犯罪者名鑑 小林薫 2

こばうああおる


メーガン法


 中学時代に初めて少女にイタズラを働いて以後、開き直ったように犯罪行為を繰り返す小林。このような累犯者から市民が身を守るために、1994年、米国でメーガン法という法律が制定されました。性犯罪者の個人情報を政府が登録し、市民に開示するという法律です。

 制定の根拠としては、他の犯罪に比べて性犯罪者の再犯率が高いこと、意義としては、性犯罪者の住所を公開することで、近隣住人が警戒できるようにし、また性犯罪者に社会的な制裁を与えることで、新たに性犯罪を起こそうとする者の抑止になる、ということが挙げられますが、成立から20年あまりが経った現在、この法律の効果は疑問視され、逆に数多くの弊害が明らかになっています。

 まず、公開された前科者が、就職などで差別を受けることで、社会復帰が妨げられているという問題。メーガン法で公開される犯罪には、露出や未成年との性交渉など、初犯なら不起訴に終わるような軽微な犯罪まで対象になっており、これらを強姦などの重犯罪と一緒くたに扱うのは不平等ではないかという問題。近隣住民が前科者を警戒するのではなく、逆に近隣住民が前科者を攻撃しているという、新たなる社会不安を生み出している問題。個人情報の公開によって、前科者のみならず、前科者の親族までが特定され、嫌がらせを受けてしまう問題。また、これは映画の話ですが、前科者の個人情報を公開することで、前科者同士のネットワークが形成されてしまい、犯罪集団が結成されてしまうことも危惧されています。

 そして、ここが肝心ですが、メ―ガン法の成立以後と以前とでは、結局、性犯罪の発生率はまったく変わっていないというデータが出ています。また、後になって、以前の統計方法には欠陥があったことがわかり、新しい統計では、性犯罪の再犯率は、他の犯罪に比べてむしろ低いことが明らかになっています。数字からは、メ―ガン法の成立は、被害者の感情を和らげる効果はあっても、犯罪の抑止には何ら役に立っていないことがわかります。

 小林が事件を起こした当時、日本でもメーガン法を導入すべきだという意見が多く聞かれ、現在でもそれを提唱している人はいますが、メーガン法の制定からは20年、小林の事件からも10年の月日が過ぎ、実際に数字として「効果なし」という結果が出ている以上、厳罰化の世論に迎合する目的だけでメーガン法を導入することには疑問を覚えます。犯罪の抑止という観点から考えるなら、前科者をいたずらに追い詰めることに国家の予算を費やすよりも、前科者の社会復帰をむしろ後押しし、非正規労働者などの底辺層を底上げしていくことの方が、よほど効果があるはずです。

 余所の国のことをとやかくは言えませんが、前科者を厳しく監視することが、犯罪の抑止に効果がないということがわかっただけでも有意義ではあったのだから、無駄で無意味な法律は速やかに廃止すべきであり、ましてや他国がそれを導入しようと考えるのはもっての他でしょう。

しょうじょ


 
 奈良小一女児誘拐殺人事件



 事件当時、小林は奈良市内の新聞専売所に勤めていました。勤務ぶりは真面目だったといいますが、お酒の量が増えるなど、精神状態は健全ではなかったようです。

 そして04年11月17日午後14時00分ごろ、帰宅途中だった奈良市内の小学校一年生、有村楓ちゃんが、小林によって連れ去られました。直後に、楓ちゃんの携帯から母親の携帯に複数のワンギリがありましたが、楓ちゃんは夕方になっても帰宅せず、家族は同18:45分に警察に通報します。

 このとき、小林の自室マンションに監禁されていた楓ちゃんは、しばらく、小林に宿題を手伝ってもらうなどして、平穏に過ごしていたようです。別の少女誘拐事件では、少女が犯人の部屋で寝転びながらアニメを見ていたという話もありますが、これを単に、少女の警戒を解き、合意の上での行為と主張するための策略と捉えていいものかどうか。もしかしたら、わいせつ目的で少女を誘拐する犯人は、必ずしも少女を性的に蹂躙することばかりを考えるのではなく、少女と心から仲良くなることを望む場合もあるのかもしれません。

 しかし、小林は結局、同16:00ころには楓ちゃんをわいせつ目的で浴室に連れ込み、湯船の中で溺死させてしまいます。このときのことについて、当初小林は、楓ちゃんに抵抗された腹いせに、殺意を持って湯船に沈めたということを語っていましたが、後になって、睡眠導入剤ハルシオンを飲まされ、湯船に浸からされた楓ちゃんが、小林が目を離している間に溺死したと証言を翻したのですが、これについては後で詳述します。

 同20:04、母親が近くの公園を捜索中、母親の携帯に、楓ちゃんの画像とともに、「娘はもらった」とのメールが届きました。このとき小林は、行きつけの居酒屋におり、楓ちゃんの遺体を傷つけてから遺棄した方が罪が重くなり、兼ねてから願望だった死刑になれると考え、自宅に引き返して、楓ちゃんの遺体を刃物で切り裂きました。
 
 そして、日付が変わって18日00:05頃、被害者宅から直線距離約7kmの場所にある側溝から、楓ちゃんの遺体が発見されました。

 捜査では、目撃された車の色が実際のものと違うなど、情報が錯そうし、小林がすぐに捜査線上に浮上することはありませんでした。小林はそれをあざ笑うかのように、事件の報道が一段落すると、再び楓ちゃんの携帯から、「今度は妹をもらう」などと、再び楓ちゃんの母親にメールを送りつけたり、行きつけのスナックのママに、「楓ちゃんの写真ネットで拾ったんや」などと言って、携帯カメラに収めた画像を見せびらかすなど、自らの犯行を誇示します。

 しかし、12月末には、小林が捜査線に浮上。女児の携帯から、小林の携帯にメールが添付されていたことが決め手となり、小林は年明けを自宅で迎えることなく、逮捕されました。


こばやしかおる

  
 
 美学と願望との狭間


 裁判の中で、小林は「反省の気持ちも更生する自信もない。早く死刑判決を受け、第二の宅間守か宮崎勤として名を残したい」と語るなど、当初から投げやりで、減刑についても関心がないかのようでした。「極刑以上の刑を与えてほしい」という峻烈な遺族感情もあり、06年、求刑通り、小林の死刑が確定します。

 ところが、逮捕から3年が経った09年、小林は突如、「事件は睡眠導入剤を飲んだ女児が一人で溺れたもので、死刑ではなく傷害致死だった」という前述の主張を展開し始め、再審請求を提出します。この小林の行動について、週刊誌が「小林に生きたい気持ちが芽生えたのだ」という記事を書いたところ、小林が記者を名誉棄損で訴えるという、摩訶不思議な出来事が起こります。

 一人でも死刑になる可能性のある殺人と、懲役七年程度の傷害致死では、まさに天と地ほどの差があり、再審請求を出した小林は生きたいのだろうと、誰もが思うでしょう。再審請求を出したにも関わらず、「いや、俺は死刑になりたいのだ」と主張し、小林は生きたいのだという記事を書いた記者を、「事実に反している」と訴えるのは支離滅裂であり、まったく矛盾しているように思います。

 おそらくは、彼なりの美学と、本当は生きたい気持ちの狭間で揺れ動いていたのでしょう。本音を表に出せず、周りに弱みを見せることを嫌う、不器用なタイプの男だったのかもしれません。再審請求自体は棄却されたものの、記者を訴えたのは認められ、地裁は出版社に30万円の罰金を命じました。

 2010年、刑は執行され、小林薫は44歳でこの世を去りました。

 

 総括:冒頭で述べた通り、小林薫は己のことを、宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者と分析していました。

 当時、すでに宅間守は死刑執行済みでしたが、宮崎勤は上告中で、先ほどの小林の言葉に対し、「精神鑑定も受けずに第二の宮崎勤は名乗らせません」と批判的に述べる一方、事件については、「子供にやさしい人が起こしたんだな」と、独特の持論を述べています。

 同じ少女を狙った犯罪者として、宮崎勤と小林の比較はよく行われましたが、実家住まいで、恵まれた環境にあった宮崎と違い、小林は新聞専売所の給料で一人暮らしをしており、実家を頼ることもできず、経済的には苦しい状態にありました。小林が犯行に使った車は知人から借りたもので、それなりの交友関係はあったようですが、いざというときに頼れるような本当の絆で結ばれた人はいなかったのでしょう。やはり小林は単なる性的欲求のみで犯罪を起こしたわけではなく、貧困や将来の不安、厭世感といったものが背景にあり、宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者という本人の分析は当たっていると思います。

 小林薫に名誉棄損で訴えられた記者は、生前の小林と何度も面会をしており、小林のことを、「娑婆で一緒に飲んでいてもおかしくない、話しも面白い普通の男」だったと語っています。成人女性との交際歴もあり、普通の家庭に憧れていた小林が真っ当に生きる道があったかなかったかといえば、私は「あった」と思います。

 この犯罪者名鑑を通じて何度も述べていることですが、犯罪者に厳罰を課したり、出所後も厳しく監視することではなく、不幸な生い立ちを背負ったり、一度レールから外れてしまった人がもう一度夢を見られるような社会を作ることこそ、犯罪を抑止する一番の方法といえるでしょう。

犯罪者名鑑 小林薫 完
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犯罪者名鑑 小林薫 1

こばやし

 


 宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者
 
 
 本人曰く、「宅間守と宮崎勤の融合型犯罪者」です。確かに、人生に倦み、自ら死刑を望んだという経緯は宅間に似ており、罪状は宮崎勤に似ているということで、本人の自己分析は間違ってはいないでしょう。

 成人の代替として幼女を狙った、あるいは性愛ではなく人を解剖すること、あるいは「儀式」を行うことが目的だったといわれる宮崎勤と違い、小林は生粋のペドフェリアという精神鑑定を受けています。性的な傾向は人それぞれであり、何の前触れもなく突然目覚めることもないとはいえませんが、大抵の場合、アブノーマルな性癖が現れるには、それなりのキッカケがあるものです。

 小林がどのタイミングで小児性愛に目覚めたのか、またそれが膨らんでいったのか。今回は犯罪の要因となる特殊な性癖について、掘り下げて研究していきたいと思います。


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 暗い少年時代


 
 小林薫は1968年、大阪で燃料店を経営する両親の長男として誕生しました。父親は気性が荒く、薫少年に度々暴力を振るっていたようですが、いつも庇ってくれたのが母親で、薫少年は母親に大変よく懐いていたそうです。

 ところが、薫少年が10歳のとき、母親が難産のため息を引き取ってしまいます。このときのことについて、薫は小学校の作文に、「僕は5時間以上泣いた」と書いており、母親を幼いころ失くせば誰でもそうでしょうが、彼の心に大きな影を落とす出来事でした。

 薫は幼稚園の頃からイジメられっ子体質で、一時は学年全体から無視をされるようなこともありました。母親が亡くなって以降は家庭も安息の場ではなくなり、父親からは相変わらずゴルフクラブなどで折檻を受け、新聞配達のアルバイトをしても半分以上は巻き上げられていたそうです。

 とくに酷かったのは、中学三年のころ、視力の低下が急激に進んだ薫が、父親にそのことを訴えた際、「勉強したくないだけやろ」とまともに取り合えってもらえず、あとになって網膜剥離がわかったときのことです。この一件で、薫少年は、父親への信頼を完全に失いました。

 後に小林が逮捕され、刑務所での服役を終えて帰ってきたときも、父親は小林に石を投げつけ、塩を撒いて追い返したそうです。父親との関係の悪さという点では、小林が言う宮崎勤や宅間守などとも共通していますが、特に折檻を加えたというわけではない宮崎の父や、なんだかんだで息子に金をくれてやったり、何度逮捕されても関係を切らずにしていた宅間の父と比べてもこの父親の冷たさは際立っており、一番の元凶はこの男ではないかとすら思います。

 親の愛情に恵まれないまま中学に上がった薫少年が収まったのは、学校の不良グループでした。そこでも使い走りのような扱いだったようですが、何とか居場所を見つけて、それなりに可愛がられてもいたようで、中学二年のとき、彼は先輩に連れられて、大阪の飛田新地に行き、そこで初体験を済ませます。さらに、小さい女の子に性的なイタズラを加えたのも、中学二年生のころが初めてでした。

 中学二年といえばほとんどの健康な男子が性に目覚めているころで、すでに知識もありますが、まだ幼く、両親に甘えたい年頃でもあり、実際に異性と行為に及ぶとなると、なんとなく両親に申し訳ないような、大人の階段を登りたくないような気持ちが勝って、心理的に歯止めがかかるパターンがほとんどだと思います。それをあっさり乗り越えてしまえるというのは、やはり親子関係に問題があるのでしょう。また、小さい子とはいえ女性を強引に襲うというのは、女性に対する恨み、あるいは絶望、失望がなければできないことだと思いますが、小林はまだアニメの世界で繰り広げられるような淡い恋心に憧れるはずの中学生で、すでに女性に対して屈折した感情を抱いてしまっています。

 同じ性犯罪者の山地悠紀夫は、小林と同じくらいの年齢で失った父親のことを半ば神格化し、父親の思い出を語るときだけはいつも楽しそうであったといいますが、小林の場合は、母親のことはいなくなって寂しかった、辛かったと、否定的な言葉ばかりで語っていました。おそらく小林にとって、母は自分を守ってくれた唯一の存在であると同時に、寂しいときに一緒にいてくれなかった―――裏切られた、といったような、複雑な思いがあったのではないでしょうか。それが女性への恨み、絶望、失望といった否定的な感情にまで繋がったのかどうかはわかりませんが、母親の思い出が、性犯罪を起こすことへの歯止めにはまったくならなかったのは確かです。

ろりこん

 
 
 小児性愛の本格的目覚め
 


 あまり偉そうに語ることではありませんが、アブノーマルな性癖というのは、いきなりMAXにまで行くのではなく、段階的に花を咲かせるものです。中学生で幼女にイタズラをした小林の性癖が本格的に目覚めたのは、高校生のころでした。先輩から譲り受けた「くりぃむれもん」なるアニメ(小学生の妹が高校生の兄とセックスをする内容)を見た小林は、「大人にはまねできない純粋な感じ。こんなコでも感じるんだ。小さい子供も大人と同じように、こういう風にできるんだ、と思って、子供がいいと思うようになった」と、このときをきっかけに、完全にペドフェリアの道を歩み始めます。

 その直後、写真部の合宿で鳥取砂丘に出かけた際、小林は生涯二度目の、女児へのわいせつ行為に及びました。スカートをはいた小学校三年生ぐらいの女児に声をかけ、マンションの階段をあがっている女児のスカートに手を入れ、下着の上から秘部を触ったというのです。野獣は、もはや本能を抑えられないようになっていました。

 小学生の女児を襲っていた一方で、小林は友人とともに女子高生もナンパして、ホテルでセックスに及んでいました。わざわざ説明するまでもないことだと思いますが、特殊性癖の持ち主だからといって、その性癖だけでしか快楽を得られないわけではありません。レイプ魔には普通に奥さんがいる人もいますし、どこの誰とは言いませんが、女の体臭に興奮する性癖があっても、入浴直後の女ではまったくダメというわけではありません。もちろん、なかにはそれでしかできないというような「超偏食」もいるでしょうが、大半の人は、こだわりはこだわりとして、ノーマルなセックスも楽しめるようにできています。

 小林は女子高生とは、二十人余りと関係したといいます。逮捕直後はともかく、この当時の小林の容貌は平均を大きく下回るレベルでもないですし、後に面会した記者によれば、小林は「シャバで一緒に飲んでいてもおかしくない、普通に面白い男」だったといいます。数に誇張はあるにせよ、まったくの嘘とは決めつけられないでしょう。成人後も、小林には大人の女性と交際歴があります。小林はけしてペドフェリア一筋ではなかったことは、念のために記しておきます。



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 逮捕



 小林が初めて逮捕されたのは、高校二年生のとき、友人とともに同級生を恐喝した事件でした。保護観察処分で済み、一度は懲りたようでしたが、二十歳で新聞専売所に勤め始めたころから、下着泥棒に手を染めるようになります。大人のものも子供のものも見境なく盗んでいたようです。

 そして1989年、小林21歳のとき、幼い子供の口に、己の性器を含ませるという罪で、執行猶予付きの有罪判決を下されます。その執行猶予期間中であった1991年、またしても小学生の女児にわいせつ行為を働こうとして逮捕され、今度は懲役三年の実刑判決を受け、合計で五年間刑務所に服役しました。

 はじめの執行猶予期間中、小林は勤めていた運送会社で知り合った成人女性と交際していました。そのとき、小林は出会ってからわずか三日で、結婚を申し込んだといいます。当時を振り返り、「家庭を持って落ち着きたかった。家に帰って電気のついた明るい部屋に戻りたかった」と語る小林は、おそらく普通の、暖かい家庭に憧れを持っていたのでしょう。

 そんな人間らしいささやかな幸せが、もう二度と叶わないと思ったためでしょうか。五年の服役期間を経て出所後も、小林は少女へのわいせつ行為、新聞販売店からの購読料持ち逃げなどの罪を繰り返しました。
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プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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