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 アラームの音で目を覚ます。シャワーを浴び、カップ麺をすする。何度も繰り返される日常の合間に、ウッとした倦怠感と、頭が潰れそうなほどの気分の重さが、絶え間なく割って入ってくる。

 四畳一間の独身寮を出て、自転車に乗って工場に向かう。派遣会社から、月に千円でリースしているオンボロ自転車。たぶん、とっくに原価は払い終えているはずだが、会社は買い取りを許可してくれない。修理代も自己負担。テレビ、冷蔵庫、寝具。すべて、新品を購入した方がずっと安上がりなのはわかっているが、なかなか惰性が断ち切れない。
 
 半年前から働いている電子基板製造工場。タイムカードを押し、共用のロッカーで制服に着替え、作業場に向かう。ラインリーダーから朝礼を受け、作業を開始する。 

 仕事は嫌いじゃない。金がもらえて時間が潰せる。人生という名の罰ゲームを、少しでも意味のあることで消化できる。

 だけど、心は擦り切れていく。

 無機質で、硬く冷たい金属の基盤を、右から左に流していく。俺じゃなくても、誰でもできる仕事。俺が明日からいなくなっても誰も困らないし、誰かがすぐにやってきて代わりを務める。

 勉強もスポーツも頑張らなかったし、手に職をつけようともしなかった。なるべくしてなった部分もあると思っている。だけど、全部自分が悪いとも思えない。だってあの頃は、少しくらいそれを頑張ったところで、何かが変わるとは思えなかったから。

 誰でもできる単純労働では何も身に着くものがなく、時間ばかりが奪われ、歳を重ねて先細りになっていく。普通にやっていても、浮上のチャンスは巡ってこない。

 何とかしなきゃいけないのはわかっている。だが、死に物狂いになるにはキッカケがいる。頑張れば幸せになれるって保証が何もなければ、頑張れない。

 誰かに愛され、必要とされたことがなかった。俺が今現在、二十八歳という年齢で、非正規の派遣労働なんかやっている理由はそれに尽きるし、今現在、片田舎の電子基板製造工場で働いている俺を苦しめている理由もそれに尽きる。
 
 まず、誰かに愛され、必要とされたい。頑張る前に、そっちが先に来ることが、そんなに情けないことなのだろうか。

 頑張れば誰かに愛され、必要とされるなんて信用できない。ゼロをどんなに掛けても、イチにはならない。学のない俺でも、それぐらいの計算はカンタンにできる。

 頑張るために、最低限の保証が欲しい。誰かに愛され、必要とされれば、もっと誰かに愛され、必要とされるために頑張れる。

 最低限、誰かに愛され、必要とされるために、そんなに死に物狂いの頑張りが必要だとは、どうしても思えない。俺より頑張っていないヤツが、当たり前のように誰かに愛され、必要とされているのに、どうして俺が頑張らなくてはいけないのかわからない。

 でも頑張らないから、やっぱり、誰にも愛されないし、必要とされない。悪循環の泥沼に、つま先から頭の天辺まで浸かりきって、身動きすら取れなくなってしまった。
            

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 正午のチャイムが鳴らされた。一日のうちでもっとも苦痛な、昼休憩の時間が始まった。

「さぁ、メシだメシだ。さあ行こう、青木くん、竹山くん」

「・・・はい、田辺さん」

 俺が、同じラインに所属する竹山と二人、足早に作業場の入り口を出て行こうとすると、後ろから、工場に十六年も勤めている古株の派遣社員、田辺が追いついてきて、先頭に立ち、俺たちを食堂に引っぱっていった。

 誰かに愛され、必要とされたい。だが、愛し、必要としてくれるのなら、誰でもいいというわけじゃない。

 食堂に到着し、テーブルにつくや、入り口で、社員証を読み取り機に充てて定食を注文するやり方がわからずにまごついていた新人をゲストに招いて、承認欲求モンスター、田辺のオナニー午餐会が、盛大に幕を開く。

「岸くんはもう、この工場で、誰を作業の師匠にするか、決めたかい?みんなそれぞれやり方が違うからさ。混乱しないためには、誰か一人を師匠に決めて、その人の動きを徹底的に追うのが一番だからね。無理には勧めないけど、もしよかったら、俺の動きを参考にしてみるといいよ。俺の作業は機械のように正確だって、社員の人たちみんなから言われてるからさ。間違っても、君の隣の工程の、片田さんなんかは見習っちゃだめだよ。あれは人柄はいいけど、やることが適当だから」

 誰でもできる単純労働の世界で稀に発生する、頼むから弟子にしてくださいではなく、師匠の押し売りというパターン。

 自分の仕事に誇りを持つのは尊いことである。だが、誰でもできる単純労働に誇りを持つのが悲しいのは、それが自分が向上することには繋がらず、ほとんど他人を見下す材料にしか使えないことである。

 こんな誰でもできるライン作業などはつまらなくて当然なのだし、みんなで仲良くやればいいだけなのに、誰それは手が遅いとか、誰それはミスが多いだとか、くだらないことで仲間を貶め、優越感に浸ろうとする。そんなことが、どれだけ愚かなことかをわかっている二十代の新人、岸は、苦笑いを浮かべながら、俺と竹山が、もう百回くらい聞かされた田辺の自慢話をやり過ごしている。

「そういえば、岸くんはもう、俺たちのフロアの責任者、宮塚部長に挨拶はしたのかな?俺は宮塚さんとは工場に入ったころからの付き合いでさ。あの人がまだ、ラインリーダーやってたころには、改善の案を積極的に出したり、随分協力したもんだよ。岸くんはまだ入ったばかりだから知らないだろうけどさ、あの人を部長にまでしたのは俺みたいなもんだよ。それと、うちの営業の石島くんのことは知っているかな?彼、入ったのは僕より後で、年下なんだけど、彼ができる男だっていうのはすぐに見抜けたからさ。十年前、俺を管理者に引き上げるって話が出たとき、俺が石島くんにその話を譲ってやったんだよ。だから石島くん、今でも俺に足を向けて眠れないって言ってるよ」

 片田舎の工場に長年勤めて、自分が何かを成し遂げた気になっているようだが、自慢しているのはすべて他人の実績。片田舎の工場、片田舎の派遣会社を世界のすべてのように思い込み、狭い世界の中で少しでもデカい顔をする材料を集めることだけに必死な、井の中の蛙である。

「この間、統合ラインの小林さんのとこに入った新しい子、二日で根を上げちゃったらしいね。まったく、最近の若いヤツはなってないよ。ちょっと厳しく言われただけでメソメソしちゃってさ。世の中に出たら、辛いことなんていくらでもあるのに。長続きしてる子にしたって、要領ばっかよくて、手ぇ抜くことばかり覚えちゃってるだけでしょ。そんなんで渡っていけると思ったら大間違いだって」

 資本主義社会の中で何の恩恵も得ていないくせに、ゴミ溜めの中でまだ争おうとする愚か者。弱い者同士で足を引っ張り合うことしか能がなく、自分自身が上に行くという発想がまったくない、田辺のような模範的な奴隷が厄介者扱いされているなら、その職場は健全だ。

 水が変われば、魚も変わる。この世界、田辺のような絵に描いた底辺労働者が主流となって幅を利かせている職場など山ほどある。これまで、そんな泥溝のような環境に馴染めず、嫌な思いばかりさせられてきたはずが、今の俺は、泥溝から清流に這い上がってきたアメリカザリガニのような男と仲良く、肩を寄せ合いながら飯を食っている。

 除け者、嫌われ者、厄介者。それでも一人ではいられず、どこかに自分の居場所がないと不安になってしまう寂しがり屋という共通項が、忌み嫌う人種である田辺と俺を結び付けている。
 
「それじゃ、俺はこれから、工場の偉い人と話してくるから。青木くん、後は任せたからね」

 一足先に食事を終えた田辺は、聞いてもいない行き先を伝えてから席を立ち、俺たち三人を残して、工場の上の人間がたむろしている喫煙所へと向かっていった。

 田辺が工場の上の人間と、いつも仲良さげに喋っているのは本当である。だからといって、何も羨ましいとは思わないし、田辺がそれで具体的に何か、得をしているわけでもない。

 どれだけ上に媚びを売ろうとしても、四十歳を過ぎて、性格に問題のある田辺を工場の正社員に引き上げようという話は出てこないし、時給が一円でも増えているわけでもない。仲がよさそうに見えても、向こうは半分、絡んでくるので仕方なく付き合ってやっているにすぎず、本当に大事な話には混ぜてもらえない。

 田辺がお偉いさんと仲良くしているのは、ただの自己満足。俺は他の派遣の奴らとは違うぞ、会社から必要とされた人材であるぞ、と思い込んで、他の派遣の連中を見下したいだけの目的でしかない。

 誰かに愛され、必要とされたい。だが、愛され、必要としてくれるなら、誰でもいいというわけではない。

 そもそも田辺が俺や竹山を必要とするのは、自分より下だと、田辺が勝手に思っている人間を傍に置き、自分が誰かより優位に立っているという確認がしたい、ただそれだけの理由でしかない。ここにしか居場所がないから留まり続けてはいるが、自分が田辺の仕切る、掃き溜めの中のゴミ捨て場グループに組み入れられているのは、不本意でしかなかった。

 しかし、人のことは言えない。俺が同じラインに所属する三十八歳の派遣スタッフ、竹山と常に一緒にいるのも、田辺が俺を傍に置きたがるのと、まったく同じ理由なのだから。

「竹山くんさぁ、今日の動き、あれ何?最悪だったよ。この前俺が教えたこと、全然できてないじゃないか」

 田辺に場を任された俺は、スマホをいじり始めた新人には目もくれず、気心の知れた竹山に、ライン内での作業のことで説教を始めた。

 背丈は日本人の平均より少し低い俺とちょうど同じだが、体重は九十キロもある肥満体。分厚い眼鏡、天然パーマ、滝のように流れ出る汗。典型的秋葉ヲタクのような見た目だが、アニメは観ず、ゲームもやらないという竹山は、常に受け身で、自分の意志がなく、みんなで輪になっても、積極的に話題を上げることはない。

 そのくせ、俺と同様、職場に自分の居場所がないと不安になってしまうタチで、同時期の入社で、ラインも同じ俺の後を、いつも金魚のフンのように追いかけてくる。それをいいことに、俺は俺で、工場のスタッフの中でただ一人、自分以下の人間だと思える十歳上の竹山に、日常のどうでもいいことで説教をすることで、自分が誰かより上で、価値のある人間だという確認をし、優越感に浸るための材料にしていた。

「今日も竹山くんのせいで、午前中に数が間に合わなかったんだよ。竹山くん、やる気あるの?」

 竹山の仕事のできなさが誰の目にも余るほどで、ラインの足を引っ張り、リーダーから度々叱責を受けているのは、紛れもない事実ではある。しかし、別にそのことで、俺が迷惑しているわけではない。むしろ、自分よりできないヤツがいるお陰で、自分が相対的にマシに見えている点において、竹山は俺にとっては立派に存在価値があった。

 無能が切られたら、次に無能なヤツが新たな標的になる。竹山を潰しても、俺には何のメリットもない。無駄であるどころか、己の首を絞めるだけの行為であるとわかっていて、それでもやってしまう。

 弱い者が、弱い者同士で潰し合う。ともに手を取り合い、世間の逆風に立ち向かっていかなくてはいけない、不安定な立場の人間同士が、なぜか互いに足を引っ張り合い、潰し合おうとする。長年に渡って忌み嫌ってきたはずの愚かな図を演じなくてはやっていけないほど、俺もギリギリの状態にある。

「ぼ・・僕も、頑張ってるよ」

 調子に乗って、上から目線でしゃべり続ける俺に、竹山が、喉が肉で圧迫されたような声を絞り出し、精いっぱいの口ごたえをした。

「竹山くんが頑張っているのはわかっているよ。だけど、結果が出てないんだよ。竹山くんはもう学生じゃないんだから、結果を残さないと、社会は認めてくれないんだよ。わかってる?」

 こんな単純労働の世界で、プロ野球選手のようなことを言って得意げになっている俺の、その視線の先で、ある男女の三人組が、楽しそうに盛り上がっている。

 食堂では百名を超す工場の従業員が食事を取っており、二列も離れたテーブルでの会話はまったく耳に届かない。しかし、彼らの笑顔をみれば、身分は同じ非正規の派遣社員ながら、彼らの人生が、俺とはまったく違った充実したもので、生きる喜びに満ち溢れているのはわかる。

 向かいに座る二人の女と楽しそうに喋っている男、藤井は、俺より一つ下の二十七歳で、身長が百八十五センチもある。無駄な肉がそぎ落とされてプロポーション抜群、色黒で、顔立ちも細面で整っている。

 容貌貴種。仕事は同じ非正規の派遣労働でも、イケメンは生まれながらに、俺とは住む世界が違う。普通にレールの上を走っていれば、俺とは交わることもなかったはずだが、藤井は十代のころからミュージシャンなんぞに憧れて、叶いもしない夢を追いかけていたせいで、夢も希望もないままに掃き溜めに寄せられた俺と同じ時給で働く身となった。

 掃き溜めの鶴が、掃き溜めのクソとゲロが抱く、ささやかな希望をかっさらっていく。

 タレントのような美女を抱きたい願望など、端から抱いてはいない。ごく普通の容姿をした女、たった一人に愛されれば、俺はそれで満足できた。

 それを得るために、死に物狂いの頑張りが必要だとは、どうしても思えなかった。仕事が派遣でも、服や髪の毛に何万も使っていなくても、トークがうまくなくても、ごく普通の容姿をした彼女が、たった一人くらいはできてもいいと思っていた。

 それまで二十八年間も生きてきて、商売以外の女を抱いたことが一度もないという経歴をみれば、それがとんだ高望みであったことはわかったはずなのに、彼女がいつも明るく挨拶してくれるせいで、ついつい期待してしまった。

 石田友麻。藤井の侍らせる女のうちの若い方。目はクリクリとして大きいが、しもぶくれで前歯が出ており、ビーバーみたいな顔立ち。だが、笑った顔が、ハンパなく可愛かった。その笑顔を、俺にだけ見せてくれる瞬間が欲しくて、思い切って、食事に誘った。

 セクハラだと騒がれ、嫌らしい目で見てくるとか、作業の中で偶然を装って触ってくるとか、あることないことでっち上げられ、担当者に報告され、叱責を受け、ラインを移された。クビにならなかっただけマシなのかもしれないが、気分はひどく惨めになった。

 藤井が入ってきたのは、そのすぐ後だった。友麻が藤井に向ける笑顔を見て、かつての俺がカワイイと思っていた友麻の笑顔は、所詮、その他大勢に向ける用のものだったことを思い知らされた。

 友麻が俺と藤井を差別するのは仕方がない。同じ工場で、同じ時給で働いていても、俺と藤井では、住む世界が違う。容姿も頭のキレも性格の良さも、何もかもが違う。

 俺が連絡先を聞けば怪しい宗教のお誘いでも、藤井が連絡先を聞けば嬉しい恋の始まり。俺が言えば不快なセクハラになる友麻への褒め言葉も、藤井が言えば素直に嬉しく、自信になる。

 現状、藤井と友麻の交際の事実が確定しているわけではなかったが、いずれはそういう流れになっていくであろうことは、陳腐なメロドラマの展開よりも容易に予測できた。さっさと付き合って、俺にトドメを刺して欲しかった。

 早く、仲睦まじく、手を繋いで歩く姿を見せてくれ。お前らが愛で結ばれ、俺をこの世で一番惨めな男にしてくれたら、すべての抑止を振り切り、躊躇なく奴らの背中に、冷たい刃を突き刺せるのに――。

「あれ?岸、何やってんの?」

 バンド仕込みの、透き通るようなテナーボイス――。食事を終えて、女二人と一緒に、俺たちの座るテーブルの傍を通りがかった藤井が、俺と竹山の会話にはまったく関心を示さず、終始スマホと睨めっこをしていた新人、岸に声をかけた。

「いや。俺が定食の注文の仕方がわからなくて、この人たちに聞いたら、この人たちと一緒に、飯食うことになって。別にそこまではお願いしてなかったんだけど」

 岸が、向かいの俺と竹山に、あからさまな侮蔑の視線を投げて言った。

「つーかお前、いつからここに入ったんだよ」

「今日からだよ」

「なんだよ、だったら挨拶しに来いよ、水くせえな」

「んなこと言ったって、俺もお前がこの工場にいたなんて知らなかったし」

 新人の岸は、どうやら、藤井とは旧知の間柄のようだった。

 食事を取っているときは意識しなかったが、よく見てみれば、岸は藤井ほど背は高くないものの、涼やかで切れ長の目をしており、鼻も細く通って、顔立ちはまずまず整っている。髪色は明るく、オシャレにも精通していそうである。

 どうやら、コイツも藤井と同じだったようだ。俺と同じ掃き溜めにいても、まるで価値のないゴミではない人間。俺とは、住む世界の違う人間――。

「まぁ、でもこうしてせっかく久々に会ったんだし、週末に飲みにでも行く?」

 岸が、俺たちと喋っていたときとは打って変わった明るい声音で、藤井を飲みに誘った。

「あぁ、わりぃ。週末は俺、主任と予定あるんだわ。飲みに行って、次の日は、朝からゴルフ連れて行ってくれるって」

「へぇ。すげえじゃん。気に入られてるんだな、お前。もしかしたら、ここで正社員になれるんじゃねえの?」

「そんな簡単じゃねえよ。俺だってまだバンド続けたいし、社員になれとか言われても困るしな。つーわけで週末は無理なんだけど、今日だったら空いてるから、軽く一杯やるかい?」

 親し気に、座っている岸の肩を叩きながら話す藤井の様子と、その後ろから、好意的に岸を眺める二人の女の様子で、密かに期待していた「枠」が埋まってしまったのを理解する。初めから、チャンスがあったわけでもないのに――確率が一パーセントもなかったのはわかっていたのに、胸の奥から、湿気含みの嫌な熱がジワリとこみ上げる。

 世の中全体を見渡せば、嫉妬を向けるべき対象は他にゴマンといるのはわかっている。しかし、人というのはどうしても、今、現在目の前にいる、近いレベルの相手としか争うことができない。

 彼らとて、同じ掃き溜めの住人。どこかで、何かに敗れて、ここに掃き寄せられた連中。しかし、人の集団というものは、敗残者の中でもさらに、明と暗に分岐する。

 気に入られ、頼りにされ、友達もいて、彼女もいるヤツ。そいつがいつも、俺の欲しいものをすべて持っていく。値打ちがあるものをみんな食い散らかして、残りカスを俺に押し付ける。

 学生時代から苦しめられて、やっと解放されたと思っても、まだ俺の前に立ちはだかってくる。

 リア充――もっと新しい言葉で、「陽キャ」とかいわれる連中が、ずっと羨ましくて、妬ましかった。

 こいつらと一緒になれれば、何かが変わる気がした。勉強やスポーツを頑張る前に、まずこいつらの仲間に入りたかった。こいつらになれなければ――誰かに愛され、必要とされなければ、何かを頑張る意味はないと思った。

 今も、こいつらになりたいと思っている。ずっとこいつらになりたくて、なりたくてなれなくて、一方的に邪な感情を抱き続けている。永遠にこいつらになれないのなら、ぶっ殺して、目の前から消してやりたいと思っている。

「いいね。つかさ、昼休憩の時間、あと十分くらい残ってるし、俺もそっちに混ぜてよ」

「ああ、もちろん。ごめんね青木くん、コイツの面倒見てもらっちゃって」

 誰にも愛想の良い藤井は、非リア――もっと新しい言葉で「陰キャ」とかいわれる位置で、湿ったナメクジのように生きている俺にも、煌めく笑顔を向けてくる。そのまばゆい光が俺を焼き焦がし、余計に惨めな気持ちにさせているのも知らずに――。

「あのさぁ。もう話すこともないだろうから言っとくけど・・・」

 俺たちから解放され、藤井たちに合流できることになった岸が席を立ち、侮蔑に満ちた視線で、俺と竹山を見下ろしてきた。

「あんたら、キモイんだよ」

 予想通り飛び出した、気持ち悪い、というストレートな感情と、略し言葉で相手の不快感を煽る、二十一世紀最強の罵倒語。岸が吐き捨てるように言った瞬間、後ろにいた友麻の口角がニッと釣りあがったのを、俺は見逃さなかった。 

 ただ、連絡先の交換を頼む。俺が友麻にやったことは、本当に、ただそれだけだった。ただそれだけのことで、派遣の担当者とラインリーダーから叱責され、まるで犯罪者のように扱われて、ラインを移された。

 美人ではないごく普通の女を、口説く自由も許されない男に、キモいという評価は、まったく相応しい。女に好意を持ったとき、その女から、好きになってくれて嬉しいではなく、こんな男に落とせると思われた、侮辱されたと取られるような俺は、キモイと言われて当たり前。正しいことを言われていると思ったから、岸に何も言い返せなかったし、怒る気もしなかった。

「バカ。お前、青木くんと竹山さんは、ここでは先輩だろうが。なんて口の利き方すんだよ」

「だってよぉ。もっさいオッサン同士が、食事中にマジな顔して、羨ましくも何ともねぇ自慢話とかしたり、熱血学園マンガみたいな説教したりしてんだぜ。そんなん見せられたら、せっかくのメシがまずくなるっつうんだよ。一言くらい、なんか言いたくもなるだろ」

 先にいなくなった田辺の分まで、俺のせいにされている。俺がどれだけ、自分は田辺とは違うと思っても、「リア充」「陽キャ」から見れば、同じ除け者、嫌われ者――泥溝の中にいるのが相応しい「非リア」「陰キャ」の枠に括られているのだ。

 泥溝の中にいるのが嫌で嫌で仕方ないのに、泥溝の中から抜けられない。俺が行きたい、澄み渡った清流の中に入れてもらえることは、絶対にない――。

「うるせえよ。ごめんな、青木くん。気にしないで・・つっても無理かもしれないけど、ほんと気にしないで。こいつも、本当はそんなに悪いヤツじゃないんだけど・・・ごめん、とにかくごめん」

 藤井が俺と竹山に手を合わせ、申し訳なさそうな顔をしながら、友人の無礼を繰り返し詫びた。

 藤井は俺とは対極の立ち位置にいるが、本当にいいヤツだ。しかし、藤井がいいヤツであることが、岸の罵倒よりも余計に、俺の心を蝕む原因になっている。

 俺からすべてを奪うなら、せめて、飛び切り嫌なヤツであって欲しかった。俺が欲しいものをすべて持っていて、俺がなりたくてたまらないヤツ。そいつを妬み、嫉み、恨み、憎むことさえ許されないなんて、残酷すぎるではないか。

 やがて藤井と岸、女二人が食堂の外へと消え、俺と竹山だけが残されたテーブルに、気まずい沈黙が流れていった。

 誰も、俺たちに注目している人間などいないのはわかっている。だが、あんなことがあった後、傷をなめ合っているように見られるのが嫌で、竹山とはどうしても話せない。スマホでネットを見ても、ニュースや掲示板の書き込みの内容は、まったく頭に入ってこなかった。食堂にいる全員が、俺たちのことを笑っているような気がする。

 隣に座る竹山が、肩を震わせている俺の方を、心配そうにチラチラとみてくるのに、無性に腹が立った。こいつは、岸や友麻の侮蔑の視線が、自分にも向けられていたのをわかっていないのか?自分もバカにされていたのに、まるで他人事扱いか?

 理不尽に打ちのめされるのは初めてじゃないはずなのに、こみ上げてくるものを抑えられない。どうせ痛みしか味わえないのならば、いっそのこと、擦り切れてなくなってしまえばいい。願いはかなわず、胸の奥が酸っぱくなって、目の端から熱いものがこぼれ落ちてくる。

「あっあ・・青木くん、これ使って」

 俺が制服の袖で涙をぬぐおうとすると、竹山が、顔に似合わない、ひよこのキャラクターがあしらわれた黄色いハンカチを差し出してきた。

 誰かに愛され、必要とされたい。だが、愛され、必要とされるなら、誰でもいいというわけじゃない。

 俺は竹山の毛むくじゃらの手を振り払い、乱暴に椅子を引いて立ち上がった。

「あっ・・あ」

「うるせえ!付いてくんな!」

 慌てて席を立ち、追いかけてこようとした竹山にピシャリと言い放って、俺は早足で食堂を出て行った。
 
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 チャイムが鳴らされ、地獄のような昼休憩が終わり、作業場へと向かう。掃き溜めの中のゴミ捨て場に捨てられた湿ったナメクジで非リアで陰キャな俺にも、仕事は与えられる。

 どんな仕事も、誰かの役に立っている。だが、誰かの仕事は、俺の役には立っていない。

 世の中で楽しい思いをするのは、藤井や岸、友麻のような、リア充で陽キャな連中だけと、相場が決まっている。奴らが楽しい思いをするために、非リアで陰キャな俺が汗水たらし、奴隷のように働かなければならない。

 非リアで陰キャな俺が、冷たく硬い金属の塊を触れている間に、リア充で陽キャな藤井は、あったかくて柔らかい友麻の肌に触れている。非リアで陰キャな俺が上司からの罵声を浴びている間に、リア充で陽キャな藤井は、友麻と愛のささやきを交わしている。非リアで陰キャな俺が、誰でもできる単純労働で身体を動かしている間に、リア充で陽キャな藤井は、ベッドの上で腰を振り、友麻を突いている。

 藤井と友麻だって同じ空間にいて、同じような作業に従事しているはずなのに、なぜだか変な錯覚に襲われる。一度思考が悪い方に向かうと、嫌いじゃなかった仕事も苦痛になる。

 その藤井と友麻が、俺がかつていたラインの中で、社員の連中と楽しそうに喋っているのが、視界の端に映る。奴らと同じことを、俺がすれば嫌われる。俺が集団で居場所を確保するためには、ただ空気のように、誰に見向きもされない存在でいるしかない。誰かに愛され、必要とされたくても、自己主張をする権利が、俺には認められない。誰かに愛され、必要とされている人間が、もっと誰かに愛され、必要とされるようになっていくのを、指を咥えて眺めていることしか許されない。 

 職場という空間の中に、どこにも逃げ場がない。完全に詰んだのかもしれない。

「青木くん、竹山くん。午前中に言ったと思うけど、俺、今日でリーダーから外れるから。今日の午後からは、この子の指示で作業して」

 午後の作業が始まる前に、ラインリーダーの交代と、午前中に研修を受けていた、新しい作業者の加入の挨拶があった。

 繰り返される日常の中に、まったく想定もしていなかった人種が割り込んできた瞬間だった。

「ひょ!この子がラインリーダー?カワイイ!まじカワイイ!この子のいるラインに入れるの?うぉー、俺持ってるわ。っしゃ~きたコレ!ね!俺!影沼!よろしく!君、名前なんていうの?」

 ラインに新しく入った作業者、影沼が、二十代半ばと思しき新ラインリーダーの女の顔を覗き込み、いきなり興奮気味にまくしたてた。

「か、川辺です。よろしく・・・」

「川辺さん。美都ちゃんね。美都ちゃん!みなさんよろしく!新ラインリーダーの川辺美都といいます!歳は二十二歳、趣味はデコレーションケーキ作りです!」

 新ラインリーダー、川辺美都が挨拶を終える前に、影沼が川辺美都の社員証を覗き込み、フルネームを口にし、勝手に決めた年齢と趣味までも紹介した。

「あ、二十二歳じゃなくて二十六歳で、ケーキは作ったことないです・・あの、もう言われちゃいましたけど、川辺美都といいます。よろしくお願いします・・・」

 川辺美都が影沼の挨拶を訂正し、元々の作業者だった俺と竹山に、ペコリと頭を下げた。

「あ。よ、よろしくお願いしまふ・・」

「あ!噛んだ噛んだ!神田明神発見!しまふってなんだよ、しまふって!おまえはシマフクロウか!」

 影沼が、影沼の意味不明なテンションの高さと、川辺美都の可憐さに動揺したせいで、思わず噛んでしまった俺の頭をチョップし、ツッコミを入れてきた。

 言うまでもなく、俺と影沼は、これが初対面である。影沼は、面識のまったくない相手に、いきなりチョップをかましたのである。

 なんだこいつは――?あまりに常識はずれの影沼の行動、言動に、俺は悪寒を覚えていた。宇宙人よりもなお奇怪なこんな男と、一緒に仕事ができるのか?俺はついさっきまで、藤井と友麻を殺して人生を終わらせることを考えていたのをすっかり忘れ、これから繰り返される日常のことを心配していた。

「青木さん。私、まだこのラインの作業よくわからないんで、私と影沼さんに、作業の要領を教えてもらえますか?」

 気を取り直し、いつも通りに作業を始めようとすると、川辺美都が俺の傍に寄り、作業内容の指導を請うてきた。上目遣いと、独特の甘えたような声に、思わず心音が高鳴り、頬が熱を持つ。

 小柄で顔も小さく、一重だが大きな瞳をしており、鼻と口元はやや、ネコ科の動物に似ているかもしれない。パーツの形は完ぺきではないが、配置のバランスが絶妙で、遠くから見れば見るほど美人に見えるタイプ。正直、川辺美都の外見は俺好みだった。

 だが、もちろん、美都に気に入られたいとか、美都と付き合えるのではないかという願望などは、欠片も抱きはしない。

 この女は、俺とは住む世界の違う人間。子供のときから誰かに愛され、必要とされ、レールの上で、やるべきことをしっかりやってきた人間。藤井のように夢があったわけでもなく、何の実績もないままにレールの上から外れ、掃き溜めに寄せられた俺とは、これまで見てきた景色も、これから見る景色もまるで違う、本当の別世界の住人である。

 近くにいて、同じ職場で働いていても、けして交わることのない平行線。この女の目からは俺の存在など、ラインで扱われる部品、いや廃棄品のようにしか見えていない。

 高鳴る心音を、深呼吸で掻き消した。住む世界の違う女に、恋心を抱くなどおこがましい。あるはずもないし、あってはいけない。その先にあるのは、友麻のとき以上にボロクソにされて、掃き溜めの中のゴミ捨て場からも放り出される末路だけなのだ。

「青木先生!ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」

 口を開く度に、隣のラインの作業者がビックリするほど大きな声を出す影沼は、俺より目線一つ分背が低く、小太りの体型。帯電帽の後ろのネットから砂鉄のように飛び出た髪の毛は金色で、眼窩からこぼれ落ちてきそうなほど大きな目は視点が定まっておらず、ギラギラと異様な光を帯びて、まるで薬物中毒者のようである。

 年齢は、肌の質からいえば三十半ばくらいが妥当なところだろうが、二十代といわれれば二十代にもみえるし、四十代といわれれば四十代にもみえる。なんというか、解釈の幅が広すぎる顔立ちをしていた。

「う~ん・・と。これ、こうでいいですかぁ?」

 肩が触れ合う距離にいる美都から、柑橘系の果実のような匂いが漂ってくる。小首を傾げる仕草や、語尾を伸ばす喋り方は、二十六歳という年齢に比しても幼いが、絶妙に可愛らしい。

 現業系の正社員。男社会を渡り歩いてきた経験で、男心をくすぐる癖がナチュラルに身についているのだろう。ありえない、おこがましいと思っても、どうしても、男の本能がざわめいてしまう。鏡をみなくとも、今の俺の顔がゆでだこのようになっているのはわかった。

「あ!青木先生、いま、美都ちゃんに恋した!青木先生、美都ちゃんのこと可愛いって思った!青木先生は美都ちゃんに恋をし、三か月後には告白しちゃう!でもその告白は失敗し、青木先生は美都ちゃんにストーカー扱いされ、精神を病んで、通り魔殺人を起こしちゃう!駅前とかでナイフを振り回して大暴れして、人を五人くらい殺しちゃう!美都ちゃんとエッチできない悔しさを、無関係の人にぶつけちゃう!」

 影沼に今現在の俺の心境と、これから起こることを勝手に予測され、それを川辺美都の前でやけに具体的に述べられて、さっきとは違った意味で、顔が熱くなっていく。

 自分が犯罪者予備軍であることぐらい、よくわかっている。しかし、それを他人から言われて快く思う人間など、一人もいない。今、この瞬間、影沼は俺の中で、血祭りに上げたい一人に追加された。

「そんなこと、しませんよ。影沼さん、青木さんに失礼ですよ」

 川辺美都が頬を膨らませて、影沼を𠮟りつけた。

「あ!そうだね。ご!ごめん、そんなつもりじゃなかった!ごめんね、美都ちゃん」

「私じゃなくて、青木さんに謝ってください!」

「あ、そ、そうだね。ごめん、ごめんな、青木先生!いや、青木っち。そうだ、今日から青木くんのことを、青木っちと呼ぼう。たまごっちって、昔流行ったよな。俺ら世代はみんなやってたよな、竹山っち。青木っちや美都ちゃん世代は、やったことないかな?」

 影沼のハイテンションに、ラインのメンバーはまったく付いていけないが、中でも俺の心は特に冷めていた。

 住む世界が違う――というより、人の世界に住んでいない。思ったことをそのまま口にしてしまう、協調性の欠片もない影沼のような男と、これから同じラインで一緒に作業ができるとは思えなかった。

 普通に考えれば、こんな滅茶苦茶な男はすぐにクビになるはずだが、万が一ということもある。世界に住んだことのない男と、世界で最底辺の男――世界の中での生き残り競争で、俺が勝てる可能性は五分五分といったところだろう。影沼の代わりに、俺がこの工場を放り出される未来は、十分にあり得る。

 部品の一部と同じように、労働市場を右から左に流されるのが当たり前の立場だとわかっている。しかし、掃き溜めの中で繰り広げられる敗残者の争いにすら敗れ、切り捨てられていく屈辱は、何度味わっても慣れるものではない。

 抵抗しようのない人間の脅威に、次々と見舞われる。策を打つ間もなく、加速度的に状況が悪くなっていく。これが運命によるものだとしたら、きっと俺を後押ししているのだ。

 年に一度は起こる、派遣社員の暴発。もしかすると、今年は俺に順番が回ってきたのかもしれない。

 場所はどこにして、道具は何を使おう。計画を練る時間は山ほどある。何しろ俺の仕事は、誰でもできる単純労働。頭の中で別のことを考えながら、手を動かすだけで金になる。

 遅くとも今月中には、人を殺す気がしている。早ければ、今日から明日にかけて殺すかもしれない。

 人を二人以上殺して死刑になる。確実にそれを成し遂げるその方法を、右から左に金属の基盤を流すだけの、誰でもできる単純労働を繰り返しながら考える・・。


                             3


「竹山くん、昼間は悪かったな。帰りに、外で飯でも食おうか」

 定時で勤務が終わったあと、俺はいつものように、自分の後を金魚のフンのようについてきた竹山を誘い、工場近くのファミレスに入った。

 誰かに愛され、必要とされたい。だが、愛され、必要としてくれるのなら、誰でもいいというわけじゃない。

 醜い容姿で、面白い話もできない、人としての魅力がまったくない嫌われ者といるくらいならば、一人でいた方がマシというものである――と、多くの人間は考える。だから俺と竹山は、工場の誰からも相手にされない。例外があるとすれば、田辺のように、自分以下の人間を傍に置いて、優越感に浸りたいという目的のヤツだけだ。

 俺が、自分の後を金魚のフンのようにくっついてくる竹山を敢えて突き放そうとしない理由も、基本的には田辺と同じだが、もう一つある。

 愛され、必要として欲しい人のランクが、年々下がってきている。竹山のような男でも、邪険にして突き放してしまったら、いずれ後悔するときも来るんじゃないかと思う。

 クソみたいな人生だが、チャンスが一度もなかったわけじゃない。

 高校の頃、クラスメイトの一人に、太って眼鏡をかけた、吹き出物だらけの女がいた。クラスの中ではつまはじきにされ、グループ活動でそいつと一緒になるのは罰ゲーム、あの女と付き合うくらいなら彼女がいない方がマシといわれるような女だったが、俺は実のところ、彼女にそれほど嫌悪感は抱いておらず、下校時に電車の中で会ったとき、何となく話すこともあった。

 話してみると、意外とウマがあった。今でいう歴女というヤツで、俺と同じように、歴史関係の本を読んだり、城や寺巡りをするのが好き。食い物の好みも似通っており、帰省先で買ってきた土産をくれたこともあった。

 電車で隣の席に座ったとき、偶然、スカートから露出した太ももに手が触れてしまったことがあったが、嫌な顔はしていなかったと思う。一度だけ恋愛話をしたとき、カッコイイ男は苦手、優しければ容姿は気にしないとか言っていたと思う。

 あのとき、あの女に告白していれば、人生が変わった気がしてならない。

 イケるという確信はあった。ヤリタイ気持ちもあった。だが、周りの目が怖かった。

 当時の俺はクラスの中心人物とは言い難かったが、今とは違って誰にも相手にされないほどではないポジションにはおり、プライベートで遊ぶ友人もかろうじて存在した。

 もし、クラスの中でバケモノ扱いされているあの女とヤッていることがバレたら、俺までクラスの連中からバカにされてしまい、クラスメイトとの関係が崩れてしまうのではないか。それが怖くて、一歩を踏み出せなかった。帰宅コースが同じ友人が他にできると、電車の中でも何となくあの女を遠ざけるようになり、教室で一人、寂しげに過ごしているときのあの女にはついに一度も話しかけることなく、連絡先も交換しないまま、高校生活は終わってしまった。

 くだらない見栄を気にして、ヤレそうな女とヤらなかった結果が、このザマだ。
 
 高校時代のクラスメイトとは、卒業したきり一度も顔を合わさず、連絡も取り合わなくなった。奴らの目を気にしてあの女に手を出さなかったのは、後からみれば何の意味もなかった。

 あの女と付き合ったとして、長続きしたかはわからないが、大事なのは、十代のうちに彼女ができて、セックスができたという実績を作ることだった。あのとき、あの女と付き合っていたら、自分に自信がつき、女との接し方も磨けて、トントン拍子に人生の階段を昇れた気がしてならない。

 街を歩いてアンケートを取ったとき、通行人の多くが、あの女の容姿レベルを、十段階中で一と評価したとしよう。レベル一の女と付き合うことは、恥ずかしいのかもしれない。だが、ゼロより小さなイチなどは存在しない。優先すべきはその他大勢の視線なんかよりも、自分を見てくれるたった一人の女だったはずなのに、俺は「見栄」とかいう下らない感情に囚われ、あの女をモノにしようとしなかった。

 あの女に手を出さなかった後悔は、そのまま、女に求める見た目のハードルが下がっていくことに繋がった。今じゃ、女の形さえしているのならば、どんなブスとでもヤレるし、付き合える。ブルドッグみたいな顔をしていても、百キロを超える相撲取りみたいな身体をしていても、鶏ガラのように痩せこけていてもいい。

 ただ一人の女を抱けるのならば、片手の指を全部失っても、腎臓を一つ失ってもいいとすら思っているのに、いつまでたっても、俺が女と仲良くなれる気配はなかった。
 
 悔やんでも悔やみきれないあの経験で学んだこと――個人との絆より大切な多数の目などは、存在しない。見栄などを気にして人を邪険にすると、ロクなことにはならない。

 高校時代のあの女と同じように、みんなの嫌われ者で、内心、一緒にいるところを見られるのが恥ずかしい竹山でも、ここで切り捨ててしまったら、いつかは後悔するときが来るかもしれない。そんな思いから、俺は太っちょの汗っかきで、話が面白いわけでもない竹山との仲を、ずっと切れないでいた。

「なぁ。新しく入った、影沼って人、どう思う?」

 テーブルにつき、料理の注文を終えると、俺は衝撃のデビューを飾った新人、影沼のことを話題に上げた。

「ぼ・・僕、あの人、苦手・・」

 竹山の答えは、聞く前からわかっていた。明るいというよりは頭が沸いており、周囲の空気などお構いなしに暴走する影沼のような男に、竹山のような気弱で根暗な男が好印象を抱くはずがない。

 それはつまり、俺が影沼に好印象を抱くはずもない、ということである。これから先、影沼と日々、ラインの中で顔を突き合わせていれば、また今日のようにからかわれて、不愉快な思いをするのは目に見えている。悪口を言われるだけならまだしも、子分のように扱われ、パシリにされるようなことになれば、もうここには居られない。

 工場を移るという意味ではない。もし、俺が今の職場から放り出されるときが来るなら、俺はそのとき、殺したくてたまらないヤツを殺して、シャバから居なくなる決意を固めつつある。

 それが長年続けたものであればあるほど、惰性を断ち切るのは難しい。人生に本腰を入れるためにはキッカケがいるように、人生を終わらせるためにも、何かしらのキッカケがいる。内心、それを望んでいるのかもしれない。

「それじゃ、ラインリーダーの川辺さんは?」

 続いて、俺は竹山に、新ラインリーダー、川辺美都への印象を問うた。

「ぼ・・僕、あの人も、苦手・・・」

 こちらの答えも、俺の予想した通りだった。

 俺や竹山のようなモテない不細工が、川辺美都のような、若くて可愛い女と仕事ができるのはハッピーだと思うかもしれないが、とんでもない。

 猛獣や毒虫と一緒にラインに入っているのと同じこと。絶対に好意を持たれることがないとわかっている生物から向けられる視線は、恐怖の対象でしかない。

 川辺美都のような女からゴミを見るような目をぶつけられたり、冷たい言葉を投げかけられるくらいなら、いっそ、猛獣に噛みつかれたり、毒虫に刺された方が、どんなに楽だろうかと思う。心を殺された人間にとって、肉体的な死は、救い以外の何物でもない。俺と竹山にとって、女ラインリーダー、川辺美都は、ある意味で影沼よりも脅威の存在だった。

「ところで、竹山くん、渡会さんにはいつコクるのさ」

 女に相手にされず、女に馬鹿にされ、恐怖すら覚えるようになって、しかし、男の性に抗って生きることもできない。自分が若く、容貌の整った女には永遠に好かれないとわかった不細工は、次に若くない女、容貌の整っていない女に好意を寄せるようになった。

「もう、入って半年だろ。そろそろ連絡先くらい聞いとかないと。派遣なんて、いついなくなっちゃうかわからないんだぜ」

 竹山が片思いを寄せる女性、渡会満智子は四十三歳の派遣社員で、昼間、藤井とランチを取っていた女二人組の、年配の方である。

 ふっくらとした体形の満智子は、口数は少ないが、いつもニコニコとしていて愛嬌があり、スタッフでは人気者の一人である。くりくりと大きな目、おかめのような髪型で、皺が少なく、つるっとした肌は年齢を感じさせず、童女のような雰囲気さえ醸し出している。

 しかし、美しいとまではいえない。若くもなく、美しくもないからこそ、俺は満智子に魅力を感じ、竹山は満智子に惚れて惚れぬいている。

 川辺美都のような女に、俺や竹山の存在が廃棄品のようにしか見えていないのと同じように、俺たちもまた、川辺美都のような女を、同じ生き物だとは見做していない。

 ライオンのような力も、チーターのような速さも、ハイエナのような狡猾さもないみすぼらしいジャッカルは、広大なサバンナを駆け回るシマウマには見向きもせず、藪の中をこそこそと動く野兎に食指を伸ばす。

 俺が友麻にこっ酷くフラれ、友麻と満智子が藤井と親しくなる前までは、俺は毎日のように竹山と二人、「恋バナ」で盛り上がっていたものだった。

「む・・無理だよ。僕には、とても・・・」

「無理かどうかなんて、わからないじゃないか。アタックしてみないと、何も始まらないよ」

 アタックしてみなければ、何も始まらない。それは確かだが、当たって砕けて、ボロボロに踏みにじられた男がそれを言っても、何の説得力もない。

 人には分というものがあり、どこかでそれを自覚しなければならない。自分が腐肉を漁るジャッカルですらない、暗い洞窟の奥で、塵や埃に塗れた蟲の死骸を食らっていなければならないドブネズミだったことも知らなかった俺は大馬鹿だった。

 殺意を抱くだけでは罪にならないのと同じように、恋心を抱く自由は誰にもある。だが、その思いを表に出せば罪になる。俺が友麻にしていいのは、ただ友麻の幸せを陰ながら祈り、友麻がイケメンに見初められるために色気を振りまく姿を、暖かく見守ることだけだった。 

 二十八歳という年齢で、自分がごく普通の容姿をした、たった一人の彼女を得ることも許されない男だという自覚もなく、友麻を食事になど誘ってしまった自分は、大馬鹿だった。友麻にボロクソに言われ、セクハラだと騒がれ、ラインを移されたのは、仕方のないことだった。

 馬鹿の巻き添えを増やしたい。俺が竹山に告白を勧める理由は、それだけである。

 歳を重ねてはいるが、女として十分に魅力的な満智子が、肥満体型で、不潔感溢れる竹山の相手などするはずがない。竹山が満智子に告白してフラれ、満智子があの新しく入った岸の女にでもなって、竹山が歯噛みして悔しがるところが見たかった。道連れを増やして、少しでも溜飲を下げたかった。

 「暴発」しない理由――人生を終わりにしない理由を、まだ探している。

 自分が幸せになる方向では、その理由が見つからないことはわかっている。だから、誰かの不幸を目にしたい。俺以下のゴミがいるのを見ることで、自分が世の中で生きていい理由を見出したかった。

「竹山くん、ドリンク取りに行ってくるけど、何か――」

 ドリンクバーを取りに席を立ち上がりかけたところで、全身の皮膚が総毛立ち、天敵の襲来を告げた。

 洞窟で蠢くドブネズミ、暗い地を這う湿ったナメクジが、焼けつくような陽光に照らされて、自分が世の中に生きてちゃいけないんだという気分に満たされていく。

 藤井、友麻、岸、満智子。工場の中で、俺が常に嫉妬の目を向ける四人組がファミレスに入ってきて、俺たちの座る斜め後ろのテーブルに席を取った。

「あれ。あそこに座ってるの、竹山さんじゃん。てことは、その向かいにいるのは青木くんか」

「ふうん、いたんだ。それより、俺が今日やった作業、けっこう腰にきてさ、あれ毎日やるのは・・・」

 俺がすぐに姿勢を低くして身を隠したのに、愚鈍な竹山がいつまでも顔を上げていたせいで、あっという間に見つかってしまったが、奴らはすぐに興味もないという風に、ほかの雑談に移っていった。

 しかし、生きた心地がしない。光り輝く存在である「リア充」「陽キャ」は、ただそこにいるだけで俺にダメージを与える。暴力的な輝きに焼き焦がされ、ナメクジが渇いていくように、俺の存在理由を消されていく。

「あ・・青木、くん・・・・」

 竹山が何を言いたいかはわかる。しかし、俺たちとてまだ、ここには来たばかりなのだ。まだ、料理も運ばれてきてはいない。人としてのプライドが残っている限り、奴らから逃げるようなマネだけはできない。

「それじゃぁ、岸くんの入社を祝して、かんぱーい!」

 あとに注文したはずの「リア充」「陽キャ」グループの方に、先に料理が運ばれてくる。これは、たまたまなのか?思考がどこまでも、被害妄想的になっていく。

 やがて俺たちのテーブルにも料理が運ばれてきたが、まったく箸が進まなかった。ひき肉の塊を豆粒みたいに小さく切っても、口に入れるのに四苦八苦した。

 女と、女を連れた男に、幸せな姿を見せつけられると、食欲がなくなってくる。あんなキモチ悪い顔した男がご飯を食べて、身体を作ろうとしている――女にまったく好かれないのに、必死に生きようとしている――などと、嘲笑されている気がして、口に入れたものから味がしなくなり、水で流しても喉を通らなくなる。

 いま、この世の中で、食べるということは誰にでもできるが、女とセックスをすることは、誰しもに許された権利ではない。同じ生物の三大欲求に数えられるのに、両者を満たす難易度は、天と地ほどにも差が存在する。女と好きにセックスできる男から、誰でもできる食事をしているところを見られると、なんだかバカにされている気分になる。自分でもわけのわからない被害妄想で、頭が一杯になっていく。

「ねえ、これどうする?みんなもうお腹いっぱい?せっかく注文したのに、残していくのもあれだし・・・」

 俺が自分の注文したハンバーグセットと格闘しているうちに、奴らは次々に皿を開けて、これからみんなで、どこかに遊びに行こうという流れになっているようだった。それにあたり、みんなで食べるために注文した、フライドポテトの大皿をどう処理するかが問題になっているらしい。 

「もう冷めちゃって、しなしなになっちゃってるしなぁ・・・そうだ。ちょうどいい処理係がいるじゃん」

 スタンガンで撃たれたように身が震え、頭にカッと血が上った。岸が口にした処理係というのが、俺と竹山のことを指しているのは明らかだった。

「いや・・・・それまずいって」

「けど、もったいないし」

「もらってくれないよ」

 この後、どんな惨めな思いになるかはわかっているが、逃げれば負けになる気がして動けない。抗う術はない。湿ったナメクジのような俺にできるのは、愚図愚図と処刑の時を待つことだけなのだ。

「女の子が頼めば・・」

「早くしないと・・・」

「ほら、友麻ちゃん・・・」

 ひそひそ話が終わり、友麻がフライドポテトの大皿を、俺と竹山のテーブルに運んできた。

「あの・・・よかったら、これ、どうぞ」

 愛想笑いを浮かべながら、友麻は野良犬に餌をやるように、大皿をガチャンとテーブルに置いて、パタパタと走り去っていった。

 腹の底で煮えたぎるどす黒いマグマが昇り、脳を侵していく。

 いつもそうだ。美味しいところは全部お前らが搔っ攫って、俺たちには残りカスばかりが押し付けられる。

 プライドの塊みたいなヤツらに限って、他の人間にも、同じようにプライドがあるってことを想像できない。もしかすると、同じ人間だとすら思っていないのかもしれない。面白おかしい珍獣みたいに思っているから、こんなことが平気でできるのではないか。

 いつまでも、大人しくしていると思うな。

 俺が、レジの前で待つ藤井たちのところに駆けて行く友麻の背中に、フライドポテトの大皿を投げつけてやろうと指をかけた、そのときだった。

「こら!何てことするんだ!」

 神出鬼没――いつから店の中にいたのか、トイレの方からツカツカと歩いてきた影沼が、友麻に向かって、店中に響き渡る声で叫んだ。

「エッチがしたくてたまらないのにエッチができない犯罪者予備軍の青木っちに、あろうことかフライドポテトを食べさせようとするなんて、お前はとんでもない女だな!」

 坊主が伸びたような金髪に野球帽。派手なオレンジ色のパーカーに、ダボダボのジーンズ。典型的、田舎のヤンキーみたいな恰好をした影沼は、無関係の他の客のジョッキを勝手に煽り、ガニ股でのしのしと、友麻に詰め寄っていった。

「自分がこれから大好きな藤井ちゃんとエッチをして、性欲を満たすからって、エッチができない青木っちに食べ物をあげ、せめて食欲を満たさせてあげようとする。お前はなんて、なんて嫌味な女なんだ!」

 突然現れた影沼の発言の奇怪さに、その場にいる全員は、唖然として凍り付いていた。今、この場にいる人間で、影沼の発言の内容を理解できているのは誰もいない。おそらく、ただ一人俺だけが、影沼の言いたいことを、何となくだが理解できている。

 いま、この世の中で、食べるということは誰にでもできるが、女とセックスをすることは、誰しもに許された権利ではない。同じ三大欲求に数えられるのに、両者を満たす難易度は、天と地ほどにも差が存在する。好き放題、タダでセックスができる偉い立場の男と女が、お金をはたいて店に通うことでしかセックスができない可哀想な立場の男に、誰でも食べられる食べ物を与えていい気になるのは、決して許されることのない侮辱である。 

 そんなことを、薄ぼんやりと考えたことのある人間は、他にもいるかもしれない。しかし、それを敢えて口にしようという人間は、おそらく一人もいないだろう。

 常識の世界に住む普通の人間が、頭の中で考えても言わないことを平気で口にする男に、なぜだか俺が、自分自身に密かに抱いている自己評価が重なっていく。

 本人の持っているポテンシャルはけして悪いものではないのに、ついつい、生きる上で考えなくてもいい余計なことばかりに思考を費やしてしまうあまり、やるべきことをやる場面では頭が働かない。結果、無能の烙印を押され、交友関係もうまくいかず、下層階級で燻っている。

 俺と影沼は、もしかして、似た人間なのではないか・・・。

「お前と藤井ちゃんは、ベッドの上でハッスルしまくっているお陰で、カロリーを消費でき、スリムな体型を保てているようだが、エッチができない不満を、ばくばく食べることで満たしている竹山っちなんか、こんなブヨンブヨンに太ってしまっているじゃないか。お前は青木っちにもバクバクとポテトを食べさせて、竹山っちみたいに、ますます女にモテない体型にしたいのか!」

 影沼は友麻を指さして、口角泡を飛ばしながら、異常な言動を――俺が内心思ってはいるが口にはしないことを、一方的に捲し立てる。俺の頭もこんがらかってはいるが、どうやら影沼が、俺と竹山を野良犬扱いした友麻に、激しい憤りを露にしているのは間違いないようだ。

 影沼は、同じラインに所属している俺と竹山を、庇ってくれているのだろうか。一瞬、影沼が、これから俺の頼もしい味方になってくれる、という期待を抱いたが、影沼は自分の言いたいことを言うと、それでスッキリしたのか、そのまますぐに俺たちの目の前から去って、ファミレスを出て行ってしまった。

 一分ほど静寂が流れ、やがてその場にいた全員の表情が、影沼が姿を現す前のものに、すっかり戻った。まるで、影沼が出てきたそのときだけ、ずっと時間が止まっていたかのような再現率の高さである。百万遍生まれ変わっても理解できそうにないものを見てしまったとき、人間の脳は、それが起きたこと自体を忘れようとするらしかった。

「あ!」

 影沼から解放され、レジの前にいる藤井たちの傍まで来たとき、友麻が何かを思い出したように、またパタパタと足音を立てて駆け戻ってきた。

「あの。青木くんのことで、気になってることがあるんですけど、聞いてもいいですか?」

「え?え、なに・・・」

 どうせ、ロクなことではないのはわかっている。わかっているのに、いまも胸の奥底から消えてなくならない友麻への淡い思いが、ドクドクと鼓動を鳴らさせる。

 セクハラだと騒がれ、あることないことでっちあげられ、ラインを移され、幸せを見せつけられ、残飯の処理を押し付けられて、それでも俺はまだ、友麻が好きだった。今からでも藤井たちのグループから離れて、俺の方を振り向いてほしかった。

 俺は友麻のことが常に気になって仕方ないが、友麻の方が俺を気にするなどあり得ない。そう思っているから、友麻が俺に、何かを質問してくれるのが、嬉しくてたまらなかった。

「あの。青木くんと竹山さんって、いっつも一緒にいるけど、二人は付き合ってるんですか?」

 邪気などひとかけらも感じさせない、屈託のない笑顔を浮かべながら、友麻が暗い地の底から舞い上がりかけた俺を、再びどん底まで叩き落した。

 友麻が最初に問いかけてきたとき、せめて、俺と竹山のことで問いたいことがある、と聞いてくれれば、俺は次に続くこの言葉を予測できたかもしれない。理不尽な侮辱を受けるのは一緒でも、あるはずもない良いことに、余計な期待を抱かずに済んだかもしれない。

 友麻が、俺の中にいまだ燻る友麻への思いを知っているのかはわからない。しかし、結果は、俺が友麻に弄ばれたような形になった。

「・・・・・」

 俺が何も答えずに、テーブルの上で握りしめた拳を震わせていると、友麻が可愛らし気に、きょとんと首を横に傾げた。わざとやっているのでなければ、大したタマである。

 友麻の仕草に、岸は腹を抱えて笑い、満智子は何が起こっているのかわからないといった風に、いつものように、童女にもみえる無邪気なほほ笑みを浮かべている。

 ピエロのようになることが、俺の唯一の存在意義。ネタにされ、消費されていくだけの扱いを受け入れれば、集団の中で、俺の居場所は確保される。ただそこに居られることに、感謝しなければならない。本当に欲しいものが手に入らなくても、声をあげることは許されない――。

「おい、やめとけって。ごめんね、青木くん、竹山さん」

 俺の不愉快な気分を察した藤井が、昼間と同じように、俺たちに謝ってから、友麻の肩を抱いて連れていった。

 俺たちに頭を下げても、結局は友麻、あるいは岸の方が大事。俺たち「非リア」「陰キャ」をどれだけ見下し、バカにし、尊厳を踏みにじるようなことをしても、人として値打ちのあるものを持っているヤツは、結局、「リア充」「陽キャ」の位置に留まれる。俺たちはどこまでも、外部の人間なのだ。

 奴らと俺の間に引かれた境界線はけして越えようがなく、どう頑張っても、俺はあちらに混ぜてはもらえない。だから今決めた。明日の勤務中に、藤井と友麻をダガーナイフで刺し殺す。

 怒りが頂点に達すると、人はかえって冷静になるらしい。今すぐブチ切れて、大きな声を上げようとか、友麻に掴みかかろうとかいう考えは浮かんでこなかった。

 藤井たちが去っていったあと、俺は竹山に何も言わないまま、自分で注文したハンバーグセットと、友麻の置いていったフライドポテトの皿、そして昼間と同じく、自分もバカにされた対象であるかをわかっていないように、俺を心配げに見つめる竹山を置いて、さっさと会計を済ませてファミレスを後にした。

 自転車のチェーンロックを外そうとするが、さっきの怒りで、指先が震えてうまくいかない。やがて、竹山が息を切らせながら追いついてきて、何事かをもごもごと口走った。

「青木くんは、僕じゃ・・・僕じゃ、だめなの?」 

「・・・は?」

「僕じゃだめ?僕が一緒じゃ、その、その・・・前向きに生きてみようって気にはならない?」

 俺がなりたくてなれない奴らから、人生を終わらせる決意ができるほどメタメタに打ちのめされた後に、太っちょで汗っかき、面白いことがいえるわけでもない男に暖かい言葉をかけられ、心は白み、背筋を冷たいものが這った。

 誰かに愛され、必要とされたい。だが、愛され、必要とされるなら、誰でもいいというわけではない 

「僕たち・・・とも、トモダ」

「うるせぇっ。もう職場でも、俺に近寄ってくんな。お前に付いてこられると、迷惑なんだよっ」

 馬鹿にもわかるくらいハッキリと、竹山に絶縁通告を突きつけた。明日に予定している藤井と友麻殺害を実行するか否かに関わらず、竹山との付き合いは、本当にこれで終わりにするつもりだった。竹山を邪険にして突き放しても、絶対に後悔しない自信があった。

 高校時代、確かに俺は、見栄という下らない感情から、付き合えた可能性のあった女にアタックしない痛恨のミスを犯した。だが、俺は当時から、周囲の目さえなければ、あの女と付き合いたい、ヤリたいとは思っていた。

 竹山とあの女とは違う。今、現在において、俺は竹山という男を好きではないし、これから竹山という男と、絆を深めていきたいと望んでいない。周りに蔑まれながらも一緒にいるメリットが何一つない竹山との関係を切っても、失うものは何もないし、後悔するはずもない。

 ゼロより価値のないイチは存在する。みんなに馬鹿にされる嫌われ者と一緒にいるところを見られれば、己の惨めさがより増すだけである。

 俺は自転車のチェーンロックを外すと、肩を震わせながら傲然と立ち尽くす竹山を置いて、走り出していった。


                          5


 明日の勤務時間帯に、藤井と友麻を、確実に殺す。大仕事を成し遂げるためには、たっぷり休息をとって、体調を万全にしておかなければならない。俺は帰宅した早々、風呂にも入らないまま布団に潜り込んだ。

 不細工のくせに性欲の強い俺は、寝る前に必ず一度は精を放っていないと、夢の世界には旅立てない。俺は枕元のティッシュを取って、チノパンとトランクスを一緒にずりおろした。

 藤井と岸をロープで柱に括り付け、奴らの目の前で、友麻と満智子を一辺に犯す光景を脳裏に描きながら、神がただ、欲求不満の苦痛を味合わせるためだけに俺に与えたものを扱いた。あっという間に熱を持ち、硬度を増していったそれは、一分もしないうちに、ティッシュ一枚では到底吸いきれない白濁のものを吹き出した。

 大仕事を明日に控え、興奮していきり立ったものは、一度達したくらいでは満足しない。次はロープで柱に括り付けた藤井と岸の顔面を、ハンマーでぐちゃぐちゃに潰しながら、満智子のたわわな乳房を吸い、友麻の中に溢れんばかりの精液を注ぐのを思い描きながら、少し勢いの落ちた二発目をティッシュの中に打ち込んだ。

 次の妄想で、友麻と満智子は俺の子を懐妊しており、その次の妄想では、俺の子を産み落としている。不細工でバカな俺と、美人ではない友麻と満智子の子供は、十歳くらいになると、容姿と頭の悪さから学校でイジメに遭い、鬱になって自殺してしまう。

 友麻と満智子をとても愛している俺は、友麻と満智子に、年に一人は子供を産ませるが、子供は十歳になると必ずイジメに遭い、精神を病んで自殺してしまう。十男が生まれた年には長男が死に、十一男が生まれた年には次男が死ぬ。乾電池が一杯に詰まった筒の中に、後ろから新しい電池を入れれば、前の電池はポコッと落ちてしまうが、そんな感じで、新しい子供が生まれるたびに、古い子供が死んでいく。子供が鬱になり、首つり自殺で死んでいくのを見届けながら、また新しい子供を、友麻と満智子に産ませる。

 死んでいく子供がみんな男なのは、女はそれだけで生きる価値があるからだ。友麻や満智子くらいの容姿ならば、十分イケメンに相手にされるし、俺が高校時代に手を出さなかった女のようなバケモノ顔でも、俺よりもう少し顔が良くて金のある男に相手にされる。すべての女と、俺よりもう少し顔が良くて頭のいい男には生きる希望があるが、俺ほど不細工で頭の悪い男は、ちんぽが精力を持ち、女を求め始める十歳を過ぎたら人生が地獄になるのだから、すぐに死ななければならない。

 俺の劣等遺伝子を植え付けられることは、女にとって、喜びではなく悲劇。だからこそ、中にぶちまける意味がある。地獄の人生を送るとわかりきっている子供を、俺に地獄を味合わせた女に産ませる妄想で愚息を慰める。

 都合六度の射精を終え、いきり立ったものはようやく収まったが、まだ、眠気は襲ってこなかった。スマホのデジタル表示は、二十時ちょうどを指している。

 明日まで待たず、今すぐ、藤井と友麻を殺しに行くことを決めた。

 六枚のティッシュをゴミ箱に捨て、イカ臭くなった手を洗った。シンクから百円ショップで買った包丁を取り出し、ナップザックに入れた。上着を羽織って家を出た。

 工場からほど近い国道沿いに、ネットカフェにカラオケ店、ダーツやビリヤード台などが併設された、複合遊興施設がある。藤井と友麻はそこにいる。俺も今からそこへと向かう。

 年に一度は起こる、派遣社員の暴発。どうやら、今年は俺に順番が回ってきたようだ。

 先達の多くは、社会への復讐と称して無差別に多くの人間を傷つけたが、俺にそれはとてもできそうにない。俺は個人的な恨みでないと、人を殺すところまでは燃え上がれない。

 俺が藤井と友麻を殺すのは、ただのフラれた逆恨みだ。クソみたいに身勝手でクソどうでもいい動機だからこそ、藤井と友麻を殺さなくてはならない。

 人が人を殺すとき、ミステリー作品のようなトリックなんか使わないのは今では誰でも知っているが、同じくミステリー作品のように、人は親や恋人を殺された復讐とか、誰もが同情できるような動機では人を殺さないということは、意外と知られていない。

 俺が抱いているのが、逆恨みではない正当な憎しみだったら、世の中で値打ちのある誰かが傍に寄り添って、温かい言葉をかけてくれる。俺は生きていていんだって思えるし、自分を大切にしようって思える。

 しかし、不細工な俺が、クソみたいに身勝手でクソどうでもいい横恋慕を吐露したところで、心を寄せてくれるのは誰もいない。せいぜい、田辺のような説教好きのオッサンがどこからか現れて、「そんなことぐらい、誰しも経験することだ」「この経験を次に生かせばいいだけだ」など、ありきたりなキレイゴトを吐かれ、オナニーの材料に使われるのが関の山だ。

 この世のどこにも、俺の理解者はいない。だから俺は、藤井と友麻をぶち殺して、人生を終わりにしなければならないのだ。

 途中で寄り道せず、真っ直ぐに、藤井たちの居場所へ自転車を走らせた。こういうのは何よりもまず、勢いが大切である。日が空けるのを待ち、工場に出勤してからではもう遅い。今すぐ人を殺せるほどの熱が冷め、また、何も変わらない鬱屈の繰り返しに取り込まれてしまう。

 藤井と友麻を今すぐ殺すことを決めたのは、紛れもなく正解だ。惰性で続く地獄を、ここで終わりにしてやる。

 目的の施設に着くと、駐車場で、藤井と友麻が並んで歩いているのが見えた。彼らを先導するのは、金髪の男――影沼。どうやら藤井と友麻は、影沼の車へと乗りこもうとしているようである。

 失望――ファミレスで、影沼と一瞬、心が通じ合い、影沼がこれから、俺の頼もしい味方になってくれる気がしたのは、どうやら俺の勘違いだったらしい。考えてみれば、言っている内容はほとんど理解不能だが、底抜けに陽気な影沼は、俺よりよほどあちら側に相応しい。適応能力は、世界で最底辺の男よりも、世界の中に生きていない男の方が上だったのだ。

 仕方ないが、影沼も一緒に殺すしかない。今日、ライン作業中にからかわれただけの影沼に、そこまで恨みがあるわけではないが、運が悪かったと思って諦めてもらう。俺は駐車場の前で自転車を止め、ナップザックから包丁を抜いた。

 鬨の声をあげて飛び出そうとした刹那、射竦めるような影沼の視線に捉えられた。影沼は藤井と友麻に気付かれないようにして、俺の方に手のひらを向けている。ストップの合図を送っているようだ。

 運転席のドアを閉め、車のエンジンをかけた影沼が、ウィンドウから右手を出して、俺を手招きした。付いてこいと言っているらしい。俺は影沼に従って、自転車で影沼の運転する白のカローラを追尾し始めた。

 車の通りが少ない田舎道で、影沼は法定速度をさらに下回るスピードで、のろのろとカローラを走らせる。俺が本気でペダルをこがなくても追えるように、配慮してくれているようだ。カローラは、やがてカエルの鳴き声が響く田園地帯へと入っていった。

 田畑を割る一本道を深々と進み、人家が見えないほど遠くなってきたところで、軽自動車がストップした。慌てた様子で後部座席を降りてきた藤井の背中に、すぐに運転席から出て後を追いかけてきた影沼の手に握られた、煌めく白刃が吸い込まれていった。

 頽れるようにして田んぼにダイブした藤井の背中に馬乗りになり、影沼が滅多無尽に白刃を振り下ろした。ザシ、ザシ、と、人の肉が裂かれる嫌な音と、嘆くような藤井の呻き声が、カエルの大合唱の中に割って入る。肉袋の裂け目から噴き出したもので、泥水がそこだけ赤黒く染まっていく。

「う~ん、う~ん・・ん・・ぅっ」

 藤井の呻き声はどんどんか細くなり、ついにはカエルや夜蟲の声の中に掻き消えていった。

 日常の中で爆発した非日常に、空間が歪んで見える。彫像のように凝固して一歩も動けないでいる俺に、「大仕事」を終えた影沼が、異様な光を帯びる眼と、三日月形にアーチを描く口元を向けた。

「これからさぁ、藤井ちゃん車に乗っけるから、青木っち、手伝って」

 空虚な言動を繰り返す影沼の口から、初めて具体的な指示を聞いて、身体が勝手に反応した。ピクピクと、爪楊枝で突かれたナメクジのように痙攣している藤井の足を掴み、頭の方を持った影沼と一緒に、友麻が震えているカローラの後部座席に運び込んだ。

「な、なんで、こんなこと・・・・」

「なぜって?それは、俺たちの住む底辺世界を蝕む敵、ココロキレイマンを倒すことが、俺の使命だからさ」

 長身の藤井を座席の下に横たえてから、息をゼエゼエと吐きながら問うた俺に、影沼が息一つ切らさずに答えた。

「愛、友情、希望。世の中は、キレイな言葉で溢れかえっている。人を嫉まず、憎まず、すべて自分のせいだと受け入れられる謙虚さを持ち、愚痴をこぼさない。そんな人間が素晴らしいとされている。だけどさぁ。そんな言葉を信じても、そんな人間になろうとしても、どう頑張っても、どうシミュレーションを繰り返しても、幸せにはなれないんだよ。俺たちの住む、底辺世界ではね。だから俺は、俺たち底辺世界に生きる底辺労働者にキレイな言葉を信じさせ、素晴らしい聖人君子にさせようとする悪の勢力、ココロキレイマンを打ち倒す、正義の戦士となったんだよ」

 早口で捲し立てるように言う影沼の言葉が、妙にスラスラと頭に入ってきた。まるで、何年も前から、俺自身がそれを考えていたかのように・・・。

「詳しい話はあとだ。これから山の中に、藤井ちゃんを捨てに行くから、青木っちも乗って」

「いや・・でも、俺、自転車で来てるし・・・」

「自転車ごと乗せちゃいなよぉ」
 
 影沼の指示に、また、意志に関わりなく、身体が反応した。俺は自転車をカローラの助手席に無理やり突っ込んで、足元に横たえられた藤井の亡骸を踏みつけながら、後部座席で怯えて、縮こまっている友麻の隣に腰を下ろした。同時に、カローラが人気のない夜道を、ゆっくりと走り出した。

「青木っち。その女も殺しちゃうから、思い出にヤッちゃいなよぉ」

 ドライブに出かけているように享楽的な口調で、影沼が言った。

「え?え、え、え」

「わかってる。緊張して勃たねぇっつうんだろ?大丈夫だ、そういうときのために、こういう薬を用意してある。飲んでから十五分もすれば、青木っちのチンポは、こんな状況でもビンビンだ」

 言われるままに、影沼に渡された錠剤を奥歯で砕いて飲むと、数分で顔が火照り、下腹部に異変が起こってきた。

「青木っち、ちんちん勃ってきたなら、その女、ヤッちゃいなよ」

 影沼が俺の気を見透かしたように言うと、俺の隣で、藤井の亡骸を踏まないように膝を抱えて座る友麻が、ビクリと身を震わせた。

「え?いや、でも・・・」

「失うもんなんかなんもねえ奴が、失うことを恐れるな!底辺世界の住人に、一瞬より大切な一生なんか存在しねぇ!いま、目の前に置かれたまんこをヤる。お前がやるべきことは、ただそれだけだ!」
 
 シンプルかつ力強い影沼の言葉で、また、身体が勝手に動いた。俺は脇で震える友麻のか細い身体を力強く抱きしめ、青くなっている唇を吸った。
 
「んっんぅむ。んんっむ」

 身をよじって俺を振り払おうとする友麻を固く抱きしめ、歯茎を舌先で撫ぜた。殺したいほど憎んだ女なのに、友麻の唾液は、バニラソフトのような甘い味がした。

「いいねぇ。君たち、ラブラブだねぇ。それじゃぁ次は、おちんちんとおまんまん、ジュポジュポ出し入れしちゃおうかぁ」

 影沼に言われるまでもなく、俺はチノパンとトランクスを脱ぎ去り、剛直を露出させていた。

 狭いスぺースの中で、友麻の衣服を強引にはぎ取り、全裸に剥いて、左右の膨らみにむしゃぶりついた。経産婦ではない友麻の乳から母乳が出るはずもないのに、汗ばんだ友麻の乳房を含んだ俺の口の中には、甘酸っぱい女の味に混ざって、ミルクの甘い味が広がっていた。 

「ばぁぁぁっ。ばぁぁぁっ」

 恐怖が限界を超えた友麻が目を剥き、山姥のように髪を振り乱して叫び出した。友麻の豹変ぶりに、俺がたじろぎ、ペニスを縮こまらせていると、影沼が車を止め、後部座席に身を乗り出してきた。

「騒ぐんじゃねぇ!さ、わ、ぐ、の、や、め、ろ!さ、わ、ぐ、の、や、め、ろ!」

 言葉に合わせて、影沼が友麻の顔面に拳をめり込ませる。女を平手ではなく、グーパンチで打つという、ある意味、殺人以上に思い描きもしなかった所業を目の当たりにし、背筋にゾッとしたものが走った。

 何度も脳を揺らされて、友麻がぐったりとすると、影沼は運転席へと戻っていった。俺は己の手で刺激して勃起を復活させると、友麻を対面座位の形で抱き抱え、挿入を試みた。

 狭くて動き辛い上に、風俗でも、本番からは三年ほど遠ざかっているため、なかなか穴を探り当てることができない。ずっと、硬直した棒を、生魚のような臭いを発している友麻の秘所にすり合わせるのを続けているうち、向こうが段々と濡れてきた。無理やりヤッても、女の身体が反応することに驚くと同時に、とうとう俺のものが、友麻の中にジュプッと入った。

「いいねえ青木っち。ついにまんこに、青木っちの毒毒ナイフ、ブッ刺しちゃったねぇ。それじゃ次は、素人童貞で経験が少ない青木っちのぎこちなピストンで、まんこを突き上げてみようかぁ」

 不細工遺伝子をばら撒く俺の生殖器。女から見れば、たしかに、毒を塗ったナイフのような危険物に他ならない。影沼の言葉を聞いて、硬直の度合いはより高まった。

「青木っち。お前がその女に受けた仕打ちを思い出せ。まんこを突きまくって、お前の中に残った僅かな罪悪感を吹き飛ばせ!すべてのココロキレイ菌を浄化して、俺とともに、ココロキレイマンを打ち倒す戦士となれ!」

 俺が友麻にされた仕打ち――ただ、普通に食事に誘っただけで、セクハラだと騒がれ、あることないことでっちあげられて、担当者から叱責を受け、ラインを移された。

 セクハラ。その言葉は、若い女が、組織で重要なポストに就いている男から、立場上の弱みを突かれて性的な嫌がらせをされるのから守るために存在する言葉のはずである。それを最底辺の社会的地位にいて、生まれてこの方、一人の女にも振り向いてもらえなかった男の不器用な口説きに対して使えば、当然、あらぬ感情の縺れが発生する。

 俺の友麻へのデートの誘い方は、本当におかしかったのかもしれない。本当に好きだったから、ジロジロ見つめてしまったこともあったかもしれないし、ライン作業の中で、偶然身体に手が触れてしまったこともあったかもしれない。

 友麻がこの工場の中で、ほかの誰かと恋愛することがなかったら、「迷惑かけたな、申し訳なかったな」と思うこともできただろう。だが、友麻は藤井が俺と同じことをしたとき、それを嬉しそうに受け入れた。俺は藤井と差別された。これでもう、反省できなくなった。

 組織で重要なポストに就いているわけではない俺は、女からボロクソ言われて、プライドをズタズタに傷つけられて、そこで踏みとどまることができるだけの大切なものを、何も持っていないのだ。非正規の派遣社員の俺が、あそこまでやられて友麻を許す理由は、せいぜい「男らしさ」とかいう感情論しかない。

「男らしさなんて感情は、男が常に、女を上回る地位を得ている世界でしか価値を持たないものだ!地位も財産もないのに、わざわざ男らしさなどという感情で自らを縛りに行くのは、女の奴隷となることを受け入れた愚かな男の選択だ!俺たち底辺世界の住人にとって、男らしさなんて感情は、何の意味もない!どんな事情があれ、男を振るときに遺恨を残さないことを、相手の男らしさなんてもんに依存する対応しかできない時点で、その女は終わっているんだ!そいつに社会的に制裁を加える手段がないのなら、ちんぽをブッ刺して成敗するしかなあぁぁぁい!」

 影沼の放つ言葉は一々至極もっともで、反論の余地がない。俺自身が長年考え続けていたことを、そのまま代弁してくれているかのように聞こえる。

「青木っち。お前が藤井ちゃんから受けた仕打ちを思い出せ。お前の中に残った僅かな罪悪感も吹き飛ばせ!すべてのココロキレイ菌を浄化して、俺とともに、ココロキレイマンを打ち倒す戦士となれ!」
 
 影沼が、友麻と藤井を入れ替えただけで、先ほどとそっくり同じことを言った。

 過剰な対応と侮辱の被害を受けた友麻はともかく、表面上、俺によく接してくれた藤井を憎むのは、ただの逆恨みになるようだが、そうでもない。

 一握りのイケメンが、多数の女を独占する構図。客観的冷静に見て、藤井の容姿と、藤井が仲良くする友麻、あるいは満智子の容姿は釣り合っていないという事実が、俺が藤井を憎む正当な理由である。

 今、この世の中で、節操という言葉は、もっと注目されていいと思う。その気になれば、もっと若くて可愛い女を抱くことのできるイケメンが、不細工が抱きたくて抱きたくてたまらない、おばさんやブスを持っていくという暴挙が、果たして許されていいのだろうか。

 凛々しい鬣をなびかせるライオンが、サバンナでシマウマを追いかける姿を見ても、みすぼらしいジャッカルは何も感じない。自分が同じことをしても、敢え無く後ろ足で蹴り殺されるだけなのをわかっているのだから、ライオンを憎みもしないし、妬みもしない。

 しかし、シマウマの味に飽いたライオンが、深い草藪に潜む野兎をつまみ食いしようというのなら――これから野兎は俺の獲物だから、これからお前はドブネズミに混じって、洞窟で蟲の死骸を追えと言われるのなら、ジャッカルは黙っていられない。

「俺は竹山みたいな、女を諦めなきゃいけないどうしようもないゴミじゃねえ!俺はドブネズミじゃねえ!俺にはまだ、彼女ができる希望はある!女に愛される希望はある!てめえは、俺でもゲットできるような女を持っていくな!イケメンは大人しく、もっといい女のケツを追っかけてろよ!」

 俺は剛直で友麻を突き上げながら、足元に横たわる藤井の顔面を踏みつけた。

 分相応という言葉をわからせてやらないといけないのは、何も、根拠のない自信を振りかざして無謀な挑戦を繰り返そうとする者だけではなく、逆も然りである。友麻のような美人ではない女からみれば、藤井は女を顔で判断しない心もイケメンな男かもしれないが、美人ではない女に最初から狙いを定めている俺からみれば、藤井は謙虚という皮を被りながら俺の獲物を掻っ攫っていく、とんでもない節操なしでしかない。

 無差別に人を傷つけたのでは、きっと後悔し、反省するときがくる。しかし、藤井と友麻を殺しても、俺はこの先ずっと、後悔も反省もしないと思う。奴らを殺すことは、俺をこんなにまでした社会への復讐になる。それほど憎める相手を、俺の目の前に遣わしてくれたのは、神の慈悲だと思う。

 女が心底嫌うグロテスクなもので、女を貫く。自分を女へのご褒美だと思っている藤井のようなイケメンにはけして味わえない高揚感に酔いしれながら、俺は影沼の言う通り、素人童貞のぎこちない動きで友麻の襞を擦り、ツブツブの感触を味わった。

「うぅぅうぅおっ、うぅぅうぅおぉぉおっ」

 この世に生まれたことを呪う友麻の叫びが、鼓膜を心地よく慰撫する。

「友麻っ。友麻っ友麻っ友麻ぁっ」

 愛し合って、するはずだった。

 俺と友麻が、女が社会的に弱い立場で、経済的に男に依存しなけれなならなかった時代に生まれていれば、俺と友麻が、愛し合って肉体を重ねることもあり得たかもしれなかった。

 友麻は知る由もないだろうが、俺が友麻を好きになり、セックスをしなければならないのは、前世からの因縁で決まっていた。友麻の意志に関わらず、俺は友麻に、俺の種を送り込まなければならなかった。時代さえ良ければ、それはもっと、平和裏に行われるはずだった。

 一握りの条件に恵まれた男が、すべての女を独占する社会に生まれてしまったおかげで、俺は友麻を無理やりヤらなくてはならなくなった。

 恨むなら、時代を、社会を憎んでくれ。

 この女に復讐することは世の中に復讐することと同義だと思える女の中で、絶頂の時が近づいていた。

「うぅぅあぁっ。おぉぉぉおぅぅぅぅぅオっ」

 この男に復讐することは、世の中への復讐になる――。足元でこと切れている藤井の顔面をもう一度踏みつけると、友麻の泣き声がいっそう高くなった。友麻の中で、赤黒く鬱血したものがグググッと持ち上がった。

「うっ。ぬっ、むーーーーっ」

 すでにこの晩、六度も射精しているのが信じられないほど大量のおたまじゃくしが、友麻と俺の子が作られる部屋を目がけて、ドヴァッと放たれた。

「ふぅぅっ」

 肺腑から大きく吐息を漏らして、蜜壺から剛直を引き抜いた。精液と愛液が絡みあった体液がてらてらと光って、足元で天井を見上げている藤井の顔面に垂れ落ちていった。

「激しかったねぇ。スッキリした?」

「あ、あぁ・・・」

 俺が肩をつき、息を切らせながら返事をすると同時に、カローラが停車した。周りには、スクラップとなった自動車や冷蔵庫などがうず高く積まれている。山道を中腹辺りまで入り、産廃置き場にまでたどり着いたようである。

「これからその女、殺して燃やしちゃうから。青木っちは、車の周りにガソリンまいて」

 ライン作業に従事しているように淡々と俺に指示を飛ばしながら、影沼が助手席からポリタンクを取って、俺に寄越してきた。

 終始、友麻のことを、モノのように言う影沼。俺が欲しくて欲しくてたまらなかった女を、人として見ていない男に、俺の中にある人の心が反発する。

「ま、待てよ。殺すことないだろ」

「だって、そのまんこ殺さないと、俺と青木っちが、国に殺されちゃうよ。自分が死なないためには、そのまんこを殺さないといけないだろ。さあ、早く車の周りにガソリンをまいて、火をつけるんだ。思い残しがあるなら、その前に済ませておけ。青木っちをバカにしたまんこを、もっとグチャグチャにしたいんだったら、今のうちにやっておけ」

 影沼の言うことは一々至極もっともであり、反論の余地もない。さらに、影沼の言っていることは、俺がずっと、やりたくてできなかったことでもあった。

 着やせするタイプだったのか、友麻を抱いているうち、彼女の腹回りは意外に肉付きが多いことに気が付いていた。俺をお下劣なもの扱いする割には、友麻の身体がだらしなかったことが、俺の劣情を誘い、僅かに残った人の心を吹き飛ばした。

「こんなエロい身体しやがって。許さねえ。許さねえ、許さねえ、許さねえ」

 俺は友麻を車の外に引っ張り出すと、土と雑草の上に押し倒し、正常位で友麻をしっかり抱きしめ、バニラソフトの味がする口を吸いながら、今晩八度目の絶頂に向かう剛直を抽送した。

 何度も、何度も、俺の恨みで友麻を突いた。擦り切れて血を滲ませる秘裂に、幾度出しても収まれない俺の恨みを擦れ合わせた。友麻の中が白濁の憎悪で満ちていくまで、無心で腰を振り続けた。
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今年の予定について



きんが

 新年あけましておめでとうございます。

 最後の最後で、長らくコメントされていなかった方がコメントをしてくださるようになり、ようやく書いていて報われた実感が得られてきたかな、という気持ちになっています。

 まだ、いつもコメントを下さる方が全員お越しになっていない状況ですので、もう少しコメントは貰えるのではないかと思います。「HAKEN--異物混入」の最終回はラッキー7ということで「7」、もしくは末広がりの「八」コメントは届けばいいなとは思っていますが、強制はしません。今までは違うぞ、コメントが来てなかっただけで読んでいる人はちゃんといるぞ、ということがわかってきたので、一月からまた新しい作品をこちらの方でUPしていこうと思います。

 欲を言えば新規の方にも、過去記事も含め作品にコメントしていただき、新たな常連さんになって欲しいなという風に思っています。

 何度も申し上げていることですが、読んでいる人からのコメントがなければ、私がここで創作発表をする意味はまったくありません。

 12月は創作発表の他に、通常のブログ形式で、自分の今思っていることも記事にしてきました。その中では、みなさんからのコメントを求めるような記事を書きながら、これからコメントをしようとする人を牽制するようなことも書いてきました。新規の方の中には、もしかすると、あれを読んで怖気づいてしまった方もいるかもしれませんが、それも計算のうちです。

 そんなに、難しいことは言っていないと思います。私の言っている「十分な信頼関係のない人間に、いきなり説教をしない」「相手の話に何の関係もない自分語りをいきなりしない」というのは、ネット以前に、人としての常識です。それをせずにコメントをすることは、別に難しくはないと思います。私にも客を選ぶ権利というものがあり、そういう「読者」の勘定に入らない人とは、会話をしたくはないと思っています。 

 さらに、私は「仮に説教、(私の話す内容に何の関係もない)自分語り」をしてしまっても、もう一度私の書いたものに関する感想コメントをくれるなら大歓迎」ということも書いています。多少、不本意なコメントでも、「読者」のコメントなら、そこまで気にはなりません。もし、悪気はなかったけど、普通に感想を書こうとしたらそうなってしまったということであれば、懲りずにまた感想コメントをくだされば、私はいつでも歓迎します。

 私はここを、私のサイトを通じて、「自分は心がキレイな正しい人間である」ことをアピールし、私に偉そうにしたいだけの人、私のことをホストか何かだと思って、自分のことばかり語られる人ではなく、「読者」と会話をする場としていきたいと思っています。

 「読者」ではない人ばかりがコメントしてくる、もしくは、「読者」が十分な数に達しないというのであれば、私はもうこちらの更新は二度とせず、自分の活動から切り離していきたいと思っています。

 新しい作品についてですが、自分の中で「飽き」というものの対策もしていきたく、二本の作品を交互に書いていこうかなと思っています。以下に簡単なあらすじを書きます。

 1 party people

 鬱屈した生活を送る派遣社員、青木の人生が、破天荒な男、影沼との出会いにより変わっていく。人生の充実を妨害する「ココロキレイマン」との戦いを生涯のテーマに定める影沼の、「リア充」とはまったく違う魅力に、徐々に惹かれていく周囲の人間。影沼は青木の人生に、煌々と光る星を示した。しかし、青木にはどうしても譲れないもう一つの星があった・・。

 2 屍晒せ

 格闘家としてのキャリアの黄昏時を迎えたカルロス斎藤。「死に場所」を探して地下格闘技のリングに上がっているが、完全燃焼の実感を得られず、清掃の仕事をしながら、悲鳴を上げる肉体を追い込み続ける。

 そんな中、カルロスの周囲で殺人事件が起こっていく。カルロスは過去の暴力行為から、マスコミに容疑者扱いされ、プライベートまで追い回されるが、カルロスはその状況を逆に利用し、「死に場所」を追い求めて、大晦日のイベントに出場することを画策する・・。

 

 新しい作品はまた、最低4コメントのノルマで連載していきたいと思います。ご協力の方、よろしくお願いいたします。

最終章 20××年12月 異物のヒンカク


 同僚たちに「偽電話」がバレた三日後の深夜未明、塚田から寺井のLINEに、長文のメッセージが届いた。



 こんばんは。いつぞやのように、僕の思ったことを、LINEで伝えさせてもらいます。

 まず、僕の行動で、今まで不快な思いをさせてしまってごめんなさい。自分が情けないことをしているのはわかっていた。だけど、どうしてもやめられなかったんだ。

 寺井さんから、ああいうタイミングで、着信をもらって・・。結果、ああいうことになって、今では良かったと思ってる。

 僕の恥ずかしい行動がバレた日、バスの通勤経路をずっと走って、家まで帰ったんだけど、それで吹っ切れたんだ。結局、何もかも自分自身が原因なんだよね。自分自身が見えない軍隊を作り上げて、勝手に脅かされていただけなんだよね。

 人間、思い込み次第で白くも黒くもなる。これまで、悪い方向にばかり考えすぎてた。大した人間でもないくせに、周りの視線を意識しすぎてた。他人が自分をどう思っているかってことに、敏感になりすぎてた。

 他人に迷惑をかけないのは大事だけど、誰にも迷惑をかけずに生きていくなんて不可能なんだし、ときには、自分を押し通すことも大事だと思う。

 だからさ、僕、やっぱり寺井さんのこと、せいくん、って呼ばせてもらうよ。相手の顔色を伺ってばかりじゃ、いつまでも距離なんて縮まらないからね。

 明日から、また、生まれ変わった気持ちで頑張っていこうと思います。せいくんにとってはどうでもいいことかもしれないけど、僕にとって、せいくんにそれを宣言するのは、とても大事なことだから、メッセージを送らせてもらいました。

 夜中に突然、長文を送っちゃったりしてゴメン。今度、久々に、二人で飲もう。さすがにこの季節じゃ河川敷飲みはできないから、チェーンの居酒屋からファミレスでさ。

 それじゃ、明日ね。


「おはよう、せいくん!今日からまた、よろしくね」
 
 翌朝、工場の廊下ですれ違った塚田は、心の迷いが晴れたような、サッパリとした顔をしていた。

「おはようございます!会社が忙しいときに、つまらないことで、二日も休んだりしてごめんなさい!今日から一生懸命頑張るので、またよろしくお願いいたします!」

 休憩室で、大丸食品の課長や班長クラスに挨拶をする塚田の大きな声が、ロッカーで着替えをしている寺井の耳にまで響いてきて、寺井は思わず苦笑した。 

「くっ。何がせいくんだよ」

 ショックが大きかったことが、逆に良かったのかもしれない。これ以上、恥をかくことはないというところまで追い詰められて、本人の言う通り、塚田は完全に吹っ切れたようだった。

 三日間休んで、職場に復帰した塚田の働きぶりは凄かった。自分の工程だけでなく、他の工程の応受援もバリバリこなし、息をつく暇もなく、ラインの中を縦横無尽に駆け巡る姿は、大丸食品のライン作業にはまったく興味のない寺井の目にすら爽快に映った。

「やぁ及川さん、疲れたよね。あと少しで昼休みだから、頑張ろう」

「あ・・・ああ・・・ああ、はい」

 かつては見下す対象でしかなかった及川にも、気さくに声をかけている。これまでのすべてをリセットして、新しい自分を作り上げていきたいという塚田の決意が感じられる。

「張り切っているじゃないか、哲太。お前のその働きぶりなら、はんぺんのラインはもう安心だな」

「うん。伊達巻のラインにも、何かあったらすぐに応援に行くからね。信也くんも生まれて、もう自分だけの身体じゃないんだから、無理はしないでね、信一さん」

 親しくしていた仲間たちとうまくいかなくなったのは、自分が勝手に壁を作っていただけ。何もかも、自意識過剰になりすぎていただけだったことに気付いた塚田と周りとの関係は、寺井とのLINEで「やらかした」以前と同じ、いや、そのとき以上に良くなっているように見えた。

「塚田くん、頑張ってるねえ。塚田くんが帰ってきてくれたお陰で、なんだか工場全体が明るくなったようだよ」

「ありがとうございます、貞廣班長!もっともっと、頑張ります」

 気のせいか、塚田のハイテンションが伝染したかのように、他のラインの作業者たちも、声を出し合い、互いを気遣い合いながら、年末に向かってノルマの厳しくなる生産目標を是が非でも達成しようと、仕事に対するモチベーションを高めているように見える。塚田の復帰以来、暮れに向かって冷え込みの厳しくなる作業場に、夏場さながらの熱気が充満していくようだった。

「頑張っているじゃないか。不器用でも。それに引き換え・・」

 笹かまのライン――。何度も反復して身に着いた動きを、機械的に繰り返しながら、寺井は自嘲気味に呟いた。

 誰かが作り出したムードとかいうヤツに、簡単に染まってしまうヤツのことを、ずっと軽蔑していた。だが、本当に一番嫌いだったのは、ムードに染まれない自分自身だった。

 自分の損得だけで物事を考えずに、集団の和を守ることを第一に考えられていたら、今よりはもっと、マシになっていたのだろうか。

 ただ生きるだけということに、どうしても興味が持てない――今思えばそれも、適応の努力を怠り、苦痛から逃げ出した言い訳に過ぎなかったような気もする。特別にレールの上を走っていけないのではなく、特別に弱くて、レールから振り落とされただけのことを、もっともらしく誤魔化していただけではないか。

「それでも・・・」

 それでも、ドロップアウトしてから、自分なりの道を、精いっぱい進んできたつもりである。誰かが敷いたレールの上をうまいこと滑っていけない不満を、映写機を通して世界中にバラまいてやろうと、必死に足掻いてみた。だけど、ダメだった。

 十数年前、自分を殺し、ボロボロになってでもしがみ付いていれば行けた場所には、もう、どれだけ足を早めてもたどり着けない。いや、死ぬ気になれば何とかなるのかもしれないか、そこまでしてたどり着きたいとも思えない。

 だったら、何もかもぶち壊しにして、すべてを終わりにしてやる。その決意で、自分はこの一年間、人生最後と決めた映画の製作に没頭してきたのだ。

「・・・なんでそんな頑張るんだよ。どんだけ一生懸命やったって、給料は変わらないんだぜ。だったらもっと手ぇ抜けよ。イヤだったら逃げちゃえよ。あんまりムカついたら、体液とか入れちゃえよ。正月におせちが食えねえヤツらがいたからって、僕らは何も困らないんだぜ。食中毒起こして人が死んで、この会社が信用落として潰れたって、僕らは痛くもかゆくもないのにさ。言われるがまま、こき使われてどうするんだよ」

 少しでも、ただ生きるだけのことを素晴らしいと思おうとする自分が現れると、自分を出せない生き方は全部失敗だと思い込もうとする自分が現れて、頭を抑え付けようとする。

「僕はお前らとは違う。チャレンジから逃げ、怠けて、なるべくして派遣になっただけのお前らと、自分の意志があってレールを外れ、努力と挑戦を重ねてきた僕は、まったく違う」

 機械の音がうるさいのをいいことに、独り言を繰り返す。せいくん、せいくんと、馴れ馴れしく自分を呼ぶ塚田の声が、頭の中で不快に鳴り響くのを振り払うため、ラインの外にいる作業者に聞こえないギリギリの声で、独り言を繰り返す。

 これまでの人生で積み重ねてきたものが何もなく、今、こんな掃き溜めのような場所で、大事な何かを探そうとしている塚田のようなヤツから対等の友人だと思われていることは、寺井にとっては、大きな屈辱でしかなかった。

 自分が今、この掃き溜めにいることが、嫌で嫌で仕方ない。ただの臆病者、怠け者の類でも、その不満を共有する者とだったら、いくらでも親しくなれるだろう。己の境遇を呪った上で、たとえ違法行為であろうが、現状を打破しようとする意志のある者になら、自分は欲得抜きの協力を惜しまない。

 はっきりいって、寺井は明るい笑顔で、人の二倍も三倍も働いてみせる塚田よりも、仕事では露骨に手を抜いてラインの足を引っ張り、体力を温存して家に帰ったのち、妙齢の女性を性的にいたぶっている村上の方が好きである。

 こんな掃き溜めの中に、キラキラ光る何かがあるなどと信じてしまえる奴らが、嫌いで仕方ない。友達だとか、女房だとか、そんな、誰しも持っているものを依存の対象にし、それを低位安定を良しとする言い訳にして、自分を失うもののある人間の側に置こうとすることだけに必死なくだらない奴らが、嫌いで嫌いで仕方なかった。

 こんな連中との人間関係など、まったくもって、大切ではない。こんな反吐が出そうな奴らとの絆を大切にしろ、などとほざいてきた真崎を地獄に叩き落としてやったことは、今でも後悔していない。

「誤解すんなよ。僕はお前たちを見下しているわけじゃない。反対に羨んでいる。いったいどうすれば、君たちのように、ただのくさいうんこを、これは茶色いケーキなんだと思えるのようになるのか、授業料を払ってでも教えてもらいたいくらいだ」

 そう、自分は羨んでいるのだ。こんな誰でもできるライン作業の世界に、大切にできる何かがあると本気で信じてしまえるこいつらが羨ましい。その志の低さが、羨ましくて仕方ない。

 誰それの手が遅い、誰それの仕事は雑だ。そんなことで一喜一憂して、得意げに胸を張ったり、相手を貶めた気になれるこいつらのことが、心底羨ましい。

「努力して報われない僕の人生に比べたら、怠けているから報われなかっただけのお前らの方が、よっぽどマシじゃないか。ただ生きるだけのことに、そこまで夢中になれるお前らが羨ましい。本当に羨ましいよ」

 だから、こいつらの気持ちなど、虫けらのように踏みにじれる。こいつらは自分より上だと思うから、ぐちゃぐちゃに踏みにじってやることに、罪悪感などまったく覚えない。

 それに――。

「心配しなくとも、僕があの作品を発表することによって本当にダメージを被るのは、本当に価値のある大切なものを持っている奴らの人生だけだ。お前らはまた新しい場所で、これまで通りの人生が続くだけ。ただ消耗し、使い捨てられていくだけの、何も変わらない日々が続くだけだ」

 呟きながら、寺井ははんぺんのラインで躍動する塚田に、もう一度視線を向けた。

「残念ながら、お前がいくら頑張っても、僕を止めることはできない。逆に、お前に僕が道を示してやるよ」

 枯れ果てて、追従することに慣れきった者たちと違い、お前には未来がある。

 これから大事なものを失うことになる連中と己とを見比べて、初めて持たざる者の気楽さに気付くがいい。自分を無理に、持てる者と同一視しようとすることの愚かさと虚しさを、骨身にしみて味わうがいい。

 探している大事なものが、そこでは永遠に見つからないことを嘆き、そしていつか追随せよ。

 矛で突いたところで、巨岩はピクリとも動かないが、爪痕は残る。それを自分自身がどう解釈するかが重要である。数千万の命を奪った独裁者の所業ですら、地球の裏側の人間にとっては、取るに足らない些事にしかすぎないのだ。誰を巻き添えにして、誰をどれだけ壊せたか、それでどれだけ、自分がスッキリできたか、大事なのはそれだけだ。

 糞みたいな人生にケリをつける――それを想像したことも、それをする意味も分からないヤツに、お前の汚い糞をひり付けろ。

「くそ・・?」

 ふいに耳に入ってきた、世の中の汚いものなど一度も見たこともないといった若い女の声が、寺井のささくれだった心を撫ぜた。

「あ?いや・・・」
 
「あの、寺井さん・・。今日から年末まで、私が笹かまのラインも見ることになったんで、よろしくお願いします」

 人手不足を理由に作業者に回された旧リーダーに変わって、塚田のいるはんぺんのラインと、リーダーを掛け持ちすることになった岡本涼子が、恭しく頭を下げてきた。

「おう・・・。よろしく」

 掃き溜めに鶴。この汚いものしかない場所で、女はいつだって、自分の希望だった。相手が同じ派遣で、手頃な容姿ならば、現状のまま親しくなってセックスする望みを恥ずかしげもなく探ってきたし、正社員、もしくは派遣でも美人ならば、こいつを堂々と口説けるように、一刻も早く世に出ようと、創作意欲を掻き立てる材料に使ってきた。

「そういえば、もうすぐクリスマスだけど、岡本ちゃん、彼氏と予定あんの?」

「え~。私、いま彼氏いないですけどぉ」

「マジ?僕、岡本ちゃん、普通に彼氏いると思ってたわ。ここの社員さんとかに、デート誘われたりしないの?」

「う~ん。ないですねぇ・・」

「なんだよ、だらしねえ男だちばっかだな。んじゃ、そのうち、僕が岡本ちゃんデート誘っちゃうわ」

「寺井さん、彼女さんいるじゃないですかぁ」

「ああ、そこら辺、僕、あんまり堅苦しく考えてないから。偉いわけでもないんだし、人生楽しまなきゃ。岡本ちゃんとデートできたら、僕ここの仕事も、もっとがんばっちゃうかも」

「あははは。考えておきますね」

 自分のせいで声を失い、歯を叩き折った女、希美のことを頭から消し去り、寺井は新しくリーダーとなった、岡本涼子に軽口を叩いた。

 生涯を一人の女に捧げる――然るべき立場のある者が言うならサマになるが、自分のような者が言ったところで、ただ単に、モテない事実から逃げているだけにしか聞こえない。

 多数の女とセックスする望みを探ることがモチベーションとなり、結果、この底辺から這い上がることができるなら、それは紛れもなく、自分の正式なパートナーのためにもなると信じてきた。

 その結果が、このザマだ。

 希美と出会って以来、女方面で得たたった一つの戦果――美しくもない中年女の腹の中にできた取返しのつかないものが、人生を終わらせる決断をさせた。

 生涯で、希美の次に身体を重ね合わせた女――志保は、いまは一子、信也を心の支えとし、信也の健やかな成長だけを考え、蛇蝎の如く忌み嫌う夫の庇護の下に留まり続けることを決めた。種を提供する役目を果たし、用済みとなった寺井には、もう見向きもしない。

「ねえ、確か岡本ちゃんってさ、バレーの選手だったんだよね」

「えー。そうですけど、誰から聞いたんですかぁ?」

「一年半前に僕が入ったころ、自分で言ってたじゃない」

「そんな前のこと、よく覚えてますねぇ」

「僕、仕事のことはすぐ忘れちゃうけど、キレイなお姉さんのことは、いつまでも覚えてるんだわ」

「仕事のことも、ちゃんと覚えてください!」

 生命力溢れる、真っ直ぐな若い女の笑顔は、生活と労働、そして夢を追い続けることに疲れ果て、すべてを終わりにしようとしている男の心も慰撫する。彼女の朗らかな笑顔の源泉が、若い女というステータスだけではなく、生活の安定と将来の不安から解放されていることにもあるのは、疑うべくもないだろう。

 十年前、自分はこの女と同じ笑顔を浮かべていた女を――。世の中の汚いものに、一度も出会うことなく生きていけるはずだった女を、汚わいに塗れた自分の人生に巻き込んでしまったのだ。

「ただいま・・・」

 家に帰れば、自分が巻き込んでしまった女の、変わり果てた姿を突き付けられる。

 希美の心に異変が起こっていることは、もう何年も前から気が付いていた。気づいていながら、放置した。希美の頭の中で、自分が欲して得られなかったものが胎動している事実を認めるのが怖かった。それが表に出てきてしまうのが怖かった。

 希美が自分に対し、罪悪感を覚えていることも知っていた。希美が何も言えないでいるのをいいことに、散々、好き放題を繰り返してきた。

 その結果が、このザマだ。
 
 数日前、希美が自らの歯を叩き折ろうとするのを抱きしめて止めたとき以来、希美は大丸食品の仕事に行くのをやめて、自宅で療養の日々を過ごしていた。

 郵便受けに溜まりに溜まった督促状――。希美が何かで作った、百万を超える借金を返すアテはない。どの道このままでは、二人の生活は立ち行かない。図らずも、退路はすでに断ち切られていた。

 眠っている希美を起こさないよう、ヘッドホンを付けてテレビを眺めながら、ワンカップを煽って早々と床に入る。日付が変わったころに布団から這い出て、眠気覚ましのシャワーを浴び、パソコンの画面へと向かう。人生で初めて撮った映画と同じ尺の、四十五分ものの短編映画は、もう、公開前の最終確認の段階にまで入っている。

 誰に何を言われようが、誰がどうなろうが、自分が行く道を行くのは変わらない。あいつらと一緒には、歩んでいけない。

「ごめん、希美と一緒にも行けない」

 君が変わらない僕を好きでいてくれるのは嬉しい。だけど、君が好きな僕は、僕の好きな僕じゃないから――。

 だから、サヨナラ。


                            ☆


 師走も後半に入り、日勤の社員は夜勤と一緒に、日付が変わるころまで働き続けているのが当たり前となった。派遣もほとんど全員が、午後九時までのフル残業に協力してやっているが、ただ一人だけ、寺井だけは例外だった。

「あ、寺井さん。キリのいいところで終わって、帰って休んでください。映画の脚本、書かなきゃならないんでしょ」

「あ?ああ・・・いいの?」

「はい。あとは、私やっときますから。頑張って有名になって、寺井さんの映画、スクリーンで観せてくださいね」

 時刻は午後八時。他のラインの派遣は全員が残って作業をしているが、寺井は新ラインリーダーの岡本涼子の言葉に甘え、一足早く上がらせてもらった。

「おはようございます、寺井さん。今日の生産数も昨日と同じなんで、よろしくお願いしますね」

 翌朝も疲れを感じさせない、朗らかな笑顔で寺井を迎える涼子であるが、彼女は昨晩は天辺を回っても働き続け、男性社員と一緒に会社に泊まり込んでいたことを、朝方、休憩室にいた真崎が話していた。

 労働市場での流動性を押し付けられる派遣社員が、常に経済的な不安に脅かされている一方で、管理的な業務を派遣社員にシェアできない正社員の肉体的精神的な負担が増え、超長時間労働化が進み、健康面が脅かされているという問題がある。

 正社員で過労死するまで働くか、派遣でゆとりの持てない暮らしを送るか。労働者階級の多くが、カレー味のうんこを食うか、うんこ味のカレーを食うかという選択を迫られている。

 と、悪い面だけに目を向ければそういう見方になるが、正社員が自分の仕事に本当に充実感を感じられているのならば、働かされすぎる心配など無用のものとなるし、逆に、派遣は派遣のままでいることで、ある意味「ぬるま湯」の中で楽ができ、時間についての希望もある程度聞いてもらえるという面もある。

 しかし、労働の損耗を最低限に抑えられることがメリットになるのは、労働の他にやりたいことがあるうちだけだ。管理的な業務を割り振られない派遣ではスキルの向上はまったく望めず、この先にステップアップすることはできない。

 こいつといつか肩を並べて、堂々と口説いてやる。そんな目標があるから、年下の女の指示で働いていることができる。

 それがなくなってしまったら、もう――。

「ねえ、せいくん。今日から僕、せいくんと一緒にお昼取ろうと思うんだけど、いいかな」

 昼休みになって、食堂に向かおうとする寺井に、塚田が後ろから追いついてきて、声をかけてきた。

「あ?ああ・・・・いいんじゃない」

 せっかく岡本涼子に早めに上がらせてもらっても、大詰めに入った映画製作のために睡眠時間が削られ、憔悴しきっている寺井は、塚田の問いに、適当に答えた。

「よかった。ムラさん、せいくん、一緒でいいって」

 希美が会社に来なくなってから、ランチタイムは一人で過ごしていたが、この日は塚田の呼びかけで、寺井は塚田と村上と、三人で食事を取ることになった。そしておそらくその流れは、寺井がすべてを終わらせるその日まで続くものと思われた。

 どうでもよかった。

「ムラさんが食べるようになってくれて良かったよ。食べないと元気でないもんね。あ、新メニューのコロッケ、すごい美味しいから、二人も食べてみなよ」

 村上は凜を自分の体重より重くするという、寺井の課した「クエスト」を達成した後は、普通に食事を取るようになっていた。それは大変結構なことだが、寺井が気になっているのは、一つの目標を成し遂げ、吐き出すものを吐き出した村上に、近頃、凜に対しての罪悪感のようなものが芽生え始めていることであった。 

「ね、ねえ、寺井っちゃん。やっぱり、その、リンリンのこと、放してあげた方がいいかな・・・」

 食事が終わり、連れだってトイレに行ったとき、村上が伏し目がちに問いかけてきた。

 同志の支持を得て勇気百倍、禁欲生活で野獣のようになって、思い切った行動に出たまではいいものの、所詮、根は小心者である。

 年末の繁忙期を乗り切り、全国の食卓におせち料理を届けるという「崇高」な目標に向かう塚田たちの姿を見せつけられた村上は、ただの私怨を晴らすだけの目的で、女を監禁する非道に手を染めた自分の姿が、何とも惨めなものに思えて仕方なくなっているのだ。

「解放して自首したって、五年はムショ送りだよ。だったら、シャバにいられる今のうちに、できるだけ長く楽しんだ方がいいんじゃないの」

「そ、そうかな・・・」

 野獣の食欲と性欲に一段落がついた男が、ピュアな奴らの熱気に当てられて、自分では何一つ決められない優柔不断な素顔が表れ始めた。志保と同じで、こちらも、魔法は解け始めている。「ゲーム」は潮時を迎えたのだ。

 しかし、映像には残る。この男の悪事も間もなく世間に公開され、自分の作品が派手に燃え盛るのに一役買ってくれるだろう。

「せいくん、岡本さんにマンツーマンで面倒見てもらってていいなぁ。僕も笹かまのラインが良かったな。ああ、でも、そしたら、今のみんなと離れ離れになっちゃうしなぁ」

「おいおい哲太。今がどういう時期かわかってるのか?色気づくのもいいが、せめて年が明けてからにしろよ」

「堅いなぁ信一さんは。そういうのだって、立派な働く理由じゃん。ねえ、せいくん」

 食事を終えて、休憩室で過ごす時間、寺井はリクライニングチェアに座りながら、スマホの画面上に表示される、完成間近の「作品」のファイルを、無言で眺めていた。

 こいつがいてくれるから、この、ゲロとクソをかき混ぜたみたいにべとついた慣れ合いの空気に、取り込まれないでいられる。「取返しのつかないもの」ではなく、今まさに産声を上げようとしている、自分の本当の子供の存在が、今の自分を懸命に支えている。

「あっ・・あ、せいくん、岡本さんが」

 まさに岡本涼子の話をしている最中に、憧れの岡本涼子が休憩所に入ってきて、塚田が口を開けたまま固まった。鬱陶しいことこの上ない。

 涼子は、緊張している塚田には目もくれず、休憩室を奥へと進んでいく。喫煙所で談笑している、直属の上司である課長に用があるようだ。

「はの・・あほやまかきょう・・・・」

 喫煙所の入り口に立つ涼子が、鼻をつまみながら課長の青山を呼ぶのを見て、休憩所の中がどっと沸きかえった。寺井の隣のリクライニングチェアに座る塚田は、目が蕩け落ち、顔は真っ赤っかである。鬱陶しいことこの上ない。

 河川敷で酒飲みをしていたころから、塚田が岡本涼子に恋心を寄せていることは何度も聞かされていたが、とうとうこの一年、この男が岡本涼子をデートに誘ったという話は、一度も聞いたことがなかった。高嶺の花と認識しているならしているで、今の立場から脱却し、涼子を堂々と口説けるようになろうと、なんらかの努力をしようとする姿も、一度として見なかった。

 好きな女がいても、そいつを無理に手に入れようなんて思わない。高嶺の花に手を伸ばすために、死に物狂いで浮上しようとも思わない。

 アイドルでもない職場の女の、ちょっと可愛いところが見られるだけで幸せである。そんなことで前向きな気持ちになり、自分の立場を納得して、今日も頑張って働こうと思える奴がいる。

「それでいいのかよ。そんなんで飼いならされるんじゃ、まるきり家畜と一緒じゃねえかよ」

 休憩室内の空気に耐えられず、寺井は缶コーヒーを買って、寒空の下、駐車場へと出た。

 近頃の塚田を見ると、無性なイラつきに襲われて仕方ない。

「好き勝手に言いたい放題、やりたい放題が、貧乏人の特権だろうが。もっと自分を表に出せよ」

 もし、表に出ているそれが本当の塚田なのだとすれば、余計に腹が立つ。若いヤツの出る杭を打って小さく纏めようとする真崎の理想をそのまま体現したような今の塚田に比べれば、まだ、誰に強制されることもない自分の意志で、十年間引きこもりの暮らしを続けていた時期の塚田のほうが見どころがある。

 十数年前の寺井が、我慢して、自分を殺して、好きでもない友人と付き合って、尊敬してもいない人を褒めたえるだけで滑っていられたレールを飛び出して、掃き溜めの中で、唾を吐きかけられながら生きることを選んだのは、いつまでも変わらぬ自分自身でいたかったからに他ならない。

 居ても居なくてもどっちでもいい存在。ここなら、誰にも押し付けられたりしないし、干渉されたりもしない。安定と引き換えに得た自由という対価に、自分はある程度納得していた。だが、満足していたわけではない。

 レールの上を走っている連中に受け入れられるために自分を変えるのではなく、いつか、自分自身の方を、レールの上を走っている連中に受け入れさせてやろうと頑張ってきた。奴らがある程度自分を受け入れてくれれば、自分の方も、少しずつ変わっていくものだと思っていた。

 でも、それは叶わぬ夢だった。自分は最後まで、掃き溜めの中から抜け出せなかった。積み重ねてきた努力の日々はすべて徒労になって圧し掛かり、自分をついに押し潰した。

 ゴミ捨て場に捨てられる産廃にだって、選択の自由はある。誰もが、たとえゴミ扱いでも、生きていられるだけでいいと考えられるわけではない。最後に自分を焼き尽くし、世の中に有害物質をまき散らして、跡形もなく消え去っていく方がいいと考えるヤツもいる。そいつを、これから世間に思い知らせてやる。

「気に食わねえ。マジで気に食わねえ。何もかもが気に食わねえ」

 今すぐにでも、目の前にとまっているトラックに乗り込んで、繁華街の歩行者天国にでも突っ込んでやろうかと思う。獰猛な衝動を寸でのところで抑えてスマホの画面を眺め、今まさに産声を上げようとしている自分の作品、自分の本当の子供に思いをはせる。

 年に一度は起こる、派遣社員の暴発。自分がこれからやろうとすることは、無差別に多くの人を傷つけたあの連中のやったことと、大差はない。

 ただ、奴らと違い、自分には志があった、地道な努力をしてきた、それを見てくれる人がいた。自分が世の中に一矢を報いようとするときは、自分の培ってきたものをフルに動員して、自分という人間が何者であったかを証明したい。

 昼休憩が終わり、脳を止めて身体を動かすライン作業が再開される。続けたところで何の蓄積にもならず、ただ摩耗していくだけの不毛な時間。これまでは、この時間を少しでも有意義に過ごそうと、作品の構想を練ることに使ってきたが、あともうすぐで、それもなくなる。

「ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る・・っと」

 そこら中で機械の音が鳴り響く騒々しい空間では、退屈を紛らわせるための鼻歌も、周りの耳には届かない。こんな方法で、この脳が腐っていくような耐えがたい時間をやり過ごすこともできる。

「きーよーし・・こーのよーる・・・っと。はは。全部、最初の方しか思い出せないや」

 余計なことを考えるのをやめると、こんなところに、大切にできる何かがあると信じている愉快な奴らの、愉快な立ち振る舞いがよく見える。

 脇目も振らずに作業に打ち込んでるヤツ。隙あらばチクリを入れて上にいいカッコしようと、周囲に視線を巡らせているヤツ。いちいち無駄に声を張り上げて、周囲に自分の存在を誇示しようとしているヤツ・・。

「楽しそうな顔してやがる。もうすぐ、悪いサンタさんがやってきて、袋の中に詰めたクソとゲロで、みんなをぐっちゃぐちゃにしちゃうとも知らずに」

 ベタベタと生暖かくて、纏わりつくような奴らの手を、全力で跳ね除けろ。

 あともう少しで、すべてを終わりにできる。寝る間を惜しみ、骨身を削って作った最後の作品が完成し、ネットの海に流されるときが来る。

 
                             ☆

 十二月二十四日。恋人たちのための日。

 信也へ――最後の仕上げ、タイトルバックの挿入が完了し、寺井が人生を終わりにするための、四十五分もののドキュメンタリー映画は完成した。

 この映画を公開すれば、世間はあっという間に食いつき、各メディアでは連日連夜の報道合戦が繰り返される。まともな道で成功を志しても、これまで見向きもされなかった自分が、犯罪行為によって、世間の耳目を一身に集める。

 年に一度は起こる、派遣社員の暴発。まったくもって、珍しいことではない。食品に異物を混入させるという手口も、その映像をネットを利用して世間に公開するというパフォーマンスも、寺井のオリジナルではなく、先駆者に追随するものである。

 犯罪もビジネスと同じで、どれだけ大規模にやろうが、やることに新しさがなければ、世間は食いつかない。瞬く間に消化され、人々の関心は次に向き、その脳裏には何も残らない。

 寺井なりのオリジナリティは、卑劣な犯罪行為を、自分の手を汚さず、情欲を交わし、自らの子を産ませた女にやらせたこと。食品に混入された異物が、忌避される男の汚わいではなく、涎を垂らして吸いつくマニアもいる、女の体液であったこと。すべてを収めた映像に、父親が自らの子に向けるものではない、悪意の言葉を供に添えたこと。

 事件によってもっとも大きな傷を負うのは、まだ生まれたばかりの赤子、信也。その悲痛に世間は同情を寄せ、騒ぎはますます大きくなる。

 間男の仕込んだ子を受け入れてまで得ようとした正社員の職が幻のように消え、無責任なマスコミに己の最大の恥部を暴かれた真崎が、己と血のつながらない信也に、まともに向かい合う理由はない。信也を産んだ母親は、たった一人で、生まれた時点で重いハンデを抱えた子供を育て上げなくてはならない。

 よしんば、志保があらゆる艱難辛苦を乗り越え、信也を無事に大きく育て上げたとしても、実の父親の放った悪意の言葉は、ネットの海に残り続ける。親がどれだけ気を配っていても、この日本という国で、社会的なインフラにまで成長したネットに触れずに生きていくということは、不可能に近い。いずれ、知を身に着けた信也がそれに出会ったとき、彼は果たして、正気を保っていられるだろうか。

 取返しのつかないものが生き続ける世の中で、取り返しのつかないものを作った自分も、また生き続ける。

 これまで、貧困と自由、気楽は同義であるとして、自分の立場をある程度納得してきた。そんな男が、貧乏人に加えて前科者にまでなってしまったら、いったいどうなってしまうのか?失うものがないのに加え、未来の希望までもが消え去ってしまったとき、目の前に一体どんな光景が開けるのか?

 今までやりたくてできなかったことが、やりたい放題にやれるようになる。もう、踏み出そうとする足を止めるものはなにもない。例えるなら、これがあと五分で醒める夢だとわかったときのような感覚が、一生涯続くのである。

 目の前の女を犯すにも、恨みのある人間を殺しに行くにも、躊躇はいらない。その結果、たとえ絞首台に上ることになろうと怖くもないし、未練もない。

 すべてを終わりにしたその先には、無限の自由が広がっているようにしか、今の寺井には思えてならなかった。

 一日のうち大半を眠って過ごし、今も微睡みの中を揺蕩っている希美を横目で見ながら、マウスの左ボタンにかけた人さし指にぐっと力を込めた。この指をあと少し押せば、すべてを終わりにできる。

「・・・・・」

 ボタンを押そうとする指に力を込めると、マウスとの間に何かが割り込んできて、最後の一線を踏み越えるのを止めさせる。映画でやれば、三文芝居と叩かれてしまうようなシーンを、もう、一時間以上も繰り返している。

 失うものなど何もないはずの自分が、失うことを恐れている。滑稽で、未練がましい。誰でも持っているそれは財産とは呼べないはずなのに、捨てようと思えば簡単に捨てられるはずなのに、最後の最後にそれが人差し指の下に割って入ってきて、どうしても向こう側にいけない。

 出勤の時刻は迫っている。ここでもう一つ、自分の中に選択肢が生まれる。

 時間通りに会社に着き、始業の時刻を迎える。自分と出会わなかった希美――岡本涼子の朝礼を受ける。決められた作業を淡々とこなし、終業のチャイムを聞く。一日の仕事を終えた充実感に包まれながら家に帰って、缶ビールを開ける。いつも通りを、淡々と繰り返す選択が、人差し指の下に割って入ってきて、自分を止めようとする。

 そいつがぶっ壊れてもいいと思って、取返しのつかないものができるのを承知で、快楽の海に欲望の落とし子を放ったはずなのに。生まれた取返しのつかないものを利用して、死ぬほど嫌いなそいつをぶっ壊すために、一年の月日を費やしてきたはずなのに。

 生暖かくてベタ付いた手が、最後の最後で、どうしても振り払えない。

「・・くそがっ」

 ネットの海へと繋がるアイコンから、カーソルを外した。メールにファイルを添付し、今日の成果を、自分のスマホに送って家を出た。派遣先に向かった。

 マウスと指の間に割り込み、自分を止めたもの。それが何なのかを確かめに、あそこに行くことにした。何も変わらない日々の繰り返しに、もう少しだけ付き合ってやることにした。


                             ☆

  
 クリスマスイブの勤務は、ミーティングルームでの全体朝礼から始まった。

 壇上で熱弁を振るう工場の責任者。みんな疲れているのは知っているが、ここが正念場だ――。上の空で聞いていた寺井の耳にはそれしか入ってこなかったが、周りは責任者の演説で何やら奮い立ったらしく、社員も派遣も、いつにもまして活気づいているように見えた。

「伊崎さん、機械の調子がおかしいんで、見てもらっていいですか!」

「はいよ~、塚田くん。ちょっと待ってね」

 そんな、ちょっとしたやり取りにも、いつも以上の熱がこもっているように聞こえる。社員も派遣もない、正月の食卓におせちを届けるという崇高な使命に燃える連中の一体感が、作業場に充満していくように見える。

「そりゃ、洗脳だっつの。疲れて、思考力パンクして、なんかすごいこと言われたように思っちゃってるだけ。そういうのわかんないかね」

 毒を吐きつつも、寺井は衛生服の中に着たシャツのポケットに仕込んだスマホのボタンを、いまも押せないでいた。

 PCで製作したファイルは、そっくりスマホに移されている。ボタンをひとつ押せば、すべてを終わりにできる作品を、ネットの海に放流できるのに、人差し指とボタンの間に、何かが割り込んできて動かない。

 自分が憎んでやまない、何も変わらない日々、浮上の兆しもない日々に、どうしようもなく巻き込まれていく。終わりのボタンを押せないまま午前の勤務が終わり、昼休みのチャイムが鳴らされた。

 食堂に向かい、衛生服のポケットに仕込んだスマホを取り出して席に着く。左手の親指をボタンにあてがい、一押しで、すべてを終わらせる準備をしながら、黙々と食事を口に運ぶ。

「みなさん。部長さんから、クリスマスケーキの差し入れです。色んな種類があるから、みんなで相談して、選んでくださいとのことです」

 食堂に製菓店の包みを持ってやってきた塚田が、全員に聞こえるような大きな声で呼びかけた。

 派遣スタッフたちは食事の手を止め、ケーキの置かれたテーブルの周りに集まり、各々、好きなケーキを取って、席に帰っていった。

「ほら。せいくんも。甘いもの、嫌いじゃないでしょ」

「・・・・」

 塚田が持ってきてくれたチョコレートケーキを口に含んだ。ビターな甘さが染み入った。 

「こらぁ及川ぁ!お前、そりゃ信さんのだろうがぁ!人の物を取ったら泥棒って、小学校で習わなかったのかぁ!」

「いや・・・あ、あ、これは、真崎、さんが、俺に、くれると・・・」

「だからって、はいありがとうございますって、もらっちゃうのかぁ!こういうのは、みんなでじゃんけんして、決めるもんだろうがぁ!なあ、みんな!」

 牛尾の提案に、何人かの派遣スタッフが同意し、真崎が及川に譲ったモンブランを巡って、じゃんけん大会が始まった。

「あ・・あ・・・俺の・・・」

 モンブランを取り上げられた及川が、未練がましい目を、モンブランの戻された箱に向けた。

「やったーっ、勝ったーっ」

 見事、優勝の栄冠を手にした塚田が、堂々とした手つきで箱から取り出したモンブランを、美味しそうに頬張った。

 大の男たちが、ケーキ一つのことではしゃいで、取り合って――。

 食って、笑って――ただ生きるだけのことに喜びを見出せる人間たちの営みが、スマホのボタンと人さし指との間に、どうしようもなく割り込んでくる。

 不器用だけど、やるべきこともわかってないけど、時々、主張の仕方を間違えちゃうこともあるけど、それでも、とにかく生きている奴らがいる。できるだけ人の迷惑にならないよう、自分に与えられた仕事を、精一杯やっている奴らがいる。こんなところにあるはずもない大事なものを、それでもあると信じて探している奴らがいる。

「そいつらの邪魔をすることが、果たして許されるのか・・?」

 それでも、今さら後には引けない理由がある。この一年、骨身を削り、丹精込めて、自分の本当の子供を作ってきた。そいつにかけてきた自分の思いを、無駄にはできない。

 寺井は本来、作業場には持ち込み禁止になっているスマホ――「信也へ」と題した、自分の本当の子供である作品をネットの海に流すための装置を、衛生服の下に来ているシャツのポケットに仕込み、午後の作業へと向かった。 

 
                              ☆


 気温マイナス二十度を下回る冷凍室の中、材料の入った箱を、次々と台車に重ねていく。腕は軋み、足腰は悲鳴を上げる。気の遠くなるほど繰り返した作業を、気の遠くなるまで延々と繰り返す。

 何か、キッカケさえあれば、この繰り返しを終わらせられる。あともう少し、自分を周りの奴らより大切だと思えるキッカケと、自分を周りの奴らよりもクソだと思えるキッカケがあれば、このボタンを押せる――そいつがまだ見つからなくて、こんな不毛な作業を、まだ繰り返している。

「寺井さん。希美さんのことで聞きたいことがあるんですけど、よろしいでしょうか」

 事件の報道を読み上げるような無機質な声で話しかけてくるのは、希美と同じ粉物の倉庫で働く作業員、端本である。

「寺井さん。ずばり、あなたは希美さんを落とすとき、いきなりセックスをしたのですか。それとも、時間をかけてそこまで持っていったのですか。寺井さんお答えください」

 ほかの男と同棲中の女を、己のモノにしたいと思っている。ここまではいいとしよう。問題なのは、その女を攻略する方法を、当の同棲中の男に質問するという行為である。

「僕はこれまで、女性をいきなりホテルに連れ込もうとするのは、いけない行為であると思い込んできました。女性をふしだらな目でみるのは、女性に対し、大変失礼であると思っていました。しかし、インターネットで検索すると、最近の風潮は変わってきており、女性の方も、男女がセックスを目的とせずに二人で会うのは無意味だと思っている、ということが書いてありました」

 他人の気持ちなど考えずに、自分を貫き通す。多くの人間がそれをしたいと思っているし、それができれば、人生はバラ色になると誰もがわかっている。

 でも、そんな願望はほとんど叶わない。だから、どれだけ足掻いても自分は底辺から救い上げられないし、目の前にいる男も、精神を病んでしまっている。
 
「せっかく塚田が頑張ったのに、お前だけは、どうにもならなかったな」

「塚田さんのことは、今は聞いていません。それよりも今は、寺井さん、あなたから希美さんを救い出すことの方が大切です」

 冷凍庫は極寒の地であり、こんなところで長々と無駄話などしていたら、手足がかじかんで仕事にならなくなってしまうのは、誰でも知っている。自分だけがそうなるのならまだしも、他人を巻き添えにすることが許されないのは、工場で働く誰もがわかっている。それがよくわかっていても、他人の気持ちがまったくわからないために、それをしてしまう男がいる。

「なあ・・。人のことを思いやったら負けなのか?ちょっとでも、自分のやったことで誰かが傷つくと思っちゃったら、自分は幸せになれないのか?」

「寺井さんの言っている意味は、わかりません。僕は、希美さんを寺井さんから救い出さねばならないと思っています。僕は、平和主義者です。争い事は好みません。だから、寺井さんの口から、希美さんを僕に譲ると言ってもらいたいと思っています。寺井さん、どうか言ってもらえませんか。僕の手に、希美さんを委ねると。寺井さん、どうか決断してください」

「そうじゃねえよな・・。僕がただ一人で、ここからいなくなればいいだけだ」

 誰にでもできる簡単なことができないくせに、欲望だけは人一倍のヤツがいる。そいつが欲してやまないものを粗末にして、手が届きもしないものをずっと追い続けて勝手に疲弊し、周りを滅茶滅茶にしようとしているヤツがいる。

 正規の良品に混ざりこんだ異物同士が最後にかち合って、やっと答えが出せた。

「寺井さん。実は、僕は寺井さんと希美さんの住んでいるところを知っています。失礼を承知ながら、以前、後をつけさせていただきました。希美さんを苦しめ続けてきたあの家が、僕には敵に落とされて燃え盛るお城のように見えました。もし、ここで寺井さんが僕に希美さんを譲らないと言うのなら、僕は今度、あのお城に乗り込んで、希美さんを救い出すつもりです」

 救いようのないヤツ―――良品を不良品にするしかできない異物にお似合いの末路を、やっと見つけることができた。

「寺井さん。あなたはひょっとして、女性を理想化しすぎているのではありませんか。女性も男性と同じ人間です。一緒に暮らせば、だらしないところも見せるし、おならもします。あなたはそういったことを我慢できずに、希美さんに辛く当たっていたのではないですか。僕はそんなことはしません。僕は、希美さんがどんな姿になろうと、愛してみせます。寺井さんは、希美さんを僕に委ね、一人になって反省をし、それから、新しい女性を幸せにしてあげてください」

「お前も本当は、可哀そうなヤツなんだろうけどさ・・。でも、僕、やっぱり希美が好きだから」

 寺井は、材料置き場から拾った魚のすり身の箱を、端本の側頭部めがけてフルスイングした。

 マッチ棒のような身体の端本がもんどりうって倒れたところに、安全靴で踏みつけを食らわせた。頭を蹴られても、最初の一撃で、泡をふいて失神してしまった端本は目を覚まさない。

 倒れたところが、偶然、材料の陰に隠れて死角になる場所だった。ほかのラインの連中が補充のためにここを訪れても、人が倒れていることには気づかないかもしれない。

 氷点下十℃を下回る冷凍室に放置されれば、人間の身体は数時間も持たない。だから、サヨナラ。

 冷凍室を出る前、一度だけ後ろを振り返った。

「サヨナラ・・・」

 もう二度と戻れない、何も変わらない日々に別れを告げて、寺井は冷凍室を後にした。




       エピローグ




 拘置所の雑居房の中、日課の足つぼマッサージを終えた寺井は、自分に割り当てられたスペースから、ぼーっと窓の外を眺めていた。

 刑務所と違って作業のない拘置所では、日がな一日、とにかく暇を持て余す。将棋盤が空いているときは、房の誰かと将棋を指すか、一人で詰将棋。将棋盤が空いていなければ、留置金で買った週刊誌を読む。週刊誌を読み飽きたら、こうして空を眺める。そんなこんなで退屈を紛らわせながら、刑が確定するのを待つ日々を、のんびりと過ごしている。

「いってえな、バカ野郎!いちいち小突くんじゃねえよ。あ、お前、僕に嫉妬してんだろ。僕が羨ましいんだろ。そりゃそうだよな。だって僕は、お前みたいな臆病もんが、一生かかってもできない気持ちいいことを、リンリンにいっぱいしたんだから。リンリンのお腹はぽにぽにしてて、柔らかったぞぉ。おもちおなかを揉みながらさ、志保のミルクをそそいで食べるふんわりおっぱいが、美味いんだまた。これからリンリンに僕の赤ちゃん汁を注ぎ込んで、リンリンのおっぱいからミルクを出そうとしたのに、お前ら国家の犬が邪魔しやがって。お前らなんか犬のうんこと一緒だ。お前らみんなうんこなんだよ。このばーっか、ばーっか、ばーっか!」

 鉄格子の向こうから、寺井とほぼ、同時期に逮捕された村上の声が聞こえてくると、八畳の房に詰め込まれた六人の男たちが、一様に口元を綻ばせる。

 性犯罪は獄中ヒエラルキーの最下層で、拘置所、刑務所では恰好のイジメの的である・・・などという時代でもない。刺激に飢えた未決囚たちの間で、独特の言語感覚を持った村上は「スター」として扱われる人気者だった。

 それに引き換え、自分は過密収容された男たちの排泄の臭気を常に漂わせる便所に一番近いスペースをあてがわれる、房の最下位者。とはいえそれも、入った順番が新しいから、というだけのこと。

 ヤクザが幅を利かせているというわけでもないし、ホモに尻の穴を狙われるわけでもない。多少、姿勢を崩したところで、厳しく注意されることもない。食事は悲しいほど味が薄いが、腹が減っていれば、食えないほどではない。留置金の範囲内で、菓子や日用品を購入することもできる。

 ここが、最初から落ち着くべきところだったのだと考えれば、案外、悪くない。寺井は軽く伸びをした後、三日前に届き、雑誌と同様に何度も目を通した、塚田からの手紙を開いた。


 せいくん、ご無沙汰しております。身体は大丈夫ですか?だいぶ暖かくなり、汗も出るようになると思うので、今度、タオルとシャツを差し入れます。

 世間はまだ、ネットでもテレビでも、村上さんが起こした事件についての話題で持ちきりです。村上さんがどうしてあんな酷いことをしようと思ったのか、リンリンをなんで太らせようと思ったのか、僕にはよく理解できない世界だけど、友達だった人のことなので、できるだけわかるようにしたいと思っています。

 せいくんが端本を殴った事件については、希美さんを守るため、仕方なくやったという論調になっています。僕にできることには限りがあるけど、もし、証言台に立つ機会があれば、できるだけせいくんの苦しみを、裁判官さんにわかってもらえるように発言しようと思っています。

 次に、僕の近況について報告します。僕のことになんか興味はないかもしれないけど、僕はせいくんに自分を知って欲しいから、伝えさせてもらいます。

 あれから僕は、大丸食品の工場を辞めて、半導体を製造する会社で、正社員で雇用されることを前提に、紹介予定派遣で働き始めました。半年間、作業者として勤務すれば、費用は全額会社持ちで資格の試験を受けられて、それに合格すれば、正社員としてリーダーを任されるそうです。日勤と夜勤の交代制で、当直もあるし、身体はきついけど、ただの派遣と違って、未来を信じられる喜びがあるので、頑張れています。

 ほかのみんなのことも、簡単に伝えます。

 大丸食品の工場は、二週間の安全点検を終えた後に、無事に稼働し始めました。あれ以来、派遣会社では、スタッフのメンタルチェックを定期的に行うようになり、事件防止に努めるようになっています。

 すでに知っていると思いますが、端本は気絶した後、すぐに発見され、救急車で病院に担ぎ込まれ、無事に一命をとりとめました。後遺症もなく、一週間余りで退院し、せいくんへの恨みを口にすることもなく、別の工場で元気に働いているそうです。

 信一さん、及川さん、牛尾さんは、今でも大丸食品の、伊達巻のラインで働いています。相変わらず抜群のチームワークで、特に、正社員になった信一さんの張り切りぶりは凄いとのことです。及川さんが、牛尾さんのパチンコに付き合わされていることだけが心配ですが・・。

 信也くんはすくすくと育って、先月から、ハイハイができるようになったそうです。志保さんと信也くんと、三人で撮った写真を同封します(なぜか、信一さんは一緒に写るのを頑なに嫌がります・・)。

 リンリンは、新潟県の実家に帰って療養しているそうです。もう、辛い思い出のあった大丸食品での知り合いとは口も聞きたくないだろうけど、また良くなって、外に出られる日がくればなぁ・・と、僕は祈っています。

 あれから僕もニュースを観たり、簡単な労働関係の本を読んだりして、せいくんに教えられたことの意味を考えるようにしています。

 世の中の構造は、無知な人を食い物にするようにできていて、何も考えずに働いていると、安いお金でボロボロになるまでこき使われちゃう。これまでニートの暮らしが長かったことを、ずっと気にしていたけど、そういうことも引け目に感じる必要はないんだ、社会と自分とは対等なんだと思って、できる限り、自分の得になるような道を探していこうと思っています。

 もちろん、社会に必要とされるために、自分を磨くことも、忘れちゃいけない。いま、高卒認定の資格を得るために勉強をしているけど、それをやるようになって、せいくんの気持ちがわかりました。

 今より良くなろうって努力しているせいくんに対して、今の環境を幸せだと思い込もうとしてる僕が、対等の友人のように振舞っていたのが、ずっとイヤだったんだよね。

 これまで、家で机に向かうという習慣がなかったから、勉強はとても苦しいです。でも、せいくんはずっとこれを頑張っていたんだと思って、自分も頑張るようにしています。努力って、必ずしも素晴らしいことでもないと思うけど、それでも、頑張るしかないんだよね。

 人生のどこかで、満足しなきゃいけないときは来ると思う。でも、それはもっとずっと、先の話。せいくんみたいに頑張れるかはわからないけど、僕もできる限り、気持ちを強く持って、自分の信じた道を行こうと思います。

 来週か再来週には、面会と差し入れに行きます。せいくんが出てきたら、また、あの河川敷で一緒に、お酒を飲みたいな。楽しみしています。

 てっくんより。

 
「くっ。何がてっくんだよ」

 寺井は苦笑して、折りたたんだ手紙を自分の私物入れに保管すると、頭の後ろに手を回して、冷たいコンクリートの壁にもたれかかった。

「なんというか・・。それでいいのかね」

 あれから、三か月あまりの月日が過ぎた。

 塚田の手紙に書かれていた通り、世間では、殺人未遂の疑いで逮捕された寺井が、警察の取り調べですぐにゲロッた村上の監禁事件の方がメインとして扱われ、寺井の事件は、村上の事件のオマケのように扱われていた。寺井が本来思い描いていた計画とは、ちょうど逆の構図となった形である。

 最後の最後、どうしても他人を巻き込めなくて、土壇場で決意を翻した。だけど、振り上げた拳をただ下ろすこともできなくて、そのときたまたま目の前にいた端本に、すべてをぶつけて終わりにした。

 当初、やろうとしていたことに比べれば、中途半端で消化不良、あまりにもお粗末な結果。だが、どういうわけか、世間は自分の最後の決断を好意的に受け止め、周りが勝手に、自分に同情が行くようなストーリーを作ってくれている。

 最大の争点となったのは、殺意の有無。端本を殴ったのは発作的で計画性はなくとも、そのあと、極寒の冷凍庫内に、気絶した端本を放置したことについては、明確な殺意が認められるのではないか。

 だが、それもどうやら、自分の女をヤラれそうになり、侮辱された怒りに駆られて、冷静な判断が利かなくなっていた、殺意はなかった、ということで、裁判の決着はつきそうである。

 端本をぶん殴って冷凍室を後にしたとき、完全に失ったと思った何も変わらない日々が、どうやらあっさり戻ってきそうな雰囲気になっていた。

「ほんとに、それでいいのかね」

 志保が伊達巻に母乳を振りかけている決定的瞬間を目にした者たちは、誰も真実を口外しようとしなかった。結果的には、寺井のせいで牢屋送りになった村上までもが、寺井を道連れにしようという気を起こすこともなく、寺井の裁判を不利に動かすことのできる事実をひた隠しにしている。

「こいつかぁ。こいつが希望なのかな」

 自分がやらかした取り返しのつかないことを知っている者たち誰もが、秘密を墓場に持っていこうとしているのは、寺井の手の内にある写真の人物――信也のことを思っているからなのだろうか。

 時代の激流に押し流され、落ちぶれて、かろうじて網の目に引っ掛かっている連中。これまでの人生、全然いいことなかったけど、それでも、未来はきっと良くなると信じてる。この子が大きくなるころには、自分たちもきっと良くなってると信じてる。この子には自分たちと同じような辛い思いをさせないよう、少しでもいい世の中にしようと思っている。

 いつかこの子にも、真実と向き合わなくてはいけないときが来る。だけど、それは今ではなく、ずっと先の話。そのときに感じる傷の痛みを、できるだけ小さくしてやりたい。だからみんなで、優しい嘘をついてあげる。

「そんなにいいかね。子供ってやつが」

 自分の作った取り返しのつかないものが、自分が滅茶苦茶にしようとしていた連中に、希望を、光を、勇気を与えている。なんとも不思議な気分である。

 自分を愛せない者は、自分の分身を愛せない。それは今も変わらない。それなのに、何も変わらない日々を終わりにしたくて作り出し、利用しようとしたものは、自分に、何も変わらない日々を取り戻させようとしてくれている。そのことに、自分はどう答えたら良いのだろう。

 もう封印していたはずの本能が、ムズムズと湧き上がってくる。寺井は塚田の手紙をもう一度取り出し、裏に鉛筆で走り書きを始めた。

――あのとき、ボタンを押さなかったことが、自分の人生にとって、本当に正解だったのかはわからない。だが、あのとき自分の指を止めたのが、人として正しい感情だったのはわかる。しかし、正しいということに、どれだけの価値があるのかはわからない。

――あの、人の脂でベトついた「和」の中に入っていかなきゃまともには生きていけないこんな世の中は、どうしても好きになれない。しかし、幾つになっても和の中に入っていけない異物のまま、好き勝手に滅茶苦茶やりたい放題、そんな男が何とか生きていられる、そんな世の中がここにしかないのも、また事実。

――その確認ができた意味で、あの映画を撮り、結果破棄したことは、よかったのかもしれない。

「・・・なわけ、ねえだろ」

 今度は自分自身に苦笑し、書いた文章を消してから、寺井は塚田の手紙と信也の写真を私物入れに仕舞った。

 面会の時間が近づいている。鏡の前に立ち、顔を洗い、手櫛で髪を整え、身だしなみを整えた。

 腰縄をかけられて、担当の刑務官に連れられ、房を出た。階段を下りるとき、小柄でずんぐりした女の刑務官とすれ違った。口笛を吹いて囃してやりたくなるのをぐっと堪え、廊下を先へと進んだ。

 この世の異物にも、希望と勇気の光はある。一緒に歩いてくれる人がいる。

 誰しも通り過ぎる青春の一ページ、すべてが壊れた一人大震災。生きるのが嫌になった、すべてを呪った。レールの上から外れて戻れなくなり、あてどもなく彷徨っていた。

 瓦礫の中でみつけた希望――出会ったあの頃を思い出して、寺井の鼓動は否応なく高鳴った。

 これからも、何も変わらない日々を、一緒に過ごしたいと言ってくれる女がいる。それが、人生すべてを納得できるほど素晴らしいものだとは、自分にはどうしても思えないが、彼女がそれでいいというなら、できるだけそうしようと思う。

「・・おあよう、誠也さん」

 アクリル板越しに、出会ったころと少しも変わらない、一重瞼で、眉の手入れもしていない、ガチャ歯のとてもキュートな笑顔が、寺井を迎えた。

 

 

カミカナ騒動


のぐち


 最後はあの女のことを書いて「徒然なるままに」を締めくくりたいと思います。

 「ハセカラ騒動」は、チンフェくんがなんjに書き込みを始めてから8年、チンフェくんが特定されてから6年も燃え続けていますが、私の「あの女」への恨みも、騒動から6年経ったいま現在も激しく燃え続けています。

 私があの女のことでどうしても許せないことを箇条書きにすると、次のようになります。

 客観的に考えて許せないと思うこと

 ・私が初めてデートに誘うという何も悪いことをしていない段階で、「私が送ったメールを友人と回し読みして笑いものにする」「私がさも異常者であるかのような言い方で、学校の友人にネガキャンを張る」という行為を働いたこと。

 ・にも関わらず、自分が100%の被害者であるかのように装っていたこと。

 ・あまつさえ、私に「反省しろ」などと言ってきやがったこと(普通に取れば、「津島がしつこくしたことを反省しろ」という意味になるが、あいつは私がしつこくする前から舐め腐ったことをしていた。つまり、「(お前のようなキモイ男が、スペシャル美人である)私に恋をしたことを反省しろ」という意味にしか取れない。それはただの差別、選民意識である)。


 
個人的に許せないと思うこと

 ・それでも、本当の美人なら、確かに「そういう競争の激しいところで勝負した自分がアホだっただけだ」と思えるが、神山はウルトラマンのダダ、もしくはちびまる子の野口に似ていた。

 ・個性派を売りにしていながら、もっとも普遍的な価値観である「顔」でしか男を判断しない、個性の欠片もないただのビッチ(もっともタチの悪い、イケメンにしかやらせないビッチ)だった。

 ・病的なまでのええかっこしいで、周囲に自分が顔でしか男を判断しない女だと思われないように、「津島は悪人で性格が悪いからフッたのだ」ということにしようとした(そして、私を散々ボロクソに言って、周囲にネガティブキャンペーンを張ろうとした。そのため私に余計に恨まれた)。


 私も妻を持つ身になりました。女の扱いも昔よりはうまくなりましたし、かつての自分が、どれだけ女性を不快にさせる行動をとっていたかもわかります。

 しかし、それにしても、あの女ほど舐め腐った態度を取ってきた女はいなかった。まったくチャンスを与える気もないくせに、私をあそこまで侮辱してきた女は一人もいなかった。

 神山が私を受け入れることは、難しいことだったのかもしれません。

 しかし、神山が、まだ何も悪いことをしていなかった私を侮辱しないということは、いとも簡単にできることでした。

 「興味のない男がデートに誘ってきたから、そのメールを友人に転送して笑いものにする」

 何年たっても、私は神山のこの行為に、どんな冷静な判断があり、どんな正当性があるのか、まったくもってわかりません。なぜ、このような、自分の娯楽のために男をサンドバッグにしてくれた女が、あそこまで100%、自分が被害者であるかのように装えたのか、その面の皮の厚さが、いまもって理解できません。

 私がしつこくしたのは事実です。しかし、先に神山のこの行為があった以上、私は自分が全面的に悪いとは思えません。

「あそこまで神山にボロクソにされたからには、プライドを取り戻すために、何が何でも自分と付き合ってもらわなくてはならなかった。だから自分は、やむを得ずしつこくしていたのだ」

 このような言い分さえ成り立つと、私は本気でそう考えています。

 最初に失礼な対応を取ってきたのはアイツの方だったくせに、後出しジャンケンのような形で私の非を次々にあげつらい、「いや、すべて津島が悪かったのだ」ということにしようとした。神山単体だけでも、復讐心を抱くに十分だと思っていますが、さらに私の怒りの炎に油を注いだ人間がいます。
 
 金澤という男です。

 もともと私が神山に惚れたのは、私が最初のころ、金澤にバカにされて悔しい思いをしているときに、親しく声をかけてきてくれた、というのが理由でした。私はあのとき、どれほど神山に救われたかわかりませんでした。

 しかし、神山がよりにもよって、その金澤と付き合い始めたことで、私の神山への感謝の気持ちも、すべて恨みに変わってしまいました。神山が私と親しくしてくれたことさえがも、「最初から面白おかしい珍獣みたいに思っていただけじゃないか」という疑いに変わってしまいました。

 やられた人間はいつまでも覚えているものですが、やった人間はすぐ忘れるもの。金澤は神山を落とした時点で、私を侮辱していたことなど、露ほどにも覚えていなかったのでしょう。しかし、それが命取りでした。

 金澤が、神山とエッチしたい欲望を抑えるのは、難しかったのかもしれません。

 しかし、金澤が、私を侮辱したい欲望を抑えるのは、いとも簡単に出来たことでした。


 神山にボロクソに言われてフラれるだけなら、十分に耐えられた。神山が他所で男を作ってくるというなら、まだ耐えられた。しかし、幸せを目の前で見せつけられるのには耐えられなかった。しかも、その相手は、よりにもよって、自分を侮辱していた男だった。

 ここまでコケにされて、すべてをキレイさっぱり水に流せるのは、ナメクジのような感性しかもたない愚鈍者か、それこそ「男の中の男」しかいないはずです。

 なぜ、クラスメイトを馬鹿にするという「女の腐ったような」ことをしてきた男が美味しい思いをしているのに、散々バカにされて悔しい思いをした私の方が、「男の中の男」などにならなくてはいけないのか?嫉妬という感情を捨て去り、辛抱我慢を受け入れて、では、私の幸せはいつ来るというのか?

 神山は私に「反省しろ」と言いました。他人を平気でバカにする男と付き合った女から、「反省しろ」と言われた。その女は、私のことを、常々「あいつは悪人だ」と言っていた。ここから導き出される結論は一つしかないはずです。

「そうか。つまり私はこれから、他人を平気でバカにする金澤以上の極悪人になればいいのか」

 神山の「望み通り」私は、神山と金澤を殺しても何の痛みも感じない「極悪人」になりました。声を大にして言いますが、今の私は「神山の望んだ姿」なのです。神山は私に殺される瞬間、「やめて、殺さないで」ではなく

「私の望んだとおりの津島くんだ。わー素敵」

 と言わなくてはならないということです。

 神山を「ハセカラ騒動」におけるチンフェと位置付けるならば、金澤は唐澤貴洋弁護士。金澤さえいなければ、私の神山への憎しみがここまで大きくなることはなかったはずです。金澤は、自分が好意を持った女を、自らの手で危険に陥れたのです。


 さらに、この話を初めてサイト上で公開したとき、私に、「お前の体験したことなんか大したことねえよ。全部忘れろよ。神山のことも肯定的に受け入れろよ」などと、「説教」をしてきた人がいました。

 せっかくコメントをくれた方を辱めるような形になってしまうのは気が引けますが、「この方の意見に全面的に反論することが私の正しい生き方である」と思えるくらいの貴重な反対意見なので、最後にそれを紹介させてもらいます。


神山みたいな性悪女を一度は好きになって、こっぴどく振られて、そして段々と女を見る目が肥えていくんじゃないでしょうか
10代、20代に多少なりとも恋愛した人間なら割と誰もが皆が通る道な気がします。そこで初めて、自分と他人は違うんだという現実をハッキリつきつけられるのではないかな
神山がその後、何だかんだでイケメンと付き合ったのもそれは性悪女なりの努力だと思いますし、否定する事ではないと私は思います
最近否定的なコメントばかりで申し訳ないですが、津島さんが傷つけられたのを抜きにしても少し(自分に関わった)他人の生き方に対して厳しすぎる気がします
神山と付き合わなかったから今の彼女と会えた。あー良かったな。と考えるわけにはいかないのでしょうか?
私も履歴書で言ったらボロボロな人生ですが、人間万事塞翁が馬で考えてますので。
ただ、この物語には直接関係ありませんが津島さんの貧困に対する考え方は非常に共感できます。



 この意見を、私に対する「説教」と捉えたときに、まず、全体的に問題なのは、この方の意見が、あまりにも頭ごなしに私の考えを否定していることです。

 間違った(と、彼が勝手に思っている)道に進もうとしている相手を説得しようとするとき、相手の考えを頭ごなしに否定するのは、返って逆効果になるというのは常識です。人は自分が正しいと思っていることを全否定されると、かえって頑なになってしまう生き物だからです。

 この方の場合、最後に「貧困に対する考えにはすごく共感できます」と言ってフォローしているつもりのようですが、だったらなぜ、それを書いている記事にもっとコメントをくれないのか。「肯定的なコメントが書けると思ったときには敢えて書かず、批判があるときだけ現れる」というスタンスの方の意見に、なぜ私が「はいそうですか」と頷くと思ったのか。人間心理の基本の問題です。

 これを読んだだけで、この方に私を思いやる気持ちなど欠片もなく、まして神山の身を心配しているのでもなく、「ただ単に自分の独りよがりな正義をぶつけて、自分が気持ちよくなりたいだけ」という意図が丸わかりです。

 もしかしたら、この方が初めて降臨したときのように、私を複数の読者で袋叩きにする流れに持ち込めると思ったのかもしれませんが、残念ながら、この方の思った通りにはなりませんでした。

 もう一つ問題なのは、この方の意見が、完全に「守りに入った人間」の論理になっているということです。

 この方の言っていることは、確かに的を射ている部分もあり、ある種の正論ではあります。しかし、正論などは、立場によって簡単に変わるものです。

 私が50歳の正社員で、管理職に出世してそれなりの退職金も期待でき、老後も安泰・・というのであれば、この方の言う通りにするのが正しいのでしょう。しかし、私は30歳の派遣社員であり、まだ世の中で何も成し遂げていない人間です。

 そういう人間にとっての正論とは?

 受けた恨みを絶対に忘れず、屈辱をバネにして頑張り続けることであると、私は考えています。彼は私に、「塞翁が馬」などといって、神山の件を納得させようとしましたが、私は逆に、彼に「臥薪嘗胆」という言葉を送ろうと思います。

この経験から学んだらいいんじゃないかと言っている部分については、他人事だから冷静に見られているだけの話しです。キャバ嬢に六億騙し取られたというような、私よりも遥かに悲惨な思いをした人にも、言おうと思えば言えることです。そんなに簡単に割り切れれば、世の中誰も苦労しません。

 初期からいる読者さんならわかる方もいるでしょうが、この説教をされた方は何かにつけ私に批判的で、それも、作品を作品として正当に批評するのではなく、作者である私の人格を批判し、なおかつ自分の「聖人君子」的な生き様を押し付けてくるというのが特徴的な方でした。

 人に嫉妬をしない、妻と友人、職場の人間関係を誰より大切にする、すべて自分のせいだと謙虚に受け止められる心を持ち、愚痴をこぼさない。大変結構なことだと思います。しかし、それを人にマウントを取る材料に使ってしまったら、偽善になってしまいます。本当の聖人君子は、そういうことはしません。

 私は今は読んでもいないのであろうこの方の一連の書き込みを思い出すたび、「非才、無才はせめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」という有名な言葉を思い出して、なんとも沈鬱な気持ちになってしまいます。
 
 あんたの人生、本当にそれでいいのかと思うのですが、それを本人の前で言ったりはしません。私は他人の人生にアヤを付けられるほど立派な人間ではありませんし、それをすれば、相手からの激しい反発を食らうことが分かり切っているからです。

 最後に、「彼女ができた。あーよかったな」という結論ですが、彼女ができるなどということは、誰の人生にも訪れる当たり前のことです。それで自分のトラウマのすべてを納得しろ、愚痴を吐くのは許さん、神山の存在も肯定しろ、などというのは、それこそ本人のおっしゃられる「他人の人生に厳しすぎ」です。

 それに、私と彼女を結び付けたわけでもない人から、彼女がどうのこうのと言われるのは大変不快です。なぜ、神山への憎しみを消すことが、彼女を幸せにすることだと決めつけられるのか?

 また、そもそも「神山にフラれたことを納得する」のと、「神山から人権を侵害するような侮辱を受けたことを納得する」のは、まったく別の問題です。そこを混同されては困ります。

 説教をする人の意見は、そのほとんどが「ブーメラン」になっているというのは常識ですが、この方の説教も、「他人の人生に厳しすぎる」「人間関係を大切にしていない(別のコメントで言っていた)」という部分が、見事にブーメランになって自分に突き刺さっています。

 そんなに人間関係を大切にしているというなら、なぜ私との関係を大切にせず、説教をしたきりいなくなってしまうのか?自分ができもしないことを人に押し付ける、それが「説教厨」という人種です。

 大体において、正しいか正しくないか、ということは、私にとって、大きな意味を持ちません。絶対にありえないことですが、仮に今後、「神山が100%正しいのであり津島がすべて間違っている」という完璧な論理を展開される人が現れたとしても、私の神山への憎しみが消えることはありません。

 私が神山への憎しみを消し去る方法はただ一つ、「自分が神山より幸せな人生を送っている」という実感を得ることだけです。いま、私はそれだけを目標にして生きています。

 神山との一件は、紛れもなく私の人生の最大のターニングポイントになりましたが、神山だけがすべて悪いとは思っていません。神山と出会う前にも後にも、様々なことがありました。

 不幸もありましたが、自分からチャンスを逃したこともありました。怠けてしまった部分もありました。「説教厨」のような偽善ではなく、本当に私を思ってくれた人を傷つけてしまったこともありました。

 すべてひっくるめて、自分の無様な人生にケリをつけるために、いまも足掻き続けています。

 そのために利用できるものは何でも利用します。神山への恨みもその一つです。

 受けた恨みを決して忘れず、屈辱をバネに頑張り続ける。目標を叶えるために、いまの神山に対する、「自分から殺しに行くほどではないが、もし目の前にいたらすぐにレイプして殺す」という憎しみのレベルをどれだけキープできるかが、ひとつの課題となっています。

 恨みの炎が少しでも弱くなれば、私は生きる目標を失い、自殺するしかなるでしょう。恨みの炎が少しでも強くなれば、私は死刑になってしまうでしょう。夢の扉をこじ開け、次のステージに進めるまで、私はこの危うい状態を保ち続けなくてはなりません。

 このままどこまでいけるか、自分にもわかりませんが、とにかくやるしかありません。

陰キャのヒーロー 4

 13日の金曜日 ジェイソン・ボーヒーズjyeisonn.png


 生来の顔面障害の持ち主で、リア充のガキどもの悪戯で湖に沈められた(引率役のリア充大学生はセックスに耽っていて気付かなかった)とみられていたが、実は森の中に作られた掘っ立て小屋で成長していた少年が、キャンプ場を訪れたリア充たちをナタでぶっ殺しまくるという単純にして痛快なストーリー。

 アメリカという国は日本以上のコミュ力至上主義で、他人にマウントを取った者の勝ちという社会であり、学校や職場で不満を溜め込んだ層が何を望んでいるかがよくわかる映画です。

 私の一番のお気に入りはジェイソンVSフレディ。自分のトラウマを思い出して覚醒し、これまで散々いいように利用してくれたフレディをぼっこぼこにぶちのめすシーンは気分爽快。


 ポケットモンスター・D・P・PT アカギ


akagi.png


 初期にはよくポケモンの記事を書いていましたが、私はいまだにポケモンが趣味で、暇を見つけては育成、厳選、対戦に励んでいます。

 腕前のほどは「ダブルレートで常時1800前後を維持、200戦潜れば一回は1900に掠る」程度です。別に大したことはありません。最近のお気に入りはひでりコータスとテッカグヤ、ヤレユータン。

 今回、陰キャ特集ということで取り上げたいのは、第四世代の悪の組織、ギンガ団のリーダー、アカギ。こんな見た目ですがまだ二十七歳。

 ギラティナの待ち構える破れた世界で交わされた、「それほど世界を憎むのなら、自分一人、誰もいないところで暮らせばいいじゃない」というシンオウチャンピオン・シロナの言葉に対する「なぜ私が、この世界から逃げるように、息をひそめて生きるのだ?」という返しが大好き。私はすべての陰キャがこの気構えを持つべきではないかと思っています。

 アカギの良さを引き立てるのが、すべてが終わった後に訪れるアカギの出身地、ナギサシティの雰囲気とアカギの性格とのギャップ。海のあるにぎやかな街で、友達に恵まれず、孤独に過ごしていた一人の少年がいたという老人の話に、しんみりとさせられるものがある。

 争いのない世界を作るため、世界を一度消滅させるというぶっ飛んだ理想を掲げ、あれだけの大組織を動かした男が歪んだ理由が、実は子供時代の孤独にあった・・・。この、見せる順番が非常に良かったと思います。もし、アカギの歪んだ原因が先に判明し、シロナやハンサムあたりが説教をかます展開だったらドッチラケになっていた。

 最新作のウルトラサンムーンでは、歴代悪の組織が一つになったレインボーロケット団が登場しますが、その部屋割りが似たような理想を掲げる組織ごとになっていたのは面白かった(環境保護、マツブサ+アオギリ 自分なりの正義、アカギ+フラダリ 私利私欲、ゲーチス、サカキ)。

 来年サイトを続けられたとしてもここで紹介する機会は少ないでしょうが、ポケモンは今後も続けていきたいと思うので、ゲーフリさんにはもう少し環境調整を頑張ってもらいたいです(持て余しているのが明らかなメガシンカの扱いをはっきりさせる、ランドクレセは弱体化できないならいっそ出禁にする、追加進化もないまま放置されている初期の低種族値組のテコ入れなど・・・)。


 タクシードライバー トラヴィス


トラヴィス


 クライムサスペンスの金字塔。

 1976年という年には、陰キャがアメリカン・ドリームを掴み世間に認められる「ロッキー」も公開され大ヒットしますが、その裏で、ロッキーとは正反対にまったく救われない陰キャの映画がつくられていた。

 いまから40年も昔の映画ですが、これを観ると、陰キャの行動様式というのは今も昔も変わらないんだなぁと感心させられます。

・ボロアパートにジャンクフード、みすぼらしい服装
・初デートで女性にポルノ映画を見せるという大失態を働きながら、フラれた相手を逆恨みして職場に怒鳴りこむ
・どうせ誰にも期待されていない負け組なんだから好きに生きろ、気楽になれという先輩の言葉に頷けず、自己顕示欲を持て余し、生まれたからにはでかいことをやりたいと空想する。
・「俺に難しいことはわかりません」と前置きしながら、言っていることは妙に的を射ており、政治家も困惑する。
・コンプレックスの塊のくせに誰より自分を愛するナルシストで、鏡の前に立つのが大好き。
・マウントを取れる未成年の売春婦には説教を始める。
・髪型を変えて気合を入れようとするがその髪型が致命的にセンスがない。
・最初は大きなことをしようと思って政治家暗殺を試みるが、バレたと思った瞬間にあっさり逃亡するヘタレ
・結局、最後は同じゴミ溜めの住人である売春の元締めを殺して人生にケリ

 トラヴィスの行動をみれば、あまりに自分の特徴を的確に捉えられているのを感じ、すべての陰キャは感動を通り越して笑いを堪えられなくなるはずです。

 主演を務めるのは希代の名優ロバート・デニーロ。役を変えるたびに体型も変え、役に徹底的になり切るということで有名なデニーロですが、この映画でも、デニーロは街の片隅で燻る陰キャの特徴を完全に押さえています。

 私が何より驚くのはあの目。序盤の死んだ魚のような目や、後半の、妄想に取りつかれ、根拠のない自信に満ち溢れてランランと光る目はまさに陰キャ特有のもの。

 体型を変える云々は、ハリウッドというチャンスの大きさとギャラの高さを考えればそこまで驚くことではないと思います。行動だけなら、芝居という分野に長年携わった人間なら、本来の自分とまったく違う人格でも再現できるはずです。

 しかし、「目」まであそこまで真似られるものか・・?

 まさに、芝居をするために生まれてきた男、それがロバート・デニーロという男です。

 世に陰キャは数多かれど、中でもトラヴィスこそ陰キャの中の陰キャ、キングオブ陰キャ、陰キャの代名詞。創作で陰キャを描こうとする者がまず参考にすべきは「タクシードライバー」であり、トラヴィスであるといえるでしょう。


 四回に渡って陰キャ特集をお送りしましたが、サイト開設当初はともかく、今現在の私が陰キャと呼べるかどうかは、微妙なところです。仕事は相変わらず低賃金の派遣労働ですが、妻はおり、プライベートで遊ぶ友人もいます。客観的冷静に、普段の私を見て、陰キャという印象を持つ人は、おそらくいないと思います。

 しかし、心はいつまでも陰キャ。私の魂はいまだに、生きることすべてに絶望を感じ、部屋の中に引きこもっていたあの頃にあります。

 自分の中のものをすべて解き放ち、私も彼らのような陰キャのヒーローを生み出したいものです。
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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