第四章 201× 10月~11月 僕だけのたもたも



 向井凛が目を覚ましたのは、知らない部屋のベッドの上だった。

 頭がガンガンして、目の前に無数の星が瞬いて見える。異常なまでの喉の渇き。手足の痺れ。本能的に、枕元に置いてあったお茶のペットボトルを空けて、一気に飲み干した。

 少し落ち着きを取り戻した凜は、今、自分の身が置かれている部屋の中を、ぐるっと見回してみた。

 シングルベッド、衣装ダンス、テレビ、冷蔵庫、レンジ、電気ポット、食器類と、生活に必要な家具一式の揃った八畳間。壁にはカレンダーと、昔のプロ野球選手のポスターが貼られている。

 ここがどこなのかわからない。なんでこんなところにいるのかわからない。確か、お兄ちゃんと二人で、地元の明和タイタンズと、凛が好きで、ずっと応援している東都ブレイサースの日本シリーズを観に行った帰り。好きなブレイサースの敗退が決まってから、居酒屋にお兄ちゃんを付き合わせて、飲んで騒いで、思いっきり泣いて、次のシーズンに向けて気持ちを切り替えた後、お兄ちゃんの車に乗ってから、突然眠くなって・・・。

「やあ、リンリン。やっと目を覚ましたんだね」

 部屋のドアが開けられて、普段、職場で目にするスウェット姿のお兄ちゃん――村上が、刃渡り十五センチほどの出刃包丁と、弁当や菓子類など、大量の食糧が入ったビニール袋を持って入ってきた。

「お兄ちゃん?なんでいるの?どうして」

「なんでって、ここは僕の家だから。リンリンは日本シリーズを見終わってから、ずっと僕の部屋にいたんだよ」

 窓の外は真っ暗で、時計の針は九時を指している。凜は昨日、居酒屋を出てから、丸一日も眠っていたのだ。

 今日は月曜日だから、会社は無断欠勤扱いになってしまったことになる。車の中でうっかり寝てしまって、仕方なく家に泊めてくれたというのであれば、起こしてくれればよかったのに――凛は今からでも派遣会社の担当者に連絡するためスマホを取ろうとしたが、ポケットの中には、何も入っていなかった。自宅のカギも、財布も、すべてなくなっている。

「あれ?どこに・・・」

 なくなった持ち物を探すため、ベッドを降りようとしたところ、左の足首が何かに引っ掛かった。見ると、足首には革製の輪がかけられ、一・五メートルほどのチェーンでベッドのパイプに繋がれている。

「なに、これ・・。お兄ちゃん、冗談だよね」

 村上が凜に向けるおぞましいニヤけ面と、出刃包丁の放つ鈍い光沢を見て、凛の全身の表皮が粟立った。ゴキブリの話をされると首筋がうすら寒くなるが、今、凛は、乳房、臀部、太もも、唇、陰部など、昔、彼氏に触られて気持ちよかったところが、ゾワゾワとしていた。

「・・・ねぇ、どうしてこんなことするの?私なんか可愛くないし、もうおばさんなのに。私なんかに、こんなことしたってしょうがないよ」

 凜も生娘ではない。皆まで聞かずとも、自分の身に何が起こったのかは理解できる。

 すぐには受け入れられないが、村上が凜を、暴行を働く目的で監禁したのは、紛れもない現実なのだ。

「リンリンはわかってないな。四十二歳、派遣社員。僕みたいな、金も力もないおじさんにとっては、アイドルみたいな美人はもはや違う生物にみえて、ちんちんは全然奮い立たないものだ。リンリンみたいな、可愛いか可愛くないか、若いか若くないか微妙なラインの子が、僕みたいな、何の取り柄もないおじさんのちんちんを、一番ビンビンにさせるんだよ」

 つい昨日までの村上からは想像もできない、下品な言葉の数々。目を覚ます前までは、お兄ちゃんのように慕っていた村上と、今、自分の目の前にいる異常者とのギャップに、頭がくらくらした。

 自分を監禁した男の持論などは理解したくもなかったが、確かに、村上の言うように、派遣の仕事をするようになってから、美人よりもむしろ、普通レベルの容姿の女の方が、よく声をかけられているのを見るようになった気はしていた。

 非正規の派遣をやっている男の大半は、自分の立場に引け目を感じているから、美人はかえって敬遠されるのかもしれない。しかし、今、自分がこうした状況に陥ったことを、ほんの僅かでも肯定するような理屈を、認めるわけにもいかない。

「でも、それは、あくまで自分の身の丈を弁えているからであって、チャンスさえあるなら、お兄ちゃんだって、若くて可愛い子と付き合いたいと思っているでしょ?どうしてわざわざ、私なんかを誘拐するのよ」

 凜も女である以上、最低限、身構えているつもりではあった。だが、まさか自分が、テレビで見るような、誘拐、監禁事件の被害に遭うなどとは思わなかった。

 そういう事件の被害に遭うのは、小さな子供か、ラインリーダーの岡本涼子みたいな、若くて可愛い子だと思っていた。もう三十間近で、一重瞼で、鼻も低くて、胸も小さい自分を、まさか監禁していたぶろうとする男がいるとは、まったく予想していなかった。

「・・・リンリン、自分で言ってたじゃないか。実家と疎遠で、去年の正月も帰ってないって。定期的に連絡を取り合う友達もいないし、男っ気もないんだろ。そりゃ、狙うしかないじゃないか」

 村上の言う通り、新潟の実家とは、三年前、二十四歳で凛が作った借金を清算してもらったときに事実上縁を切られており、以来、ずっと音信不通になっている。信頼していた村上には、自分と実家との関係が崩壊しており、ほとんど天涯孤独になっていることは伝えていた。加えて、凜が今やっているのは、人がモノのように扱われる、非正規のハケンの仕事である。会社に連絡もせず、突然バックレてしまう人など珍しくもなく、探す人などだれもいない。

 心配してくれる人が沢山いる女を狙うより、リスクは遥かに少ない。案外、こんな感じで、行方不明者扱いになっている妙齢の女性は多いのかもしれないと、凛は変に納得してしまっていた。

「そんなことより、リンリンは肝心なことを忘れているよ。僕は、リンリンがずっと好きだった。好きになったら、美人か、そうでないかなんて、関係ないだろう」

「好きって・・お兄ちゃん、私のこと、そんな風に見てたの」

 無いと思っていた。男と女である以上、あり得なくはないと思っていたが、それでも、村上に限っては無いと思っていた。凜のことを、そういう目で見ていると思いたくなかった。

 だって、村上は、お兄ちゃんみたいな人だから・・・。

「お兄ちゃん・・・その呼び方が、ずっと嫌いだった!」

 村上が突然、顔を真っ赤にして、出刃包丁で凛の頭の後ろの壁を切りつけた。

 肩にパラパラと落ちてくる、薄茶色の壁砂。表皮にゾグゥッと衝撃が走る。心臓が止まったかと思った。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんって、馴れ馴れしく言うけどさ、ようは、兄妹のように見ているから、あなたとは付き合うことはないって、僕に釘を刺してたんだろ?兄貴なんだから、好意をダシにして都合よく利用したって、バチは当たらないってことだろ?バカにしやがって!」

 村上が地団太を踏んで、激しい怒りをあらわにした。

 お兄ちゃん――親しみを込めたつもりの呼び方で、村上がそんなに傷ついていたなど、今まで思いもよらず、凛も大きなショックを受けていた。
 
「そ、そんなんじゃないよ。私はただ、お兄ちゃ・・村上さんと話してみて、お兄ちゃんみたいに親しみの持てる人だったから、そう呼ぼうと思っただけなの。変な意味はないのよ。む・・らかみさんと、一緒に野球を観たり、話したりできて、楽しかった。ずっとこのまま、兄妹みたいでいられて、二人で野球の応援に行けたらって、思ってた・・」

 野球観戦――三年前、事務員の仕事を辞めたころに始めた趣味に、今ではどっぷりつかっていた。

 キッカケは、偶然テレビで観た、東都ブレイサースの梶尾投手を扱ったドキュメンタリー番組。高校、大学時代は無名ながら、独立リーグで頭角を現し、二十六歳でプロ入り、三十歳で先発ローテーション入りを果たした苦労人に自分を重ね合わせ、夢を見た。梶尾投手がいいピッチングをして試合に勝てば、自分が勝ったような気持ちになれた。梶尾投手を観るために東都ブレイサースの試合を観るようになり、やがて野球界全体を観るようになった。

 野球に興味を持つようになってから、凜は、男同士の爽やかな友達関係に憧れるようになった。

 事務員をやっていたとき、女友達と仲良くして得をしたことは、何一つなかったような気がする。

 ファッションにアクセサリ、エステに化粧品――今の世の中で、若い女でいるということは、それだけでお金がかかる。友達と一緒に街を歩くためには、自分だけ身に着けるもののグレードを下げるわけにはいかない。事務員をやっていたころの給料は、派遣である現在とさして変わらず、ボーナスも雀の涙ほどだったから、早くして家庭に入った友人や、裕福な実家暮らしの友人に付いていくため、凛は毎月の家賃の支払いもおぼつかない、極貧の生活を強いられていた。

 男関係についても、女友達のせいで、随分損をしてきた。 

 あの人は束縛しそうだから、やめた方がいいよ。あの人は浮気しそうだから、やめたほうがいいよ。あの人は出世しなさそうだから、やめた方がいいよ。

 女同士が、自分に声をかけてきた男を品評し合うのは、互いを心配しているからではない。はっきりいって、足の引っ張り合いである。他人が自分より先に幸せになるのが妬ましくて、あれこれアラ探しをして、交際を妨害しようとしているだけ。事務員時代、女友達からのアドバイスを真に受けて、少なくとも今の生活よりはマシになるチャンスを逃したことは、一度や二度ではなかった。

 結局、凜は女友達の間で評判の良かった、自称経営コンサルタントの男と付き合うことになったのだが、半年後、凜は新事業を展開したいという男のために出資した三百万円を、すべてだまし取られてトンズラされた。

 サラ金からの督促状を見て憔悴する凛に、女友達がしてくれたことは、「残念会」などと称した飲み会で、心にもない慰めの言葉をかけてきたこと以外、何もなかった。

――凜も辛かっただろうけど、挫けちゃだめだよ。イイ男と付き合うには、リスクは付き物だよ。

 「残念会」の席で、凛に直接、男を勧めてきた女が放った言葉と、それに同意して頷く女友達の顔が、今でも忘れられない。
 
 無責任が服を着て歩いているような女友達との付き合いを完全に断ち切るため、凛は事務員の仕事を辞めた。

 サラ金からの借金は両親のお陰で清算できたが、もともと折り合いの良くなかった両親との関係は、それで完全に崩壊してしまった。派遣の仕事を始め、県外へ出てからの三年間、凛は一度も実家には帰っていなかった。

 それまでのすべてを捨てて、新たに交友関係を築くにあたって、凜は彼氏でも、女同士でもなく、野球のチームメイトのような、男同士の友情が欲しいと思っていた。ドロドロした妬み嫉みもなく、不毛な見栄の張り合いもない、利益度外視で付き合える、男同士の爽やかな友達関係。凜自身は女だから、男同士というのは無理だが、男と女の間で、付き合う、付き合わないを抜きにした、健全な友達関係ができればいいなと、派遣の仕事を始めてからの三年間、ずっと思っていた。

 大丸食品の工場に派遣されて、野球が好きなお兄ちゃん――村上と仲良くなれたことで、凜は自分の理想の交友関係が手に入れられたと思った。ずっと、このままでいられればいいなと思っていた。

 なのに・・・。

「自慢じゃないが、これまで、人から悪く言われたことは一度もない。村上さんはいい人、村上さんは一緒にいて和む人。出会う人みんなにそう言われてきた」

 嘘を言っているとは思わなかった。邪気の欠片も感じられない福々しい風貌。他人を悪く言わず、仕事や給料についての文句もまったくない。趣味は野球観戦とゲーム。人畜無害を絵に描いたような村上を嫌う人間など、工場には一人もいなかった。

 お兄ちゃんみたいだった村上が、女の子にこんな酷いことをするなんて思えなかった。村上だから安心して二人きりで出かけていたのに、まさかこんなことになるなんて信じられなかった。

「だけどさぁ・・。振り返ってみると、大学を卒業してから二十年の社会経験で、いい人で得をした場面が、まったくといっていいほど思い出せないんだよ。条件の良い仕事にありつけたわけでもないし、女の子にもモテなかった。寸借詐欺に引っ掛かって、小金を取られたこともある。それでわかったんだ。いい人、というのは、人柄が良い人間のことじゃない。悪い人間、欲深な人間、世の中で得をしている人間にとって、都合が良い人間のことを言うんだとね」

 つい昨日まで菩薩のように穏やかだった貌を、修羅のように険しく歪ませる村上。今、突然に変貌したわけではなく、凜と出会うずっと前から、内で抑え付けられていた感情が表出したのだ。

「だってそうじゃないか。良く見てみれば、僕をいい人いい人言うヤツらは、ほとんどがみんな、僕より恵まれているヤツ、僕が欲しいモノを持っているヤツだ。あいつらは僕の嫉妬が怖いから、僕が爆発したら怖いから、いい人いい人言って、僕をなだめているだけなんだ」

 そんなことはない・・・。けして、そんなことはないのだが、そういうことがないとも言い切れないのが辛いところだった。凜も恵まれない側にいる人間として――調子の良いことばかり言ってくる友人に裏切られたと感じた経験がある身として、村上の不満がまったくわからないではないのだ。

「ふざけるのもいい加減にしやがれ!ゴミみたいな給料しかもらえない底辺労働を文句ひとつ言わずにやってるからいい人なのか?女をイケメンに取られまくっても嫉妬しないからいい人なのか?バカにするのもいい加減にしやがれ!いい人なんてクソくらえだ!」

「私は・・私は違うよ。私は村上さんを、下に見たりなんかしていない。ずっと友達だと思ってた。今だって、そう思ってる。村上さんとだったら、男女の枠を超えた、本当の友情ができると思ってる」

 被害妄想に囚われる村上に、凜は真心を込めて言った。

 こんな目にあわされて――おそらく、昨晩は想像するのも悍ましいことをされて、村上に罵声の一つも浴びせたい気持ちはあったが、凜は村上と過ごした、半年あまりの楽しい日々が忘れられない。村上と一緒に、大好きな野球をみたときの楽しい思い出が忘れられない。

 村上が今、ここで凜を解放してくれれば、これは悪い夢だったということで片づけることができる。さすがに、大丸食品の工場に留まることはできないが、今ならまだ、自分が黙って去っていく形で、コトを穏便に済ませられる。

 凜の思いはきっと、村上にも響くと思ったのだが、村上はただ、真っ直ぐに村上の目を見つめる凜に向かって、冷たい笑みを浮かべただけだった。

「ハッキリ言ってやるけどな。男女の友情なんて、クソほどの価値もないんだよ。ただの友達付き合いだったら、話の合う男と一緒の方がいいに決まっている。男が女と仲良くするのはなぜか?それは、エッチができる望みがあるから、ただそれだけだ。そうじゃなきゃ、誰が君みたいなニワカと、野球観戦など行くか」

「なっ・・」

 凛の頭に血が上った。これまで、好きな野球観戦を一緒に楽しんでいたと思っていたのに、村上の方は、自分を見下していたなんて。

「グルメにファッション、芸能人のゴシップ話。お前ら女の趣味は、どれもみんなつまらない!ロマンの欠片もない!いくら女とエッチがしたいからといって、お前ら女に話題を合わせるのは、男にとっては苦行でしかないが、それをなんと、女の方がわざわざ男に趣味を合わせてくれるという。これが男にとって、どれほどありがたいことか。手間が省けるなんてレベルの話じゃない、カモが自分から檻に飛び込んできてくれるようなもんだ。逆に言えば、君が野球好きということは、ただそれだけの価値でしかない。むしろ、君のニワカさは、真に野球を愛する僕にとっては大変不快だった」

「ニワカ、ニワカって・・私のどこがニワカだっていうの。ブレイザーズの選手は、二軍の選手のこともよく知ってるよ」

 村上を逆上させてしまう恐怖はあったが、自分の野球愛を否定されると、ついムキになってしまう。

 野球の――東都ブレイザーズのことだけは、村上よりも詳しいし、よく見ている自信はある。それは凛の、唯一の誇りなのだ。

「じゃあ、打者の力を現す指標、OPSについて、説明してみてくれよ」

「・・・え?」

 OPS。どこかで聞いたことがある気もするが、思い出せなかった。野手の個人成績については、打率、ホームラン、打点の三冠と、盗塁の数くらいはチェックしているが、それ以外となるとピンとこない。凜はそういう数字のことよりも、選手の食べ物の好みや、飼っている犬の犬種などを調べて、ワチャワチャ楽しみたい派なのだ。

「やあ、寺井っちゃん。遅くにごめんね。ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

 凜がいつまでも答えられないでいると、村上はスマホを取り出して、寺井と通話を始めた。

「うん、いいよ。なに?」

 スピーカーホンに設定されたスマホから、寺井の声が聞こえてくる。今、大きな声で叫べば、自分の声も寺井に届くかもしれないが、村上がもう片方の手で、出刃包丁の切っ先を突き付けているという状況では、いかんともしがたい。

 仮に、凜が監禁されていることを知った寺井が、すぐ警察に通報してくれたとしても、のんびりした田舎の警察が駆けつけてくるまでには、正味三十分は待たなくてはいけない。三十分もあれば、何でもできる。恐ろしいことを、何でも・・・。

「いや、大したことじゃないんだけど、プロ野球で打者の力を測る指標、OPSについて、簡単に説明してみてくれないかな。もちろん僕はそんなことはわかっているけど、わかっていない人にどう教えたらいいか、寺井っちゃんの意見を参考にしてみたくてね」

「なんだ、そんなことか。出塁率+長打率=OPS。単純な計算式で求められる割りに、得点との相関関係が近い、打者の実力を測る上で最も簡易かつ信頼に足る指標。まぁ、今どき野球ファンを名乗るんだったら、常識として身に着けてないといけない知識だね」

「最後のところ、もう一度いいかな」

「野球ファンだったら、常識的な知識。スポーツ新聞やヤフーのサイトでも表示しているし、OPSもわかんなかったら、野球ファンでもなんでもないんじゃない」

「わかった、参考になったよ。ありがとう」

 寺井との電話を切った村上が、凜に勝ち誇るような顔を向けた。

「わかったか?お前ら女は、男っぽい趣味を好きだといっても、所詮は上っ面ばっかりなんだよ。上っ面ばかりのミーハーな女に合わせていくことで、文化やスポーツはどんどん安っぽくなっていく。お前ら女が文化やスポーツの普及に貢献しているなんて、屁理屈に過ぎない。お前ら女は、すべての文化やスポーツをダメにする、害虫みたいなもんなんだよ」

 体を好き放題にいじくりまわされる以上の屈辱に、背筋が震えた。

 身の安全を思えば、村上の言い分を認めてしまった方がいいのかもしれない。だが、野球は凛がこれから人生の支えにしていくと決めた、大事な趣味なのだ。自分の野球への思いを否定されたまま、黙っているわけにはいかなかった。

「違う・・オタクみたいに、深く掘り下げるばかりが楽しみじゃないでしょう?男の人と女の人、それぞれの楽しみ方がある。それでいいじゃない。知識の少ないファンを排他的に扱うのが、オールドファンのやることなの?知識がないなら、それを優しく教えてくれるのが、本当のオールドファンなんじゃないの?」

「・・・ま、それはさておき・・・」

 凛の反撃に、しばし口を噤んだ村上は、意外にもあっさりと矛先を変えてしまった。凛の言葉が効いたというよりも、端からそこまで興味がなかったといった感じである。

「僕は、お前ら女が大嫌いだ。強欲で、冷たくて、自分勝手で、男を都合よく利用することしか考えていなくて、人の悪口でしか盛り上がることができず、被害者ぶることだけは一丁前。お前ら女に、好もしい要素など何一つない。お前らと友達なんて、反吐が出るよっ」

 これが本音。これが一番、村上が凛にぶつけたかった不満――。四十二にして独身の村上は、女性に強い不信感を抱いている。

「だったらなんで、女の子を誘拐なんてするのよ・・・。そんなに嫌いだったら、女とずっと話さず、男とだけ仲良くしてればいいじゃない」

「僕は女は大嫌いだけど、女の身体は大好きなんだよぉっ。好きで好きで、欲しくて欲しくて、それでも手に入らないから、嫌いになるんだろうがぁっ」

 自分でも、わかりきった質問をしてしまったと思う。凜が、FAで主力選手にブレイサースを出ていかれたときと同じ。好きな思いが強ければ強いほど、裏切られたときの反動も大きくなる。

 穏やかで邪気の欠片も感じられない顔立ちは、言い換えれば、年の割に幼く、頼りがいのない顔立ち。ズドンとした小太りの体型。汗っかきで、仕事終わりにはいつも、据えたような体臭を放っている。いい人オーラはこれ以上ないほどに出ている村上だが、女性を惹きつける魅力は皆無といっていい。

 これまでモテた経験はなかったのだろうし、過去に女にこっ酷くフラれて、辛い思いもしたのだろう。好きだった凜にお兄ちゃん呼ばわりされ、男として見られていないと感じたことで、長年にわたって積もり積もったリビドーが爆発したのだ。

「でも、だからってこんな身勝手、許されると思う?こんなことをする人に、彼女なんてできるわけないじゃない」

「出た出た。後出しじゃんけんは、お前ら女の得意技だ。最初からチャンスを与える気もないくせに、こっちが何かやらかしてから、鬼の首を取ったように落ち度を突いてくる。人がミスをするのを、手ぐすね引いて待ちやがって。一回でもエッチしてくれたならともかく、何も美味しい思いをさせてもらってない女から責められたって、反省する気になんかなるわけないんだよ」

 正しいか間違っているかという問題とは別に、誰にそれを言われるかという問題がある。世話になった恩人ならともかく、いまや憎悪の対象となった凜に何を言われても、村上の心は動かないのだろう。どうやら、説得によって、村上の改心を促すのは難しそうだった。
 
「リンリン。今の君は痩せすぎだから、これから一日五千キロカロリーを上回る食事をこなして、もっと太らなければならない。女は馬鹿だから、みんな無理なダイエットをして鶏ガラみたいに痩せようとするが、僕は程よく肉の付いた、たもたもした身体の方が好きなんだ」

 村上が、部屋に持ち込んできたビニール袋に入った食糧を、すべて床にぶちまけて言った。

「せっかく、百パーセント、自分の自由にできる女体を手に入れられたんだ。すぐに犯っちゃったのでは、面白くない。それでは、ヤリたい盛りのガキと一緒だ。女の子の身体を、自分好みにカスタマイズしてから、じっくり楽しむのが、大人の楽しみ方というものだ」

 眩暈を起こしてしまいそうなモノローグを呟きながら、村上はベッドに上ってきて、凛の足元に這いつくばった。

「ちょっと・・・何、してるの?」

「なにをって、爪をかじっているだけだよ。うん・・・。カリカリポリポリ、しっかりした歯ごたえがあって、爪の間に挟まった垢からは、適度な塩味がする。まるで、軟骨揚げを食べているみたいだぁ」

「やめ・・・やめてよ」

「聞こえないなぁ・・。あ、ここにも、美味しそうなものがあるぞお」

 村上は、凜の足の爪の伸びた部分をかじり終わると、続けて、凛のへその中に人指し指を突っ込み、ぐりぐりとほじくり始めた。

 へそは内臓に直結しているため、むやみにほじくり返せば、独特の不快感に襲われる。遠慮なしの村上は、凛のへそを散々にこねくり回した後、爪の間に、ペースト状になった皮膚の老廃物が詰まった人さし指の先を、凛の鼻孔に近づけてきた。

「うっ・・・やめて、やめてよ」

 当たり前の話で、一昨日から手入れをしていないへその穴をほじれば、指先には蒸れた嫌な臭いが付着する。村上はその臭いを、まるで、工場で作っているおせちの栗きんとんが指先についているかのような恍惚とした表情で嗅ぐと、指先を口の中に入れて、赤ん坊のようにちゅぴちゅぴと音を立てながら舐め始めた。

「リンリンのおへそから取れたゴマちゃん、うんまぁ~い!良質なタンパク質と塩分が補給出来て、働いた後の疲れた体にはぴったりだ。リンリンが生まれる前にママと繋がっていたところは、リンリンがママになれる身体になると、栄養たっぷりでおいしいゴマちゃんを産み出す、魔法の壺に変わったんだねぇ」

 口に入れた凛のへそのゴマを、村上は何十回も租借してから、惜しむようにごっくんと飲み込んだ。

「なんで、こんなことするの・・・?」

 村上がベッドに上がってきたとき、てっきり、犯されるのではないかと思っていた凜は、村上の行為に、得体の知れない恐怖を感じていた。村上の口ぶりからすると、おそらく、昨日寝ているときも、凜が想像するようなことはされなかったのだろうが、安堵する以前に、村上の意図がまったくわからず、激しく混乱していた。

「女の子のたもたもボディを楽しむときの醍醐味は、自分は女の子より痩せて、キュッと引き締まった、カッコイイ身体で、だらしない身体の女の子を抱くことにある。ストイックに絞り込んだ身体で、欲望の趣くままに食っちゃ寝した女の子を突きまくり、お肉を揺らしまくりながら、おまんこの中に赤ちゃんミルクを注ぎこむなんて、興奮するじゃないか。だから僕はこれから、市販の食品を一切口にせず、リンリンだけを食べて、リンリンよりも軽くなるんだ。あ、そうだ。どうせリンリンを僕より重くするまでエッチを我慢するなら、いっそそれまで、ちんちんをシコシコするのも我慢しようかな。我慢して、溜めて溜めまくるほど、出したときの気持ちよさも格別になる」

 よくわからないが、あたかも、サウナで脱水症一歩手前まで汗を流した後に、キンキンに冷えたビールを飲んだときのような、極上のカタルシスを味わいたいということだろうか。マゾヒズムの一種と言われるなら理解できなくもないが、自分がそれに巻き込まれるのは、到底納得できるものではない。

「これ以上ここにいて、可愛いリンリンのことを見ていたら、僕はちんちんを入れたい欲求を抑えられなくなってしまうから、ここでお暇させてもらうよ」

 村上は満足げに言うと、凜の身体の、自分が触った部分をウェットティッシュで丹念にふき取ってから、部屋を出ていった。

 その晩はそれきり姿を見せなかった村上は、翌朝になって、凜の部屋に様子を見にやってきた。何か、またいたずらをされるのかと思って身構えたが、村上は、凜がベッドの上に繋がれて大人しくしているのを見ると、特に声もかけず、すぐに出ていってしまった。おそらく、大丸食品の工場に出かけたのだろう。村上は凜を監禁しながら、仕事も普通に続けるつもりなのだ。

 村上が四六時中一緒にいるわけではないというのは、凜にとっては大きなチャンスである。凜は、村上が完全に家を出たのを見計らって、監禁部屋を脱出するための抵抗を開始した。

 凜の足が繋がれているチェーンをカットできるような道具は、部屋の中には見当たらない。ステンレス製のベッドを引きずって動くことは不可能ではないが、凜が監禁されているのは二階であり、狭い階段をベッドと繋がったまま降りていくのは難しい。自力での脱出は、現実味が薄いようだった。
 
「助けて・・!助けてください!お願いします!助けてください!」

 凜が監禁されているのは、村上が生まれ育った実家であり、階下には、年老いた村上の両親が暮らしている。村上が仕事に出てから、助けを求めようと何度も大きな声で叫んでみたのだが、二階には誰も上がって来ることはなかった。 

 凛の監禁されている部屋には、所々に大きな穴が空いており、村上が帰ってきてからよく耳をそばだててみると、階下からは、時々、村上が怒鳴ったり、皿の割れたりする音が聞こえてくる。どうやら、四十二にして実家に寄生している村上は、家庭内で酷い暴力を働いているようだった。

 息子の奴隷と化した両親は、息子の所業に気が付いてはいても、通報できないでいるのだろう。村上の両親には、助けを期待しても無駄のようだった。

 市街地から離れており、畑をいくつか所有している村上の家は、隣家の距離が五十メートル近くもある。窓ははめ殺しになっており、凛がいくら叫んでも、声は家の外には届かない。

 いつか、テレビ番組で観た監禁部屋の条件が、ここには整いすぎるほど整っている。他人事にすぎないと思っていた話が、今、現実となって自分を取り囲んでいる。

 鼓膜の奥で理不尽の鐘が打ち鳴らされ、頭の中がガンガンした。何も考えることができず、凜は日がな一日、子供のように泣くことしかできなかった。

 
                        ☆   ☆   ☆
 

 凛を自分よりも太らせるという宣言通り、村上の買ってくる食料は、妙に高カロリーのものが多かった。監禁初日は、村上の思惑通りになりたくない以前に、精神的なショックで、とても食べる気にならなかったが、時が経って、段々自分の置かれた境遇に慣れてくると、一日中何もやることがないのもあって、ついつい、目の前に置かれる食べ物に手が伸びてしまうようになった。

 ポテトチップスを二袋、クッキー、ビスケットを一箱、ロールケーキを丸ごと一個。それが間食で、朝昼晩にハンバーグ弁当に海苔弁当、カップ焼きそばというのが、凛の監禁十日目の食事メニューである。

 いくら退屈といっても、この食欲は異常ではないかと思ってそれとなく質問すると、村上は、凛の食事に、ドグマチールという精神安定剤を混ぜていることをあっさり白状した。

「これは、僕が昔、女の子にフラれて鬱になっていたころに服用していた薬でね。飲むと胃腸の働きが活発になって、食欲が増進するんだ。それまでの僕は普通の体型だったのに、これを飲んでいた時期に十五キロも太って、それが今日まで尾を引いている。僕をこんな体にした女の子の分まで、リンリンといっぱい、赤ちゃん作っちゃうんだ」

 どこまでも自分勝手な村上への怒りと、このままの勢いで食べ続け、醜い身体になってしまうことへの恐怖はあったが、マグマのように湧き上がる食欲には抗えず、結局は食べてしまう。監禁から十日ほどでも、凜の身体の肥大は明らかで、監禁されたときに着ていた服はサイズが合わなくなり、村上に新しいTシャツとパンツ、下着を用意してもらっていた。

「今日はプラス〇・三キロ。僕の体重がいま六十七キロ丁度だから、あと八キロで逆転できる。リンリン、順調に大きくなっているようだね。そうだ。リンリンの成長の記録を、撮影しておこうか。リンリンをたもたもにした後、昔のリンリンが懐かしくなったら、これを観ながらシコシコするんだ」

 村上は仕事を終えて帰ってきてから、必ず一度は凜の部屋にやってきた。本当に、凜の身体から出た老廃物だけを食べて生活しているのかまではわからないが、村上は、自らに課した食事制限をストイックに実践しているらしく、村上の身体は凜とは反対に、監禁から十日間で、肉眼でも確認できるほどに引き締まっていた。

 村上の宣言によれば、村上はいつまでも我慢しているわけではなく、暴食を続ける凜と、断食を続ける村上の体重が逆転した途端に凜を犯すつもりのようだが、見かけ上は、あくまで穏やかな日々が続いていた。

 お腹いっぱい食べれば、眠気が襲ってくる。泥のように眠って、自分のお腹が鳴る音で目を覚ますと、寝ている間に空っぽになった胃袋に食べ物を流し込む。養豚場で出荷の日を待つイベリコ豚じみた生活サイクルを繰り返しているうちに、凜は次第に、もしかしたら、このまま何もされないのではないか、と、楽観的な気持ちになっていた。
 
「ただいま。いや~疲れたよ。今日は夜に役所の人間が検査に来るからってさ、いつもより念入りに掃除をやらされて、もう腕がパンパンだ」

「おかえり。大変だったね。私、お夕飯まだだから、村上さん、一緒に食べよう」

 ストックホルム症候群――立てこもりや監禁事件において、しばしば人質となった被害者が犯人に共感し、協力的な行動を取ろうとすることがあるのは有名であるが、こんなことになる以前は、実の兄妹のように接していたこともあり、自分を酷い目に遭わせた村上への憎しみや恐怖、敵意は、時間の経過とともに薄らいでいた。

 村上と一緒にいるときは、できるだけ普通に話すように心がけていたし、村上から、大丸食品の工場で起きたことを聞くのは、食事とテレビ以外の、数少ない楽しみになっていた。

「あぁ、そうだね。じゃあ、お言葉に甘えて、塩分補給をさせてもらうよ」

 村上は、食料の入ったスーパーのビニール袋をベッドに置くと、凛が昼間、「おまる」にした小便を、指ですくって舐めた。 

 常にベッドに繋がれている凜は、当然ながら、排泄もすべて部屋の中で行っている。汚物の臭いを紛らわすために振りまかれた消臭剤の、柑橘系の強烈な臭いのせいで頭痛を起こさないよう、部屋には換気扇が設置されている。村上が衝動的に凜をさらったのではなく、前々から周到な計画を立てていた証拠である。

「村上さん、ご飯を買ってきてくれてありがとう。いただきます」

 朝から食べてばかりだというのに、村上が買ってきた食料をみると、また胃袋が疼きだす。凜は袋の中から取り出したカルビ丼を、レンジもかけずに掻き込んだ。

「いい食べっぷりだなぁ、リンリン。お菓子もこんなにいっぱい食べたのに、まだ入るんだ。リンリンの食べっぷりをみたら、塚田はリンリンが仕事に来なくなったことを嘆くだろうなぁ」

 塚田のてっちゃんの名前が出たことで、村上が何を言いたいかはすぐにわかった。

「・・てっちゃんが持ってきてくれたクッキー、まだみんな食べてないの?」

「ああ。早く片付けちゃえばいいのに、あいつも意地になってるんだろうな」

 やはり、村上が言わんとしていたのは、塚田が九月に持ってきた、バタークッキーの箱のことだった。

 なぜかみんな手をつけず、何となくタイミングを見失って、いつしか、「食べたら負け」みたいな雰囲気になり、待機所のテーブルにずっと置かれたままになっていたあの箱のことは、監禁されてからも、凜の頭の隅にずっと引っ掛かっていた。

 お菓子を提供してくれる塚田が、みんなの中で存在感を示そうとする気持ちは、痛いほど伝わってきた。だけど、どこかで「そうじゃないだろう」という気がしていた。

 どこかで、塚田の不毛な行為を止めたかった。だから、あのクッキーの箱に手をつけなかった・・。待機所でいつも一緒に休憩を取っていた、寺井や村上も、おそらく、同じことを考えていたのだと思う。

「バカなヤツだよなぁ。あんなもんで、人の心が掴めると思ってるんだから。あからさまな”僕に構って~”オーラ出しちゃって、もううざくてうざくて。この前なんて、なんて言ってきたと思う?寺井さんが、僕にだけ全然話しかけてくれないけど、僕、避けられてるのかな?だって。中学生の女の子じゃあるまいし、どんだけ面倒くさいんだよ」

「お菓子をくれるのはありがたいけど、貰う方は、いつかお返しをしなきゃとか、余計な気も使っちゃうしね。お菓子をくれるより、もっと自然に会話に参加して欲しいよね」

 村上と塚田の悪口を言い合うのは初めてのことだったが、意外な気はしなかった。

 信一、志保、塚田、寺井。工場で仲の良いメンバーとは、よく遊びに行ったりしていたが、付き合いも長くなってくると、色々とアラも見えてくる。何かと説教臭い信一、構ってちゃん気質の塚田とは、正直、一緒にいて疲れることもあった。

 厳選というわけではないが、合わないところのある人たちとは、少し距離を置かなければいけない時期に来ていると感じていた。

 相手によって、適切な距離感というものがある。村上とのそれは、工場で親しくし、時には二人で野球を観に行ったりする、仲良し兄妹のような関係だと信じていた。それは凜にとっては、恋人同士として交際し、身体の関係を持つことよりも上位に置かれることだったのだが、村上の方は、そうは思っていなかった・・・。

「・・まぁ、でも、塚田のスタンス自体は、別に間違ってないと思うけどね。あんなつまらない仕事、黙って真面目にやってたってしょうがないんだから。交友関係でも充実してないと、そりゃやってられないよ」

 自分を酷い目に遭わせた男の言葉だが、これには同感だった。

 コンベアの上の部品のように労働市場を流されていく派遣社員は、横の繋がりが薄くなりがちである。交友関係が充実していないことで、働くことへのモチベーションが確保できないだけでなく、社員からハラスメントの被害に遭ったときに、誰にも相談できず、辞めるしかなくなるという実害もある。

 いざとなったとき、団結できる仲間が欲しかった。思いを共有できて、理不尽に一緒に立ち向かえる仲間がいれば、貧乏でもなんとかやっていける気がした。大丸食品で出会った友達となら、そんな関係になれると思った。

 違っていた。同じ派遣、同じ低所得者というだけで価値観を共有できるほど、人間は甘い生き物ではない。上昇志向のある者とない者。昭和生まれと平成生まれ。男と女。人は少しでも考え方の違う人間を見つけては、いがみ合う生き物なのだ。

「でも、交友関係をヤリガイにするんだったら、友達付き合いだけで満足するんじゃなくて、女にもアタックしろって話だけどな。塚田はよく僕に、会社の女で、誰々が可愛いよね、とか言ってくるけどさ、あれマジ、ウザくてしょうがないよ。相手はアイドルじゃないんだから、見てるだけじゃ何にもならないのにさ。塚田に比べれば、オカマンの方がずっとマシだよね」

「え?なんで?」

 村上の口から出た意外な名前に、思わず問い返していた。

 工場の女性に六人も告白してフラれ、七人目に凛を選んだ男。凛と村上の間に特別な関係があると思い込み、村上にしつこくちょっかいを出していた男。場面によって、男にも女にもなる変質者。

 あのオカマンに、村上は嫌悪感を抱いてはいなかった? 

「だってさ、塚田は六人に告白してフラれたオカマンをバカにしてるけど、オカマンはどれだけフラれても、人からどんなに気味悪がられようと、めげずに女にアタックし続けていたじゃないか。そりゃ、ちょっとばかり周りに迷惑はかけてるかもしれないけど、迷惑なんて気にしてたら、何も手に入らないからね。女に限った話じゃない。塚田がオカマンを悪く言うのは、挑戦もしない臆病モンが、挑戦してコケたヤツをあざ笑ってるだけだ。まるでどこかの匿名掲示板みたいな話だよ」

 村上が、男が女に告白することを、野球選手がトライアウトに挑むような爽やかなことのように語るのに、凜は強い疑問を覚えた。一人の人間の強い思いを、大きな集団が受け止めるのと、何の力もない個人が受け止めるのでは、負担がまったく違うのだ。

「そんなの、男の人の身勝手だよ。そんな一方的な挑戦なんて、カッコいいものでもなんでもないよ・・」

 凛は村上に、自分のトラウマとなっている思い出を語り始めた。

 二年前、凜が派遣先で仲良くしていた正社員の友達が、同じ職場で働いていた三十代の男性に突然告白された。友達はその男性のことを嫌いではなく、職場ではよく話していたのだが、男性が自分に恋愛感情を抱いていたことは知らず、告白されたときは大いに戸惑った。

 友達は男性に自分を諦めてもらうために、男性のことを、極度に悪く言った。キスを迫られた、肩を掴まれた、など、あることないことまででっちあげて、男性の評判を徹底的に貶めた。職場に居づらくなった男性は、精神状態の悪化を理由に休職した。

 その一か月後、友達は男性に背中を刺されて、一生残る障害を負った。

「私から見て、その男の人は、悪い人ではなかったけど、三十過ぎにしては少し幼稚で、軽率なところはあったと思う。当たって砕けろの告白が通用するのは学生までで、大人が告白していいのは、絶対に勝算があるときだけ。下手をすると、相手の立場までまずくしかねないんだから、大人はもっとスマートに恋愛をしなきゃいけないと思う。女の子も言い過ぎだったかもしれないけど、逆恨みして刺すなんて・・・」

「はん。おかしいね。ちゃんちゃらおかしいね。男の好意をそこまで踏みにじったのなら、刺されて当然だね」

 村上は凛の話――友達が刺された話に何ら共感を示さず、バッサリと切って捨てた。

「なんで?だって、告白された女の子の方だって、怖い思いをしたんだよ。襲われる、とかはないにしても、しつこく付きまとわれたらどうするの?もし万が一職場で、フッた女の子の方が悪いみたいな空気になったら、どう責任を取ってくれるの?自己防衛のためには、ある程度過激に出るしかないじゃない」

「それが女特有の、異常な被害者意識の強さだよ。職場の連中とか持ち出さずに、男との一対一で考えろよ。下手に出て、交際をお願いされてる時点で、どう見たって女の方が、圧倒的強者じゃないか。その状況で、女は男をどうにでもできるんだぞ。お前らの言い分がまかり通ってたら、そもそも恋をすること自体が悪ってことになっちゃうじゃないか」

「恋をするのが悪いんじゃなくて、大人だったら、その・・もっと段階を踏めっていうか、告白する前に、ちょっとずつ距離を詰めていって、相手から拒否のサインが出れば、それを読み取って、自分も相手も傷つかないように、早めに身を引くっていうか・・・とにかく、まったく勝算がないのに、自己満足のために告白をすることは、今は”告ハラ”って言って、迷惑行為として扱われるんだよ」

「何が告ハラだ。なんでもハラスメントにしてたら、なんにもできなくなるだろうが。大体、勝算がないなんてのは女の勝手な言い分で、本当は、女が思わせぶりな態度を取ってたんじゃないのか?そうじゃなくても、恋愛なんていうのはもともと不確定要素が強く、十人十色の見方があるものなのに、お前ら女は、トラブルになるといつも一方的な被害者を装う。そりゃ、世間は肉体的に弱い女の方を庇うさ。だが、社会的には?痴漢冤罪がいい例だが、今の社会は、肉体的に弱い女の方に寄せるあまり、逆に男が不利になっているんじゃないのか?段取りを踏めというが、大人だって、いきなりの告白で何とかなってるヤツもいくらでもいるだろうが。そんなに段取りを気にしなきゃいけないなら、できちゃった婚やスピード婚はどうなるんだよ。結局、顔と金次第。最初から論外なら、どんな段取りを踏んでも無駄だって言いたいだけの癖に、四の五の理屈を並べてんじゃないよ!」

「そうじゃないよ。私が言いたいのは・・」

「もはやこの国の男女間の対立は、抜き差しならないところまで来ている。僕はもう、女を理解し、女に理解されようとするなんて不毛なことを考えるのはやめた。女とは、お互いに理解し合うのではなく、痩せさせたり太らせたり、洗ったり洗わなかったり、自分の好きなようにカスタマイズして、一方的に弄り回して楽しむものなんだ」

 村上は顔を真っ赤にして床板をバンバンと叩くと、それ以上話すことは何もないとばかりに背を向けて、下に降りていってしまった。

 村上の理解を得るために話を始めたはずが、結局は、村上を余計に頑なにさせただけで終わってしまった。

 趣味の楽しみ方、体型の好み、恋愛についての捉え方・・村上の言う通り、男と女の価値観はあまりにも違いすぎ、お互いが理解し合うことは不可能なのかもしれない。

 男女の友情――男と女が、身体の関係を持たないまま絆を深める。叶わぬ望みをした時点で、自分は破滅へと向かっていたのだろうか。

 いや――たとえこちらにも落ち度があったにしても、人が人の自由を奪い、不当に拘束するなんてことが認められていいはずがない。いくら何でもここまでやったら、問答無用で村上が悪い。凛は次に村上が部屋にやってきたら、毅然とした態度で抗議をする決意を固めた。


                          ☆


「う・・・・・」

 翌日、また食料を持って部屋に入ってきた村上は、なぜか全裸だった。

 Y字型にフサフサと生い茂った胸毛。手足はカトンボのように細いのに、お腹だけが、栄養失調の子供のようにせり出している。

 四十二歳の村上の身体は、実年齢以上にくたびれている。それなのに、男性のシンボルだけは、痛そうなほどに反り勃っていた。血液が充満して赤黒く染まり、ビクビクと脈打つグロテスクなものを見せつけられて、凜が今日、村上に浴びせようと用意していた罵声は、頭から霧消していった。

 村上は何も言わないまま、凛が着ている、村上の母親のおさがりの部屋着を無理やりに脱がすと、この半月あまりの間に、著しくボリュームアップした凛のヒップを鷲掴みにした。

「ちょっと、何するの?やめ、やめて」

 凜の尻肉を掴んだ村上は、凜の菊門に――監禁されてから、一度もウォシュレットを使っていない尻の穴に舌をねじ入れて、ドリルのように穿孔した。
 
「リンリンのうんちっちは、にが~くて、石を口に入れたときみたいな味がするんだね。リンリンのたもたもしたケツの肉を揉みながら食べるうんちっちは、とってもえっちでおいしいね」

 昨晩の決意が嘘のように、凛はただただ涙を流すことしかできなかった。
 
 ライオンやトラの威勢ならば抗えたが、ゴキブリやゲジゲジの気持ち悪さには抗えなかった。枯れた老人のような肉体をしているくせに、繁殖のための器官だけは猛り狂い、女の尻の穴をなめて興奮している異常な生物を相手に、まともに抗議しようとする意志を貫くことはできなかった。

 村上は、凜のアナルを五分ほども舐めると、今度は凜の陰部を指で撫ぜ、指先に付いた臭いを嗅いで、大げさに顔をしかめてみせた。

「リンリンのおまんこ、納豆とチーズをぐちゃぐちゃにかき混ぜて、便所の床にぶちまけてから、雑巾で拭いたみたいな臭いがして、くっさぁい!こんな凶悪な細菌兵器を股間に隠し持ってるのに、何かといえば男を暴力的で危険な生き物扱いするなんて、女の厚顔無恥さには、まったく呆れ果てるよ。リンリンは本名を捨てて、まんくさプー子に改名した方がいいんじゃないか」

 発狂したくなるほどの恥辱に、嗚咽が漏れる。腹が立つのは、村上が凜のデリケートゾーンがにおうのを、あたかも凜の過失のように言っていることだ。

 凜のデリケートゾーンのにおい――股間から、イカを天日干しにしたようなにおいが立ち上ってくるのは、自分のせいではなく、すべて風呂にも入れず、排泄の後、ウォシュレットも使えない、この環境のせいではないか。もしかしたら、暴飲暴食も影響しているのかもしれないが、それとて、村上に半ば強要されたことである。大体、そのくさいまんこの臭いを犬のように嗅ぎまわり、カッテージチーズのようなオリモノをパクッと食べて、ねばねばと糸を引く膣分泌液をおいしそうに舐めているのは、どこの誰だというのか。

 理不尽の塊のような男に、されるがままになっていることが、悔しくて仕方なかった。

「信一のヤツは、こんな時間になっても、夜勤の連中と一緒に残業しているらしいね。笑っちゃうよ。だっておかしいじゃないか。女房に嫌われまくってるヤツが 、てめぇが仕込んだわけじゃない子供を養うために、遅くまで身を粉にして働いてるんだぜ。あいつが死ぬ思いをして伊達巻を作ってる間、女房は他の男の腹の下でヒイヒイ言っているんだぜ。女とヤレもしないのに、女の雑菌まみれのまんこをクンニすることもできないくせに、一日に十回も二十回も手洗いをして、アルコールで入念に殺菌消毒もして伊達巻なんかをせっせと作っている信一は本物のバカだ。伊達巻なんか食わなくても、女の子の菌を舐めていれば、こんなに元気でいられるのに」

 信一を侮蔑しながら、ぴちゃぴちゃと音を立てて凜の陰部に直に舌を這わせる村上の顔は、自分で言う通り、過酷な食事制限をしているにも関わらず血色が良く、ギトギトと脂ぎっていた。

 野球ファンの凜は、人間の精神が、しばしば肉体の不調を超越することがあるのを知っているが、凜と自分の体重を逆転させてから性交渉を行うという目標を達成するため、ストイックに己を律する村上も、一部のアスリートにしか到達しえない、高い精神世界にいるというのだろうか。

 そんなことより気にしなければならない大事なことを、さっき村上が口にしたような気がするのだが、目の前の異様な怪物に、身体だけでなく心まで支配されないため、歯を食いしばるので精一杯の凜には、工場の元同僚を心配している余裕はなかった。

「こんな僕にも、良心というものがある。リンリンにひとつ、チャンスをやろう」

 凜の陰部のにおいが、おしっことオリモノと膣分泌液の混じった醗酵臭から、歯磨き粉のシトラスな香りになるまで舐めて、すっかり気の済んだ村上は、凜に服を着せると、スマートフォンのカメラを起動した。

「これから撮影するリンリンの動画を、リンリンに思いを寄せる、端本に見せてやる。もしかすると、端本が動画から何かを感じて、リンリンを助けに来るかもしれない。僕には、僕のすべてを理解してくれる頼もしい同士がいて、リンリンを探す人は誰もいないんじゃ、フェアじゃないからね。リンリンにもチャンスをやるんだ」

 上から目線の村上は、端本への「ビデオメッセージ」を撮影するにあたって、二つの条件を提示してきた。

 自分が監禁されているということを、口に出してはいけない。村上が疑われるような、悲壮な顔を見せてはいけない。ようするに、できるだけ自然体を装えということである。

 傍目から見れば、兄妹のような二人が楽しく部屋で遊んでいるような動画を見せるだけで、何がフェアかと憤慨したが、これが監禁されて以来、初めて凜が、外部にSOSを出すチャンスであるのは間違いない。村上のことを猜疑の塊のような目で見ていた端本ならば、あるいは、本当に何かを感じてくれるかもしれないと期待を込めて、凜は真剣に撮影に臨んだ。

「うん、なかなかいい画が撮れた。怖がっているリンリンではなく、普通にしているリンリンの動画でも、ちんちんシコシコがはかどりそうだ」

 三回ほどNGを出して、満足のいく動画を撮った村上は、半勃ちくらいに収まったペニスをぶらつかせながら、部屋を出ていった。

 村上がいなくなってから、凜は食った。豚のように食った。

 村上ともう一度信頼関係を築くのも、毅然とした態度で抗議することにも失敗し、凜は自分が、村上に屈服しつつあることを自覚していた。凜と健全に交際する夢破れた村上が、次に理想とするもの――村上の性の玩具になりつつあるのが怖くて、悔しくて、凜は食って食って食いまくった。

 興奮した村上が、いくつか、気になることを口走っていたようにも思うのだが、村上の家に閉じ込められてから、最大といっていい屈辱に身もだえる凜に、外で起きていることに思考を巡らせる余裕はなかった。ただ、おにぎりを五個もいっぺんに食うことしかできなかった。

 先ほどから、恐ろしい何かが、下腹部でうごめいている。ウズウズとするものを静めるため、何度も、履き直した下着の中に手を伸ばしかけては引っ込めることを繰り返している。

 認めたくないのだが、村上に陰部を執拗にクンニリングスされて、凜は感じていた。自分に理不尽な屈辱を味合わせた男の愛撫を受けて、快感を覚えていたのである。

 ゴキブリかナメクジのような男に無理やり舐められて、かれこれ三年間、男に愛されていない二十七歳の身体が目覚めかけていた。あのとき、凜は一瞬、村上自身が侵入してくるのを期待していた。

 絶対に認めてはいけない欲求を断ち切るため、凜は背脂たっぷりのラーメンを啜り、スープも全部飲み干した。

 これも村上の思惑通りなのかもしれないが、話す人も誰もおらず、スマホも取り上げられた今の凜が、発狂したくなるほどの苦しみから逃れるには、食べて食べて食べまくり、体内の血糖値を上げて眠気を喚起し、夢の世界に没入することしか方法がないのだ。
 

                            ☆


 凜が村上に監禁されてから、二十五回目の夜が訪れた。
 
 村上と体重が逆転したら、村上に犯されてしまう――わかっていても、凜は憎みてやまぬ男が買ってきた、お惣菜のコロッケを貪り食うのを我慢できない。

 近頃、村上に飲まされているドグマチールが効きすぎて、食欲がますます異常に襲ってくる。消化力が上がりすぎて、二時間に一回、五百キロカロリー相当の食事をしなければ、腹がちぎれてしまいそうなほど飢えてしまう。 

 監禁された当初は、身長百六十センチで五十一キロと痩せていた凜は、もう六十キロを超えていた。太ももや二の腕にはウィンナーソーセージのようにみっしりと肉がつまり、パンツのゴムで締め付けられて段になったお腹はボンレスハムのようである。何もしていなくても動悸がして、汗もかきやすくなった。

 もはや、村上の思惑通りになるのは時間の問題だったが、希望はあった。

 端本――凜に思いを寄せていたあの男が、凜をここから助け出しに来てくれるのではないだろうか。

 凜がまだ大丸食品で働いていたころ、端本は、凛と村上が相思相愛の仲であると思い込み、村上を凜から引きはがそうと、しつこく付きまとっていた。あの偏執狂男が、村上の撮影した動画を見て、何かを感じたならば、村上の家を探し出して、凜がここに閉じ込められていることを突き止めてくれるかもしれない。

 徘徊老人が行方不明になるくらいしか事件が起きない、のほほんとした田舎。平和ボケした警察に期待するよりも、自分に好意を寄せる端本に救出される方が、現実味がある気がした。

 あれほど忌み嫌っていた端本に、いま、自分は助けを期待している――滑稽であり、ムシが良過ぎる話なのは、十分よくわかっているつもりである。

 もし、端本が凜を助け出してくれたとして――そのとき、端本が凜と交際を望んだとしたら?

 世の中には、総選挙で自分の順位を上げるためにファンに大量のCDを買わせた挙句、結果発表の場で結婚宣言などをして、本気で祝福してもらえると思っているようなアイドルもいるが、異性とは、子供やペット、あるいは一国のプリンセスのような、無償の愛を注げる対象ではない。異性への思いは、受け入れられて初めて愛になるものだ。理不尽にも踏みにじられたりしたら、激しい憎悪に変わってしまうこともある。 

 凜を助け出した後、当然のように、そこから恋愛関係に発展すると思い込んでいる端本の期待を裏切ってしまったとき、端本の反応は?端本からの交際の申し出を断ったとして、周囲はどう思うだろうか?

 いつかテレビで観たことがある、どこかの国の伝説。

 ある武将が、炎上する城からお姫様を助け出したらお嫁に貰えるという偉い人の言葉を信じ、顔面に大やけどを負ってお姫様を助け出したが、お姫様は無残な容姿となった男と結婚するのを嫌がり、美男と評判の別の武将に嫁いでいった。憤死した男は、お姫様を二度と子供ができない身体にする呪いをかけた。

 あのときは酷いお姫様だと思ったが、いざ、自分が同じ立場に置かれてみると、物事は何でも筋道通りにはいかないことがよくわかる。

 端本――工場の女性六人に告白し、七人目に凜を選んだ男。君は僕の中で七位だと言っているようなものなのに、とにかく好きだということをアピールすれば、凜の心が自分に傾くと信じ込んでいた男。

 自分のことしか考えられない男と付き合うのは、正直言って抵抗がある。女として取柄のない凜を敢えて好きになった村上と同じように、それほど高望みをする気はないが、それでもこの先、男性と交際する機会があるのなら、もう少し条件のいい男を選びたい。

 憧れの梶尾投手・・は無理でも、できるだけそれに近い男性。野球に詳しくて、凜と一緒に応援してくれて、凜のことを第一に思ってくれる男性と付き合いたい。

 だが、もし、端本に助けられておきながら別の男を選べば、端本は当然憤るだろうし、周囲から顰蹙を買ってしまう可能性もあるだろう。自分を助け出してくれた端本の交際を断るのは、女という生き物がどこまで男に甘えられるのか、ある意味、極限への挑戦といえるかもしれない。

 挑戦――こんな目に遭わされたことを納得できるはずがないが、悪夢の状況で心が折れないよう、必死で自分を支える中で、今の状況は、凜がこれから幸せになるための試練なのだ、と、無理やりポジティブに考えようとする気持ちも生まれていた。

 先の希望は何もなく、失うものも何もない中年男。村上のような男はけして特別ではなく、今の世の中には溢れかえっているのだろう。

 可哀想に思わないわけではないが、こっちだって、手を差し伸べられるような立場ではない。女としてはけして若くない年齢で、今現在、恵まれない立場にいる凜がこれから幸せをつかむには、村上のような男に同情などしていられないのだ。

 これから先、村上のような男たちの欲望を搔い潜って、凜は幸せを掴まなくてはならない。村上の家を脱出するのは、地獄の終わりではなく、新たな戦いの始まりなのだ。

 自分の幸せが、具体的な形として見えているわけではない。ただ、運というものが誰しも平等なら、こんなに酷い目に遭った自分には、これから揺り返しの効果で、物凄いチャンスが訪れるに違いない。今は禊を落としているのだ。

 そのように考えることによって、凜は悪夢の真っただ中にいる自分を支えていた。

 その夜、二十一時過ぎになって凜の部屋に入ってきた村上は、今日は「凜を食べる」ことなく、口数も少ないまま、部屋に運び込んできた自分の布団に包まってしまった。

「リンリンと、僕の体重が近づいてきた・・・。戦いを間近に控えて、ちょっとナーバスになっていてね。一人だと、眠れないんだ」

 やつれた顔で言う村上は、減量のピークにあるボクサーを気取っているかのようだが、村上の言う戦いとやらは、双方の合意の元に決まったのではなく、社会のルールを無視して、自分から勝手に仕掛けただけのものなのだから世話はない。

「リンリン・・僕の女神。ずっと傍にいて、僕を見つめておくれ」

 華奢なイケメンが言えば絵になる言葉でも、萎びたブサイクがいえば、気色悪いだけである。

 村上は疲れていたのか、布団に包まると、すぐに鼾をかき始めた。一方、昼も夜もない生活を送っている凜は、村上が寝静まってからもなかなか寝付けず、ポテトチップス二袋を空け、饅頭四個を食べながら、テレビを観て過ごしていた。

「ぐ・・・ぐぅぅぅ~っ」

 新聞配達のバイクの音が聞こえ始め、凜もそろそろ布団に入ろうかと思っていたころ、眠っていた村上が突然起きて、腹を抱えて苦しみ始めた。

 食欲増進剤が効いている凜が六時間以上食を断ったときと同じ、腹に穴が開いてしまいそうな空腹感に襲われているのだろう。そんなに腹が空いているなら、食べればいいだけなのに、村上は、枕元に山と積まれた食料に手を付けようとしない。

「僕が・・・苦しんでいるのは、お腹が空いているからじゃないんだ・・。僕が・・・苦しいのは・・・・ちんちんをシコシコするのを・・・我慢しているからなんだ・・・。食べられないことなんて・・・大した悩みじゃないんだ・・・」

 強がりにも程があるが、確かに、村上がブリーフを脱いで仰向けになった途端、朝勃ちした肉柱が天を向き、こちらの方の禁欲も限界に達しつつあるのは伺えた。

「ぬ・・・抜いちゃえば・・?」

 凜の冷静な提案に、村上は首を横に振った。

「い・・・いやだ・・・僕は、もうすぐ訪れるリンリンとの赤ちゃんづくりの瞬間まで、ちんちんシコシコは我慢するんだ・・。もちろん、仕事も休まずに行き続ける。肉体労働はダイエットになるし、仕事をすることは、空腹と性欲を紛らわせる、一番の方法だ・・・」

 村上が自分の肉体を極限まで追い込む様子からは、マゾヒズムというだけでは収まらない強固な意志、いや意地を感じる。いったい、何が彼をここまで駆り立てるのだろうか。

「小学校のころから女の子に相手にされなかった僕は、すっかりひねくれて、性癖が歪んでしまった。だからといって、僕は、イケメンに嫉妬などしていない。むしろ憐れんですらいる。妄想に明け暮れる暇もなく女が寄ってくるせいで、ただちんちんを出し入れするだけの、普通でつまらんセックスしか覚えられなかったイケメンは可哀そうだ。僕みたいにモテない方が、妄想が捗り、アブノーマルなエッチを色々思いついて、豊かなセックスライフを送れるんだ。僕はイケメンに、負けてはいない・・イケメンに負けてない証明をしなくちゃ、死んでも死にきれない・・」
 
 意味はわからないが、これまで散々、女性方面で苦い思いを味わってきた村上の鬱憤は、もはや普通に女性を強姦するだけでは晴れはしないことは伝わってきた。

 村上は氷水を入れたビニール袋にペニスを浸し、輪ゴムで結わえ付けることで、朝勃ちした熱棒を静めると、再び、すやすやと寝息を立て始めた。

 食欲に抗えず、日に日に肉付きがよくなっていく凜とは反対に、村上は脅威の精神力で減量を成し遂げつつある。あのグロテスクな肉の棒が、凜の体内に侵入する日は迫っている。だが、けして、希望の灯は絶やさない。

 毒を以て毒を制す――グロテスクな村上に完全征服される前に、偏執狂男の端本がきっと、凜をここから助け出しに来てくれる。

 端本は救世主、端本は英雄、端本は神様。

 神様は私利私欲で人助けをしないから神様なのだ。

 救出したお姫様を、王子様に届けるまでが、神様の仕事である。
 
 一瞬、頭に浮かんだ考えを振り払った。凜は炭水化物+炭水化物の焼きそばパンを、唸り声をあげる胃袋にかき入れた。


                             ☆



 木の葉は散り落ち、古びた家屋には、冷たい隙間風が吹き込むようになった。

 凜が悪魔の巣に連れてこられたのは、今から一か月ほど前のことだが、もっとずっと、気の遠くなるほどの月日が過ぎ去ったように感じる。

 成人女性の必須カロリーの倍を上回る食事を、毎日のように摂り続けてきた凜の肥満は目に見えて明らかで、座るとおなかが鏡餅のように段になり、尻や腿もパンパンに膨らんで、下着やスウェットは今にもはち切れそうである。

 こんな身体に欲情する男がいるとは信じられないのだが、今、凜の目の前に体重計を置く村上のズボンは、こぶし大のテントを張って、激しく自己主張をしている。

「六十一・四キロ・・・。長かった。ここまで、本当に長かった・・・」

 厳しい食制限を課しながら、工場のキツイ肉体労働を続けてきた村上の体重は、とうとう、一昨日に計測したときの凜の体重よりも減っていた。ストイックに身体を作り上げた村上の足はふらつき、体重計の上に立っているのもやっとという有様である。

 村上は凜を監禁するという犯罪行為をしながら、休まず仕事に行き、一か月で十キロ近くも体重を落としてみせた。一方の凜の身体は、欲望に負け続けた果てに、風船のように丸っこく膨らんでしまって、表皮から砂糖水が染み出すように、甘ったるい臭いの脂汗を流している。見た目だけを比べれば、どっちが被害者で加害者なのかわからない。

「さあ。リンリン、体重計に乗ってごらん」

「やぁだ・・・やぁや・・・」

 冗談じゃなかった。まっぴらごめんだった。村上に腕を引っ張られたのに抵抗しただけで、たぷるん、と、全身の肉が揺れてしまう今の凜が体重計に乗れば、悍ましい数字が表示されるのは目に見えているのだ。村上にヤラれる、ヤラれないではなく、女として、目にするのも悍ましい数字が・・。

「さぁ・・ほら早く」

 村上が、熱く、いきり立ったものを押し当てながら、無理やり立たせた凜を体重計に乗せた。踵だけで立ってみたり、上半身にくっと力を込めたり、無駄な抵抗をしてみるが、デジタル表示は無情にも、この一か月の凜の生活態度を数値に表す。野球のOPSと同じ――数字は、一切の嘘をつかない。

「六十二・一キロ・・・やった。とうとうやったんだね、リンリン」

 目の前が真っ暗になる。食べて食べて食べ続け、とうとう凜は、立派なマシュマロ系女子になってしまったのだ。

「あれだけパクパク食べれば、それは太るよね。リンリン、口では僕を嫌がっていたけど、本当は僕のちんちんが欲しかったんだね」

 こんなことになったのは自分のせい?そんなバカな。でも――。

 凜が監禁される以前の五倍を超えるお菓子を摂取し、醜く太ってしまったのは、村上のせいであることは疑いない。村上に監禁などされなければ、今までの生活リズムが崩れることもなかった。食欲増進剤など飲まされていなければ、午前だけでどんぶり三杯飯を軽々平らげるような、暴飲暴食に走ることはなかった。

 しかし――身体の自由を拘束されながらも、目の前の食糧を摂取しないという選択肢もあったのは事実だったのだ。もし、村上よりも太らなかったとして、村上が凛に手を出さないという約束を守ったかはわからないが、少なくとも、こんなことになったのを少しでも自分のせいだと思わされて、激しく惨めな気持ちになることはなかったはずだった。

 体重計のデジタル表示に叩き出された数字を眺める村上のテントが、ぐいぐいと張っていくのを眺めながら、凜どこか既視感を覚えていた。

 三年前に正社員の仕事を辞めて、ハケンの立場に堕ちたときの気持ちと同じ――圧倒的な力で、有無を言わさず底辺に叩き落されながら、どこかでそれを、自分のせいだと感じさせられている。最初は、納得したら負けだ、早く元の生活に戻らなきゃと思っていても、貧乏でもプレッシャーから解放された、のんびりした毎日を送っているうちに、牙を抜かれていく。

 お気楽な毎日はいつまでも続かず、ある日突然終わりを告げる。そのとき初めて目が覚めて、努力しなかったことを後悔する。いつかはこんなことになると、わかっていたはずなのに・・・。

「やわらかい・・。リンリンの身体、ふわふわたもたもして、クリームシューみたいにやわらかいよ。おまんこも、いい臭いになったね。このおダシが摂れるようになるためには、一か月間、我慢をしなければならなかった・・」

 村上は凜の着ているTシャツとパンツを脱がし、下着もはぎ取ると、締め付けるゴムの跡がくっきりと浮かぶ下腹を摘まみ、ギューッと引っ張ったり、ムニュムニュと揉んだりして弄んだ。こんなに醜く太った身体を、村上は愛おしそうに撫でまわし、一か月間も、濡れタオルで拭くことしかしていなかった脇、女性器、肛門を、嬉しそうに嗅ぎ、舐めまわっている。
 
「赤ちゃんづくりをする前に、先日、工場で撮れた、面白い動画を、リンリンにも観せてあげよう」

 村上が、愛撫を中断して差し出したスマホ。画面に映し出された異様な光景に、凛は瞠目した。

 産休明けの志保が、工場でおっぱいを出して、ベルトコンベアの上を流れる伊達巻に、ミルクをかけている。羽交い絞めにして止めている信一と、興奮している様子の及川、ショックの余り、へたり込んでいる塚田のてっちゃん。

 凜が、ついひと月前まで働いていた大丸食品の作業場に描かれた地獄絵図。なぜ、どうして、こんなことになったのか――まだ、工場の重い機械で誰かが足を潰したとか、誰かがフォークに撥ねられて全身を複雑骨折したという話ならわかるが、志保のやっていることは、凜の想像の域を遥かに越えていた。

「どうしたの、これ・・。村上さんが撮ったの?」

「僕じゃない。僕のすべてを理解してくれる、僕の同士さ。リンリンを太らせるまで、リンリンとのエッチを我慢することも、端本にリンリンの動画を見せてやるのも、もとは彼の発案だった。彼のお陰で、僕はここまで来れたようなものだ」 

 村上が、どうやら大丸食品の工場で働いているらしい「同士」への感謝の言葉を述べた。

 大丸食品の工場では、原則として、作業場にスマホは持ち込み禁止になっているが、わざわざ上から言わなくても、作業場は水気が多く、電子機器など持ち込めばすぐに汚れて故障してしまうため、ロッカーのカギと小銭以外のものを持ち込む人は誰もいない。

 ただし――リスクがあるのを知っての上で、なおスマホを持ち込む理由があるならば、話は別である。たとえば、村上が見せてきた動画の撮影者が、志保が作業場で破廉恥な行為に及ぶことを、あらかじめ知っていたとすれば――。

 撮影者――村上の「同士」というのが一体誰なのか、撮影者と志保はどういう関係にあるのか、気にならないではなかったが、今は凜自身が、村上の剛直で刺し貫かれそうになっているという危機的状況にあり、他人の心配をしている場合ではない。 

 村上はスマホをしまうと、凜に与える食料の入ったビニール袋の中から、哺乳瓶を取り出した。中には、おそらくは志保のものと思われる真っ白いミルクが、いっぱいに詰まっている。

「リンリン、太ったことで、おっぱいもこんなに大きくなっちゃって」

 村上が哺乳瓶を、監禁される前の八十三センチから一回りサイズアップした凜のバストにあてがった。

「母乳は脂質、タンパク質をはじめとする栄養の塊だ。災害などで遭難したとき、母乳を飲んで助かったという事例は、国内外で多数報告されている。赤ちゃんだけでなく、大人が飲んでもいいものなんだよ。ババアの志保から搾り取った乳などに興味はないが・・・こうすると、ほら。可愛いリンリンのおっぱいを飲んでいるみたいだろう」

「ひやっ・・・ひぃやぁっ」

 凛の乳首を口に含んだ村上が、哺乳瓶を握りしめると、生ぬるい志保の母乳が、凛の乳房を伝って、村上の口内に流れ込んでいく。村上は、舌先でテュパテュパ、チュパーッ、と音を立てて凛の乳首を転がしつつ、志保の母乳を口内で揺蕩わせた。

 初め、生ぬるかった志保のミルクが、村上の口内で温められて、乳首だけお風呂につかっているようだった。乳首から伝わるチリチリとした刺激と、ミルクの暖かさで、凛は不覚にも快感を覚え、下半身の力を失ってへたり込んだ。

「あれぇ?リンリン、感じてるんだぁ?僕に敏感なところ舐められて、感じてるんだぁ?」

 村上の言う通りだったのが悔しかった。自分をこんな目に遭わせた村上が許せない。こんな目に遭わせた村上の愛撫を受けて、気持ち良くなっている自分の身体が許せない。

 自分をぶち壊して、死んでしまいたいほどの状況だが、まだ、希望はあった。

「端本くんが、きっと助けに来てくれる!」

 端本――凜の救世主、凜の英雄、凛の神様。この数日、幾年も思った恋人のように、その顔を思い描き続けていた男。絶望的な状況下で、たった一つ差していた光。身体が肥大を続け、村上と結合が避けられなくなっても、凜は最後まで、奇跡を信じ続けていた。

 端本――凜に想いを寄せる端本が、きっとこの悪魔の巣から、凜を助け出しに来てくれる。

「端本・・?ああ、そういえば、ヤツからのメッセージを預かっていたんだ。リンリンにも見せてあげようかと思ってたんだけど、忘れていたよ。もともと、同士に言われて仕方なくやったことだったし、あいつのリアクションは、僕の予想通りだったからね」

 村上が面倒くさそうに差し出したスマホの画面に表示されたメールの内容を見て、凛は色を失った。

――村上さん、今までしつこくしたりして、申し訳ありませんでした。村上さんから送られてきた動画を見て、僕は、恋に恋をしていたことに気が付きました。僕は、凜さんが好きなのではなく、凜さんに恋をしている自分が好きだったんです。これからは、僕は希美さんを好きになります。

「いつ、これを・・?」

「さぁ。志保の母乳事件の起こる、二日か三日前くらいだったかな。たもたもになってしまったリンリンを見て、かなり幻滅した様子だったよ。ま、大口叩いてるわりに、あいつのリンリンへの愛は大したことがなかったわけだ。僕はどんなリンリンでも受け入れるのに」

 凛は天を仰いだ。希望などは、もうずっと前から、とっくに潰えていたのだ。

 端本――人の気持ちがまったくわからない男に期待などかけていたのが、そもそもの間違いだった?

 端本に救われながら、端本との交際を断る権利があると信じていた自分に、端本を責める資格があるのだろうか?

 端本を、平時はゴキブリやナメクジのように忌み嫌っておきながら、自分が窮地に陥るや、救世主として期待した罰?

 囚われのお姫様を、王子様の元に届けるのが、神様の役割――端本を自分の都合のためだけに利用することを考えた罰?

 村上はお兄ちゃんみたいな人で、身体の関係がなくても、自分を大事にしてくれる――男性を、自分の都合の良いように見ていた罰?

 積極的に抱かれたい男性、抱かれてもいい男性、絶対に抱かれたくない男――かのアイドルのように、自分はすべての男から平等に可愛がられて当然だと、心のどこかで思っていた罰?


 こんなことになって理不尽だという思いと、こんなことになったのはすべて自分のせいではないかという思いが、交互に襲ってくる。三年前、正社員から派遣に堕ちたときと同じ――。

「リンリン・・・僕もう、だめだ。我慢できない・・」

 口角から涎を垂らしながら、村上はズボンを下ろし、股間に黄色いシミのついたブリーフを脱いだ。勢いよく反り返ったものが、村上の六角形の凸凹が浮かぶ腹に、バチンと当たった。

「入れるからね。リンリンと赤ちゃん、作るからね」

 もじゃもじゃした繁茂から突き出た赤黒い肉塊が、下腹部にずぶりと突き刺さった。ゴキブリとナメクジが一斉に身体の中に侵入してきたはずなのに、なぜか、ちょっとだけ気持ちいい。つぴっ、つぴっ、と、刺激が股間から脊髄を伝って、頭を突き抜けていく感じ。目をつぶれば、一時期は本当に好きだった彼氏が入っているのと、あんまり変わらないかも・・・。

 レイプされるすべての女性の気持ちがわかった。いや、三年前のあのときから、ずっとこんな気持ちだったのかも――。

 理不尽な状況に落とされた最初のうちは必死に抗おうとしても、それが長く続いて、致命的な局面にまで至ると、もはやどうでもいいと思うようになる。抵抗を続けるより、現状を受け入れた方が楽だと気づく。そして、この暮らしも案外悪くないと、今の状況を、できるだけポジティブに捉えようとする。

 村上が腰を打ち付けるたびにラップ音が響く。腰回りの肉がタプンタプンと揺れているのがわかる。自分の波打つ腹を俯瞰して欣喜雀躍する村上の姿が、なにか他人事のように思えた。


 これから、いったい自分はどうなるのだろう。

 ずっと村上に監禁されたままで、毎日やられてしまうとしたら、いつかは本当に、赤ちゃんができてしまうかもしれない。苦しい思いして村上の赤ちゃんを産むなんて、まっぴらごめん。でも、さして美人でもなく、もう若くもない自分の――頭のおかしい端本にさえ見放された自分の、女としての商品価値が所詮それだけでしかないのなら、受け入れるしかないのかもしれない。子育てだけをして、外で働かなくて済むのなら、それもいいのかもしれない。

 もう、どうでもいい。どうせまともにやってもうまくいかないこんな人生、どうなったっていい・・・。

「リンリン、いくいくいくよっ」

 一か月もの間、凜の卵と会うの楽しみにしていた熱いオタマジャクシが、凜の子宮めがけて解き放たれた。

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第三章 20××年 三月~十一月 信奉者

 いつも目を覚ますと同時に襲ってくる、ウッとした倦怠感。アラームに叩き起こされた及川雅也は、もそもそと芋虫のように、万年床から這い出した。

 今日は水曜日。勤めている食品加工工場、大丸食品の定休日だが、朝から先輩のライン作業者から呼び出しを受けており、急いで支度を済ませなければならない。ひりつく喉を水道水で潤し、昨晩のうちに買ってあったチキンかつ弁当を掻き込み、三日間履きっぱなしのパンツを履き替え、穴の開いたシャツの上から、糸のほつれたカーディガンを羽織ると、及川はアパートを出て、愛車のスバル・プレオに乗り込んだ。

 エイティーズを聞きながらステアリングを握り、半開きにしたウィンドウから流れ込む冷たい空気を浴びつつ、閑静な田舎の国道を走っていると、二十八年前、高校の掲示板に張り出されていた広告に応募して参加した、免許合宿を思い出す。

 目に映るすべてが、希望に満ち溢れていた。世間はバブル崩壊だと騒いでいても、自分にはまるで関係のない出来事のように思えた。何もかもが、光り輝いて見えていた。

 バイパス沿いに、忌々しいエテ公の看板が見えてくると、大切にしたい思い出から、見向きもしたくない現実に引き戻される。このまま通り過ぎたいのはやまやまだが、約束をすっぽかしたりしたら、明日の勤務日、ゴリラのようなあの男から、どんな仕打ちを受けるかわかったものではない。

 及川は、待ち人のセレナの隣に車を止め、パチンコ屋の中に入っていった。

 せせこましい都会では、建物は上に盛るという発想になるが、田舎の建物は土地を贅沢に使う。ボウリング場のようなだだっ広いホールを奥へ奥へと進んでいくと、スロットのコーナーに、咥えたばこでレバーを弾いている同僚の派遣社員、牛尾の姿を見つけることができた。

「おはようございます、牛尾師匠」

「おぅ及川ぁ。おせえじゃねえか。いい台取られちまったらどうすんだよ」

「すみません」

「お前もしかして、朝からオナニーしてたんじゃねえのか?朝から玉いじりに夢中になって、玉打ちに遅れたってか?いい年して嫁さんもいないオッサンが、寂しいことやってんじゃねえよ」

 こんな下品なギャンブルで輝いた気になり、寒気のするギャグを吐いて高笑いを決め込んでいるようでは、お前も同じ末路だ・・。及川は内心でせせら笑いながら、一回り年下の同僚の傍を離れ、トイレに立ち寄った。

 前から気になっていたのだが、パチンコ屋のトイレは、どうしてこんなにキレイなのだろう。国庫に金の入らぬ違法賭博屋が、たった一つ社会貢献できるところだから、掃除は真剣にやれという方針でもあるのだろうか。

 そういえば、ここ最近、トイレでは嫌な思いばかりしている。

 二年前に勤めていた家具製造工場で、及川はいつも、便器から三十センチ近くも離れたところから放尿するため、小便が便器から外れて、床はびちゃびちゃになってしまっていた。及川一人のために、トイレの床には、立ち位置を示す赤いビニールテープが貼られることになってしまったのだが、及川はそれでもまだ気づかず、トイレの床を汚し続けるため、とうとう派遣会社のスタッフを通じて直接注意されることになり、えらく恥ずかしい思いをした。

 また、家具製造工場のトイレにはエアーダスターがついておらず、及川はいつも、洗面所で洗った後の手を大きく振って水気を払っていたため、洗面所の周りを水滴だらけにしてしまっていた。その水滴を、備え付けの雑巾でふき取りもしないため、社員からのクレームが入り、またもや、派遣会社の担当者を通じて注意を受けることになってしまった。

 手を洗った後の濡れた手を、振ってはいけない――。言われたことを、よく頭に刻んだ及川は、それから、濡れた手を、備え付けの雑巾で拭くようになったのだが、どこの誰か知らないが、それも目ざとく見つけてチクリを入れる者がおり、担当者から三度目の注意を受ける羽目になった。

――及川さん。それは手を拭くためのタオルじゃなくて、洗面所をキレイにするためのタオルでしょ。そのタオルで拭くくらいだったら、自分の服で拭いた方がよくない?なんで自分を汚さずに、会社の方を汚していくの?そもそもさ、自分のハンカチをもってこようよ。小学生じゃないんだから、一から十まで言わせないでよ。
 
 もう、何もかも面倒くさくなった及川は、新しく入った大丸食品の工場では、とうとう、用を足した後の手を洗わずに出るようになったのだが、今度はそれが原因で、「赤ちゃん」などといったあだ名をつけられ、陰でコソコソ言われるようになる始末である。
 
 自分が、周りから侮蔑されていることくらいわかっている。生まれてこの方、誰かから必要とされたことなんてなかった。周りが当たり前にこなしている仕事を自分はできず、周りが当たり前に築いている人間関係を、自分は築けなかった。

 自分のような能無しでも、新人のうちは、ある程度多めに見てもらえる。派遣特有の、百パーセント減点方式のおかげで、数か月単位で職場を転々としていれば、必要以上に傷つかずに生きていられた。

 ひとつの職場に長くいることがないため、友達もできず、社会人としての教育をまともに受ける機会もない。四十六にしてトイレひとつ満足に使えない無能男が、そうして出来上がった。

 この先もずっとそうやって、何もできないまま、何一つ身につかないまま、無駄に馬齢を重ねていくものだと思っていた。

 それが、今の大丸食品の工場で、伊達巻のラインの作業者になってから、風向きが変わってきた。集団の中で、一定の存在価値を認められるということを、四十六にして初めて知った。

 能力を買われているのとは違う。見下されているという意味では、邪険にされていたころと変わらない。けして、本意な形ではない。ただ、自分はここにいていいんだと思える安心感は悪くない。

「よいしょっ・・と」

 用を足してブツを仕舞うと、管に残った尿がピュッと飛び出して、ブリーフを濡らした。

 若いころに比べて、小便のキレが悪くなっている。身体のあちこちにガタが来ている。休みの日はどこにも行かず、一日ゆっくりしていないと、仕事で持たない。こんな玉遊びなどは早く切り上げたいのだが、ほんの少しでも回した実績を残さないと、牛尾に何を言われるかわからない。

 トイレから出た及川は、職場での動きに輪をかけてスローな足取りで、一円パチンコのコーナーへと向かい、適当な台の前に腰を下ろした。

 二年前、格安の量販店で買った財布から千円札を抜き取って、野口英世の顔を、名残を惜しむように見つめる。千円あれば、カップ麺が八個も買えた。牛丼を二杯、みそ汁とサラダのセットつきで食べられた。エロサイトで旧作の動画を、三本も落とせた・・・。

 逃れられない運命。これもすべて、職場に留まるため、生きるために必要な出費なのだ。自分に言い聞かせ、未練を断ち切って千円札を挿入し、ハンドルを回して玉を打ち出した。

「ああ・・・」

 虎の子の千円は、ものの十五分で溶けていった。

 一円パチンコでも、終日回せば、万単位の負けになるのはザラである。取り返せる額が少ない分、等価よりも、ズルズルと泥沼に引きずり込まれていく感が強い。

「はぁ・・・・」

 妙なことになったが、たぶん、今の自分は充実している。少なくとも、派遣で働き始めたこの十数年の中では、一番マシだと思える程度には・・・。

                           ☆

 及川が、地元山口のハローワークで見つけた求人に応募し、はるばる中部地方の食品加工工場、大丸食品で働き始めたのは、今年の春先のことだった。

 入社してすぐに世話になった三十過ぎのラインリーダー、貞廣は仏のような男で、物覚えが悪く、作業も遅い及川に声を荒げたりすることもなく、よく面倒を見てくれた。

 上司に恵まれたと安心していたのは、しかし束の間。及川の入社から二か月ほどして、班長に昇格した貞廣の代わりに、貞廣の後輩の岡本涼子がラインリーダーに就任すると、状況が一変した。

「及川さん!ホースの水は飲んでもいいけど、飲むときは自分の口を下にしなきゃだめって、貞廣さんから言われませんでしたか!唾が入ったら、どうするんですか!」

 まだ、大学か専門を出たばかりくらいだろうか。自分とは親子ほども年の開きのあるこの娘に、及川は目の敵にされ、毎日耳元でキャンキャン怒鳴られていた。

 失敗をして叱られるのは仕方がない。しかし、涼子の及川へのあたり方は、明らかに、教育的指導の範疇を超えていた。

「伊崎さんみてて、あの人絶対あそこでミスするから。ミスするミスする・・・・。ほらミスした!も~ういい加減にしてくれないかな~」 

 ミスをしてから怒るのではなく、最初からミスをすると決めつけて、作業を監視してくる。本当にミスをしたとき、自分に直接注意をするならまだしも、同僚の正社員に向かって愚痴を吐く。もちろん、自分に聞こえているのを承知の上で、である。そんな状況で作業を強いられたのでは、誰だって集中力を乱し、手元が狂ってもおかしくはないではないか。

 涼子は仕事以前に、自分のことを人として嫌っており、一日でもはやくラインから追い出したがっている。そんなことくらいは、自分にだってわかっていた。

 自分が、女に好かれるようなご面相ではないことくらいわかっている。特に、どの勤め先にいっても、サイズの合う帽子を探すのに苦労する大きな頭蓋は、常に周囲の嘲笑の的となり、自分のどん臭さを際立たせてきた。

 若いころはまだ見れただろうが、いまは腹も突き出ているし、髪も薄くなった。涼子のような若い娘には、こんな醜い中年男の存在は、それこそ、ゴキブリやナメクジのようなものに見えているのだろう。

 それも仕方がない。四十六にもなると、色々と諦めの境地に入る。

 出世も結婚もできなかったが、どうにか今生きている。雨風凌げる家に住めて、三度のご飯が食べられているだけで十分じゃないか。

 今さら、何をどうしようと足掻く気もない。一切の努力を放棄するかわりに、言われるがままを受け入れる覚悟を決めた。

「別に、付き合うわけじゃないから、太ってるとかはいいんですけど・・・。毎日お風呂に入るとか、人として当たり前のことくらい、してきてほしいですよね。この前なんか、太い鼻毛が三本も飛び出してたんですよ。もうほんと、気持ち悪くて・・・」

 何を言われても気にしない。

 感性に紙やすりをかけるようにして、ナメクジのように、鈍く、鈍く生きていけば、人生は楽になる。
 
 自分のことだけを考える。どうせ人の気持ちなど、完璧にわかりはしないのだ。誰とも関わらない方が、楽でいい。

 一人でいい。このままずっと、これでいい・・。

                             ☆
 
「及川さん、お掃除”だけは”丁寧ですね~。いつもキレイにしてくれて、ありがとうございます!」

 ある日の清掃作業中、岡本涼子が、珍しく及川を褒めてくれたことがあった。

「いえ・・そんな・・あたりまえの仕事を、しているだけです」

 及川が照れ笑いを浮かべながら返事をすると、涼子はそれ以上は何も言わず、顔を引きつらせながら、リーダー机の方に帰っていった。

「ねえ、見てあの笑顔。あの人、子供みたいに喜んでる。岡本さんは嫌味でいってるのに、わからないのかね」

「二、三分で済ませればいい配管の清掃を、十分以上もかけて念入りにやって・・・。工場の機械をあんな丁寧に洗うなら、自分がお風呂に入ってこいって話だよね。あれじゃ、工場の機械は汚いけど、自分の身体はキレイだって言ってるようなもんじゃん」

 ようやく涼子に認められたのかと、無邪気に喜んでいた及川の後ろで、同じはんぺんラインの作業者、真崎志保と塚田哲太が、ひそひそと陰口を叩いているのが耳に入った。

 及川はリーダーの涼子だけでなく、はんぺんラインの作業者全員から嫌われていた。アラフォー女の真崎志保はまだマシだが、二十代半ばの塚田は陰険なヤツで、待機室で休憩するとき、及川が近くに腰を下ろすと、避けるようにスーッと立って、どこかへ行ってしまうということを平気でやる。

 こっちが気づいてないと思っているのか、気づいているのを承知の上で、わざとやっているのかはわからないが、いずれにしても、塚田には、年上の自分に対する敬意は欠片もなく、自分の心を傷つけることなど屁でもないのだろう。

 それも仕方がない。まったく、気にもならない。

 昭和前半生まれが好きな、辛い仕打ちを受けることで、心が鍛えられて強くなるというのは迷信だが、人生に一切の潤いが与えられないことで、心が枯れて、痛みも痒みも感じなくなるということはあると思う。

 これまで、学校や職場をやめても交流が続くような友人は、一人もできなかった。

 商売以外の女とは、付き合うのはおろか、手を繋いだことさえなかった。

 犬、猫にも、愛情を持つことはできなかった。

 四十六年もそんな生き方をしてきた生物.は、もう人間とは呼べないだろう。それこそ、ゴキブリやナメクジのようなもの。そういう生き方を自分で選んだのだと思えば、誰に何を言われようが気にもならない。

「あんな能力で、今までどうやって生きてきたんだろうね。ここに来る前は、ホームレスやってたりして」

 気にしない。何を言われても気にならない。

「及川さん!待機室で、コーヒーをすする音がうるさいって、私のところにクレームが来てます!ここは自分のうちじゃないんだから、もっと周りに配慮してください!」

「あぁ~」

 間の抜けた返事をするのは、相手の言うことを納得できたからではなく、ただ相手にそれ以上、何も言わせないため。

 右から左に聞き流す。たとえ相手の言うことが正しかったとしても、関係ない。

「及川さんは、もうこのラインの人じゃありません!伊達巻のラインの朝礼に参加してください!」

 娘のような年齢の上司に、散々嫌われて、罵られて、最後には追い出されるようにしてラインを移されても、まったく気にしない。傷ついたりはしない――。


                         ☆


「本当にそうか?及川さん、本当にそれでいいと思ってるのか?」

 自分は、一生負け組でいいですから――。じめじめとした梅雨のある日の勤務中、機械の動作不良で手が空いたとき、話の流れで及川が何となく口走った言葉に疑問を投げかけたのが、はんぺんのラインを移された先の、伊達巻ラインのリーダー、真崎信一であった。

「はぁ・・・。この年で、派遣の仕事なんかしてたら、誰だってそう思うんじゃないですかね」

 及川が投げやりに返すと、真崎は腕を組みながら、よく、死んだ魚のようだと陰口を叩かれる自分の目を、えらく熱のこもった眼差しで見つめてきた。

 派遣ながら、ラインリーダーを任されている真崎は、面倒見はよく、けして悪い人間ではないのだが、及川はこの男がどうも苦手だった。

「年齢や収入で、勝ち負けが決まるのか?そんなことより大事なことがあると、俺は思うぞ。自分が誰にも恥じない生き方をしているか。自分にとって、本当に大切な人が傍にいるか。それが一番、大事なんじゃないのか?」

 こういった具合に、やることなすこと、口から出る言葉、すべてが一々芝居がかっている。まるで己の生活すべてを劇場のように演出しているような感じが、ナルシストのようで気色悪いのだ。
 
「罪を犯すのが恥という意味なら、恥ずかしい人生は送っていないと思いますが、俺の存在自体が恥ずかしいようなもんですからね・・・。大切な人は、俺には一人もいませんしね」

「俺はどうなんだ?及川さんにとって、俺は大事じゃないのか?」

「え?いや・・・まぁ・・・・」

 まともな人なら赤面してしまうような言葉だが、真崎は至って真剣である。俺は大事じゃないのか?それを、一年二年と一緒に働いて、確かな信頼関係がある同僚に言うならわかるが、及川が真崎と一緒に働くようになってからは、まだ一週間しか経っていないのだ。

 それはまあ、世界の人を大事、大事じゃないの二種類にザックリ分ければ、大事な方に入れてもいいとは思うが、真崎が問いたいのは、おそらくそういうことではないのだろう。今、この時点で、真崎を長年に渡り指導を受けた恩師のように思っていなければ、ここで「はい」と返事をしてはいけないのだ。

「い、いやぁ、真崎さんとはまだ知り合ったばかりですし・・・大事というのは、ちょっと違うのかと・・・」

「そうか。わかった。俺は及川さんにとって、どうでもいい人なんだな」

 失礼な返答をしたとは思わなかった。だが、真崎は突然、嘘のように冷めた表情になり、翌日から、及川への当たりがキツくなっていった。

「あっあの・・・真崎さん。あそこの、私がやるあそこの仕事で使うあれは、あれをこう、こう動かしたほうがいいんでしょうか」

「・・・なに?何を言ってるのか、さっぱりわからないよ!人にものを伝えたいなら、もっとハッキリ喋れよ!」

「あっあの・・・あの、私、何かしてしまいしの・・あの・・・」

「だから、何言ってるかわかんないんだよ!仕事する前に、国語の勉強してこいよ。学校で何やってきたんだよ」

 真崎が変貌した理由はわかっていたが、真崎に嫌われなければいけない理由はわからなかった。

 たった一週間、一緒に働いただけの人間を、大事な恩師のように思えというのも理不尽だが、そもそも、それを聞いてきたのは真崎本人なのである。真崎は自爆の恥ずかしさを誤魔化すために、及川に八つ当たりをしているだけなのだ。

「なんだ及川ぁ。お前またなんかやらかしたのかぁ!お前いい加減にしろよなぁ!」

 及川が叱責を受けているのに気づいた同じ伊達巻のライン作業者、牛尾が飛んできて、追い打ちをかけるように、品のないガラガラ声で怒鳴り散らした。

 伊達巻のラインで前工程を担当している牛尾は、三十三歳の派遣社員。派遣で働く前は、鳶職や重量屋をやっていたとかで、上背は高くないが、いかにも肉体労働者といった、筋骨隆々の身体をしている。

 牛尾は体格がいいだけではなく、垂らした手が膝に付きそうなくらい腕が長いのが特徴で、それが掃除のとき、深い攪拌機の底に付いた汚れをこそぎ落とすときに重宝している。その見た目と、脳みそまで筋肉で出来ているような単細胞であることから、はんぺんのラインにいる塚田や、笹かまぼこの寺井などからは、陰で「ラリゴ」と呼ばれていた。

「及川ぁ!またバケツの汚れとれてねえじゃねえか!」

「は、はい。すみません」

「及川お前さぁ・・・・洗い物ってしたことある?」

「いや・・そりゃありますが・・家の洗い物と、工場の洗い物は、全然ちが、ちが」

「言い訳してんじゃねえ!とにかくお前は、常識がなってないんだよ!」

「はあ・・・すみません」

 工場で使う金属のバケツには、無数の小さな傷、へこみがあり、中に詰まってしまったカスを取り去るには、表面をブラシで撫でるだけではなく、腕の筋が浮くほど力を込めてこすらなくてはならない。言うまでもなく、一般家庭で使う食器を、そんなに力を入れて洗っていたら、あっという間に破損してしまう。

 ゴリラにとって、生まれ育ったジャングルが世界のすべてであるように、牛尾という男は、ド田舎の、ケチな食品工場の中での常識を、あたかも世間一般の常識であるかのように思い込んでいるのである。

 井の中の蛙――伊達巻のライン作業者、真崎と牛尾は、よく似たもの同士の二人。牛尾が及川に厳しく当たるようになったことにも、真崎と同じような経緯があった。

――及川さんが入社したのは、はんぺんの塚田と同じころだっけか。ここに来て三か月、及川さんも色々な人の仕事ぶりを見てきただろう。

――・・・はあ。

――その中で、及川さんは誰が、一番仕事ができると思った?

 真崎と同じ、質問をした時点で答えが出ている質問。言うまでもなく、牛尾は及川に、己の名を答えさせようとしているのである。

――まあ、自分より先に入った人は、みんな同じくらいじゃないですかねえ。

 歩合で給料をもらっているわけでもあるまいし、こんなライン作業で誰が一番できるかなど、知ったことではない。適当に答えたところで、激怒する人など誰もいないと思っていたのだが、違っていた。

「及川ぁ!この材料の置き方なんだよ!通り道ふさいじゃってるだろうがよ!おまえ仕事するとき、何にも考えてないんじゃないのか。だから、仕事ができるヤツとできないヤツの違いもわからないんだろ!もっと頭使って仕事しろよ!考える頭がねえのか、お前には!」

 なんとかの一つ覚えのように、「考えろ」を連呼する牛尾。この男、「精神論」を避けてさえいれば、普通のゴリラとは一味違うゴリラになった気になれるらしく、その無駄な威圧感だけでも、十分パワハラになることを知らないようである。

「こんな簡単な仕事、三日もやれば一人前のはずだぞ!なのにお前は、一週間経っても、全然できるようになってないじゃねえか!どういうことなんだ!」

 誰でもすぐマスターできる単純労働だと認めてしまうのなら、自分がその仕事に誇りを持っているというのもおかしな話になってしまうが、単細胞の牛尾は、とにかく相手を責め立てるという目的だけで論理を組み立てているので、矛盾に気付かないのである。

「信さん、もうこいつダメっすわ。使いモンにならん。班長にいって、もっとできる人とトレードしてもらいましょうよ」

「大丈夫。もう手は打ってある。明日から、こいつの代わりに、期待の新人が入ってくるから、みっちり鍛えて、年末に備えよう」

 はんぺんのラインから移されて二か月目のこと、及川は、新人と入れ替わる形で、伊達巻のラインも追い出されてしまった。

                           ☆

 
 伊達巻のラインからも追い出された及川が次に回されたのは、リーダー一人、作業者一人で回している、工場で一番短い、笹かまぼこのラインだった。

「あ、あの、よ、よろしくお願いいたします!じ、自分、二回も戦力外通知を受けましたが、心を入れ替え、頑張りますので、どうか、お願いします」

「ああ・・そんな緊張しないでください。ここはそういうのじゃないですから」

 すでに二つのラインを追い出され、後がなくなった及川は、初めの挨拶で、今度こそはという覚悟を示そうと思ったのだが、笹かまぼこのライン作業者、寺井は、涼しい顔をして及川の気合をやり過ごした。

「一緒に働くようになって一週間しか経ってない人に、俺のことは大事じゃないのかって、気持ち悪いジジイですね。ラリゴも相変わらずだ。こんなサルでもできる単純労働で、誰が一番もクソもないっつうのに。及川さんも災難でしたね。僕もあの二人のことは良く知ってるんで、及川さんの苦労はわかりますよ」

 元、伊達巻のラインで働いていたという寺井は、伊達巻のラインの二人から厳しく当たられた上、最後には追い出された及川に同情的だった。

「あいつらの言ってることは、ようは宗教なんですよ。報われない生活を無理やり納得して、自分の惨めな人生を、さも素晴らしいものかのように思い込もうとするための宗教。あいつらは自分の信仰を人にも押し付けて、信者を増やすことで、自分の考えは間違ってないって思いたいだけなんです」

 寺井は伊達巻ラインの二人、特に、リーダーの真崎がことのほか嫌いのようで、やることなすこと、考えることすべてに否定的だった。 

「うんこをうんこと認めずに、これは茶色いケーキなんだ、俺たちは恵まれているんだと痩せ我慢。バカなクソジジイですよね。そんなことやってたら、上の奴らから、あいつらはあれでいいんだと思われて、いいように利用されるだけなのに」

 物質的な豊かさよりも、心の清らかさや、人間同士の絆に絶対の価値を置こうとする真崎の生き方には、及川も疑問を覚える。真崎はそれを持ってさえいれば、貧乏人でも金持ちに負けていないかのように言うが、清らかさや人間の絆くらい、金持ちだって持っているではないか。むしろ、金持ちほど心が豊かになって周りに人が集まり、貧乏人ほど心が荒んで、孤独に生きているのが現実である。真崎の言っていることは、ただの負け惜しみにしか聞こえない。

「・・・でも、変に落ち込むよりは、いいんじゃないですかね。自分が前向きになるためだったら・・・」

 寺井の言っていること自体は、これまでの人生で、真崎や牛尾のような人種と一緒に働く中で、及川がぼんやり考えていたことと一致している。言語能力が著しく欠損している及川の考えを代弁してくれるのは助かるのだが、しかし、寺井の言葉はどこか冷めすぎている感じがして、つい反論したくなるのも事実だった。

 うんこと言われて否定されようが、及川にはもう、非正規の派遣を続けていく道しか残されていないのだ。

「だからって、あいつらの考え方じゃ、結局は自分の首を絞めることにしかなりませんよ。プロレスのタッグマッチってあるじゃないですか。シングルだとパッとしないけど、タッグになると抜群の相性を発揮して、凄いファイトを見せるっていうレスラーがたまにいるの、わかります?」

「あぁ・・・。なんとなく、わかります」

「一緒ですよ。貧困と社畜は、セットじゃなければそこまで大した問題じゃない。待遇が悪いのに、正社員並みに働こうとするから、割に合わないと感じるんです。だったら、変な責任感なんか捨てちゃえばいいのに、あいつらはわざわざ自分の足を鎖で繋ごうとするとするばかりか、それを人にも押し付けてこようとする。とんでもない奴らです。僕の予想が正しければ、あの伊達巻ラインに入ったカレ、一か月も持たずにやめると思いますよ」

「そうですかね」 

「ま、ここは仕事もキツクないし、残業もないし、こっちの希望もなるだけ聞いてくれるいいラインなんで。気楽に、のんびりやっていきましょう」

 寺井の言う通り、笹かまのラインでは、ミスをしても厳しく怒られたりせず、作業が遅くても、定時内に間に合う限りは、煽られるようなことはなかった。

 大丸食品に派遣されて初めて訪れた、安息の日々。できることなら、このラインにずっと腰を落ち着けていたかった。そこで及川は、自分のやる気をアピールするために、ある作業の工程で、独自の動きを取り入れる工夫を見せたのだが、そのとき、今までどんなミスをしても怒らなかった寺井が、初めて不快感を露にした。

「及川さん、なんですかその動きは。そんなの、リーダーにやれって言われましたか?」

「ああ、いえ。これは、俺のオリジナルです」

「教わってないことはやらなくていいんですよ。それで作業の効率が良くなるんだったらいいけど、遅くなってるだけじゃないですか。このペースじゃ、定時に間に合わないですよ」

「いや、でも、こうした方が安全だし、不良が出にくくなるかなと思って」

「僕らには何の得もないでしょ。僕らは大丸の人間じゃなくて、派遣なんですよ。極端な話、不良品が出回って、消費者が食中毒起こして死んだって痛くもかゆくもないし、僕らの責任でもないんだから」

「そんな・・・」

「いいですか及川さん。僕らは職人じゃなくて、作業員なんです。言われたことだけやって、時間内に個数を上げることだけ考えていればいいんです。創意工夫がしたいんだったら、家に帰って、自分の趣味でやってください」

「なん、なん、なん・・・」

 なんとにべもない言い方をする男だろう。確かに、真崎や牛尾のように、派遣の仕事を、あたかも人生の修行の場のように演出するのは行き過ぎだと及川も思うが、かといって寺井の言い分では、派遣の働く意欲が全否定されているようなものではないか。

 もちろん、寺井も同じ立場の派遣労働者だから、見下されている、というのとは違うとわかるのだが、なにか胸がモヤついて仕方がない。

 それに、及川がやる気をアピールしようとするのは、真崎や牛尾のように、ここの仕事に誇りをもっているから、というわけではないのだ。

「俺だって、残業はつらいですけど、給料がカツカツで、まったくなくなっても困るんですよ・・」

「なんでですか?この辺は家賃が安いんだから、残業なんてしなくたって余裕で生活できるでしょ」

 寺井の言う通り、及川が住んでいるのは人口十万規模の地方都市で、都会だと六、七万はする物件に、三万程度の家賃で住むことができる。物価に大差はないが、都会に比べて誘惑が少ない分、思わず羽目を外して散在するリスクは少ない。食事も特別贅沢をしているわけではなく、服装などは、もともと一番無頓着なところである。

 生活費のネックとなっているのは、車である。駅の駐車場代が月に三千円、自宅の駐車場代が五千円、ガソリン代が約五千円。月の手取りのうち、約十パーセントが、車のために消えている計算になる。

 辺鄙な田舎町。だが、車がなければ暮らしが成り立たないほど不便なわけではない。スーパーマーケット、コンビニ、ホームセンター、ファストフード店、書店、レンタルビデオ店。徒歩三十分圏内に、生活に必要な施設は一通り揃っている。通勤で車が必要になるのは、自宅から、送迎バスの来る駅前までの区間、約五キロ程度。車を手放して自転車に切り替えれば、コストも浮き、健康増進にもなって一石二鳥なのは、自分でもよくわかっている。だが・・・。

 昭和四十年代生まれ。自分の世代にとって、車は魂なのだ。武士の刀と同じ。いかに家計を圧迫しているのであれ、車から切り離される生活など考えられない。車に乗れなくなるくらいなら、餓死した方がはるかにマシである。

 出世も嫁も、友達も諦めた。だが、車だけは手放せない。ゴキブリやナメクジと変わらない、こんな自分が生きるただ一つの理由が、車なのだ。

「はっきり言って、僕は及川さんに付き合って残業なんて嫌なんで。もし、どうしてもっていうなら、ほかのラインに直談判して仕事もらってください」

「はあ・・・」

 それができれば、苦労はしない。

 すでに二回もラインを移されて、暗に辞めてくれと言われている立場で、自分から仕事をもらいたいなど、申し出られるはずもない。こんな誰でもできるライン作業ですら、必要ないと切り捨てられる能無しの気持ちは、寺井にはわからないのだ。


                           ☆

 
 寺井の予想通り、期待の新人と評判だった伊達巻ラインの新人は、わずか二週間足らずのうちに辞めてしまった。

「なんででしょうね。優秀そうな人で、真崎さんも、牛尾さんも、大事にしているみたいだったのに・・」

「だからでしょう。バカじゃないから、あのバカどもについていけなかったんですよ。それより聞きました?僕たち二人のうちどちらかが、伊達巻のラインに戻されるって」

 夏も過ぎ去り、おせちの出荷がピークとなる年末に向けて、生産のノルマは徐々にきつくなっている。本来なら、とっくにメンバーが固まっていなければいけない時期で、定着するかどうかもわからない新人を、これから教育している余裕はない。そこで、もともと伊達巻のラインにいて仕事のわかる、笹かまラインの作業者のうちどちらか一人が、伊達巻のラインに戻されることになったのだという。

「僕は絶対嫌ですね。あそこに戻されるんだったら、今すぐここを辞めさせてもらいます」

 朝礼で、笹かまのラインリーダーから会社の指示を聞かされるやいなや、寺井は表情を険しくし、伊達巻のラインに戻ることを徹底的に拒絶する構えを見せた。

「そう。じゃ、仕方ないね。それじゃ及川さん、お願いしてもいいかな」

「俺は・・・・まぁ・・・・戻っても、いいですけど・・・・」

 リーダーに頼まれて引き受ける体を装ったが、寺井が拒否した以上、及川には実質、選択肢はない。すでに二回もラインを移され、リーチがかかっている。おそらく、ここで配置転換を受け入れなければ、作業能力の著しい不足を理由に、契約自体を打ち切られてしまうのだ。

 それに、生活費のことがある。そもそも、及川が今の工場で働こうと思ったのは、求人広告の、月収例二十万~二十五万という文句に惹かれたからであるが、それは社会保険と年金を含む総支給で、残業代も込みの額である。

 同じ工場でも、生産量はラインによってまちまちで、今いる笹かまのラインはほとんど定時で終わってしまうから、月二十日働いたとしても、手取りは十五万にも満たない。いかに居心地がいいとはいえ、いつまでも笹かまのラインにいたのでは、そのうち消費者金融に走らなくてはならなくなりそうだった。

 決定はその日の午前中になされ、さっそく午後の作業から、及川は伊達巻のラインで働くことになった。

「おい。お前、笹かまのラインで、寺井と散々、俺たちの悪口言ってたらしいな。覚悟しとけよ」

 人が足りない状況で、少しは大事にしてくれるだろうという希望もあったのだが、甘かった。

 人の心を慰撫するはずの宗教が、しばしば争いの種になるのは世の常である。これまで、派遣に礼儀とか、滅私奉公といった日本社会的な精神性を一切持ち込ませまいとするドライな哲学を持った寺井と同じラインにいたことで、「異教徒」と見なされてしまったのか、伊達巻ラインに戻った及川に対する真崎と牛尾の苛烈さは、かつての数倍にも及ぶものであった。

「ああ~」

 あまりに精神的なショックが大きいと、自己防衛本能からか、一定期間、記憶が途切れたようになることがある。笹かまのラインから伊達巻のラインに戻された九月から十月の下旬までの一か月半、及川の記憶は定かではない。

 多分、生きる価値がないから死ねとか、親の顔が見てみたいとか、そんなことを何度も言われたのだと思う。もしかしたら、体罰もあったかもしれない。出るところに出れば、いくらか踏んだくれたのかもしれないが、どうでもよかった。

 どうでもいい。生きることも死ぬこともどうでもいいと思えれば、それも自分の成長だと思う。


                           ☆


 十一月の初旬、真崎と牛尾から、いつにも増して酷い罵倒を受けた日の夜。アパートの駐車場に車をとめてから、及川は突然過呼吸になって、まったく動けなくなった。二階までの階段を登っていくのがどうしようもなく億劫で、車から出る気がしなかった。

 過呼吸が収まると、後部座席に移って横になった。昼から何も食べていないが、腹は減っていなかった。

 おそらく、あの工場はもう限界だ。どこか別の働き口を探して、一から出直すしかない。今までもずっと、そうしてきた。だけど、それももう、限界に来ている気がする。

 辞めたところでどうなるものでもない。こんな自分がまともにこなせる仕事など、この世のどこを探してもありはしないのだ。

「俺だって・・・俺だって、頑張ってるんだ」

 努力が足りないと人は言う。だが、違うのだ。自分は頑張って頑張って、この結果なのである。それを周りが理解してくれない。まったく配慮してくれない。

「わからない。人の気持ちがわからない。考えられない」

 愛されない、ということは、能力のなさ以上に、生きづらさへと繋がる。気の利いたジョークも、世辞の一つもいえない。無意識のうちに、人の気持ちを逆なですることばかり言ってしまう。年を重ねるうち、見た目もすっかり醜怪に変貌してしまった。

「俺・・・もう無理だ」

 今思いついたわけじゃない。ずっと前から、考えていたこと。サラ金からできるだけ借金して、一時間六万円もする高級ソープに何度も行ってから、断崖絶壁のガードレールに突っ込んで死ぬ。

 コンビニで握り飯を万引きして、わざと捕まることも考えた。路上生活を始めることも考えた。だが、ムショに入ったところで、ホームレスになったところで、仕事からも、人からも逃げられないと知って諦めた。すべての抑圧から解放されるためには、もう死ぬしかないのだ。

 死。死、死死死死―――。

 やめておこう。仕事ができないくらいで死ぬなんて、やっぱり馬鹿げてる。自分の悩みは、死ぬほどじゃない。ハラキリ、殉死、特攻、大昔から自殺大好きのこの国では、大した悩みじゃなくても死ぬヤツは山ほどいるが、自分はそれほど、死を美徳と捉えていないのだ。

「俺、俺どうしたらいいんだろう・・」

 四十を過ぎたあたりで、考えるのをやめたはずだった。でも、それじゃダメだと気づいた。もう一度、ちゃんと考えてみないと、もう死ぬしかないところまで追いつめられていた。

「どこで道を間違えた?なにを仕事にしていれば、まともに生きることができた・・・?」

 自分が唯一、生きているのを実感できるのは、車を運転しているとき。好きで何十年も乗っている。運転だけは、人並み以上にこなせる自信がある。

 好きを仕事にしなかったのは、仕事で嫌な思いをしたら、好きな車も嫌いになってしまいそうだから。好きな車に乗るために、やりたくもない仕事をするしかなかった。

 どうせ手先の仕事をするなら、最初から大工か何かを目指していればよかった気もする。

 そういえば、山口の父親にもよく言われていた。

 見てくれも悪い。かけっこも遅い。頭もいいとこない。お前のようなヤツは、堅実に手に職をつけ、脇目も振らずに一つのことをやり続けるしかない。 

 若いころは、酷いことをいうオヤジだとばかり思っていた。自分の息子に、何も取り柄がないとわかっているのなら――そんな選択肢の少ない人生しかないと思うのなら、どうして自分を作った?

 父親に反発する形で、なんでもやってやろうと思って社会に出てみたが、結果的には、父親の言う通りになってしまった。

 職人の道――父親の言う通りにしていたら、違った道が開けていたのだろうか。こんな自分でも、脇目も振らず、何か一つのことをずっとやり続けていたら、誰かに必要とされ、一つのところにずっと納まれていただろうか。嫁さんももらって、人間らしい暮らしを送れていただろうか。

 父親の言い方が悪かった。もっと違った勧め方をしてくれたら、素直に職人になっていた。

 ずっと人のせいにし続けるのか?

 七十二歳。年金だけでは足りず、貯金を切り崩しながら生活していた父親は、この夏から警備員として働き始めた。これまでずっと、繋ぎのときには実家を頼っていたが、それも難しくなってきた。

 失業保険、生活保護。仕事が見つからなかったとき、食うための方法だけなら、いくらでもある。しかし、食っていくことと、生きることは違う。

 及川にとっての現実的な死は、車を失うことである。及川にとって、車は武士の刀。もう二万キロも走った中古のオンボロ車。しかし、無銘だろうが錆び付いていようが、刀は刀。車を失うのは、死ぬことと同じ。車を失わないために、できる限り、今の職場にしがみ付いていなければならない。

 無い頭で考えろ。できるだけシンプルに考えろ。

 自分が生きる唯一の理由は車。車に乗り続けるためには、手先の仕事をしなければならない。手先の仕事をするなら職人になれ。

――僕らは職人じゃなく、作業員なんですから。

――あいつらのやっていることは、宗教なんですよ。

 耳に残っている冷めた言葉を、全力で排除しろ。

 宗教の何が悪い。食い詰めて、生き場をなくした人間が最後にすがるものは宗教ではないか。

 お前のように、飄々と世渡りができれば苦労はしない。自分のような不器用な人間がまともに生きていくためには、それなりに不格好な真似をしなければならないのだ。

 寺井の言うことが正論だとしても、非正規のハケンにとっての正論は、非正規のハケンも務まらない自分には当てはまらない。

 ド田舎の、ケチな食品加工工場での人間関係に、あたかもキリストと使途のような崇高な結びつきを求めている男がいる。中学生でもできるライン作業で、本気で自己実現を目指そうとしている男がいる。自分が生きる唯一の道が、宗教であり職人ならば、このタイミングで、あの伊達巻のラインに戻されたことは、神の思し召しではないか。

 伊達巻ラインの連中に気に入られるために、最大限の努力をする。

 師匠。呼び方ひとつで、人の見る目が大きく変わることもある。

 師匠。もしかしたらそれが、自分の人生に、一番必要な存在だったのかもしれない。

「俺、ここで終わりたくない。車、手放したくない・・・」

 身の振り方を決めると、急に食欲が湧いてきた。車を出て部屋に入り、買い置きのカップラーメンを食べて腹が膨れると、すぐに眠気が襲ってきた。万年床に倒れ込み、泥のように眠った。


                            ☆


「真崎師匠!牛尾師匠!私・・・私には、わからないことが沢山あります。どうか、教えてください」

 翌朝、出勤してから、及川が開口一番放った言葉に、真崎と牛尾は呆気に取られていた。

「さあ、仕事を始めましょう!牛尾師匠!この、この作業をこうやるには、こう、これをこうした方がいいでしょうか?」

「なんだよ急に・・。なに言ってるか、わかんねえよ。お前はとにかく、言われた通りにやってくれればいいからさ・・・」

 及川の豹変に、真崎と牛尾は引き気味であったが、それが二、三日も続くと、次第にその熱意にほだされていったようだった。

「信さん。どうも、こいつの決意は本物みたいです。最初は期待してなかったんですが、どうやらモノになりそうですよ。いっちょ俺たちで、鍛えてやりましょうや」

 その日から、順調・・といえるのかはわからないが、少なくとも、及川の人生には今までなかった、暑苦しくもハリのある日々が始まった。
 
「なあ及川さん。こうやって理屈じゃなく、泥のようになって働くってのも、結構いいもんだろ」

「え、ええ・・・そうですね」

 真崎の言う通り、無心に汗を流すというのも、悪くはなかった。

 これまでの自分は、ない頭で余計なことを考えすぎていたような気がする。人ひとりが生きる上で必要な情報など、たかが知れている。ネットもテレビもなかった時代でも、人はちゃんと生きていたではないか。

 必要以上に情報を集めても、使いこなす頭がなければ、ただの娯楽にしかならない。井の中の蛙――視野を狭くし、目の前のことだけに夢中になる生き方は、自分にうまくハマっているかもしれなかった。

「俺は及川さんや牛尾くんと、このラインで一緒になれたことは、けして偶然なんかじゃないと思ってる。辛いことがあったら、何でも相談してくれ。ここが及川さんの居場所だから」

 師匠――真崎と牛尾のことを、全面的に好きになれたわけではない。いつまで経っても馴染めないのが、いちいち芝居がかった言動である。

「俺を師匠と呼ぶからには、及川さんも、ようやくわかったのかな。この職場で誰についていったらいいか、誰を目標にしたらいいかが」

「及川ぁ、お前最近仕事のとき、俺のことじーっと見てるよな。俺の動き、参考にしようと思ってるんだろ?」

 いかにも他人のことを思っているようだが、彼らが結局言いたいのは、「俺を見てくれ」なのである。承認欲求が悪いのではなく、それが透けて見えるのが嫌なのだ。

「及川さんも俺たちみたいに、この工場で仕事ができると認められれば、どんどん人の輪が広がっていくぞ。俺たちが仲良くしている社員さんたちは、みんなすごい人たちばかりだ。性格もあるから、みんなと話せとは言わないけど、俺たちとの関係は大事にした方がいいぞ」

 本当に交友関係が充実している人間は、それを誇示したりしない。いかにも対等のように言っているが、実際には社員にゴマをすっているだけで、寺井の言うように、いいように利用されているだけなのだろう。彼らも本当は、寂しい人間なのだ。そのように思えば、多少の不快感は我慢できた。

 似たもの同士の割に――似た者同士だからそうなるのかもしれないが、真崎と牛尾はプライベートでの交流はなく、職場の中でも、一定の距離感が存在するようだった。彼らが常に傍に置きたがるのは、もっぱら、確固とした自分を持っていない、自分の好きな色に染められる人間である。

「及川ぁ。お前、今度の水曜空いてるか?」

「え?ええ。まあ・・・」

「そうか。じゃあ、ちょっと俺に付き合えよ。お前に、職場にいるときとは、また一味違う俺を見せるからよ」

 プライベートの誘いを受けたのは思い出せないほど久々のことだったが、なぜか、嫌な予感しかしなかった。あとでそれが、牛尾とパチンコを一緒に打つ誘いだったときいて、嫌な予感は当たっていたことがわかった。

                             ☆


 その牛尾が、十一月の半ばに入ったころ、突然、風邪でダウンした。朝、及川が待機所に顔を出したとき、ロングソファに牛尾が横たわり、みんなに自分の苦し気な姿を見せつけるように、うんうん唸っていたのである。

「そんな状態じゃ、とても仕事は無理だろ。誰かに言って、家まで車で送っていかせるから」

「いえ、そんなことしていただくわけにはいきません。タクシーでも呼んで、一人で帰ります。会社に迷惑はかけませんから」

 総務の部長に心配され、声をかけられる牛尾は、どこか誇らしげである。

 立つこともままならないほど具合が悪いのなら、朝、家を出る前の段階で異変に気付いていただろうに、わざわざ衛生面が命の食品加工工場に、風邪の菌をばら撒きにやってくるとは。会社に無駄なやる気をアピールするためのパフォーマンスであることは、及川にもお見通しだった。

「ほんとにバカですね、あのラリゴは。バカのくせに風邪引いてんじゃねえよ」

 倒れた牛尾の代わりに、伊達巻のラインに応援に行かされた寺井は不満たらたらである。

 それでも、牛尾が帰ってくるまでという条件で、我慢して働いていた寺井がとうとう爆発したのが、朝のミーティングで、真崎がノルマの遅れを取り戻すため、昼休みを十五分削って「サービス昼残」をするのを決めたときのことだった。

「別に、あなたがやるのは勝手ですけど、僕は関係ないですからね。時間外手当が出るならまだしも、無給で働くなんて、どうかしてますよ」

「そういうわけにはいかん。前が止まれば、後ろに材料が回らなくなるんだから。いまは伊達巻の作業者なんだから、やってもらわないと困るよ。喋っている時間ももったいないから、とにかくやってくれ」

 寺井は真崎に食ってかかったが、真崎は強気の態度を崩さず、話し合いにも応じなかった。

 昼休みに入ると、寺井は持ち場である前工程を離れ、中工程の及川のところにやってきて、ともに真崎に反抗することを持ちかけてきた。

「あのクソ野郎、正社員の話が出てるからって、上にアピールしようと張り切りやがって。誰のおかげだと思ってやがる。及川さんは納得してるんですか?嫌だったら、一緒に派遣会社に報告しましょうよ。僕はラリゴが戻ってきたら抜けられるけど、及川さんはずっと真崎のオナニーに付き合わなきゃいけないんだから」

 真崎が、正社員に?ならば、真崎に気に入られれば、この工場での自分の立場は保障される。及川は、自分を味方だと思ってボヤく寺井の前に、ずいと歩み寄った。

「文句があるなら、やめてしまえ・・・お前の代わりなど、いくらでもいる・・」

 よもや、及川に上から目線でモノを言われるとは思っていなかった寺井が目を丸くした。

 虎の威を借る狐の快感。寺井は真崎を虎とは思っていないだろうが、少なくとも、いま、この伊達巻のラインの中では、正義は自分にあるのである。

「ああ。及川さん、そっち行っちゃったんですね」

「やる気がないなら、帰っていいぞ。理屈ばっかりで、使い物にならないヤツはいらないからな・・・」

「はいはい、わかりましたよ」

 及川の言葉が効いたのかわからないが、寺井は苦笑して前工程に戻り、ほかのラインの連中が続々と食堂に引き上げていく中、黙々と作業に取り組み始めた。

 それからは目立ったトラブルもなく、寺井も牛尾の穴をよく埋めてくれているようだったが、寺井が来てから四日目のこと、問題となった「サービス昼残」の真っ最中に、事件が起きた。

 産休で工場を休んでいた、真崎の妻、志保。非正規の派遣社員で、若くもないのに子供なんか作って、これからどうするんだろうと思っていた志保が、及川が担当する中工程の機械に歩み寄ると、突然、胸元をはだけ、パンパンにはった乳房――ちょっと垂れているけど、ミルクが詰まって、痛そうなくらいはった乳房を、ポロンと露出させたのである。

 女の乳。風俗以外で初めてみた、女の生乳。乳、乳、チチチチチチチチチ・・・。おっぱいだけでも刺激が強いのに、乳首の先から、真っ白な母乳がぴゅーっと噴き出して、伊達巻の上にかかっちゃって・・・。

 人はあまりに強いショックを受けると、一定期間、記憶が途切れたようになってしまうことがある。でも、これはショックの質が違う。今、目の前で起きてる光景は、何がなんでも目に焼き付けておかなくてはならない。尊敬する師匠の妻の乳。だが、関係ない。もっと間近で見てみたい。できれば、どさくさに紛れて、揉んじゃったりなんかしてみたい。

 優柔不断は、及川の重大な欠点である。及川が志保の乳に手を出せず、うじうじしているうちに、夫の真崎がやってきて、妻、志保のはだけた胸を隠すと、中工程の機械を止めて、志保を休憩室へ押しやってしまった。もう二度とみられないかもしれない、貴重な生おっぱいを、持っていかれてしまった・・。

 作業場に帰ってきた真崎は、志保のミルクがかかったとおぼしき材料を片っ端から取り除き、廃棄のゴミ箱に捨て始めた。すでに昼休みに入ってから三十分が経過しており、寺井はとっくに食堂に引き上げていた。

「あ。あ。真崎師匠。だ、大丈夫なんでしょうか」

「わからん。さすがに、昼から流した分、全部廃棄にするわけにはいかないからな。あとはもう、幸運を祈るしか・・・。及川さんにも迷惑をかけて申し訳ないが、この件は見なかったことにしてくれないか。俺だけじゃなく、工場で働くみんなのために、頼む、どうかそうしてほしい」

 工場で生産された製品は、出荷前にもう一度検査を受け、異物や菌が混入していないかが確認される。成分から、伊達巻に人の母乳がかけられていたかどうかまで分かるとは思えないが、もし、コトが公になれば、真崎の正社員の話がなくなることは明白だった。

 検査の段階で問題が発覚すればまだいい方で、もし、不良品が市場に出回ってからすべてが明らかとなった場合、事件は全国ニュースで大きく取り上げられ、工場は最悪、閉鎖となる。

 もはや、及川の関知できるレベルを超えている。真崎の言う通り、すべて忘れ、なかったことにして、今まで通り、普通に勤務を続けるしかないようだった。

「お、おい、寺井。もっとしっかりやれ・・。牛尾師匠は、そんなんじゃなかったぞ・・」

「はいはい、叱咤激励ありがとうございます、及川先生」

 志保の狂態について、寺井は何かを知っている様子だったが、敢えて詮索はしないことに決めた。生きる上で必要のない余計なことは、知らないに限るのである。

「及川さん、最近絶好調みたいですね~。はんぺんのラインのときとは大違い。よっぽど、真崎さんと牛尾さんが大好きなんですね。ラブラブなんですね~」

 及川が伊達巻のラインに受け入れられたことは、岡本涼子などから見ると、賞賛ではなく、むしろおかしなことのようだったが、嘲笑を受けたところで、痛くもかゆくもなかった。

「お、おお、涼子殿。あ、あの頃は、お主とは口を利くのもおこがましいと思っていたが、い、今は同じ仕事に誇りを持つ者として、対等の立場だ・・・。お、お主のラインには、負けませんぞ・・・」

 及川のその一言で、嫌味を言いに来たらしい涼子は、及川を、全裸で歩き回る変質者を見るような目で見て去っていった。

 バカな小娘。自分がやられっぱなしで何もできない無能者だと思ったら大間違いだ。お前がいくら見下そうが、こっちは、脱衣所から密かにくすねてきた、お前の使用済み衛生服を持ち帰って、夜ごとの慰みものにしているのだ。 


                            ☆


 志保の一件があってから、とくに不良が出たという報告もなく、何事もなかったかのように、時は過ぎていった。強いて変わったことを上げるとしたら、かつてはんぺんのラインで一緒だった、塚田の様子がおかしくなっていったことだろうか。

「おう、たけおか。うんうん。今?元気でやってるよ。お前の方こそどうなの?そうか。じゃ、今度、久々に会ってみるか」

 塚田はいつも待機所や食堂で、誰かに電話をしているようなのだが、それが傍目から見ても明らかに、通話状態になっていないスマホに話しかけているだけの、嘘の電話とわかるのである。

 及川も、近頃の塚田が、かつて仲良しだった、寺井や村上、あるいは真崎たちと、うまくいかなくなっているのは知っていた。真崎との関係に関しては、どうやら自分が一つの原因らしいのだが・・。

 嘘電話をする理由は、おそらく、自分が孤独ではない、自分を心配してくれる人は何人もいるんだと、周囲に、そして自分自身に証明することが目的だろう。塚田の電話が嘘であることは、及川でさえ気づくほどバレバレなのだが、みんな、敢えて気づかないフリをしてあげているようだった。

「あ。林常務。ええ、元気にやってますよ。え?こんど、正社員の枠がひとつ空くから、こっちに来ないかって?そ、そうですか。でも、今の工場も、これから繁忙期で大変になるもんで、自分がいないとラインがまずいことになるんですよ。はい。はい・・考えてみます」

 まだ若いし、派遣でいいなら仕事はいくらでもあるのだから、こんな、親が見たら泣いてしまうような恥ずかしいパフォーマンスをするくらいなら、さっさと辞めて次に行けばいいではないかと第三者は思ってしまうのだが、工場の友達関係をモチベーションにしていたらしい塚田には、引くに引けない事情があるのかもしれない。

 本人が聞いたら怒るだろうが、今の塚田の姿に、及川はどこか親近感を覚えていた。

 唯一の生きがい、車を守るために、尊敬してもいない男を師匠などと呼んで。言われたことだけやればいいライン作業で、職人の真似事をして。ただの同僚のご機嫌を取るために、行きたくもないパチンコに付き合う約束をして。

 こんな工場にしがみ付くために――生きるために自分を捨てて、本当の自分が何なのかわからなくなっている。今の塚田と自分は、よく似ている。

 いつまでこれが続くんだろう。俺たちはいったい、どこに行くんだろう。


                             ☆


「牛尾師匠・・・・あの、私、なにかしましたしたでしょうか・・」

 倒れた翌週から、勤務に無事復帰した牛尾は、かなりご機嫌斜めな様子だった。

「・・・・お前、待機所で俺が倒れてるとき、全然心配してなさそうだったよな。声もかけてこないし。お前あのとき、俺があのまま死ねばいいと思ってただろ?」

 牛尾の面倒くささは呆れるほどだったが、「弟子入り」から一か月あまりで、及川もこういう場面の切り抜け方を学習している。

「いえ、あの、その、普段はキャップを被って、衛生服を着ているので、あのときは、誰かわからなかったんですよ。あとで真崎さんから詳しいお話を聞いて、すごく心配しましたよ」

 男気を売りにする真崎と牛尾の下で培われたのは、言い訳のうまさだけであった。

「・・・まあいい。ところで、お前、今度の予定は覚えているか?」

 牛尾と一緒に、パチンコ屋に行くという予定のことである。

「あ、あの牛尾師匠・・。自分はパチンコは数えるほどしかやったことがありませんし、今月もカツカツなので、一円ぱちんこで勝負をしたいんですが・・・」

「なに?お前本気で言ってる?一ぱちなんて、暇なおばさんがやるヤツだろうが。まあいい。等価で勝負に出る前に、一ぱちで徐々に勝負勘を養っておくというのもありだろう。じゃあ、今週の水曜日な」

 本当は、適当な理由をつけて逃げたかったのだが、ゴリラを怒らせると後が怖い。この男の胴間声は、耳元でカンカン鐘が鳴らされたように響くのだ。

「及川さん、牛尾くんとパチスロに行くんだって?いいなあ、大事にされてるなあ」

 他人事だと思って、真崎が呑気に言う。そんなにいいと思うなら、代わりに行ってほしかった。それか、牛尾にもう一度、熱を出して倒れて欲しかった。

 熱出て倒れろ、熱出て倒れろ、熱出て倒れろ――。

 及川の祈りもむなしく、牛尾はピンピンしたまま、当日の朝はやってきてしまった。
                         
                          ☆

「あ~、激熱予告外して、お前も引き運が弱いねえ」

 パチンコを打ち始めてから数時間、食事から帰ってきた牛尾が、及川の傍を通りがかって言った。
 
 打つ台も離れ、昼も別々。これで一緒に行く意味があるとは思えないのだが、牛尾にとっては、とにかく同じ日に、同じ予定を消化したという事実が重要らしい。

「ところでさ・・・。お前、ヤニは吸わねえのか?」

「は?」

「前から気になってたんだけどよ。お前、タバコ吸わねえから、十分休憩のとき、喫煙所にいる俺と信さんと喋れねえだろ。今時タバコなんて、時代の流れに逆らうから、無理に勧めるわけじゃねえけど・・・。お前は、それでいいのか?」

 金もかかるし、時代の流れにも逆らう。おまけにみっともないし、周りに迷惑もかける。敢えてそれをすることで、連帯感を確かめ合おうとする人種がいる。牛尾の思考は、一昔前の暴走族と大差ない。

「か・・買ってきます」

 断れば、陰湿なイジメが待っている。牛尾は及川の自主性に任せる風に問いかけているが、事実上、選択肢はないのだ。

 牛尾からタスポを借りた及川は、自動販売機の前に立って愕然とした。いまは国産の安いタバコでも三百円近く、海外産となると四百円を超す。自分が二十歳のときに比べ、倍近くも増額している。手取り十五万の派遣労働者が、こんな価格で、依存性もある嗜好品に手を出すのは、狂気の沙汰としか思えなかった。

 タバコを吹かしたせいでべとついた口の中を流すのに、飲み物が必要になる。飲み物だけでは腹の中がガポガポになって、お菓子が食べたくなる。バカモノ同士が連帯感を確かめ合うために、金がどんどん消えていく。

 頃合いを見計らって切り上げなくては、破産してしまう。及川は、大当たりを二、三度引いて出した玉を使い果たしたところで、台からカードを抜き、パチスロのコーナーで渋い顔をしている牛尾のところに向かった。

「あ、あの牛尾師匠・・・。自分、予算を使い果たしてしまいましたので、今日はこれでお暇させていただいて構わないでしょうか。明日の勤務のため、少しでも休んでおきたいのもありますし・・」

「あ?まだ昼過ぎじゃねーか。まあいい。初めはこんなもんだろ。じゃあ、帰ってゆっくりしとけ」

 牛尾から解放されて、スバル・プレオに乗り込んだ及川は、恐る恐る、財布の中身を確かめてみた。千円札が二枚、百円硬貨が三枚。十円、五円、一円がたくさん・・・。持ち寄った予算の五千円から、どうにかこれだけの損害で収まった。

 しかし、牛尾の口ぶりでは、おそらくこれから何度も、パチンコ屋に連れていかれることになるのだろう。たまには勝つこともあるかもしれないが、長い目でみれば負けが込んでいくはずだ。

 毎週水曜日、パチンコ屋に行かなくてはならないとして、月単位でいったいどれだけ金が消えていく?大損をしてしまったら、それを取り返すために、どれだけ働かなくてはならない?

 真崎に言われた通り、無心になって働くのも、意外といいものだと思ったのは事実だった。しかし、それは会社に拘束されている時間だけの神話なのだ。帰りにコンビニに寄って、ATMの預金残高をみれば、たちまち現実に引き戻される。

 こんなことをして、本当に車を守り抜けるのだろうか。しばしの間、倹約で乗り切り、新しい仕事に移った方がいい気がしてきた。でも、どうせ次の職場でも、同じようなことの繰り返しになるのなら、せっかく受け入れられている今の環境を大事にした方がいい気もする。

 頭がごちゃごちゃする。考えなくちゃいけないのに、考えられない。考えたくない、考えられない、考えたくない・・・。

「ああ~」

 今日はもう、これから頭も体も使わず、ずっと、布団に包まっていよう。その方が、腹も空かなくて済む。

 これでいいのだ。たぶん、これでいいのだ。少なくとも、これまでよりはずっと、マシなのだから・・・。


 

第二章 201×年 九月~十一月 基地外シンドローム




 見えない軍隊が、また押し寄せてきた。


 十年前とは比べ物にならないほど、強大に膨れ上がった軍隊が――。



 LINEでのやらかしはまったく酷かったが、塚田が送った、あの独りよがりなメッセージを、寺井は大人の対応で流してくれた。その後、寺井はあの件を蒸し返したりもしなかったし、周りの人に言いふらしたりもしなかった。

 周りの環境も、中学のころとは違っている。自分より年上で、ずっと社会経験のある人は、十年間、無菌室のような部屋に閉じこもって暮らしてきた塚田と違い、変に潔癖ではない。塚田のような若造が、ちょっとくらい痛いメッセージを送ったところで、過剰な反応にはならないものだ。

 だから塚田も気にすることなく、自然体で今まで通りに過ごしていれば良かったのだが、一度狂い始めた自分の歯車を修正する作業は、容易ではなかった。あのやらかし以来、どうも「基地内」のみんなと話すとき、肩の力が入りすぎて空回りに終わってしまったり、逆に、おっかなびっくりになり過ぎて、うまく自分をアピールできない、といったことが増えていった。

 あのLINEでのやらかし以来、寺井だけでなく、「基地内」みんなとの関係が、塚田にとって、面白くない状況になり始めていったのである。

「信一さん。志保さん、とうとう赤ちゃん生まれたんだってね!今週末、会いにいっていいかな。僕にも、抱かせてくれるよね?」

 十月の半ば、産休中の志保が、予定日より早く、元気な男の子を産んだという連絡が入った。

 新たな生命の誕生。喜ばしいことのはずなのだが、信一はどこか浮かない顔で、自分からはけして、赤ん坊の話をしようとしない。

 信一が志保の出産を、手放しで喜んではいないのは明らかだったが、赤ん坊が生まれたという大ニュースを話題にしないわけにもいかない。塚田としては、何の悪気もない、純粋な祝福のつもりだった。

「ねえ信一さん。こんどの休み、病院にいってもいいかな」

「・・・・・・・」

 このあたりで、信一の気持ちを察してやればよかったと思う。塚田も、まったく空気が読めなかったわけではないのだが、それ以上に塚田は、志保と、産まれた赤ん坊に会いに行きたかった。好きな信一も一緒に、幸せの輪に包まれたかった。

 己の我を通してしまったせいで、大事な信一との間に、罅が入ってしまった。

「赤ちゃんの名前、信一さんから一字とって、信也くんっていうんだよね。いい名前だね」

「うるさいんだよ!赤ん坊のことは、言うんじゃない!」

 これまで、見たことのない信一の剣幕に、塚田はたじろいだ。いくら空気を読まなかったといっても、目出度いことを話題にしたはずなのに、なぜこれほど怒られねばならないのか理解できず、戸惑った。

「ご、ごめんなさい。赤ちゃんのことを言われるのが、そんなに嫌だとは知らなかったんだ・・」

「いや・・。こっちの方こそ、すまなかった。ちょっと、疲れてたんだ。本当に、悪かった。気にしないでくれ・・」

 信一はハッとして謝ってくれたが、これ以来、塚田はどうにも、信一に自分からは話しかけづらくなってしまった。信一の方も、連日の激務の影響もあってか口が重くなり、難しい顔をしてため息をついてばかりということが増え、志保がいなくなって、信一と二人きりで過ごすようになったランチタイムで、二人の会話は続かなくなっていった。

「すいません、俺も一緒にいいっすかね?これまで昼一緒だった武田さんが、最近、夜勤に移っちゃったもんで・・・」

 塚田と信一が盛り上がっていないのを見てか、信一と同じ伊達巻ラインの牛尾が、食事の席に割り込んでくるようになったことが、塚田と信一の気まずさに追い打ちをかけた。

「信さ~ん、昨日バイパス沿いのホールでモンスターハンギング4打ったら、五万勝っちゃいましたよ」

「へえ。モンスターハンギング、4まで出てたんだぁ。いいなあ、俺も打ちたいなあ」

 信一も独身時代にはスロットにハマっていたクチのようで、牛尾と話すときは、塚田と話しているよりも楽しそうである。

 胸の奥にジワリと湧き上がってくる、酸味の強い感情――嫉妬。

 これまで自分に構ってくれた信一を、牛尾に取られてしまったのが悔しかった。それ以上に、蚊帳の外に置かれた塚田を、信一がまるで気遣ってくれないのが辛かった。

――哲太。俺はお前を、実の息子か、年の離れた弟のように思っている。だからお前も、俺になんでも相談してこい。俺がそう言ってたって、寺井にも教えてやれ。

 塚田が何度目かに信一と行った食事会で、信一がかけてくれた言葉。

 少し前まで、自分の家族以外に、自分を必要としてくれる人はいないと思っていた塚田は、信一の言葉がうれしかった。あのときの言葉を、塚田はずっと信じていたのに、いまの信一は、塚田にまるで無関心かのようである。

 嫉妬――いきなり現れ、塚田を悩ませるようになった厄介な感情と、塚田はまともに向き合うのを避けた。

 塚田は、信一と仲良くできなくなって寂しいから、信一にこれまで以上に積極的に話しかけたり、自分から遊びに誘ったりするのではなく、自分は一人じゃないんだ、信一が構ってくれなくても平気なんだと自分に言い聞かせ、周囲にもそうアピールしようとした。幸か不幸か、現代社会には、塚田の目的にピッタリなツールがあった。

 信一と牛尾が楽しそうに話している横で、塚田はスマホの画面をずっとのぞき込む。スマホを見ていれば、自分は誰かと繋がっていると、周囲に思わせられる。誰かに思わせることができれば、自分にも言い聞かせられる。

 むろん、亀の子のように守っているだけで、自分から攻めていかないのでは、状況は好転するはずがない。

 十一月に入ると、信一とランチを一緒に取るのは、完全に絶望的となった。塚田から信一を奪った牛尾に加えて、同じ伊達巻ラインの及川までもが、信一と同じテーブルで食事を取るようなったからである。
 
「及川さん、最近気合入ってるじゃないか。作業はまだまだだけど、気合さえあれば、社員さんにも、この人は必要な人だと見てもらえる。年末までその調子でいけば、来年もここにいられるぞ」

「真崎師匠!師匠・・・ありがとう、ございます」

 信じられないことに、「基地外」及川は、いつの間にか伊達巻のラインに馴染んでいた。及川は同年代の信一や、年下の牛尾を師匠などと呼び、仕事だけでなく、生活のことや、人生全般における心構えについても、指導のようなものを仰いでいるようである。

「牛尾師匠!私はラインでの動きをよくするために、今日から食う米の量を減らそうと思います。炭水化物は、太る原因ですから」

「その心がけは立派だが、飯はちゃんと食っておけ。身体を絞れば動きのキレは良くなるが、無理な減量はスタミナを奪う。心配しなくても、これから年末に向けてますます仕事はキツくなっていくから、体重は勝手に落ちていくさ」

 背伸びした高校生のような、変な会話。塚田も工場の仕事には誇りを持っているが、いくらなんでも、食品製造のライン作業者が、プロのアスリートみたいな話をしているのはおかしいことくらいはわかる。

 いくら話し相手が欲しくても、「基地外」とランチタイムを過ごすなどはあり得ない。とうとう塚田は、信一と離れたテーブルで食事を取るようになってしまった。                             

 食堂という大海原で、ゴムボートから投げ出されてしまった塚田に、救助の手を差し伸べてくれる人はいなかった。

 信一と気まずくなったのと時を同じくして、凛が突然、誰にも、何の連絡もなく派遣会社を辞めてしまった。派遣スタッフが「バックレ」てしまうこと自体はよくあることで、寂しくはあるものの、ことさら驚きはしなかった。

 塚田が気になっているのは、凛がいなくなったころから、凛と一番仲良しだった村上までもが、どこかおかしくなってしまったことである。

 村上はもともと、百七十五センチある塚田より頭半分小さいが、体重は八十キロを超す肥満体型であった。それが、凛がいなくなった十月の半ばころからみるみる痩せて、十一月が終わりに差し掛かったころには、待機室の体重計で測って、六十四キロにまで落ちてしまったのである。

「ムラさん大丈夫?どこか、具合が悪いんじゃないの?」

「大丈夫だよ。ダイエットが、予想以上にうまくいったんだ。だから、心配しないで」

 ただ痩せたというだけなら、そこまで心配はしない。

 不気味なことに、村上は身体が萎んでいきながら、表情は逆に、生き生きとしていくのである。目は爛々と光って、肌はギトギトと脂ぎっていく。時々、意味もなくにやけているときもある。どこか、これまで村上に付きまとっていた「基地外」端本に似ていくようで、塚田はかつて、凛と村上を守るために、端本を追い出す算段を立てていたことなど、すっかり忘れていた。

 凛はそもそもいなくなってしまい、村上は工場ではまったく食べないため、食事の席には誘えない。

 寺井は寺井で、「基地外」端本と同じ粉ものの倉庫で働いている、七年間同棲中の彼女、希美と食事をとっている。真崎夫婦のようにむこうから誘ってくれたわけでもないのに、事実上の夫婦の水入らずの時間に割って入る図々しさは、塚田にはなかった。

                                ☆

 寺井、村上とは、午前十時と午後三時に挟まれる十分休憩の時間も、うまくいかなくなっていた。
               
「日本シリーズ第四戦での、マカッチェンの三打席目でのポップフライはまずかったよな。あそこでせめて右に打って、ランナーを三塁まで進めていれば、一点入ってたかもしれないのに。あのプレーがシリーズのターニングポイントだったよね」

「いや、やっぱり第五戦の梅宮のスリーランでしょ。梅宮はほんとパワーついたよね。地道にウェイトに取り組んできた成果が出始めてる。やっぱりこれからの野球は筋肉だよ」

 野山は紅く染まり、肌寒さも覚える季節になったというのに、寺井と村上は、相変わらず、プロ野球の話ばかりで盛り上がっていた。

 そもそも野球に興味のない塚田は、これまでプロ野球にはシーズンなんてものがあることも知らず、プロ野球の試合は一年中やっているものだと思っていたのだが、そうではなく、十一月から二月までは、プロ野球は休みになるのだという。

 なのに寺井と村上は、十一月に入ってからも、塚田の存在など、まるで眼中にないかのように、何が面白いのかわからない、マッチョなおじさんが、ボールを投げて棒っきれを振り回すスポーツの話ばかりしているのである。

「村上さん、川村がFAでタイタンズに移籍したらしいね。これでクリンナップを固定できるようになったし、来年は優勝争いに加わるんじゃないの?」

「そこまで甘くないよ。投手陣の整備ができてないし、川村は三部門こそ見栄えはいいけど、四球が少なく三振が多いフリースインガーだから、指標的にはそれほど良い選手じゃないからね。あれに億の金払うくらいだったら、先発ローテの三、四番手クラスを取ってきてくれた方が・・・」
 
 何を言っているのか、まったくわけがわからない。まるで、外国語の会話を聞いているようである。

 凛には申し訳ないのだが、塚田には、凛がいなくなることで、十分休憩の時間、寺井と村上がプロ野球の話をやめてくれるのではないか、という期待があった。一人メンツが減れば、必然、グループの中での自分の相対的価値が上がり、自分に話が振られる機会も増えるだろうと思っていた。

 塚田のあては、見事に外れた。プロ野球のシーズンが終わろうが、凛がいなくなろうが、「プロ野球ブーム」は、まったく終息の兆しを見せなかったのである。

 塚田には、寺井や村上、いなくなった凛らがなぜ、自分の身の回り以外のことで、こんなにも盛り上がれるのかが、理解できなかった。みんなで集まって、ボーリングやビリヤードをするのが楽しいのはわかるが、自分の生活になんの関わりもないプロ野球チームの試合を観ただけで、なぜそこまで一喜一憂できる?

 別に、自分が野球のことを知らず、話に参加できないから言うわけではない。有名選手の名前を覚えたり、基本的なルールを勉強したりと、みんなについていくための努力をしない怠慢を正当化しているわけでもない。本当に、塚田には、食品工場の作業員である寺井、村上、凛が、彼らにとって他人事に過ぎないプロ野球の話でなぜそんなに盛り上がれるのか、まったくわからないのだ。

 一度も話したことのないマッチョなおじさんがホームランを打ったことを話してなんになる?マッチョなおじさんのホームラン数を語り合うより、今日のラインの生産数を話し合った方が、よっぽど有意義じゃないか。そう思うことの、何が間違っている?

「小学校のころにやったゲームがさ・・・」

「新しく入ったブラジルの子、おっぱいおっきくない?」

 寺井と村上も、四六時中、野球の話ばかりしているわけではない。ときには、自分でも参加できそうな話題もある。しかし、蚊帳の外に置かれた期間が長くなりすぎると、いざチャンスが訪れても、うまく話しに入れなくなってしまう。タイミングがまったく掴めなくなってしまうのだ。

「今日からムラさん、新しい仕事を覚えるんだってね。大変そうだね」

「・・・・」

「赤ちゃんとオカマンは、気持ち悪いね。はやく死ねばいいのにね」

「・・・・・」

 といった具合に、塚田が久々に二人の会話に加わろうとすると、空気が変になってしまう。それを気にして、ますます下手なことを口に出来なくなるという悪循環。

 こういうときは、寺井がそれこそバラエティ番組の司会者のように、自分に話を振ってくれなければどうしようもないのだが、次、それを要求したら、塚田の職場生活は終わってしまう。

 会話と同じくらいに、塚田を悩ませていることがある。寺井と村上が、志保が産休に入った日――塚田が一生の恥となる「やらかし」をしてしまった日、塚田が持ってきたクッキーに、十一月になっても、まったく手を付けていないことである。

 それまで塚田は、「基地内」グループのみんなに「たべもの」を持ってくるとき、いつもバラ売りのものを買って配っていたのだが、あのときはたまたま、箱詰めのものを提供していた。

 クッキーは全部で十二個あり、一回の休憩では食べ終わらないのは仕方がない。そのうち誰かがつまんでいくだろうと、塚田は、いつも寺井たちと取り囲むテーブルの上に、余ったクッキーを置いておいたのだが、これを寺井と村上が、ずっと無視し続けているのである。

 クッキーの数が一向に減らないのを見て、塚田は疑心暗鬼に襲われるようになった。

 もしかして、これまで自分が、みんなに「たべもの」を配っていたのは、実はただの、有難迷惑だったのではないか?みんなは、「たべもの」で存在感を示そうとしている自分に配慮して、食べたくもないお菓子を、嫌々食べてくれていただけだったのではないか?

 塚田にも意地というものがあり、自分が正しいと信じてやってきたことを、簡単に間違いだったとは認めたくない。寺井と村上がひとつでも手を付けるまで、塚田は自分でクッキーを消化したり、クッキーの箱を持ちかえることもできなくなってしまった。

 バタークッキー一ダース入りの長方形の紙箱が、段々、巨大な岩の塊のような存在感を放っているように見えてきた。自分で持ってきたクッキーの箱に、プレッシャーをかけられている。よかれと思ってやったことまで裏目に出て、塚田は待機所に自分の居場所がなくなっていくのを感じていた。

 ランチタイムと同様、十分休憩の時間も、塚田はスマホとにらめっこするだけで終わることが増えていた。

 スマホを眺めていれば、自分が孤独でないことを証明できる。LINEやメールで、誰かと繋がっていると、思わせることができる。誰かに思わせることができれば、自分でも信じることができるようになる。  

 職場でそのザマでは、当然、「基地内」のみんなと、プライベートで交流を持つ機会などあるはずもない。

 忙しさがピークを迎える年末が近づき、はんぺんのラインでは、毎日二時間~三時間の残業が始まり、定時で上がることの多い寺井と、河川敷で酒飲みをする習慣はなくなってしまった。

 村上は拒食症になってしまったかのように食べる姿をみせず、日に日に痩せこけていく。とてもではないが、外食や遊びに誘える状態ではない。

 凛は工場を突然バックレて以来、一番仲良しだった村上とも連絡がつかなくなっている。今はもう、この辺りに住んでいるのかどうかもわからない。

 すでに退院して自宅で育児に追われている志保からは、いつでも赤ん坊を抱きに来ていいと言われているのだが、いまの塚田は、赤ん坊の父親である、信一と気まずくなってしまっている。そんなつもりはさらさらないが、信一のいないところで、人妻である志保と会うのは躊躇われた。

 あれほど仲が良く、一体感があったはずのみんなのことが、段々よくわからなくなっていく。

 スマホのデータフォルダに保存されている画像――信一を除く五人でボーリングに行ったときに撮影した集合写真と、寺井を除く五人で、高原にドライブに出かけたときの集合写真。楽しかった思い出。塚田の宝。一生の宝になるはずだと、思っていた。

 築き上げ、大切にしてきたものが、少しずつ崩れ去っていっているのを知りながら、塚田はただ、スマホの画面を眺めていることしかできなかった。

                         
                            ☆
         

「よう塚田くん。今日も残業?」

 十一月のある日、定時のチャイムが鳴り、これから残業に備えて、二十分間の休憩を取るため、棒のようになった足を引きずって食堂に向かおうとした塚田を、寺井が珍しく呼び止めてきた。

「う、うん。寺井さんは、定時で上がるの?」

 寺井から話しかけられたのは、思い出せないほど久々のこと。待ち望んでいた瞬間だったはずなのに、どういうわけか、塚田には嫌な予感しかしなかった。

「ああ。今週は二日間も協力したんだから、もう十分だろ」

 毎日、塚田が帰ったあとも、日付が変わる直前まで残業をしている社員たちが、うつろな目をして通路を横切っていく中、寺井が実に晴れやかな表情、爽やかな声音で言ってのけた。

「今週あと三日間、定時で帰っちゃって、大丈夫なの?ラインの生産数、目標に届いてないんじゃないの・・?」

 塚田が、少し咎める口調で言うと、寺井が侮蔑したような笑みを浮かべた。

「なんでそんなこと、派遣が気にするの?社員がその分残業するんだから、帰りたかったら帰っちゃえばいいじゃん」

「でも、それで納期を割っちゃったらどうするの?」

「知らんよ。知らん知らん。派遣が一人、定時で上がったくらいで納期割るんなら、スケジュールの組み方が悪いだけなんだから。それで工場が潰れたって、僕の責任じゃないよ。あほくさ」

「あほくさって・・みんなが」

 みんなが頑張っているのに、なんとも思わないのか――塚田は口にしかけた言葉を呑んだ。

 自分の考えの勝手な押し付け。「やらかし」の再現だけは、絶対にしてはならない。

 そもそも、寺井の勤務態度が、工場の中でとくに問題視されているというわけでもないのである。

 派遣の中には、寺井のように、毎日残業などしたくない、定時で上がってたっぷり休みたい、という人はいくらでもいる。寺井のように交渉する勇気がなく、帰りたくても言い出せない大人しい人や、押しの強い社員に、したくもない残業を半ば強制されている人は、残業しないどころか、工場を辞めてしまっている。
 
 いくら派遣でも、一日や二日で補充できるものではないし、単純労働といっても、割り当てられた作業を一人でこなせるスキルを身に着けさせるまでは、どんなに短くても一週間はかかる。

 何も言わずに辞めてしまうスタッフに比べれば、当欠や遅刻、早退もなく、週に何日かでも残業に協力してくれる寺井は、工場が日に日に忙しさを増していく今、必要な人材なのだ。

 管理職でもない塚田が、寺井に残業をさせようというのは、ただ、友達が自分と違う考え方をしているのが許せない――寺井を「自分色」に染めたいだけのエゴにしか過ぎないのである。

 塚田の以前のやらかしを、寺井は何も言わずスルーしてくれた。それは寺井が理解のある大人だからだが、その寺井でも、二度目はないと思った方がいいだろう。次、塚田がやらかせば、寺井はもう自分と口をきいてくれなくなるかもしれない。村上や志保にも、自分のイタイところを言いふらされ、みんなから見放されてしまうかもしれないのだ。

「んじゃ、バスの時間来ちゃうから。お疲れ」

 別れ際、寺井が左の口角を吊り上げたのが目に入った。塚田にはそれが、何となく、自分のことをバカにしたように見えた。

 被害妄想――また一つ、新たに厄介な感情が立ち現われ、塚田を悩ませる「見えない軍隊」に加わった。

 ストレスの集合体――近頃勢力を増し、包囲網を徐々に、徐々に狭めている「見えない軍隊」が現れたすべてのキッカケは、寺井へのやらかしだった。せっかく動き出した塚田の止まった時計は、あの日を境に歯車が狂いだし、あらぬ暴走を始めようとしていた。

 寺井、寺井、寺井――寺井の存在が、塚田の頭の中で、悪性の腫瘍のように膨れ上がり、神経を圧迫し始めていた。

 自分が大事に思う人はまた、自分のことも、同じように大事に思わなければならない、と期待してしまう。塚田の宿痾だが、寺井に対してのそれは群を抜いていた。

――やぁ。君、この辺りの人だよね。僕、まだ越してきたばかりでさ。どこか、いい遊び場あったら、教えてくれない?

 工場で、塚田に仕事以外のことで最初に話しかけてくれたのが、寺井だった。寺井と仲良くなったのをキッカケに、寺井と仲の良かった村上、凛、志保とも仲良くなれたし、志保を通じて、信一とも仲良くなれた。

 極端な話、寺井さえいなければ、自分は工場の誰とも親しくせず、ずっと一人で、ある意味気楽な毎日を送っていたかもしれない。人と絆で結ばれる充実はなかったかもしれないが、それを失う不安に苛まれることもなかった。

 河川敷での酒飲みだって、はじめに誘ってきたのは寺井だったのだ。

 ある日、たまたま待機室で寺井と二人になったとき、塚田が、自分はニートの十年選手であったことを、自虐ネタのように話題にすると、寺井はそれにやけに興味を持って、それまで一人でやっていたという、河川敷での酒飲みに誘ってくれた。その日は夜の二十一時まで話し込み、以来、毎週末、二人で河川敷飲みをするのが習慣になった。

 元々はそっちが、僕を必要としていたんじゃないのか?そっちが、十年間閉ざされていた、僕の心のドアを開けておきながら、突然、蔑ろにするなんて、そんなの許されるのか?

 寺井、寺井、寺井――どこにいても、何をしていても、常に寺井の影が付きまとってくる。「基地外」たちのように、最初から嫌いだったわけではなく、もともとは好きで、向こうもこっちを好いてくれると信じていた――「裏切られた」という思いがあるから、タチが悪かった。

「希美さん。あっちのテーブルが空いています。あっちで、一緒に夕食を取りましょう」

 「基地外」端本は、凜が工場をバックレて以降、凜や村上に対するストーキング行為を、パッタリとやめていた。目の前からいなくなったことで、憑き物が落ちたようになったのか、凛のことは口に出すこともなくなり、村上にもちょっかいを出さなくなった。

 代わりに付きまとい始めたのが、寺井の同棲相手、希美であった。昼は寺井と食事を取っているため、近寄ってくることはないが、残業前の夕食の時間になると、端本は、傍目にも明らかに嫌がっている希美にくっつき、強引に一緒のテーブルに座るようになったのである。

「希美さん。あなたは、恋愛について、どう考えていますか?僕は、恋愛というのは、心と心でするものだと考えています。つまり、結婚する前から性的な関係を持ったり、性的なことを話題にするのは、よくないということです。もちろん、援交など、愛してもいない女性と体を重ね合わせるのも、よくないことです」

 希美は、向かいの席が空いているのにわざわざ隣に腰掛け、顔を異常に近づけて、視線を一ミリもそらさずに話す端本への応対に困っているようで、苦笑いを浮かべながら、SOSサインを送るかのように、周囲に視線を飛ばしている。しかし、食堂にいる十人前後のスタッフの中に、希美を助けようとする人は誰もいない。

 派遣は人の入れ替わりが激しく、横のつながりが希薄で、お互いに関心を払わない。「基地内」グループのように、いつも仲が良く、プライベートで一緒に遊んだりする方が稀有なのだ。社員の方も、派遣はすぐいなくなる交換要員という認識だから、派遣同士のトラブルに介入し、わざわざ火の粉を浴びようという物好きはいない。

 この場で希美と多少なりとも義理があるのは、塚田しかいない。希美を助けられるのは、自分しかいない――。わかっていながら、あえて、見なかったフリをした。

 寺井が残っていれば――自分と同じようにしていれば、希美を「基地外」から守ることができたのに、バカなヤツ。

 我に返ったのは、休憩が終わって、端本を先に行かせてから、半分以上残ったサンドイッチをゴミ箱に捨てている希美を見たときのこと。

 猛烈に、後悔した。関係のない希美を見殺しにすることで、寺井へのささやかな復讐を果たしたつもりになっている自分が、たまらなく嫌になった。

 ちょっと前までの自分は、他人を陥れることなど考えなかった。常日頃、世のため、人のためになることがしたいと思っていた。電車で遠くに行くときは、お年寄りに席を譲ることが自然にできていたし、道がわからなくて困っている外国人がいれば、時間を割いても交番まで案内してあげていた。

 だけどその自分は――塚田自身がキレイだと思っている自分は、家庭以外に収まるところがどこにもない、家族以外の誰からも必要とされていなかった自分なのだ。その事実こそが、何より恐ろしかった。

 社会の荒波にもまれて、辛酸をなめれば、社会の欺瞞に気づき、社会を疑うようになる。お年寄りを、若者から生活の余裕を奪う老害と見做すようになり、よその国から頑張って働きに来た外国人を、治安を悪化させ、労働条件をダンピングさせる(詳しいことはわからないのだが、テレビで言っていた)移民だと、白い目で見るようになってしまう。 

 外に出て働き始めて、八か月あまりの月日が過ぎた。規則正しい生活のリズムもできてきて、朝起きるのも苦ではなくなってきた。体力もついた。

 社会人としては成長する一方で、人としては、どこか歪な自分が出来上がっているのではないか。自分が自分でなくなっていく気がして、怖かった。
 
「ごちそうさまでした!!!」

 せめて挨拶だけは、誰よりも大きな声で。

        
                             ☆      

 
 リフレッシュのためにあるはずの休憩で、フラストレーションを抱えたまま仕事に戻る。これ以上ないほどの逆転現象だが、嬉しいこともあった。「休憩のストレスを仕事にぶつける」ことで、以前より速度も正確さも増した塚田の作業を、ラインリーダーの岡本涼子が褒めてくれることである。

「塚田さんが頑張ってくれるお陰で、うちのラインは今月も無事ノルマを達成できそうです。塚田さんが一番の頼りですよ。年末まで、その調子でお願いしますね」

「はい。これからも頑張ります、リーダー」

 人の呼び方にこだわる塚田は、密かに恋心を抱いている岡本のことを、敢えて「リーダー」と呼んでいた。名前ではなく、役職名で呼ぶと、好きな涼子と、職場という戦場で共に戦っている戦士なんだという気持ちになれて、奮い立つことができるのだ。

 仕事にやる気を出して、何が悪い。仕事を頑張ることが、間違いであるはずがないのだ。

 有名なお笑い芸人の人も言っていた。たかが野球の試合なんかに一喜一憂するのは、普段、自分の仕事や勉強を頑張っていない人だ。自分の応援した選手が頑張っているのをみて、自分が頑張ったような気になり、好きなチームが勝つのをみて、自分が勝ったような気になっている。他人に自分の人生を仮託することでしか喜びを味わえない、自分の人生と戦っていない人たちなんだ。

 派遣だろうが、正社員だろうが、関係ない。自分の生活に何の関わり合いもないプロ野球の試合の結果などを気にしているより、自分の目の前の仕事、目の前の人間関係を大切にすることの方が、ずっと大事なのだ。信一の仕切っている、伊達巻ラインのみんなみたいに――。

「及川さん。安全のことだけは、口うるさく言うぞ。あんたがもし死んでしまったら、あんたの親はどう思う?親より先に死ぬのは、最大の親不孝だぞ」

「及川ぁ!少しでも疑問に思ったら、手を付ける前に聞け!取返しのつかないミスをしてからじゃ遅いんだぞ!」

 仕事のことだけでなく、人生訓まで説こうとする信一と、とにかくラインの作業に命を懸ける牛尾。二人の「師匠」に見守られながら、日に日に成長していく及川。平均年齢は高いが、伊達巻のラインは、まるで中学の運動部のようである。

「よそのラインと競争だ!どこよりも早く終わらせるぞ。もちろん、不良は流出させないようにな!」

 いい年したおじさんが、あんな単純作業に夢中になっているなんて、暑苦しいだけだと、冷ややかな目を向ける人もいる――寺井のことだが、それは、心が冷めているからそう思うのである。

 いくつになっても青春ができているなんて素敵じゃないか。初めは塚田も引いていたが、寺井への反発心から、塚田は近頃では、伊達巻のラインを羨ましく思うようになっていた。

「今日も熱血してるねぇ。おじさんたちのライン」

 機械の保全を担当する正社員、伊崎がはんぺんのリーダー机にやってきて、寺井に似た、嘲るような目で伊達巻のラインを見ながら、涼子に馴れ馴れしく話しかけた。

 伊崎渡。塚田は、寺井と同世代の、この正社員のことが苦手だった。

 意地悪というわけではない。威圧感が強く、少しのミスで怒鳴り散らすというのでもない。ただ、この男は、派遣を軽く見ているのである。

 まず伊崎は、派遣の名前を覚えようとしない。名前で呼ぶのはせいぜい、長く勤めている真崎夫妻や寺井のことくらいで、入社から一年も経っていない塚田のことは、ずっと「ハケン君」呼ばわりである。

 名前で呼ばれないと、人として扱われていないような気がする。工場の機械と同じ、取り換えの効くモノ扱いされているようで、いい気がしない。

 派遣に何も期待していないから、派遣が思い通りに動かなくても、いちいち感情的になったりしない。そういういい面も、あるのかもしれない。でも・・・。

 怒鳴られようが引っぱたかれようが、塚田は自分も工場の仲間の一員だと、認めてほしいのだ。いい仕事をしたときは、上司に褒めてほしいのだ。

 派遣会社の面接のときは、経歴に深く突っ込まれなかったことを感謝したが、働く期間が長くなるにつれ、塚田はみんなに、自分のことを、もっと知ってもらいたいと思うようになっていった。

 もっと、自分に注目してほしかった。髪の毛を茶色に染めたことだって、志保だけじゃなく、もっとみんなに気づいてほしかった。

 自己顕示欲、承認欲求。それが、「やらかし」の件のように、個人に向かう場合は危険なのかもしれないが、社会のためになる仕事で発散しようと思う分には、大いに結構なんじゃないか。誰にも文句を言わせる筋合いはないんじゃないか。

「あれだけやっても、いつまで会社にいられるかもわからないし、ボーナスももらえないのにねぇ。涼子、ああいうの見てどう思う?」

 塚田の思いをぶち壊そうとするのが、伊達巻のラインに向けられる、伊崎の嘲った目なのだ。寺井と同じあの目――同じ立場の寺井が向ける分には、価値観の違いで済むが、正社員の伊崎にあの目をされると、お前と俺は違う人間なんだと見下されているようで、本当に嫌な気分になる。

 涼子は、伊崎と違う考えであってほしい。ほかのすべての正社員に見下されてもかまわないが、好きな涼子にだけは、自分を――派遣を、同じ工場の仲間として認めてほしかった。

「う~ん・・・ちょっと、怖い・・・です」

 伊達巻ラインのテンションに気圧された様子で、伊崎と顔を見合わせながら苦笑いする涼子を見て、塚田の頭の中で、なにかが崩れていった。




                             ☆

 
「ありがとうございました!」

 送迎バスを降りた塚田は、土砂降りの雨の中を、傘も差さずに歩いていく。

――う~ん・・・ちょっと、怖い・・・です。

 寺井に、親し気に呼び合うことを「どうでもいい」と流されたときと同じ、たった一言。本人は悪意なく放った一言でも、それを好きな人に言われれば、心の中に大雨が降ってしまうこともある。

 涼子は、はんぺんエースと呼ばれて浮かれている自分のことも、本当は同じように思っていたのだろうか。ただ、自分のラインのノルマを達成するために、適当におだてて、うまいこと利用しようとしていただけだったのだろうか。

 疑念が、どす黒い雲のように膨らんでいく。

 ハケン・ヒセイキ・タンジュンロウドウ。

 自分の身分を表す言葉が、冷たい雨と一緒に、全身に降り注いでいた。

 もし、信一たちが、涼子と同じ正社員であり、仕事も高度な、管理的な業務をしていたのなら、たとえ涼子の共感を得られなくたって、痛くもかゆくもなかっただろう。小娘に男の世界はわかるまい。そんな言葉も、けして負け惜しみには聞こえない。

 コワイ――塚田がどれだけ伊達巻のラインに憧れたところで、正社員である涼子にとっては、自分の父親のような年齢のおじさんが、中学生でもできるライン作業に熱中している光景は、異様なものでしかないのだ。

 --世間じゃ派遣は悲惨だって言われるけどさ、それは真崎のクソジジイみたいに、頑張っても報われないヤツのことを言うんだ。どうせ報われないんだったら、最初から何も求めなきゃいいし、何も目指さなきゃいいんだよ。僕らは給料が安いかわりに、大して期待もされない気楽な立場。適度に手を抜きながら、時間をやり過ごすことだけ考えればいい。そう割り切れば、世間で言われてるほど惨めなもんでもないんだから。頑張るんだったら・・・・。

 いつか、河川敷で寺井に言われた言葉が、脳裏に蘇る。 

 おそらくその後には、「自分の本当にやりたいことを、家で頑張れ」と続くのだろう。寺井は派遣という雇用形態のままでは、仕事で自己顕示欲、承認欲求を満たすことなどできはしないと諦めている。そもそも、初めから期待してすらいない。派遣で働くのは生活のためと割り切り、家で本当に、自分のやりたい仕事をもらうための努力をしている。

 自分にだって、家でやらなくてはいけないことはある。寺井のように夢があるわけではないが、高卒認定の資格取得や、運転免許の取得などは、とりあえずでやっても無駄にはならないことであり、世間一般からみれば、何のスキルも見につかない単純労働をしているより評価されることだ。

 しかし、このところ残業続きで、家に帰ればぐったりしてしまい、とてもではないが、勉強に時間を割く余裕はない。

 そもそも努力など、人に見せるものではない。余力を残して定時で上がっている寺井が、家でどれだけ頑張っているかも知らず、あんな工場の、誰でもできる仕事を遅くまでやって、寺井が会社に非協力的だなどと憤慨している自分は、ただ、人から褒められたいだけの子供みたいなものなのではないか。

 村上や凛は、すべてを忘れて没頭できる趣味を見つけている。

 世の中の多くの人は、つまらない仕事をして、つまらない日常を送っている。だから少しでも夢を見るために、日常の憂さを晴らすために、世の中の面白いことを探している。世の中の面白い仕事をしている人たちに自分の人生を託して、自分の日常にはない達成感を味わおうとしている。

 世の中の面白いことを共通の話題にして、人間関係が豊かになることもある。寺井や村上が自分の生活に何の関わりもないプロ野球の話で盛り上がることは、つまらない日常を少しでも充実させるために、立派に役に立っている。

 仕事など、人生の一部でしかないのだ。つまらない仕事だから悪いのではなく、つまらない仕事をさも面白い仕事かのように言って、六の力でこなせる仕事に十の力を注ぎこみ、仕事以外の人生を削るのが間違っている。

 正社員でもないのに毎日残業して、一兵卒のくせにラインの生産数なんかを気にして、仕事に打ち込んでいるように見せている自分は、僕は人生を充実させる趣味も見つけられない、自分の世界を持たない、面白みも何にもない男です、と、周囲にアピールしているようなものではないだろうか。 

「や、やあ、はんぺんのエース。雨の中、傘も差さずに歩いてどうした?」

 同じバスに乗っていた及川――近頃、伊達巻ラインの中で認められて、調子に乗っている及川が、後ろから追いついてきて、ずぶ濡れの塚田の顔をのぞき込むようにしながら話しかけてきた。歩速をはやめ、不快な吃音を振り払った。

 ハケン・ヒセイキ・タンジュンロウドウ――。自分の境遇の現実がわかると、これまで、偉そうに、人を「基地内」「基地外」などと寄り分けて、できない人を見下していい気になっていた自分が、とてつもなく惨めに思えてきた。

 及川や端本も、時給は自分と同じ、一一〇〇円。たかだか従業員四十名程度の工場でどう見られようが、世の中全体からみれば、同じ「ハケン」ではないか。

 ハケンという存在そのものが「基地外」なのか?いや、そうじゃない。

 ハケンはハケンらしく、正しく生きていれば、決して、世の中の負け組にもならないし、底辺でもない。伊崎や涼子のような正社員に、笑いものにされることもない。

 ハケンらしい生き方とは、自分の本当の生きがいを他所で見つけてくること。仕事は金を稼ぐためだけと割り切り、残業は程々にして、空いた時間で、スキルアップのための努力をしたり、夢中になれる趣味を楽しむこと。

 その生きがいが、自分にはないのだ。まるきり、影も形も存在しないし、どうやって探していいかもわからないのだ。

 はんぺんラインのエースと、みんなから褒められる自分――大丸食品工場の八か月間で得たものを失ったら、自分には何も残らない。同世代が高校、大学専門学校、社会人、とキャリアを積んできた十年という期間、自分の身になることを何もしていなかった自分には、あの工場の仕事以外、なにもないのだ。

 自分の生き方が間違っていたとして、じゃあどうすればいいのだ。誰が教えてくれるというのだ。

                 
                           ☆


 その日の夜は、悪夢にうなされた。

 河川敷かどこかのグラウンドで、寺井、村上、凛、涼子が、なぜか野球のユニフォームを着ている伊崎を取り囲んで、サインをねだっている。特に熱心なのは涼子で、ファンというよりも、発情した雌犬のような目で、実寸より二回りくらい大きくなった伊崎の筋骨隆々の体を眺めている。

「私、エースといわれている男の人が好きなんです。特に、一番好きなのは、ブレイザースのエース、伊崎さんなんです」

 誰に向けるともなく放たれた涼子の一言。機械の保全係である伊崎が、プロ野球球団であるブレイサースのエースであるはずがないが、夢の中の塚田はなぜか、そういうもんだと受け入れていた。

 好きな涼子の心を欲しいままにする伊崎に、激しい嫉妬と憎悪を抱いた塚田は、グラウンドに転がっているバットを拾って、伊崎に殴りかかろうとしたが、体がフワフワして、うまく前に進むことができない。

「こっちにだって、エースはいるぞ」

 塚田の後ろから叫んだのは、信一、牛尾、及川・・・伊達巻ラインの連中だった。その声を聞いた涼子が、伊崎の傍から離れ、塚田の方に、パタパタと駆けてきた。

「あなたは、エースなんですか?なんのエースなんですか?」

 大きな目をクリクリさせて、興味津々に問いかけてくる涼子。彼女の期待する答えができないとわかっているのに――嘘でもいいから、タイタンズのエースとか言っておけばいいのに、よせばいいのに塚田は、本当のことを言いたくなってしまった。涼子には、本当の自分を知ってほしかった。

「は・・・・はんぺんのエース」
 
 塚田が答えた瞬間、伊崎の取り巻き、寺井、村上、凛が、口に含んでいたバタークッキーを吹き出した。涼子は、昆虫採集に雑木林を訪れた子供が、クワガタムシとマイマイカブリを間違えてしまったときのような顔を浮かべると、くるりと踵を返し、また伊崎の元へ戻っていた。

 はんぺんエース・・・はんぺんエースで何が悪い!そりゃ、年収は、プロ野球のエースの百分の一にも満たないかもしれないけど、同じエースじゃないか!憤然とした塚田は、涼子を追いかけようとしたが、やはり足がフワフワして、全然前に進めない。

「はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース」

 伊達巻ラインの信一、牛尾、及川が、やいやいと囃したてながら、なぜか腰布一枚の姿で、自分の周りを回っている。むさくるしい裸の男たちに囲まれる塚田の目の前にいる伊崎は、なぜか高価そうなガウンを着て、恥ずかしそうに小ぶりの乳房と股間を腕で隠した全裸の涼子を抱いている。

「はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース、はんぺんエース」

 信一、牛尾、及川たちは、同心円を描くように回りながら、段々と自分に近づいてくる。やめろ、寄るなーっ。叫びは、声にならない。

 裸の男たちに、生臭い息を吐きかけられながら揉みくちゃにされて、涼子の姿がすっかり見えなくなったところで、目が覚めた。次の瞬間、アラームのけたたましい音が鳴り響いた。

 今まで生きてきた中で、一番嫌な夢だった。

 その日の勤務、無心で手を動かす自分を頼もし気に見つめる涼子の視線が、たまらなく突き刺さった。

                         ☆


 志保、志保、志保――。

 大事にしてきたはずの人間関係が逆にプレッシャーとなり、誇りを持っていたはずの仕事にも逃げられなくなって、見えない軍隊に追い込まれた塚田が望みを託すのは、いまや、産休中の志保しかいなかった。

 すべての歯車が狂い始めたのは、志保がいなくなったあの日――ならば、志保さえ帰ってくれば、すべては元に戻るはずだ。確かな根拠はないが、塚田にはもうそれしか、桎梏の状況を抜け出す突破口が見いだせなかった。

 志保、志保、志保――予定では、希望の志保が戻ってくるのは、年末の一番忙しい時期まで待たなくてはならないはずだったが、神が救いの手を差し伸べた。十一月の終わりに、伊達巻のラインの牛尾がインフルエンザで倒れた影響で配置転換が行われ、緊急措置的に、志保が一週間の短期契約で、応援に来てくれることになったのだ。

「志保さん久しぶり!もう体調はいいの?」

「おはよう、てっくん。今急いでるから、あとでね」

 久々に会えたというのに、志保は表情が固く、どこか余所余所しい態度である。

 三か月近くも休んでいたとはいえ、慣れ親しんだ職場で、緊張しているというのでもあるまい。いったい、志保はどうしたというのだろうか。訝りながら作業に入った後も、塚田は志保の動きを注視していたが、その後は特に、変わった様子はなかった。

 異変が起きたのは、昼休憩の時間であった。

 以前のように、志保と一緒にランチを取ろうと、志保のいる後工程の作業場に向かったのだが、そこにいるはずの志保の姿が見えない。もしや、入れ違いになったのかと、さっきまで自分が作業をしていた前工程の作業場を振り返ると、みんなが食堂に行き、閑散とした作業場の中、志保が伊達巻のラインの方に向かって、夢遊病者のような足取りで歩いていくのが見えた。

 年末が近づき、忙しさを増していく中でも、法律で定められた一時間の昼休憩だけはしっかり取られていたが、牛尾が倒れた影響で生産数がノルマを割っている伊達巻のラインだけは、ここ数日、十分から十五分間、昼休憩を返上して働いていた。その間、給料は一円も出ない。

 牛尾の代わりに前工程に入っているのは、かつて伊達巻ラインの所属だった寺井である。寺井は信一が独断で始めた「サービス昼残」に酷く憤っており、応援に入ったときから信一と何度もやり合っていたのだが、とうとう諦めたのか、今日に限っては、他のラインのみんなが昼休憩に向かった後も、文句も言わず作業をこなしているように見えた。

 前工程、中工程の作業場と、後工程の作業場は間地切りされており、特別な用でもない限り、両工程の作業員が、お互いの作業場を行き来することはない。

 はんぺんラインの後工程を担当する志保が、伊達巻ラインに用事があるとすれば、それは夫である信一に用があってのことだと誰もが思うところだが、志保は信一をスルーして、どういうわけか、及川の担当する中工程の機械へと向かって歩いていった。

 引き結ばれた唇、真っ直ぐに射貫くような眼光。決闘場に赴く女騎士のような顔を見せた志保が、おもむろに衛生服の上をはだけた。ブラジャーもはぎ取って、パンパンに張った乳房が顕わになった。

 塚田は眼を疑った。信一、及川も、志保の突然の行動に、金縛りにあったようになって動けない。ただ一人、寺井だけが、勝ち誇ったように左の口角を吊り上げながら、作業場に持ち込み禁止であるはずのスマホを、志保に向けて翳している。

 伊達巻ラインの中工程では、回転寿司のようなレーンの上を、前工程で攪拌された液体を熱して固め、カステラのようにして、四角形の鍋に詰めた材料が流れている。すでに伊達巻の味になっており、あとはこれをカットして、パッケージに詰めてラベルを貼れば出荷できる状態になる。

 志保がその材料に向かって、レーズンのような、黒ずんだ乳首を向けた。両手の指で、午前の労働でじっとりと汗ばんだ乳房の根本を掴むと、生クリームの入ったチューブを絞るように、五百円玉サイズの乳輪に向かって、一気に指を押し上げた。

 白く、芳醇なミルクが、乳首に空いた微細な穴から勢いよく飛び出し、レーンを流れる伊達巻の鍋に降り注ぐ。母乳は四方八方に向かって細く飛び出し、伊達巻の鍋のみならず、機械や床など、周辺の至るところを白く汚した。

 目の前で起きているこれはなんだ?塚田は卒倒して後ろに倒れそうになるのを、足を踏ん張って懸命に堪えた。

「やめろぉぉっ。ひゃぁめろぉぉぉっ!!」

 妻である志保を、羽交い絞めにする信一。機械から引きはがされようとしても、志保はまったく表情を動かさず、ライン作業を行うように、淡々と乳房を絞り続けている。

「あの子のためだから。あの子のためだから」

 志保の世界には、信一という男など、まるで存在していないかのようである。

 偶然か否か、節くれだった信一の手が志保の乳房に触れると、特濃の母乳が、勢いよくビュッと飛び出した。二人がバランスを崩し、床に倒れた拍子に、古い台車が転倒した。台車の底板に張り付いていた蜘蛛が驚いて駆け出し、機械の下に滑り込んでいくのが見えた。

「なんだこれ・・なんで・・・・」

 作業場に響く、信一の阿鼻叫喚、寺井の高笑い――。

 見えない軍隊は、いまやハッキリと姿を現し、塚田に向かって無数の銃口を突き付けていた。

第一章 201×年九月 夏の終わり



 
 暗い部屋の隅っこで、ずっとひとりぼっちだった。

 

 勇気を持って外に出た。みんなが、受け入れてくれた。



「ありがとうございました!」

 後部座席まで届く大きな声で、送迎バスの運転手に礼を言った塚田哲太は、燦々と降り注ぐ朝陽の下、半年前から勤務している、大丸食品・食品加工工場へと向かって歩いていった。

「おはよ~てっくん。髪、また染めてきたね」

 モスグリーンのスポーツカーから降りてきた、塚田と同じはんぺんのライン作業者、真崎志保が、塚田に後ろから追いついて、声をかけてきた。

「おはよう、志保さん。信一さんは、一緒じゃないの?」

「あの人は早出だから、七時前には自転車漕いで出て行ったよ。伊達巻はキツイんだから、あんたが車使いなさいよって言ったんだけどね」

 志保の夫、真崎信一は伊達巻のラインリーダー。リーダーは通常、工場の正社員が担当しているが、信一の場合は特例で、派遣会社から時給に上乗せしてリーダー手当をもらいながら、リーダー職についている。

「志保さんに赤ちゃんができたから、身体を気遣ってくれてるんじゃないの?」

 四十五歳の信一、三十八歳の志保の夫婦が結ばれたのは、いまから十年前のこと。当時、塗装工をしていた信一が、志保の働いていたスナックに熱心に通いつめ、口説き落としたのだそうだ。

 慎ましくも幸せな結婚生活を送ってきた二人だったが、長らく、子宝には恵まれなかった。そのことが、かえって二人の絆を深めたのだろう。社内でもオシドリ夫婦と評判の二人に、待望の一子が宿ったことが明らかになったのが、ちょうど、半年前に入社した塚田が、夫婦と親しくなったころのことだった。

「そうだといいんだけどねぇ・・」

 妊娠八か月目の志保は、バスケットボールを抱えているように膨らんできたお腹を、愛おしいような、困ったような、複雑な表情で撫ぜた。 

 二十四歳の塚田は、信一と志保から自宅マンションに招かれて食事を振舞ってもらったり、日帰り旅行にも連れていってもらうなど、懇意な間柄である。夫婦から大事にされている実感はあったし、塚田も夫婦を、両親、あるいは年の離れた兄姉のように慕っていた。

「私らのラインもぼちぼち忙しくなるからね。エースのあんたが、しっかりしないとダメだからね」

 志保から、エース、と言われて、塚田は照れて頬をかいた。

 派遣が仕事を褒められても、給料が上がるわけでもない。変にやる気を出したところで、いいように使われるだけだ、と、冷めたことを言う人もいる。だが、これまでずっと一人だった塚田には、人から必要とされることが、素直に嬉しかった。 

「志保さんが産休に入るから、なおさらだよね。生産数落とさないように、頑張らなきゃ」

 練り物の製造、加工を行う大丸食品の工場では、おせちセットの予約が開始される、年末が繁忙期となる。夏の暑い時期が過ぎ去り、これから一工程あたりの所要時間が短縮され、残業も増えてくる。

 作業員の負担は閑散期に比べて何倍にも増加するのに、時給が上がるというわけではないから、毎年、夏が終わるころになると退職者が相次ぐそうだが、塚田はむしろ、会社が大変な時期だからこそ、自分が助けてやらなければならないと、使命感に燃えていた。


                            ☆          


 小学校を卒業し、中学に上がったころから、楽しかったはずの学校が、だんだん、怖くなっていった。

 たいへんよくできました、よくできました、もうすこしがんばりましょう。通知表から、激励の言葉がなくなり、数字だけで評価がつけられるようになった。

 一年生から三年生まで、揃いも揃って、お仕着せのユニフォーム。

 どうして、社会に出たらほとんど使わない勉強をしなければいけないの?

 どうして一年早く生まれただけの人に、敬語を使わなければいけないの?

 あらゆる疑問が一度に襲い掛かってきて、怖かった。目に見えない軍隊が、自分を攻撃しているようだった。あまりにしんどくて、耐えきれなかった。中学二年で、学校に行くのをやめた。



 以来、二十四歳になるまで十年間、塚田は社会との繋がりを断って暮らしてきた。完全な引きこもりというわけではなく、お使いを頼まれたり、コンビニで漫画を立ち読みするなどの目的で普通に外出はするし、家族と一緒に出掛けたりもするが、どこかで働いたり、学校で勉強するということはなく、友達はいなかった。

 ニートを長年続けていると、感性が鈍麻になってくる。社会と繋がっていないことへのプレッシャーはなかったし、友達を欲しいとも思わなかった。
 
 塚田を社会復帰させるため、親が何もしなかったわけではない。通信制の学校に通っていたこともあったし、NPOか何かの、ニートを社会復帰させるための支援施設に通って、筋トレをしたり、食事を作ったり、地域の掃除をしたりしていたこともあった。年に一回くらいは、親と真剣に、今後のことを話し合った。

 それらのことは、自分が働こうと思うことに、何の意味ももたらさなかった。
 
 ニートを外で働かせようとするのは、美辞麗句でもプレッシャーでも、もちろん説教でもなく、個人の欲望なのだ。

 好きな服をもっと買いたい。美味しいものをもっと食べたい。それには、親からもらう小遣いだけでは足りない。だから、働こうと思った。ただ、それだけだった。

 十年間、交わりを断っていた社会と繋がるには、それなりに勇気を振り絞らなければならなかった。特に、面接のとき、中学を記録上卒業してから、現在に至るまでの期間について、どうやって胡麻化すかということは、真剣に悩んだ。

 結果からいって、それはいらぬ心配だった。

 塚田の前に面接を受けたのは、頭はボサボサで無精ひげだらけ、ヨレヨレで糸のほつれたジャケットを着て、メガネは指紋だらけ、床に零した牛乳を拭いた後の雑巾のような体臭がするという、どうしようもないおじさんだった。

 派遣会社の面接官の、直近の二年は何をしていたかという質問に、そのおじさんが、「たまに日雇いをしながら、家もなくネットカフェや路上で生活していた」と正直に申告したところ、普通に採用され、案件の紹介を受けて、その日のうちに入る寮も決まっていた。

 それを見て、塚田は面接の日取りが決まってからずっと、自分がこれまで勤めてきたことにする他所の派遣会社の名前を暗記したり、2ちゃんねるの派遣労働スレッドを見ながら、今までやってきたことにする仕事の内容をシミュレーションするなどといった涙ぐましい努力が、まったくの無駄であったことを知った。

 正直が一番――。それでも、中学を出てから七年は普通に働いていたが、ここ三年間に限っては、体調を崩して働けなかった・・・と、ちょっと見栄を張って嘘の経歴を申告すると、面接官は、それ以上突っ込んだ質問をすることもなく、簡単なネジ締めの早さを測る適性検査へと移った。

 検査の結果、とくに作業能力に問題がないとわかると、正式にスタッフとして採用が決まった。提示されたいくつかの案件の中から、自宅から一番通いやすい今の工場を選んで、一週間後から働くことになった。

 たぶんこれなら、たとえ前科があっても、言わなければわかりゃしないだろう。派遣というと、人をモノのように、左から右に流して利益を得ているという悪評が常に付きまとうが、世の中には、自分のことを詳しく知られたくない、モノのように思ってもらった方が都合がいいという人はいくらでもいる。

 ブランクや、後ろ暗い過去がある人でも気楽に面接に訪れることができる、門戸の広さ。一度、レールから滑り落ちてしまった人への偏見が根強い日本社会にとって、アウトソーシングの存在は、一概に悪いことばかりではないのではないか。

 ニートの十年選手という重しが、あっさりと消えてしまったことにより、塚田はこれまで、派遣に対して抱いていた根拠のない悪いイメージが、すっかり払拭されてしまった。

 そして、配属されたここ、大丸食品・食品加工工場で、良い人たちに出会った。働き始めた目的はお金を稼ぐためだけだったが、望外の喜びに恵まれた。

 ニートでいる間、友達は必要ではなかったが、もともと、人付き合いが嫌いというわけではなかった。学校に通っているとき、仲の良い友達は大勢いたし、みんなと遊ぶのは楽しかった。

 ただ、それを上回るマイナス要素に耐えられなかった。扉をこじ開ける勇気が湧かず、十年も、無駄な時間を過ごしてしまった。

 ずっと止まっていた時計が、動き始めた気がする。派遣で働き始めたことにより、自分の、本当の人生が始まった――。


                              ☆          


 志保と別れ、男子ロッカー室に入った塚田は、一日ごとに洗濯に出す白い衛生服に着替えた。

 特殊繊維で出来たクリーンキャップ。はじめのうちは違和感があり、頭が何度もかゆくなったが、いまではすっかり慣れた。

 髪の毛が混入した商品を出荷してしまうと、ラインは最低でも一週間、稼働停止になる。食品の工場で働く作業員が、もっともやってはいけないミス。慣れてくると、おざなりに被る人もいるが、塚田は入社して三か月が経ってからも、しっかり鏡を見ながら、髪一本はみ出さないよう注意して被っていた。

 着替えを終え、流しで、うがい薬を使ってうがいも済ませると、塚田は始業までの時間を潰すため、共用の待機室に向かった。

 フローリング張りの床。二十畳弱のスペースに、六十四インチのテレビ、六脚のロングソファ、十二脚のリクライニングチェア、十人掛けのテーブルが配置された待機室。みんなとの絆を育んでくれた、憩いの空間。

 まだ、始業までは二十分あり、待機室にいたのは、早出の作業を終えた、志保の夫、信一だけだった。

「おはよう、信一さん」

 テーブルで、コンビニで買ってきたおにぎりを頬張っていた信一に挨拶すると、信一が軽く手をあげて応えてくれた。

「今日は六時から、夜勤の人と一緒に働いてたんだって?二十時まで残業があるのに、身体は大丈夫?」

 会社も、年末に向けて人員をかき集めているところだが、なかなか定着せず、九月の今の段階から、リーダークラスは連日のフル残業を余儀なくされている。

 もちろん、働けば働いただけ収入は増えるが、同年代の正社員のほとんどは管理職につき、信一の倍近く稼いでいることを考えれば、信一の働きは十分に報われているとはいえない。それでも信一は、文句一つ、愚痴一つ言わず、黙々と、伊達巻のラインに課せられた生産のノルマをこなしていた。

「・・・ああ。まったく問題らいさ。これからもっと忙しくなるんだから、根を上げてなんかいられない。俺のことより、お前の方はどうらんだ?この間変わったラインリーダーとは、うまくやれているのか?悩みはないか?」

 おにぎりをお茶で嚥下した信一が、逆に塚田を気遣う言葉をかけた。

 信一はまだ、昨晩の酒が抜け切れていないのか、呂律が回っていないようだ。塚田が入ったころに比べると、表情はやつれているが、体重は増えたようにみえる。本人は気丈に取り繕っているが、やはり激務によるストレスがあるのだろう。

「大丈夫だよ。リーダーには良く面倒を見てもらってるし、仲良くやってるよ。世間話とかもするしね」

 塚田は飛び切りの笑顔で答えたが、明るく振舞って見せたのは、なにも、信一を心配させまいと思ってのことではない。

 はんぺんのラインリーダー、岡本涼子は、塚田より一歳下の二十三歳。専門学校を経て入社してから二年目の正社員で、塚田が入ったころまでは、一般の作業員に混じって働いていたが、先月からラインリーダーに昇格した。

 高校時代はバレーボール部でリベロを務めていたという涼子は、小柄だが敏捷性に優れ、手も足も恐ろしく速い。塚田も作業では機械といわれるが、涼子の域には、まだまだ達しない。

 塚田はこの年下の上司に、密かな恋心を抱いていた。仕事で女性に使われることに抵抗を感じる男も多いそうだが、塚田は、女性の働く姿をカッコいいと思うし、若い女上司の指示で動くのは、ゲームやアニメの女主人公を支えているみたいな気分になれて、むしろ喜びを感じるのだ。 

「志保さん、だいぶお腹が大きくなってきたね。たしか、今日から産休だよね?」

「ん?ああ・・・・まあ、な」

 四十五歳、人生の折り返し地点を過ぎて初めて出来た子供。女性と一度も付き合ったことのない塚田には、想像もできないほどの喜びに包まれているだろうと思っていたのだが、志保はともかく、信一の方はそうでもないようで、話題が子供のことに及ぶと、表情を曇らせることが多かった。 

 おそらく、収入のことを気にしているのだろう。

 派遣法によれば、雇用から三年を経過した派遣社員から申し出があった場合、派遣先の会社は、有期契約の派遣社員を、無期契約の直接雇用へと切り替えなければならない義務が定められている。

 いわゆる「三年ルール」であるが、直接雇用への切り替えとは、必ずしも正社員として雇用されることを意味するのではない。いくら、突然雇い止めされる恐怖に怯えなくていいといっても、契約社員やアルバイトでは、足元を見られて買い叩かれることもある。

 派遣というと阿漕な中間搾取で、ワーキングプアの温床のようなイメージで語られがちだが、中抜きされるかどうかの違いがあるだけで、最終的に労働者の手元に渡る賃金は、契約社員やアルバイトと大差ない場合が多い。

 直接雇用にこだわって、契約社員やアルバイトとして働くよりも、派遣先から取れるものは取るというスタンスで、派遣先とトラブルになったときに間に入ってくれる派遣会社を通して働いていた方が、何かと得ということもある。そういうわけで、大丸食品に派遣されてから七年になる信一は、三年ルールの条件をとうに満たしていながら、本人の希望で、身分はいまだに、派遣社員のまま据え置かれている。

 リーダーとはいえ派遣の信一には、ボーナスも休業補償もない。志保と共働きでも、夫婦二人が暮らしていくのがやっとで、よほど切り詰めても、子供にまともな暮らしをさせられるかわからない。

 まだ、若ければ何とかなると思えたかもしれないが、四十五歳という年齢で、この先、生活ランクが上がる見込みがないとなれば、信一が育児に不安を抱くのも無理はなかった。

「信一さんと志保さんの子だったら、きっといい子に育つよ。いいな、幸せだな」

「・・・・・」

 心配してみても、塚田にどうにかできることではない。こういうことは、とにかく明るく話題にして、励ますしかないのだ。

 始業時間が近づいてくると、続々と、「良い人」たちが出勤してくる。

「リンリンおはよう。ムラさんも」

 向井凛。塚田と同じはんぺんのラインで、志保と一緒に袋詰めの後工程を担当している、二十八歳の女性スタッフ。野球観戦が趣味ということで、はんぺんのラインで中工程を担当している四十二歳の男性スタッフ、村上康弘との仲が良く、地元球団の応援のために、よく二人一緒に球場に足を運んでいる。

 村上と凛は塚田や真崎夫婦とも仲が良く、週末にはよく、みんなで外食やカラオケに出かけている。職場の人間関係というと、敬語でやり取りする堅苦しいものばかり想像していたが、特別に仲の良い者同士の付き合いに限っては、中学生のころのそれと何ら変わりないことを、彼らのおかげで知った。

「寺井さん、おはよう」
 
 始業時間ギリギリになってやってきたのは、笹かまぼこのライン作業者、三十一歳の寺井誠也。シナリオライターを目指しているという寺井は、執筆の時間を確保するため、毎朝、年寄りが目を覚ますような時間に起床しているそうだが、会社に出てくるのはいつも最後である。工場の仕事が終わったあとはクタクタになって頭も働かないから、朝、スッキリして体力万全のときに、自分の夢のための活動を行うのだそうだ。

 寺井はもともと、信一がリーダーを務める伊達巻のラインで働いていたが、信一と相性が悪く、やめたいと言っていたのを、笹かまぼこのラインに配置転換されたという経緯がある。

 派遣会社の担当者から、ラインを変わったのだから、もうこれ以上関わるな、と厳命されたのは、信一を鬱陶しがっていた寺井にとっては何の問題もなかったが、かつては寺井を、自分の弟のように思っていたという信一にとっては大きなショックだったらしい。

 さすがに「接近禁止命令」が下った以上、直接話しかけるわけにはいかないが、いまだに未練は残っているようで、信一はいつも、寺井が傍を通るたび、何ごとかをブツブツと言っていた。

 人に相性があるのは仕方ないが、寺井とも、信一とも仲の良い塚田にとって、二人の関係の悪さは、少し歯がゆいところであった。

 十年ぶりに出た外の環境で、普通以上に馴染めている自信はある。ほかの仕事をしたことがない塚田にとって、この職場での人間関係は最高と思えるほどだが、嫌なこともある。

 頭のどこかに欠陥を抱え、真面目に働こうとしているみんなに不快感を与えている奴ら――「基地外」たちの存在である。

「おぉい、及川さん!ウォータークーラーで、うがいなんてしてんじゃねえよ!」

 信一に注意をされた、「基地外一号」の及川は四十代。塚田と同時期に入社し、もとは塚田と同じはんぺんラインで作業をしていたが、異常に手が遅く、ミスも多いため、二か月前、はんぺんのラインリーダーが、前リーダーの貞廣から涼子に変わった途端、はんぺんラインを追い出された。以降、いくつかのラインをたらい回しにされ、いまは信一の伊達巻ラインで中工程を担当している。

「せ、ぼっぶぁっ」

 ちょうど、口に水を含んでいるときに、信一から怒鳴られた及川が、驚いて待機室の床に、盛大に毒水をぶちまけた。及川の醜態に、待機室で始業を持っていた人たちが、一様に顔をしかめる。

「あのさぁ、これはみんなが水を飲むものでしょ?そこでさ、ガラガラペッてやったら、みんな嫌な思いするよね?そういうのわからない?」

 派遣で唯一のラインリーダーという立場に、信一は誇りを持っているようで、身だしなみや衛生面に、正社員のラインリーダーに比べても、格段に厳しい。社員ならともかく、同じ派遣に偉そうにされればいい気はしないから、派遣の中には信一をうるさがる者もいるのだが、両親に甘やかされて育ったと感じている塚田には、面倒見のいい信一の存在は有難かった。

 しかし、今起きているこれは、信一が厳しいとか、そういう問題ではないだろう。及川という男は、自分の家と職場との区別がついていないのではないだろうか。今までどういう生き方をすれば、みんなが水を飲むウォータークーラーでうがいなどしようと思うのか、塚田はわからないし、わかりたくもなかった。

「あぁ~・・・」

 死んだ魚のような眼を斜め上に向け、口を半開きにしている及川は、自分と同年代の信一に厳しく注意されても、何も感じていないかのようである。

「この際だから、ついでに言っとくけどさ・・・あんた臭いんだよ。毎日、ちゃんと身体を洗わないといけないんだよって、親に教わらなかった?」

「あぁ・・・最近は、入ってなかった、です・・・」

「最近とかじゃなくて、一日入らないだけでもダメなの!毎日入ってくるのが普通なの!」

 衛生管理が命の食品加工工場で、不潔は致命的欠陥である。仕事ができないだけなら仕方ないにしても、人として最低限のエチケットも守れないのでは、みんなから嫌われるのは当然だ。いい年をして、ちゃんと風呂に入れなどと人前で注意されたら、もう死にたいと思うのが普通ではないかと思うのだが、当の及川は、信一が何を言いたいかもよくわかっていない様子である。

 頭の良くない人が、感性まで鈍いとは思いたくない。しかし、神経の一本二本死んでいるというのでなければ、及川のやることは理解できない。

 人生のどこかで、何か――心がとても傷つくような、何かがあったのかもしれないが、自分の知ったことではない。

 真崎夫婦、村上、凛、寺井ら、大切な「基地内」の人たちに迷惑をかける「基地外」には、関わりたくもないし、早く工場から消えてほしいと思うだけだった。 

                            ☆      

「な、なんだよ朝から。勘弁してくれよぉ」

 勤務開始五分前、待機室を出て、男子トイレに入ろうとすると、中から、塚田と同じはんぺんラインの村上が、衛生服のファスナーを全開にしたまま、顔を引きつらせて飛び出してきた。

「どうしたの、ムラさん」

「お、おぅ哲太くん。いや、今日も朝からやられちゃって、た、たす、助けて」 

 ひどく狼狽して、塚田の袖に縋ってくる村上を助けるため、塚田はトイレの中から、暗い炎の宿った目を村上に向けている人物を、キッと睨みつけた。「基地外二号」の端本である。 

「村上さんは凛さんに近づくのをやめてください。村上さんはおじさんだから援交をしようとしているんです。村上さんは凛さんの身体だけが狙いなんです。村上さんに恋心はないんです。なぜなら、村上さんはおじさんだからです」

 肌は生白く、青い血管が浮き上がっており、枯れ木のように痩せこけていて弱弱しいのに、目だけが異様にギラついている端本が、くぐもった声で、意味不明の理屈を並べ立てるのを見れば、村上でなくとも、背筋に冷たいものが走る。
 
 粉ものの倉庫で働いている二十九歳の端本は、塚田と同じはんぺんラインの作業者、向井凛に好意を抱いており、凛と村上が仲良くしているのを妬んでいるらしく、村上はもう二か月ほど前からずっと端本に付きまとわれていた。

 そもそも、村上が凛に恋愛感情を抱いているかどうかなど誰にもわからないという話だが、「おじさんだから」恋心はなく、女性に近づくのは嫌らしい目的しかないなど、一体どんな思考回路をしていたら、そんな酷い決めつけができるのか?

 端本がなぜそのように決めつけるかはまったくわからないし、わかりたくもない。こんな異常者は、村上に迷惑をかけるのは早くやめて、引きこもりにでもなってほしいと思う。

「端本さん、あんたいい加減にしろよ。上の人からも言われてるだろ」

「・・・・・」

 塚田が注意するのに、端本は何も答えない。

 塚田が言ったからというわけではない。端本の耳には、誰の声も届かない。誰が何を言っても響かない。すべてが自己主張ばかりで、端本から返ってくるものはなにもないのである。

 しばらくしてラジオ体操のBGMが鳴り始めると、端本は、へばりついて取れなくなるような目で村上を一瞥してから、トイレを出て、作業場へと向かって行った。

「ほんと、気持ち悪い野郎だな。はやくクビになればいいのに」

 村上と作業場に向かいながら、塚田は吐き捨てた。始業前のトイレは毎日のルーティーンだったが、尿意はすっかり収まっていた。

「色んな人が、前からずっと苦情を出してるのに、担当者は口頭で注意をするだけで、それ以上動いてくれないんだよ。もう我慢の限界だよ」

 村上の言うように、端本の問題行為は、いまに始まったことではない。

 端本は、塚田と同じ半年前に工場に派遣されてから、実に六人もの女性に告白をしてフラれていた。酷いときには、フラれてから三日後に、別の女性に告白をしたこともあった。

 端本が、軽薄なナンパ男だというわけではない。むしろその逆で、端本は、誰に恋をするときも、ド真剣の、一途な純情恋愛のつもりである。

 初めの頃、塚田は同時期に入社した縁もあり、端本との仲は悪くはなく、LINEでよく連絡を取り合っていた。

――塚田くん、聞いてください。僕は谷内さんのことが好きなんです。谷内さんは寂しい人だから、僕が守らないといけないんです。

――塚田くん、僕は万城目さんが好きです。僕は谷内さんよりも、万城目さんのことが好きだったんです。万城目さんはおっちょこちょいなところがあるから、僕が傍にいて支えてあげなくてはいけないんです。

 すぐに女に惚れては、塚田にわざわざそれを報告してくる端本のことを、初めのうちは、頑張れ、次はうまくいくよ、と応援していたのだが、端本が二人、三人とフラれていくうちに、愛想を尽かすようになった。

 一人に告白してフラれてから、すぐ別の誰かに告白したら、こいつは女だったら誰でもいいんだと思われてしまうだけである。一度フラれたら同じ職場で相手を探してはいけないとまで言う気はないが、せめてタイムラグを置くべきだろう。しかし、端本は、いつも自分の愛は本物であり、それは相手にも必ず伝わっていると信じて疑わない。

 端本は、自分が傷つくことには異常に敏感だが、他人の気持ちがまったくわからないのだ。

「年末に向けて、会社は猫の手も借りたいのはわかるけど・・・このままじゃ俺、殺されちゃうよ」

 いくら派遣でも、簡単にクビになどできないのはわかる。しかし、端本に告白された女性スタッフの中には、端本を恐れて辞めてしまった人もいるのだ。このままでは、村上の言うように、いつかニュースに出てくるような大事件が起きないとも限らない。

「ムラさん安心して。端本のことは、僕たちがきっと何とかするからね」

 会社が動いてくれないのなら、自分たちで何とかするしかない。塚田は近々、寺井、真崎夫婦に呼び掛け、凛と村上に迷惑をかける端本を、工場から追い出してやろうと考えていた。
 
 ラインに着くと、ちょうど時計の針が八時を差し、作業が開始された。ラジオ体操に間に合わなかった塚田は、軽いストレッチをすると、すぐ台車を押して、材料の置いてある冷凍庫に向かった。

 冷凍庫にはすでに、シナリオライター志望の寺井がいて、フォークリフトで積み上げられた材料の箱を、バンバン台車に乗せている。

 練り物のラインの前工程は、魚のすり身が入った箱や、調味料の入った一斗缶など、重量のある材料を持ち上げることが多く、どこのラインでも、二十五歳の塚田や、三十一歳の寺井のような、若い世代の男性が担当している。

 仕事はキツイのに、女性や高齢の男性でもできる後工程の作業員より時給が高いわけではないから、割に合わないと言って辞めていく人も多いのだが、塚田はお金をもらいながら身体も鍛えられると、前向きに考えていた。

「寺井さんのラインも、だいぶ慌ただしくなってきたね。来週辺りから、残業もあるんじゃないの?」

「ん・・?ああ・・・。どうでもいいよ」

 塚田の問いかけに、寺井は気のない表情で答えた。

 寺井の、仕事に対する意欲は低い。寺井が工場の仕事で興味があるのは、残業がなく定時で帰れるか、定時の中で、どれだけ楽ができるか、ということだけ。仕事の技能を向上させようとか、作業の効率を上げるために、どういう工夫をしようかといったことは、まったく頭にない。シナリオライターを夢見て、公募に挑戦し続けている寺井にとっては、工場で過ごしている時間は、無駄でしかないのだ。

 遊ぶ時間を削って、夢のために頑張っているのは尊敬できるし、応援したいとも思う。だけど・・・「どうでもいい」なんて言わなくてもいいと思う。こんな仕事でも、給料が安くても、やりがいを感じて、頑張っている人だっているのだ。それを、バカにしたような言い方をしなくたっていいじゃないか。塚田は拗ねたように、唇を尖らせた。

 塚田も寺井の後に、魚のすり身を解凍機にかけると、一旦ラインに戻って、調味料の準備を整えた。十五分のタイマーが鳴ると、解凍機にかけたすり身を取りにいって、柔らかくなったすり身を、調味料と一緒に、攪拌鍋に放り込む。機械を操作し、混ぜ合わせた材料を、村上の担当する中工程へと回す。

 一連の作業を、延々と、気の遠くなるまで繰り返す。仕事中はわき目も振らず、黙々と働く。

 同じ作業ばかりを繰り返していると、どうしても飽きが来る。時間が流れるのが遅くて、苦痛だと漏らす人もいる。それも、わからないではない――が、ニートだった十年間、無駄な一日ばかりを過ごしてきた塚田には、自分の時間を意味のあることに使えているのが、ただただ嬉しかった。


                            ☆


 時計の針が午前十時を指すと、作業員はいったん手を止め、十分間の小休止のため、待機室へと向かっていく。キツイ肉体労働の合間の、貴重なブレイクタイムである。

「村上さん、今朝トイレで、またオカマンにやられてなかった?あの人、凛ちゃんじゃなくて、本当は村上さんのことが好きなんじゃないの?」

 待機室に「基地内グループ」のみんなが集まると、寺井がさっそく話を始めた。この、第一声というのを自然に出せるのが、本当に羨ましいと思う。自分などは、この人には今話しかけて大丈夫かな?無視されないかな?何を話したら、興味を持ってくれるかな?とか、みんなの顔色が気になって、輪になってもなかなか声がかけられないのだ。

 塚田が工場の仕事に意欲のない寺井を「基地内」に含めるのは、寺井と気が合うからではなく、寺井が、いつも積極的に話を振ってくれるからであった。情けないことではあるが、自分のような受け身体質の人間にとって、これは非常に重要なことである。

「え~マジ~?だったらアタシ嬉しい!!お兄ちゃん、オカマンのこと引き取ってよ」

 オカマン、とは、六人告白の端本のあだ名である。

――塚田くん、僕は谷内さんを守らなくてはいけないのに、力が足りなくて辛いです。今日は手首を切りました。

――塚田くん。丸井さんは本当は僕のことが好きなのに、僕に迷惑をかけたくないからと、一歩を踏み出せないでいるんです。僕は丸井さんの優しさを思うと、胸が張り裂けそうで、こ~んなに薬を飲んでしまいました。

 今でも脳裏に焼き付いて離れない、端本からLINEで送られてきた画像――。

 端本は、女性を守らなくてはいけないと、勇壮な言葉を並べ立てる一方で、同じ男性に対しては、あたかも自分はか弱い女の子で、守ってほしい、構ってほしいというような態度を見せ、塚田だけではなく寺井にも、リストカットの跡や、服用している抗うつ剤を撮影した画像を、何度も送り付けていた。

 男らしくなりたいのか、女の子になりたいのかわからない。それで寺井が、端本に「オカマン」というあだ名をつけたのである。

「よかったね、お兄ちゃん。オカマンは男の子だけど、女の子の部分もあるから、付き合ったらきっと楽しいよ」

 端本に好意を寄せられている凛は、一番の仲良しの村上のことを、「お兄ちゃん」と呼んでいる。本当に、実の兄のように慕っているのだ。

「やだよ~、勘弁してよ。そんなこと言うんだったら、リンリンが、アイツに告白されたときOKしてやれよ。リンリンがアイツと付き合ってあげれば、俺だって解放されるんだから」

「勘弁!マジ勘弁!あんなキモイのと付き合うなんて、マジあり得ないから!大体、失礼しちゃうよね。同じ職場で七人に告白なんてさ。私は七番目です、て言われてるようなもんじゃん。なんでそれでOKしてもらえると思うのか、意味わかんない」

 七番目扱いされて憤慨している凛だが、凜はけして、男のお眼鏡に適わないほどのブスではなく、黙っていれば声をかける男はいくらでもいそうな、ごくごく平均的な容姿をしていると思う。ただ、凛は声が大きく、髪も染めていて、一重瞼の細い目が少しキツめな印象を与えてしまう。それで、端本のような陰気な男は、ずっとビビッて近づけなかったのだ。

 それがなぜか、二か月ほど前から、端本は突然、凛を好きになったと言い出した。

――寺井さん、塚田くん、あなたたちはずっと近くにいながら、全然、凜さんの本性に気が付いていないんですか?凜さんは強がっているだけで、本当はポキッと折れてしまいそうな心の持ち主なんですよ。だから、僕が支えてあげなきゃいけないんです。村上さんみたいな、身体目的だけのおじさんは、遠ざけないといけないんです。

 得意の根拠のない決めつけ、謎の上から目線、無駄な男気の揃ったメッセージを、寺井、塚田とのLINEに送った端本は、次の日、早速、凛にLINEのID交換を所望してきた。凜は当然のごとく、教えるのを断ったのだが、すると端本は、凛に直接付きまとうのではなく、凛と一番親しい、村上にちょっかいを出してくるようになった。
 
 いまはまだ、会社にいるときに、村上はおじさんだから凛に近づくなとか、わけのわからないことを言って突っかかってくるだけだが、そのうち、村上の家の前などに張り付いて、会社の外でも接触を試みてくる可能性もある。一刻も早く、有効な対策を練らなければならなかった。

「オカマンは嫌われ者同士、赤ちゃんと仲良くすればいいのにね。そうしてくれれば、みんなが幸せになるのに。それで、二人で一緒に、別の仕事探せばいいのに」

 凛が馬鹿にしたような目を向けるのは、待機室の一番端のリクライニングチェアに座って、一人寂しそうにしている及川である。

 赤ちゃんというあだ名の由来は、及川の、ヘルメットを被っているように大きな頭と、脳の容積は大きいようなのに、異様に言語能力が低いことのほかに、もう一つ。

 及川には、いつも、トイレに入るときには、作業で汚れた手を入念に洗うのに、トイレから出るときは、自分のちんちんを触って、おしっこもついているかもしれない手を洗わずに、そのまま出て行く習性があった。

 確かに、作業のときには主にゴム手袋をしているから、及川のおしっこが食品についてしまう可能性は低いわけだが、あれでは、工場の環境はすぐに手を洗わないといけないほど汚いが、自分のちんちん、あるいはおしっこは、赤ちゃんみたいにキレイだ、と言っているようなものである。それを見て、寺井が及川に、「赤ちゃん」というあだ名をつけたのだ。

 自分より何十倍も社会経験はあるはずなのに、どうして及川は、人として基本的なこともできないのか?塚田にはわからなかったし、わかりたくもない。基地外などは、みんなここからいなくなって、どっかで野垂れ死ねばいいのだ。

「まあ、確かにちょっと癖の強い人たちだけど、だからって、追い出そうとするのもどうかと思うよ。僕らは一番下っ端なんだから。底辺同士が争って、足を引っ張り合うなんて、そんな虚しいことなんてないじゃないか」
 
 寺井は基地外たちを思いやるようなことを言っているが、それは彼の優しさ、というわけではない。なぜなら、及川に「赤ちゃん」というあだ名をつけたのも、端本に「オカマン」というあだ名をつけたのも、寺井その人なのだから。

「こんな変わり映えのしない、退屈な毎日を過ごしてるんだ。ああいうバラエティに富んだ人たちがいた方が、面白くていいじゃないか。極端にできない人がいれば、僕らが実際以上に良くみられて、多少のアラは大目に見てもらえるしな。僕らにとっても、彼らは立派に存在価値があるんだよ」

「えー。それって、あれじゃない?なんだっけ、あの、言い訳じゃなくて、えっと・・・」

「詭弁、ね」

 言葉をひねり出せないでいる凛に、寺井が教えてやると、村上がニヤリと笑みを浮かべた。

「詭弁和歌山」

 村上のオヤジギャグに凍り付く空気の中、塚田は先ほどの寺井の言葉を妙に真剣に受け止め、脳内で反芻していた。

 存在価値、という意識――。塚田をかつて苦しめ、十年間のニート生活へと向かわせた元凶。


 塚田が学校に行かなくなってから数日後、自宅の固定電話に、担任の先生から電話がかかってきた。応対した母親から、先生が、「みんなは、塚田君のことをとても心配している。塚田くんを待っているよ」と言っていたことを聞かされた。

 初めはうれしかったが、日が経つにつれ、塚田は段々、先生が自分を騙していると疑うようになった。先生の言ったことが本当なら、塚田の携帯には、仲の良かった友人たちから、塚田の安否を確認するメールが送られてくるはず。なのに、塚田の携帯は、一週間待っても、二週間待っても、鳴らないままだったのだ。

 あのクラスの中で、自分の存在価値なんてものは、まったくなかったのか?

 とうとうシビレを切らした塚田は、自分から友達にメールを送ってしまった。当時、今に輪をかけて語彙が少なかった塚田は、自分の率直な気持ち「裏切られた」という感情を、ストレートに文章にして、友達に送ってしまった。

 友達からの返事は、来なかった。メールを送信した後、後悔に襲われた塚田は、自分からメールアドレスを変えてしまったのである。

 以来十年間、塚田は家族以外の人間と、業務的な用事以外の会話をしなくなった。もう二度と、あの「やらかした」後の、切ない気分は味わいたくなくて、塚田は人間関係を築くことを極度に恐れ、部屋のドアを閉ざした。



 あのときのことで、塚田も反省した。

 どうも、自分は人に求めすぎる。自分が大切に思っている相手は、同じくらい、自分を大切に思わないといけない、と期待してしまう悪癖がある。

「そういえば凛ちゃん、昨日、ブレイザースがまた勝ったじゃん」

「そぉ~。これで首位とは三ゲーム差。まだまだ、ペナントはわからないよ。お兄ちゃん、週末はまた一緒に応援に行こうね」

 村上のオヤジギャグをキッカケに、基地内グループの話題は高校野球、そしてプロ野球へと移っていた。 

 九月に入り、プロ野球は優勝争いが佳境に入ってきたとかで、最近、十分休憩を一緒に過ごす寺井、村上、凛は、野球の話で盛り上がっていることが多い。それはつまり、野球に興味のない塚田が最近よく、蚊帳の外に置かれてしまっている、ということである。

 人と触れ合う心地のよさと、常に隣り合わせのようにあるのが、人との絆が断ち切られる恐怖である。充実感が大きければ大きいほど、喪失感も大きくなるということを、塚田は十年前の経験から知っている。

 だが、心配することはない。

 十年前、子供だった自分は何もできなかったが、今の自分には、あのころにはなかった知恵と金がある。二度と同じ轍を踏まないため、できることがある。

「あの、みんな。繁華街に出たときに見つけたこのクッキーがおいしかったから、みんなの分も買ってきたんだ。食べて食べて」

 十分休憩が終わる直前、塚田は、自分のロッカーから、クッキーの箱を取り出して、みんなに配った。

 みんなの心を掴むため、塚田は週に一度は、みんなに「たべもの」を持ってくることを欠かさない。寺井のように、話でみんなを盛り上げることができない塚田は、「たべもの」を配ることで、自分の存在をアピールしている。

 食べることは素晴らしい。そもそも、ニートの十年選手である自分が働き始めたのは、おいしいものを、お腹いっぱい食べたいから、であった。派遣会社からいくつか提示された案件の中から、食品加工工場を選んだのも、「食」に携わる仕事なら、きっと遣り甲斐をもって働けるだろうと思ったからである。

 誰しも、人がお金を出して買ってきた「たべもの」を貰えば、少なからず、感謝の念を抱くはずである。そして、その見返りは、何も求めない。自分がやっていることは、みんなもやらなければならない。そのように考えたら最後、行き着く先は孤立しかないことを、塚田はよく知っている。

 みんなに「たべもの」を食べさせていれば、きっと自分は、中学時代のように、空気のように扱われることはないはずだった。


                            ☆       


 十分間の休憩が終わり、作業が再開される。八時から十時まで、二時間くらい働いただけでも、筋肉には乳酸が溜まり、上腕に張りを覚える。

 筋肉痛――心地よい痛み。自分の肉体が変わっていることの喜び。十年間、ナマっていく一方だった身体が、使ってもらえる嬉しさを爆発させている。

 ニ十キロ以上ある魚のすり身の箱を、何度も何度も持ち上げ続けたおかげで、塚田の腕回りは、半年間で三センチも太くなった。

 筋トレをしながら、お金がもらえる。充実感に包まれていれば、時間が経つのも早い。無心で身体を動かしているうちに、お昼のチャイムが鳴った。

 塚田は作業が終わるやいなや、はんぺんラインで後工程を担当する志保の元に小走りで駆け、伊達巻のラインからやってきた信一とも合流して、三人で食堂へと向かった。

 塚田は十分間の休憩では、寺井を中心とした輪の中にいることが多いが、一時間の昼休憩は、真崎夫婦と三人で過ごしている。

 誰と一緒に、お昼ごはんを食べるか――。長い昼休憩の間の居場所確保は、仕事と同じかそれ以上に、頭を悩ませねばならない、重大な問題である。

 人はみんな、誰かに必要とされていたい。また、自分が誰かに必要とされている人間であることを、みんなに証明したい。

 塚田はニートでいるとき、そういうことを考えているのは子供だけだと思っていたが、社会に出て、案外、大人も同じであることを知った。

 それほど気が合うわけでもないのに、無理に一緒に居ようとしている人。会話をしているように見えて、お互いスマホを手にしながら、SNSやLINEで、別の誰かと話している人。見せかけだけでもお互いを必要としているならまだいい方で、中には、傍から見てもわかるほど拒絶されているのに、必死になって誰かに食らいつこうとしている人もいる。

 もちろん、ほかの人が輪に入れようとするのを断って、自分から一人でいたがる人もいるのだが、そうではなく、職場で誰も話し相手がいない、また、そういう孤独な人間だと周りに思われるのがプレッシャーで、「ランチメイト」を探すことに躍起になっている人が、本当にたくさんいる。

 そういう人たちをみると、塚田は悪いとわかっていても、得意げな気持ちになってしまう。

 自分の周りには、自分の話を聞いてくれる人がいるし、自分を見てくれる人がいる。

 褒められたことではないのかもしれないが、塚田はこの昼休憩の時間、充実したランチタイムを過ごせていない人をみると、あたかも、救命ボートの上から、溺れそうになって手をばたばたさせている人を見ているような気分になって、独特の優越感を、胸いっぱいに抱いてしまうのだ。

「てっくん、あんたラインリーダーが岡本さんに変わってから、随分張り切ってるじゃない。岡本さんのこと、チラチラ見たりしてるし。てっくんもしかして、岡本さんのこと、好きなんじゃないの?」

 昼休憩の時間、主に話題を提供するのは、志保の役目である。

「ち、違うよ。リーダーは、仕事ができるから、尊敬しているんだ。もっとリーダーの動きを見て、盗みたいと思ってるんだよ」

 志保に、ラインリーダー、岡本涼子への好意を見抜かれたのは恥ずかしかったが、塚田は内心嬉しかった。

 涼子と付き合うことができれば、もちろんそれが一番の幸せである。しかし、涼子への好意を第三者に承認してもらう、それだけでも、塚田は満足できた。自分のことを、それだけよく見てくれる人がいると、嬉しくなれた。

「てっくん、最近作業が早くなったもんねえ。もう、うちのラインはてっくんがいなきゃ回らないって、前リーダーの貞廣さんも言ってたわよ」

「ほ、ほんと?そんなふうに、貞廣さんが・・・」

 こういうふうに、志保の言葉で浮かれていると、必ず水を差す人がいる――塚田は半年間の付き合いで、それをよく知っている。

「哲太・・・。お前もここに来てから半年が経って、だいぶお金も溜まってきたんじゃないのか?そろそろ、家にお金を入れたらどうだ?」

 またそれか――。信一と仲良くなってから、もう三回ぐらい同じことを言われ続けている塚田は、ウンザリした表情を志保に向けて、助けを求めた。

「あんた、またそれ言ってる。うちに生活費を入れるかどうかなんて、てっくんの自由でしょ。いい加減にしないと、嫌われるわよ」

 塚田の家は、十年間もニートの息子を養っていただけあって、普通以上に裕福で、いまさら息子の収入に頼るような経済状態ではない。ヤクザの上納金ではないのだから、家で一番稼ぎの少ない者が、わざわざ生活費を入れることなどないと、寺井などは言ってくれている。

 なにか、ちゃんとした根拠でもあるならともかく、信一が家に金を入れろというのは、親への感謝の気持ちを表せとか、もう二十四歳なんだから、という感情論でしかない。もっといえば、「俺もそうしてきたから」と、自分の経験を押し付けているにすぎないのだ。

 信一は面倒見の良い人なのだが、物の言い方がいちいち説教臭いというのが、玉に瑕だった。

 かつて同じ伊達巻ラインで、信一の説教を、耳にタコができるほど聞かされた寺井などは、信一を蛇蝎の如く忌み嫌って、共通の友人である村上や凛と遊ぶときも、その中に信一がいるときには絶対に参加しないほどなのだが、塚田はそこまで極端ではない。

「嫌ったりなんかしないよ。信一さんの言うことももっともだと思うから、月に一度は、両親に食事をご馳走してるよ。もう少しお金が溜まったら、プレゼントも買おうと思ってる」

 説教をするということは、信一がそれだけ、自分のことを気にかけてくれているということ。

 誰しも、いいところもあれば悪いところもある。説教されて嫌な思いをする以上に、信一は、塚田をバーベキューに連れていってくれたりなど、良い思い出を作ってくれた人なのだ。

 説教臭いという欠点は、信一の一部でしかない。あまり口うるさいと思ったときは、右から左に流せばいいだけだ。

「哲太。これから年末に向けて、仕事はどんどん過酷になっていくが、身体に気を付けて、どうにか正月まで乗り越えろ。一年の仕事を終えたとき、これまでの人生とは、まったく違った景色が見えるはずだ。新年会で飲む酒の味は格別だぞ」

 大丸食品の工場では、毎年、工場が休みとなる一月二日に、派遣社員だけが参加する新年会が開かれるのが恒例となっている。

 工場での生産は、世間がクリスマスに浮かれる十二月の後半にピークを迎え、正社員などは家にもロクに帰れなくなるほどで、派遣社員たちの負担も増大し、毎日フル残業は当たり前、休日出勤も始まる。

 だからこそ、すべてが終わった後に飲む酒の味は最高なのだと、信一は言う。塚田はそれはきっと、苦労を分かち合った仲間と一緒に飲むからだろう、と思った。

 仕事で身体を痛めつけたから酒がうまくなるというんじゃ、ただのマゾである。一緒に何かをやり遂げた仲間と飲む酒だから、一人で飲むよりずっとおいしく感じられるのだ。

「私も十二月の終わりには、いったんこの子を実家の両親に預けて、短期で応援に行くから。それまであんたが、はんぺんラインを支えていくのよ」

「頑張れよ、エース」
  
 塚田には、「新年会」の予定が、楽しみで仕方なかった。

               
                             ☆


「違った景色ってなんだよ。ヤクでもやってんのか、あのオッサン」

 工場から、バスで駅へと向かう経路にある河川敷。コンビニで買ってきたワンカップを飲み干した寺井が、焼き鳥を頬張りながら、塚田が報告した、昼間の信一の発言を嘲った。

 賞味期限のシビアな食品を取り扱う工場では、通常、生産が二日以上続けて停止になることはない。大丸食品の場合、一週間の休日は、水曜と日曜に定められている。

 土曜日の仕事終わり、塚田はいつも、駅と工場を往復する送迎バスを途中下車し、河川敷で寺井と二人、酒を飲むのが恒例になっていた。

「塚田くんさあ、そういうの聞いて感動しちゃうの?僕とかマジうざったくて、耳が腐っちゃうんだけど」

 信一の話をするときの寺井は、いつもゴキブリを見たときのような顔をしている。精神に異常を抱えている端本や、無能で不潔な及川――塚田が「基地外」を嫌うのと同じかそれ以上に、寺井は信一を嫌っているのである。

「違った景色が見えるかはわからないけど・・・新年会は、楽しみだよ。寺井さんは、新年会には行かないの?」

 もとは信一と同じ伊達巻のラインにいた寺井が、笹かまぼこのラインに移ったのは、今年の一月の、仕事始めのことだった。信一の説教を、それまではぐっと堪えていた寺井が、どうしても我慢できないことが、今年の「新年会」であったのだという。

――今年の新年会で、寺井くんがね。同棲している彼女と籍を入れるようなことを言ったんだけど、そのときうちの人がね、結婚するのだったら、なれるかもわからないシナリオライターなんか目指すのはやめて、堅実に、就職活動をしろ、なんて、余計なアドバイスをしたのよ。多分それで、堪忍袋の緒が切れちゃったのね。

 新年会をキッカケに、寺井が信一を拒絶するようになった決定打を、信一の妻、志保はそう分析していた。

 所帯を持つつもりなら、安定した仕事を探せ。

 至極、真っ当な意見ではある。

 正しいからこそ、受け入れられないこともある。

 寺井がどれほどの思いで、ずっと夢に向かい続けてきたのかも知らず、あっさり「シナリオライターを目指すのなんかやめろ」なんて、塚田からみても、確かにちょっと酷いと思う。相手の気持ちを考えなければ、正論も暴論になるのだ。こういうところは、信一を反面教師にして、自分も気を付けなくてはいけない。

「どうかな・・。昨年とはまた、状況が違うんでな。今年は割と、面白いことになりそうな気がしている」

 寺井が、左の口角をギッと吊り上げた。寺井が時々見せる酷薄な笑みは、不気味ではあるが、妙に魅入られる。

「そんな先のことより、これから忙しくなるから、身体にだけは気を付けろよ。限界だと思ったら休んじゃえばいいし、辞めちゃったっていいんだから。周りのことなんか気にしなくていい。とくに、真崎のオッサンと、同じ伊達巻ラインの牛尾。あの辺のバカどもがほざいてる精神論は、話半分に聞いとけよ」

 同じ繁忙期のことを語るにも、信一と寺井では、意見がまるで正反対である。

 仕事が忙しくなることも肯定的に捉えようとする信一と、キツイものはキツイ、ダメなものはダメとキッパリ言い切る寺井。まさに水と油で、こんな二人が同じラインにいれば、いつかは喧嘩になってしまっていただろう。

「真崎のバカはさ、金も権力もなくて、自分のやりたいことが出来ない鬱憤を、心のキレイさとかいう、わけのわからんもので胡麻化してるだけなんだよ。辛抱我慢を美徳と捉えてるみたいだが、結局我慢しきれてねえから、若いもんに自分の生き方を押し付けようとしてるじゃねえか。貧乏人が聖人君子気取ったって、サマになんねえっつーの。だったら女房とも別れて、坊主にでもなれってんだよな。そこまで捨てきる根性もねえ奴が、人に偉そうにしてんじゃねえっつうんだよ」

 清貧を地で行くような生き様を実践する信一を嘲笑い、忌み嫌う寺井の言葉は、身も蓋もなく、ときに露悪的である。それが逆に、塚田には心地よく感じられる。

 石鹸を口に入れれば誰だって吐き出すように、人は清々しすぎる言葉を、逆に受け付けない。寺井の刺々しい言葉は、正しく生きられない人間を受け入れてくれる優しさに満ち溢れている。

 だから塚田は、職場でただ一人、寺井にだけは、自分がニートの十年選手であることを打ち明けていた。寺井は、塚田の過去を聞いても、特に驚きもせず、同じ「基地内グループ」である村上や凛と、何ら分け隔てなく接してくれた。

 人に何かをしてあげなきゃ、何とか変えてあげなきゃ、という思いが過剰すぎる信一と違って、寺井は塚田のあるがままを受け入れてくれるのだ。

「あ、あの。寺井さん。前から言いたかったことがあるんだけど・・・」

 好きな寺井だから、直して欲しいこともある。今日、塚田は寺井に、それをお願いしようと思っている。

「直して欲しいこと?なに?まさか塚田くんまでこの僕に、飯食うとき、噛まずに飲む癖をなくせって?塚田くんまでそういうこと言うの?及川さんみたいに、くちゃくちゃ音を立てて食うよりマシだと思うんだけどなぁ」

「い、いや・・・そうじゃなくて」

 寺井は塚田が大事にする「基地内グループ」の中でも、際立って異質の存在である。ひとつひとつを上げればキリがないが、つまるところ、それは彼が、塚田がやりがいを感じている工場の仕事にまったく意欲がなく、非協力的だというところに集約される。 

 それはそれで改めて欲しいところだが、人には人の考えというものがあり、みだりに自分の価値観を押し付けたりしてはいけない。寺井のように、自分をしっかり持っている人にそれをすれば、信一のように嫌われてしまうだろう。

--世間じゃ派遣は悲惨だって言われるけどさ、それは真崎のクソジジイみたいに、頑張っても報われないヤツのことを言うんだ。どうせ報われないんだったら、最初から何も求めなきゃいいし、何も目指さなきゃいいんだよ。僕らは給料が安いかわりに、大して期待もされない気楽な派遣労働者。適度に手を抜きながら、時間をやり過ごすことだけ考えればいい。そう割り切れば、世間で言われてるほど惨めなもんでもないんだから。頑張るんだったら・・・・。

 いつかの河川敷飲みで、寺井が言っていたことだが、こういった考えを金科玉条としている人に、「仕事に意欲を」などといったら、反発して余計に頑なになってしまう。人の考えを変えたいのだったら、相手が正しいと思っていることを、頭ごなしに否定してはいけないのだ。

「あ、あの、大したことじゃないんだけど・・・・」 

 塚田が今日、これを機に寺井に改めて欲しいと思っていることは、価値観や信念というほど大げさなものではない。しかし、塚田にとってはある意味で、寺井が工場の仕事に意欲がないこと以上に、我慢できないことであった。

「なんだよ。もったいぶらずに、早くいえよ」

 深呼吸を一つ置いた。塚田は意を決した。

「寺井さんの名前、てらいさん、だと、言いにくいからさ・・下の名前で・・・誠也君を縮めて、せいくん・・って呼んでいいかな。それで、僕のこともさ。てっくん・・って呼んで欲しいんだけど」

 人の名前の呼び方。ほかの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないが、塚田にとっては、何より大事なことだった。

 保育園に通っていたころ、塚田は親しい友達と、互いを下の名前、もしくは、ニックネームで呼び合っていた。それが小学校に入ったころから苗字呼びが増え出し、中学校でそれが当たり前になった。

 自分が、学校を嫌いになった原因の一つ――変なこだわりなのかもしれないが、親しい者同士、苗字にさん付け、くん付けなどという、他人行儀な呼び方をするのは、塚田にとって、どうしようもなく耐えられないことなのだ。

 信一さん。志保さん。ムラさん。リンリン。塚田は「基地内」の人を、みんな、下の名前か、ニックネームで呼んでいる。みんなもまた、信一からは哲太、志保からはてっくん、凛からはてっちゃん、村上からは哲太くんと、塚田のことを、下の名前、あるいはニックネームで呼んでくれている。

 「基地内」の中で、ただ一人、寺井とだけは、下の名前、あるいはニックネームで呼び合えていない。それが塚田には、喉に突っかかった小骨のように、ずっと気になっていた。

 自分に対する呼び名の中で、塚田は、志保から呼ばれる「てっくん」を一番気に入っている。できれば寺井からも、そう呼んでほしかった。
 
「・・・・?」

 塚田の提案に、寺井はわけがわからないといった感じに眉をひそめ、首を傾げた。

「呼び方なんて、なんでもいいよ」

 ゲアッ、と、大きなゲップを放ちながら、寺井が言った。

「・・そ、そっか。そうだよね」

「もう日も暮れてきたし・・この辺でお開きにしようか。塚田くん」

 そのときはそれほどでもなかったが、家に帰ってから、ずーんと重たいものが圧し掛かってきた。

 お互いの呼び名を、親し気のあるものに改めようという塚田の提案を、「どうでもいい」と流される――。

 寺井の言い方は、けして悪意のあるものではなかったが、塚田の心を確実に抉った。

 キッパリと、却下されたのならまだよかった。寺井には寺井の意志があって、親し気な呼び方は嫌だというのなら、これまで通り、他人行儀な呼び方をすることに、まったく異存はなかった。

 人には人の考えがある。相手の意志を尊重したうえで、自分はこうしたい、というのであれば、塚田は素直に従うつもりだった。

 しかし、「どうでもいい」というのは・・・。それは、親しい者同士は、下の名前かニックネームで呼び合いたいという塚田の意志を、まるっきり否定されたことにならないだろうか。愚にもつかないことに拘っているつまらないガキと、バカにされているかのようにも感じる。

 最後、寺井は塚田の提案をまるで無視したように、塚田を「塚田くん」と呼んだ。おそらく、苗字呼びは、これからも継続されるのだろう。塚田はそのたびに、変なことにこだわって、恥ずかしい提案をし、あっさりと流された自分の「黒歴史」を思い出さなければならない。

 呼び方なんて、どうでもいいよ。どうでもいいなら、こっちの提案を呑んでくれてもいいじゃないか!どうでもいいと流された上に、こちらの意向はまるで反映されていない。この結果では、塚田にまったく立つ瀬がない。

 このままでは、寺井に対して、複雑な感情が蟠ったままになってしまう。だが、終わった話を蒸し返したりしたら、しつこい、粘着質な野郎だとか思われてしまう懸念もある。

 お母さんが作ってくれた夕食も喉を通らない。テレビを観ても、ちっとも頭に入ってこない。

 塚田はスマホを取り出し、寺井とのLINEを起動した。

 まずい、とはわかっていた。人は面と向かうのではなく、文字情報でのやり取りになると、つい気が大きくなって、言葉が強くなってしまう。中学時代、塚田はそれを痛いほどよく思い知っている。しかし、頭がモヤモヤして、ムシャクシャして、どうしようもない。

 本当に、送信するわけじゃない。ただ、自分を静めるために、自分の今の率直な気持ちを、文章にするだけだ。そう言い聞かせながら、塚田はタッチパネルを操作した。

 いくら仲の良い人でも、半年間も付き合っていれば、不満の一つや二つは出てくる。これまで頭の中にチラついていたことを、文字に起こしているうちに、段々、テンションが上がってきた。

 書きあがった文章を眺めると、なんだか、自分がとても正しいことを言っているように思えた。自分が正しいと思うと、これを相手にぶつけたい、ぶつけないと気が済まない、と思うようになった。

 火照った指で、送信ボタンを押した。スポン、と小気味のいい音がして、塚田の会心のメッセージが、画面に表示された。


 お疲れ様。早起きの寺井さんは、もう休んでいる時間かな。

 今日の酒飲みでは有意義な話ができたと思うけど、本当は、寺井さんに言いたいことは、もっと沢山あったんだ。

 まず、寺井さんは、最近の十分休憩で、プロ野球の話ばっかりしているよね。そのとき、僕が全然、みんなの話についていけていないのを、寺井さんは気づいているかな?あのとき、僕がどういう思いをしているか、寺井さんにはわからないかな?

 僕も自分が何もせず、ただ拗ねているわけではないよ。

 前に、みんなで一緒に、カラオケに行っていたとき、僕は好きなアニソンを歌いたいのを我慢して、みんなが知っているような、有名な曲を歌っていたのを覚えているかな。

 一人カラオケではないのだから、歌いたい歌を歌えばいいというもんじゃない。自分の好みを人に押し付けるのは間違いで、大勢の人とカラオケをするときは、みんなが盛り上がれるように配慮をしなければいけないと思ったから、そうしたんだ。僕だけじゃなく、志保さんやムラさんも、そうしていたよね。

 だから寺井さん・・いや、あえて、せいくん、と呼ばせてもらうけど、僕と同じようにせいくんだって、休憩中に輪になるときは、みんなが参加できるような話題を振らなければいけないと思う。いくら、自分がプロ野球が好きであろうと、輪の中に、プロ野球に興味がない人が一人でもいるとわかっているのなら、その話題は避けるべきではないのかな。 

 自分から積極的に話題を提供するタイプではないムラさんやリンリンには、期待しても仕方がない。輪の中心となれるせいくんが、それこそ、バラエティ番組の司会者のように、僕にも均等に話を振ってくれたり、僕がついていけるような話題を提供してくれれば、僕が十分休憩の時間、蚊帳の外に置かれることはなくなるんだよ。

 こっちがやっていることをやってくれない。できることをやろうとしない。だから、僕はせいくんに、不満を抱いているんだよ。

 せいくんに対する不満は、プロ野球のことだけじゃない。

 せいくんは、僕が、食堂で昼食を終えてお盆を返すとき、厨房で調理や食器洗いをしているおばちゃんにいつも、「ごちそうさま」を言っているのを知っているかな。それは知らなくても、同じように、送迎バスを降りるときに、バスの運転手さんに、大きな声で「ありがとうございます」を言っているのは、何度も聞いていると思う。僕だけでなく、ムラさんも、リンリンも、志保さんも、僕らがいつも遊ぶ人はみんな、おばちゃん、または運転手さんに、挨拶をしているんだけど、せいくんは意識したこともないかな?

 せいくんだけだよね。仲良しグループの中で、ただ一人だけ、食事を終えてもおばちゃんに「ごちそうさま」を言わないし、送迎バスを降りるときにも、運転手さんに「ありがとう」を言わないのは。

 たしかに、食堂のおばちゃんにしても、送迎バスの運転手さんにしても、仕事でやっているのだから、わざわざ礼を言う必要はない、というのも一理ある。

 だけど、僕はぶっきらぼうな運転手さんが、「ありがとうございました」に手を上げて返礼してくれたときは、一日頑張ろうな、今日はいい仕事したな、と、清々しい気持ちになるし、「ごちそうさまでした」を言ったあと、おばちゃんが笑顔で「いつも食べに来てくれてありがとうね」と返してくれたときは、さっき食べた昼食の味が、二倍、三倍にも美味しくなったような感じがするよ。

 そういう、職場での小さな、人と人とのコミュニケーション・・。お互いが、必要とされているんだという確認。それって、大事なことなんじゃないかな?自分一人ではやる気が起きなくても、仲の良いグループのみんながやっているのを見たら、自分もやってみよう、という気にはならないのかな?

 仕事のことだってそうだよ。せいくんが自分の夢を追っているのはわかるけどさ。もう少し、目の前のことに、真剣になってみてもいいんじゃないかな。仕事を頑張るのに、無駄なことなんてないと思う。今の仕事は、せいくんの夢にも、きっと繋がっていると思うんだけど、どうかな?

 ぶっちゃけ言うけどさ、せいくんは、もっとみんなに合わせることを、考えるべきなんじゃないのかな?だからあえて、僕は寺井さんを、せいくんと呼ばせてもらった。この意味は、頭のいい寺井さんならわかるよね。

 僕はせいくんのことを友達だと思っているし、ここで出会ったみんなとは、一生の付き合いにしていきたいと思っている。だから、どうしても我慢できないと思ったことは、直接相手に言うことにしたんだ。溜め込むのが、一番いけないからね。

 せいくんも、僕に対する不満があったら、溜め込まずに言ってね。直せるところだったら、直すからね。そうすることが、お互いのためにいいことだからね。それじゃあ、お休みね。

                                                 てっくんより


 会心のはずだったメッセージは、二時間ばかり経って、頭が冷えてくると、痛恨のメッセージにしか見えなくなった。

 やらかしてしまった――――。まずい兆候が表れているとわかりきっていたのに、やってしまった。

 本当にこれを自分が書いたのか、信じられなかった。なんだ?この独りよがりな、勘違い野郎丸出しのメッセージは。顔から火が出る・・いや、顔ごと体からもぎ取って、土に埋めてしまいたかった。

 不幸中の幸いは、二十三時三十二分、いま、早起きの寺井が寝静まっている時間帯であることだ。さきほどのメッセージが既読になる前に、適切な事後措置を取る猶予がある。



 ごめんね。さっきは熱くなりすぎた。さっき送ったメッセージは、全然気にしなくていいからね。ほんとにくだらないことだから、読まなくてもいいからね。ごめんね。



 翌朝、震える手でLINEを起動すると、昨晩のメッセージは既読になっていたが、返信は届いていなかった。

 寺井は塚田の頼みをきいて、「やらかし」メッセージを読まずにスルーしてくれただろうか。読んでしまったとして、気にしないでいてくれただろうか。怖くて、本人にはとても聞けなかった。

 寺井から返信がないのは、彼が怒っているからか?「やらかし」メッセージを、村上や凛に回されたらどうする?

 無限に増殖する不安――。せっかくの日曜日、塚田は一分一秒たりとも、休んだ気になれなかった。

 これを恐れていたのだ。これまで、危ない綱渡りを何度も乗り越えて、「基地内」のみんなと良好な関係を築けていたが、ここで落とし穴にハマってしまった。

 暗い部屋の隅っこには、もう戻りたくない。どうすればいい――?

犯罪者名鑑 畠山鈴香 4


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 メディアスクラム


 警察の大捜査の結果、豪憲君の遺体は、事件の翌日、近所の藪の中から発見されました。

 警察は豪憲くんの首に、抵抗した際にできる策条痕が見つかったことから、死因を何者かによる絞殺と判断。すでに事故として処理した、彩香ちゃん事件も含めて捜査を開始します。

 当初、鈴香は米山さんの家に、「子供を失くした親同士、助け合っていきましょう」などと、励ましの手紙を送るなど、被害者を装う行動を取っていました。しかし、この時点では、豪憲くんの父、勝弘さんを含め、近隣住民の誰もが、鈴香に疑いの目を向けるようになっていました。

 小さな田舎町で二人の子供が相次いで命を落とすという事件を嗅ぎつけたマスコミは、大規模な「メディア・スクラム」を組んで、能代市を訪れます。今でも当時の動画がみられますが、黒服の男たちが寄ってたかって鈴香や鈴香の家を取り囲み、取材攻勢をかける姿に、近隣住民は「ヤクザの抗争みたいだ」と感想を漏らし、子供たちはずっと怯えていたといいます。

 現場には、大量の弁当の殻やタバコの吸い殻が捨てられているなど、報道関係者のマナーの悪さは目に余るものがありました。

 このように、まだ容疑が確定していない事件を面白おかしく騒ぎ立てるマスコミの悪質な報道は、和歌山毒入りカレー事件などでも見られました。無実の父を犯人だと決めつけるような報道がされた香川・坂出三人殺害事件などは、メディア・リンチともいうべき、卑劣な犯罪行為といえるでしょう(みのもんたの苦虫を嚙み潰したような顔が、今でも印象に残っている人は多いはずです)。

 鈴香は自分を犯人と決めつけるようなマスコミに怒りを顕わにしていたようでしたが、あるいは、注目されることに喜びを感じていたのでしょうか。

 豪憲くん殺害からおよそ半月後となる、六月四日。鈴香はとうとう逮捕され、大勢の警察とマスコミに取り囲まれながら、能代署に連行されていきました。

 警察の取り調べで、鈴香はすぐに豪憲くん殺害を自供。また、当初事故として処理されていた、彩香ちゃんの殺害についても認める供述を始めました。


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 真相



 鈴香の供述により明らかとなった、彩香ちゃん殺害事件の真相は、以下のようなものです。

 2006年4月6日夕方、突然、「サカナがみたい」と言い出した彩香ちゃんを、鈴香は車で、藤琴川にかかる大沢橋の上に連れて行きました。

 大沢橋はサクラマスの絶好の釣り場だということを、かつて、釣り具店に勤めていた鈴香は知っていました。しかし、もう辺りは薄暗くなっており、橋から見下ろしても、川を泳いでいる魚がみえるはずもありません。鈴香は「また連れてきてやるから、もう帰ろう」といいますが、彩香ちゃんはいつまでもダダをこね、橋の欄干から川下を見つめたまま、いつまでも離れようとしません。

 苛立った鈴香は、彩香ちゃんに、「川がみえにくいなら、欄干にあがれば」と提案しました。そのようなことを言った目的について、鈴香は、「欄干に上がるのは怖いから、家に帰ることに同意するはずだと思った」と語っていますが、鈴香の意に反し、彩香ちゃんは鈴香の言葉を真に受け、本当に橋の欄干にあがり、腰かけてしまいました。

 ここからの、「殺意の有無」というのが、事件の焦点となっていきます。鈴香の当初の主張は、鈴香は「彩香ちゃんが誤って川に落ちた」というものでしたが、警察の取り調べを受ける中で「欄干に上った彩香ちゃんの背中を押した」と、殺害を行っていた事実を認めます。しかし、裁判となると一転、「彩香ちゃんが誤って落ちた」と、再び殺意を否認するようになります。

 警察がしばしば強引な取り調べを行うことはよく知られており、意志薄弱な鈴香が、誘導にハマって調書にサインをしてしまったということは十分考えられます。鈴香の言う通り、彩香ちゃんは事故死であった可能性も考えられますが、裁判所が出した結論は、「殺害はあったが、殺意は衝動的なもので、計画性はない」というもので、殺害の事実は認められることになりました。

 しかし、そうだとすると、もう一つの疑問が残ります。

 大沢橋は地上から8メートル上にかかっており、数年前、この大沢橋から、自殺目的で飛び降りた男性は、川底に打ち付けられて即死であったということでした。しかし、同じ高さから落下した彩香ちゃんの遺体からは、目立った外傷が発見されなかったのです。さらに、大沢橋から彩香ちゃんが発見された現場までは数十メートルの距離があり、そこまで川を下ったのだとするのなら、擦り傷や切り傷があるのが自然です。

 彩香ちゃんは本当に、大沢橋から落ちて死んだのでしょうか?

 不自然な点も残りましたが、「大沢橋の欄干に自らの意志で上った彩香ちゃんの背中を鈴香が押し、落下した彩香ちゃんは溺死し、発見現場まで流された」というのが、事件の最終的な結論となりました。


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 騙し討ち


 鈴香の裁判が開始されましたが、当初から、鈴香の供述は二転三転し、裁判官は苦労を強いられます。

 すでに述べたように、争点となったのは、「殺意の有無」。彩香ちゃん殺害は、本当に鈴香の仕業であったのか。裁判では、模型なども用いられ、犯行時の様子をできるだけ詳しく再現しようとする試みが行われましたが、鈴香本人の記憶も曖昧になっている部分もあり、この件は結局、冤罪説も拭えない消化不良の結末を迎えてしまいました。

 一方、豪憲君殺害事件の方は、鈴香の犯行で間違いないということが、第三者にも納得のいく形で立証されました。

 被害者遺族である米山さんは、裁判での鈴香の態度に、非常に腹を立てていました。私の記憶にも、豪憲くんの名前を「ごうげんくん」と、濁った発音で言う鈴香の姿が残っています。悪気なく人を傷つけるタイプであったのかもしれません。

 鈴香は拘置所の中において、精神鑑定の一環として、自分の率直な心境を綴った日記を書いていました。その内容が、どういうわけかマスコミに流出し、裁判での鈴香の心証を著しく悪いものにしてしまいます。

―豪憲くんに対して後悔とか反省はしているけれども悪いことをした罪悪感というものが彩香に比べてほとんどないのです。ご両親にしてもなんでそんなに怒っているのかわからない。まだ二人も子供がいるじゃない。今まで何もなく幸せで生きてきてうらやましい。私とは正反対だ。よかれと思って何かしていても裏目に出てしまった。正反対の人生を歩いて羨ましい。そう思って悪いことなんだろうか?

 検事はこの日記の内容をもちだし、鬼の首を取ったように鈴香を責め立て、豪憲くんの遺族も深い憤りをあらわにするのですが、そもそも、なぜこのような日記が簡単に流出してしまったのでしょうか。精神科医がマスコミや、あるいは検事から何らかの騙し討ちにあったのかもしれませんが、それにしても、あまりにもお粗末な話です。

 精神科医は、この日記が表に出ることで、どのような影響があるか想像できなかったのでしょうか?もし、精神科医が自らの意志でマスコミに日記を公開していたとしたら大問題で、守秘義務違反にも当たるはずです。

 あの光市母子殺害事件でも、同じようなことが起こりました。

 犯人、福田孝之は、拘置所で親しくなった友人と手紙のやり取りをしていました。最初のうちは、とりとめのない日常会話で、自分の起こした事件への反省の弁も書き連ねられていたのですが、互いに気の置けない関係になると、持ち前の浅はかな性格が現れ、内容が過激なものになっていきます。


『誰が許し、誰が私を裁くのか・・・。そんな人物はこの世にはいないのだ。神に成り代わりし、法廷の守護者達・・・裁判官、サツ、弁護士、検事達・・・。私を裁ける物は、この世にはおらず・・・。二人は帰ってこないのだから・・・。法廷に出てきてほしいものだ・・・何が神だろう・・・サタン!ミカエル!ベリアル!ガブリエル!ただの馬鹿の集まりよ!』

『知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君』

『犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは罪でしょうか』

『五年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも』

『選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある』←『罪と罰』の引用らしいですがね

(死刑判決を免れて)『勝ったと言うべきか負けたと言うべきか?何か心に残るこのモヤ付き・・・。イヤね、つい相手のことを考えてしまってね・・・昔から傷をつけては逃げ勝っている・・・。まあ兎に角だ。二週間後に検事のほうが控訴しなければ終わるよ。長かったな・・・友と別れ、また出会い、またわかれ・・・(中略)心はブルー、外見はハッピー、しかも今はロン毛もハゲチャビン!マジよ!』

(被害者の夫、本村氏について週刊誌の実名報道を踏まえて)『ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし』

 
 この手紙が交わされた当時、友人はすでに出所していたのですが、執行猶予期間中でした。長引く裁判を有利に進めたい検察の命令があったのでしょう。このとき、別件で訪れた警察が、会話の中で、さりげなく友人に、「福田孝之の手紙を一枚、提出ほしい」と頼みます。

 強制的なものではありませんが、断ればどんな難癖をつけられて、執行猶予を取り消されるかわかりません。また、友人はもともと精神が不安定で、このときはたまたま、余裕のない状態にあり、「どうせ、それほど大事にはならないだろう」と安易な考えで、福田孝之の手紙を警察に渡してしまいました。

 結果――裁判において、手紙は「福田孝之がまったく反省していない」ことを証明する材料として使われ、裁判官の心証を著しく損ねる結果となりました。

 確かに、福田孝之の手紙の内容は被害者遺族にとって許しがたいものではあります。しかし、だからといって、こういう騙し討ちや、裏取引のような形で巻き上げた私的な手紙を、公式な裁判の場で持ち出すようなやり方は、やはりよくないと思います。罪を犯した者には、誰かと本音で語り合う権利もないというのでしょうか?

 日本やアメリカという国では、「悪いことしたヤツには何をやってもいい」という考え方がまかり通っていますが、公正を重んじる司法の場が「なんでもあり」になってしまうのは、問題ではないでしょうか。

 福田孝之と手紙のやり取りをしていた友人は、この件で激しく精神を病み、通院を余儀なくされるようになってしまいました。

 こんな手紙を公開することが、果たして被害者遺族のためになったのでしょうか。頑強に抵抗を続ける死刑反対論の弁護士を批判する意見もありますが、私はそもそも、反省どうこうを過剰に判決に反映させようとする日本の裁判に問題があると思います。基本的に、罪人に反省などは期待できないものとし、事実関係のみでドライに判決を下すという方向には持っていけないものなのでしょうか。

 彩香ちゃん事件がうやむやの形で終わってしまったこともあり、判決は、子供を二人殺害した罪としては軽いといえる無期懲役が下され、鈴香は女子刑務所へと送られました。

 女子刑務所のヒエラルキーは、子殺しが最下位です。刑務所の中の鈴香は、いったいどのような扱いを受けているのでしょうか。


 総括:畠山鈴香は、幼い子どもを殺す許されざる事件を起こしました。しかし、私は畠山鈴香という女が根っからの悪人であったかというと、そうではないと思います。

 本人の生育環境を抜きにして考えれば、悲しい事件が起きた一番の原因は、子供を育てる力のない女が、子供を持ってしまったことにあると、私は考えます。

 育てられないのなら、手放すのも愛情。鈴香にこれを言ってあげる人はいなかったのでしょうか。もしいたとして、鈴香はなぜ手放せなかったのか。

 事件に対し、少なくない数のシングルマザーが、「鈴香の気持ちもわかる」と、共感を示していました。そこで踏みとどまるか、踏み越えるかは大きな差ですが、「一瞬、我が子がいなければ」と思った経験は、多くの親があるということです。

 日本は欧州に比べ、子を持つ貧困家庭への援助があまりにも遅れています。子供を育てるのも自己責任と突き放す国に、果たして未来はあるのでしょうか。

 畠山鈴香 完
プロフィール

津島 博行

Author:津島 博行
1987年4月3日生 男性
相互リンク歓迎します。

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