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犯罪者名鑑  麻原彰晃 24

 
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  ドイツ旅行

 
 坂本弁護士を殺害することに成功した麻原は、幹部たちを連れ、西ドイツに旅立ちました。旅の目的は、警察の捜査を恐れ、海外に一時身を隠して様子を伺っていたのだと言われていますが、麻原はもともと海外旅行が大好きで、ただの観光目的だった可能性もあります。

 麻原はドイツの他に、中国、インドなどを歴訪しており、中国に滞在していたときには、自分は貧農の子から皇帝にまでのし上がった、明の朱元璋の生まれ変わりだということを語っていますが、同じく、ホームレスという最下層階級(孤児恩給により食う金には困らなかったそうですが)から欧州の覇者にまで上り詰めたヒトラーにも、何らかの憧れを抱いていたのかもしれません。

 ドイツのホテルで、坂本弁護士宅に指紋を残した村井と早川は、麻原から、指紋を焼いて消すように命じられました。早川は熱さに耐えかねて、焼いた鉄板から何度も指を離してしまったそうですが、「麻原愛」溢れる村井は「グルのために、真理のために!」と叫ぶと、ずっと鉄板に指を押し当て、指紋をキレイに一発で焼いてしまいました。

 陰険な性格で、信徒のほとんどから嫌われていた村井ですが、嫌われ者ゆえに、唯一自分を大事にしてくれる麻原への尊崇の念は、誰よりも強かったようです。

 しかし、熱さと痛さに耐えたのは何の意味もなく、日本に帰って、火傷が治ると、指紋はすべて浮かび上がってしまい、結局、村井と早川は、医師である中川智正の手で、指紋を消去する手術を受けることになりました。

 手術を終えた後の痛みは半端ではなかったようで、早川は術後しばらく、端本悟から身の回りの世話を受けていました。村井も何度も、中川に痛み止めを所望していましたが、中川はプルシャの件で村井にイヤミを言われたのを根に持っており、薬があるのに渡さなかったりと、「適当に意地悪」していたそうです。


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 総選挙出馬


 日本に帰ると、麻原は、坂本弁護士を殺害するそもそもの動機となった、総選挙出馬の決断をします。

 出馬の目的は、表向きには、「マハーヤーナ路線」ということになっています。マハーヤーナとは、大乗の教えに乗っ取った救済方法のことで、オウム流にわかりやすく言えば、できるだけ平和裏に、犠牲が出ない形で世界を救うということです。

 実際には、おそらく創価学会の例を見て、政治に関与することで、教団のますますの拡大を図ろうとするビジョンがあったのでしょう。それにしても、選挙に出馬するには多大なリスクがあるもので、おいそれと決断できることではないと思いますが、麻原は成功に驕り過ぎて誇大妄想に走ったのだとか、反対に、当時、教団は暴力団に付きまとわれて深刻な財政難に陥っており、麻原も追い詰められていて、一発逆転を図ったのだ、という見方もあります。

 消費税廃止などの公約を掲げ、「真理党」として選挙に打って出たオウムでしたが、マスコミからは、当選の見込みが少ない泡沫候補の扱いを受けており、報道の面では不利な状況にありました。事態を打開するため、オウムは、様々な努力を開始します。信者の住民票を選挙区に移す、深夜や早朝に外に出て、ほかの候補者のポスターをはがす(新聞配達のバイクが通りがかったときは、「ラジオ体操のフリをする」)。世界の救済を謳っているわりには、やっていることが地道すぎます。

 オウムが票を得るための努力の多くは、使い古されたありがちな手段であったり、救済者を名乗っているにしてはあまりにもセコイ手段でしたが、唯一、得票には結びつかないまでも、人々の心に深く突き刺さり、社会に大きな印象を残したものがありました。次項でそれを紹介します。

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 オウムソング



 選挙戦の中で、渋谷の街では、麻原が歌う「オウムソング」が、毎日のように、街宣車のスピーカーからかき鳴らされていました。駅前では、麻原のお面を被った信徒たちが、オウムソングに乗ってノリノリでダンスを踊るなどして、本当にこの国を変えてくれると期待されていたかはともかく、人々の視線は集めていました。

 オウムソングはユーチューブなどで、今なお多くの人に視聴されています。今回は代表的なオウムソングをいくつか取り上げてみたいと思います。

 まずは、

 「しょーこーしょーこーしょこしょこしょーこーあーさーはーらーしょーこー」

 でおなじみの、「尊師マーチ」。おそらく、もっとも有名なオウムソングで、 私や私の少し上の世代なら、小学生のころ、音楽の時間に、リコーダーや鍵盤ハーモニカで演奏した経験がある人は沢山いると思います。

 この曲はオリジナルバージョンと選挙バージョンの二種類とがあり、選挙バージョンの方には、「若きエースだ」という歌詞も出てきますが、選挙のとき、実は麻原はまだ34歳でした。髭面、肥満体のふてぶてしい姿はどうみても50くらいにしか見えませんが、国会議員としては若手も若手、今の麻生太郎や小沢一郎などから見れば、「小童」といっても差し支えない年齢だったのです。

 34歳といえば、ちょうど「嵐」のメンバーと同じ世代です。麻原が「嵐」に混じって、ステージで歌を歌っていても、おかしくはないということです。あの髭面の豚親父が、「嵐」の連中のセンターに立って、武道館で「尊師マーチ」を歌い、ジャニーズファンの女どもに悲鳴を上げさせているところを、私は見てみたいです。

 続いて、「しょしょしょしょしょしょしょしょーこー」でおなじみの、魔を祓う尊師の歌。これもリコーダーや鍵盤ハーモニカで演奏しやすく、小学生に大人気の曲でした。子供はくだらないことを考えるものですが、隣のクラスで、しょうこちゃんという女の子をからかって泣かせていたり(私じゃないよ)、「インコ真理教」とか意味もなく言って喜んでいたりしていたのを、私はよく覚えています。

 「超越神力」は8分もある長い曲ですが、宗教の歌というよりも麻原の人生そのものを歌っているような深みが感じられ、私がオウムソングでもっとも好きな曲です。歌詞はオウムの特色である「自力救済」を歌ったもので、このように「自分も救世主になれる、世界を救える」と、善行がしたいという人の心を巧みに煽ったのが、オウムがあれほど信徒数を増やした理由の一つでした。

 「私はやってない、潔白だ」で知られる「エンマの数え歌」は、よく、一連の事件でオウムに疑いの目を向ける警察や世間に対する弁解のため作られた曲と勘違いしている人がいますが、実際には、事件よりも前に作られた曲で、地獄に堕ちた魂のストーリーを歌った内容です。麻原が歌っているのもいいですが、フリーゲームソフト「麻原の野望」で、ラスボスの森総理大臣との戦いで流れるアレンジが最高の神曲で震えます。ニコニコ動画で今も聞けると思います。

 オウムソングはどれもメロディが単調で、フレーズが耳に残りやすく、宣伝のための曲としては非常に有効で完成度の高い曲だと言われています。こうした優れた曲を作れる人材が揃っているというのは、オウムにはやはり、高学歴など能力のある人を引き付ける何かがあったのでしょう。

 選挙では惨敗しましたが、オウムソングは多くの人々の脳裏に、麻原やオウムという団体の記憶を刻み付けました。

 布教に音楽を利用したのはマンソン・ファミリーなどと同じ手法です。90年代に入り、教団は信者数の上でのピークを迎えますが、オウムソングを聞いたのをキッカケにオウムに興味を持ち、オウムに入ったという人も、少なくはなかったはずです。

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 惨敗

 
 選挙に出馬し、平和路線により世界を救済しようという決意も空しく、真理党は党首の麻原さえ、わずか2000にも満たない票しか得られず、最下位当選者の得票数にも60倍近い大差をつけられる惨敗を喫してしまいます。

「この世界はもはや、平和的な方法では救済できないところまで来ている。世界を救うためには、もはや手段は選んでいられない」

 選挙戦の惨敗を期に、麻原は、なるべく犠牲が出ない形で、世界を救済しようというマハーヤーナ路線とは対極的な「ヴァジラヤーナ路線」へと変更する方針を打ち出します。

 ヴァジラヤーナとは、金剛乗に基づいた救済方法で、オウム流の解釈でいえば、必要とあらば過激な手段をとることも辞さず、救済のためなら、少々の犠牲は仕方ないという考え方です。これ以後オウムは、まさに「ヘルタースケルター」に備えて過激な道に走り出したマンソン・ファミリーのように、「ハルマゲドン」に備えるとの名目で、サリンなどの危険な化学兵器の製造や、軍事訓練といったテロ行為の準備を、着々と進めていくようになるのです。

 振り子が右から左に振れるような極端な変化に至った背景には、選挙に惨敗したことで世間に逆恨みを抱いたとか、供託金の没収により資金難に陥った教団が、破滅に向かって動き出したのだとか色々言われていますが、ヴァジラヤーナの教え自体は選挙の前からあり、麻原がこのとき突然、悔し紛れに言い出したものではなかったようです。

 修行により神秘の力を獲得しよう、世の中の困っている人たちを救おうと決意してオウムに入ったはずの人が、どうして殺人という、もっとも残虐な行為に走ってしまったのか。そう考えたときに、

「人を救おうと思うのなら、まずお母さんから救ってあげたらどうだろう?」

 坂本堤弁護士の言葉が、胸に響きます。マザー・テレサも言っていますが、近くにいる困っている人を見捨てて、遠くの他人を助けたいと考えるのは、「偽善」ではないかと思います。

 千里の一も一歩より。いきなり大きなことを考えている時点で、彼らは、本当に人を救いたいのではなく、人を救う自分に酔いたかっただけではないか。ある意味、麻原のような悪人に付け込まれてもおかしくない、邪な考えの持ち主だったのではないか。

 厳しい見方をすれば、そういうことになります。

 第四章 完
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犯罪者名鑑 麻原彰晃 23


みっつのぼひょう



 遺棄


 実行犯グループの6人は、富士総本部道場に戻ると、少し休憩をとった後、ドラム缶に詰めた坂本弁護士一家の遺体を埋めるために、一路北陸へと向かいます。

 警察の捜査をかく乱するために、三人の遺体は、それぞれバラバラの山に埋めるという作戦が取られました。六人のうち、指揮をとっていたのは、村井、早川、岡崎の年長者三人組で、若くて体力のある端本と中川が穴掘りを担当、新實が見張りを担当というのが、主な役回りでした。

 今回の記事は、ベストセラーのノンフィクション作家、佐木隆三氏の著書「三つの墓標」を元に書いていますが、坂本弁護士一家を遺棄しに北陸へと向かった6人のやり取りは、一種のロードムービーのようでなかなか味わいがあります。

 私が特に気に入っているのは、鳥取県の美保湾で実行犯の一人、中川智正が、現場にプルシャを落としたのをみんなに打ち明けた場面です。

 ここで、チクリ屋で嫌われ者の村井は、自分が現場に土足で入ったり、手袋をつけ忘れたのを棚に上げて、中川をネチネチと追い詰めていた一方、求道者的な新實智光は、「あまり気にするな。現世では、うまくいかないこともあるよ。チベットの仏教だって、うまくいっていないじゃないか。また転生して、やり直せばいいんだ」と前向きに励まし、建設現場の親方のような気風で慕われていた早川は、最初に中川をどやし付けたものの、すぐに、「ワシとマンジュシュリー大師も手袋を忘れた。中川くんを責める権利はないんや」と庇い、「中川くんも出家して早々、こんなことに巻き込まれて、辛かったやろうなあ」と慰めるなど、メンバーの性格の違いが現れており、同じオウムの幹部でも、それぞれ個性がまったくバラバラであったことがうかがい知れます。

 中川智正はまだ27歳という年齢で、出家して日が浅いにも関わらず、幼い瀧彦ちゃんの命を奪い、現場にプルシャを落とすというミスをしたことで、精神的に鬱状態になっていました。程度の差こそあれ、他の5人も落ち込んでいたのは同じだったはずで、そんな彼らが、「真理のために」と、お互いに励まし合いながら臨んだワークは、新實に言わせれば、「幹部みんなの心が一つになって、本当に団結できたのは、坂本弁護士事件が最初で最後だった」そうです。

 弁護士一家を遺棄するワークは、6人にとって、精神的にも肉体的にも重労働だったでしょうが、いつも一日一食、粗末な食事しか取れないところを、食べたいものを腹いっぱい食べることができ、(坂本弁護士の遺棄現場では、カニヤ横丁で買ってきたカニを食っていた)風呂にも一週間は入れないところを、サウナで「命の洗濯」ができるなど、いいリフレッシュになった面もあったのかもしれません。

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 三十歳

 自分で書いた麻原の記事を読み返すと、犯罪者名鑑全体の方向性が固まっていなかったこともあり、随分余談だらけだなあという感想を抱きますが、どうせすぐには終わらない企画ですので、今回も余談を挟ませてもらいます。

 私が今回話題にしたいのは、麻原が挫折の連続を経て、ようやくヨガの行者として頭角を現し始めた、「30歳」という年齢についてです。

 麻原彰晃は日本史上最悪の犯罪者であり、狂気の独裁者という評価は覆ることはありませんが、一方で、彼が社会の中で一定の成功を収めた人物、「勝ち組」であったことも否定はできません。麻原という怪物が完成し、「ビクトリー・ロード」を歩み始めたのが、30歳という年齢でした。

 ほかの宗教家でいえば、3章で紹介したジム・ジョーンズの人民寺院が世にその名を知られはじめたのが、ジョーンズ32歳のとき。チャールズ・マンソンのファミリーが異様に膨れ上がり始めたのも、マンソンが30代前半のときでした。麻原がライバルと目していた大川隆法(麻原と違い、高学歴ですが)が幸福の科学の主宰者になったのも、30歳のころです。

 もっとスケールの大きな人物でいえば、かのアドルフ・ヒトラーが野戦病院から帰還し、軍の命令を受けて、調査員として潜り込んだはずのナチの集会で、たまたま演説を振るったのを褒められ、ナチに入党したのがちょうど30歳のときで、それから彼は瞬く間に頭角を現し、ドイツの指導者を飛び越え、欧州全体を支配する独裁者へと成長していくことになりました。

 どうも、「30歳」という年齢は、「学歴も、過去にこれといった栄光もなく、挫折まみれの半生を歩んできた男」が、人を統べるカリスマを表す最初の時期のようなのです。

 ちょっと違うタイプでいえば、当時木下姓を名乗っていた豊臣秀吉(低学歴であるが、人の下に就いている)が、織田家の高級将校として初めて文献に名前が登場し始めたのも、やはり30代前半のころ。世界で一番有名な革命家であるチェ・ゲバラ(カリスマではあるが、高学歴)がキューバ革命を成功させたのは、30歳直前の29歳のときでした。

 なぜに今回、こんな記事を書こうと思ったかといえば、私自身が、あと半年で30歳という年齢を迎えるからです。栄養状態や医療の発達、定年の引き上げにより、日本人の体感年齢は年々若くなっているともいわれています。麻原の時代の30歳と比べても、今の時代の30歳は、自分のことも、他の30歳のことも、「若い」と思っている。それを考えると、私にはもうちょっとチャンスがあるともいえます。

 世の中の人には、独裁者と聞いただけで嫌悪感を示す人もいますが、正直、私は自分がなれるものならなってみたいと思います。犯罪を起こすのがダメなのであって、独裁者自体が悪いわけではない。実現するかどうかはともかく、夢を見るぐらいは自由でしょう。

 今回名前を挙げた中で、ヒトラーとゲバラの成功は麻原とは桁が三つも四つも違いますが、彼らは私利私欲の塊のような麻原とは対象的にストイックで、女性との浮いた噂もほとんどありませんでした。ここが一教祖で終わった麻原との差なのでしょう。

 どちらに憧れるかと言われたら、私はあんなむさ苦しい髭面の豚親父の癖に、女性教徒100人と性行為に及んだという麻原の方に憧れます。ヒトラーやゲバラのように世界史にまで名を遺すのはすごいことですが、そのために、味わおうと思えばいくらでも味わえる快楽を捨て、自分の存在を国家と同一に考えて己を律するのも大変そうです。今回名前を挙げた中でいえば、天下を取ったうえで、己の欲望も満たした秀吉が最高かもしれません。

 「30歳」がひとつのターニングポイントなのは確かなようですが、ただし、30歳ごろに開花した独裁者たちには皆、栄光を掴むまでに、苦難の半生がありました。

 麻原彰晃は、幼いころから弱視でコンプレックスに苦しんでいました。そんな彼が、二十代半ばから始めた宗教の勉強、修行は本物といえるもので、間違った道を突き進みはしましたが、彼は確かに努力家ではありました。ジョーンズも若いころから、宗教活動には熱心に取り組んでいました。ヒトラーも実科学校を成績不良で退学になるなど、少年時代は劣等生で、20代では絵画の修行や読書の日々、従軍経験など、濃密な体験をしています。無学なマンソンにしても、人生の半分を矯正施設で過ごすという波乱万丈の人生を歩んでいました。

 「30歳」が、カリスマを売りにする独裁者にとってのターニングポイントであるのは間違いないようですが、まともな人生を歩んできた20代、何もやってこなかった20代が、30歳でいきなり開花するということはなさそうです。

 コンプレックスに塗れた10代と、血反吐を吐く努力をしてきた20代。不謹慎とは知りつつも、麻原、ヒトラーと似た人生を歩んできた私は、自分が「独裁者」となる未来を妄想するのを、抑えることはできません。

犯罪者名鑑 麻原彰晃 22

さかもと

 
 坂本弁護士一家殺害事件 

 1989年11月3日、坂本弁護士殺害実行犯たちは動き始めました。メンバーに選ばれたのは、岡崎一明(29)、村井秀夫(30)、早川紀代秀(40)、新実智光(25)、中川智正(27)、端本悟(22)の六人です。

 中心となったのは、最古参の幹部である岡崎一明、麻原にもっとも忠実だった村井秀夫、最年長の早川紀代秀の三人でした。新実は岡崎に次ぐ古参ではあるものの、年が若いため三人の指示に従い、医師免許を持ち、薬物で坂本を殺害する役目を与えられた中川、空手の腕を買われて選ばれた端本は、出家して日が浅いため、この頃はまだホーリーネームも与えられておらず、やはり年長であり先輩幹部の三人の指示に従う形でした。

 六人はまず、二台の車に分乗して、杉並区の選挙対策事務所へと向かいました。ここで六人は、浮世離れしたサマナ服から一般的な服装に着替え、二台の車の連絡に使う無線機を入手しました。新実などは、アフロヘアーのかつらにサングラスなどをかけてはしゃいでいたそうで、この時点では、なにかピクニックにでも行くような享楽的な雰囲気も窺えます。選対事務所で一通りの準備を終えた六人は新宿に向かい、デパートで着替えの服などの物資を買い込んだ後、坂本弁護士の家がある、横浜市磯子区洋光台へと向かいました。

 はじめ六人は、麻原の指示で、駅から自宅への経路に当たる場所で待機し、帰宅途中の坂本弁護士を拉致するという計画を立てていました。もしその計画通りに進んでいれば、奥さんの都子さん、幼い龍彦ちゃんの命は助かっていたでしょうが、坂本弁護士は、いつまでたっても、六人の前には現れませんでした。それもそのはず、11月3日は文化の日で、坂本弁護士は仕事を休んでいたからです。出家教徒は俗世から離れていたため、曜日の感覚がなくなっていたのでした。

 このまま待っていても、坂本弁護士は姿を現さないのではないか。六人は午後十時前後になった時点で、最悪の場合は坂本弁護士のアパートに押し入り、坂本弁護士を家族ごと拉致、殺害することを検討し始めていました。そのためまず、岡崎一明がアパートに接近し、ドアノブに手をかけてみたのですが、部屋の中からは物音がして、誰か人がいるらしいことがわかり、そしてなんと、玄関の鍵がかかっていなかったのです。岡崎は一旦車に帰り、早川や村井と相談し、改めて麻原の指示を仰ぐことにしました。そして、麻原から下った指示は・・・・・。

「坂本弁護士が電車で帰るのではなく、すでに家にいるのだったら、家族ともどもやれ」

 暴君的体質を発揮していたこの頃の麻原には、「自分で決めたことはすぐに実行されなければ気が済まない」という性格的特徴があったようです。この坂本弁護士殺害の実行日にも、朝の四時に信徒たちを叩き起こして説法をしていました。一人殺すのと三人殺すのでは心理的な負担が段違いであり、処理も面倒になるのは誰でもわかります。普通なら冷静に、日を改めようと考えるはずですが、ほとんど駄々っ子のようになっていた麻原は、頑なに11月3日にこだわりました。

 信徒にとって、麻原の命令は絶対です。一人なら言い繕うこともできたでしょうが、同僚の目が光る前では、もう逃げることはできません。六人は近所の住民が寝静まる深夜を待って、坂本弁護士の自宅に押し入ることを決めました。


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 決行

 6人が押し入る時間は、午前3時と決められました。午前2時ではまだ起きている人もおり、午前4時になってしまうと新聞配達が始まってしまう、との判断です。決行直前、岡崎がもう一度ドアノブを回してみて、改めて部屋の鍵が開いていることが確認できると、六人は一斉に部屋の中へと押し入りました。

 このとき、村井と早川は、手袋をつけるのを忘れていました。早川は直前まで仮眠を取っており、うっかり手袋を車の中に置いてきてしまったようですが、皆の士気にかかわると思ったため言い出せず、指紋を残さないよう、握りこぶしを作りながら部屋の中に入っていきました。

 一方、村井の方は、逮捕される前に死亡したためはっきりとしたことはわかりませんが、どうやら指紋のことは完全に無頓着だったようです。村井は他にも、ゲソ痕(靴の跡)が残ってしまうにも関わらず土足で部屋に侵入するというミスも犯していましたが、やはりこの人はお利口バカというか、研究熱心ではあるのですが、実務の能力は低かったようです。

 部屋に入った六人は、しばしキッチンで暗闇に目を鳴らした後、寝室へと入っていました。当初の計画は、まず空手家の端本が坂本弁護士を一撃で倒し、一家を取り押さえている間に、医師の中川が塩化カリウムを注射して殺害に及ぶというものでしたが、予想に反し、一家の制圧は容易ではなく、必死で抵抗する坂本と都子さんを取り押さえることはできませんでした。

 塩化カリウムで人を死に至らしめるには、静脈注射をすることが必要で、筋肉注射するだけでは効果を発揮しません。そして、正確に血管を狙わなくてはならない静脈注射を成功させるためには、相手を大人しくさせなくてはいけません。中川は、このままでは一家を薬殺することは不可能であると判断しましたが、メンバーを説得できる状況でもありません。無駄なのを承知で、坂本と都子さんに筋肉注射をしましたが、当然、坂本と都子が暴れるのは止められませんでした。そこでメンバーは、その場で一家を絞殺する作戦へと転換します。六人は、坂本や都子さんを取り押さえる役と首を絞める役に別れ、首を絞める役は体力が続かなくなったら交代するという形で、一家全員を惨殺したのです。

 遺体は布団に包まれた状態で、外に停めてあった車へと運ばれていきました。


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 暴力団とのかかわり



 一つの異聞があります。坂本弁護士一家殺害事件に、オウムとは別の組織の人間が関わっていた、という説です。

 坂本弁護士一家殺害事件には、いくつか不審な点が存在します。

 まず、坂本弁護士のアパートの鍵が開いていた、ということです。確かに今よりは大らかな時代でしたが、子どものいる家が夜通し鍵をかけないまま過ごすというのはあまりに不用心に過ぎる話です。家を守る都子さんは、周囲には几帳面な性格で通っていました。毎日鍵を開けっぱなしにしておく習慣がある人ならともかく、普段きっちり戸締りをしている人が、たまたまオウムに襲われる日に鍵を閉め忘れるというのは、あまりに出来過ぎているのではないか・・・とは、誰もが思うことでしょう。

 もう一つ、現場に人が争った形跡がほとんど見られない点があげられます。実行犯たちの供述によれば、坂本弁護士はかなり激しい抵抗をしたようですが、その割には、家具の破損などはほとんど見られず、また午前3時にたまたま起きていたというアパートの住人によれば、物音はまったくしなかったというのです。そして、遺体は布団にくるまれた状態で車に運ばれましたが、都子さんや龍彦ちゃんはまだしも、体重八十キロ近い坂本弁護士を布団に包んだ状態で運ぶのは、男三人がかりでもかなり大変で、実験では壁やドアなどに何度もぶつけてしまった、とのこと。もしかすると、坂本弁護士一家は別の場所で殺されていたのではないか―――?

 また、この後でも述べますが、現場では、オウムが信徒に配っているバッジ、「プルシャ」が落ちているのが発見されました。このプルシャは、実行犯の中川智正が落としたものとされていましたが、プルシャ自体は数は沢山あるもので、教団の外にも多数出回っていました。だからこそ、現場に落ちていても決定的な証拠にはならなかったのですが、オウムはヒヤリとしたことでしょう。このプルシャは、実行グループに同行した暴力団関係者が、オウムの失態につけ込み、脅すネタにするために、わざと落としたのではないか、ということを、「別働隊存在説」の識者は唱えています。

 ヤクザというのは、情報収集能力に優れた組織です。情報を収集し、それを共有することに関しては、管轄ごとに縄張り意識のある警察より上とも言われ、特に、血と金の臭いを嗅ぎつける嗅覚は異常といってもいいものです。アコギな手段で金を集めていたオウムに、暴力団が早い時期から目をつけ、オウムの弱み、たとえば先に起きた真島事件、田口事件のネタなどをすでに掴んでいたとしても、不思議ではありません。

 この坂本事件から三年後の1992年、暴力団対策法の施行により、指定暴力団に対する当局の締め付けが強化されました。しかし、それでヤクザが壊滅したわけではないのは周知のとおりで、ヤクザはマフィア化して地下に潜り、表にフロント企業を立てて金儲けをするように変質しました。

 ヤクザはオウムの弱みにつけ込んで金を強請り取るとともに、オウムをフロント企業化しようとしていたのかもしれません。実際、90年代に入ってからですが、オウムは末期における「表の№2」村井秀夫を担当者として薬物や化学兵器の製造を行い、「裏の№2」早川を担当者として、海外から武器の密輸入を行っていました。それはすべて、オウムのテロ行為に使われる計画だったことになっていますが、実際にはかなりの数が、裏社会に流れていた可能性はあります。麻原がこの後の選挙戦での敗退によりマハーヤーナ路線を捨て、過激なヴァジラヤーナ路線に傾倒するようになった背景には、暴力団に「骨の髄まで」しゃぶりつくされ、教団が資金難に陥っていたことでの精神的不安があったのかもしれません。

 坂本弁護士が、暴力団とオウムの結びつきに気が付く前に、暴力団がオウムを共犯にして、先手を打った―――。それが坂本事件の真相だったのかもしれません。

 

 

犯罪者名鑑 麻原彰晃 21

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 TBSビデオ問題

 
 TBSは、問題とされる番組の制作に向けて、オウムがマスコミ向けに公開した、富士山総本部での「水中クンバカ」の模様を録画するとともに、公平を期すため、坂本弁護士、牧太郎、永岡弘之ら、被害者の会側にもインタビューを実施しました。

 インタビューの中で坂本が主張していたことを要約すれば、

 ・信教の自由は認められるべきである。しかし、宗教も社会のルールの中で行われるべきであり、家庭を破壊することは許されない。

 ・宗教が金儲けの手段ではあってはならない。オウムの金集めの方法は常識を逸脱しすぎている。

 ・麻原に空中浮揚などの特殊能力はない、イニシエーションに使われる麻原の遺伝子に、特別な効果などはない、といった客観的事実。

 というところです。

 オウムの水中クンバカ撮影は、被害者の会インタビューの収録を終えた数日後のことでしたが、水中クンバカ撮影後に行われた、麻原へのインタビューの中で、やはりオウムの金儲けについて批判する内容の質問がされたということで、オウム幹部と、ディレクターとの間で言い争いが起こってしまいます。その言い争いの中で、ディレクターが、番組の中で、被害者の会のインタビューが放送されることを、ついうっかりと漏らしてしまいました。

 事態を重く見た麻原は、後日、早川紀代秀、上祐史浩、青山吉伸の三人を、TBS千代田スタジオの「3時に会いましょう」スタッフルームへと送り込んで来ました。三人は、番組の制作スタッフに対して、被害者の会のインタビューが収録されたVTRを見せることを要求。スタッフは三人の圧力に負けて、VTRを見せてしまいました。

 これは重大な信用問題です。マスコミには「取材源の秘匿」つまり、取材相手の承諾なしに、その内容を外部に漏らしてはいけないという報道倫理があります。これが守られないと、取材相手との信頼関係は完全に損なわれてしまい、結果的に、世間に対して正確な情報が伝わらなくなってしまうことに繋がります。

 報道関係者にとっては基本中の基本、入社以前に知っているべきことのはずですが、なぜか番組制作の責任者は、こともあろうに、取材源である坂本弁護士らと対立するオウムの幹部に、未発表のVTRを見せてしまったのです。

 VTRで坂本が語った内容に関しては、これまでオウムに行ってきた批判のまとめに過ぎないもので、このVTRが直接的な原因となって一家が殺害されたとは、単純には言えません。しかし、VTRを見せたことが、麻原やオウム幹部の反感を煽る結果となったことは明らかです。

 極め付けだったのは、結局、このとき制作された番組が、世間に向けて発表されることはなかった、ということです。どうせこうなったのなら、せめて番組が放送されて、世間が早いうちから一家失踪とオウムとの関連に気づけるようになれば良かったと思いますが、オウム側からの激しいクレームに屈したのか、番組の放送は中断され、しかもその見返りとして、TBSはオウム側に、被害者の会のインタビューが収録されたVTRを見せたことを公言しないように要請したのです。

 TBSは一家の失踪が明らかとなってからも、オウム幹部にVTRを見せた一件を公表しませんでした。経緯からして、オウムが「怪しい」のは小学生にもわかることであり、この時点でTBSが過失を認め、事実を公表していれば、地下鉄サリン事件など、後に起きた事件はすべて防げていたであろうことを考えると、事実を隠匿したTBSの責任は大きいと言わざるを得ません。

 坂本本人にも、番組の放送が中止になったことは知らされましたが、オウムがスタジオに押しかけてきたこと、オウムに未発表のVTRを見せてしまったことは伝えられませんでした。坂本は「中途半端な内容では、番組がオウムの宣伝になってしまうかもしれないし、かえって良かった」と、中止になったことを歓迎しているようでしたが、すでにこのとき、麻原の殺意は、坂本に向けられていたのです。


あさあらしゅこう


 
 対決


 オウム側のクレームにより、番組の放送はひとまず中止されることが決まりましたが、TBS側の説明では、今後同様の趣旨の番組が放送される可能性がないとはいえない、とのことでした。そこでオウムは、今後永久に、マスコミを使って教団を誹謗することを辞めさせるよう、坂本弁護士との直接交渉に臨みます。

 横浜法律事務所で行われた話し合いでは、オウム側は、青山だけがテーブルに着くという当初の約束を破り、上祐、早川を同席させます。そのことに坂本が憤慨すると、上祐、早川は別室で待機ということになったのですが、当時まだ二十代、若く血気盛んで、弁舌に自信があった上祐は自分を抑えられなかったのでしょう、持参した資料の説明にかこつけて、結局は交渉のテーブルに座ってしまいました。

 一方、早川は、部屋に置いてあった、事務所の機関誌に目を通していました。そこに書かれていたのは、坂本の家族構成と、横浜市に住まいがあるという個人情報でした。

 横浜法律事務所が入っているビルの玄関が閉まる二十一時半ギリギリまで行われた話し合いがうまくいかなかったのは、紅潮した坂本の顔と、「こちらには信教の自由がありますから」という上祐の捨て台詞、それに対する「人を不幸にする自由は許されない。徹底的にやりますからね」という坂本の返答が物語っていました。オウムは、「今後も被害者の会が活動を続けるのなら、子どもを使って、被害者の会に所属する親を裁判で訴えさせる」とまで言ってきたようです。

 坂本は憤慨しましたが、被害者の会側にも、切り札はありました。脱会信者で、百万円を払って血のイニシエーションを受けたが何の効果もなく、返金を要求したが応じられず、何とか取り返したい旨を相談してきた男性です。男性は、オウムに入信したいきさつや、教団での修行内容をマスコミに暴露していたのですが、オウムは記者と偽って男性の自宅に上がり込み、脅迫をして、マスコミに話した内容を訂正し謝罪する文書にサインをさせたというのです。

 話が事実なら、民事だけでなく、刑事でも告訴できるかもしれません。坂本は、ようやく自分の戦場で腕を振るう機会が来たと意気込んでいました。


わたぬ




 殺害指令


 翌年に真理党として総選挙に出馬することを計画している麻原にとって、加熱するオウム批判の動きは、目障りなことこの上ないものでした。

 この時点で言っても無意味なことですが、ここで疑問に思うのは、そもそも麻原が総選挙出馬など考えなければ、反オウムの動きがこれほど加熱することはなかったのではないか・・・?ということです。

 出る杭は打たれるのは世の常。また、人というものはえてして、本当の悪人よりもむしろ「偽善者」に反感を覚えるものです。明らかな違法集団がええかっこしいをして目立とうとすれば、世間から袋叩きに合うのは必然です。

 また、坂本弁護士はもともとオウムに関わるのは乗り気ではなく、オウムという社会悪を断罪するというより、困っている被害者の役に立ちたいという想いで、オウム問題に関わっていました。つまり、訴えがあった時点で、オウムが被害者に素直に信者を返すなど譲歩していれば、坂本はそれ以上オウムに深入りするのをやめ、ここまで批判の声が大きくなることもなかったはずです。麻原ほど頭の良い人物が、それをまったくわからなかったわけではないと思うのですが、総選挙に出馬することを考えると、いかなる過ちでも認めたくはなかったのでしょう。

 この後、麻原率いる真理党は、総選挙で惨敗という結果を迎えたことを考えれば、総選挙出馬という無謀な野望が麻原自身の首を絞めており、無駄に金を使い、部下を振り回しただけで、組織にとって何の得にもなっていないということが言えると思います。

 「自己顕示欲」というのは厄介なシロモノだな、というのは、こういうブラックな団体をみたときに感じることです。今でいえば「ワタミ」がそれですが、あの会社だって、バカ社長があんなに出しゃばって、企業のマイナスイメージを世間にばら撒いていなければ、あれほど業績が急激に低下することはなかったはずです。

 ワタミの肩を持つわけではありませんが、飲食の会社などはどこも似たようなものですし、世間には表に出ていないブラック企業など山ほどあります。そういう会社の社長たちは、「ワタミはバカだな。俺たちみたいに、分を弁えて、もっと目立たないようにコソコソやれば、世間から叩かれることもないのに」と、バカナベ美樹を笑っていることでしょうが、バカナベ本人は、自分がバカだなどとは夢にも思っていないでしょう。

 麻原もバカ美樹も、「自分は絶対正しい」と思い込んでいるはずです。その割には、後ろめたいところを指摘されたとき、慌てふためいてオーバーなリアクションをとってしまうのが矛盾しているように思いますが、逆に考えれば、自分を後ろめたい存在、追及されたらヤバい存在だと強く自覚しているからこそ、ああいった正反対の偽善的アピールをして、自分自身までをも誤魔化さないとやっていられないのかもしれません。こういう人間の心理も、中々興味深いものはあります。

 とにかく、反オウムの動きを苦々しく思った麻原は、オウムを批判する人々を殺害できないかと、真剣に考えます。冷静に考えれば、今現在オウムを批判している人々を抹殺したところで、別の誰かが立ち上がるだけで、事態はかえって悪化するという結論に至るはずですが、目の前の選挙戦のことしか見えない麻原は、まずはサンデー毎日編集長の牧太郎の抹殺を計画。しかし、牧が編集部に泊まり込むことが多く、危害を加えるのが難しいことがわかると、とうとう坂本弁護士をターゲットに選びます。

「坂本を生かしておけば、オウムにとって大きな障害となる。坂本がこれ以上悪行を積まないためにも、ここでポアしなければならないのではないか」


 こうして、坂本弁護士一家殺害計画が、実行に移されることとなったのです。
 

犯罪者名鑑 麻原彰晃 20

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 相談
 


 坂本弁護士がオウムと関わりを持つようになったのは、友人であるフリージャーナリストの、江川紹子の紹介がきっかけでした。

 当時、記事の中でオウムの悪辣なやり口を批判していた江川のもとには、オウムの出家信者の家族から、教団から家族を奪回するにはどうしたらいいか、という相談が寄せられていました。重要なのは、オウムの出家信者本人が自分を被害者だと思っていない点で、こうなると、民事不介入の原則のある警察を動かすことはできません。そこで江川は、何とか法律的な手段により出家信者を取り戻せないかと、坂本弁護士のところに話を持って行ったのです。

 横浜法律事務所で事情を聞いた坂本は、当初、この問題に関わるのを躊躇っていました。オウム側は交渉に応じる姿勢を見せず、子供がどこの支部にいるのか、そもそも本当にオウムにいるのかもわからない。「人探しみたいなもので、弁護士の仕事じゃないよなァ」というのが正直な気持ちでしたが、本当に困っている家族をみると、放っておくわけにもいきませんでした。

 坂本は相談者のため、オウムと全面的に対決する決意を固めたのです。

さかもと




 
 被害者の会設立



 調べにより、相談を受けた人物が教団に在籍していることの確認がとれると、坂本は、出家信者の家族から相談を受けている旨を教団に連絡しました。すると、オウム側も法律の知識に長けた信者を交渉の席に出してきました。現役弁護士の青山吉伸です。

 法曹関係者なら、まともな話し合いができる・・・坂本は安心しましたが、その期待は後日設けられた、青山との初めての面談の日に、アッサリ裏切られました。

 まず青山は、坂本に対し、教団の機関誌の一ページを、参考資料として提示しました。

 大した内容ではありません。「私はオウムに入って、こんな幸せになりました、こんなに成長しました」・・・ようは、オカルト雑誌の宣伝ページに乗っているような、「驚きの体験談!」の類です。

それがどうした・・?と、唖然としている坂本に、青山はさらに、

「○○(信者の名前)の親たちは、○○の気持ち、考えを十分に理解できなかったこと、そして○○の本当の成長を妨害し、心を傷つけてきたことを反省すべきです」

 と、出家信者の家族の側に非があるという論理を突きつけます。

 一方的で不遜な言い分ではありますが、あながち間違いでもないところもあり、信者の親には耳の痛い話でもあったでしょう。

 親世代と子世代の対立。いつの時代もあることで、「ゆとり世代」と言われる私などは、「なぜ、これをやらなければいけないのか」納得してからでないと動けない特質が子どものころからありましたが、軍隊式に「あれやれ、これやれ」だけで動けた世代の親にはそれが理解できず、無為、無駄な軋轢を繰り返し、散々に迷走してきた過去がありました。

 この当時においては、戦後から高度経済成長期にかけて、人は働いて飯が食えていればそれでいいのだ、という価値観から、物質的な豊かさが満たされ、人の本当の幸せとは、経済的に裕福であることとは違うところにあるのではないか、という価値観への変容期にあり、時代の変化に乗り遅れた親と、時代の申し子のような子供との間で対立が起きていました。

 親たちが何も悪くなかった、ということはないでしょう。しかし、それをオウムに言われる筋合いもありません。坂本はこのまま青山と話していても埒が明かないと判断し、とにかく一度、信者と家族を会わせる方向で話を進めていきました。青山は渋ったものの、結局数か月後、オウムの本部がある富士宮市内で、信者と家族の顔合わせが実現しました。

「人を救いたいなら、まずお母さんから救ってあげたらどうだろう。お母さんはとても心配している。家に戻って、そこからオウムに通うこともできるんじゃないかな」

 坂本の説得に、出家信者も一瞬、顔色を変えましたが、その場にいた仲間の教徒ににらまれて、「私は自分の意志でここにいる」と突っぱね、教団に戻ってしまいました。

 坂本も、最初からすべて上手くいくとは思っていません。とにかく、信者と家族を会わせるところまで食い込めたのだから、本番はこれからだ、と、前向きに考えていました。

 坂本がオウム問題に本気になってくれることがわかると、他の出家信者の家族からも、次々に依頼が舞い込むようになり、坂本は次第にオウム問題に忙殺されるようになっていきました。仲間の弁護士が、「坂本さんもインコ真理教でも作って、オウムを乗っ取ればいいじゃない」などと軽口を叩くと、いつもならジョークで返すはずの坂本が、「人がこんなに真剣になっているのに・・・」と難しい顔をするなど、余裕がなくなっていったようです。
 
 坂本は相談者の訴えを効率的に取りまとめるため、「オウム真理教被害者の会」を設立しました。横浜市の開港記念会館で第一回の集会が開かれ、永岡弘行が委員長に就任。永岡は就任の挨拶の中で、坂本との出会いについて「地獄で仏に出会ったようだ」と語りました。


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 加熱するオウム批判の動き


 坂本はオウムから信者を奪還するため、法律的な面から、オウムを追及していく構えを取りました。血のイニシエーションにかかる異常に高額の料金などの消費者被害や、次の総選挙に真理党として立候補を予定している教団が、票集めのために、信者の住民票を一か所に移動させるなどの行動を問題として取り上げていったのです。 

 坂本と連携して、サンデー毎日では「オウム真理教の狂気」と銘打ち、オウムの違法行為を追及していく連載が始まりました。第一回の内容は、オウムの信者の家族七人が集まって、オウムのおかしな活動内容を紹介し合うという座談会形式でしたが、同誌が発売されると、麻原自らがさっそく信者を率いて、サンデー毎日編集部に乗り込んできました。

 はじめは穏やかに話し合いが行われましたが、編集長の牧太郎が、オウムが未成年の信者から三十万、四十万の布施を取っていることを追及すると、突如麻原が、「だったらいくらならいいんだ!」と声を荒げ、席を立ってしまい、これ以後、サンデー毎日とオウムは対立状態に入ります。

 この日以降、サンデー毎日編集部に、オウムから抗議や嫌がらせの電話が頻繁にかかってくるようになり、街頭で牧太郎を批判するビラが配られたり、街宣車での抗議活動も行われるようになりました。麻原は毎日新聞社の爆破も計画していたといいますが、当時のオウムではまだ爆弾を作る技術はなく、計画は未遂に終わりました。

 テレビも反オウムの動きに注目し、主にワイドショーで、オウムの特集番組が組まれるようになりました。オウム本部を訪れた被害者の会に、出家信者が熱湯を浴びせるシーンや、狂ったように瞑想をする修行風景などが放映され、世間に教団の異様さが認知されていったのです。

 特に、テレビ朝日の「こんにちは2時」では、麻原が自ら幹部教徒を率いて出演したのですが、その際、収録に連れてこないという約束だった十代の出家信者を女装させて出演させ、カメラの前で両親を罵倒させるというパフォーマンスを行い、その場に居合わせた被害者の会代表の永岡や、視聴者を唖然とさせました。

 加熱する報道合戦の中、TBSは、反オウム連合の盟主ともいうべき、坂本弁護士に出演を依頼。坂本のインタビューが行われることになったのですが、このテープの内容が、坂本弁護士が殺害される、決定的な理由となってしまったのです。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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