今月について


 今月の更新はここまでとなります。

 前月、前々月で、ノルマ+αを達成しましたので、今月の「外道記 改」のコメント数のノルマは前々月より引き下げ「5」としたいと思います。

 また、「HAKENー異物混入」の方は今月のうちにこちらから削除します。コメントをされていない方はお早目にコメントをお願いします。

 新作小説の方は、ほとんどが「ノルマ数ギリギリ」のコメント数となっていますが、これは大変危険な状態であると認識していただけますと幸いです。というのは、私は「私の書いたものをちゃんと読んでいるかわからない」コメントは、ノルマの集計の対象外としているからです。

 「今月はノルマに届いているみたいだから、自分はコメントしなくていいや・・・」とお考えになられますと、いきなりこちらの運営が終わっているということは十分にあり得ます。

 私の運営方針に不満を抱かれるのは構いませんが、それについて「説教」されても、私は読まずに消します。 

 説教をする人は、私に良くなってほしいのではなく、自分がキレイゴトを吐いて、自分が気持ちよくなりたいだけの偽善者です。

 私のお願いをきかない=コメントをしない方が、「読者を責めるな!」「読者を頼るな!」と、被害妄想を全開にされるのはやめてください。

 そもそも、コメントをして、存在確認に協力をされない方は、私にとって「読者」ではなく、「読んでるのか読んでないのかわからん人」です。

 これから私に説教をしようという方は、自分の提供しているものをちゃんと受け取ってくれたかもかわからん人から文句をつけられたとき、人がどう感じるか、自分の胸に手を当ててよく考えてください。

 私のお願いをきかずに説教をするということは、コンビニを立ち読みとトイレにしか利用せず、利益にまったく貢献していないのに、一丁前にクレームだけはつけてくるという行為と同じです。

「俺はキレイなココロの持ち主だ!キラキラキレイなココロの持ち主だ!我を崇めよ、称えよ!俺はお前より上の人間だ!いや神様だ!」  

 説教する人が言いたいのは、ようするにそういうことです。

 言っていることは聖人君子、やっていることはクソ野郎。それが、「説教厨」という人種です。

 説教、荒らしは読まずに消します。
 
 以上、よろしくお願いします。
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外道記 16

 朝礼の場に現れた東山の姿を目の当たりにして、派遣スタッフたち全員が、息を飲んだ。

「おい・・・・なんだよアレ」

「なんか、やばくないか・・・?」

 目の下に大きなクマが広がり、頬がこけた、幽鬼のような東山の顔は、まぎれもなく、十八年前、俺との「生存競争」により精神を蝕まれ、鬱状態に陥っていたときの東山弘樹くんの顔と同じであった。

 東山が匿名掲示板で自分の記事を発見してから三日間で、ネット上では、東山の個人情報を突き止め、拡散しようとする「祭り」は、大きな盛り上がりを見せていた。凶悪な殺人事件の加害者であるにも関わらず、現在は一児の父として幸福な家庭を築き、仕事ではブラック運送会社の親方として、社会的に弱い立場の派遣労働者をイジメているという事実が、世間の反感に火をつけたのである。

 匿名掲示板には関連スレッドが五つも六つも建ち、何十万、何百万人というネットユーザーが、自分のことを噂し合っている。現実世界においても、いつ、どこで、誰が自分のことを見ているかわからないという状況で、東山は夜も眠れない日々を過ごしているのだ。

 東山は、腹心の部下、中井でさえ近寄ることができない異様な雰囲気を発していたが、そんな彼に、ただ一人、敢然と立ち向かっていく英雄がいた。

「東山!お前は許されないことをしました!大変な罪を犯したお前は、この世から消えるべきです!」
 インターネットのサイトをコピーしたA4の用紙を捜査令状のように東山に突きつけ、息を巻く莉乃の姿に、誰もが呆気にとられていた。

「東山!お前は過去の罪を反省もせず、私たちにひどいことをしていたのですか!お前は、人間ではありません!鬼です!」

 莉乃はもちろん、紙に書いている文字が読めるわけではない。だが、書いてある内容は理解できている。ある人物によって、東山の過去がインターネット上の「祭」となっていることを知らされた莉乃は、ネットの書き込みをコピーしてきて、東山が何よりも大切にする職場で、東山が何より隠しておきたかった忌まわしい過去を暴いてしまったのである。

 倉庫内に、絶対零度の空気が広がっていく。東山の小さな頭の中で、何かが崩壊していく音が、はっきりと感じ取れるようだった。

「り、莉乃ちゃん、その話は、あとにしましょ。ね。ね」

 松原の取り成しで、どうにか場は収まったが、倉庫内の空気が暖まったわけではない。俺も生きた心地がしなかった。

「東山職長が、あの事件の・・・?」

「まともな奴じゃないとは思ってたけど、人殺しだったんかよ・・・」

 午前の勤務時間中、どのテーブルでも、東山の話題に花が咲いている。あの三バカトリオたちでさえもが、口を動かすのに夢中で、作業の手が進んでいないようだ。

 こういうとき、東山信者の桑原がどうしているかといえば、彼は目の前に繰り広げられる光景に何の関心も示していないかのように、黙々と作業に励んでいる。本人が言っていたように、悪事が勲章の桑原には、東山の過去が暴露されたことは、東山の栄光が明らかになったのと同じことであり、むしろ誇らしいことなのだ。

「東山は、とんでもない男でした!あの男は、かつて、同級生の女の子を、めったざしにしてころしていたんです!あの男は、殺人犯だったんです!殺人犯が、今まで私たちに、酷いことをしていたんです!みなさんも、これは大変なことだと思うでしょう!」

 そして昼休みに入った途端、莉乃は派遣スタッフ全員に、自分がコピーしてきた資料を見せて、東山への反感をさらに煽ろうとする。その一点の曇りもない瞳の色からは、殺人という恐ろしい罪を犯した東山への恐怖の念はまったく感じられない。

――東山でけえな、情報によると小柄で痩せぎすだったということだが。

――派遣が労働組合作って反乱か。人殺しが成長してパワハラ野郎になってたとか、これは社会的に抹殺しないといけないでしょ。

――殺人鬼でも結婚して子供作ってるのにおまえらと来たら

――普通に俺より勝ち組だわ。

――真面目に生きてる人間が孤独なのに、殺人犯が暖かい家庭築いて幸せに生きてるってどういうことだよ。

 莉乃が配布したプリントに書かれていた、東山についての、ネットユーザーのコメントである。これはあくまで一部であり、ネット上には、これの何千倍もの数のコメントが寄せられ、何十、何百万人もの人間が、東山について書かれたコメントを目にしている。燃え上がった炎は、匿名掲示板からSNSにも飛び火し、東山は一躍、ネットの有名人になろうとしていた。

 ネットの力を、舐めてはいけない。一九六九年。神奈川県で起きた高校生首切り事件の犯人が、出所後、勝ち組の象徴である弁護士の職についていたことが、あるジャーナリストの取材によって明らかにされた。弁護士は地元の名士として声望を得ており、収入も高く、家族もいて、社会的に成功を収めていたが、被害者への弁済をまったく行っていないことや、取材に訪れたジャーナリストに対し、反省の見られない、不誠実な対応を取っていたことなどが世間の反感を買い、ネット住人に個人情報を特定され、電話や郵便物による誹謗、中傷を受け、最終的に弁護士を廃業するところまで追い込まれた。

 真面目に生きている自分の人生が報われないのに、人殺しのアイツが、なぜ反省もせず、左うちわで暮らしているんだ――?そんなヤツは、引きずり降ろしてやれ。

 元殺人犯の弁護士に対する世間の感情は、当然のものである。弁護士にまでなったのは本人の努力もあるが、それでも世間は、人殺しが勝ち組になり、裕福な暮らしをすることは、許してはくれないのだ。

 東山は、経済的には勝ち組とまではいえないが、日常的なパワハラで弱い立場の派遣労働者を追い込んでおり、「燃える」要素は十分にあった。弁護士の時代よりも、ネット住人の数は遥かに増えている。今後、丸菱運輸にはクレームの電話や、嫌がらせの郵便物などが山と届くだろう。騒ぎが大きくなり、利益にも関わるようになれば、会社も東山を庇い切ることはできない。東山の解雇は、時間の問題である。

「世の中のみなさんも、東山を悪いやつだと言っています!みんなで、東山を倒しましょう!東山は、ひどい奴なのです!」

 相手から見えない匿名掲示板などで犯罪者をボロクソに非難できる人間は大勢いても、実際に人を殺した人間を指さして、お前はこの世から消えるべきだ、などと叫べる人間はそういないだろう。
 クソ度胸があるからではない。莉乃が東山にまったく怯えることなく、巨悪に立ち向かうジャンヌ・ダルクアピールができるのは、莉乃が人の悪意を知らないからである。

 この女は、かつて俺やにんにく大魔人を「化け物」のように言い、ネガキャンを張ることによって、怖い怖い「雑菌おじさん」たちから、みんなに守ってもらっている構図を演出し、自分に酔いしれていた。莉乃は口では怖い怖いなどと言っていたが、実際には、俺やにんにく大魔人を舐め腐っていたはずである。本当に俺やにんにく大魔人に恐怖を感じていたのなら、そんな猿芝居に利用することなどできないはずだ。

 自分にとって都合のいいものだけしか目に入れずに育ってきた莉乃は、人の悪意を認識できない。あるいは、悪意というものがあったとしても、それは自分が主役を務める、おとぎ話の世界には絶対に侵入できないものだとタカをくくっているのだ。

 悪意なく人を傷つける莉乃に、東山の過去の犯罪を教えたのは、俺であった。正確には、純玲が発見したという形にして、おしゃべり好きの松原に伝えさせ、松原を通じて、莉乃のところにまで伝えたのである。

 目的は言うまでもなく、莉乃と唐津に、東山を攻撃させるためだ。目論見は成功し、とっておきのネタを与えられた莉乃は、あろうことか公衆の面前で、東山の過去を暴いた。あそこまで刺激されて、ただでさえ脳の容量が小さい東山が、冷静でいられるわけがない。ボクシングでいえば、一ラウンドからなりふり構わず、スタミナ配分も度外視のラッシュを仕掛けられたようなものである。

 莉乃と唐津に対する東山の恨みを増幅させるのに成功したなら、お次は俺に対する東山の恨みを和らげる作業である。東山にとって危機的状況である今、東山をフォローするような言葉をかけることで、俺が東山の味方であることを印象付けるのだ。

 俺は五分で昼飯を済ませて、休憩室を出た。 廊下を歩き、東山のいる事務室へと近づいていくと、鈍器で人肉を殴っているような、嫌な音が聞こえてきた。少し進んでみると、廊下に赤い斑点が見えた。歩を進めるごとに、斑点は大きくなっていく。やがて目に入ってきたのは、能面のように無表情の東山が、桑原を殴打している姿だった。

「お・・・あ・・・」

 かつて東山に「完勝」したはずの俺が、東山から放たれる、怪物的なオーラに圧倒され、身動き一つ取れなかった。今、俺の目の前にいるのは、人外の獣である。

「ごぅっ・・・うぅううっ!!!」

 熊が唸るような声を出して、東山が、こちらを振り向いてきた。

「おっ、落ち着けよ。お前の気持ちは、わかってるよ。お前は悪くないよ」

 密林でグリズリーに出くわしたチワワのように、全身の体毛が震えている。自分が何を言ってるのか、わからなかった。

「・・・・・俺から金銭を搾取しているお前が、俺の過去を暴くメリットはない。俺の過去をネットに流したのは、コイツ以外には考えられない」

 東山が底冷えのするような声で、自分が短絡的な決めつけによって、桑原を殴打していた事実を述べた。

「・・・いや、そんなのはわからねえだろ・・・。お前の場合、いろんなヤツから恨み買っちゃってるんだから・・・」

 東山の個人情報がネットに流出したのは、たまたまタイミング的には労働組合と争っているときであったが、東山の職場での横柄、いや横暴な態度が昔からのものだとするなら、動機があるヤツはこの世に山ほどいる。十八年前の「少年A」と、三十二歳の東山職長が同一人物だと知っていたのは、この職場では俺と桑原だけかもしれないが、どこかの誰かが、何かをキッカケにして、偶然真実に辿りつくといったことがないとはいえないし、東山を殺したいほど恨んでいるヤツが、金も使って本気になって正体を調べようと思えばすぐわかることだ。

 容疑者は、それこそ無数に浮かび上がる。特定しようなど、考えるだけ無駄なのである。

 自分が個人情報を流出させておいて言うのもなんだが、結局東山は、自らの手で墓穴を掘ったのだ。こそこそと目立たないように、自己主張を控えて、周りと穏便にやりながら生きておればよかったものを、自分の過去に後ろ暗いことは何もないとでも言わんばかりに威張り散らし、パワハラなどをして弱い者をイジメていたから、いざ隠したい過去がバレてしまったときにも、自業自得という形になり、誰が犯人かもわからなくなってしまう。

 自己弁護するわけでもなんでもなく、東山を恨みに思った誰かの手によって個人情報が流出し、東山の忌まわしい過去が暴かれるのは、単に遅いか早いかの問題だったと思う。何度でも言うが、東山が少年院を出てから、再び俺に出会うまでの人生に関しては、俺には何の責任もないのである。

「なんにしても、ぶん殴っちゃうのはまずいよ。どうすんだよ、お前・・」

 事実無根の勝手な決めつけにより、いち派遣スタッフを血が出るまで殴打し、怪我を負わせてしまった東山。もはやどう取り繕っても、懲戒解雇は免れないところである。結局、東山は己の単細胞のせいで、大事な職を失ってしまったのである。

「・・・ら、らいびょうぶっすよ・・・・。俺、このことは、誰にも言いませんから・・・・東山先輩は、心配しないでください・・・・」

 東山の殴打を受け、両目が塞がり、鼻はピエロのように赤く膨らんでしまった桑原が、健気にも東山を庇おうとする。この男の東山愛も大したものである。特別に恩義を受けたわけでもない他人に、これほど深く心を寄せられる「信仰」の強さは、親にすら感謝をしたことがない俺には、まったく理解できなかった。

「・・・ほかの連中に見られたらまずいから、取りあえず、空き部屋に避難しようか」

 ひとまず俺が場を仕切る形で、桑原を、人がいない用度品室に連れていき、東山には、事務室に救急箱を取りに行かせた。

「お前、東山に何言ったんだよ」

 東山は、桑原が自分の過去を暴いたから殴ったのだと言ったが、いくら東山が単細胞でも、それだけで人を半殺しにしたりはしないだろう。東山が、桑原が犯人だと思い込んでいたところに、桑原がまた、超カッコいいとか何とか、無神経なことを言って、東山を無暗に刺激したに違いないのだ。

「俺は・・・・気づいてしまったんです・・・」

「何に?事件のこと?」

「いえ・・・俺が気づいたのは・・・合唱コンクールの歌とは、おせち料理である、ということです」

「は?」

「俺の中学で行われていた合唱コンクールでは、”翼をください”という曲が大人気で、毎年全学年全クラスが、自由曲でこの曲を歌いたがって、女子が喧嘩して泣き出す騒ぎが起こっていたのですが、俺は彼らのことがずっと不思議でした。確かに俺もいい曲だとは思いますが、ウォークマンで聞きたいと思うほどではありません。それはみんなも同じで、合唱コンクールの時期以外に”翼をください”が話題に上がることはなく、みんな普段は、お気に入りのアイドル歌手やロックバンドの曲を聴いていました。おかしいと思いませんか?合唱コンクールのときは、”翼をください”を異常なまでに持ち上げるのに、普段は見向きもしないなんて。俺は彼らのやっていることに強烈な違和感を感じ、合唱コンクールの時期がくるたび、いつも何か、モヤモヤとした気持ちになっていました。しかし、ついさっき、合唱コンクールとはお正月であり、翼をくださいはおせち料理だったのだということに気づき、やっと合点がいったのです。おせち料理は確かにおいしいですが、お正月以外には、基本的に食べる機会はありません。普段は話題にも上らないのに、お正月という特定の時期だけ食卓に並んで、みんなに持て囃される。そうか、正月料理という制約の中で持て囃されるおせち料理と同じように、”翼をください”も、合唱曲という制約の中で持て囃されていたのか。両者の性質が、まったく同じであることに気づいた俺は、東山先輩に褒めてほしくて、つい、先輩の機嫌も考えずに、報告してしまったのです」

 わかったようなわからないような話だが、合唱コンクールに強烈なトラウマを持つ東山の前でそんな話をしたというのであれば、殴られるのは仕方ないとしか言いようがない。

 五分ほどで、東山が救急箱を持ってやってきた。桑原の顔面の、サメのエラのようにバックリと裂けた傷口に止血剤を塗り、ガーゼをあててテープで固定する。手当てを終えると、桑原はそのまま早退させた。

「おい、大丈夫なのか?あいつは本当に、今日のことを誰にも言わないか?」

「少しはアイツのことも、信じてやれよ。お前のことを神様みてえに思ってるんだぜ。とにかく、これに懲りたら、お前もあんまり、軽率なマネはするな。まだ、すべてを失ったわけじゃないんだからさ」
 気休めである。東山は、どう足掻いても破滅だ。これから、俺という間違った相手を殺すという形で「暴発」もしくは、自殺という形で「犬死に」しようとしている東山を、正しい相手にケジメをつけることで、「成仏」させてやるというのが、これから俺がやろうとしている「仕事」である。

「あのっ、あのっ、あの女はっ、何なんだっ。アイツがアイツが、俺のことをっ」

「わ、わかった。莉乃は俺が黙らせておくから、落ち着けよ」

 クマが顔面の周りを飛び回るハチを追い払うような、滅茶苦茶な動きをして暴れ狂う東山にびっくりして、せっかくの莉乃殺害の好機を逃すようなことを言ってしまったが、多分、これが正解である。物事には順序というものがある。今、この段階で東山を唆すようなことを言ってしまったら、東山は俺に疑いの目を向けてしまうかもしれない。

 少しずつ、幼子の手を引くように、東山を導いていく。今はとにかく、東山の信用を得ることが先決である。

 休憩時間が終わり、作業場に戻った俺は、さっそく、愚か者の莉乃に口を慎むよう説得に入った。

「どうして、東山を責めてはいけないんですか。あいつは、絶対に許されないことをしたんですよ」
「だからだよ。何するかわからねえアイツを、無暗に刺激するなよ。莉乃ちゃんが騒げば、逆上した東山に、みんな殺されちゃうかもしれねえんだぞ」

 首を傾げる莉乃には、自分が殺人事件という、物騒な出来事に巻き込まれることのリアリティがまったく感じられないようである。

「東山が私たちを殺そうとするなら、アイツを完全に、この社会から追い出しちゃえばいいと思います。人を殺すような奴は、自殺をするべきです」

 何も考えないのが私の考えです、とでも言わんばかりの態度。宇宙人と話しているようだった。

 誰もが快楽や金のためだけで罪を犯すわけではなく、どうしようもない事情に迫られて一線を踏み越える場合もあるということを想像もできない、感受性の鈍さ。善悪の二元論でしか物事を考えられない人間が、安易に正義を振りかざす愚かさと恐ろしさ。まさに幼児がナイフを振り回しているようなもので、その刃は周りにいる人間を無差別に傷つける。東山にボロ雑巾のようにされた桑原が、まさにその被害者である。

「そんな身も蓋もねえこと言うなよ・・・アイツにだって」

 それでも粘り強く、東山を追い詰めることの危険を説こうとしたところで、莉乃の顔面が、何ものかの平手によって叩かれた。大きな二重の目をカッと見開き、憤怒の形相を浮かべているのは、純玲であった。

「いい加減にしろよ、世間知らず!誰もがキレイゴトで生きてるわけじゃないんだ!理屈じゃどうにもならないことが、この世にはあるんだ!」

 頬を張られた莉乃の目から、大粒の涙が零れ落ちた。貧困家庭に育ち、死刑囚の兄を持ち、発達障害まで抱えながら、それでも道を違えずに生きてきた純玲の言葉とビンタは、人を傷つけるのは平気でも、自分が傷つくことは耐えられない莉乃に、強烈なダメージを与えたようだった。

「私・・・私は、みんなを、守りたくて・・・」

 莉乃が隣で作業をしている唐津に、縋るような目を向けながら寄っていった。唐津は一応、莉乃の頭を撫でてやったが、表情は戸惑い気味である。唐津にしても、まさか莉乃がここまでやるとは予想外だったのかもしれない。

 純玲のお蔭で、どうにか頭から湯気を出す莉乃を押さえることができた。東山からの信頼度を高めたところで、俺は東山に、今後のアドバイスを送った。

――お前しばらく、会社を休め。今の状態で出てきたって、いいことねえだろ。

  ところが東山は、俺のアドバイスを無視して、翌日も普通に出勤してきてしまった。
 
――今日休んだら、変に怪しまれる。まだ会社の上層部にバレたわけでもない。俺が確実に少年Aだという証拠があるわけでもない。

 東山の意志が固く、翻意させるのが難しいことがわかった俺は、東山に二点のアドバイスを送った。一つは、自分に後ろめたいことは何もないかのように毅然としていること。もう一つは、自分から、「その話題」に触れないことである。

 人の噂も七十五日。誰が何を言おうが、カエルの面に水の心境でやり過ごし、誰に何を聞かれようが、黙ってシラを切り通す。そうしているうちにネットの「祭り」も沈静化し、何事もなかったかのように、元の生活に戻れる。天文学的確率だが、そのようにうまく事が運ぶ可能性もないとはいえない。

 しかし、直情型の東山にポーカーフェイスを要求するのは無理な注文だったようで、朝礼で派遣スタッフたちの前に立った東山は毅然とするどころか、表情は険しく、睡眠もまったく取れなかったのか、目の下のクマは、昨日よりもさらに色濃くなっていた。とても人前に出て話せる状態ではないように見えるが、一応、毎日の決まりである。時間になると、喋り出す前のいつものルーティーンで、東山は一歩前に進み、一つ咳払いをした。

「お前らに・・・・・ひとつ、言っておくことがある」

 バカなヤツ。東山は、自分から「その話題」に触れないというアドバイスにも従えなかった。俺の立場では、もう彼を止めてやることはできない。黙って様子を見守るしかなかった。

「インターネットで、色々言われているみたいだが・・・。俺は、ネットに書かれているようなことなど、していない。それだけは、お前らに言っておく」

 東山の釈明を聞いて、何か口を挟もうとする者は誰もいない。桑原は東山に殴られて仕事を休んでおり、莉乃は昨日の純玲のビンタが効いて、昨日のような大暴れはできなくなっている。唐津も、さすがに相手が殺人鬼ともなると、軽々しくコメントをすることはできないようである。

「俺は・・・お前らのことを・・・仲間だと思っている。戦友だと、思っている・・・・」

 本当に、バカなヤツ――。今さら仲間などと、白々しいにもほどがあるという話であろう。自分で、僕は突っ込まれたら痛い腹があるから、これ以上探らないでと言っているようなものである。

「俺は今まで・・・・・お前たちに、怒りすぎたことを・・・・」

 まさか、謝るのか?派遣スタッフたちが、固唾を飲んだそのとき、東山腹心の部下、中井が、東山の後ろから歩み出てきて、東山の肩を叩いた。さっきから、中井は電話で誰かと話していたようであったが、受話口の向こうの相手は、四メートル近く離れた俺の耳にまで入ってくるほど大きな声で怒鳴り散らしていた。相当に激昂していたようだが、相手はおそらく丸菱運輸の重役で、用件はおそらく、東山を出せということであろう。さっきまで、東山の胸ポケットに入った携帯も鳴っていたが、本人はまったく気づいていないようだった。

「・・・はい・・・・はい・・・・いえ、その・・・・・」

 重役と話す東山の表情が、みるみる青ざめていく。大方、朝から本社にクレームの電話が入ってきて、東山の過去が、重役に知れるところとなったのだろう。電話が終わった東山の表情は、すべての生気が抜け落ちたかのようにやつれていた。

「あとを、頼む」

 重役から、呼び出しを受けたのだろう。中井に弱弱しい声で言い残して、東山は倉庫を出て行った。

 午前の作業中、倉庫内は、今日も東山の話題で持ち切りとなった。自分たちの上司が、有名な殺人事件の犯人であるという可能性が、極めて高くなったのである。気にしないで働けという方が難しい。昼休憩前になって、東山は倉庫に戻ってきたが、さっきよりも頬はやつれ、肩が落ち、三時間あまりの間に五歳以上も老けたようになっていた。

 東山は、深山たち三バカトリオが作業をしているテーブルに近づき、何かを手振りで示し始めた。どうやら、仕事熱心な三バカトリオに、早く正確な箱の作り方を伝授しているようだ。これまで歯牙にもかけていなかった三バカトリオに縋らなくてはならないほど、東山は追い詰められているのである。

「あ?人殺しが何言ってんだよ。箱の作り方なんて、こっちはもうわかってんだよ。邪魔だから、失せろよ」

 耳を疑った――今まで、靴の裏を舐める勢いで東山に媚びを売っていた深山が、東山に、あからさまに反抗的な態度をとったのである。

 莉乃のように、他人の悪意を認識できないのとは違う。出世の足掛かりになりそうな人間には全力で媚び、付き合ってもメリットのない人間は、とことんまで見下す。どんな人間にも長所は一つくらいはあるものだが、深山の一貫性には、ある種の尊敬すら覚えた。

 倉庫内に戦慄が走ったが、東山は力なくうなだれただけで、特に言い返すでもなく、とぼとぼと歩いて、倉庫内を出て行ってしまった。東山がいなくなったところで昼休憩のチャイムが鳴り、皆が休憩室に引き上げていった。

「さっきはマジで焦ったわ。深山さん、心臓に悪いからやめてくれよ」

「何をビビっとる、桟原。あんな奴に、何を遠慮する必要があるんだ。人殺し野郎なんか、神聖な職場から追い出して正解だ」

 東山が耐えてくれて、心からよかったと思う。こんなカスのようなヤツを殺害して捕まったのでは、東山も浮かばれない。

「ただでさえ威圧的な風貌に、威圧的な言葉遣いの人が殺人犯だとわかったら、みんな怖いですよね・・・ちょっと、吉沢さんに相談してみますか」

 谷口と一緒に入った障碍者グループも、事ここに至っては、東山を擁護する姿勢は見せなかった。この丸菱の倉庫に、東山の味方は一人もいなくなったのである。

 意外なことは、唐津が東山の過去話にまったく興味を示そうとしないことだった。おそらくは、唐津が手を下すまでもなく、東山は破滅だとわかった以上、下手に刺激して、狂った東山の刃に倒れたくはないということであろうが、もしかしたら、横暴な東山を、派遣労働者自らの手で葬り去ることに価値を見出していた彼には、東山が自滅により職場を去るという結果は不本意だったのかもしれない。

 こちらは本当に不本意そうなのが、純玲にダルクアピールを潰された莉乃であった。ムスッとした表情からは、燻った闘志を持て余しているのがありありと見てとれる。ただ、みんなの前で殴られたからやめただけで、おそらく、自分の何が悪いのかは、サッパリわかっていないのだ。

 不完全燃焼に終わった唐津と莉乃の闘志をもう一度ぶつけるときは、必ずやってくる。これから俺が東山を説得し終え、恨みの矛先を唐津と莉乃に向けるのに成功した後、莉乃と唐津に最後のひと押しをさせる。ブチ切れた東山が、ついに奴らの息の根を止めるのである。
 
――いま、仕事が終わった。お前はいまどうしてる、東山。

――実家に帰るだと?許さん。今すぐ帰る。家で待ってろ。

 夕方に送った俺のメールに対して、東山からは、まったくちぐはぐな内容の返信が返ってきた。おそらく、女房に送るはずだったメールが、間違って送られてきたのだろう。相当に気が動転しているようである。

――落ち着け、東山。脳みそを沸騰させたままで動くな。

 俺が続けて送ったメールの返信が返ってきたのは、夜更けになって、そろそろ晩酌を始めようかというときだった。

――女房を、殺ってしまった・・・・。

 冥界から響く山里愛子の声に、耳を傾けてしまったのか。東山の転落は、もはや誰が支えようとも止められないほどの速度で進んでいた。

外道記 改 15

翌日曜日は、桑原を連れて、にんにく大魔人の捜索のため、ヤツの現在の住処とみられる地蔵山に登ることになっていた。

 駅前で集合した俺たちは、まずは情報収集のため、駅前の商店を訪ねる。

「よう、婆ちゃん。今日は、ハゲデブオヤジは見た?」

「おお・・・。今朝も、孫のクラブをみながら、食べ物を買って、地蔵山の方に入っていったねえ。私に、そのチャンチャンコ素敵ですね、とか、わけのわからないことを言っていたねえ」

 精力を極限にまで高め、野獣と化したにんにく大魔人には、七十歳を越える老婆すら、「女の子」に見えているのである。

 老婆から情報提供を受けた俺は、桑原とともに、勇んで山の中へと、足を踏み入れていった。今日は登山ということで、俺は昔の派遣先で返却し忘れてそのままになっている、黄土色の作業服を着ていた。桑原はいつものツナギ服ではなく、迷彩の軍服姿である。

「あっ。アニキ、あそこ見てください。オオヒラタシデムシの幼虫が、すげえ速さで走ってますよ!うおっ!あっちでは、節の部分が黄色くなった一センチ級のダンゴムシが、落ち葉を食っています!おわわわっ、スギヒラタケだっ!アニキ、お腹すいてても、これは食べちゃだめですよ!」

「うるせえな・・・んなもん、みたくねえし、食わねえよ・・・」

 山道は滅多に人が立ち入らないためか、倒木などがそのままにされ、水はけも良くないため、昆虫類やキノコが至る所から顔を出している。人間の女が放出する糞尿、悪臭といった方面のグロテスクには性的興奮を覚える俺であったが、動植物方面のグロテスクは守備範囲外であり、恐怖でしかなかった。

「あっ!アニキ、あれを見てください!」

「やだよ・・・。さっさと行こうぜ」

「あれはっ!あれはヤバいですよ!」

 桑原がしつこいので、桑原が指さす方向に視線をやってみると、そこには虫ではなく、四体の地蔵が並んでいた。おそらく、これが地元民に地蔵山と呼ばれる所以なのだろうが、妙なことには、普通は六体で並ぶ地蔵が、二体欠けて四体しかいなかった。確かに、地蔵の身長は三十センチほどで、大人の男であれば何なく持ち運べるほどの重さであるにしても、一体誰が、何の目的で、こんな地蔵を持ち去ったというのか?

「アニキ、見てください。こんなところに、ハートチップルの袋と、金剛鳳凰丸のビンが落ちています。これは、にんにく大魔人が落としたものではないでしょうか」

 地蔵が置かれている周辺は休憩所のようになっており、ベンチに座って休むことができる。おそらくにんにく大魔人は、愛する「いちご」に会う前に、ここでおやつを食べ、勃起エネルギーを増幅していたのだろう。

「あの野郎、俺の愛する地元の自然を破壊しやがって・・・。許せん!」

 粗暴な桑原に環境愛護の精神があったとは意外であったが、彼がにんにく大魔人を何がなんでも見つけ出そうとする決意は、これでより強くなったようである。

 さらに山道を十五分ほど進むと、古びた山小屋が見えてきた。木造の一階建てで、壁面は朽ちかけてキノコが生え、関西の野球場のように、蔦が垂れ下がっていた。曇った窓からは、積み上げられた布団や、ひっくり返ったのようなものが見えている。どうやらここは、物置小屋か何かに使われているようだ。

「こりゃ、何かがありそうだな・・・うおっ!」

 足元の注意をおろそかにして山を登っていると、突如、何かを踏んですべり、前につんのめってしまった。同時に、鼻毛が干からびそうな悪臭が漂ってくる。足もとを見ると、足が何本もある、わけがわからない虫が二十匹くらい、ワーッと逃げ散っていくのが見えた。

「な、なんだってんだよ・・・」

 全身に走る悪寒に耐えながら、桑原と一緒に、もう一度足もとをよく見みてみた。

「こっ・・・これは、糞だっ!アニキは、糞を踏んだんですよ!」

 俺が靴で潰したことによって、無数の落ち葉に塗りたくられた、茶褐色の物体。踏んだ瞬間、足に伝わった柔らかい感触。辺り一面に広がる悪臭。確かに桑原の言う通り、俺が先ほど踏みつけたのは、まぎれもなく、何らかの哺乳類の糞であるようだった。

「こんなところまで犬や猫が入ってくるとは思えないし・・・。クマでもいるんですかね・・・?」

「いや・・・それにしては、一か所にこんなに沢山の糞があるのはおかしくねえか?」

 よく見ると、糞は一つではなく、山小屋の周りを取り囲むように、十個以上も落ちていた。時間が経って表面が干からびており、臭いは強くはないが、どれも大きさは、フライドチキン一ピースほどはある。これを全部、野生のクマがしたものというなら、こんなに一か所に多数の糞が集まるというのは不自然な話である。

 結論――目の前の山小屋の中に、一定以上の大きさの生物が定住している。おそらくその生物こそが、にんにく大魔人が妊娠させた女、「いちご」ではないだろうか?

「山小屋の中を、調べてみようぜ」

 俺はいざというときの盾とするため、桑原を前に歩かせ、生い茂る草木をかき分けて、山小屋の扉へと近づいていった。ボロボロに塗装が剥げた茶色の扉には、鍵はかかっておらず、半開きになっている。ノブを掴み、引っ張ろうとした桑原がその手を止め、鼻を摘み、手を横に振って、「ヤバい」とジェスチャーした。

 山小屋の中から漂う、肉食獣の檻のような悪臭・・。侵入者を全力で拒むかのようなその臭いは、あたかもカメムシやスカンクが、外敵を退けるために刺激臭を発しているような危機感、あるいは悲壮感に溢れていた。

 臭いとくれば、俺の出番である。桑原と交代して先頭に立ち、ノブを引っ張ろうとしたが、扉の隙間から漏れ出てくる声を聴いて、思わず手を止めてしまった。

「いちご・・・・いちご・・・・いちご・・・・」

 いちご―――にんにく大魔人の愛する女の名を繰り返し呟いているのは、まぎれもなく、かつて俺の子を二人も産んだ四十四歳の女、ゆかりであった。

「どうしたんすか?アニキ・・・」

 押し殺した声で、桑原が尋ねる。どうしたもこうしたも、俺自身、目の前の現実をどう受け止めていいのか、整理ができない。

 恐る恐る、少しだけ開けたドアの隙間から、中を覗いてみる。山小屋を埋め尽くす布団やガラクタの中に、ちょこんと座る女は、俺が知るゆかりに比べれば随分痩せているが、身にまとっている赤いお姫様ドレスや、肉厚で一重の瞼の奥に覗く細い目、プロボクサーのパンチを貰ったようにひしゃげ、鼻毛が何十本も飛び出した鼻、口角から耐えず涎を垂れ流す半開きの口、脂に塗れてギトギトと光った、海ゾウメンのような髪は、まぎれもなくゆかりのものだった。

 山小屋の外に無数に転がっていた糞は、おそらくほとんどゆかりのもので、何個かはゆかりにエサを運んでいる、にんにく大魔人のものだろう。今から約三か月前、にんにく大魔人の部屋から逃亡したゆかりは、何日かの旅の末、この地蔵山の山小屋へと逃げ込んでいたのだ。

 ゆかりの身体は、最後に見たときに比べ、半分ぐらいに痩せているが、腹だけは以前と同じように膨らんでいる。ゆかりの周りには、にんにく大魔人が運んできたと思われる菓子パンの袋やバナナの皮などが散乱しているから、貧困国の子供のような栄養失調に陥ったわけではないだろう。おそらくは、妊娠・・・時期的に考えて、にんにく大魔人ではなく、俺の子を身ごもっているのだ。

 肥満で気づかなったが、ゆかりは俺の下から逃亡した時点で、すでに子宮内に命を宿していた。直前に見せていた、異常な食欲はそのためであった。そしてにんにく大魔人は、子供を身ごもったゆかりのため、「たまごクラブ」を参考にしながら、妊婦に優しい食品を届けていたのだ。

「けんじ、たつや、ゆかりの子。けんじ、たつや、ごはんのじかん」

 ゆかりが気味の悪い声で呟きながら、ガラクタの山の中に手を伸ばした。腕をあげた瞬間、生命の力強さを感じさせるような、黒々と生い茂るわき毛が覗く。

 ゆかりがガラクタの山の中から取り出したものを見て、俺は息を飲んだ。それは紛れもなく、山道の休憩所から消えていた、二体の地蔵であった。

「けんじ、たつや、ゆかりの子。けんじ、たつや、ごはんのじかん」

 ゆかりが、赤いお姫様ドレスを脱ぎ、顕わになった、垂れさがった乳房を絞り、「けんじ地蔵」と「たつや地蔵」に、乳を与え始めた。出産が近づいているのか、ゆかりの乳からは芳醇な母乳が、ビャクウッ、ピルピル、ビャクウッ、ピルピルと勢いよく迸っている。柔らかな笑みを浮かべる地蔵の顔は、たちまち濡れそぼった。

 ゆかりの顔には、太っているときには目立たなかった深いしわが刻まれ、脂ぎった髪には、白いものも増えているようである。近頃はアンチエイジングブームで、通常なら閉経を迎える年齢であっても、四十歳ぐらいにしか見えないような容色を維持している女も多いことを考えれば、ゆかりの年齢は、六十歳を越えているようにも見える。還暦を越えた女が、大量の母乳を噴射している光景は、さながら妖怪物語のようで、いかにも壮絶であった。

 お地蔵様を己の子に見立てて母乳で濡らすとは、なんとも罰当たりな女であるが、あるいはゆかりは、若き日の釈迦が修行で疲弊して倒れた際、村娘スジャータの乳粥を飲んで回復したというエピソードを知っているのであろうか?いくら悟りを開き、煩悩に惑わされなくなった釈迦とて、三か月以上も身体を洗っておらず、ヴァギナから肉食獣の臭いを発し、飛び出させた鼻毛に付着する鼻くそを何気なしにパクっと食べてしまう、知的年齢十歳、実年齢四十四歳、見た目年齢六十歳の女の乳では回復はせぬと思われるが・・。もし、そんな毒汁のようなもので回復するとしたら、俺くらいであろう。釈迦と違って煩悩にまみれた俺は、山小屋の壁に押し付けられた股間が熱くなるのを抑えられなかった。

「アニキ、一体どうしたんですか。小屋の中に、一体何が・・・うわっ!!」

 俺の肩ごしに小屋の中の様子を覗いた桑原が吃驚し、尻もちをついた。俺のようなアブノーマルな性癖のない男にとっては、ゆかりの姿は異常も異常。裏社会で修羅場を潜ってきた桑原でさえも、猛烈な悪臭を発する妊娠した中年女がお姫様ドレスを着て、地蔵に母乳を与えている光景などをみたときは、腰を抜かしてしまうのだ。

「けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご・・・・」

 侵入者の存在に気付いたゆかりが、パニックに陥ったのか、突如、己の息子の名を連呼し始めた。生意気にも、胸元を両手で覆っている。

 俺は、今すぐにでも小屋に飛び込んで、ゆかりのお姫様ドレスを引き千切り、雑菌がうようよといる、舐めたら腹痛必至のヴァギナにむしゃぶりつき、ゆかりの陰毛で培養された菌を甘い母乳で流し込んでタンパク質の補給をした後、「マカパワーX」「金剛鳳凰丸」「超竜爆発」「オットビンビンAAA」を一気に飲んでいきり立ったものをゆかりの股間に差し込み、残った雑菌のお掃除をしつつ、子どもが入ったボテ腹が揺れるのを眺めながら射精をしたい衝動を抑え、桑原を連れて一時小屋から離れ、作戦会議に入った。

「アニキ、なっ、なんなんすか!あれがにんにく大魔人の女房、いちごですか?いくらにんにく大魔人でも、あんなのとセックスできるんですか?あれで勃つとか、人間じゃないですよ!」

「そこまでは、言い過ぎだろ!」

 人にあらずとまで言われ、つい、怒気を露わにしてしまった。

「え?なぜ、アニキが怒るんですか?」

「いや・・。それより、あのいちごは、うまくすれば、莉乃をこの世から葬り去るのに使えるかもしれねえぞ」

 数か月前・・・「頭のおかしい魔人から、みんなに守ってもらっているワタシ」を演じるという莉乃の目的によってズタボロに傷つけられ、その莉乃を装った俺のメールによって存在意義をも否定され、トドメのように、自分が生身の女を前にしては勃起できない身体である事実を突きつけられたにんにく大魔人は、人生に絶望し、命を断つ決意をして、地蔵山に入った。しかし、にんにく大魔人はそこで、生きる希望――女体と出会った。

 にんにく大魔人が出会った女体は、実年齢は四十四歳、見た目年齢は六十歳を越えている。しかし、にんにく大魔人は、あともう間もなくで「ヤラミソ」になってしまい、贅沢を言っていられる立場にはない。もし、にんにく大魔人が社会と繋がっている状態であれば、あんな化け物を妻とすれば、周囲からの嘲笑を浴びるのではないかと危惧するところかもしれないが、幸いというべきか、海南アスピレーションの寮を飛び出したにんにく大魔人は現在、ホームレス状態にある。汚い女体を有難がって抱いていたからといって、馬鹿にするような人間は、誰一人としていないのである。

 何とかは三日で慣れる、などという言葉もある。にんにくを沢山食べ、精力を高めているうちに、彼の目には、六十歳を過ぎているようなホームレス女が、「女の子」に見えるようになってきた。

 山小屋にいた「女の子」は、腹に赤子を宿しており、満足に身動きが取れない状態だった。「女の子」は、あんなことやこんなことをしても、簡単に逃げられる状態ではないのである。

 「女の子」は悪臭を放っていたが、もともと「女の子」の内縁の夫であった男によれば、それは「女の子」が性的に興奮していることを表すフェロモンということであった。「女の子」のおっぱいは、ひしゃげて垂れ下がってはいるものの、まあまあ大きく、しかも甘い母乳まで噴射する。

 にんにく大魔人は、名前のわからず、会話も通じない「女の子」に、ひとまず、彼女が口癖のように呟いている、「いちご」という名前をつけることにした。それは奇しくも、己がかつてお世話になったAV嬢と同じ名前であった。「女の子」――いちごちゃんは、にんにく大魔人にとって、まさに「エンジェル」であった。

 そして、ここが肝心であるが、にんにく大魔人は、いまだ「いちご」の身体を貫いていない可能性が、極めて高い。 

 にんにく大魔人が街で紛失し、女子高生に拾われたメモの内容からは、にんにく大魔人は、「いちご」をレイプするのではなく、あくまで、合意の上でのセックスに拘っていることが伺えた。「いちご」がにんにく大魔人をどう思っているのかわからないが、あの「子供が欲しいというまで手をださない」という一文から考えても、にんにく大魔人は、他人の子を宿したままの、今のいちごを抱く気にはなっていないのではないか。

 にんにく大魔人が「いちご」とセックスができていないもう一つの根拠は、にんにく大魔人は、駅前の商店の、七十歳を過ぎた老婆が着たチャンチャンコを褒めていることだ。「いちご」よりも三十歳近く上の七十過ぎの老婆すら、性の対象である「女の子」に見えるほど飢えているというのは、にんにくを沢山食べているだけでは説明がつかない。そんなことは、長い間性器を刺激しておらず、極限まで快楽に飢えている場合にしか起こりえないはずだ。

 おそらく、にんにく大魔人は、海南アスピレーションの寮で純玲に抜いてもらってから今までの約二か月間、にんにくや「超竜爆発」などの精力剤の摂取により作った精液を、まだ一度も放出せず、ずっと溜め込んでいるのだ。そんなに溜め込んでいれば、自慰行為をせずとも、精液は夢精により放出されたり、精巣の中でほとんど死に絶えてしまっているだろうが、少なくとも射精によるオルガスムスは、三か月近く味わっていないのは確実である。

 にんにく摂取のみならず、禁欲もすることにより、性欲が極限にまで高められたにんにく大魔人が、この人目に触れぬ山小屋に、かつて惚れて惚れぬいた女、莉乃がいるのを見てしまったら――?イカ臭きペニスを刺し込むのは、必然ではないだろうか?

 莉乃を犯さなくてもいい。むしろ、にんにく大魔人が莉乃を犯さず、いちごへの純潔な愛を貫いてくれた方が、結末はより悲惨なものとなる。

 自分といちごの「愛の巣」と思っていた山小屋に、他の人間が立ち入ったとわかったらば、にんにく大魔人は、行政の人間にいちごを連れていかれることを恐れるであろう。いちごは、三十年間、女に飢えて飢えて飢え続けたにんにく大魔人がようやく見つけた、大事な大事なエンジェルなのである。エンジェルの身体を散々貪りつくした後というなら、行政に引き渡してもいいかもしれないが、にんにく大魔人はまだ、エンジェルには指一本触れておらず、童貞のままである。

 いちごを連れて逃げようにも、寮を飛び出してしまったにんにく大魔人には、身重のいちごを連れていくあてがない。せっかく見つけた、エッチなことし放題のミルクエンジェルをなにがなんでも失わぬために、今度こそにんにく大魔人は、莉乃を殺すことを選ぶのではないか。

 行政云々を抜きにしても、莉乃は、人間、宮城利通に引導を渡し、性欲に全てを支配された怪物、にんにく大魔人に変えた張本人なのである。人間であることを辞めさせられた女に、生きる希望であるいちごまで奪われそうになれば、にんにく大魔人は、「鬼」と化すのではないか――。

 莉乃をこの地蔵山におびき出すのは、そう難しいことではない。四方八方にアンテナを張り巡らせ、唐津にいいところを見せるためのネタを探している莉乃に、劣悪な環境の山小屋で、大きなおなかを抱えながら途方にくれている「いちごちゃん」のことを教えれば、莉乃は唐津の手を引っ張って、スキップしながら山道を上ってくるはずである。

 にんにく大魔人が抱くであろう危惧に反して、莉乃がいちごを行政に引き渡すことはないだろう。せっかくの唐津へのアピール材料を、自ら手放すはずがない。しかし、そんな事情は、にんにく大魔人の知るところではない。

 いちごに食料などの支援物資を運びに来た莉乃に、何度も「愛の巣」を踏み荒らされて、にんにく大魔人の怒りはとうとう限界に達する。あの女は、自分にこの社会でまともに生きる道はないと「引導」を渡しただけでなく、死ぬために入った山の中で見つけた希望、いちごまで奪おうというのか――?

 自分のストレス発散のために、さんざモテない男を愚弄し続けてきた莉乃は、忌み嫌う「雑菌でぶおじさん」の、悲しみの刃によって屠られるのである。

「なるほど・・・。面白そうっすね」

 俺の計画を聞いた桑原が、腕を組み、顎に手を当て、感心したように頷いてくれた。

「だろ。そんでよ、もっといいこと考えてんだけどよ・・・」

 俺は持ってきたリュックサックの中から、小型の赤外線カメラと、盗聴器を取り出した。

「なんすか、これ?なんでこんなもん持ってるんです?」

「女便所とかに、仕掛けるためだよ。お前、コイツを小屋の中に仕掛けてこいよ。にんにく大魔人が、莉乃を犯すか、ぶち殺すところ、見てえだろ?」

 無論、目的はそれだけではない。あわよくば、にんにく大魔人と「いちご」が織りなす、「超劣等東洋種族製造計画」をこの目に収めたいという願望もあった。

「そりゃ、見たいっす!でも、変態であるアニキが自分でやった方が、失敗がなくていいんじゃないすか?」

「変態じゃねえよ。実はよ、アイツは元、俺の女だったんだよ。俺が散々暴力を振るっていたから、逃げられちまったんだ」

 いちいち誤魔化すのも煩わしい。止めどもない興奮の前では、もはや、自分の特殊性癖を晒すことも、恥とは思わなかった。

「え?アニキ、あれとセックスしてたんすか?やっぱり、変態じゃないですか・・・」

「じゃあ変態でいいよ。とにかく、俺は昔、アイツのことを散々甚振ったから、俺が来たとわかれば、アイツは身重の身体を推してでも逃げてしまうかもしれないだろ?お前だったら、まずその可能性はない。だから、お前やって来いよ。場所とか、角度とか、俺が部屋の外から指示するからさ」

「なるほど、そういうことなら、俺がやるしかないっすね。では、行ってまいります!」

 桑原は勇んで小屋の中へと入り、俺が外から身振り手振りで指示をするのに従って、ガラクタの山の中に、監視カメラと盗聴器を仕掛けるのに成功した。作業中は、ゆかりに対し、「あなたを助けに来たんですよ」「我々は役所の人間ですからね」などと声をかけさせ、また非常食のカロリーメイトを与え、ゆかりを安心させるための言葉をかけさせるのを忘れなかった。ゆかりの警戒心さえ解けば、身重のゆかりがどこかへ逃亡する心配はなくなる。

「それじゃ、いちごさん、また来ますからね~」

 長居は無用。これ以上いたら、俺はゆかりの背中にできた汗疹を齧り取り、それを口の中で、ゆかりの足の爪に挟まる黒々とした垢と混ぜ合わせ、さらにゆかりとディープ・キスをすることで、ゆかりの歯槽膿漏でうんこの臭いがする口の中に移し、汗だくになったゆかりと、汗だくになりながら絡み合い、ゆかりのヴァギナのお下劣な臭いを俺のペニスに移動させつつ、射精をしたい衝動を抑えることができない。俺はカメラと盗聴器を仕掛け終えた桑原とともに、下山を始めた。

「しかし、いちごを見つけることはできましたが、にんにく大魔人を見つけることはできませんでしたね。あの商店の婆ちゃんの勘違いか、行き違いになっちゃったんですかね」

「まあ、そのおかげで山小屋にカメラを仕掛けることができたし、莉乃を殺す作戦も思いついたんだから、いいとしようじゃねえか」

 禍転じて福となす。あのとき、俺の下から逃げたゆかりは、莉乃殺害の可能性を運んで戻ってきた。己に都合の良い、キレイな世界しか目の中に入れずに生きてきた莉乃は、この汚わいと汚臭に塗れた山小屋で、終焉の時を迎えるのだ。

「ところで、アニキ、さっきから電話鳴ってますよ」

 桑原に言われて、俺はポケットの中で振動するスマートフォンを手に取った。メールが、知らぬ間に十六通も届いている。莉乃殺害が現実味を帯びてきた興奮で、まったく気づかなかった。

 送信者は、すべて同じ人物――東山。内容はほとんどが、なぜ返事を寄越さない、電話に出ろ、といった意味のないもので、要件が書かれているのは、最初の一通だけであった。

――俺の過去の犯罪がばれた。俺はもう終わりだ。

 本文に添付されているURLを辿ってみると、それは匿名掲示板のあるスレッドに繋がっていた。一九九×年、同級生女子メッタ刺し殺害事件の犯人の現在――というのが、スレッドのタイトルである。スレッド内では、丸菱運輸の集合写真と、東山の中学時代の写真が公開されており、居住している地域、体格、職業、家族構成などの事実関係は、すべて真実であった。

 東山の個人情報をネット上に流出させた犯人は、他ならぬ俺であった。東山を、莉乃と唐津への復讐に使うことを決断した俺は、業者から五万で仕入れた他人名義の携帯電話を用いて、匿名掲示板にスレッドを建て、東山の個人情報を書きこんだのである。

 労働組合の連中を説得して、東山を助けてやることは、十分に可能だった。それは俺にしかできないことであり、そうしてやれば、東山は俺に深く感謝して、気持ちよく金を吐き出してくれるようになるのはわかっていた。わかっていて、俺は敢えて、東山を見捨てた。のみならず、俺は東山を更なる窮地に追い込む一手を打った。

 今、俺が何を差し置いてもやらなくてはいけないのは、莉乃と唐津への復讐だ。今、ここで世間に対してケジメをつけなくては、俺に未来はない。東山からいくら金を引き出しても意味がないのである。二兎を追う者は一兎をも得ずの諺に従ったわけだが、問題は、俺が捨てた一兎は、少しの努力で確実に手に入った一兎だったのに対し、俺が求めている一兎は、多大な努力をしなければ手に入らない一兎であるということである。

 俺にギャンブルを決断させたのは、唐津に舞い込んだ、海南アスピレーション正社員の誘いであった。唐津は労働争議に決着がつき、契約期間が終了したら、すぐさま丸菱の倉庫を去ってしまうだろう。唐津がいなくなれば、当然、莉乃もすぐにいなくなる。奴らの契約期間が俺と同じなら、残り一か月弱。奴らが俺の手の届く範囲にいる、ごくわずかな間で奴らを仕留めるためには、悠長に構えている暇はなかった。

 百九十センチ、百十キロ。悲しみの巨人、東山を「暴力装置」として利用する計画――。やるべき作業は多くはないが、簡単ではない。とにかく、できる場面で、できる仕事を、一つ一つ片付けていくしかない。

「なあ。東山の個人情報がネットに流れちまったみたいなんだけど、お前、何か知らねえか?」

 俺はさっそく、東山の個人情報を流した犯人が俺であるという疑いを回避するための芝居を始めた。

 今現在、俺と肩を並べて、一緒に山道を下りている男。俺が知る限りでは、現在、北関東に住み、丸菱運輸の倉庫で働いている東山円蔵が、十八年前、首都圏の中学校で、同級生を三十回以上も刺して殺した少年Aと同一人物であることを知っているのは、この男しかいない。東山の俺への疑いを逸らすために、容疑を被せるのに最も適当な相手がいるとしたら、それはこの桑原ということになるが、俺にそこまでの意図があるわけではない。 

 あれだけのパワハラをしてきた男である。海南アスピレーションで、労働組合を結成して戦ってきた派遣スタッフだけでなく、いまどこで働いているかもわからない何百、何千という人間から、深い恨みを買っているはずだ。犯人探しをしようとしたら、それこそキリがないだろう。わざわざ罪を被せることなど考えなくとも、東山が俺にたどり着く可能性は皆無に近い。俺が桑原に東山の危機を教えたのは、ただ単に、俺は何も知らないという芝居を打っているだけである。

「え!東山先輩の過去が!」
 
 大層驚いた様子で、桑原が、山小屋から回収してきた、剥きたてのバナナを取り落とした。
「なるほど・・・・ようやく東山先輩の凄さに、世間が気づき始めたってことですね。そっかぁ、ついに東山先輩も全国区かぁ~」

 特に、東山を心配する様子もみせない桑原。悪事を勲章として生きてきた桑原にとっては、東山の後ろ暗い過去が明らかになったことは、東山の栄光が明らかになったのと同じことになるらしい。

「まさか、おめえが・・・?」

「え?そんなわけないじゃないですか。東山先輩の凄さに世間が気づいたのはうれしいですが、そういう過去がバレたら、世間で不自由な暮らしを送ることになることくらい、俺にだってわかってますよ」

 一応、アレとソレはちゃんと弁えていたようである。桑原の前で芝居を打った俺は、続いて、東山に自らの「潔白」をアピールするため、地蔵山の麓まで降りてきたところで、東山にメールを打った。「今、どこにいるのか」という問いに対し、返ってきたのは、「名古屋だ」という返事。東山の家からだと、新幹線で三時間はかかる距離である。さっき気づいたばかりで、もうそんな遠くにまで行ってしまっていたとは。相変わらず、気が動転すると、頭より先に身体が動いてしまう男である。
 
―――世の中では様々な事件が起きている。山里愛子が殺された事件は、もう十八年も前のことだ。お前が特定されたといっても、「祭」になるかまではわからない。大して燃えないうちに鎮静化する可能性もある。嫁や職場の連中にバレてないならまだ平気だ。天むすでも食って気分を落ち着けて、今晩中には帰ってこい。明日、明後日にでも会って、今後のことについて話し合おう。大丈夫、俺はお前の味方だ。
 
 なんとか東山を励ますメールを送ってみたが、東山の杞憂は大きくなるばかりのようで、怖い、俺は終わりだ、不安だ、などといった、意味のない内容のメールが、次々に届いてきた。

 本人が心配している通り、東山の過去が身内にばれれば、東山は完全に破滅である。この世間の中で、ずっと生きづらさを抱えてきた者――さながら、大海原に放り込まれた淡水魚のように生きてきた俺には、東山が錯乱する気持ちがよくわかる。

 自らに全てを委ねる妻子と、好き勝手に威張り散らせる職場。弛まぬ努力により、ようやく安住できる空間を――大海原の中に、小さな淡水のプールを作り上げることに成功した東山には、もうそのプールから出て生きていくことは考えれられない。今更すべてを失い、一からやり直すくらいだったら、人生そのものを終結させることを選ぶだろう。

 人生を終結させるといっても、ただ自殺するだけじゃ能がない。それでは、お前が世間に負けたことになってしまう。どうせ死ぬなら、自分をずっと虐げてきた世間に、せめてもの一矢を報いてから死ね――。

 東山という暴走車両に「道」を示すと同時に、いくつかある目的地の中から、うまく唐津と莉乃のところまで誘導してやる。

 東山が、己の人生が終焉を迎えると悟ったとき、せめてもの道連れに殺したいと思う相手――順当に考えるなら、それは他ならぬ俺であろう。俺はあの中学時代の出来事を、「生存競争」であったと解釈しているが、東山が同じように思っているとは限らない。一方的な被害者意識にとらわれて、世間一般的な見方と同じように、ただのイジメであったとしか思っていないかもしれない。むしろ、その可能性の方が高いだろう。

 世間に個人情報が流出したことに関して、奴はほかに相談する相手もいないから俺にメールを送ってきているが、東山は俺のことを、けして友人とは考えていないはずだ。もし、東山が世間に一矢を報いる手段として、本当に殺したいヤツに復讐することを考えるなら、ヤツは間違いなく、俺を狙ってくるはずである。

 東山が、この世でもっとも恨む人間――復讐の対象を、短期間の間に、俺から唐津と莉乃にすげかえなくてはならない。困難な作業ではあるが、やってやれないことはない。

 マジックのタネは、もちろん、労働組合の活動である。少年時代の東山が魂を込めて取り組んでいた、「君を守り隊」を思い起こさせる活動を展開する莉乃と唐津を、東山は激しく敵視している。中学時代の自分が倒したかった敵の立場を、今現在、他ならぬ自分自身が演じているという「矛盾」に耐え切れず、苦悶に喘いでいる。莉乃と唐津が東山を刺激し続け、逆に、俺が東山を擁護するような態度をこれから取り続けていけば、復讐の優先順位が入れ替わる芽は、十分にある。

 にんにく大魔人・宮城。少年A・東山。二匹の悲しき怪物が、今、冷たい檻の中にいる。二匹の怪物は、長年に渡って世間の連中から差別を受け、酷い生きづらさを抱え続け、ついには檻の中へと閉じ込められ、殺処分を待つ運命となってしまった。

 怪物に麻酔銃を打ち込んで檻の中へと追いやったのは、他ならぬ俺であるが、怪物は自分に直接手を加えた俺を憎むばかりで、自分が本当に恨むべきは、長年にわたって自分を虐げてきた世間であることに気づいてはいない。今、俺が檻を開けたら、二匹の怪物は俺に襲い掛かってしまう。

 俺はこれから、二匹の怪物に調教を施し、手綱をしっかりと握って、怪物が本当に襲うべき相手――怪物をここまで追い詰めた、この世間の代表者のところへと、誘導しなければならない。俺などではなく、唐津と莉乃の喉笛を引きちぎり、腸を食い破るのでなければ、怪物たちの怨念は成就できないことを、しっかりと教えなくてはならない。

 悲しき怪物どもが殺処分される日時は、刻一刻と迫っている。急がねばならない――。

外道記 改 14

 
 勤務終了後、俺は桑原と一緒に、正社員やドライバー用のロッカーに隣接された、シャワールームに入っていった。脱衣場で服を脱ぎ、浴室に入ると、八つあるブースのうち、一つのカーテンが閉まっており、下から三十センチ以上ありそうな巨大な足が見える。俺は桑原に、口元に人差し指をあててみせながら、「先客」の個室に忍び寄った。

「ぬおっ・・・・」

 突然、カーテンを開けられた先客が、驚いて声をあげる。

 屋久杉の樹皮のように隆起した背筋、パッドが入っているかのような肩回り、引き締まった小尻、常人のウエストサイズをゆうに上回る太もも・・・同性でも惚れ惚れするような後ろ姿の男は、百九十センチ、百十キロのヘビー級戦士、東山である。鍛えれば格闘技の世界チャンピオンになることだって夢ではない肉体の持ち主は、過去の過ちのせいで、チンケな田舎の運送会社社員に甘んじているのだ。

「よう東山、男同士の挨拶を・・・」

 昔から、裸の付き合いという言葉がある。男の大事なところを見せ合って会話を交わした者同士には、特別な絆が生まれるものだ。東山とさらに距離を縮める目的に加え、可愛いと噂の東山の息子を拝んでみたいという個人的興味から、俺は東山がシャワーを浴びるブースに侵入したのである。

「やめろおぉぉぉっ!」

 頭を洗っていて目を開けられない東山が、身体をくの字に折り曲げて、背後から股間に手を伸ばそうとした俺を、ヒップアタックで突き飛ばした。東山のケツを腹でまともに受けた俺は、後方のブースにまで吹き飛び、タイルの壁に後頭部をしたたかに打ち付けた。

「なんのつもりだ、貴様!シャワーを使う許可は出したが、そんな悪ふざけをするなどは・・・」

「ってて・・・・・じょ、冗談だって。マジで怒んなよ・・・・」

 視界が揺れて、東山が五人くらいに見える。足が痙攣して、立ち上がれない。尻の力だけで、大の男を吹き飛ばすパワー。東山の怪物性には、ただ慄然とするばかりである。

「あれ、東山先輩!ちんこのところに、ドングリがくっついてますよ!これは、どうやってつけてるんですか?あれ、でも、そしたら、東山先輩のちんこはどれだ?東山先輩ほど凄い男になれば、身体の中にちんこを埋め込めるのですか?」

「うるせええええ!」

 東山の粗チンを指摘した桑原の頭を、東山が片手でつかんで持ち上げた。桑原とて百八十センチ、八十キロはある堂々たる体躯の持ち主である。それを、東山は、特撮の超人がアスファルトに埋まった電柱をぶっこぬくように、頭上まで持ち上げてみせたのである。

「ぐあっ・・・・す、すげえっ、やっぱり、東山先輩は最強だ!」

 常人離れした東山の怪力を目の当たりにして、ふと、桑原ではなく、桑原がカリスマと崇める、この東山こそを、唐津と莉乃を懲らしめるにあたっての「暴力装置」として利用できないかという考えが、頭に浮かんだ。

 突拍子もないようだが、考えてみれば、東山と唐津、莉乃は、目下の敵同士なのである。東山には守るべき家族と仕事があるから、あまり大胆な行動は取れないだけで、東山が奴らに危害を加える動機は十分あるのだ。逆に、なぜこの手を今まで思いつかなかったのか。

 無論、東山を破滅させてしまったら、ヤツから金銭をむしり取ることはできなくなってしまう。それは、これから純玲と二人で、人生をやり直そうとしている俺には痛恨の極みである。理想をいえば、莉乃と唐津にケジメをつけるのは何とか自力で達成し、東山と、寄生虫と宿主の関係は、末永く維持していきたい。

 自分から何か手を打って、東山を利用することは考えられない。だが、もし今後、何らかの情勢の変化が生じてきて、東山を金主として利用できなくなったら・・・あるいは、東山を利用しなければ、莉乃と唐津を痛めつけられないことがわかったとしたら、そのときは、桑原を遥かにしのぐ戦闘力を持つ東山を、こちらの「暴力装置」として利用する手もあることは、一応頭に入れておいて損はないだろう。

 シャワーを終えた俺は、同じく、自宅に帰ってシャワーを浴びてきた唐津との待ち合わせ場所に向かい、二人で連れ立って、谷口たちが暮らす寮――街はずれのアパートへと向かった。

 人材の入れ替わりが激しい派遣会社の寮の場合、寮といってもアパートの一棟をまるまる派遣会社で借り切っているのではなく、まったく関係のない普通の住人も混ざっていることがほとんどだが、谷口たちが暮らすアパートでも、二部屋に二人ずつが生活を営み、別の部屋は、海南アスピレーションには縁もゆかりもない住人が暮らしているという形である。

「唐津さん、蔵田さん、お疲れのところ、よく来てくださいました。さっそくお食事の用意をしますので、どうぞお寛ぎください」

 夕食どきに訪れた俺たちは、谷口たちから、寄せなべを馳走されるというもてなしを受けた。食卓が置かれたのは谷口、大島の部屋であるが、篠崎、増田も、調理の段階から参加している。四人は居住スペースこそ別々だが、普段から、お互いの部屋を自分の部屋のように、頻繁に行き来しているようである。近所のスーパーで買いこんできた野菜を谷口が切り、指が欠損した篠崎が食器を用意し、見た目には何の障害もなさそうな増田が鍋に湯を入れ、同じく見た目普通の大島が白米を焚く。四人の調理は見事に役割分担がなされて、スムーズな連携で動いていた。

「谷口さんたちは、ずっと一緒に暮らしてたの?」

 食事ができるのを待つ間、俺は、谷口たちの見事なチームワークを見て湧いた素朴な疑問をぶつけてみた。

「私と篠崎くんが海南アスピレーション創立当初の三年前からのメンバーで、増田くんと大島くんは、一年前からの入社です。増田くんと大島くんが入ってからは、ずっとこのメンバーで相部屋をとっていました」

 それだけ長い間同じ釜の飯を食っていれば、その絆の強さはもはや、兄弟同然になっていてもおかしくはない。コブラさんが、彼らを見て羨ましがるのも当然だった。

「前は、どこに派遣されてたんですか?」

「ここに来る前は、千葉の空調設備の工場で働いていました。その前は、食品加工工場です」
「ずっと、四人で一緒だったんですか?」

「派遣先は違うこともありましたが、寮生活はずっと一緒でした。地域を移動することになるときは、みんな一緒です」

 特別扱いといってもいい待遇。なぜに彼らは、そこまでして、四人で固まることに拘るのか。なにか触れてはいけない結びつきがあるのではないかと、つい勘ぐってしまう。無意識に、ケツを引き締めていた。

「そっそそ、それじゃ、乾杯!」

 増田の音頭により、鍋パーティが始まった。丸菱の倉庫ではあまり喋らないのでわからなかったが、彼は吃音の持ち主のようである。

「一五六〇年、桶狭間の合戦で勝利を収めた織田信長は、肥沃な東海地方には敢えて進まず、美濃への北上を敢行。足かけ七年をかけて美濃の国主斎藤氏を滅ぼし、二か国の主に。一五六八年、将軍足利義昭を要して上洛を果たし・・・・」

 乾杯の音頭を取ったことで、テンションが上がってしまったらしい増田は、俺が何の気なしに、地元の城址について触れたのをきっかけに、戦国時代の織田信長の覇業を、桶狭間から本能寺の変で倒れるまで延々と語り始めた。

 彼は一見、歴史に含蓄が深いようだが、おそらく年表を丸暗記しているだけで、歴史を感覚で掴んでいるわけではないだろう。たとえば、織田信長が天下を取るのになぜ、有名無実と化していた足利将軍家の権威を利用せざるをえなかったのか、というような、高度に政治的な質問には、まったく答えられないはずだ。

 増田の言動を見る限り、彼は軽い知的障碍か、かなり重度の発達障害を抱えていることは明らかであった。発達障害者や知的障害者には、映像記憶能力に優れたサヴァン症候群など、脳の欠損を補うため、別のある一部分が異常発達するという例があるが、彼の場合は文章あるいは音声を記憶する能力が特化されているのだ。

「なあ谷口さん、預けてある金を、ほんの少しでいいからくれよ。今度は本当に、資格の本を買うからさ。なあ頼むよ」

「ダメです。木村さんは、この前レシートを持って帰れなかったのだから、約束通り、ペナルティとして十日間、お小遣いは禁止です」

 大島はどうやら、ギャンブル依存症であったらしい。給料が入った傍からパチンコ屋の養分として吸い取られてしまう彼は、通常の金銭感覚を身に着けるまで、谷口に資金を管理してもらっているようだ。

「谷口さん、詳しく教えてください。あなたたち四人の集まりは、いったい何なのか。海南アスピレーションに恩義を感じる理由は、何なのか。今日、ここに僕と蔵田さんを呼んだ目的は、何なのか」

 宴もたけなわとなってきたところで、唐津が目下の敵である谷口に、本題を切り出した。 

「お二人にもお分かりになったと思いますが、私たちは皆、持って生まれた障害により、社会で生き辛さを抱えた人間です。うまく生きようとしても生きられない、誰にも理解されない・・・そういう人間が寄り集まって、障碍者が障碍者同士、支え合いながら生きていく。まだ正式な制度としては動き出してはいませんが、我々障碍者にとって理想とも思える環境を、海南アスピレーションは、私たちに提供してくれたのです」

 谷口のような、外観の問題で社会からいわれなき差別を受ける者たちにとっては、心安らぐ居場所を。知的障害や発達障害など、脳の機能の問題で一人の力で生きていけない者には、自分に変わって生活を管理してくれる者がいる環境を。

 障害者が障害者を支援する――様々な障害を抱えた者が、お互いの欠点を補い合いながら生活する、自助組織のようなコミュニティが、海南アスピレーション内には存在したらしい。

「谷口さんのおっしゃっていることはわかります。でも、穿った意見かもしれませんが・・・・それは、海南アスピレーションという会社の中での、居心地の良さってことですよね。一歩外に出てみれば、もっと良い環境があるかもしれない。障害者枠での雇用ということも考えられるし、生活保護を受けるということだってできるんじゃないかと思うんですが・・・」

 谷口らとは違い、海南アスピレーションには何の愛着も感謝もない唐津が、疑問をぶつけた。
「仰る通りですが、世の中には、障害者雇用という制度や、生活保護を受給できる条件などについて、まったく知識がない方というのは大勢いるのです。国や企業から支援を受けられる可能性があるにもかかわらず、教育機関の不備などもあってそれを知らず、非正規労働者として社会の底辺を漂流している、そういう方々を適切な支援に繋ぐための、情報交換の場としても、我々の集まりは機能しています」

「でも実際には、こうして多くの方々が海南アスピレーションに留まっている」

 唐津は、海南アスピレーションが、本当なら障害者の枠で働くべき人間たちを無理やり健常者として働かせ、不当な利益を得ていることにしたいようである。

「障碍者雇用には、出勤日数や勤務時間について融通が利くというメリットはありますが、賃金の低さという大きな問題があります。障碍者の就労継続支援には、a型とb型の二種類が存在しますが、まずa型とは、通常の雇用契約に基づく制度です。しかし、ほとんどの場合、給与は最低賃金がベースとなっており、また、こちらが望んでも、フルタイムでの勤務や時間外労働などをやらせてもらえない場合がほとんどで、労働単独で生活を維持することはできず、障碍者年金や生活保護を併用しなければなりません。一方、b型とは、昔の作業所と同じで、通常の雇用契約からは外れた制度になります。賃金はa型に輪をかけて低く、多くの場合、最低賃金の半額にも達しません。また、就労支援という名はついていますが、こちらの利用者には労働能力が皆無に近い人が多く、言葉は悪いですが、大きな子供を預ける託児所のように使われているのが実態です。それならまだいい方で、実際には健常者枠やa型で働ける能力がありながら、言葉巧みにだましてb型ということにし、圧力をかけ、健常者並みに働かせているような酷いところもあります。海南アスピレーションで一緒に働いた方々にも、そうした事業所の被害に遭った方が実際におられます」

 障碍者がどんな働き方を望んでいるかも、人それぞれである。現行の障碍者雇用制度は、身体や心に障害があるから、出勤日数や時間に考慮してほしい、成果が十分でなくとも多めに見て欲しい、といった、「消極的な」障害者にとってはニーズにかなっているが、障害があっても目いっぱい働きたい、一人で自立して生きていきたい、という「積極的な」障害者のニーズには、十分に応えられていないということだろう。

 海南アスピレーションで、健常者枠として働いていれば、地方でも千円以上の時給でフルタイム働ける上、残業もし放題。おまけに、仕事先ではともかく、家に帰れば、自分の障害に理解を示してくれる仲間がおり、希望すれば、その仲間と同じ派遣先で働くこともできる。

 いいところだけ聞いていると、まるで海南アスピレーションは、「働く意欲はあるが、社会がそれを認めてくれない」という障害者にとっての、楽園のようにも思える。冷めた見方をすれば、ただ単に誰彼構わず採用しているというだけの話だろうが、意欲のある者に限っては、ある程度のフォローもしているのは確かなのである。

 人を物のようにしか扱っていないと、誰もが思っていた海南アスピレーションの意外な一面を垣間見て、正直、少し驚いていた。

「それじゃあ、皆さんは、会社に対して不満はまったくないんですか?」

 俺と同じ驚きを感じているだろう唐津が、食事が終わった後も谷口たちを解放せず、質問攻めにした。

「そうだなぁ、不満というか、良くないな、と思うのは、やっぱりペナルティ関係が厳しいことですかね。あと、こっちから言わない限り、スタッフを社会保険に入らせないところも問題ですよね。無知なスタッフの中には、そういう制度があるってこと自体、本当に知らない人もいますから・・・。まぁ、手取りが増えるからって、自分から入りたがらない人とかもいますけど。あとは、大手の派遣会社みたいに、企業への派遣料とスタッフの賃金の差額を開示するべきかと・・・まあ、それぐらいですかね」

「あと、やっぱり労働組合さんの言われているように、派遣先は劣悪なところが多い印象ですね・・・。まあ、海南みたいな中小零細は、えてして弾込めよりも、受け皿を探す方に苦労するから仕方ないんですけど。さすがに丸菱さんのレベルは珍しいですけどね」

「不満は確かに色々ありますけど、それでも、会社と戦おうとは思いませんね。小さい規模の会社だからこそ、頑張っている人へのケアが行き届くってところもあると思うし。そういうところは、あんまり大きな声では言えないですけど、闇金さんなんかと近いところありますよね」

「おいおい、大島くん、もう闇金は二度と利用しないんだろ」

 谷口のツッコミで場が和んだところで、やがて話の流れは、海南アスピレーションと、他所のもっと酷い貧困ビジネスとを比較する方向へと進んでいく。

「ちょっと前に話題になった、レストボックス。一泊千五○○円の簡易宿泊所と、日雇い派遣の斡旋業が一緒になった、ダム工事の飯場システムをそのまま都会に持ってきた会社。宿泊料は千五〇〇円でも、三分で百円のコインシャワーや、二百円のコインロッカーは別料金だし、あそこが紹介してくる仕事なんて、日給七千五百円程度で、交通費もでない。仕事がない日もしっかり宿泊料は取られるから、金なんてまず溜まらない。溜まらないから、抜け出したくても抜け出せないようにできてる。じわじわじわじわ、生かさぬよう殺さぬように搾り取る。本当の貧困ビジネスっていうのはああいうのを言うんであって、海南アスピレーションがやってるのはそれとはまったく違うよ」

「貧困ビジネスといえば、あれも酷いよな。敷金礼金ゼロを謳った、ゼロゼロ物件。部屋の賃貸借契約じゃなくて、鍵の一時使用契約とかいって、家賃取り立てのために、賃貸借契約では認められない悪辣なことを平気でやってくるんだよな。俺はたまたま仕事が見つからなかったとき、一か月家賃を滞納しただけで追い出されたよ。ああいうとこは必ず、ヤクザまがいの追い出し屋とグルになってて、支払が遅れると、夜討ち朝駆けで怖いのがやってくるんだ。外出中に鍵を付け替えられたり、私物を全部外に出されたりとかも、平気でやるしな」

「派遣会社でも、海南より酷いところはいくらでもあるしね。色々わけのわからない名目で差っ引かれて、総支給二十万のうち、手取りは半分もいかないなんてこともあったな。あんなんじゃ生活なんてできないよ。まあ、会社も悪いけど、根本的には、国が派遣のマージン率に規制をかけないのがいけないんだけどな」

「障害者枠で就職ってのもなァ。俺は薬の営業の会社で正社員の経験もあるけど、あの会社ほんと酷かった。営業成績が低い事業所は、根性を鍛えるために早朝登山とかさ。ノルマを達成できなかったら自腹で商品買わされるし。人の身体を治す薬を売りながら、自分の身体壊したからね。一つのところで腰を据えて働くってのも怖いよ。ブラックだったら一貫の終わりなんだから」

 労働組合の活動に反対するということで俺も勘違いしていたが、彼らとて、海南アスピレーションの待遇に、百パーセント満足しているわけではなかった。ただ、障碍者雇用の制度が自分たちのニーズに合うものではなかったり、労働条件全体が地盤沈下している社会情勢で、辞めて別の会社で働いたところで、今より良くなるとは限らないといった理由で、簡単に決断することはできないというのが、実情だったのだ。

「それでは、明日も仕事がありますから、この辺でお開きにしますか。キレイな布団がちょうど二つあるので、それを使ってください」

 食事の後片付けがされ、各自風呂に入って、彼らのルールに従って、二十三時には布団に入った。消灯時間となった。住人たちはあっという間にまどろみに落ちたようだが、慣れない環境で、俺と唐津はなかなか寝付けず、お互い連絡を取り合い、静かに外に出て、ビールを飲みながら話をすることにした。

「今日見聞きしたこと、みんなに伝えなくちゃいけないですかね・・?」

 海南アスピレーションの意外な一面を知ることが、労働組合の士気に関わってくることを危惧した唐津が、不安な胸中を打ち明けた。

「まあ、報告せんわけにはいかんだろう。変に隠し立てしたり、嘘をついたりするようでは、逆に信頼を損ねる」

 もっとも、今晩のことを尋ねてくる組合員が、今どれだけいるのか、という問題ではある。谷口たちが来てからわずか一週間あまりで、すでに組合員の大半はやる気を失いかけている。自然消滅まっしぐらの労働組合に起爆剤をもたらすようなネタをつかみに行った先で見たのは、海南アスピレーションと、海南アスピレーションを必要としている者たちとの間に結ばれた、確かな信頼関係。正義の実現を目指す唐津の前途には、逆に暗雲が立ち込めてしまったのである。

「僕はこの戦いを通じて、もう二度と、世の中の理不尽に負けない勇気が欲しかった。一緒に戦ってくれる仲間が欲しかった。労働組合を作って、みんなと一緒に立ち上がれたとき、僕は初めて、生きているって実感が湧いた。僕の忌まわしい過去も、すべて報われたと思った。でもあの人たちは、ちょっとしたことで、すぐに心が挫けてしまった」

 酒で顔を赤らめながら、唐津が仲間への不満をぶちまける。唐津が来てから、純玲と出会うまで、俺は毎日、唐津と莉乃への嫉妬を、酒で紛らわせてきた。唐津と莉乃が夜のまぐわいをしているかもしれない妄想をアルコールで消し去る作業を、毎晩繰り返していた。女がいれば、わざわざ勃起力を低下させる酒など飲む必要はなかった。莉乃に硬いものを突っ込めるのなら、俺はアルコールなどには溺れていなかった。俺が莉乃を抱けない苦しみから逃れるために必要としていた酒を、莉乃を抱きながら飲むなど、許せるはずがなかった。

「仕方ねえよ。負け犬根性は、そう簡単には直らねえ」

 怒りに燃える五臓六腑を酒で宥めながら、努めて冷静に答えた。今の俺は、唐津最大の理解者ということになっているのである。情報収集をする上で大事な今の立場を、失うわけにはいかなかった。

「きっとあの人たちは、ただ不安だっただけなんだ。コブラさんほどじゃないにしても、何の保証もない底辺労働の世界で一人で生きているのが不安で、なんとなく寄り集まりたかっただけ・・・それが達成できれば、戦うことなんてどうでもよかった。僕たちが戦う本当の意味なんてわかってなかったんだ。それがわかってるのは、蔵田さんだけだった」

 唐津はもう、俺のことを、長年互いの背中を守ってきた戦友のように思い始めているようである。

 どれだけ俺のことを大事に思ってくれても同じだが、経済的に弱者だというだけで、恋愛面では強者のくせに、節操なくモテない男の米櫃に手を出してくるヤツは、俺は嫌いである。そんなふざけたヤツに、東山を糾弾する資格などない。貴様が経済的弱者を慈しむ気持ちの半分でも、恋愛弱者に向けていたら、俺は貴様と本当の友になれたかもしれないのだ。自分の都合の良いときだけ弱者を装うご都合主義野郎とは、俺は絶対に相容れることはできない。

「あ。莉乃さんからメールだ」

 敵地に乗り込んだ愛する男を心配する、莉乃のメール。冷やしたはずの五臓六腑が、再び火が付いたように熱くなる。俺がもう、三か月はメールをしていない莉乃と、毎日メールしている唐津。かつて、莉乃に激しい思いを寄せていた俺の前で、平然と莉乃とメールをする無神経な唐津の頭を、いますぐさっきの鍋で叩き割ってやりたかった。

「しかし、莉乃さんも不思議な人ですよね・・そもそも、実は僕は、最初、莉乃さんのことを小バカにしていたんです。桟原さんたちと一緒になって、座敷わらしみたいな髪型してるとか、あんなのがマドンナだなんて、しけた職場だとか・・・。バスの中で言ってたりもしたから、たぶん、あの人にも一回くらいは聞こえたんじゃないかと思うんですけど・・・でもあの人は、積極的に、僕に話しかけてきた。それでデートを重ねているうちに、気づいたらこんな仲になって・・・なんだろう、不思議ですね。年上女の魅惑ってやつですかね」

 ちょっと女とヤリたいと思い始めたら、最初は小馬鹿にしていた女でも、実は悪くなかったとかいって、平然と付き合いだす。莉乃も莉乃だが、唐津も唐津である。

 なぜ、都合の悪い事実を、いとも簡単に忘れ去ることができる?なぜ、矛盾の上の成り立った幸せを、平然と受け入れることができる?

 執念深さという性質を持って生まれた俺には、奴らのご都合主義が許せなかった。奴らのおとぎ話を、ぶち壊したくて仕方なかった。

「言いにくいんですけど・・・実は、あの人は昔、蔵田さんのことを滅茶苦茶に言っていたんですよ。ストーカーだとか、目が殺人者っぽくて怖いとか、不審人物だとか・・・。だから僕もそれを信じて、最初は蔵田さんのことを敬遠していました。でも、話してみると、蔵田さんはとてもいい人だ。そして純玲さんが入ったころから、蔵田さんが段々みんなに受け入れられ出すと、莉乃さんは突然、蔵田さんへの評価を変えて、いい人だとか、面白い人だとか言うようになったんです。一貫性がないというか・・・・。わかりませんね、あの人は・・・」

 根拠のない悪口で散々に人をこき下ろしていたかと思いきや、職場内でそいつの立場が変わると、手のひらを返したように接し方を改める。天性の節操無し、筋金入りの二股膏薬。過去の都合の悪い事実をいとも簡単に忘れることにかけて右に出る者がいないのは、他ならぬおとぎ話の主人公、莉乃であった。

「まあ、そういう不思議なところも含めて、唐津くんは莉乃ちゃんのことが好きなんだろ。いい子だと思うし、大事にしてやれよ」
 心にもない言葉を――にんにく大魔人の言葉を借りれば、「自分が愛した女性の幸せを願う」ような言葉を吐いて見せた。

「ええ。なんだかんだ放っておけないところあるし、やっぱりあの、年上のお姉さんなのに、ピュアっていうギャップがたまらないし・・・。最後までいくかどうかわからないけど、大事にしますよ」

 なにが、最後までいくかわからないだ。俺はあの三十路女と、最後までずっと、人生というレールの上を走っていきたかったのだ。それを、途中下車前提の老朽化車両のように言いやがって。

 モテない男の米櫃に手を出し、生態系を乱す節操無しの貴様は、絶対に許さない。敵を深く恨めば恨むほど、復讐の炎は熱く燃え上がり、膨大なエネルギーを放出する。唐津をより深く恨むために、俺は口も腐る思いで、莉乃を大事にしてやれなどと言ってやったのである。

「もう遅い。そろそろ休もう」

 時計の針が二時を回ったところで、もう一度布団に入り、俺もようやく眠りについた。翌朝は、耳をつんざくような目覚ましの音で目を覚ました。五個、六個・・・・・十個。大量の目覚まし時計は、すべてギャンブル中毒の大島の枕元に置かれているようである。

「おーい、大島くーん。朝だよー」

「大島くん、おっはよ~!」

 隣の部屋の篠崎、増田が、唐津と一緒にやってきて、耳元で叫んで、大島を起こそうとする。あれだけ大量の目覚ましをかけても目を覚まさないとは、だらしないとかいう問題ではなく、なにかの病気なのではないのか?谷口たちは、三人で耳元で叫んでも、まだ起きようとしない大島を無理やり引きずり起こして、幼稚園の子供をそうするように、服を着替えさせた。

「すいませんね、うるさかったでしょう。大島くんは低血圧の影響で、朝が苦手なんですよ」

 笑って、苦手などといえるレベルではないだろう。それこそ、保護の対象ではないかと思うのだが、そんなにしても、健常者の世界で働きたいというのか。

「おう、みんなおはよう。蔵田さんと、唐津くんも。今日は俺が送っていくから、いつもよりゆっくり支度していいよ」

 谷口たちが作った、白米、ウィンナー、スクランブルエッグ、インスタントの味噌汁の朝食をとっていると、海南アスピレーション営業担当の吉沢が、合鍵を使って部屋に入ってきた。俺がやられたら不法侵入だと怒るところだが、谷口たちとはよほど深い信頼で結ばれているのか、普通に受け入れているようである。

「あ~あ~、大島くん、しょうゆかけすぎ。かけながら寝ちゃだめでしょ。大島くんは仕事はできるけど、ギャンブル狂と朝に弱いのだけはどうにもならないね」

 笑顔を浮かべる吉沢は、俺と唐津の後ろに腰を下ろす。

「実は僕も、大島くんと増田くんが入ってくる一年前まで、谷口さんたちと一緒に生活していたんですよ」

 吉沢の告白に、唐津が驚いて目を見開いた。

「僕も多動症でね。子供のころなんて、落ち着いて座ってられなくて、先生に怒られてばっかりだったんですよ。社会に出てからもやっぱり苦労したんですけど、海南アスピレーションは僕の適正をしっかり見極めてくれて、地道な手作業ではなく、アクティブに動ける運送業などの仕事を紹介してくれました。そこでの頑張りが認められて、今は営業をやらしてもらってるんですよ」

 昔を思い出した谷口と篠崎が、仲間の出世を心から喜んでいるように、口元を綻ばせて頷いた。
「世の中には自己管理ができないだけで、管理してあげれば一生懸命働く人もいる。世間はそれを知ろうともしない。知っていても、何の救いにもならないキレイごとを並べるだけで、食い扶持をくれることはない。彼らを本当に社会に繋ぐ努力をしているのは、うちの会社だけなんですよ」

 俺からすれば、そこまでして働いてどうするんだ、社会から認められる立派な障害があるならむしろラッキーだと思って、素直に保護を受ける道を模索すればいいではないかと思うが、なかなかそう考えられない、楽な道を選べないという、不自由な脳みその人間もいるのだろう。

 男らしさの病。世間から弱く見られたくないという気持ち。行政や他人の助けを借りることを恥と思う気持ち。侍の時代でもあるまいし、やせ我慢していたって、誰かが褒めてくれるわけでもないのに、受けられる支援も受けずに、自分だけの力で何とかしようとする。路上に放り出されて大変な思いをし、人から蔑視を浴びてもまだ、施しを受けるよりはマシなのだとのたまう。

 他人から見たら、バカバカしいプライドに縛られているようでも、意識を改めるのは大変だ。それは「信仰」なのだから。

 国家は自己責任論を垂れ流し、生活困窮者をバッシングして、「男らしさの病」を流行らせ、人が露頭に迷いやすい構造を作り出しておきながら、何の手立ても打とうとしない。

 人から助けられることを恥と思う「男らしさの病」を、お互いがお互いを助け合うという形で緩和してやり、社会へと繋いでやる。社会の誰も救おうとしなかった者たちの受け皿となり、少しでも人らしく生きられるようにしてやっている。

 「必要悪」である。ブラックな会社が己を正当化する言い訳の定番だが、果たして組合委員長である唐津は、どう受け止めるのだろうか。

「唐津くん、蔵田さん。どうでしょう。うちで正社員として、やってみませんか」

 俺たちの肩を後ろから叩いたのは、ユニークフェイスの男、谷口であった。

「・・・・・?」

 谷口は、突然の問いにうまく答えられない俺たちを座らせ、膝がぶつかるような距離で向かいあった。

「隠していて申し訳ありません。改めて名乗らせて頂きますが、海南アスピレーションを経営させて頂いている、谷口文雄と申します」

 それほど、驚きはなかった。丸菱の倉庫で、たった一日でほとんどの人間を味方につけてしまったことといい、見た目にも明らかなコンプレックスを意にも止めてないかのような器の大きさといい、谷口がひとかどの人物であることは感じていた。。海南アスピレーションのような零細企業なら、トップも足が軽く、問題が起きた現場に直接乗り込んで手を打つということができてもまったく不思議ではない。

 派遣労働者の身分で、社長の名前を一々覚えているような人間など、全体の一割もいない。労働組合委員長の唐津や、「あちら側」であることに命を賭ける深山などは、名前くらいは知っていただろうが、さすがに顔までは知らず、気にしたこともなかったようだ。

 谷口が社長だと聞いても驚かないが、その前の誘い・・・俺が寝ぼけていたのかもしれないが、正社員とかなんとか・・・。

「一体どうして、僕たちに声をかけるんですか?丸菱運輸の中でも、もっと仕事ができる人は沢山いますよ?」

「同じ派遣会社で働くのでも、いちスタッフとして働くのと、スタッフを管理するのとでは、求められる能力がまったく違います。いくら作業を一生懸命やるといっても、コブラさんや桑原くん、あるいは桟原さん、牧田さんといった方々に、広い視野が求められる管理の業務を任せても、円滑な遂行は難しいでしょう。その点、お二人はよくお勉強をされていますし、現実というものをよくわかっていらっしゃる。派遣という働き方の、これからの課題もよく理解しているあなたたちなら、あらゆる物事に、冷静に対処することができる」

 派遣の仕事に本腰を入れて頑張っている人間が、必ずしも有能であるとは限らない。一見、だらだらとサボりながややっているヤツは、好きでやっているわけでもない仕事はほどほどに手を抜きながらやって、余力を残して定時で上がり、家で自分が本当にやりたい仕事の勉強をして、スキルを磨いている人間かもしれない。

 派遣スタッフのやる気を十分に評価してくれる派遣先ならともかく、そうでない場合は、愚直なヤツや、派遣先に媚びるヤツは、いいように利用されるだけである。派遣の仕事では、長く働いたところで給料なんて上がらない。会社に搾取されたカネは、サボって取り返すしかない。建前上言わないだけで、派遣スタッフを管理、統括する立場の社員は、そんなことは当然わかっている。だから派遣で長年働いているくせに、派遣という働き方の本質も知らず、派遣先企業の見極めもできない深山は、こんな時にも名前すら上がらなかったわけだ。

「だけど、僕たちは、あなたに敵対している人間なんですよ?組合員を優遇して組合潰しを図るのならともかく、組合の主催者を引き抜こうとするなんて、聞いたこともないですよ・・・」

「私は、あなた方の熱意を買ったんですよ。力を持った者に臆さず、立ち向かう勇気。形成が不利になっても、すぐにはへこたれない覇気。それこそ、私が社員に求める、精神の強さです」

「もう、勤務に出る時間ですから・・・・」

 予想外にして魅力的な提案に動揺した様子の唐津が、俺を横目でチラチラみながら、誘惑から「逃げ」ようとする。

「今日は出勤扱いということにし、給料も出るようにします。どうですか、唐津くん、蔵田さん。海南アスピレーションは、まだまだ伸びていく会社です。我々と一緒に、頑張ってみませんか。こういうものも、すでに用意しています」

 谷口はアタッシュケースの中から、正式な正社員としての契約書を取り出し、俺たちの前に差し出した。組合潰しのための策略ではなく、本気で俺たちを、自分たちの「仲間」に誘おうとしているようである。

 結局、この日の午前中は、谷口から、今後、俺たちが海南アスピレーションに正社員として入社した場合の、キャリアプランについての説明を聞いて終わった。労働組合の主催者である唐津は、我が身に降りかかった青天の霹靂を素直には受け止めきれず、終始、困惑と後ろめたさが綯い交ぜになったような表情をしていたが、労働組合に何の思い入れもない俺は、谷口の説明を、純粋なビジネスの話として、冷静に聞くことができた。

 正社員という身分を、あたかも貴族のような特権階級のように思っているわけではない。確かに収入という面を考えれば魅力的だが、待遇が良くなる分、派遣に比べて大きな責任が生じ、労働時間も延びて、心身の負担が増大するという側面もある。

 俺は純玲と結婚する気でいるが、子供を作るつもりはない。生活するだけだったら、派遣の給料でもやっていける。正社員は安定した身分と言われるが、過労で心身を壊されるのなら、結果的には、派遣を長く続けた方が安定すると考えることもできる。

 正社員には派遣と違い、職業能力の開発と、履歴書上に記入できる実務経験を獲得できるというメリットもある。それを賃金の格差以上に重視する向きもある。

 日本の正社員は、欧米に比べて守られすぎ、固定されすぎという批判もある。終身雇用制は建前としてもすでに崩壊しているが、それでもまだ、日本の正社員の解雇に関する規制は強く、正社員の雇用を守ろうという慣習も根強い。

 それが必ずしも、正社員にとって幸せかといえば、そうともいえない。正社員の雇用を保護しようとするあまり、雇用の流動性を非正規社員に押し付けすぎているせいで、非正規社員の職業能力がまったく向上せず、業務を非正規社員にシェアできないことから、正社員の労務が過重化され、労務時間が異常に延びるといった問題も発生している。

 今後、時代の変化に対応し、正社員の解雇の規制が緩み、正社員も派遣同様の流動的な立場になる可能性もあるだろう。逆にいえば、派遣は待遇が改善されるかわりに、職務上の責任が増大し、「ぬるま湯」から上がらなくてはいけなくなる可能性もあるということだ。今後正社員としてやっていくにしても、派遣でやっていくにしても、ここで俺も一念発起して、社会で生きていく上で必要となる、汎用的なスキルを身に着ける必要性は、どうしてもあるのではないだろうか。

 やってみて嫌だったら、また一兵卒に戻ればいいだけ。海南アスピレーション正社員の話は、夢のように思うわけでも、冗談じゃないと撥ね付けようと思うわけでもない、普通に、前向きに検討してもいいかと思うだけの話だった。俺が気になるのは、自分のことよりも、谷口の誘いを受けて、唐津がどう感じたかである。

「で、唐津くんは、どうするんだい?」

 谷口と別れた後、ラーメン屋で唐津と一緒に食事をとりながら、俺は唐津に尋ねた。

「蔵田さんだから言いますが・・・。正直、社長の誘いを受けて、心が動いている自分がいます。まずいですかね?」

 唐津はあっさりと、本音を口にした。俺のことを、余程信頼しているということである。唐津に殺意を抱き、密かに復讐を誓っている、この俺をである。

 ふと、自分はそれほど、人間的魅力のある男だったろうかと考えてみる。この数か月間、復讐という目的のために動き始めてからというもの、俺は確かに、人から慕われていたようだった。純玲とは、短期間に結婚を約束する仲にまでなった。桑原も俺のことは、単なるビジネスパートナー以上の存在に見てくれているようだし、「金主」である東山も、なんだかんだ、俺のことを頼りにしてくれている。唐津同様、俺が密かに復讐を誓っている莉乃さえもが、今では俺のことを信頼して、部屋にまで上げてくれるようになった。魅力とまで言ってはおこがましいかもしれないが、俺が周囲から、毒気のない好人物と思われているのは間違いないようだ。

 俺は結構「イケる」などと自信をつけて、世間の風潮の中で頑張ってみようと思うことには、残念ながら繋がらない。今の俺が、周囲の人間から好意的な印象を抱かれているのだとすれば、皮肉な話だが、それは俺が、世間に対して復讐をするために動いていることが理由に違いないからだ。

 自分らしく生きている、という充実感。まったく皮肉な話だが、「復讐」という後ろ向きな発想が、逆に俺の人生にハリを与え、周囲から好意的に受け入れられる結果を招いている。中学時代、東山との「生存競争」――周囲からは、単なるイジメとしか捉えられていなかったマイナスの行為に夢中になった結果、俺が人望を獲得していたのと、まったく同じ現象といえるかもしれない。

 俺が「魅力的」でいられるのは、今だけのこと。莉乃と唐津への復讐計画が済めば、俺は純玲以外の誰からも好かれない、ずっといないものとして扱われるだけの、日陰者の暮らしに逆戻りである。一時的なものである以上、今、俺の身に起こっていることは、世間と手を結ぶ材料とはならない。

 誰の人生にも絶頂期というものがあるが、俺のそれは間違いなく、今、このときだとわかる。三十二歳、間もなく人生の折り返し地点を迎えようかという年齢で、生まれて以来、ずっと自分を虐げてきた世間にケジメをつけて、まったく新しい人生の扉を開く。目標に向かって突き進んでいる男は輝いてみえる。今まで、そんな熱血青春マンガのようなことを言うヤツのことをバカにしていたが、どうやら間違っていたのは、俺の方だったようだ。

「若い君には無限の可能性がある。今より上に行けるチャンスがあるなら、心が動くのも当然だろ」
「でも、僕は、みんなを・・・・」

「そりゃ、今まで君が、分捕られる側の立場にいたからさ。今まで君は、分捕られる側の立場として、ベストを尽くしてきた。それはそれで、誇りにしていいことだ。立場が変われば、主張も変わる。今度は分捕る側の立場として、ベストを尽くせばいいじゃないか」

「・・・・今まで正社員になるなんて、雲を掴むみたいな話だった。この先六十年もある僕の人生は、永遠に閉ざされたままだと思っていた。だけど、今回こういうチャンスが舞い込んできた。また考え方が違ってきても、仕方ないですよね。みんながもっと、僕に協力的だったらまだしも、もうあんまり、やる気もないみたいだし・・・・」

 俺のフォローを真に受けた唐津が、自分の希望を正当化するような言葉を口走り始めた。まだ本決まりではないものの、八割方、谷口の誘いを受ける方向に気持ちが傾いているようである。

 それでいい。過去の都合の悪い事実を平気で忘れて、目の前の快楽に邁進できるご都合主義。俺がもっとも気に入らない貴様のその性質を、これからもずっと貫いていればいい。

 唐津が最終的にどのような決断をしようが、復讐という俺の路線が変わるわけではないが、どれほどのモチベーションでそれに邁進できるかは変わってくる。唐津が自分の欲望に正直になればなるほど、俺は唐津への怨念を、より熱く燃え上がらせることができる。唐津が俺の気に入らない唐津であればあるほど、より冷徹に、唐津を仕留められるようになれる。

 谷口たちと一晩を共にして見聞きした出来事は、その日のうちに、唐津のメールによって、組合員に伝えられたが、唐津と俺が正社員に誘われたことについては、ひとまず伏せられた。唐津は内心はどうあれ、表向きは、いまだ労働組合の委員長として、会社と戦っている形をとったのである。

 優柔不断と、唐津を笑うことはできまい。他の会社の正社員になるから労働組合を抜けるというならともかく、今現在、直接戦っている企業に正社員として就職しようというのである。無論、谷口も就職後、唐津を即刻別のエリアに移してくれるなどの便宜は図ってくれるのだろうが、いつかどこかで、かつて丸菱で一緒に働いていた連中と顔を合わせないとも限らない。一度決断を下してしまえば、案外あっさり開き直れるだろうが、今日明日でスタンスを明確にするというのは、なかなか難しい話であろう。

 結局、翌土曜日には、予定通り街宣活動が行われることになったのだが、ここで驚くべき事態が発生した。当初、唐津、莉乃、俺、松原の四人のみで行われるはずだった街宣活動に、組合員のほぼ全員が参加したのである。

「私が昨晩、みんなを説得したんです。もう一度、立ち上がりましょう。東山を、倒しましょうと言ったんです」

 どうやら、ジャンヌダルク莉乃の懸命の呼びかけによって、組合員たちは、なくなりかけていた闘志を少し取り戻したようであった。

「本当は、今日の街宣は中止にするつもりだったんですが・・・困っちゃいましたね。蔵田さん、どうか昨日の件は、ご内密にお願いします」

 谷口からの正社員の誘いに心が動きかけている唐津が、苦笑いしながら言う。唐津の肉体を繋ぎとめるだけの目的で労働運動に参加している莉乃には、真実を打ち明けてもよかったはずだが、唐津は自分の女を信じ切れなかったようである。

「みなさん!私たちの働く職場には、Hという酷い男がいます!Hは、私に、えっちなことをしました!Hは、私のおしりを触ってきたのです!Hは、嫌な男です!Hを倒そうとする我々に、力を貸してください!」

 第二回街宣は、肝心の唐津に覇気が見えないものの、いまだ愛する唐津が労働組合の活動に熱心だと思い込んでいるジャンヌダルク莉乃の奮起によってまずまずの盛り上がりを見せ、終了後には、集会の名目で飲み会も開かれた。

「今日もこうして街宣活動を行いましたが、依然、丸菱運輸側は、団体交渉に応じる構えを見せません。もしかしたら、丸菱の職場環境を改善させるのは、難しいのかもしれません。一方、海南アスピレーションからは、来週の団体交渉を前に、次のような妥協案が提示されました」

 唐津が携帯のメールを見ながら読み上げたのは、今後海南アスピレーションは、スポット以外の長期派遣に関しては、家出報告と終了報告を撤廃すること、申告があった場合、これまで払った罰金や未払いとなっている残業代を返還すること、派遣スタッフに派遣先企業とのトラブルがあった場合、親身になって相談に乗るのを約束することの三点であった。

「みなさんに特に依存がなければ、来週の団体交渉の席で、海南アスピレーションとは手打ちということにしようと思うのですが、いかがでしょうか」

 松原以下、労働組合に加入している連中は、唐津の提案に納得した様子で頷いた。

「わかりました。続いて、丸菱運輸の方なのですが、海南アスピレーションの方から、行き過ぎた指導に関しては、今後、十分な改善を依頼するので、なるべく寛大な処置を願いたいという要望が出ています。海南アスピレーションと手打ちし、みなさんが今後も海南アスピレーションで働いていくのなら、ある程度、会社の要望も聞かなければならないでしょう。ただ、あれだけのことをされて、このまま矛を収めるというのも、みなさん納得いかないと思います。こうなったら、東山にだけでも、なんとか社会的な制裁を与えましょう。東山さえ倒せば、僕たちの勝ちといってもいいはずです」

 当初に比べ、やけに志の小さくなった唐津の魂胆は、非を見るよりも明らかである。すでに海南アスピレーション正社員の地位を得ることに気持ちが傾いている唐津は、東山の首を獲ったという形で、自分が起こした労働争議に収拾をつけようとしているのだ。本当は東山のことさえもどうでもいいと思っているのだろうが、唐津にも罪悪感と羞恥心というものがあり、最低限、自分が起こした騒ぎにケリをつけるため、誰かに腹は切らせなければならないと思っているのである。

 おそらくは、谷口とも、すでにそれで話がついているのだろう。唐津が自分の人生を切り開くため、海南アスピレーションと丸菱運輸の契約を守るため、一人東山がスケープゴートになろうとしているのである。

「そうだよな。考えてみれば、俺らに直接嫌な思いをさせていたのはほとんど東山だし、東山さえ倒せればいいかもな」

「ここで東山をクビに出来れば、後任のヤツも大人しくなるだろうし・・・無理して大きな敵を倒さなくても、確実に勝てるヤツに勝っておけば、それでいいのかも」

 もともと熱が冷めかけていたこともあり、労働組合の連中は、唐津の唱える妥協案を、あっさり飲んでしまった。これなら、東山を許してやっても問題はなかった気もするが、唐津もこれで、吐いた唾は飲めなくなった。

 彼らも彼らで、活動を辞めたいのはやまやまだが、一度参加を表明した手前、なかなか正直には言い出せなくなっているという状態である。唐津と労働組合の連中が、お互いに本音を言う勇気があれば、東山も助かったかもしれなかった。それぞれの思惑を抱えた連中が、中途半端に「落としどころ」を探しあった末、東山一人を破滅に追い込むという結論に達してしまったのである。

 それでも、俺が仲介してやれば、今すぐにでも不毛な労働組合の活動を終わらせ、東山を救うことも可能だろう。しかし、何か腑に落ちないものがある。

 俺にとって本当に重要なこと・・・俺の未来に、本当に必要なこと・・・。

「・・・・・すみません。どうか、このビラを、もらっていただけませんか!」

 酒宴が三十分ほど進んだところで、莉乃がなにを思ったか、通夜のような雰囲気だったテーブルをいきなり離れ、隣のテーブルで酒を飲んでいた中年男の一団に、労働組合のビラを配り始めた。
「私たちの職場に、東山というひどい男がいます!こいつが、みんなを毎日、いじめているんです!どうか、こいつの悪事を知ってください!こいつを許すわけには、いかないんです!」

 おかっぱ頭を振り乱し、声を震わせながら、酒で顔の赤らんだ莉乃が、見ず知らずの中年グループに熱弁を振るう。

 丸菱、海南という「敵国」を倒すことは諦め、「前線司令官」である東山に腹を切らせることに目標を絞った唐津に対するのアピール。二十歳の新鮮な男根を繋ぎ止めるためとはいえ、ここまでやるか。嫉妬を通り越し、呆れるしかなかった。

「すみません、この子、酔っぱらってるんです。すみませんね」

 松原が、とうに「子」とは呼べない年齢の莉乃の肩をつかみ、自分たちのテーブルに引きずっていった。

「圭一くん・・・莉乃は、どんなことがあっても、圭一くんの味方だからね。どんなことがあっても、圭一くんのために、莉乃、頑張るから。圭一くんのために、莉乃、東山をぜったいぜったい、ぜ~ったい、倒してやるんだから」

 酔ってまどろみかけた莉乃が、隣の席の唐津にもたれ掛かりながら、恥ずかしくなるような甘えた声で愛を語ると、唐津が健気な莉乃の肩を、黙って抱き寄せた。恍惚の笑みを浮かべる莉乃。微笑ましく眺める、松原ら労働組合の連中。若く美しい唐津との愛を周囲に見せつける、莉乃恍惚の瞬間。

 憎らしかった。ぶち壊しにしてやりたかった。今すぐ、唐津を足腰立たなくなるまで殴りつけ、柱に縛りつけたうえで、莉乃の服を脱がせ、昨晩から洗っていないヴァギナにむしゃぶりつき、尻に付着した糞をなめとってお掃除をしたうえで、いきり立ったものをぶち込み、俺の子種を莉乃に植えつけたかった。莉乃に俺の子供を産ませたうえで、その子供を莉乃自身の手で絞殺させたかった。莉乃の乳房から噴出する芳醇な母乳を飲みたかった。

 俺のプライドを、ぐちゃぐちゃに潰した女――愛する女よりも、憎い女を犯すときを想像するときの方が、遥かに興奮した。唐津を殺し、莉乃を強姦したいのは山々であったが、俺の愛する女に免じて、荒事に及ぶのはやめてやるとする。

 俺にも、純玲との生活がある。俺にも、純玲との未来がある。獄に繋がれるわけにはいかない。だが、貴様らを見逃してやるわけにもいかない。

 俺の敵は世間。俺はずっと、俺を虐げてきた世間をぶち壊してやりたかった。この世間の風潮をありがたがる奴らを、皆殺しにしてやりたかった。

 純玲を手に入れたことで――こんな俺にも、人並みの幸せは許されていることがわかったことで、
自分の人生を犠牲にしてまで、世間と戦う必要はないことがわかった。大犯罪はしなくてもいい――世間との「大戦」は避けられた。

 でも、何もしないわけにはいかない。「和解」はあまりにも遅すぎたのだ。ここまで傷が深くなってから「和解」を持ち掛けられても、はいそうですかと納得はできない。すべてを水に流すことはできない。世間にどでかい糞をまき散らす必要はなくても、指先についた糞を擦りつけるくらいのことはやらなくては、俺は先に進めない。それくらいはしないと、俺が三十二年も味わってきた屈辱の日々を納得することはできないし、これから上がり目のない貧乏暮らしをずっと受け入れて生きていくこともできない。

 俺に糞を擦りつけられるのが、莉乃と唐津だ。唐津は東山をスケープゴートにしたつもりかもしれ
ないが、本人が気づかない間に、唐津自身が、世間のスケープゴートになっていたのである。

 莉乃と唐津は、俺が憎む世間そのもの。何もかもをキレイごとで片付けようとする、ご都合主義のこいつらの目に映っている世界は、俺が憎む世界そのものだ。

 こいつらに何らかの不快な思いをさせられれば、間違いなくそれは、強大なる世間に一矢を報いた証明になる。純玲という、俺が未来を共に歩む伴侶を得たのとまったく同時に、俺が世間にケジメをつけるための相手までもが目の前に現れてくれたという運命に、深く感謝したい。

「莉乃は、圭一が大好きなんです。莉乃は、圭一を守るんです。圭一も、莉乃を守ってくれますか?」

「うん、守るよ。莉乃さん、今日はもう、帰ろうか・・・」

 今のうち、せいぜい楽しんでいるがいい。俺が貴様らに、この世では、キレイごとでは絶対に解決できないことがあることを教えてやる。忘れたくても忘れられない、都合が悪い真実というものを突き付けてやる。

 俺の敵は世間。こいつらは世間。

 飲み会がお開きになり、家に帰った俺は、こんなこともあろうかと前もって調べておいた、他人名義の携帯電話を販売する闇の業者にコンタクトをとった。


外道記 改 13


 甲高い破裂音が、段ボール置き場の方から響いてきた。両手を口に当て、内またの恰好で泣きそうになっているのは、性同一性障害の福井である。

 福井は、化粧品のビンを床に落としてしまったようだった。作業場の床にはゴムマットが敷いてあり、割れ物を落としても大丈夫なようになっているが、段ボール置き場の床は、剥き出しのコンクリートである。福井は、昼前で集中力が落ちていたのか、補充する段ボールを取りに行くのに、わざわざ商品のビンを持って行ってしまい。ゴムマットの範囲外で落としてしまったのだ。

「なっ。とっ。きっ。なっ。とっ。きっ。なっ。とっ。きっ」

 今までだったら、何やってんだーっ、取り返しのつかないことしてんじゃねーっ、きさまーっ。とでも叫んでいたところだろうが、刑事裁判を起こされようとしている身ではそうもいかず、東山は青筋を立てながら必死に堪えている。

「東山先輩!納豆菌がどうかしたんですか!莉乃は靴を脱ぐと納豆の臭いがしますが、嗅いでみますか」

 莉乃打倒を先走る桑原が、莉乃を指さしながら事実無根の悪口を言うと、莉乃が両手で顔を覆って、ワッと泣き出してしまった。

「バカ、莉乃ちゃんの足は納豆の臭いなんかしねえだろ!」

 俺は莉乃の家を訪れた際、コッソリ莉乃の靴の中身を嗅いでいたが、いい具合に使い込まれ、中敷きが黒ずんでいたにもかかわらず、莉乃の靴は、少し痛んで溶けかけたリンゴ程度の臭いしか発することはなかった。あれならば、冬場にブーツや、夏場に通気性の悪いパンプスを履いたとしても、せいぜい酢イカ程度の臭いしか発さぬことであろう。納豆など、もっての他である。

「莉乃は納豆なんかじゃない。大体、女の足は納豆の臭いとか、オッサンをゴミのような目で見る女子高生の方が、実は足が臭い、などというのは、女の自意識過剰であって、どう考えても普通は、オッサンの方が臭いだろ!」

「アニキ、何をムキになっとる・・・なっとうるんですか」

 俺がムキになるのは、たとえ冗談の上でも、莉乃の足の臭いが納豆とは認めたくないからである。
 ゆかりのような化け物の足が納豆臭いのでは何の不思議もないが、莉乃のような、並み程度の顔の、熟れた三十路女の足が納豆臭いというのは意外性があり、非常に魅力的な性的対象である。自分が、その魅力的な女を逃したという口惜しさを、絶対に認めたくなかったのだ。

 実際の莉乃の足はせいぜい酢イカレベルであるが、その莉乃の足も、夏場にわざと肉類中心の食生活に切り替えさせ、一週間軍用のコンバットブーツを履かせたまま足を洗わせず、一日二万歩をノルマに炎天下の中を歩かせ、夜も絶えず温風を当て続ければ、「納豆足」に進化するかもしれぬ。その希望があるだけでも口惜しい。希望すらも、頭の中から追い出したかった。

 半勃ちになりかけたペニスを、必死の思いで小さくしたところで、お昼のチャイムが鳴った。

「ねえ重治さん見て、今日は私、お弁当作ってきたの」

 休憩室に入ると、純玲がバッグの中から誇らしげに、キャラクターものの弁当箱を出してきた。
「へえ、珍しいじゃないか。どれ、見せてみろよ」

 オカズは冷凍食品であるものの、しっかり紙カップで分けて盛り付けられており、ちゃんとした弁当の形になっている。これまで、純玲の昼食は菓子パンかコンビニ弁当ばかりで、俺を家に上げたときも、料理などしたことはない。自分でこれだけの弁当を作って持ってきたのには、正直驚いた。
「どうしたんだよ、すげえじゃねえか」

「重治さんさえよければ、重治さんにも作ってきてあげるよ。それから、重治さんがずっと言ってる、あいつを酷い目に遭わせるって話・・・私もできる限り協力するから、できそうなことがあったら、何なりと言って」

 以前まで、俺がやろうとしている復讐計画には否定的な姿勢を見せていた純玲が、ここで自ら、積極的に協力することを申し出てきた。

 純玲が弁当を作ってくるという意外な行動を見て、俺は一瞬、純玲が不穏な企みを続ける俺を思い留まらせるために、俺の機嫌を取ろうとしているのであろう、と思ってしまっていた。キレイごとばかり吐きながら、まるで進歩がない。言動と行動が伴っていない――俺の言葉を気にしていた純玲が一念発起し、自分の思いを、言葉でなく行動で示し始めたのだと思っていた。

 半分正解であり、半分は外れ、いや期待以上であった。

 純玲が突然、弁当を作ってくるなど言い出したのは、自分が頑張るから、俺に世間に頭を抑え付けられたまま、膝を折ったままでも我慢して、大人しくしていろ・・・という意味ではなかった。いや、本音はそうなのかもしれない。だが純玲は、俺が純玲の望む通りに出来ないことに、俺なりの理由があることはわかってくれた。俺がなぜ、莉乃と唐津を成敗しようとしているのか、その理由が全てはわからなくても、莉乃と唐津を成敗しなくては、純玲と幸福を掴む道はないことは理解してくれた。

 そして、俺の後押しをすると約束してくれた。自分の男が、反社会的な、しかも一銭の得にもならない行為をしようとしていることを容認するばかりか、協力することを申し出てくれる。それは俺がずっと欲しかったもの・・・・俺に対して盲目的な、「信者」の行動である。俺が自分の世界の中に純玲しか受け入れぬのと同様、もう純玲の瞳にも、俺の姿しか映っていないのだ。

 俺の願いも叶える、自分の願いも叶える。今、純玲は、すべての思いを、俺との未来のために振り向けている。

「・・・・ありがとうな。弁当を作ってきてくれるなら、残さず食べるよ」

「うん、わかった。明日から、楽しみにしていてね」

「おう。ところでよ、今日、終わったあと、久々に遊ぼうぜ。いい加減、溜まってきちまったよ」

「ごめん。今は、ちょっと」

「えっ、どうしてだよ」

 近頃は体調が良くないと言うので、デートの誘いは自重していたのだが、見た感じ体調が回復したようなのにも関わらず、純玲は遊ぶことはできないという。一体なぜなのか、さっぱりわからなかった。

「ちょっと今、どうしてもやらなければならないことがあるんだよ。重治さんと同じで、どうしても今じゃないといけないんだよ」

「やらなきゃいけないって、なんだよ」

「それはお楽しみ。あと半月もしないうちにできるから、それまで待っていて。私もそれまで、自分を甘やかしたくないんだ。だから・・・」
「・・・半月だな?」

「うん」

「・・・わかったよ。お前を信じて、それまで待つよ」

「ありがとう。半月までには、必ず終わらせるから」

 怠惰に身を任せて生きてきた純玲が、今、真剣に、何事かに取り組んでいるという。口だけなら信用せず、自分の性欲を優先させるところだが、現に純玲は、弁当を作って持ってきてみせた。おそらく、何らかの意識改革があったのは本当だろう。俺も莉乃、唐津成敗に向けて、忙しい身である。彼女を信じて、待ってみてもいい気がしていた。

「ここが、お昼を食べるところだから。休憩のときは、基本ここで過ごして」

 昼休憩の時間を十五分ほど過ぎたところで、丸菱正社員の中井が、海南アスピレーションの新しいスタッフ四名を連れて、休憩室にやってきた。四名は事前の顔合わせと、施設の見学に訪れたのだろうが、そのうちの一人を見て、既存の派遣スタッフたちが目を見開き、息をのんだ。

 右の頬に張り付いた、ちぎれたサラミのような肉腫。大きく腫れ上がって、目を塞いでいる右の瞼。プロレスラー出身の某国会議員のように大きく突き出した顎。四十歳前後の新人派遣スタッフは、宮城のようにただ造形が良くないというのではない、先天的な疾患による「ユニークフェイス」のカテゴリに入るような容貌をしていた。

 そしてもう一人、三十代後半くらいの、坊主頭の派遣スタッフは、左手の薬指と小指の第一関節から先がなくなっていた。目つきは穏やかで、その筋の人間という感じではなかったが、明らかに、俺たちとは働く枠が別の人種であるようにしか見えない。あと、比較的年齢の若い男性二人は、特別見た目に変わったところはなかったが、目に見える障害のある二人とは、親し気な様子である。

「最近の業務量からして、特に新しい人を入れる必要はないはず・・・。何か、嫌な予感がしますね、蔵田さん」

「ああ・・・・」

 彼らは一体、何ものなのか?唐津たちの労働運動が開始されたタイミングで、彼らのような人たちが派遣されてきたのは、何か意味があったのか。誰もが海南アスピレーションや丸菱運輸の考えを訝しみ、事の成り行きに不安を感じる中、翌日、新人派遣スタッフが初めて勤務に入った。
「おはようございます。今日から皆様にお世話になります、谷口と申します。こんな顔で驚かれたでしょうが、皆さんと仲良くやっていきたいと思っておりますので、どうかひとつ、よろしくお願いします」

 勤務初日の昼休み、ユニークフェイスの男性、谷口は、俺たち先輩の派遣スタッフ一人ひとりに、丁寧に挨拶をして回った。七福神の蛭子を思わせる、朗らかな笑顔である。

 顔のハンデのことを、自ら口にしていることが重要だった。人には誰しも、触れられたくない心の闇がある。大多数の人間にとって、それは黙っていれば人にはわからないことだが、谷口の場合はそうはいかない。普通の人だと思って接していれば何も問題はないのはわかっているが、健常者は無意識のうちに、障害を持った人を「可愛そう」といった目でみてしまうものである。悪気はなくとも、ふとした拍子に、相手を傷つけてしまわないとも限らない。自然、深入りすることを躊躇し、余所余所しい態度になってしまう。

 しかし、谷口のように、自分からハンデキャップについて口にしてくれれば、随分と心が楽になるものである。僕は顔のことなんか何にも気にしていないとか、神様がくれた宝物だと思ってるとか、キレイごとで塗り固められるより、本人が、そういった顔が世間一般的な感覚からいえばどう見られてしまうか自覚している、それが分かった方がいい。彼が顔の障害を気にしているように、自分にだって、酷いコンプレックスはある。同じ人間であるという実感が湧き、付き合いがしやすくなる。谷口は瞬く間に、派遣スタッフたちの信望を掴んだ。 

「ねえねえ谷口さん、今度谷口さんの歓迎会やるから、絶対来てよ」

「ありがとうございます、コブラさん。喜んで参加させてもらいます」

 友達作りを人生最大のテーマとするコブラさんは、さっそく谷口と、「あそぶやくそく」を取り付けた。
「谷口さん、私も参加します。谷口さんといると、楽しいです」

「うん。楽しもうね、莉乃ちゃん」

 自分が人に良く思われるために、同じく良く思われている人間に取り入ることを忘れない莉乃も、いち早く谷口に接近する動きを見せた。

 容姿のハンデをものともせず、逆に武器として、周囲と積極的にコミュニケーションを取る谷口。同じ醜い容貌でも、それが「障害」のカテゴリに当てはめられると逆に受け入れられ、宮城のように「障害」まで行かなければ、切り捨てられ、自己責任の枠内で扱われる。発達障害などにもいえるが、誰から見ても保護を必要とするレベルの人間よりも、ギリギリ自力でやっていける、ボーダーラインにいる人間の方が、かえって苦労するという社会の現状が、まざまざと証明された格好である。
 
 しかし、こうなると、皆のまとめ役である唐津も黙っているわけにはいかない。自分以外で人望を集める者が、自分と志を同じくするならいいが、自分と志を相反するようでは困ってしまう。早いうちに谷口に意志を確認し、可能であれば手を携えて歩んでもらえるよう、説得する必要があった。

「谷口さん、実は僕たち、こういう活動をしていまして・・・」

 谷口たちが来てから三日目の昼休憩の時間、唐津が書類を見せながら、丸菱運輸と海南アスピレーションに敵対する活動と、その意義について熱弁を振るったのだが、谷口はピンときていない様子である。

「私は、私を雇ってくれた海南アスピレーションに、深く感謝しています。この会社を裏切るようなことは、できません」

 いつの間にか、谷口と一緒に入った三人のスタッフが、唐津を敵意に満ち溢れた、鋭い視線で見つめていた。

「でも、実際に海南アスピレーションでは、労働者に対して常識じゃ考えられないピンハネが行われているし、丸菱運輸では、労働者に酷いパワハラが行われているんです。それを泣き寝入りするわけには・・・」

「ねえねえ、そんなことよりさ、週末、谷口さんの歓迎会で行く居酒屋をどこにするか決めようよ。俺は、敬老の滝がいいと思うんだけど・・・」

「うるさい!!!!谷口さんは、今僕と話してるんだ!割り込んでくるな!」

 握り飯を頬張りながら、唐津を押しのけるようにしてやってきたコブラさんに、唐津が大喝を飛ばした。今だけでなく、度重なるコブラさんの、組合の活動に無関心な態度に、いい加減、唐津も頭に来ていたのだろう。東山に対してすら見せたことのない、溜め込んだマグマが爆発したかのような、激しい怒りだった。

「そんな・・・・・俺は、ただ・・・・」

「あ・・・すみません」

 俺から見てもコブラさんの方が悪いと思うのだが、泣きそうになってしまったコブラさんを見て唐津は引け目を感じてしまったのか、そこで谷口との話し合いをやめてしまった。一方、コブラさんを引き取った谷口は、コブラさんと楽しそうに、遊びの予定を相談し始める――。派遣スタッフ全員が見ている前でこうした光景が繰り広げられたことにより、全体の空気が微妙におかしくなってしまった。

「唐津くん、ごめん。週末の街宣活動なんだけど、今回はキャンセルしてもいいかな・・・」

「私も・・・・。唐津くんと違って、もう歳だからさ。休日はゆっくりしたいんだ・・・・」

 コブラさん一喝事件を境に、労働組合の面々が、活動に消極的な姿を見せ始めたのである。
 伏線はあった。以前の街宣のとき、活動が家庭にバレてしまった田辺は、すでに労働組合からの脱退を申し出ていた。名目上、書記長の立場にあり、温和な性格で皆に慕われていた田辺の抜けた穴は大きく、組合の士気は低下していた。

 それに加えて、刑事告訴を恐れる東山が、近ごろ度を越したパワハラを控えるようになっていたことがある。どう考えても反省したわけではないのだが、どこまでもお人好しな派遣スタッフたちは、これで闘志が薄れてしまったのである。東山にだって人生がある。そこまでやらなくてもいいのではないか――ということだ。それを言うなら、東山に人生を壊された者だって沢山いたはずだが、人は自分さえ困っていなければ、戦って相手を追い詰めようとは思わないものである。

 そこに畳みかけるように、唐津に対抗する新たなカリスマ、谷口が職場に入ってきた。「君を守り隊」で、いじめっ子を守る運動をしていたときの名残なのか、どうも東山には、身体障碍者など、わかりやすい弱者には優しく接するというポリシーがあるらしく、ユニークフェイスの谷口や、指が欠損した新人には、小さなミスを咎めず寛大だった。また、見た目は普通の新人二人の方は仕事熱心で、作業中は脇目も振らず目の前の箱を組み立てるのに集中し、速さ、正確さは、先輩スタッフと比べても群を抜いていた。

「谷口さん、あんたが入ってきてくれて、大助かりだよ。あんたさえよかったら、直接雇用のバイトに切り替えてもいいぞ。いつまでだって、いてくれてもいいんだからな」

「ありがとうございます、東山職長。私のような者にいいお話を頂き、大変嬉しく思っておりますが、私は近々、海南アスピレーションの内勤に異動することになっております。私と一緒に入った篠崎くんと増田くんと大島くん、またコブラさんといった方々のほうが、私よりもずっと若く、お仕事もできますので、ぜひ彼らに同じような言葉をかけてあげてください」

「コブラ・・・あの金髪オヤジか。だが、奴は、あの生意気な労働組合の一員で・・・」

「東山職長。お言葉ですが、本来、労働組合とは、会社に敵対し、会社の利益を損ねるための組織ではありません。労働者と経営者、お互いが気持ちよく働き、会社を盛り上げていく意図で活動をする組織です。東山職長も、彼らを目の仇にするのではなく、膝を突き合わせて、腹を割って話し合う姿勢を見せれば、平和裏に物事を解決する方向も見えてくるのではないでしょうか」
「う、うむ・・・まあ、俺に歩み寄る姿勢のある奴に対しては、考えてみよう」

 労働組合に入っていた面々が、東山に気に入られている谷口たちと親しくするということは、東山が、労働組合に対する敵意を和らげることに繋がる。コブラさんはじめ、労働組合の面々が、東山や中井ら社員らと仲良く談笑しているところを、チラホラ目撃するようになった。

「後から入った奴らに負けてたまるか。意地を見せてやろうぜ」

「おうよ!今日の目標は、二百二十箱だ!アイツらと競争だ!」

 もともと労働組合に敵対していた三バカトリオも、谷口たちが入ってきたことにより、俄然勢いづいてきた。

  北風と太陽ではないが、三バカトリオのように、敵愾心を剥き出しにしていては、労働組合の面々も余計突っ張るだけであった。しかし、谷口は労働組合の面々に、友好を持ちかけて接した。これにより、コブラさんをはじめとする何人かの組合員は、あっさりと骨を抜かれてしまったのである。

「皆さん、もう一度、ここで戦う意志を確かめ合いましょう。僕たちはただ、丸菱運輸、海南アスピレーションを痛い目に合わせるためだけに、戦っているわけではありません。この戦いが終わった後も、僕たちの立場は、不安定な非正規労働者であるには変わりません。しかし、同じ非正規でも、奴隷として働かされる非正規と、自分の意志で道を切り開こうとする非正規ではまったく違う。僕たちは、弱者を食い物にするこの世の中で、もう二度と理不尽に屈しないため、意識を変えるために戦っているんです!いまだ丸菱運輸の社長は団交に応じる姿勢を見せませんが、海南アスピレーション経営陣との団交予定日は、もう間もなくに迫っています。決意を新たに、戦っていきましょう!」

 昼休憩で集まる度に、唐津が呼びかけてみるのだが、組合の士気は上がらない。結局、週末の街宣活動に参加を表明したのは、副委員長の松原と莉乃、俺の四名だけという結果になってしまった。さらに、追い打ちをかけるように、田辺に続いてコブラさんが、労働組合から脱退を表明してしまった。

「唐津くん、ごめんね。俺、一生懸命考えたんだけど、やっぱり、やめることにしたんだ」

 もともと、薄氷の上を歩いているような底辺世界で、足元ばかり見て生きているうちに、視野が狭くなってしまった連中である。今日明日を食いつなぐのに精いっぱいの人間に、大義、正義を示したところで、彼らにはそれがどんな価値があるものかがわからない。

この戦いに勝っても、一人頭十万を超えるような金が手に入るわけではない。プライベートを犠牲にして戦ってまで取り戻すほどのプライドは、端から持ち合わせてはいない。組合員たちは、唐津の若さに感化され、東山憎し、海南憎しで活動に参加してみたはいいものの、「敵」と本格的に争うまで、その熱を持続させることはできなかったのだ。

 街宣活動の参加人数として、四人はけして、少なくはない。しかし、組合の気持ちが一つになっていない状況で活動をすることに、意義があるのかどうか――。勤務終了後、唐津は俺とともに休憩室に残り、今後の方針を話し合っていた。

「あの谷口って人が来てから、何もかもがおかしくなった。このタイミングであの人が来たのは、偶然とは思えない。海南アスピレーションが手を打ってきたんだ」

「・・・だろうな」

 あれが嫌だ、これが嫌だと駄々をこねている子供を大人しくさせるためにもっとも有効なのは、その子供よりもっと小さい子供が、不平不満を言わずに大人しくしている姿をみせることである。これまで、海南アスピレーションや丸菱運輸のやり方に不満を感じていた派遣スタッフたちは、障害のある谷口たちが、にこやかな笑顔を浮かべながら、東山と仲良く仕事をやっている姿を見て、間違っているのは自分たちではないかと思い始めているのだ。

 唐津の考えている通り、これは完全に、海南アスピレーションの狙い通りの展開だろう。不当労働行為に抵触するような方法を使うのではなく、労働組合を自然消滅させるため、別の派遣先で働いていた谷口たちを、刺客として送り込んできたのである。

「谷口さん、お食事中にすみません。ちょっとお話いいですか」

 街宣の予定を翌々日に控えた木曜日の昼休み、唐津が、コブラさんがコーヒーを買いに行った隙を見計らって谷口の向かいに座り、自分たちの味方になってくれるかどうか、最終の意思確認の話し合いを申し出た。

「構いませんが、どういったお話でしょうか」

「谷口さんは、いったいなぜ、海南アスピレーションのような会社に、そんなに恩義を感じているんですか?」

「気になりますか?」

 若者らしい、直球の質問。一瞬、谷口と一緒に入った、篠崎、増田、大島といった連中が気色ばみんだが、谷口は微笑みを崩さず、穏やかな調子で応える。

「もし、唐津さんのご都合がよろしければ、今度、我々の寮で一夜を過ごしてみませんか?海南アスピレーションの違った顔をご覧になっていただけると思いますよ」

 谷口の提案に、唐津は少し考えた後、首を縦に振った。いまや、組合を抜けた田辺に変わって、唐津の「一の家老」となった感のある俺も誘われ、翌日の晩、俺たちは意気揚々と「敵地」に乗り込むことになった。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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