犯罪者名鑑 市橋達也 3(2007年4月~6月)
四国
岡山で電車を降りた市橋は、電車代をなるべく節約しようと、瀬戸大橋まで線路沿いを歩いていきました。
この頃には警戒心も薄れてきたのか、駐輪場で盗難チェックをする警察官の傍を横切り、「本当に捕まえないといけない人間はここにいるのに、警察はこういうのも仕事なんだな」と、呑気なことを考えていたといいます。
そして瀬戸大橋近くの無人駅で電車に乗った市橋は、瀬戸内海を越え四国の土を踏みました。
市橋が四国を訪れたのは、お遍路参りをするためでした。神頼みにも近い気持ちだったのか、市橋は本で読んだお遍路の真似事をすることで、リンゼイさんが生き返るかもしれないと考えていたようです。
四国の人は、お遍路をする市橋に、「お遍路かい?」「がんばるね」と、気さくに声をかけてくれたといいます。市橋は、目立たないようにしなければ、とずっと下を向いて歩き、住民に声をかけられてもすべて無視していたそうですが、「人と触れ合えた気がして嬉しかった」と語っています。
米国のとある逃亡犯が、刑務所からの脱獄に一度は成功しながら逮捕されてしまった理由は、「人と話したくて、好意を持った女性に会いに行っていたから」というものでした。
その結果、彼は懲役80年を加算され、警戒レベル最高クラスの刑務所の独房に収監され、誰との会話も許されなくなってしまった(元の罪は懲役3年程度だったそうです)のですが、「孤独に強い」ということは、逃亡生活を送る上での資質の一つと言えるのかもしれません。
この頃の市橋には、人との交流を嬉しがる人間らしい一面がまだ残っていました。
お遍路
どこまで本気だったのかわかりませんが、このとき、この時点での市橋は、リンゼイさんが生き返るまで何周でも、何十周でも遍路道を歩こうと心に決めていたようです。
市橋の持ち物には、寝袋と、公園の蛇口に差してシャワーに使うためのホースが加わっていました。ホームレス生活をできる限り快適に過ごすため、市橋も対応力を身に着けていました。
当時、市橋は一日約20キロを歩いていたようです(標識に書かれてあるキロ数からわかった)睡眠も満足にとれず、まともな食事にもありつけない中では大変な距離ですが、リンゼイさんを生き返らせ、自分の罪を帳消しにしたいと思い込んでいた市橋は必死でした。
しかし・・。
お供えものや無人販売所に置いてある野菜、畑の果物などを食べながら遍路道を歩くうち、市橋は徐々に現実に返り、「こんなことをしてもリンゼイさんは生き返らない」と思うようになっていきました。そして、逃亡を続けるため無人島、いやそれでは飲料水が確保できないので、島民が少しだけいる離島を目指そうと思い立ちました。
香川の高松から出て、徳島、高知を通り、愛媛の松山まで、およそ一か月間、市橋は遍路道を歩いていました。鳴門海峡、室戸岬、足摺岬へ向かう遍路道は、警察に追いかけられたら逃げ道がなくなると思って避けたそうです。
松山に着き、フェリーターミナルに入った市橋は、そこで顔面に痣のある中年の女性と出会います。夫に殴られたという女性は、市橋の後についていこうとしますが、市橋は「連れていくことはできない」と言って断りました。女性が好みではないこともあったのでしょうが、この時点で市橋の中に、人と行動を共にして逃げるという考えはなかったようです。
ここまでの市橋の行動からは、本能的に危険を察知する野生の勘に優れる反面、計画性がなく、その場の思い付きで行動を決める性格が垣間見えます。その彼の衝動的な性格こそが、事件を起こす原因の一つだったのでしょう。
リンゼイさんを生き返らせるお遍路参りを途中で投げ出した市橋は、松山から大分、大分から鹿児島へと渡り、沖縄へのフェリーに乗り込みました。
オーハ島
フェリーで沖縄にたどり着いた市橋は、気候から雰囲気まで、本州とはまったく違った沖縄の様子に感動しながら、目当ての離島を目指しました。道端にはバナナやマンゴーが生っており、味は良くなかったものの腹の足しにはなったそうです。
漫湖公園にしばらく住み着き、ホームセンターで調理器具やボートを購入して準備をととのえると、那覇からフェリーに乗り、目的地であるオーハ島に到着しました。
オーハ島は久米島に隣接する小さな離島で、現在では無人島になっていますが、当時は市橋の他に数人の島民が住んでいました。岩場が多く、土の少ない島で、タコノキがよく生えている。大陸から流れてくるゴミが多く、流木もいくらでもあるため、火を炊くには困らない。
後にオーハ島を訪れた際には無人の小屋に住み着くことになりますが、このとき市橋がねぐらにしていたのは、雨風を凌ぐのが精いっぱいの小さな洞窟でした。夜はヤドカリや大きな蟻、蚊が狙ってくるため、暑くても我慢して寝袋に包まって寝ていたそうです。
住居を確保できた市橋は、次に食料を得ようと釣りをしてみましたが、波が激しく浮きが戻されてしまい、田舎で少し釣りをした程度の経験では無理だと判断して諦めました。続いて森の中に入ってみましたが、タコノキのノコギリ状の葉で肌を切るだけで、イボだらけの岩も危険でした。ハブも多いとのことで、森で食料を得ることも難しそうでした。
釣りがダメなら素潜りだと、コバルトブルーの海に飛び込んでみたこともありました。色とりどりの珊瑚や貝、ヒトデ。きれいな魚は人が珍しいのか、市橋を興味深げに見ており、逃走生活で荒んだ心は癒されたそうですが、包丁を紐で棒に巻きつけた手製のモリには返しがついていないため魚は取れず、素人が野外で食料を得ることの難しさを痛感させられるだけでした。
五日目になると、とうとう飲料水が底を尽いてしまいました。クーラーボックスを利用して海水を真水にする装置を作ろうとしましたがうまくいかず、井戸を探して歩くことにしました。
島の西側には人家があり、出会った老人から、オーハ島には井戸や水道があるという情報を得ることができました。一応、畑仕事に雇ってもらえるかどうかを聞いてみましたが、とても余裕はないということで断られました。
そして見つけたあずまやの水道で水を飲み、脱水症状からは解放されましたが、食料を継続的に得ることに不安を感じた市橋は、オーハ島で暮らすことを一時諦め、那覇に戻って職を得ることにしました。金も底を尽きかけており、フェリーにはキセルで乗り込んでいた市橋は、那覇で船を降りる際に職員に捕まったのですが、土下座をして許してもらえたそうです。
沖縄にいるときも、ラジオや新聞などで、自分の起こした事件に関する情報はこまめにチェックしていました。遺族のコメントなどを聞いて罪悪感に駆られるときもありましたが、市橋は「誰だって逃げる。誰だって逃げるんだ」と自分に言い聞かせていたそうです。
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