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私小説後の人生1  禁煙と免許取得

 私小説最終話で、警備隊をやめたくだりから話していきます。

 警備隊をやめた私はまず、かねてから必要性を感じていた禁煙に挑戦しました。タバコの値段がひと箱400円近くまで上がったころのことで、ひと月に一万円近くのお金がかかっており、収入が途絶えた私には、このタイミングで是非とも取り組まなくてはならないところでした。

 最近は病院に行ってやめる人が多いようですが、当時の私は喫煙歴四年程度で、まだ身体の隅までニコチンに侵されていたわけではなく、ちょうど仕事も辞めてストレスもないときだったので、いわゆる「根性禁煙」の方法を選びました。根性といっても修行僧のようにひたすら苦痛に耐えるというのではなく、一日中をゲーム三昧で過ごし、不快感を紛らわせてそのうちにやめるという作戦です。

 様々なゲームを試しました。まず、第三帝国興亡記という、第二次世界大戦中のドイツを率いて欧州制覇を目指す戦略シミュレーションゲーム。近年のヌルゲー化の流れに真っ向から逆らうようなシビアさと、カッコいいBGMが魅力の、隠れた名作です。「いない方がマシ」レベルだったフランスが結構やる時点で難しく、ソ連の手ごわさは史実を遥かに凌駕するもので、シナリオの最大の山場となっています。その過酷な独ソ戦をクリアして、グデーリアン・マンシュタイン・ロンメルら名将勢ぞろいでイギリス本土上陸作戦「ゼーレーヴェ」を敢行するときは、BGMも相まって、大戦を同じ枢軸側で戦った国の民として非常に感慨深いものがありました。

 続いて、「エイジオブエンパイア2」。アメリカの有名なシミュレーションゲームですが、中世が舞台とあってモンゴルが超強い。エリート・マングダイを作れるまで生き残っていればクリアしたも同然で、ゲームバランスが崩壊していますが、当時のモンゴルの脅威をよく表現しているともいえます。聖職者で金を集めたもの勝ちなのは、いちはやく貨幣経済を発達させた国家が栄えたのと置き換えて楽しみました。シンプルだけに色々脳内補完の余地があるのはいいところです。ただ遠投投石機はいらないかな・・せっかく大阪城みたいなカッコいい難攻不落の要塞を作ってもあれのせいで意味なくなってしまう。テクノロジーを個別に禁止にできるシステムがほしかった・・。

 そしてバイオハザード。主に4以前のおつかいゲー時代の作品をプレイしました。コードベロニカでSランクを出したり、リメイク1でインビジブルモードをクリアしたりなど結構やり込みました。バイオハザードのBGMは大好きで、昔はよく作業用に聞いていたのですが、ベストはアレクシア第二形態のダークサイドクロニクル版かな。10歳から20歳の一番需要がある時期を冷凍保存されたまま過ごし、ようやく蘇ったとおもったらわけのわからないマッチョに殺されるかわいそうな少女です・・・。

 あとポケモンのDPもやった気がするのですが、このときはなぜかそれほど嵌りませんでした。PTに比べてもっさり戦闘でストレスがたまるということですがそれが原因だったのでしょうか。

 それらのゲームを助けにタバコをやめることはできたのですが、最初の三日間は大変でした。なにか大事なものが自分の身体に存在しない感じで、気が付くと指にお箸など細いものを挟んでスーハ―スーハ―やっている有様で、この苦しみからいつ解放されるのか、永遠に解放されないのではないかと不安になったものですが、三日間を過ぎると嘘みたいに楽になり、一週間も経つと、タバコが吸いたい欲求は七割がた消失していました。

 たかだか一週間の努力を怠って(そもそも吸い始めたのが間違い)、今まで毎月一万もの金を落としていたのかと複雑な気持ちになったものですが、何かに依存しない生活は快適でした。今まではどうしても、何十分かに一本、タバコを吸わなければならないという行動に縛られて生きていたのがなくなったのです。たかが葉っぱに支配される人生から解放されたのです。

 タバコというのは百害あって一利なしといいますが本当にその通りで、吸ったところで気持ちよくなるわけでもなく、精神に何の幸福も齎しません。吸っておいしいと思うのは、ただヤニ切れの不快感が消えただけ。喫煙とはいわば、マイナスの状態に自分から足を突っ込んで、高いカネを払ってひたすらマイナスを埋める作業をしているだけの空しい行為であることを、タバコをやめて初めて知ることができました。

 無事に禁煙を達成するとすぐ、運転免許を取得すべく教習所に通いはじめました。自動車学校の教官には横柄な人間が多いと評判ですが私のときも確かにそんな感じはありました。JRと同じで、生活に必要なものだから黙っていても来るだろうとサービス精神は希薄になるのかもしれませんが、若者の車離れが言われる時代、いつまでもああいう態度では次第に彼らのクビも危なくなるでしょうね・・。あとは激務薄給のタクシードライバーにでもなるしかなくなるでしょう。教官の指名制度などがありましたが、ああいうのはサービス向上にも役立つでしょうし続けてほしいところです。免許自体は、試験にもほとんど落ちずに取得でき、禁煙と合わせて、この時期の大きな収穫でした。

 私生活では、この時期には自宅の建て直しで、二駅離れた近所のマンションに一時引っ越しをしていました。折茂からの連絡を無視するにあたり、私は折茂が自宅にまで押しかけてくるのではないかと危惧していたのですが、もしかすると、実際には折茂は自宅まで来ていたのかもしれません。そこで更地になった私の家を見て諦めた可能性はあります。

 ただ、私のわかっている範囲のみでいえば、折茂からは二回電話がかかってきただけで、「鬼メール」などはなく、別れは本当にアッサリしたものでした。折茂と離れられて安心した反面、これほどアッサリ私を解放してくれるなら、一緒にいた時期になぜあれほど執着してきたのかと疑問に思ったものです。私の方が、小説を書けるほど折茂のことをよく覚えていることを考えれば、私の方が執念深さは上かとも思えるほどです。

 彼が執着していたのは、塩村ら周りの人に、自分が嫌われていないのを証明することだけだったのかもしれません。だから伊勢佐木屋警備隊がなくなってしまったら、私のことなどはどうでもよかったと。それだけのためにあそこまでできてしまうのも凄いですが。
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犯罪者名鑑 麻原彰晃 14

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 人民寺院 ジム・ジョーンズ
(1931~1978)

 オウムを宗教化していくにあたり、麻原が大きな影響を受けたであろうアメリカのカルト集団について考察していきます。

 ジョーンズは、白人至上主義者の父と、反対に黒人愛護者の母の子として産まれました。父はジョーンズが幼いころに家を出ていったため、ジョーンズは母の影響を強く受け、幼いころから聖書に親しみ、成人してからは聖職者の道を歩み始めます。

 若い頃のジョーンズは、正真正銘の聖人でした。貧しい黒人が住むゲットーで、差別主義者の弾圧を受けながらも布教、慈善の活動を続け、多くの人の心を救ったのです。このまま生涯を終わっていれば、ジョーンズはキング牧師やマルコムXのように、道徳の教科書に載ってもおかしくはありませんでした。

 しかし、ジョーンズが次第に共産主義に傾倒し、共産主義活動家としての色を強めていくようになると、雲行きが怪しくなっていきます。反資本主義のアジ演説をぶつなど過激な面が垣間見えるようになり、暴力事件にも発展します。また、ジョーンズが主催していた人民寺院において、ジョーンズが多数の女性を囲っていることや、インチキ霊感商法で多額の金を集めていること、信徒に強制労働を行わせているなどの実態が暴かれ、マスコミからも批判の声が上がるようになりました。

 麻原も当初は牧歌的なヨーガサークルの主宰者にすぎず、熱心にヨーガの修行をし、他人のためを思い「菩薩行」を実践していた時期もありました。活動の当初において真っ当だった人物が、組織が大きくなるにつれ我欲を肥大させ、横暴になっていく現象は世界に共通してあるようで、やはり「権力が人を狂わせる」ということはあるようです。

 オウムや麻原にもいえるのですが、宗教団体や宗教家は、社会に批判されると、かえって頑なになり、主張をより過激にしていく傾向があります。ジョーンズはこの社会は腐っている、自らが本当の理想郷を築くしかないと宣言し、南米ガイアナに広大な土地を購入、そこを「ジョーンズタウン」と名付け、信徒数千名とともに移住します。

 黒人など、国家から差別を受け、貧困に苦しむ人を救った真の理想郷ともみられていたジョーンズタウンですが、マスコミの調べにより、本当はそこが北朝鮮と同じこの世の地獄であったことが明らかになっていきます。信徒たちはロクな食べ物も与えられず不衛生な生活を強いられる一方、ジョーンズと側近は権力を欲しいままにし、既婚者を引き剥がして妻を奪い取る、逃亡者にリンチを加えるなどの横暴を働いていました。また、麻薬の使用や軍事訓練を行っていたことなども明らかになっています。

 事態を重くみた米国政府は、議員を派遣し教団の本格的な調査に乗り出しました。派遣されたライアン議員は、そこで接したジョーンズの不安定な精神状態や、十数名もの老人が狭い小屋にすし詰めにされ死を待っているなどの光景を目にし、本国へ報告しようと飛行機に乗り込もうとしますが、ジョーンズは帰国しようとするライアン議員を配下に襲撃させ殺害します。

 その直後、ジョーンズは信徒たちに毒物を飲んで死ぬように命じました。命令に従わない信徒も幹部によって強制的に毒物を注射され、合計で914名もの人が命を落としました。この数は戦争ではない事件によって亡くなった人の数としては世界最多の記録として今も残っています。

 オウムのサティアン強制捜査の際、警察が恐れたのは、人民寺院同様、麻原が多数の信徒を巻き添えに自殺するのではないかということでした。だからこそ、慎重にも慎重を期して乗り込んだわけですが、幸いといっていいのかわかりませんが、麻原は信徒のことなどそっちのけで札束を握りしめて震えているだけで、犠牲になる信徒は出ませんでした・・・。


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 マンソン・ファミリー チャールズ・マンソン
 (1934~) 

 ジム・ジョーンズとほぼ同じ世代で、彼の活動も麻原には多大な影響を与えたものと思われます。

 マンソンを産んだのは売春婦の母親で、彼は産まれて数か月が経つまで名前も与えられず、ほったらかされたまま大きくなったそうです。普通の子供が学校に通っている間、彼は盗みなど悪さばかりを働き、三十歳ごろまで、人生の半分以上の月日を、少年院や刑務所で過ごしました。今でこそ教育のプログラムも充実した少年院ですが、昔はただの隔離施設のようなもので、マンソンは成人してからも読み書きが満足にできなかったようです。

 この点、熱心な読書家であり、宗教以外の知識にもそれなりに長けていた麻原とは相違していますが、マンソンには麻原にはない、人を惹きつける魅力がありました。ルックスと音楽です。

 60年代はヒッピーの最盛期で、顔立ちが整ったマンソンが、長髪に髭、貧乏くさい服装で道を歩くと、若い娘がわっと寄ってきたといいます。麻原も「常人離れ」した容姿ではありますが、それは嫌悪感や不潔感も含むもので、マンソンのようにアイドル的なカッコよさ(対象が下層階級限定としても)ではありませんでした。

 そして歌ですが、彼が目指したビートルズを超えられるほどの代物ではなかったものの、レコーディング・デビューを狙えるだけの水準にはあったようで、後にはマリリン・マンソンなどのミュージシャンにカヴァーされています。

 昔の日本で、庶民の教材で最適のものは「平家物語」など琵琶法師の弾き語りと言われたように、読み書きが満足にできない層に対しては、大層な能書きを垂れるよりも「リズム」で覚えさせるのがもっとも高い教育効果を生みます。麻原も尊師マーチなど歌による布教を行いましたが、マンソンに倣ったのかもしれません。オウムのようにエリートをだまくらかすことはできませんでしたが、マンソンは音楽によって下層階級の信徒を増やし、巨大なファミリーを形成していったのです。

 はじめはキャンピングカーなどで寝起きをしていたマンソン・ファミリーですが、所帯が大きくなってくると、大地主に取り入り、下半身のご奉仕をしてあげるのと引き換えに、牧場に住まわせてもらうようになります。ビートルズを超えるミュージシャンになることを夢見てレコーディング・デビューを狙うマンソンでしたが、レコード会社との話は中々まとまらず、彼が造った異様な集団だけが大きくなっていきます。ファミリーの生活は、廃棄された食料品を譲り受けたり、自動車泥棒をすることで賄われていましたが、金銭的にはいつもカツカツでした。

 そのうちに、麻薬やLSDなどの幻覚剤を用いるようになったマンソンは、妄想を肥大させていきます。近い将来、黒人が白人に対する戦争「ヘルタースケルター」を仕掛け、黒人が勝利する。しかし、黒人には統治能力がないためマンソンが台頭し、世界の王になる、という、まさに麻原が唱えたハルマゲドンと同じ、荒唐無稽な予言を唱え始めたのです。

 マンソンは暇を持て余したファミリーに、来るべきへルター・スケルターに備えて戦闘訓練をさせるなど過激化していきます。しかし、当然の如くへルター・スケルターなど起こるはずはなく、ファミリーは暴力衝動のはけ口を、犯罪に求めるようになっていきます。

 マンソン・ファミリーの暴走が始まりました。強盗目的で薬の売人を殺害したのを皮切りに、新進女優のシャロン・テートを、家の使用人にぞんざいな扱いを受けたという一方的な逆恨みにより殺害、スーパーのオーナーを強盗目的で殺害と、凶悪犯罪を繰り返していきます。

 最後には警察によりファミリーごと一網打尽にされたマンソンは、終身刑の判決を受け、今なお服役中です。逮捕によってますます神格化された感があり、現在も彼を崇拝するアメリカ人は多いのだとか。

 
 薬物の使用、軍事訓練、共同体の形成など、オウムとマンソン・ファミリー、人民寺院は数多くの共通点が見られます。熱心な勉強家であった麻原が、彼らを参考にして教団を組織、運営していたことは間違いないでしょう。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 13

 第三章 「ポア」の始まり~オウムの宗教化と最初の殺人について

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 信徒を振るいにかける


 オウムが宗教色を強めていくにつれ、脱会者が後を絶たないようになっていきます。日本人がカルト宗教を警戒するようになったのはオウム以降と思われがちですが、当時からカルトを危険視する風潮は強かったということです。

 日本という国は、世界でも類を見ないほど、宗教熱が低い国です。今、イスラムの過激派が世界情勢を緊迫させているなど、世界がいまだに宗教問題に悩まされているのに比べ、日本はその面に関しては実に平和な国なのです。

 作家の井沢元彦氏は、そうなったのは戦国時代、織田信長が日本から宗教テロを根絶させたからだという説を唱えています。当時の寺社は政治と深く結びついて様々な利権を握っており、蓄えた財で武装して、大名や庶民の生活を圧迫していました。今のイスラム国のような組織が日本中に跋扈していたということです。凡百の大名が神仏の祟りを恐れて宗教勢力に及び腰だったのに対し、信長一人が己の政治理念を実現するため寺社勢力と徹底的に争い、寺社の武装解除を実現して政治と切り離し、寺社勢力を無害なものに変えたのです。

 ただ、日本の宗教団体が「葬式仏教」などと揶揄されるほど骨抜きになったのもいいことばかりではありませんでした。オウムのマインドコントロールは強力で、抜け出すためにはまず、依存の対象を安全な仏教などに移し替えることが手っ取り早いのですが、オウムが解散した後、信者救済に乗り出したお寺、神社は驚くほど少なかったのです。その結果、いまだにオウムの洗脳が解けない人がおり、麻原崇拝のアレフが存続する結果となってしまっているのです。「葬式が仕事だから関係ねーよ」という考えだったのかもしれませんが、宗教団体の基本姿勢とは無償の奉仕ではないでしょうか。織田信長の改革にとって宗教団体があまりに覇気をなくしたため、いざオウムのような強烈なカルトが現れたとき、「宗教で宗教を制する」ことができなくなった。織田信長の改革は日本人に大きな恩恵を齎しましたが、功罪の「罪」とまでは言えなくても、弊害のような面も多少はあったということです。

 そもそも、宗教色を強めて以降のオウムが人を集めたのは、やる気がない日本の仏教と違い、オウムなら本当の修行ができるという魅力があったからでした。反対に、織田信長と争った本願寺が大勢力となったのは、敷居が高い従来の仏教に比べ、念仏だけを唱えていれば浄土にいけるという気軽さからであり、人は常にないものを求める証明といえるかもしれません。

 さて、脱会者が相次いだことを受けての麻原ですが、本人はそのことをまるで気にしておらず、むしろ阿含宗や創価学会と掛け持ちで入信していた信徒が抜けたことで、「これでうちの修行内容が外にもれなくてすむ」と喜んでいたようです。おそらく麻原には、このタイミングで信徒をふるいにかける意図があったのでしょう。逆に、ここで残った信徒には何を要求しても大丈夫と判断した麻原は、修行内容をさらに過激にし、高額なイニシエーションでとんでもないカネをふんだくっていくようになるのです。

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 神仙の会時代はまだ牧歌的な雰囲気


 オウムが胡散臭さを増していく中で信徒が残ったのは、神仙の会時代の麻原にはまだ、修行により身に着けた不思議な力が濃厚に残っていたからでしょう。

 あるとき、一人の信徒が失敗を起こしたとき、麻原はその信徒を激しく叱りました。取るに足らないようなミスであったのですが、説教は六時間にも及び、信徒の心は疲弊し、脱会を考えたようです。

 三日三晩、食事ものどに通らぬほど悩み苦しんだ信徒ですが、最後には麻原を信じてオウムに残る決断をしました。そのときの感覚は得も言われぬ素晴らしいものだったといいます。そして、その決断を下したまさにその瞬間、なんと麻原から電話がかかってきて、「どうだ、いいもんだろう」という言葉を受け取ったというのです。

 そもそも、麻原がその信徒に厳しく接したのは、信徒にあえてオウムへの不信感を抱かせることにより信徒を自我と対決させ、煩悩を捨てさせるためでした。当時の麻原は信徒に対し、そんなリスクの高い修行を仕掛けられるだけの高い行者的な能力があり、また自分が修行を仕掛けたことにより、信徒がどのような心の動きをするかということまで的確に察知する超能力があったのです。

 また、シヴァの化身とか最終解脱者として傲慢に振る舞うようになった後の麻原と違い、当時の麻原は信徒一人ひとりに気さくに声をかけるなど腰が低く、お風呂に入るときにはいつもアヒルの人形を湯船に浮かべるなど幼児性のある一面を見せていました。当時のオウムにはまだ、そんな牧歌的な雰囲気が漂っており、信徒も警戒心を抱かなかったのです。

 もっとも、最末期の麻原も、出家教徒には厳しかったようですが、洗脳の浅い在家の信徒には優しく、「私も俗世にいたころはパチンコが好きでねえ」などと言って庶民派をアピールするなどして信徒を和ませていたようです。冒頭で触れた織田信長も、秀吉や明智光秀など軍団長クラスにはとても厳しかった一方、下級武士や、秀吉の妻ねねさんなどの女房連中、また税を納めてくれる庶民には優しかったという話で、大組織を総べるものにはある程度共通する姿勢なのかもしれません。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 12

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 宗教法人認可へ動く

 
 オウムの会設立から二年経った1986年、麻原は会の名称を「オウム神仙の会」と改め、いよいよ宗教色を前面に押し出していきます。同時に麻原は、宗教法人認可のための努力を始めました。

 「坊主丸儲け」という言葉が表すように、宗教法人はあらゆる課税を免れる特権です。オウムでいえば弁当屋さんやパソコンショップなど、営利目的の行為については通常と同じ所得税などが課せられるのですが、お布施など宗教的行為によって得た利益には贈与税などかかりませんし、サティアンなど巨大な施設を作っても固定資産税の対象にはなりません。宗教団体にとってはまさに「百利あって一害なし」の特権であり、オウムが解散するまで、教団が宗教法人の認可により節税できた総額は数億円を上回ったでしょう。

 宗教法人認可のため麻原が行ったのは、教祖としての自分に箔をつけることでした。具体的には、海外の有名な僧侶に、自分の修行者としてのレベルを認めてもらうということです。

 麻原は団体の名称を変更してから、仏教生誕の地インド、そしてチベット密教発祥の地ヒマラヤを立て続けに訪問しました。当時日本のテレビでも紹介された有名な修行者であるパイロット・ババやカントゥルー・リンポチェ、さらには法王ダライ・ラマに謁見し、その様子を写真や映像に収め、宣伝に用いるためです。

 ここからが麻原のペテンの見せ所でした。麻原はパイロット・ババに会ったときのことを、「今までにないクンダリニーの覚醒を実感し、最終解脱寸前にまで行った」「あなたは釈迦牟尼タイプの修行者だと言われた」などと大げさに語っているのですが、実際に居合わせた会員によると「手相を見てもらい、強運を持っていると言われただけ」とのことで、まったくの大嘘であったようです。またダライ・ラマに謁見した際には、誰にでもかけるような世辞を大げさに喧伝し、あたかも自分が修行者として認められたかのように装います。

 オウム神仙の会の会員は麻原のペテンを真に受けてしまったようですが、実際にはチベットの高僧たちは、麻原の修行者としての在り方を危ぶんでいました。仏教とは本来、驕りをなくし、謙虚であることを美徳とする宗教なのですが、麻原の場合は、修行を始めてたかだか10年にも満たないにもかかわらず、「私は釈迦牟尼の次の段階にいる」と公言して憚らないなど、聖者にあるまじき発言が目立ちました。高僧たちは、麻原が道を誤らないよう、ダライ・ラマと二人きりで瞑想するなど勧めたのですが、麻原はその高僧たちの想いを知ってか知らずか、「私はダライ・ラマと同レベルと認められたのだ」と、事実に反することを信徒たちに言っていたようです。

 そしてダライ・ラマやカール・リンポチェに推薦状を書いてもらおうとするのですが、ここでも麻原は、純粋な心を持つ僧侶たちに、彼らの読めない日本語の書類をみせ、うまいことを言ってサインをもらいます。ダライ・ラマが書いた言葉は、「麻原彰晃は日本の修行者で、仏教の布教に尽力しています」といった程度のあたりさわりのない内容で、とても修行者として高いレベルにあると認められるようなものではありませんでしたが、それでも推薦状として書かれた以上は、それなりの効力を持ちます。オウムの宗教法人としての認可が降りるのは、坂本弁護士一家が殺害された1989年まで待たなくてはならなかったのですが、それまでに麻原は、このとき手にいれた推薦状や聖者たちと映った写真を存分に活用していきました。


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 最終解脱を果たす


 宗教法人認可の運動と並行して、麻原は自己神格化を進めていきます。

 1986年当時では、まだ教団としての形は整っていなかったオウムですが、時期を経て信徒の数が増えるにつれ、ヒンドゥーのカースト制度のような格差が出来あがっていきます。もっとも決定的なのは、出家修行者と在家修行者の違いでした。出家修行者とは、教団に財産をすべて捧げ、仕事や家族など俗世間との交わりを一切断って、教団の施設の中で生活をする信徒のことで、在家は仕事や家族とのつながりを維持しながら修行する信徒のことです。オウムの中では出家修行者の方が上とされ、幹部の証である師のステージに上るためには、出家が大前提でした。

 ここまで読んで、妙な点に気づかれる方もいらっしゃると思います。俗世間との交わりをすべて断つのが出家であるなら、どうして麻原には妻子がいるのか?と。そう、麻原は出家>在家という構図を作っておきながら、教祖として君臨する自らは在家の修行者を通していたのです。

 麻原はなぜ出家しなかったのか。これに関しては、麻原がともに苦労した妻、知子と、その間に生まれた子供のことを大事にしていたということで、麻原の心に「善」「愛」があったことのエピソードともいえますが、とはいえ、教団のトップとして君臨するからには、この「捻じれ」の構造は何とかしなければなりません。麻原が在家の立場を維持したまま、出家修行者を従える方法として考え出したのが「最終解脱」でした。当時はまだ、オウムは組織としての構造が固まってはいませんでしたが、麻原にはいずれ来る「捻じれ」が予見できており、最終解脱は間違いなくそのための対策であったと、私は考えます。

 最終解脱とはどういうことか?とは、説明できる人はこの世に誰もいません。何しろ、それを果たしたという麻原すら、満足に人に説明できかったのですから。麻原はヒマラヤの山中で最終解脱を果たしたと宣言したとき、信徒にその状態はいかなるものかと尋ねられた際、口ごもってしまい、苦し紛れに、傍らに侍る石井久子に「私は最終解脱したんだよな?」などと同意を求めてしまいます。さらに滑稽なことには、最終解脱を果たしたというその数週間後に、なぜか「解脱できない。どうしたらいいんだ」などと悩みだしたかと思えば、教団施設の階段を上った直後に、「今私は最終解脱しました」などと臆面もなく口走るなど、支離滅裂な言動をとるようになっていきます。

 このあたり、麻原の心には焦りがあり、自分でもわけがわからなくなっていたのでしょうか。弁舌の達人で、適当な言葉を並べて人をだまくらかすことにかけては右に出る者はいない麻原にしてはあるまじき失敗で、綿密さに欠けていました。それとも、麻原が自分が人からどう見えているかということに頓着しない「純粋なる修行者」としての一面を発揮していたということなのでしょうか。

 ただ一つ言えるのは、麻原は強運だったということです。「破壊神シヴァに選ばれた」といってもいいかもしれません。普通なら、皆に幻滅されてもおかしくない態度を見せていながら、このとき脱会した信徒はごく僅かにとどまりました。そして、「最終解脱」の言葉はやがて独り歩きを始め、麻原の存在を神聖なものとして高めていったのです。

 第二章 完

犯罪者名鑑 麻原彰晃 11

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 裏の№2 ”ティローパ” 早川紀代秀

 今回はオウム草創期に入信した男性幹部について紹介します。

 まず早川紀代秀。オウム最初期からの麻原と関係があり、あの空中浮揚の撮影現場にも立ち会ったといいます。大学院を出てからゼネコンに勤めた経験があり、この俗世間での仕事を捨てがたかったからか出家は遅く、1987年でした。教団では俗世間で培った知識を買われ、建設班、省庁制度導入後には建設省の大臣として、教団の施設造営の総責任者として活躍していました。

 早川は、若い世代の多いオウム幹部の中にあって麻原よりも七歳も年長で、それゆえか、麻原への帰依は同じ大幹部の村井秀夫などと比べると強くはなく、陰では麻原の計画の無謀ぶりを部下に嘆いたり、会議の席で麻原に直接反対意見を述べることも少なくなかったようです。そんな態度が災いしてか、ステージ自体は最末期の1994年にようやく正悟師に昇ったので終わり、最高幹部の証明である正大師の地位に就くことはできなかったのですが、能力の高さについては麻原も認めるところで、教団内では、表の№2である正大師の村井秀夫と勢力を二分する、裏の№2と目されていたようです。

 裏の№2という肩書が表す通り、よくマスコミの前に顔を出し、広報の役目を担っていた村井秀夫に対し、早川のワークは上記の施設造営などに加え、ロシアから兵器を輸入したり、確実な話ではありませんが暴力団との交渉に当たったりなど、まさに表に出ない裏の活動が主だったようです。激しい気性の持ち主で、ロシア支部長の立場にあり、自分よりステージが上の正大師である上祐史浩を「何やっとんか、マイトレーヤッ!」と怒鳴りつけて得意の弁舌を封じたりするなどしており、このあたりも、穏やかな性格だった村井秀夫とは好対照です。

 若くして出家した他の幹部と違って十分な社会経験があり、麻原の荒唐無稽な計画に批判的な意見を述べるなど、現実主義にも見える早川が、結果的には麻原の指示に従い数々の犯罪行為を起こしたのは、かつての同僚が語る「理想主義的な一面があった」というあたりが理由なのでしょうか。

 早川本人は、法廷においては麻原の恐怖や、自らの犯行が発覚することの恐怖から次々に犯行に及んだということを語っていますが、他の幹部の証言からはそうは思えません。むしろ早川は、自分の能力をとても高く評価してくれるオウムという教団の中で、高い地位を築き、自分の理想を実現しようと、ヨーガの修行もそっちのけで、(早川は古参の幹部にも関わらずヨーガの行法に習熟しておらず、質問されてもロクに答えられなかったという。この点は村井も同様)嬉々として非合法活動に手を染めていったように思えます。

 オウムの中では現実的でも、日本社会には馴染めない理想主義、空想家だった早川の寂しさに、麻原は巧みにつけ込んだということでしょうか。

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 陽気なグルの警護役”ミラレパ”新実智光
 

 オウムの会当時からの古参信徒で、2015年現在でも麻原を崇拝するなど帰依が深く、オウム三大事件と言われる坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件すべてに関わった信徒が、新実智光です。

 新実は学生時代から宗教に関心が深く、麻原も入信した阿含宗など、いくつかの宗教団体を転々としましたが、納得のいく修行ができず迷いの中にいるとき、雑誌「トワイライトゾーン」に紹介された、麻原の空中浮揚の写真と出会いました。そして、飛びつくように麻原の元を訪れ、麻原の人柄に触れ、シャクティパットなど神秘の体験をしたことで、この人こそはと麻原に生涯の忠誠を誓うようになりました。

 カルト宗教に入るような人を、それだけで変人と決めつけてしまうのはよくありませんが、新実は十人が見て十人が変人と思うような、とびきりユニークな人だったようです。裁判では反省している様子を一切見せず、傍聴席を見渡してニコニコ笑うなど被害者遺族を愚弄するような態度をみせ、また初期のオウムで、オウムの書籍をPRするワークに従事した際、書店に宣伝ポスターを貼ってこいと命じられると、トイレから階段まで場所を弁えず何十枚も貼ってきてクレームをつけられるなど、仕事では失敗ばかりしていました。

 しかし麻原は、そんな新実の失敗をゲラゲラ笑うだけで叱ったりはせず、早くからホーリーネームを与えるなど優遇し、テロ行為など教団の危険なワークに従事させるようになります。松本サリン事件の際、「今から松本にサリン撒きに行きまーす」など、まるで遠足に行くようなウキウキした口調で出発を促し、空手家の端本悟が「警官と乱闘になる。ピストルには勝てない」と慎重な態度を見せると、「じゃヌンチャクとか持っていけばいいじゃないですか」とあっさり答えるなど、人を殺すことを屁とも思わない新実に引っ張られて、数々の凶悪事件は起こったのです。

 オウム幹部には本質的には犯罪的傾向がない人がほとんどで、麻原の殺人の命に躊躇いを見せる人もいたのですが、麻原はそれを「ポアの論理」と「ヴァジラヤーナの教え」で丸め込み、凶悪事件へと向かわせました。しかし、麻原にはそれだけでは十分ではないことがわかっており、さらに、殺人をゲーム感覚で嬉々として行う新実に、いわばムードメーカーの役割を担わせることで、幹部たちの殺人への抵抗を和らげたのです。仕事ができない新実に、絶対に失敗の許されないテロ行為をやらせるのは、普通に考えたらおかしな起用ですが、新実の性格に能力のなさを補ってあまりある価値があることを、麻原は見抜いていたのです。麻原がまさに人事の天才であったことの証明といえるでしょう。

 ADHDという発達障害を抱え、仕事ができないできないと言われ続けてきた私は、この新実に対して共感するところがあります。世の中には、仕事ができなかったり、ちょっと変な言動をしたり、変な動作をする人を、知能が低く感情も鈍磨だなどと見做して、からかったり、いじめたりする大馬鹿者がいます。これは私の想像ですが、新実も若い頃、そういう大馬鹿者たちに傷つけられ、社会に自分の居場所がないと感じた経験があったのではないでしょうか。そんなことがあったとすれば、新実を暖かく迎え入れたばかりか、逮捕後には最高幹部の証である正大師のステージを与えるなど、とても高く評価してくれた麻原を、新実が逮捕から二十年たった今なお崇拝するほど深く帰依してしまうのは、無理もないのかもしれません。

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 ピカレスクの主人公”マハー・アングリマーラ”岡崎和明

 ノンフィクション作家の佐木隆三がこの男に付けた通称を、私もそのまま使わせてもらいます。

 岡崎はオウムが団体の名称をオウム神仙の会と名乗りはじめたころからの古参信徒で、入会とほぼ同時に出家しました。高等教育を受けたエリートが多いオウム幹部の中にあって、岡崎の学歴は工業高校卒止まりで、科学や建築などの専門知識ではなく、実務の能力を評価されて麻原に重用された、幹部の中では異色の存在でした。

 教材販売のセールスマンとして、二十代前半の若さで所長を任された経験を持つ岡崎は、オウムでは出版業の総責任者を任されていました。その辣腕ぶりは麻原や部下だった信徒も認めるところで、麻原の著作を全国の書店に並べて広め、それを読んだ人を多数教団に集めて信徒としたという点で、岡崎の果たした役割は非常に大きいといえます。

 しかし、教団に貢献する一方で、岡崎は経費をちょろまかして自分の懐に入れ、そのカネで親しくなった女性信徒をラブホテルに連れ込むなど破戒行為も重ねていました。そんな麻原を舐め腐ったようなことを裏でしていたにも関わらず、石井久子に次ぐ二番目の成就者として麻原からホーリーネームを与えられたのは、修行にしてもワークにしても、やることがあまりにも凄かったからでした。「グルへの信がなくとも、修行だけで成就できる好例である」とは、オウムの機関誌に載せられた麻原のコメントです。

 「グルへの信に欠ける」岡崎は、最終的に教団のカネを持ち逃げしてオウムを脱会します。岡崎を追う麻原に対抗するため、坂本弁護士一家が埋められた場所の写真を警察に送り付けて麻原を脅迫し、さらに一千万を教団から奪い取るなど、信徒の中で唯一麻原と対等に渡り合った岡崎は、まさに「ピカレスク(悪漢小説)の主人公」のようで、麻原に盲目的に帰依する井上嘉浩や新実智光のような幹部とは明らかに一線を画しています。

 麻原への背信行為を重ねながらも、岡崎は麻原の命に忠実に従い、坂本弁護士一家殺害などには積極的に関与しました。麻原に認められたいという思いも強かったのです。岡崎は幼い頃、実の両親からゴミでも捨てるように余所の家に預けられており、養母は優しい人でしたが、養父にはアルバイト代をとられたり、折檻を受けるなど冷たい仕打ちを受けていました。暗い生い立ちを背負っているという点で、岡崎は麻原に深く共感し、また養父では得られなかった父性を麻原に求めていたのかもしれません。その麻原も、欲求を完全には満たしてくれなかったことに対する「お父さんへの反抗」が、破戒行為や脱会だったのでしょうか。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
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