逃走 緒方一家の「滅失」が完了してからも、松永たちの犯罪生活は変わりませんでした。
新たに既婚女性と知り合った松永は、いつものように結婚生活の悩みを聞き出し、純子を「逃がし屋」として紹介して夫と別居させ、夫から身を隠すために必要だとして金銭を要求する詐欺行為を働いていました。
どういう心境の変化があったのか、松永はこの女性に対しては、通電などの虐待は行いませんでした。数々の悪行を反省したというのは有り得ず、単に飽きたのか、それとも、それを行わないことが金銭獲得において有利となると判断したのか。結果的にこの女性からは、2年半で3300万円にのぼる金額を搾取できたので、松永の考えは間違ってはいなかったということなのでしょう。
松永の予想を裏切ったのは、恭子の逃走でした。中学を卒業した後、家事や子守りに専念させられていた恭子は、ある日、松永から激しい暴力を受けた後、「このままでは殺される」と確信し、祖父母の家に逃げ込んだのです。
このときは、恭子は自分が今まで受けてきた暴力や、緒方一家や父の清志が殺されたことは話しませんでした。日頃から松永に「今まで面倒を見てやった恩を返せ!」と言われていた恭子は、松永に金銭を払えば逃げられると思っており、祖父母に松永に「養育費」を払うように頼み、自分もアルバイトを始めて松永に金を振り込もうとしていたのですが、松永はそれを受け入れず、祖父母宅に恭子を取り戻しにやってきました。
松永は清志が生きていた時から、清志の姉とは深い仲にありました。清志の姉には家庭がありましたが、「いつか夫と別れて松永と一緒になる」と考えており、それは出会ってから7、8年の月日が経ったこのときも変わっていませんでした。
似たもの姉弟というか、清志の姉は、東大卒のコンピュータ技士で、京都に高級マンションを保有している、兄も東大卒の医師で東京で開業している、アメリカに永住権を持っている、NASAからも研究員として呼ばれる、などという松永のすぐわかるようなウソを7,8年も信じ込んでいました。
松永は清志の姉を介して祖父母に近づき、また柔和な笑顔で祖父母から好印象を得ました。亡き清志は、いまは事業に成功して世界中を飛び回っているということになっており、景気の良い話に祖父母はすっかり気分を良くしてしまいました。
しかし、傍らにいた恭子の顔は引きつっていました。松永が優しく一緒に帰ろうといっても、恭子は頑として聞きません。やがて、今日のところは松永が連れて帰るが、後日に祖父母が迎えに行くということで決着がつき、恭子は連れて行かれましたが、恭子が残した「おじちゃんの話は全部うそ。かならずむかえに来て」というメモを見て、祖父母は後悔しましたが後の祭りでした。
数日が経ち、恭子から祖父母宅に電話がありました。祖父は「大丈夫なのかい?辛い目にあっているなら、またこっちに逃げておいで」と恭子を諭しますが、恭子はこれまでとは打って変わった口調で祖父を罵倒し始めました。
恭子がアルバイトの面接を受けるにあたって、祖父が手続きしてやった国民健康保険のことを「余計なことしやがって!」「すぐに取り消す手続きをしろ!」などと言う恭子の声を聞いて、祖父は松永に言わされているのだと判断しました。恭子は祖父の言葉をオウム返しに繰り返しており(傍にいる松永に祖父の言ったことがわかるように)、祖父の松永への疑惑は確信に変わりました。
松永はアパートに連れ帰った恭子に対し、「この次に逃げようとしたら必ず殺す」「ヤクザを使って必ず探し出す」などと脅迫し、恭子自身の手で生爪を剥がさせるなどの激しい虐待を行いました。長年にわたって虐待を受け続け、犯罪行為にまで加担させられて深い洗脳状態にあった恭子でしたが、彼女は勇気を振り絞って二度目の逃亡に挑みました。

終末 2002年1月30日未明、恭子から祖父母宅に「今おじちゃんが風呂に入っているから電話しているの。朝の五時ごろそっちに行くから起きて待ってて」と電話がありました。祖父が問い返そうとしましたが電話はすぐに切れ、そわそわしながら待っていると、「小倉の国道沿いの〇〇という建物の駐車場にいる」とまた電話がありました。
祖父母がその場所に車を飛ばすと、恭子が駐車場でキョロキョロしながら待っていました。車を停めると、恭子は泣きべそをかきながら後部座席に乗り込んできました。
祖父は静かな場所に車を停め、恭子に話を聞こうとしましたが、恭子ははっきりと答えようとしません。そこで、祖父はカマをかけてみることにしました。
血筋というべきか、祖母も恭子が電話で健康保険のことを言いだしたときに「なんて恩知らずなのか!」と素直に怒りを露わにしていたのですが、服部家の中で唯一、祖父が英明な判断力を持っていたことが事件の解決に繋がりました。
「お父さんは殺されてしまって、もうこの世におらんのだろう?」
祖父の言葉で、恭子は急に激しく泣き出し、事件のあらましをすべて告白しました。
祖父母はただちに警察に通報。恭子は警察署に保護されましたが、事情を聞いても警察は容易には信じませんでした。警察が「もし本当なら前代未聞の事件だ」と訝しむのも無理はありませんでしたが、恭子の足にははっきりと、自分で爪を剥がした痕が残っていました。
恭子が二回目の逃亡を試みたその晩、さっそく松永が現れました。
恭子はどこにいるのかと尋ねる松永に、祖父は「知らない、ここにはいない」と答えます。「わかりました。それなら恭子ちゃんと縁を切ってもいいです。実は恭子ちゃんは僕に惚れていて、付きまとってくるのでうんざりしていたんですよ。でも僕から見捨てたのではないと清志さんに信じてもらうために、恭子ちゃんに一筆書いてほしいですね」と、この期に及んでつまらないウソをつく松永でしたが、祖父は頑なに突っぱねました。
次に緒方が現れ、松永に言われて恭子の荷物を取りに来たと話しました。はやく帰って欲しいこともあり、祖父母は緒方を家にあげましたが、緒方は恭子がいつも着ていたパジャマがないと言い出します。やがて松永もやってきて、大騒ぎしながら祖父母宅を家探ししました。
このときはまだ松永、緒方に逮捕状は出ておらず、祖父母は相手が殺人犯だとわかっても耐えて接触しなければならず、疲労は極限に達していました。次回会うとき、恭子を七年間養育した費用の500万を支払うということで話がつき、松永、緒方はいったん引き下がりましたが、祖父母は恐々としていました。
しかし、ついに逮捕状が出て、祖父母宅に現れた松永、緒方は大人数の捜査員に囲まれました。松永は「逮捕状を見せろ!これは不当逮捕だ!」と往生際悪く抵抗していましたが、捜査員に取り押さえられ、とうとう逮捕されました。
4年間 彩が殺害され、緒方一家が殲滅されてから松永、純子が逮捕されるまでには、実に4年の歳月がかかっていました。その間、松永と行動を共にしていた理由を、純子は「他に行くところもないし、深く考えていなかった」と答えていました。自首については頭にはあったものの、「松永と恭子に迷惑がかかる」との思いからずっと踏み切れなかったそうです。
救いようのない犯罪生活の中で、純子は親子心中に望みを繋いでいました。松永からは、「お前が湯布院に逃げたから全員殺す羽目になった」「俺は巻き込まれたんだ。どうしてくれるんだ」「お前と子供たちがいるから迷惑なんだ。恭子と二人なら、俺は服部清志に成りすまして、ちゃんと生きていけるんだ」「お前の子供なんだから、お前が処分しろ。処分した後に自殺しろ」と言われており、実際にそうすることが一番いいと考えていました。
しかし純子は、実際には親子心中を実行することはありませんでした。松永は純子に親子心中をほのめかす裏で、子供たちに「この女は俺を殺そうとしているんだ」「もしお父さんが殺されたら、隣のお姉さんのところに行って、この女は指名手配犯の緒方純子です、と言って助けを求めろ」などと吹き込んでおり、純子がいかに悪い母親であるかを印象づけていました。そのせいで子供が純子に懐かず、子どもを連れだせなかった、ということを、心中ができなかった理由として純子は語っていました。
保育士であった純子が子供が好きであったことは間違いないので、実の子が純子に懐かなかったのは、やはり松永の画策によるものと見ていいでしょう。松永は純子に唯一の生きがいを与えると同時に奪った男でしたが、純子は松永に最後まで忠実についていきました。