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犯罪者名鑑 造田博 2

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 造田博統合失調症説

 造田博は、事件の二年前の九十七年ごろから、外務省や警察庁などにあて、意味不明の手紙を送り付けるようになっていました。その内容は、次のようなものです。


 ――日本人のほとんどは小汚いものです。この小汚い者達は歌舞伎町で、人間でなくなっても、動物でなくなっても、生物でなくなっても、存在しなくなっても、レイプし続け、暴行をし続けると言っています。存在、物質、動物が有する根本の権利、そして基本的人権を剥奪する能力を個人がもつべきです。この小汚い者達には剥奪する必要があります。国連のプレジデントに届けて下さい。


 ――世界中で見られる、生まれながらのひどい精神障害者、奇形児の方々はすべて、歌舞伎町で会ったことが原因で患者になっています。だから私は日本で生まれることにしました。私に関係があるという理由で、この小汚い者たちはA子さんという女性を世界中の人達、私の目の前でレイプしようとしています。国連のプレジデントに届けてください。

 ――Breathing OK は愛情です。国連のプレジデントに届けてください。世界中のプレジデントの方々に届けました。国際平和に役立ててください。強力な後押しになります。

 ――助けてください。造田博にレイプされました。僕の彼女も造田博にレイプされました。造田博が僕の彼女のお腹に子供をつくりました。世界中の人たちに助けてもらいます。国際裁判をします、僕達にはどうすればいいのかわかりません。お知えて下さい。国連の親父たちに言ってもらいたい。

 
 まったく支離滅裂な内容で、意味は考えるだけ無駄でしょう。問題は、進学校に通うなど優秀な頭脳を持っているはずの造田が、なぜこのような滅茶苦茶な文章を書いたか、ということです。もちろん、文章は単純に学力がある人ほど上手いというものではありませんが、それにしても造田の書いた文章は、誰がどう見ても、二十代前半の青年が書くごく平均的な文章力のレベルも大きく下回った、滅茶苦茶なものとしか言いようがありません。

 こういった、妄想的で支離滅裂な文章を書くのは、統合失調症の人の特徴の一つです。裁判ではなぜか精神病の疑いは否定され、造田には責任能力ありとして死刑判決が下るのですが、前述した無断欠勤、軽犯罪行為や無謀な単独渡米など、根拠の伴わない、妄想性に満ちた支離滅裂な行動などを考え併せれば、造田はやはり統合失調症になっていたのではないでしょうか。

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 無言電話

 事件が起きた1999年当時、造田は朝日新聞の専売所で勤務していました。勤務態度は真面目であったようですが、ある日寝坊をし、遅刻をしてしまい、それをキッカケに、雇用主から携帯電話を持たされるようになります。携帯電話は、勤務先と連絡をとるためだけに購入したものでしたが、同僚からも番号を聞かれました。造田は新聞専売所の同僚たちを、例によって「努力しない人」と決めつけて見下しており、内心教えるのは嫌だったのですが、何度もしつこく聞かれるため、渋々教えてしまいました。
 
 それから数日後、造田の携帯に一本の無言電話がかかってきました。造田はそれを、造田が番号を教えた同僚からのものだと決めつけます。

 これがキッカケでした。怒り狂った造田は、部屋にあったレポート用紙に檄文をしたためます。

「ワシ以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお。ワシもボケナスのアホ全部殺すけえのお」

「アホ、いますぐ永遠じごくじゃけえのお」

 造田の怒りは、無言電話の主にピンポイントで向かうのではなく、社会全体に拡大されて発散されました。無言電話は単なるトリガーに過ぎず、造田の頭の中には、高校中退という挫折の経験以来、自分をずっとないがしろにしてきた社会への復讐心が、ずっと燻っていたのです。

 努力をした自分がこんなに苦しい思いをしているのに、なぜ、努力をしない人たちが楽しそうな毎日を送っているのか・・・・。

 マグマのような復讐心が、ついに爆発するときがやってきました。


池袋


 
 池袋通り魔事件

 1999年九月四日、造田は、いつも出勤する朝三時ごろ、家を出ました。しかし、向かったのは、勤め先の新聞専売所ではありません。造田は、彼が唯一よく知る繁華街、池袋に向かったのです。普段池袋を歩いているときに、心の中で「努力しない人」と蔑んでいる人たちを、皆殺しにするためでした。

 始発電車で池袋に到着した造田は、ハンバーガーショップで朝食を済ませた後、東急ハンズに凶器を仕入れに向かいます。購入したのはステンレス製の包丁と、金づちでした。怪しまれないためなのか、まな板とドライバーを同時に購入していますが、これはすぐに処分しています。

 造田はこの時点では、まだすぐに犯罪を決行しようとしているわけではありませんでした。彼にも人の心というものがあります。造田はこの後なんと、池袋の繁華街で四日間も、CDショップやゲームセンターをフラフラとし、カプセルホテルで夜を明かす毎日を送るのです。

 家族があり、仕事がある人ならば、四日間も音信不通になっていれば、誰かが気にかけて連絡するでしょう。造田にも職場からの連絡はあったはずですが、彼にしてみれば、職場の人は信頼できる相手ではなかったようです。今となっては唯一の家族である兄とは別居をしており、友人、恋人は彼にはいません。この四日間で犯行を食い止めるチャンスはあったはずですが、不幸にも彼を止められる人は誰もいませんでした。孤独が引き起こした犯罪という側面もあるといえます。

 池袋に到着して五日目の朝、造田はついに犯罪を決行する決意を固めます。荷物をコインロッカーに預け、サンシャインシティへと向かったのです。

「むかついた、ぶっ殺す!」

 雄叫びをあげて己を鼓舞した造田は、凶器を持って、まず通りがかりの若い男女二人を狙い、東急ハンズのエスカレータの方向に突進します。そこに、地下のエスカレータから、老夫婦が上がってきました。造田のターゲットはこちらに移ります。老婦人の胸部目がけて、包丁を突き出したのです。婦人はその場にうずくまり、間もなく帰らぬ人となりました。

 続いて、金づちで主人を滅多無人に殴りつけた造田は、主人が倒れたことに満足して、池袋方面へと向かいます。造田が続いて目を付けたのは、やはり若い夫婦でした。襲われた妻は、包丁によって内臓をズタズタに刺し貫かれ、パチンコ店に逃げ込みますが、間もなく息を引き取りました。

 完全に火のついた造田は、その後も通行人を次々と襲撃します。犯行時、喧噪に紛れてしまったのか、現場では何が起きていたのがすぐに把握した人は少なく、何人も人が刺されてもまったく気が付かずに通行していたという人もいたようですが、段々と状況に気が付いて、逃げたり、防御の構えを取る人も増え、また造田の体力も落ちてきたのか、死亡者は二名に留まりました。

 程なくして駆けつけてきた警官により、造田は逮捕されました。
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犯罪者名鑑 造田博 1

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 21世紀型無差別殺傷事件の先駆

 

 周知のように、20世紀末期に我が国で導入された新自由主義的な経済政策は、かつて日本人が、100%実現はしないまでも実感はしていた「一億総中流」の社会を破壊し、富の一極集中を促進し、反対にどんなに働いても一生、食うや食わずの生活しか送れない貧困者を大量に生み出しました。

 閉塞感の漂う世の中で、社会の「負け組」とされる層の人々が、無差別に人を殺傷する事件が度々起こるようになっていきました。2002年の大阪池田小事件、2008年の秋葉原無差別殺傷事件の二つが特に有名ですが、それら、21世紀型の無差別殺傷事件の先駆けとなったのが、1999年、20世紀の最後におきた、池袋通り魔殺人事件でした。

 「短時間、単独犯での無差別大量殺人」と分類される事件は20世紀にも起こっています。戦時中に起きた「津山30人殺し」事件、80年代の「深川通り魔事件」などがその代表格ですが、津山事件の犯人には、村八分に遭ったことに対する怨恨、深川通り魔事件には覚せい剤中毒による妄想といったものが背景にあったのに対し、21世紀型の無差別殺傷事件は、犯人が薬物などの影響がない平静(精神病の疑いはある)な状態で、「殺すのは誰でもよかった」などとして犯行に及んでいることが大きな特徴です。恨みの対象が個人(集団)から社会へと拡大され、世の中は「いつ、どこで、だれが自分を狙っているかわからない」時代へと突入したのです。


ぞうだ
 
 天国から地獄へ

 造田博は岡山出身。1975年、二人兄弟の次男として誕生しました。父親は内装の一人親方、母親は被服工場の請け負いでミシン内職をしており、個人事業主である二人は腕がよく、並みのサラリーマン以上の所得を得ていたといいます。

 しかし、博が中学校に上がったころから、生活に陰りが見えてきます。母親はミシンの請負業をやめ保険の外交員として働くようになっていたのですが、この頃からパチンコ、競輪などギャンブルにのめり込み、服装もどんどん派手になっていったのです。一方、父親は体調を崩してあまり働かなくなっていましたが、遊び狂う妻を見て浮気を心配したらしく、なんと妻と一緒になって、ギャンブルに出かけていくようになったのです。

 博は優秀な子供でした。中学二年生ごろまでは、父親に連れられてゴーカートの練習に出かけるなど、中の上の坊ちゃんらしい暮らしをし、恵まれた環境に甘えていたところもあったようですが、中学三年のときに一念発起して猛勉強、下から数えた方が早かった成績を一気に学年トップクラスにまで上げ、県下有数の進学校への入学を果たしました。この経験は博にとって大きな自信になりましたが、世の中の人を「努力する者」と「努力しない者」に二極化し、後者を見下して差別しようとする考えにも繋がっていきました。

 勉学に明け暮れていた博でしたが、高校生になったころには、両親の浪費のせいで、家庭の経済事情は火の車になっていました。造田家には毎日のように借金取りが訪れていましたが、両親は対応を博に押し付けるかのように、朝から晩まで家を空けるようになります。誰がどう見ても、勉強に集中できる環境ではありません。博はとうとう、高校を中退してしまいます。学費の問題もあったかもしれません。

 その後、博は弁当屋でアルバイトを始めました。両親が帰宅は遅いながらも家に帰っているうちは、博はまだ家にいましたが、十八歳のとき、両親がとうとう姿を消して家に帰らなくなると、自力で学費を稼いで大学に通っていた兄の元に身を寄せることとなります。この両親は、結局博が逮捕された後になっても、姿を現しませんでした。無責任な話ですが、如何わしい金融業者からもお金を借りていたような経緯を考えれば、もはやこの世にいないかもわかりません。

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 泥の底
 


 造田は兄の家を拠点に生活を始めますが、仕事が長続きしません。働いているときは真面目であるものの、無断欠勤が続いて解雇をされるというのがいつものパターンで、五年間で二十近くもの職を転々とします。「努力すること」を人としてもっとも素晴らしいことと考える造田ですが、五年間で経験した仕事は、どれもアルバイトかそれに毛が生えた程度のもので、彼にとっては、努力するに「値する」ものではなかったようです。高校を中退するまでは、大学を卒業して事務職につく、と将来を思い描いていた造田は、不本意な暮らしの中で、鬱屈をため込んでいきます。万引きやタクシーの無賃乗車などといったトラブルも引き起こし、その度にいつも頭を下げるのは、大学を卒業し社会人となっていた兄でした。

 この頃の造田を支えていたものが二つあります。一つは、青年らしい恋心でした。小学校のころの同級生で、造田は彼女に「会ってほしい。一緒にいたい。返事が欲しい」と熱烈な手紙をしたためるのですが、まったく相手にされません。業を煮やした彼は、直接電話をかけ、家にまで押しかけるのですが、彼女の父親から、やんわりとした口調で拒絶の意を伝えられてしまいます。彼女にしてみれば、造田とは遠い昔、小学校のころ一緒の学校に通っていただけで、ほとんど面識もないのですから、この対応も仕方ないでしょう。中学、高校でも多数の出会いはあっただろうに、造田がなぜ彼女に執着し続けたのか、その理由ははっきりしませんが、この後も造田の彼女へのこだわりは続きました。外務省に送り付けた手紙の中にも彼女の名前が登場し、逮捕後、とあるジャーナリストに送った、手紙には「彼女の方が僕を好きだった、僕が交際を断った」などと、まったく逆のことが書かれていました。

 そしてもう一つが、アメリカへの憧れでした。造田は、おそらく高校中退という挫折の経験を根拠に、日本は「努力しても報われない国。人を学歴でしか判断しない国」と決めつけて批判します。これは間違ってないにしても、問題は、格差社会の総本山であるはずのアメリカを、なぜかその正反対「努力すれば必ず報われる国。学歴がなくても偉くなれる国」と、高い評価をしていることです。根拠はまったくわかりませんが、彼のアメリカ熱は本物で、なんと彼は、事件の前年である九十八年、僅か二百ドルあまりの所持金を手に、無謀ともいえる渡米を決行するのです。

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 単独渡米

 造田が米国に旅立った時期は、前述した女性が米国に留学していた時期と符合します。憧れの地で、憧れの女性とのロマンスを、などと、陳腐な映画のような妄想を抱いてしまったのでしょう。行動力は大したものですが、やはり所持金わずか二百ドルで、英語もロクに離せない彼が単独で渡米するのは、あまりにも無謀でした。

 はじめポートランドに上陸した彼は、一路、愛する彼女が住むシアトルへと旅に出ます。しかし、当然のことながら所持金はあっという間に尽き、英会話能力のない彼は職を求めることもできません。現実を突きつけられた彼は、錯乱し、パスポートを破り捨てるという暴挙に出てしまいます。

 結局造田は、餓死寸前の状態になっていたところを日本領事館によって保護され、一か月ほど教会のお世話になった後に帰国します。このとき教会で受けた世話について、彼は「唯一、人間らしい扱いを受けた」と振り返っており、無謀な渡米により目を覚ますのではなく、むしろ米国への根拠のない盲信を強めてしまったようです。
 

犯罪者名鑑 闇サイト殺人事件 3

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 被害者・磯谷利恵さん 


 裁判編に移る前に、この事件で被害者となった、磯谷利恵さんの経歴について紹介していきます。

 磯谷さんは当時三十一歳。派遣のOLとして、名古屋市内の会社で働いていました。幼い頃に父を亡くし、母の手ひとつで育てられた彼女はとてもお母さん思いで、お金をためてお母さんに一軒家をプレゼントすることを夢見ていました。趣味はグルメと囲碁で、食を取り扱ったブログ http://kuishinbounagoyan.blog96.fc2.com/は、事件を知った人からの多くのコメントで溢れています。

 事件当時は囲碁を通じて知り合った大学院生と交際しており、事件の十日前には、名古屋城に流星群を見にデートに出かけていたそうです。誰からも好かれる人柄であった彼女が殺害されたのは、自宅まであと僅か二百メートルという地点でした。逮捕後、川岸健治は「人生は運だ。俺が捕まったのも運。彼女が殺されたのも運。無期懲役の判決を貰ったのも運。生かしてもらえて、取りあえず感謝してる」ということを語っていました。「そう言っちまえばそれまで」と言えるのは、被害者や第三者であって、犯人ではないでしょう。


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 被害者遺族の奮闘

 裁判において、被害者遺族である母の富美子さんは、三人の死刑を目指して運動を開始します。お姉さんや被害者の会の協力を得て、駅前での署名活動や、テレビ番組への出演、大学での講演などと精力的に活動します。もっと休んだらどうかと周囲の人も心配するほどだったそうですが、唯一の生きがいを失った富美子さんからすれば、じっとしている方が苦痛だったのでしょう。

 富美子さんがこうした活動をするのをみて、したり顔で「この人出過ぎじゃない?目立ちたがりなんじゃないの?」という人間が富美子さんの周囲にもおり、実際にそうした内容が書かれた手紙が届くこともあったそうです。光市母子殺害事件の本村氏も同じようなことを散々に言われてきたそうですが、私はこういう人間こそが、磯谷利恵さんの命を奪ったのだと考えます。被害者遺族の気持ちを想像することもできない人間が、犯罪者の気持ちを想像することなどできるはずがありません。追い詰められた人、うまく生きられない人の気持ちが想像できないこういう人間が、単なる無能者を、犯罪者へと変えるのです。

 富美子さんが行った署名活動では、およそ30万人もの署名が集まりました。世論の後押しを受け、闇サイト殺人事件の裁判が開始されました。

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 裁判


 富美子さんの意向もあり、三人全員の死刑を求刑する検察側と、殺害人数が一人という理由を盾に死刑回避を目指す弁護側は激しく争います。この裁判で露呈したのは、ネットを介して出会い、ともに殺人まで犯した三人の男には、いかなる友情も絆も存在しなかったということ――。裁判の中で三人は、醜い罪の擦り付け合いを繰り広げるのです。

 神田が、「絵を描いたのは川岸、殺害を主導したのは堀」と主張すれば、堀はまるで反対のことを言い、川岸は「お前らのせいで犯罪者になっちゃっただろ!」など、二人に向かって叫び出します。お互いを仲間だなどとは欠片も思っていない三人は、自分だけが助かろうと、自分はただ傍観していただけという態度を貫こうとするのです。

 第一審の結果は、川岸に無期懲役、堀、神田に死刑という判決でした。川岸は自首を認められて、罪一等を減じられたのです。遺族は不満だったようですが、この判決は一応妥当ではあるでしょう。前例で自首をしたにも関わらず死刑判決が下った人には、オウム事件の岡崎一明がいますが、彼の場合は教団から逃亡して自首をするまでにかなり長い潜伏期間がありました。その間、オウムは数々の反社会的な活動を行っています。川岸の場合は明確に事件の早期解決に貢献しており、ここで死刑判決を強行してしまっては、今後の事件抑止に繋がりません。

 川岸は判決以前には、「お母さんの言葉は胸に刺さりました」と反省するような態度を見せていながら、無期懲役判決を勝ち取るや否や、前述のような放埓な言動をし始めるなど態度を一変させます。それが遺族の感情を逆なでしたことは間違いありません。

 川岸が無期になろうが死刑になろうが、磯谷利恵さんが戻ってくるわけではありません。そもそも、自首したのは偉いなどといっても、もとはといえば、この男の書き込みからすべてが始まったのです。遺族が徹底的にやりたい気持ちはわかりますが、やはり社会全体のことを考えれば、自首の功績は功績として評価しなければなりません。無期以上死刑以下という刑罰があるならそれに処すべきところでしょうが、無期の上には死刑しかない以上、この判決で仕方ないと思います。

 他方、神田と堀は一審の判決に対して控訴。このうち、神田はすぐに控訴を取り下げ、死刑が確定します。三人の中でもっとも反省の色が薄かったのが神田で、川岸が「胸に刺さった」と語った富美子さんの陳述に対しても「特に言うことはない」とあっさり言ってのけ、交際女性にあてた手紙には、磯谷さんが車酔いを訴えて降ろしてもらおうとすることを書きながら「車酔いなら、背中に汗をかくもんだよ。嘘吐き姉ちゃん。嘘なら俺の方が上手だぜ」、磯谷さんが震えながら許しを乞うところを書きながら「がったがた。マグニチュード10?」など、ピカレスク小説のセリフさながらの言葉を堂々と記述しています。

 池田小事件の宅間守などと同様の完全に開き直った態度で、ある意味「正直」に心の内を語った神田に真っ先に死刑判決が下され、心の内をまったく明かさず、反省した「フリ」を見せていただけの川岸と堀が無期懲役を勝ち取る・・・どっちが正しい、ということもいえませんが、これが裁判というものです。神田は最高裁の判決後に再審請求を出しますが、延命のためなのか、それとも暇つぶしなのか、真意は不明です。

 そして堀には、最高裁で無期懲役判決が下ります。裁判の中で、殺害人数一人を理由に死刑を回避しようとする弁護側に対し、検察側は事件の凶悪さ、殺害の手口の凶悪さについて強調するのですが、最終的に無期の判決を下した裁判長は「殺害方法が凶悪になったのは、被害者が中々死に至らなかったためであり・・・」などと、とんでもない失言をしてしまいます。これでは誰がどう聞いても、「被害者がしぶとかったせいで犯人が凶悪にならざるをえなかった」と言っているようなものです。判決自体は、やはり殺害人数一人ということもありますし、堀は表向き反省の態度を見せていましたから、妥当とまではいえませんが「あり得る」判決であったとは思います。ただ、この裁判長の発言は、公正、公平に事件に携わる者としてはあり得ない、まさしくとんでもない失言です。

 さらに、堀に無期刑の判決を下した裁判長は「堀の前歴を考えれば、更生の可能性がないとはいえない」などと発言していたのですが、なんと最高裁の判決からわずか三週間後、その堀が1998年の強盗殺人及び強盗殺人未遂の疑いで再逮捕されたのです。裁判長は赤っ恥もいいところです。

 私は様々な事件の本を読んでいますが、こういうトンチンカンなエピソードこそ目にしても、裁判の中で司法に携わる人間が有能だった、名言を残したというエピソードはほとんど見たことがありません。人間とは誰しも無能で、間違いを起こすものであり、無能な人間が人を裁くために、裁判というものがある・・・ということではありますが、それは個人の資質の低さを擁護する理由にはなりません。自分が加害者、被害者いずれかの立場で裁判に関わる機会があったときには、無能な裁判官や弁護士に巡り合わないよう祈るばかりです。

 


 総括:事件を起こした三人は、犯罪に関しては素人でした。事前に入念な計画を立て、リスクを回避することのできるプロの集団ならば、事件がここまで凶悪化することはなかったでしょう。厳しい社会情勢の中で大量の貧困者が生み出され、いつ、誰が犯罪者となってもおかしくはありません。闇サイトはいまだ健在で、Twitterなどで共犯を募る例もあり、ネットを介して俄か犯罪集団が結成されるケースは増えています。日本の治安がいつまでも安全と思うのは過信でしかありません。犯人を責めることも大事かもしれませんが、各個人、特に女性が自分の安全を意識することが重要となってくるでしょう。

 
 闇サイト殺人事件 完

犯罪者名鑑 闇サイト殺人事件 2

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  殺害事件前夜~事務所荒らし 

 磯谷利恵さん殺害事件の前夜、川岸と本堂は、名古屋市内の事務所荒らしを決行します。四人が集合する前、「カノンちゃん」と会ったときには神田と掘の二人でしたが、このにわか犯罪集団を結成した四人は、出会いから逮捕までの間、常に行動を共にしていたわけではありません。四人のうち神田と堀の自宅は名古屋市内にあり、夜はそれぞれ自宅に帰っていました。ある程度バラバラに行動していた時間帯は多かったようです。

 ただ、パシリの本堂くんはホテルに泊まるカネもなかったのか、川岸のバンの中で寝泊まりをしていたようで、どちらの発案かはわかりませんが、磯谷利恵さん殺害事件の前日は、二人で事務所荒らしに入ろうという話になったようです。

 しかし、この事務所荒らしの計画、ドアを破ったまではよかったものの、結局そこまでが限界で、建造物侵入未遂に終わってしまいます。物音にビビったのか、機械警備が発報したのか、川岸が突然逃げ出し、薄情にもパシリの本堂くんを置いて、バンで逃げ去ってしまったのです。川岸も本堂も、犯罪に関してはまるで素人だったことを証明していますが、お金もなく、雨風を凌げる寝床も失って、土地勘のない場所に放り出された本堂クンは限界を悟り、警察に自首する道を選びました。

 哀れなことに、本堂クンはこのとき、所持金が二百円しかありませんでした。このことはスルーされるか、ただの笑い話として済まされているのが殆どのようですが、この社会に生きる我々は、稼働年齢にある男性ひとりの所持金が二百円にまで減ってしまうという現実を、もっと重く受け止めなければいけません。本堂クンは覚せい剤使用の前科があり、そういう如何わしい物にお金を遣ってしまったということも考えられますが、決めつけることはできません。

 川岸健治は、闇サイトに「派遣で働いていたが、給料は安すぎ、仕事はキツくて、働くのがバカバカしい」という書き込みを行っていました。神田司は、犯行直前まで朝日新聞の専売所で働いていました。社会にロクな仕事がなく、必ずしも勤労意欲がないわけではない人が、結果として経済的困窮者となってしまうのが、今の世の中です。

 この犯罪は怨恨や快楽ではなく(強姦未遂もあったが、副次的なもの)、金品を目的として行われたものでした。規制緩和により労働者の非正規化が押し進められ、底辺は殆どの場合一生、底辺として据え置かれてしまう何の希望もない世の中でなければ、もしかしたら、磯谷利恵さんの命は奪われることはなかったのではないか?こういう社会的な背景まで考えなければ、事件の考察をしたとはいえないでしょう。

 事件の凶悪さを批判するだけでは、今後の犯罪の抑止には何も役に立ちません。闇サイト事件を扱ったほとんどのサイトは、犯人を「クズ」と罵るだけで終始しているだけのものが目立ちますが、それでは、罵った本人の自己満足にしかなっていません。犯人の目線に立って事件を考えてみるということが、事件の考察には重要なことです。

 さて、逮捕された本堂クンは、警察にすべてを話し、闇サイトで三人と出会い、犯罪計画を練っていたことも打ち明けたのですが、警察はすぐに動くことはありませんでした。本堂クンも含め、犯行メンバーはそれぞれ偽名を名乗っており、携帯の番号以外に本堂クンが知っていることはなかった(バンのナンバーも知らなかった?)こと、また、この時点で場所が特定されるような犯行計画はなかったこと、などを考えれば、それほど強く警察を責めることはできないでしょう。ただ、犯行を未然に防ぐ大きなチャンスであったことは間違いありません。

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 磯谷利恵さん強盗殺人事件 

 本堂クンが捕まった翌日、それまで通りに集合した四人は、今後の計画について話し合います。といっても、すでに所持金も残り少なかったのでしょう。ここでいよいよ、「夜、一人で歩いている女性を襲い、金品を強奪する」計画を実行に移すことを決定します。飢えた猛獣のような男たちが、ついにその牙を剥きだしにしたのです。
  
 八月二十四日、午後十時ごろ、男たちを乗せたバンは、名古屋市千草区自由が丘の住宅街をうろついていました。一応、まったくの当てずっぽうではなく、「三十歳前後のOL風で、ブランド物などは身に着けていない、質素な女」を狙うと決めていたようです。神田によれば、そういう恰好をした女は、堅実で貯金をため込んでいる可能性が高いのだとか。本当にそうなのか知りませんが、不幸にも男たちの狙い通りの恰好で歩いていたのが、事件の被害者、磯谷利恵さんでした。

 男たちは磯谷さんに狙いを定めると、バンでゆっくり近づき、道を尋ねるふりをして、磯谷さんをバンの後部座席に引きずり込みます。神田が磯谷さんに刃渡り20センチの包丁を突き付け、まず動きを封じた後、堀が手錠をかけ、監禁した状態で、岐阜県内の山中へと向かいます。

 三人は磯谷さんに、キャッシュカードの暗証番号を吐かせようと脅迫します。そして、番号を聞き出すことに成功すると、すぐさま磯谷さんの殺害を決断します。「顔を見られたから」というのがその理由だそうですが、彼らにはマスクを被るなどして顔を隠してから犯行に及ぶ知恵はなかったのでしょうか。奪った後殺すことを最初から決めていたならわかりますが、これが川岸の言う「勢い、流れ」による結果だとしたら、あまりの稚拙さに飽きれるほどです。この世で本当に怖いのは、極力リスクを避けようとする犯罪のプロではなく、専門的なノウハウを持たない素人の集団ということが言えるかもしれません。

 磯谷さんを殺すことを決意すると、ただ殺すのでは勿体ないとばかりに、川岸が磯谷さんを強姦しようとします。神田に、「川岸の頭は性欲いっぱいの猿みたいだな」などと茶化されながらも、川岸は磯谷さんを襲おうとしましたが、夏の暑いさなかに何日も車内泊が続き、文字通り獣のような体臭がしていたという川岸に犯されそうになった磯谷さんの恐怖は、想像することもできません。ただ、結局この強姦は、磯谷さんに「彼氏がいるからやめて」と頑強に抵抗されたおかげで未遂に終わりました。女といえども、死ぬ気で暴れる人間を取り押さえるというのは、案外に難しいことらしいです。そのうちに、「体内に証拠が残るからやめろ」などと堀にもなだめられ、川岸は強姦を諦めました。不幸中の幸いといったところでしょうか。

 しかし、これで磯谷さんが殺されることは決まってしまいました。三人は磯谷さんの頭にビニール袋を被せ、粘着テープで身体をぐるぐる巻きにします。そのうえで、ハンマーで磯谷さんの頭部を殴打しました。誤解を恐れずにいえば、こうとなっては、あとはできるだけ楽に死ぬことを望むしかありません。しかし、磯谷さんは中々死なず、打擲はなんと、50回以上にも及びました。

 どれほど殴っても、「殺すのはやめて」と命乞いを繰り返す磯谷さんに、鬼畜のような男たちも恐怖を覚えたことでしょう。最後には、ビニール紐で磯谷さんの首を絞め、絞殺しました。せめてこちらが先だったらということが無念でなりませんが、素人集団に狙われた不幸でしょうか。

 こうして磯谷さんを殺害した三人は、喜び勇んで、コンビニのATMに向かいます。ATMにカメラ機能が設置されていることも知らなかったようですが、磯谷さんの貯金だけでも引き出せていたら、数か月くらいは生活できていたかもしれません。しかし、なんということか、磯谷さんから吐き出させたキャッシュカードの番号では、お金を引き出すことはできなかったのです。

 磯谷さんが三人に教えた番号は、2960(ニクムワ)――語呂合わせが得意だったという磯谷さんが、男たちに報いた最後の一矢でした。磯谷利恵さんのお母さん、富美子さんは、正直に番号を吐いたところで殺害されることがわかっていた磯谷さんが、むざむざお金まで奪われるよりは、と考えたのだろう・・・と語っていますが、狭い車内に監禁され、刃物まで突きつけられた状況で、敢えて嘘の番号を教えるというのは、すさまじい胆力としか言いようがありません。人間が極限状況に追い詰められると、男より女のほうが強いというのは、本当かもしれません。

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 逮捕

 男たちが人を殺してまで奪ったのは、結局、磯谷さんの財布に入っていた、わずか6万円あまりの現金のみでした。とても割に合っているとはいえません。士気が下がった状態で、穴を掘る気力もなかったのでしょう。磯谷さんの遺体は発見当時、下半身にわずかな土が被さっているのみだったといいます。

 犯行後、三人は、名古屋に戻って、同じ手口の犯罪をもう一度行うことを誓い合います。パチンコで負けた人が、五万吸い込まれるも十万吸い込まれるのも一緒とますますのめり込んでいくように、一人殺すも二人殺すも同じことだと考えたのでしょう。

 その晩は解散となりましたが、この後川岸が心変わりし、警察に自首をします。二人殺せば、死刑は確実――死の恐怖に怯えた男は、言いだしっぺでありながら、自身の告白によって、事件に幕を閉じました。川岸の供述によって、自宅の住所を押さえられた神田、堀が相次いで逮捕。こうして、第二の悲劇は起こることなく、悪魔のような三人は、獄中に繋がれる身となったのです。

私小説の続き5 舐め腐った外壁清掃の会社

鉄筋



 松屋を辞めた私は、それから程なくして、ビルの外壁清掃の会社に、アルバイトとして入りました。当時の自宅から近かったというのが、その会社を選んだ唯一の理由です。

 翌日からすぐに勤務に入りました。三階建ての歯科助手の専門学校か何かだったと思うのですが、三メートル以上もある脚立に登っての作業で、安全帯の使用もありませんでしたから、落ちたら大けがです。初日ということで、私は補助的な作業だけを任されたのですが、いずれ危険な作業をやらなければならないと思うと、気分は憂鬱でした。別に凄く生きたいというわけではありませんが、死に場所くらいは自分で選びたいです。底辺のバイト現場で死ぬのは真っ平です。

 初日はまだ良かったのですが、二日目で無事終了となりました。その日の現場は十人の現場で、二台のバンに分乗して向かったのですが、社長の車に乗った私は、そこで驚きの言葉をかけられたのです。

「今日の現場は強力な溶剤を使うから、メガネを外して作業して」

 私は家にいるときや、仕事のときはメガネをかけているのですが、視力は0,1もなく、メガネを外したら日常生活もままなりません。ましてや、危険な高所作業など、メガネなしでできるはずもありません。そのメガネが溶剤で傷ついてしまうということを、現場に向かう車の中で、いきなり言われたのです。面接のときには一言も言われなかったのに、現場に向かう途中でいきなり言われたのです。

「いや、メガネ外すとほとんど見えないんで、無理ですよ・・・・」

 私がそう返すと、社長は分かったのかわからないのか、曖昧な返事をしたきりで、電話で違う話を始めてしまいました。

 私もこのとき、もっとキッパリ言っておけば良かったと思います。それは私が悪いですが、何しろこの仕事のことはよくわかりませんし、使う溶剤とやらの強さもわかりませんから、「まあ、一日くらい大丈夫だろう」という気持ちがありました。取りあえず今日一日頑張って、終わってから今後のことを考えればいいだろうと、楽観していたということです。

 現場に到着してまず驚いたのは、同じ会社の、ある作業員の風貌でした。外見は40歳くらいだと思うのですが、その人の頭髪が、金髪のオールバックだったのです。小説の中で、コブラさんというキャラを出したと思うのですが、そのモデルがその人です。

 なんというか、見た瞬間「ウワッ・・」と引きましたよ。ただ金髪だけなら、もしかしてミュージシャンとして活動しているのかな、とか、サーフィンショップでもやっているのかな、とも思います。でもそんな感じもしないんですよね。同じ金髪でも、サンドウィッチマンの伊達みたいな軽快なトークができるならイメージもまた違ったでしょうが、その人の喋りは、もの凄く間延びして、いかにも頭のネジが抜けてそうな感じなんです。

 また、これは帰りの車の中での話ですが、信号待ちの途中、窓の外に若い女性が見えると「あの女は可愛い」とか「あの女はブスだ」とか、一々査定を始めるんです。これも小説に使いましたが、こんな金髪のオッサンに査定される女性こそ、大きなお世話って感じですよね。「あの女はブスだ」って、いやいやお前の方がよっぽど面白い見た目だろうと。

 この行為の何が嫌かって、それやって何の意味があるのかさっぱりわからないところです。車降りてナンパでもするわけでもないのに。40にもなって、なんでそんな生産性もない、中身もないことやってるの?と。同じ雑談でも、もうちょっと実のある話しようぜ、と。中学生の頃、下校中とかによくそれやってるヤツがいましたけど、40のオッサンで同じことやる人がいるとは衝撃でした。この金髪オッサンが芸能関係や客商売の仕事をしているということは、まずないと思います。 

 そして勤務が始まったのですが、この日の仕事は冒頭の写真のような、鉄筋で組み立てられた足場の上で、タワシを使ってひたすら外壁を擦るというものでした。5階建てのビルで、落ちたら死亡の危険も高いです。足場を覆うようにビニールシートは貼っていましたが、やっぱり安全帯は無しでした。もしかしたら、ヘルメットもなしだったかもしれません。こんな会社は怪我しに行くようなものです。

 そしてメガネですが、見事にダメになりました。レンズがところどころ溶けちゃって、視界にもモロ影響します。会社には、メガネをかけている人がもう一人いたのですが、その人は「俺も仕事中とプライベートでは、メガネを使い分けているんだ」などと言っていましたが、この人が普通に働いていたから、特に面接で触れる必要はなかったと考えたのでしょうか?それだけでも向こうの大きな過失ですが、まだ堪えることはできました。私の怒りが決定的になったのは、現場から帰ってきたとき、社長が放った一言でした。

「だからメガネ外せって言ったじゃん~」

 今だったらぶん殴ってしまうかもしれません。そもそも面接のときに、事務員が説明しなかったのが問題なんですが、これを初めて言われたのが、現場に向かう車の中ですよ。現場に向かう車の中で、「メガネ壊れるのは嫌なんで、帰ります」といえますか?遠慮していえない人も多いでしょうし、その溶剤とやらがどれほど強力かわかりませんから、私のように、楽観視してしまう人もいるでしょう。もしあの車の中で、社長が溶剤について十分な説明をし、「どうする、帰るか?」と聞いたうえで、私が判断した結果なら、文句はいえないかもしれません。しかし、実際には、社長は曖昧な返答をしただけで、真剣に説明してくれたとはとてもいえませんでした。

 会社に強い不信感を持った私は、二日分の給料を割ってもらい、辞めることにしました。メガネの弁償代は請求しませんでした。どう考えても向こうが悪いのになぜ請求しなかったのかといえば、警備員時代の折茂のトラウマが残っていたからです。会社に対して、従業員というのは極めて弱い立場にあると思い込んでいた当時の私は、仕事関係の人間とトラブルになるのを避けたかったのです。

 現場から会社に帰ってから、社長と話し合っている最中、金髪オッサンたちが、いつまでも会社に残って、ベラベラと無駄なバカ話をしていたのが忘れられません。渋い顔で社長と話し合う私の視線の先には、アルバイトがみんなで連れ立って、ディズニーランドに行ったときの写真が立てかけてありました。前々回で最後に触れた話と重なりますが、求人広告によくある「アットホームな雰囲気」に嫌悪感を覚えるようになったのは、このときのことも大きな原因だったかもしれません。

 まだ若く、会社と戦う知恵も度胸もなかった私を、とことんまで舐め腐ってくれたこの会社のことは、今でも許す気がしません。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 18

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 富士山本部道場の設立

 オウム真理教と教祖麻原の変質が誰の目にも明らかになったキッカケはいつか、という質問に、信徒のほとんどが答えるのは、1987年の富士山本部道場の設立です。外界との接触が断たれた環境に居住区を構えたことにより、完全に浮世離れした思考に陥ってしまったのでしょう。修行の内容も過激になる一方で、不眠不休での立位礼拝や、一日一食という厳しい食事制限など、肉体的な負担が強い修行が行われるようになりました。この修行の過激化に関しては、私は麻原個人の事情も大きく関係したと考えています。

 すでに触れた通り、オウムが真理教と名を改め、宗教色を強めていった当時から、麻原は修行をしなくなり、人の心を読む「超能力」が失われていました。加えて、一時は減った信徒の数もこの頃からは徐々に増え始め、麻原が信徒一人ひとりの修行の進み具合を把握することは困難になっていました。幹部がそれを代行できればよかったのでしょうが、オウム幹部の中でヨーガを極めたといえるのは、石井久子などごく初期に入信した一部の幹部だけで、86年以降に出家した村井秀夫や早川紀代秀などは、ヨーガの行法にろくに精通しておらず、信徒からの質問には、麻原から渡された「こう聞かれたら、こう答えろ」というマニュアルを読みながら対応するという体たらくでした。

 昔のように信徒の修行の進み具合を把握できなくなり、そもそも指導自体面倒くさがって、末端の信徒にはビデオの中でしか接しなくなった麻原は、修行の内容を、信徒が自分の頭を使って考えながら、各々が明確な目標を目指して取り組む中身のあるものではなく、目的意識もあやふやなまま、単に肉体的に追い込むだけの苦痛合戦のようなものに変えてしまったのではないでしょうか。

 個人差はありますが、基本的に、資本主義社会の中で生きてきた人は、「何かやってないと不安になる」性質を持っています。そして、意味のあるなしに関わらず、やったことがキツければキツイほど、不安は取り除かれるものです。高校の野球部で、炎天下に無駄な長距離走をさせたり、回数だけを目的にした素振りをさせるような、ただキツイだけの修行をさせることにより、信徒を「なんかやった気」にさせて誤魔化していたということです。

 思考停止の状態で臨む過酷な修行は、超能力の獲得や精神の向上にはなんら結びつきませんでしたが、激しい疲労を与え、また信徒が自分の頭で考える力を奪うことで、麻原への依存を強める副産物を生みました。これにより、井上嘉博などの盲目の狂信者が次々と生み出されていったわけですが、しかし一方で、修行に耐えきれずに壊れてしまう信徒も出てきます。こうした流れの中で、オウム最初の死亡事件「真島事件」が発生したのです。

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 真島事件の発生

 1988年9月22日、富士山総本部道場で行われていた「百日修行」の途中、二十五歳の男性信徒、真島照之が、突然道場を走り回り、檀上に登って大声をあげるなどの奇行を始めました。村井秀夫から報告を受けた麻原は、村井、早川紀代秀、岡崎一明、新実智光ら幹部に命じ、真島を取り押さえさせ、女性用の風呂場に連行させます。このとき現場を仕切っていたのは村井秀夫で、はじめ村井は麻原の指示通り、真島の頭にバケツで水をかけて冷やさせますが、それでも真島が暴れるのをやめないため、今度は男性用の風呂場に連れていき、ホースで水をかけ、最後には四人で力を合わせて逆さに抱えあげて、浴槽の水に頭をつけさせます。

 やがて真島がぐったりしてきたので焦った村井は、医師である平田雅之を呼び、容体を確かめさせると、瞳孔が開き、呼吸も止まっていることが確認されます。報告を受けて慌てた麻原は、はじめ再び水をかけ、ショックを与えて蘇生させるよう指示。それで息を吹き返すわけもなく、今度は人工呼吸や心臓マッサージを始めますが、努力は実らず、真島の死亡が確認されてしまいます。

 死んでしまったら、もうどうしようもありません。麻原と幹部は、遺体をどうするかを話し合います。まともな考えなら警察に届け出るところですが、当時、教団は、宗教法人の認可に向けて動いていた時期でした。刑法上は過失致死に当たる今回の事件が外部に漏れれば、認可が下りるのに不利に働くことは明白です。麻原や幹部たちは悩んだ挙句、真島の遺体を道場の護摩壇で燃やし、秘密裡の内に処分してしまいます。

 これで、麻原とオウムの運命は決まりました。オウムが日本史上最悪のカルト集団になったターニングポイントは幾つかありますが、その最後のものが、この「真島事件」でした。ここで真島の死亡を隠ぺいせず、修行中の事故として警察に届け出ていれば、麻原と幹部は罰せられたでしょうが教団は存続し、平和裏な宗教団体として細々と活動を続けられた可能性はあったはずです。しかし、麻原はその道を選びませんでした。

 「毒を食らわば皿まで」という言葉があります。後ろめたさという感情は恐ろしいもので、人間は往々にして、後ろめたさを払しょくするために正しい行いをしようとするのではなく、かえって積極的に悪行を働く傾向があります。真島事件以後、麻原とオウム幹部は、このときの愚行を正当化するために「ポア」の論理を作り上げ、殺人を肯定するヴァジラヤーナの教えを強化し、罪悪感を罪悪感で拭い去るように、次々と凶悪犯罪を重ねていくのです。

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 田口修二殺害事件

 真島照之殺害は、あくまで修行中の事故で押し通すこともできましたが、その直後に麻原たちは、今度は明確な殺意を持って、信徒の殺害を行ってしまいます。発端は、「チクリ屋」村井秀夫の密告でした。

「電気班の田口修二が、真島の事件を見ていたんです。尊師を殺して、オウムを脱会したいと言っています」

 事態を重く見た麻原は、第一サティアン四階の図書室に、石井久子、大内利裕、大内早苗、村井秀夫、新実智光、早川紀代秀、岡崎一明の七人の幹部を集め、会議を開きます。

「あのまま放っておくと、危ないんじゃないか。ポアした方がいいんじゃないか」

 「ポア」の論理を簡単に説明すれば、「死後において、人の魂をより高い世界に転生させる」ということです。ようするに、すでに死んだ人の魂を操作するということを言っているのですが、これがオウムの中では、なぜか「人をより高い世界に転生させるためには、人を殺しても構わない、殺すべきだ」と、今生きている人を殺害する意味で使われていくようになってしまいます。

 捻じ曲げた張本人はもちろん麻原です。麻原は、信徒たちから「なぜあの人をポアさせねばならないのか?」と質問されたときには、「魂が腐敗しきっており、救済するためには殺すしかない」「魂を転生させる時期に来ている」などといった論法で納得させ、徐々に論理を強化していきました。そして、地下鉄サリン事件の頃には、「ポアのためなら、虫を殺すように人を殺す」信徒を作り上げることに成功していました。

 その「ポア」を最初に使い始めたのが、この田口事件でした。それまで、セミナーなどにおいて「ポア」の概念の説明自体はなされていましたが、ここまで明確に、個人を対象にしてこの言葉が使われたのは、初めてのことでした。幹部の間には動揺が走りますが、ただ一人、「イエスマン」村井秀夫だけが、冷静に麻原の言葉を引き取り、

「田口は尊師を殺してしまうのではないでしょうか。オウムから出してやらねば、多分そうするのではないでしょうか」
 
 と発言します。これ以後の多くの事件で、これが一つのパターンになっていくのですが、麻原が何か、信徒たちに問いかけるような口調で意向を語ると、それを村井秀夫が引き取って、あたかも麻原の意向が、信徒全員の意向かのような形に持っていくのです。こうされると、反対意見を持つ人がいても、麻原一人が突拍子もない考えを持っているのではなく、みんなが同じ意見を持っているのに、私だけが違うことを考えている・・・間違っているのは私なのではないか・・・。という思考に陥ってしまうのが、人間というものです。実に巧みな誘導法で、一連のオウム事件において、村井秀夫という男が果たした役割がいかに重要であったかを示していると言えるでしょう。

 ただ、このとき村井が同意したのは、田口が麻原を殺そうとしているのではないか、というところまでで、田口を殺すことにまで同意したわけではありませんでしたが、結局麻原は幹部たちを強引に殺害に同意させ、具体的な殺害方法まで指示します。麻原の指示に従った幹部たちは、それまで数日間、コンテナに監禁し、衰弱していた田口修二に目隠しを施し、ロープで首を締め上げました。それでもなかなか死なないので、最後には新実智光が首を捻り上げ、首の骨を折って殺害します。

 遺体は護摩壇で、十五時間にも渡って念入りに焼却されました。麻原は幹部教徒七名とともに、とうとう「殺人者」となったのです。
 
 よくオウムの信者について、「麻原に洗脳された、哀れなる子羊」と同情的な意見を述べる人もいますが、殺人にまで同意した以上、その責任は免れないでしょう。たった一回に事件に関わったというだけならともかく、この事件から幹部教徒たちが逮捕されるまでには七年近いタイムラグがあり、その間に改心するチャンスはいくらでもあったにも関わらず、彼らは様々な犯罪行為を重ねたわけですから、その道義的責任は首謀者の麻原にけして劣るものではありません。彼らは、自ら望んで殺人者となったのです。

 オウム教団に宗教法人の認可が下りたのは、この半年後のことでした。

 第三章 完

犯罪者名鑑 闇サイト殺人事件 1

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 出会い 写真:川岸健治


――――なにか裏の仕事ないか。

 すべての発端となったのは、ホームページ「闇の職業安定所」に書き込まれた、犯人の一人、川岸健治の書き込みでした。これに対し、住まいの近かった三人の男が反応します。はじめに川岸、堀、本堂が愛知県内のファミリーレストランで顔を合わせ、その後、鳴海のツタヤの駐車場にて、はじめて四人が集合しました。

 言いだしっぺの川岸健治は、犯行当時40歳。結婚して4人の子供がおり、元々は警備員やトラック運転手の仕事をしていましたが、借金苦で生活が立ち行かなくなり、離婚。犯行当時はミニバンでの車上生活を送っていました。

 判決で死刑を受けた神田司は、犯行当時36歳。幼いころに両親が離婚、父親に引き取られるのですが、家は貧しく、父親は慢性的な頭痛を抱えていた神田を病院にも連れて行かず、放って置いていました。そんな経緯からか、少年時代から非行を繰り返すようになり、一時は暴力団にも所属。薬物で逮捕されたこともありました。様々な職を転々とし、犯行当時は朝日新聞の拡張員として働いていましたが、給料は安く借金苦に陥り、闇の職業安定所を利用するようになっていました。

 堀慶末は犯行当時32歳。高校中退後、外壁工事などの仕事をしていましたが、犯行当時は無職。直前まで女のヒモ暮らしをしていましたが、その女性や、その他知人らに計400万あまりの借金を抱えている状態でした。当初はもっとも地味な扱いでしたが、実はこの男が一番とんでもない男で、無期懲役確定後の2012年に、1998年に起きた強盗殺人の容疑で再逮捕されています。殺害された男性が経営していたパチンコ店の常連客が堀で、当時の掘の住所は現場のすぐ近くにあったということです。

 そして、知らない人も多いと思うのですが、この事件には「第4の男」が存在していました。本堂裕一郎、犯行当時29歳。ただ彼は、最初の出会いの直後に行われた事務所荒らしの時点でグループを抜けて自首しており、磯谷利恵さん強盗殺人には加わりませんでした。覚せい剤使用の罪で執行猶予中の身であり、神田によれば「足りないヤツ」だったそうで、根っからのパシリ体質らしく、他の三人からは始終バカにされていたようで、そのことがグループからいち早くぬけた原因の一つだったのかもしれません。

 かくして、お互いに顔も名前も知らない四人が、ネットを通じて俄か犯罪集団を結成したわけですが、言いだしっぺの川岸健治には、当初なんのアイデアもなく、四人はまず、どんな犯罪をして金を得るかということから話し合います。この「ノープラン」というのが、結局事件があそこまで大きくなった要因でした。

 後に川岸健治は、テレビ局の取材に対して「あの事件は勢いと流れ。たとえば、甲子園初出場のチームが一回戦に勝って、一気に決勝までいっちゃった。そんな感じ」などと語ったのですが、これは事件の本質をよく表しているといえます。この後の四人の動きを見ると、まったく計画性というものに欠け、まさにお互いが虚勢を張り合い、引くに引けなくなった結果の「流れ、勢い」としか思えないところがあります。堀慶末には強盗殺人の前科の疑いがありますが、そもそも彼らが犯罪のプロであったとはとても思えません。四人はそれぞれ金銭的に追い詰められており、入念な計画を練る余裕がなかったともいえますが、それにしても大の男が四人も集まってこの程度の知恵しかなかったのかと思えるほど、これから紹介する事件の内容は稚拙なものでした。

 この事件、強盗でいくら奪うとか、詐欺でいくら奪うとか、誰かが初めから明確なゴールを決めていれば、最終的に人の命が奪われることはなかったと、私は思います。まさに川岸の言う甲子園の初出場チームと同じように、「自分たちに、どれだけのことができるかわからない」素人同然の集団が、ろくに計画も立てずに勢いで犯行に臨んでしまった結果、人の命まで奪われる惨劇へと発展してしまった、そのような事件だったと思います。

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 序章・カノンちゃん  写真:神田司

 
 最初の犯行?は、四人が集合する前、神田と堀がまず二人で落ち合い、川岸と本堂を待っているときに行われました。出会い系サイトを利用して人妻を呼び出し、性行為に及んだのちに写真を撮り、「旦那に見せるぞ!」などと脅してお金を取ろうというものです。

 その犯行?は、未遂に終わりました。神田によると、待ち合わせ場所に現れた、HNカノンなる女性はとんでもない「チビデブ・ブサイク」だったということです。お金を脅し取る目的でも抱けない「チビデブ・ブサイク」とはいったいどれほどの容姿だったのか、逆に気になるところです。

「カノンと合流後、堀がレイプして写真を撮り、旦那に見せるぞと脅す段取りを計画した。これも金になるぞっと。携帯電話で待ち合わせ場所に誘導、その女性カノンが来た時、なんと!チビデブ・ブサイクだった。自転車で来やがって、汗臭くて、こりゃダメだ。彼女がコンビニに買い物に入った隙に、すかさずにトンズラ。大ハズレだ。」

 神田が交際女性にあてた手記からの抜粋ですが、もしもこの人妻が、神田らの好みというほどでなくとも、せめて抱けるくらいの容姿であり、彼女からお金を巻き上げられていたら、のちの悲惨な事件は起こらなかったのか?それは、誰にもわかりません・・・・。

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 彷徨う男たち 写真:堀慶末

 
 さて、四人が無事に集まったはいいものの、先ほども書いたように、彼らはてんでノープランでした。まず、川岸が一年前、派遣会社に勤めていた際、寮の自室に送られてきた(前の入居者のものか?)という他人名義のクレジットカードで買い物をしようという話になりました。まず、パシリの本堂を使って、試しにコンビニで食料品を買わせたところ、「生きてる」ことが判明。それで18金のネックレスでも買って換金しようと、ミニバンの車内は大いに盛り上がりましたが、どうも限度額はさっきの買い物でいっぱいになってしまっていたようで、18金のネックレスは購入できなかったようです。

 次に、当面のアジトを確保しようと、彼らの共通の知人が紹介した空き部屋に向かいますが、その住所には建物はなく、情報は嘘だったと判明。ガセネタを流した知人を追い込み、「今はカネは払えないが、あとで払うから許して」という言葉を引き出しますが、問題なのは今、現在であり、後でカネを払ういう約束を取り付けただけでは、何の前進にもなりません。

 続いて一行は、堀の提案に従い、堀の行きつけであるダーツカフェを襲撃に向かいますが、立地条件や店内の状況から、堀の目算と違って犯行は難しいだろうという意見が出て、「やる、やらない」といった押し問答の末、結局「やらない」という結論に達します。

 途方にくれた車内では、パシリの本堂くんが、「二日間も動いているのに金が手に入ってない。住むところがない」とブツクサ文句を言い始め、三人は苛立っていきます。我慢できなくなった神田が、

『じゃ、今すぐにここら辺歩いてる人襲う?すぐに金が欲しいんだろ!付き合ってやるから誰彼構わず"強盗"しようよ!』

 と提案すると、本堂クンは途端に弱気になり「いやーできません」とペコリと頭を下げます。

 何か、粋がっているだけで大きなことは何もできない中学生のヤンキー集団を見ているようで、少し微笑ましい気もしますが、彼らは立派な大人です。いざとなったらパパとママのおうちに帰ればいい中学生と違い、寄る辺もなく、後がありません。黙っていても人間腹が減り、金はなくなっていきます。「やる、やらない」で迷っていられるのは、いくらかは余裕があるときだけです。

 神田は後に、このとき何気なく出た自分の一言が、「いざとなったら、誰彼かまわず襲う」というビジョンを、四人の共通認識にしたのではないか、という推論を語っています。まさにこのときから、四人は磯谷利恵さん殺害へと向かっていったのです。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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