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私小説の続き4 いかりやジジイ

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 最後の研修はA店でした。ただ妙なことには、A店のシフトリーダーではなく、B店のシフトリーダーと一緒の勤務であったということです。ただ、A店にはシフトリーダーは一名しかいませんが、B店にはキャプテン一名にシフトリーダーが二名という人材を抱えており、たまたまA店のシフトリーダーが休みだったから、応援にきたB店のシフトリーダーとやることになったのかな、と、このときも深くは考えませんでした。

 B店のシフトリーダーは二十代後半くらいの、穏やかな人でした。深夜ということで、お酒が深く入った人も来店するんですけど、カウンター席でおしっこを始めてしまうような人もたまにはいるんですよね。そういう客にも冷静に対応していたのが印象的でした。仕事の教えも丁寧で、私がミスをしたときもけして声を荒げたりはせず、何が悪いかを教えてくれました。世が世なら、もっとまともな仕事に巡り合えたであろう人材だったでしょうね。私のようなボンクラならまだしも、団塊以上の糞じじいたちの大半より確実に優秀なこういう人にまで「自己責任」のレッテルを張り付けて不当に冷遇する社会には本当に怒りを覚えます。

 この日の勤務で嫌な思いをしたのは、店内の有線放送でした。福山雅治の「ゆう~じょのように抱かせてよ~」という曲のCMがずっと流れていたんですけど、10時間の勤務時間中、せっまい店内で、ずっと同じ曲ばかり聞かされるストレスは半端じゃないです。オウムのヘッドギア洗脳と同じですよ。これで福山信者になる人もいるんでしょうけど、私の場合は、福山雅治が大嫌いになりました。

 そんなこんなで研修が終わり、いよいよA店での本勤務と相成ったのですが、この日、なぜ店長が私の研修をわざわざ他店でやったのか、その真の理由が明らかになりました。

「あ、どうも。今日お世話になります、津島と・・・」

「知ってる。はやく着替えて」

 A店のシフトリーダー、いかりや長介似のいかにも陰険そうなツラをした五十歳くらいのオッサンの第一印象は、まったく最悪のものでした。

 実際に勤務が始まってみると、私の嫌悪感はマックスに近づいていきます。

「昼の連中は何やってんだよ。余計な仕事増やしやがってよ~」

 ぶつくさと他の時間帯の人の仕事ぶりを批判してるんですけど、詳しくは覚えてないですが、オッサンの愚痴ってることなんて、時間にしたら十秒か二十秒くらいの仕事量なんです。そんなのお互い様だろ、と思うんですが、コイツはミスを一切しない完璧人間だったんでしょうか。そんなはずはありません。

 松屋では、料理が出来上がった際、調理担当が接客担当に聞こえるように「○○できました」ということを言う決まりになってるんですけど、オッサンは一切言わないんですよ。オッサンが言ったのは「料理が出ているかどうか、君がキッチンを見て確認しろ」ということでした。いや、それマニュアルどおりじゃねえから、と。ベテラン同士ならそれでいいかもしれないですけど、僕まだ入って一か月半しかたってないのに、そんな余裕ねえよ、と。

 その旨を抗議したところ、オッサンはしぶしぶ声を出してくれるようになったんですが、その声が小さい小さい。仕事を教えるときも、ボッソボソ小さい声だから何言ってるのかわからない。そのくせ、口癖なのか何なのかわからないですけど、「こんなのは常識だぞ」と注意の最後に言う声だけははっきりと聞こえるほど大きい。

 もうお分かりだと思いますが、店長は、オッサンに人を教える能力がないことをわかっていたんです。だからわざわざ、他の店で私をたらいまわしにして仕事を教えさせていたんです。B店には三人もいるシフトリーダー以上が、A店にはオッサン一人しかいないのも、たぶんオッサンのせいでしょう。コイツのせいで人がすぐ辞めて育たないんです。

 圧巻だったのは、オッサンが休憩中、私がまだ作ったことがない料理のオーダーが入った際、教えてくれるように頼んだときのことです。

「そんなのは自分でマニュアルみながらやれよ!常識だろ!」

 こんなヤツをなんでシフトリーダーにしたのか、店長に小一時間問い詰めたい気持ちでした。夕方の時間帯に、リュウ君(仮名)という中国人の留学生がいたのですが、レベル4まで上り詰めた彼が、そろそろシフトリーダーにしてくれと店長に頼んだとき、店長は「人に教えられるようにならないと、シフトリーダーにはできないよ」と言っていたのです。

 じゃあ実際どうなのかと見てみれば、人に仕事を教えないオッサンがシフトリーダーやってるじゃないかと。いやあ、コイツをシフトリーダーにするならリュウ君もシフトリーダーにしてあげようよと。時間帯が違うから仕方ないっちゃないですけど、なんかねえ・・。

 ちなみに、オッサンが作る料理は、マニュアルと明らかに食器が違うなど、デタラメなものばかりでした。オッサンの言う「常識」とやらで仕事を覚えた結果がそれですよ。

 少しだけオッサンを擁護するなら、シフトに入る人数が少ないというのは確かにあります。まだ未熟なスタッフがいることがわかっているならもう一人教える要員入れて、休憩くらいはゆっくりとれる体制にするべきなんじゃないかとは思います。オッサンもそれは不満だったでしょうが、その不満は上にぶつけるべきものです。ちなみにB店での研修の際も特に増員はなくキャプテンのおじさんが一人で教えてくれたのですが、その人は休憩時間を潰されても憤りをあらわにしたりなどはしませんでした。

 私もいい加減、限界でした。こんなジジイと十時間も狭い店内で一緒にいたら、頭がおかしくなります。

「もうてめえ一人でやれ!俺は辞めるからな」

 オッサンに水の入ったコップを投げつけて、私は店をバックれました。それきり、もうこの店には寄りついていません。店長からの電話は入りませんでした。よくあることで、予想されたことだったんでしょう。根は小心者なのだろうオッサンが最後に見せた、泣きそうな顔が印象的でした。

 
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私小説の続き3 同じ底辺労働者への思い

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 週末は麻原名鑑を更新する予定でしたが、今回は私小説の続きを進めます。

 やっぱり名鑑に関してはもっとも気合を入れているコーナーなので、そこで2名の方からしか感想コメントをいただけないのは割に合わないかなあ、と感じています。読者様のコメント返信で、名鑑に関しては1コメ以下=連載中止 2コメ=更新するけどいつになるかわからない 3コメ以上=週一で更新 ということをお伝えしたのですが、モチベーション的にはそれが目安になってきます。この私小説の続きも同じですね。ご想像いただけると思うのですが、聞いてる人もいないのに自分の人生を語るなんてのはこっぱずかしくてやってられないというのはあります。

 私小説の続き、2回続けて頂けた感想コメントは二つですが、いまのコメント状況では、私小説専門学校編の開始は難しいかな、というのが率直な思いです。施設警備員編も途中コメントが貰えず、かといって辞めるわけにもいかず、延々続く無限地獄のような思いをしていた時期があります。あれを繰り返すと考えると気分は滅入ります。

 最近一か月で定期的にコメントをくださるのは五、六名の方ですが、さすがにもう少し読者数は多いと思うのです。来月以降、私もとっておきの宣伝プランを考えていますが、今しばらくの間は、今の読者様に盛り上げて頂かなければいかなければならない事情はあります。過去の記事に対してコメントを頂けるのも上記の目安に加算しますので、積極的にコメントの方、よろしくお願いします。

 松屋の勤務では、なんとか一か月半ほどで深夜勤務に回ることができました。ただちょっと不思議だったのは、はじめは近隣の他店舗で仕事を覚えてもらう、ということを言われたことです。教える人がいないからということですが、お店には新人の指導を義務付けられているシフトリーダーがいるはずなのです。ただ、まあメニューが変わるわけでもなく、交通費の計算もちゃんと行く店に合わせるというので、私も深く考えずに店長に同意し、素直に他店での研修を受けることにしました。

 三店での研修を受けたのですが、私が本勤務に入る店をA店、JRの駅側にあるA店に対し、京急電鉄の駅側にある店をB店、横浜市最大規模の駅近くにある店をC店とします。初め私が入ったのは、B店の方でした。

 B店で私を指導してくれたのは、五十歳くらいの、紳士的なおじさんでした。優しく、教え方も丁寧だったのを覚えています。松屋のバイトのランクでは、4段階のスタッフの上にシフトリーダー、そのうえにキャプテンという役職があり、おじさんはキャプテンだったのですが、店長は単なる作業ができるできないだけでなく、教え方なんかもちゃんと見ているんでしょうね。ちなみにランクが上がるごとに給与もちゃんと上がって、最下位のスタッフとキャプテンでは時給にして600,700円くらい違ったような気がします。ランク制度により従業員のモチベーションアップを図ると言いながら、肝心の昇給にはまったく反映させないような飲食店もあるそうですが、松屋はその辺はきっちりしていたように思います。業界に詳しいわけじゃないのではっきりとはいえませんが。

 このB店で嫌な思いをしたのは、土日になると、同じB店のアルバイトをしている競馬好きのオッサンたちが集まって、自分の働いている店で食事をとって、近所のエクセルに出かけていく習慣を目にしたときでした。

 競馬自体は立派な趣味だと思います。公営ギャンブルですから多いにやって欲しいと思います。アットホームな雰囲気をいいなあ、と思う人もいるかもしれません。ただ現実に目を向けたとき、その競馬をやっている人たちの社会的地位は・・・?その日の勤務には、前回登場した若い女性社員も入っていました。いい年したオッサンが、若い女の子の前でそんなプラップラした姿を晒して、恥ずかしくないのかなあ、と。人の勝手なんで、オッサンたちからすれば大きなお世話って話でしょうけど、なんで平気でいられるんだろう、と、そのとき私は思ったのです。

 当時から底辺というものに激しい嫌悪を抱いていた私は、「底辺にいるけど、明るく前向きに生きてる俺ら」を見てしまうと凄まじい不快感を覚えてしまうのです。いや、そこはもっと悲壮感漂わせようぜ、と。底辺にいることを惨めに思う必要はない、恥ずかしく思う必要もない。こうなったのは自己責任じゃない。だから一緒に国を、社会を恨んでいこうぜ、と。

 そんなこんなで、次はC店での研修になったのですが、このお店は全国二位の売り上げを誇る大型店舗ということで、その賑わいは尋常ではありませんでした。深夜でも客がひっきりなしで、昼夜の稼働を支える下ごしらえも、それは忙しいものでした。

 通常、深夜はアルバイトだけで回すことになっているのですが、私が行ったときには社員さんがついていました。ただ驚いたのは、シフト的にはその社員さんはお休みだったということです。その社員さんは、結局フルタイムタダ働きしました。

 飲食はブラックだとこれだけ言われて、なお飲食の業界に入ろうとする人のモチベーションは、独立のノウハウ獲得に他ならないと私は思っているのですが、実際のところどうなのでしょうか。少なくとも休日にタダ働きしちゃうような人のモチベーションは、それじゃないと説明できないと思います。そうでもなければ洗脳ですよ。これでドン引きしない人の感性を、私は疑います。
 
 アルバイトさんにも、個性的な人がいました。度々A店の応援にも来る人なんですけど、あるとき私がA店でゴールデンタイムの勤務に入ったとき、深夜の人のためにサラダを補充する仕事を忘れてしまったことがあったのですが、そのことを、客が沢山入って大わらわのときに言ってくるのです。

「牛丼持って!味噌汁ついで!うん、盛り付けはこうするんだよ。早く出して!でさ、なんでこの前サラダ用意してなかったの。あれだめだからね」

 前後の話しがまったく繋がっていないこと、そもそもそれを言う状況がおかしいことが伝わるでしょうか。たぶん「空気が読めない」アスぺルガーの人だったと思うのですが、私のような軽度のADHDならともかく、こういう一目でわかるような人を適切な機関につながず、平気で底辺労働の世界に放流してしまう親や教師の神経を疑いますね。
 
 あと、ここでもやはり、「俺たち底辺だけど、明るく前向きに生きてんだぜ!仕事に誇り持ってんだぜ」の空気に触れたのですが、やっぱりそれにはどうしてもなじめませんでしたね。優しく丁寧に仕事を教えてくれる人もいたんですけど、どうしてもどこかで、お前らそれでいいのか、と思ってしまうんです。

 若いんだったら自分が上がることを考えるべきだし、歳食ってるなら、会社から権利を勝ち取ることを考えるべき。ただ、人には事情というものがあり、中々それが難しい状況なのもわかる。だったらせめて、態度で表していこうぜ、と。犯罪まで起こせとは言わないから、せめてすっげえつまんなそうに生きようぜ、と。俺は大事にしたいものなんか何もないんだ、お前らのせいでこうなったんだと、俺は可愛そうなんだ、だから同情しろよ、というのをもっと漂わせながら生きろよ、と。じゃねえと誰も気付かないぞ、上にいる奴らは、「アイツらはあれでいいんだ」と勘違いするぞ、何も気にしねえぞ、見て見ぬふりをしているだけだぞ、と。

 これが、当時の私が抱いていた、同じ底辺の非正規労働者への思いでした。自分が友達ができないことを棚に上げた勝手な考えなのはわかりますが、単純なリア充嫉妬とも違うとは思うんですよね。女がいる人は別ですが、そうじゃない、男だけで群れている人には、少なくとも嫉妬を感じたことはないのは確実にいえます。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 17

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修行者から教祖へ

 

 オウムを宗教化してから、麻原は次第にいち修行者ではなく、教祖として振る舞うようになっていきます。そのことをもっともよく表しているのが彼の呼び方で、オウム神仙の会時代にはまだ、人に対する尊称である「先生」と呼ばれていたものが、仏に対する尊称である「大師」となり、さらに他の幹部たちと区別するため、「尊師」と呼ばれるようになります。「真理の御霊 最聖」などと付くこともあり、普通の人がここまで大仰な呼ばれ方をすれば顔がこそばゆくなるでしょうが、麻原にはそういう羞恥心は一切なかったようです。

 外見にも、草創期のころの面影がなくなっていきます。伝説の空中浮揚の写真ではキリッと引き締まっていた麻原の身体に、でっぷりと脂肪が乗ってきたのはこの頃からのことです。本人は「悪いカルマを引き受けたせいでホルモンのバランスが崩れてしまった」などと言い訳していたようですが、逮捕後にはスッキリと痩せたことからもわかるように、体質的なものではなく、ただの食い過ぎによる肥満であったのは明らかです。麻原が信徒の前で「水中・エアー・タイト・サマディ」なる修行を披露した際、麻原は一週間、この日のために滝に打たれ、断食を続けてきたと言っていましたが、妻の知子からは「尊師はこの一週間、東京の事務所でステーキをパクパク食べていましたよ」と暴露されています。

 「水中・エアー・タイト・サマディ」とは、空気を遮断した三メートル四方の箱に入り、五日間もの間飲まず、食わず、排泄せず、呼吸や代謝などすべての肉体機能を停止させ、仮死状態のまま瞑想を行うという修行です。もちろん、「最聖」でもなんでもない、ただの肥満親父の麻原にそんな過酷な修行ができるわけもなく、「毒ガスが出た(防水シートを貼ったボンドから漏れた微量のガスで頭痛を引き起こしただけ)」などといって中止にするのですが、麻原はこの修行のために何百万という布施を信徒から集めていました。

 どうもこの頃から、オウムの修行内容は地道なヨーガを極めるものから、一目でそれとわかる、パフォーマンス的なものに変容していったようです。オカルト信者たちにより強く訴えかける目的もあったでしょうが、最大の理由は、麻原自身があまり修行をしなくなったことでしょう。麻原が唯一「あれだけは本物だった」と評価されるシャクティパットも、丹沢集中セミナーのころは、「一人ひとりが効果を実感できるまで何時間でもやる」というものだったのが、オウムが真理教となったころには、「一人十分、効果が出なくてもやめ(効果がでないのはグルへの信が足りないせい)」というものに変わってしまいました。もうこの頃には、修行により蓄えられるという神秘的なエネルギーがなくなっていたのでしょう。それでいながら、シャクティパット一回にかかるお金は、丹沢集中セミナーのころよりも増えて、五万円になっていました。本物の「超能力」を失った麻原は、派手なパフォーマンスによる見た目のインパクトで誤魔化しかなくなったということです。

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 信徒に崇められる

 
 教祖として君臨し始めてから、麻原は性格面も変わっていきました。丹沢集中セミナーのころに見られた高潔さやリーダーシップは影をひそめ、独裁的な権力を持った者に特有の傲慢さと猜疑心が目立つようになっていったのです。麻原の子供たちが施設の中を走り回るのを注意した信徒を竹刀で打擲するなど、理不尽な振る舞いをこの頃から見せていました。

 修行をしなくなり、読心術も失った麻原ですが、唯一残されてしまったのが、人を疑う心、猜疑心でした。信仰心が疑われる(と思い込んだ)信徒を追い詰めるときの麻原の決まり文句が「お前は○○のスパイだろう」というものでした。これは逮捕されるまでずっと続くのですが、麻原は何かあると必ず「スパイ」と決めつけるのです。実際にそれで煮え湯を飲まされた経験があったのかもしれませんが、本当に教義に自信があるなら、スパイが出ようが堂々としていればいいだけの話であり、疚しさの裏返しに他なりません。

 外見も性格もすっかり変わってしまった麻原ですが、なぜか麻原を神格化する風潮だけは、むしろ強まっていきました。そのことについては、日本人の「ブランド信仰」が多大に影響しているように思えます。

 日本人というのは男も女も「ブランド大好き」な民族です。服にも食べ物にもサブカルチャーにもいえますが、日本人は自分自身の頭で価値判断をせず、「友達が良いと言ってるから」「雑誌で良いと言ってるから」と、なにかといえば物の価値の評価を他人に依存します。大衆迎合を至上と考える「和を持って尊しとなす」の民族らしい傾向といえますが、その点、オウムの信者も典型的日本人でした。

 修行者から教祖へ、いや客観的にみて、ただの我儘な肥満親父に変わっていくだけの麻原が、なぜか逆に神格化されていったのは、「幹部の誰々さんが尊敬しているから」「私よりステージが上の誰々さんが凄いと言ってたから」と、他人の評価を自分の評価のように考える「ブランド信仰」が働いていた結果としか、私には思えません。

 麻原自身が、そのように誘導していったということもあります。あの空中浮揚の写真撮影の際も、麻原はどう考えても足の力でジャンプしただけの「空中浮揚」をやってのけた後、その場に居合わせた会員たちに、「おかしいなあ。前のときは一秒近く浮かんでたんだけどなあ。今日も確かに身体が軽くなって、ふわっと浮かんだ気がしたんだけど。みなさんはどう思いますか?」などと問いかけ、「落ちたとき、あまり音がしなかった」「すごいですよ、先生」などといった言葉を引き出しています。また、信徒の前で「最終解脱した」と宣言し、そのとき、最終解脱とはいかなるものかと問われて言葉に詰まったときに、「なあケイマ、私は最終解脱したんだよな?」などと、やはり自分の評価を他人の口から言わせています。

 オウムを真理教と改め、教祖となってからも、麻原は幹部会議で何かを決定する際には、必ず何人かの幹部に「これでいいよな」などと同意を求め、またその決定を一般の信徒に伝える際には、それを自分の口からは行わず、村井秀夫など幹部の口を通じて伝えさせています。

 「あの人がああ言ってるから、尊師は凄い――」

 こういう風潮が一度できてしまえばしめたものです。以前のように過酷な修行をせずとも信徒が勝手に崇めてくれ、またポカをやらかしても、思考停止状態になった信徒は、麻原を疑いもしません。毎日が楽になりましたが、入ってくるカネはどんどん増えていきます。

 こうした過程を経て、かつては純粋な修行者としての一面を持っていたはずの麻原は、俗物丸出しの貪欲な「怪物」に変貌していったのです。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 16

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 グルのクローン ”マンジュシュリー・ミトラ”村井秀夫

 今回はオウム事件当時にニュースを理解できる年齢であった方ならば、一度は名前を聞いたことがあるであろう有名幹部を紹介します。

 村井秀夫。入信から一度の蹉跌も味わうことなく出世を遂げ、最高幹部の証である正大師、最末期にはあの石井久子をも追い抜いて、事実上の№2にまで上り詰めた、幹部中の幹部です。報道番組にもよく出演し、その美声を生かしてオウムソングを歌ったりもしていましたから、オウム事件はよく知らなくても村井のことは知っているという方もいるでしょう。

 大阪大学大学院を卒業し、神戸製鋼に入社したエリート組の一人である村井は、教団では科学技術省の長官を務め、テロにも使われた化学兵器の製造の指揮を執っていました。最終的には、彼の部下にあたる土屋正実が作り上げたサリンが日本に未曾有の衝撃をもたらしたわけですが、当初において、科学技術省の前身である科学班は大きな成果をあげられず、表の№2である村井に対し、裏の№2といわれた早川紀代秀の建設班などに比べれば遅れを取り、麻原からも強い叱責を浴びていました。しかし、村井は早川よりも早く出世の階段を上り、早川が正悟師に上り詰めたのと同時期に、一段上の正大師に登っています。

 村井が早川とは違ったのは、麻原の忠実な「イエスマン」であろうとしたことです。会議の席で麻原に直接反対意見を述べることもあった早川と違い、村井は麻原の意見に絶対服従で、どれほど実現困難だと思える命令にも忠実に従いました。麻原自身が「これは難しいだろうな」というほどのアイデアでも「いえ、やります」と答えるなど、その姿勢は麻原に挑戦するかのようでもあったようです。

 しかし、実際には、彼が麻原の命で発明したのは、ドラム缶にパイプとつなげた洗面器をくっつけて呼吸器とし、自分でペダルを漕いで操縦する「潜水艦」(それを幹部の端本悟に運転させて失敗、沈没して地元のダイバーに救助される)などの珍妙なものばかりでした。真面目すぎるタイプだったのでしょう。

 いくら忠誠心があるといっても、ある程度能力も伴わなくては、出世の階段を登ることはできません。発明では、最後の最後、サリンを作り上げるまでは成果をあげられなかった村井でしたが、その代わりに大きな貢献をしていました。監視屋、密告屋としての仕事です。

 村井は、教祖として自己を神格化し、下々の信徒の前にあまり顔を出さなくなった麻原に代わり、信徒の行動、発言に目を光らせ、信仰心が疑われる信徒を見つけ次第、麻原にチクっていたそうです。行いがよくない信徒がいれば、大師の地位にある自分が直接注意をすればいいものを、わざわざ麻原の耳にまで入れていたのは、自分が評価され、ステージを上がるためでしょう。野心的な一面が垣間見えますが、もしかしたら「チクり」を純粋に「修行」と信じていたのかもしれません。

 オウムがマスコミに注目されるようになると、村井はテレビにも頻繁に登場するようになります。端正なマスクと美声に惹かれて入信した女性信者もいたことでしょう。同じスポークスマンとしては上祐史浩がいますが、時に激すこともあった上祐と違い、村井の場合はキャスターの挑発を浴びても冷静で、終始穏やかな口調を保つところは、宗教者として強い自覚があったのでしょう。

 オウムが引き起こした数々の事件に深く関わり、最末期には石井久子に代わって№2の座に君臨していた村井ですが、彼は麻原が逮捕される直前、暴漢によって命を奪われます。村井秀夫刺殺事件で検索すれば、今でも刺殺の瞬間の映像を見ることができます。犯人は在日系の暴力団員でしたが、その動機については、麻原の指令、幹部の裏切り、暴力団による謀殺など諸説あり、いまだにはっきりとしたことはわかっていません。オウム事件には暴力団の陰がちらついており、暴力団にタカられて資金難に陥っていたことが麻原の妄想、現実逃避を肥大させ、事件に繋がったという説もあるのですが、真相を解き明かすカギは、村井刺殺事件の犯人が握っている可能性は大きいでしょう。

 村井はオウム出家の理由について両親から尋ねられた際、「カモメのジョナサンを読んでください。あの本に私のすべてが書いてあります」と答えたそうです。カモメのジョナサンとは、食べることばかり考えている他のカモメと違い、「空を飛ぶ」ことに生まれた意味を見出そうとするジョナサンが、皆から変わり者と見做されて迫害されてしまうお話です。オウムに若者が集まった理由について、とにかく食うことを考えて生きてきた親世代と、高度成長期を終え、物質的な豊かさが満たされた世の中で、「生まれてきた意味」を探そうとする若者世代の考えの相違ということがあげられますが、それを証明する発言といえるかもしれません。普通の若者は、「反抗期」によって親とぶつかり合うことで溝を乗り越えていくものですが、機械とばかり戯れ、大人しく手のかからない子供だったという村井は、「出家」という方法でしか、親世代の考え方に反抗することができなかったのでしょうか。

 麻原からは、「饅頭」と、ホーリーネームをさらに仇名にして呼ばれるなど、村井は、麻原とは師と弟子を超えた特別な絆で結ばれていました。麻原が逮捕され、裁判で醜態を晒すのを見ることなく、最期まで麻原を信じて死んでいった村井。彼はすべてのカルマから解き放たれた理想郷「マハー・ニルヴァーナ」へと旅立つことはできたのでしょうか。


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 尊大なミニ麻原”マイトレーヤ”上祐史浩

 村井秀夫とならび、オウムで麻原に次ぐ有名人なのがこの人でしょう。

 早稲田大学大学院在籍中にオウムに入信した上祐は、修行をしながら大学院を修了し、宇宙開発事業団に入りましたが、その後すぐに出家。以後はトントン拍子に出世し、村井秀夫より二年も早い1992年に正大師に上り詰めました。

 坂本弁護士事件など、オウムの主要な事件に関与していない上祐がこれほど早い速度で出世の階段を上ったのは、”ああいえば上祐”で知られる、弁舌の才によるものでした。上祐はディベ-トの達人で、語彙も豊富で構築もうまく、時に麻原を言い負かすこともあったといいます。

 麻原に反対意見を述べることがあったのは早川紀代秀も同様ですが、最後の最後でやっと正悟師にのぼった早川と違い、上祐がオウム中期の段階で早くも正大師の座を射止めたのは、ただ反対するにしても、意見の説得力が全然違ったのでしょう。その弁舌の才はマスコミに対しても発揮され、時に煙に巻き、時に捻じ伏せるなど世間を散々に翻弄しましたが、一方であまりにも相手を言い負かそうとするあまり、和解の交渉などでは逆に決裂させてしまうこともあり、一説にはそれが坂本弁護士一家殺害事件に繋がったとの見方もあります。

 しかし、いくら有能な人物だったとしても、反対意見で麻原を言い負かすような上祐のことは、麻原も内心小面憎いと感じていたようで、教団が総選挙で惨敗し、武装化の道を歩むようになった矢先、上祐はロシア支部へと飛ばされてしまいました。ただ、麻原も感情的な理由で、正大師にまでした人間を遠くに追いやるような器の小さい男ではありません。上祐は英語が得意で、ニューヨーク支部の支部長を務めていたこともありますが、ロシア支部長就任は単なる左遷ではなく、上祐を海外進出の尖兵として利用しようという前向きな方針でもあったでしょう。上祐自身は、極寒のロシアに飛ばされて気落ちしているかと思えば、足を組んで座りながら部下を顎で使うなど、「ミニ麻原」ともいえる尊大な態度で振る舞っていたようで、案外、好き勝手にできる環境を楽しんでいたのかもしれません。

 地下鉄サリン事件ののちに日本に呼び戻され、またテレビの前で得意の弁舌を振るうようになった上祐は、重大犯罪が立て続けに起こった最末期に海外にいたことが幸いしてか、男性幹部の中では異常なほど軽い刑に服しただけで出所しました。これは私の憶測ですが、彼は多くの事件を「目こぼし」してもらう代わりに、出所後に教団をコントロールする役割を、当局に与えられていたのではないでしょうか。上祐出所後、教団は麻原崇拝を続ける「アーレフ」と、上祐自身が代表者を務め、麻原からは脱却し修行だけを続ける「光の輪」の二つに分派し、弱体化が進み、現在まで世間を揺るがすような事件は起こっていません。社会に向かうエネルギーを内部抗争に注がせるよう仕向け、分断工作を図るのは、戦国時代に大名や庶民を散々悩ませた本願寺に対し、かの徳川家康が打った策でもあります。真相は本人のみが知るところで、おそらくそれが語られることはないでしょうが・・・。 
 
 教団のスポークスマンとして頻繁にテレビに出演していた上祐には、「上祐ギャル」などというおっかけが存在しました。私はあまりピンと来ないのですが、彼のルックスは当時の女性に受けていたようです。上祐の恋人、都沢和子も上祐とともに出家し、上祐は都沢と別れ、都沢は麻原の愛人の一人になったそうですが、「寿町男子」「代ゼミ中退」の麻原が、早稲田卒のモテ男の女を奪たい取った快感はいかなるものだったでしょうか・・・。
 

私小説の続き2 貯金使い果たし バイト再開

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私の人生について続きを書いていきます。

 晴れて禁煙を達成し、免許を取得した私ですが、その後が続きませんでした。私小説の中で、裏稼業をして稼ごうとしていたことを書きましたが、実際、具体的なノウハウなどは何もありませんでした。その筋の知り合いがいるわけでもありません。最初から土台無理だったわけですが、バカな私は気分だけでもその気になろうと、スタンガンや催涙スプレーなどの防犯グッズ、またトバシの携帯などを、ネットで知り合った人物から買ってしまいました。

 また、依頼が来た時には仕事を確実にこなそうと、ADHDの唯一の特効薬、リタリンを購入していました。リタリンはアメリカではADHDにも処方される薬ですが、覚せい剤に含まれる成分があり、鼻の粘膜から摂取するなど、摂取方法によっては依存性があることから、日本ではナルコレプシーという睡眠障害のある人にしか処方されません。私が購入した時は、二十錠で五万という値段だったのですが、これは闇医者から購入した場合の相場に近く、売人から買うときは百錠で五万程度で入手できるそうです。ようするに吹っかけられたわけで、こんな甘ちゃん、アホが裏社会で通用するわけがないのです。

 アホなうえに無能な私は、裏稼業の宣伝のためのホームページひとつつくることもできませんでした。警察にはネットの犯罪を取り締まるサイバー科という部署があり、ホームページなどを作っても、自分から警察に捕まえてくださいと言っているようなもので、ようするに世界中にバカを晒しているだけなのですが、当時の私にはそんなこともわかりませんでした。ただ、無能が幸いしてホームページ作りに苦慮している間に、私は裏稼業に手を染めることを思いとどまることができました。自分の今の立場が案外と恵まれていることに気が付き、逮捕などされてこの環境を失うことが怖くなったのです。

 父親はゼネコンの社員、母は薬剤師の私の家庭の経済力は、日本人の平均から見て、中の中といったところにあると思われます。稼ぎ頭の父親はバブル世代の少し前ですが、派手に遊ばず、むしろ吝嗇でしたから、家に入ってくるお金は中の中よりもう少しあったかもしれません。

 ようするに、二十二の息子が学校に入りたいといえば、その学費と学校に通っている間の小遣いくらいは出してくれる余地はあるということです。私はこのときから、専門学校――以前のような、先行きの保証がない映画の専門学校ではなく、きちんと地に足を付けた、実のある資格を取れる学校に通うことを、近い将来の目標に定めるようになりました。

 しかし、そう考え始めたときにはすでに年度が変わってしまっており、すぐの入学は叶わない状況でした。入学にはあと一年余りの猶予があります。バカな私は、トバシの携帯や薬などのくだらないもを買ったり、お菓子などを買っているうちに、二月の頭に免許を取得した時点でまだ45万ほど残っていた貯金を、四月の終わりにはほとんど使い果たしてしまっていました。お金がなくては行動範囲は大幅に制限され、電車に乗って繁華街に出かけることもできません。そこで私は、あれほど嫌っていた底辺バイトの世界に、再び足を踏み入れることにしました。

 選んだのは牛丼屋。とくに有名な三店の中で、唯一食券制度を採用しているお店です。全メニューに味噌汁がついてくるお店です。面倒くさいから特定します、松屋です。

 食券制度に関しては、強盗に何度も入られているすき家でこそ採用するべきではないかとそこかしこで言われていますね。すき家側では、「お客様との触れ合いが云々」と語っていますが、強盗が出るかもしれない怖い店で、客と店員の触れ合いも糞もあったものではありません。そもそもワンオペで死ぬ思いをしている店員に、触れ合いの強要をさせるのは申し訳ない気持ちになってしまいます。一番信憑性があるのは、頻繁なメニュー変更に対応するコストと手間を惜しんでいるというものです。多分それが真相でしょう。

 さて、食券制度を採用していること、深夜勤務は必ず二名以上の体制で行っていることから、すき家よりもマシと見られている松屋ですが、実際のところどうだったのかをこれから語っていきます。

 私が勤めていたのは、横浜市にある関東最大の高層ビルの近く、警備員時代の職場からも歩いて二十分ほどの場所にあるお店でした。警備の経験もあり、私は深夜勤を希望したのですが、店長からは、はじめは夕方の勤務を命ぜられました。深夜勤のメインは掃除、片づけということになるのですが、接客、調理も当然のごとくあります。しかし、深夜は客が少ないため、まずは最も掻き入れ時のゴールデンタイムに入って、基本の調理、接客を覚えてほしいということです。エネルギー問題や労働の長時間化という観点からいえば深夜営業の是非も問題にしなくてはならないところですが、それはさておき、店長の話す理屈自体は筋が通っていますから、私は納得しました。

 しかし、私は早くも挫折を味わいます。まず、伊勢佐木屋警備隊のぬるい勤務に慣れきった私には、仕事中ずっと立ちっぱなし、動きっぱなしで、頭の回転と手先の器用さを要求される飲食の仕事はあまりにもハードでした。ミスを繰り返す私に、店長らは怒ったりはしなかったのですが、爆発寸前にはなっていたでしょう。

 人間関係では、ベテランのおばちゃん連中は陰険そうな雰囲気は苦手でしたが、特にぶつかることはありませんでした。また、土地柄から中国の留学生が何人かいたのですが、彼らは皆気さくで、拙い日本語で、仕事も熱心に教えてくれました。「反日教育」なんて本当にあるのか?とこのときは思ったくらいです。

 厄介だったのは、若い女子社員との勤務でした。二十四、五で、当時の私より少し上くらいだったと思うのですが、彼女と勤務するとき、私はいつも惨めな気持ちになったのです。今からすれば、ブラック飲食の正社員など、よほど好きでやっているわけでもない限り、ライフワークバランスの観点からいえば底辺フリーターとそう変わるものでもないとも思えますが、当時、正社員という肩書だけで崇高なものと考えてしまっていた私からすれば、歳のそう変わらない女性から常に見下されているように感じられ、惨めな気持ちになったのです。

 特にひどかったのは、現役の大学生バイトと、彼女が談笑しているのを見てしまったときでした。何かフリーターの私が蚊帳の外に置かれているようで、なんとも肩身が狭い思いがしたのです。彼女はさして美人ではなく、寸胴のおっかさん体型の、どこにでもいる普通ランクの女性だったのですが、常連の読者様は知ってのとおり、むしろそうした容姿レベルの女性が、自分より社会的地位やルックスが上の男と仲良くしていると強く嫉妬を感じる性格なのが私という男です。「ほかにいくららでもいい女をゲットできるのに、俺の獲物を持っていくな!」という感覚なんですよね。

 ただ、私とて、もう一年経てば専門学校に入り直し、正社員を目指して勉強しようという男です。そのときは「今に見てろ」といったもので、今はとにかくこの苦痛から早くのがれ、とりあえずは同じ底辺フリーターに囲まれて惨めな思いをしなくてすむ深夜勤に移り、じっくりと希望ある世界に飛び立つ日に備えようと誓う気概を持っていました。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 15

てんり



 ”真理教”の誕生

 1987年から、オウムはいよいよ団体の名称を「真理教」と改めます。

 この名称の構想自体は、まだオウムが一介のヨーガサークルに過ぎなかった1985年当時からあったようです。ある時、とある探偵事務所を訪れた麻原は、探偵に奈良県の天理市の調査を依頼しました。天理市とは、江戸時代末期に中山みきが起こした天理教の本拠地で、信者が寄り集まって生活している地域が戦後の市制でそのまま市として認められたものです。

 天理教の信者は見た目には一般の人と何ら変わりはなく、法を守り、税を納めてちゃんと仕事や学業をして生活しており、道にタバコの吸い殻などが落ちていれば率先して拾うような平和的な人たちです。天理教を信仰していない人を差別したり、国家に仇なすようなところはまったく見受けられません。しかし、病院や学校にも天理の名が冠せられ、市議会議員も天理教の信者から出ているようなところを見て、それを一種の「独立王国」のように錯覚したのか、麻原は天理市に深い関心を示し、調査に乗り出したのです。

 天理教は非常に平和な団体で、天理市の実態は、後に麻原が打ち出した「シャンバラ化計画」などとは大いに異なるものですが、ヒントにはなったのでしょう。調査を終えた探偵が提示した資料の内容に多いに満足した麻原は、その探偵に、「私も宗教団体を開こうと思っているのですが、何かいい名称はありますかね?」と問いかけました。探偵が一種の言葉遊びで、「あんり、いんり、うんり・・・」と、「てんり」の頭の文字を順番に入れ替えて言っていると、サ行の一文字のところで、麻原の目が光りました。

「しんりですか。いいですね」

 こうして、”真理教”の名前が決まったというのが、真相ということだそうです。麻原はこれを隠し、命名の由来について信徒には、「シヴァ神のお告げ」と言っていました。

 ちなみに麻原は探偵に払う調査料二十万を、前金の二万円だけを入れてバックれ、結局最後まで払わなかったそうです。

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 オウムの教義

 
 オウムの教義については、これから起こる事件の中で少しづつ触れていこうと思いますが、まず大前提となる部分だけざっと書いておきます。

 オウムの教義については、チベット密教やヒンドゥー教、大乗、小乗の仏教の都合のいいところばかりを集めたいい加減なものとして批判されますが、この批判にはおかしなところがあります。

 もともと、日本の国教は神道でしたが、聖徳太子の時代に仏教が伝来し、仏教を重んじようという崇仏派と、我が国独自の神道を重んじようという廃仏派の間で戦争が起こりました。結果、崇仏派が勝利し、仏教は神道を駆逐して日本に広まったわけですが、そのうちに「仏教と神道はそもそも同じものである」という考えが一般的になってきました。「神仏習合」という思想です。仏教の解釈に神道をミックスしたり、祭事において仏様と神様を同時に祀るということは、昔から行われていたのです。ヒンドゥー教の本場インドにおいては、仏教はヒンドゥー教の一派であるとの見方がなされています。

 このように、仏教は一神教のキリスト教やイスラム教と違い、他宗との合一を図りやすい性質を持っているのです。仏教をベースにしたオウムが、ヒンドゥー教や、仏教の一派であるチベット密教などを取り入れたところで、特別にデタラメなことをやっているわけではないのです。

 また、麻原はその発言の中で、オウムの教義が必ずしもオリジナリティを重視していないことを語っています。むしろ、既存の宗教を十分尊重したうえで、習うべきところを習い、より高みを目指していこうという姿勢であり、他宗の存在を一切認めんとする今のイスラムの過激派や、昔のキリストの十字軍などよりも柔軟であるともいえるでしょう。自分より優れていると認めた人物には素直に学べる、教祖の麻原の性格を反映しているともいえます。

 麻原は実に様々な宗教を学び、その宗教的知識に関しては専門家も認めるほどですが、ただ、教義の解釈に関しては、かなり強く捻じ曲げられているところがあるということです。特に、殺人を肯定するヴァジラヤーナの教えについては、麻原個人の意向が濃厚に反映されており、麻原がその目的のために都合よく論理を組み替えたとしか思えないところがあります。
 
 麻原は自らが高い宗教的知識を極めるとともに、信徒に対し、オウム以外の宗教を学ぶことを禁じていました。他宗の知識を自らが独占していることで、他宗の解釈を捻じ曲げていることに気づかせないようにしていたのです。論理の構築力以外に、情報の統制という面でも、麻原は巧みでした。


せいし



 ”イニシエーション”の始まり 

 宗教色を強めることによって信徒を振るいにかけた麻原は、オウムに残った信徒から、ありとあらゆる手段を使ってお金をむしり取っていきます。

 オウムは教義を過激化させるにつれ、信者に出家を迫る傾向が強くなっていきますが、初期のオウムについては、在家での修行を出家と同等に尊重する態度を取っていました。他ならぬ教祖の麻原自身が在家の修行者であった立場上、出家と在家の格差を安易に大きくするわけにもいかなかった事情があったのでしょう。しかし、出家を在家よりも至上のものとする風潮が強くなるのは止められず、また、意外に信徒は、在家の麻原が出家信者を従えている構図に疑問を持っていないことに気づいたのでしょう、麻原は次第に出家主義へと転換していくようになります。国家と対決姿勢を表し、テロ行為を繰り返すようになった教団には、一人でも多くの「戦闘員」が欲しかったということもあったかもしれません。

 しかし、先にも述べました通り、当初においては麻原は、在家の修行を出家と同等に重んじていました。それにはもしかすると、信徒を出家よりも在家に留めておいた方が、布施を集めるにおいて効率がよかったということもあるかもしれません。麻原は出家信者からは、お弁当屋さんやパソコンショップなどの販売活動をさせることにより教団の資金獲得に貢献させていましたが、在家の信徒には、俗世で労働などをして得たお金で、教団が販売するオカルトグッズを買わせることで教団に利益をもたらさせていました。「イニシエーション」が始まったのです。

 良く知られているのは、「血のイニシエーション」に始まる、麻原の肉体の一部を売りつけるものでしょう。血のイニシエーションでは一応、信者の前で自ら注射で採血してみせたようです。これがうまくいくと、今度は自分の風呂の残り湯を飲ませるようになり、入浴時に陰毛が抜けると「ご宝髪」などとして、ごはんに振り掛けて食べさせていました。果ては、人妻に精液まで飲ませていたとか。

 風俗嬢の聖水でさえ精々二千、三千円なのを考えれば、麻原のような汚らしいオッサンの陰毛や残り湯などを十万、二十万で売るなどはとんでもない話です。精子については精子バンクがありますが、精子バンクには細かい規定があり、ハーバードなどの名門大学に在籍しており、容姿端麗でスポーツ万能、二十代前半の若くイキのいい精子でないと値段がつかないのに、最終学歴が「代々木ゼミナール中退」で、見た目は「寿町男子」、スポーツはかつては柔道二段で、蓮華座のまま四十センチ近くジャンプできる筋力があるも、今はただの「メタボ親父」の麻原の精子が何十万もするなど、許されないことといえるでしょう。自分のスペックも鑑みず、そんなものを平然と売りつけられてしまう麻原の神経はやはり並ではありません。

 他にも麻原は、自分のマントラが録音されたテープや、瞑想法のノウハウが書かれた秘伝の書、インドの路上で販売されているような粗雑な作りの像などを、何十万もの値段で信徒に売りつけます。原資がほとんどかからないものを高額で売りつけることが、教団にどれだけの利益を齎していたかは、いちいち詳細なデータを出して計算するまでもないことでしょう。霊感商法の開始により、教団の資金力は一気に膨れ上がっていったのです。

プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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