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犯罪者名鑑 麻原彰晃 10

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 丹沢集中セミナーを開く

 オウムの会の会員数が50名を超えたころ、麻原は山地丹沢にて、修行法を伝授し、またシャクティパットによりエネルギーを授けることを趣旨とした一週間のセミナーを開催します。

 参加費用は一泊ごとで会員が七千円、非会員が一万五千円。シャクティパット一回が、会員で二万円、非会員で三万円。このセミナーで五百万円ほどの儲けが出たそうです。ちなみにオウムの会への入会金が三万円、月会費が二千円、個人指導が三千円という額で、後に出家にあたって全財産を教団に捧げるなど、べらぼうな金を信者から毟り取っていったのを考えると、この時期の麻原の金銭感覚はごくまともだったのが伺えます。特に注目すべきは、オウムの会の月会費、指導料の安さで、この時期の麻原はまだ、自分の世界に入ってきてくれる人はとても大事にしていたことの証明といえるでしょう。

 麻原はこの丹沢集中セミナーを、自分の人生における大きな転機と位置付けていました。夜も二時間しか睡眠をとらず、参加者の生活管理、自らの修行、参加者の修行の指導、シャクティパット、果ては人生相談にまで、精力的に活動します。

 麻原のシャクティパットは本物で、「背骨が熱くなり、ストーブを後ろに置かれているようで、その晩は熱くて眠れなかった」「尾てい骨をガスバーナーで焼かれているようだった」「頭蓋骨がバリバリっと音を立てた」など、驚きの体験談が至る所から出ています。尾てい骨のあたりに眠っているとされる、クンダリニーという生命エネルギーを覚醒させることでそうした現象が起きるということですが、この時期のまだまともだった麻原が、一回に三万ものお金を取るだけあり、このシャクティパットは麻原自身のエネルギーの消耗も大きく、終わったあとにはぐったりとして、足の甲が割れて出血することもあったそうです。それでも麻原は、一人一人が効果を実感できるまで、けして途中で投げたりすることはく、効果がでないものには一時間でも二時間でも根気強くエネルギーを送り続けるなど、自らの負担を鑑みず、参加者を導くため全力を尽くします。参加者は麻原のそんな姿に奮いたち、皆真剣に修行に打ち込んだといいます。


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 人の心を掴む

 
 麻原がセミナーによって人を惹きつけたのは、シャクティパットによる神秘体験のみではありませんでした。

 護摩行に使う薪を集めるなどには自ら率先して山の中に入っていくなど、セミナーでの麻原はリーダーシップを発揮します。また、人の集団の常で、このセミナーでもどうしても除け者にされる人が出てくるのですが、そのときには参加者を集めて「貴方たちは一体ここに何をしに来ているんだ。人のためになってこそのヨーガだろう。邪気を吸収するくらいの気持ちでやらなくてどうする」と叱りつけるなど、慈愛の心、自己犠牲、弱者救済の「菩薩行」を実践します。これに加え、深夜には参加者の悩み相談にも親身になって対応するのですから、人の心を惹きつけるのも当然でしょう。欲得のためもあったでしょうが、それだけでできることではありません。石井久子などが惚れてしまうのも頷けます。

 思い返せば盲学校時代、麻原はあれほど強く名誉を望みながら、それを得られず、空回りを繰り返し、思いとは裏腹に嫌われ者となっていました。それが突然、人から慕われ、「麻原先生は凄い人だ」と賛美の声を集め、自他ともに満たされる経験をしたのですから、麻原の心には戸惑いもありました。「私は人から慕われているのかな・・」と、困惑したようにポツリと独り言ちる麻原の姿が印象的だったと、当時の信者が語っています。

 麻原にとってヨーガの修行は、自らの視覚障害、暗い生い立ち、挫折まみれの青春を乗り越えるための存在でした。欲得を抜きにした、人として何かを極めたいという純粋な思いも強く抱いていたからこそ、金銭や名誉といった、彼が望んでいたもう一つのものも結果的に手に入ったのです。麻原を欲にまみれた俗物としてのみ語る人もいますが、少なくともこの時期の麻原は、けしてただの俗物ではなく、純粋な修行者としての一面を持っていたのは確かといえます。

 麻原は今度こそ何ものかになろうと、命も顧みず一心不乱に修行に励んでいました。「本物」は絶対的に人を惹きつけます。麻原は地道な修行をすることにより、お菓子を配って買収を試みたり、適当な思い付きでリサイタルを開いたり、浅知恵で詐欺行為を働いても得られなかったものを、ついに得ることができたのです。


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 ターニングポイントとしての丹沢集中セミナー


 最終的には一万五千の信徒を抱える巨大な宗教団体となったオウムですが、結局は間違いを起こしたことによりオウムは解散してしまった通り、麻原の活動は完全な成功にはなりませんでした。何かがいけなかったことは間違いなく、逆にそれさえなければ、麻原の能力ならばもっと大きく、恒久的な成功を手に入れられたであろう、という要素が存在します。その過ちは、自己を神格化しすぎたことでした。

 新興宗教に入る人には、「他者への依存心が強く、自分で決断する力を持たない人」が多いといいます。これをもって、一連の犯罪を起こしたオウム幹部に対し、麻原に洗脳された哀れなる者という見方をする人もいますが、上記の言葉を裏返せば、「甘い汁は吸いたいが、責任は誰かにとってもらいたい人」と言うこともでき、行き過ぎたご都合主義のツケが、死刑あるいは無期懲役ともいえます。

 そういった人たちにあまりにも持ち上げられすぎた結果、麻原は次第に自分を見失っていきます。自ら掻き集めた信者たち、そして自分自身を制御できなくなっていった麻原は、破滅の道へと進み始めていくのです。

 宗教団体を起こすにあたって、当初は実兄を教祖の座につけようとしていたことからわかるとおり、麻原は最初から独裁者となることを望んでいたわけではありませんでした。盲学校時代から発揮していた支配欲、権力欲からして、その願望はあったのでしょうが、嫌われ者だった自分には現実的ではないと諦めていたことでしょう。それが「できる」と確信したのが、この丹沢集中セミナーであったと思われ、麻原の大きなターニングポイントとなったイベントでした。

 麻原の真の意味での絶頂は、丹沢でセミナーを開催したこの時代でした。麻原が人望溢れるヨーガサークルの主宰者で終わっていれば、あれだけの大惨事が起きることもなく、また本人も破滅することはなかったのです。

 もっとも、国家を巻き添えに破滅することこそが麻原の真の望みであったとするなら、私の見解も的外れということになっていきますが・・・。
 
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犯罪者名鑑 麻原彰晃 9

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 ハルマゲドン思想の誕生

 ヨーガ道場「オウムの会」を設立してから一年ほど経った頃、麻原は東北の地に、永久に錆びない不思議な金属「ヒヒイロカネ」を探す旅に出かけました。オカルトに傾倒し、超能力を得るための修行に没頭していた麻原は、愛読していた雑誌「神秘之日本」の中でヒヒイロカネに関する記述を発見し、この金属に超能力を増幅するパワーがあると信じ、わざわざ探しに出かけたのです。

 「神秘之日本」を主宰していたのは、千九百年代初頭、帝国陸軍に所属していた、酒井勝軍という人物でした。軍の密命で中東情勢を調査した際、現地で学んだユダヤ教と、「竹ノ内文書」なる古文書の記述を掛け合わせ、日本にもピラミッドがあるとの主張を展開した、オカルト界では著名な人物です。ヒヒイロカネ探しの途中、偶然立ち寄った宿で、麻原は宿の主人から、この人物の「予言」を聞きました。それを自らの著作に記したのが、次の記述です。

――今世紀末、ハルマゲドンが起こる。生き残るのは、慈悲深い神仙民族(修行により超能力を得た人)だ。指導者は日本から出るが、今の天皇とは違う。

 まさしく、オウムが宗教色を前面に押し出すようになってから説かれ始めたハルマゲドン思想の原型が、この時期すでに生まれていたのです。そしてこの約一年後、麻原はオウムの会を「オウム神仙の会」と改称し、牧歌的な空気が漂うヨーガサークルを突然、宗教団体へと変貌させたのです。

 ちなみにヒヒイロカネですが、麻原はこれを四トントラックに積んで大量に持ち帰り、オウムの出家信者に与えられるバッジ「プルシャ」が出来るまで、教団の中で神聖なアイテムとして扱うようになります。おそらくは、ヨーロッパの軍隊における勲章制度のようにして利用していたのでしょう。勲章は、原資が殆どかからない割りには、与えられた方は大層喜び、君主に一層の忠誠を誓って働いてくれます。麻原は、修行のステージが進んだ信者に、賞金のかわりに、謎の研究家からタダ同然で譲り受けたヒヒイロカネを配ることで経費の節約を図り、教団の財力を充実させていったのです。

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 マスメディアに登場

 
 超能力の修行を進める麻原は、1985年9月、満を持してメディアに登場します。オカルト系雑誌「トワイライトゾーン」に、有名な空中浮揚の写真が掲載されたのです。以来、麻原はトワイライトゾーンに連載コーナーを持ち、自らが修行により得た「神秘体験」を誌上に披露していきます。

 無名のヨーガサークル主宰者に過ぎなかった当時の麻原がいきなり雑誌に連載を持つことができた秘密は、雑誌社に多額の広告収入を齎していたことでした。カラー1ページで三十五万、モノクロで二十万。当時、会員を十五人前後しか抱えていなかった麻原がなぜそれほどのお金を払うことができたのかは不明ですが、とにかく金の力により、麻原は自らの知名度を高めていったのです。

 それにしても、上記の空中浮揚の写真、筋張った筋肉といい、うんこを我慢しているような顔といい、私にはどう見ても足の力で飛んでいるようにしか見えないのですが、これを空中浮揚と言い張り堂々と雑誌に載せてしまう麻原の羞恥心のなさには恐れいります。馬鹿にしているわけではありません。古今東西の英雄には、奇抜な政策を凡人にどれだけ嘲笑されても蛙の面に水で済ませる精神力を備えていますが、麻原にもそれがあったということです。そして、インチキでも堂々とやってのければ、それを信じてしまう人間は少なからずいます。事実、麻原の渾身の力を込めたジャンプ、いや空中浮揚の写真を見て、オウムに多くの人が集まったのです。

 ちなみに空中浮揚の歴史は古く、有名なところでは、室町時代の管領細川家の全盛期の当主、細川政元なども、密教を信仰し空中浮揚をするための修行に励んでいたという話が伝わっています。密教の修行内容には「不犯」、つまり女性を近づけない戒律があり、これを守らなければ超能力は得られないとされています。当時は血縁社会であり、子供を作ることも権力者の大事な仕事だったにも関わらず、政元は独身を貫いため、その死後に二人の養子の間で相続争いがおき、それが世の中の政治的混迷にまで繋がってしまいました。政元自身は「半将軍」の異名をとるほど有能な人物でしたから、その危険性は十分わかっていたはずです。わかったうえで、「天下の民よりも俺が空を飛ぶほうが大事」と修行に励むほど、超能力への欲求が深い人がいるのです。

 麻原の超能力を最大の売りにしていた初期オウムに入った人たちも、そういう熱心な信仰心を持つ人でした。当時、日本は空前のオカルトブーム。雑誌やテレビなどに数多の自称超能力者が現れましたが、彼らの大半が、自らの超能力をひけらかし一人悦に耽るだけに終始していたのに対し、麻原が新しかったのは、超能力を得るための具体的なノウハウについて述べ、自分と一緒に解脱を目指そうと説きまわったことでした。

――人は誰でも、神秘の力を有している。そしてそれを、超越神力と呼ぶのだ。

 私がオウムソングで一番好きな歌、「超越神力」の歌詞の冒頭ですが、これまで憧憬の対象でしかなかった超能力者に自分もなれると思わせたところが、オウム初期の麻原が人を惹きつけた最大の要因だったのです。

 カネが人を呼び、人がカネを呼ぶ。時流にも乗って、麻原のオウムの会は一挙に膨張を遂げていきました。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 8

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 オウムの女帝”マハー・ケイマ” 石井久子


 今回はオウムを彩った女性幹部たちを紹介します。

 まずは麻原の一番弟子、石井久子。オウムの女性幹部の中でも特に麻原から深い寵愛を受け、最末期でも五人しかいなかった正大師の地位に、真っ先に上り詰めたのが彼女でした。麻原の弟子の中では一番最初に修行を成就したと見做され、初期から教団のナンバー2として、オウムの発展に高く貢献。オウムで省庁制度が導入されると大蔵省の長官となり、教団の経理を担い、金庫番として権勢を振るうようになりました。

 石井が麻原にこれほどの寵愛を受けたのは、なんといってもその美貌のお蔭でした。修行により身に着けたエネルギーが洗い流されてしまうのを恐れてのことなのか、ろくすっぽ風呂にも入らないほど衛生観念が欠落していたといわれるオウムという教団の中で、ほとんど化粧もしていないであろう状態でこの容貌というのは、確かに女性の顔立ちとしてかなり美しい部類と、私も思います。飯田エリ子が岡崎一明と通じるなど、戒律で禁止されているにも関わらず意外に性に放埓なオウム教団の中で、石井は教祖の麻原とのみ関係を通し、麻原の子を三人も産みました。

 石井が麻原と子をなすほど深く愛し合っているとなると、正妻の”ヤソーダラー”松本知子は当然面白くありません。麻原は妻の知子も石井久子同様の正大師の地位に就けましたが、教団の中では、教祖の妻という理由で高い地位に就いた知子よりも、修行により成就を果たしたとされる石井の方が信徒からの尊崇を集めていました。

 まるで太閤秀吉の政権での北政所寧々と淀殿の関係のようです。もっとも、北政所は大河ドラマなどで描かれるように、あからさまに淀殿に嫉妬し、嫌がらせをするようなことはなかったようですが、オウム麻原の正妻知子は、後妻である石井に激しい嫉妬の感情を露わにします。ある日、知子が瞑想をしている際、信徒の一人から「そのやり方はケイマ大師と違う」と指摘されたときには、鳥のような叫び声をあげて怒りくるったといいます。また石井が麻原の子を産んだのが知れたときには、激怒して麻原の顔をひっかいて傷つけ、信徒への弁解として「これがグルと弟子を超えた夫婦の関係だ」などと言わしめるなど、出会ったころのおっとりした少女はどこにいったかと思うほど、三十代ではヒステリックな女性になっていたようです。

 麻原は逮捕されるまで石井を愛し続けましたが、教団の運営については、オウム後期には石井よりも、村井秀夫や上祐史浩といった男性の幹部を重用するようになっていきました。これには石井が妊娠し表に出られなくなったことも大きいでしょうが、多数の信者獲得を目指していた初期のころには、広告塔として容姿の優れた女性幹部の役割が重要だったこと、社会の破壊を目指すようになっていった後期には、科学の知識に優れ、マスコミとの交渉術に長けた男性幹部の役割が重要だったこと、という役割上の問題であったと思われます。石井本人が言うような、麻原の男尊女卑の思想だけの問題ではないでしょう。


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 魔性の女”サクラー”飯田エリ子

 オウムの女帝石井久子を麻原に引き合わせたのが、石井と同じ会社でOLをしていた、同期の飯田エリ子でした。まだオウムがヨーガ道場であった頃からの会員で、美容や健康に効果があるというヨーガの修行に励むうち、麻原個人の人柄に惹かれるようになり、「麻原の女」となったのでした。

 オウムに入ったのは石井よりも飯田が先でしたが、オウムが宗教色を全面に出すようになってくると、飯田は次第に、石井に遅れをとるようになっていきます。最終的に正大師の地位にまで上り詰めた石井に対して、飯田は正悟師止まりで、オウム後期には信徒の前で麻原に叱責されるなど、幹部の中で特に高い地位にあったわけではないようです。

 その理由は、おそらく彼女の「蓮っ葉」ではないでしょうか。最後まで麻原一人に尽くした石井と違い、飯田は岡崎一明と関係し、逮捕され裁判にかけられるようになると、自分より九歳も年下の井上嘉浩と熱烈なラブレターを交し合うなど、恋多き女でした。その点が、九州は熊本の出身で、女は一歩引いて男を立てることをよしとする麻原には快く思われなかったのでしょう。

 しかし、彼女が省庁制度導入後、東信徒庁長官として、後に恋仲となる「諜報省長官」井上とともに、数多くの信者を入信させ、多額の布施を集めたのは事実で、教団の発展に大きく貢献したことは間違いないようです。

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 オウムの女将さん”キサーゴータミー”山本まゆみ

 山本まゆみも、石井久子、飯田エリ子同様に最初期からの麻原の信奉者でした。ただ、麻原より一歳年上で、特に美人だったという話もない山本との間に、石井や飯田と同じような肉体関係があったかどうかは不明です。

 オウム初期から機関誌の作成などで麻原を助け、その功績により正悟師として認められ、省庁制度導入後には労働省の大臣となります。オウムの中での労働省の役割というのはよくわからないのですが、本人が語るところによれば、信者の修行やワーク、生活などの指導にあたっていたということで、年齢的にも、相撲部屋の「女将さん」のような立場にあったのではないかと思われます。

 石井や飯田の役割というのもおそらくそれほど変わるものではないと考えられ、オウムの中では一般信者の管理など内向きなことは女性の幹部が取り仕切り、テロ行為や交渉など対外的なことに関しては男性幹部が中心となって行うといったような役割分担があったようです。麻原の適材適所の人事により、教団は大きく発展を遂げていったのです。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 7

 第二章 教祖誕生~初期オウムと最終解脱への道

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 麻原彰晃を名乗る

 西山に絶縁されたはずの智津夫ですが、彼は性懲りもなく、もう一度西山を訪ねていました。英雄になるには能力以上に、どれだけ負けようがぶっ倒れようがへこたれない不屈の心を持っていることが大事な条件ですが、智津夫のメンタルは歴史上の英雄やビジネスでの大成功者と肩を並べるといっても過言ではありません。

とはいっても、並の人間なら、どういう神経をしているのかと呆れて追い返すところでしょうが、西山は財を成した人物だけあって器が大きく、昔のわだかまりを捨てて暖かくもてなしてやったそうです。智津夫としては、旧交を暖めるだけではなく金銭的な援助を期待していたことでしょうが、さすがにそれはやらず、寿司を振る舞うだけに留めたようでしたが。

 その後は西山を直接訪ねることはありませんでしたが、一度だけ電話はしていたようです。その際に智津夫が口にしたのは、「渋谷に宗教団体を作りました」とのこと。ついに、宗教家としての道を本格的に歩み始めたのです。

 ただ、智津夫ははじめ宗教を大っぴらにアピールするのではなく、表向きはあくまで学習塾という形を取りました。その塾の名が、「鳳凰慶林館」。胡散臭い名前を考える才能において、麻原彰晃の右に出るものはいません。松本智津夫が麻原彰晃の名を公式に名乗り始めたのも、この時期のことでした。

 チラシには「君の成績がグングン伸びる!脅威の能力開発法」「着実な成果 東大合格」と、まだ何の成果もあげていないのに誇大な見出しが並んでいますが、言うまでもなく、最終学歴が「代々木ゼミナール中退」の麻原が、勉強を教えようとしていたわけではありません。

 「サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック理論・東洋医学理論、ヨーガ理論・仙道理論・漢方理論を応用した食療法(これらを統合した能力開発指導を行います)」・・・。ようするに、自分の培った修行の成果を試したかったということです。成績を上げるというのは人を釣り上げるための方便で、本当に成績が上がればそれは自分の力のお蔭だとし、成績が上がらなくとも、何か体質が変わったとか、運気が向上したとか、たまたま起きた別の効果に注目させて自分の力のお蔭でいいことがあったとする、オカルト系のインチキ商売の常套手段のようなことがやりたかったのだと思われます。

 この鳳凰慶林館はうまくいかなかったようですが、今度は学習塾から一歩踏み込んで、ヨーガを全面に押し出した「オウムの会(a=ヴィシュヌ u=シヴァ m=ブラフマーで、ヒンドゥー教の神を表す)」を設立すると、徐々に会員が集まり始めます。石井久子、飯田エリ子、山本まゆみらオウムの女性幹部らが麻原の元に集ったのはこの時期のことです。

 麻原のオウムが始動したわけですが、この時期にはまだ宗教色は前面に押し出されておらず、純粋にヨーガを修行する団体というイメージが、会員の間には強かったようです。後にはヨーガ道場を宗教団体に変えていく構想はすでにあったようですが、それにあたり熊本の長兄に「教祖になってくれないか」と頼むなど、方針はまだ固まっていませんでした。

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 修行に明け暮れる

 オウムの会を開いた麻原は、ヨーガによって神秘の力を身に着けようと、日夜熱心に修行に明け暮れました。後、オウムの大幹部となった上祐史浩は、麻原について「間違いを起こした人物であるが、天才的な瞑想家であったことは確かである」ということを語っています。また、麻原の施すシャクティパット(額に手を当て、エネルギーを送り込む。背中が熱くなり、身体中にエネルギーが満ち溢れていく)は本物だったという声が多く、麻原のヨーガ修行がかなり高いレベルにあったのは確かなようです。

 まだ宗教的色合いを表に出していないこの時期、麻原は、狭い道場の中でオウムの会の会員と一緒になって、「解脱できない、解脱できない」と頭をかきむしりながら、真剣に修行に明け暮れていました。来るハルマゲドンの際に人類を救済するとか、あまり現実離れしたことは口にされておらず、純粋に自己の精神を高めることを目的とする、平和的な集団であったようです。

 また一方で、麻原は古今東西、あらゆる宗教関係の書物を読み漁り、宗教に関する知識を深めていきました。先天性の弱視は年を重ねるごとに進行し、確実に盲目へと近づいていく中、ますます目を悪くする読書に耽るのがどれほどの気持ちであるか、大きな身体の障害がない私には、想像することもできません。その眼から光が失われてしまうのと引き換えにしてでも、麻原は必死に、成功を掴もうとしていたのです。

 私は、このときの麻原の悲壮な覚悟が、彼の内から滲み出る、形容しがたい「カリスマ性」に結びついたのだという気がしてなりません。いかに大犯罪を起こした人物といえど、この時期に麻原がした努力と凄まじい執念については、誰も侮辱も軽蔑もできないと思います。私などは尊敬の念すら覚えます。

 あの西山祥雲に追い出されたとき、麻原は怒鳴られ、涙を流しながらも、必死に西山の教えを吸収しようと、ノートにペンを走らせていました。目がほとんど見えない彼の文字はミミズが這ったようで、ところどころ重なっていたそうです。そんな麻原の悲壮な姿を目の当たりにし、執念に心を打たれたからこそ、西山は最後の餞に、「詭弁術を身につけろ」という言葉を与えたのです。

 麻原は西山の教えを忠実に守りました。オウムの教義は、大乗、小乗、チベット密教、ヒンドゥー教など、あらゆる教義をブレンド・ミックスしたものですが、麻原はそれをさらに、自分に100%都合のいい解釈へと変えていきます。本来、殺生を否定する立場にあるはずの仏教を、殺人を肯定する教えにまで捻じ曲げたのはまさに詭弁術です。麻原は説法の達人でもありますが、確かな宗教的知識と荒唐無稽な妄想をうまく織り交ぜて、その「詭弁術」により、説得力のある言葉を作り出していました。だからこそ、高い知能を持ち、高等教育を受けたエリートの若者たちまでもが、麻原に心酔し、洗脳されてしまったのです。

 三十歳。怪物、麻原彰晃が、いよいよ完成へと近づいていきます。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 6

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 取調室にて


 薬事法違反で逮捕された智津夫を取り調べた五十代の刑事は、視力障碍のハンデキャップを背負った智津夫に一定の同情を感じ、取調べの対応は割と優しかったようです。智津夫も自分の父親のような年齢の刑事に心を開き、次のような言葉を口にしました。

「自分が生きていく上において、世間一般からの抵抗やしがらみが、あまりにも大きすぎるんですよ」

 人との間に摩擦を引き起こし続け、挫折を繰り返す智津夫の人生。高すぎる野望に社会的成功が追いつかず、智津夫の心の中には二十七年間ずっと、鬱屈したものが積み上げられていました。老刑事はこの智津夫の姿を見て、次のように語っています。

「気を吐いて、精一杯生きていることだけは間違いなかった。目が不自由というハンデキャップを背負いながら、九州の田舎から出てきて、仲間もなく、鍼灸の組合に入っているわけでもなかった。親兄弟とも没交渉だというし、それだけで、どんな育ち方をしてきたかは想像できました。正直、同情するところはあったんです。松本智津夫は、健常者と同じようには生きていけなかった。上昇志向があっても、普通のことをしていては上にあがれない。そして、なにか始めると、かならず権威や権力というものが立ちはだかってくる。~中略~血も涙も流したことのない人間には、あんたらにはわかってたまるかと、敵意のようなものを抱いている」

 いかがでしょうか。

 私も智津夫の盲学校時代のエピソードなど、ちょっと小馬鹿にしたような書き方をしている部分もありますが、智津夫が必死であることまでを否定しているわけではありません。智津夫が自分の目的を達成しようともがき、足掻いている姿はわかります。しかしそれは、智津夫の生い立ちを知り、ある程度好意的に見る人にしかわからないことで、多くの人に伝わるものではありません。

 努力はしているはず。なのになぜ、思ったような結果が付いてこないのか。智津夫は狭い豚箱の中で、自分の二十七年間の人生を振り返りながら、毎日のように考えていたでしょう。

 導き出した答えが、宗教の道でした。私はこのとき智津夫は、努力は努力でも、努力の質が良くなかったと気づいたと思うのです。

 智津夫の人生にも、人に評価された時期がまったくなかったわけではありません。盲学校時代、柔道で講道館二段の段位を取得したときには、学校中から拍手喝采を浴び、ヤクザの親分にも可愛がってもらいました。代々木ゼミナールで一生懸命受験勉強をしていたときには、皆がノートを貸してくれるなどサポートしてくれ、人生の伴侶も得ることができました。浅はかな知恵で犯罪行為を働いたり、適当な思い付きでリサイタルをやっても、人には評価されません。地道にコツコツ、一つのことをやり遂げようとしている姿にこそ、人は惹かれる。そのことに気づいたと、私は思うのです。

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 「彰晃」の名づけ親、西山祥雲 


 不起訴になり釈放された智津夫は、自分には宗教しかないと、今度こそ不退転の決意で人生を切り開くべく、これはと見込んだ、ある男の元を訪れます。

 西山祥雲。競馬で稼いだ十四億円の金を元手にビジネスを始めて成功をおさめ、自らの宗教まで起こしたという、後の麻原彰晃に勝るとも劣らず胡散臭い、しかし怪物的な人物です。

 智津夫の目的は、西山の弟子になることでした。西山は、背広姿に作業靴、鞄の先からなぜかソロバンが飛び出しているという怪しげな風貌の智津夫をはじめ相手にしませんでしたが、智津夫は熱心に西山の元に通い詰めました。西山は、自分に教えてほしいならセミナーに参加しろと伝えますが、智津夫は授業料払いたくなさに、個人レッスンを懇願します。オウム教団では、自分のイニシエーションを受けるのに何十万とかいう金をとっておきながら、自分が教わるときはタダじゃなきゃ嫌というのはどういうことかと思ってしまいますが、しかしその情熱にほだされ、西山は智津夫の夜の訪問を許すようになっていきます。

「宗教には、悩みがあったり、どうにもならない人間が集まってくるんだ。そいつらを魚釣りのように釣ればいいじゃないか」

「宗教は、クモの巣を張っておけばいいんですよね。そうしたら、自然に引っかかってくる。あとは弱るのを待てばいいだけなんですよね」

 西山の教えを受け、智津夫は教祖としての輪郭を固めていきます。西山が著名な姓名判断師を呼び、自らと十六人の弟子に名前を授かったとき、智津夫もおこぼれに預かり、「彰晃」の名を貰い、以後「松本彰晃」と名乗るようになります。

 西山の教えの中で智津夫が特に注目したのは、西山が何気なくやってみせた、手品でした。

「西山先生は日本人ですか?人間ですか?それとも、宇宙人ですか?それをやれば、本当の神様だと思って、みんな飛びついてきますよ。先生、私にもぜひ、やり方を教えてくださいよ」

 その言葉で、智津夫が宗教にマジックを利用しようとしていることを見抜いた西山は、「いまの君に教えたら、大変なことになる」と、智津夫の頼みを突っぱねます。このときは断られましたが、智津夫の考えは変わらず、オウムを開いた智津夫は、マジックではなく、宗教的修行により得た「超能力」を使って、信者を掻き集めるようになっていきます。


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 矛盾という橇―――覚醒前夜
 

 智津夫と西山の師弟関係は、長くは続きませんでした。西山の家に足しげく通うようになった智津夫の態度は、次第に図々しいものになっていきます。勝手に冷蔵庫を開けて、ジュースを飲む。西山専用のタオルを勝手に使う。挙句の果てには、五十万円ばかり貸してほしいとねだってくる。二十七歳の松本彰晃青年が世間知らずというわけではない。この男は、どこか人と違う。西山がそう感じ始めた、矢先のことでした。

「先生、私を自念信行会のナンバー2にしてください。なあに、心配はいりません。お布施やお金のことはすべて私がやりますから、先生は左団扇でおればいいんですよ」

 智津夫の魂胆は、西山の宗教団体にちゃっかり潜り込み、手っ取り早く出世の足掛かりを得ることでした。西山の家で図々しい態度をとっていたのは、西山が自分にどの程度心を許しているかを見るための、計算ずくでの行動であったと思われます。それをやがてエスカレートさせ、ゆくゆくは自念信行会を乗っ取る気でいたのでしょう。

 智津夫の企みがわからない西山ではありません。ある日、図に乗った智津夫が、お釈迦様のように左手でわっかをつくり、手のひらを上に向けたポーズを取って、「お釈迦さんだって、こんなポーズを取っているでしょう。銭持ってこい、と言ってるんですよ」などと口走ったのに、ついにブチ切れます。

「言っておくが、俺はお前を扱いきれん。宗教をやるなら、人を頼らず自分でやれ。貴様は今まで俺のところに押しかけてきていながら、酒徳利のひとつでも持ってきたことがあるか。それとも、一か月分くらいの授業料はおいていくか。それとも、俺からげんこつの一つでももらって帰るか、こらあっ!!」

 西山のあまりの権幕に、根が小心者の智津夫はすっかり竦みあがり、涙を流して許しを請います。盲学校時代、悪さをしたとき、先生に自分の屁理屈が通用しないとわかると、涙を流して反省したように見せかけた松本智津夫少年そのままの姿です。大人になって多少は世間の辛酸を舐め、世渡りの術は学んでも、根っこのところは何も成長していなかったということです。

「もうここに来るのはよせ。お前は、ふつうの男とは違うんだ。考えがちがうんだよ」

 自分には宗教しかないと不退転の決意を固めた智津夫でしたが、またしても挫折を味わう結果となってしまいました。 しかし、絶望している場合はありません。叱られて涙を流すのは盲学校時代と同じでも、あの頃と違い今の智津夫には、背負う物があります。家族のためにも、泣いて洟を垂らしたまま終わるわけにはいきません。西山の自念信行会に潜り込むことに失敗した智津夫は、しかし最後に男の意地を見せ、涙を拭いて、西山の前で力強く宣言します。

「私は矛盾の中で生まれ、矛盾の中で育ってきたような男です。これからも私は、矛盾という雪の上を、矛盾という橇で滑っていくしかないと思っています。私はどうなってもいい。間違っているかもしれませんが、それでも私はいいです」

 これを単なる捨て台詞とは、私は思えません。この言葉に、麻原彰晃という人間のすべてが詰まっているような気がします。

 第一章 完
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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