、死刑が無期になったりします。それほど「反省」を重んじる反面、作業報奨金の異常な少なさなど、受刑者の社会復帰の支援などは疎かになっています。まるで「反省」さえしていれば何でも解決するという、「反省絶対主義」とでもいうべき姿勢です。

 私はこの、何においてもまず「反省」を優先する日本の犯罪者への矯正教育には違和感を覚えます。

 自分の罪を悔い改めることは、確かに大事なことです。でも、それは一番最初にすべきことではありません。

 「反省」というのは過去を振り返る思考であり、また、「自分がいかにダメか」を考える思考です。いわば後ろ向きの思考であり、これから何かにチャレンジしよう、前に踏み出そうというときには、逆効果にすらなる思考ともいえます。

 現在の私と同じ、無職あるいは非正規労働者の立場にある人は、「自己責任」という言葉を思い浮かべてみてください。「自分は努力をしなかったのだから、こうなるのは当然だ」「あの人は努力をしたから、高収入を得ているのも当然だ」・・・こういう考えが、「自分も努力をして、高い収入を得よう」というポジティブな考えに結びついているでしょうか?

 結びついている!という人もいるかもしれませんが、どちらかといえば、自己責任という考え方は、社会の下層にいる人に不遇な環境を受け入れさせ、かつ、搾取を行っている層に、不満や嫉妬を起こさせないようにする目的の方が強いはずです。社会の下層にいる人で、かつ自己責任論を唱えている人にとっては、「私は自己責任を自覚しているんだから、これ以上責めないで」と、ただ単に努力不足への非難を回避し、逆に努力をしないための論理になってしまっている方が多数派ではないでしょうか。

 犯罪を起こした人に、思考停止で「反省しろ!」というのは、それと同じことです。刑務所に入ってからならまだしも、裁判の過程でも「反省」を重要視し、判決内容にまで影響させるのは、明らかに行き過ぎているようにしか思えません。

 裁判で一番大事なことは、言うまでもなく、真実を語ることです。加害者が、良い判決を貰うためだけに、上っ面だけ「反省」したフリを見せ、それを信じて実際に刑を軽くしたりするのは、正しい裁判の結果といえるでしょうか。判決が出た途端に態度を変え、被害者遺族への謝罪をやめたり、被害者を侮辱するようなことを始めたとき、傷つくのは被害者や被害者遺族だということを、司法関係者はわかっているのでしょうか。

 確かに死刑囚や長期受刑者など、社会復帰が現実的に考えられない人たちには、現在の境遇を受け入れさせる意味でも、とりあえず反省させようとするのでもいいかもしれません。しかし、短期受刑者や、少年院で矯正を受けている少年たちにまで「反省!」をいうのは、むしろ前向きな更生を妨げている負の要素の方が大きいのではないでしょうか。

 私の経験から言っても、心からの「反省の気持ち」というのは、過酷な環境にいるときに起きるものではありません。逆に、「とても楽しい!充実している!」と思える環境にいるときに、「人に酷いことをした、酷いことを言った自分が、こんなに楽しい思いをしていいんだろうか・・・」と、フッと沸き起こるものです。

 裁判中、あるいは刑期のはじめのころで「人生終わったな」と絶望している人に反省を促してみても、そんな心の余裕はないというのが、正直なところだと思います。それよりは、出所が間近に迫って、気持ちが前向きになり、希望が開けてきたそのタイミングで、初めて「反省」を言ってみる方が、よっぽど効果があるのではないでしょうか。「反省」と「更生」を同一に考えるのではなく別個に扱い、まず「更生」を優先として、頃合いを見て「反省」を促してみるといいのではないか、ということです。

 犯罪加害者に反省を促すためには、厳罰化を進めたり、バカの一つ覚えのように「反省!」を言ったり、刑務所の環境を必要以上に過酷にするのではなく、刑務所の環境をむしろ緩やかにしたり、 作業報奨金の増額や、継続的な就職支援などで、出所後の社会復帰をスムーズにさせることの方が重要だと思います。刑務所の規律が日本より遥かに緩いにも関わらず、再犯率は日本よりも低いヨーロッパの刑務所を参考に、「許す」ということの効果を見直してみてもいいのではないでしょうか。

 遺族感情に配慮することも勿論大事ですが、それならばこそ、すぐに「反省!」と叫んで上っ面だけの反省、謝罪の言葉を引き出すのではなく、長い目でみて加害者が本当に反省できるような、システムや環境を整備することの方が大事ではないかと、私は考えます。

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私小説の続き8 底辺脱出を決意した寿町での体験

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ことうきまち


 
 自民党の演説警備の後、私は日本有数のドヤ街、寿町へと向かって歩き始めました。

 「ドヤ街」の「ドヤ」とは、「宿」をもじったもので、この地域には廉価な簡易宿泊所が立ち並んでおり、高度経済成長期に日雇い労働者として活動していた人の根城になっていました。

 朝になれば建設現場の「手配師」が現れ、群がる労働者をそれぞれの現場に振り分けてトラックに乗せ、夜になって帰ってくれば、ジュースみたいな値段で酒を飲める飲み屋で一杯やり、若くて元気な労働者は三千円くらいで本番ができるチョンの間で溜まったものを放出し、休みの日には、一週間頑張って働いて溜めたお金でノミ競馬をし、そのお金も使い果たしたら、昼からカップ酒を煽りながら、仲間同士で青空麻雀や青空将棋を打つ。一つの町で、衣食住はおろか、仕事、性、娯楽をも満たすことができてしまうため、なかなかここの生活から抜け出すことができなくなってしまう構造は、まさに現代の貧困ビジネスの先駆けといえるでしょう。

  現在では手配師は日雇いのスポット派遣、簡易宿泊所はネットカフェに取って代わられ、若い人たちは皆そっちに流れてしまい、ドヤ街に残っているのは、高度経済成長期からバブル期を現役で過ごし、定職に就く機会もなく年老いてしまった労働者たちの成れの果ての姿です。

 町に一歩足を踏み入れれば、道端に放たれた小水が日光で蒸発したような、据えた臭いが鼻を突きます。ゴミ捨て場には信じられないような量のゴミが山と積まれ、またそこら中で、生きているのか死んでいるのかわからないような爺さんが寝ています(特にヤバいのが職安の周辺)。酔うことだけが目的のような、安いパックの焼酎を飲んで、意味不明の言葉を呟いている人もいます。「魔境」あるいは「死にゆく町」といったフレーズがピッタリの町です。

 今では散歩コースとして、年に複数回は訪れている寿町ですが、初めて訪れたのがこのときでした。その初めての訪問で、当時の私にとっては衝撃的な体験をしました。

 酒を飲み、「死ぬのが面倒くさいから生きているだけ」というような老人たちを眺めながら歩いているとき、いきなり、ビルの中から大勢の人の群れが、猛ダッシュで出てきたのです。その数は百人はいたでしょうか。そこら中に寝ているのと同じような老人もいれば、当時の私とそう変わらないくらいの若い人も混じっています。共通しているのは、みんな何年前に買ったのかもわからないようなボロいTシャツや短パン、ジャージを着ていること。そして、わき目もふらず、我勝ちにと猛ダッシュをしているということだけです。

 一体、何事だろうか。茫然として眺めていると、やがて彼らは、一台のバンの前に並びはじめました。どうやら彼らは、順番待ちの先頭を争うために、ダッシュをしていたようです。一体彼らは、何を得ようとしていたのか・・?

 それは、パンやお菓子などが詰められた袋でした。おそらくはホームレスか生活保護受給者である彼らは、ビルの中で、NPOが主催するセミナーか何かを受け、その後に配られる食料を得るために並んでいたのです。

 食料を受け取ったときの彼らの、堕落を何とも思っていないようなヘラヘラとした顔を見て、私は絶望的な気分になりました。これが、私の未来なのか?このまま底辺世界から抜け出せなかったら、私はこんな風になってしまうのか?女を得ることもなく、人間らしい幸せを味わうこともないまま、こんな末路を迎えてしまうのか?

「冗談じゃない!!」

 私は決意しました。絶対に、彼らのようにはならないことを。絶対に、この社会に適応し、努力をして這い上がることを。

 私はわかっていませんでした。悪いのは、彼らではないことを。こんな社会に、無理に適応する必要などなかったことを。

 この先、私を死の一歩手前まで追いやることになる、「自己責任論」との戦いが、本格的に始まったのです。

犯罪者名鑑 栃木リンチ殺害事件 1

とちぎ

写真:少年A
 
 警察の見殺し

 
 ひと昔に比べれば物騒な世の中になってきてはいますが、世界的な水準で見れば、日本はまだまだ治安の良い国といえます。それを支えているのが、全国に約二十五万人いる警察官の皆さんであることは言うまでもありません。高い犯罪検挙率も示す通り、日本の警察が世界一優秀と評されるのは、けして誇張ではないでしょう。

 我々は、警察官が真面目で正義感が強い、ということを当たり前のように思っていますが、世界的に見れば、それは本当に奇跡的で、幸せなことなのです。海外の警察官には資質に問題がある人など山ほど居り、後進国になれば賄賂で犯罪を見逃してもらうことも茶飯事で、それこそチンピラが制服を着ているだけといったような危険な警察官もいます。しかし、日本の警察官は末端の警察官に至るまでよく教育が行き届いており、トップの警視総監から交番勤務の巡査まで、誰もが国家の治安を守るという強い使命感を持って勤務に励んでいます。トップだけを競わせればそれほど差はないかもしれませんが、末端の警察官まで皆優秀で使命感に溢れ、かつ、国民の強い信頼を得ているなどという国は、日本以外にはないでしょう。

 しかし、どんな組織にも膿というものはあります。何事にも表と裏の両面が存在しますが、日本の警察官が、世界的に見て稀有と言っていいほど国民の高い信頼を得て、滅多に批判をされることがないのをいいことに、国家権力を笠に着て市民に対して横暴に振る舞う警察官も、残念ながら一定数は存在します。また、これも警察官の仲間意識が強いことの裏返しですが、警察に身内を異常なまでに庇い、また問題を起こした身内に甘い処分を下す体質があることは、紛れもない事実です。

 この事件は、そうした問題警官が、一人の若者の尊い命を見殺しにした事件です。


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 少年グループ


 事件を起こしたのは、宇都宮市内に住む、三人の少年たちでした。三人はいずれも被害者の須藤正和さんと同じ19歳で、同じ中学校の出身でした。

 主犯格のAは、犯行当時無職。幼稚園のころから、友達に無理やり草を食べさせたり、近所の犬に石をぶつけるなど問題行動が目立ち、中学に入ると本格的に不良の仲間に入って、十七歳のときには、友人から百万円もの金を脅し取って保護観察となる事件を起こしています。

 Aの父親は、なんと現役の警察官でした。Aが問題を起こしたときに必ず出てくるのがこの父親で、百万円の恐喝事件でも、父親が土下座をして謝り、全額を弁済することで、示談で済ませるよう取り計らっています。警察官の親に甘やかされて育ったAは、人の痛みが分からず、嘘を平気でつく人間に成長してしまいました。一方、強い者の前では大人しく、事件の前に勤めていた鳶職の会社では、先輩に対して卑屈ともいえるほど礼儀正しい態度だったといいます。

 Bは、被害者の須藤正和さんと同じ日産の社員。学生時代には目立った悪事は働いていませんでしたが、母子家庭で、母親の帰りが遅いのをいいことに、自宅を暴走族のたまり場にするなど不良グループとの付き合いはあり、Aとは親分子分のような関係でした。友人曰く、「自分から積極的に悪いことをするわけではないが、誰かが悪いことを始めると流されて、そのうち言いだしっぺ以上に調子に乗る」タイプだったといいます。

 Cは、A同様無職。裕福な家庭で甘やかされて育ち、須藤正和さんを連れ回すのに使われた二百万もする車、ホンダ・インテグラは、母親がCに買い与えたものでした。あの「昭和の怪物」江川卓と同じ作新学院高校を卒業後に就職した会社を数か月で退職し、無職となった後、道路工事のアルバイト先で、中学卒業後疎遠になっていたAと再会。同じころ、交通事故を起こして休暇中だったBともつるむようになり、三人は結束を強めていったようです。


いいいとちぎ



 邂逅

 
 1999年、十月――。無職と長期休暇という期間中につるむようになった三人でしたが、彼らは対等ではなく、AがBとCを従え、言うことを聞かせるだけでなく、金まで出させるという、主人と奴隷、いや寄生虫と宿主のような酷い関係でした。Aは「ヤクザがお前を狙っている。金を払わないと赦してもらえない」などと、デタラメな理由をつけてはBとCに消費者金融から借金をさせ、金をせびっていました。

 やがてカードが限度額いっぱいになり、BとCがこれ以上金は出せないと泣きつくと、Aは「じゃあ、代わりの奴を探して来い」と一方的に命令します。そしてBに目をつけられたのが、同じ日産の工場に勤める、須藤正和さんでした。Bは同僚を通じて須藤さんを呼び出し、「ヤクザの車にぶつけてしまって修理代を出さなくてはならないから、ちょっと貸してくれ」などといって、所持金の七万円をだまし取ったのです。

 須藤さんは、部屋の中を虫が飛び回っていると、「殺されちゃうから、出てお行き」と、窓を開けて逃がしてやるような、文字通り「虫も殺せない」優しい少年でした。学生時代の友人にも、彼のことを悪くいう人は一人もいません。優しいだけではなく、ユーモアもあり、「一緒にいて楽しい」人柄の持ち主でした。世の中がすべて須藤さんのような人ばかりであれば良かったのでしょうが、現実はそうではありません。

 何事であれ、極端というのはよくありません。両親も、息子は人が良すぎるのではないかと心配していましたが、案の定、須藤さんは若干19歳という年齢で、あまりにも高すぎる授業料を払うことになってしまったのです。


とちぎい


 誘拐


 
 須藤さんからだまし取った七万円を、パチンコであっという間に使い果たしてしまった三人は、須藤さんをすぐに帰さず、事実上誘拐し、AがBとCにさせていたのと同じように、消費者金融めぐりをさせるようになりました。やがてカードが限度額いっぱいになると、今度は須藤さんの両親、知人友人に借金をさせるようになります。そうして須藤さんからむしり取った何百万という金で、三人はホテルを泊まり歩き、飲酒、風俗、ギャンブル、東京や北海道への旅行など、豪遊三昧の日々を送ります。

 そのうち三人は、須藤さんを金主とするだけでなく、肉体的にいたぶって遊ぶことも始めました。Aが戯れに、須藤さんの髪の毛を剃りあげたのが最初で、ホテルで六十三度にもなる熱湯をかけたり、百円ライターでキンチョールの霧に着火し、火炎放射器のようにして炙るなど、暴力は日を追うごとにエスカレートしていきました。最後に遺体となって見つかったとき、須藤さんの皮膚はボロボロに爛れ、重度の火傷状態になっていたといいます。

 Aには性的な屈折がみられ、須藤さんに己の精液を飲ませたり、フェラチオをさせるなどといった行為も働いていました。また、彼は常に場が賑やかな雰囲気にないと不安になってしまうらしく、少しでも場が湿っぽい雰囲気になると、飛行機の中でも構わず、須藤さんやB,Cに、プロミスやアコムなど、消費者金融のCMソングを歌わせていたといいます。最後に須藤さんを山中に埋めに行く、その車の中でも歌わせていたといいますから、Aの変態性に悍ましさを感じずにはいられません。

 須藤さんを連れまわしていた期間、当然、須藤さんは会社を欠勤していました。このとき須藤さんは会社の寮で暮らしており、両親のもとに、須藤さんが会社を休んでいることが知らされたのは、須藤さんが誘拐されてから数日が経ったころでした。須藤さんに金を貸した友人の話では、須藤さんは何人かの男たちに、車で連れまわされているという話です。

 何か事件に巻き込まれているのでは・・・。両親は須藤さんの捜索を依頼しに、警察署に足を運んだのですが・・・・。

犯罪者名鑑 山地悠紀夫 4

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 実母殺害事件


 
 山地の供述によれば、母親は山地の財布からお金を抜いたときに、真里の名刺を発見し、そこに書いてあった携帯電話番号に無言電話をかけたようです。

 母親はなぜ、息子の恋人に無言電話などをかけたのか。まだ十六歳の息子が健全な男女交際をしているか心配で、相手の素性を確認しようと思ったのか?山地の収入をアテにしていた母親が、息子が女のところに行ってしまうのを恐れ、引き剥がそうとしたのか?前者の可能性もないとはいえませんが、山地が思っていたのは、後者でした。

 山地にとって、真里との交際は、人生で初めて得た成功体験でした。山地は真里との結婚を夢見て、配達数を増やして収入を安定させるため、バイクの免許を取得する準備を進めていました。中卒でダメなら、それまでの人生だ、と、投げやりになっていた山地が、初めて前向きになれたキッカケが、真里との出会いだったのです。それを、あろうことか実の母親がぶち壊そうとするとは。

 もしこのとき、真里との関係がハッキリとしていれば、母親を捨てて真里のもとへ行くという決断ができていたかもしれません。しかし、真里はいまだ、三十代の彼氏と繋がっており、二人の男で取り合いをしている不安定な状態にあります。真里はすでに彼氏とは何か月も会っておらず、このまま真里と交際しても略奪愛とはいえないでしょうが、やはり筋からいえば不利なのは山地の方で、経済的にも三十代でガソリンスタンドに勤める彼氏には及びません。

 この状態で母親からの横やりが入ったのです。まだ十六歳と未熟で、発達障害の疑いも濃厚にあった山地には、もう理性を留めることはできませんでした。完全なパニックに陥ってしまったのです。

 山地と母親との間には、父親が死んで二人きりになってから、家庭の事情を知らない者にはわからない愛憎が、ずっと渦巻いていました。積もり積もった鬱憤が、ついに爆発するときがやってきたのです。

「おどりゃあ、ふざけんな!」

 山地は母親を素手で殴打した後、いつか父親に買ってもらった金属バットを持ち出し、抵抗もできない母親を、二十回以上も殴打しました。実の母親を、二十回です。よほど強烈な怒りがあったのは確かでしょう。しかし、「オーバーキル」の理由は、果たして怒りだけだったのでしょうか?

 山地は後に引き起こした姉妹殺害事件の動機について「母親を殺した快感を忘れられなかったから」と語っていました。単なる「ヒール気取り」と見ることもできますが、姉妹殺害事件の手口も、この実母殺害事件と同じくらい、飛び切り猟奇的なものであったのは事実です。もしかしたら本当に、実の母親を殺害したとき、人の命を奪うことと、性的なサディズムが、歪に結びついてしまったのかもしれません。

 血の海の中、山地は外出する支度をしていました。母親を殺害したあと、山地は普通に、新聞配達の仕事に出勤していたのです。

 現実から逃げるため、無心で仕事をしたせいか、配達はいつもより早く終わってしまいました。家に帰り、部屋に入れば、現実との再会です。山地は母親の遺体を、どこかに隠そうとしましたが、家の中に、大人一人の身体が入るようなところはありません。

 自分はもう、社会には留まれない。この時点で覚悟を決めた山地は、最後に、大好きな真里に会うため、再度家を出発しました。人生最後のデートで、山地は雑貨屋に入り、「マリー・クアント」というブランドのポーチを、真里にプレゼントしました。楽しかった真里との思い出。やはり真里を失いたくない。山地は帰宅後、どうにかならないかと、今度は母親の遺体を毛布で包み、どこか遠いところに持っていってしまおうとしますが、遺体は重く、玄関の土間まで持っていくだけでも一苦労です。当然ながら、山地は車など持っていません。まだ残暑が厳しい時期で、遺体はすでに痛み始め、部屋の中には据えた臭いが漂っています。限界でした。

 山地は警察に自首し、生涯最初の殺人罪で逮捕されました。



ばっと





 取調べ


 留置場や取調べ室での山地は落ち着いており、カードゲームや父親の話になると白い歯を覗かせることもありました。「バットを手に取ったとき、母親の顔はすでに四谷怪談のお岩のようだった」「起き上がろうとする母親を、バットで小突いて倒し、何度も殴った」「殺してよかった、せいせいした」「父親と一緒の墓には入れない」などと、薄笑いを浮かべながら得意げに語り、血が飛び散る様を詳述するなどし、取調べに当たった刑事は薄気味の悪さを覚えたといいます。

 事件の動機に深く関わった真里のことについて、初め山地は、「友達だった」と関係を隠していましたが、やがて担当刑事に信頼を深めると真実を打ち明け、打って変わったように、思い出話を語るようになりました。

 山地は自分の置かれた現実をよく理解していなかったのか、取調べ期間中も、真里に対し、「自分を取るか、彼氏を取るか」などと、手紙を書いて送っていたそうです。刑事が「彼女に迷惑をかけたと思わんか?」と、遠回しに真里を諦めるように言っても、聞く耳を持ちません。

 その真里の方は、山地が事件を起こしたと知るがいなや、「アイツのせいで、大変なことになった」「アイツとは何の関係もない」「私は悪くないよね?」などと、たった一度とはいえ情を交わした仲とは思えない、被害者的、自己保身的な態度を見せます。山地からもらったポーチも、すぐに捨ててしまったようです。

 交通事故を起こしたときの男女の対応の違いでも、男性はまず真っ先に相手のことを心配し、何はともあれ救急車を呼ぶことを考えるが、女性はまず保身を優先に考え、あろうことか救急車より先に夫や恋人に電話をかけ、「私は罪になるの?」などと尋ねることがある・・・などという話もありますが、真里が特別なわけではなく、女性には事件や事故のとき、こういう態度を見せる人が多いのでしょうか?山地を心配する様子など微塵もみせず、自分のことだけを考えて涙を流して慌てふためく真里の姿には、かつて恋心を寄せた、山地のカード仲間の専門学生すら嫌悪感を覚えたといいます。
 
 真里は一時、三十代の恋人の元に身を寄せました。追いかけてくるマスコミに対しても、「アイツとは関係ない」「いい迷惑だ」と、山地を罵るかのような言葉を連発します。

 確かに真里と山地とは、たった一回、肉体を重ね合わせただけの関係で、真里には山地が事件を起こした責任はありません。だったらだったで、毅然として対応していればよかっただけではないでしょうか。真里は二十三歳の若さではありますが、山地よりは七歳上で、成人でもあります。こうした態度が、何らかの形で塀の向こうの山地に伝わり、山地を深く傷つけてしまうとは考えなかったのでしょうか。

 山地が真里のこうした態度を、何処かで知る機会があったのか・・・・それは、わかりません。ハッキリしているのは、後に引き起こす姉妹殺害事件のお姉さんは、山地より六歳年上、真里とは一つ違いの女性であった、ということです。

 裁判では、山地の成育歴、家庭環境が考慮され、山地は刑罰を目的とする少年刑務所ではなく、更生を目的とする医療少年院への送致が決まります。小中学校時代の同級生や、近隣住民から集まった、数千通の署名も功を奏したようです。関係者の中で署名に応じなかったのは、あの小学校時の冷酷教師だけでした。

 
 
 前編 ガラス細工の天使 完

犯罪者名鑑 佐世保小6女児殺害事件 4

させぼ


 トラブル

 
 新学年が始まった四月までは仲良しだったAと御手洗さんの関係が俄かに悪化するのは、五月が終わりに差し掛かったころのことでした。Aが御手洗さんに「ぶりっこ」「いい子ぶってる」などとHPに書き込まれ、怒りを露わにしたというのです。Aは、不快な書き込みを辞めて欲しいと訴えましたが、聞き入れられず、御手洗さんがもう一度そのような書き込みをしたことから、殺意を覚えた、と語っています。

 Aは口頭による警告だけでなく、御手洗さんのHPの内容を勝手に書き換えたりするなどの報復措置も行っていたようですが、これに対して御手洗さんは、「なんで(原文ママ)アバターがなくなったり、HPが元に戻っちゃってるケド、ドーセアノ人がやっているんだろぅ」「荒らしにアッタんダ。マァ大体ダレがやってるかワわかるケド。心当たりがあれば出てくればイイし。ほっとけばイイや。ネ。ミンナもこういう荒らしについて意見チョーダイ」と、HP上に書き込んでいます。

 他にも、五月の頭ごろに、女の子同士でおんぶをする遊びをしていたところ、御手洗さんが冗談で、Aを「重い」と言ったのを真に受けて(Aの体重は40キロ台で、太ってはいない)、Aがダイエットをする決意をHPに書き込んでいたこと、御手洗さんも参加していた交換日記で、Aが文末に「NEXT」と書いていたのを、面白がってみんなが真似し始めたところ、Aが「パクらないで」と真剣に怒ったこと、などが伝えられています。これなどは、「冗談が通じず、相手の言葉を真に受けやすい」「些細なことに拘りを見せる」アスペルガーの特徴と取ることもできますが、真偽はわかりません。

 Aと御手洗さんの関係について、私は前回、「一方が無二の親友だと思っていたのが、もう一方にとっては多数いる友達の一人にすぎず、独占欲が満たされないことへの不満があった」ケースではない、と書きました。実際に、Aは他の友達とも普通に遊んでいましたし、御手洗さんとの関係について、「もっと仲のいい友達は他にいた」と、捜査関係者には語っています。

 しかし、六年生にもなれば、本音はごく一部の信頼できる人以外には隠すようになるものです。まして、殺意を抱くほどに強く思った相手への感情を、第三者に簡単に語ろうとするものでしょうか。凶悪犯罪者には自己顕示欲が強く、聞かれてもいない自分の本音や、事件の真相をポンポンと喋るような人もいますが、Aは伝わっている本人の発言の少なさから考えても、どちらかといえば口を閉ざすタイプであるように思います。Aが御手洗さんにどのような感情を抱いていたのか、その真相は、本人にしかわかりません。

 私が個人的に気になるのは、御手洗さんがHPに記述した「ミンナもこういう荒らしについて意見チョーダイ」という部分です。これは女性が良く使う嫌な手段ですが、御手洗さんはこのトラブルにおいて、多数の人(自分に同意してくれそうな人)の意見を求め、あたかも大勢の人が相手を責めているような形に持っていっています。確かに相手を心理的に追い詰めるには有効な手段なので、男でもやる人はいますが、どちらかといえば、「一対一」の美学の意識が薄い女性のほうが、やる人が多い気がします。

 御手洗さんは事件の被害者であり、この程度のトラブルを殺害にまで発展させたAの方が悪いことは承知の上ですが、やはり最後の「ミンナも意見チョーダイ」はダメ押し、余計な一言ではなかったか、という気はします。これがAを必要以上に追い詰めてしまったのではないか、というのが、私の個人的な想像です。

 また、Aは4月の末から5月にかけて、同級生の食事の仕方を中傷する文章や、有名な「うぜークラス」、また、クラスメイトたちが殺し合いを繰り広げる小説を、HP上にUPしていました。Aが憎んでいたのはクラスメイト全体であり、その怒りの矛先が、クラスの中心人物だった御手洗さんに向いてしまった。バトルロワイヤルのように皆殺しにするのが無理ならば、「お前らが一番大事にしているものをぶっ壊してやる」ということだったのかもしれません。

させぼ


 
 佐世保小6女児殺害事件


 二○○四年六月一日、午後〇時三十五分ごろ、六年生の教室で、「いただきます」の声とともに、給食の時間が始まりました。そのとき、担任教諭が、教室にAと御手洗さんの姿がないことに気が付きます。

 その頃二人は、同じ階の学習ルームにいました。Aが御手洗さんを「話がある」と呼び出したのです。昼休みなどの自由時間ではなく、給食の前の時間を利用したのは、余人を立ち入らせないためでしょう。午前の授業が終わってから、給食が始まるまでの僅かの時間で犯行に及んだのは、もうこの時点で話し合いをするつもりはなく、明確な殺意があったものと断定できます。

 Aは学習ルームのカーテンを締め、椅子に座らせた御手洗さんの目を手で隠すと、首筋を一気に、カッターナイフで切り裂きました。大量の返り血を浴びたAは、そのまま教室へと帰っていきますが、すぐに教室に入っていくことはできず、しばらく廊下で立っていました。それを担任教師が発見します。

「どうしたんだ」

 担任教師が声をかけると、Aは

「私の血じゃない!!」

 と、大声で叫びました。

 担任はAが固く握りしめたカッターナイフを取り上げると、もう一度、Aの身体をゆすりながら、「どうしたんだ」と声をかけます。Aは消え入りそうな声で「あっち」と言い、学習ルームの方を指さしました。担任が学習ルームに行くと、そこで御手洗さんが、折れたカッターの刃が浮かぶ血の海の中、うつ伏せに倒れていました。

 担任は他の教師に応援を頼み、病院、警察に通報。御手洗さんのお父さんも連絡を受け、タクシーで救急車よりも早く到着。変わり果てた娘の姿を目の当たりにしました。その頃Aは、保健室に移されていました。

 大久保小学校は混乱の様相を呈していきました。学校から連絡を受けた保護者が校門の前に立ち、我が子の安否を心配し、校内に向けて怒号を飛ばしますが、警察がガードする校門は固く閉じられ、学校側から詳しい説明は何もありません。教室で待機していた六年生がようやく解放されたのは、午後七時ごろのことでした。

 1日夜は、学校内にて、御手洗さんのお父さんの記者会見が開かれました。ジャーナリストである恭二さんは、「正直、話をしたくないと思っているが、逆の立場ならお願いしている」と、気丈にコメントに応じました。校門前では、群がる報道陣の前に、この後の事態収拾に信じられない稚拙な対応を連発する、出崎叡子校長が登場。「まずは御手洗さんのご冥福をお祈りします。子供たちの心のケアを図っていかなければならないし、教職員一丸となって、また事件が起きないよう努力していきます」とコメントし、嵐のような一日は締めくくられました。

犯罪者名鑑 山地悠紀夫 3

やまじゆきお


 
 中卒

 
 中学に上がった山地でしたが、相変わらず周囲には馴染めませんでした。イジメ、からかいは続き、二年生になるころから不登校になってしまいます。

 中学三年生のころ山地の担任だった男性教師は、小学校のときの冷酷教師とは違い、周囲から浮いた山地の面倒をよく見てくれる、立派な教師でした。山地は不登校ながら、この教師が顧問を務める卓球部の活動にだけは積極的に顔を出していたようで、部員とも概ね打ち解けていたそうです。発達障害でも、理解がある人がいる環境ならうまくやっていける可能性があるという、一つの例でしょう。

 しかし、度重なる不適応に、この頃はすっかり自分に自信を失くしていた山地は、進路の話になると極端に消極的でした。担任や母親が、「何をやるにしても、高校だけは出ておけ」というのを聞かず、「行きたくない」「中卒で生きていけないというなら、それまでの人生だ」の一点張りです。人が希望を抱けない世の中とはいっても、中学の時点でここまで絶望してしまうのはやはり珍しいでしょう。学校での山地の扱いがいかに過酷であったかが窺い知れます。

 担任もほかに抱えている生徒がおり、山地の説得だけに時間を割いているわけにはいきません。結局、山地は最後まで意志を曲げず、中卒という学歴のまま、社会に出ていくことになってしまいました。


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 新聞配達


 中学を卒業した後、しばらくやることもなくプラプラとしていた山地でしたが、夏ごろになって、新聞配達のアルバイトを始めるようになります。小学校のころからの友人の誘いでした。

 アスペルガー症候群で、人間関係はトラブル続きだったという話が伝わる一方で、山地には小学校の頃から続く友人がいたのです。人生で一度として同窓会に呼ばれたことがなく、基本的に学校、職場を出たらそれっきりという関係しか築いてこなかった私からすれば、小学校のころからの友人と、十代後半になっても続いているのは結構凄いことのような気がするのですが、一般的な価値観ではどうなのでしょうか。

 仕事では、地図を見ながら自転車で各家庭を回っていくのですが、山地は効率のいい配達ルートをたちまち見つけ出し、仲間の中ではいつも一番に配達を終えていたそうです。学校の成績は良くなかった山地でしたが、カードゲームの対戦などは得意で、実際は並みかそれ以上に頭がいいのではないか、と、仲間も思うことがあったようです。 

 前出の友人は哲学が好きで、「何度かやってみてダメだという状況が続くと、人は物事に挑戦しなくなるもんやて。それを、学習性無力感というんやて」と、得意げに山地に話したところ、山地が不敵な笑みを浮かべて「だから君は、もう女の子を好きにならんのやね(その友人は、中学校時代に同級生に振られていた)」と返され、それきり仲が拗れてしまうのですが、悪意なく人を傷つけてしまうアスぺっぽいエピソードだなあと思う反面、普通に秀逸な返しじゃないかとも思ってしまいます。いずれにしても、山地はけして知能自体が低かったわけではなさそうです。


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 初恋

 
 社会人となっても相変わらずカードゲームを続けていた山地は、「フジミトーイ」という、フリースペースの設置されているおもちゃ屋に足繁く通っていました。私もその手のお店には時折足を踏み入れることがありますが、ある種近寄りがたい独特の雰囲気がある反面、小学生くらいの子供と「大きなお友達」が、世代を越えて共通の趣味で夢中になっている光景は微笑ましくもあります。

 小学生に比べ、資金力で勝る山地は、「強いお兄さん」として有名で、レアカードを気前よくあげるなど年上らしい振る舞いも見せ、それなりに慕われていたようです。アスペルガーの人には、同世代など横のつながりを築くのが苦手な反面、年上年下、上司部下など、上下関係のハッキリした人間関係を築くのは得意という特徴があるそうですが、中学の担任とはうまくやっていたことといい、山地にはそれが良く当て嵌まっていたようです。

 自身が小学生のころから、純粋にカードゲームを楽しむためにお店に通っていた山地でしたが、この頃にはもう一つの目的が出来ていました。お店で働く、二十三歳の女性店員に会うことです。小柄で、当時全盛期の「モーニング娘」の誰それに似ていたという彼女はお店のアイドル的存在で、山地のカード仲間の専門学生も、淡い恋心を抱いていたといいます。

 山地は専門学生と一緒に、女性店員、真里(仮)を夏祭りなどに連れ出して遊ぶようになります。真里は当時、30代のガソリンスタンド店員と交際していましたが、そのときは関係が不和で、若い男の子たちからの誘いは満更でもなく、二人をアパートに招くほど親しくなっていきました。

 真里に夢中になった山地と専門学生は、ほとんど同時に、真里に告白しました。真里はどちらも軽くいなしたそうですが、逆にいえば、キッパリとは断らなかったということです。恋の勝負は、一度断られてもめげずに、積極的に押した山地の勝ちでした。もしかしたら、色白でほっそりとした山地の方を、最初から気に入っていたのかもしれません。二人は結ばれ、山地は人生で最初にして唯一の、幸福な性体験をします。

 しかし、この性体験が、山地の運命を暗転させてしまいます。避妊をせずに行為に及んだ真里は、このとき山地に、「できちゃったら、責任取ってね」と、冗談めかして言ったそうです。しかし、アスペルガー症候群の山地は、この言葉を重く受け止めすぎてしまいました。山地はただでさえ、まだ十六歳にすぎず、学歴もなく、家庭は貧しくて、援助はとても受けられそうにありません。もし、真里との間に子供ができてしまったら、どう養っていけばいいのか・・・?

 また、真里は現在不和とはいえ、30代の彼氏とも切れたわけではありません。年齢でも経済力でも上の彼氏が、間もなく真里を取り戻しにやってくる。筋からいえば、真里は彼氏のところに戻るべきだが、自分は真里を失いたくない・・・。

 このとき山地は、勤めていた新聞店を無断欠勤するなどしていましたが、彼氏から真里を奪い取り、また真里に子が出来ていたら自分が養う覚悟で、新聞販売店の店長に今までの不義理を詫び、真里との関係を打ち明け、真里と結婚するにはどうしたらいいか、と、相談をしていたそうです。決意を新たに仕事を再開するはずでしたが、実際には、山地の遅刻、無断欠勤は改まらなかったようです。よほど酷いパニックに陥っていたのでしょうか。


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 母親との対立


 一方、同居する母親との対立は、この頃には抜き差しならぬものになっていました。父親が亡くなったころから、母親は浪費に走りはじめ、経済的に困窮しているにも関わらず、高いバッグやアクセサリーなどを買っていたそうです。パート先での勤務態度も悪く、夫に暴力を振るわれていたときには同情的だった近所の人も、この頃には母親を白い目で見るようになっていました。

 第一回で書いたように、母親は山地が真里と遊んで遅く帰ってきても、「おかえり」の一言もいってくれず、「愛情を感じられなかった」と山地は語っています。この頃には家の電気が突然止まったり、怖い声のおじさんから電話が度々かかってくるなど、困窮ぶりは深刻で、山地は母親に「借金はいくらあるんだ」と頻繁に問いただしますが、母親は「あんたには関係ない」とにべもない返事です。

 困窮とは裏腹に、母親の恰好は年月を追うごとに派手になっていきます。男がいるのは明らかで、本人も、山地に「新しいお父さんができたらどうする?」などと尋ねていました。母親とは反対に、父を深く愛していた山地は「僕にはお父さんは一人しかいない!」と怒鳴りましたが、母親は男との交際を辞めようとはしません。借金まみれの母親は、息子の財布からお金を抜いたこともあったそうです。自分が働いて稼いだ金が、母親が男と遊ぶのに流れていたと知ったときの山地の怒りは、想像するのも苦しいほどです。

 ギリギリのところで成り立っていた母子の関係は、母親のある行動により、ついに崩壊を迎えます。山地に交際女性がいたことを知った母親は、真里に無言電話をかけ始めたのです。

私小説の続き7 底辺脱出の決意を固めさせた警備の経験

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 私は施設警備員退職後、三つ目のバイトに、何を血迷ったのか、警備員を選びました。今回は、工事現場での交通誘導や、雑踏での警備を行う、二号警備員での応募です。

 あれほどのトラウマを味わった警備の仕事をなぜ選んだか、それはやはり、楽だからです。当時は夏の暑いさなかで、ただ突っ立っているだけでもしんどいことはしんどいのですが、それでもやはり、清掃や飲食など他の底辺バイトに比べて、警備が楽という事実が揺らぐことはありません。立っているだけで金が貰える、定時前に終わっても一日分の給料は保障される味を知ってしまったら、キツイ肉体仕事にはもう戻れません。また、施設警備で嫌な思いをしたのは、人が悪かっただけで、警備という仕事は悪くないという考えもあります。地獄から解放されて十か月あまりが経ち、色々と物事を冷静に考えることはできるようになっていました。

 さっそく新任研修を受けることになりました。三十五歳くらいの男性が一緒です。警備という職種の中では比較的年齢が近いこともあり、すぐに意気投合したのですが、この方には一つ大きな特徴がありました。研修のうち座学では、学校と同じように、授業を受ける側が参加意識を高められるように、テキストの内容を音読させるのですが、 おそらくディスレクシアなどの学習障害だったのでしょう、三十五歳男性は、テキストの漢字が読めず、何度も詰まってしまったのです。以前紹介したアスペルガーの人と同様、障害者枠で働くべき人だと思うのですが、底辺世界にはこういう方が何人も、救われずに放置されているということです。

 ともあれ、四日間の研修を終えて現場に出るようになったのですが、色々とドタバタの多い会社でした。あるとき、熱で欠勤した女性隊員がいたということで、私が欠員補充に駆り出されたのですが、社長の車に乗って現場に到着したとき、なんとその女性隊員は結局、病をおして現場に来ていたのです。どうも、現場の隊長が「ダメみたいだ」と社長に連絡した後、別の隊員が「這ってでもこい」などと言って無理やり女性隊員を出勤させたようなのですが、それならそれで、誰かがすぐ社長にすぐ報告を入れるべきだと思うのですが、その報告が行っていなかったようです。

 自己責任と国民を洗脳しているお蔭で、変な根性論はあるが、社会に出たときから底辺労働者という環境で、最低限度の職業能力もない人が増えている。これが日本社会の現実ということです。

 それから数回後の勤務で、私はその底辺世界に別れを告げる決意を固めました。当時は総選挙が行われており、横浜駅で自民党の演説を警備することになったのですが、仕事自体は、実働二時間ほどの勤務で一日分の日給が保障されるという、超オイシイ条件でした。当時から自民アンチの私でしたが、このときばかりは「俺たちの太郎」に感謝をしたものです。しかし、この超オイシイ仕事が、私に底辺世界を脱出する決意を固めさせたのです。

 この日の勤務には、何社かの警備会社が合同で、30名ばかり参加していたのですが、参加する警備員は全員、横浜駅のコインロッカーに荷物を預けるように指示を受けていました。駅前は人でごった返しており、荷物を歩道に置きっぱなしにしておけばクレームが入るかもしれず、当然といえば当然の指示です。

 しかし、ガードマンをやる人というのは、経済的に困窮した人が多いのが実態です。仲間同士、一緒に使えば大した額ではないとはいえ、100円、200円の金も惜しむ人は実際多いです。また、指示がすべての人に行きわたっていなかった可能性もあります。それぞれが持ち場につく前のミーティングの際、まだ荷物を手に持っている人は何人かいました。

 その人たちに対し、三十半ばくらいの、スーツ姿の内勤が、「今荷物を持っている人は、すぐにコインロッカーに入れてきてください」と、ミーティングの場で改めて指示したところ、荷物を持っていた隊員は、無視を決め込むか、オロオロするだけで、すぐに動こうとしませんでした。そこで業を煮やした内勤は、


「早く行け!!!!!!!!!!!!」

 
 と大声で怒鳴ったのです。グズグズしていたガードマンたちは、この声ですぐさま、コインロッカーに走っていきました。

 三十代半ばという年齢は、警備の中ではかなり若い方です。40代、50代のおじさんが、若い内勤に怒鳴られて、子供のようにビビって、コインロッカーに走っていったのです。

 絶望的な気分になりました。これじゃあまるで、小学生じゃないか。

 いや、おじさんたちが悪いんじゃない。ちゃんとした正社員の仕事でも、似たような場面はあるかもしれない。問題は、おじさんたちが、これ以下はない社会の最下層まで貶められて、尚且つ、プライドを根こそぎ潰されるような酷い扱いを受けているということ。十分な所得を得て、社会的地位が高いと見做される職に就いているなら、人前で怒鳴られようが屁でもないが、本当に社会から見下される地位にあって、「こんなだらしなきゃあ、見下されるのも当然」といったような目で見られるのは耐えられない・・・・。

 暗澹たる気分で二時間の勤務を果たしたその後、私は真っ直ぐ帰る気になれず、くさくさした気分で、酒を飲みながら、横浜の街を歩き回りました。何か、とことん落ちてみたい気になった私は、そのうち、嫌な思い出のある、あの施設警備員当時の職場へと向かっていました。とはいっても、もうあのデパートは閉店しており、当時の仲間と鉢合わせるわけもありません。物足りなさを感じた私は、ますますたらふく酒を煽り、何を思ったか、関東を代表するドヤ街、寿町を目指して歩いていました。

犯罪者名鑑 佐世保小6女児殺害事件 3

担任



 意欲のない担任教師

 
 六年間を一つだけの学級で過ごす大久保小学校ですが、担任の交代はありました。Aの六年次の担任は、以前から大久保小に勤務していましたが、Aのクラスを受け持つのは、六年次が初めてでした。

 担任は三十代の男性教師で、六年生の担任経験は豊富でしたが、どうも彼には、教師としての資質に問題があったという噂が囁かれているようです。保護者によれば、担任は教育よりも趣味のサッカーに熱心で、放課後は早く帰って、大人同士のサッカークラブの活動に参加することばかり考えており、事件の前、保護者との懇談会で、「本当はこのクラスを受け持ちたくなかった」と発言し、また、児童の前で「喧嘩は俺の見ていないところでやれ。面倒なことを俺に相談するな」というようなことを常日頃言っていた、などという話が聞かれています。

 これについて、担任は後に、「このクラスを受け持ちたくなかった」は、「六年生の担任ばかりをやっていたので、他の学年の担任を希望していたのですが、また六年生になってしまいました」・・・・「喧嘩は俺の見ていないところでやれ」は、「六年生なのだから、自分のことはある程度自分で解決しよう」がと言ったのが、それぞれ間違って伝わった、という弁明をしています。

 確かに、人の言葉が誤解を生むことは珍しいことではありません。特に、「このクラスを受け持ちたくなかった」とは、教師以前に一人の大人として資質が疑われる発言で、保護者の前でそんなことを言うというのは、確かに現実的ではありません。

 担任が本当に、「問題教師」であったのかどうかはわかりません。しかし、彼が教師として、果たすべき説明責任をしっかり果たしていれば、あらぬ噂が立つことはなく、集中砲火のように批判を浴びることもなかった、とはいえるでしょう。

 担任は事件後、精神を患ったとして自宅に引きこもり、保護者の前にもあまり顔を出さず、マスコミのインタビューにも積極的に応じませんでした。確かに、自分が受け持った生徒が殺人事件を起こしたというショックは大きく、大人であっても正気ではいられないでしょう。

 ですが、担任は、Aが六年生になってから事件が起きるまでの経緯をもっとも詳しく知る人物であり、さらに事件直後のAと、切られた直後でまだ息があった被害者、御手洗怜美さんの様子を目の当たりにしていた、貴重な証言者なのです。その彼が、事件について詳しく語らなかったのでは、保護者の間に不満が募り、「突かれたら困ることでもあるんじゃないのか?」と疑われ、上記のような噂が囁かれるようになってしまうのも無理はないでしょう。

 担任の休養は長引き、結局、Aのクラスの担任に復帰することはありませんでした。しかし教員は、一年後、大久保小とは別の小学校で、何事もなかったかのように教員として再起しました。大好きなサッカークラブも続けていたようです。

 第一回から、この事件には関係者の隠ぺい体質が目立つということを紹介してきましたが、Aの親に加えて、担任教師もまた、口を固く閉ざし、事件について詳しくは語ろうとしないのです。


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 被害者、御手洗怜美さんとの関係



 殺害したのも小学六年の少女、殺害されたのも小学六年の少女ということで注目を浴びたこの事件。被害者の御手洗怜美さんがどのような児童であったのかを知ることも、事件の解明には重要なことです。

 怜美さんは小学校四年生のとき、ジャーナリストであるお父さんの転勤に従って、大久保小学校に転校してきました。四人兄弟の末っ子だった怜美さんは、男手ひとつで子供たちを育てるお父さんの手伝いを良くする優しい性格で、途中から加わった学級でもすぐに中心人物になれる、明るい少女でした。

 Aとは小説、絵という共通の趣味を持っており、二人はすぐに意気投合。同じミニバスケットチームにも所属し、誰からも仲良しと見られる関係を築いていました。Aからの指南を受ける形でホームページも始め、日記上で「Aの絵は私よりうまい」と褒めるなどしています。

 こういう二人のトラブルとしてありがちなのは、一方が唯一無二の親友だと思っていたものが、片一方にとっては大勢いる友達の内の一人にすぎず、独占欲が満たされないことへの不満から危害を加えるに及ぶというパターンですが、この二人に当てはまるかどうかは少し微妙で、怜美さんは言わずもがな、Aも怜美さん以外の友達と普通に遊んでいたようで、いわゆる陰の側が陽の側に過度な執着心を抱き、逆恨みをしたということではないようです。

 そもそもAと怜美さんは、六学年の四月まで、集合写真でも仲良く隣同士で写るなど、良好な関係を築いていました。少なくとも傍目から見れば、争いになる要素は影も形もなかったのです。



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 第二の被害者



 集合写真の四月から、事件が起きた二○○四年六月一日までの間に、Aと御手洗さんの間に何があったのか・・・。二人のトラブルを語る前に、ここで、事件の第二の被害者とでも言うべき男子児童(以下Bくんとする)について紹介します。

 軽い聴覚障害の持ち主だったBくんは、ある日、授業中に先生に指名されたとき、「問題をもう一度言ってください」、とお願いしました。それに対し、担任は「変な質問をする人には教えません」とにべもなく言って、Bくんがまるで授業をちゃんと聞いていなかったかのような形にしてしまいました。

 このあたり、五年次から六年次に、担任の間でちゃんとした引き継ぎができていなかった可能性も考えられます。大久保小学校では週一で教職員会議があり、担任はその会議での報告により引き継ぎができていたつもりになっていた、と語っていますが、全学年の状況を纏めて話し合う教職員会議の場では、児童個別の引き継ぎまではできなかったでしょう。家庭訪問など、保護者との個別懇談でやることだ、という考えであったのかもしれませんが、それであるならば、個別懇談があるまでは、上記のような、児童を傷つける恐れがある対応はすべきではなかったでしょう。

 この件を境に、Bくんへのイジメが始まってしまいました。「担任公認」の大義名分が大きな効力を持っていたことは、言うまでもありません。このイジメというのがどのような規模だったのかわかりませんが、恐らくはAもBくんに対しては「こいつは何をしてもいいヤツ」といった認識があったのでしょう。六年生のころから、AはBくんに対して、内に秘めた暴力衝動をぶつけるようになっていきます。

 あるときは、図書室で男女複数名で遊んでいた際、AがBくんに馬乗りになって、暴力を振るったことがありました。その際、担任は、Bくんからロクに事情もきかず、「お前がいつまでも図書室に残っているから悪いんだ」と一方的に怒鳴りつけ、その場を収めてしまったといいます。

 また、事件が起きる一週間前、Aが学校で本を読んでいたのを、「今度は何を読んでいるんだろう」と、Bくんが後ろから覗いたことがありました。「世界の中心で、愛を叫ぶ」と、ハードな内容の作品を好むAには意外なチョイスでしたが、それが気恥ずかしかったのか、Aは突然カッターを持ち出し、それをBくんに振りかざしました。後に御手洗怜美さんの命を奪った、あのカッターです。

 Bくんは事件後、「もしかしたら、殺されていたのは自分だったかもしれない」と、強烈なPTSDに苦しめられることになります。BくんがPTSDを患ったのは、Aとのことだけではなく、担任や校長らの対応にも原因があったのですが、それについては事件後編で詳述するとして、ここでは事件前のAの様子について、担任や校長ら大人の報告とBくんの報告に、大きな食い違いがあったことを紹介します。

 事件前のAの様子について、担任は「真面目で授業にも積極的だった」「たまに男子を叩いているのは見たが、ヘラヘラとふざけている感じで、深刻とは思わなかった」と、事件を起こすのが信じられないといった回答をしています。それに対し、Bくんは、「Aの暴力は激しく、日常的で、担任もそれは把握していた」「酷くなったのは六年次からだが、五年次から兆候はあった」と、正反対の回答をしています。

 人によって受け方が違うというのはよくあることですが、担任の一連の対応を見ると、責任逃れの意図があったようにも思われます。ちなみに、「兆候はあった」という五年次の担任は、「Aちゃんが暴力を振るっているのは見たが、もっと問題のある児童は他にいて、Aちゃんは目立ってはいなかった」と答えています。

 六年生で問題があったのは、Aだけではありませんでした。日常的に暴力行為があったというクラスの空気の中で、善悪の境が希薄になってしまったということはあるかもしれません。ただ、それでも、ただの暴行と殺害との間には天と地ほどの開きがあり、まして暴行だけで他人に大怪我を負わせることはあまり考えられない小学生の教員では、殺意という感情は「まず予見できない」と、教育関係者も、口を揃えて言っています。

 今は両親が共働きをしていない家庭を探す方が難しいという時代で、担任がすべての教科を担当する小学校では、教師の方が親よりも、児童に接している時間が長いのかもしれません。国の未来を担う子供を預かっているという立場上、普通の職業以上の責任感が求められなくてはいけないのは事実ですが、一方、教師とて勤め人、学校を離れれば普通の人です。生まれたときからその子のことを知っているわけではない他人であり、他人が他人を知ることには限界があることも、一応考慮はしなくてはいけません。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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