犯罪者名鑑 麻原彰晃 5

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船橋市に拠点を構える

 
 愛しい伴侶と子を得た智津夫は、知子の実家のある船橋で、知子の実家から資金の援助を得て「松本鍼灸院」を開きます。盲学校で資格を取り、本場中国に修行にも出た智津夫の腕前は確かであったでしょうが、この鍼灸院は流行らず、客足は良くなかったようです。

 特筆すべきは、この時期智津夫は、一日の診療が終わると、「世直しの集会」なるものを開き、大学生など若者を集め、政治談議に耽っていたことです。どこまで本気だったかわかりませんが、智津夫の話しは国レベルのことばかりでなく、船橋市の行政、組織図、派閥のことにまで及んでいたそうです。私や私の少し上くらいの世代は、ずっと選挙に行かないと言われ、政治に無関心と嘆かれていたものですが、この時代は政治が若者を引き付ける話題の一つだったのでしょうか。ともあれ、後の大教祖の片りんが、この時期すでに現れはじめていたのは間違いないようです。もっとも、誰にとっても魅力的に映っていたわけではなく、常連として通っていた寿司屋でも、同じように店主を捕まえて毎日のように政治談議に付き合わせ、「どうでもいいから、たまには早く帰ってくれないだろうか」と辟易させていたようですが・・・。

 この世を変えるとか大きなことを口にする一方で、商売の方は現実的に考えていたようで、智津夫はパッとしない鍼灸院を閉めて、痩身効果を売りにした診療所兼漢方薬局、健康食品販売の店「亜細亜堂」を開業します。何をやりたいのかよくわからない胡散臭い店ですが、この店は結構繁盛していたようで、智津夫の金回りは見違えるほどよくなり、毎日寿司屋で五千円分もの食事をしていたそうです。

 智津夫は亜細亜堂で、二人の若い看護婦を雇っていたそうですが、妻子を抱える身でありながら、この女性たちと肉体関係にあったようです。あまり人の容姿についてとやかく言うのはよくないですが、私はどれほど贔屓目に見ても、麻原彰晃という男性の容姿を美しいとは思えません。その彼が、一度に若い女性二人といい関係になれたというのは、金もあったかもしれませんが、深い人間的魅力とペテンの才能をこの時期から発揮していたと見て間違いないでしょう。

 ちなみに、オウム時代には智津夫の浮気にも比較的寛容になった知子ですが、このときは激しい嫉妬をあらわにし、物を投げつけるなどして智津夫に抗議したようです。学生時代は虫も殺さないような少女だったという知子ですが、この変貌ぶりは、やはり女性は嫉妬の生き物だということでしょうか。誤解のないように書いておきますが、浮気をしながらも、智津夫は知子を愛することも忘れず、二十代半ばで早くも三女の父となっています。浄土真宗中興の祖蓮如を彷彿とさせる精力には恐れ入ります。

 宗教への関心も、この時期から始まっていたようです。普段は真っ白い服を着て素足に下駄履きという風体。家では夜な夜なヨーガの修行に耽っているのが、近所の住民から目撃されています。

 仏教の阿含宗にも入信しました。麻原はその著作や説法の中で、阿含宗について度々述べ、強い影響を受けたかのように語っています。彼が語るところによれば、麻原は阿含宗の中で「千座行」という、文字通り三年間に渡る修行をやり遂げ、組織の中でも一目置かれる立場にあり、後に地下鉄サリン事件の実行犯ともなった林郁夫ら複数名の信者を連れ、オウムの前身となったヨーガ道場を開いたということです。ただ、一方、阿含宗の幹部によれば、麻原が入信していたのは高々三か月程度のことで、その存在感もいるのかいないのかわからない程度のもので、入信の目的は単に宗教団体運営のノウハウを学ぶことのみであったろう、ということで、真偽のほどはわかりません。


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 二度の逮捕


 「黒いふなっしー」智津夫の商売は順風満帆に行っていたかのようですが、彼は墓穴を掘ってしまいました。1980年七月、保険料の不正請求が発覚し、六百七十万円の返還を命じられたのです。まったくの自業自得ではあるのですが、この挫折の経験は智津夫に深い心の傷を与えたようで、前述の阿含宗への入信はこの直後のことでした。

 さらに智津夫は、「亜細亜堂」を閉めると、「BMA(ブッダ・メシア・アソシエーション)薬局」を開業します。こんな胡散臭い名前の店にどうして客が入るのか、私にはまったくわかりませんが、この店も商売はそこそこ繁盛していたようです。

 智津夫の欲は底なしです。生活に十分な金を稼げていれば十分とは思えず、さらに沢山のお金を掻き集めようとします。その方法がよくありません。適当な漢方薬やみかんの皮、消毒用のエタノールなどを配合したものに「風湿精」「青龍丹」などそれっぽい名前をつけ、デタラメな効果を謳って、六万円もの高額で販売したのです。

 役場などで講演を開き、お年寄りを中心にニセ薬はかなり売れたようですが、そんな悪事がいつまでもうまくいくはずもありません。二十七歳のとき、智津夫は薬事法違反で逮捕されます。このときは新聞に智津夫の写真がでかでかと載り、辛辣な言葉が書き並べられたようです。罪を犯した智津夫本人はともかく、可愛そうなのは妻の知子で、彼女はしばらくは表を歩けなくなるほど深い傷を受けてしまいました。このときばかりは、智津夫も強烈な自責の念に駆られたことでしょう。

 智津夫に「麻原彰晃」の名を授けた、宗教団体「自念信行会」会長、西山祥雲の元に駆け込むのはこの直後のことですが、二度の逮捕という挫折を経て、智津夫は人が宗教に縋るときの心理を痛いほどに学んだことでしょう。智津夫は後に麻原彰晃となってから、このとき感じた心理を、信者獲得に十二分に利用するようになります。

 二度の逮捕は自業自得でのことですが、盲学校時代から智津夫の人生は挫折の連続といってもいいものでした。しかし、智津夫は挫折の度に新たな力を得て立ち上がり、苦い経験の中で学んだことを後の人生に役立てていきます。挫折を知らぬ強さは本物ではない、と言いますが、宗教の世界ほどそれが当てはまる世界はないでしょう。幼い頃は共感性に欠け、人に平気で暴力を振るっていた智津夫でしたが、他ならぬ自分自身が繰り返し痛い思いをすることで、人の気持ちを理解し、人の気持ちを掴む術を学んでいったのです。


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犯罪者名鑑 麻原彰晃 4

 しょーこー


 大志ある青年の葛藤
 
「兄貴の言いなりにはならん。俺は東京に行く」

 盲学校を卒業した智津夫は、自分の漢方薬局兼鍼灸院を手伝えという長兄の言いつけを聞かず、東京へと出発します。幼いころから長兄を親代わりにし、絶対服従だった智津夫が、初めてあからさまに反発の態度を見せた瞬間でした。それほど長兄に他意を抱いていたわけではなく、誰しもある青年期の大人への反抗心というだけの話だったでしょう。こうして、大志を懐く松本智津夫青年は、世の若者と何ら変わりない気持ちで、花の都大東京へと出発していきました。

 ところが、わずか半年後には、智津夫は熊本にとんぼ返りしてしまいます。鍼灸院でアルバイトをしながら、夢である東大入学に向けて受験勉強に取り組んでいたようでしたが、生活が立ち行かなくなったのでしょう。智津夫が帰ってきたのは忌み嫌う両親がいる実家のようでしたが、ここでも特に金銭絡みの壮絶な争いが繰り広げられたことと想像されます。

 金の無心はできなかったのか、その後、智津夫は実家に住みながら、長兄の鍼灸院の手伝いを始めます。長兄は青果の卸売も始めて成功を収めるなど中々のやり手で、智津夫はこのときに商売のノウハウを学んだようです。

 しかし、智津夫はまたすぐに長兄の元を出て、今度は熊本県内の鍼灸院にアルバイトに通いながら受験勉強に励みます。盲学校卒業の際、東大進学を吹いたときには誰一人として本気で相手にしませんでしたが、この頃の智津夫はそれなりに真剣に勉強に取り組んでいたようで、勤務中でも暇さえあれば参考書を開いていたといいます。この時期には長兄の援助あってか、中国に鍼の勉強にも行ったようです。

 智津夫はなかなか、ひとところに落ち着こうとはしません。僅か二か月後には長兄のもとに戻り、店を手伝うことになります。どれだけ、「俺はひとりで生きてやるんだ」と叫んでみても、なかなか長兄の殻を破れません。鬱憤をため込んだ智津夫は、この時期、傷害容疑で逮捕されます。店の同僚から、目の前で長兄をバカにされたことに腹を立てたということでした。

 口では反抗しながらも、誰より尊敬している長兄。その長兄を超えたい一心で頑張っているのに、なかなか上に抜け出せない苛立ち。人に暴力を振るうのはよくないですが、この時期の智津夫からは、誰しも経験する青年期の葛藤が垣間見えて、思わず「頑張って」と声をかけたくなってしまいます。
 
 その後半年間、高校時代に目をかけてくれたヤクザの親分のところで世話になった智津夫は、今度こそと不退転の決意をもって、再び東京へと旅立っていきます。以後、智津夫は麻原彰晃となり、理想の王国「シャンバラ」を作るため波野村に進出するまで、九州の土を踏むことはありませんでした。

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 ”ヤソーダラー” 松本知子との出会い

 東京へと出た智津夫は、予備校の代々木ゼミナール渋谷校に通い始めます。この時期には特にアルバイトなどをしたという話もありませんから、ヤクザの親分や長兄から潤沢な資金援助を得ていたのでしょう。一日中、猛勉強に明け暮れていたようです。

 ところが、その猛勉強が、智津夫から光を奪っていきます。幼いころには1.0見えていた右目の視力が低下し始めていったのです。まだ盲学校に入る前、いずれは全盲になると医師から言われていたわりには長く持ったほうですが、負担をかけすぎたことにより、いよいよ本格的に目が悪くなっていったのです。

 有言実行。智津夫がせっかく、大言壮語を口だけで終わらせず、一生懸命努力を始めたというのに、神は残酷な仕打ちを食らわせたのです。智津夫は深く絶望し、己の運命を呪ったことでしょう。

 もがき苦しむ智津夫に再び光を与えたのは、二十二歳の智津夫より三歳年下の女性でした。麻原彰晃の妻、松本(旧姓 石井)知子と出会ったのです。声をかけたのは智津夫からで、代ゼミの授業でたまたま席が隣りになったとき、「あなたは私と結婚する人だ」などと言い放ったといいますから、何とも大胆です。おっとりとして、虫も殺さぬ優しい性格だったという知子は、戸惑いながらも智津夫のアプローチを受け入れ、交際を始めます。

 知子と出会った智津夫の性格は明るくなりました。目が不自由で、黒板の文字が見えない智津夫は、友達からノートを貸してもらうなど、この時期には盲学校のときの暴君的姿はなりを潜め、それなりに周囲の人たちから好かれていたようです。のちに麻原彰晃となってから、智津夫は目が見えないという身体的ハンディキャップを逆に自らのカリスマ性を高めることに利用する(目が見えなくても心で見えている・・・ように思わせる)ようになっていきますが、もしかするとそのヒントは、この時期に掴んだのかもしれません。

 交際を始めてすぐ、智津夫と知子の間には子供ができました。両親に捨てられた智津夫が、人の親になったのです。

 智津夫は知子と籍を入れました。一家の大黒柱として暮らしを支えていく必要に迫られた智津夫は、妻と一緒に代々木ゼミナールを退校しました。東大入学という途方もない夢を捨て、地に足をつけた生活を選択したのです。

 智津夫は後に教祖となり、多数の愛人を抱える身となっても、若年の身からともに苦労してきた知子への愛情は捨てませんでした。ヤソーダラー(釈迦の出家前の妃の名)のホーリーネームを授け、正妻として強い発言権を与え、五人しかいない正大師(他は石井久子、上祐史浩、村井秀夫、三女アーチャリー)に任命したのです。信徒に痴話げんかを目撃されるなど夫婦仲は円満だったようで、まるでかの太閤秀吉と北政所寧々の関係を思わせます。

 日本史上最悪の犯罪者と言われる麻原彰晃ですが、私はこの時期の彼からは、葛藤しながら人との出会いにより成長していく、どこにでもいる普通の青年の姿に、深い共感と親しみを感じずにはいられません。普通の人間ならば、ここからまともな道に向かっていったのでしょう。

 しかし、智津夫は普通の人間ではありませんでした。家族を持つ身となっても、持って生まれた、あまりに深き”業”を落とせなかった智津夫は、ここから大教祖、大犯罪者への道を歩み始めていくのです。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 3

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 強い者には絶対服従


 
 麻原彰晃といえばオウム真理教の中では最高指導者の立場にあり、その上に君臨する者は誰一人としていませんでしたから、あまり人に頭を下げるイメージはないかもしれませんが、松本智津夫時代においては、必ずしもその限りではありませんでした。

 小学校低学年のころには、女の先生に上目づかいで母性本能に訴えたり、中学に入って厳しい男の先生に怒られるようになると、涙と洟をたらして、「もう先生、もうせんです」と謝ってみせたりなど、子供のころから、立場が上の人に許しを請う態度は一人前です。それが単なるその場しのぎにすぎず、心から反省したわけではないのは、言うまでもありませんが。

 盲学校時代の智津夫が最も畏怖していたのは、十二歳年上の長兄でした。早くから全盲となっていた長兄は、智津夫を目にかけ、幼い智津夫に政治や哲学について説き、喧嘩のやり方まで仕込みました。両親に捨てられたと思っている智津夫には、この長兄こそが親代わりで、智津夫も長兄を鬱陶しがることはなく、絶対服従の態度だったといいます。気性は智津夫以上に荒く、金銭に貪欲で、大言壮語の癖があったといいますから、智津夫の人格形成にはこの長兄が多くの影響をもたらしていた可能性もあります。ただ一つ、長兄の場合、どんなに大ボラを吹いても、「金を沢山儲けてやる」といった自分個人で完結する程度の話でしたが、智津夫の場合は、「政治家になる」など、大言壮語の中に名誉欲、支配欲が多分に含まれるところが、決定的に違ったようですが。

 さらには、柔道部時代、盲学校の生徒でありながら、健常者の大会で優勝を飾った際、たまたまそれを観ていたヤクザに大したヤツだと見込まれて、歓楽街で遊びを教えてもらうなど、世話になっていたこともあったようです。九州という土地柄はヤクザも堅気も気骨ある人が多く、親が子を守り、また子も親を命をかけて守るといった義理人情が強く根付いていますから、独裁者気質に思える智津夫の中にも、世話になった人に恩義を感じ、忠誠を尽くすという価値観があったのかもしれません。


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 盲学校卒業へ

 
 盲学校の高等科卒業が近づいてくると、ビッグマウスの智津夫は突然、「俺は熊大医学部に進む」ということを言い出します。一人で勝手に受験すればいいものを、わざわざ学校中に吹きまくっていたそうですが、先生も生徒も、皆「また始まった」と、まともに取り合いません。当時の先生によれば、智津夫がいきなりそんなことを思いついたのは、当時普通高校から目の障害で盲学校に転校してきた同級生の一人が、図抜けた学力と新たな風を吹き込んだことにより皆の人望を一心に集めていたのに嫉妬したせいに違いないということでした。

 智津夫の学力は盲学校の中でも中の中で、とても熊大医学部になど合格できるレベルではありません。結局、二日目の試験を棄権し、受験は失敗に終わりました。同級生の話では、「まともに全部受けて不合格を告げられるよりマシだと思ったのだろう」ということでした。適当な思い付きで手をつけたことがうまくいかなかったとき、「知ーらない」とばかりにトンズラをこく姿は、まさに後の大尊師麻原そのものです。

 受験に失敗した智津夫は、盲学校の専攻科に進み、鍼灸師の免許取得を目指します。長兄のアドバイスもあったでしょうが、自信過剰な智津夫が、ここで無茶をして社会に飛び出そうとはせず、冷静に着実な進路を選ぶことができたのは、柔道でコツコツ、身の丈にあった稽古をするという経験も役に立ったのでしょうか。ともあれ、二年間の専攻過程で無事鍼灸の免許を取得し、晴れて盲学校を卒業します。

 盲学校で過ごした、十三年間の人生。生徒会長への立候補、人望を得るという道では苦い挫折も味わいましたが、柔道の道では、真面目にコツコツと努力を積み重ねて結果を残し、拍手喝采を浴びる充実感も味わいました。智津夫も自分の能力、身の丈というものを知り、地に足を付けた人生を歩んでいくだろう。先生や生徒の中には、ホッと胸をなでおろす人もいたでしょう。が・・・・。

「俺は東大法学部を卒業して政治家になるぞ。将来は内閣総理大臣だ。田中角栄の再来だ」

 自分の進路に納得がいっていなかった智津夫は、卒業間際、またしても大ボラを吹き始めたのです。夢を懐くのは人の勝手。それを人前で吠えるのも人の勝手ですが、彼の夢に、一体なんの根拠があるというのでしょう。彼はその夢に向かって、一体どれだけの努力をしているというのでしょう。せっかく柔道で実のある成功体験をしていながら、このときの智津夫は、未だ言行不一致で、自己を客観視できていませんでした。

「ながい教師生活の中で、智津夫よりも行動面ではすごい連中は何人もいましたよ。指導していくと、こちらの気持ちが確実に伝わっているという実感がありました。しかし、智津夫にはそれがないんです。智津夫にあるのは、自己主張だけでした。そして最後に私に残ったものは、あきらめなんですね。指導できなかったという挫折感があれば、まだ救われるんですよ。挫折感を懐くということは、生徒に何らかの形でこちらの思いが伝わった事実があったということですからね。挫折感があれば、教師というのは生かされるんですよ。けれども智津夫に対しては、それすらない。智津夫は、教師としての責任感とか、そういう対象から外れた存在でした。ですから智津夫を語ることには、嫌悪感しかないんです」

 それが、智津夫を送った先生の言葉でした。

 かくして、二十歳の松本智津夫青年は、本人が焦がれて焦がれぬいた「光の世界」へと解き放たれたのです。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 2

あさはら1

 
粗暴なジャイ○ン

 
 少年期から、智津夫の名誉欲、権力欲は旺盛でした。学級では常にリーダーシップを発揮しようと頑張り、「俺は将来総理大臣になる」「オリンピックの選手になる」など、自分を大きく見せる発言もこの頃から目立ちました。

 小学五年生のときには児童会長選挙に立候補。下級生にお菓子を配って票を買収するなど、子供らしからぬ念入りさと熱の入りようでしたが、結果はあえなく落選。それもそのはず、彼が配ったお菓子はもともと、以前から恫喝と暴力で下級生から巻き上げたものでした。それをそのまま下級生に返しただけで感謝されるわけもありません。選挙後には、自分に投票しなかった下級生を捕まえて尋問するなどしており、余計に評判を落としてしまいます。

 また、選挙に落ちた智津夫は、普段優しくしてくれる先生を捕まえて、「僕が落ちたとは、先生のせいじゃ。先生が僕に票を入れるなと皆に触れて回ったからじゃ」などと言いがかりをつけます。智津夫は後に麻原彰晃となってから、衆議院選挙で落選した際に「政府による票の操作が行われた可能性がある」などと信徒に発言して武力革命路線に踏み切り、「上九一色村の上空から、米軍や自衛隊の航空機によりサリンが撒かれている」などと思い込み、反撃の手段として自らが松本、地下鉄両サリン事件を起こしましたが、当時から物事をすべて他人のせいにする傾向と、被害妄想の癖があったようです。

 その先生は、大きな勘違いをしている智津夫に対し、「智津夫くんは、どうしてみんなに優しくしてあげんの。お菓子なんかじゃ、人の心は動かんよ」と言って諭します。反省した智津夫はそれから、一人ぼっちでいる下級生などを見つけると「どぎゃんしたとか、話ばしてみろ」と声をかけたりするなど、相手のことを思いやる態度を見せるようになっていきますが、それが人のためではなく、すべて自己の利益のためだけであることは幼い子供たちにも見抜かれていたようで、卒業するまでに立候補した生徒会長選挙では、智津夫はすべて落選してしまいます。
 
 権力欲、支配欲、自己顕示欲だけは人一倍でしたが、この頃の彼はまだ幼く、人を総べる手立てを知りませんでした。自分に人を思いやる気持ちがあることをアピールしようと、「走れメロス」の朗読会を開いておいおい泣いて見せたり、「松本智津夫ショーをやるぞ」などと言い出してリサイタルを開き、西城秀樹や尾崎紀世彦の歌をオンパレードで聞かせるなどして人の心を掴もうとしますが、彼の歌唱力の問題もあったのか逆に人望を失う結果となってしまいます。

 智津夫のやっていることを見ると、目立ちたい思いだけが空回りしており、目的のために地道な努力を重ねるといった考えが抜けていたようです。言動と行動が一致しておらず、理想はやたら高いが中身がまるで伴っていません(私も人のことを偉そうに言えませんけれども)。


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「僕には人徳がなか」


 世話になっている先生の前でワンワン泣きわめきながらそう漏らした智津夫でしたが、彼は一向に改心しようとはしません。人望を獲得しようと躍起になりますが、虫の居所が悪いとすぐ、下級生に暴力をふるっていじめたりして、せっかくの善行をチャラにしてしまいます。悪戯好きも相変わらずで、落とし穴を掘って同級生を怪我させたり、消灯時間を守らなかったことで寮母さんに叱られたのに対し、「電気ばつけられんのなら、寮に火をつけて明るくさせてやっぞ」などと言い返したり、仲間と町に出たときには道案内の見返りに盗みを働かせたりなど、問題行動、問題発言が目立ちました。

 智津夫がある意味不幸だったのは、盲学校の中でただ一人目が見えるという事実でした。盲目というハンディキャップを抱えた人には、やはり生活能力に限界があります。仲間内で連れ立って町へ出たときなど、どうしても智津夫に頼らざるをえない状況も発生するため、どれほど粗暴で嫌なヤツだったとしても、智津夫は一定の地位には君臨できたのです。このことが、智津夫が「気づく」のを遅らせてしまいました。人の信望を勝ち取るために地道な努力をするよりも、手っ取り早く脅して殴って言うことを聞かせる道に走らせてしまったのです。

  麻原彰晃は、本人や信徒たちが思い込んでいるような特別な人間ではありませんでした。カリスマを獲得し、成功を得る過程には、苦い挫折の経験があったのです。この件だけではなく、松本智津夫が麻原彰晃となるまでの人生は挫折の連続といってもいいものですが、挫折を繰り返した経験は、彼に教訓を残し成長させた一方、社会への恨みや破壊願望にも繋がっていったようです。
 

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 柔道との出会い


 
 暴力に物を言わせて威張り散らし、自身の歌唱力も弁えず「傷だらけのローラ」を熱唱し観客をウンザリさせる「ジャイ○ン」が、唯一無二のシヴァ大神の化身に化けるきっかけはどこだったのか。大きなターニングポイントとしては、二十七歳時に麻原彰晃の名を名乗り始め、宗教にのめり込み出したときがよくあげられますが、私はその伏線として、中学の部活動で柔道と出会ったことが大きいと考えます。

 智津夫は稽古に没頭し、盲学校では開校以来初となる初段、さらには講道館二段の段位を獲得します。高校時代、集会の際そのことが発表されたときには、智津夫は拳を振り上げ、目いっぱいの喜びを表したといいます。

 誰にも慕われず、嫌われ、蔑まれ続けてきた智津夫が、初めて人から喝采を浴びた瞬間でした。これまで何かといえば結果を焦り、適当な思い付きばかりで空回りを繰り返し、やることなすこと裏目に出ていた智津夫でしたが、柔道で結果を残し、皆から拍手を浴びる経験により「何事も地道な努力の賜物である」ことを学んだのです。この経験を忘れなかった智津夫は、十数年後、厳しい修行を積み重ねることにより最終解脱を果たし、多数の信徒たちから慕われるようになったのです。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 1

 第一章  狂気の萌芽~松本智津夫、その生い立ちについて


熊本県


 
 貧困家庭に生まれる 
 
 1955年3月2日。後に日本犯罪史上最大の事件、世界でも類を見ない宗教テロを引き起こす宗教団体の教祖となる男、麻原彰晃は、熊本県八代市に生を受けました。当時の名を松本智津夫といいます。

 畳作りを生業としていた松本家では、智津夫のほかに8人の兄弟を抱えていました。兄弟には視力に障害を抱えた人が多く、智津夫本人も先天性緑内障の影響から左目がほぼ全盲、右目も成長につれて見えなくなるということが早くから言われていました。そこで両親は、智津夫が小学一年生のとき、寄宿制の熊本県立盲学校に転校させることを決断します。

 このとき、幼い智津夫は随分と愚図ったようです。それも無理はありません。すでに盲学校に入っていた12歳年長の長兄は幼いころから全盲でしたが、智津夫は右目に関しては視力に問題はなかったのですから。早熟な智津夫は、兄や姉たちから読み書き計算を教わるとたちまち覚え、一年生の学習過程については入学前すでに粗方習得しているといった優秀な子供でしたから、自分が障害者の学校に行く理由など考えもよらなかったはずです。智津夫の家には、お金がないという割りに当時まだ珍しかったテレビが置いてあり、「8マン」などを熱心に観ていたといいますから、貧しいなりにも智津夫はそれなりに満足して生活していたようで、突然親兄弟から離され、見も知らない環境に行くには不安しかなかったでしょう。

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 両親への憎悪 


 智津夫本人には普通学校で学びたい希望がありましたが、洋風建築の増加から畳が売れず、生活が困窮していた松本家では、口減らしという事情からも、智津夫を手放さなければなりませんでした。このことについて智津夫は、のちに成長して麻原彰晃を名乗ってから、

「私は両親に金と引き換えに捨てられたんです」

 と、恨みの念を語っています。

 両親については、麻原彰晃は他にもこんな話しをしています。

「子供のころ私は、男の子と遊ぶといつも喧嘩になってしまうから、女の子とよく遊んでいたんです。お医者さんごっこをやって、女の子の性器に砂を詰めたりして評判を落としましてね。あるとき蛍を沢山捕まえてきて、ウンコに頭のところを突き刺しておいて、おーい、蛍がいっぱいいるぞと、女の子を呼んできたことがありました。その子はお尻のところがきれいに光っている沢山の蛍をみて、わっと掴みよった。手は糞まみれになりましたよ。その子が泣いて帰って、親を連れてきたんです。親父はその子とその子の親のいる前で、私をぶん殴りましたよ。人前で殴られたことが、悔しくてたまりませんでした。おふくろは恥ずかしくてもう表を歩けん、と叫びまわるし、親父は親父で、こいつ捨ててしまおうか、いや捨てるわけにはいかないからどっかに預けようか、と怒鳴っていました」

 ちょっと笑ってしまうようなエピソードですが、とうの本人はいたって真剣な面持ちで、涙まで流していたそうです。幼い子供のころとはいえ、自分のやったことは完全に棚に上げ、ただ両親から受けた制裁があまりに辛かったことを嘆くだけという自己中心性の強さと、年齢にしては発達した悪知恵がうかがえます。女の子に性的なイタズラをしたとのことですが、後に百人を超える女性信徒との関係が疑われた麻原彰晃の性欲は、六歳にしてすでに激しく滾っていたのでしょうか。

 智津夫の両親は、智津夫の盲学校での十三年間の在学中、一度も智津夫を訪ねず、衣服や食料を送ってくることもなかったばかりか、国から補助される就学奨励金の着服も目論んでいたフシもあり、両親については智津夫の一方的な逆恨みともいえないところがあります。いずれにしろ、この両親に対しての屈折した感情が、幼い智津夫少年の人格形成に暗い陰を落としたことは想像に難くありません。

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 熊本県立盲学校に入学



 本人の予想通り、盲学校での生活は智津夫にとって不本意なものでした。視覚による情報を得られない児童を教えることを前提とした盲学校のカリキュラムは、授業にしろ日常生活にしろ、当時まだ右目の視力は健常であった智津夫にとってはあまりにペースが遅く感じられました。次第に真面目に取り組むこともバカバカしくなり、智津夫の授業態度、生活態度は不真面目になっていきます。

 盲学校の生徒は、必ずしも視覚に障害を負った子供たちだけではありませんでした。当時、智津夫が所属していた学級では、智津夫たちよりもずっと年上の、14,5歳の少年が一緒に授業を受けていました。彼は兄と妹がタブーを犯したことからできた子供で、施設に捨てられてずっと放置されていたのを、盲学校の校長が引き取って、一から教育を施していたそうです。彼は14,5歳の年齢でありながら、「梨の木」「盗人犬」の二つの単語だけしか喋れず、「食事の際にわずかに上半身を揺らす」ことしかコミュニケーションを取る術を知らなかったそうです。これは例外と考えても、盲学校の環境が、それまで普通学校で学んでいた智津夫にとって、いかに「異次元」のようなものであったかはよくわかります。

 盲学校の環境は、健常者の世界の中でも優秀と自負していた智津夫少年にとっては、とても自分に相応しいと思えるものではありませんでした。自分は本当はここにいるべきではない、自分はもっと高度な教育を受けるべき人間である――。心の奥で鬱屈した感情を燻らせる智津夫少年は、引き裂かれた自尊心を満たすため、やがて極端な自己肥大を図るようになっていきます。

 光ある世界に戻れぬのならば、闇の帝王となるしかない――。

 周りを見渡せば、自分以外皆目が見えないという環境下で、ただ一人目が見える智津夫は、そのアドバンテージを、人を助け、守り、導くことではなく、人を見下し、捻じ伏せ、従える目的に使うようになっていくのです。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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