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 私小説の続き15 近畿旅行

あづいち


 「1泊4日」近畿旅行初日、23:45に、私は横浜駅近くの天理ビル前から、夜行バスに乗り込みました。横浜から京都を目指した場合、新幹線だと一万五千円ほどしますが、夜行バスだと三千八百円程度にまで抑えられ、かなりリーズナブルです。

 お金をかけなければ、当然、それなりの代償というものはついてきます。まず、夜行バスでは「寝られません」。神経が図太い人や、軍隊経験者みたいにどこでも寝られる訓練を受けている人なら違うのでしょうが、私には、あの硬いシートに、毛布を一枚被っただけという環境では、途切れ途切れに、二時間程度眠るのが精いっぱいでした。トイレも、午前二時ごろに寄ったサービスエリアが最後のチャンスで、もしそれ以後に行きたくなった場合は、漏らすしかありません。

 夜行バスでの移動は安いですが、それなりの体力的な負担とリスクがありますので、低予算での国内旅行を計画されている方でも、神経質な方や体力に不安がある方は、宿や食費などで節約をし、安易に夜行バスは利用しない方が賢明でしょう。

 朝六時に京都に到着すると、そのまま在来線に乗って、滋賀県――近江の国に入りました。最初の目的地は、信長が築いた幻の城、安土城址です。

 安土城が築かれたのは、城の主流が室町初期以来の山城から平城に変わっていく過渡期でした。高い山の上に築かれた山城は、防衛上は有利ですが、城下町に降りるのが大変なため、領国経営上は非常に不便です。そのため戦国末期から江戸初期にかけては、経済の利便性を重視し、山城を捨て、平地に城を建てる大名が増えてきました。防衛上の弱点は、縦に盛れない分、掘りを掘って水を張り、二の丸、三の丸を作って、横に拡張していくことで補うという発想の転換です。信長の時代に急速に普及した火縄銃に対しては、縦に盛るよりも横に広げたほうが防衛力が高いと言われています。

 秀吉の大阪城も家康の江戸城も平城で、平城が日本で主流になったのは、信長が安土城を造ったのがキッカケだと言われています。安土城は完全な平城ではなく、小高い丘の上に建てられた「平山城」で、頂上にある天守跡にたどり着くまでには私の足で20分ほどかかりましたが、壮健な戦国武将にとっては、平地にあるのとほとんど変わりなかったでしょう。

 まさに近世城郭のプロトタイプと呼ぶべき革新的な城で、天守閣も、美的センスに優れた信長らしく非常に壮麗なデザインだったのですが、その天守閣は信長が本能寺の変で倒れた後、野盗に火を点けられて燃えてしまい、現在でも復元はなされていません。

 誤解している人も多いのですが、通常、天守閣は有事の際の司令塔として使われるのみで、城主は普段、城の中の屋敷で生活をしていました。ところが、信長は初心者の方がイメージする通り、安土城の天守閣で生活していたと言われています。

 これは、安土城が単なる軍事要塞としてだけでなく、信長が天皇や本願寺などの既成の権威を超える為に造られた「神殿」だからです。信長は七層の階下にそれぞれ仏や八百万の神々を描かせ、自分がその上で寝起きすることによって、自分が「神」であることを演出していたのです。

 自らを神格化しようとするほどスケールの大きい、日本史上最高の英雄である信長の安土城をみた後、私はそのすぐ近くにある、六角氏の居城、観音寺城址に足を運びました。

 こちらの城は、室町時代の名門守護の城らしく典型的な山城で、標高約四百メートルもの高地にあり、城にたどり着くには一時間弱かかり、道のりも険しいものでした。平山城の安土城と比べれば差は歴然で、この地にいけば、時代の移り変わりというものを足で体験することができます。

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 続いて私が向かったのは、秀吉が北近江領主時代に本拠地とした、長浜城です。

 この長浜城が一つの鍵を握った賤ヶ岳の合戦は、私が戦国の合戦で特に好きな合戦で、本能寺の変から僅か一年の間に、ライバルの柴田勝家を政略、謀略、軍略の限りを尽くして追い詰めていった秀吉の完璧なシナリオは震えるほどです。

 長浜城も平城で、すぐ傍には琵琶湖が広がっています。信長の指示もあったのでしょうが、それまで北近江の主城であった浅井氏の小谷城を捨て、水運の発達した琵琶湖のほとりに城を建てた秀吉の高い経済的センスが伺えます。

 ただ、私が見た琵琶湖は汚かったです。こういう場所を汚すのは、観光客よりもむしろ、近くにあるためありがたみのわからない地元民だと思われますが、湖岸にプカプカ浮かぶゴミをみたときは、なんとも悲しい気持ちになりました。

 すっかり夕方になり、そろそろ観光施設も閉鎖されるという時間になって、今度は姉川の古戦場に向かいました。

 姉川の合戦は、徳川の大本営発表では、2万もの軍勢を率いているにも関わらず、8千たらずの浅井に押されまくった織田軍を、5千足らずの徳川軍の奮戦で助けたというストーリーになっていますが、実際には物資に勝る織田軍がほぼ単独で圧勝したというのが近年の研究では有力です。

 このとき浅井、朝倉の連合軍を完膚無きまで打ち破った信長に対し、秀吉が、この際小谷城まで攻め込んで浅井を滅ぼすべきだと意見したのを、総大将の信長がなぜか却下してしまったというエピソードがあります。もしその進言に従っていれば、高い確率で浅井は滅び、信長包囲網の打倒はだいぶ楽になったことは間違いなく、信長の大きな戦略的ミスの一つにあげられますが、反面、浅井との同盟修復という自らの決めた外交政策に固執しすぎる、信長の執着癖が垣間見え、個人的には好きなエピソードの一つでもあります。

 姉川では、降り積もった雪の上を歩いていたところ、気づかずに川の中に足を突っ込んでしまい、靴がびしょぬれになってしまうというハプニングもありましたが、なんとか無事に、七時ごろまでには見物を終え、在来線で京都まで戻り、その夜はビジネスホテルに泊まりました。

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 翌朝は観光施設が開放される時間にチェックアウトし、レンタサイクルで京都市街地を観光しました。金閣寺、銀閣寺、清水寺・・・と、定番のコースを回りつつ、小さなお寺にも立ち寄っていきました。

 金閣寺は戦後に再建されたもので、室町将軍の中でも最大の傑物である、天皇になろうとした将軍、足利義満の旺盛な野心を窺い知ることができますが、城ならともかく寺に金を張り付けるという趣味は私はあまり好きではなく、政治家としては無能ながら、優れた美的センスを持ち、文化の保護者としては大きな貢献をした足利義政の建てた銀閣寺の方が好きです。
 
 余談ですが、京都の人がいう「戦後」とは、太平洋戦争のことではなく、室町時代の応仁の乱を指すそうです。京都はあまり空襲の被害を受けませんでしたから、応仁の乱の方がよほど、歴史的な建造物が失われたのでしょう。

 実は京都、滋賀は中学の修学旅行でも訪れており、その際、三年生全クラスで、信長に焼き打ちされた比叡山延暦寺で座禅修行をする機会があったのですが、静まり返ったお堂の中で座禅修行に耽っている最中、大きな音で放屁をしたバカがいました。

 当然、笑いの渦が起きたのですが、そのとき、坊主に背中を精進棒でたたかれたのは私だけでした。三年生全クラスの中で、私だけが叩かれたのは、私が修学旅行ということで気合をいれまくり、素肌にNBAのレプリカジャージを着て、ネックレスをつけるという、チャラチャラした格好をしていたからだとしか思えません。偉そうにしていますが、坊主も結局、人を見た目で判断するということです。比叡山自体は好きで、このときから三年後の一人旅でも行きました。

 二日目の旅を終えて、レンタサイクルも返し、あとは23時の夜行バス発信まで、時間を潰しているというだけでした。京都タワーに登ったり、コンビニで立ち読みをしているうちに時間が近づいてきたのですが、なんと、バス乗り場は私思っていた乗り場とは、駅を挟んで反対側にあったことが判明。バスに乗り遅れる失態を犯してしまいます・・・・。

 その晩はやむなくカラオケ店で一夜を過ごし、翌朝、新幹線で新横浜まで帰りました。
 
 京都市街地観光ではほぼ一日中自転車に乗っており、強行軍だったためグルメはあまり楽しまなかったのもあり、帰ってから体重計に乗ると、二日で1.5キロほど落ちていました。

 身長163㎝の私は、ベスト体重57㎏です。成長が止まった中学二年からずっと変わらず、これ以上増えれば身体のキレが鈍り、これ以下に減ればスタミナが落ちてしまうのですが、57㎏の時点で体脂肪率10%前半のため、実際には増えることはあっても、減るということは滅多にありません。この近畿旅行当時は一番太っていた時期で、65キロほどありました。

 私の身体が生きることを拒絶しようとし、食物を受け付けなくなり、中学二年以降初めて体重が57キロを下回ったどころか、40キロ台にまで落ち込み、生死の境を彷徨う寸前までいったのが、翌年に入った専門学校時代のことでした。
 
 私小説の続き 完
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私小説の続き14 旅行の計画と郵便局バイト

安土



 とりあえずあと2話なので先に進めていきます。

 晴れて翌年の専門学校入学が決まった私は、施設警備員時代を含め、二年に及んだフリーター生活の締めくくりに、一泊二日の近畿旅行に行くことを計画しました。

 私は歴史が好きです。これは結構多いと思うのですが、歴史に興味を持ったきっかけはコーエーのシミュレーションゲームで、その後すぐ、作家の井沢元彦氏の著作に出会って一気に歴史に目覚め、 今でもこれを一生かけて極めていきたい学問と定め、書物の消化に勤しんでいます。

 最近は時代区分の境なくオールマイティに学んでいるのですが、この当時の関心は専ら、WW1,2や中国の後漢末期~三国時代、モンゴル世界帝国が築かれた13世紀の情勢、日本史では平安末期や戦国などの、戦乱の時代でした。

 人物でいえば、世界史では、豊富な読書と動物的カンともいえる天才的な経済感覚、演説の才で、美術学校に二度も落ちて人生に絶望していた一介の浮浪児から欧州の覇者となったヒトラー、部族長であった父を他部族に殺害され、家来全てに見捨てられるという苦難の少年時代から、バラバラだった草原の民を纏め上げ、ユーラシア大陸を席巻する世界帝国を築き上げたジンギスカン、辺境コルシカの貧乏貴族の家柄から、兵学校でリア充にバカにされながらも苦学して皇帝にまで上り詰めたナポレオンが特に好きで、私はこの三人を、才能、努力、運すべてに恵まれ、かつドラマチックな生涯を送った世界史の英傑として特に敬愛しているのですが、世界規模でみればやったことのスケールは小さくても、その才能、努力、運ならば彼らにも匹敵する世界史級の人物として、日本の織田信長と豊臣秀吉も挙げられると思います。

 信長は、まだ尾張一国も統一できていない段階から、明らかに「天下」を意識していた視野の広さとスケールの大きさ、既得権益を握っている仏教勢力と妥協せず徹底的に争い、並みの人間なら発狂してもおかしくない信長包囲網を打ち破った強靭な意志力、秀吉をはじめとする家臣の才能を見抜き、育て、それをフルに発揮させる巧みな人事。

 秀吉は、その時々の立場に応じた絶妙の立ち回りで半農半兵の家の子から天下人にまでのし上がった対人交渉スキル、戦争の前に外交と謀略で勝利を固めてしまう根回しのうまさ。

 同じ三英傑に連ねられている家康になると少し格が落ちて、同時代にも、条件が同じなら同じことができた人間は何人かいたと思いますが、信長と秀吉だけは、日本史を通じても別格の存在で、もっと条件にさえ恵まれれば、彼らは間違いなく世界に出ていたであろうと思われます。

 今でもこの二人のことは好きなのですが、当時は他の時代の知識が薄かった分、私のこの二人への興味がピークに達していた時期で、彼らが活躍した戦国時代の遺物が多く残る近畿地方には並々ならぬ関心を持ち、いつか一人旅をしてみたいと思っていました。

ゆうびん



 計画では、夜行バスで京都に向かい、初日は滋賀県を回って、京都のホテルで一泊。二日目は京都市街地を回って、夜行バスで関東に帰るという計画ですから、厳密には1泊4日という日程です。予算は約五万円。しかし、当時の私は無職の状態で、専門学校のガイダンスを聞きに行くにも親に交通費を貰っている有様でしたから、費用を都合するために、またアルバイトを始めることにしました。今度は冬休み期間の、郵便局の夜間年賀状仕分けバイトです。

 最初に言うと、この仕事はチョー楽でした。賃金は低く、夜勤にも関わらず時給1000円もいかないくらいなのですが、それもそのはず、八時間の拘束時間中、実際に働いているのは五時間程度で、三時間は控室で「待機」になるのです。郵便物は一、二時間ごとに、車で纏めて郵便局まで送られてくるのですが、一回便を片付けてしまえば、次の便が届くまでは何もすることがないので、たまたま少ない便に当たれば、正規の一時間休憩より余計に休憩が取れてしまうのです。夜勤であり、仕事は立ち仕事でしたが、これだけ休憩が多いため、身体はまったく苦になりませんでした。

 長期のアルバイトの人も含め、若い人も結構いて、女性もいたのですが、特に誰かと仲良くなるということはありませんでした。休憩時間が多かったのに寂しい限りですが、気は楽だったともいえます。「深夜の仕分けバイト」には、19歳のときに3時間でバックレた経験のある、悪名高い佐川の仕分けバイトの思い出があり、ちょっと不安だったのですが、郵便局の仕分けでは、仕事が楽なのに加えて、社員やバイトは皆まともな人たちで、楽に稼がせてもらった、いい思い出として記憶されています。

 実は次の次の年もこのアルバイトはやったのですが、そのとき、二年前に長期のアルバイトだった人の何人かが、正社員になっていました。郵便局が十万人規模でアルバイトを正社員にしたという話は聞いていましたが、実際に見たときは少し驚きました。一概に正社員になるのがいいことともいえませんが、世の中まったくチャンスがないというわけでもない、とは言えるでしょう。希望とするには、とても覚束ないものですが。

 学生が冬休みの期間中、十五回くらい出勤して、約十万円くらいのお金を稼ぐことができ、二月の頭、私は意気揚々と、念願の近畿への一人旅に出発しました。

私小説の続き11 自己責任論との戦い2

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 自己責任論の続きですが、私がいま、日本という国の中で苦しい立場にある人たちに一番求められているのは、「助けてくれって叫べる」力だと思っています。

 「我慢」しちゃダメです。「我慢」は何も生み出しません。

 兵法に籠城戦というものがあります。城に籠って、自軍から敵を攻めずに、ひたすら攻撃を耐え忍ぶのですから、籠城は「我慢」の最たる戦法といえます。

 一般的に籠城は、ある一定の期間持ちこたえれば味方の援軍が現れる、あるいは、敵が兵を引かざるを得ない状況になる、という場合においては、有効な戦法とされています。しかし、援軍などの見通しが立たない状況においては愚策中の愚策、それよりは、破れかぶれでも城を打って出た方がマシとされています。

 現代社会においても同じことがいえるでしょう。ある一定期間、つらい状況でも耐えていれば活路が開ける見通しがあるのなら、「我慢」も有効な作戦だと思います。しかし、ただ単に何の当てもなく「我慢」しても、状況はかえって悪化することに繋がるだけです。

 特に貧困層にいる人で、我慢することが格好いいと思っている人、あるいは、苦しいときに助けてくれと声をあげるのをみっともないことだと思ってしまう人は、心に深刻な病気を抱えています。「男らしさ」という病です。病気と書きましたが、どちらかというと、こっちの人の方が多いのではないでしょうか。

 貧困を個人の責任に押し込める自己責任論のせいで、日本人は「男らしさの病」にかかってしまいました。今は女も一人で生きていくことを強いられている時代ですから、女のひとも「男らしさの病」にかかっています。

 男らしさの定義も人それぞれでしょうが、最大公約数を出せば、たぶん「安易に助けを求めない」「痩せ我慢」「弱音を吐かない」「武士は喰わねど高楊枝」「弱いものを守る」的な考えに落ち着くのではないかと思います。このうち貧困者が守らなくてはならないのは「弱いものを守る」くらいで、あとは全部邪魔なものです。人によってはそれを美徳と捉えるのでしょうが、この男らしさの病こそが、貧困者がなぜか自己責任論に同調する原因であり、貧困者が余計に追い詰められている原因になっています。

 ホームレスやネットカフェ難民、あるいは屋根付きの家に住んでいる人でも苦しくてたまらない人に、私は声を大にして、「助けてくれって叫ぼうよ」と言いたいです。

 みんなが「男らしさの病」にかかっている世の中ですから、助けを求めて叫べば、「苦しいのはお前だけじゃない!」とか、「みっともないからやめろ」とかいって、叩いてくる人もいます。その人たちは、自分が周りに叩かれたくないから、男らしさを言い訳にして弱音を吐けないだけの、ただの臆病者です。男らしさ、逞しさを売りにしている人ほど臆病者なのだと思って、声を張り上げて叫んでほしいです。

 諦めずに叫び続けていれば、助けてくれる人は必ずいます。寄り添ってくれる人もいます。私でいえば、コメントをして私の活動を応援してくださる皆さんです。誰に何と言われようと、皆さんがリアクションしてくれないと僕は頑張れないと叫び続けていたおかげで、少しずつ理想の執筆環境を手に入れました。時々生意気な態度をとることもあるかもしれませんが、私は皆さんには本当に感謝しています。私が唯一このサイトを通じて誇れることがあるとすれば、常に「助けてくれって言える」人間であれたことです。それは生きる上で大切なことだからです。

 私を見習えというわけではないです。私はちょっと極端な例かもしれないからです。でも、苦しい人は私の半分くらいでいいから、叫んでほしいです。みんなで叫び続けていれば、いつかきっと、世の中も変わってくると思います。いま苦しい立場にいる人に必要なのは、「男らしい臆病さ」ではなく、「助けを求める勇気」です。

 ・・・・と、現在でこそ、「男らしさの病」克服できた私ですが、この当時はまだまだ、「男らしさの病」に囚われ、無駄に自分をイジメていました。成功とは、徹頭徹尾自分を殺した先にあるもので、「我慢」ができなければ、人間に生きる価値はないと考えていました。

 下流に生きる人にとっては、「我慢」は百害あって一利ありませんが、一定の生活水準が保障され、定年まで勤めあげれば重厚な厚生年金が保障されている(ハズ)―――すなわち、我慢した先の活路が開けている中流以上の人にとっては、あながち間違った考え方ではありません。

 二十二歳当時、その中流以上を目指した私が入学を申し込んだのが、IT系の専門学校でした。とくにITに興味があったわけではありません。ただ、学校説明会で、ITなら年齢がある程度いって、大学も出ていない人でも比較的容易に就職ができるという話をきいた、ただそれだけが理由です。特に好きなわけでもなく、ただ仕事として、この業界を選びました。11月か12月くらいにAO入試というものを受け、あっさりと来年度での入学が決まりました。

 中流以上なら我慢も悪くないと書きましたが、実際には、我慢の必要もなく、努力がほとんど報われ、ハッピーな一生を送れる人間もいます。それをリア充といいます。

 ・能力がある
 ・イケメンである
 ・コミュ力がある
 ・精神病質が少ない
 ・ひたすら運がいい

 この辺りが条件になるでしょうか。これらを全部備えているような完璧超人はなかなかいないでしょうが、一つなり二つなり備えている人であれば、比較的我慢の量が少なくても、楽しい社会人生活が送れます。これらを何一つ備えてない人間が、コイツらに縋りついていこうと思ったときに初めて必要になるのが、「我慢」です。プライドを全部へし折る覚悟、土を舐めさせられても笑ってられる覚悟、お零れが何もなくても文句言わない覚悟―――などと言い換えてもいいかもしれません。

 専門学校時代は、私に「リア充五大要素」が何一つないばかりか、最後の砦である「我慢」すらできなかったことを、一人の女とその周りの連中に思い知らされたという話です。

私小説の続き10 自己責任論との戦いの始まり 

くりやま

 

 一回間が空きましたが、今回は自己責任について語っていきます。私の人生というよりか一般論的な話です。

 長らく私のサイトを読んでくださっている方にはお分かりかと思いますが、私は「自己責任論」という言葉を憎悪しています。この言葉がいかに社会を悪くしているか、人の幸せを奪っているかを知っているからです。
 
 自己責任論の問題は主に二点です。「人の成長に役に立たないどころか、かえって阻害する」「議論がそれ以上進まない」ということです。

 「あんたの生活が苦しいのは、全部努力しなかった自己責任だ」・・・・これを言っていいのは、「努力すれば生活が楽なる、上に上がれる」前提がある場合だけです。では、実際の世の中がどうなっているかといえば、新卒というブランドを失い、実務経験もなく長年非正規の労働を繰り返してきた人には、実質まともな会社で正社員になるチャンスなどありません。機会の平等が与えられていない、実際にはどれだけ頑張っても向上の見込みがないのに、「努力不足」「自己責任」を言うのが理不尽でおかしな話というのは、人並みの理解力があればわかるかと思います。

 その理不尽がわかっていないのか、わかっていて開き直っているのか、いまだに「あなたが貧乏なのは仕方ないのだから、裕福な人を妬むな、文句を言うな」と平気で口にする人は世の中に大勢いますが、この人たちには、実際に生じている餓死などの問題を解決しようという発想はありません。ただ単に、自分の今の立場を守るため、弱者からの搾取を正当化するために、「努力してこなかった人間が貧乏なのは仕方ない、我慢しろ」と喚いているだけなのですが、それではただの感情論です。

 百歩譲って、貧乏になったのは自己責任だとしましょう。では、貧乏な人がますます貧乏になり、不満を溜め込んでいく状態を放置していていいのか?貧乏な人の中に、意外とそれで納得している人は多いです。しかし、そこまで追い詰められて、「おまえらには何の希望もないし、これからもっと苦しくなるけど、ただ我慢しろ」と言われ続けて、みんながみんな納得すると思ったら大間違いです。

 自己責任論というのは、「裕福なのはすべて努力の結果であり、貧乏なのは努力が足りないからだ」という結論で完結した思想です。そういった思想で政治を行ってしまうと、社会をより良く、もっとみんなが豊かになれるように、という方向に議論が進んでいかないのです。百歩譲って民間人ならまだしも、政治家が自己責任論を言うのは、国民みんなが豊かに、安心して生活できる社会を作る責任を放棄しているのと同じです。

 貧困問題の第一人者である湯浅誠氏は、「自己責任論=政治無責任論」ということを述べていますが、まったくその通りです。

 「自己責任論」は欠陥の大きな思想であって、それが社会を良くする要素は皆無なのですが、日本人の病理が深いのは、さっき述べた「意外とそれで納得してしまっている人が多い」というところです。いま裕福な人間が「自己責任だ、我慢しろ」というのは、許されることではありませんが、わからないことではありません。しかし、いま貧しい立場にある人がそれに大人しく頷いてしまう――それだけならまだしも、なぜか納得せず声をあげている人間を叩き、足を引っ張ろうとする。何とも奇妙な話です。
 
 こういう人たちの根底にあるのは、「私は自己責任を認めてるんだから、それ以上責めないで」という感情です。

 プロ野球の監督が、「負けたのは全部俺のせい」と言っているのを聞いたことがあると思います。一見、潔い言葉みたいですが、この言葉には大きな落とし穴があります。
 
 野球というのは、戦術の介入する要素が少ないスポーツと言われており、大半は選手の個人能力がチームの強さを決し、監督の采配で勝てるような試合は、年間140試合のうち5試合あるかないかくらいだと言われています。「名選手と名監督は別」と言われながら、プロ野球の監督がライセンス制にならず、選手としての過去の実績で決まるのは、本当は「誰がやっても大して変わらん」からです。

 じゃあプロ野球の監督って何のためにいるの?といえば、「責任を取るため」です。下手すれば選手の一生を左右する「起用」という決断をする。試合に負けたとき、ファンのヘイトを監督に集め、選手にダメージがいかないようにする。それが監督の一番の仕事です。

 本当はみんな、選手のエラーや失投、あるいは単純な戦力不足で負けたことがわかっている。でもそれで選手を責め過ぎた結果、イップスになって選手が潰れてしまったという過去が何度もあった。3割バッターやローテーションピッチャーの代わりはそういませんが、監督の代わりはいくらでもいます。だから敢えて、強引に、「ミスをした選手を起用した監督のせい」というところに持っていこうとしているのです。

 試合に負けたとき、ファンもマスコミも、最終的には、監督に責任を求めようとします。そういうときに、監督が先手を打って「俺のせい」といえばどうでしょうか?マスコミもファンも、振り上げたこぶしをおろさざるを得なくなります。追及する言葉を失ってしまいます。

 マスコミやファンに好きなだけ言わせた後に「俺のせい」というのはいいでしょうが、開口一番に「俺のせい」と言う監督は、本当に責任を感じているのではなく、ただ単にそれ以上責められないようにするためにそう言っているだけと考えて間違いありません。

 「貧乏なのに自己責任論を認めている」人の心理は、このプロ野球の監督と似ています。このとき、監督が、試合に負けた本当の原因がわかっていればいいですが、ただ単に自己完結しただけで、チームとしての本当の問題点がうやむやになっているようだといけません。それではチームが向上することに繋がりません。

 貧乏な人も同じで、親や兄弟などから努力不足を責められないために、取りあえず「はい、自己責任です」と言っておくだけならともかく、そこで自己完結して、貧困を生み出している社会の構造の問題を知ろうとせず、それを踏まえたうえでの貧乏から脱出する手立てを探す努力をやめてしまったとしたら問題です。問題と書きましたが、実際にはそうなってしまっている人が多いのではないでしょうか。だとしたら、「自己責任」という言葉は、まさに人が成長するうえでなんの役にも立たない、かえって阻害するということになっていきます。
 
 私がこういう人たちに対して言いたいのは、「努力しろ」ということではありません。「助けてくれって叫ぼうよ」ということです。

 続きます。
 

私小説の続き9 間違った意識改革1

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 寿町での一件があってから、私はアルバイトを辞めて、翌年に専門学校に通うための準備を始めました。資格を身につけ、真っ当な会社に就職して、底辺世界から脱出し、一生、堅実に生きていこうと決意をかためたのです。

 ネットや書籍で情報収集をし、幾つかの学校に目星をつけて、見学に足を運ぶようになったのですが、それにも増して重点を置いていたのは、「意識改革」という部分でした。

 度重なる失敗により、当時二十二歳の時点で、私という存在が、おそらくは社会不適応者である、ということは、十分に自覚していました。軽度のADHDを持つ私の特徴は、能力的な面でいえば、整理整頓が苦手なこと、注意散漫で忘れ物や落し物が多いこと。性格的な面では、執着心と嫉妬心が強すぎるところです。

 私の執着心に関しては、このサイトを長らくご覧になってくださっている方なら、よくお分かりかと思います。そもそも、二年半という期間に渡って、これだけの文章量のサイトを続けるということ自体、執着心がなければできないことです。

 私の場合、もう一般就職という道を諦めており、文筆業以外に生きる道を見いだせないから、という事情もありますが、「後がない」というだけだったら、今のご時世、そういう人はゴマンといます。いくら後がないからといっても、誰しもが二年半にもわたって、成功する保証もない(ここが本当に重要です)活動を二年間、ほぼ毎日休まず続けることはできないでしょう。

 自分を凄いと言っているわけではありません。努力というと美しいみたいですが、それが最終的に報われなければ、すべては無駄となってしまいます。私の場合、活動に大金がかかっているわけではないですし、もう他にチャンスはないわけですから、失うものは何もないようですが、徒労という精神的ダメージは負ってしまいます。したがってリスクはゼロではありません。

 リスク覚悟で、報われるかわからない活動に時間を捧げる。はっきりいって、恐怖ですよ。見返りがなければやってられませんよ。私がせめてコメントを、と皆さんにお願いする気持ちが、少しはわかっていただけるでしょうか。

 これだけのサイトをやっている。それ自体が、執着心の賜物であるということはいえると思います。

 嫉妬心に関しては、今は該当する記事は消してしまいましたが、以前通っていた映画の専門学校で失恋をし、心を病んでしまったことを紹介しました。好きなあの人が、他の男と付き合っているのでは・・・という妄想で、食欲不振に陥り、体重が落ちてしまうほど精神的に参ってしまうのです。振られた女にいつまでも拘り続けるのは、執着心の強さの表れといえるでしょう。

 当時の私がいけなかったのは、執着心と嫉妬心という、この二つの性格的特徴を直さなかったこと・・・・ではなく、この二つを欠陥だと決めつけ、完全に否定するという意識改革を行ってしまったことでした。

 執着心も嫉妬心も、悪いことばかりではありません。執着心がいい方向に向かえば、どんな困難にぶつかろうとも、何が何でも物事を最後までやり遂げようとする精神力に繋がり、社会にとって有意義な業績を成し遂げることもあります。嫉妬心が強いことは、それが他人と切磋琢磨することで、自らの向上に繋げていく良い意味での競争心になることであったり、社会や集団の中で、あからさまに理不尽な格差を是正することに繋がるならいいと思います。

 歴史上の有名人では、織田信長やトーマス・エジソン、坂本竜馬も、私とおなじADHDの持ち主だったと言われています。

 しかし、もちろん悪い面がかなり深刻なのも事実で、信長でいえば、離反した盟友、浅井長政との友好回復という方針に執着し過ぎるあまり、姉川の合戦で打ち破った長政をみすみす本拠の小谷城に逃がすという大きな軍事的ミスを犯したことがあり、エジソンでいえば、同じ発明家のライバルへの競争心が強すぎ、自分の発明の特許を取るために、ライバルをかなり陰湿なやり方で追い落としたことがあります。

 現代社会においては、人に対する執着が強い人は、しばしばストーカーと化してしまうことは周知のことかと思います。嫉妬が強いことは、それを自分が向上することに生かさなければ、心を腐らせる結果にしかなりません。

 ようするに良い面もあれば悪い面もあり、良い面は大いに生かして、悪い面はうまく制御して生きていけばよかっただけの話なのですが、当時の私はその性格を全否定し、殺すことだけを考えてしまいました。

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 たとえば、当時の私は、「今後は一切、恋愛をするのを辞めよう」という、ひとつの決意をしていました。映画の専門学校での経験を経て、「自分が恋愛をしても、自分が不幸になるだけで、他人にも迷惑をかけるだけだ・・・」と思い込んでいたのです。

 今から思えば、バカな事を考えていたものです。殺人犯ですら、出所後に結婚して子供がいる人もいるのに、別に悪いことをしたわけでもない私が、「迷惑をかける」などと考え、恋愛を自重しようと思うなど、今からすれば、まったくバカげた思い込みとしか言いようがありません。

 これだけ価値観が多様化した世の中では、恋愛をまったくしない生き方というのも選択肢の一つでしょう。恋愛に興味がないという草食男子にまでそれを押し付けるのは、野暮でしかありません。しかし、恋愛に興味がある人間に恋愛をするなというのもまた野暮、というか、そんな無理な生き方をすれば、絶対に歪みが出てきます。

 今現在のことを言えば、私には丁度二年間、結婚を前提に交際している女性がおり、関係は至って良好です。彼女に苦労をかけたこともありましたが、沢山笑顔にさせてあげられたという自負もあります。

 執着が強いということは、裏を返せば、一人の女性をずっと大切にできるということです。当然といえば当然のことですが、私は交際中、浮気を考えたことは一回もありません。男の本能として、多数の女とセックスをしたい望みはありますが、他の女を好きになろうという気持ちはまったく起こりません。嫉妬の怖さを知っているだけに、その苦しみを彼女に味あわせたくないと考えます。

 作家の岩井志麻子か誰かの言葉で、「最近の人は語彙が貧困になり過ぎている。昔だったら、情熱的だとか、一途だと言われていたような人でも”ストーカー”という言葉で一括りにされてしまっている」というのがあったと思います。

 語彙が貧困というよりは、電車の中で、赤ちゃんを泣かせる母親を一々咎める器の小さい人がいたりするように、”他人に迷惑をかけない”という意識が最重要とされる風潮が行き過ぎた結果のような気がします。

 迷惑をかけないことは大事かもしれませんが、それを考えすぎたら、欲しい物は何も手に入らなくなってしまいます。特に異性にはそれがいえるでしょう。「絶対に欲しい!」というエゴを貫き通し、6年間アタックを続ければ、天下の大女優が奥さんになってくれることもあるのです。それは極端な例としても、やはり本気で恋愛をしようと思ったら、ある程度のエゴは必要ではないでしょうか。

 世の中誰しも、良いところも悪いところもあります。私の場合は、ちょっとその幅が人より大きかっただけ。恋愛を自重する必要などまったくなかったということですが、当時の私は、失敗経験を大げさに捉えすぎて、自分は恋愛をしてはいけない、恋愛をしようとしたら社会ではやっていけない、と思い込んでいました。勝手に思い込んだ私も悪いですが、「そう思わせる空気」が社会の中にあったということも事実です。

 「社会に適応するために、恋愛をしてはいけない」

 「自分は恋愛をしてはいけない人間である」

 こんな風に決めつけなければ、この後に入った専門学校で精神が壊れる経験をしなかったかと思うと、慙愧に堪えません。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
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