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外道記 改 22










                         
                          22


 昼過ぎになって東山のマンションに到着したときには、東山宅の周りに集まる群衆は五十人ほどにまでその数を増し、警官まで訪れる騒ぎとなっていた。平和な田舎の住宅街では、類を見ない大パニックである。

「凄い人だかりですね・・・これみんな、東山を見に集まったんですか?」

「ああ。なんたってスーパースターだからな、あいつは」

 アパートの駐車場に群がる人々をかき分け、俺は唐津を連れて、東山の部屋の前へと近づいていった。

「あ、アニキ!ひてくれたんふね」

 俺と唐津が到着するまでの間に、また二、三発、東山に殴られたらしい桑原の顔は、ボコボコのイボイノシシのように変形していた。それこそ東山の方が、自分を刺激する者すべてに襲い掛かる、野生のイノシシ同然になっているようである。

「おう。東山はどうしてるんだよ」

「正直、よくわからないです。部屋の中と外を行ったりきたり、突然出てきて、五分くらい何か喋ったと思ったら、またすぐ部屋の中にひっこんじゃったり・・・」

 詳しい事情はわからないが、とにかく相当、情緒不安定になっているようである。迂闊に中に入るのは危険のようだ。

「あんたたち、ここの旦那さんの知り合い?」

 東山宅の「ガードマン」桑原と話していた俺に、一番近くでも、ここから歩いて四十分はかかる交番から駆けつけてきたらしい制服警官二名が、かったるそうに近づいてきた。

「ええ。職場の同僚です」

 探られて痛い腹が山ほどある俺は、反射的に手足が震えそうになるのをグッと堪えた。変にビビったところを見せれば怪しまれる。こういうときは、毅然として応対していれば、なにも問題なく切り抜けられるものである。

「通報を受けて来てみたはいんだけどさ、殴り合いが起きてるわけでもないし、ただ集まってるだけだから、あんまり強く注意もできないんだよね・・。もしよかったらさ、この騒ぎを何とか収めてくれるように、旦那さんを説得してもらえないかな。俺らも困ってるんだよ」

 実際には、東山に殴られてしまった人間もいるわけだが、身内ということでお咎めなしになったらしい。これが東京なら、挑発して公務執行妨害で無理やりにでもパクるところだろうが、ここは事件といえば、認知症の老人が散歩に行ったきり帰ってこないとか、どざえもんになって上がったとかいったくらいの、平和な田舎町である。すっかりぬるま湯体質につかった交番勤務の警察官には、やる気のかけらも見えなかった。

「まあ、何とかしてみます」

「ほんと?じゃあ、よろしく頼むよ」

 警察官は、俺がトラブルの解決を約束すると、これ幸いとばかりにあっさりと帰ってしまった。東京の人間には信じられないだろうが、平和ボケしきった田舎町の交番勤務の警察官では、これが通常運転である。

 仮にも警察官に約束してしまった以上、何もしないわけにはいかない。とはいえ、猛獣同然の東山にすぐに会うのは危険である。俺はまず、桑原を東山の部屋にやって、東山に今後どうするつもりなのか、俺たちを呼んでどうしたいのかを聞きに行かせた。

「蔵田さん、なんか話聞いてると、東山とは前々から親しいみたいですが・・・。どういうことなんですか?東山とは、いったいどういう関係なんですか?」  

 唐津の疑問は当然だが、俺は彼の問いには答えなかった。というより、答えられない。あらゆる要素、あらゆる感情が複雑に絡み合った俺と東山との関係など、何も知らない人間に簡単に説明できるものではないし、これから東山のやろうとしていることは、俺にはわからない。すべては、東山の部屋のドアが開けば明らかになるのである。

「ほびあえぶ、入ってこい・・・・ばほうべふ」

 また、東山に一発殴られたらしい桑原が、真っ赤に腫れて、瘤取り爺さんのようになった頬を押さえながら、俺たちに東山の言葉を伝えた。あの男、いちいち殴りながらでないと、伝言一つ頼めないのか。桑原も災難であるが、これから東山の部屋に踏み込もうとしている俺たちも不安である。 
           
 東山の部屋は、以前、女房の遺体を片付けたときに比べて、大分荒れ果てているようだった。気分転換に風呂ぐらいは入っているようだが、掃除や洗濯はされず、ゴミが層になっている純玲の部屋ほどではないが、衣類や空の弁当などが散乱し、「陸地」がほとんど消えかかっている。仕事も休んで一日中家にいる間、中古ゲーム屋で、俺たちが十代のころに流行ったゲームを買って遊んでいたようだが、うまくクリアできなくて余計にイライラしてしまったのか、何枚かのディスクが割られていた。

「蔵田さん・・・これはどういう・・・一体、これから、何が始まるんですか?」

「知らねえよ。東山に会ったら、本人に聞いてみろ」

 唐津が逃げないように、最後尾を歩きながら、東山の待つリビングへと進んでいったが、東山の姿は、部屋の中には見えなかった。東山がいたのは、ベランダ――桑原の言っていたように、東山は集まった群衆を相手に、演説を始めていたのである。

「東山先輩・・・二人を、ふれてひまひた・・・」

 桑原が、窓の外に向かって声をかけたが、東山は一瞬、こちらを振り向いただけで、すぐに視線を群衆の方に戻し、何事かを叫び始めた。

「おっおっ・・・・・お前らが、理解していないようだから、もう一度、最初から話すっ・・・・おっおっ俺はぁっ!!小さいころから、曲がったことが大嫌いだったっ・・・!この世から、悪をなくすために、様々な活動を展開してきたっ!小学校のころから、学校防衛軍を作って、悪いことをしたヤツを怒ったり、先生に報告したりしていたっ!中学に入ると、君を守り隊というイジメ撲滅の組織を作って、イジメられている子を守ったり、イジメをしているヤツを懲らしめたりしていたっ!」

 東山が喋っている間、いつの間にか、ベランダの窓の近くにいた桑原が移動して、リビング入り口のドアの前に陣取っていた。東山に言われたのか、もしくは自己判断で、俺たちが逃げないように、障壁となったのだろう。これで俺たちは、袋のネズミになったわけである。

 俺のポケットの中には、護身用に持ってきたスタンガンが入っている。東山相手にはおもちゃ同然でも、東山に殴られてダメージを受けている桑原なら、不意打ちを食らわせれば倒せるかもしれない。

 逃げるなら今だが、今は同時に、唐津を仕留める最大のチャンスでもある。こんなところで逃げたら、俺は一体何のために、わざわざ危険を冒してここに来たのだという話になってしまう。

 東山の家を出るのは、唐津の死亡を確認してからだ。自らの命惜しさに逃げを打ち、みすみす世間にケジメをつける絶好の機会を逃してこれから生きても、それは俺にとって、死んでいるのと同じこと。この先四十、五十年、死んだように生きるよりは、ここで潔く散った方がマシではないか。俺は自らを奮い立たせた。

「東山は、いったい何を言っているんですか・・?どうして、僕たちを中に入れたんですか・・・?」
 逃げ道を塞がれたことで、唐津の表情が、完全に不安一色で塗りつぶされたようだった。尻を浮かせたり着けたり、落ち着きがなく、露骨に動揺しているのが見て取れる。唐津にしてみれば、これから希望に満ち溢れたサクセスストーリーを歩みだす前に、最後の後始末に訪れたというぐらいの気持ちであり、こんな大騒動に巻き込まれること、ましてや、自分の身が危険に晒されることなど、まったく想定していなかったのだろう。

 常に自分の都合しか考えずに生きているから、そういうことになる。自分が踏みつけてきた人間にも人生があったことを想像できる頭があれば、こういう事態だって、事前に察知できたはずである。あるいは、莉乃と身体を結合させすぎたせいで、脳内お花畑がうつってしまったか。

 可憐な花ばかりに目を取られていた唐津は、最後に自分が踏みつけていた雑草に足を取られ、地蔵山で莉乃が味わったのと同等以上の恐怖を味わうことになるのである。

「その俺の前に、一人の敵が立ちはだかった!そいつは、最初、特別学級の生徒をイジメていた!俺はそいつを懲らしめた!そうしたら、そいつは、全学年に呼び掛けて、俺を潰そうとしてきたんだ!その男が、こいつだ!」

 言い終わると、東山はリビングにやってきて、床に腰かけていた俺の手を掴み、ベランダまで引っ張っていった。さっきよりさらに人数が増えて、七十人あまりにもなった群衆たちが、一斉に携帯カメラを向けてくるのを見て、思わず苦笑してしまった。

「こいつに追い詰められた俺は、精神を病んじまって・・・・そ・・・・お前らも知っての通り・・・・許されないことを・・・やってしまった・・・・」

 眉間にしわを寄せた鎮痛な面持ちで下を向き、唇を舐める東山。内心はどうあれ、とりあえず反省した態度を、自宅の前に集まった群衆と、カメラの向こうにいる何万人というネットユーザーに対して示すことはできたようだ。

 こうして自分の好感度を上げたうえで、自分のこれまでの悪行は、すべて中学時代に出会った、この蔵田が元凶なのであり、蔵田がすべて悪いのだという結論に持っていこうとしているのか?それで世間が納得すると思っているのか?俺は群衆とともに、いまだ渋い顔をしたままの東山が、口を開くのを待った。

「だっだがっ・・・俺が言いたいのは・・・俺はけして、イジメられていたわけじゃないってことだ・・・。俺は、コイツと、壮絶な戦いを繰り広げていたんだ・・・俺は、被害者ではない・・・それだけは、お前らに、言っておく・・・・」

 被害者という立場に堕ちた瞬間、東山が何より大切にする、雄々しさ、戦士としての誇りは崩壊する。東山が俺をここに呼んだのは、すべてを俺のせいにするためではなかったのだ。

 まさか、このお披露目のためだけに呼びつけられたわけでもないだろうが、ひとまずお役御免となったらしい俺は、東山に片手で部屋の中に放り込まれた。東山のやりたいことはまだよくわからないが、しばらくは、部屋で大人しく座りながら、様子を見守るしかなさそうである。

「蔵田さん、東山と中学校の同級生だったんですか?いったい、何がどうなってるんですか?」

「うるへえ!黙って、東山先輩の言うことをひいとけ!」

 桑原の一喝を受けて、質問も封じられてしまった唐津が、莉乃が愛した端正な顔立ちをしかめて俯いてしまった。かつての労働組合委員長の肩書きも台無しであるが、彼を惨めな臆病者と罵ることはできない。比喩ではなく、今、俺たちは猛獣の檻の中にいるのである。大勢の味方の後ろ盾がある朝礼の場とはわけが違う。労働組合の一員としてともに戦った俺さえもが、味方であるのかどうか疑わしいという状況。本物の修羅場を味わった経験のない唐津が、平静でいられるはずもなかった。

 人のことは言えない。親を精神崩壊に追い込み、二年間連れ添った女を事実上殺害するという修羅場を経験した俺とて、東山に首根っこを掴まれて、ベランダに連れて行かれたときには、心臓が止まりそうになった。修羅場といっても、俺は自分が絶対優位な状況下で、俺よりも力の弱い人間を痛めつけたというだけの話であって、自らの命を危険に晒すのは、これが初めての経験である。 下手をすれば、唐津への復讐も、純玲との未来も、何もかもすべてパーになるかもしれない。リスクを覚悟で、俺は今ここにいる。リスクが高いからこそ、俺がここにいる価値がある。

 今までずっと、俺は自分のことを、世界で一番可愛そうな人間だと思っていた。二十四時間三百六十五日、常に感じている被害者意識が、俺が他人を酷い目に遭わせていい正当化になっていた。

 だが、純玲と出会ったことで、俺は自分にも、人並みの幸せが許されていたことがわかった。不幸でなくなったのは良かったことだが、皮肉なのは、これまで散々、他人を酷い目に遭わせてきた罪悪感を帳消しにするための、新しい正当化の理由を探さなければなくなってしまったことだった。
 
 頭を捻り、模索し、そして行きついた正当化こそが、自らの命を危険に晒すこと――。自分が命を粗末にしているのだから、他人の命を奪ってもいいという理屈であった。今さらお天道様に恥じることなく生きるというのは無理でも、せめて自分自身に遠慮せず生きるために、俺はこの場に留まり、これから起こることすべてを見届けなくてはならないのである。

「それから、俺は、少年院に入った・・・。少年院では、出所したら一緒に犯罪集団を結成しようとか話し合うクズどもを後目に、カリキュラムに真剣に取り組み、自分の犯した過ちを心から反省する日々を送った・・・・。身体が急成長し、一年で二十センチも身長が伸びた・・・少年院でもイジメヤローはいたが、強さを手に入れた俺は、そいつらを全員ぶちのめした・・・」

 桑原が、戦地で天皇からの激励を受けたかのように、涙を流し始めた。いくら理不尽に殴られても、けして忠誠心を失わない、異常な信仰心の強さ――彼らと同じ環境に置かれたことがなく、彼らが味わってきた地獄の過酷さもわからない他人が、簡単に立ち入れる世界ではなかった。

「やがて、出所のときが来た・・・俺は運送会社に就職し、給料が低いとか、休みがないとか文句を抜かす輩を後目に、夜も昼もなく働いた・・・。被害者遺族への送金も、欠かさず行った・・・・俺は一生懸命に仕事を覚え・・・二十五で重役となり・・・・その会社がつぶれてから・・・もっと大きな、今の会社に就職できた・・・そして・・・・・今に、至っている・・・・」

 ここまでの東山の話の内容は、俺と再会したあの晩、車の中で聞いた話と大差はない。一つだけ違っているのは、結婚し子供が生まれた下りに、まったく触れていないところである。女房の話をすれば、その女房が今、なぜ姿を消しているかという質問が、群衆の中から出てきてしまうかもしれない。どうやら東山は、少なくとも今の段階ではまだ、自分が再び殺人者となった事実は明かしたくはないようである。

「そして・・・・今の会社に入ってからも、仕事に打ち込んだ俺は・・・すぐに出世をし・・・・倉庫の責任者となった・・・・これまで、順調に階段を上っていたが・・・・一人の男が、俺の前に立ちはだかった・・・・」

 東山は、またリビングに戻ってきて、今度は唐津の手を引っ張って、ベランダまで連れていった。先ほどの俺と同様の、「お披露目」が目的に違いなかった。

「この男は・・・・俺が仕事で厳し過ぎるといって・・・・労働組合を作って・・・俺に反抗してきた・・・・。俺が弱いヤツをイジメる悪者だと言ってきた・・・;だが、違う・・・俺に、そんなつもりはなかった・・・俺はただ、こいつらにも、働く喜びを知ってもらいたかっただけなんだ・・・結果的には、誤解されてしまったようだが・・・俺は、イジメなどはしていなかった・・・・」

 東山が目を離した隙に、俺はスマートフォンを取り出して、匿名掲示板を開いた。東山の渾身の演説が、ネットを通じて、世間にどう捉えられているのかを知りたくなったのである。

「アニキ。だめです。それは仕舞ってください」

「違うよ。通報とかじゃなくて、世間の反応が見てみたくてよ」

 すかさず注意してきた桑原に、俺が苦笑しながら言うと、桑原は自分のスマートフォンを起動して、匿名掲示板のページを開き、俺に見せてくれた。

 掲示板の書き込みの大半は、ほとんど意味もないような、東山に対する煽りコメントだけであったが、中には目を引くものも。

――俺、コイツらのこと知ってるわ。中学で一緒だった。東山だけじゃなく、さっきチラっと映ったヤツのことも知ってる。

 すぐに、中学時代、ともに学んだ何人かの顔が思い浮かぶが、特定するには至らない。インターネットの掲示板に書き込みをするのは特別な人間でもなく、弱い人間、やらかした人間を叩いて日ごろの鬱憤を晴らそうとするのも、特別な人間がやることではない。「生存競争」で、俺の手駒として参加していた連中の一人かもしれないし、積極的には関与していなかった連中の一人かもしれない。こちらから特定するのは、まったく不可能である。どこの誰かもわからない奴らが、俺や東山のことを、これから数万のネットユーザーに語ろうとしている。

 レスの主は、他のユーザーからの質問を受けて、まさに俺と過去に何らかの関わりがあり、俺の実家の近所に住んでいた者しか知りえない情報を、スレッド内に書き込んでいった。

 蔵○重○ 三十二歳。 身長 当時百六十センチくらい。体重 当時五十五キロくらい。成績 下の中。帰宅部。東山イジメの中心人物で、東山をイジメているときだけは人気があったが、元々良い印象がないヤツで、同窓会には呼ばれたことがない。私立の底辺高に一般入試で合格。その後引きこもりになって、二十五歳くらいのとき、公園で遊んでいた少女にイタズラをした容疑で逮捕された。その一年後くらいに、実家は売りに出されて、今は別の家族が住んでいる。

 名誉とはいえない俺の過去の経歴が、どこの誰かもわからないヤツの手によってネット上に流出し、どこの誰かもわからない連中の罵倒、蔑みの的となっている――が、不思議と、そう悪い気はしなかった。逆に、なにか清々したような、爽快な心地さえする。

 後ろめたいと思っているからストレスになる。変に隠そうと思うから疲れてしまう。なにもかもさらけ出してしまえば、すべての悩み、煩いの種は消えてなくなる。割り切るまでが大変だが、一度割り切ってしまえば、逆にこれ以外の結果は考えられないと思えるほど、気持ちは楽になる。

 これからクソみたいな自分の人生にケジメをつけ、長年憎み続けてきた世間と和解し、新しい一歩を踏み出そうとしている俺にとっては、これでよかったのだ。擬態もしない、善人の皮も被らない、ありのままの俺を、世間の側に受け入れさせる。俺が世間に合わせるのではなく、ありのままの俺という人間を、世間の側に受け入れさせる。もし、それで世間の側が俺を拒絶し、生きさせようとしないのならば、俺も東山と同じように、「ラストダンス」を踊って、人生に終止符を打てばいいだけだ。
 
――東山をイジメてたやつが、なんで今、東山と一緒にいるんだ?おかしくないか?

 スレッド内では、当然の疑問が飛び交っている。すべてさらけ出すのが心地よいというのなら、今すぐ書き込みをして、東山から金を強請っていたのだと答えてやるべきなのだろうが、さすがにそれは思いとどまった。桑原の目があるからというわけではなく、刑事事件として立件されたら、厄介なことになるからである。

 いくらありのままの俺を世間に知ってほしいといっても、そのせいでムショ送りとなり、純玲との未来が消えてしまってはどうしようもない。当然ながら、ゆかりのことも話すことはできない。露出狂がVラインぎりぎりまで見せても、全裸にはならないように、俺もいくらさらけ出すのが爽快といっても、シャバに留まれるかどうかというところでは、きっちり自制心が働くようである。

「蔵田さん、なんなんですかあの人。完全にヤバいですよ」

 唐津もひとまずお役御免となったのか、東山から一時解放されて、リビングへと戻ってきた。匿名掲示板の方に夢中で、東山の演説がしばらく耳に入っていなかったが、彼が一生懸命喋っているにも関わらず、群集に共感するようなリアクションは見られないことは、匿名掲示板の「実況」によってわかっていた。東山が期待していたであろう、「糾弾集会」のときのようにはいかなかったのである。

「ヤバい?何がヤバいんだよ?」

 桑原が、べランダの東山を指さす唐津を怒鳴りつけようとしたのを制して、俺が唐津に問いかけた。

「言ってみろよ。アイツのどこがヤバいんだよ」

 俺の雰囲気がおかしい――どうやら、完全に東山の味方をしているようであることを察して、唐津が目を泳がせた。

「いや、その、いや・・・・・」

「アイツはヤバくて、俺はヤバくないの?お前、最初は俺のことヤバいと思ってたんじゃないの?莉乃と一緒に、俺のこと、あの職場から追い出そうとしてたんじゃないの?純玲のことも!」

「い、いや・・・・。く、蔵田さんは、いい人だと思ってました・・・」

 まだ、状況をハッキリとは掴めていないが、唯一、俺が自分の味方ではないという、紛れもない事実には気づいたらしい唐津が、部屋の隅のほうに後じさりながら呟いた。

「思ってました?過去形?なに?じゃあ、俺はやっぱり、悪い人だったってこと?東山のことを嫌いじゃなかったら悪い人なの?お前のことを嫌いだったら悪い人なの?何その基準?」

 俺は後じさっていく唐津に対し、じりじりと歩を詰めていった。俺に追い詰められていく唐津が衣装ダンスにぶつかった表紙に、タンスの天板に乗っていた、東山と、今は亡き夫人、夫人の実家に預けられている愛娘の美香里の三人が一緒に写った写真が床に落下した。今まで何の躊躇いもなく追い込んでいた相手にも、彼の帰りを待つ家族がいた――。自分が踏みつけていた人間にも、人生があった――紛れもない現実を突きつけられた唐津の胸中に、少しは波風が起こっただろうか。それとも、目の前で、自分に敵意をむき出しにしている男への恐怖で一杯で、東山のことを考えている余裕はなくなっているだろうか。

「俺はてめえのことを友達だと思ったことは一度もねえし、てめえにいい人なんて思われたって嬉しくもなんともねえ」

 唐津を壁際まで追い詰めた俺は、怯えて蹲る唐津の頭に、ツバを吐きかけた。

「てめえにとって都合がいいからいい人か。莉乃を掻っ攫っていっても、文句の一つも言わねえからいい人か。なめんのもいい加減にしやがれ」

 誰の言いなりにもならないという決意。誰のオモチャにもならないという決意。俺の本性が世間に知れ渡り、逃げも隠れもできなくなったことで、何か俺の中に、芯が一本通った気がする。

 唐津本人は、俺を都合よく利用しているのではなく、本当の友人だと思って信頼しているつもりなのであろうが、だからこそ腹が立つのである。

 いまはともかく、昔の唐津は、俺のことを、みじめな振られ男だと見下していた。俺はあの屈辱の日々を忘れたわけではないし、胸の中には、けして消えないしこりが残っている。それを心から謝罪されるわけでもなく、何となく「無かったこと」にされたまま、本当の友人になどなれるわけがない。唐津はなれるというかもしれないが、俺の頭には、そんなに過去のことを都合よく忘れられる機能は存在しないのである。

 莉乃のことだってそうだ。俺が莉乃を取られた件で唐津を許すとすれば、唐津が莉乃のことは妥協だった、遊びだったと白状し、もっといい条件の女に乗り換えたときだけである。もちろん、それを莉乃の前で公言できるはずもないが、俺の前では、莉乃はただの「繋ぎ」であるということにしておくべきだった。

 俺が何よりも憎むのは、キレイごとだ。何もかもすべてをキレイごとで片づけて、「臭い物に蓋をして、誰も救えない暗闇の底で喘ぐ人間の声に耳を傾けようともしない世間が、憎くて仕方がない。とりあえずキレイごとを言っていればなんでも解決できると思い込み、キレイごとには誰も反論できないと過信している、キレイごと万能主義の世間を憎む俺にとっては、唐津が莉乃を心から愛しているとか、人を外見で判断するのはやめたのだとか、キレイごとをのたまう方が腹が立つ。あの谷口たちの寮を訪れた夜、二人きりのときに、唐津が俺に、莉乃を「好きである」と打ち明けてきた時点で、俺は唐津への殺意を決定的にしたのである。

「ちが、そんなんじゃ・・・・。僕は蔵田さんと一緒に、この社会の矛盾に立ち向かっていきたかった。一緒に海南アスピレーションの正社員となって、どんな困難にも立ち向かっていきたかった。蔵田さんのこと、友達だと思っていた・・・本当ですよ」

「社会の矛盾?むじゅん・・・????てめえがそれを言うか?てめえの口から、矛盾なんて言葉が出るのか?それだったらよぉ、最初莉乃をバカにしてやがったてめえがいつの間にか莉乃と付き合って、最初からずっと莉乃を好きだった俺が莉乃にコケにされてるのは何なんだ?これは矛盾してはいねえのか?」

「・・・・」

「俺にとっては、てめえより莉乃だ。てめえのヒーローごっこに付き合うより、俺は莉乃のマンコに、自分のチンコをぶち込みたかった。てめえが俺より先に莉乃とヤッた時点で、俺とてめえが手を握る道はすべて閉ざされてんだよ。何でもかんでも、てめえに都合よく考えてんじゃねえよ。友達とか、冗談じゃねえわ。俺を舐めんな。人間を舐めてんじゃねえよ、このクソガキが!」

 何が友達だ。貴様が俺との友情を大事にせず、俺が好きだった莉乃を掻っ攫っていったくせに、なぜ俺だけが貴様との友情を大事にし、莉乃のことをキレイさっぱり水に流さねばならないのか?人を舐め腐るにも程がある。そこまで都合よく割り切って考えられなければ友達はできないというのなら、俺は一生、友人などいらない。

 匿名掲示板では、俺が同窓会に誘われたことがないとか、友達がいなくて引きこもっていたとかいった情報が紹介されたのに対して、哀れだとか、惨めだとか言っているヤツもいたが、まったくもって、大きなお世話である。俺は自分に友人が一人もいないことを屁とも思っていないし、寂しいとも思ってはいない。

 俺は、俺の本当の顔を知らずに寄って来るだけの人間との関係が壊れたところで、なんとも思わない。二度と会いたいとも思わないし、上っ面だけの友人をこれから作ろうとも思わない。多くの友人を得るために、自分を変えようとも思わない。自分を曲げてまで人間関係を全力で維持するなど、もってのほかである。

 交友範囲の狭い人間は、世界が狭いのだという。確かにその通りで、俺の世界は狭いのかもしれないが、自分の足元も見えていないヤツが無駄に視野を広げるより、狭い自分の世界を大切にできた方がいいではないか。

 くだらないマスコミが、くだらない世間に向かって垂れ流す情報・・・。どこぞの野球チームが優勝した、どこぞのセレブが結婚した・・・。自分と関わり合いのない世界で、自分と関わり合いもない誰かが手に入れる煌びやかな栄光を喜ぶよりも、俺は自分が手に入れるささやかな栄光を大切にしながら生きていきたい。

 純玲――何もなかった俺が手に入れた、最高の財産。純玲との絆が深くなるのなら、狭い世界で上等ではないか。

 俺と純玲の世界に立ち入れる人間は、誰もいない。子供は作らない・・・作れない。ウサギやハムスター・・・身勝手な人間の都合で売り買いされ、命をもてあそばれる小さな生き物でも引き取って、ともに支えあいながら生きていければいいと思う。

 俺は俺の世界の外にいる人間がどうなろうが、知ったことではない。俺と出会ってもいない、縁がまったくなかったという人間はまだしも、俺と深く関わりながら俺の世界を理解しなかった人間は、この先、俺の理解者になる可能性は皆無ということになるのだから、死んだところで心も痛まないし、利用して殺したところで、大きな罪悪感は感じない。

 俺の敵は世間――。今も昔も、そしてこれからも。

「ネットを見りゃわかるように、いまは弱者が強者を叩く時代だ。弱いってことが、一種の発言権になっている。物事を良いように解釈して、自分の都合がいいときだけ弱者ヅラしようとするてめえは、俺にとって、本当の強者よりもタチの悪い、虫唾が走る野郎だ。てめえなんかは・・・」

 舌好調となってきたところで、突然、靴下を履いた足の裏から、地面の感触がなくなった。景色が流れ、背面に激痛が走った。

「勝手なことしてんじゃねぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 仰向けに倒されて、天井を見上げる俺に、上から浴びせかけられる怒声。どうやら俺は、東山に襟を掴まれ、後方に放り投げられたらしかった。

「ここは俺の家だっ!これから何をやるか、俺が全部決めるんだ!お前らは、おとなしく座ってりゃぁいいんだ!てめえらどいつもコイツも、俺をバカにしやがって!俺を無視しやがって!ふざけんじゃねえ!ふざけんじゃねえ!」

 唐津とやりあっている間、東山の演説をずっと聞いておらず、匿名掲示板も見ていなかったが、彼の様子を見る限り、東山はどれだけ一生懸命、自分の正義をアピールしても、外の連中には全く理解されず、頭のおかしい大男がわけのわからないことを喚いているとしか思われなかったようである。

「・・・・殺す。殺してやる」

 ここまで、縄張り争いを繰り広げるゴリラのように興奮していた東山の声音が、急に押し殺したように低くなった。

 顔を真っ赤にして、大声を張り上げている人間は、見かけは迫力があるかもしれないが、けして一線を越えてくることはない。真に危険なのは、冷静に怒りを燃やしている人間である。

 スイッチが切り替わったキッカケは、バスケットボール――中学時代の東山が、栄養失調で痩せこけながら、一日も練習を休まず、レギュラーを掴めるその日を信じて、体育館を夢中で走り回って追いかけていたボールが、ベランダの開いた窓から投げ込まれたことだった。

 野次馬が、東山の過去をネットで詳しく調べたうえで、悪意を持ってボールを投げ込んだのかどうかはわからない。たまたま悪戯で、その辺に転がっていたボールを投げ入れただけだったのかもしれない。だが、それによって、忌まわしき「生存競争」を繰り広げていた時期の記憶を呼び起こされた東山は、「キレた」。丸菱の倉庫で大暴れする次元ではない、人ならぬ者の道に足を踏み入れたのである。

 東山は、押入れからポリタンクを取り出すと、床に可燃性の液体を撒き始めた。まだストーブを焚くには早い時期だから、これはもともと、東山が焼身自殺に使うつもりで用意していたのだろう。開け放たれたベランダの窓から、独特の刺激臭が漏れたのか、外のギャラリーが、俄かにざわつき始めた。

「東山ぁ!バカな真似をしているんじゃない!全部貴様が悪いのに、人のせいにするな!とっとと警察に自首せんか!」

 バカ丸出しの癖に、自信に満ち溢れた声――ショウジョウバエ的存在の深山が、拡声器でくだらないことを喚き散らしに来ていたようだった。

「あのカス野郎!」

「動くんじゃねえっ!」

 自分のことだったらまだ構わないが、東山を悪く言うのは許さない桑原が、護身用の金属バットを持って外に出て行こうとしたのを、敵味方の区別もつかない東山が静止した。東山を神と崇める桑原は、脊髄反射でそれに従い、大人しくリビングに戻ってくる。

 そのまま外に逃げ出していればいいものを、わざわざ戻ってくるとは、桑原は、百円ライターを落としただけで火の海になる今の部屋の状態を、わかっていないのだろうか?ここで死んでも「殉教」になる桑原はそれでいいのかもしれないが、東山は友人であって神とは思っておらず、自分の未来を切り開くためにここに来ている俺には、たまったものではない。

「東山、おめぇ・・・。俺たちを巻き添えにして、丸焼きになろうとしてる?」

「うるせえ・・・・」

 東山は、自明の質問にも答えようとしない。あるいは、やはりこの男、頭は冷えていても、いまだに自分でも何がやりたいのか、よくわかっていないのかもしれない。最初から、東山の小さい脳みその中には、はっきりした筋書きはなく、俺と唐津を呼び出した理由も、ただそうしなければいけないという焦燥感に突き動かされただけのことだったのではないか。

 本能と衝動だけで手足を動かす東山は、結局、三本のポリタンクを空にしてしまった。液体が揮発して、部屋の中にはキレイな虹ができている。刺激臭に目をやられて、東山も唐津も桑原も、みんな涙を流していた。

 火というものがどれだけの速さで燃え広がるものなのか、詳しく知っているわけではないが、今の状況で、唐津だけを確実に殺させ、自分だけが生き残るというのは、おそらく至難の業なのだろう。覚悟していたはずだが、いざ正念場を迎えると、手が震える。やはり、どこかに考えが甘い部分はあったのかもしれない。

「東山~!この殺人ゴリラが!これ以上社会に迷惑かけてんじゃねえ!さっさと捕まれ!」

「最低の鬼畜!あんたなんか、生きてる価値ない!わけのわかんない演説ぶっこいちゃって、バッカじゃないの!」

 アホの深山によって火をつけられた外の群集どもが、東山を煽り始めていた。

「君を守り隊とか、ダサダサなネーミングだなぁ!センスねえんだよ、てめえは!」

「監禁野郎!被害者を離せ!焼け死ぬのなら、一人で死ね!」

 散々な言いようであるが、匿名掲示板で東山を罵倒している連中も含めて、奴らのうち、誰か一人でも、本気で東山を憎んでいる人間などいるのだろうか。誰か一人でも、亡くなった山里愛子に心から同情している人間などいるのだろうか。

 真の正義も無ければ、悪意も無い。ただ日ごろのストレスを、弱い誰か、やらかした誰かにぶつけたいだけの連中に媚びたところで、何一ついいことなどはない。そもそも怒ってもいないのだから、許してもらおうとして謝罪などしたところで、まったく無意味である。反省も自己満足でしかない。東山も実際にやってみて、感情もなく、ただ無責任に人を貶める「世間」とやらの現実を見て、目が覚めただろう。

 東山もようやく気が済んで、あの有象無象のゴミどもの前で、自分の怒りを思いきりブチまけ、ムカつくヤツをぶっ殺して、この世間に、きっちりとケジメを付ける決心をしてくれた。そこまではよかったのだが、敵、味方の区別もつかなくなっている東山は、本当に殺害すべき唐津だけでなく、俺と桑原まで巻き添えにして、焼き殺そうとしているのが問題である。

 唐津を殺させることには成功しても、俺の未来まで一緒に燃え尽きてしまってはどうしようもない。この状況から、確実に逃げ延びるための方策はない。生き残れるかどうかは、判断力と決断力に委ねられる。よく見て、しっかり考え、タイミングを誤らず、適切に行動する――それしかないようである。

 最大のピンチにして最大のチャンス。俺と世間の三十二年に及ぶ闘争の、最大のクライマックスが訪れようとしていた。

「東山さん・・・僕も、やりすぎたのかもしれません・・・。僕に言う資格はないかもしれないけど・・・こういうことは、やっぱりよくないと思うんです・・・どうか、やめていただけませんか・・・」 

「うるせえっ。黙れっ!お前に、何がわかるんだ」

 東山が、唐津の説得を聞くはずがないのは当然である。この状況で唐津が東山を説得し、凶行を思いとどまらせようとしたところで、それによって得る利益が大きいのは、東山ではなく唐津の方なのだから。

 どんな正論だとしても、それによって最大の利益を得るのが、自分にとっての仇敵である限り、それは間違った意見ということになる。俺が莉乃の件で苦しんでいるとき、俺に莉乃への執着を断たせようと説得してきた田辺のようなヤツもいたが、いくらそれが俺自身のためでもあるといっても、莉乃と唐津に、後ろからナイフでぶっ刺される危険に怯えることなく、好き放題パコパコとセックスできるようになる利益を与えてしまう面もあるという時点で、全部台無しになってしまうのだ。田辺が言ってくれているのは俺のためでもあるのは事実だとしても、俺の方は、なんで莉乃と唐津がセックスするために、俺が莉乃を諦めないといけないのだろう、と思ってしまうのである。

 正論は、大多数の人間が利益を得るための意見をまとめた、最大公約数である。大多数の利益などどうでもいいから、自分の利益が大事という人間の前では、まったく効力を持たない。大多数をどうでもいいと思うどころか、大多数を憎んでいる俺や東山に「正論」を振りかざすなど、暴れ馬をムチで引っ叩くのと同じこと。火に油を注いでしまって、ますます手に負えなくなるだけだ。

 正論を振りかざす人間は、いつも弱者の痛みに鈍感だ。人には理屈で割り切れない感情があることを知らない奴らが、分かった風な口をきくな。正論が俺を苦しめるのなら、俺は正論ごと、世間を憎む。

 東山が唐津の言葉に逆上して、文字通り、床一面に撒かれた油に火を点けてしまうところまで想像できたのだが、案に相違して、東山はなかなか動こうとはせず、おそらくライターが入っているのであろうポケットに、手を伸ばしたり引っ込めたりしているだけであった。

 東山の視線の先にいるのは、彼の第一の信者、桑原であった。桑原は、命の危機が差し迫ったこの場面においても、衛兵のように微動だにせず、リビングのドアの前に立ち続け、一言も口を開かず、ただ、東山の命が下るのを待っていた。

 命など、まったく惜しくはない。神と崇める東山と運命を共にできるのならば本望である。そんな彼の崇高なまでの忠誠心が、これまで彼の存在を疎ましく思うだけだった東山にも届いたのだろうか。東山はさっきから、どこか縋っているような目で、桑原をずっと見つめていた。

「お前は、どうするんだ・・・・ここに残るのか・・・・」

「俺は、東山先輩と最後まで一緒にいますよ。何があっても、離れませんから」

 桑原は、お前が止めたのではないか、という突っ込みはせず、泣かせる言葉を口にしてみせた。

 東山の魂胆――東山は、桑原の言葉に胸を打たれたフリをして、振り上げた矛を下ろし、この場に収拾をつけようとしている。唐津の説得に耳を傾けた形にするわけにはいかない東山が利用したのが、自分を神と崇める桑原だった。

 東山は、自分が殴ったことで、ボコボコで血まみれで、マグマが沸き立つの隕石のようになってしまった桑原の顔面を見つめながら、肩を振るわせ始めた。

「やっぱり、俺は・・・・・俺は・・・・・俺は・・・・・お前のような男がいてくれるのならば、俺は、俺は、俺は・・・・・」

 羞恥心からか、最後の一言が吐き出せずに口ごもっているが、この後に続く言葉は、聞かずともわかる。やはり東山は、誰かが自分を止めてくれることを期待していた。これ以上、悪事を重ねないための理由を探していたのだ。

 失望と安堵が、綯い交ぜになったような感情に襲われる。東山は結局、土壇場で日和ったのだ。東山に比べれば、最後に男を見せ、自分なりのやり方で人生にケジメを付けた宮城の方が、まだマシだった。

 世間からすれば、東山が最後の最後のところで踏みとどまろうとするのは、人間らしい、尊い決断なのかもしれないが、東山を、俺と同じ「怪物」と見込み、ともに世間で正しいとされる風潮に抗がう「戦友」であると信じていた俺には、いかにも苦々しいものであり、許しがたい裏切りであった。

 このまま東山と桑原の茶番劇を黙ってみていれば、俺の命は助かるのかもしれない。だが、俺自身が世間にケジメをつけ、新しい未来を切り開く機会は永遠に失われる。世間に無駄に顔を売っただけで終わってしまう。世間にケジメをつけぬまま、おめおめと生き続けるのは、俺にとって、死んだと同じことである。

 ここでやらなければ、俺は自ら袋小路に足を踏み入れてまで果たそうとした目的を達成できずに終わってしまう。自分を虐げてきた世間に糞をひっ付けずして、純玲の待つ家に帰れるか!俺は、東山が日和って、無事に部屋を出られそうになったことに安堵しそうになる自分を叱咤した。

「ありがとう、桑原・・・・お前のおかげで、俺は・・・・」

 どこまでも、世話の焼けるヤツ――どうやら俺が、禁断の扉を、こじ開けてやらねばならないようだった。

 俺は大きく息を吸って、肺腑に目いっぱい、空気を送り込んだ。これから、東山に送る「ラストソング」を歌うための準備である。

 東山に、俺の歌声に乗って、もう一度、「ラストダンス」を踊ってもらう。東山には、この歌をぜひとも、中学時代、合唱コンクールの練習で指揮者を務めた東山に、ちゃんと協力してやらなかった詫びの印と受け取ってほしい。そして、今度はキッチリ最後まで踊り切り、唐津と自分の人生に終止符を打ってほしい。勇気のでない東山の背中を、俺が押してやるのだ。

「東山~!力太郎作ってこい~!」

「東山~!お尻にポッキー刺して、召し上がれ~ってやって~!」

 ベランダの外では、東山のことを恨んでもいない連中が、相変わらず好き放題に喚き散らしている。うまくすれば、面白半分で集まっているあの連中にも、俺の「ラストソング」が引火するかもしれない。そうなれば、あの東山最後の登校日、理科準備室で繰り広げられた光景の再現となる。あのときと違うのは、俺が歌うのは、今度は替え歌などではなく、東山が決めた、合唱コンクールの課題曲であるということ。俺の歌声によって東山が誘われるのは地獄ではなく、男として本懐を遂げる道であるということだ。

「がっ・・・・がっ・・・・が・・・・があっ。があががっ」

 俺の歌を聞いた東山が、脳みそをフォークでガリガリ引っかかれたとでも言うように、頭を掻きむしりながら、地団駄を踏んで暴れ始めた。以前、テレビでミツバチに鼻の頭を刺されたクマが滅茶苦茶に暴れているシーンを見たことがあったが、あれとそっくりであった。

 正直、俺が歌っても東山がまったく気にせず、ただ、俺の気がふれたと思われるだけで終わってしまう危惧も少しあったが、いざやってみると、効果は覿面だった。考えてみれば、桑原が合唱コンクールとおせち料理のたとえ話をしただけで怒り狂って殴りつけるほど、東山のあの件へのトラウマは根深いのである。まさに、「当事者」である俺が、東山が大逆転の希望を託し、結果的には東山抜きで優勝の栄冠を手にしてしまったあの合唱曲を歌っているのを聞いて、東山が平静でいられるはずはなかったのだ。

 もう一つの危惧は、東山が桑原をそうしたように、俺に殴りかかってくるのではないかということであったが、こちらの方も杞憂に終わり、東山は「ベアダンス」を踊るだけで、こちらの方に歩み寄ってくる気配もなかった。このままでは、東山に部屋を焼かせるのも不可能だが、こうして東山のワーキングメモリーを破壊してやれば、東山はとにかく今の辛さから逃れるための行動に出るかもしれない。

 地蔵山のときもそうだが、とにかく動かないというのが一番マズいことで、希望的観測でも何でもいいからどうにかしようとするのが一番大事なことである。唐津に対しての恨みの感情はもとより、世間にケジメをつけてから退場するという「道筋」も、俺は東山に、前もって示している。ネタはすでに仕込んであるのだから、あとは何とかしようと動きさえすれば、どう転ぶかはわからないのである。それこそ、「怪物」東山が、俺の想像を上回る結末を作り出してくれるかもしれない。

「おい、見ろよあれ。東山がバカなことやってんぞ」

「なんだアイツ。とうとう狂ったか?」

「わはは。おもしれー」

 窓の外から、東山が暴れているのを見たゴミどもが、へラへラと癪に障る笑い声を上げ始めた。

 貴様らは、なにを笑っているのか?血も涙も流したことがない連中に、無性に怒りがこみ上げてくる。

 誰より真剣に生きているから、誰よりも狂える。思いが強いから壊れるのだ。何もかもキレイごとで丸め込んで、笑いで誤魔化して生きているようなゴミどもに、東山の何がわかる。お前らのような、一度しかない自分の人生にプライドも持たずに生きているゴミに、東山を笑う資格などあるものか。

 東山はこれで世間とお別れできるが、これから俺は、あんなゴミのような、何のために生きているかもわからないような連中と仲良くしながら、同じ世界で暮らしていかないといけないのである。 ゴミどもの中に溶け込むために大事なのは、謙虚さでもユーモアでもない。コミュニケーション能力とやらよりずっと大事なのは、アイツらの大事にしているものをぶち壊してやることだ。今、ここで、俺がアイツらに負けていない証明をすることこそが、俺がゴミくそどもの中で、東山のように壊れずに生きる唯一の術である。

「てめえっ!やめろ!東山先輩が、苦しんでる!」

 「神」を救うため、白目を剥いて掴みかかってくる桑原の首筋に狙いを定め、スタンガンを押し当てた。荒事に慣れているわけではないが、もともと、東山に襲われるつもりで心の準備をしていたおかげで、驚くほど冷静に対処できた。

「うるせえっ、こっちだって必死なんだ!こんなとこで死ねっか!東山の自殺なんかに、付き合ってられっか」

 いざというとき、警察の追及を躱すためのポーズ。積極的に死地に飛び込んだのではなく、予期せず巻き込まれただけであると釈明するため、わざと外の連中に聞こえるような、大きな声で叫んだ。

 スタンガンは、脳に近い部位で当てるほど効果を増す。九十万ボルトのハイパワースタンガンを首筋に受けた桑原は、一発で泡を吹いて失神してしまった。

 桑原には何の恨みもなく、地蔵山では「暴力装置」として協力をしてもらった恩もあるが、流れの中で起きてしまった事故なのだから、仕方がない。戦いに犠牲はつきものである。崇拝する東山と運命を共にできるのならば本望という本人の言葉を信じて、このまま紅蓮の炎に焼かれて、安らかに眠ってもらおう。

「ほら~、みんなもっと声出して!中にいる東山に聞こえないよ!また、くまさん踊り見たいでしょ!」

 狙った通り、俺の歌は外の連中にも引火して、田舎町の住宅街で、面白半分で集まった連中による「大合唱」が起こっていた。あるいは、奴らはネットの情報で、今自分たちが放歌高吟している歌に、東山が深いトラウマを抱えていることを知っていたのだろうか。

 日本の歌謡曲でメジャーになっているのは、どれも必要以上と思えるほポジティブな歌詞を書き並べているものばかりだが、気分がとことんまで落ち込んでいるときに聞かされる美辞麗句ほど、残酷なものはないものである。まして、歌っている連中は東山を励まそうとしているのではなく、悪意ですらないただの面白半分で追い詰めようとしているだけなのだから、東山には余計にダメージが大きい。

「ああああっ、ああががっ!」

 あの東山最後の登校日、理科準備室で繰り広げられた、四面楚歌の大合唱の再現――。あのときは替え歌で歌ってしまったあの曲を、今度はちゃんと、正規の歌詞に乗っ取って、東山に送り届けることができた。あとは東山が、自分の身を守るために行動してくれるのを待つだけであるが、その前に、ターゲットである唐津の方が、東山が動けなくなった隙を見計らって、部屋の中から脱出を図ろうと、リビングの入口に向かって猛然と走り出していった。

「逃がすかよっ」

 すかさず反応した俺は、唐津をタックルして倒し、まず腕にスタンガンを押し付けて怯ませてから、桑原同様、首筋にスタンガンを押し付けて気絶させた。ベランダから飛び出すのではなく、素直に玄関から出ようとしてくれたお陰で、東山以外の誰にも見られずに唐津を倒すことはできたが、これで唐津を生きてこの部屋から出すわけにはいかなくなった。無論、唯一の目撃者である東山にも、確実に自ら、命を絶ってもらわなければならない。

 あまり時間をかけていたら、再び駆けつけてきた警察が、部屋の中に突入してくるかもしれない。

 まだか?早く、目覚めろ――俺は東山の中の「怪物」を叱咤しながら、外の連中――糞みたいな世間の連中と一緒に、「ラストソング」を歌い続けた。

「ああっ。あががあがあっ!」

 ずっと頭を抱えてしゃがみこんでいた東山は、ようやく立ち上がったかと思うと、ライターに火を点けながら、俺の方へ突進してきた。俺が横っ飛びして東山を躱すと、東山は、すぐ傍で倒れていた唐津を踏みつけ、それからまた、思い直したように俺に向かってタックルを仕掛けてきた。

 どうやら、土壇場で東山が出した答えは、「やるべきことを同時に、全部やる」ということであったらしい。もう、物事の優先順位を判断する思考能力もなくなっているようだが、一応、「唐津を殺す」「自分が死ぬ」ということが、彼にとっての「やるべきこと」の中に入っているようなのは安心した。

 問題は、東山の「やるべきこと」の中に、「蔵田を殺す」ことも入っていたことだ。ひょっとしたら、俺が「ラストソング」を歌い、東山を刺激したことで入ってしまったのかもしれないが、とにかくこれで、少なくとも無傷でこの部屋を出るのは難しくなった。

 自分が助かることを考えれば、東山が部屋に火をつける前に、ベランダから飛び出して脱出したいところだが、その前に、まずは東山が唐津を殺害するところを見届けなくてはならない。何とか攻撃の矛先を、俺ではなく唐津に向けなくてはならないが、東山はパンクした頭でも、倒れている唐津よりもまず、動いている俺の方を先に仕留めなくてはならないと考える程度の思考能力は残されているようで、ときどき唐津に気を取られながらも、八、二の割合で、俺の方を優先的に狙ってくる。狭い室内で、大きな東山からのタックルをいつまでもよけ続けることなど不可能で、俺は床にぶち撒かれた可燃性の液体で足を滑らせて転倒し、東山の三十センチ以上ある足での踏みつけを、顔面で受けてしまった。

 もはや言葉を発することもできない東山だが、彼の俺に対する、凍てついたものと燃え盛るものが混じり合った怒りと憎しみの感情は、ひしひしと伝わってくる。

 東山のすべての不幸は、間違いなくこの俺から始まった。仇敵である俺の顔面目がけて、東山は二発、三発と、踏みつけを食らわせてくる。一発目で頬骨が折れ、二発目で鼻骨が砕け、三発目で前歯が三本飛んだ。東山の、百十キロの体重を乗せた踏みつけ攻撃は、俺の左腕、次いで右腕へと移り、肘の関節部の骨をいとも簡単に砕いて、両腕を真っ二つにへし折った。

 東山は、俺に復讐をしている――が、殺しに来ているわけではない。足蹴にするだけで、刃物で刺そうとしないのは、俺を「戦友」だと思ってくれているからだろうか?おそらくそれもこれもひっくるめて、一言で表すことができない複雑な感情が、東山の中に渦巻いているのだろう。

 愛しているから憎む、憎んでいるから愛する。ストーカーという便利な言葉ができたことで、そういう人間はいかにも最近になって現れたようだが、実際には、太古の昔から、人は人に執着し、強い思いを抱き、嫌がられてもくっ付こうとしたり、離れようとしても離れられなかったり、最後には殺してしまったりを繰り返してきたのだろう。

 俺や東山のような人間は、本当は一人で、誰とも関わらずに生きていた方がいいのかもしれない。だが、世の中は、人が最低限、安定した生活を手に入れようと思ったら、どうしても、人と深く関わることを避けては通れないようにできている。

 度外れた我の強さと執着心を持ち、世間の連中に迷惑だと言われながら、それでも、人と深く関わることを諦めずに生きてきた人間同士にしかわからない絆。最後の最後のところで相手を憎みきれず、共鳴しあってしまう、一卵性双生児のような俺と東山。

 顔面も、四肢も、胴体も、大事な生殖器も、俺の体中を踏みつけ、ボロボロにしながらも、東山は、俺の命は取らなかった。

 東山は、いったんキッチンの方に行って、シンク下から刃渡り二十センチあまりの出刃包丁を取り出すと、うつ伏せに倒れている唐津に歩み寄って、包丁の切っ先を唐津の背中に向け、力任せに振り下ろした。

 確実に命を取りたい方は、刃物で仕留める。血しぶきが天井まで吹き上がり、気を失っていた唐津が断末魔の雄叫びを上げたのを確認して、俺は口角を吊り上げた。目的達成。あとは一刻も早く、悲しき魔獣の檻から脱出するのみであったが、身体が動かなかった。両ひざの皿が割れてしまい、肘も砕けてしまっているせいで、四肢のいずれにおいても、まったく踏ん張りがきかない。

 ここまでボロボロにされると、身体は激痛のシグナルを送るのもやめ、防衛本能のために痛覚を和らげようと試みるらしい。思ったより痛みはなく、頭も働くのだが、身体が言うことをきかないのではどうしようもなかった。

 東山はポケットの中から取り出した百円ライターに再度火を付けて、揺らめく炎の先を直接、自分が地面に撒いた液体に接触させた。

 可燃性の液体はガソリンではなかったようで、火は思ったほどは激しくなく、燃え広がるのも遅いようである。俺は芋虫のように体をくねらせて、炎の勢いが弱いスペースまで這って逃げた。東山は、俺が逃げるのを妨害してくるようなことはないが、助けてくれることもない。自分で手を下すことはできなくとも、自分の自殺の巻き添えになって死ぬのなら構わないし、むしろ万々歳といったところか。

「くそう、くそう、冗談じゃねえ、死んでたまるか。これから、やっと俺の人生が始まるのによっ」
 懸命に逃げるのもむなしく、リビングから一番近い出入り口であるベランダの窓が、炎のカーテンで閉ざされてしまった。もはや自力での脱出の望みはなくなった。

「ひ・・・・東山先輩!先輩!」

 熱さで目を覚ました桑原が、炎の中で身じろぎもせず、焼けこげる床に座り込んでいる東山の腕を引っ張ろうとするが、東山はすべてを諦めたような虚ろな顔を、ずっと自分の足元に落としているだけで、桑原の呼びかける声にはまったく反応しようとしない。桑原が俺を助けようとしてくれる気配はなく、仮に逃げるにしても、俺を連れていってはくれないだろう。四肢をもがれたこの状態で、俺に為すすべはない。万事休すか――。

 炎の熱と一酸化炭素で頭が朦朧としかけたとき、再度の通報を受け、消防隊より先に駆け付けてきた警官隊が、ベランダの窓から、ガラスを割って突入してきた。一度帰ってしまったことで、批判が集中するのを恐れているのか、今度は東京の警察官でもやるかどうかわからない危険なスタントを演じた警察官二名は、それぞれ、俺と桑原、東山の方に駆け寄って救出しようと試みる。

「大丈夫ですか!今、助け出しますからね!」

 三十歳くらいの逞しい警官が俺を背中におぶって、炎の海の中を、玄関の方へと歩いていった。警官隊が突入してきたことによって、火に撒かれて死ぬことが不可能だと悟った東山は、とっさに、唐津を刺した刃で、自らの腹を掻っ捌いていたらしい。口から血を流し、警察に保護されて部屋を出ていく俺を、恨めしそうな眼で見送っていた。

「おい、あんた、バカな真似は・・・」

「東山先輩!やめて、やめて」

 桑原の悲痛な声の後、苦し気な怪物の呻き声に重なって、ズブズブと、肉に刃がめり込む音が聞こえた。東山が、おそらくは致命傷を負ったのを確認して、俺は警官の背中で、安堵のため息を漏らした。

 この生きづらい世間の中でなんとか生き残るため、正しい道を異常な速度で暴走しようとした東山と、最初から裏街道を行った俺。結果、世間に受け入れられたのは、俺の方だった。

 生存競争――。まだ、この先俺が、シャバで幸せになれることが確定したかもわからない。これで世間との戦いが本当に終わったのかもわからない。だが、ひとまず、生き残ることはできた。やるだけのことはやった。

 やがてもう一名の警官が、暴れてもがく桑原を力づくで引きずっていき、室内には、東山と唐津の躯だけが取り残された。

 程なくして駆け付けた救急車によって、俺は病院へと運ばれていく。東山、唐津、ゆかり・・・。生きたくて仕方なかった奴らの代わりに、生まれたことを呪い続けてきた俺が、生き残ることになった。俺は俺のやり方で、世間にケジメをつけた。もっと爽快な、別の世界が見えるような感じを想像していたが、意外に何も変わらないものだ。童貞を喪失したときと同じような感覚。

 自分が裏で糸を引いておいて勝手なようだが、終わってみれば、ここまでやる必要が、果たして本当にあったのかどうか、疑問に思わなくもない。憑き物が落ちるというのは、こういう感じのことを言うのだろうか。もしかしたら、後々、奴らに申し訳ないとか思ったり、罪悪感に苛まれることもあるのかもしれない。

 俺はそれこそが、奴らにとって一番悪いことではないかと思っている。生き残るための闘争という、崇高な目的のために命を失ったのならまだしも、俺が後になってみれば何とも思わなくなったことのために未来を奪われたというのであれば、奴らも死んでも死にきれないではないか。

 一生外道。やはり、それしかないのかもしれない。一生涯に渡って、世間に強烈な憎悪を抱き、人を傷つけ続けていなければいられない男。純玲と二人、静かに生きていくことは、やっぱり無理なのかもしれない。

 難しいことは、あとで考えることにしよう。今はゆっくり、休んでいたい。このケガなら、三か月くらいは働かずに生きていられるだろう。その間にゆっくり、じっくり考えて、結論を出していけばいいと思う。

 セックスができるようになるのはいつだろう。心を安らかにするために、酒が飲みたいのでもなく、ギャンブルがしたいのでもなく、テレビゲームがしたいのでもなく、俺はセックスがしたかった。思い浮かぶのは何度も見た純玲の裸体ではなく、一度も目の当たりにしたことがない莉乃の身体である。愛した女よりも、恨みを持った女の方に情欲を掻き立てられてしまう性癖。やはり、一生を平穏無事に暮らすのは、ムリなのかもしれない・・・。

 例えば純玲と二人で、小動物でも飼って幸せに暮らしながら、一方で、莉乃を性奴隷にして、痩せさせたり太らせたり、洗ったり洗わなかったり、裸にしたり、中学のジャージを着せたり、妊娠させたりさせなかったりして愉しんだりといったことはできないだろうか。

 そう、妊娠・・・。三人の命を奪ったのと引き換えに、莉乃と三人の命を作るということで、世間は罪一等を減じてはくれないだろうか。

 俺の生殖器・・・すべては、ここから始まった。俺にペニスががなければ、ゆかりや唐津が死ぬことも、莉乃が壊されることもなかった。

 罪作りな俺の生殖器。まずこれの回復を待ち、莉乃が病んじゃって、立ち上がる気力もなくて、もう一週間も風呂に入っていなくて、さぞかし臭くなっているだろうなとか想像しながら、純玲に扱いてもらって、口の中に思い切り放ちたい。

 この先のことはともかく、当面はそれを目標にしようと思う。













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外道記 21



                          21


 磨き上げられた窓枠から差し込む陽光を反射するフローリング。そこら中に散乱していた衣服は、洗濯してパイプハンガーにかけられ、書籍は書棚に、カテゴリ別に整然と並べられている。シンク周りも嘘のように片付き、ステンレスが光沢を放っている。ガラステーブルの上には、薔薇の花が活けられた花瓶が置いてある。

 夢か、幻か。見違えるようにキレイに片づけられた純玲のワンルームを目の当たりにし、俺はしばし言葉を失った。

「すげえじゃねえか・・・。もしかして、お前が最近取り組んでたことってのは、これだったのか?」

「うん。本当は今日の夕方まで時間とる予定だったんだけど、何とか間に合わせたんだ」

 つい二十日ほど前までの純玲の部屋は、ゴミが散乱して足の踏み場もないほどで、それこそ地蔵山の山小屋よりも酷い状態であった。いずれ片づけるときが来るにしても、業者を呼ばなくてはならないと思っていたあの部屋を、純玲はたった一人の力で片づけたのである。素直に感心していた。

「すげえよ。マジですげえ。魔法でも使ったのか?」

「大したことじゃないよ。ただ、重治さんを繋ぎ止めるには、絶対に片付けなきゃって、今までずっと捨てられなかったものも捨てなきゃって思っただけだよ」

 片付けたくても片付けられない女とは、イコール、捨てられない女であることが多い。他人から見れば明らかに必要のないガラクタでも、いつか必要になる気がして、捨てられず取っておいてしまう。捨てるべきものと取っておくべきものをどうしても分けられず、全部取っておこうとしてしまう。やがて足の踏み場もないほど部屋が散らかれば、片付けようとする気力もなくなってしまう。

 まさしく負のスパイラルだが、全ての元凶である、「捨てられない」部分さえ解決できれば、ジェンガが崩れていくように、あっさりと問題が解決することも多い。今まで純玲は、モノに囲まれているという状態で安心感を得ていたのかもしれないが、俺と一緒に未来を切り拓くという動機ができたことで、何がなんでも捨てなければいけないと決意を固め、思考を切り替えることができたのではないか。

 俺のやりたいことも手伝う、自分のやりたいこともやる。俺と歩む未来のために、彼女は出来得る限りのすべてをやってのけたのである。

「休む前に、ふたりでお風呂に入ろうか。重治さん、すごい臭いよ」

「おお、そうだな。ババアの臭いが、すっかりうつっちまった」

 土や埃、あらゆる体液で汚れきった服を脱ぎ、久しぶりに、二人で風呂に入った。しばらく純玲の裸体を見ていなかったからだろう。昨晩から五発も精を放ったというのに、ムラムラと欲情してきてしまった。

「ちょっと待ってろ。コンドームを取ってくるから」

「いいよ。わたしが行くよ」

 愛してもいない女や、恨み重なる女には遠慮なく精子を注入し、母乳を出させようとするが、本当に愛している女との間には、子供は作らない。子供に愛情がいってしまっては困るし、俺などの遺伝子を受け継いだ子供を作り、愛する女に不幸は背負わせたくないという配慮である。

 同じように、俺は純玲のヴァギナ、脇、あるいは足に雑菌を繁殖させ、臭くしようとは思わぬ。嗅いでみたい気持ちはあるし、命令ひとつで三日、四日は風呂に入れさせないこともできるが、それよりは、職場の連中におかしな目で見られないことの方が大事と考える。

 肥満嗜好のある男が、女房に好きに食べさせた結果、糖尿などの病気にしてしまうケースもあるというが、女を本当に愛しているかどうかは、自分の性癖よりも、女の健康や社会的立場を優先に考えられるかどうかでわかるのかもしれない。

「お風呂から上がったら、もう寝る?」

「いや、何だか目が冴えちまったから、食事にしよう。米が炊けてるなら、インスタントの味噌汁があれば食えるよ」

「うん。じゃあ、用意するね。あ、それと、今から、私が昔観ていたドラマの再放送が始まるんだけど、テレビつけながらご飯食べてもいいかな」 

「ああ、いいよ」

 純玲がわざわざ断りを入れるのは、以前、テレビに夢中になって、俺との会話がそっちのけになったとき、俺が怒ってテレビを消したということがあったからである。

「おい。このドラマで主演の子のまんこは、くせえかい?」

「うーん、この子は前にバラエティで、野菜中心の食生活を送ってるみたいなこと言ってたから、臭くないんじゃないかな」

 自分の世界を何より大切にし、他人が作った世界を拒絶する俺は、ドラマやアニメの作品ですら、容易には受け付けない。好きな女と一緒にそれを観るといったようなときには、それをどうにかして自分の世界と融和させるといった作業が必要である。くだらないことかもしれないが、必要なこと。こういうちょっとした工夫で、世間と折り合いをつけられるケースもある。

「ふう。腹いっぱい食った」

「お腹一杯になったならよかった。先に休んでいてもいいからね」

 純玲が食事の後片付けをしている最中、俺は持って行ったバッグの中から、山小屋から回収してきた、隠しカメラを取り出した。この中には、あの地蔵山の山小屋で、俺の知らない間に、山小屋の住人の間で繰り広げられていた映像が収められている。

 今朝がた、ゆかりの名を呼ぶ宮城の様子を見て気付いた、俺のひとつの勘違い。あの男が、警察や救急には走らないであろうという確信。それを裏付けるすべてが、おそらくはこのフィルムの中に収められているはずである。俺はカメラのメモリーカードをスマートフォンにセットして、録画した映像の再生を始めた。

 再生は五倍速で行っていたが、映っているのはほとんどゆかりだけのようであり、食事とけんじ地蔵、たつや地蔵への授乳を除けば、ほとんどゴロゴロ寝ているばかりで、特別面白いことはなかった。さらに再生速度を上げると、フィルムの最後の方になって、ようやく、にんにく大魔人、宮城が登場した。

「・・・ゆかりさん、具合はどうですか。栄養のある食べ物を沢山買ってきましたから、腐らないうちに食べてくださいね」

 思った通り、宮城は、ゆかりの本名を、かなり以前から知っていた。あの醜悪な四十四歳の女を、いちごと呼んでいたわけではなかったのである。では、宮城が呼んでいたいちごとは、誰のことであったのか?

「いちご。もうすぐ会えるからな。今日は、お母さんのお腹を蹴ったか?」

「やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて」

「あ、すみません・・・・」

 ゆかりの大きな腹を触って、拒絶される宮城・・・・。宮城がずっと、いちごと呼んでいたのは、ゆかりの腹の中にいた、俺の子供だったのである。宮城は、俺とゆかりの子が女の子である可能性に賭け、ゆかりが子供を産んだ後、その子供を誘拐して育てていくことを計画していたのだ。

 親族ではない他人の腹から産まれた子供を引き取るには、家庭裁判所の許可がいる。判断の基準は、経済力と信用性。どれだけ望もうとも、子供を育てていくに十分な収入がない家庭には許可は下りないし、経済力があっても、独身の男が女の子を引き取るといったことは、通常不可能である。

 莉乃に精神を破壊され、おそらくは自ら命を断つ覚悟で地蔵山に入った宮城は、そこで生きる希望に出会った。女の愛に飢えた宮城の生きる希望とは、好き放題エッチなことができる女体に他ならない。ただしその女体とは、四十四歳の悪臭女ではなかった。宮城が希望を見出したのは、悪臭女の遺伝子を継ぐ子供だった。女子高生が町で拾ったメモ帳に書かれていたのは、成長したいちごに愛を囁くために宮城が考えた、「十三年後のプロポーズ」の言葉だったのである。

 努力と我慢という、似て非なる二つの言葉がある。苦痛を伴うという点では同じのようだが、我慢はそれをするだけでは、本人の向上にはまったく役に立たない。兵法の籠城戦がいい例だが、希望が拓ける見込みがまったくないにも拘わらず、ただひたすら餓えや渇きに耐えて我慢をするだけでは、むしろ状況が悪化するだけである。それは我慢は我慢でも、まったく無駄な「やせ我慢」だ。

 自分の意志でする我慢はいいが、他人が言ってくる我慢、とくに、自分より何かしら恵まれている要素のある人間、例えば為政者や富裕層が押し付けてくる「我慢」は、簡単には受け入れてはならない。まして、美徳になどは絶対にしてはならない行為である。

 しかし、籠城戦でいえば、一定期間我慢すれば援軍が来るとか、敵の補給が先に尽きて相手が撤退することがわかっているとかいったように、我慢をしたその先に、確実に希望が拓けているのがわかっているのなら――今よりも状況が良くなることが保証されている我慢ならば、どんな屈辱に耐えてでも、たとえ人間としての尊厳を売り渡してでもする価値はある。宮城は俺たちに何をされても、動かざること山の如しの気概で我慢して、ゆかりの腹から子供が産まれさえすれば、自分の勝ちになるのをわかっていた。だから、ゆかりの母体を傷つけられそうになったときだけは、激しく抵抗した。

 現在、実年齢二十九歳の宮城に対し、赤ん坊は0歳。今、身柄を確保しておけば、十年後には三十九歳で十歳の女体が味わえ、二十年後には、四十九歳で二十歳の女体が味わえ、三十年後でも、五十九歳で三十歳の女体が味わえる。宮城の努力次第では、赤ん坊が閉経を迎えるまでに、二十人以上も子供を産ませることもできる。

 二十九年間女の愛に飢えつづけた宮城でなくとも、自分の思い通りに教育ができる、自分だけしか男を知らない女体を得られるのなら、人生大勝利といってもいいだろう。しかし、問題は、ゆかりの腹から子供が出てくるその瞬間まで、腹の中にいる子供の性別がどちらかはわからないということである。もし、産まれた赤ん坊の股間に、幼き日の宮城と同じ突起物が付いておれば、彼のすべての我慢、辛抱は水泡と帰す。二分の一の確率に賭けて、あそこまで歯を食いしばって我慢ができるかと言われたら、俺にはとても無理である。

 いちごにペニスは――――なかった。あったのは、小さいおしりのような、割れ目であった。宮城は、究極のギャンブルに挑み、そして勝ったのだ。

「ははっ。すげえよ、あいつ。なんだよ、結局あいつの一人勝ちじゃねえか」

 一人勝ち――。地蔵山の山小屋に地獄を創り出したとて、莉乃に地獄を味あわせられたとて、別に、俺の生活が向上するわけではない。形に残るものを得られたわけではない。あの一件で実利を得たのは、結局、宮城一人である。 

 宮城はいちごを、大切に育てるであろう。そして、第二次成長期が訪れ、胸や尻が膨らみだしたら、思う存分、えっちなことをするであろう。

 あの男は、けして腰抜けではなかった。見下げはてた男ではなかった。あの男はあの男で、自らの運命に抗い、世間というものに落とし前をつけ、恨み連なる俺にも復讐し、人に何と言われようと、自分の夢を叶えたのだ。

「大したヤツだよなあ。なあ、東山」

 今、俺のスマートフォンの画面には、インターネットの動画投稿者による、生中継の模様が放送されている。東山の自宅――ベランダに姿を見せた東山は、撮影者に向かって、何事かわけのわからない言葉を喚き散らしたり、モノを投げつけたりといった挙に及んでいる。

「聞けーーーーーっ。俺の話を聞けーーーーーーっ。おっ、おっおっ俺はっ!俺は俺は俺はっ。俺が今までどういう風に生きてきたかわかれ!俺がお前らに偉そうに言われるほど落ちぶれてないことをわかれ!俺は、俺は、ちゃんとやってきたんだーーーーっ!」

 あの宮城ですら世間に対してケジメをつける道を選んだというのに、東山は女房まで殺しておきながら、いまだに世間と手を携えて歩む道があると思っている。まことに往生際の悪い男であるが、まあ、気の済むまでやればいいだろう。そうやって一つ一つの可能性を潰しながら、最後に、俺の示した道に辿り着けばいいのだ。

「てめえら、東山先輩が話してんだろうが!煽ってねえで、ちゃんと聞けよっ!あ?DQNだぁ?今DQNっつったヤツどこだ!前に出ろ!ふざけんじゃねえぞっ、てめえっ!」

 東山のアパートの周りは、騒ぎを聞きつけてきた近所の住民や、動画の生中継を見て集まってきた野次馬でごった返しており、桑原が彼らを抑えるため、一人で孤軍奮闘しているという状況である。

――地蔵山なんて、行かなければよかった。アニキの誘いに乗ったこと、マジで後悔してますよ。しばらく、東山先輩に付きっ切りで行動します。余程のことじゃなければ、連絡しないでください。

 地蔵山からの帰りの電車の中で東山が苦境に陥っていることを知り、昨晩からの重労働で疲れきった身体を押して駆け付けた東山思いの桑原は、群衆に向かって、「帰れ」ではなく、「聞け」と言っている。どうも東山は、自宅周辺に群がってきた連中に向かって、これから何かを訴えようとしているようだ。

 思えば俺と東山の、壮絶な「生存競争」が幕を開けた直接のキッカケは、東山が体育館で行った、「糾弾集会」であった。また、鬱により心身ともに衰弱していた東山が、最後に大逆転の望みをかけていたのは、「合唱コンクール」であった。もともと、人前で演説したり、何かパフォーマンスをやってのけるのが好きな男なのである。東山が自分の「ラストダンス」の舞台として、大勢の前で何かを訴えるという形をとるのは、必然であったかもしれない。

「いいよ、好きなようにやれ。思う存分暴れろ。このくだらねえ世間に、お前なりのケジメをつけてやれ。最後まで見守ってやるさ。ダチとしてな」

 画面の中の東山にエールを送ったところで、突然、純玲の部屋の押し入れの扉が外れ、中から雪崩のように、ゴミや、ハンガーにかけきらなかった衣類、書棚に収まりきらなかった本、バッグなどが流れ出てきた。瞬く間に部屋の半分を覆いつくしたモノは、腰の高さまで重なっている。これを全部平らにしたら、純玲の部屋は、元の木阿弥となってしまうだろう。

「おまえさあ、これじゃ片付けたって言わねえだろ。ゴミ隠してただけじゃん」

 俺が呆れたように言うと、気まずそうな顔をしていた純玲は半泣きになる。

「わかってるよ・・・でも、どうしても重治さんに喜んで欲しくて」

「一か月近くもプライベートの予定を断って、これが精一杯だったのか?土曜か日曜、片方頑張るだけでも、もう少し何とかなっただろ。本当に掃除やってたのか?」

「いつもやろうとするんだけど、身体が動かないんだよ。ついつい、漫画やゲームに手が伸びて、気が付いたら、もう寝る時間になってるんだよ」

「弁当作るのだって、結局続かなかったしな。ゲームとか言ってるけど、お前、俺が貸してやったゲーム、地道にレベル上げしたり、戦略磨いたりするんじゃなくて、裏技使ってクリアしちゃったよね?それで普通に楽しそうにしてたけど、あれ内心、俺ドン引きしたからね。俺が偉そうに言えることじゃねえけどさ、お前の中には、努力して向上する喜びって感覚が、まるっきり欠落してるんじゃねえか?」

 キツいことばかり言っているようだが、本気で残念に思っているわけではなかった。むしろ、安堵に近い感情に満たされていた。

 純玲の部屋に入ったときから、何か納得いかない感じがあった。出来過ぎていると思った。

 ちょっと気持ちを入れ替えただけで、今までできなかったことができるようになる。長年抱えていた問題が、考え方ひとつ変えただけであっさり解決する。好きな男ができただけで、劇的に人が変わる。純玲がそんな、莉乃のおとぎ話に出てくるような女なら――純玲が俺じゃなくても何とかなる、俺じゃなくても面倒が見れるような女だったら、俺は純玲を好きになっていない。

 逆の立場から見た場合でも一緒である。純玲は俺がいなくてはやっていけないのと同じように、俺の方も、純玲がいなくてはやっていけなかった。俺のようなアクの強い男を受け入れてくれるのは、世間の価値観よりも愛する男の価値観を優先に考えてくれ、俺という男にすべてを委ねて、黙ってついてきてくれる、純玲だけである。

「わたしはダメな人間なんだ。何もできない人間なんだ。私のような脳の欠陥を抱えている人間に、生きる道はないんだ」

 布団に泣き崩れる純玲を、俺はぎゅっと抱きしめてやる。

「なんにもできねえ人間は、ずっと卑屈にしてなきゃいけねえのか?自分をダメだと思って生きていかなきゃいけねえのか?そんなわけがあるか。お前は最高だ。俺のような、生きてちゃいけねえ人間でも愛することができる、優しいお前のどこがダメなんだ。できなかったら、少しずつでもできるようになりゃあいい。十や二十にはなれなくても、一だったものが二にも三にもなれば、それでいいじゃねえか。それを評価しねえ世間の方が悪いんだ。今回はできなかったかもしれないが、明日からもう一度、俺と二人で、生活を立て直してみよう。二人でちょっとずつ、片付けていけばいいよ。一人じゃ無理なことでも、二人ならできる。お互いの足りないところを、お互いが補っていけばいいんだ。マイナスとマイナスを掛ければ、プラスになるんだ」

 俺が何より嫌うキレイごとのような言葉が、何の違和感もなく、スッと口をついて出てきた。

 俺にもけして、聞こえのいい言葉がまったく受け入れられないわけではない。ただ、唐津のように、あらゆる物事を自分の都合の良いように解釈することができない俺には、聞こえの良い言葉を、拒絶反応を起こすことなく体内に受け入れられるまでの時間が人一倍長く、乗り越えなくてはいけない試練が、人一倍多いだけである。

 俺にとって、過去の「汚点」であるゆかりを、俺に過去、屈辱を味あわせた莉乃と纏めて始末するという大仕事を二人でやってのけたことによって、俺と純玲は、いかなる矛盾も介在しない、何者も立ち入れない固い絆で結ばれた。キレイごとではなく、俺が世間にケジメをつけるために力を貸してくれた純玲とならば、俺は何も疑うことなく、明るい未来へと向かって踏み出すことができる。

「俺が生きてちゃいけねえ人間と、誰が決めた?」

 布団に包まり、純玲の華奢な身体を抱きながら、俺は先ほどの自分の言葉に対して問いかけた。

「俺が生きてちゃいけねえ人間と、誰が決めた?生きてちゃいけねえ人間が幸せになっちゃいけねえと、誰が決めた?糞みたいな世間の価値観に従う必要はないと考えられたら、人間はどこまでも自由だ。俺は世間を、どこまでも嘲笑ってやるよ。同級生を殺人犯まで追い込み、実の両親の精神を崩壊させ、二年間も連れ添った女をボロボロにして殺した俺が、お前とラブラブで、幸せになるんだぜ。社会正義も糞もねえだろ」

「ほんとに?私たち、幸せになれる?」

 純玲が自問自答する俺に顔を向け、丸く大きな瞳を輝かせた。

「それは、どうだろうな」

「わからないの?」

「俺は今まで自分がやってきたことを、なんとも思っちゃいねえ。反省も後悔もしてねえ。俺たちがこれから幸せになることが後ろめたいなど、欠片も思っちゃいねえ。俺たちが幸せになるにあたっての障害は一つもねえ・・・・。ただ、俺に屈辱を味あわせたヤローを放っておくわけにはいかねえ。あいつを野放しにしたまま、幸せの階段を上らせたまま、新しい人生を踏み出すことはできねえ」

 俺は純玲を抱いたまま、視聴中の動画を中断して、手の内で鳴動するスマートフォンの通話ボタンを押した。

「アニキ?なんか、さっきから東山先輩が、アニキの名前を叫んでるんですよ。言ってることはよくわからないんですが、かなり興奮した様子で・・・。それから、唐津の名前も叫んでいるようです」

 生放送の動画にチラチラ映る桑原は、左の頬を押さえており、受話口の向こうから聞こえてくる声は、やや聞きとりにくい。桑原は、敵、味方の区別もつかなくなった東山から、殴打を受けてしまったらしい。

「・・・・ちょっと、東山に代わってくれよ」

 しばらくして電話に出た東山は、かなり興奮した様子で、送話口に荒い息を吹き込んでいる。俺は自分からは何も問いかけることなく、東山が喋り出すのをじっと待った。

「・・・・こっちに、来い。あいつも、連れて来い」

 低く押し殺した声。こっちに、というのが東山の自宅を指し、あいつも、というのが、唐津を指すのは、聞かなくてもわかった。

「唐津を連れて行くのはいいけどよ。お前がこれから、俺たちを呼んで、何をしようとしているのかを教えてくれよ」

「・・・・・」

 俺が質問すると、東山はだんまりになってしまった。言った瞬間、俺が来なくなるとわかるような理由なのか。あるいは、東山自身にも、俺と唐津をなぜ呼ぼうとしているのかが、はっきりとわかっていないのか。

「俺らがもし来なかったときは、何が起きるの?」

「・・・・・」

 東山は、この質問にも答えようとしない。来いと言っておきながら、用件は言わない。非常識な態度であり、東山以外の人間なら、当然断るところであるが・・・。

「・・・わかった。すぐ行くから、ちょっと待ってろ」

 電話を切った俺は、すぐに唐津に電話をかけた。

「よう、団体交渉は終わったかよ」

「ええ。ほぼ、予定通りの条件で、先方とは手打ちが済みましたよ。ちょうど、蔵田さんにも報告しようと思っていたところです」

「そっか。それじゃ、東山はクビってことだな」

「そういうことになるみたいですね」

 宮城に対する莉乃と同様に、まるで、他人事のような言い草である。こいつは、自分が踏みつけてきた人間の痛みを、自分が人を踏みつけていることの罪悪感を、ずっとそうやって処理していくつもりなのだ。

 こんなヤツと一緒にいたら、せっかくメタメタにしてやった莉乃も、すぐにまた息を吹き返してしまう。何としても、今、このタイミングで、何もかもご都合主義の唐津を、心身ともに粉砕してやらなければならない。

「その東山が、俺と君を呼んでるみたいなんだ。案内するから、一緒に来てくれないかな」

「え・・・いや、でも・・・・」

 唐津の声のトーンが、露骨に落ちる。

「いいから来いよ。東山にも人生があり、大切な家族があったんだ。そいつを君はぶっ壊したんだぜ。このままタダで済ますわけにはいかねえだろ。人として」

「うーん・・・いや・・・しかし・・・」

 唐津も少しは、東山を破滅させてしまったことに対し、罪悪感を感じているようである。これが低収入の派遣スタッフのままだったら、東山に情けはまったく感じなかっただろうが、唐津は間もなく、彼にとって価値のある、正社員となるというのが大事なところであった。自分にこれから開けている未来と、東山の崩壊した未来を見比べて、その落差に平然としていられるほど、図太い神経は持ち合わせていなかったのだ。

「とにかく来いよ。来て、会って、話だけでも聞いてやれよ。じゃねえとアイツも、納得して次のステップに進めねえだろうが」

 次のステップなど、あるはずがない。元殺人犯の男が、世間に面が割れて、家族も仕事も失って、ここからどうやり直せというのか?東山にとって、次のステップは破滅のステップ。踏み出した瞬間、唐津の命は刈り取られるのである。

「・・・わかりました。話をするだけなら・・・」

「おう。派遣会社には連絡すんなよ。止められるに決まってっからな。取り敢えず、駅まで来いよ。着いたらまた、連絡してくれ」

 渋々ながらも唐津が承諾したのを受け、俺は電話を切り、洗面所に立って、「最後の舞台」に立つために、軽く身だしなみを整えた。

「悪い。ちょっと、行ってくるわ」

「帰ってくる・・・?」

 何かを察したらしい純玲が、布団から出て、不安げな面持ちを向けながら尋ねてきた。

「わからん、な・・・・・」

 東山が「ラストダンス」を始めたと知ったときは、正直戸惑った。東山の性格をよく知っている俺なら、十分予想できた範囲ではあったと思うが、迂闊にも、想定外の行動だった。

 俺としては、東山がもっと静かに唐津を殺害して、東山もひっそりと、山の中かどこかで命を断ってくれないかと期待していたのだが、そうは問屋が卸さなかった。東山は、世間にケジメをつけて死ぬにのはいいにしても、人生を終える前に、自分が「ヒーロー」であることを世間にアピールし、自分の名誉が回復されたのを確認してからでなければ、死んでも死にきれなかったのだ。

 これから俺が唐津とともに東山の自宅まで出向いたとき、いったい何が起こるのか、東山は一体何をするつもりなのか、俺にはまったくわからない。東山は、群衆の前で俺を殺すつもりなのかもしれないし、あるいは唐津を殺害した後、俺がやってきたことも群衆の前ですべてばらして、道連れにしようとしているのかもしれない。

 リスクも承知で、敢えて行ってやろうと思う。この身一つで出かけて、東山の好きなようにやらせてやろうと思う。リスクというなら、むしろより大きなリスクは、せっかく死にゆこうとしている者の願いを聞き遂げることもなく、無視を決め込むことだ。

 十八年前、「生存競争」における大逆転の望みをかけていた合唱コンクールを潰された東山は、自分の感情を爆発させる場所も失って暴走し、あろうことか、学校でただ一人の味方であった、山里愛子を殺害した。

 「死に場所」を失った男は、思いもかけぬ大暴走をしてしまうものだ。ここで東山を無視した場合、疑心暗鬼を募らせたあの男は、山里愛子同様に、東山の個人情報が流出してからは一貫して味方だった俺に刃を向けてしまうかもしれない。

 もし、東山に呼ばれたのが俺だけだったら無視という手もあり得ただろうが、東山は俺だけではなく、唐津も呼んでいるのである。

 東山は、もしかしたら、俺と唐津、二人纏めて殺すことを企んでいるのかもしれない。だったら、東山が唐津を殺害している間に、俺は何がなんでも逃げ出せばいい。

 あるいは、東山は、俺と唐津、どっちを本当に殺すべきか、まだ考えあぐねているのかもしれない。だったら、どうにか説得して、現場で最後のひと押しを加えて、俺ではなく唐津を殺す方向にもっ ていくように努力すればいい。

 ピンチとチャンスは、常に同時にやってくるものだ。チャンスが百パーセント、魅力的な笑顔を浮かべながらやってきたときには、大抵、大きな落とし穴がある。今度のように、チャンスが目元で笑いながら、口元はへの字に曲げながらやってくるぐらいのときの方が、逆に信用できる。

 ここが俺の人生で、一番の正念場だった。復讐計画が大詰めを迎えたところで、中途半端に自分の命を惜しんでチャンスを逃し、未来への扉を閉ざしてしまうか?最後の最後、命を投げ出して、未来への扉をこじ開けるか?

「ったろうじゃぁねえか」

 ヒゲをあたり、顔を冷水で洗った俺は、大声を出し、両手で頬を張って、自分に喝を入れた。

 好きな女のために、男になる――好きな女との未来を踏み出すために、命を投げ出ず。少し前なら、怖い以前に、恥ずかしくなって逃げ出してしまっていただろう爽やかドラマみたいな場面が、まったく抵抗なく受け入れられた。矛盾を乗り越えるのにかかった時間が長く、苦労が大きかった分、今の俺の純真さ、ひたむきさは、甲子園の決勝戦に挑む高校球児にも勝っていた。

 どんな変態セックスをしても、こんな気持ちは味わえなかった。俺がこんな瑞々しい気分を味わえるなんて、夢にも思わなかった。回り道は、けして無駄ではなかった。

「じゃ、ちょっと、行ってくるよ」

「私は、待ってるよ。いつまででも、待ってるよ」

 愛する女が、俺を待っている。きっと帰ってくる。

 憎き世間に、小さな糞を擦りつける――。

 決着のときである。



外道記 改 20


                  
                      20


 労働者階級の人間がもっとも幸せを噛みしめる、金曜の夜――。俺は地蔵山で桑原とともに、折り畳み式の三脚に腰かけ、にんにく大魔人といちごの愛の巣を見つめていた。

「アニキ、本当に、にんにく大魔人は現れるんですか?俺、東山先輩を守らないといけないんですけど・・・」

「大丈夫だ。きっと現れるよ、奴は」

 不満を漏らす桑原は、十八時に俺に呼び出され、二十一時を迎えた現在まで、地蔵山の山小屋から二十メートルほど離れた山道の木陰で、山小屋の見張りを続けている。「使命」を妨害してしまっているのは申し訳ないが、俺とてまったくアテがなく、桑原を呼び出したわけではない。

 にんにく大魔人は、山小屋に侵入者が現れたとわかった今でも、定期的に、地蔵山の山小屋を訪れているはずである。なぜならば、ヤツには妊婦であるいちごのために、カロリーメイトなどの保存食ではなく、出来得る限り、新鮮で栄養のある食料品を届ける義務があるからだ。野菜やハム、ソーセージなどは、冷蔵庫に入れておかなければ、すぐに傷んでしまう。確かに、今は莉乃も食料を届けに来てはいるが、莉乃はにんにく大魔人にとっての「天敵」である。天敵の行動に依存するはずはない。最低でも二日に一辺は、にんにく大魔人は山小屋に足を運んでいるはずだ。

 明日は土曜日。午前中、にんにく大魔人の天敵、莉乃が、地蔵山に食料供給に現れる予定となっている。莉乃が山小屋に置いていった物資から、にんにく大魔人は、莉乃が地蔵山に訪れるスケジュールを、概ね把握している。俺の予想が正しければ、救いようのない腰抜けであるにんにく大魔人は、莉乃が来る日を避けて、愛するいちごとの逢瀬を楽しんでいるはずである。

 丁を引くか、半を引くか・・・・。今日、ここでにんにく大魔人を捕獲できなかったとすれば、俺にはもとより、大仕事を成し遂げるほどの運の強さがなかったというだけの話。未来を切り開きたい俺の思いが天に届いているなら、にんにく大魔人は必ず現れるはずだ。

「しかし、虫が多いですね、ここは。いちごのおかげで、エサには困らないんでしょうね」

 桑原の言う通り、夜を迎えた山小屋の周りには、いちごの糞を食って大きくなったと思われる多数の昆虫類が、活発に活動していた。その大半は、シデムシの幼虫のように、足が沢山あり、黒光りしたグロテスクな外観をしているが、中にはエメラルドグリーンの光沢を持ったアオオサムシのように、食糞を生業として生きているとは考えられないほど煌びやかな色合いをした個体も存在する。

 この虫たちは、いちごが毎日、でかい糞をひりだしていなければ、成虫になれたかわからなかった。自然妊娠の確率が二十代の一割ほどにも落ちるという四十代になってから、毎年のように俺の子を懐妊したことといい、類まれな母乳の量といい、あの女には、生命を産み育てるということにおいて、非凡な才能があったのかもしれない。

 二十代のうちに、まっとうな男のところに嫁に行けておれば、子どもに囲まれて幸福に生きる人生があったのかもしれぬが、両親の中途半端な育て方のせいもあり、そうした希望は潰えてしまった。しかし、四十代になっても女は女。むしろまだ四十代なら、簡単にホームレスになどなれば、あっという間に、俺のような性的少数者や、にんにく大魔人のような極端に容姿に不自由のある男の餌食になってしまう。哀れではあるが、あの女には運がなかったというしかない。

「・・・・あ!」

「・・・・来たな」

 山道の下の方から、枯れ葉を踏みしめる音が聞こえる。しばらくして、闇の中に、ポッと淡い光が灯った。山小屋の窓の向こうで、電気ランタンが焚かれたのであろう。今までいちご一人がいただけの山小屋では、照明の類はまったく使われていなかった。紛れもなく、山小屋のもう一人の住人、にんにく大魔人が現れた証拠であった。

「行くぞっ!」

 俺と桑原は、三脚から腰を上げ、にんにく大魔人が到着したばかりの山小屋へとダッシュした。桑原が腐った木戸を蹴飛ばして開け、一気に突入した。

「うらあっ!!」

 三時間近くも待たされて、すっかりフラストレーションの溜まった桑原の飛び蹴りが、山小屋の入口付近で、大きなビニール袋を持って立っていた巨漢男を直撃した。朽ちてささくれだった壁まで吹き飛んで倒れた巨漢男は、目を白黒させ、口をパクパクさせて、驚きを露わにしている。

 噂通り、濃厚に漂うにんにくの香りから、巨漢男がにんにく大魔人であることは、すぐにわかった。しかし、電気ランタンの淡い光の中に浮かぶその男が、俺と桑原が良く知る、宮城利通と同一人物であると知るには、ある程度の時間が必要であった。

 厚ぼったいまぶたと、糸のように細い目。まさににんにくのような形をした、大きくつぶれた鼻。腐った明太子のような分厚い唇。顔面のパーツと、下膨れのひょうたんのような輪郭、顎で大根がおろせそうなほどの硬そうな青ヒゲは、確かに、俺の知る偽善豚男、宮城利通の面影を残してはいる。しかし、あの男はけして、すだれのようなハゲ頭はしていなかった。くすんだ土気色に見えるほど、肌の血色が悪くはなかった。顔の下半分に、ビーフの燻製のような瘡蓋が、無数にあるわけではなかった。

 ハゲは自殺を考えるほどのストレスで、肌は偏った食生活で、瘡蓋は、硬いヒゲを安物の剃刀で剃ったことからできたものであろうが、にんにく大魔人の外観は、少し見ないうちに、一段と醜悪さを増していた。夜道で出くわしたら、莉乃でなくとも卒倒してしまいそうだ。こんな見た目をした男が、自分の遺伝子を残す可能性のある精子を作る、というのは、確かに犯罪かもしれない。

 しかし、確実に言えるのは、この男はホームレスにさえならなければ、ここまで見た目を悪化させることはなかった、ということだ。そして、これは莉乃だけの罪ではないが、世の中の女が「恋がしたあい」と願うこの男に、少しでもいいから恋をさせてやれば、この男がホームレスにまで身を落とすことはなかったはずである。

 やはりこの男――にんにく大魔人こと宮城利通は、世の女に復讐をしなければならない。そしてこの俺、蔵田重治は、かつての隣人のよしみとして、社会不適応者の先輩として、宮城の復讐の手助けをしてやらなくてはならない。俺は自らの胸中に、義憤めいた感情が横溢してくるのを感じた。

「くぉの、化け物がっ!」

 桑原の殴打、踏みつけの連打により、にんにく大魔人はすぐに抵抗する気力を失い、怯えた子豚のような目になった。後は手足をガムテープで縛り付けてしまえば、にんにく大魔人の捕獲は成功といえるだろう。一安心したところで、俺は山小屋の中にいるはずの、もう一人の化け物がいないことに気が付いた。

「ゆかりは・・・?」

 山小屋の中には、にんにくの臭いに混じり、いちごこと、ゆかりの残り香――百獣の王、ライオンの臭いも漂っている。まだ、近くにいることは間違いない。山小屋を飛び出してみると、ゆかりはあっさりと見つかった。

「けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご」

 小屋の中から消えたと思われたゆかりは、小屋の前で、寮の宮城の部屋から逃げ出したときそのままのワンピースの裾をたくしあげ、イボが多数浮かび上がった尻をこちらに向けながら、大地に肥料を与えている最中であった。夜目に見える限りで、定かではないが、ちゃっかりしたシデムシ、ワラジムシ、オサムシ、チャバネゴキブリなどの虫どもが、湯気を放つ新鮮な糞の周りに、もう群がってきているようである。

「よう。久しぶりだなぁ。ゆかりちゃんよ」

 俺が近づいていくと、怯えたゆかりは、バランスを崩し、虫たちごと糞をプレスしてしまった。ライオンの香りに、糞便の香ばしい臭いが混じる。

「来いっ!」

 俺はゆかりの、黒々としたわき毛が生い茂る脇に手をはさみ、尻も拭いていないゆかりを、山小屋の中に引きずっていった。腹に子を宿しているとはいえ、それ以上に脂肪が落ちているゆかりの身体はさほど重くはなく、難なく運び込むことができた。

「アニキ・・・・大変なことに気が付いてしまいました」

 俺が山小屋に戻ると、まだ東山に殴られたときの痣を残す桑原が、強張った面持ちで、神妙に言ってきた。

「大変なこと?」

「にんにく大魔人のような不細工は、余程の幸運に恵まれなければ、ソープでしか女と性交する機会を得ることができません。ソープの女は、言うまでもなく、マンコを殺菌消毒し、常に清潔にしています。つまり、女の洗っていない、臭いマンコをクンニすることがなく、雑菌を体内に取り入れる危険性とは無縁です。もちろん、性病の恐れもない。つまり、不細工童貞=キレイ、清潔、という公式が成り立つということです」

 久々の、桑原大教授の有難いご講義である。いつもなら、適当に相槌を打って終わりにするところだが、女の陰部と聞いては、俺も黙っているわけにはいかない。

「そいつは甘いな。確かに、にんにく大魔人のような不細工の童貞は、女の臭いマンコを嗅ぐ機会は滅多にないかもしれないが、自分が性交の機会に恵まれるという希望がないため、自分自身の陰部の手入れを怠りがちだ。そのため、亀頭を覆い隠す包皮を剥けば、たちまちイカのような臭いが辺りに漂う。つまり、不細工童貞=くさい、汚いという公式が成り立つはずだ」

「それはアニキのような、ズボラな包茎だけです。にんにく大魔人のような不細工童貞というものは、女のマンコをフローラル・ハミングな臭いがするものと勘違いをしているものです。そのため、いざセックスの機会を得たとき、自分だけが臭くて相手に不快感を味あわせまいと、デート前に三回以上もお風呂に入ってしまうものです。つまり、不細工童貞=キレイ、清潔という公式が成り立つはずです」

「いやいや。にんにく大魔人のような、気が弱く、自分に自信がない童貞は、初めてのセックスにおいて、焦りからくる心因性EDに陥りがちだ。そのため、確実に勃起をするためには、にんにく大魔人のように、大量のにんにくを摂取しなければならない。つまり、不細工童貞=くさい、汚い、という公式が成り立つはずだ」

「それはアニキのような、気の弱いインポだけです。大体、ちんこを硬くするなら、にんにくなどに頼らず、バイアグラを使えばいいじゃないですか」

「なにを・・・」

 俺たちのやり取りに何かを感じたのか、宮城が口元と手足を動かし、再び抵抗する姿勢を見せ始めた。間髪入れず、桑原が、おろしにんにくを大量に入れたとんこつラーメンなど、こってりした食べ物ばかりを食べ続けたせいで、失踪時よりも膨れ上がった腹につま先をめり込ませる。

「ごふ、ぐふ、がふぅ・・・・」

 腹を蹴られた宮城が流す涙には、蹴られて横隔膜が痙攣を起こしたためだけではなく、ようやく見つけた自分の女との、愛の巣までもを侵略された口惜しさも含まれているであろうか。

 罪悪感は感じない。こんな仕打ちを受けるまで決起しなかった、往生際の悪いこの豚が悪いのである。

 しかし、俺がこうして出向いてやったからには、もう宮城は、悔し涙を流すことはない。これから、莉乃がやってくる朝までに、理と実をもって、宮城に復讐以外の選択肢がないことを思い知らせてやる。宮城のかろうじて残った良心もすべて破壊し、復讐の鬼へと変貌させてやる。

 今は俺を恨んでも、後々には、必ず俺に感謝するときがくる。いま、莉乃に復讐をしなければ、宮城は男になれない。今から繰り広げるのは、俺が宮城へ送る愛のムチ、これ以上はない最高のプレゼントである。

「おう莉乃ちゃん。宮城の野郎、捕まえてきたぜ。ますます気持ち悪い見た目になってたよ」

「もしもし・・・眠いよ、重治さん」

 俺が電話をかけている相手は、純玲である。宮城を陥れるため、莉乃のふりをして電話に出ろと、純玲とはあらかじめ打ち合わせをしておいたのだ。

 宮城の前で、莉乃に電話をかけている風を装いながら、宮城を追い詰めることにより、宮城の怒りを莉乃に向かわせる――この土壇場においても、俺の基本な作戦は、宮城をメールで壊したあのときと変わっていなかったが、今度は中途半端はしない。今度は徹底的にやって、宮城利通という人間の外套を完全にひき剥がし、性欲の怪物、にんにく大魔人を覚醒へと導く。理性を失い、獣となった宮城を、明日の朝、山小屋まで上ってきた莉乃とかち合わせ、莉乃を襲わせるのである。

「え?唐津くんが、日本エクシオの最終面接で、ゆかりに餌をやってたことをアピールしたら、内定をもらった?すげえじゃんか!晴れて正社員だな。おめでとう!」

 日本エクシオ――かつて宮城が、最終面接を受けるとか自慢していた、IT企業である。今の身なりからして、入社を果たせなかったに違いない会社に、唐津が入った。それも、愛するいちごを保護する行為をアピールしたことが評価されたのだと聞いて、宮城が平静でいられるはずはなかった。

「うん。それじゃあ、莉乃ちゃんは、唐津くんと結婚するんだな。よかったな、おめでとう。宮城で妥協しなくてよかったな。え?たとえ世界で宮城と二人きりになったとしても、結婚はしないって?あははは、そりゃそうか」

 うつろな目をずっとゆかりに向け、口からはよだれを垂らしている宮城は、俺が伝える嘘の情報に、心を動かされていないかのようである。莉乃のことは、キッパリと割り切っていたのだろうか?そんなはずはあるまい。莉乃のことで心が壊れていなければ、こんな山の中で、百獣の王の臭いを放つ実年齢四十四歳、見た目六十歳の女を保護しているはずなどない。

 宮城が取り乱さずにいられるのは、今現在の希望、癒しが、目の前にあるからであろう。すなわち、ゆかり――宮城にとってのいちごは、今、彼にとって、かつての莉乃と同等以上の存在となっているのだ。

「それじゃあ、用済みのゆかりはどうする?行政に連絡して、保護してもらおうか?」

「む、ぬ、ぐぅ。む、ぬ、ぐぅ」

 俺の推察通り、ゆかりを行政の手に引き渡すという言葉が出てきた瞬間、宮城はあからさまに動揺を始めた。莉乃は自らを言いたい放題に言い、精神を崩壊させたばかりか、せっかく見つけた女体までをも奪おうとしている――。宮城が逃げ続けていた現実が、いまや目の前に迫っているのである。

 しかしこれだけでは、今までずっと、俺が宮城に対して行ってきたアプローチの延長にすぎない。こんな三文芝居を打つためだけに、わざわざ宮城を捕獲したわけではない。宮城を復讐鬼に変えるための作業は、ここからが本番だった。

「え?行政に突き出す前に、いちごをうんとイジメた方がいいって・・・?うん。そうだな。たしかに、にんにく大魔人の子供が生まれちまったら、不細工でイジメられて可愛そうだから、いまのうちに流しちまった方がいいよな」

「ぬ、む、ぐぅ。ぬ、む、ぐぅ」

 無論本気ではないし、流産など、させようと思っても簡単にするものではないが、流すというキーワードが宮城に与えた衝撃は、並々ならぬものがあったようである。

 実際には、ゆかりの腹に宿っているのは、宮城ではなく俺の子である。しかし、ゆかりから生まれてくる子を、自分の子として育てる決意を固めているであろう漢・宮城にとっては、自分の子を殺されようとしているのと同じこと。宮城にとっては、ゆかりが行政の手に引き渡されることと同じくらいに、動揺するべき事態である。

「イジメただけで流産するかはわからねえが、まあ、やれるだけのことはやってみるよ。じゃ、また後でな」

「流産?重治さん、あの豚を流産させるの?そんなことして、大丈夫?」

 純玲には、莉乃を懲らしめる計画に、にんにく大魔人とゆかりを使うということしか伝えていない。物騒なキーワードを聞いて、彼女が不安になるのは無理もないが、莉乃と会話をしている芝居をしている以上、もちろん、詳しいことを教えるわけにはいかない。純玲にはすべてが終わったあと、説明してやればいい。

 俺は電話を切ると、薄ら笑いを浮かべながら、山小屋の奥で、けんじ地蔵とたつや地蔵を抱えながら震えているゆかりに歩み寄っていった。実はさっきから、俺の玉袋の中で作られているおたまじゃくしが、爆発寸前である。ゆかりをイジメるだけでなく、これから先の仕事を冷静な頭で遂行するためにも、ここで性欲に一区切りをつけておく必要があった。

「けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご」

「くせえなあ・・・くせえなあ、ゆかり・・・。ゆかりがくさければくさいほど、俺は興奮するぜ。くさいはかわいい。くさければくさいほど、きもちいい・・・」

 自分の言動にますます興奮した俺は、スウェットをおろし、カチカチに硬直したイチモツを露わにし、カウパーを垂らす先端で、痩せて萎びた、皺だらけのゆかりの頬を打ち付けた。百五十キロの直球をクリーンヒットしたような快感が、全身を包む。

「うおおっ。もう、たまらねえっ」

 俺はゆかりが着ている、赤いお姫様ドレスを引き千切り、ゆかりをボテ腹丸出しの全裸に剥いた。ゆかりは痩せて皮膚が垂れ下がった手足をもぞもぞと動かして、抵抗するそぶりを見せたので、顔面をサッカーボールのように蹴り飛ばしてやると、大人しくなった。

 Tシャツも脱ぎ、生まれたままの姿となった俺は、さっそくゆかりの、三か月は洗っていない股間に、鼻を埋めた。百獣の王ライオンの臭いの発信源は、見た目には何の変哲もない、やや毛深いのが気になるくらいの、普通の女のヴァギナである。しかしその臭気たるや、もう何度もゆかりのヴァギナを嗅ぎなれた俺でも、目が染みるのを堪えられないほど強烈であった。百獣の王ライオンの臭いではなく、百獣の王ライオンの死骸を炎天下に三日間放置し、そこにドリアン、納豆、魚介類の死骸を一緒に置いたときの臭いである。

 臭さを消すためには、なめてきれいにしてあげるのが一番である。俺はゆかりのヴァギナに、幼子がちとせあめを舐めるように、舌を這わせた。大量の雑菌が口に入ったことで、舌や歯茎に、毒素のある葉っぱを噛んだときのような、強烈な痺れを感じる。しかし、その刺激が、東南アジア原産の檳榔を噛んだようで心地よい。二十回ほど、優しく愛撫をしてやると、臭いは最初の半分ほどまで消えていた。

 いったん、口を離して、唾液を飲み込もうとしたとき、口の中で、何か小さなものが蠢いていることに気づいた。おそらくは、濃い陰毛にアブラムシのように付いていた、毛じらみであろう。俺は口の中に含んだ毛ジラミを、奥歯で潰して飲み込んだ。ぷちぷちと、数の子のような食感がして、なかなか美味だった。 

 ゆかりのヴァギナをなめ、汗と小便に含まれる塩分を摂取したせいであろうか、喉が渇いてきた。山小屋の中には、宮城が備蓄していたミネラルウォーターがあるが、水ではちと味気ない。

「おい!おしっこ出せ。出さないと、てめえのお腹を殴って、ほんとうに子供を流してやるぞ」

 ゆかりと同棲していたころから、ゆかりには、俺が脅せばすぐに尿を出せるように訓練を施してある。尿道のところで口を開けてスタンバイしていると、すぐに暖かい液体が流れ出てきた。

 おしっこがある程度の量溜まると、俺はそのまま、ゆかりの陰部全体に舌を這わせて、シラミ、カンジタ菌、大腸菌、ブドウ球菌、トイレットペーパー、垢、汗といった、悪臭の原因となる物質を、まとめて口内を揺蕩うおしっこに混ぜ合わせた。続いて、俺はゆかりの身体を反転させると、おしっこを口内にうまくキープしたまま、ゆかりの尻を舐めて、おみそを溶かす要領で、肛門まわりに付着したゆかりの大便を、キレイにおしっこの中に溶かし込んだ。

 ゆかりの尻には、さっき潰したゴキブリの死骸が、糞の粘り気で張り付いていたが、それは指ではねのけた。俺は人間の女の身体から出る汚い物質が好きなのであり、ただ単にグロテスクな物が好きなわけではないのである。

 完成した液体を嚥下しようとしたところで、大切なものを忘れていたことに気が付いた。

「ひるふを、まべねえとな・・・」

 ゆかりの乳首を口に含み、乳房をキュッと絞って、おしっこの中に、母乳を混ぜ合わせた。塩味の中に仄かな甘みが加わり、クリーミーなコクを醸し出す・・・。これで、飲んだら腹痛必至の、雑菌盛りだくさん、スペシャルブレンドジュースの完成である。俺はマニア垂涎のドリンクを、胃袋に流し込んだ。

「う・・・・うおおおおっ」

 栄養ドリンクのCMではないが、元気一杯になった俺は、カウパーしたたるペニスにコンドームをはめ、お掃除をしたばかりのゆかりのヴァギナに差し込んだ。すぐにでも射精してしまいそうな快楽に抗い、腰を振る。安定して性行為に励める容姿を保つ、下半身の運動をする。

「ぐむぅ、ぐむぅ、ふっ。ぐむぅ、ぐむぅ、ふっ」

 俺の子が宿るボテ腹に、純玲と出会って食欲を取り戻したお陰で少し肉がついてきた俺の腹を何度もぶつけられ、ゆかりが苦しそうな呻き声を漏らすが、脊髄を走る快楽には抗えないのであろう、喘ぎ声も混じっている。定期的に乳房を絞り、母乳を飲んで水分補給をしつつ、俺はゆかりを突いた。

 先ほどの桑原の講義ではないが、俺はゆかりを犯すのに備えて、家を出る前、一時間もかけて、入念に身体を洗っていた。過剰なほど清潔にした身体で、異常なほど不潔なゆかりと情交を交わす。その構図に、最高の興奮を覚える。

 宮城のような童貞は、女の身体というものを、フローラル・ハミングな香りがするものと思い込んでおり、汗臭い男の身体でそれを抱くのは失礼であるとして、デート前に三回はお風呂に入ってしまうものだという説を、先ほど桑原の口から耳にした。つまり俺は、フローラル・ハミングな香りがする身体で、誇り高き獅子の香りがするゆかりを犯すことで、宮城のこれまでの常識を、ぶち破ることができたのだ。カタルシスを感じずには、いられなかった。

「アニキ・・・大丈夫ですか?いくらゴムをつけても、ちんこが腐っちゃいますよ・・・?」

 俺がゆかりを犯すのを茫然と眺める桑原が、宮城を取り押さえる力を弱めてしまったせいで、宮城が突然起きあがって、俺に向かって突進してきた。

「弱い人を、いじめるな!弱い人を、いじめるな!子供は、僕が守る!」

 九十キロ近い宮城のタックルを受けて、俺はゆかりとの接合を解除され、壁際まで吹き飛ばされてしまった。

「大丈夫、ですか」

 宮城が、朽ちて穴の開いたござの上に横たわるゆかりを抱き起そうと、肩に手をかけたが、ゆかりは思いのほか強い力で、宮城の手を振り払った。強姦しようと襲いかかる俺を拒絶するよりも、明らかに強い力で、である。

「大丈夫、ですか」

「やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて」

 宮城が懲りずにもう一度手を差し伸べたのを、ゆかりはまた振り払った。パシッ、と、小屋中に響き渡る大きな音が鳴る。

 自分を散々ばら酷い目に遭わせてきた男でも、見た目さえまともならば大した抵抗もせず身体を明け渡し、自分を善意で助けようとしている男でも、見た目がブサイクならば、自分に触れるだけでもは猛烈に抵抗する。

 宮城からすれば理不尽であり、酷い話であるが、俺は興奮した。ゆかりのようなお下劣な女といえども、女は女。女から好かれるというのは、理屈抜きに嬉しいものだ。そして、自分を愛した女に選ばれなかった男を見下し、あざ笑うのは、唐津と莉乃に苦しめられた俺にとっては、何よりもに楽しいものである。

 ライオンにウサギを奪われたジャッカルの心の傷は、新しいウサギを手に入れることだけでは癒えはしない。生態系を乱すライオンの横暴によって味わった悲しさ、悔しさをチャラにするには、自分が味わったのと同じ感情を、自分より弱い、別の生物に味あわせなくてはいけない。

 ジャッカルにミミズを奪われたドブネズミの心境――。まともな容姿の女と恋愛をすることを諦めた宮城は、最低限、女の形をしていればいいとまで理想を落とし、ゆかりに求愛したが、宮城はそんな、人間かどうかもギリギリのゆかりにまで拒絶されてしまった。

 ゆかりが選んだのは、大兵肥満にしてすだれハゲの宮城ではなく、けしてイケメンではないが、バカにされるほど酷くはないまともな容姿をした、俺であった。俺は、高望みさえしなければ、宮城が望んでも手に入れられないまともな容姿の女を抱けるくせに、豚男の宮城が、せめてこれくらいはと思う、悪臭にまみれた中年女を掻っ攫っていったのである。

 豚男の宮城は、女に好かれるために、やりたくもないボランティアをやり、女にバカにされすぎたせいで拗けてしまった心を必死にキレイなように装うなど、血のにじむような努力をしていた。にも関わらず、汚いゆかりに振られてしまった。

 一方、俺は、何の努力もしないどころか、ゆかりに暴力まで振るっていたにも関わらず、ゆかりに選ばれた。まさしく、俺が死ぬほど好いても手に入らなかった莉乃を、最初は莉乃をバカにしていた唐津が労せず掻っ攫っていったのと、同じ構図である。

 俺にゆかりを奪われた宮城の絶望を思うと、股間のものがいきり立って仕方がない。新しいウサギ――純玲を手に入れても、ずっと心の奥底に残っていたしこりが、ようやっと取れていくのを感じていた。莉乃と唐津への復讐を忘れてしまうような快感が、全身を駆け巡っていた。この快感を、もっと強烈に味わいたかった。あまりやりすぎると、宮城の恨みが莉乃ではなく俺に向かってしまい、作戦が失敗に終わってしまうとわかっていても、止められなかった。

「おい、にんにく大魔人。ゆかりはてめえに触られるのが、嫌だって言ってるぞ。やめてやれよ」

 宮城が、目の前で起こっていることが信じられないといったような顔で、俺とゆかりの顔を交互に見やる。

「聞こえねえの?ゆかりは、ブサイクで気持ち悪いてめえなんかに助けられるより、イケてる俺とセックスがしてえんだってよ。てめえがどんなにゆかりが好きで、ゆかりを幸せにしようとしても、ゆかりはブサイクなてめえと一緒に暮らすくらいだったら、ここで一人で野たれ死んだ方がいいんだってよ」

「そ、そんな――」

 宮城が口を動かした瞬間、桑原が宙を舞い、宮城に強烈なドロップキックを浴びせた。桑原は倒れた宮城に馬乗りになり、宮城の顔面に拳、鉄槌の雨あられを降らせる。

「調子乗ってんじゃねえよっ、にんにく大魔人!てめえみたいなブサイクは、恋をすんなよっ。お前を好きになる女なんて、一人もいねえよっ。お前に好かれた女は、自分がこんな化け物でも手に入れられるレベルの女と思われていたのか、と思って、落ち込んじゃうだろ!女が可愛そうだろ!女が可愛そうだから、お前はもう恋をすんなよっ!って!莉乃ちゃんが言ってたぞ!」

 桑原も完全に火がついてしまったようだが、宮城を好き放題に罵倒しながらも、最後に莉乃が・・・を付け加えて、これが莉乃の命令であるように装う冷静さは保たれている。かなり苦しいだろうが、ここはとにかく、俺たちはあくまで莉乃の意志を受けて、にんにく大魔人をイジメているのだという形で押し切るしかないだろう。

 桑原が宮城を殴っている間に、俺はゆかりににじり寄り、正常位でのしかかって、抜けてしまったペニスを差し込みなおした。もはや諦めているのか、三か月ぶりの快楽に抗えなかったのか、ゆかりはまったく抵抗をすることもなく、俺を受け入れた。

「おい・・・にんにく大魔人。みろよ、ゆかりを。気持ちよさそうに、感じているだろう?男はよ、顔がすべてなんだよ。心がキレイとか、関係ねえんだよ。顔がよくねえ男にはよ、女を抱く権利はねえんだよ・・って、莉乃ちゃんが言ってたぞ」

「にんにく大魔人!てめえのちんこが、なんで勃たねえか知ってるか?それはな、ブサイクな子供が生まれて、学校でイジメられて苦労しねえように、女がブサイクな子供を持って悲しまねえように、神様が、てめえを子供が作れねえ身体にしてやったんだよ!だからお前はおとなしく、セックスをしねえで生きろよ!人の楽しみはセックスだけじゃねえだろ!なんか別の趣味見つけろよ!って!莉乃ちゃんが言ってたぞ!」

 桑原と俺の口撃をダブルパンチで浴び、宮城はノックアウト寸前である。莉乃のせいにするのもかなり無理のある話になってきたが、もはや止められない。とにかく、莉乃と俺たちが味方であることだけ伝わればいい。いや、もう、復讐も何もかも、どうでもいいかもしれない・・・。かつてない量の雑菌にまみれたゆかりのヴァギナの襞から、ゴムを通して俺の亀頭に伝わる快感が、莉乃への恨みも、なにもかもを消し飛ばそうとしていた。

「にんにく大魔人・・・お前みたいな気持ち悪いはげデブには、女を愛する資格はねえんだよ。お前の存在価値はな、ブサイクでもギリギリ望みがあるくらいの顔の男に、自分より醜いヤツがいるって、自信を与えてやることだけだ。そして、お前への見返りは、何もない。バカにされるだけの運命から逃れたかったら、恋を諦めろ。女を諦めて、一生、アニメの世界の女と恋愛して生きてろ。って、莉乃ちゃんが言ってたぞ!」

 ゆかりの手を握り、身体をしっかり密着させて、おまけにキスをしてやりながら腰を振り、マグロ状態のゆかりを突きまくった。二人の愛がしっかり伝わる体位で、宮城がしたくてもできない、下半身の運動を見せつけてやった。

「うっうぉっうっうっうっ」

 宮城利通が、二十九年間積み上げてきたものが崩れていく。

 女に愛されるために――たった一人、自分を愛してくれる女を得るために生きた、二十九年間。いつか春が来ると信じて生きてきた、二十九年間。

 就職ができなくてもいい、貧乏から抜け出せなくてもいい、みんなに好かれなくてもいい、尊敬されなくてもいい。たった一人、人生の伴侶が得られれば、それでよかった。神は、宮城のそんなささやかな願いにすら、耳を傾けることはなかった。

 現代のフランケンシュタイン――。すべての希望を失った宮城利通の辿る道は、復讐しかないはずである。莉乃に振られただけではまだ立ち上がれなかった宮城も、これ以下はないと思ったゆかりにまで気持ちを踏みにじられて、いい加減に目が覚めたはずである。自分がこの社会、この世間と、絶対に相容れない存在――復讐者としての定めを背負った男だと、気が付いたはずである。少しやり過ぎてしまったかもしれないが、結果的には、これでよかった。

「うっうおっううっ。うっうおっううっ」

 宮城の流す涙が、どす黒い鼻血とともに、朽ちた床に染み込んでいく。底なしの慟哭が、山小屋の中にこだまする。

 可愛そうな男だと思う。東山には、自分が安住できる「巣」を作れた時期があった。俺にもこれから、人生のパートナーとの未来が待っている。しかし、宮城は、今まで一度として幸福な時期を過ごした経験がないまま、冷たい檻の中に閉じ込められなくてはならないのである。外にはもう出てこれないかもしれないし、長期の務めを終えて出てきたところで、もうペニスはにんにくを食っても役に立たない状態になっているかもしれない。俺、東山、宮城。三人の怪物の中で、一番可愛そうなのは、紛れもなくこの宮城である。

 なにかこの男のためにできることがあれば、この男がキッチリとこの世間にケジメをつけた後に、出来る範囲でやってやろうと思う。拘置所に差し入れに行くとか、友達として面会に行って励ますとか、まあ、そのぐらいのことしかできないが、哀れなフランケンシュタインを生み出しておきながら、何も手を差し伸べなかった世間よりマシだと思って、それぐらいで勘弁してもらいたい。

「うっうおゥっうおうっうおっ」

 すべての涙が枯れたあと、人間、宮城利通の皮が破れ、復讐鬼、にんにく大魔人が覚醒する。宮城の夢が、宮城の叫びが、慟哭とともに吐き出される。 

 女に、愛されたあい。女のぬくもりに、触れたあい。女の柔らかさを、味わいたあい。

 恋がしたあい。

「うっ・・・いくっ、いく」

 白濁の液を、薄いゴムの中に放出した。考えてみれば、避妊具をつけてゆかりと事に及ぶのは、これが初めてのことである。生でしたいのは山々であったが、ゆかりに万が一のことがあった場合、警察に体液を摂取されてしまうのは、非常にまずい。

 性欲に一区切りをつけた俺は、純玲に再び電話をかけた。今度は、芝居のためではなかった。

「おい。明日、莉乃と決着付けるからよ。お前も地蔵山に来いよ」

「え・・・?私、やらなくちゃいけないことがあるんだけど・・・」

「うるせえ。いいから来い。俺の言うことに従えなきゃ、お前を莉乃と同じ敵と見做して、酷い目にあわすぞ」

「わ、わかったよ・・・・」

「おう、絶対来いよ。朝の九時に、莉乃が山小屋に来ることになってっから、それまでにはお前も、山を登ってこい。遅刻すんなよ」

 前々から純玲の、俺の気持ちをまったくわかってないかのような態度、発言が気になっていた。この間こそ、俺に協力するかのようなことを言っていたが、具体的には、まだ何か手を貸してもらったわけではない。これからの明るい未来を信じるためにも、最後の最後、莉乃終焉の地に純玲を呼ぶことで、純玲に俺への、永久の愛を証明してもらう必要があった。

「うっうおゥっうおうっうおっ」

 精神を完膚なきまでに破壊されて咽び泣く宮城の顔面は、頬骨が折れたのか、焼き立ての食パンのように膨れ上がり、両目のふちにパンダのような痣ができ、平時は明太子のような太い唇は、紫色に腫れ上がってナマコのようになっていた。精神以上に、顔面の崩壊もすさまじい。この化け物のような顔を目にしたとき、莉乃がどれほどの恐怖を味わうかと考えると、今からワクワクしてどうしようもない。

「うっうおゥっうおうっうおっ」

 五十路男と見まごう宮城の、五歳児のごとき泣きっぷり。

 今のうちに、泣いておくがいい。夜が明けたら、この男には大仕事をしてもらわなければならない。明日になったら、泣いても喚いても、もう引き返すことはできないのである。

「うっうおゥっうおうっうおっ」

 今のうちに、泣いておくがいい。出すものを出してすっきりした俺は、純玲にも見せたことがない、地蔵菩薩のように穏やかな顔を、不適応の後輩、復讐の定めを背負った男、宮城へと向けた。

 その後も休憩をとりながら、連続してゆかりを犯しているうちに、空が白み始め、ランタンの光に頼らずとも、山小屋の中の様子が鮮明に見えるようになっていった。明けない夜はない。止まない雨はない。しかし、終わらない地獄は、ある。

「おい、にんにく大魔人。おまえ、ゆかりのことを愛してるんだったら、これ飲めるよな?」

「うぼぅふぉふぉっ。うぼぅふぉふぉっ」

 俺がプラスチックの使い捨てコップに作った「まんこ、おしりの雑菌ジュース」を鼻に近づけてやると、宮城は頭を振って、抵抗する素振りを見せた。

 莉乃たちが現れるまでの暇つぶし。しかし、これはにんにく大魔人の中に残った、わずかな人の心を消滅させる、大事な作業でもあった。

 その場の流れでちょっと暴れすぎて、莉乃がゆかりを散々利用した挙句、俺や桑原を使ってイジメようとしている―――俺や桑原の「親分」である莉乃に、宮城の憎しみを向かわせるという作戦はかなり厳しくなってしまったが、ゆかりが宮城を拒絶したことで、新たな芽が生まれた。これ以下はないという醜いゆかりにすら振られ、自分に女に愛される望みが完全に潰えたと思い込んだにんにく大魔人を、「弾け」させるという作戦である。完全に自暴自棄にして、後先を考えない暴力行為に及ぶように持っていくのだ。

 もちろん、暴走といっても、完全に見境がなくなるのは困る。俺や桑原、あるいは純玲の方に向かってきてしまうのはまずい。

 だから俺は、こう考えた。やり過ぎてしまったのを今さら取り繕うのではなく、徹底的にやる。俺や桑原の恐怖を植えつけることによって、こいつらには逆立ちしても勝てないと思わせる。俺に大事にされている純玲にも、手は出せないようにする。宮城が恨む人間の中で、現実的に手が出せるのは莉乃しかいないと、消去法で莉乃を襲うように持っていくのである。

 緻密な計略の上に書かれたシナリオではない。ガキが悪さをするのと同じ、勢いと流れ――が、勢いと流れを、バカにしてはいけない。勢いのまま、流れに乗るまま突き進めば、親を廃人にまで追いやることもできるし、学校からイジメをなくそうとした一人の優等生を、殺人者にまで追いやることもできるのである。

「お前、これが飲めねえってんなら、ゆかりのこと愛する資格ねえぞ。男はな、女のくせえところをどれだけ舐められるかで、愛の深さが決まるんだぞ。知らねえのか」

「うぼぅふぉふぉっ。うぼぅふぉふぉっ。うっうぅぅおっおっ」

 桑原に宮城の口をこじ開けさせ、ゆかりのおしっことうんこと愛液を混ぜ合わせた液体を、無理やり流し込んだ。当然というべきか、全部吐き出してしまった宮城に、桑原の鉄拳が容赦なく飛ぶ。

「あーあーあー。勿体ないことしちゃって。実は、さっきこっそり、莉乃ちゃんのおしっこうんちドリンクと、入れ替えておいたのによ~」

「う・・・うぶっ?」

「うそだっ、バーカ!」

 宮城が突然顔を上げたのが、「だったら早く言えよ!」と言っているように見えたのが癪に障り、すだれハゲ頭を叩いてしまった。俺がロマネ・コンティと引き換えにしてでもいいから飲みたい莉乃のおしっこを、にんにく大魔人が先に飲むなど、許されぬことである。

 続いて、俺はゆかりの大きく膨らんだおなかに顔をくっつけ、喉を締め、高い声を出す準備をした。

「お母さん、わたし、おなかの赤ちゃん。わたし、お母さんから産まれるの、嫌なの。お母さんみたいに臭くなりたくないし、ブスになりたくないから。お母さんから産まれたら、わたし、にんにく大魔人みたいな化け物としか結婚できない。だからわたし、産まれるの嫌なの。わたし、純玲お姉ちゃんのお腹から産まれたいの」

「やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて」

 ゆかりの子のふりをして、ゆかりをボロくそに言ってやると、ゆかりは耳を塞ぎ、大きなお腹を抱えながら、部屋の隅へと逃げていく。なぜ女の子のフリをするかといえば、そちらの方が、どういわけか、宮城に与えるダメージが大きいようだからである。

「貴様、よくも私に、汚い母乳などをかけてくれたのう。貴様の臭い身体で抱いてくれたのう。罰として、貴様はこれから毎年一人ずつ、にんにく大魔人の子供を産む。そのにんにく大魔人の子供は一年で大きく成長し、お前とセックスをする。お前が妊娠するまでセックスをし、お前が妊娠した瞬間、にんにく大魔人の子供は死ぬ。そしてできた子供はまた一年で大きく成長し、お前とセックスをし、子供を作る。お前はそれを、これから先死ぬまで繰り返す」

 今度は、毎日ゆかりの母乳を浴び続けたせいか、カビだかコケのようなものに侵食されてしまった「けんじ地蔵」と「たつや地蔵」を両手に抱えながら、ゆかりに恐怖の予言を伝えてやる。黄色い鼻水で、口元をぐちゃぐちゃにしながら、ゆかりが泣きわめく。

「てめえは、もう絶対、地蔵の呪いから逃げられねえんだよ。てめえはこれから俺ではなく、あそこにいるにんにく大魔人の子を産むんだ。これからにんにく大魔人のところに嫁ぐ最後の思い出に、俺のモノをたっぷり味わえ」

 ゆかりの、卵かけご飯みたいにぐちゃぐちゃになった口元にキスをしてやりながら、俺は昨晩から数えて四回目の、ゆかりとの結合を始めた。

 振り返ってみれば、この女は俺の人生で、もっとも多く身体を重ねあった女であった。俺が何もかもどん底で、性犯罪を起こす一歩手前にいたときに巡り合った女。ある意味、恩人ともいえなくもない。なにかがちょっと違えば、この女と生涯添い遂げることもあり得たのであろうか。

「なわけ、ねえだろ・・・。てめえには、にんにく大魔人がお似合いだ・・・」

 ゆかりを生涯の伴侶とは出来ぬ理由のひとつは、容姿の問題である。

 自分を良く弁える俺は、美人は眼中になく、並み程度の女だけを専門としている。ストライクゾーンが広いのではなく、外角いっぱい、あるいは内角いっぱいしか打てないということである。

 だからといって、あからさまなボール球までも打てるというわけではない。物珍しさでセックスはできても、結婚相手として考えるのは、なかなか難しいものがある。

 しかし、なんとかは三日で慣れるという言葉もある。俺が付き合う女に何を求めるかといえば、俺の考えを何より尊重し、他の誰でもなく、俺だけに尽くそうとしてくれる性質である。ゆかりがもっと、俺という人間のことを知ろう、理解しようとしてくれれば、面倒を見てやろうという気にもなったかもしれない。

 ところがゆかりは、まるでガキのように、自分の欲しいもの、やりたいことを主張するだけで、家事ひとつやろうとはせず、俺の望みを何一つ満たしてくれようとはしなかった。俺という人間の中身にはまったく興味を持たず、趣味嗜好、過去のことなどを聞いてくることも一切なかった。そんな女に愛情を持てる男が、一体この世のどこにいるというのか。

 だったら手放せばよかった、という話ではあるが、やはり獣欲の発散相手として、今までゆかりが必要だったのは事実である。実際、純玲と出会っていなければ、俺はまだゆかりをあのアパートに留めおいていただろう。もしかしたら、相変わらず俺に母乳だけを飲まれ、子どもは赤ちゃんポストに奪われながらも、俺と死ぬまで一緒に暮らす未来もあり得たのかもしれない。

 結局は、俺がゆかりよりも魅力的な純玲と出会い、純玲と一緒に暮らす未来に魅力を感じた、それがゆかりが追い出されることになったすべてであった。

 その純玲と、俺は一段高いステージに登ろうとしている。俺がこれから、この地蔵山でやろうとしていること、それは間違いなく、世間の価値観からいえば、悪とされることである。たとえ悪でも、それをやることで相応の利益が得られるのなら理解されるかもしれないが、これから俺がやることでは、金が得られるわけでもなく、誰かに貸しを作るわけでもない。まさに他人から見れば理解不能、子どものイタズラと同然の行為である。

 だからこそ、純玲を呼んだ意味がある。密教でいうところのグルイズム。東山と桑原の関係もそうだが、グルの命令が理不尽と思えれば思えるほど、それを実行した人間の信仰の深さが証明できる。もし、純玲がこの山小屋で俺がやることを、最後まで完璧に見届けられたなら――それでも俺から離れずにいてくれたなら、俺と純玲の絆は、永久に切れぬものとなるに違いなかった。

 逆に、純玲が俺から逃げ出せば、俺は純玲を処分しなければならない。莉乃への復讐を中止しても、何を捨ててでも真っ先に、純玲を始末する。一度俺の心にここまで深く食い込みながら、俺から逃げるなどは、断じて許さぬ。殺害するか、もしくは顔面に大やけどを負わせ、二度と他の男のところに走れないようにしなければならない。

 それで刑務所に入ることになるなら、それで結構。伴侶のいない人生など、生きていても仕方がない。俺も東山と宮城を世間への復讐の尖兵とし、彼らの人生を崩壊させようと考えるからには、自分自身の人生を投げ打つ覚悟もある。

「・・・そろそろ、ゲストが到着するころだな・・・うっ」

 俺の子を二人も産んだ女との、最後のセックスを終えた。ゆかりは強姦されたことと、身重の体に何度も負荷をかけられたショックからか、相当な体調不良に陥っているようで、俺に殴られて腫れた顔面は蒼白になり、何度も嘔吐を繰り返していた。死にそうになっている女をヤッているというのに興奮して、一晩で四度も射精してしまった。一年前の子づくり強化月間で、日曜日に六発射精の記録を打ち立てたとき以来のハッスルである。

「・・・ちょっと、アイツらを迎えに行ってくるからよ。ゆかりとにんにく大魔人のこと、見といてくれよ」

「ウッス。でもその前に、アニキ、身体を水で流した方がいいっすよ。いちごの臭い、完璧にうつっちゃってます」

「・・・・そうだな」

 俺は桑原の助言に従い、宮城が備蓄していたミネラルウォーターを浴びた後、宮城や莉乃が持ってきた食料をパクつく桑原に禽獣たちの見張りを任せ、いったん、山小屋を出ていった。

 山小屋の外に出ると、山道を純玲と莉乃が、五メートル以上のパーソナルスペースを空けながら登ってくるのが見えた。莉乃は例の中学のジャージ姿。純玲は部屋着のスウェット姿である。

 今日は、唐津の姿はない。大事な大事な、海南アスピレーションとの団体交渉がある日だからである。

 凛々しいところを見せる相手がいない莉乃は、本当は休みたかっただろうが、唐津がいないから休むというのでは、いちごちゃんに構う本当の理由を、周囲に気づかれてしまう。唐津がいないときだからこそ、ジャンヌダルクらしいところを発揮しなければならないのである。

「蔵田さん、もう来ていたんですね。いちごちゃんは、どうしていますか」

 わかってはいても、やる気のなさは隠しきれないようで、莉乃の声音には、明らかに張りが感じられない。メイクにもほとんど時間をかけなかったのか、目じりには小じわが目立ち、ほうれい線も刻まれて、三十二歳丸出しといった風情である。

 メイクばっちりの莉乃よりも、すっぴんの莉乃を見る方が、より一層、興奮した。化粧もしない、アクセサリーもつけない、服も着ていない、生まれたままの莉乃に、むしゃぶりつきたかった。三十二歳の莉乃を、これから痩せたり太らせたり、洗ったり洗わなかったり、全裸に剥いたり、大人用幼稚園の制服を着せたり、水着を着せたり、妊娠させたりせなかったり、色々なことをしたかった。

 俺の望みを、莉乃はかなえてくれなかった。俺の望みを叶えてくれない女などは、どうなっても構わん。この地蔵山で、にんにく大魔人の凶刃に倒れ、ゆかりの糞を食らって大きくなった虫の餌食となろうが、どうとも思わん。

 丸菱の倉庫で、莉乃と唐津に出会ってしまった俺は、いかにも不幸であった。俺だけが不幸な思いをしなければならないなど、納得できない。不公平、不平等を解消しなければならない。莉乃や唐津にも、俺という人間と出会って不運だった、不幸だったという感想を味あわせなくては、納得できない。

「・・・よう、莉乃ちゃん。一足先に小屋に着いたらよ、大変なことになってたんだ・・・」

 俺が言うと、莉乃は首を傾げながら、山小屋の中を覗いた。

 小屋の中の様子をみた瞬間、莉乃は両手を口元にあて、息を飲んだ。驚くのは当然である。かつて自分が、歪んだプライドを満たすためのサンドバッグとして利用し、精神を破壊させ、街を彷徨う性欲の怪物、にんにく大魔人へと変えた男が、当時よりさらに醜くなった姿で、目の前に現れたのだから・・・。

「い・・・いやっ、いやァッ」

「うぅうぅうぅうぅうぅうぅうぅうぅうぅァっ」

 莉乃の悲鳴と、宮城の唸るような泣き声が交錯する。二つの声は、共鳴し合うように大きくなっていく。

 床を転げ回りながら咽び泣く宮城は、どこからどう見ても、小学生の子供のようである。その姿を目の当たりにした莉乃は今、自分が化け物のように扱ってきた宮城にも子供時代があり、彼を愛した父母がいたということを想像させられている。どれほど無神経な人間でも、たとえ相手が重罪を犯した人間だとしても、子どもを産み育てた親の前で、子供を愚弄したり、罵倒したりできる人間は、そうはいない。

 宮城はけして、最初から怪物などではなかった。自分の軽はずみな言動が、人として生まれた宮城利通を怪物に変えてしまった事実を、莉乃は今さらながらに自覚したのである。

 対する宮城が突きつけられているのは、自分が社会というフィールドの中で、どう逆立ちしても挽回できない弱い立場にいるという事実である。

 莉乃は宮城を見て、悲鳴を上げた。悲鳴をあげる――恐怖を感じるということは、宮城に対して、自分を弱者と認識しているということである。

 子供、老人、障害者、女、男。トラブルが起きた際、今の社会では、肉体的に弱い者から順に保護されることになっている。双方の言い分もロクにきかず、肉体的に強い方が一方的に悪いとされ、弱いとされる方が保護される。

 弱い者を保護するのはいい。だが、モラルのない者を保護するのは如何なものか。保護されるべき対象ならば、相手に何を言ってもいいと思っている。社会の仕組みを過信し、弱者という立場を、貴族のような特権階級だと思い込んでいる。莉乃のような馬鹿者を下手に保護の対象とするのは、それこそ子供に銃を与えるようなものではないか。

 住む家もなく、寄る辺もなく、セックスの経験もない醜い男が、安定した住環境にあり、友人も多数いて、セックスの経験も沢山ある女に怖がられている。この構図、どっちが弱者か?どっちが守られるべき対象か?どっちが同情されるべき対象か?

 自分より遥かに恵まれた生活条件にあり、充実した人生を送ってきた相手が、保護されるべき対象にもなっている。こんな社会のどこに、正義があるというのか。ここから宮城に、どう挽回しろというのか。

 宮城が莉乃に対抗できる唯一の武器は、肉体的な強靭さだけ。宮城が莉乃に勝つ手段は、神が男に与えた腕力を用いて、ひ弱な女である莉乃の肉体を蹂躙することだけである。

 行け――はやく。チャンスは、今しかない。俺は宮城の横にそっと、山道で拾ってきた、直径十センチほどの鉄棒を置いた。殺傷力を考えるなら刃物の方がいいだろうが、俺の方に襲い掛かってこられたらたまらないし、俺が警察に怪しまれても困る。どうにかその鉄棒で、莉乃の頭をスイカのように砕いてもらいたいと思う。あと、俺にできるのは、エールを送ることだけだ。

「莉乃ちゃん・・・驚いただろうが、ゆか・・・・いちごちゃんが、やべえみたいなんだ。ちょっと、助けてあげてくれないかな」

 すでに室内には、ゆかりの吐しゃ物による、ピザと牛乳を混ぜ合わせたようなにおいが漂っているが、ゆかりはすっかり空になった胃袋から、なおも透明な液体を吐き続けている。

 俺はゆかりが苦しんでいる様を莉乃に見せた上で、莉乃を、ますます体調不良が深刻になってきているゆかりを看護するように促した。もちろん目的は、莉乃を小屋の奥まで呼び寄せて、にんにく大魔人が莉乃を襲いやすくするためである。

「でも・・・私・・・・あの・・・・それじゃ・・・島内さんも、一緒に・・・・」

「ごめんね。私は虫、苦手だから。莉乃ちゃん、一人で頑張って」

 莉乃に付き添いを求められた純玲が、離婚した旦那に向けるような、冷たい顔で言い放った。これまで常に、困ったときには必ず誰かが助けてくれる環境の中で生きてきた莉乃が、初めて人から突き放され、一人で問題解決に挑まなくてはならなくなってしまった瞬間だった。

「わ・・・わたし、やっぱり・・・・」

 唐津もいないこの状況において、一人でにんにく大魔人が待ち構える袋小路に入るモチベーションを捻り出せない莉乃が撤退しようとした、そのときであった。

「りのちゃ、りのちゃ、やさしい子。りのちゃ、りのちゃ、いちごのおねえちゃ。りのちゃ、りのちゃ、かわいい子。りのちゃ、りのちゃ、いちごのおねえちゃ」

 ゆかりのスーパーアシスト――。本人に助けを求められ、これでジャンヌ・ダルクとしては、とうとう逃げられない状況となった。ここで逃げてしまったら、後々、愛する唐津に何と報告されるかわからない。莉乃はビニール手袋と、ゲロまみれのゆかりの身体を這い回る虫をよけるための割り箸をもって、「いちごちゃん」の傍へ行かざるを得なくなったのである。

 恐る恐る、ゆかりに歩みよっていく莉乃は、一歩踏み出すごとに、山小屋の入口の方を振り返っている。いつかは、大好きな唐津が、白馬に乗って突然現れて、か弱い莉乃を助けに来てくれると期待しているのだろう。

 これまで、俺はとうとう、莉乃本人から、唐津への想いの丈を聞くことができなかった。それを聞いたとき、自分が平静でいられる自信がなかった。敵を良く知ることが、敵を倒すことに繋がるという古の兵法を実践しなければならないと何度も自分に言い聞かせたが、できなかった。

 仕方のないことだと思っている。大体、それができるぐらいなら、俺は莉乃を懲らしめようとなど思っていないのだ。

 俺は、莉乃が好きだった。本当に好きだったのである。莉乃と交際し、願わくば結婚したいと思った。その想い自体は、純粋なものだった。俺の純粋な恋心を踏みにじられた。想いが強烈だった分だけ、振子のように、恨みも強くなった。

 人が人に危害を加えようするからには、大義というものが必要である。ここまで莉乃への復讐を世間への復讐と位置付けるため、あれこれと理屈をくっ付けてみたが、突き詰めれば、振られた三十路男の私怨というところに落ち着く。それだけで片づけられたとしても、それはそれでいい気もしてきた。

 忘れられない、という病。振られた恨みを絶対に忘れず、相手に思い知らさなければ気が済まない、執念深い男。新しく女が出来たにもかかわらず、すべてを失う危険を冒してまで復讐に走る、愚かな男。ありふれた言い方をすれば、個人のアイデンティティ――この世に二人としていない、俺でしかない俺という人間の証明が、他人から見れば愚かな報復行為をすることによってできるなら、それもいいではないか。

「い、いちごちゃん・・・だ、大丈夫・・・・?」

 莉乃が商店の裏で手を洗っていたときの、嫌悪感に満ちた顔――。本当は勝手に野たれ死ねばいいと思っているにも関わらず、みんなに褒められたいから、唐津の心を掴みたいから、ただそのためだけに、自分より十二も年上のホームレス女に優しくしたことを、莉乃は心底後悔していることだろう。

 ゆかりも宮城も、愛情に飢えていた。旺盛な食欲と性欲―――生きようとする力が人一倍強い彼らは、愛情を求める強さもまた、人一倍だった。何もかも恵まれた人間が、からかい半分で近づいていい精神状態ではなかったのである。

 容姿が醜い彼らが愛情を求めるのは、罪なのだろうか。人の迷惑を顧みない愚行なのだろうか。

 俺にそれを断ずる気はない。そんな権利はないからだ。俺は彼らを虐げているようだが、一方で、尊重もしている。ゆかりとはセックスをしたし、宮城には、復讐のお膳立てをしてやった。いずれも、動物相手にはできないこと。彼らを尊厳ある人として見ているからこその行為である。

 ここは、人に良く思われる目的だけにゆかりを利用し、歪んだプライドを満たすためのサンドバッグとして宮城を利用した――彼らを下等生物、化け物としか思っていない莉乃に、ジャッジメントをしてもらうこととしよう。莉乃の裁きを受けた宮城とゆかりがいかなるリアクションを見せるか、大人しく判決に従うのか、反乱を起こすのかを、見届けてやろうではないか。

「い・・・いちごちゃん、ちょっと我慢してね。おなかの上にいる虫を、とってあげるからね」 

 莉乃がゆかりの傍に到達したのを見計らって、俺は桑原と一緒に、こっそりと山小屋から出て、宮城の視界から消えた。これで山小屋の中には、宮城と莉乃、ゆかりの三人だけが残されたのである。

 宮城の傍には、俺が持ってきた鉄棒が置いてある。山小屋の扉から宮城がいる位置までの距離は三メートルはある。宮城がすぐに動けば、いきなり俺や桑原が山小屋に飛び込んだとしても、莉乃に一撃を加えるには十分に間に合う。

 これだけの条件が整ったらば、先ほどの莉乃の悲鳴により、世の中の理不尽と矛盾を突きつけられた宮城は、莉乃の脳天をかち割りに行くはずであった。宮城が男ならば、人としての誇りがあるならば、やれるはずであった。俺の中の常識では、やらなければいけない、やって当たり前の場面であった。が――――。

 宮城はこの後に及んでも動かず、相変わらず子供のように、床に這いつくばりながら泣きわめいているだけなのである。

 これが何度目の落胆だろうか。これが何度目の失望だろうか。

 ここまで俺は、何度期待を裏切られても、辛抱強く、宮城に現実を教え、宮城を支援し続けてきた。宮城がいかなる醜態を晒し続けても、それでも宮城を男と見込んで、場を整え、動機を作り、莉乃殺害の―――世の女に復讐するお膳立てをしてやったのである。プロ野球でいったら、打率一割で、ホームランを一本も打っていない選手を、辛抱強くレギュラーで使い続け、個人的な打撃指導までしていたぐらいの優遇である。

 冗談などではなく、俺は宮城から、恩人と感謝されてもおかしくない自信があった。ダメな子ほどかわいいという言葉もある。ここで宮城が男を見せたのならば、俺は宮城がムショに入った暁には、必ず何らかの支援をしただろう。文通や面会などを通じて、今度は本当の親友になれたかもしれない。

 それをこの男は、俺の気持ちを最後まで踏みにじり、たかが犯罪者の汚名を着ることを怖れ、くだらない偽善に縋りつくのをやめなかったのである。俺もいい加減呆れはてた。莉乃を懲らしめる前に、この情けない豚を屠殺してやったほうがいいのではないかという気になってきた。

「・・・たぶん、もう宮城さんに期待するのは無理だよ。諦めようよ」


 黙って事の成り行きを見ていた純玲が、計画の中止を勧めてきた。失望が失望を覆い尽くす。この女は、俺の信者になりえなかった。俺の期待に、応えてはくれなかった。殺すしかなくなった―――。

「なんだよ・・・・てめえ、やっぱり俺のやろうとしていることに反対するのかよ」

 底冷えのするような声音で言い放ったのだが、意外にも純玲は、動じた様子を見せない。

「そうじゃないよ・・・。ようは、重治さんは、莉乃にキレイごとでは解決できない現実がある、てことを教えてやれればいいんでしょ。それだったら、他にも方法はあるんじゃないかな」

「そいつは、どういうことだよ」

「ハッキリとはいえないけど、莉乃の常識では解決できないような、とんでもない恐怖を味あわせれば、重治さんの望みは叶うんじゃないかな・・・」

 具体的なアイデアがないなら、この正念場で余計な口を出すなとドヤしつけることもできたが、それを躊躇わせたのは、この地蔵山には、確かに、純玲の言う通りのことを実行するに十分な条件が揃っているという、客観的事実である。

 純玲の言わんとしていることはわかる。莉乃を懲らしめるだけが目的だったら、もっと手っ取り早い方法はいくらでもあった。それこそ、夜道で後ろから襲い掛かるだけで事足りた。そんな単純なやり方で、莉乃を大した苦痛もなく一瞬で逝かせてしまうのではなく、莉乃に生きることが嫌になるほどの思いをさせたかったからこそ、俺は回りくどい道を敢えて選び、宮城を使うことに拘りつづけてきたのである。

 宮城は最後まで、莉乃に復讐しようとはしなかった。しかし、宮城を利用すること自体は、まだあきらめなくていいかもしれない。あの男は、ただ居るだけで莉乃に恐怖を味あわせることができる、醜い容姿という「才能」がある。それを最大限、生かしてやれば――。

「ほっほ前はひはっ、僕がふらやまひいんだっ。僕のほほろがひれいだから、ふらやまひくて、ほんなことをひてるんだっ」

 宮城が、この後に及んで減らず口を叩いたところで、俺は桑原と一緒に、宮城に飛びかかっていった。殴り、蹴り飛ばし、桑原が宮城を、あっという間に羽交い絞めにした。

 動きを封じたところで、俺は宮城の紫色のジャージを、黄色いシミの浮かんだ白ブリーフごと脱がし、ビニール手袋を嵌めた手で、宮城のペニスを掴んだ。分厚い包皮に覆われたピンク色の亀頭をむき出しにしてやると、「おから」のような薄黄色の恥垢がポロリと落ち、辺り一面に、酸イカの臭いが、むわぁり、と漂った。

「くっ、蔵田さん・・・虫が取っても取っても、いちごちゃんの身体に登ってきて・・・・きゃあぁっ!!!」

 ドタバタと大きな音を立てている俺たちの方を向いた莉乃が、普段外気に触れていないせいで、少年のころから色素のまったく落ちていないサーモン・ピンクをした宮城の亀頭がこんにちはしているのを見て、大きな悲鳴を上げた。

 莉乃が絶対、自分のおとぎ話の中に入れたくない、醜い宮城――その宮城のもっとも醜い部位を見せつけられたのだから、莉乃の恐怖は大きかったはずである。あれが何かの間違いで自分の身体の中に入ってしまったら、忌み嫌う宮城の子供を孕んでしまうかもしれないのである。

 莉乃のワーキングメモリーに、莉乃の常識ではありえない、おとぎ話の中に絶対に登場するはずではなかった情報を送り込んでいく。一つずつ、一つずつ・・・・許容範囲の限界を超えるまで。

「りのちゃ、りのちゃ、やさしい子。りのちゃ、りのちゃ、いちごのおねえちゃ」

 ゆかりは莉乃が自分から離れないように、莉乃の手首を必死に掴んでいる。火事場の馬鹿力というのか、その力は相当に強いようで、莉乃は腰を上げることもできない。ただひたすら、くさいゆかりの身体を這い回る虫たちを、箸で取りのけ続けるしかなかった。

「ひほはん・・・ひへへふははい」

 殴り過ぎて歯がボロボロになってしまったせいでうまく聞き取れないが、おそらく、「莉乃さん、逃げてください・・・」と言ったのだろう。宮城の偽善も、もはやここまで行けば、「信念」であり、尊敬してもいいものかもしれない。

 しかし、あいにく、俺にもまた、この世間にケジメをつけるという「信念」がある。それは、宮城の信念などよりも遥かに固いものだ。信念を守るため、俺は不快感を押し殺し、宮城のペニスの皮を剥いたのである。

「おい、にんにく大魔人、元気ねえじぇねえか。何のために、にんにくばっか食ってたんだよ」

 AVの撮影でも、男優のペニスが硬くならず、撮影が中断することもあるという。精力に自信がある男でも、衆人環視の場で勃起するというのは、案外難しいことらしいが、それにしても、宮城はこれまで毎日、精力のつく食べ物ばかりを食べてきたはずである。それが、愛する女の裸と、かつて愛した女の中学のジャージ姿を見て勃起できないとは、なんたる体たらくであろうか。俺など、ゆかりを朝までに四度も犯したにも関わらず、テントが張って、痛くて痛くて、どうしようもないというのに。

「役立たずは、ちんぽまで役立たずなんだな」

 宮城のなめくじのような、くさいペニスを指で弾いて遊んでいると、突然、上着を脱いで、タンクトップ一枚となった純玲が山小屋に飛び込んできて、俺と桑原を蹴りつけてきた。

「何やってんだ!私が好きな宮城さんを、イジメてんじゃねえよ!」

 純玲がなにか、芝居をしようとしているのが直感でわかった俺は、わざと大げさに飛んで見せ、その後を純玲に任せた。純玲は宮城に艶っぽい表情を向けると、彼の肩に手を置き、息が吹きかかるくらいに顔を近づけていった。

「宮城さん。私、実はずっと、宮城さんのこと、好きだったの。私はずっと宮城さんと一緒になりたかったけど、今までずっと、蔵田が逃がしてくれなかったのよ。だけど、私もう迷わない。こんな酷い目にあってる宮城さんを見て、黙っていられない。私、宮城さんが好き!私と一緒に、ここから逃げようっ!」

 よほどのピュアでも、芝居だとわかる場面――。しかし、女に愛されることは、宮城にとって、人生で最大の望みなのである。信じたい気持ちを抑えることは、難しい。大声で泣きわめくのをやめ、明らかに戸惑った様子の宮城に、純玲がトドメの口づけをした。

 キス――愛の証明。セックスという行為に、淫ら、獣欲丸出しというイメージが付きまとうのに対し、キスは人間同士の愛情を、まったく汚れたイメージを抱かせずに表現する行為である。かつて、デリヘルを利用した際にも、宮城は純玲に、まずはキスを要求してみせた。

 愛―――それが宮城にとって、何よりの媚薬だった。にんにく大魔人と称されるほど、精のつく食べ物をいっぱい食べても勃たなかったペニスが、純玲の手の中で熱を持ち、みるみる膨張し、そりたって行く――。天を貫く塔のようになったペニスを、純玲が二、三度扱いてやると、あっという間に、白濁した液体が宙を舞った。

 天性の長距離砲――萎えた状態でも二メートルは飛ぶ宮城の精液は、勃起によってパワーを水増しされ、莉乃の頭上を遥か越え、壁際に立てかけられた廃棄の椅子を汚した。予想を遥かに越える飛距離。産まれて初めて、女に愛された宮城の快楽がどれほどの強さであったかが伺える。

 女に、愛されたあい。女のぬくもりに、包まれたあい。女の柔らかさを、味わいたぁい。

 恋がしたあい。

 弾けた赤い実――宮城利通のすべてが、一分前から愛し始めた女の手淫の刺激により、白濁の液体となって放出され、一分前まで愛していた女と、数か月前まで愛した女を目がけて、飛び散っていく。

 精力のつく食品を大量にとり、自慰行為を我慢して、精液を溜めに溜めた宮城の射精は、むろん一発では終わらない。そして、一発撃つごとに、精液は当然、勢いを失い、飛距離は落ちていく。一発目、二発目のコースを見て、純玲が冷静に、銃口の向きをコントロールする。

 宮城の偏った食生活、禁欲による精液チャージ、純玲の芝居―――。すべての努力の果てに、往年のバックスクリーン三連発を越える、四発目の射精が、ついに莉乃の首筋をとらえた。

「ひやっ・・・・」

 宮城の生暖かい精液の感触―――。それは紛れもなく、生けとし生きるものの温かみである。人が生きている証――命の温かみが、莉乃のおとぎ話を崩壊させる――。

 絶叫―――莉乃はゆかりの手を強引に振り払い、山小屋の外へと飛び出していった。ジャンヌダルクも、唐津との交際も、関係ない。何もかも捨て去るほどの、生命の温かみの不快感に、莉乃はもう耐えられなかった。 

「キモっ・・・・」

 気持ち悪い、というストレートな表現と、略し言葉で相手の不快感を煽る効果の絶妙なハーモニー。誰が使いだしたのか知らないが、威力、汎用性ともに、おそらくは二十一世紀最強となるであろう罵倒語で、純玲は宮城の心に芽生えた希望を一刀両断した。

 純玲がミネラルウォーターで、汚いものを触った後の手を丹念に洗う。慟哭とともに、名刀正宗の硬度だった宮城のペニスが、塩をかけられたナメクジのように萎んでいくのを見届けてから、俺は山小屋を飛び出して、莉乃を連れ戻すべく、後を追いかけていった。

 莉乃は、あっさりと捕まった。山小屋を出た莉乃は、登山道を降りる以前に、山小屋の前に散乱したゆかりの糞を踏みつけ、滑って転んでいたのである。

 赤いジャージを糞まみれにして泣きわめく莉乃は、先ほどの宮城同様、子供に還ったようである。人を見下すことも、人を陥れることも、男の味も知らなかった少女のころに戻りたい――。色とりどりの花が咲き乱れていた莉乃の頭の中の景色は、今、糞便がそこここに乱れ落ちる餓鬼道に塗りつぶされたのである。

「やめろぉっ!やめろぉっ!やめろぉっ!!!!!!」

「ね、ねえさん・・・それは、まずいんじゃ・・・」

 山小屋の中で、ひときわ大きなどよめきが起こった。ぽごぉ、ぽごぉ、と、何かが破裂するような、すさまじい音が聞こえる。

 俺は、しばらくは足腰が立ちそうにない莉乃を置いて、山小屋の中に戻っていった。

 驚愕―――カルキ臭、納豆臭、ドリアン臭、魚介類臭、ピザ臭、チーズ臭、百獣の王ライオン臭、便臭、アンモニア臭、金属臭が漂い、血、吐しゃ物、糞、小便、涙、汗、精液、愛液、食べ散らかされ腐敗した食物、ガラクタ、埃、昆虫の死骸で床を埋め尽くされ、クロゴキブリが宙を舞い、ワラジムシ、ダンゴムシ、ヤスデ、ムカデが我が物顔で闊歩する山小屋の室内で、俺の女、純玲が、大きく膨らんだゆかりの腹を、つま先で思い切り蹴りつけていた。

「おい・・・おめえ、どうした」

「コイツがっ・・・この臭いババアが流産すれば、莉乃にもっと地獄を見せられるっ・・・。このきたねえババアが、きたねえ子供を産むところを見せられれば、莉乃にトラウマを植え付けられるっ・・・!」

 狂気で爛々と光る純玲の目は、もはや人のものではなかった。俺の望みを叶えることだけにすべてを賭け、俺と一緒に見る世界だけをすべてと信じる、狂信者の目であった。

 純玲のスニーカーのつま先が、ゆかりの横腹をえぐる。

「ごぶっふぅ。ごぶごぶごぶ」

 ゆかりの口から吐き出されるゲロで滑って転倒しても、純玲はくじけない。

「重治さんのために、子供を産ますんだ。コイツの子供、殺してやるんだ」

 純玲のかかとが、ゆかりの、赤、緑のゴマがつまったへそを踏み潰す。

「ぐばっ、ぐばっ、ぐばぁっ」

 ゆかりの口から吐き出される胃液の中には、真っ赤な血液が混じっていた。

「おいっ、ババア!産めよ!さっさと汚えガキを産めよぉ!こんなきたねえ場所で、ホームレスのくせに、平気でガキを産める恥知らずなババアがよ!私の重治さんのために、ガキを流産して見せろぉ!」

 美しかった。愛おしかった。

 人は彼女のことを、共依存の病気女と見るであろう。しかし、俺を喜ばせるために、人であることすらやめようとする純玲の顔は、俺には愛の女神にしかみえなかった。

「純玲、お前の気持ちは伝わったよ。ありがとう、ありがとうな・・・。だが、これ以上やったら、お前は殺人者になっちまう。そこまでしなくていい。そこまでしなくても、お前は俺の女だ。ずっとずっと、俺と一緒だ」

 大きく息をつき、肩を震わせる純玲を、胸の中に抱き寄せた。純玲も俺の背中に手を回し、硬く抱擁しあう。ゆかりにとっては、腹を蹴られたことよりも、あるいはその光景の方が致命的なショックだったのだろうか。

 赤、白、黄色の液体が、ヴァギナから漏れ出てくる――。二年前、たつやが産まれたときに、見たことがある。破水だった。

「すーっ、ふーっ、すーっ、ふーっ」

 ゆかりの息がやにわに荒くなり、汗が噴き出し、肩が大きく揺れ出した。精神的肉体的なショックで産気づき、陣痛が始まったのだ。間もなく、子供が産まれるのである。

 外的刺激を受けたことがトリガーとなったといっても、もう芳醇な母乳が出るようになっていることからして、もともと出産は近づいていたのだろう。いま、目の前で起きているのは、果たして流産なのか出産なのか、微妙なところである。

 どちらでも、構わなかった。赤ん坊が生きていようが死んでいようが、どっちでもいい。いずれにしても、その子は莉乃に、この世にはキレイごとでは絶対に解決できないことがあることを教える、俺にとって最高の孝行息子、あるいは孝行娘となるのである。

「りのちゃ、りのちゃ、やさしい子。りのちゃ、りのちゃ、いちごのおねえちゃ。りのちゃ、りのちゃ、かわいい子。りのちゃ、りのちゃ、ゆかりのともだち」

 ゆかりが痛みをこらえながら、精一杯大きな声で、莉乃の名前を叫ぶ。周囲を敵に囲まれながら、出産に挑もうという状況である。ともだちと信じる莉乃を傍に呼びたいのは当然であるが、これでは宮城の面目は丸つぶれである。

 やがて、桑原に手を引っ張られて、莉乃が山小屋の中に入ってきた。自分を呼ぶゆかりに背を向けて、山を下りていく勇気もなかったのだろう。無理もない。これでゆかりが息を引き取ってしまったら、相当、寝覚めが悪い。

「莉乃ちゃん、来てくれたか。いちごちゃんが産気づいちまったんだ。いちごちゃんがにんにく大魔人の赤ちゃんを産むの、手伝ってくれないか。莉乃ちゃんが協力してくれないと、いちごちゃん、赤ちゃんと一緒に死んじまうかもしれない」

 すれ違いざま、莉乃が俺を、刺すような目で睨んだように見えた。この数か月の俺の憎悪に気付いたのかまではわからぬが、俺の一言によって、莉乃がますます逃げられない状況に追い込まれたのは確かだ。

 俺を悪魔と思うか。俺を人でなしと思うか。

 悪魔で結構、人でなしで結構。悪名を被るのは屁でもない。しかし、大切なことを忘れてはいけない。

 俺が悪魔であること、人でなしであることは、すべてこの女が自ら望んだこと。初め、莉乃に純粋な恋心を抱いて近づいた俺を悪魔呼ばわりしたのは、他の誰でもない莉乃本人である。莉乃の描くおとぎ話の中で、与えられた配役を演じてやった俺には、感謝されこそすれ、恨まれるいわれはない。

 山から下りたら、俺を知る者たちに、したり顔で、「だから、アイツはわたしの思った通りの悪魔だったでしょ」とでも自慢すればいい。思う存分、「皆に悪魔から守ってもらっているか弱いわたし」を演じればいい。

 それが望みだったのだろう?

「い・・・いちごちゃん・・・・いま、来たから、ね・・・・」

 莉乃がゆかりの傍まで来た途端、び、び、びーっ、と、厚紙を破く音がして、ゆかりの尻から、水のような糞が飛び出してきた。子どもなど、そう簡単に出てくるものではない。いきめば先に、出やすいものから出る。こうなるのは仕方ないことだが、莉乃には刺激が強かったようで、大きな悲鳴とともに硬直してしまった。

「りのちゃ、りのちゃ、ありがとう。りのちゃ、りのちゃ、傍にいて」

 莉乃が来たことで安心したのか、ひっくり返ったカエルのように股を広げ、仰向けになっているゆかりのヴァギナからは、もう、髪の毛がまばらな赤ん坊の頭が覗いている。

 出産――命を産み出す大仕事。それ自体は、莉乃もいずれは自分も乗り越えなくてはいけないこととして、覚悟をしているであろう。唐津の子を産みたいと思っていることだろう。もし、ゆかりの子供の親が、見た目がマシな普通の男だったならば、莉乃は喜んで産婆を引き受けたかもしれない。

 しかし、今、頭が見えている子供を仕込んだのが、莉乃が忌み嫌う怪物、にんにく大魔人であることを意識し始めた途端、話しは変わってくる。実際には、ゆかりが産もうとしているのは俺の子供であるが、俺の先ほどの言葉と、眼前の状況からして、莉乃は赤ん坊の父親を、にんにく大魔人、宮城だと信じているはずである。

 すだれのようなハゲ頭をし、どっちが妊婦かわからないような肥満体型をした宮城は、五十歳を越えているように見える。宮城のことを詳しくは知らない莉乃は、宮城の年齢を、本当に五十過ぎと思っているかもしれない。同じく、皮膚が垂れ下がり、深いしわが刻まれ、白髪の生えたゆかりは、その見た目は六十歳を越えているようである。自分の親のような年齢の男女が性の営みに励み、子どもを作っている・・・・。莉乃でなくとも、あまり想像したくはないことだ。

 醜悪な化け物の子に触れたくないと思うだけではない。莉乃が恐れるのは、憎しみの再生産である。あれほど痛めつけたにんにく大魔人の恨みを受け継ぐ子供が、間もなく産まれようとしている―――自業自得とはいえ、恐れおののくのは当然といえる。

「ひい、ひい、ふう。ひい、ひい、ふう。ひい、ひい、ふううううううう」

 三年前、たつやが産まれたときに、俺が教えてやったラマーズ法を忠実に実行するゆかり。莉乃とは違い、俺は六十の女が、五十の男に仕込まれた子を出産するためにいきんでいる姿に、途方もない性的興奮を感じていた。若く元気な女が子どもを産むという、当たり前の光景を見ても、何の面白味もない。年のいった醜女が、その命を賭して子供を産むのを見る、それが面白いのだ。

 近代以前、医療の設備が整っておらず、衛生環境も悪い中での出産は、文字通り、死の危険と隣り合わせであった。セックスという、気持ちのいいことをした結果、死ぬほど苦しい思いをする。えっちなことをして気持ち良くなった結果、苦しい思いをして死ぬ。ちんぽこのせいで、女が死ぬ。  

 小学校高学年のころ、初めて歴史というものを体系的に学び、昔の出産は命がけということを先生から聞いたときから、ずっと、出産は命がけ、というところに、性的興奮を抱いてきた。

 この三年間の、ゆかりとのプレイ内容が思い出される。あるときは、お互いに幼稚園児のコスプレをしながら、セックスをした。あるときは、俺が赤ちゃんの恰好をし、ゆかりには割烹着を着せたおばちゃんスタイルをさせて、中に精液を出した。あるときは、ゆかりに「しげはるさんのおちんちんに、ちゅっちゅっちゅ」などと言わせながらペニスを舐めさせ、そうして大きくしたペニスを、ゆかりに刺し込んでやった。あるときは、「俺がイクときに合わせて、おならをしろ」などと命令し、タイミングを外して、射精に至る一分以上前にガスを放ってしまったゆかりを殴りつけながら、ゆかりの中に射精をしたこともあった。あんなふざけたプレイをした結果、ゆかりは苦しんで死ぬはめになったのである。笑わずにはいられなかった。

 自分自身でもいいが、自分より醜い男の種によって女が妊娠し、そして苦しみ抜いて出産した末に死ぬ、というのが、一番興奮する。今まで女に振られ、恨みを持つたびに、俺は女に、電車で帰宅中の、脂ぎったバーコード頭のサラリーマンの靴下を嗅がせたうえで、おやじちんぽを刺し込み、その種によって孕んだ子供を産ませ、俺がその子供を踏み潰して殺しながら、女が陰部からの出血多量により息絶えるところを眺める妄想を繰り返してきた。

 そんな妄想から派生して生まれたのが、醜く無能な男と、同じく、醜く無能な女を交配させ、この世でもっとも醜く無能な人間を生み出す、「超劣等東洋種族製造計画」である。

 第二次大戦下、大陸は満州の地で行われていたという、頭脳、体格、運動能力、容姿に秀でた日本の若い男と、同じく高いスペックを持ち、ジンギスカンの末裔など血筋にも恵まれた大陸の女を日夜セックスに励ませ、優秀な東洋民族を作らせるという狂気の計画・・・・。そのロマンに魅入られた俺は、自分は頭脳、体格、運動能力、容姿、あらゆるスペックの劣った男女を交配させ、史上最低の東洋人種を作りだすことを夢見た。

 誰が得をする?俺が得をする。世にも醜い男と世にも醜い女が、お互いの身体を貪り合い、赤ちゃんを作り、産み、その子供が学校でイジメられ、苦しんで自殺するところを見届けられたら、俺はもう、一生セックスなしでも生きていける。

「ひい、ひい、ふう。ひい、ひい、ふう。ひい、ひい、ふうううううう」

 今、ゆかりのヴァギナを突き破り、外界に飛び出そうとしている子供を、俺ではなく、にんにく大魔人の子と思い込む―――五十歳童貞が、女とやりもしない内から衰えてしまったペニスをにんにくを食べまくって復活させ、六十歳で、身体を三か月洗っていない女とセックスをしてできた子供だと思い込む―――。

 すると、俺のペニスはどうしようもなく硬くなり、カウパーを垂らし、子供を作る準備を始めてしまう。このうえもない興奮、このうえもない快楽。触れてもいない俺のペニスが、今、絶頂を迎えようとしている。

「きゃあああっ、いやあああああっ!」

 山小屋の屋根に止まっていたのであろうカラスが、一斉に飛び立つほど大きな、莉乃の悲鳴。まだ、マヨネーズの会社のキャラクターのような頭頂部が見えているだけだった赤ん坊が、一気に鼻先まで出てきたのである。同時に、アメリカンチェリーのようなどす黒い血液が噴き出し、ゆかりのヴァギナに取りついて膣分泌物を貪っていたクロゴキブリを押し流した。

 眼前の凄惨な映像は、すべて、えっちのけっかにより齎されたものである。気持ちいいことをしたら、こうなってしまったのである。笑いが止まらなかった。

「やだああああああっ、もう、やめてえええっ」

 泣きわめきながら、逃げようとする莉乃の手首を、ゆかりがむんずと掴んで離さない。衰弱しきっているであろう身体のどこに、そんな力があったのか。緊急時に解除されるリミッター。人間が本来持っている筋力を最大限に開放したときに生まれるパワー。火事場の馬鹿力。生命の神秘。

 誰よりも沢山食べ、誰よりも沢山排泄し、誰よりも強烈な体臭を発し、誰よりも沢山子供を作り、誰よりも沢山、母乳を出した。四十四歳のゆかりは、その身体のすべてを使って、人間が生きるとはいかなることか――キレイごとを抜きにした生々しい姿を、出会った人間に伝えようとしていた。考えようによっては、それは人類が叡智を究めることよりも、尊いのかもしれない。

「りのちゃ、りのちゃ、やさしい子。りのちゃ、りのちゃ、いちごのおねえちゃ」

「やさしい子じゃない!おねえちゃんじゃない!」

「りのちゃ、りのちゃ、かわいい子。りのちゃ、りのちゃ、ゆかりのともだち」

「・・・・・ともだちじゃない!」

 産婆を務めているのならば、子どもを取り出してあげなければいけない場面――。しかし莉乃はここで、さっきまで純玲が踏みつけていたゆかりの腹部を、その痣の上から、滅多無尽に踏みつけ始めた。ゆかりが全身で表現しようとしているテーマの崇高さは、莉乃にはまったく伝わらなかったようである。

「・・・りの、ちゃ、りの・・・・ちゃ、やさしい子。りのちゃ、りのちゃ、ゆかりのともヴァビッ」

 莉乃の踏みつけが、ゆかりの顔面をとらえた。総合格闘技選手ばりの強烈な一撃を食らって、ゆかりの黄ばんだ歯が、血の海の中に飛び散る。二発目――枯れ枝が折れる渇いた音。鼻骨が砕け散ったようである。

「す・・・すんません。俺、もう見てらんないッス」

 口元を覆いながら、背中を揺らしている桑原。こんなに官能的なゆかりを見て、なぜに吐き気を催してしまうのか、俺にはさっぱりわからなかった。

 もう、限界だった。触れてもいない俺のペニスが脈打ち、トランクスの中に精液を放つ――。

「・・・ぴもぱ・・・・ぴもぱ・・・・・ぽもだぴ、ぽもだぴ」

「ともだちじゃなあああああああああいっ!」

 高々と上げられた莉乃の足が、ザクロのようになったゆかりの顔面目がけて、振り下ろされる―――。同時に絶頂を迎えた俺は、快楽に抗えず、目を閉じて、決定的瞬間を見逃してしまう――。昨晩から五発目の射精というのが信じられないほど、トランクスの広範囲が湿り気を帯びた。

 目を開けると、俺の視界から、なぜか莉乃の姿が消えていた。代わりに現れたのは、黒褐色の肉塊――宮城であった。莉乃はどういうわけか、壁際でうずくまっていた。

「はいびょうぶ、べすよ。もうはいびょうぶでふから、べんぴなこぼもをふんであべてくばはい。ぼふば、ふいてまふはらね」

 桑原の拘束から解き放たれた宮城が、莉乃をタックルで突き飛ばし、莉乃にかわって、産婆ならぬ「産爺」となった。それが、俺が目をつむっていた間に起きた出来事のようだった。

 宮城が土壇場で選んだ最後の女は、莉乃でも純玲でもなく、ゆかり――彼にとってのいちごであった。真実の愛がどこにあるのか、自分が生涯添い遂げるべき女が誰なのか、宮城は結論を出したのである。

「や・・・めて・・・・や・・・めて・・・・・や・・・・めて」

 宮城はゆかりの手を握りしめているようだが、当のゆかりの方は、宮城に触れられることを嫌がり、手を剥がそうともがいている。齢は四十四になり、ホームレスにまで身を落としても、宮城と一緒になるくらいなら、死んだ方がマシということだろうか。

 つい三十年か四十年前までは、女は今のように、男を選ぶことができなかった。家庭に押し込められ、高等教育を受けられず、女が経済的に男に依存せざるをえない立場だった時代は、女は男のルックスがどうの、性格がどうのということは言ってられなかった。選り好みしている間に年を取り、容色や出産能力が衰えてしまうことは、死活問題だった。

 時代は下り、女の社会進出が進み、経済力を持つようになると、女に一人で生きるという選択肢が生まれた。妥協してまで冴えない男と一緒にならなくとも、本当に自分好みの男が現れるまで待っている余裕ができた。結果、性欲のはけ口を得るため、男は昔ならしなくてもよかった苦労をしなくてはならなくなった。昔なら、高望みさえしなければ女の一人や二人は得られたであろう宮城は、莉乃のような女たちの問題ではなく、時代のせいで、性欲の怪物、にんにく大魔人となってしまった、という見方もある。

 男を選べるようになったことが、女を本当に幸せにしたのか、というのも怪しいところである。自由は競争を生み、競争は嫉妬を生む。望むという発想がなければ、それを手に入れられぬストレスに苛まれることも、それを手に入れた者に恨みを抱くこともない。

 差別と平和は、立派に共存できる。昔の女のように、運命に流されるだけだった方が、幸せということもある。家庭から解き放たれ、自由の身となったことにより、女が得たものも大きかったであろう。しかし、女は同時に、昔なら味合わなくてもよかった、争いにより生じる苦しみに苛まれることにもなってしまったのではないか。

 溜まったガスは、どこかで抜かなければならない。たとえば、自分に好意を寄せてきた男を、わざと大げさにこき下ろして、自分はもっと上の男と一緒になるべきレベルの女である、などといった妄想に没入したりすることによって。

 そうやって男を舐め腐ってばかりいれば、いつかは痛い目に遭う。そういう意味では、莉乃も時代の犠牲者といえなくもない。

「私じゃない・・・・私のせいじゃない・・・・・」

 莉乃はパイプ椅子や布団などのガラクタが乱雑に積み上げられた壁際で蹲り、嗚咽を漏らしている。もはや誰の目にも、限界は明らかであった。こうなってしまうと、中学のジャージ姿などというマニアックな恰好でいることが、余計に痛々しく見える。

「あーあーあー、しょうがねえなー。まったくもう」

 莉乃が産婆を投げ出し、「産爺」宮城は、出産についての知識がまったくなく、手を握っているしかないという中で、純玲が部屋の隅に置いてあったバケツに、宮城が備蓄していたミネラルウォーターを注いで、それを宮城に手渡した。

「あんた、手なんか握ってないで、この水を自分の体温で少しでも温めて。赤ちゃんが産まれたら、この水につけるんだよ」

 ハッとした宮城は、言われた通りに、腕を肘までバケツにつけて、水を産湯に変えようと試み始めた。しかし、不潔な環境で動きまわったせいで汚れていた宮城の両腕は、バケツに汲まれた水を、瞬く間に泥水に変えてしまう。こんな水に産まれたばかりの赤ん坊をつけたら、皮膚炎になることは免れない。宮城は急ぎ、水を入れ替えた。

「う・・・・ぅうおっ」

 慌てふためく「産爺」をあざ笑うかのように、ゆかりのヴァギナから、赤ん坊の頭が一気にでてきた。「産爺」としては、赤ん坊を速やかに取り出し、母親を楽にさせてあげなければいけない場面である。

「ひっ、ひいっ。柔らかいっ」

 まだ首の座ってない赤ん坊の、ぶよぶよの頭蓋骨に触れた宮城が、驚き慌て、後じさってしまった。産爺にあるまじき醜態である。  

「あーあーあー。ったく、どこまでもだらしねえな、お前はよ」

 結局、純玲がゆかりと「産爺」との間に割って入り、赤ん坊を取り出しにかかることになった。純玲に助産師の免許があるはずもないが、そこは「女の勘」で何となくフォローできるのだろう。試行錯誤しながら、するすると赤ん坊を旋回させつつ、ゆかりのくさいヴァギナを潜らせていく。

「ゆ・・・・ゆかりさん。頑張れ、頑張れ」

 もはやエールを送ることしかできない「産爺」であったが、ここで一つの疑問が生ずる。宮城はいま、ゆかりを実の名前で呼んだ。妙な話である。いままで宮城は、ゆかりのことを一貫して「いちご」と呼んでいたはずである。急に呼び名を変えたのは、俺が来たおかげで、本名がわかったからか?それとも、俺の方が勘違いしていただけなのか・・・?

「けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご、けんじ、たつや、いちご」

 ヴァギナから、子どもと一緒に、赤ワインのような血を噴き出させるゆかりの顔面は、蝋人形のように蒼白となっている。痙攣するたびに、両のおっぱいが、ぶるっ、ぶるっ、と揺れ、母乳が滴り落ちている。

 子どもの名前を連呼しているのは、薄れゆく意識の中、大事な者の思い出だけでも、あの世に持っていきたいという願いからだろうか。そういえばゆかりは、以前、俺が桑原と初めて山小屋を訪れた際にも、「けんじ、たつや、いちご」を連発していた。

 大事な者・・・・?けんじとたつや、二人の実子のあとに、いちごという名前を口にする、ということは・・・?

「よし・・・・・いけそう」

 純玲がようやくのことで、文字通り真っ赤な体色の赤ん坊を取り出した。同時に、魂が抜け落ちていくかのようなゆかりの呻き声が漏れる。

「い・・・・・いちごっ」

「ちょ・・・ちょっと」

 産爺とは名ばかりで、糞の役にも立たなかった宮城が、生まれ落ちた赤ん坊を、純玲から奪い取った。いつにない強引な態度である。まるで、子どもが何日も前から楽しみにしていた、クリスマスプレゼントの包みを開けるような・・・・。不思議に思って見ていると、宮城は赤ん坊の股間をじっくりと確認し、それを、眼前のゆかりの股間と何度も見比べているようである。しばらくすると、安堵の溜め息がもれ、笑顔がこぼれた。

 俺はすべてを察した。この場で本当の勝利をおさめたのは、俺ではなかったのだ。
「もういいだろ。おばちゃんと赤ん坊はにんにく大魔人に任せて、俺たちはさっさと山を降りようぜ」
 俺は山小屋に残っている面々に向かって、撤収の声をかけた。

「おい!とっと降りるぞ。めそめそ泣いてないで、さっさと立て」

 純玲に中学ジャージの襟を引っ張られても、莉乃は自分の足で立ち上がろうとはしない。腰が抜けてしまったようである。

 今回のこと、莉乃はすべて俺が仕組んだことだと気づいただろうか。気づいたうえでなお、俺を罵倒したことを後悔せず、むしろ、「わたしの見る目は正しかった。アイツはやっぱり悪魔だった」と自賛するだろうか。

 たしかに、見る目は正しかったのかもしれない。だが、それは単なる結果論である。莉乃が俺と付き合ってくれていたら、そこまでいかなくても、俺を侮辱したりしなければ、というIFを想定していない時点で、一方的な、極めて不公平な見方だ。

 莉乃が俺にやったことは、例えれば、飼い主が内心厄介に思っている犬を、檻に入れっぱなしで、散歩も連れて行かず、餌もやらずに放置して、たまたま近づいたところに噛みついて来たら、それ見たことかと保健所に連れていくようなことである。

 俺は当初、莉乃を好いていた。莉乃が俺と交際をしてくれれば、俺が莉乃を幸せにしようと、まともに生きていた可能性はあったといえるだろう。現に、純玲とは、俺はいい関係を築いているのだ 
 交際は断ったとしても、もっと穏便な言い方であったなら・・・「ありがとう」「ごめんなさい」の一言さえ言えていたなら、俺とて、報復などは考えなかったに違いない。仮に報復したとしても、俺の方が百パーセント悪いのだということになって、周囲には誰一人として俺を擁護する者はいなかっただろう。俺のプライドを必要以上に傷つけるようなことをしてきた時点で、莉乃の過失なのだ。

 大事なことは、過去はともかく、俺は莉乃の前では、けして悪行など積んではいなかったということだ。もし、男が好いた女に、何の根拠もなく「怖い」となど言われたら、「悪魔」などと罵られたら、その男はどう考え方を変えたらいいだろうか。怖いと言われないため、善人であるよう心掛け、精一杯優しく振る舞って、なお怖いと言われ続けたら、一体どうしたらいいだろうか。

 怖いと言われて傷つくのは、自分を優しい人間だと思っているからである。それなら、自他ともに認める怖い人間になってしまえば、問題はすべて解決するではないか。

 ベストな結論とは、大抵の場合、シンプルな結論である。プロレスのヒール役がいい例だが、自分が怖い人間、悪い人間であるのを最初からわかっており、それに誇りすら持っている人間であれば、悪い、怖いと言われても、何の痛痒も感じないどころか、喜びにさえなるのだ。

 莉乃が俺や宮城に好き放題言っても平気でいられた根拠は、汚い雑菌おじさんである俺や宮城が、美しく、か弱い莉乃に対して報復するのが「悪いこと」である、という思い込みであろう。莉乃は何一つ悪くない自分に、俺や宮城が危害を加えるのは「悪いこと」なのだから、俺たちは何もできないはずだとタカをくくっている。

 しかし、残念なことに、自分が怖い人間であることを認めており、悪いことをするのを屁とも思っていない俺の前では、莉乃が頼りにする根拠では、何の抑止にもならないのである。そして、少なくとも莉乃の前では正しい、優しい男であろうとした俺を、悪を屁とも思わない男に変えたのは、他の誰でもない莉乃本人だ。

 俺は莉乃が望む通りの悪魔となり、莉乃が望んだ通りのことをした。莉乃がみんなに守られるプリンセスを演じる舞台に、全面的に協力してやったのである。ちょっと気合が入り過ぎて、演出家の期待以上の演技をしてしまったが、それも役に対する強い思い入れあってこそのこと。主役がそれを上回る輝きを放ってみせればよかっただけだ。

「わたしじゃない・・・・・わたしのせいじゃない・・・・・」

 わたしのせいじゃない―――。莉乃はいったい、何の責任から逃れようとしているのだろうか。ゆかりを半死半生に追い込んだこと?こんなことになった大元の原因――自分が男を愚弄し、無暗に傷つけたこと?

 誰も莉乃のせいとは思っていない。俺のせいでもない。自分の意志で行動しているつもりでも、人ひとりの行動の裏には、目に見えない大きな力が働いており、それに操られているだけというのが実際のところだ。

 その大きな力こそ、世間というシロモノである。世間は大衆の総意であるが、大衆の総意が、必ずしも正しいわけではない。世間の価値観に迎合することによって得られる幸せもあるが、世間の価値観のせいで妨げられている幸せもある。個人個人が取捨選択をすればいいのであって、妄信すべきものではないのである。

 全部ひっくるめて、世間と対立する気になったら、また俺のところに来ればいい。その際には一週間風呂に入らず、トイレに行ったあと拭くのも我慢して来てくれれば、極上の快楽を提供してやる。

「アニキ。でもこんだけ滅茶苦茶やって、大丈夫なんすかね・・・?通報とか。なんなら、皆殺しにしちゃいます?」

「その心配はねえよ。なあ、にんにく大魔人」

 黙って俺を見つめ返す宮城の瞳の色には、俺に散々に屈辱を味あわされた憎しみと、赤ん坊の種を提供してくれた感謝の気持ちがない交ぜになった、複雑な思いが感じとれる。

「あっちも・・・・大丈夫だろ。下手したら、殺人犯だからな」

 ゆかりの身体に刻印された痣は、純玲がつけたものよりも、莉乃が新しくつけたものの方が、ひときわ大きい。ゆかりが産気づいた原因は純玲だったかもしれぬが、どちらが致命的な一打を与えたかといえば、それは莉乃の方だろう。

「莉乃ちゃん。今日起きたことは、全部悪い夢だったんだ。莉乃ちゃんが蹴ったことで、いちごちゃんはこのまま死んじまうかもしれねえが、それはしょうがないことだったんだ。黙っときゃ誰にもバレないから、平気だ。もし死体が誰かに見つかっても、よくあるホームレス女の自然死として処理されるはずだ。俺もみんなも、今日のことは誰にも言わねえ。忘れて、新しい幸せを見つければいいさ」

 自分に都合の悪いことは、みんな忘れる。それが、蹴躓いたものをあざ笑う連中が言う、「前だけを見て、くよくよするな」の真相である。この女はずっと、そういう者たちの言うことを信じて生きてきたのだろう。

 これからも、同じようにしていればいい。最悪、重荷に耐えきれなくなって、この日見聞きしたことを外部に暴露するなら、それはそれで、莉乃に深刻なダメージを与えられた俺の勝ちだ。どう転んでも、俺の望みは叶えられるのである。

「山を降りる前に、土産を頂いていくか」

 俺は床に転がっていたペットボトルを拾うと、キャップを空けて、虫の息のゆかりに近づいていった。もう出血多量で目がかすんでしまって、何も見えないのであろう。俺が近寄っても、何も反応はなかった。

「ガキが吸っちまうまえに、もらってくぞ」

 俺はゆかりの乳房を摘み、ペットボトルの中に、芳醇な母乳を流し込んだ。死が間近に迫っているにも拘わらず、ゆかりの乳房からは、四方八方に向かって、ぴゅうぴゅうと白いミルクが飛び散る。母乳は血液から作られるというが、ゆかりは自分が生きるための血液を犠牲としても、子供のための栄養を作り続けていたのである。

 ペットボトルの底に四分の一ほども母乳が溜まったところで、俺はキャップを締めた。俺が搾乳している間、宮城は産声を上げ始めた子供に夢中で、ゆかりのことなど一瞥もしなかった。

「じゃあな。いちごと一緒に、達者でくらせ」

 宮城にそう言い残して、俺は純玲と手をつなぎ、桑原、放心状態の莉乃とともに、山を下りて行った。途中、純玲が、家に帰る前に、ぜひうちに寄ってくれと言う。なにか、俺に見せたいものがあるそうだ。はやく自宅に帰って休むつもりだったが、別に純玲の家で休むのでも構いはしない。俺は電車に乗り込むと、自宅最寄り駅を通り過ぎ、純玲の家へと向かった。

外道記 改 19



                        19


 勤務を終えた俺は、電車に乗って、隣の市に向かった。コンビニで食料品を買い求めてから、事前に予約を取っていたレンタルルームに入り、ある男の到着を待つ。待っている時間中、菓子パンを貪りながら、今日発売の週刊誌に目を通した。

――本誌記者が直撃!十八年前の同級生殺害事件の加害者少年、衝撃の現在!

 近頃、インターネットの匿名掲示板で密かな話題となっているニュースがある。十八年前、都内の中学校で、一人の女子生徒が、同級生の男子生徒に、刃物で全身三十か所を刺されて殺害された事件。猟奇的な殺害方法と、振られた逆恨みという身勝手な動機から当時大きな話題を呼んだ少年事件であったが、その加害者少年Aが、S県の運送会社で働き、家族と幸せに暮らしているといった個人情報が、ネット上に流出したのである。

 元殺人犯に家族がいて、普通に働いているというだけで、騒ぎになったりはしない。Aは社内でも責任ある立場にあったそうだが、年齢的に違和感のない中間管理職である。その昔、Aと同じく少年時代に人を殺めた少年が、出所後に勝ち組の象徴である弁護士となって社会復帰し、地元の名士として声望を集め、裕福な暮らしを送っていたことが世間の顰蹙を買い、Aと同じようにネット上に個人情報が流出して弁護士を廃業に追い込まれ、社会的な制裁を受けるという事例があったが、そういう例外的なケースとは違う。

 更生した元少年院出所者が仕事に意欲を持ち、責任ある仕事を任されようとするのなら、それは素晴らしいことであり、更生の成果といえる。あまりにも分不相応な成功を収めない限りは、個人の努力として平等に尊重すべきであろう。自分の過去を完全に隠した上でのこと・・というのなら多少気になるところはあるが、家族と幸せに暮らしていてもいいはずだ。被害者遺族に手紙を書いたり、送金を欠かさないなど、反省の態度は、珍しいほどしっかり見せていた方である。

 なぜ、模範的な出所者ともいえるAの個人情報が流出し、それがネットユーザーの顰蹙を買って拡散される「祭り」が起きてしまったのか?加害者少年は、勤務する運送会社において、部下である派遣社員に、日常的なパワハラを行っていたからである。以下は、職場で実際にAのパワハラを受け、Aに対抗するために労働組合を結成したK氏からのインタビューである。

――酷かったですよ。派遣を人間として見てなかったですからね。彼は派遣が、正社員である自分たちと同じモチベーションで働かないのが不満だったみたいですが、そもそも派遣って、そういうものじゃないですか。それを殴る蹴る、死んでしまえと罵る・・。一人だけ大昔の奴隷労働の時代にタイムスリップしてたって感じでしたね。偏見は良くないですけど、昔、人を殺したことがあるって聞いて、正直、納得しちゃいました。やりかねないなって。

 K氏が中心となって結成された労働組合の活動の一環として、Aが勤務する倉庫の所在地周辺にばら撒かれたビラ。タイミングからすると、どうやらこれが、Aの命取りになったようだが、Aの職場での態度が昔からだとするなら、過去にAにイジメられた人物が、たまたまこのタイミングでAの過去に気が付き、ネット上に情報を流したのかもしれない。いずれにしても、自業自得、身から出た錆によって、Aは職場で孤立し、非常に困難な生活を余儀なくされているようである。

 本誌がこの話題を取り上げたのは、加害者少年Aを、社会的に抹殺する目的ではない。筆者も一人の労働者であり、組合員の一人でもあるが、Aにひどい仕打ちを受ける、弱い立場の派遣労働者を守ろうという義憤にかられたわけでもない。

 本誌が、曲りなりにも更生し、社会人として真面目に働き、家庭を築いて生きている一人の三十二歳の男の人生を破滅させる恐れがあるのを承知で、今回の記事を掲載したのは、十八年前、同級生の女の子の命を無慈悲にも奪った少年Aが、今また、ひとつの新しい重大事件に関わっている可能性が浮上したからである。

 重大事件というのが、東山の女房が失踪したことを指すのは、この先を読むまでもなかった。週刊誌も凄いが、もっと凄いのは、「ネット探偵団」の仕事の早さである。俺と桑原が、東山の女房の死体を片付けたのは十日前の話だが、俺がチェックしていた限りでは、その三日後にはすでに、ネット上では東山夫人の失踪疑惑が囁かれていた。週刊誌はその情報を元に動いたのであろう。

 ネット上で個人のプライバシーを侵害するような情報を垂れ流すのは、一日中家にいて暇なニートや、既婚女性を略して「鬼女」などと呼ばれる専業主婦と言われているが、彼、彼女らに目をつけられた人間は、一巻の終わりだ。東山のような元殺人犯でなくとも、SNSなどで薬物や軽犯罪行為などを自慢している連中や、酷いときには掲示板上で煽り行為を繰り返し行っていた程度のことでもターゲットにされ、会社をクビになったり、通っていた大学を退学に追い込まれたり、交際相手と破局に追い込まれたりなど、大きな損害を受ける。平均以上の人生は、まず破壊されるのである。

 ネット上に流出している東山の個人情報のテンプレには、近頃自主的に、東山のボディーガードを務めている桑原のことも、いつの間にか追加されていた。「ネット探偵団」がターゲットの自宅を直接訪れる、突撃を略した「凸」を仕掛けてきた連中と、桑原とのやり取りが、ユーチューブなどの動画投稿サイトにUPされていたのである。

―――んだこらてめぇ!東山先輩にちょっかい出す野郎は、ぶっ殺してやっぞ!

 金属バットを振り上げて、動画の投稿者を追いかけていく桑原の様子を見て、動画のコメント欄には、「こんなDQNを子分にしてるのか。やっぱ全然反省してないんだな」「社会悪なんだから、どんどん晒して潰せばいいっしょ」「あーこれ見て同情する気まったくなくなったわ」などといった、視聴者からの批判的なコメントが寄せられていた。東山を守るつもりが、桑原自身が、東山の評判を余計に落としてしまったのである。

 東山の事件は、当時あらゆる媒体で紹介され、事件のあらましをまとめた本も発売されていたが、そうした過去の文献を元に、掲示板には東山の悪行だけではなく、東山の善行、すなわち中学時代に取り組んでいた校外活動であるとか、イジメ撲滅組織「君を守り隊」の活動についての情報も書き込まれてはいた。

 ただ、やはり「善行」といっても、そのやり方があまりにも独りよがりで、他人の迷惑を鑑みないものであったことの方が全面に押し出されており、東山はアスペルガーなどの発達障害者だったのではないか、山里愛子を殺害したのも、やはり独りよがりな思い込みだったのではないか、という意見が大半を占め、けして東山を擁護する方向には働いていないようだった。

 東山と「生存競争」を繰り広げていた当の本人である俺のことについては、まったく取り上げられる向きはないようであった。事件についてまとめられた本は俺も読んだが、東山への「イジメ」について、「中心となっていた一人の少年がいたようだ」との記述があり、俺がもともと別の知的障碍者の生徒をイジメていたことをキッカケに「君を守り隊」が結成されたという経緯についてまでも調べられていたようだったが、当時、俺に直接取材が行われるようなことは、結局一度もなかった。

 自分がイジメられていることを認めたくなかったからだろうが、そもそも加害者である東山本人が、取り調べや裁判において俺のことをあまり問題とすることもなかったため、当時、俺の存在が大きく浮かび上がることがなかったのだ。

 学業もスポーツでもパッとしない。他人の印象に残るような風貌でもない。東山との「生存競争」以外の場面では、そんなに面白い事ができたわけではない。もしかしたら、「生存競争」の中心人物は、俺ではなく別の誰かだと思われていたのかもしれない。何一つ取り柄もなく、影も薄いことが、この点に限っては良い方向に働いたといえる。

 週刊誌の記事の内容は、それから東山夫人の両親への取材結果に続いていた。俺も一度、家族団らんの風景を目にしたことがあったが、家庭での東山は、職場での暴君ぶりが信じられないようなマイホーム・パパで、東山夫人の両親にとっても、東山は自慢の婿であったようた。東山夫人の両親は、実の娘を殺害した疑惑が浮上している東山を一言も責めず、ただ、東山に大罪を起こした過去があったことなど、到底信じられないとコメントしている。

「信じられないっつっても、実際、あんたらの娘も、アイツがやっちゃったんだよなぁ・・・・・」

 最後まで読み終えたところで、来客が、部屋のドアをノックした。俺は、ポケットに忍ばせた護身用のスタンガンのストッパーを外し、来客を迎え入れた。

 緊張の一瞬。もし、来客がいきなり俺に襲い掛かってくるようであれば、俺は来客の首筋にスタンガンを押しあて、一撃でダウンさせる。首筋じゃなくても、身体のどこか、服の上から触れても効果があるように、ハイパワーの九十万ボルトスタンガンを買ってきた。

 それでも、あの化け物に勝てるかはわからない。ヤツもまた同じように武器を持っていたら、俺に勝ち目はない。最悪、ここで命を失い、すべての計画が潰えてしまう未来も想像した――が、目の前に現れた来客の様子を見て、すべての危惧は霧消したことがわかった。

 来客――東山の足取りは幽霊のようで、瞳はトマトのように充血し、頬骨が浮いて顎が鉛筆のように尖り、顔色は全体に黒ずんでいた。二十代前半のころ、養女に精液を振りかけた事件で留置場に入った際、薬物中毒者を何人も見る機会があったが、東山の様子は、彼らとまったく同じであった。とても人を殺せる状態には見えない。

 一応、ニット帽を被り、普段しないコンタクトで外見を変えているが、仁王の如き巨体は、否が応にも目立つ。週刊誌やネット住人の尾行に合っている可能性を考慮して、わざわざ隣の市のレンタルルームにまで、東山を呼び出したのだ。

「大丈夫かよ、おめえ。ちゃんと飯食ってるか?食わなきゃ力でねえぞ」

 東山はうつろな目を泳がせただけで、俺の問いかけに応えようとしない。

「まあ、あれだ・・・。疲れてるとこすまねえが、せっかく来てもらったからよ、この前言った、お前の”道”について、俺なりに考えたことを、聞いてもらいてえと思う」

 東山の予想以上の憔悴ぶりに内心戸惑いつつ、俺はスマートフォンを操作し、ある映像ファイルを起動した。

――いちごちゃん、おはよう。今日もドレスが似合ってるね。いちごちゃんにごはん、持ってきたからね。

 作り笑顔を浮かべながら、地蔵山の山小屋の中に入っていく、中学のジャージ姿の莉乃の姿。俺が東山に見せた映像とは、地蔵山でゆかりに餌付けをする、莉乃と唐津の様子を収めた動画であった。

「ここは、地元の地蔵山。知ってるだろ、俺がお前に首絞められて殺されかけた山の、登山道だ。登山つっても、電気屋が頂上にある電波塔の点検に行くくらいにしか使われてねえみたいだが、途中の山小屋っつーか、物置みたいなとこに、女のホームレスが住み着いててよ。莉乃と唐津が定期的にそこにやってきて、おばさんに食料をやってるんだ」

 画面に映し出される、赤いお姫様ドレス姿の老婆、ゆかりを、食い入るように見つめる東山。莉乃が山小屋に入ってからは、俺は入り口から手だけを伸ばして撮影をしているため、ゆかりは俺に気づいてはいない。

――いちごちゃん、今日はいちごちゃんと、お人形さん遊びをしようと思って、私が小さいころ遊んでた、バービーちゃんを持ってきたの。いちごちゃん、どっちか好きな方を選んで。あっ・・・鼻水拭くのに使っちゃ・・・・いいや、それ、あげる。

――いちごちゃん、もうそろそろ夜は冷えるから、よかったら、これ着てください。

 ゆかりに玩具や防寒着を与える莉乃と唐津の姿は、一見、弱い人間を思う、心暖かい青年の姿に見える。だが、奴らの行動には、一つ大きな落とし穴がある。

「コイツらがやっていることを見て、おかしい点があることに気づかないか?ホームレスに餌付けをするのは偉いことみてえだが、本当にこのおばさんを思うのなら、行政とか、民間の支援団体とかに連絡すりゃあいいだけの話だ。そうした方が、より良い環境におばさんを移してやれる。なぜ、こいつらは素人のくせに、こんなボランティアごっこをしていると思う?唐津は己のヒロイズムに酔いしれるため。莉乃は若い恋人の唐津に、自分の優しさと甲斐甲斐しさをアピールするためだ。うろ覚えだが、この話をもっと大々的に広めて、ネットかなんかにアップして、就職の面接のときの自己アピールに使おうとか言ってたような記憶もある」

 何も喋らず、質問もせず、スマートフォンの画面に釘づけになっている東山に、俺は一方的に解説を続けた。

「これが、お前を偉そうに叩いてたやつらの正体だ。偽善のために弱者をおもちゃにするこんな奴らが、中学時代、イジメ撲滅のために心血を注いで活動していたお前のことを、悪魔みたいに言っていたんだ。まあ、酷い話だよな・・・」

「・・・・・・」

「まあ、その、なんだ・・・。自分でもわかってると思うが、お前がこの先、まっとうな人生を取り戻すっつーのは、正直、厳しいと思う。お前がどんだけ反省の態度を表したとしても、世間はもう、まともな目じゃ見てくれねえ。世間に面が割れちまった以上、再就職も難しいだろう。美織ちゃんと一緒に暮らすのも、まあ、無理だろうな・・・・」

 東山の肩が震え、真っ赤に染まった瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。人生の破滅。俺から言われなくても、毎日ネット住人からの嫌がらせを受けている本人が一番、痛感していることである。

「それでもお前が、どこか遠くの場所で、一からやり直したいってんなら、止めはしねえが・・・。俺がお前の立場だったら、もう真面目に生きててもしょうがねえと諦めるけどな。。ネット風に言えば、今さらハードモードからニューゲームするよりも、自分のこれまでの人生にケジメをつけて、とっととあの世へ行く道を選ぶと思う。そんとき、ただで死ぬんじゃ、あんまりにも悔しいから、自分を苦しめてきた世間に対して、何らかの爪痕を残してから死ぬんだ」

 涙だけでなく鼻も垂らす東山に、ティッシュの箱を差し出してやる。

「お前が今の時点で、一番憎いと思ってるのは、もしかしたら、俺かもしれねえ。確かに、お前の人生が狂うキッカケを作ったのは俺だ・・・。だが、前にも言ったが、一歩間違えたら、俺たちの立場は逆になっていたかもしれない。あれは”生存競争”だったんだ。それに、一応俺は、自分のことを悪だとわかっている。お前が年少に行ったように、俺もシャバで、それなりに制裁は受けてきたしな・・・」

 このタイミングで、再び、禁断の扉を開いた。東山を刺激する、かなり危険な賭けに出ているのはわかっている。俺はポケットの中のスタンガンに、再び手を伸ばした。

「正義の味方であるお前を、こともあろうに悪人呼ばわりして、追い詰めようとしたヤツらがいる。世間はそいつらのことを、今どき珍しい、清々しい心の持ち主だと思っているようだが、そいつらは実は、自分が正義の味方だと思われるために、弱者を利用してるだけの偽善者だった。誰よりも正義を貫こうとしたお前が悪党呼ばわりされる一方で、下心しかない奴らが、正義の味方と思われ、就職もして成功を収めようとしている。人それぞれ、考え方も違うだろうが、お前がケジメをつける相手として相応しいのは、俺よりも・・・・」

 殺人教唆とならぬよう、慎重に言葉を選び、唐津や莉乃の名前は一回も出さないように気を付けながら、東山の気持ちを「誘導」していく。東山が「本懐」を遂げられるように後押ししてやる。

「こんなことでしか力になってやれなくてすまねえが・・・俺もお前のダチとして、せめてお前に、悔いのないエンドを迎えて欲しいと思ってる。お前が人生の最後に、すべてをぶつけられる相手として、今日、ひとつの例を示した。あとは、自分で考えてみてくれ。あと、これ、お前のこと書いてあるから」

 瞳から大粒の涙を流しながら、俺が渡した週刊誌の記事を貪るように読む東山を残して、俺は部屋を後にした。

 やれるだけのことはやった。あとは、東山がどう判断するかだけである。

 帰りの電車の中で、週刊誌の末尾に書かれていた、K氏こと唐津のインタビューを思い出す。

――Aの正体が明らかになってから、色々ネットで調べたんですけど、あの人中学生のころ、イジメっこを守るための活動をやってたんですよね?なんで元々はそんな正義感の持ち主だった人が、あんなパワハラをやっちゃうのか・・・。自分のやったことが報われなくて、百八十度変わってしまったんですかね。もし、僕と彼が同級生で、同じ学校に通っていたら、別の道があったのか・・・おこがましいもしれないですけど・・・なんか、悲しいですよね。

 唐津は、東山にもっとも言ってはならない言葉を口にしてしまった。戦士である東山にとってもっとも屈辱的なのは、罵倒されることではなく、憐れまれることである。俺が渡した週刊誌の記事を読んだ東山は、今ごろ激しい怒りに打ち震え、唐津に対する殺意の炎を燃やしていることだろう。

 莉乃をにんにく大魔人で仕留めなくてはならないのと同じように、唐津に対しては、東山を差し向けなくてはならない。

 俺は唐津という男の、ソフトの部分を憎んでいるわけではない。ソフトだけだったら、労働組合の活動において、最終的に俺を右腕とまで信頼してくれた唐津は、むしろ友達として仲良くなってもおかしくない、いいヤツである。唐津の心を傷つけても、俺の心の傷は癒えはしない。

 俺が唐津という男の中で憎んでいるのは、ヤツのハードの部分である。俺が寿命を十年削ってでも入れたかった莉乃のヴァギナに、硬くいきり立ったものを突き刺した唐津が、憎くて仕方がない。

 唐津が莉乃のヴァギナに、硬くいきり立ったものを差し込めたのは、ヤツの顔面の造形が良かったからだ。社会的地位は俺と同条件、性格が滅茶苦茶良いわけでも、特別面白いことが言えるわけでもない、それどころか、最初は莉乃のことをバカにしていたはずのあの男が莉乃に惚れられたのは、あの男の顔が良かったから、ただそれだけの理由である。

 たった一ミリ、鼻が高いだけ。たった一ミリ、目が大きいだけ。たかが一ミリだが、現代人にとって、それは一生ついて回る一ミリである。たかが一ミリの違いで、経験できる異性の数は一ケタ変わる。たかが一ミリの違いで、年収が百万は変わる。それが現代社会。ルックス至上主義の世の中に生まれた人間は、たった一ミリの違いに翻弄され続ける人生を送らなくてはならないのだ。

 俺に散々に辛酸を舐めさせてきたルックス至上主義の世の中に復讐するには、イケメンである唐津の顔面を破壊しなければならない。唐津の心を壊しても、唐津の勃起力までも奪うことはできない。唐津に対する復讐方法としてもっとも相応しいのは、俺から莉乃を掻っ攫っていった唐津のハードを、圧倒的な暴力よって粉砕することである。

 世間に対する俺の怨念を成就させるためには、にんにく大魔人だけではなく、東山も使わなければならない。俺と同じく、唐津によって純粋な想いを潰され、今ここで死んでもいいからやりたかったことを邪魔された東山ではなくては、俺の代理にはなりえないのである。

外道記 改 18



                         18


「わあ~。今日もいちごちゃん、可愛い~」

 百獣の王、ライオンの臭いが漂う山小屋に、赤の地に紫のラインが入った、中学のジャージ姿をした莉乃が、乾パンやカロリーメイトの入った袋を持って入っていった。

「あ!いちごちゃん、おっぱいの時間だったんだぁ~。けんじくんと、たつやくん、おっきくなるといいね~」

 莉乃の願い通り、俺の息子は大きくなっていた。俺にさんざん身体を弄ばれ、種を植え付けられた女がミルクを出しているところを、俺が身体を弄りたくてたまらなかった女が笑顔で眺めているという光景に、けんじとたつやを作った俺のミルクは、暴発寸前になっていた。

「しかし、酷いところですね・・・。うわわっ。ウンコが落ちてるっ」

 唐津が足元に注意しながら、扉の向こうに見える莉乃の後ろ姿を、不安そうに眺める。莉乃をこの地蔵山におびき寄せることができたのは、まちがいなく彼の功績である。労働組合の活動が下火になっている今、アピールの場に飢えている莉乃は、唐津に自分のダルクぶりをみせつけるため、出産を控えたいちごに栄養のある食べ物を届けてあげるとの名目で、定期的にこの地蔵山に入ることを同意したのだ。

 弱い者を守る使命感に満ち溢れた唐津さえ、戦意喪失気味になってしまうほど衛生的に劣悪な環境だが、莉乃は嫌な顔ひとつ見せず、いちごの糞を、バレリーナのような華麗なステップでかわし、小屋に入った後は口呼吸に切り替えて、まるで、大好きなお花畑にいるかのように振る舞っている。

 おそらく莉乃は、掃き溜めに鶴の言葉通り、そのままでは凡百並みでしかない自分のルックスが、お下劣な婆のいる、お下劣な環境に足を踏み入れれば映えて見えることを、本能的にわかっているのだろう。この地に、自分が追い詰めたにんにく大魔人の怨念と精気が渦巻いていることを知らぬ莉乃は、ここが死地とも知らずに飛び込んできたのである。

「けんじ、たつや、ゆかりの子。けんじ、たつや、ごはんのじかん」

 百獣の王の臭いを放ち、還暦にして妊婦という、ハードな見た目をしたいちごと莉乃が仲良くなれるかは気がかりなところであったが、いちごを、自分が「弱者を労わるプリンセス」を演じるためだけに利用しようとしているだけの莉乃にとっては、いちごがグロテスクであればあるほど都合が良く、張り切って優しくしようと思えるらしい。いちごの方は、この二年間というもの、俺、純玲、にんにく大魔人と、怖いことをする人間か、えっちなことをしようとする人間としか接してこなかったせいか、久々に、人間らしく接してくれた莉乃にはよく懐いているようであった。

「わあ!いちごちゃん、私にプレゼントをくれるのね!ありがとう~」

 言うやいなや、莉乃が引き攣ったような不自然な笑顔を浮かべて、小屋の中から出てきた。左手には、にんにく大魔人が買ってきたものと思われる、バナナが握られている。

「はい、蔵田さん。私、お腹すいてないんで、食べてください」

 いちごが、莉乃に友好の印にと渡してきたらしいバナナは、母乳とよだれと手垢で、びとびとに汚れていた。いちごの身体から出た雑菌が莉乃の身体に入るところをぜひ見たかったが、ここでイジメて、莉乃に機嫌を損ねられてもつまらぬ。俺にとっても、久々に味わうゆかりの雑菌は貴重な栄養素である。ありがたく、頂いた。

 すでに山小屋の中には、にんにく大魔人が買ってきた食料の他に、莉乃が持ってきた食料も置かれている。また、莉乃がここに来たと猿にもわかるように、山小屋の前で記念撮影した莉乃の写真も置いておいた。それらの痕跡から、にんにく大魔人は、地蔵山の愛の巣に、侵入者が現れたことに気が付くはずであった。愛の巣への侵入者の正体が、事もあろうに、己を人間から怪物にした帳本人である莉乃だと知ったならば、にんにく大魔人は今度こそ、莉乃を犯し、殺害するはずであった。

 が――。

 二週間前、莉乃がいちごへの餌付けを始めてから今日まで、にんにく大魔人がアクションを起こそうとする形跡は、まったくなかった。

 あの男は、このままいけば、大事な大事な、エッチなことし放題の女体を失うということを、わかっているのか?このまま手をこまねいていては、もう一生涯、素人女とセックスをする機会は巡ってこぬであろうことを、わかっているのか?

 愛の巣に侵入者が現れたことがわかったとき、にんにく大魔人は、いちごを行政に引き渡されることを怖れるはずだが、あるいはにんにく大魔人は、莉乃の目的が、弱い者に優しくする自分を周囲にアピールし、褒めてもらうことだけであることを理解しているのだろうか。かつて宮城であったにんにく大魔人が、そうであっただけに――。だから莉乃は、逆にどんなことがあっても、いちごを行政に引き渡したりなどはすまいと、安心しているのだろうか。

 いや。他人の気持ちを想像できないことにかけては東山クラスのあの男に限って、そんなはずはない。あの男はただ、この期に及んでもキレイごとに縋りつき、「然るべき場所に保護されるほうが、いちごさんにとっても幸せですから・・・」などと自分に言い訳して、莉乃への恨みを押し殺し、ただ犯罪者の汚名を着るのを恐れておるだけだ。

 あのにんにく大魔人は、魔人のくせに、どこまで腰抜けなのか?俺や唐津がいるから出ていけないというのならまだ仕方がないにしても、莉乃の家を調べて、一人でいるときに襲い掛かるとか、幾らでも方法はあるだろうに、なにをいつまでも、ぐずぐずしておるのか。

 もし、俺のにんにく大魔人に対する一連の行動を、あたかも神のように俯瞰して見守っている者がいたとすれば信じられないだろうが、俺はにんにく大魔人に対しては、実のところ、かなり同情的である。

 不細工な顔に生まれてしまったのは、本人は何も悪くはない。その顔のせいで女に酷い扱いを受け、女への接し方がおかしくなってしまったのも、本人のせいではない。あそこまで女の気持ちがわからないのは、顔のせいで敬遠され、まともな恋愛経験を積めなかったことよりも、何らかの発達障害を抱えているせいなのかもしれない。

 にんにく大魔人を笑いはしても、彼を責めるつもりは一切ない。元より、俺にその資格があるなどと思っていない。社会不適応の先輩として、俺がにんにく大魔人に偉そうにいえるのは、社会不適応者だからといって卑屈になり、社会に遠慮する必要などは一切ないということだけだ。

 負けることが恥なのではない。負けたままでいることが、恥なのだ。俺たちも間違っているかもしれないが、社会はもっと間違っている。こんな社会に、無理に適応する必要などはない。自分がどうしようもなく、この社会、世間と相容れない存在であることがわかったとき、その人間がやるべきことは、適応の努力をするのではなく、自分の不適応を愚弄し、屈辱を味あわせた者に対して、泣き寝入りせず復讐することだ。俺が莉乃や唐津にしようとしているのはそれであり、もしそうしたなら、俺は一人の男として、にんにく大魔人に拍手を送る。

 まだ親の援助を受けられるとか、愛する妻や子供がいるとか、立派な仕事があるとか、失うものがあるうちなら、人生を棒に振るのを躊躇うのはわかる。まだ、莉乃に振られてバカにされただけだったら、殺すまではしなくてもわかる。だが、今のにんにく大魔人は何も失うものがない、住む家すらないホームレスなのである。

 莉乃にはただ振られただけではない。にんにく大魔人は、莉乃が怪物・でぶ雑菌おじさんからみんなに守られるお姫さまを演じるために、散々利用されたのだ。その挙句、莉乃に絶望の淵に落とされ、死ぬことを考えていたときに見つけた生きる希望、いちごすら、莉乃に奪われようとしているのである。ここまで滅多糞にされて、一体どこに、莉乃への復讐を躊躇う理由があるというのか?あの魔人は、キンタマがついていないのではないか。

 いや、キンタマはついている。それも、途方もない量のおたまじゃくしを抱えたキンタマだ。なぜ、一生懸命こさえたおたまじゃくしで、いちごに子どもを産ませ、自分のペニスで作った母乳を飲むのを邪魔しようとする莉乃を、殺そうと考えないのか?なぜ、悪臭放つガーリックモンスターとなってまで作ったおたまじゃくしを莉乃の顔にべったりとつけ、恐怖を味あわせようと考えないのか?仮にも魔人ならば、耐えがたい屈辱を浴びせた莉乃に、怒りの一撃を食らわせるべきではないのか?

 断固として言うが、俺はにんにく大魔人を、自分の欲望のために利用しているだけではない。俺はあの魔人が男になるための舞台を整えてやったのである。俺は、不適応の先輩がここまでお膳立てしてやっているにもかかわらず、どこまでも煮え切らないにんにく大魔人に、怒り心頭に達していた。

「よう。そういえばさ、唐津くんのところに、週刊誌の取材が来たって話、もう少し詳しく聞かせてくれねえか?」

 昨日受け取ったメール――東山の個人情報流出事件のことで、週刊誌が唐津に取材を申し込み、早くもその晩のうちに、インタビューが行われた。なんでも、来週から週刊誌で、ネットで話題の東山の特集連載記事が始まるということで、唐津への取材の内容は、次号はやくも掲載される予定だという。東山破滅のマジックナンバーが、いよいよ点灯してしまったのである。

「僕が聞かれたのは、東山の職場での横暴な振る舞いについてのことです。どこで調べたのか、僕が労働組合を作ったことを知って、聞きに来たみたいですね。全部話しましたよ。僕たちがやられてきたことを」

「それで、記者は何だって?」

「東山のパワハラのことも書いてくれるみたいですけど、特集のメインテーマは、東山の奥さんが失踪したことらしいです。ひょっとしたら、東山が殺しちゃったんじゃないかって・・・もしそんなことになってるんだったら、話はパワハラとかの次元じゃなくなっちゃいますね・・」

 親族など、いつかは怪しむ人間が出てくるのは仕方がないが、週刊誌が早くも動くというのは、東山が「スーパースター」だからである。十八年前の同級生殺傷犯が、社会復帰後、奴隷工場の暴力親方として、弱い立場の派遣労働者をいたぶり、それが仇となってネットに個人情報を流され、挙句の果てに、妻殺害の疑惑まで浮上した・・・。週刊誌のネタとしては、申し分ないスキャンダルでだ。

 東山が追い詰められていくことは、東山を決起させる上では都合がいいが、それだけ手綱を握るのは難しくなるということである。これから俺は、ベテランの騎手のような絶妙なバランス感覚で、うまく東山を操縦しなければならない。金銭搾取から始まった東山利用計画は、いよいよ大詰めの段階に入ったのである。

「わあ。けんじくんとたつやくん、おいしそうにしているね。いちごちゃん、元気な赤ちゃんを産んでね。私、応援しているからね」

 いちごちゃん、いちごちゃんと、山姥のような悍ましいゆかりを、さも可愛い娘のように言う莉乃。女が、男の基準では明らかにブスでしかない女を褒めることがあるのは莉乃に限ったことではなく、その心理は複雑怪奇であるが、莉乃の場合は、「この女を可愛いということにしておけば、みんなは私のことを超可愛い、と思ってくれる!」というような願望でも込められているのであろうか。

 しかし、莉乃の中学のジャージ姿は何ともそそる。本当の子供が子供の恰好をしても何の魅力も感じぬが、成人を迎えた女が子供の恰好をしているというのが、マニアックで非常に興奮するのである。あざとい莉乃のことであるから、それを計算ずくでのコーディネートだったかもしれない。

 ボロボロの木戸の隙間から見えるいちごは、出産を控えてパンパンに張った乳房を絞り、皮膚の弛んだ腕に抱いたけんじ地蔵とたつや地蔵に、大量の母乳をばぴゅ、ばぴゅ、ばぴゅうと放射している。六十過ぎの妊婦が母乳を出すという、世にも奇妙な光景。これもまたこれで、たまらなかった。

 レイプ魔の血が騒ぎ出す。このままでは俺の方が先に、いちごと莉乃に、おたまじゃくしをべっとりと付けてしまいそうである。俺が我慢できなくなる前に、にんにく大魔人には一刻も早く動いて欲しいところであったが、どうやらヤツには、その気がないらしい。

 あの、肝心なときに役に立たないふにゃちん大魔人を奮い立たせるには、どうしたらいいのか?
時間的にシビアなのは、もう一方の怪物、東山よりも、むしろこちらの方である。

 いちごの腹はバスケットボールよりも大きくなっており、出産は間近に迫っているように思える。もし、いちごが子供を産んだなら、にんにく大魔人は子供を適当な赤ちゃんポストに放り込み、身軽になったいちごをさらって、何処かへと消えてしまう可能性が高い。

 派遣会社の寮かどこか、住む場所を確保したにんにく大魔人は、いちごに鍵付きの首輪をつけて監禁し、エッチなことをしまくって、今度は自分の赤ちゃんを産ませることだろう。その生活を眺められるというならそれでもいいのだが、俺の知らないところでやられたのでは、何の意味もない。

 長く見積もって、あと一か月。にんにく大魔人がこの地に留まっているうちに、勝負を決めなければならない。多少強引な手段を使ってでも、にんにく大魔人のリミッターを外し、莉乃を葬らせなくてはならない。

「なあ莉乃ちゃん。近頃この地域を徘徊している、にんにく大魔人って知ってるかい?」

 俺は、用事を終えて山から下りた後、商店の裏にあるトイレの水道で、汚物を触ったように入念に手を洗う莉乃に近づき、にんにく大魔人の話題を持ち出した。このまま一人で頭を捻らせていても、埒があかない。ターゲットである莉乃本人の口から、何かヒントを引き出せないかと考えたのである。

「・・・・聞いたことあります。街の方で、ものすごく臭くて、汚い顔をした、五十歳くらいのおじさんがウロウロしてるって」

 街の女子高生と同様、この女も、にんにく大魔人を五十路と言った。

 二十九歳で五十歳に見られるにんにく大魔人は、卒業アルバムを見る限り、十五歳で四十歳に見える顔立ちをしていた。近頃はアンチエイジングの研究も盛んであるが、おそらくこの先、彼がどれだけ努力をしても、二十代以下に見られることはないだろう。

 生涯の中で、十代二十代が「無い」という彼の人生を思うと、暗澹たる気分にならざるを得ない。たとえ本人の気持ちは若くても、周りはそうは見てくれないのである。肝心の女からオッサンだと言われれば、そうだと思うしかない。

 若さがすべてではないが、中身が同じだったら、若い方がいいに決まっている。心の中は、今まさに世に雄飛せんと意気込む若者で、セックスの経験は一度もないにも関わらず、肝心の若い女からは、人生の黄昏時を迎える中年で、もうバイアグラを使わなければ役に立たないと見られてしまう。冴えない顔だちではあるが老け顔ではない俺にとって、宮城の悲しみは、想像を絶する。

「・・・それじゃあ、ちょっと前まで同じ丸菱の倉庫で働いていて、莉乃ちゃんに告白してきた、宮城のことは覚えてない?」

「ああ・・・。あの人、どうしているんですかね。何だか凄い思いつめていたみたいだから、心配ですよね」

 よくもまあ、いけしゃあしゃあと言ってのけたものである。まるで宮城利通という人間が、にんにく大魔人という怪物になった経緯について、自分が何も関与していないとでも言いたげではないか。実際問題、そういうことにしておきたいのだろうが。

「その莉乃ちゃんに告白してきた宮城が、にんにく大魔人なんだよ。あいつは莉乃ちゃんに振られたことで心が壊れて、あれ以来、お嫁さんになってくれる女の子を探し求めて彷徨い歩く性欲の怪物、にんにく大魔人となって、この地域を彷徨い歩いてるんだよ」

 莉乃の顔が露骨に歪んだ。宮城を心配しているなどと言いつくろってはみたが、生理的な拒絶反応は、どうしても抑えられなかったようである。

「無理です。ほんとに迷惑です。なんでそんな夢を見ているんですか。結婚するだけが、人生じゃないのに」

 どうしてこう、息を吐くように、人の尊厳を踏みにじる言葉が出てくるのかと思う。

 学習障害を抱えたこの女は、小さい頃から人一倍、差別という言葉に敏感になって生きていたことだろう。世の中は平等でなくてはいけない。自分は平等に扱われなくてはいけない。その考え自体は立派なものだが、一つ解釈がずれているのは、この女は、「差別される障碍者の側ならば、健常者に対して何を言ってもいい」というふうに思い込んでいることだ。弱者の立場を、他人を貶める正当化に使っている。また、世間には自分が属するカテゴリとは別の弱者がいることにも考えが及んでいない。

 そしておそらくは、都合が悪くなれば、学習障害で語彙が少なかったせいにして逃げようとでも思っているのであろう。「学習障害」を保険として持ち歩き、都合の悪くなったときだけ、障害者の枠に雲隠れすることを、常に念頭に置いているのである。

「・・・私、間違ったことしましたか?しつこい人に諦めてもらうために厳しくいうのは、間違ってますか?私の中学校からの友達が、みんなああしろって言ってたんですよ?」

 中途半端に希望を持たせるよりは、最初から思い切り突き放した方がいい。家族、友人、財産など、失いたくない、大切なものがある相手にならば、それが有効なときもあるだろう。しかし、かつての俺や宮城のような、失うものが何もない相手にキツく言い過ぎても、反対に、火に油を注いでしまうだけだ。

 失うものが何もない人間には、踏み止まる理由がないのだ。これより下はもうないという、追い詰められたところにいるのである。立ち止まるも地獄、進むも地獄。だったら、コンマ幾つの可能性にかけてでも、希望の光へと向かって進んだ方がマシではないか。

 莉乃はさっきの言い分で、にんにく大魔人を理不尽な理由でズタボロにしたことを正当化できていると思っているのだろうが、とんでもないことである。

 莉乃の弁明を真に受けるなら、莉乃は絶望的に女にモテない三十路男――俺や宮城のように、極端に追い詰められた人間と今まで関わったこともなく、その気持ちもまったくわかっていないということになる。

 生まれつきコンプレックスとは無縁の美人がそうだというのなら、まだ仕方がないと諦められる。しかし、さして美しくもない三十路女が、自分を無理やり美人の側だと思い込んで――いや、「思い込むため」に、本来同じ穴の貉であるモテない三十路男を見下し、ケチョンケチョンに貶してくるというのはどうであろう。

 莉乃にコンプレックスがないのではない。莉乃はむしろ、俺に勝るとも劣らない、強烈なコンプレックスの持ち主である。

 莉乃と俺の違いは、コンプレックスというものを、否定するかしないかだ。莉乃はコンプレックスというものを心底恥ずかしいものだと思い込み、コンプレックスを抱えている自分を全否定している。だから、自分を必死に、生まれつきコンプレックスのないイケメンや美人の側に置こうとして、俺やにんにく大魔人のような、自分に言い寄ってくるモテない男の気持ちを滅茶苦茶に踏みにじろうとする。

 一方、俺はコンプレックスというものをある意味肯定的に捉えており、小さいときからちやほやされてきた美人よりもむしろ、莉乃のような不美人こそが、踏みつけられる者の痛みがわかる高尚な存在であり、本当に素晴らしいのは、そうした弱い者の気持ちがわかるはずの、優しい心の女と慎ましく生きていくことであると思っている。ただ単にブスに見下されてムカついているのではなく、「理想の女」に裏切られたことが悔しかったのだ、という考えもあるから、想いは複雑なのだ。

 田辺のように、都合の良いときばかり、女は星の数ほどいる――などと、ありきたりなことを言って、事なかれ主義を俺に押し付けようとしてくるヤツのことが、ずっと嫌いだった。そいつは一生そんなことを言って、誰一人本気で愛することもなく、絶対に手放したくない女も見つけられずに死んでいくのか?

 物事はすべて裏表である。失恋して思い切り落ち込めない男に、本気で女を愛することはできない。女を本気で恨める男は、同じくらい本気で、女を愛せる男。餓死しかけるほど苦しもうが、殺意を抱こうが、俺は莉乃への執着を否定する気はない。

 莉乃に対して俺の中で、愛情と憎しみと、あらゆる感情がミックスされて、熱くドロドロに煮えたぎっている。莉乃への感情は、それはまたそれで特別なもので、純玲を手に入れたところで消し去れるものではない。愛する純玲を手に入れたのだから忘れろ、ではなく、純玲を愛するためにも、消し去ってはいけないものなのだ。それこそが、俺の中での無謬性というものである。

「私の友達には、法律に詳しい人がいます。私があのおじさんに言ったことは、法律で違反じゃないって言ってました。裁判になったら、私が勝ちます。おじさんは、私に迷惑なことをしてはいけないんです」

 莉乃のことで前々から気になっていたのが、要所要所で登場する、中学時代からの友人とやらのことである。莉乃はいつも、特に人を責めたてる場合において、田辺や松原など、すぐ近くにいる人間だけではなく、俺やにんにく大魔人、あるいは東山に何の関係もない、別の集団に属している第三者にわざわざ相談をし、彼らの同意を得ているとしたうえで意見を述べることがあるが、これにもちゃんとした意味があることが、最近わかってきた。

 まったく関係のない、別の集団にいる第三者の名前を出すメリットは、こちらから確認のしようがないことだ。これが、俺が所属する集団にいる松原とか田辺の名前を出した場合なら、言われた方が彼らに、本当にそんなことを言っていたのかと確認を取ってしまうかもしれない。そこで誤解だと分かったら、今度は勝手に名前を使った莉乃の立場が危うくなる恐れがある。しかし、まったく関係のない第三者なら、そんな心配はまったくなくなる。

 もちろん、メリットもあればデメリットもあり、まったく関係のない第三者では、どうしても信憑性や説得力には欠ける。本当に俺やにんにく大魔人を悪く言っていたのだとしても、それは莉乃が、中学時代の友人とやらに、俺やにんにく大魔人を必要以上に悪しざまに誇張して伝えたせいかもしれない。だから聞き流してしまってもいいのだが、しかし言われた方には、なんとなく多数から責められているような、モヤモヤとした気持ちが残る。効果は薄くても、ノーリスクで確実に、相手を痛めつける手段なのである。

「法律に違反しなきゃ、何を言ってもいいって考えもどうかなぁ・・・。正直、ちょっと莉乃ちゃんは言い過ぎなんじゃないかって思うときはあるぜ。別に、今の時点で、なにか危害を加えてきたわけでもないのに・・・。自分を好きになってくれた男に、なんでそこまで言えるのかな?あいつが本当にブチ切れる前に、あいつに言い過ぎたことはとりあえず謝っておこうとは、思わねえのかな?」

 自分でも、愚問だとは思う。答えは、聞かずともわかりきっていた。

 莉乃は俺やにんにく大魔人のことを、人間だと見做していない。見世物小屋の珍獣のようなものだと思っている。だから、檻の中から愛嬌を振りまいている分には優しく接してくれる。だが、珍獣が一たび分を弁えずに恋心などを抱き、自分と同じステージに立とうとするのなら、「侮辱」であるととらえ、態度をガラリと変える。銃を持って、排除する側に回るのだ。

「・・・知らないです。どうせ・・・どうせあの人は、何もできないと思います」

 無視という選択。間違ってはいない。和平を持ちかけるにしても、中途半端に終われば、返って相手を刺激するだけで、逆効果になることもある。俺のような、煮ても焼いても食えぬ相手に対しては、確かに無視という手段しかないであろう。

 しかし、にんにく大魔人は、俺とは違い、話してわからないヤツではない。まだ良心の欠片が残っているあの魔人に対してすら、無視という手段しか取れないから、莉乃は愚か者なのだ。

 この女は本当に、自分が一点の曇りもない、すべてにおいて正しい聖人君子のような生き方をしていると思っているのだろうか。その可能性もあるが、俺の考えは少し違う。

 人には後ろめたさという感情がある。自分も言い過ぎた、自分の邪な考えのために、自分を好きになった男を利用してしまった。誰かに対して後ろめたいと思ったとき、自分の感情に素直に向き合い、現実的な解決策を探っていこうとするタイプと、ムキになって自己正当化を図ろうとするタイプの、二つの人種がいる。莉乃は典型的な後者のタイプである。

 毒を食らわば皿まで――。それならそれで、にんにく大魔人に徹底的に追い打ちをかけて潰そうという気概を見せるまだしも、莉乃はただ単に、都合の悪いことは忘れる、無視するという手段しか取れない。

 無能というより、莉乃はにんにく大魔人を完全に舐め腐っているのだ。人の悪意というものが、自分のおとぎ話の中に入ってくるなど夢にも思っていないのである。

「わかったよ・・・。莉乃ちゃんがそういうなら、仕方ねえな」

 莉乃を確実に葬る方法がわかったわけではないが、やはりどうあっても、この女を懲らしめるには、東山だけではなく、にんにく大魔人の手も借りなくてはならないことはわかった。

 莉乃は東山のこともにんにく大魔人のことも怖いと言っているが、二人に対する恐怖の質は、まったく異なる。東山の怖さがライオンやトラなどの猛獣の怖さだとしたら、にんにく大魔人の怖さは、ゴキブリやナメクジなど、不快害虫の怖さである。

 確実に莉乃の命を奪いたいなら、ライオンやトラをけしかけるべきだろうが、俺は必ずしも、莉乃の命を奪うことは目的とはしていない。純玲と出会う以前ならいざしらず、今の俺は、この世間に、小さな糞を擦り付けられればそれでいいのである。

 そもそも俺は、莉乃という女の、ハードの部分を憎んでいるわけではない。むしろハードの部分だけだったら、俺は毎日ぺろぺろと舐めても飽きないくらい愛しているのである。ただ単に、圧倒的な暴力によって莉乃の身体を傷つけるだけでは、俺の心の傷は癒えはしない。

 俺が憎んでいるのは、莉乃という女のソフトの部分――キレイなもの、都合の良いものしか目に入れないことで作られた、おとぎ話の世界である。

 にんにく大魔人は、莉乃にとって、この世でもっとも醜い存在であり、けして自分のおとぎ話に入れたくはない存在だ。莉乃がこの世でもっとも醜いと見做すにんにく大魔人に、莉乃のおとぎ話を侵略させることこそが、莉乃のソフトを完膚なきまでに破壊する、莉乃への復讐に最も相応しい手段ではないか。

 世間に対する俺の怨念を成就させるためには、東山だけではなく、どうしても、にんにく大魔人を使わなくてはならない。俺と同じく莉乃に惚れ、莉乃に「雑菌おじさん」扱いされ、同じ屈辱と憤怒に塗れたにんにく大魔人でなくては、俺の代理にはなりえないのである。
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津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
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